腹膜透析と腎移植2

透析療法
透析療法

著者:石橋由孝

発行:2020年1月

出版:主婦の友社

目次は“腹膜透析と腎移植1”を参照ください。

第4章 透析療法の実際を知ろう―腹膜透析と血液透析

PD

腹膜透析(PD)は、「拡散」と「浸透」により 老廃物や余分な体液を取り除きます

・腹膜は内臓の表面を覆っている袋状の膜で、広げると畳1畳分くらいの面積がある。厚みは0.5~1.5㎜程度で、無数の毛細血管が網の目状に走り、半透膜の性質を持っている。

・腹膜(腹腔)に透析液を入れておくと、毛細血管と腹膜の壁を通じて、血液の中の老廃物や余分な水分が腹腔に移動する。老廃物が腹腔に移動するのは、濃度の差による「拡散」という現象のためである。

・透析液は血液よりも高い濃度のブドウ糖が含まれているため、血液側から透析液側へ水が移動し、余分な水分が除去

・その人の腹膜機能に合う透析液を選ぶ必要がある。

透析液の(注液と排液)はおなかに挿入した腹膜カテーテルで行います

・腹腔の中に、新しい透析液を入れることを「注液」といい、老廃物や余分な水分で汚れた透析液を、体の外に出すことを「排液」という。

・注液と排液は、お腹に入れた「腹膜カテーテル」という管を使って行う。

・透析液バッグを腹膜カテーテルにつなぎ、お腹よりも上に上げると、その高低差によって、自然に透析液が腹腔内に入る。排液するときは、排液バッグをお腹よりも下に下げることにより、やはり自然に排液される。

・腹腔内に一定時間(通常2~8時間)貯留したあとの透析液(排液)は、老廃物などの含んでいるため尿のような黄色い色をしている。

・バッグ交換は基本的に患者さん自身が行うが、高齢者など自分自身での交換ができない場合は、家族や訪問看護師にサポートを受ける。

透析液の交換
透析液の交換

著者:石橋由孝

発行:2020年1月

出版:主婦の友社

バッグ交換を行うCAPDと夜間に機械で行うAPDがあります

腹膜透析には1日1~4回バッグ交換を行う「持続携帯腹膜透析(CAPD)」と、1日1回、夜間に透析を行う「自動腹膜透析(APD)」がある。また、APDに日中1回のCAPDを組み合わせ、24時間持続的に腹膜透析を行う、「連続的腹膜透析(CCPD)」という方法もある。

・APDは自動腹膜還流装置(サイクラー)という機械を使って行う腹膜透析である。就寝前に、腹膜カテーテル、透析液バッグ、排液バッグをサイクラーの回路に接続し、8~10時間の間に、3~6回透析液の交換を自動的に行う。

腹膜透析の生活サイクル
腹膜透析の生活サイクル

著者:石橋由孝

発行:2020年1月

出版:主婦の友社

●腹膜カテーテルをおなかに入れる手術は腹膜透析導入入院で行います

・腹膜カテーテルは、お腹に小さな穴をあけ、カテーテルの片方の端を腹腔内に入れる。カテーテルの長い部分は皮膚の下にはわせ、抜けにくいようにして、もう片方の端を体の外に出す。

・手術翌日から、コンディショニングと呼ばれる調整を行い、透析液の貯留が問題なくできることを確認する。

・患者さんは、バッグ交換の手順や出口部のケア方法などに関する場合は、さらに1週間ほど入院してサイクラーの使い方などを覚える。

腹膜透析導入
腹膜透析導入

著者:石橋由孝

発行:2020年1月

出版:主婦の友社

残っている腎機能を良好に保つための考え方「腹膜透析(PD)ファースト」とは

・腹膜透析は血液透析に比べ、残存腎機能を良好に保てるということがわかっている。特に透析導入から3年くらいがその傾向が強い。

・腹膜透析の方が腎機能を保ちやすい理由

-毎日連続的に行うゆるやかな透析のため、全身の循環に対する影響が少ない。

-食塩や水分を連続的に除去できるので、血圧のコントロールがしやすい。

-腎臓に与える負担が軽い。

・残存期間が保たれているとき、特に高齢者の場合は1日1~2回のバッグ交換で済む場合もある。

腹膜透析ファーストとは
腹膜透析ファーストとは

著者:石橋由孝

発行:2020年1月

出版:主婦の友社

腹膜透析をトラブルなく続けるためには 体液管理と感染予防がとくに大切です

・体液管理は体液量を適切に保つこと、感染予防はおもに腹膜カテーテル出口部の細菌感染を予防することである。

・体液管理の目安は血圧と体重である。水分の摂取量と排泄量のバランスがとれていれば、血圧や体重は適切に保たれる。

感染予防
感染予防

著者:石橋由孝

発行:2020年1月

出版:主婦の友社

腹膜透析と血液透析を併用する方法は腹膜の劣化を抑える効果が期待できます

・日本では腹膜透析の人の約20%が、PD+HD併用療法を行っている。

・血液透析からPD+HD併用療法に変更することできる。残存機能によっては、はじめからPD+HD併用療法を導入することもある。

PD+HD併用療法
PD+HD併用療法

著者:石橋由孝

発行:2020年1月

出版:主婦の友社

第5章 腎移植は末期腎不全治療の第一選択

末期腎不全を根本的に治す腎移植は提供された腎臓をおなかに移植します

・移植手術では、臓器を提供する人をドナー、提供を受ける人をレシピエントという。

・腎移植の手術は、レシピエントの腎臓はそのまま残し、ドナーから提供された腎臓を骨盤の中(腸骨窩)に移植する。この場所は腎臓を入れるスペースがあり、移植腎の血管をつなぐ動静脈があり、移植腎の尿管と膀胱の距離が近いことである。

手術は生体時腎移植の場合は3~4週間程度、献腎移植の場合は1カ月程度で退院できる。

腎移植
腎移植

著者:石橋由孝

発行:2020年1月

出版:主婦の友社

腎移植の件数は徐々に増加し先行的腎移植も増えています

・2017年の腎移植手術は1742人で約90%は生体腎移植である。最新のデータでは5年生着率は94.6%である。

・献腎移植の場合は、患者さんの待機年数が長く、長期間透析を行ってから腎移植に至る人が多いことなどが影響し、5年生着率は87.5%である。

日本の腎移植件数
日本の腎移植件数

著者:石橋由孝

発行:2020年1月

出版:主婦の友社

腎移植までの準備期間にメリットとデメリットを理解しましょう

・ドナーは基本的に20~70歳の健康な人だが、腎臓提供によって、手術そのものや腎臓を片方失うリスクを負うことになるため、健康面、経済面など考慮する必要がある。

最も重要なことは、ドナーが主治医からの説明を理解し、完全に納得していることに加え、腎臓提供が自発的な、完全に自らの強い意志に基づくものでなければならいという点である。

提供の意思をいつでも取り消せるということは、ドナーもレシピエントもよく理解しておくことも大切である。

・ドナーへの確認は、臨床心理士や精神科医など、心理の専門職が行うのが一般的である。ドナーの心理的、社会的な問題はないか、腎臓の摘出に耐えられるか、身体的なチェックを行う。

・腎移植のメリットは、①普通の生活ができる ②心血管合併症などの合併症が少ない ③妊娠・出産が透析療法に比べてしやすい などがある一方、生体腎移植の場合はドナー側のリスク、献腎移植の場合は待期期間が長いなどのデメリットもある。さらに、腎移植後、うまく生着しない可能性も考えておく必要がある。

・術後は拒絶反応を防ぐために免疫抑制薬を一生飲み続けるので、副作用に注意し定期的に受診する必要がある。

腎移植を行うための準備
腎移植を行うための準備

著者:石橋由孝

発行:2020年1月

出版:主婦の友社

・移植した腎臓を長持ちさせるための自己管理も大切である。

・腎移植を受けるには、①全身感染症(HIV感染など)がない ②活動性肝炎がない ③悪性腫瘍がない ことに加え、年齢(20歳以上70歳未満)、血圧、肥満などもチェックされる。

腎移植を行うための準備
腎移植を行うための準備

著者:石橋由孝

発行:2020年1月

出版:主婦の友社

腎移植後は合併症の予防が大切です 免疫抑制薬は生涯飲み続けます

・全身麻酔の手術に伴う合併症には、出血、創部の離開(傷が開くこと)、肺炎などの感染症、肺塞栓症、痛み、切開による神経マヒなどが考えられる。

・腎移植に伴う合併症には、「拒絶反応」、「移植腎機能未発現」、「慢性移植腎症」などがある。

・拒絶反応には術後3カ月以内に起こる「急性拒絶反応」と、それ以降に起こる「慢性拒絶反応」があり、いずれも腎機能が低下する。免疫抑制薬の投与は必須であるが、リスクを完全に排除することはできないが、早期発見による免疫抑制療法の強化により対応する。

・「移植腎機能未発現」は献腎移植の合併症で、移植した腎臓が尿を作らないことである。この場合、腎性検によって問題が明らかになった場合は、移植腎を摘出することもある。

・免疫抑制薬は生涯飲み続け、退院後は、患者さん自身の服薬管理が大切である。それでも、副作用が出ることもあるので、毎月1~2回は受診し、必要に応じて検査を積極的に受ける。

腎移植を行うための準備
腎移植を行うための準備

著者:石橋由孝

発行:2020年1月

出版:主婦の友社

移植した腎臓を長持ちさせ健康に長生きするためには自己管理が必須です

・腎移植後に太ったり、糖尿病を発症してしまう患者さんは少なくない。理由は食欲が増すことや、ステロイド薬の影響などさまざまである。

・腎移植後の患者さんの脂肪要因が多いので、感染症、心血管疾患、悪性新生物(がん)である。がんについては、特に、腎がんや膀胱がん、子宮体がん、皮膚がんの発症率が高いことがわかっており、禁煙などの予防対策とがん検診など、定期的に受けるべきである。

コラム 腎移植後に飲む免疫抑制薬

・拒絶反応を防ぐために腎移植後は2~3種類の免疫抑制薬を服用する。

・複数の免疫抑制薬を飲む理由は、薬のはたらきがそれぞれ異なるからである。

1)カルシニューリン阻害薬

・拒絶反応でもっとも中心的にはたらく、T細胞リンパ球という免疫細胞を抑える薬である。

2)代謝拮抗薬

・拒絶反応が起こるときにはたらく、免疫細胞の機能を抑える薬である。

3)副腎皮質ステロイド

・炎症を抑える強い力がある。

腎移植後に飲む免疫抑制薬
腎移植後に飲む免疫抑制薬

著者:石橋由孝

発行:2020年1月

出版:主婦の友社

家族性高コレステロール血症(FH)

健診でLDLコレステロールは194、総コレステロールは344、ただしHDLコレステロール(61)と中性脂肪(87)は基準値内でした。そして、父親が40台後半に心筋梗塞で他界し、母親もLDLコレステロールが確か130前後だったと記憶していますので、間違いなく、私は“家族性高コレステロール血症(ヘテロ型)”だろうと思います。

こうなると、「家族性高コレステロール血症とはどんなものか?」と一気に興味が押し寄せるくるのですが、調べたところ本は少なく、あってもなかなかの高額の本ばかりでした。また、期待の地元の図書館も空振りでした。

そこで、今回はネットにある情報を中心に勉強しました。

著者:川尻剛照

発行:2021年3月

出版:メディカ出版

この本を欲しいと思ったのですが、中古本でも4,000円近くしたので、ケチってしまいました。

家族性高コレステロール血症(FH:Familial Hypercholesterolemia)

1.LDL受容体の異常により高LDLコレステロール血症を呈する常染色体性優性遺伝性疾患である。

2.遺伝形式にはホモ型とヘテロ型がある。

●ホモ接合体とヘテロ接合体

FH家系の一例
FH家系の一例

画像出展:「病気がみえる vol.3 糖尿病・代謝・内分泌」

ホモ型

-両方の遺伝子に異常がある場合で、LDLコレステロール値は500~900㎎/dL、総コレステロール(TC)値は600㎎/dL以上になることが多い。

-一般的には、100万人に1人と言われているが、日本では16万人に1人という研究報告もある。

ヘテロ型

-どちらか一方の遺伝子に異常がある場合で、LDLコレステロール値は150~420㎎/dL、総コレステロール(TC)値は230~500㎎/dL以上になる。

-一般的には、500人に1人と言われているが、日本では200人に1人という研究報告もある。

FHの予後
FHの予後

画像出展:「病気がみえる vol.3 糖尿病・代謝・内分泌」

ヘテロ型はホモ型ほど重篤ではないが、動脈硬化性病変の発症率は非常に高い(約70%が65歳までに死亡)

主な症状

黄色腫

-腱や皮膚などに蓄積する黄色い塊である。

-ホモ接合体の10歳までの子ども時代に認められ、成長とともに盛り上がった状態になる。

-黄色腫は、肘やひざの他、手首、おしり、アキレス腱、手の甲などに多く見られる。

-重症のヘテロ接合体では皮膚に黄色腫が見られることがある。その多くは成人以降に現れる。

結節性黄色腫

-重症のFHに見られる。

-黄色または淡紅色の結節で、肘・膝関節、手背、足部、殿部に好発する。

角膜輪

-家族性高コレステロール血症(FH)に特異的とはいえない。

-白色輪(白色~灰青色)を呈する。

原因遺伝子 

・19番染色体の19p13.2という位置に存在する“LDLR遺伝子”。この遺伝子は“LDL受容体”というタンパク質の設計図となる遺伝子である。LDLR遺伝子の変異により、細胞表面にあるLDL受容体の数が減ったり、LDL受容体が正しくLDLを取り込めなくなったりする。そのため血中のLDLコレステロール値が高くなる。

APOB遺伝子PCSK9遺伝子LDLRAP1遺伝子も、この病気の原因遺伝子として同定されている。それぞれの位置は順に、2番染色体(2p24.1)、1番染色体(1p32.3)、1番染色体(1p36.11)である。これらの遺伝子から作られるタンパク質は、いずれもLDL受容体が正常に機能するために不可欠であり、変異によって、血中のLDLコレステロール値が高くなる。

これら4つの原因遺伝子に変異がなく、原因遺伝子がまだ見つかっていない家族性高コレステロール血症の人たちもいる。

日本動脈硬化学会の「動脈硬化性疾患予防ガイドライン2012年版」の FH診断基準

(1) 未治療時の LDL-C 値が180 mg /dL以上

(2) 皮膚結節性 黄色腫または腱黄色腫の存在

(3) 二親等以内に家族性高コレステロール血症(FH)または若年性冠動脈疾患患者がいる

の3つのうち2つ以上で FHと診断できる。

ヘテロ接合体の診断から治療

・角膜輪やアキレス腱黄色腫は10代後半から 30歳までの半数に認めらる。

・冠動脈疾患は、男性は30歳以降、女性は50歳以降に現れるとされているが、より若年で発症する例もある。

・アキレス腱肥厚は LDL−C高値とその曝露期間に影響され、冠動脈疾患発症リスクともよく相関するため、家族性高コレステロール血症(FH) の診断には有用である。定量的にはX線軟線撮影で9mm以上を異常と判定する。  

以下の画像は「家族性高コレステロール血症 (FH)」さまより拝借しました。


・ヘテロ接合体の疑いがある場合には、遺伝子検査による診断が望ましい。日本における家族性高コレステロール血症(FH)の診断率は1%未満であり、多くの人は気づいていない。

FHの診断率
FHの診断率

画像出展:「家族性高コレステロール血症について

日本(Japan)は下から4番目ですが、オランダ、ノルウェー以外はすべて20%以下です。

 

家族性高コレステロール血症の基本薬はスタチンである。クレストール(ロスバスタチン)、リピトール(アトルバスタチン)、リバロ(ピタバスタチン)など“スーパーストロング”、“ストロングスタチン”、“スタンダードスタチン”に分類され、特に服用できない理由がない限り積極的に使う。家族性高コレステロール血症では管理目標値に到達するまで、必要があれば上限量まで使うことも可能である。

スタチンのみでは十分な効果が得られない場合、エゼチミブ、PCSK9、阻害薬、胆汁酸吸着レジン、プロブコール、フィブラート系薬剤、ニコチン酸製剤などの、他の脂質低下薬の併用が検討される。PCSK9阻害薬は注射薬、その他は内服薬である。

・筋肉痛、肝機能障害などの副作用によりスタチンが使用できない場合は、これらの薬を単独または併用で治療する。

・ガイドラインでは、家族性高コレステロール血症(FH)の場合、LDLコレステロールの値は、100mg/dl以下を目標とするとされているが、200を超えるようなLDLを100以下にするのは困難なため、治療前の半分の改善値でも可とされている。

スタチンのメカニズム
スタチンのメカニズム

画像出展:「病気がみえる vol.3 糖尿病・代謝・内分泌」

スタチンの働きは、「①酵素を阻害し、②LDL受容体の合成を亢進させ、③血中のLDLを減らす」というものです。

年齢とLDLコレステロール合算値(推定)
年齢とLDLコレステロール合算値(推定)

画像出展:「家族性高コレステロール血症について

高血圧、糖尿病、喫煙があれば、それだけ勾配は高くなるので、複数のリスクは特に注意が必要です。

 

 

家族性複合型高脂血症という類似疾患や、シトステロール血症、脳腱黄色腫など皮膚黄色腫を示す別の疾患、甲状腺機能低下症、ネフローゼ症候群、糖尿病などの高LDLコレステロール血症を示す別の疾患などとの鑑別診断も必要である。

主な遺伝性高脂血症
主な遺伝性高脂血症

画像出展:「病気がみえる vol.3 糖尿病・代謝・内分泌」

 

“家族性高コレステロール血症”と“家族性複合型高脂血症”の違いは、前者がLDLコレステロールが顕著に高値になる一方、後者は中性脂肪も高値になるところが特徴的である。

small dense LDL
small dense LDL

画像出展:「病気がみえる vol.3 糖尿病・代謝・内分泌」

small dense LDLは家族性複合型高脂血症に見られる特徴ですが、注意が必要です。

 

small dense LDLはLDLの中でも粒子が小さく、血管内膜に入り込みやすく、酸化・変性しやすいという特徴を有している。

追記

かかりつけ医の先生から処方されたのは、“ピタバスタチン2mg”で期間は50日間でした。

筋肉や肝臓への副作用に注意する必要がありますが、幸い何も問題は出ず、肝心のLDLコレステロールの数値も、194mg/dL102mg/dLまで下がりました。

やはり、家族性高コレステロール血症なのだと思います。また、良い薬があって本当に良かったなと思う反面、今後、一生服用し続けるのだろうとも思いました。

腎機能とスタチン2

新スタチンの発見
新スタチンの発見

著者:遠藤 章

発行:初版発行2006年9月

出版:岩波書店

目次は“腎機能とスタチン1”を参照ください。

 

 

2 動物実験で二度の危機

毒性学者の言い分

●『コンパクチンは海外でも容易に認められなかった。1976年から翌年にかけて、世界最大の製薬会社のひとつメルクを筆頭に、サンド、イーライリリー、ワーナーランバート・パークデービスの各社にコンパクチンの結晶を提供したが、どこにもラットに効かなかったと言って興味を示さなかった。イーライリリーの研究者はコンパクチンがコレステロール代謝の研究試薬としては役に立つが、コレステロール低下剤にはならないだろうと言ってきた。コンパクチンを発見したビーチャム(現グラクソ・スミスクライン)の研究者は、コンパクチンは有用な脂質低下剤にはならないと1980年頃まで主張し続けた。

77年8月29日からの四日間、米国フィラデルフィアで開かれた脂質代謝関連医薬に関する「DALM国際シンポジウム」で、私が発表したときもそうだった。私の前にドイツの研究者がクロフィブレート誘導体について発表したときは満員だった会場が、私の番になると三分の一以下に減ってしまったのである。シンポジウムの全体会議で、ウィリアム・ベンツは開発中の有望な脂質低下剤を紹介したが、その中で、最も多くしかも強い関心を集めたのが、クロフィブレート誘導体であった。』

3 重症患者には安全でよく効いたのに

再復活へ

●『このままではコンパクチンが見捨てられるのも目に見えていたので、1978年の新年早々、私の上司は山本章(阪大医)から依頼されていた重症患者(SS)に対するコンパクチンの治療に協力することを決断した。他に治療法がない重症患者に、医師の判断で開発途上のコンパクチンを投与することは倫理上も許されることであった。この治療はコンパクチンに対する社内の誤解を解き、開発を軌道に乗せる最後のチャンスでもあった。

患者SSは当時まだ16歳だったが1976年5月から、阪大病院(第二内科)で山本の治療を受けていた。家系調査と血清コレステロール値から、彼女の両親と姉が家族性高コレステロール血症(FH)ヘテロ接合体で、血清コレステロール値は、100ミリリットルあたり310~500ミリグラム、ところが、SSの血清コレステロール値は1003ミリグラムであった。あきらかにSSはFHホモ接合体であると判定された。』

●問題となっていた微細結晶がコレステロール・エステルであるとの結論を得ていた。このコレステロール・エステルは常時、副腎皮質(特に束状帯)、卵巣黄体、精巣、腸間膜脂肪組織、胆のう粘膜など多くの生体組織中に存在する。したがって、大きく過剰にでも蓄積しない限り、毒性が問題になる物質ではなかった。

臨床試験は順調であった

●「コンパクチンワークショップ」では、8名の日本人医師が臨床試験データを発表した。その内容を要約すると、コンパクチンは1日20~40ミリグラムで総コレステロールを20~40%下げ、Ⅱa型(FHヘテロ接合体を含む)、Ⅱb型およびⅢ型高脂血症の治療に極めて有効なことが示された。副作用としては一部の患者の血中酵素CPK、GOT、GPTの値に一過性の微増がみられる程度であった。このワークショップを契機にして、コンパクチンは世界中の臨床医と製薬企業の研究者から注目されるようになった。

4 強力なライバルの出現

幻のプロポーズ

●『1965年の年末に、私はロイ・パジェロス(NIH)に留学したいと手紙で問い合わせたが、なかなか返事が来ないのが理由で、アルバート・アインシュタイン医科大学へ行くことに決めた。それから三週間後に、パジェロスから「66年夏にNIHを辞めてワシントン大学医学部に移る予定であるが、できればぜひ来てほしい」と言ってきた。しかしそのときには、アインシュタイン医大との約束があったので、断りの手紙を出した。

パジェロスはワシントン大で、NIH時代にやっていた脂肪酸の研究だけでなく、コレステロールの研究にも取り組み、細胞膜の正常な構造と機能の維持にコレステロールが不可欠であることを明らかにした。ワシントン大に9年間在職後の75年、パジェロスはメルク(社)の誘いを受けて同社の研究所長に転身した。

当時メルクは世界で一、二を争う製薬業界の最大手で、研究レベルの高いことで有名であった。メルクの研究陣はコレステロールとも深い関わりがあり、56年には、メバロン酸を発見し、さらにメバロン酸がコレステロール生合成の重要な中間体であることを示した。メバロン酸の発見によって、行き詰まっていたコレステロール生合成経路の解明研究が大きく前進したのである。60年にコレスチラミンが血中コレステロールを下げることを最初に示したのもメルクの研究陣であった。

●1974年6月、コンパクチンの特許は翌75年12月に、ベルギーと日本で公開された。この公開によって、コンパクチンの化学構造、コレステロール合成阻害作用、コレステロール低下作用などが、世界中で知られることになった。

商業化スタチン第一号の誕生

メルクの論理的で大胆、かつ緻密な研究論文に圧倒された。わが国の製薬企業とは比較にならない底力を感じた。1986年11月、メルクは臨床試験データと毒性・安全性試験の成績をまとめて、FDAに新薬承認申請書を提出した。通常は申請書の受理から約1年後に、内容を評価するアドバイザリー・パネルが開かれるが、FDAはロバスタチンの申請を異例の超スピードで処理し、三ヵ月後の87年2月に諮問委員会を開催した。

1987年3月10日の『ニューヨークタイムズ』はロバスタチンを「コレステロール:治療のブレークスルーと賞讃される新薬」との見出しで大きく報道した。同年9月1日、FDAはロバスタチン、すなわち商品名「メバコア」の新薬承認を決定したと発表した。 

1987年3月10日
1987年3月10日

画像出展:「新薬スタチンの発見」

 

 

天然スタチン―コンパクチンの仲間たち

●三共の「プラバスタチン」は微生物からつくった半合成スタチンである。コンパクチンとの違いは胴部に水酸基が1個余分についただけである。コレステロール合成阻害活性はコンパクチンの1.5~2倍、すなわちロバスタチンと同程度。1989年に国内で商業化し、海外ではブリストル・マイヤーズ・スクイブ(社)が開発を進めた。

合成スタチン

●天然スタチン(コンパクチンとロバスタチン)に比べ、合成スタチン(フルバスタチン、アトルバスタチン、ロスバスタチン)は疎水部(胴部+腕部)の構造が大きいだけに、コレステロール合成酵素の活性中心との相互作用(結合)部位が多い。一例を挙げると、ロスバスタチンの疎水部は疎水結合に加え、コレステロール合成の律速酵素であるHMGCRの活性中心の一部と「イオン結合」で結合している。

●スタチンはHMGCRと競合して活性中心と結合するだけでなく、活性中心の立体構造(コンフォメーション)を変えることも明らかになった。アトルバスタチン(おそらくロバスタチン、ピタバスタチンも)が天然および半合成スタチンに比べ阻害活性が強く、LDLコレステロール値を60%も下げるのは、イオン結合などによるHMCGR分子の立体構造の変化にあると見られる。 

スタチンの仲間の構造
スタチンの仲間の構造

画像出展:「新薬スタチンの発見」

この図では中央ボックスで囲んだ2つの構造、コンパクチンとロバスタチンが天然スタチンです。

 

 

全国の薬剤師で作る薬剤師専門サイト

スタチン系薬剤一覧・作用機序・比較・服薬指導のポイント

こちらの記事はファーマシスタの管理者で、株式会社ティーダ薬局(代表取締役)である伊川先生の記事です。

腎臓が気になる人にとって、一般名:プラバスタチン(薬品名:メバロチン)は注意する必要があると思います。それは代謝排泄が「胆汁+腎排泄」であるためです。この表を見る限りは、他の薬は肝臓排泄が多いので、肝臓が悪い人でスタチンを服用する場合は、逆にプラバスタチンがお勧めだと思います。 

スタチン 力価・薬価比較表
スタチン 力価・薬価比較表

画像出展:「岐阜県民主医療機関連合会

今回、病院から処方されたのは“ピバスタチン2㎎”ですので、ストロングスタチンの中では平均よりやや弱いというものだということが分かりました。

 

 

 

腎臓の血管の特徴
腎臓の血管の特徴

画像出展:「厚生労働省

これを見ると、糸球体の毛細血管は0.005㎜となっています。一方、LDLコレステロールの粒子径はおよそ25nm(0.000025㎜)です。比較すると、毛細血管の1/200ということになりますLDLが1㎝のパチンコ玉だとすると、毛細血管は直径2mの下水道管というイメージです。

けっこう大きいですね。

 

5 大規模臨床試験から見えてみたこと

多彩な生理・薬理作用

骨粗鬆症

・骨粗鬆症の治療薬「ビホスホネート系薬剤」とエストロゲン療法はすべて破骨細胞を抑えるもので、骨芽細胞の働きを活性化して、破壊された骨の補修を促進するものはない。このため発見されたときには、すでに骨の20~30%を失っているような患者の骨を元に戻す手段はなかった。

・1999年、動物実験でロバスタチンとシンバスタチンが骨の形成(補修)を活性化することが示された。若いマウスの頭蓋冠上にロバスタチンを5日間皮下注射したところ、骨の量が対照マウスに比べ50%も増えたのである。シンバスタチンを35日間経口投与した卵巣摘除ラットでも骨量の増加がみられた。

・スタチン服用者群と非服用者群の骨折の発症率を比較した調査結果がこれまでいくつも報告されているが、まだ結論が出ていない。これはスタチン服用者群が非服用者群に比べて骨粗鬆症の発症率が50~70%も低いとする報告と、両群の間に有意差が認められないとする報告が拮抗しているからである。

アルツハイマー病

・疫学研究によれば、高コレステロール血症患者にはアルツハイマー病が多い。コレステロールを運ぶリポタンパクの一つ「アポリポタンパクE・タイプ4」(アポE4)はアルツハイマー病の主要な危険因子として知られ、アポE4に多形現象が見られる患者には高コレステロール血症とアルツハイマー病が多い。

・コレステロールがAβの生成を促進する例が報告されている。スタチンの大規模臨床試験から、スタチンの投与を受けた患者は投与を受けない患者に比べアルツハイマー病が三分の一から二分の一も少ないことが示唆されている。

・『スタチンがコレステロール合成を制御する酵素HMGCRを阻害すると、NO濃度が上昇する。NO濃度が上がると炎症が抑えられるだけでなく、血管拡張と血管形成が促進される。炎症は動脈硬化プラーク(病斑)を不安定にして心臓発作を誘発するが、スタチンが炎症を抑える結果、プラークが安定して心臓発作を防ぐことは臨床研究からも支持されている。』

エピローグ

●私の関心がコレステロールの生化学からコレステロール低下薬の開発へと変わったのはこの時期である。帰国前の1968年初めには、『ニューヨーク・タイムズ』が「メルクとNIHの研究者が、歯垢を溶かすデキストラナーゼというカビの酵素を開発中である」と大きく報道した。この記事を読んで、フレミングが青カビからペニシリンを発見したことや、自分がカビとキノコのペクチナーゼを発見したことなど忘れかけていたことを思い出して、カビとキノコを利用してコレステロール低下剤を開発することを思いついた。

私は「米国の研究者と同じことをしても勝ち目がない」ことを留学中に痛感していた。カビとキノコからコレステロール合成(HMGCR)阻害剤を探す研究はその思いに叶った。ブロック博士らの業績を基盤にして、近い将来コレステロール合成阻害剤を合成化合物の中から探す研究者が出てくる可能性があったが、カビとキノコを用いる泥臭い仕事に賭ける研究者は現われそうになかった。

感想

今回、遠藤先生の『新薬スタチンの発見』を拝読させて頂き、元来、薬嫌いの私ですがスタチンを服用する決心がつきました。もちろん、これはLDLコレステロールを減らすのが主目的ですが、同時にスタチンの“腎保護機能”にも注目しています。

そして、スタチンに対して期待している一番の理由は、遠藤先生が語っている以下のお話が、直観的で説得力を感じるためです。

抗生物質の例から、私は微生物の中にはコレステロール合成阻害物質をつくるものがいるだろうと予測した。微生物が抗生物質をつくるのは、外敵である他の微生物を殺すかその生育を阻止して生き残るためだという説があった。私はこの説を取り入れ、微生物の中には、コレステロール合成阻害物質で外的微生物を殺すか、その生育を阻止するものが存在する可能性が十分あると考えた。

『当時の流行には逆行したが、私はコレステロール合成阻害物質を生産する可能性が高い微生物として、原核生物の放射菌ではなく、真核生物のカビキノコを選んだ。放射菌がつくる抗生物質の中には優れた抗菌力をもつものが多かったが、ストレプトマイシンの難聴、クロラムフェニコールの再生不良性貧血のように、安全性に懸念がある例が目についた。』

※スタチン情報(2023年2月6日追記)

スタチンに関する情報を2つご報告させて頂きます。

循環器最新情報

Q:脂質異常症の治療薬で横紋筋融解症の副作用があるようですが、よく見られるものですか

A:融解症の副作用が有名なのは、HMG-CoA還元酵素阻害薬(スタチン)とフィブラート系薬剤で、特にこの両者の併用にて、その発症率が増加することが知られています。脂質異常症治療薬の中で横紋筋その頻度に関しましては、Jacobsonらは、筋肉痛を生じるのが5%、筋障害を来すのが0.1~0.2%、そして横紋筋融解症が0.01%に生じると報告しています(Jacobson TA, Mayo Clinic Proceedings. 2008;83:687)。(0.01%ということは、10,000万人に一人になります)

また、2011年になりますが、”スタチンによる横紋筋融解症の遺伝子マーカー”という論文(pdf7枚)がありました。主な内容は以下の通りです。

スタチンが単独で投与された場合の年間10000人あたりの横紋筋融解症の発症件数は、アトルバスタチン、プラバスタチン、シンバスタチンで0.44件、セリバスタチンで5.34件であり、その頻度は著しく低い、しかし、フィブラート系薬剤とスタチンの併用による年間10000人あたりの横紋筋融解症の発症件数は、アトルバスタチン、プラバスタチン、シンバスタチンで5.98件、セリバスタチンでは1035件と頻度が10倍から190倍にも上昇する。

注)セリバスタチンに関して調べたところ、以下の情報を見つけました。なお、本文を読むには日刊薬業の会員登録が必要になります。

武田薬品・バイエル薬品 セリバスタチンの国内販売中止を決定”(2001/8/24 00:00)

セリバスタチンは販売中止とのことなので、誤って服用する危険性はありません。安心しました。

スタチン・アスピリン・メトホルミンと肝がんリスクとの関連~メタ解析

『スタチン、アスピリン、メトホルミンが肝細胞がんを予防する可能性があることを示唆する報告があるが、これまでのメタ解析は異質性やベースラインリスクを適切に調整されていない試験が含まれていたため、シンガポール・National University of SingaporeのRebecca W. Zeng氏らは新たにメタ解析を実施した。その結果、スタチンおよびアスピリンは肝細胞がんリスク低下と関連していたが、併用薬剤を考慮したサブグループ解析ではスタチンのみが有意であった。メトホルミンは関連が認められなかった。』

Alimentary Pharmacology and Therapeutics誌オンライン版2023年1月10日号に掲載。

腎機能とスタチン1

4年ぶりの健診を受けました。問題はLDLコレステロールの194㎎/dL(基準値65-135)と、クレアチニン1.09㎎/dL(基準値0.65-1.07)です。

コレステロールは細胞膜やステロイドホルモン(副腎皮質ホルモン、性ホルモンなど)、胆汁酸の材料になるとても重要な物質です。体内のコレステロール量は100~150gとされていますが、その約25%は脳に集中しています。神経系にも多く、脳からの情報を体の各部に伝えるためにはコレステロールは不可欠です。

また、LDLコレステロールは体内に運ぶ働きをしており、悪玉などといわれるものではありません。悪さの根源はLDLコレステロールを酸化させる活性酸素であって、LDLもHDL同様、重要なコレステロールに違いありません。

LDL(運搬)とHDL(回収)
LDL(運搬)とHDL(回収)

画像出展:「前田医院(寺井町)

このイラストにあるように、LDLは必要不可欠なコレステロールを届ける“運搬人”です。笑顔になっているように決して悪者ではありません!! 一方のHDLは“回収人”という役割を担っています。なお、コレステロールの働きについては以下のサイトをご確認ください。

1.コレステロールの体内での働きは? (日本食肉消費総合センター)

活性酸素によりLDLが酸化
活性酸素によりLDLが酸化

画像出展:「岡部クリニック

必要不可欠なLDLコレステロールも、多すぎるのは問題です。しかし、その原因は「活性酸素によりLDLコレステロールが酸化する」ことです。つまり、引き金を引くのは“活性酸素”です。

 

活性酸素によりLDLが酸化
活性酸素によりLDLが酸化

画像出展:おおた内科・消化器科クリニック

活性酸素については、この“おおた内科・消化器科クリニック”さまが詳しく説明されていました。

 

ただし、多すぎるのは問題です。個人的には150㎎/dL以下なら問題ないのではと考えていますが、さすが190オーバーは明らかに問題です。

「これは薬だな」と思ったのですが、2018年3月の『「腎臓が寿命を決める」とは』というブログで、腎臓はとても重要な臓器であるという認識があっため、クレアチニン1.09㎎/dLという値はそれほど心配するものではないものの、ある意味薬で下げられるLDLコレステロール194㎎/dLより、改善が難しいとされる、腎臓の働きを示すクレアチニン1.09㎎/dLの方がむしろ気になりました。

例えば、痛み止めとしてよく使われる、非ステロイド性消炎鎮痛剤(NSAIDs)は腎臓病の患者さまにとって禁忌とされており、薬を服用する場合も注意が必要だなと思っていました。

DKI(薬剤性腎障害)
DKI(薬剤性腎障害)

画像出展:「腎不全と薬の使い方Q&A」

DKIとは“薬剤性腎障害”です。この円グラフをみると、痛み止めのNSAIDs(非ステロイド性抗炎症薬)抗菌薬の占める割合が顕著に多くなっています。まさに腎臓病患者さまにとって、これらの薬は禁忌です。

 

 

このことから、脂質異常症の薬として有名なスタチンが腎臓にとって優しい薬なのか禁忌の薬なのか、まず確認したいと思い、一度お持ち帰りにしました。

そして調べてみると、色々と有益な情報がありました。

CKDと脂質異常症
CKDと脂質異常症

画像出展:「エビデンスに基づく CKD 診療ガイドライン 2009

グレードA:行うよう強く勧められる

レベル4:分析疫学的研究:疫学研究とは多くの人を対象に、病気の発症率や有病率、病気の原因などを調べることを目的に行われる研究の総称。特に病気の原因となる要因を分析する目的で行われる疫学研究を、分析疫学的研究と呼ぶ。

 

これは、一般社団法人 日本腎臓学会発行の『エビデンスに基づく CKD 診療ガイドライン 2009

に書かれているページです。

特に1と3は、CKD(慢性腎臓病)と脂質異常症との関係性を明確に伝えています。

1.脂質異常症は、CKD の新規発症、CKD の進行だけではなく、CVD(心血管疾患) 発症の危険因子である。 

3.スタチンを用いた脂質管理により、CKD 進行抑制および CVD 発症予防が期待される。 

腎不全と薬の使い方Q&A
腎不全と薬の使い方Q&A

CKD患者では、リポタンパクの異常(①多量のタンパク尿、②GFRの低下、③糖尿病性腎症)のほかに、最近ではコレステロール吸収亢進、多価不飽和脂肪酸の代謝異常などで脂質異常症を発症すると考えられています。

 

左をクリック頂くと、PDF7枚の資料が表示されます。

多くの慢性腎臓病(CKD)には脂質異常症が続発するが、その成因にはアルブミン尿と腎機能低下の要因が複雑に関連する。CKDにおける脂質代謝異常が腎疾患を悪化させるリスクとなることのみならず 冠動脈疾患のリスクであることが指摘されている。強力なLDLコレステロール低下薬であるスタチンは腎機能低下を抑制し、タンパク尿を軽減させることがメタ解析で示されている。強力なトリグリセリド低下とHDLコレステロール増加作用を有するフィブラートはタンパク尿を低下させる可能性があるが、腎機能低下症例では排泄が遅延するため慎重に投与すべきである。様々な脂質代謝改善薬の腎機能に対する影響をみても小規模の臨床研究はあるが、脂質低下療法がどの程度タンパク尿を改善し、どの程度腎機能の保持に寄与するかについては大規模で長期的な介入試験の集積が必要である。 

〔日内会誌 96:2812~2818,2007〕 

以上のことから、脂質異常症の薬、スタチンは腎臓にとって優しい薬であり、“腎保護作用”も期待されている薬であるということが分かりました。

そして、薬物治療に真剣に向き合うならば、その救世主として期待されている“スタチン”を詳しく知りたいと思い見つけたのが今回の本でした。

初版発行は2006年なので14年前に発行された本ですが、何といっても著者の遠藤 章先生が“発見者”であるという点に惹かれました。

青カビから作られた奇跡の薬
青カビから作られた奇跡の薬
新スタチンの発見
新スタチンの発見

著者:遠藤 章

発行:初版発行2006年9月

出版:岩波書店

 

 

目次

プロローグ

1 新薬の種を求めて

コレステロールと冠動脈疾患

動脈硬化の原因

どうすればコレステロール値がよく下がるか?

ペニシリンの発見

世界中で宝探し

新薬の種探し始める

青カビから発見

2 動物実験で二度の危機

ラットのコレステロールが下がらない

自らラットを飼う

なぜ下がらない?

ニワトリとイヌには劇的な効果!

肝毒性の疑いで再度の危機

毒性学者の言い分

3 重症患者には安全でよく効いたのに

再復活へ

臨床試験は順調であった

突如中止に

失敗の原因

4 強力なライバルの出現

幻のプロポーズ

世界大手メルクのねらい

新たな発見

アルバーツからの手紙

一瞬、耳を疑う

メルクの独占を許さず

商業化スタチン第一号の誕生

天然スタチン―コンパクチンの仲間たち

合成スタチン

5 大規模臨床試験から見えてみたこと

コレステロール値を下げて心臓発作が減ったのか

大規模臨床試験

多彩な生理・薬理作用

エピローグ

プロローグ

コレステロールは生体のあらゆる組織にとって不可欠な物質である。生体膜の重要な成分であり、性ホルモン・副腎皮質ホルモン・胆汁酸などはコレステロールから合成される。

●1970年代初めにカビやキノコなど微生物の中にコレステロールの合成を阻害する物質をつくるものがきっといるはずと、6,000株の微生物を調べ終えていた1973年に、ついに青カビからコレステロール合成阻害剤スタチン1号となる「コンパクチン」を発見した。

●コンパクチンの発見から14年後の1987年、スタチン2号のロバスタチンがアメリカ食品医薬品局(FDA)の承認を得て発売された。

●50,000人の被験者(患者)を対象とした七つの大規模臨床試験から、スタチンはLDLコレステロールを25~35%下げることが示された。

1 新薬の種を求めて

どうすればコレステロール値がよく下がるか?

●コレステロールは食事から摂取し、腸管から吸収される「外因性コレステロール」と体内、主として肝(臓)で合成される「内因性コレステロール」の二つの経路で供給される。 

体内のコレステロール
体内のコレステロール

画像出展:「解決!コレステロールに関する素朴な疑問

 

 

●外因性コレステロールが必要量に満たないときは、不足分を内因性コレステロールが補う。

外因性コレステロールが必要量を満たせば、外因性コレステロールのネガティブ・フィードバック制御を受けて、肝コレステロール合成は停止する。

外因性コレステロールのネガティブ・フィードバック制御を受ける酵素がコレステロール合成の「律速酵素」として知られるHMG-CoA還元酵素(以降「HMGCR」とする)である。このHMGCR阻害によって肝コレステロール合成を阻害することが有効である。

●研究者の中には「コレステロール合成の阻害は危険である」という意見は少なくなかった。これはコレステロールが細胞膜の重要な構成成分であり、胆汁酸の原料であり、副腎皮質ホルモン、性ホルモンの原料でもあったためである。

世界中で宝探し

●『抗生物質の例から、私は微生物の中にはコレステロール合成阻害物質をつくるものがいるだろうと予測した。微生物が抗生物質をつくるのは、外敵である他の微生物を殺すかその生育を阻止して生き残るためだという説があった。私はこの説を取り入れ、微生物の中には、コレステロール合成阻害物質で外的微生物を殺すか、その生育を阻止するものが存在する可能性が十分あると考えた。』

●『当時の流行には逆行したが、私はコレステロール合成阻害物質を生産する可能性が高い微生物として、原核生物の放射菌ではなく、真核生物のカビキノコを選んだ。放射菌がつくる抗生物質の中には優れた抗菌力をもつものが多かったが、ストレプトマイシンの難聴、クロラムフェニコールの再生不良性貧血のように、安全性に懸念がある例が目についた。一部のカビは古くから発酵食品の製造に利用され、キノコの中には食用キノコとして重用されるものがあるのに、放射菌には食品の製造・加工に使用された例がないことも気がかりであった。

カビとキノコを選んだのにはもう一つの理由があった。それは、私が東北地方の山村育ちで少年時代からカビとキノコに接する機会が多く、その頃から興味があったのに加え、製薬会社の三共に入社した1957年から65年までの8年間も、カビとキノコが生産するペクチナーゼという酵素を研究していたので、扱いに手慣れていたからである。』

新薬の種探し始める

●米国留学中から「コレステロールの吸収阻害剤よりも合成阻害剤のほうがはるかに優れたコレステロール低下剤になる」「カビとキノコの中には他の微生物との生存競争に打ち勝つための武器として、コレステロール合成阻害物質をつくるものがいる」と考えていた。

青カビから発見

●1972年8月から、カビとキノコなど2570株を集めて調べた結果、三株にコレステロール合成阻害活性が認められたが、どの株も阻害活性が弱すぎるか、活性物質の生産性に再現性が認められないなどの理由で研究を中止した。

ML-236Bは英国の研究者たちが別の青カビ(Penicillium brevi-compactum)から単離して、コンパクチン(compactin)と命名されていた。

こちらはLSI札幌クリニックさまの記事です。

ガードナー賞は、iPS細胞を開発した山中伸弥京都大教授や、微生物から熱帯感染症の特効薬を開発した北里大の大村智特別栄誉教授ら、過去のノーベル医学生理学賞の受賞者も数多く受賞している、いわばノーベル賞を受賞するための登竜門のような賞です。

スタチンとは体内でのコレステロール合成に関係する酵素を阻害する物質のことで、遠藤氏が製薬会社三共(現・第一三共)の研究員時代に青カビから発見したものです。このスタチンが既存の薬剤と比較して、血中のコレステロールを劇的に低下させ、動脈硬化から発症する心臓病の予防や、血管疾患の治療に革命をもたらしました。』

かゆみ2

著者:高森健二、柿木隆介

発行:2017年11月

出版:ナツメ社

目次は”かゆみ1”を参照ください。

Part7 かゆみの治療の基本とコツ

かゆみの原因はわかりづらい―原疾患の治療が先決

かゆみには原因がわからないものは沢山ある。肝疾患や腎疾患もかゆみの原因は分かっていない。

かゆみの治療の基本は以下の4つ

1)かゆみは炎症性の疾患が多いので、まずは炎症や免疫反応を抑える治療を行う。

2)かゆみを起こしている原因物質(メディエーター)、「かゆみメディエーター」の働きを阻止する治療を行う。

3)かゆみを感じる知覚神経の感受性を低下させる方法、かゆみ刺激に対して鈍感にさせるもの、特に乾燥肌ではこの方法が重要である。

4)かゆみを悪化させる要因(増悪因子)を回避する方法である。なお、この増悪因子は個々による違いが大きいので、オーダーメイドの治療が必要になる。

ヒリヒリ感でかゆみを抑える―効用が不明なかゆみ止めも

・『江畑先生は、臨床皮膚科医としての立場から、「市販の外用薬を使う前に、まず保湿剤を塗るだけにしませんか」と、提案されています。保湿剤だけでおさまるかゆみは多いのです。「保湿クリームなどを使わずにかゆみをおさまった」、という方もおられるかもしれません。しかし、その場合でも、実際は、使用した外用薬の中に含まれていた保湿成分(ワセリンなど)が効いた可能性があるのです。』

Part8 かゆみ止め薬を使わない治療法

脳への電気刺激がかゆみを止める!―経頭蓋直流電気刺激法

・生理学研究所では経頭蓋直流電気刺激法(tDCS)によるかゆみ知覚の抑制効果を明らかにした。

・tDCSを第一次感覚運動野に15分間施行した実験では、ヒスタミンによるかゆみが減少し、かゆみの持続時間も短縮した。

tDCSでは完全にかゆみを取ることはできないが、一般のかゆみ止め薬が効かない場合には試す価値はある。

電気刺激でかゆみを止める治療法(経頭蓋直流電気刺激法)
電気刺激でかゆみを止める治療法(経頭蓋直流電気刺激法)

画像出展:「世界にかゆいがなくなる日」

以下は理化学研究所の記事です。

微弱な電気刺激が脳を活性化する仕組みを解明

-ノルアドレナリンを介したアストロサイトの活動が鍵-

また、以下をクリック頂くと、PDF3枚の資料がダウンロードされます。写真も出ています。

経頭蓋脳刺激法によるヒト脳研究 -現状と展望

Part9 かゆみ研究最前線(人間を対象とした研究)

かゆみ刺激に対する脳活動の不思議―大脳辺縁系と前頭葉がともに活動

機能的MRI検査によって驚くべき結果を得ることができた。それは、かゆみ刺激は他の皮膚感覚(触覚など)とは、全く異なる複雑な信号処理が行われていることである。人間の神経は、運動系も感覚系も、脳内や脊髄内で交差して、反対側に作用する。つまり、右脳に脳出血が起こると反対側の左半身が麻痺する。感覚も同様で、右手に触覚刺激を与えると、その信号処理はほとんど左脳で行われる。かゆみ刺激の場合には、身体のどこを刺激しても、両側の脳が左右対称的に活動する。脳内では、かゆみは独特の複雑なネットワークを伝わって、左右の脳半球にかゆみ信号が伝わる。

Part10 かゆみ研究最前線(動物実験)

脊髄の神経が関係する慢性的なかゆみ―マスト細胞の分化・増殖機能の解明

・『2015年に、九州大学の津田誠教授のグループから、画期的な研究が、世界でもトップクラスの医学誌「Nature Medicine」に報告されました。アトピー性皮膚炎に代表される慢性的なかゆみの、神経科学的メカニズムに関する研究です。

津田教授らは「グリア細胞」に注目して研究を行ってこられました。脳や脊髄には、神経細胞とグリア細胞の2種類があります。脳と脊髄の活動には神経細胞が重要で、グリア細胞は、神経細胞と神経細胞の間を埋めるだけの脇役というのが、以前の常識でした。グリアは英語のGlue。糊とか「にかわ」という意味で、まさに、神経細胞間をつなぎとめる糊のようなものと考えられていたのです。

津田教授の恩師である井上和秀教授らは、グリア、特に小型のグリアであるミクログリアが、慢性痛の原因に深く関わっていることを世界で初めて報告され、高く評価されました。それから、グリア細胞の研究が急速に発展してきたのです。

中枢神経を構成する細胞(中央が小膠細胞[ミクログリア]です)
中枢神経を構成する細胞(中央が小膠細胞[ミクログリア]です)

画像出展:「人体の正常構造と機能」

 

津田教授らは、このグリア細胞が慢性的なかゆみにも関係するのではないかという仮説をたて、アトピー性皮膚炎のモデルマウスを用いて研究を行いました。このマウスは、皮膚を激しくかくことが特徴です。そのマウスの脊髄で、「アストロサイト」というグリア細胞が、長期にわたって活性化し、かゆみ信号を強め、かゆみの慢性化に関与していることを、世界で初めて明らかにしたのです。

この研究成果は、アトピー性皮膚炎に伴う慢性的なかゆみの、新しいメカニズムとして注目されています。さらに、2016年、順天堂大学環境医学研究所の高森教授、冨永光俊准教授らは、アトピー性皮膚炎モデルマウスの脊髄ではミクログリアが増加していること、ミクログリアを阻害する薬剤のミノサイクリンをアトピー性皮膚炎モデルマウスの脊髄(髄腔)内に投与するとかゆみが軽減することを発見し、その成果を皮膚科学のトップ雑誌「Journal of Investigative Dermatology」に報告されました。

今後、脳や脊髄の神経細胞とグリア細胞を組み合わせた研究により、従来の視点や研究アプローチからは見いだせない慢性的なかゆみのメカニズムを明らかにし、その成果をもとにした、全く新しい視点をもった「かゆみ治療薬」の開発が期待されます。』

アストロサイトによるかゆみの慢性化
アストロサイトによるかゆみの慢性化

画像出展:「世界にかゆいがなくなる日」

 

Part11 かゆみと痛みはどう違う?

我慢する感覚vs我慢できない感覚―目的が異なる生体警告信号

・痛みは外界からの傷つけるような刺激に対して、それを感じ取って逃げるための感覚ともいえる。また、痛みは体の中の異常を脳に伝え、対処させようとする。例えば腰痛のかなりの原因は、筋肉と筋膜の異常である。特に急性期には筋肉を使わないように安静にした方が良く、じっとしているように脳が忠告の指令を出す。このように痛みは異常に対して、「きちんと行動しなさい」という感覚ともいえる。

かゆみは、例えば、寄生虫が皮膚についた時にかゆみを感じ、かく。この動作は自分の皮膚を傷つけることにもなるが、寄生虫を除く方が重要なので、「かいて除け」という脳からの命令による感覚であると考えると良い。皮膚に隣接する粘膜にかゆみが起こるのも同様と考えられる。

しかしながら、野生で生活していた古代人とは異なり、現代人にとっては必要とは言い難いものである。現代病ともいえるアトピー性皮膚炎や花粉症は、本来のかゆみとは全く違う意味を持っているのかもしれない。

かゆみ物質は痛み物質にもなる―物質の判断を変える生体の不思議

痛みを起こすことが知られていた物質のほとんどは、かゆみも起こすということが分かってきた。

・同じ物質でも皮膚の表面に限定して投与すればかゆみになり、皮膚の深いところまで作用させれば痛みになるものもある。

かゆい時に活動する未知の領域―脳の活動部位の違いが明らかに

・機能的MRIを用いた脳機能研究では、かゆみに対して活動する脳部位と、痛みに対して活動する脳部位は、よく似ているが明らかに異なるという結論が出ている。

エピローグ 「かゆい」は本当に必要ないのか

①稲垣直樹先生(岐阜薬科大学教授)

・アレルギーは侵入した異物を排除して生体を守る免疫の仕組みが生体に不愉快な症状を誘発する場合を言うが、本来は生体を守る反応である。したがって、皮膚アレルギーに伴うかゆみも生体を守る役割を担っていると考えられる。かゆみによって誘発される引っかき行動によって、異物排除の反応が増強されるのである。

また、かくことによる心地よい感覚は、確実に引っかき行動を誘発するために備わったものと考えられる。

②片山一朗先生(大阪大学皮膚科学教授)

・かゆみ感覚は、生体への特異な危険信号を避けるために役立っていると考えるが、痛みを緩和することでも、生存に有利に働いているのかもしれない。

・『鍼灸治療はその「ツボ」に機械的、物理的刺激を与えることで効果を引き出しますが、皮膚のどこに「ツボ」が存在するのかは不明です。今後、脳機能研究の手法を取り入れて、鍼灸をかゆみ治療に応用していきたいと考えています。』

③倉石泰先生(富山大学名誉教授)

以前、現代人の我々にはかゆみの感覚はあまり必要ないかもしれないと話したら、ある女子学生が「化粧品などを使うとき、刺激を受けてかゆくなるという感覚は重要だ」と言っていた。化粧品が合わないことを感じ取るという意味では重要な感覚かもしれない。

高森健二先生(順天堂大学名誉教授)

・痛みと同じように、かゆみも生体の警告反応(アラームリアクション)であると考えている。

皮膚のバリアが障害を受けると皮膚は乾燥してかゆみが出てくる。その原因として神経線維の表皮内侵入によるかゆみ閾値の低下がある。バリアが壊れると抗原などの異物の侵入や外部からの機械的、化学的刺激を受け、角質層直下まで侵入進展している神経が刺激され、かゆみが生じる。

保湿剤にはバリア改善効果と神経線維の表皮内侵入を抑える作用があり、乾燥肌によるかゆみに有効である。

一方。炎症反応によるかゆみは浸潤している炎症細胞(白血球、リンパ球、肥満細胞など)に由来するかゆみ惹起物質により生じるかゆみで、やはり警告反応であると考えられる。

室田浩之先生(大阪大学皮膚科学准教授)

・皮膚の表面を覆う毛が外界のアンテナ役となり、危険を察知すると皮膚の知覚神経を介してかゆみを起こす。かゆみは夜から朝方にかけて強くなる傾向がある。これは寝ている無防備な時間帯に、周囲の環境に対して鋭敏でなくてはならないためと考えられる。体外からの刺激以外に、身の危険を想起させるような視覚的あるいは聴覚的な刺激もかゆみを起こす。

慢性的に持続するかゆみは体内、体外の病気によって生じている恐れがあり、原因検索を必要とする。長引くかゆみには適切な治療が必要である。

おわりに

『かゆみは、誰もが日常的に感じる感覚なのですが、これほど「わからないことが多い」感覚はありません。かゆみに関する研究や治療法の解明は、ようやくスタート地点に立てた、といえるレベルだと思います。しかし、逆に考えれば、これほど前途洋々たる魅力的な分野は他にはないと思います。

長い間、患者さんたちは、医師に、かゆみをいくら訴えても、「よくわかりません」という反応しか返ってこず、あきらめの境地に入っておられた方も少なくないと思います。しかし、ようやく、医師も研究者も、この「かゆみ」という不思議な現象に立ち向かうための道具を手に入れることができました。

何よりも、「かゆみに苦しんでいるたくさんの患者さんを救いたい」、という強い気持ちが、私たちに、困難な航海に立ち向かう勇気を与えてくれます。おそらく、今後10年の研究の進歩は、それまでの30年に匹敵するか、それ以上のものになると思います。』

感想

最も知りたかったのは尿毒症のかゆみについてだったのですが、残念ながら尿毒症のかゆみの原因は特定されていないということでした。一方、尿毒症物質(uremic toxin)については、ネットにあった論文に詳しい情報がありました。

「尿毒症物質によるかゆみの原因は分かっていない」との見解は、そもそも尿毒症物質が非常に多いことに由来しているからではないかと思います。

左をクリック頂くとPDF7枚の資料がダウンロードされます。

また、以下の表が”尿毒症症状をきたす物質(uremic toxinとのことです。

 

日本 1-1 クロアチア  サッカーワールドカップ カタール大会決勝トーナメント 2022年12月6日

FIFA World Cup Qatar 2022 Roud of 16
FIFA World Cup Qatar 2022 Roud of 16

画像出展:「JFA.jp

忘れらない大会の一つになったなぁと思います。

選手、スタッフは間違いなく100%の力を出しました。確実に進歩した姿も見れました。

ただ、100%ではベスト8には残れませんでした。

寝る気にもなれず、「どうしたら良かったのだろう?」と考えました。

カウンターアタックの戦法は変えず、後半頭から2点目を取りに行くべきだったのではないか、90分で決着させるという強い気持ちが大切だったのではないか。フレッシュで動き回れる南野選手と、キーマンの三笘選手を後半最初から投入すべきではなかったか。すべて結果論、答えはありません。

しかしながら、やはり積極果敢な姿勢こそが、挑戦者であった日本に与えらえた、唯一の8強につながる道だったのではないかと思います。

また、残念だったことはPK戦のキッカーを選手に任せてしまったことです。PKは得意な選手と苦手な選手がいます。これはキックの技術力に関係します。一方、物凄いプレッシャーがかかる場面のため、メンタリティーも非常に重要です。さらにその試合での調子や出場時間も無視できません。これらのことを総合して、監督が人選し順番も決めるべきです。監督の、勝利への揺るぎない信念を疲れた選手に今一度注入し、選手の不安な心を吹き飛ばし、冷静な心と集中力を取り戻して、最後の決戦に舞台に送り出します。実質、指揮官不在となったPK戦に向かう日本の選手からは、緊張と不安が伝わってきました。悔やまれます。

※スペインを撃破したモロッコのPK戦直前の光景は、勇ましくエネルギーに満ちあふれ、そして、どこか楽しげでした。『ついに、この瞬間が来た!! 勝利は俺たちのもんだ!!』と言わんばかりに盛り上がっていました。

かゆみ1

先日、クレアチニン(Cr)値が急速に悪化し、それに伴い強い痒みのため、夜、思うように眠れないとのお悩みを抱えた患者さまが来院されました。また、その強い痒みは、日によって変化するとのお話でした。

担当医の先生は「尿毒症によるものですね」とのことです。一般的な尿毒症の症状は多岐にわたります。一方、色々調べてみると透析患者の約70%の人が痒みで困っているという記事も見つけました。

これらのことから、尿毒症の痒みの特徴や、そもそも強い痒みとはどのようなものなのか詳しく知りたいと思い本を探しました。それが今回見つけた『世界に「かゆい」がなくなる日』というユニークなタイトルの本です。内容はとても充実しており、大変勉強になりました。良い本に出合ってよかったなと思います。

著者:高森健二、柿木隆介

発行:2017年11月

出版:ナツメ社

目次

はじめに

プロローグ 「かゆみ」は不思議な感覚

●「かゆみ」=「かきたい感覚」?―かゆみの不思議な定義

●「かく」ことは快楽だ!―脳の活動を探る

●見ているだけでかゆくなる……―かゆみの伝染

●かけばかくほどかゆくなる矛盾―イッチ・スクラッチ・サイクル

●「かゆい」の悪循環は夜も続く―かゆみの頻度と継続時間の計測

Part1 「かゆい」はつらい!

●川柳に込めた深い悩み―かゆみは他人にはわからない

●「かゆくて仕事ができない!」―かゆみ患者の数と経済損失

●ふらつきや判断力の低下も……―治療薬の副作用

Part2 人間の皮膚が担う大きな役割

●イヌは体温調節ができない―人間の皮膚の優れた特徴

●1カ月で総取り替え―人間の皮膚の構造

●皮膚はいつも水浸し―皮膚の保湿効果

●細菌・ウィルス・紫外線をはねのける!―皮膚のバリア機能

colunmn1 「肌年齢」ってどうやって測るの?

Part3 皮膚で起こるかゆみのメカニズム

●「末梢性のかゆみ」の原因―次々に発見されるかゆみ物質

●かゆみはゆっくり脳に届く―かゆみ信号が伝わる仕組み

Part4 ドライスキン(乾燥肌)のサイエンス

●伸び縮みする神経―乾燥肌がかゆいわけ

●アトピー性皮膚炎を悪化させる要因―新しい抗炎症剤の開発

●紫外線がかゆみを治療する?―紫外線療法の処方箋

●あなどれないスキンケア外用薬の効果―高齢者のドライスキン対策

Part5 花粉症によるかゆみ

●花粉で皮膚もかゆくなる―「花粉皮膚炎」への進行

●花粉症の季節、女性の9割が肌荒れで悩んでいる―花粉皮膚炎の心得

Part6 皮膚以外の原因でもかゆくなる

●疾患が引き起こすかゆみ―中枢性にかゆみとは?

●脳物質のバランスが変化―中枢性のかゆみの主原因

●腎臓病治療の副作用―血液透析によるかゆみ

●血液透析患者を救った「レミッチ」―日本発・世界初の内服薬

●広がるレミッチの効用―肝・胆道系疾患によるかゆみ

●「むずむず足症候群」と関連?―血液疾患によるかゆみの解明

●薬のせいでかゆくなるってホント?―薬剤によるかゆみ

colunmn2 妊婦さんのかゆみを軽くするには

Part7 かゆみの治療の基本とコツ

●かゆみの原因はわかりづらい―原疾患の治療が先決

●炎症や免疫反応を抑える―皮膚由来のかゆみに主原因

●かゆみ物質の働きを阻止―ヒスタミンが関与するかゆみと関与しないかゆみ

●中枢性のかゆみに対する内服薬も―オピオイドκ受容体作動薬への期待

●市販薬のさまざまな成分―外用薬に含まれるかゆみ止め成分

●ヒリヒリ感でかゆみを抑える―効用が不明なかゆみ止めも

●理想はオーダーメイド治療―止痒薬ではなく鎮痒薬

colunmn3 使いすぎるとかゆくなる石鹸や洗剤

Part8 かゆみ止め薬を使わない治療法

●脳への電気刺激がかゆみを止める!―経頭蓋直流電気刺激法

●「痛い」が「かゆい」を忘れさせる―他の皮膚刺激による抑制

●心頭滅却すればかゆさも忘れる?―心理療法

●見直されてきた「偽薬」の効用―プラセボ効果

●かゆみを自分でコントロールする―認知行動療法

●心療内科・精神科の医師との連携―リエゾン療法

●温めて抑える、冷やして抑える―温熱療法、冷罨療法

●古来の薬にも効果が?―民間薬と漢方薬

●鎮痛剤がかゆみにも効く?―最新研究による新たな可能性

column4 かゆみを測るのは難しい

Part9 かゆみ研究最前線(人間を対象とした研究)

●脳を傷つけずに検査する―機能的MRIと電気生理学的検査

●かゆみ刺激に対する脳活動の不思議―大脳辺縁系と前頭葉がともに活動

Part10 かゆみ研究最前線(動物実験)

●「かゆがるマウス」が残した足跡―世界初の動物モデルの作成

●「イギリスの蚊」なら、かゆくならない?―虫刺さされのメカニズム

●脊髄の神経が関係する慢性的なかゆみ―マスト細胞の分化・増殖機能の解明

●黄疸によるかゆみのメカニズム―かゆみ物質を分子レベルで調べる

●ドライスキンはなぜかゆい?―過敏症のメカニズムと新しい治療法

Part11 かゆみと痛みはどう違う?

●かゆみは痛みに隠れている?―痛みとかゆみの共通点

●我慢する感覚vs我慢できない感覚―目的が異なる生体警告信号

●かゆみ物質は痛み物質にもなる―物質の判断を変える生体の不思議

●かゆい時に活動する未知の領域―脳の活動部位の違いが明らかに

エピローグ 「かゆい」は本当に必要ないのか

おわりに

ブログで取り上げたものは、上記の目次のうち、黒字の部分だけです。

プロローグ 「かゆみ」は不思議な感覚

・「イッチ・スクラッチ・サイクル」とは

「イッチ・スクラッチ・サイクル」とは痒みの悪循環のことで、かゆいところをかくと快感が得られる。それを脳が記憶すると、かくのをやめられなくなる。

イッチ・スクラッチ・サイクルの仕組み
イッチ・スクラッチ・サイクルの仕組み

画像出展:「世界にかゆいがなくなる日」

-何かの原因で皮膚を強くかくと、皮膚が傷つく、すると皮膚の中にサイトカインという物質が放出される。このサイトカインは皮膚の中にあるマスト細胞(肥満細胞)を刺激して、ヒスタミンというホルモンを放出する。このヒスタミンは非常に強いかゆみを誘発する。また、傷ついた皮膚は炎症を起こすが、それもかゆみを引き起こす。そのために、また強くかいてしまう。このように痒みは悪循環となることもあり、問題は大きくなる。

このサイクルの実態、病的な悪循環と知っていれば、自制心が働き、かくことを我慢しようと思うことは大切なことである。

Part3 皮膚で起こるかゆみのメカニズム

「末梢性のかゆみ」の原因―次々に発見されるかゆみ物質

・かゆみの原因の多くは皮膚の問題であり、皮膚の中で炎症・アレルギーなどが起きたときにかゆみが生じる。これを「末梢性のかゆみ」という。末梢性のかゆみが出る時には、かゆみを引き起こす原因物質が皮膚の中で作られている。

ヒスタミン

ヒスタミンは主に「マスト細胞」で作られる。マスト細胞は肥満細胞とも呼ばれている。また、顕微鏡で見ると、たくさんの細かい粒のようなものが見えるので顆粒細胞とも呼ばれる。マスト細胞は皮膚以外に鼻の粘膜、気管支など体の様々な組織に存在している。

-アトピー性皮膚炎、アレルギー性鼻炎、気管支喘息のような代表的なアレルギー性疾患が起こる場所にマスト細胞は多くあり、このことはマスト細胞から分泌されるヒスタミンが、アレルギーの発生に重要な役割を果たしていることが分かる。

ヒスタミン以外のかゆみ物質

-現在、発見されたかゆみ物質は、セロトニン(5-TH)プロテアーゼ神経ペプチド脂質メディエーターサイトカイン胆汁酸リゾホスファチジン酸ケモカイン硫化水素などがある。

●かゆみはゆっくり脳に届く―かゆみ信号が伝わる仕組み

・かゆみと鈍い痛みの信号は伝達スピードが遅いC線維から脊髄に至り、脊髄視床路という経路を通って脳に到達する。

かゆみの発生とかゆみ信号の伝わり方
かゆみの発生とかゆみ信号の伝わり方

画像出展:「世界にかゆいがなくなる日」

・関節位置覚、触覚、振動覚、圧覚などは脊髄後索という経路を通る。脊髄の中には他にも、脳からの運動指令を伝える皮質脊髄路など、たくさんの経路が詰まっている。 

・皮膚、神経末端部、末梢神経、脊髄とかゆみと鈍い痛みは同じ経路を通るため、「かゆみは痛みの軽いもの」と言われていたこともあったが、最近の研究ではかゆみ独自の経路があることが分かってきた。

Part4 ドライスキン(乾燥肌)のサイエンス

伸び縮みする神経―乾燥肌がかゆいわけ

・皮膚の水分がかゆみの予防の基本である。角質細胞の皮脂膜や細胞間脂質、天然保湿因子が減ると、角質細胞の集団が崩れて水分が減り、角質層に隙間ができやすくなる。このため外から異物が侵入しやすくなり、これが刺激となってかゆみが生じる。また、乾いたドライスキンの状態は皮膚が必要以上に敏感になっている。

伸び縮みする神経線維
伸び縮みする神経線維

画像出展:「世界にかゆいがなくなる日」

・皮膚には、神経を伸ばす「神経伸長因子」と、その逆の作用を持つ「神経反発因子」がある。通常は両者のバランスが保たれているため、健康な皮膚では神経線維の自由神経終末は、表皮と真皮の境界に分布している。ところが、皮膚が乾燥すると、神経伸長因子の力が強くなり、神経が伸びるため、その先端にある自由神経終末が表皮内に侵入し、表皮の中で最も皮膚表面に近い角質層の直下にまで伸長する。そのため、外部の刺激が伝わりやすくなり、知覚過敏の状態になり、かゆみを感じやすくなる。

アトピー性皮膚炎を悪化させる要因―新しい抗炎症剤の開発

・アトピー性皮膚炎は、かゆみの強い慢性の湿疹で、多くはアトピー性素因(アトピー性皮膚炎になりやすい性質)を持つ人に生じる。

・アトピー性皮膚炎の皮膚はバリア機能の異常と、免疫機能の異常・アレルギー性炎症が相互に作用しながら、悪化していく。

・アトピー性皮膚炎の皮膚内で炎症が起こると、マスト細胞やT細胞からかゆみ物質が分泌されるが、これらは「炎症細胞」と呼ばれている。

炎症が起こると皮膚の表面がアルカリ性に偏るため、細菌が侵入しやすくなる。かゆみのために激しくかくと、皮膚のバリアが壊れる。すると、さらに皮膚が乾燥して、異物が入りかゆみがより強くなり、そして、また、かいてしまう。つまり、「イッチ・スクラッチ・サイクル」という悪循環を起こす典型例がアトピー性皮膚炎である。

・アトピー性皮膚炎ではステロイド軟膏で炎症を抑え、保湿するのが効果的である。ステロイドは軟膏として使う程度では特に副作用の心配はない。

紫外線がかゆみを治療する?―紫外線療法の処方箋

・近年、アトピー性皮膚炎に対する紫外線療法が話題になっているが、名古屋市立大学の森田明理教授が3つの要素をあげられている。

T細胞のアポトーシスの誘導

-アトピー性皮膚炎では、アレルギー炎症の原因となるT細胞が増加するが、紫外線によってアポトーシスが誘導され、T細胞が減少し病態が改善する。

免疫抑制

-紫外線によって免疫異常が改善される効果がある。治療後の改善期間が長く保てると考えられている。

末梢神経(C線維)への影響

-紫外線はかゆみを伝達するC線維にも影響を与える。アトピー性皮膚炎の皮膚では、C線維の先端部分にある自由神経終末が、表皮の角質層まで伸長しており、皮膚のバリア機能の低下と相まって、かゆみ刺激に過敏に反応する。

あなどれないスキンケア外用薬の効果―高齢者のドライスキン対策

・高齢者における皮膚乾燥の発生。

①脂質の減少

②天然保湿因子(NMF)の減少

③角質細胞のターンオーバー(細胞の発生と自然死のサイクル)の低下と角質層構造の変化

④環境因子の影響

高齢者のかゆみの治療あるいは予防には保湿剤が一番有効である。

保湿剤にはかゆみ神経(C線維)が表皮内に侵入するのを抑える作用がある。つまり、乾燥後すぐに保湿剤を外用すると、表皮内神経線維の増加を強く抑制する。

Part6 皮膚以外の原因でもかゆくなる

疾患が引き起こすかゆみ―中枢性にかゆみとは?

・何らかの疾患が原因となって、病的に強いかゆみが持続するもの。中枢とは脳や脊髄のことである。

中枢性のかゆみを引き起こす疾患
中枢性のかゆみを引き起こす疾患

画像出展:「世界にかゆいがなくなる日」

脳物質のバランスが変化―中枢性のかゆみの主原因

・麻薬として使われるモルヒネやアヘンの材料であるアルカロイドなどの物質を総称して「オピオイド」というが、このオピオイドが中枢性のかゆみを引き起こすことが分かってきた。

・受容体は細胞表面にあって、特定の物質だけに反応してその物質に対する細胞の反応の引き金を引く。オピオイドは複数の受容体を持っているが、2種類の受容体のアンバランスによってかゆみが誘発される。これが「中枢性のかゆみ」の原因である。

オピオイドシステム
オピオイドシステム

画像出展:「世界にかゆいがなくなる日」

κ受容体とμ受容体のバランスが崩れるとかゆみが出現する。

腎臓病治療の副作用―血液透析によるかゆみ

・透析患者の7割が合併症のかゆみに苦しんでいる。

・透析によるかゆみの原因は、腎不全や透析、さらに乾燥によって皮膚のバリア機能が損なわれていることがある。

血液透析患者を救った「レミッチ」―日本発・世界初の内服薬

κ受容体を活性化させてμ受容体とのバランスを改善するのが、κ受容体作動薬のナルフラフィン塩酸塩(商品名:レミッチ)である。

広がるレミッチの効用―肝・胆道系疾患によるかゆみ

・肝疾患によるかゆみにも、オピオイドシステムが関与しており、レミッチにかゆみを止めることが明らかになった。

●薬のせいでかゆくなるってホント?―薬剤によるかゆみ

医薬品医療機器総合機構(PMDA)のホームページで「薬とかゆみ」で検索すると7,000以上の薬がヒットする。どのような薬でもアレルギー反応が生じれば、発疹(薬疹)に伴ってかゆみが出現する。

・薬剤によるかゆみは大きく二つに分類できる。

1)明らかに皮膚症状を起こすもの。様々な皮疹が出現し、かゆみの程度も異なる。中には強いかゆみが現われる場合もある。

2)皮膚症状がないか少ないタイプ。頻度が多いものは、モルヒネ、クロロキン、バンコマイシンなど。

日本 2-1 スペイン  サッカーワールドカップ カタール大会予選リーグ最終戦 2022年12月2日

逆転ゴールを生んだ三笘選手のアシスト(得点は田中選手)
逆転ゴールを生んだ三笘選手のアシスト(得点は田中選手)

画像出展:「讀賣新聞オンライン

信じられない勝利でした。選手全員が戦い方を理解し、共有していたことが最大の勝因だと思います。

その中で、傑出していたのは三笘選手の強く、果敢に攻める気持ちでした。それはディフェンス面にも出ていました。

1mmの攻防の明暗は、想像力と研ぎ澄まされた瞬時の決断にあったと思います。

黄金の華の秘密

ブログで取り上げた 『ユングと共時性』に、次のようなことが書かれていました。

ユングと共時性
ユングと共時性

リヒャルト・ヴィルヘルムが翻訳した中国の錬金術の本が「黄金の華の秘密」である。ユングがこの本に払った苦心は、主要な心理学的概念を発展させるための重要な源となっている。特に、ユングが「共時性」を初めて公に使ったのが、1930年のリヒャルト・ヴィルヘルムの葬儀での賛辞の中であったことはとても意義深い。

 

ユングにとって、リヒアルト・ヴィルヘルムによって翻訳されたこの『黄金の華の秘密』はとても重要な出会いでした。

今まで何度も、「まぁ、何とかなるだろう」と思って身分不相応の本を何冊も買ってきたのですが、今回の本もほとんど歯が立ちませんでした。

ただ、立ち向かった足跡だけでも残したいものだと思い、印象に残った部分とC・G・ユングにとって、人生最大級の出会いとなった、リヒアルト・ヴィルヘルムについて書き残すことにしました。

黄金の華の秘密
黄金の華の秘密

訳者:湯浅泰雄、定方昭夫

出版:人文書院

発行:初版 1980年3月31日

   新装版 初版第一刷 2018年4月20日

   新装版 初版第ニ刷 2021年10月20日

 

 

目次

第二版のための序文……C・G・ユング

第五版のための序文……ザロメ・ヴィルヘルム

リヒアルト・ヴィルヘルムを記念して……C・G・ユング

ヨーロッパの読者のための註解……C・G・ユング

 序論

 基礎概念

 対象からの意識の離脱

 完成

 結論

ヨーロッパのマンダラの例……C・G・ユング

太乙金華宗旨の由来と内容……リヒアルト・ヴィルヘルム

 一 本書の由来

 ニ 本書の心理学的・宇宙論的前提

太乙金華宗旨

 第一章 天心

 第二章 元神・識神

 第三章 回光守中

 第四章 回光調息

 第五章 回光差謬

 第六章 回光微験

 第七章 回光活法

 第八章 逍遥訣

 第九章 百日立基

 第十章 性光識光

 第十一章 ○離交媾

 第十二章 周天

 第十三章 勧世歌

慧命経

 一 漏尽

 ニ 六候

 三 任脈と督脈

 四 道胎

 五 出胎

 六 化身

 七 面壁

 八 虚空粉粋

訳者解説

 1 ユングとヴィルヘルムの出会い

 2 太乙金華宗旨と呂祖師

 3 思想的内容と心理学的視点

 4 本書の内容と邦訳について

第二版のための序文  C・G・ユング

●リヒアルト・ヴィルヘルムは1928年、C・G・ユングに『黄金の華の秘密』のテキストを送った。C・G・ユングは1913年から集合的無意識の諸過程について研究を進めていたが、15年間の努力の成果は比較可能な手掛かりが掴めず、不安定な状態にあった。その状態から抜け出せたのは『黄金の華の秘密』の中にグノーシス主義者たちの中に求めても得られなかった部分を含んでいたからである。そして、本書はC・G・ユングの研究に正しい方向づけを与えた。

第五版のための序文  ザロメ・ヴィルヘルム

●1926年、リヒアルト・ヴィルヘルムは次のような短い序文を書いている。

『「慧命経―意識と生命の書―は、1794年に柳華陽が著した書物である。この本は「黄金の華の秘密」と合本にして千部刊行された。

この著作は仏教的瞑想法と道教的瞑想法をまじえたものである。この書の基本的見解によれば、生命が生まれるとき、心は、意識と無意識という二つの領域に分かれる。意識とは人間において個人化され、分離された要素であり、無意識とは、彼を宇宙に結びつける要素である。この書の基本原理は、瞑想を通じて二つの要素を結びつけるところにある。無意識は、意識がその中に沈潜してゆくことによって、その内容をゆたかにされねばならない。瞑想によって無意識の活動は活潑となり、意識領域まで昇る。こうして豊かな内容をもつに至った意識とともに、心は、再生するという形をとって、超個人的な魂の領域へと入ってゆく。この魂の再生は、やがて意識作用の内面的分化発展へとみちびき、自由自在な思考の状態にまで至る。しかし、さらに瞑想が深まってその終極に至ると、必然的に、すべての差別が消滅した究極的無差別の中にある大いなる一つの生命に解消していくのである」。』

ヨーロッパの読者のための註解

序論

現代心理学が理解を可能にする

●『人間の身体があらゆる人種的相違をこえて共通の解剖学的構造を示すのと同じように、魂(プシケ)というものも、あらゆる文化と意識形態の相違の彼方に共通の低層を有しているものであって、私はそれを集合的無意識と名づけたのである。この無意識の魂は、意識化され得る内容から成り立っているものではなく、ある種の同一の反応へと向う潜在的な素質から成り立っているのである。集合的無意識という事実は、あらゆる人種の相違を超えて脳の構造が同一であるということの心的な表現なのである。そこから、さまざまな神話のモティーフや象徴の間に見出される類似性あるいは同一性、さらには人間の相互理解の可能性一般が同一性を示すという事実も、説明がつくようになるのである。心の発展のさまざまな方向は、一つの共通な根底から出発しているものであって、その根は、あらゆる過去の発達段階にまで達している。そこには動物との心的類似さえ存在しているのである。

純粋に心理学的にみれば、ここでは、表象(想像)し行動する本能における共通性が問題なのである。あらゆる意識的表象と行動とは、この無意識的範例の上に発達してきたものであって、いつもそれと関連しあっている。特に、意識がまだあまり高い明晰さにまで達していない場合、言いかえれば、意識がそのすべての作用において意識された意志よりもむしろ衝動に、まだ理性的な判断よりも感情によって動かされている場合がそうである。この状態は、原始的な心の健康を保証しているものであるが、しかしそれは、より高い道徳的行為を必要とするような状況が現われてくると、たちまち適応性を欠いたものになる。本能というものは、全体としていつも同じ自然状態のうちに埋めこまれている個体にとってしか、十分役に立つものではない。したがって、意識的選択よりも無意識的なものに依存する個人は、断乎たる心的保守主義に向う傾向がある。原始人の考え方が何千年にもわたって変化せず、あらゆる見なれないものや異常なものに対して恐れを感じる理由もそこにあるのである。場合によっては、彼らは不適応状態にみちびかれたり、それによって重大な精神的危機、つまり一種のノイローゼにおちいったりするかもしれない。異質なものをドウかすることによってのみ生じてくる、より高度の、またより広い意識は、自律的態度へと向い、古き神々に対する反抗へみちびく傾向もある。古き神々とは、それまで意識を本能への依存状態に止めた強力な無意識的範例に他ならないのである。』

基礎概念

道の諸現象

アニムスとアニマ

私事ですが、約30年前にC・G・ユングの夫人であるE・ユング(エンマ・ユング)の著書である『内なる異性 -アニムスとアニマ-』という本を読んだことがありました。

一方、同書に書かれた「アニムスとアニマ」は冒頭、“魂”と“魄”について書かれており、これは「どういうことなんだろー」と大変興味を持ちました。

内なる異性
内なる異性

この本の裏表紙には次のような紹介がされていました。(一部)

著者(C・G・ユング夫人)は、夢や神話、民話、文学作品等にあらわれたアニムスとアニマの典型的な形姿を研究することから、男性の本質、女性の本質を浮彫りにする。そしてこれら内なる異性を認識・承認し、人格全体の中へ組み入れることこそ、自己実現にとって不可欠の、また現代人にとって緊急の課題であることを指摘する。』 

●『この書によれば、無意識の諸形態には、神々ばかりでなく、アニムスとアニマも見出される。ヴィルヘルムは「魂」Hunという言葉をアニムスと訳している。実際、私が用いているアニムスという概念は「魂」にぴったり適合している。その字形は「雲」をあらわす字〔云〕と「悪魔」をあらわす字〔鬼〕から構成されている。つまり魂は、雲のようなデモン、高いところで息吹する雲というような意味であり、「陽」の原理に属しているから男性的なものである。死後、「魂」は天に昇って「神」つまり「みずから拡大して示現する」霊、または神となる。これに対して「魄」は「白さ」をあらわす字〔白〕と「悪魔」をあらわす字〔鬼〕で示されている。「魄」はアニマである。それは「白い幽霊」であり、地上的な身体にともなう霊であって、「陰」の原理に属している。したがってそれは女性的である。死後、「魄」は下方へ沈み、「鬼」すなわち「(大地へと)帰る者」、いわゆる亡霊あるいは幽霊になる。このようにアニマとアニムスが死後分離してばらばらになってしまうということは、中国人の意識にとって、両者がさまざまの作用をもつものとして、互いにはっきり区別できる心的要因であったことを示している。』

●『ヴィルヘルムがこの書物のことを知らせてくれる何年も前から、私は、「アニマ」という概念に含まれた形而上的仮定は別にして、この概念を、中国語の定義と全く類似した形で使っていた。心理学者にとって、アニマは何も超越的なものでなく、全く経験可能な実体である。というのは、中国語の定義もはっきり示しているように、情動的状態は直接的な経験なのであるから。しかしこの場合、なぜ人は、アニマ〔という人格化された像〕について語って、気分については語らないのだろうか。その理由は次のような点にある。情動作用は、範囲を限定できる意識内容、つまり人格の一部である。それらは人格の一部であるので、当然、人格的特徴をもっている。したがってそれは容易に人格化され得るのである。先にあげた例が示しているように、それは今日もなお進行している過程なのである。情動をかき立てられた個人は、中立的になることができず、ふだんの性格とは全くちがった、一定のはっきりした性質を示すようになる。その意味で、〔情動作用を〕人格化することは、無意味なつくりごとではないのである。この場合、慎重にしらべてみると、男性では、情動的性質が女性的特徴を示すことが明らかになる。「魄」についての中国人の教えは、私のアニマについての理解と同様に、こういう心理学的事実に属している。深い内省や恍惚の体験は、〔男性の〕無意識領域に女性的な形姿が実在していることを明らかにする。したがって「心」には、〔昔から〕アニマ、プシケ、ゼーレといった女性名詞が用いられているのである。アニマは、男性が女性に関してもつあらゆる経験からつくり出されたイメージ、ないし元型、あるいは沈殿物である。と定義することもできるだろう。したがってアニマ像は、きまって〔現実の〕女性に投影される。

●『一般的にいえば、私はアニマを無意識の人格化と定義した。したがってアニマは、無意識〔領域〕への橋渡し、つまり無意識に対する関係の機能としてとらえられる。こう考えた場合、われわれの書物の考え方は興味がある。この書は、意識(すなわち個人的意識)はアニマ〔魄〕から出てくるものと考えている。西洋的精神は意識の立場からしか考えないので、アニマを定義する場合には、私がこれまでやってきたような〔アニマをかくれた無意識の作用と解する〕やり方で、解釈しなくてはならない。ところが東洋は逆に、まず無意識の立場に立って考えるので、意識とはアニマのはたらき〔の産物〕であると見なしているのである! たしかに〔東洋が考えているように〕、意識は元来無意識から生じるものである。われわれ〔西洋人〕は無意識についてはほとんど考えようとしないので、「心(プシケ)」を一般に「意識」と定義したり、そこまでゆかなくても、無意識は意識の派生物か、それに従属する作用であるといつも考えようとする(たとえばフロイトの抑圧説)。しかし上にのべてきた理由からいっても、無意識の現実的作用を取り去ることはできないし、また無意識から現われてくる形姿は、そこに作用している〔心のエネルギーの〕量と考えるべきである。』

訳者解説 湯浅泰雄

ユングとヴィルヘルムの出会い

●『ヴィルヘルムは、1873年〔明治六年〕5月10日に南ドイツのシュツットガルトに生まれた。ユングより二歳の年長である。リヒアルトは1891年から95年までテュービンゲン大学で神学を学び、97年にプロテスタント教会の副牧師になった。1899年、ザロメ・ブルームハルトと婚約し、翌年結婚した。

1898年、ドイツは、清国から山東省膠州湾の租借権を得た。この帝政ドイツの中国進出政策が、はからずもヴィルヘルムを中国に結びつける機縁となる。翌1899年、26歳の青年ヴィルヘルムは、膠州湾に臨む青島の町に設立された教会の主任司祭として赴任する。以後、前後二十五年にわたる彼の中国生活が始まるのである。この時代は世界列強の東アジア進出の時期に当たっており、ヴィルヘルムが中国で暮らしていた間に、日清戦争、義和団事件(拳匪の乱)、日露戦争、辛亥革命、そして第一次世界大戦が起こっている。しかしヴィルヘルムの若い魂をひきつけたのは、動乱と革命にゆれ動くアジアではなく、古い東洋の精神世界であった。彼は、1909年に設立された徳華専門学校の教団に立って中国人子弟の教育に当たるかたわら、熱心に論語、老子その他の古典の翻訳に没頭した。ユングの思い出によると、あるときヴィルヘルムはユングに向かって、「自分は中国に居る間、ただ一人の中国人も洗礼しなかったが、そのことを大いに満足に思っているのです」と語ったという。彼が通常の宣教師タイプとちがって、深く中国文化に魅了されていたことがわかる。ヴィルヘルムは、近代中国の知識人が西洋文明の影響を受けて今や捨て去ろうとしていた儒教と道教の世界に沈潜して行ったのである。1911年、辛亥革命によって清朝は滅亡し、孫文が臨時大統領となったが、翌年、中華民国の発足とともに袁世凱が初代大統領となり、軍閥内戦の時代に突入する。このころヴィルヘルムは、1913年に、青島の儒教教会を設立している。しかし、1914年、第一次世界大戦の勃発とともに膠州湾は日本軍に占領された。大戦終了後の1920年、彼は二十二年にわたる中国での生活を終わって敗戦の故国に帰る。この年、ヘルツマン・カイゼルリング伯はダルムシュタットに、「叡智の学校」を設立した。ユングと出会ったのは、この会合の席である。1922年には、ユングに招かれてチューリヒの心理学クラブで易について講義している。

同じ1922年、ヴィルヘルムは北京のドイツ公使館の学術顧問に任命され、再び中国に赴く。二度目の中国滞在は足かけ三年、1924年までである。この間、1923年には、北京大学の教授に迎えられている。このころ彼は、労乃宣(ラウ・ナイ・シュアン)という道士の弟子になって、易を学ぶ。くわしい注釈つきの「易経」1 Ging、2 Bamde、1924 の名訳は、この老師の協力を得て出版されたものである。「最後のページの翻訳がすんで、印刷屋の最初の校正刷が来たとき、老師労乃宣は死んだ。それはあたかも、彼が自分の仕事を仕上げ、古い死滅しつつあった中国の最後のメッセージをヨーロッパに伝え終わったかのようであった。ヴィルヘルムは、この比類なき腎人の大きな夢をかなえたのであった。」1924年、任を終えて帰国したヴィルヘルムは、フランクフルト大学に設立された中国学講座の担当者となり、中国研究所を設立、その所長に就任した。機関誌は「中国学芸雑誌」Chinesishe Blatter fur Wissenschaft und Kunst(のちにSinicaと改名)という。しかし、彼の故国での活動の時間は短く、六年後の1930年3月1日、テュービンゲンで死去する。五十七歳であった。彼の業績は古典の翻訳が多いので、日本の中国学界ではあまり知られていないようであるが、彼はドイツの中国学の開創者ともいうべき人物であろう。

ユングはヴィルヘルムとはじめて会ったとき、つよい印象を受けたようである。「私が会ったとき、ヴィルヘルムは書き方やしゃべり方と同様に、外面的な態度も完全に中国人のように見えた。東洋的なものの見方と古代中国文化が、頭の先から足の先までしみこんでいた」と、ユングは当時の思い出を語っている易経の独訳が出たとき、ユングは早速それを入手し、ヴィルヘルムの解釈に満足を覚える。「われわれは、中国の哲学と宗教についてたくさん話しあった。中国人の心性についての豊富な知識の中から彼が私に語ったことは、ヨーロッパ人の無意識が私に提起していた最も困難な問題のいくつかを解明してくれた。他方、無意識に関する私の研究の結果について、私が言わねばならなかった事柄は、彼には何の驚きも引き起こさなかった。というのは、彼が中国の哲学的伝統の占有物と考えていた事柄を、それらの中に認めたからである。」こうしてユングは、かつてグノーシス主義の研究に求めて得られなかった自己の学問的足場が、東洋思想の伝統の中に古くから伝えられていたことを感じるに至るのである。

1928年、ユングは、イメージが浮かんでくるのに任せて一つのマンダラを描いていた。できあがった形を眺めながら彼は、どうしてこのマンダラはこうも中国風なのだろう、と自問した。表面的にはそうもみえなかったが、そのように感じられてしかたがなかった。それから間もなく、ヴィルヘルムからユングの許へ「黄金の華の秘密」の独訳原稿が送られてきた。それには、ユングに対して心理学者として註解を書いてほしいという手紙がそえられていた。原稿をよんだユングは、深いおどろきにうたれる。マンダラのイメージについて彼が模索しつつあった考え方に対して、そこに思いがけない確証が与えられていたからである。「これは私の孤独を破った最初の出来事だった」と彼はのべている。「『黄金の華の秘密』という本を読んだ後に、やっと錬金術の性質の上に光がさし始めた。……私は錬金術の原典をもっとくわしく知りたいという望みにかき立てられた。私はミュンヘンの本屋に、錬金術の本を手に入れることができるものは、皆知らせるように言った。」ユングはこの深いおどろきを記念して、自分の描いた中国風のマンダラの下に「1928年、この黄金色の固く守られた城の絵を描いていたとき、フランクフルトのリヒアルト・ヴィルヘルムが、黄色い城、不死の身体の根源についての、一千年前の中国の本を送ってきてくれた」と書き記した。本書はこうして、翌1929年に出版されたのであった。

以上のように、この書は、ユングが彼自身の理論的また思想的立場を確立する機縁を与えた書物である。この書によって彼はまた、ヨーロッパの精神史に対する彼の基本的見解を確立するに至る。古代ローマのグノーシス主義と近代ヨーロッパを結ぶ失われた環が中世錬金術の中にあることに、彼は気づいたのである。西洋精神史に関する彼の最初の著作「心理学と錬金術(1944年)は、これが機縁になって生まれたものである。この書の中で、彼はこう回顧している。「私はマンダラ象徴の生成過程とその像について、二十年来、私自身の経験から得たたくさんの材料に即して観察をつづけてきた。(はじめの)十四年間、私は、自分の観察について先入見を下さないために、それについて執筆も講演もしなかった。しかし、1929年にリヒアルト・ヴィルヘルムが、「黄金の華」のテキストを私にみせてくれたとき、私は研究結果の一部を公表する決心をしたのだった。」このように、本書はユングの思想形成にとって重要な意義をもつ書物であり、したがってまた、深層心理学の観点から東洋思想について考える場合、よい手がかりを与える書物でもある。』

※シュツットガルト

リヒアルト・ヴィルヘルムが生まれた南ドイツのシュツットガルトは、私にとって思い出の地です。

また、シュツットガルトといえば、ドイツブンデスリーガの1部に所属する名門チームがあります。浦和レッズに在籍していたギド・ブッフバルトや日本人選手では、岡崎慎司、長谷部誠、今は遠藤航がキャプテンとして活躍しています。 

サッカーワールドカップ カタール大会 ドイツ戦
サッカーワールドカップ カタール大会 ドイツ戦

画像出展:「au Webポータル

11月23日のサッカーワールドカップ カタール大会の初戦、強豪ドイツを2-1で撃破し、歴史的な逆転勝利となりましたが、遠藤 航 選手のチームへの貢献は素晴らしいものでした。

確認したところ、遠藤選手が浦和レッズに在籍していたのは2016-2018年でした。

そのシュツットガルトは、私の初めての海外出張先でした。

最初の営業はCADという設計支援ソフト(ME10)を販売する部門だったのですが、そのソフトの開発・製造拠点がシュツットガルトのボブリンゲンという町にありました。なお、ME10という2次元CADは、調べてみたところ、CoCreate社を経て2007年にPTCに買収されCreoという製品群の一部になっていました。

出張は新製品の研修がメインだったのですが、ご褒美旅行も兼ねていました。これは日本だけでなく、世界的に業績が好調だったためです。そして、その研修会はモナコで行われました。モナコといえば、高級リゾート地であり、F1のモナコグランプリは特に有名です。我々が宿泊したホテルはローズ・モンテカルロ(現在はフェアモント・モンテカルロです。ローズ・ヘアピンとして有名ですが、このホテルに泊まれたのは灌漑深いものがありました。

ローズ・ヘアピンとホテル
ローズ・ヘアピンとホテル
旧ローズモンテカルロ
旧ローズモンテカルロ

中央にとても邪魔なヒトが立っていますね。どいてほしい。

旧ローズモンテカルロの室内
旧ローズモンテカルロの室内

まさか、ローズモンテカルロに泊まれるとは思ってもみませんでした。窓の外は青く静かな地中海の海が広がっていました。

そして、開発・製造拠点のシュツットガルトはモナコの後に訪問しました。シュツットガルトにはメルセデスベンツ・ミュージアムがあります。小さな町のボブリンゲンは明るく綺麗な素敵な町で、とても穏やかな気持ちになりました。

メルセデスーベンツ・ミュージアム
メルセデスーベンツ・ミュージアム

シュツットガルトといえば、メルセデスーベンツです。

Mercedes-Benz Museum Stuttgart

ボブリンゲンの休日
ボブリンゲンの休日

ボブリンゲンの休日です。何かのフェスティバルが開催されていたようでした。

ユングと共時性2

ユングと共時性
ユングと共時性

著者:イラ・プロゴフ

訳者:河合隼雄、河合幹雄

出版:創元社

発行:1987年9月

目次は”ユングと共時性1”を参照ください。

 

Ⅸ 共時性の働き

●『共時性原理は、非常に多様な事象のなかに表出されていることがわかる。たとえば、ある人が、夢あるいは一連の夢を見、そしてそれが、外的事象と符号することがわかる。ある個人が、何か特定の願いをするか、あるいは、それを、強く望み、希望するかしており、そして、何か説明不可能な方法でそれが起こる。ある人が、他の人、あるいは何か特殊な象徴を信じており、その人がその信仰のもとで祈るか黙想するかしているときに、身体的な治療あるいは他の「奇跡」が起こる。人間のいるところにはどこでも共時的事象が起こるのである。そして、実のところ、ひとたび見つけるべきものを知ったならば、その数は、これまで予想されてきたものよりはるかに大きいことに気づくことになろう。

すべてのこうした事象のなかでは、強い元型的要因が、ヌミノース[事象には説明し難い部分が存在する。神への信仰心、超自然現象、聖なるもの、先験的なものに触れることで沸き起こる感情]な方法で働いている。意識が利用できるものを越えた知識を与えうる夢は、必然的に、心の深層にあるイメージを含んでいる。願望の力への信仰は、人間の原始的な心の奥深くに達する。それは、魔術師の原初的イメージの効力を説明する鍵である。信仰の根本的な体験は、その形や対象がどのようであっても、常に、無意識の最深レベルに達するものである。このために、情動的な強さがヌミノースで元型的な要因のまわりに生じ、その結果、それに相応するエネルギーの退潮、すなわち、心の他の部分での心的水準の低下が生じる。これが、心が時間のパターンを反映するようにする「低下」の心理学的メカニズムである。これを認識することによって、個人は共時的事象と関係をもつことができる。』

●『ユングは、自分の経験として次のように述べている。超心理的事象は、「ほとんど常に、元型的コンステレーションのなか、すなわち、元型を活性化させた、あるいは、元型の自律的行為によって呼び起こされた状況のなかで起こる」。元型の強さは、それ自身の要求と性質をもつ状況を明白につくり、そしてこれらの性質は、その元型が効力をもつようになる時に形成するパターンのなかで、表出される。「心的水準の低下」を通して生じる。「自己」のなかでの心的反映は、元型に符号した形をとる。』

●『ユングの、より大きな概念の本質は、元型は、因果律によって作用するのではないことである。実際、ユングが、因果律と並ぶ別の原理の可能性を研究する必要を感じたのはまさに、元型は因果律以外の何かに従うことに気づいたときであった。かくしてユングは、共時性の仮説の定式化に導かれたのである。

この外見上の対立の背後にある原理を理解するために、われわれは、共時性を全体としてのマクロコスモスのなかで作用する原理と考える、より大きな見地を心に留めなければならない。あるそのときを横切って共時性に形成されるパターンは、全宇宙を包括する。これは、一般原理としては正しい。そして、哲学的に見れば、それはライプニッツに帰する。しかし、この一般文脈のなかには、そのパターンに関係する個人的存在があり、その人生と行為は、そのパターンを表現する。

個人のミクロコスモス的生は、マクロコスモスの、より大きな一般的パターンの一側面である。にもかかわらず、自分を取り巻くマクロコスモスのパターンを表わすことに従事している個人は、自分の人生のなかで、明らかに合理的に決定された行為によって、それを行なっている。その人は、意識的に決定された目標に向かって動き、また、因果律による思考を基礎にして自分の目標を目指して進む。

このように、人間の人生の展開は、二つの別個の次元、つまり存在の二つに分離した次元上で同時に起こる。第一は、自分の人生、動機、行為に対する個人的知覚である。この次元は、思考と情緒によって起こり、原因と結果を、現代のように合理的に考えるにしろ、原始的魔術のように物活論的に考えるにしろ、原因と結果というものを仮定した上で知覚できる目標に向かって動く。

他方、第二の次元は、個人以上のものである。それは、共時性が動く、トランスパーソナルなマクロコスモス的領域である。各特定の瞬間に時間軸を横切る宇宙のパターンを含むこの領域内では、ユングが、元型の多様な特性、そのヌミノース、それらが活性化される方法、それらが心の平衡をひっくり返す効力、そして、心の他の内容をそれらのまわりのコンプレックスに引き込む布陣を行う特質を分析するとき、ユングが明らかにしようと求めているのは、これらの規則性である。』

ヨガ
ヨガ

画像出展:「ヨガが丸ごとわかる本」

『つまりヨガとは、「本当の自分」は“全宇宙”と同じであり、“全宇宙”は「本当の自分」でもあるという心理に気づくことがヨガの最終境地である。』

本文に出てくる。”マクロコスモス”、“ミクロコスモス”の文面を見たとき、以前のブログ”ヨガ”の内容を思い出しました。この内容はヨガの考え方に近いもののように思います。

 

●ユングは共時性を人間の経験領域の中に位置づけることに主眼を置いたと思われるかもしれないが、実は、反対であった。ユングは物理学者を説得するために努力した。ユングの晩年における共時性に関しての対話は、まさに物理学者たちとのものであった。それはユングが共時性を人間の研究に限定しない全科学に関わる知識の一般原理として打ち建てることに、次第に興味を持つようになっていたからである。

ユングは研究の最晩年、最終的に物理学と心理学は統合されるという確信を持っていた。ユングの見方によると、心の深層心理的概念と物理学者の原子の見方との間の一致によって、二つの分野のこの結合は、現実的可能性をもっている。原子の深層に閉じ込められたエネルギーが解放され得るならば、人間の心の深層にあるエネルギーもまた解放されるのかもしれない。

●ユングは共時性が科学の一般原理であることに強調点を置いたので、個人の生涯や超心理的現象や多様な社会的経験の領域における共時性の存在を記録するのを犠牲にして、一般原理であることを強調する傾向があった。これらの領域に対する共時性の関連はきわめて重大であるが、ユングは、かろうじてその可能性を示しただけである。心の深層経験に関する共時性の役割は、人間の生の研究にとってものすごく意義深く、それは確かに、共時性原理のさらに一般的で広い考察の基礎として重要なものである。

●ユング自身は共時性の人間的な基礎をあまり強調しない立場に身を置いていた。ユングは全体としての自然科学や理論物理学に深層心理学を結合するという、より大きな可能性にあまりにも魅せられたため、研究の必要がある人間的要素への注意が弱まるままにしておいた思われる。共時性についてユングのいくつかの議論において、誤解や不明瞭さが指摘されるのはそのためと考えられる。

●元型は個人と非因果的秩序原理とを、心的経験を通して結合させる可能性を担っている。

共時性につながった素材は人々の人生経験の中にある。なぜなら、ユングは深層心理学に照らしてそれらを観察していたからである。この素材はユングに共時性を示唆し、個人の運命を深く研究するには、因果律を越えた新たな展望が必要であることを認識し、この概念を発表したのである。

Ⅹ アイシュタインとより広い見解

●『精神と肉体の関係についての疑問が、この共時性の定義には生じる。ライプニッツの抽象的な定式から超心理学の実験的研究まで、これまで論じてきたポイントのうち数点が、この文脈において理解されるならば、最終的に、精神と肉体の問題の解決につながるかもしれない。これらの研究分野には、大きな可能性が開かれている。』

●『ユングは、自分の研究と物理学との関係について書いたなかでは、ニールス・ボーアの思想と関連させて自分を位置づけることを好み、アインシュタインには、ほとんど言及していない。しかし、私とユングの個人的な議論のなかで、ユングは、アインシュタインがチューリッヒで研究しており、しばしばユングを訪れていた今世紀初頭頃のことを私に語っている。それによると、アインシュタインは、よく昼食をとりにきたものだし、その際に、ユングとアインシュタインは、長い議論に陥ることがあったそうだ。

ユングは、生涯のこの時期において、まだ自分の概念を発展させ始めたばかりであり、無意識についての自分の新しい概念をアインシュタインに伝えることには困難を感じていたように私には思われた。ユングは、いくぶん見くびった感じで、アインシュタインは、なんといっても「分析的」な精神の持ち主だと語っていた。ユングのこの言葉は、ユングが、アインシュタインは象徴的次元の体験についてはあまり才能がないと感じていたことを意味している。

このことに関しては、アインシュタインの個人的な手記が最近公開されたことによって、夢とイメージが、アインシュタインの創造的な生涯において非常に重要な役割を果たしていたことが明らかになったことに留意するのは興味深い。あの昼食時の対話は、ユングが思っていたよりも益があったのかもしれない。とりわけ、アインシュタインが、心の深い水準に対する鋭い感性をもっていたことを知った上ではそう思われる。後ほどいつか、ユングとアインシュタインの関係について研究することは非常に実りあることだろう。それも特に、アインシュタインが、ヒンズー教と仏教の思想に興味をもっていたことと、相対性という概念の元型的特性についての彼の後の記述を考慮すればなおさらである。

ユングが、アインシュタインに重要な心理的影響を及ぼしていたかもしれない一方、相対性理論は、共時性についてのユング自身の考えの基礎と出発点となった。いくつかの点で、ユングは、相対性理論と対応する概念を、心という次元をつけ加えることによって発展させようと意識的に求めていたように思われる。

それゆえ、ユングは、エラノスの講演をもとにした論文のなかで、次のように書いている。

「物理学は、望めるかぎり平易に次のように論証してきた。それは、原子の大きさの世界では、客観的事実は、観察者を前提としており、この条件のもとでのみ、満足な説明図式が可能になるということである。このことは、主観的な要素が、物理学者の世界像に結びついていることを意味し、また、第二に、説明の対象たる心と、客観的時間空間の連続体との間には必ずつながりがあることを意味する」。ユングが、1940年代において、あらゆる人間の物質世界の認識には、物理学者がいかに客観的であろうと努めても、生来の「主観的な要素」があると述べていることは、明白なことと思えるかもしれない。しかし、その主観的な条件が、あらゆる状況に対する、新たな要因であるということは、相対性理論の概念の第一の要素である。それによると、最終的なものも完全なものも、けっして存在しない。なぜなら、常にもう一つの要因が加えられるべきだからである。そしてその要因というのが、主観的な要素、つまり観察者の意識なのである。』

●『相対性理論と易経の間には、越えなければならないみぞがある。そして、このみぞを越え、両者の間につながりを打ち建てることは、共時性の主要目的の一つである。このようなわけで、ユングは、物理的マクロコスモスの一般的解釈と、心理的ミクロコスモスの個別的研究の両方に関与する必要を感じたのであった。生命についての外見上の対立を、意味のある定式のなかで結びつけることは、共時性の根底にある目的である。共時性が、この目的を完全には成し遂げなかったとしても、共時性がその内容上、本性的に、外面と内面、つまり、物理的環境と心理的事象という対立物を結合するものであることは真実である。

●『ユングは、次のように書いている。「にもかかわらず、心と物理的連続体の相対的な、あるいは部分的な同一性は、理論上最も重要なものである。なぜなら、それは、外観上同じ標準で計れない、物理的世界と心的世界をつなぐことによって、おびただしい単純化をもたらすからである。もちろん、それは、何らかの具体的方法によってではなく、物理的なほうからは数学的な式によって、心理学的なほうからは経験上生じた諸仮定つまり元型によってなされている。その内容は、あるとしても、精神に現われ得ない」。これで、ユングが、コスモスの物理的領域と心理的領域を一緒に記述することを思いついた包括的見地が理解できる。物理的世界は秩序と様式化を数学によって与えられている。一方、心理的世界での、それに対比される構造化は、元型によってなされている。これが、これまで述べてきた、元型の「秩序づける」性質である。』

Ⅺ 共時性から超因果性へ

●『共時性原理を研究するにあたって、次に必要なステップは、研究の体系だったプログラムをつくることであることは明らかである。それによって、われわれは、人間の一生における共時的事象の発生を同定し、詳細に記述することができる。共時性の含蓄を、因果律と相対性理論と相並ぶ、宇宙の運行の解釈原理として理解することは非常に大きなことである。ユングの未来像が実現され、原子物理学が深層心理学と統一され得る日が来たあかつきには、それは、人間精神の歴史における実に偉大な瞬間となるであろう。その日に向けて、なされなければならない個々の研究は膨大である。そして、その研究のためのデータは、人の経験する事象のなかに発見されるはずである。これは、われわれにとって最もたやすく使える素材であるだけでなく、共時性は、人間の運命のあやを、個人の人生と人類の歴史の両方にわたって理解するために特殊な貢献をしている。ここが、共時性がティヤール・ド・シャルダン[フランスの地質学者、古生学者、思想家。物理的世界から生物的世界へ、さらにその上に思考力を備えた人間の世界がどのようにして成立してきたのか、またこの人類が何を目指して進んでいきつつあるか、という未来への展望をはらんだ雄大な諸科学の総合的世界観が展開されている]の精神圏の概念と結びつき、それを、知の本質的な次元で補完するところである。そして、ここはまた、超因果律という新たな概念が、共時性という抽象的原理を、人間性の謎の理解へと変えることを可能にする中軸的要因となる点でもある。』

●『アブラハム・リンカーンの生涯において共時的事象が起きているが、それは、共時性の本性とその未来について多くのことを語ってくれるであろう。リンカーンには、世界には、彼が為すべき、意味のある仕事が存在していることが暗にわかっていた。しかし、リンカーンは、その仕事をするには、自分の知性をみがくことと、専門的な技術を身に着けることが必要であることも認識していた。これらの主観的な感じと戦うなかで、リンカーンの置かれたフロンティアの環境にあっては、専門的な研究のための知的な道具を見つけることは非常に困難であるという事実があった。リンカーンが、自分の願いはけっしてかなえられないだろうと信じていたとしても、もっともであった。

ある日、見知らぬ男がリンカーンのところに、がらくたを一杯入れた樽をもってやってきた。その男は、リンカーンに、自分はお金が必要であることと、リンカーンがその樽を1ドルで買ってくれたら非常に助かるであろうことを述べた。

その男は、樽の中味はたいした価値のないものだと言った。それらは、古新聞や他のそのような類のものであった。しかし、その見知らぬ男は、なんとしても1ドルが必要だった。その物語によると、リンカーンは、親切な性格だったので、その中味が何かに使えるとは考えなれなかったにもかかわらず、樽と引き替えにその男に1ドルを渡した。リンカーンは、しばらくたって、その樽を整理しようとしたとき、その樽には、ブラックストーンの「注解」の全集がほとんど入っていることに気づいた。リンカーンが、法律家になり、ついに政界に進出することを可能にしたのは、偶然、あるいは共時的な、それらの本の獲得であった。

 

1830年代の$1.00 は、2021年では$26.30でした。

画像出展:「AbeBooks

Commentaries on the Laws of England, In Four Books. 14th ed

Blackstone, Sir William

$1,000.00で販売されていました。

 

 

リンカーンの生涯の内には一本の連続した因果の鎖が働いていた。それは、運命についてリンカーンに暗示を与え、また、限られた困難な環境の中に生きることに絶望を感じさせた。同時に、その見知らぬ男の生涯のなかにも、因果的なつながりがあった。その男は、不景気がつのって、目にとまる自分の持ち物は、何であれ1ドルで売らなければならなかったのである。事象のこの二つの筋をつなぐ因果関係はなかった。しかし、ある意味のある時に、それらは共に起こった。このことは、予期されない結果を引き起こしたのであるから、共時性のなかの超因果的要因の働きであった。

リンカーンが、ふとしたことからその樽を買うことによって、ブラックストーンの「注解」を手に入れたことは、人間の生涯のなかで共時的事象が発生することの一例である。これは、共時性の一例にすぎないけれども、共時性が最終的に、どれほど豊かな知識を与えてくれるかを示しているであろう。共時性は、予期できない仕方で、それらがあると最も予期されない所に存在しているのであろう。しかし、リンカーンのように、われわれが、その時の統合性に誠実であれば、ユングの直観したものがわれわれ全員の知識になるであろうと信じるに足る理由が存在している。』

まとめ

ユングの共時性に関する研究は20年以上におよび、その発表は75歳目前であった。しかしながら、それは未完成なものであり、科学的にいかがわしいものと揶揄された。それでも勇敢に立ち向かったのは、個人の運命を深く研究するには、因果律を越えた新たな展望が必要であることを確信したためである。

共時性とは、相互に因果関係がない二つの分離した事象が同時に起こること。それらは無関係であるにもかかわらず同時に起こり、しかも、それらは互いに意味深く関係し合っている。また、共時性は人間の運命の本性に関連する教えへの扉を開く鍵となるとされる。

心と物理的連続体の相対的な、あるいは部分的な同一性は、理論上最も重要なものである。なぜなら、それは、外観上同じ標準で計れない、物理的世界と心的世界をつなぐことによって、おびただしい単純化をもたらすからである。もちろん、それは、何らかの具体的方法によってではなく、物理的なほうからは数学的な式によって、心理学的なほうからは経験上生じた諸仮定つまり元型によってなされている。

ユングの晩年における共時性に関しての対話は、まさに物理学者たちとのものであった。それはユングが共時性を人間の研究に限定しない全科学に関わる知識の一般原理として打ち建てることに、次第に興味を持つようになっていたからである。

共時性の含蓄を、因果律と相対性理論と相並ぶ、宇宙の運行の解釈原理として理解することは非常に大きなことである。ユングの未来像が実現され、原子物理学が深層心理学と統一され得る日が来たあかつきには、それは、人間精神の歴史における実に偉大な瞬間となるであろう。

感想

『時間を水平に横ぎり、そして、本来垂直である因果のカテゴリ(時間的な連続性)が適用できないパターンから、あなたが求めていた回答をふと見つけたという新たな事実が現われる。明らかに、この二組の出来事の間の、どのような因果関係も論証することはできない。ただ、ある種の意味深い関係が、それらの間に存在する』

友人等との会話だけでなく、散歩をしていて、お風呂にはいっていて、あるいは本を読んでいて、ふと気づく瞬間があります。「閃き💡」という表現が最も近く、垂直思考の因果を水平に横ぎる感覚ともいえるかもしれません。そして、その「閃き💡」は全く忘れていた過去の何かの琴線に触れたかのように浮かび上がってくる感覚です。その「閃き💡」が流れを大きく変えるケースは少なくないように思います。場合によっては、人生に影響を与える可能性もあると思います。

宇宙の大きさは無限のように感じます。一方、原子より小さな量子世界は不思議な世界です。大きな宇宙も小さな量子の世界も間違いなく実存し、我々の命に関わっています。

ユングの母方の祖父母は霊能者です。私も完全とは言い難いのですが、その存在を肯定しています。霊能者が有する能力がどこから生み出されるのか分かりません。心が関係しているのでしょうか。そこには時間・場所といった物理の世界と心の世界が関係しているように思います。そして、一般人の常識といわれる範疇では理解できないものが実在しているように感じます。

ユングは、『心と物理的連続体の相対的な、あるいは部分的な同一性は、理論上最も重要なものである。』と説いていますが、晩年、ユングが物理学に傾倒されたという事実は大変興味深いことでした。

ユングと共時性1

今回の「ユングと共時性」は9月30日、10月7日の「宗教と科学の接点」の続きともいえるものです。この本の中で最も気になったキーワードが“共時性”だったのですが、今回の「ユングと共時性」という本の中に、知りたいことが書かれているのではないかと思い購入しました。

ユングと共時性
ユングと共時性

著者:イラ・プロゴフ

訳者:河合隼雄、河合幹雄

出版:創元社

発行:1987年9月

 

C.G.ユング
C.G.ユング

画像出展:「ユングと共時性」

ユングの晩年、『非因果的関係の原理としての共時性』を発表したころのユング。

 

 

目次

Ⅰ 多重的宇宙の解釈 ―ユングとティヤール・ド・シャルダン―

Ⅱ 共時性と科学と秘教

Ⅲ ユングと易をたてたこと ―個人的経験―

Ⅳ 共時性の基礎

Ⅴ 因果律と目的論を越えて

Ⅵ ライプニッツと道

Ⅶ 元型と時間の様式化

Ⅷ 超心理的事象の共時的基礎

Ⅸ 共時性の働き

Ⅹ アイシュタインとより広い見解

Ⅺ 共時性から超因果性へ

注)Ⅶには触れていません。

Ⅰ 多重的宇宙の解釈 ―ユングとティヤール・ド・シャルダン―

●科学は限定された合理主義の言葉で表現されるものではなく、科学は物事を知ること、すなわち、人間の行なう知識の探求すべてと考えられる。この考え方(精神)によって、ユングは、理論物理学の研究と彼自身の深層心理学の研究の間には、一致、少なくとも相似が存在するという直観により、自ら“共時性(synchronicity)と名づけた「非因果的連関」の原理を1920年代後半に形作り始めた。

●共時性の概念は、元来彼の、深いレベルでの自己(Self)の研究から生まれたものである。それも特に、人生という旅の中で運命を変えることに関わる、いくつかの経典および注釈―ことに東洋のもの―の中に彼が見出した解釈法と、夢の中での出来事の進展との相互関係にユングが注目していたことによるものである。

●ユングが自分の仮説を系統立てて説く契機となったのは、物理学者ニールス・ボーアヴォルフガング・パウリとの接触と、アルバート・アインシュタインとの早くからの親交であった。ユングは彼らと対話するうちに、物理学の世界での基本単位としての原子と、人間の“心(:サイケ[psyche])”が等価であることに気づいたのである。特に人間の深層についての特有の手がかりとして発展させた、“心”という概念に、原子をたとえる時に、その一致度は特に強くなる。

第五回ソルヴェイ物理学会議
第五回ソルヴェイ物理学会議

画像出展:「シュレーディンガー その生涯と思想」

第五回ソルヴェイ物理学会議

・期間:1927年10月24日~10月29日

写真は中央の列向かって右端がボーア、3列目右から4人目がパウリ。前列右から5人目がアインシュタイン。

 

 

 

●ユングの研究のひとつの根本的な結果は、共時性の概念である。

●ユングは共時性を科学的な世界観におけるギャップを満たす手段として、ことに因果律に対するバランスとして提出した。共時性は、物理的な現象と同様に非物理的な現象をも含んでおり、これらの現象を、これらの相互の間の非因果的であるが意味のある関係のなかに認めることである。

核心はユングが、人間の心は意識のレベルよりさらに深い層で関わっている現象を、理解可能とする説明原理を打ち立てることに従事していたことである。

●我々はユングから発展性のある二つの仮設を得ている。精神圏の内容についての仮説と、精神圏の作用原理についての仮説である。

Ⅱ 共時性と科学と秘教

●ユングは共時性原理についての論議を、理論物理学の枠組みのなかに位置づけ、そして、他方では科学以前の時代の種々様々な秘教やオカルトの教えを、宇宙のなかに共時性原理が存在することに対する人間の直観的理解を暗示するものとしてして言及している。合理的な科学と非合理的な秘教という二つの知識の源泉は、相いれないように思えるが、これらは両立する。ユングの目的の一つは、それらの共通の特質と相互の関連を、我々に見させることにある。

しかし、異質な材料を一つの議論の中に入れ込んだために、ユングの理論は、より因習的な人々にとっては、混乱を起こさせるもの、疑わしいものとなった。そして、そのことにより共時性はほとんど注目されなかった。

●秘教の教えと手法の多様な形式へのユングの興味は、それらが、若干のあいまいな方法で人間の経験の「内面」を表現しているというユングの洞察に根差してきた。それらは文字通りに受け取るべきではなく、夢のようなものとして受け取るべきであり、それ自身の生来の象徴的意義の文脈の中で自らを語る機会を与えるべきものである。ユングはまさに、秘教やオカルトに、各々の知恵の固有のスタイルを語り、露にする機会を与えようと企てた。彼はこれを錬金術(Alchemy)から禅(Zen)へと文字通りAからZに至る、これらの主題についての本を、解釈し紹介することによって行った。そのなかには、占星術、死者の書、タロ、易経、そして他の多くの古代東洋の原始的な教養が含まれていた。

共時性は人間の運命の本性に関連する教えへの扉を開く鍵となることができる。この点において、共時性はこの世の生における神秘的な次元に対する鍵であるだけでなく、その背後に存在する現代科学の経験に対しても、鍵となるという特別な利点をもっている。

●ユングは著書の中で極めて率直な記述と、後からその大胆な彼の論点の衝撃を柔らげる否認と緩和とが交互に現れる。このことがユングの著作に認められる曖昧さの原因となっている。

この本(「ユングと共時性」)は、ユングの共時性の概念を、より大きな哲学と理論的根拠とに関連させて記述し説明し、そして、この複雑な問題の本質を可能な限り明確に紹介するためのものである。

●共時性は二つのレベルで重要である。理論レベルでは、展開する宇宙のなかでの人間の経験の本質に関する、意識の新しい次元を開く。また、経験的レベルでは、人間の人生と運命の最も捉えがたい相のいくつかを、事実に基づいて研究する道を与えるものである。

Ⅲ ユングと易をたてたこと ―個人的経験―

●ユングが研究したすべての秘教のなかで、易経は、最も明確に共時性原理を表出しており、また、最も洗練された形式でそれを応用しているものである。

●リヒャルト・ヴィルヘルムが翻訳した中国の錬金術の本が「黄金の華の秘密」である。ユングがこの本に払った苦心は、主要な心理学的概念を発展させるための重要な源となっている。特に、ユングが「共時性」を初めて公に使ったのが、1930年のリヒャルト・ヴィルヘルムの葬儀での賛辞の中であったことはとても意義深い。

黄金の華の秘密
黄金の華の秘密

共時性の理解のためには必須ではないかと考え、思い切って購入しました。次の課題です。

●因果律とは、ある一つの出来事が、他のことではなく、どのようにして起こるのかという作業仮説といえる。それに対して、共時性とは相互に因果関係がない二つの分離した事象が同時に起こること。それらは無関係であるにもかかわらず同時に起こり、しかも、それらは互いに意味深く関係し合っている。これは、易経の基礎となる原理である。

●易経の中には二つの要素がある。一つは、個人の人生のその時の状況である。他方は、コインを投げてそれを定められた形式によって古代の書物に関連づける行為である。明らかにこれらには因果的関係はなく、しかも互いに意味深い関係を持っている。それらが会う瞬間に、何か普通でなない重要な価値が生じるのである。

表面的には、それは偶然のように見える。しかしユングにとってそれは、明らかに偶然をはるかにしのぐものであり、しかも因果関係でもなかった。明確な原因は捉えどころがないままだが、ユングにとっては中国で何世紀にも渡って維持され続けた原理が、何か重大な秘密を持つに違いないことは明白に思われた。

●易経には基礎となる深くて言葉にするのが難しい知恵が存在し、それゆえ易経の経験は、現代人によって探求されるべき重要なものであることを、ユングは確信していた。

Ⅳ 共時性の基礎

●ユングは共時性とは何かということをうまく伝えることはできなかった。それはつかまえどころのない、抽象的かつ普通とは言えない原理を分かりやすく説明することができなかったためである。

●ユングが取り上げた非因果的解釈の中には、占い、占星術、託宣[神が人にのり移ったり夢に現れたりして意志を告げること]、タロなどが含まれていた。これらは非常に広範囲にわたり、また、現代には受け入れ難く、研究は思うように進まなかった。それらを科学的に正当な理由に基づいて研究することさえ疑いをかけられていた。

しかし、ユングは自分が自分の患者の無意識の非合理的働きを辿る方法を学びたいならば、これらの前科学的な手順を洞察することが必要であると確信していた。ユングが学問上の愚弄に勇敢に立ち向かい、科学的にいかがわしい主題に関わったのは、彼の心理学を満たすために必要なことだったためである。

●ユングは共時性について、自分の行なったことを経験的に観察すること、自分のゼミの中で様々なアプローチすることによって、20年以上もの間、共時性について研究し続けた。そして、ユングが「非因果的関係の原理としての共時性」についての小論を書き始めたのは、75歳になろうとしていた時であった。

ユングは実験的レベルにおいても概念的レベルにおいても不十分であることは理解していたが、ユングの共時性の概念が論議され、示唆や批判を受けることができるように、世に送り出さなければならないと感じていた。つまり、ユングの「非因果的関係の原理としての共時性」は未完の研究、試案として書かれていることを理解すべきである。

●共時性は日常生活の中で経験される。ユングの著書には、共時性を示す多くの事例や逸話が載っている。

●『仮定的な例として、あなたが、ある特定固有の問題について考え続けていたが、それについて自分が考えているということを誰にも語らなかったとしてみよう。そこへ、だれかがあなたの問題に無関係で全く独立な理由で、あなたに会いに来るとしよう、そして、会話は、訪問の目的に従って進み、それから、あなたの問題について何も議論しないうちに、あなたが探し続けていた鍵を与える言葉が、ふと、予想外に語られたとしよう。

もし、われわれが回想によって、このような状況を振り返り、起こった事の意味を分析的に理解しようと努めるならば、明確な因果的連関を通して各々の出来事を突きとめるであろう因果の鎖をたどることは、いたって簡単である。因果律によってわれわれ、あなたが、その特定の問題にかかわるようになった「理由」をたどることができる。それで、われわれは、その日に訪れた特定の個人を、どのようにして知るようになったのか、その訪問の約束が、どのようにしてなされるようになったのか、そして議論の筋が、どのようにして発展するようになったのかを、分析的にたどることができる。すべてのこれらの事を、やりつくすことは可能であろう。そして、それらが因果律の用語に還元されたとき、それらは、あなたの人生の発展という特定の見地から再構成できるので、その状況の基礎を与えることになろう。

それに対応して、因果分析の類似した筋が訪問者側の見地からもたどることができるであろう。すなわち、彼をあなたに訪れさせた原因となった出来事の連なり、実にあなたの興味を引いた知識を、彼はどのようにして得たのか、どのようにしてまさにその特定の時間に、あなたと約束するようになったのか、どのように「偶然」に、あなたが興味をもっていると彼が予想しなかった問題について語るようになったのかである。これもまた、すべて因果的用語で記述することができるであろう。

あなたと訪問者が出会うとき、それぞれは、因果的に説明できる過去のなかに広がる背景をもっている。そして、それらすべてが、あなた方が出会う特定の点で出会うことになる。あなた方が握手して会話を始めるところへの到着は、発展の縦の線の頂点を示している。その発展は、過去からの絶え間ない流れのなかでの動きであり、また、あなた方それぞれに個別の作用である。なぜなら、あなた方は、それぞれ自身の経験の枠組みと重みによっているからである。

しかし、あなた方が会った瞬間、過去のこの原因すべては、現在の瞬間のコンステレーションの一部、すなわち、時間を水平に横ぎり、そして、本来垂直である因果のカテゴリ―つまり時間的な連続性―が適用できないパターンの一部となる。どういうわけか、このパターンから、そこに、あなたが自分が求めていた回答をふと見つけたという新たな事実が現われる。明らかに、この二組の出来事の間の、どのような因果関係も論証することはできない。ただ、ある種の意味深い関係が、それらの間に存在することだけが、同様に明らかである。

それが符号であったと言うことは全く正しい。しかし、明確にするためには、それは意味深い符号であった、と付け加えなければならない。なぜなら、出来事の交差した連なりは明確な意味をもっていたからである。本来因果律は、符号という事実を含まないものであるから、われわれが最大限言えることは、原因や結果である出来事は、意味深い符号が起きる生の素材を供給するということである。これらの符号の意義、すなわち、それらを単なる無関係な出来事ではなく、現実の符号とする、意味の特別な性質は、因果律によって跡づけられる背景にある要因からは決して導き出せない。それらは、時間的に連続でなく、何らかの方法で時間軸を横ぎるパターンに属している。この理由により、それらは、その本当の本性が何であれ、少なくともまちがいなく非因果的な原理を含んでいる。

ここに示した非常に簡単な例は、それに対応し、関係づけられ派生する局面がすべて考慮されたとき、人の経験の相当大きな領域を含んでいる。長い間、偶然、符号、願望成就、夢を通じての認知、祈りとその答え、信仰による奇跡と治癒、予知、そして同様な現象への疑問は、精神的な魔術の多様な形式によって説明されてきたか、あるいは、さもなければ迷信として片づけられてきた。しかし、量的に見るなら、これらの経験は、いわゆる未開あるいは後進社会だけでなく、われわれ現代西洋文明においても、日々に起こる出来事の非常に大きな率を占めている。

多くの例において宗教の歴史は明らかに、因果律を越えていてそれでもなお現実であるような出来事に基づいている。しかし、われわれは、宗教的な形の現象をはるかに越えたものが含まれていることを認識しなければならない。政治史の上においてさえ、それは表面的には合理的に導かれた決定や少なくとも外交上の認識に従う行為の場であるが、因果的説明ができない、多くの重大な出来事が認められるのである。経済レベルについての妥当性にもかかわらず、歴史についての決定論は、いったん人の運命というさらに大きな問題がもち上ったならば、浅薄で、はなはだ不適当なものとして捨てられなければならないことは、確かに、まさに本質的な理由によるものである。

われわれが、人間の活動の根底を深く研究するならば、宗教の主観性から政治上の動かせぬ事実、あるいは商取り引きの冷静な計算から個人的な親密な関係に至るまで、歴史のすべての側面において、社会の全構造は、社会と個人の作用を記述する厳密な「法則」を見つけるべしという強制を感じているために、これらの不愉快な非合理的事象の存在は、無視されなければならなかった。

知識のどのような標準をもってしても、これらの非合理的事象に理解を伴った説明をすることは、非常に困難であることを認めなければならないが、それは、それらを無視する十分な根拠とはならない。少なくともユングは、非合理性と非因果性が重要であることによってそのような現象が、非常に真剣な注目を受けることが肝要になっていることを感じていた。彼は、どのような種類の現象も無視することは正当でないという事実に加えて、そこには、それらの出来事の下に隠されている何か他の、より一般的な原理が存在すると感じていた。これが、非因果的関係をもつ共時性現象についての彼の研究の背後にある、問いの真意と予感であった。そして、それは、広大な含蓄をもつ共時性の概念へと至った。』

Ⅴ 因果律と目的論を越えて

共時性は、ユングが研究した第三の説明原理として現れる。三つとは、因果律、目的論、そして共時性である。ユングは無意識を説明するために目的論的見地を発展させたが、さらに共時性へと導かれた。この三つは全て、問題と状況に応じて用いられて、ユングの思考のなかにとどまってきた。目的論的見地は、彼の思考の中枢の位置を保つ。なぜなら、それは、因果律をそのなかに含み、しかも、共時性の問題へ直接に通じているからである。しかし、共時性は、他の原理と釣り合い、それらを補足する独立した原理である。

Ⅵ ライプニッツと道

共時性は本来、知的概念ではないけれども、過去に共時性を哲学的に説明した人物は膨大な数にのぼる。我々がしたように、ユングをヒュームとカントに関連させることの要点は、ユングの思想が現代西洋哲学の合理主義から現れてきた歴史的過程を示すことであった。しかし、西洋文化における共時性の重要な哲学的先駆者は、合理主義をはるかに越えた源泉に求めるべきである。それらは、ライプニッツによって代表される。

●共時性が関わっている範囲内で、ライプニッツの研究の最も意義深い面は肉体と魂の関係の定式である。学問的には彼の理論は「精神身体的並行論」として分類され、軽視されて、現代思想では哲学的には厄介物視されるほどになってきている。しかし、今や共時性原理の定式と、ユングが心の深い現象を観察することによって為した研究によって、我々はライプニッツの概念の隠れた含蓄のいくらかを理解し始めることができる。

ライプニッツと老子[中国春秋時代の哲学者。道教の始祖]はユングにとって共時性の概念の先駆者であり、源泉であったとすることは正しい。しかし、二つの間には意義深い違いもまた存在する。そしてその違いは、西洋思想の伝統的発展に関係してる。ライプニッツは無形の影響を自分の心に把握しようと努めるが、道教[儒教、仏教と並ぶ三大宗教の一つ。多神教であり、概念規定は確立しておらず様々な要素を含んでいる]はそれを把握しようとはせず、一部になろうとし、調和する自然の流れの時間の中に入ろうと努めるのである。

Ⅷ 超心理的事象の共時的基礎

●超心理学の現象の研究において、遠くの事象の知覚や未来に起こることの予見は、ユングは自明であるとする。

●ユング自身の人生と心理療法の中で体験した数多くの超心理的な事象は、自分の無意識と密接な関係のもとに生きている。ただ、この無意識との関係は、鋭敏な人格内のより広い認知力の意識的発展によるときと、精神病の場合のように、無意識が無統制に優勢になるときがある。

ユングは超心理的事象の存在は明らかであり、必要なことは超心理的事象を理解する何らかの方法を見つけることであるという意見を支持している。

●ユングの共時性原理は、超心理学の道程にそって更に先の地点に至っている。ユングは共時性原理のデータをまとめて解釈するための基礎の役を果たすことのできる作業仮説を試みている。

ユングは心のレベルを四つに分け、人間の認識力の様々なタイプを記述した。表層は自我意識、そのすぐ下が個人的無意識、その下でとても深いところまで達しているのが、トランスパーソナル[自己超越、トランスパーソナル心理学は、神との交感、宇宙との融合感など、人間の知覚を超えたものが人間の心理に与える影響を研究する学問。人間の普遍的な姿を求める]なレベルの集合的無意識。そして底にあるのが、自然そのものの領域に達している類心的レベルである。

●超心理学的研究のこの側面[超心理学現象の発生は、実験室外の環境では非常に大きい広がりをもつ]は、近年、明らかになってきている。その中で、最も注目すべきはガードナー・マーフィで、彼は、「自然発生的経験」が、超心理的現象の研究の中で重要であることを強調している。

「自然発生的経験」について述べることは、超心理的事象は、第一に日常生活の流れの中で起こるという認識を意味している。これは、もちろん、ユングが深層心理学者としての自分の治療研究を基礎として到達した結論である。多くの宗教についての研究によってもまた、ユングは心の元型的[人類に共通する動きのパターンであり情動を伴う]レベルでの象徴と、宗教史上で起こった様々な奇跡的体験との間の関連について、強い印象を受けた。

●自発性は共時性事象に重要な要素であるが、その自発性はあくまで非計画的なものである。そのため、超心理学の研究は非計画的人生経験の中で起こる現象を研究する方法を見つけなければならない。これは、多様な共時的事象を、社会生活の影響下で引き起こされるものとして研究する必要性を意味している。

●共時的事象は、宗教的伝統と神話の基礎となる「奇跡的」出来事に対する重要な糸口をもっている。

左は”EARTHSHIP CONSULTING”さまのサイトです。

「元型」について詳しく解説されています。

『「元型」(archetype)とは、人間に生まれ持ってそなわる集合的無意識で働く「人類に共通する心の動き方のパターン」のことである。分析心理学者C.G.ユング(1875-1961)が提唱した概念。』

手のひらツボ秘法3

即効 手のひらツボ秘法
即効 手のひらツボ秘法

著者:谷津三雄

発行:1990年9月

出版:マキノ出版

目次は “手のひらツボ秘法1”を参照ください。

 

『最近では、歯科治療をするさいにも、歯を含めた患者さんの全身的な健康管理が必要とされる時代になってきました。私が歯科治療に針、灸、漢方薬、それに手のツボによって全身の病気を治す高麗手指針法などをとり入れているのもそのためです。』

こちらは、日本歯科東洋医学会さまのサイトです。

『現代歯科医学の診査・診断法とは少し目線を変え、鍼灸・漢方・気功・食養をはじめとする東洋伝統医学療法を日常歯科臨床の一助となり得ると確信している歯科臨床家集団です。』

 

※腰痛に大変よく効くと評判の手の甲のツボを人さし指で押す刺激

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

腰痛は左右のどちらかの手の甲の骨の間に圧痛が現れる。

人体では腰の部分にあって、腰痛によく効く腎兪、大腸兪、環跳などのツボに相当するツボは、手の甲側の手首近くにある。

 

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

 

方法

・圧痛点を人さし指の先で強く押しながら骨にそって振動させる。

・中手骨と中手骨の間を順に手の甲の中央からやや手首の方に向かって人さし指の先で骨にそって皮膚を押しながら振動させていくと、腰に異常がある人はいずれかの中手骨と中手骨の間に、圧痛あるいはしこりがある。そうした反応があるところがツボである。

・圧痛やしこりが強く出ている側の手が治療の対象になる。

・ツボの位置をつかんだら、人さし指の先をツボに当てて、軽く押すようにしながら中手骨にそって振動させる。刺激は少し気持ちよく感じられる程度の強さで、圧痛やしこりがやわらいでいくまで刺激を続ける。目安は10分~15分である。圧痛が残っても15分以上は行わず、翌日、また行うようにする。

※しつこい不眠症でも知らぬまに眠りだす中指の先のツボへのつま楊枝刺激

●不眠の原因の多くは精神的ストレスが神経を高ぶらせ、イライラをつのらせることにある。

●手のツボを刺激することで心身はリラックスし、自律神経の興奮はおさまる。

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

①手の百会と太陽のツボの位置

・不眠症の治療には百会や太陽が有名である。

・手の百会に相当するツボは中指の先端の中央にある。そこをつま楊枝などで押したときに圧痛があるところがツボである。ツボを見つけたらボールペンなどで印をつけておき、そこを頂点として一辺が4ミリほどの正三角形を描くつもりで、あとの2点を指の腹の上部の両脇にとる。その2点辺りをつま楊枝などの先で押してみて圧痛を見つける。そこが太陽のツボである。ツボ刺激を数えているといつのまにか眠ってしまう。

・手のひらは交感神経が多く集まっており、そこを刺激すると過度に緊張した交感神経が抑えられ、副交感神経が優位になり入眠がしやすくなる。

※寝違えや首のこりの反応点は中指の背中にありそこに丸いボールペンの軸をころがせば治る

中指の背中、爪の生えぎわから第一関節までの部分は、後頚部に相当し風池、風府、天注などのツボがある。

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

①首すじのこるときに用いるとよく効くツボ

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

①角のない丸いものを用いてやる

・首に異常がある人は、飛び上がるほど強い痛みを感じることが多い。痛みがあったらさらに指の側面の爪の生えぎわと第一関節の間に同じようにボールペンの軸をころがしてみて、もっと強い痛みが出ることもある。一番強い痛みの個所が分かったらそこを中心にボールペンの軸を強く押しながら、10~15秒ころがす。

※耳鳴りや難聴は中指の先を指ではさんでひねればしだいによくなる

●耳鳴りは中指の先の部分を刺激する。まずは中指の先端の中央をボールペンのペン先で強めに押す。少し痛いようだったら左右どちらかにペン先をひねる。このような刺激を4、5回くり返す

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

①ボールペンの先を中指の先端に当て左右にペン先をひねる

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

①中指を痛いほど強くはさんでひねる

・次に、中指の指先と第一関節の間の側面をもう一方の手の人さし指と中指をひねって少し痛いぐらいに中指の側面を1~2分ほど刺激する。中指の先の両側には、耳のまわりにある耳門、翳風、完骨などと同じ効果をもつツボがあり、この方法で中指の側面を刺激すると、これらのツボがいっぺんに刺激できる。

・耳鳴りは難しい病気なので1日3回程、根気強く続けることが重要である。

手のひらツボ療法
手のひらツボ療法

著者:柳 泰佑

発行:1986年10月

出版:地湧社

 

この柳先生の本に関しては、「第一章 手指鍼術とは何か」の中から“鍼術との出会い”と“手指鍼術の誕生”、“てのひらとツボ”の3つをご紹介します。これを見ていただくと、柳先生の高麗手指鍼がどのように生まれたのかを知ることができると思います。

鍼術との出会い

『私が鍼術というものに関心を持つようになったのは、まだ幼い少年時代のことである。というのは、私が生まれ育った所は無医村だったのだが、急病人が出ると、私の祖父が出かけて行って太い針を刺してやっていた。すると病人は苦痛を訴えながらも、しばらくすると病気はうそのようにおさまるのである。私はその様子を子ども心にも深い好奇心をもってながめていたものだった。

ところが好運にも1963年から伝統的な体鍼術の研究をする機会に恵まれ、私は喜び勇んで鍼の勉強をはじめることに

なった。そこで東洋医学の基礎と鍼術の基礎を学んだのである。そして私は、学んだことを早速、救急療法として使用するようになり、その後、多くの人たちに、いざという時の救急処置法としてこれを教え伝えてきた。特にキリスト教の牧師、伝道師、そして信者のグループとは縁が深く、当時この人たちの間では私の教えた救急療法が広まっていった。

この体鍼を中心とした鍼術の効果は大変に大きなもので、大人はもとより子どもたちの治療にも大いに効果を発揮した。しかし体鍼の針による刺激は非常に痛いので、その苦痛のために泣き騒ぐ子どもたちの姿を見るにつけ、かわいそうに思うことが多かった。そこで子どもたちに対して、痛みがなく、しかも手軽に、その病気を治療する方法はないものかと研究を重ねてきたが、1968年に至って、中国の明代に著された「鍼灸大成」という書物の後編に、「保嬰神術」(小児按摩経)という項があることを発見し、私はすぐさまその研究を始めた。

この書物によると、子どもたちはたいてい言葉を上手に操れず、したがって痛いところはどこかをはっきり説明することもできない。その上、大人のように脈をみて診断することも難しい。そこで子どもの病気を診る時には、眼の色、顔色、泣き声などの様子から診断を下されなければならないとし、いくつもの例をあげながら具体的な診断の方法が書かれている。こうした診察の後に、手にいくつかのツボを定めて、指先で押したり揉んだり、圧迫したり擦ったりすることによって行う治療の方法が述べられている。

ちなみに、この療法の中心になるのは“三関法”という方法である。そのやり方は、①中指の先端に心点、②掌の中央に労宮点、③手首の脈の現れる所に列缺点の三点を決め、まず①心点を爪先で強く圧し、次に②労宮点を同じように圧し、続いて③手首の列缺点を肘関節の方に向けて押し上げるように擦るのである。これをリズミカルに右手、左手ともにそれぞれ10回ずつぐらい行う。これによって、すべての気運が順調になり、熱のある子には解熱作用を、胸の苦しい子には気を通す作用をする。

画像出展:「てのひらツボ療法」

三関法のための三つのツボ

私はその後、この方法で子どもたちの病気治療に多くの効果をあげるようになり、1971年にはこれを「小児手治療」という冊子にまとめて発行したこともある。(現在絶版)

子どもたちに対する手と指の刺激によるこの療法は、実際に行ってみて非常に優秀なものだということがわかったのだが、次第にこれを子どもたちの病気治療だけでなく、大人の病気治療にも応用できないものだろうかという考えが大きくなってきた。そこで成人にもこの方法を同じように簡単で、苦痛も与えず、副作用もなく、しかも危険がなくて手早く治療できるよい方法はないものかと、考えをめぐらせる日々が続いた。』

手指鍼術の誕生

『1971年の初秋の頃だったろうか。当時は常にもどかしさにかられ、思い悩んでいたものだったが、その日も考え疲れ眠りについた。ところが夜半12時を過ぎた頃に、突然右後頭部の風池と呼ぶあたりに激しい痛みが起こり、私は目を覚ました。後頭部のその痛みはとてもひどく、首を思うように動かすことさえできないほどだった。

私は急いで関連のツボを指圧したり、首の運動をしたりして痛みをとろうとしたが、反応がない。細い針を胆経にそって刺してみたが、それでもひどい痛みはおさまらなかった。それからしばらくの間は夢中になって薬にたよること以外の様々な方法をためしてみたが、痛みは一向におさまらなかった。

どうすればこの痛みをしずめて、ぐっすり眠ることができるだろうかと、痛む後頭部をかかえながら思いをめぐらせているうちに、ふと左手の甲に目が行った。

その時突然、「中指の先端を人間の頭と考えてそこに治療をしてみたらどうだろう……」という発想がひらめいた。それは突飛で、奇抜なアイデアのようだったが、結局、他の方法では全く効果がなかったのだし、わらにもすがるような思いでこの考えに基づいて試してみるしかなかった。

そこで手近にあったボールペンの先を使って、中指の先の頭に該当すると思われるところを圧してみた。はじめは特に反応点と思われるようなところは見出せなかったのだが、頭痛をこらえながらしばらくあちこちとためしていると、爪の生えぎわから右下のところにひどい圧痛点があるのを発見した。

画像出展:「てのひらツボ療法」

右後頭痛に対する反応点

圧痛点がわかったので、早速細い針をもってその圧痛点に刺し入れてみた。針を刺す時の痛みはあまり感じなかったが、不思議なことにその直後から後頭部の痛みが軽くなりはじめ、徐々に首も動かせるようになってきた。そして十数分の後には完全に痛みは消えておさまってしまったのである。

私はこの時はじめて、身体の病気に対する反射点、すなわちツボが、“てのひら”にも現れるという事実に確信を抱いたのである。

その後、私は熱心にこのような、“てのひら”のツボ=反射点を探求し、研究を重ねて、それを“手指鍼術”として体系的にまとめ上げたのである。』

“てのひら”とツボ

『ところで、私が手の甲を見ていてこのようなひらめきを得たのは、全くの偶然というわけではなく、東洋医学の基礎になる体壁反射という考えがその背景にあった。つまり、内臓やある器官に何らかの病変が生じると、そこと有機的な連関がある部位に圧痛点または硬結点などが現れる。例をあげると、胃病があれば胃の周辺に硬くしこった硬結点、押すと痛みを感ずる圧痛点が現れるが、またその反対側の脊椎とかその左右にも硬結点や圧痛点が現れ、腰仙部とか前胸部、顔面や頭部、さらには手足の各部などにも、全身にわたって胃病に関連する反射点が現れる。東洋医学、特に鍼灸学ではこのような反射反応点を一名“天応穴”、いわゆるツボといって、ここに針、灸、指圧などの刺激を与えて内臓や器官などの病気の治療を行っている。西洋医学ではこの反射点を“内臓体壁反射”と呼び、これを主に病気の診断に利用している。(“内臓体壁”については金沢大学教授石川太刀雄著「内臓体壁反射―皮電計による範例図譜」)

このように、内臓の反射点が胴体の各部にわたって現れることは知られていたけれども、“てのひら”、すなわち手と指の部分にまとまって体系的に現れるという事実については、今までどの文献もふれておらず、鍼灸学の古典にすら述べられていなかった。ただ、「内経」という書物に「手掌が熱いと腹部も熱をもち、手掌が冷たいと腹部も冷えている」というわずかな記述が見られるくらいである。

結局私は、自分自身の後頭部の痛みをしずめようとしている最中に、この体壁反射点は胴体各部だけに現れるのではなく、“てのひら”、すなわち手や指にも現れるのではないかとひらめき、後頭痛の反射点が“てのひら”にもあるはずだという仮定のもとに、中指を中心にその反応点を探してみることにしたのであった。私の創案した手指鍼術というのは、言いかえれば今まで誰も気づかなかった“てのひら”に現れる内臓体壁反射、すなわちツボを発見したものとみることができるのである。

その後、私は約5年にわたって、“てのひら”に現れるツボの研究を続け、1975年にはじめて大韓鍼灸士協会報にその成果を発表し、「手指鍼穴位図」を出版した。続いて1976年には「高麗手指鍼と十四気脈論」を出版、これは現在では「高麗手指鍼講座」と改題し、鍼灸師はもとより、医者や民間の人々にも広く読まれて利用されている。』

感想

医師である山元敏勝先生のYNSA(山元式新頭針療法)の対象は”頭”です。フランス人医師のノジエ博士は“耳”を施術の対象としています。また、”足裏”のツボをマッサージしてくれる店は少なくありません。そして、柳先生が開発された「高麗手指鍼」は”手”を対象にしたものです。

これらには、それぞれ理論があり、実践するためは知識と技術が必要です。もちろん、ツボ(圧痛点あるいは硬結などいつもと違う反応点)を指圧したり、マッサージすることは有益ですが、患者さまに施術するのであれば、理論・知識・技術は必須です。

これらの施術を否定するものでは決してありませんが、然るべき準備もせず、中途半端な気持ちでやるべきではないと考えています。

一方、私が学んできたこと、実際に行っていることは標準的な体全体を対象とした鍼灸の施術です。

ここで一つお伝えしたいことがあります。それは体の”経絡”とは線ではなく縦と横、だということです。

左の図は昭和の重鎮、本間祥白先生の“経絡経穴図鑑”です。

頭から足先まで赤い線が描かれていますが、これは“十二経脈”と正面中央の“任脈”そして背面中央の“督脈”であり、これらは“経絡の一部”ということになります。(個人的には、これらは縦横無尽に存在する”道”の中の”特別な道=高速道路”のようなものと考えいます)

経絡の“経”は縦、“絡”は横を意味していますので“経絡”は面ということです。また、経絡は内臓にも通じているとされています。以上のことから、私は経絡とは、体表にも内臓にも存在している膜(ファシアに極めて近いものと考えています。

もし、ファシアにご興味があれば以下のブログを参照してください。

経絡≒ファッシア1」、「経絡≒ファッシア12」、「ファシアの基礎

ご参考:『日本整形内科学研究会

手のひらツボ秘法2

即効 手のひらツボ秘法
即効 手のひらツボ秘法

著者:谷津三雄

発行:1990年9月

出版:マキノ出版

目次は “手のひらツボ秘法1”を参照ください。

 

※手のひらのツボへの間接灸ですぐれた効果が得られる

●更年期障害の不快症状が手のひらへの間接灸で解消する

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

方法

手の三陰交と手の血海に間接灸をすえる

手の三陰交(小指と親指にツボはある)

・小指:第1関節(指先側)の横ジワ中央から約1ミリ指のつけ根側

・親指:第1関節の横ジワ中央から約1ミリ指のつけ根側

手の血海(小指と親指にツボはある)

・小指:第2関節の横ジワ中央から約1ミリ指のつけ根側

・親指:第1関節の指のつけ根の横ジワ中央から約1ミリ手のひら側

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

 

 

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

①刺激(間接灸)前の顔面の熱画像

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

①刺激(間接灸)前の顔面の熱画像

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

③刺激(間接灸)前の腹部の熱画像

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

④刺激(間接灸)後の熱画像。腹部全体の温度が上昇している。

 

※50年玉と5円玉を指の間にはさむ硬貨療法で驚くべき効果が得られる

●夜のトイレ通いが指に50円玉と5円玉をはさむと大幅にへる

●女性の敵“冷え症”は硬貨療法で撃退できる

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

方法

どちらか片方の手の薬指と中指の間の、指先の方に50円玉(無色)、つけ根の方に5円玉(有色)をはさみ、5分~10分そのまま維持する。50年玉がなければ1円玉でも良い。また、できるだけ新しい硬貨を選び、実施前に硬貨を石鹸などで洗って汚れを落としておく。

効果の理由

体の中を流れている生体電流という、ごく弱い電流の乱れが、この二つの硬貨によって整えられるためなのです。

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

①刺激(コインを指の間にはさむ硬貨療法)前の顔面の熱画像

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

②刺激(コインを指の間にはさむ硬貨療法)後の顔面の熱画像

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

③刺激(コインを指の間にはさむ硬貨療法)前の腹部の熱画像

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

④刺激(コインを指の間にはさむ硬貨療法)後、腹部の温度が上昇している。

 

生体電流については、谷津三雄先生の『6円手のひら健康法』という本に中に詳しい説明が出ていましたので、ご紹介させて頂きます。

『人間の体は約60兆の細胞からできています。そして、この細胞はまず分子からなり、この分子はさらに原子から構成され、また、この原子はさらに原子核と電子から作られています。

このうち、原子核はプラスの電気、電子はマイナスの電気を帯び、体内でつりあった弱い電気が流れています。これを専門的な言葉で「生体電流」といい、プラスとマイナスの電気が互いに調和がとれて生命現象が営まれているのです。

この「生体電流」こそ、すでに述べた体の中を流れて内臓の働きを支配しているエネルギーの正体の一つなのです。この生体電流が正常に流れている(プラスとマイナスの良好な電気のバランス)と体は健康ですが、なんらかの原因で、このプラスとマイナスの電気のアンバランスが起こると生体電流が乱れ、不健康(肩こり・不眠・下痢・便秘・冷え・腰痛など)が見られるようになります。しかもこの生体電流の乱れた状態を放っておくと、最もアンバランスとなった部位が障害され病気となって現われてきます。』

『この生体電流は、現代医学でも診断や治療にとり入れられています。たとえば、心電図は心臓の生体電流を測定し、心臓の働きを調べるものです。また、脳は生体電流が脳波、筋肉の生体電流が筋電図なのです。このような考え方から見ると、整った電流の電気人間が真の健康体ということができます。』

この生体電流の乱れは金属を使うことで整えることができます。

金属を構成する原子には、プラスやマイナスの電気を帯びようとする性質があります。プラスやマイナスになりやすい度合いのことを専門的な言葉では「イオン化傾向」と呼んでいます。

そして、このイオン化傾向の強さは金属の種類によって異なり、その強さを順に並べたものをイオン化列といい、このイオン化列の順にイオン化傾向が大きいのです。

一般に使用されている金属ではアルミニウムが最も大きく、次いで亜鉛・鉄・鉛・銅・銀・水銀・金と続きます。

このように異なるイオン化傾向をもつ金属を皮膚の表面におくと、そこに電位差が出て、電流が発生し、乱れた生体電流が整えられ、これを異種金属療法といいます。

『1円玉はアルミニウムでできています。アルミニウムは硬貨に使われる金属の中で最も強いイオン化傾向を持っています。イオン化傾向の強い金属ほど生体電流の乱れを整える力は強力なのです。

一方、5年玉は亜鉛と銅の合金です。したがって、亜鉛と銅という二つの異なるイオン化傾向をもつ5年玉もまた生体電流の乱れを整える力が強いのです。

そこで1円玉と5年玉の二つ硬貨を使えばアルミニウム、亜鉛、銅と三つの異なるイオン化傾向をもつことになり、より強力にしかも確実に生体電流の乱れを整え、素早く不快症状を解消することができるということになります。』 

第2章 手のツボで病気は治る

※手は全身の異常を写す鏡で病気別の反応が現れそこを刺激すれば病気は治る

高麗手指針法の原理は、上記の体のツボに対応する同様な効果を持つツボが手に存在しているというものです。

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

①手のひらのツボと全身のツボの関係

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

②手の甲のツボと全身のツボの関係

・ツボはボールペンやつま楊枝など先がとがった棒や、指圧によって刺激する。

・高麗手指針法の原理では、体の異常は左手に出やすいとされているが、両手のツボを調べて、圧痛を強く感じる側の手を治療の対象にする。

・治療時間は1回15分以内とする。

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

右の手のひらと内臓の関係

 

手のひらツボ秘法1

先日、患者さまから東京都練馬区石神井で開業されている、“こまつ鍼灸院”さまのことを教えて頂きました。

1997年~2022年3月現在、腎臓病患者様1.100人到達

※こまつ鍼灸院調べ

 

当院も定期的に来院頂いているのは、慢性腎臓病などの腎疾患の患者さまが多いのですが、患者さまの数は決して多いとはいえません。そのため、改善される患者さまの傾向をつかめているとはいえないのですが、強いていえば、過去に腎臓に関する既往歴のあった患者さまの方が、改善の可能性が高いように思われます。しかしながら、全体的には「やってみないと分からない」というのが実態です。

今回は患者さまからのお話ということもあり、また、こまつ鍼灸院さまがどのような施術をされているのか知りたいという、私自身の気持ちもあり、小松先生が書かれた本を通じて勉強させて頂くことにしました。 

腎臓との闘い方、お教えします
腎臓との闘い方、お教えします

著者:小松隆央

出版:現代書林

発行:2018年9月

小松先生にとっての大きな出来事は、高麗手指鍼の第一人者であった金成萬先生について1年間、この高麗手指鍼をみっちり勉強されたことでした。

高麗手指鍼は1971年、柳泰佑先生によって創始された鍼法であり、以下のように日本人の谷津三雄先生も深く関わっていることを知りました。

高麗手指鍼の効果については、その作用の一部が科学的にも明らかになっています。例えば手のツボに刺激を与えると、関連部位の血流が良くなって温度が上がることが確認されているのです。

この研究を行ったのは日本の谷津三雄医学博士で、手のツボと臓器の関連を確認するためにサーモグラフィーを使ってお灸の効果を調べたものです。このサーモグラフィーを見れば、手と患部が関連していることがはっきりとわかります。

調べてみると、柳泰佑先生だけでなく谷津三雄先生も高麗手指鍼の著書をお持ちでした。幸いにも興味深い題名の本を地元の図書館が保有していたため、2冊の本を借りました。

1冊は谷津三雄先生の『即効手のひらツボ秘法 -最新医学が解明した高麗手指針新法の驚くべき効果』であり、もう1冊は柳泰佑先生の『てのひらツボ療法 -高麗手指鍼の原理と応用』です。前者は1990年9月の発行、後者は1986年11月の発行でした。

ブログは谷津先生の著書を先とし、創始者である柳泰佑先生の著書を後に拝読させて頂くことにしました。 

即効 手のひらツボ秘法
即効 手のひらツボ秘法

著者:谷津三雄

発行:1990年9月

出版:マキノ出版

谷津先生の主な経歴は以下の通りです。

・1949年 日本大学歯科卒業(歯科医師)

・1953年 日本大学医学部卒業(医師)

・1972年 日本大学松戸歯学部教授(麻酔学・歯学史)

・1990年 日本大学松戸歯学部付属歯科病院院長

ブログで取り上げているのは、目次の黒字の項目です。

目次

はじめに

第1章 手のツボの効果が医学的に証明された

※サーモグラフなどの医療検査器で手にあるツボの効果は医学的に証明できる。

※手のひらの三点ツボを指圧するだけでもすぐれた効果が得られる

●高血圧が手のひらへの三点刺激で下がる

●冷え症は手の指を組んで圧迫するだけで解消できる

※手のひらのツボへの間接灸ですぐれた効果が得られる

●更年期障害の不快症状が手のひらへの間接灸で解消する

●生理痛は手のひらに間接灸をすえると消える

●高血圧も手のひらのツボへの間接灸で下がる

※手のひらへの健康器具やクルミを握っていると解消する

●肩こりは健康器具やクルミを握っていると解消する

●ボケ防止にも手のひらのツボ刺激は効果がある

※50年玉と5円玉を指の間にはさむ硬貨療法で驚くべき効果が得られる

●夜のトイレ通いが指に50円玉と5円玉をはさむと大幅にへる

●女性の敵“冷え症”は硬貨療法で撃退できる

※指輪2個の指輪療法には多くの効果が認められた

●親指と小指に指輪をはめると便秘が解消する

●生理痛・生理不順も指輪療法で解消できる

第2章 手のツボで病気は治る

※手は全身の異常を写す鏡で病気別の反応が現れそこを刺激すれば病気は治る

※隠れた病気や体の不調がピタリとわかる手のツボを利用した振り子発見法

※腰痛に大変よく効くと評判の手の甲のツボを人さし指で押す刺激

●手記……立っているのもつらかった腰痛が手の甲を指先で押していたらその場で消えた

※ひざの痛みは小指の第2関節をゴムひもで引っぱりパッと離せばすぐ取れる

●手記……ひざの痛みと肩こり解消の手のツボ刺激をやってみたら確かに効果が現れた

※肩こりならその場でスーッと解消する中指そらしと中指のもみほぐし

●手記……ひどい肩こりが中指をそらしたりもんだりしただけでス―ッと解消した

※しつこい不眠症でも知らぬまに眠りだす中指の先のツボへのつま楊枝刺激

●手記……深夜2時まで眠れず手のツボを刺激したら本当に眠ることができて驚いた

●手記……悩みの不眠症が寝床の中で手のツボ刺激を5~6分くり返したらぐっすり眠れた

※高血圧の人は中指と手のひらの6つのツボを刺激すれば血圧が適度に下がる

●手記……上が220ミリ、下が120ミリの高血圧が手のツボ刺激で下がりそのまま安定している

※寝違えや首のこりの反応点は中指の背中にありそこに丸いボールペンの軸をころがせば治る

●手記……寝違いによる首の痛みが中指の背に色鉛筆をころがしただけで見事に取れた

※クルミを握って手のひらを刺激するとボケが妨げて仕事の能率も上がる

●手記……手のひら刺激はボケの予防に確かに有効で患者さんに教えてあげて喜ばれている

※がんこな便秘ばかりか下痢も治ると評判の手のひらの“下腹部”への刺激

※頭痛の大半は中指の先にある手のツボを爪で押せば治り偏頭痛には特に効く

※あぶら汗が出るほどの腹痛でも手のひらに現れる圧痛点を押せばらくになる

※動悸や息切れは小指を強く噛み手の中指の先をこするだけで止まる

※耳鳴りや難聴は中指の先を指ではさんでひねればしだいによくなる

※更年期障害の不快症状は手のひら中央に必ず現れる圧痛点を押せばらくに消える

※歯痛にすぐ効くツボが手の中指の腹にあり親指の爪でそこを強く押せば止まる

第3章 硬貨・指輪療法の鋭い効果

※冷え症の人は指の間が冷えているが50年玉と5円玉をはさめば冷えは消えてらくになる

※50年玉と5円玉を指にはさむ硬貨療法がとくによく効く病気はどんなもの?

※生理痛や生理不順は銀色の指輪を小指と親指にはめるだけで解消する

※指輪療法は生理痛や生理不順以外にどんな症状に効くのですか?

※指輪療法に対する疑問に答えます

●指輪で病気を治す治療に使えるのはどんな指輪?その入法法は?

●指輪をはめてやる生理痛の治療で症状のない日でもはめていて大丈夫?

はじめに

『私たち人間は、二本の後ろ足で立つことができたために重い頭脳を支え、前の二本足が今日の手として自由に使え、高度な文明や文化を築きあげたのである。このことは四つ足の動物が二本の後ろ足で立つことができたために人間になれたといっても過言ではない。

現在、この地球上で人間ほど前足、すなわち手を巧妙、精密に使える動物は現われていない。そればかりでなく、人間の身体の中で、すべての内臓を支配し、コントロールするのは脳であり、哲学者カントが「手は外に伸びた脳である」と喝破しているが、手は脳と密接に結びついており、手からのさまざまな刺激によって、さらに頭脳の活発な動きを誘い、頭脳の急速な発達をもたらし、人間になったといわれている。

この脳と手の働きを最初に解明したカナダの脳外科医ペンフィールド博士の研究によると、手や指の占める大脳の運動野の割合は、身体の他のいかなる部位よりもはるかに大きく、したがって、手や脳を動かすことは大脳の広い部分を刺激し、脳全体の働きを活性化することが知られている。 

ホムンクルス
ホムンクルス

画像は『脳の世界』さまから拝借しました。こちらのサイトには写真だけでなく、詳しい解説が書かれています。

ロンドン自然史博物館にあったホムンクルスの模型。体性感覚野運動野

ペンフィールドは脳組織の同じ帯状領域を調べて、大勢の患者から同様の反応を得た。こうして粘り強く収集したすべてのデータをもとに、ペンフィールドが作成したのが身体表面の完全な脳マップである。彼は遊び心でこのマップに中世哲学の用語で“小人”を意味するラテン語の“ホムンクルス”というニックネームを付けた。

たとえば、右手の親指と人差し指をゆっくり四、五秒間動かし続けると、運動野に相当する脳の場所の血液量が30%もアップする。このことは手や指を動かして刺激することにより脳の老化、すなわち、ボケを予防できることを物語っている。よく、「手は第二の脳」といわれているが、大脳の感覚中枢は外部からの刺激を感じる働きがあり、そのレーダーとなっているのが手のひらで、そこには17,000本の神経が通っていて、その神経1本1本が脳にシグナルを送り、それが反射的に身体全体をコントロールして、精神(心)と身体(体)の健康が保たれているわけである。このことは、日曜日のNHKテレビの夜の7時20分からの番組「クイズ100点満点」の途中で、必ず手のひらと指とを使った満点体操の行われることでも、手と脳とが密接な関係にあることを、ブラウン管を通して教えている。

このように手は、足より多くの神経が通っている。そのことは手と足の両方をつねってみるとわかる。たとえ同じ力でつねっても、手のほうがはるかに大きな痛みを感じる。また、同じ指でも足で鉛筆や箸を自由に使えないのは、足は脳との連結が手ほど緊密にないからであり、また、私たちの文字を書いたり、絵を描いたりできるのも手と脳が密接に結びついていることの証拠である。

健康を維持し、長寿を全うするには、いつでも、どこでも、すぐにできる健康法が絶対的条件である。この点、足の裏を刺激するにしても、手ほど簡単にしかも自分自身で容易に行うことができない。ここに“手のひら”のツボ刺激療法の秘法がある。

もし、内臓に何かしらの異常が起こった場合、その情報は脳と手に同じスピードで送られてくる。すなわち、手の内臓と関係の深い所にいろいろの変化が現われてくる。この手の変化をみれば、どの臓器が変調を来しているのかがわかる。これを「高麗手指鍼法」では相応点と名づけ、手のひらにおける診断点とし、また、その相応点を刺激することにより、その全身の異常を治す治療点として使用されるゆえんである。すなわち“手のひらは全身の縮図なり”である。

身体の異常はどんな場合でも早期発見、早期治療の必要なことはいうまでもない。まして内臓は自覚症状も微妙で、なかなか早期発見しにくい部位でもある。しかし、手はその張り巡らした情報網を駆使して、内臓のどんな異常でも知らせてくれる。こうした内臓の変調を直ちに反応する部位は身体広しといえども手をおいてほかにはない。「手は健康の見える窓」といってもよく、まさに手は言葉とともに人間を動物から区別する大きな特徴であるとともに、人間だけが持つ優れた器官なのである。

「旧約聖書」の箴言第三章に「その右の手には長寿があり、左の手には富と誉がある」と書かれているが「これは手には私たちが健康で長生きするための重要なツボが、全身の縮図として集まっていることを意味している。このように身体のある部位―相応部位に対して、“手のひら”に現われるツボ―相応点に刺激を与えると、その手のツボの圧痛が取れるばかりか、身体のツボの圧痛も消失し、体の異常が改善されるという治療システムを研究したのが、韓国の柳泰佑博士の「高麗手指鍼法」の原理である。

私がこの「高麗手指鍼法」を健康雑誌「安心」でご紹介したところ、実に驚いたことには、これらの記事が報道されると一週間はその問い合わせの電話が終日殺到し、その内1人で約1時間も話し続けるなど、その対応に本来の仕事ができず困惑した。

しかし、これらの悩む人々のあまりの熱心さにつれなくすることもできずに悲鳴の連続であった。また、治ったという手記を寄せる人や、私が思いもつかなかったことを質問してくれる人などの多数の手紙が寄せられ、身近な手のツボの刺激に頼る人々の大変に多いことを知った。

私と「高麗手指鍼法」との出会いは、1978年7月にソウル特別市歯科医師協会の地憲澤会長から特別講演の招聘を受け訪韓した折り、地博士を通して柳先生とお目にかかったのが最初である。そのときの柳先生の「高麗手指鍼法」に対する情熱と、その神秘的な効果に魅せられた最初の出会いの一瞬が、つい最近の出来事のように思い出されてくる。それ以来同学の士として、1979年7月にソウルの世宗文化会館で開催された第二回韓日高麗手指鍼学術大会から毎年「高齢手指鍼法」の科学的研究を基礎とした特別講演を行い今日に至っている。

本書は「安心」を読者より寄せられた強い要望に答えての出版であるために「高麗手指鍼法」の原理を基礎に一般向きにわかり易く、しかも私が行った研究の一端を加え、さらに読者から寄せられた二、三の手記を合わせ、「高麗手指針新法」と名づけ発行することにした。人間はだれもが“老い”と“死”から逃れることはできないが、本書を熟読し、“死ぬまで生きる”人間の権利を全うするための保健の向上に努められんことを願うものである。』

第1章 手のツボの効果が医学的に証明された

※サーモグラフなどの医療検査器で手にあるツボの効果は医学的に証明できる。

・温度が絶対零度(マイナス273.16℃)以上であれば、すべての物質は赤外線を放射している。この赤外線の量を検出し、表面温度の分布を画像に表すのがサーモグラフィーである。

・サーモグラフィーにより痛みの個所、薬の効果、自律神経の活動がわかる。

・手のツボを刺激による、体の表面の温度、血圧、心拍数、脳波の変化

※手のひらの三点ツボを指圧するだけでもすぐれた効果が得られる

●高血圧が手のひらへの三点刺激で下がる

サーモグラフィによる検査
サーモグラフィによる検査

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

人物は左から柳泰佑先生(高麗手指鍼法創案者)、洪珪植先生(高麗手指鍼学会理事)、谷津三雄先生(著者)

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

①指圧前の顔の熱画像

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

②指圧後の顔の熱画像

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

③指圧前の腹部の熱画像

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

④指圧後の顔の熱画像

 

交感神経の緊張が抑制され、副交感神経は優位になり血管が拡張して皮膚温が上がっている。心身はリラックスしてストレスが低下し血圧は下がる。  

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

指圧の場所と圧迫方法

心点(中指の先端中央:爪をたてて圧迫)

労宮点(手のひら中央:親指を立てて圧迫)

列欠点(親指のつけ根ふくらみの下:体幹方向へ圧迫しながらこする)

 

冷え症は手の指を組んで圧迫するだけで解消できる 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

①刺激前の熱画像

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

②指のつけ根をはさんだ際の熱画像

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

③親指で手のひらを押す際の熱画像

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

④手の甲を指先で刺激した際の熱画像

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

⑤一連の動作終了後の熱画像

 

画像出展:「即効 手のひらツボ秘法」

方法

①手の指を組んでつけ根をはさみ痛いほど強く左右に圧迫する。

②親指の先で他方の手のひらの中央を強く垂直に圧迫する。

③指の先で他方の手の甲を強く押して刺激する。

動作を数回くり返すと、手だけなく足や腹部の血行もよくなる。

 

宗教と科学の接点2

「宗教と科学の接点」
「宗教と科学の接点」

著者:河合隼雄

初版発行:1986年5月

出版:岩波書店

目次は”宗教と科学の接点1”を参照ください。

第三章 死について

●瀕死体験

・『アメリカの精神科医レイモンド・ムーディは最初に哲学を専攻し、後に医学に転じたが、哲学の講義で霊魂の不滅について論じたときに、学生の一人から彼の祖母の瀕死体験について聞かされ、その後は積極的にこの問題と取り組むことになった。瀕死体験とは、医者が医学的に死んだと判定した後に奇跡的に蘇生した人の体験、および、事故、病気などで死に瀕した人の体験である。ムーディーは間接的な資料も加えて約150の事例から、次に述べるような結論を出したのである。

瀕死体験は人によってそれぞれ異なるが、驚くほどの共通点が存在する。それらの共通点を組み合わせて、ムーディはひとつの理論的な「典型」を提出している。これは非常に重要と思われるので、そのままここに引用してみよう。

「わたしは瀕死の状態にあった。物理的な肉体の危機が頂点に達した時、担当の医師がわたしの死を宣告しているのが聞こえた。耳障りな音が聞こえ始めた。大きく響きわたる音だ。騒々しくうなるような音といったほうがいいかもしれない。同時に、長くて暗いトンネルの中を猛烈な速度で通り抜けているような感じがした。それから突然、自分自身の物理的肉体から抜け出したのがわかった。しかしこの時はまだ、今までと同じ物理的世界にいて、わたしはある距離を保った場所から、まるで傍観者のように自分自身の物理的肉体を見つめていた。その異常な状態で、自分がついさきほど抜け出した物理的な肉体に蘇生術が施されるのを観察している。精神的には非常に混乱していた。

しばらくすると落ちついてきて、現に自分がおかれている奇妙な状態に慣れてきた。わたしには今でも[体]が備わっているが、この体は先に抜け出した物理的肉体とは本質的に異質なもので、きわめて特異な能力を持っていることがわかった。そして、今まで一度も経験したことがないような愛と暖かさに満ちた霊―光の生命―が現れた。この光の生命は、わたしに自分の一生を総括させるために質問を投げかけた。具体的なことばを介在させずに質問したのである。さらに、わたしの生涯における主なできごとを連続的に、しかも一瞬のうちに再生してみせることで、総括の手助けをしてくれた。ある時点で、わたしは自分が一種の障壁とも境界ともいえるようなものに少しずつ近づいているのに気がついた。それはまぎれもなく、現世と来世との境い目であった。しかし、わたしは現世にもどらなければならない。今はまだ死ぬ時ではないと思った。この時点で葛藤が生じた。なぜなら、わたしは今や死後の世界での体験にすっかり心を奪われていて、現世にもどりたくはなかったから。激しい歓喜、愛、やすらぎに圧倒されていた。ところが意に反して、どういうわけか、わたしは再び自分自身の物理的肉体と結合し、蘇生した。」

これは一種のモデルであり、個人によっていろいろ異なるのは当然である。ムーディはこのモデルに含まれる約15の要素のうち、多くの人が8ないしそれ以上の要素について報告し、12の要素を報告した人が数人いると述べている。また、人によってはこのモデルとは異なる順序で体験しており、たとえば、「光の生命」に出会うのが肉体から離脱するより先であることもある。また、臨床的な死を宣告された後に蘇生したが、先に述べたような体験を一切しなかったと報告する人もある。

これらの体験をした人は誰も、このようなことを適切に表現できる言葉が全然見つからぬことを強調している。それとその内容があまりにも予想外のことなので他人に話をしても、まともに受けとって貰えないということもあった。このためにこのような体験をした人も沈黙を守っていることが多く、ムーディたちが真剣に聞いてくれるので、はじめて話をしたという人もある。ここに述べられている身体外意識の体験は、ユングも共時性の一現象として記述しているが、当時ではなかなか信用されなかったものである。交通事故で足がちぎれたりした人が、自分のその体を上から眺めているというのだから、まったくの幻覚と思われがちだが、そのときにその人の見た事実と現実がぴったりと照合するので信頼せざるを得ない。特に、キュブラー・ロスが全盲の人達の体験を報告しているのは興味深い。彼らは全盲でありながら、瀕死体験の際は、そこに居あわせた人の身につけていた着物や装身具などまで描写できるのである。』

第六章 心理療法について

●心理療法とは何か

・『宗教と科学の接点の問題について論じてきたが、私がこのようなことに関心をもつようになったのは、私自身が専門としている心理療法という仕事を通じてのことであった。心理療法を実際にやり抜いてゆこうとすると、今まで述べてきたようなことを考えざるを得ないのである。それは自分のしている心理療法は「科学であるのか」という疑問に答えるためにも、そして、それに関連することであるが、心理療法の対象である「人間」という存在について考えるためにも、必要なことであった。心理療法についてはいろいろな語り方があると思うが、ここでは宗教と科学の接点という問題意識をもって述べることにしよう。』

・心理療法は19世紀の終わり頃より発展をはじめ、現代の欧米においては欠かせないものとなった。

・心理療法は古来から存在していたと考えられ、宗教、教育、医学の分野にそれを見出すことができるが、近代においては、「宗教」に対する反撥が強く、むしろ宗教に対立するものとして、教育、医学の分野から生じてきたように思われる。

・心理療法が心理学から生じてこなかったは、「心理学」が物理学を範として「客観的に観察し得る現象」の研究をしようとするものであり、人間の意識は研究対象になりえなかったからである。

・教育には指導や助言という要素が強く、これが心理療法に発展したと思われるが、心理療法は指導や助言では不十分なことも多く、この領域を超えることが求められている。

・医学においては身体に問題がないのに障害がみられる「病気」があることが解ってきて、その治療として19世紀の終り頃より精神分析が出てきた。しかし、医学モデルは型にはめようとしがちで、単純なモデルであるため、効果が限定的であることが多い。

・『対人恐怖症のためにどうしても学校に行けぬ生徒に、学校へは行くべきとか、行かないと損をする、と指導助言しても何の効果もない。あるいは、「学校に行けない原因があるだろう、それを言いなさい」などと迫っても、およそ答えられないであろう。時には、子どもたちは質問者の勢いにおされて、「先生が怖い」とか「お母さんがうるさい」とか適当に答えるときもある。原因追及型の線型の論理一本槍の人は、次に矛先を変えて、「原因」としての教師や母親を攻撃することになる。それに熱心な人ほど、自分の思いどおりの結果が生じないときは、その熱意は憎しみや攻撃の感情に変化しやすいものである。自分はこれほど熱心にやっているのに、母親が悪いから、あるいは、本人の意志が弱すぎるから……などの理由でうまくゆかぬと嘆いている人は多い。教育モデル、医学モデルに頼るときは、結果はうまくゆかぬとしても、自分は熱心で正しいことをしているのに、誰か必ず自分以外の悪者がいるからうまくゆかないのだ、という結論に達することができるので、なかなか便利である。このような便利さのために、有効性が低い割に現在もなお相当に用いられていると思われる。』

●自己治癒の力

・指導や助言も効果がなく、病因を探し出す方法も有効でないとすると、どのような方法があるのか。それは治療者が治療するのではなく、患者自身の治る力を利用することによってなされる。このことは心理療法において極めて大切なことである。

・『たとえば、学校に行きたいのにどうしても学校に行けぬと言う高校生が来談したとする。私がこの高校生を出来るだけ早く学校に行かしてあげたいという気持ちや、なぜ学校へ行きたいのか原因を知りたいという気持ちを全然もっていないと言うと、それはうそになるだろう。しかし、一応それらのことは括弧に入れておいて、ともかくこの高校生の自由な表現をできる限り許容し、それに耳を傾ける態度をとるだろう。そして、場合によってはその人の見た夢について話して貰ったり、絵を描いて貰ったり、箱庭を作って貰ったりすることになるだろう。多くの患者さんたちは、私に対して指導や助言を期待しておられたり、なかには「どうしてこうなったのでしょう」と尋ねる人もあるように、原因を早く知りたがったりされるが、それらにはほとんど関心を払わない私の態度に不思議な感じを抱かれるが、私の態度に支えられて、いろいろと自由な表現をされる。

これは、本人および本人を取り巻く人々の、そのときの意志や考えよりも「たましい」の語ることを尊重しようとしているのだ、と言うことができるであろう。夢や箱庭や絵画などを利用するのは、たましいの言語としての「イメージ」を尊重しようとするからに他ならない。

多くの人は後から振り返ってみて、なぜ自分はあんな話をしたのか解らないと言われる。つまり、学校のことを問題にするつもりだったのに、「自由に」話していたら、知らぬまに母親のことばかり話をしていたとか、まったく思いがけない過去のことを思い出して話をしてしまったとか言われるのである。これは治療者が通常の意識レベルにおける原因―結果の論理からフリーになった態度で接しているので、患者の方は知らず知らず感情のおもむくままに話をはじめ、心の深い層へと下降をはじめるわけである。自由に、感情のおもむくままに、ということは自我がたましいの方に主導権を譲るということである。

人間のもつ自己治癒力は不思議なものである。患者さんに箱庭をおいて貰っているだけで治療が進むときがある。

・箱庭療法は西洋で始まったものであるが、日本人は非常に向いている。これは、箱庭のような非言語的手段によって自分の自分の内面を表現し、またそれを治療者が理解することが難しくないということが大きい。

・一般的に患者さんは、はじめは片隅に少しだけ置いておくものだが、徐々に箱の領域全体を使うようになり、表現も豊かになっていく。こうして症状も改善していく。

・箱庭の変化の過程を写真にとっていくと、明らかにその流れが解るため、患者さんの内界に変化が生じ納得も得られやすい。

・箱庭療法の本質は、治療者が指導したり助けたりすることを放棄して、ただそこにいることなのである。何もしないでただそこにいること。これが治療者の役割である。

箱庭療法
箱庭療法

左の写真は「飯田橋メンタルクリニック」さまより拝借しました。

こちらのサイトには”箱庭療法”についての詳細な説明が書かれています。

●治療者の役割

・教育モデル、医学モデルに対し否定的な話をしてきたが、重要なことはこれらのモデルの有効性を判断することである。臨機応変の態度をもっていることが求められる。

・『われわれの態度は来談した人を客観的「対象」として見るのではなく、自と他との境界をできる限り取り去って接するようになる。治療者は自分の自我の判断によって患者を助けようとすることを放棄し、「たましい」の世界に患者と共に踏みこむことを決意するのである。ここのところがいわゆる自然科学的な研究法と異なるのである。

このような治療者の態度に支えられてこそ、患者の自己治癒力の力が活性化され、治療に到る道が開かれる。従って、治療者は何もしないようでありながら、たとえば、箱庭を患者が作ろうとするとき、どのような治療者がどのような態度で傍にいるかによって、その表現はまったく異なるものとなるのである。そうでなければ、各人が勝手に絵を描いたり、箱庭を作ったりしてノイローゼを治してゆけそうなものだが、そうはならないのである。このような態度は言うはやすく行うは難いことであり、相当な訓練を受けないとできないことである。』

・自己治癒力の力がはたらくと言っても、実はそこには大変な危険性や苦しみが存在する。

・多くの場合、治ることに苦しみはつきものである。というよりは、正面から苦しむことによってこそ治癒はあると考えるべきである。

心理療法によって苦しみや不安はむしろ増えてくる。治療者は患者がそれと正面から向き合うようにし、その苦しみを共にわかち合うことによって乗り越えようとしている

●コンステレーションを読む

・コンステレーションとはすぐに原因と結果とを結びつけるのではなく、いろいろな事柄の全体像を把握することである。

コンステレーションを読むには、われわれは「開かれた」態度を持たねばならない。このような「開かれた」態度で現象に接していると、共時的現象が思いの他に生じており、それが極めて治療的に作用することに気づく。

・『長い間学校へ行けなかった子がとうとう登校を決意する。明日行くというときに、風邪を引いて寝込んでしまう。このときに「またか!」と思い両親も治療者も落胆してしまうのと、登校する以前に病気ということを通じて母と子がもう一度一体感を確かめる機会を与えられたと受けとめるのとでは、まったく結果が異なってくる。病気のときは子どもも案外素直に甘えられるし、母親も子どもの肌に自然に触れられたりして、一体感を味わいやすいものなのである。奇跡が起こると言っても奇跡はしばしばマイナスの形で生じ、それを読む力のあるものにとってはプラスになることも多いので、コンステレーションを読む能力は治療者にとって非常に大切なものである。』

●宗教と科学の接点

・『「開かれた」態度によって治療者が接すると、それまでに考えられなかったような現象が生じ、そこにはしばしば共時的現象が生じる。その現象は因果律によっては説明できない。しかし、そこに意味のある一致の現象が生じたことは事実である。そのことを出来る限り正確に記述しようとしたとき、それは「科学」なのであろうか。それは広義の科学なのだという人もあるだろう。しかし、それはまた広義の宗教だとも言えるのではなかろうか。つまり、そこには教義とか信条とかは認められないが、自我による了解を超える現象をそのまま受け入れようとする点において、宗教的であると言えるのではなかろうか。

宗教はもともと人間の死をどのように受けとめるか、ということから生じてきたとも言うことができる。死をどううけとめるのかという点から生じてきた体系、といっても、それは単なる知識体系ではない。たとえば、仏教においては戒・定・慧の重要性が説かれるように、戒を守ることや禅定の体験を通じて得られる知こそ意味があるのである。

しかし、近代人は既に述べたように自我が肥大し過ぎて、過去の宗教の体系を単なる知識系として見ようとすることもあって、なかなか受けいれられない。従って既存の宗教を信じられなくなるのだが、何を信じようと信じまいと、人間にとって死は必ず存在するのである。最初はいかに生きるかに焦点があてられていた心理療法においても、死をどう受けとめるかが問題にならざるを得なくなった。ユングは彼の患者の約三分の一は、この世によく適応している人だったと述べている。いかに適応している人でも、死の問題は残る。ユングのもとに来たこれらの人は、いかに生きるかということよりも、いかに死ぬかという問題のために来たと言ってもいいだろう。』

感想

一通り拝読させて頂き、消化できたとは言い難いのですが、一番印象に残ったことは、

「開かれた態度」-「共時的現象(因果律では説明できないが、意味ある一致の現象)」-「自己治癒力(正面から苦しみと向き合うこと)」ということでした。

特に、この中で“共時的現象”については、もう一歩踏み込んでその実体を知りたいと思いました。調べたところ、『ユングと共時性』と題する本があったので、こちらも読んでみたいと思います。

宗教と科学の接点1

30年以上前の話です。決して重たいものではなかったのですが、自分捜しをしていた時期があり、そのときに読んだ本の中に河合隼雄先生の『明恵 夢を生きる』という本がありました。明恵とは鎌倉時代、40年にわたり夢を書き残した高僧です。

また、本棚を見て思い出しましたが、同じ時期に、C.G.ユングの『元型論 無意識の構造』と『心理学と錬金術』、さらにE.ユングの『内なる異性 アニムスとアニマ』も読んでいました。私の記憶では、この時の自分捜しの解答は、「客観的であること、外から自分を眺められるようになることがとても重要だ」ということだったと思います。

今回の『宗教と科学の接点』は河合先生の著書ですが、C.G.ユングの説や考えも重要な位置をしめています。

鍼を身体への物理刺激(侵害刺激)と考えると、解剖学生理学は鍼の影響(効果)を考える上で重要な医学です。

一方、「病は気から」などの“気”を“エネルギー”と考えると、ミクロの世界に存在する量子の力学を連想します。

我々が生きている世界はニュートン力学の世界ですが、原子より小さな世界は量子力学の摩訶不思議な世界です。そして、これは間違いなく実在しています。もし、量子力学が発見されていなかったら、半導体は生まれていません。なお、ここにある科学の主役は物理学です。

私は宗教にはあまり関心をもっていませんが、霊や霊能者には興味があり、“完全無欠ではない霊支持者”です。

フロイトとともに心理学の巨星であるC.G.ユングは、母方の家系に牧師で精神科医、そして霊能者として知られていた祖父(ゼムエル・ブライスヴェルク)がおり、祖母のアウグステも有名な霊能者だったそうです。

霊と量子、気と量子、それぞれ何か関係があるのか、これを明らかにすることは極めて難しいものだと思われますが、“量子力学の父”とよばれた、ニールス・ボーアが東洋医学に興味をもっていたという事実は、これらの関係性を意識させます。

「量子論を楽しむ本」
「量子論を楽しむ本」

ニールス・ボーアは量子論が明らかにした物質観・自然観の特徴を“相補性”という概念で説明しています、ボーアはこの“相補性”を表すシンボルとして古代中国の「陰陽思想」を象徴する“太極図”を好んで用いたとのことです。このことは、「量子論を楽しむ本」の中に書かれていました。

※ご参考:ブログ「量子論1」 

以上のような思いが交差し、河合先生の『宗教と科学の接点』には、何が書かれているのだろうか、是非、読んでみたいと思った次第です。

なお、ブログは何とか理解できた個所、直観的に「これは」と思った個所(目次の黒字部分)を取り上げていますが、散発的でまとまりに欠けます。

「宗教と科学の接点」
「宗教と科学の接点」

著者:河合隼雄

初版発行:1986年5月

出版:岩波書店

目次

第一章 たましいについて

●はじめに

●トランスパーソナル学会

●日本の状況

●人間存在

●たましいとは何か

●西洋近代の自我

●東洋と西洋

第二章 共時性について

●共時性とは何か

●易

●共時性と科学

●共時性と宗教

●ホログラフィック・パラダイム

●心身の相関

●実際的価値

第三章 死について

●死の恐怖

●死の位置

●瀕死体験

●銀河鉄道の夜

●「知る」ということ

●死後性

第四章 意識について

●無意識の発見

●いろいろな意識

●東洋の知恵

●スーフィー的意識の構造

●意識のスペクトル

●ドラッグ体験

●修行の過程

第五章 自然について

●人と自然

●自然とは何か

●自然・自我・自己

●東西の進化論

●昔話における自然

●「自然」の死

第六章 心理療法について

●心理療法とは何か

●自己治癒の力

●治療者の役割

●コンステレーションを読む

●意識の次元

●宗教と科学の接点

あとがき

第一章 たましいについて

●はじめに

・宗教と科学の問題は21世紀の人類を考える上で極めて重要な問題である。

・『筆者[河合隼雄先生]はもともと数学科の出身であるが、その後、臨床心理学に転じ、生身の人間と取り組まねばならぬ領域にはいりこんだため、人間を研究対象とする上での方法論、科学論には常に関心をもち続けてきたが、心理療法の経験が深まれば深まるほど、人間の宗教性についても考えざるを得なくなり、文字どおり科学と宗教の接点に立たされることになったと言えるのである。そのような体験を踏まえて、本書において宗教と科学の接点の問題について論じてみたい。ただ、ニューエイジ科学運動においては、深層心理学はもちろんであるが、理論物理学、大脳生理学、生物学、生態学、文化人類学、宗教学など実に多岐にわたる専門分野が関連してきて、到底それをすべてカバーして理解することは不可能である。そこで、筆者としては、もっぱら自分の専門分野である心理療法家であるという立場を生かしつつ、筆者の能力の及ぶ範囲内において、この問題を論じてみたいと思っている。これが機縁となって、わが国の各分野から宗教と科学についての討論が生じてくるならば、まことに幸せであると思っている。』

●人間存在

・『たましいとユングが呼んだものと、どのように接触してゆくかということを、人間はいろいろと考え出し、それを宗教という形で伝えてきた。宗教はそれぞれ特定の宗派をもち、それぞれがたましいにいかに接するか、それをどのように考えるか、などの点について厳格な理論や方法を有してきた。しかし、ユングはたましいを宗教としてではなく、あくまで心理学として研究しようとした。すなわち彼は、固定した方法や理論、つまり儀式や教義を確定するのではなく、個々の場合に応じてたましいの現象をよく見てゆき、それを記述しようと試みたのである。もちろん、古来からの宗教の知識はその点において極めて有用であり、その多くを利用はしたが、どれか特定のものに頼ろうとはしなかった。

たましいの現象は不思議なことや不可解なことに満ちていた。ユングはそれらを真剣に観察し記録していったが、多くのことに関しては発表してもおそらくは理解してもらえないだろうと思い、公表を長らくためらったものもある。公表した後も、彼は死の時まで自分の行っていることに対する方法論についてあいまいであったり、直観に頼って理論的な詰めをおろそかにしたりするという欠点のためもあったが、何しろ彼の考えが時代の流れをあまりにも先取りし過ぎていたためと言えるであろう。』

●西洋近代の自我

・『人間存在を全体として、たましいということも含めて考えようとすることは、宗教との必然的なかかわりを生ぜしめる。しかし、そこであくまでもたましいの現象を探求してゆこうとする態度は科学的と呼んで差し支えないものであり、ここに科学と宗教の接点が生じてくるのである。

しかし、そんなことを言っても、たましいなどということを対象とすること自体、既に科学的でない、と反論する人もあろう。つまり、たましいなどという測定不能なものは科学の対象外なのである。この点をどう考えるべきであろうか。これを考えるためには、西洋近代に確立された、自我の問題について少し考察する必要があるだろう。』

・自我とは自分と他と切り離した独立した存在として自覚し、自立的であろうとするところに特徴がある。このような自我によって外界を客観的に観察できるのである。

●東洋と西洋

・東洋人は西洋人のように自と他をそれほど切り離して考えていない。

・外界と内界などという区別を最初から立てていない。

・仏教は哲学、宗教、科学、などを未分化のまま包摂しつつ壮大な体系を持っている。その上、注目すべきことは、このような仏教の体系を見出した僧たちは、西洋の自我と異なる意識状態の中で、それを見出したと考えられる。

第二章 共時性について

●共時性とは何か

・『宗教と科学の接点を考える上において、ユングが提唱した、共時性(synchronicity)ということを取りあげることが必要であると思われる。最近、小野泰博が「宗教に何が問われているか」という論文において、共時性の問題を取りあげて論じているが、これまでのところ、わが国においても正面から論じられることが少なかった。というのも、これは論じることの難しいものであり、ユングもこのことを発表しようとしながら、「長年にわたってそれを果たすだけの勇気を持たなかった」と述べているほどである。彼はこのような考えを、相当早くからもっていたが、公的に発表したのは、1951年にエラノス会議において、「共時性について」という講義を行ったのが最初である。

ユングによる共時性について、まず簡単に説明しよう。ユングは彼の心理療法の過程のなかで、「意味ある偶然の一致」の現象が、相当に、しかも心理療法的に際めて意味深い形で生じることに気づいた。彼は1920年代半ば頃から、共時性の問題について考えていたが、その頃の体験として次のような例をあげている。彼の治療していたある若い婦人は、決定的な時機に、自分が黄金の神聖甲虫を与えられる夢を見た。彼女がその話をユングにしているときに、神聖甲虫によく似ている黄金虫が、窓ガラスにコンコンとぶつかってきたのである。この偶然の一致がこの女性の心をとらえ、夢の分析がすすんだことをユングは報告しているが、このうような例が、心理療法場面ではよく生じるのである。

こんなのを聞くと、それこそ「偶然の一致」で、「意味のある」などと大げさに言う必要もないと思われるだろう。しかし、もっと劇的なことは割にあって、特に筆者は夢分析を行っているので、夢と外的事象の一致という形で、このことを体験する。たとえば、夢で知人の死を見た翌朝、その人の死亡を知らせる電話を受けて驚いた人もあった。人間の死と関連して、このようなことは起こりやすいようであり、多くの類似の体験がユング派以外の夢の研究者によっても報告されている。たとえば、メダルト・ボスは多くのこのような類の夢を発表しているので興味のある方は、それを参考にして頂きたい[「夢 その現存在分析」]。』

●共時性と科学

・西洋の近代は因果的思考に頼りすぎていて一面的になっているとユングは考えている。

・中国人は現象を全体的にとらえる。それは史観にも現れている。

・アメリカ人は中国人の史観を理解できない。アメリカ人のいう本質とは事象の中に因果関係の連鎖を読みとることであり、中国の歴史の本質は、アメリカ人から見て末梢的と思える事象をすべて読みとった後に、全体のなかに浮かびあがってくる姿を把握することである。

・中国の文明史を見ると、共時性に関する深い知恵と、因果律を追求する科学の萌芽などの混在が認められる。

・近代の科学を代表するニュートンもガリレオも、現代において言う「科学的」思考のみに頼って事象を見ていたわけではない。

・ユングは共時性の概念の先駆者としてライプニッツを高く評価している。ライプニッツは哲学者であるが、微分積分の発見者で、二進法の道をひらき、動力学を創出した。ライプニッツは「単子(モナド)」という概念を導入し、ひとつひとつの単子は全宇宙を反映するミクロコスモスであり、単子は直接相互に作用を及ぼし合うことはないが、「予定調和」に従って、互いに「対応」したり「共鳴」したりすると考えた。彼のいう「対応」や「共鳴」の現象は、ユングのいう共時的現象と等価のものと考えられる。

・『ミクロコスモスとマクロコスモスの対応という考え方は、ミクロコスモスとしての人間をマクロコスモスとしての宇宙に関連づける思想であったが、西洋の近代自我が自我を世界から切り離し、自我を取り巻く世界を客観対象として見ることを可能にしたとき、そこに観察される事象は、個人を離れた普遍性をもつことになり、自然科学が急激に進歩したのである。普遍的な学としての自然科学はその後ますます力を発揮し、人間は世界を支配したかの如く見えながら、宇宙との「対応」を失ってしまったという点において、自らを宇宙のなかにどう定位するかという点で、根本的な問題をかかえこむことになった。』

・『自然科学の最先端において、それまでの方法論に対して根本的な反省をうながす問題が生じてきたのである。まず、1906年にラザフォードらによってα崩壊現象が研究され、自然現象のあるものは、単に人間の無知にもとづくものではない本質的な偶然性に支配されていることが明らかにされた。続いて量子力学の分野において、ハイゼンベルクの不確定性原理やボーアの相補性の概念などにより、古典的な機械論的世界観を否定する立場が打ち出されることになった。ハイゼンベルクの不確実性原理は、現象の因果性を論じる前に問題となる物事の決定可能性について論じ、電子の位置と運動量の相方を同時に正確に測定することはできないことを明らかにした。ボーアは光や電子はときには波動のように、ときには粒子のように振舞い、その相矛盾した性質が相補的にはたらくという考えを明らかにし、機械論的なモデルを変更したのである。』

・『ユングが共時性について発表したときは賛否相半ばし、たとえば、ユング心理学についてユング派以外の人間として、よき入門書を書いたアンソニー・ストーも、「共時性に関する彼の著作は、混乱して、ほとんど実際的価値がないと私には思えることを、告白せざるを得ない」と述べている。しかし、一方ではハイゼンベルクやパウリなどの理論物理学者が、この考えに深い理解と共感を示したことも非常に興味深いことである。特に、パウリ[スイスの物理学者、スピンの理論など]はユングと共に、共時性に関する書物を出版するに到ったのである。

●共時性と宗教

・『共時性の現象の背景に、ユングは元型(Archetypus)ということを考える。ユングの元型は解りにくいし、よく誤解もされるが、ここにひとつのたとえをあげてみる。朝まだ明けやらぬうちに、牛乳配達がくる、小鳥がさえずり始める、そして朝刊の配達がある。この順序が確立しているとき、われわれは、小鳥がさえずっているから、もう牛乳が配達されているだろう、とか、小鳥がさえずっているから、もうすぐ朝刊が配られるだろう、などという。しかし、これらの事象の間に因果関係は存在していない。これらの事象の背後にある、人間生活にとっての朝、明け方、というものによって、これらは布置されているのである。われわれは朝そのものを見ることも、手に触れることもできない。しかし、それは明らかに事象にあるまとまりを与え、それは意味をもっている。これが文化の異なるところに行けば、個々の事象は変わるだろう。あるところでは、新聞配達が来たから、そのうちに小鳥がさえずるだろう、と言うかも知れぬ。あるところでは新聞や牛乳の配達などまったく無いだろう。しかし、それら文化の異なるところにおいても、「朝」が人間にとってどのようなはたらきをするかは、たとえば、「活動の始まり」などの言葉によって、ある程度は一括的に記述できるであろう。

ユングは外界のみではなく、人間の内界にも、われわれの意識を超えた一種の客観界が存在すると考えた。彼はそれを類心(サイコイド)領域と呼んだりした。外界において既に述べたような「朝」という現象が生じるとき、内界においてもそれに呼応する「朝」のパターンが活性化され、人間の意識は外的現象を「朝」として知覚するのだ、と考える。人間はこの世に生まれるとき、何もない外界に生まれてくるのではなく、既にいろいろなものが準備されているところに生まれてくるように、その内界にも既にいろいろなパターンが可能性として存在している状態として生まれてくるのである。それだからこそ、人間は人間として行動するわけである。つまり、人間はまったくの白紙として生まれてくるのではなく、そのあらゆる行動において、ある種の潜在的なパターンを背負って生まれてくる。ユングはこのように考え、潜在的な基本的パターンを元型と呼んだ。

●心身の相関

・『古来からつねに論じ続けられてきた心身相関の問題も、共時性との関連で考えてみるべきと思われる。心身に何らかの関係があることは古くから指摘されてきたし、われわれも日常生活においても経験している。恐ろしいと感じたときに冷汗が出たり、悲しいときに涙が出たりする。このときは単純に、自分の感情の変化が身体の変化を生ぜしめると考えがちだが、一方では、周知のように、ジェームズ・ランゲ説というのがあって、むしろ、身体的変化が先行し、それが原因で感情の変化が生じると主張されている。こんなのを見ると、日常に生じている単純な事象でも、原因-結果という見方は容易に反転せしめ得るほどのものであることがわかる。つまり、心身相関の問題はなかなか単純なことではないのである。』

ウィリアム ジェームズ
ウィリアム ジェームズ

ジェームズ・ランゲ説:哲学者ジョン・デューイによって開発され、19世紀の2人の学者、ウィリアム・ジェームズとカール・ランゲにちなんで名付けられました。理論の基本的な前提は、生理的覚醒が感情を引き起こすということです。

Youtubeに「情動の2要因説」を説明された分かりやすい動画がありました。なお、こちらは宮川 純先生の”すき間時間の心理学”というサイトです。

●実際的価値

・『アンソニー・ストーが共時性の考えには実際的価値がないと指摘していることは述べた。一見するとそのように思えるのも無理からぬところがあり、筆者もかつてそのように考えたことがある。因果律による場合は、原因で明らかにしそれに操作を加えることによって結果を異なったものに変えられる。しかし、共時的現象というのは、ただ「そうだ」と言えるだけで、そこから何らの有用な操作を引き出すことができない。しかし、その後、筆者は心理療法家としての経験を増すにつれて、共時性の考えの実際的価値について思い到るようになった。』

心理療法を受けに来る人たちは、軽症の場合を除いて、その葛藤が合理的、一般的な方法によって解決できない場合が多い。いくら考えてもよい解決策が浮んで来ない。まさにボームの言うように思考は思考を超えるものの濾過器として働き、考えれば考えるほど問題解決のいと口がなくなってしまう。このようなとき共時的現象に心を開くときは、偶然として一般に棄て去れそうな事柄が、思いがけない洞察への鍵となることを、われわれはよく体験する。たとえば、ユングの例であれば、黄金虫の突然の出現が、この患者のそれまでの考えを改めさせるきっかけとなったのである。

ここで大切なことは、共時性の現象はそれを体験する主体のかかわりを絶対に必要とすることである。つまり、黄金虫の侵入は偶然として処理し得る。しかし、それを共時性の現象として受けとめることによって、そこに主体のコミットメントが生じる。近代合理主義によって硬く武装された自我は、ある程度の安定はもつにしろ、世界への主体的なかかわりを喪失する危険が高い。ユングがよく記述する、何もかもがうまく行っていて、しかも不安で仕方ないとか、孤独に耐えられなくなるような例が、これに当たるだろう。共時性の現象を受け容れることによって、われわれは失われていた、マクロコスモスとミクロコスモスの対応を回復するのだとも言える。つまり、コスモロジーのなかに、自分を定位できるのである。

しかし、黄金虫の例や、あるいは筆者の易の例は簡単に冷笑の対象ともなり得る。それは極めて一般性を欠いた事象であるからである。しかし、普遍的に正しいことばかりに支えられて生きていて、その人は個人としての人生を生きたと言えるのだろうか。因果律による法則は個人を離れた普遍的な事象の解明に力をもつ。しかし、個人の一回かぎりの事象について、個人にとっての「意味」を問題にするとき、共時的な現象の見方が有効性を発揮する。そして、心理療法においては、後者の方こそが重要なのである。

・『家庭や人間関係の問題を考えるとき、単純に因果的思考に頼ると、すぐに「原因」を見出し、誰かを悪者にしたてあげることが多い。たとえば、母親が悪の根源のように思われたりする。しかし、全体の現象を元型的布置として見るときは、誰かが「原因」などではなく、すべてのことが相関連し合っている姿がよく把握され、そのような意識的把握と、その全体の布置に治療者が加わってくることによって、事態が変化するものである。つまり、誰が悪いかと考えるよりは、皆がこれからどのようにすればよいかと考えることによって、解決の道が見出されてくるのである。実際、われわれ心理療法家が、困難な問題をかかえている人にお会いすると、本人も家族も、自分を悪者にされるように、あるいは自分以外の誰かを悪者に仕立てるために一生懸命で、バラバラになって硬直した関係をつくりあげている。またなかには、そのようなことを助長するような発言をする「教育者」とか「治療者」も多くいる。こんなときに、因果的思考から全員が自由になるだけでも、家族関係は変わるし、視野も広くなるし、回復への道が発見しやすくなるのである。このように、共時性に注目する態度をもつことは、実際的価値を有していると思われる。』

耳針療法とノジエ

耳針については専門学校時代に30歳程年下の同級生の中に、手先の器用な友人がおり、彼が耳針に興味をもっていました。

「配嶋さん、耳のツボを診てあげますよ」ということで。爪楊枝のような細い棒(ステンレス製?)で、何ヵ所か圧をかけられると、飛び上がるように痛い箇所(ツボ)がありました。多分、腰ではないかと思いますが、少なからず軽くなったように記憶しています。

それ以降、耳針に関心をもったのは、フランス人の医師のノジエ博士が確立された耳針法ぐらいでした。

先日、偶然、耳鳴りを耳針で治療するという記事をみつけ興味を持ちました。

耳鳴りは以前ブログに書いてこともあり(”耳鳴り”)、老化による耳鳴りは治すことは難しく、気にしないこと、長くつきあっていくものという認識を持っていたものの、「できれば、何とかした」という思いも残っていました。また、耳針であればいつでも自分でできるというのも魅力でした。

そこで、耳針がどんなものか「少し調べてみるか」と思い、古い本ですが1冊の本を購入しました。

内容は本のタイトル通り、耳針の実践本であり、理論などはそれ程詳しくは書かれていませんでした。

耳針療法の実際
耳針療法の実際

訳編著:清水蓮

発行:1975年3月

出版:刊々堂出版

目次

はじめに

1 耳針療法について

2 中国伝統医学の基本的な考え方

3 耳介の解剖

4 耳介の神経分布

5 耳穴(ツボ) -耳針刺激点-

6 耳穴(ツボ)の探測

7 耳電探索器の扱い方

8 耳電探索器による総合診断

9 耳針治療の“ツボ”の選び方と組み合わせ方

10 耳針の応用

11 耳針の操作と治療法

12 耳針の治療偏(1)

13 耳針の治療偏(2)

14 耳針麻酔について

15 耳針麻酔の応用例

1 耳針療法について

耳針療法とは何か?

『耳針療法とは耳介の反応点(耳のツボ)を探り出して、それに針を刺すなどの刺激を与え、病気を治そうとする一種の治療法であり、中国の伝統医学の基礎の上に発展したものです。』

中国古代の文献にみる耳部による治療

 ・「千金翼方」には、耳の後の「陽維」というツボに灸をすえれば、耳鳴りが治療できると期してある。

陽維
陽維

本画像は「家庭でできるツボ健康療法講座」より拝借しました。

 

P.ノジエ博士(仏)の耳診と治療について

・1957年ドイツの針灸学雑誌は、フランスのP.ノジエ博士の解剖学的見地からまとめた「耳と人体との関係」の論文を載せている。

・『博士は耳に圧痛点を求めて、その圧痛点に針治療を行うと、その疾患に効果があることを報告し、その圧痛点の部位で、患部を知ることも出来るし、逆に患部によって、圧痛点の起る部位がわかるというのです。』

P.ノジエ(仏)の耳の圧痛点
P.ノジエ(仏)の耳の圧痛点

画像出展:「耳針療法の実際」 

本画像は「耳つぼをこえる耳つぼ」フランス式のDr.ノジェさまより拝借しました。

施術中のノジエ博士です。

5 耳穴(ツボ) -耳針刺激点-

・非常にたくさんの病床について耳介を探測すると、特別敏感な反応点をみいだす。これが、耳針の大事な刺激点、耳のツボである。

・近年、各地の中国の医務工作の人々が、臨床に於ける耳の探則の実践を通じ、非常に多くの各種の疾病に一定の関係ある反応点をみいだし、あわせて貴重な診断と治療経験をつみかさね、耳針療法の内容は日ごとに豊富になっていった。

・以下は、上海中医学院編「針灸学」によるものである。

上海中医学院編「針灸学」
上海中医学院編「針灸学」

画像出展:「耳針療法の実際」 

6 耳穴(ツボ)の探測

圧痛法

・体のどこかに疾患があると、耳の該当区に圧痛点として現れる。圧痛棒(針の柄・爪楊枝・ガラス棒など)をもって、耳介上の圧痛点を探す。

・痛点が現れる所は、その相応する部位のみではなく、病気の臓腑の表裏と関係ある所にも現れる。

・例えば、胃痛には「胃区」の圧痛点の外、表裏の関係にある「脾区」にところの圧痛点をさがす。[表裏の関係とは、表(陽経)の「胃」と裏(陰経)の「脾」のことを表裏の関係という]

圧痛棒を使って圧痛点を探すときには、軽く、ゆっくり、そして均等に圧をかけるようにする。なお、正常であればそんなに痛みが出るものではないので、軽くとは痛いとは感じない程度とする。

圧痛点を探すときは、同じ圧であるにも関わらす明らかに痛さを感じる箇所を見つけるのであるが、痛い箇所にあたると、眉をしかめたり、避けようと頭を動かすので分かる。

圧痛の範囲が広い場合や、いたる所にある場合は最も敏感な点を探し出すようにする。

・圧は患者さんの年齢、性別などによって異なる。児童や痩せた女性は弱く、高齢者や皮膚の厚い人は強めに圧をかける。

続いて、もう少し理論的なこと、例えばノジエ博士の耳針法について知りたいと思い、図書館から借りてきたのが

欧米耳針法の理論と臨床』という本です。

ざっと目を通すと、耳針法の理論は深いものであることが分かりました。施術に取り入れるなら真剣に勉強しないといけないと思いました。

ただ、自分自身に試すのであれば、気になる箇所を鍉鍼や爪楊枝で圧迫し、顕著な痛点を見つけたら手加減しながら押圧するということはできるので、それがやれる程度は知りたいと考えました。

欧米耳針法の理論と臨床
欧米耳針法の理論と臨床

著者:MING HANG CHO

初版発行:S53年10月

出版:医道の日本社

「第一章 最新耳針医学の背景」の「2.耳針の歴史をたずねて」の中にノジエ博士に関して、興味深いものが出ていました。理論というよりエピソードですが、貴重なものだと思いますのでそちらをご紹介します。

『フランスの首都パリから250マイルぐらい南方のマルセイユ港に向かって下る途中、汽車で4時間ほどの所にリヨンLyonという人工100万ぐらいの古い都市がある。私が今までに8回ほどたずねた町である。8回も行った理由は、もちろんノジエをたずねるのが目的である。

リヨンという町は、ローンとソーンという2つの大きな川がアルプスのほうから流れて来て合流する地点のすぐ北にあり、川は150マイルぐらい南方のマルセイユのほうへ流れて行く。川があり、山があり、谷があり、風光明媚な所である。

リヨンの町は、ローマ人が紀元以前に建てた古い町で、1975年に行ったとき、時間の余裕があったので、発掘途中のコリセウム(競技場)、野外劇場、博物館等を見学に行った。歩くことの好きな私は、ホテルから歩いて数多い美しい橋をたずね、またおいしい食堂をたずね歩いてノジエと一緒に食べたこともある。

ノジエは町の西のほう300mぐらいの高さの谷を越えた中腹にある高級住宅街の一角、医師たちのはいっている5階建ての近代的な建物のなかにオフィスを持っている。オフィスの建物のそばにノジエの2階建ての住居もある。しっとりと春雨にぬれた庭の砂利を踏んで、オフィスから家へマロニエの木の下を氏とともに歩いてお茶によばれたこともある。

ノジエは、昔フランスの絹の生産中心地、今は染料とか化学物質生産中心地であるこのリヨンでエンジニアリングを学んだが、その後さらに医学に進み、外科、そのなかでも整形骨外科(オルソペディック・サージェリー)のほうに関心を持って勉強した医者である。

【1】対耳輪の火傷痕から

1951年ごろのある日、ノジエは1人の女性患者の耳にきれいな2mm幅の四角の火傷痕を発見した。耳の対耳輪の上の焼痕である。初めて見たこの珍しい火傷痕の由来を尋ねたところ、その患者は、「私は何年も坐骨神経痛に悩まされてきました。ある日人から耳を焼くとその痛みが治ると聞いたので、初めは迷ったのですが、あるとき痛みが激しいのにたまりかねて、耳を焼くというお婆さんの門をたたいたのです。ところが、耳を焼いた数分後、もうケロリと数年間の痛みが治ってしまいました」という。

耳針法の理論と臨床
耳針法の理論と臨床

画像出展:「耳針法の理論と臨床」

その後2~3年のあいだに、同じように耳に火傷痕のある患者をノジエは数人見かけた。そのつどていねいにたずねてみると、皆上記の患者と同じような病歴と治療効果をもっていると言う。何回も同じことを聞くと、初めは半信半疑も薄らいでくるのである。それでノジエ自身も、ある坐骨神経痛の患者に実験してみることにした。患者の耳の対耳輪の上を焼くと、やはり不思議にも坐骨神経痛は治るのである。

ノジエは、そのころマルセイユの医者でハリの大家ニボイエからハリを習っていたので、焼く代りに対耳輪上にハリを刺してみることにした。やはり効果があった。

探求心の強いノジエは、耳を焼いたり、耳にハリを刺したりして坐骨神経の痛みを治すだけでは満足できなかった。この耳の治療の背後に、何か重要な秘密があるに違いないと思ったからである。それは何だろう? どういう生理的関係があるのか? どういう解剖学的な関連があるのだろうか? 神経生理学的な関連があるのだろうか? こういう質問をノジエは、患者を診るたびに自分自身に繰り返して尋ねていたという。ノジエは現在68歳ぐらいだから、この美しい見事な禿頭の2.15mに及ぶ長身温厚なおじいさんが50歳を越したばかりのころの話である。

ある日ノジエに、神の助けに会ったように、日ごろの疑問への答えがひらめてきて、耳針法が始まったのである。

ノジエが語るには、その数年前、友人のアマシュウというやはり骨の外科に関心のある医者と一緒に、いろいろと脊椎外科の問題を何カ月か研究し、討議し合ったことがあるという。その数カ月のあいだ、アマシュウは会うたびに口癖のように「坐骨神経痛の問題は坐骨と仙骨との間の関節の問題だ」と繰り返して言っていた。ノジエがある日いつものように患者の焼いた耳を調べていたとき、アマシュウの言葉が頭に浮かんできた。それと同時に「この対耳輪の焼く点は、坐骨・仙骨間の関節点なのだ。だから、焼いたり刺したりするとそこの痛みが治るのである」というアイデアがひらめいてきたというのである。

耳の対耳輪は、我々の脊柱を代表する所にあたるはずという考えが、自然と頭に浮かんできた。坐骨・仙骨間の関節が対耳輪の上方にあるとする。そして対耳輪が我々の脊柱を代表するとすれば、当然対耳輪の下が我々の頸椎にあたらなければならない。すなわち、耳では脊柱が対耳輪によって代表されているが、それがさか立ちの形で代表されている。

体部位投射点
体部位投射点

画像出展:「耳針法の理論と臨床」

だから対耳珠の方が頭にあたるはずで、我々の耳には我々の身体の各部分を皆代表する部分があって、その分布は、胎児が子宮内でさかさまの位置にいるような恰好で耳に配置されていると思われる。

このようなことが、次々と推理に推理を重ねてノジエの頭に浮かんできたという。1953年夏のことである。

【2】数千年前からの民間療法

耳を焼いて坐骨神経痛を治す治療法は、地中海沿岸で民間療法として数千年間用いられた方法であった。多分、ペルシャ(イラン)かインドかエジプトあたりで発祥して広まったか、あるいは東洋から来たのかも知れない。(ペルシャ方面では、お灸のように皮膚を焼く療法も広く行なわれ、結核患者など、胸とか、背のほうにも焼いたあとが今でも見られるとのことである。)そして過去数百年間いくども医学者たちに着目されて患者の治療に応用され実験されたが、確固とした理論的裏付けをなす人が無く、医学者間の意識上に浮かんでは沈み、浮かんでは沈みを繰り返していたと思われる。

私の友人であり、またノジエが自分のいちばん重要な弟子だというプルディオールは、アフリカの北部アルジュリアが故郷である。プルディオールは「私も坐骨神経痛を耳を焼いて治療するのをアルジェリアでたびたび見たが、あまり注意を払わなかった」と私に告げた。ノジエの天才は、この事実を捉え、逃がすことなく毎日のように探求し、研究を重ね、ついに耳針法の基本となる耳と体部の相関関係、その反射的な相関配置関係を発見したのである。

『ノジエが、昔から耳を焼いて坐骨神経痛を治療する点が、耳での坐骨と仙骨の継ぎ目にあたる所で、その耳での反射点であり、対耳輪が耳での脊柱骨にあたる所であるという原理を発見したのが、1953年であるが、当時この新発見をニボイエに会って恐る恐る話したところ、ニボイエは膝を打って、このような耳の反射圏の事実は中国の針術には全然知られていない発見である。是非このつぎの地中海地方の針灸大会で発表してくれとのことで、1956年にその会で初めて以上の発見を発表したという。

その後ノジエは、ドイツのミュンヘンの医者バッハマンに会う。バッハマンはドイツのハリの雑誌の主幹をしていた人で、その雑誌が知られるものとなった。』

耳鳴り

今回、個人的な関心は耳針法による耳鳴りの治療です。以下のイラストも先にご紹介させて頂いた「家庭でできるツボ健康療法講座」さまより拝借したものですが、これを拝見すると、耳鳴りは交感(おそらく交感神経と思います)、上頸神経節点、そして内耳という3つのツボが重要であることが確認できます。

鍉鍼という刺さない鍼があるのですが、それを使って上記の3つのツボ付近を押圧すると、上頸神経節点と内耳の2か所については強くはありませんが圧痛点でないかと思う反応があります。

今後、時々耳ツボを刺激してみるつもりです。

ご参考:戦場鍼

Battlefield Acupuncture
Battlefield Acupuncture

戦場鍼灸が痛みを伴う人々をどのように助けるか

Battlefield Acupunctureは、2001年に米国空軍で現役を務めていたRichard Niemtzow博士によって作成されました。

Niemtzow博士は、耳に挿入された針が多くの種類の痛みを迅速かつ非常に効果的に緩和することを発見しました。

以下Youtubeです。8分18秒の英語の映像ですが、所々に刺鍼している様子が映し出されています。

Understanding Battlefield Acupuncture

プラセボと自然治癒力

プラセボというと、例えば、睡眠の問題を抱えた人に、「これは良く効くといわれている新薬だよ」といって、胃腸薬(ビオフェルミンのような)を渡して飲んでもらったところ、翌朝、「あの薬が効いたようだ、ぐっすり眠れたよ」などというものを連想します。プラセボ薬とはいわゆる偽薬に相当するものです。

一方、鍼の世界でも、「それってプラセボでは?」という話になることもあり、以前から“プラセボ”というものには関心をもっていました。特に“プラセボ”と“自然治癒力”の境目はなかなか難しい部分だなと感じていました。

今回の本は、ある探し物をしていて偶然に見つけたものですが、特にタイトルの副題、“プラセボから見えてくる治療の本質”に興味を持ちました。

プラセボ学
プラセボ学

著者:中野重行

発行:2020年3月

出版:ライフサイエンス出版

 

内容は専門性の高いものですが、最初の「プロローグ」には背景や概要などが書かれていますので、最初にそちらの一部をご紹介させて頂きます。

プロローグ

私は、心身医学を専攻し、臨床薬理学を専門領域とする医師として、この半世紀余りを生きてきました。心身医学では、心と身体の関連性を研究するとともに、臨床場面では、心と身体の両面から患者へのアプローチをします。心身症患者は、身体的な治療だけでは症状が改善しにくいことも多く、心の面からの働きかけが重要になってくるのです。一方、臨床薬理学の柱の一つである臨床薬効評価の場では、薬の有効性を評価する際に、対照群としてプラセボ投与群を設定することが、しばしば必要になってきます。

したがって、若いころから、プラセボという物質の存在とプラセボ反応(または、プラセボ効果)という現象には、深い関心を抱いてきました。そのため、プラセボ反応に関与する要因を明らかにするために、短期間の自覚症状・生理指標・行動面の変化を指標にした実験心理学的研究や臨床精神薬理学的研究を、いくつか行った経験があります。また、より長期間にわたる臨床での薬物治療効果を評価する場では、幅広い疾患と治療薬の臨床試験で、プラセボ投与群のデータを集積してきました。

いろいろな医学会で、プラセボをめぐる諸問題をテーマにしたシンポジウムやワークショップを担当する機会を、何度も経験しました。プラセボに関するテーマで、特別講演や教育講演を行う機会もありました。また、医学生や薬学性を対象にした教育の場や、臨床研究コーディネーター(Clinical Research Coordinator: CRC)を対象にした研修会の場では、プラセボ関連の話題はカリキュラム上重要な位置を占めています。

~中略~

プラセボ反応は、面白おかしく語られたり、場合によっては、邪魔もの扱いされたりすることさえあります。プラセボ反応が、なかなか科学の土俵に上がらなかったのは、プラセボ反応が多くの要因により規定されているためであり、生命現象としての「自然治癒力」と密接に関連しているからだと考えられます。

しかし、プラセボ投与群と薬物投与群の改善率を、構造的に理解すると見えてくるものがあります。それは「治療医学の本質」です。「治療は、生体の有する自然治癒力を前提に成り立っている」ということです。プラセボ反応として私たちが捉えているものは、生体の有する「自然治癒力」を介して働いている現象であり、その意味では生命現象そのものの特徴だということもできると思います。

プラセボ投与時の改善率(P[Placebo]+N[Natural fluctuation])を高めることに目を向けると、医療の効率化に資することができるように思います。医療費の節減にも貢献できると思います。また、健康な方にとっては、健康の維持や、健康寿命を延ばすことにも役立つように思うのです。』

なお、ブログは黒字部分、5章、10章、11章の一部です。

目次

1章 プラセボ投与時に見られる改善率

1.治療を含む臨床試験でプラセボ投与群の改善率はどの程度認められるのか:二重盲検ランダム化比較試験(RCT)の結果から

2.プラセボに関する用語と定義

2章 プラセボ投与時に見られる有害事象または副作用

1.「有害事象」「副作用」「薬物有害反応」という用語について

2.プラセボ投与時に見られる有害事象または副作用

3.「プラセボ効果」と「プラセボ反応」という用語について

4.「ノセボ効果」というとらえ方の問題点

3章 プラセボ効果(反応)の構造的理解

1.Post hoc fallacy(前後即因果の誤謬)

2.「プラセボ効果」と「プラセボ反応」という表現について

3.時間の経過に伴う病状や症状の変化

4.「プラセボ効果(反応)」の構造的理解

5.薬効の構造的理解 

4章 医薬品の臨床試験におけるプラセボの誕生とプラセボ対照群の必要性

1.臨床評価のためには比較試験が何にもまして重要である

2.臨床評価のための比較試験でランダム化(無作為化)が必要な理由

3.臨床薬効評価法におけるプラセボの誕生:臨床評価のための比較試験で二重盲検法が必要な理由

4.薬物の有効性と安全性を科学的に評価する際に、なぜプラセボ対照群が必要になるのか

5章 プラセボ効果(反応)に関与する要因

1.生体の有する「自然治癒力」

2.暗示効果または期待効果

3.条件づけ

4.患者と医療者の間の信頼関係

5.患者の治療意欲

6.患者への適切な説明(服薬指導)

6章 対照群にプラセボを使用する際の基本的な考え方

1.対照群にプラセボを使用する際に考慮する必要のある要因

2.臨床試験で有用性の実証された標準薬の有無と被験者の被るリスクの程度による分類

7章 プラセボ対照群を使用する臨床試験を実施する際の工夫と留意点

1.対照群に使用するプラセボとして必要となる条件

2.試験デザイン上の工夫と留意点

3.プラセボを使用することにより被験者が被る可能性のあるリスクを臨床試験チーム全体で背負う姿勢の重要性

4.被験者へのプラセボの説明のしかた

8章 プラセボ対照二重盲検比較試験における盲検性の水準とその確保

1.被検薬の特性以外の要因から薬剤の盲検性に問題が生じたケース

2.被験薬そのものの特性から薬剤の盲検性に問題が生じる可能性

3.被検薬の薬理作用から薬剤の盲検性が守れなくなる可能性

9章 プラセボの使用に関する倫理的ジレンマとそれを乗り越える試み

1.「プラセボ対照ランダム化比較試験」以前の時代におけるプラセボの使用について

2.「プラセボ対照ランダム化比較試験」の時代になってからのプラセボの使用について

3.世界医師会のヘルシンキ宣言にみられるプラセボの使用に関する考え方

4.プラセボジレンマとその解決策として考えられること

10章 プラセボ反応(効果)の治療における意義

1.薬物投与時にみられる病態・症状の改善についての理解のしかた

2.プラセボ投与群にみられる改善は治癒のプロセスの本質を理解するうえで重要

3.暗示効果

4.自然治癒力(自己回復力)について

11章 薬物治療の効果を高めるためのストラテジー(1)

1.薬物治療の効果に関する構造的理解

2.プラセボ投与時の改善率(N+P)を高めることにより患者が受けることのできる恩恵

3.薬物治療の効果(D+N+P)を高めるために

12章 薬物治療の効果を高めるためのストラテジー(2)

1.薬物治療効果を構造的に理解することにより見えてくるもの

2.プラセボ関連誤謬(錯覚):Placebo related fallacy

3.ライフスタイルの改善により「自然治癒力」を高める

補遣 プラセボの説明のしかた

1.「ロールプレイ法により学ぶ治験のインフォームドコンセント」と題する実習

2.プラセボについて説明することの難しさ

3.プラセボに関する医療者の理解度

4.被験者の治験内容の理解度:とくに「プラセボ」について

5.インフォームドコンセントについて

6.プラセボに関する説明を患者に対してする際の留意点

7.ランダム化比較試験(RCT)、とくにプラセボを患者に説明する場合には、コミュニケーションのエッセンスが詰まっている

5章 プラセボ効果(反応)に関与する要因

・下の図の中で、薬物以外の非薬物要因として挙げられているものは、プラセボ効果(反応)に影響を与える要因である。

薬物治療の効果に及ぼす薬物要因と非薬物要因の影響
薬物治療の効果に及ぼす薬物要因と非薬物要因の影響

画像出展:「プラセボ学」

 

・「プラセボ効果(反応)」には生体が有する自然治癒傾向と自然変動がベースに存在している。

プラセボ効果(反応)の構造的理解
プラセボ効果(反応)の構造的理解

画像出展:「プラセボ学」

 

1.生体の有する「自然治癒力」

・外傷や感冒の治癒過程を考えても、人間には「自然治癒力」が備わっていることは明白である。高度な外科手術で生体にメスを入れ縫合後、傷口が治っていくのは「自然治癒力」のおかげである。

・『私たちは、現代医学の目覚ましい技術的進歩に目が奪われるあまり、本来生体に備わっている「自然治癒力」の存在を軽視しがちなのではないでしょうか。いま一度、医療の原点に立ち戻って、「自然治癒力」を重視した医療のあり方を考える必要があるように思います。

・自然治癒力を高めるために、古くから「養生法」が工夫されてきた。「養生法」の基本は生活習慣の調整であり、食事、運動、心の持ち方が3本柱である。

2.暗示効果または期待効果

・『「いわゆるプラセボ効果」(図2のN+P)から「真のプラセボ効果」(図2のP)だけを抽出することは、臨床の現場ではまず不可能に近いほど難しいことです。しかし、実験心理学的研究の場では、実験条件のコントロールがある程度可能になるので、急性反応としての「真のプラセボ効果」を明らかにすることができます。』

内科領域の不安・緊張に伴う自律神経症状を主体とする心身症に関し、治験からプラセボ投与後の改善率が高いことは明らかになっている。

内科領域の心身症におけるプラセボ効果(反応)と患者の治療への期待度の関係
内科領域の心身症におけるプラセボ効果(反応)と患者の治療への期待度の関係

画像出展:「プラセボ学」

 

この図を見ると、期待度が中等度の場合に最も高く(53%)、軽度では少し低下し(36%)、強度では顕著に低く出現率だった(8%)。つまり、適度な期待度という心持が最もプラセボ効果が高いということである。

・より強力かつ有効な薬物が開発されると、その領域におけるプラセボ効果の出現率が高まる傾向がある。この現象も、患者だけでなく医療者側にも、期待度や効くはずだという信念が生じるための影響だと考えられる。

・治験において被検薬の副作用が、対照群であるプラセボ投与群でも同様に高い頻度で出現するという現象も、同様のメカニズムが働いているものと考えられる。

プラセボ効果はプラセボの価格によっても異なり、価格が高い方が鎮痛効果は出やすく、価格が安いと鎮痛効果が出にくいという報告がある。これは高い価格により生じる「効くという暗示効果」あるいは、「効いてほしいという期待効果」を介して生じている現象だと考えられる。また、健康食品や化粧品についても、同じような現象が見られる。

Waber RL, Shiv B, Carmon Z, Ariely D, Commercial features of placebo and therapeutic efficacy. JAMA 2008;299 (9):1016-7.

4.患者と医療者の間の信頼関係

・心身症を対象にしたプラセボ投与群の改善率の成績は、「医師-患者間の信頼関係」においても明確な傾向が見られる。

“良好”と“困難”では5倍の差が見られる。なお、プラセボではなく抗不安薬(ジアゼパム)の投与群でも同様な改善傾向が確認されており、あらためて医師-患者間の信頼関係の重要性が示唆されている。

内科領域の心身症におけるプラセボ効果(反応)と医師患者の信頼関係
内科領域の心身症におけるプラセボ効果(反応)と医師患者の信頼関係

画像出展:「プラセボ学」

 

5.患者の治療意欲

・「治療意欲」の程度での解析でも、2倍以上の差が出ており治療意欲を適度に高めるように支援することは大切である。

内科領域の心身症におけるプラセボ効果(反応)と患者の治療意欲の関係
内科領域の心身症におけるプラセボ効果(反応)と患者の治療意欲の関係

画像出展:「プラセボ学」

 

6.患者への適切な説明(服薬指導)

・患者にプラセボまたは薬物を投与するとき、その効果について適切な説明をすることは、薬効およびプラセボ効果を高めることが研究により明らかになっている。

薬効に関する医師の適正な説明が外来歯科患者の不安の強さに及ぼす影響
薬効に関する医師の適正な説明が外来歯科患者の不安の強さに及ぼす影響

画像出展:「プラセボ学」

 

・『冒頭に紹介した図1をもとにして、本稿で記述してきた要因を加味したうえで、プラセボ効果(反応)に関与する要因を整理しなおす、図7のような図ができあがります。

プラセボ効果(反応)に関する要因
プラセボ効果(反応)に関する要因

画像出展:「プラセボ学」

 

プラセボ効果(反応)やその根底にある「自然治癒力」がサイエンスの土俵に乗り難いのは、あまりにも多要因によって影響を受けている現象であるからだと思われます。サイエンスの重視している再現性を保証することが難しいのです。つまり、プラセボ効果(反応)に関与することが難しいことと、それらの要因の数量化が難しいためと考えられます。

しかし、プラセボ効果(反応)はサイエンスで取り扱うことが難しい現象ではありますが、その研究は薬物治療を含む治療医学の領域においても、また臨床薬効評価の領域においても、依然として重要なテーマであり続けています。』

10章 プラセボ反応(効果)の治療における意義

1.薬物投与時にみられる病態・症状の改善についての理解のしかた

・被検薬投与群とプラセボ投与群を比較試験(RCT:ランダム化比較試験)すると、それぞれに効果が見られる。つまり、被検薬投与群で得られた効果(改善率)が被検薬だけの効果のように取られることが多いが、実態はプラセボ効果が含まれており、被検薬単独の効果ではないという事実を知ることが重要である。

治験における標準薬または被検薬とプラセボの改善率
治験における標準薬または被検薬とプラセボの改善率

画像出展:「プラセボ学」

 

・『例として、内科領域における心身症、片頭痛、糖尿病(NIDDM)という三つの病態を取り上げてみます(図1)。いずれも国内の治験で得られた成績です。

心身症は心理社会的要因が密接に関与する心身相関の認められる病態です。不安症状や軽いうつ症状を伴うことの多い心身症では、その病態の特徴から容易に想像できるように、一般にプラセボ反応(効果)が比較的高く認められます。内科領域で心身症の診療をしている全国の医師が参加した治験の成績では、プラセボ投与群の改善率は42%、抗不安薬(ここでは標準薬として使用したジアゼパム)投与群の改善率は58%で、その差は16%でした。つまり、プラセボでも42%が改善し、代表的な抗不安薬であるジアゼパムは、改善率を16%上げているにすぎません。しかし、ジアゼパムの改善率58%という数字だけを見た人たち(製薬会社の職員だけでなく、患者や医師も含めて)は、ジアゼパムにより58%の患者が改善すると考えがちなのです。

片頭痛は拍動性の血管性頭痛です。遺伝的要因も関与しますが、ストレスによっても頭痛が誘発されることがあります。また、ストレスによって頭痛の症状が増悪されることもある病態です。頭痛は自覚症状としての訴えです。したがって、プラセボ反応(効果)がかなり高いことが予測されますが、プラセボ投与群の改善率は28%で、被検薬である片頭痛治療薬の改善率は52%でした。その差は24%になります。ここでも、片頭痛治療薬によって52%の患者の片頭痛症状が改善すると思いがちですが、実際には24%の患者が片頭痛治療薬の恩恵を受けて改善していることになります。

心身症や片頭痛は、心理的要因が病態や症状に関連していることが一般に認められており、自覚症状の改善が臨床評価に際して重視されます。したがって、プラセボ反応(効果)が出やすいと考えられています。

一方、糖尿病(NIDDM)は、血液中のHbA1cの値という客観的指標で臨床評価をする病態なので、一般にプラセボ反応(効果)はほとんど出ないと考えられているように思います。しかし、プラセボ投与群でも13%の改善率が認められ、被検薬となった糖尿病治療薬の改善率は43%で、その差は30%になります。つまり、糖尿病治療薬そのものの効果は30%で、プラセボ投与群の改善率の13%は、定期的に診察と血液検査を受けることに伴う食事や運動などのライフスタイルの改善によるものと考えられます。

ここで例として挙げた各病態での改善率の数値は、治療の対象となった患者層、投与量、投与期間、評価指標、評価期間などの諸要因により決まる値です。したがって、数値そのものはさほど重要ではなくて、薬物投与時にみられる病態・症状の改善をプラセボ投与群の改善と比較して、どのように考えたらよいかを理解するための単なるツールと思ってください。

薬物投与時にみられる病態・症状の改善率をどのように理解するかは、構造的に理解するのがよいと思います。

つまり、観察されたプラセボ投与時の改善を、N(自然変動:自然治癒傾向)とP(真のプラセボ効果または真のプラセボ反応)の組み合わせとして理解し、観察された薬物投与時の改善についても同様にして、NとPとD(薬物に起因する効果:薬効)の組み合わせとして理解するという方法です。』

薬物投与時とプラセボ投与時に認められる改善率の構造的理解
薬物投与時とプラセボ投与時に認められる改善率の構造的理解

画像出展:「プラセボ学」

 

11章 薬物治療の効果を高めるためのストラテジー(1)

3.薬物治療の効果(D+N+P)を高めるために

・薬物治療の臨床効果は、病態の適切な診断(評価)と適正な医薬品の選択、投与量、投与方法の選択が非常に重要であるが、薬物の治療効果は、薬物以外の多くの要因(非薬物要因)の影響を受けている。これがプラセボ投与群の改善率(N+Pの部分)に反映される。

・非薬物要因としては疾患に伴う諸要因(疾患の種類、重症度、疾患の時期など)と、疾患以外の諸要因(医療者側の要因、患者の年齢、治療環境、患者と医療者の信頼関係など)に分けられる。

薬物治療効果に影響する非薬物要因
薬物治療効果に影響する非薬物要因

画像出展:「プラセボ学」

 

1) 真の薬物効果(D)を高める

・薬物の効果や薬理作用の強さは以下の3つの要因で決まる。

① 薬物の種類(薬物の有する薬理作用の特性)

② 作用部位における薬物濃度

③ 薬物に対する生体の感受性

2) 自然治癒力(N)とプラセボ反応(P)を高める(N+P)

・医聖とされるヒポクラテス(紀元前460年頃~370年頃)は、健康はからだと心を含む、内的な力と外的な力との調和的バランス状態の表現であるとし、自然治癒力を重視した。

・「自然が病を癒す。人体は生まれつき備わっている反射と同様に、自動的に働く。自然はこの本質的なふるまいを、訓練も教育もなしに行うものだからである。」とヒポクラテスは言っている。

・中世のフランス人外科医パレ(1510~1590年)の残した言葉、「我、包帯す。神、癒し賜う。」は現代でも的を射ている。

・一般に、治療は生体の「自然治癒力」を前提として成り立っており、自然治癒力を妨げている要因があれば、それを排除して自然治癒力を促すことが重要である。

・自然治癒過程に配慮しながら、自然の法則にしたがって細かな調節をするのが治療行為である。

・治療行為は「疾患」だけが対象ではなく、「病人」も対象になるので、患者と医療者の信頼関係をベースに展開していく。

・あらゆる病態や症状には、心身相関が認められるので心理的社会要因をも考慮した「養生法」に基づく自然治癒力を高めるための枠組みが重要になってくる。

・『医師の信念と患者の信念、その相互作用によって、プラセボ反応はますます強化されていきます。医師が自分の行う治療法の価値を確信すること、患者もその治療法を信ずること、患者と医師がお互いに信じあうこと。この三つの要素が最適条件で働けば、たとえば非合理的な理論に基づく治療法でも、改善が起こりうるということを、医学の歴史は示してきました。近代医学が誕生するまでの治療医学の歴史は、「プラセボ反応の歴史」であったと言っても過言ではないと思います。

感想

今まで鍼灸の施術を行ってきて、「鍼灸に好意的な患者さま」、具体的には過去に鍼灸で良い経験をされた患者さま、鍼灸が好きな患者さま(怖い、痛そうなどのネガティブな感情ではなく、心地よいとか体が軽くなるといった感想をもたれる患者さま)は、効果が出やすいと感じていました。

今回、中野先生の『プラセボ学 -プラセボから見えてくる治療の本質』を勉強させて頂き、“信頼”や”期待”が治療効果に大きく関わってくることを、プラセボ研究というサイエンスを通じて理解できたことはとても大きな収穫でした。

一方、大きな反省点として痛感したことがあります。私は、特に慢性腎臓病(CKD)の患者さまに対して、「やってみないと分かりません」と言ってしまうこと多々あります。実際、Cr値(クレアチニン値)については、個人差が大きく明確な傾向も掴めていない状況で、まさにこの通りと言えます。

しかしながら、患者さまの中には検査結果を拝見すると、炎症性をみるCRPや貧血とも関わるヘモグロビン値などに改善傾向が見られることもあります。

もちろん、慢性腎臓病で来院される方の期待は圧倒的に腎機能の改善(Cr値の改善)ではあるのですが、短絡的にCr値だけをクローズアップするのではなく、患者さまの総合的な健康状態の理解に努め、鍼灸の効果について、知識と経験に基づき”適正な期待度”をもって頂けるように心掛けないと、”期待”や”信頼”という重要な要因に紐づく”効果”を失ってしまうと感じました。

天気病

梅雨時、特に6月にめまいを起こすことが多いというお話をある患者さまから頂きました。また、「天気病といわれるものかもしれない」とのことでした。

以前、天気病については少し調べたことはあったのですが、ほとんど記憶から消えてしまっていたので、あらためて調べてみることにしました。

その症状は天気のせいかもしれません
その症状は天気のせいかもしれません

著者:福永篤志

初版発行:2015年10月

出版:医道の日本社

この福永先生は脳神経外科の専門医でありながら、なんと気象予報士という驚くべき経歴をお持ちでした。

『医学と気象学という、2つの専門的な知識をもとにして、「気象病の具体的な予防法」をみなさんにお伝えしようとするのが、この本の趣旨となっています。』

とのことです。

目次

はじめに

第1部 天気を知って病気を防ごう

気象病のキホン

1 体は天気の影響を受けている!

●その日の体調は天気で変わる

●「気象病」って何?

●気象病は予防できる!

●天気予報を見て健康になろう!

2 天気予報の上手な見方

●天気予報はこうして身近になった

●知っておきたい気象用語

●天気予報はここを見よう!

Column 私が気象予報士を目指したワケ

第2部 明日の天気が命とり!?

脳卒中と心臓病

3 脳卒中には気温が関係していた!?

●脳卒中も気象病のひとつ

●脳梗塞が起こりやすいのはいつ?

●脳血栓は「気温差が大きい」日が危険!

●予防は温度調整と水分補給がポイント

4 夏より冬に多い脳出血

●脳出血は突然起こる!

●気温の低い朝が危ない!

●急激な血圧変動を抑える生活習慣を

Column 「脳神経外科専門医」について

5 気温差が危険!?くも膜下出血

●働き盛りは要注意な「くも膜下出血」

●寒い日の水仕事が危ない!

●くも膜下出血を予防しよう!

Column 脳卒中フローチャート

6.心臓病も気象病です

●心臓病ってどんな病気?

●心筋梗塞と狭心症

●冬に起こりやすい心臓病

●心臓病はこんな日に気をつけよう

Column 人類は変化している① がん患者総数の増加

第3部 あの身近な症状も!

まさまだある気象病

7 オゾンホールと白内障・皮膚がん

●オゾンホールって何?

●オゾンホールと白内障・皮膚がんの関係

●白内障と皮膚がんの予防法

8 天気と深い関係の片頭痛

●生活に支障をきたす片頭痛

●片頭痛が起こりやすい日をチェックしよう

Column 「イライラ」も気象病?

9 腰痛・関節痛は低湿・低気圧で悪化!

●腰痛・関節痛は体の炎症反応

●低温・低気圧の日に出やすい痛み

●腰痛・関節痛の対策

Column 人類は変化している② 不妊症

10 インフルエンザはなぜ冬に多いのか?

●ウィルスが増殖しやすい冬

●予防に「うがい」は効果ない?

●口腔内バイオフィルムを除去しよう!

●実体験から見たインフルエンザ予防法

11 気象が引き起こすアレルギー

●増え続けているアレルギー患者

●予防が難しい花粉症

●寒暖差アレルギーにも要注意!

12 盲腸は梅雨の晴れ間に多い!?

●盲腸は気象病か否か

●虫垂炎は予防できるのか?

13 生命を脅かすぜんそく

●死亡者の9割は高齢者

●ぜんそくが発症しやすい季節は?

14 油断大敵な熱中症

●日射病・熱射病も「熱中症」のひとつだった

●熱中症の原因とメカニズム

●熱中症の予防法は?

第1部 天気を知って病気を防ごう

気象病のキホン

1 体は天気の影響を受けている!

その日の体調は天気で変わる

・天気の影響を受ける最大の理由は、人間が恒温動物だからである。

人間は体内の酵素の働きを維持するため、体温を一定にしなければならず、この体温調節は主に自律神経系が担っている。

・気圧の変化にも体は恒常性を維持しようと反応する。気圧が下がると耳の奥の「内耳」の圧センサーが作動し、交感神経を刺激する。

気圧が下がると痛みに敏感になるのは、交感神経が活性化してノルアドレナリンなどの神経伝達物質が放出され、血管が収縮して痛覚受容器の活動が亢進するためと考えられる。

「気象病」って何?

・気象病の具体例:気管支ぜんそく、心臓病、脳卒中、尿路結石、腰痛・関節痛、リウマチ、花粉症、インフルエンザ、熱中症、食中毒、寒暖差アレルギー、片頭痛、虫垂炎、白内障、皮膚がんなど。

・気象病(生気象学)という言葉は1950年代後半頃から学会で使われるようになった。

・医学部では「気象変化を原因としてさまざまな疾患が発生する」という生気象学の考え方自体を深く取り上げていない。

・『私は、気象変化をひとつの切り口とした疾患の捉え方、そこから考えられる病気を治療法や予防法を研究することも、多くの患者さんにとって、実用的かつ有用的なのではないかと思っています。

気象病は予防できる!

・脳神経外科専門医かつ脳卒中専門医として、「脳卒中は予防できる!」と考えている。特に脳梗塞(無症候性脳梗塞を除く)は注意すれば防げると思っている。これは医学的かつ気象学的に血栓を予防できるという根拠があるためである。

-寝る前と朝起きた時にコップ半分~1杯の水を飲み、たばこを止め、バランスよく食事をとって動脈硬化を予防し、血液循環良くするために歩く習慣をつける。

-脳梗塞は真夏や季節の変わり目に多いという季節性があり、また気温差の激しい日に多いという特徴がある。このような日には水を少し多めに摂ることが予防になる。

脳梗塞を初めて起こした患者さんに話を聞いてみると、水をあまり飲まなかったという患者さんが多いことに驚かされる。

・『もちろん脳梗塞の最大の原因は、動脈硬化です。また、高齢者には、不整脈を原因として、比較的大きな血栓が心臓から脳へととんでしまう脳梗塞(脳塞栓といいます)も増えています。動脈硬化が強く、もともと血管が詰まりやすい状態や、心臓病をお持ちの方の場合は、残念ながら脳梗塞を起こしやすいのは事実です。

しかし、脳梗塞は、体の内部の状態が悪いだけで起こる病気ではありません。

人間の体は通常、病気を起こさないように働いています。血圧や体温を一定に保つように、自律神経・視床下部系が自動調節していますし、細菌の侵入を防ぐためのさまざまな防御機構や、侵入したときに活発化する免疫機能など、24時間、体は頑張っています。ところが、そこへ外部環境による負荷や刺激が加わり、耐えられなくなると、病気を発症してしまうのです。』

2 天気予報の上手な見方

知っておきたい気象用語

・晴れの日に多い病気は虫垂炎。

・曇りの日に多い病気はうつ病、ストレス性疾患。

・『患者さんの中には、入院中に微熱が続いていたのに、退院すると平熱に戻ってしまうという方をしばしばお見かけします。血液検査をしても異常はなく、原因不明なのですが、これはひょっとしたら日照時間が関係しているのかもしれません。入院中は、日光をほとんど浴びませんので、副交感神経が優位となり、体温が上がりやすくなります。しかし退院すると、日光を浴びて交感神経が優位となり、体温が平熱に戻るのではないかと思うのです。』

天気予報はここを見よう!

・気圧が10hPa下がると、海面は約10㎝上昇するが、我々の体に関しても気圧が下がって大気圧の力が緩むと、体はわずかに膨張するため体に何らかの変化が起きても不思議ではない。

第2部 明日の天気が命とり!?

脳卒中と心臓病

3 脳卒中には気温が関係していた!?

脳卒中も気象病のひとつ

・動脈硬化が進行し、血管が硬くなったために血圧を正常範囲にコントロールする自動調節機能がうまく働かず、冷気に触れたりすると、血圧が過度に上昇することがある。これにより脳の血管が切れたり、脳循環が悪くなって血管が詰まったりして脳卒中を起こす。

脳梗塞が起こりやすいのはいつ?

一過性脳虚血発作は脳梗塞の前兆であるため、速やかに病院を受診すべきである。また、脳梗塞の前兆には、数秒から数分間、目の目にシャッターが下りたように真っ暗になるという目の症状(黒内障)もある。「立ちくらみ」などと誤解されやすいが注意が必要であり、その場にしゃがみ込んだり、意識が遠のく感じがしたりすることがほとんど見られないという特徴がある。

脳血栓は「気温差が大きい」日が危険!

季節の変わり目で、前日との気温格差や日内の気温較差が10℃以上なる日は、着るものなどに注意て体温調整することが必要ある。

・心房細動などの心臓病をお持ちの高齢者は極端に温度が高い日や低い日に注意が必要ある。

予防は温度調整と水分補給がポイント

日頃からこまめに水分補給を心掛ける。

お茶(玉露、緑茶、紅茶、ウーロン茶)の中には、尿路結石の原因となるシュウ酸が比較的多く含まれている。一方、カテキンは体内の脂肪を分解する効果があるので、食後はお茶、飲水は水が望ましい。なお、麦茶はシュウ酸が少ないと言われている。

4 夏より冬に多い脳出血

脳出血は突然起こる!

・脳出血は「脳卒中」のひとつ。動脈硬化が本質的な原因と考えられるが、高血圧の既往のある人に多い。

・高血圧以外では、脳動脈静脈奇形、血管腫、脳腫瘍などからの出血や、高齢者に多いアミロイドアンギオパチーという、しばしば認知障害を伴って脳内に微小出血が多発する奇病もある。

・脳出血は脳梗塞と異なり、前兆や一過性の発作がなく、多くは突然発症する。

・『予防としては、普段から血圧を正常範囲内にコントロールすることが最も重要です。具体的には、収縮期血圧(いわゆる「上の血圧」)が140㎜Hg』以下、拡張期血圧(いわゆる「下の血圧」)が90㎜Hg以下という数値がひとつの目安となります。ただ、高齢者の方は、血圧が低すぎると脳循環が悪くなって、めまいなどを起こすこともありますので、あまり下げすぎないほうがよいかもしれません。

・脳出血の予防には、動脈硬化の進行予防、すなわち生活習慣病(高血圧症、脂質異常症、糖尿病、肥満など)の予防や禁煙、節酒が最も重要である。

気温の低い朝が危ない!

・脳出血に気をつけるべき気象条件

-気温が低く冷え込む日。

-晩秋、早春、日中の気温較差が大きい日。

-急激な気温変化の後は特に要注意。これは短期間での気温の低下は血中ヘモグロビン値、赤血球数、血圧などを上昇させ、しかも1~2日間継続すると考えられており、これにより血液粘調度の増加や高血圧につながるからである。

-早朝など午前中に発症することが多い。早朝に血圧が上がるという現象(モーニングサージ現象)が原因の一つと考えられている。

急激な血圧変動を抑える生活習慣を

・問題は血圧の自動調節機能が適切に機能しない血管の柔軟性が低下している高齢者や動脈硬化が進行している人である。

天気予報の「翌日との気温差および最低低気圧」を忘れずチェックする!

-寒い日は寝床に置いた上着を着て、決して裸足では歩かない。外に新聞を取りに行くときはマフラーを巻く。

-寒い日は無用な外出は控える。特に飲酒後は要注意。

-どうしても寒い日に外出するときは、暖かい格好で、手袋やマフラーは必須。

-入浴前は風呂場を温め、脱衣所も暖めておく。

-血圧は定期的に自宅で測定する。

-冷水で食器洗いや洗車はしない。血圧が過度に上昇することを防ぐ。

・入浴は、入浴前・入浴中・入浴後で血圧は大きく変動するため注意を要する。

急激な血圧変動を抑える
急激な血圧変動を抑える

画像出展:「その症状は天気のせいかもしれません」

5 気温差が危険!?くも膜下出血

●働き盛りは要注意な「くも膜下出血」

・脳は豆腐のように軟らかくて崩れやすい、約60%が脂質でできており、髪の毛よりも細い血管が無数に走行している。

・脳を覆っている3枚の膜(外側から硬膜、くも膜、軟膜)。くも膜と軟膜の間のくも膜下腔という隙間に出血するのがくも膜下出血である。

くも膜下出血の90%以上が、脳動脈瘤の破裂が原因とされている。頻度は10,000人に1人から3人であり、それほど多い病気ではない。ただし、発病者の半数近くの人が命をおとす恐ろしい病気である。

寒い日の水仕事が危ない!

冬空の下での洗車や冷水での洗いものなども注意を要する。これは冷たいという要素に加え、力を入れているということで急激に血圧が上がったことが脳動脈瘤の破裂につながったと考えられる。

・研究によると、4℃の冷水に手を1分間浸しているだけで、収縮期血圧が50㎜Hgも上昇することもある。つまり、普段120㎜Hgの人でも170㎜Hgまで上がってしまうということである。

寒い日の水仕事は危ない
寒い日の水仕事は危ない

画像出展:「その症状は天気のせいかもしれません」

くも膜下出血を予防しよう!

・40歳を過ぎた頃から脳動脈瘤の発生率は上昇し、脳ドック受診者全体の数%~6%程度に発見されると言われている。

6.心臓病も気象病です

心臓病ってどんな病気?

・本書では虚血性心疾患(心筋梗塞と狭心症)について見ていく。

・脳卒中と虚血性心疾患はいずれも動脈硬化が主な原因であるという共通点がある。また、高血圧症の合併が多いというのも共通点である。つまり、動脈硬化と高血圧は悪循環の関係にある。

・生活習慣病や高齢も共通点としてあげられる。

心筋梗塞と狭心症

・心筋梗塞

-冠動脈が詰まって心筋細胞が壊死してしまう病態。原因のほとんどは動脈硬化である。男性に多く、30代でも発症するが、50代以降に多発する。死亡率は5~30%程度と言われている。

冷汗を伴う突然の胸痛が特徴だが、違和感のみの場合もあるので注意を要する。その他、息苦しさや手足に力が入らない、めまいや気が遠くなって動けなくなるということもある。なお、これらの症状は15分以上続く。

・狭心症

-冠動脈が細くなって心筋組織への血流が不足し、心筋組織がダメージを受けることによって起こる。

-締めつけられるような胸痛を伴う一連の症候をまとめて狭心症という。

狭心症は冠動脈の一時的な血流不全によるものなので、通常は、5~15分以内に症状は治まる。

冬に起こりやすい心臓病

・心筋梗塞は寒い冬に多い。2000年の全国調査では6~9月が最も少なく、12~3月が最も多い。

人間が冷気に反応するのは恒温動物で、体内の酵素やホルモンを正常に機能させるためである。

-冷気は血管平滑筋を収縮させる。末梢の血流が悪くなり組織を障害すると痛み物質が放出されるとともに、心臓は血流を改善させるため血圧を上げる。

-冷気は皮膚に存在している冷覚受容器によりキャッチされ、中枢神経に伝えられてそれにより交感神経が活性化される。交感神経は末梢の血管を収縮させるので血圧は上がる。

-冷気によって刺激された冷覚受容器は大脳の感覚野へ伝わり、「寒い!」と認識する。さらに大脳の視床下部に伝わって交感神経を活性化する。これによって血圧は上昇する。

血管が軟らかければ血圧の上昇は少ないが、特に動脈硬化が進行した高齢者では注意しなければならない。

心臓病はこんな日に気をつけよう

・いくつかの研究で以下のような結果が出ている。

1日の気温差が9.4℃以上。

平均気温が15℃未満、または25℃以上。

平均気圧が1005hPa以下で、平均気温が10℃以下。

寒冷前線が通過するとき(風向きが北寄りに変わり、気温が急降下する)

心臓病はこんな日に気をつけよう!
心臓病はこんな日に気をつけよう!

画像出展:「その症状は天気のせいかもしれません」

第3部 あの身近な症状も!

まさまだある気象病

7 オゾンホールと白内障・皮膚がん

・白内障や皮膚がんの発症には、オゾン層が関係しているため気象病に含めている。

オゾンホールと白内障・皮膚がんの関係

白内障は加齢以外に、紫外線や糖尿病、アトピー、喫煙、過度の飲酒、酸化ストレスなどが白内障を加速、進行させる。

・皮膚がんが多いのは白人、国別ではオーストラリアやニュージーランドに多い。しかし日本でも年齢調整罹患率をみると、過去40年で2~5.5へと2倍以上に増加している。

白内障と皮膚がんの予防法

・白内障の予防に紫外線をブロックするメガネが有効だが、メガネのフレームの形も重要である。ただし、色が濃すぎるレンズの場合、瞳孔が大きくなるために、水晶体は多くの紫外線を吸収してしまうためである。

・喫煙、動脈硬化、生活習慣病の予防も重要である。

・皮膚がんの予防は肌が露出される部分に日焼け止めクリームをこまめに塗ることが効果的である。

・ビタミンCはメラニンの生成を抑制するのでガン予防になる。

白内障と皮膚がんの予防法
白内障と皮膚がんの予防法

画像出展:「その症状は天気のせいかもしれません」

日本白内障学会
日本白内障学会

左をクリック頂くと、「日本白内障学会」さまのホームページが開きます。

8 天気と深い関係の片頭痛

生活に支障をきたす片頭痛

・片頭痛の患者さんは日本全国に約800万人いると言われている。

赤ワイン、チーズ、チョコレート、ヨーグルト、アルコール、オリーブオイル、ハム、ソーセージなどの食材の摂りすぎや、翌日の昼頃まで寝るなどの過剰の睡眠など、食事・生活習慣が片頭痛と関係していることが分かってきている。

・女性の場合、母親の遺伝や生理との関連が知られている。

2001年頃から新薬(トリプタン製剤)が発売され、救世主となっている。

片頭痛が起こりやすい日をチェックしよう

片頭痛の主な原因は、ストレス、不眠、空腹、天気の変化、まぶしい日光、食物、生理、疲労、アルコール、寝すぎ、カフェインなどがあげられる。

・季節は春、秋、夏、冬の順に多いとされている。

9 腰痛・関節痛は低湿・低気圧で悪化!

腰痛・関節痛は体の炎症反応

・『私たちの体内では、炎症反応が無限に繰り返されています。なぜなら人間の体の中には、常に「異物」が存在するからです。「異物」とは、物質も含め、細菌やウィルスなど、人間固有の正常な細胞・組織以外のものを指します。つまり、本人を構成するもの以外のすべてのものです。異物に対し、人間は体内から排除しようと免疫機構が働きます。そのような反応のひとつが炎症反応なのです。

もちろん、小さな炎症反応にすぎなければ、体には何ら症状も起こらず、自覚しないまま終わってしまうでしょう。ただ、炎症が関節やその周囲に及んだときには「関節痛」を引き起こすことになります。

低温・低気圧の日に出やすい痛み

・気温が下がると体温を保つために、人間は体内で熱を産生する。すると、カロリーが消費されるため十分な栄養が蓄えられていないと、免疫機能は低下し体内の細菌やウィルスが増殖する。もし、関節や神経の周囲に潜んでいたウィルスなどが増殖すると、関節や神経に炎症反応が波及することになる。

腰痛・関節痛の対策

傷害直後は冷やすことが必要であるが、それ以降は保温により血流を高めることが重要である。

・自分自身の痛みと相談しながら少しずつ筋力増強やストレッチを行うことも重要である。

・気象対策は、痛みが起こったときの記録をつけると、気象の変化との関連性が分かるようになるため、保温対策などを取ることができるようになる。

11 気象が引き起こすアレルギー

寒暖差アレルギーにも要注意!

・寒暖差アレルギーとは寒暖差を原因として、鼻水、鼻づまりやくしゃみが起きてしまう症状であるが、医学的な病名は「血管運動性鼻炎」といって、正確にはアレルギーではない。

・原因は鼻粘膜にある血管の収縮・拡張を調節する自律神経の失調と考えられている。

コロナワクチンの疑問

新型コロナウィルスが日本で発見されたのは、2020年1月15日でした。「大変なことになったなぁ、まさか、生きてる間にパンデミックに遭遇するとは。。」と思い、なんとなくデータの集計を始めました。それは2020年8月初旬のことでした。

ブログ“スペイン風邪と新型コロナ2”をアップしたのは、翌年2021年1月8日です。この時には、頑張ってこの年の年末までデータを集計しようと考えていたのですが、その年末には、第6波の兆しがあったため、つい、そのまま集計を続けてしまい現在にいたっています。さすがに今回の第7波が沈静化したら終わりにするつもりです。

「mRNAワクチンって平気なのかなー」という疑問はなくはなかったのですが、ワクチンは打つべきだと思っていましたので、安全性など特に気にしてはいませんでした。

そんな中、少し前に知り合いから教えてもらったコロナ情報に不安を感じました。

その記事は以下のものです。

緊急速報!mRNAで想定外の報告、逆にコロナへの免疫を抑制&一生の記憶になる可能性有り、特に子供は一旦接種中止して検討を!” 

 『7月10日にドイツの複数の大学研究室グループがmRNAワクチンに関して憂慮すべき論文を発表しました。それはmRNAに限り(アストラゼネカのDNAワクチンでは認めず)繰り返し接種することで新型コロナに対して逆に免疫抑制を起こしてしまうのでは無いか、というショッキングなものです。』

免疫抑制を起こすIgG4がmRNAに限り顕著に検出されブースターで増幅されたという報告です。全く想定外の重大な結果であり、緊急に検討が必要です。』

私にとって次は4回目の接種ということになりますが、現在普及しているワクチンのオミクロン株に対する効果の低さを考えると、打たない方が良いのかなとも思っています。

そこで、ワクチン接種に対してネガティブな情報に注目したいと考え、今回の本が8月24日と最近発行された本ということもあったため、この本で勉強させて頂くことにしました。

コロナワクチン失敗の本質
コロナワクチン失敗の本質

著者:宮沢孝幸、鳥集徹

出版:宝島社

発行:2022年8月

京都大学ウィルス・再生医科学研究所
京都大学ウィルス・再生医科学研究所

こちらは宮沢先生のサイトです。

もう一人の著者である、鳥集 徹先生は医療分野のジャーナリストです。

目次(大項目のみ)

はじめに

第一章 コロナワクチンの「正体」

第二章 コロナマネーの深い闇

第三章 マスコミの大罪

第四章 コロナ騒ぎはもうやめろ

おわりに

ブログは、第一章 コロナワクチンの「正体」の一部、特に気になったところを取り上げています。

重症化予防効果への疑義

血中にウィルスが少ないならば、血中の抗体量はあまり重要なことではない。

ワクチンを打っても排出されるウィルス量は不変

●2021年7月、CDC(米国疾病予防管理センター)が、デルタ株に感染した人は、ワクチン接種者も非接種者も、ほぼ同量のウィルスを排出していると発表した。

mRNAワクチン

mRNAはDNAから写し取られた遺伝情報に従い、たんぱく質を合成する。翻訳の役目を終えたmRNAは細胞にとって不要なためすぐに分解される。

・mRNAワクチンはmRNAの機能を利用して免疫反応を引き起こすことを目的としたワクチン。

・新型コロナウィルスワクチンは、スパイクたんぱくの遺伝子をコードしたmRNAを脂質の膜(LNP:脂質ナノ粒子)で包んだ構造となっている。これを注射すると体内の細胞がLNPを取り込み、その中のmRNAが細胞内のたんぱく製造工場であるリボソームに送り込まれる。そして、リボソーム内で設計図が読み取られて、スパイクたんぱくが生み出される。そのスパイクたんぱくに、マクロファージや樹状細胞が反応することで、液性免疫や細胞免疫が誘導される。

変異しやすいことは研究者にとって常識

細胞性免疫

細菌やウィルスに感染した細胞やがん細胞などの異常細胞を、抗体を介さずに直接攻撃する免疫反応のこと。樹状細胞が異物を見つける、それを取り込んで分解し、その一部を抗原として提示する。それを認識したヘルパーT細胞(T細胞=リンパ球の一種)がサイトカイン(免疫細胞から分泌される生理活性物質)を産生して、マクロファージや細胞傷害性T細胞を活性化させ、異常細胞を殺傷または自死(アポトーシス)に追い込む。

抗体ではなく細胞性免疫が「主役」?

自然免疫

体内に侵入した細菌・ウィルスや体内で発生した異常細胞をいち早く感知して、排除する免疫反応のこと。好中球、樹状細胞、マクロファージ、NK(ナチュラル・キラー)細胞などがこれに担っている。さまざまな病原体に対して幅広く対応する自然免疫に対し、「液性免疫(抗体の免疫)」や「細胞性免疫」など、病原体を記憶して再侵入したときに直ちに働く免疫反応を「獲得免疫」と呼ぶ。哺乳類など脊椎動物にしかない獲得免疫に比べ、あらゆる昆虫や動物がもっている自然免疫は原始的なものと考えられてきたが、近年ではウィルスや細菌の種類まで認識する高度な能力をもつと再認識されるようになった。

●新型コロナウィルスに対抗する働きは抗体より細胞性免疫ではないか。免疫はウィルスの種類によってレスポンス(反応)が違う。アデノウィルスは抗体の反応が早くすぐに抗体ができる(抗体価が高くなる)。

コロナウィルスの反応はむしろ遅い方である。自然免疫の他に、細胞性免疫と液性免疫(抗体の免疫)があるが、獲得免疫とされる2つの免疫は、均等ではなくどちらかに偏っている。これは「Th1/Th2バランス」といい、Th1が優位になると細胞性免疫が、Th2が優位になると液性免疫が働く。どちらを高めるかは最初に敵が入ってきたときに樹状細胞やサイトカインが決めるが、反応の遅いコロナウィルスは、細胞性免疫、Th1が優位になっていると考えられる。

なぜ「不活化」ではなく「mRNA」だったのか

液性免疫(抗体の免疫)

リンパ球の一種であるB細胞が賛成する抗体によって引き起こされる免疫反応。抗体にはウィルスや毒素に結合することで感染力や毒性を失わせる中和作用のほか、病原体に結合してマクロファージや樹状細胞の働きを助ける。補体(抗体や免疫細胞の働きを補完する物質)を活性化して細胞傷害を引き起こすなどの役割がある。

●ネコの伝染性腹膜炎ウィルスはワクチンにより抗体を誘導すると逆効果になる。これはADE(抗体依存性感染増強)が起こるためである。

ADE(抗体依存性感染増強)

ウィルス感染やワクチンによって体内にできた抗体が、感染や症状をむしろ促進してしまう現象。同じコロナウィルスの仲間によって引き起こされたSARS(重症急性呼吸症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)のワクチンは、このADEの発生がネックとなって開発が断念された。また、熱帯地方で流行するデング熱のワクチンも、接種した子どものほうが重症化率が高くなるおそれがわかり、これを導入したフィリピン政府が2017年に接種を中止した。

ADEは中和作用をもたない抗体が、むしろ感染を手助けする方向に動くことで起こると考えられている。

不活化ワクチン

細菌やウィルスから毒性を取り除き、免疫反応を誘導できる成分を取り出してつくられたワクチン。増殖する能力がないので、長期にわたって免疫反応を維持する目的で、複数回投与されることが多い。破傷風、インフルエンザなどで不活化ワクチンが使用されている。

抗体をつくらせるだけなら不活化ワクチンでよい。コストはかかるが高度な技術は不要である。欧米の製薬会社がmRNAワクチンを選択したのはコロナウィルスの特性を考えたからであろう。コスト面ではmRNAワクチンは人工合成で大量生産が可能なので低コストで生産できる。

不活化ワクチンは抗体を誘導する傾向が強いので、ADEが起こって逆効果になるおそれがある。

●mRNAワクチンは細胞性免疫も誘導するためmRNAワクチンが選択されたと思われる。

宮沢:『実は、私たちが動物用のワクチンを開発するときには、抗体が効いているのか、それとも細胞性免疫が効いているのかを、受身免疫という方法で確認するんです。ワクチンを打っていない動物に抗体だけを投与したり、あるいは免疫細胞を投与したりして調べることができます。とくにマウスでは遺伝的条件を備えられるので実験しやすいです。しかし、ヒトでは細胞性免疫が効いているかどうかを調べるのは、コストもかかります。だから、ワクチンの効果を示すのに「抗体が上がっている」という話をするのだと思います。しかし、抗体があまり意味がないとしたら、この抗体で評価すること自体おかしいということになります。』

「抗体」の罠

中和抗体

ウィルスや細菌の病原性を失わせる作用のある抗体のこと。新型コロナウィルスの場合、ウィルスのスパイクたんぱくに中和抗体が結合すると、ACE2受容体に接着できなくなり、細胞への感染ができなくなる。ただし、ワクチン接種によって中和抗体ばかりができるわけではなく、かえって感染や重症化を促進するADE抗体も同時にできるおそれがあると指摘されている。

●ADEはウィルスを中和できない抗体が悪さを及ぼすことで起こる。ネコのコロナウィルスに対するワクチンする時もADEをいかに回避するかということが大きな問題であり、いまだに安全で有効なコロナワクチンができない。

●ワクチン接種による重症化の防御は抗体というより、細胞性免疫や自然免疫の可能性も考えられる。

宮沢:『私は細胞性免疫の誘導だけを考えるなら、2回のワクチンで十分ではないですかと言ってきました。細胞性免疫がウィルスに感染すると、感染細胞を認識してやっつける細胞傷害性T細胞ができます。一度感染すれば、十分な数のウィルス特異的細胞傷害性T細胞ができなます。ウィルスがいなくなると、特異的細胞傷害性T細胞の数は減り、分裂をやめて少し小さくなってリンパ節などに潜みます。これをメモリーT細胞と呼びます。そして、次に感染したときにはすぐに爆発的に増殖して、感染細胞をやっつける細胞に変わります。いったん減っても、感染すればすぐに戻るので対抗できるわけです。なので、よほどのことがない限り2回のワクチン接種で十分なはずです。

抗体は減少していくものなので、細胞性免疫をきちんと誘導できていれば、抗体が減ってもあまり気にする必要はない。

宮沢:『さらに抗体を上げるとADEも起こりかねないので、私たちはすごく怖かった。ネコの伝染性腹膜炎ウィルスは、抗体と結びつくとマクロファージに感染しやすくなるんです。ところが不思議なことに、新型コロナウィルスはマクロファージに感染してもあまり増殖できないようなのです。同じコロナウィルスで系統も近いSARSコロナウィルスやMERSコロナウィルスはマクロファージに感染してADEが起こったのに。そのせいか、新型コロナウィルスでは今のところADEがそんなに問題になっていない。

もし一部の人で新型コロナウィルスが変異して、ワクチンによって産生された抗体によってマクロファージに感染し、ADEを起こすタイプに変われば、その人にとっては逆効果になってしまう。ひとたびそのような変化が起こったらとんでもないことになります。だから抗体を上げるのは博打だから、やめたほうがいいと言ってきた。

重症化予防効果はあるのか、ないのか

宮沢:『重症化予防になるかどうかは一概には言えないと思います。ワクチンを打って細胞性免疫の活動を上げれば感染細胞を殺すことができるので、広がらなくすることができるから重症化予防になるでしょう。しかしその一方で、前に言ったように抗体が悪さをする可能性もあるので、差し引きが分からないんです。私がずっと言ってきたのは、たしかに感染予防効果、重症化予防効果は論理的に考えてあるでしょう。しかし、その半面、逆も真なりだよと。どっちが多いのか。それがわからないのです。

(-抗体をあげるといっても、中和抗体ばかりができるわけではなく、ADE(感染増強)抗体もできる可能性がある?-)

そうです。ADE抗体が多ければ免疫細胞へ感染しやすくなるし、増悪させてしまう。一方、細胞性免疫ならいいと私も思いますが、考えようによっては細胞性免疫だって悪く働く可能性がある。なぜかというと、たとえばウィルスが肺に到達して、そこで感染細胞が一気に増えたとしたら、細胞性免疫が肺の細胞を一気に攻撃する。そうすると炎症が広がって、肺が広範囲に傷害を受けてしまう。そういう可能性もあるんです。ですから、細胞性免疫だって絶対善ではないんです。』

mRNAワクチンでなぜ人体に害が起こり得るのか

●スパイクたんぱくを作り出している自分の細胞を、ウィルスに感染した細胞と勘違いして、細胞性免疫を攻撃することを危惧している。

コロナ後遺症とワクチン後遺症の症状が似ている理由

●厚労省は2021年12月、心筋炎を「重大な副反応」と位置付けた。

●スパイクたんぱくが心臓に付着したら、免疫細胞や抗体と補体(抗体や免疫細胞の働きを補完する物質)から攻撃を受けるだろう。それだけでなくLNP(脂質ナノ粒子)が心臓の細胞に取り込まれ、スパイクたんぱくが作られれば、細胞性免疫の攻撃対象になるだろう。

コロナウィルスによるスパイクたんぱくとワクチン接種によって細胞が作り出すスパイクたんぱくに大きな違いがあるとは考えにくい。もし、コロナの後遺症がスパイクたんぱくによるものだったとしたら、ワクチン接種で同様なことが起こっても不思議はない。

mRNA由来のスパイクたんぱくが残存して4カ月以上体内を循環しているという論文もある。

Bansal. S. et al., (2021). Cutting edge: Circulating exosomes with COVID spike protein are induced by BNT162b2 (Pfizer-BioNTech) vaccination prior to development of antibodies: a novel mechanism for immune activation by mRNA vaccines. J. Immunol. 207: 2405-2410. doi: 10.4049/jimmunol.2100637

通常はスパイクたんぱくといえども分解されると思うので、体内のどこかでつくり続けているという可能性が高いと思う。

mRNAワクチンは体内でも短時間で分解されるのか?

●シュードウリジン化

・シュードは「偽の」という意味。mRNAは4つの核酸化合物によって構成されている。mRNAワクチンでは、その核酸化合物の一つであるウリジンが、修飾核酸に置き換えられている。それによって、通常は体内に入れるとするに免疫によって破壊されるはずのmRNAが免疫を回避できるようになり、十分なスパイクたんぱくを作れるようになった。

●試験管内の実験においてmRNAが数時間で分解されても、ヒトの体内でも同様なスピードで分解されるかどうかは簡単にはわからない。

mRNAワクチンは一部をシュードウリジン化している。これによりmRNAは数時間、分解されることなくスパイクたんぱくを作れるようになっている。しかし、数時間で分解できないとなると、それは問題である。

●ワクチンを接種した人がコロナに感染して、それによってずっとコロナのスパイクたんぱくが出ている可能性もある。

接種者は非接種者に比べて1.4倍「帯状疱疹」になりやすい

●イスラエルでは医療保険システムのデータを使って、ワクチンの接種者と非接種者、約884,000人を比較した研究によると、接種者は非接種者に比べて1.4倍帯状疱疹になりやすいというデータが出ている。一時的ではなくかなりの免疫抑制が起きている可能性がある。

BNT162b2ワクチンの有害事象を調べたイスラエルの大規模研究が注目” 

 ワクチン群の候補者173万6832人の中から、非接種者と年齢、性別、人種、居住地、社会人口動態条件、併存疾患などの条件がマッチするペアを88万4828組選び出した。年齢の中央値は38歳で、48%が女性だった。非接種者と比較したワクチン群の有害事象のリスク比は、心筋炎3.24(95%信頼区間1.55-12.44)リンパ節腫脹2.43(2.05-2.78)虫垂炎1.40(1.02-2.01)帯状疱疹1.43(1.20-1.73)などだった。』

免疫システムを混乱させている可能性

宮沢:『mRNAワクチンの接種後に免疫システムの混乱を起こしていないかどうか確認したんだろうかと思って論文などを探すのですが、それを網羅的に調べた研究が見つからないんです。ただし、ワクチンを打った人の免疫細胞の反応が鈍っているという論文はいくつか出ている。それを見ると、免疫システムがおかしくなっても不思議ではありません。

なぜなら、私たちの体の細胞はたんぱく質をつくっています。その設計図は、人間を含む真核生物の場合、細胞の核に収容されているDNAの中にとびとびに書き込まれています。それをくっつけて一つの設計図にして、mRNAに転写してリボソームに送り、そこでたんぱく質をつくります。

そして、普通は必要な量だけつくったら、そのたんぱく質をつくるのをやめるんです。なぜかというと、たんぱく質をつくりすぎると他の細胞に悪影響を及ぼしてしまうから。どんなに毒性が低いたんぱく質でも一つのたんぱく質を大量につくると、細胞が死んでしまうんです。だから、適正な量で止めなきゃいけない。

では、どうやって止めるかというとmRNAをすぐ壊すんです。それでたんぱく質が足りなければ、もう一回、mRNAが出てくる。そのmRNAの寿命も、実はすべて同じではありません。早く壊れるものもあれば、長く残るものもある。それもどこがどう違うのか、今、盛んに研究されていますが完全にはわかっていないんです。

(-mRNAが壊れる時間も、意図的に制御されているんでしょうか-)

詳細はよくわかりませんが、いずれにせよmRNAは基本的には早く壊すんです。ところが今回のワクチンのmRNAは、細胞内のセンサーは認識できず、自然に壊れる時間に比べると残存する時間が圧倒的に長いわけです。また、通常のmRNAの分解機構と異なる方法で分解されます。そんな状態のなかで、体内にあってはならない(あるいは不要の)たんぱく質が大量につくられてしまったらどうなるか。たんぱく合成を早く止めたいんだけど、細胞には止め方がわからない。普通ならDNAから転写されてmRNAを見つけることすらできない。だとしたら、細胞はどうするか。私が細胞だったら、「センサーが足りないんじゃないか」と思うでしょう。だから、センサーの分子を増やそうとする。そうなると思いませんか?

(-思うかもしれません-)

私のセンサーが消えてしまったのではないか、あるいは私のセンサーが壊れてしまったのではないかと勘違いして、混乱するのではないかと思うんです。その混乱が、今、起こっているのではないかと私は思うんです。

(-その可能性はありますね-)

この混乱が一過性だったらいいのですが、比較的長く続く可能性だってある。訓練免疫という言葉がありますよね。免疫システムは経験したことのある外敵のことを覚えていて、2回目、3回目になるほどレスポンスが強くなる。獲得免疫と違って、自然免疫にはそのような記憶はないといわれてきました。しかし、最近の研究では自然免疫にも記憶があるようだと言われ始めています。

自然免疫も、何度も同じ外敵を浴びていたらレスポンスが早くなる。おそらくセンサーが反応しやすくなるのだと思います。そのセンサーを混乱させたら、レスポンスはどうなってしまうのか。たとえばピアノを弾く練習をしてピアノがうまくなったとします。しかし、その後におもちゃのピアノを渡されたら。

(-本物と同じようには弾けないでしょうね-)

そうです。それでおもちゃのピアノばかり弾いていたら、今度は本物のピアノが弾けなくなる。つまり、シュードウリジン化して修飾したmRNAによって免疫が混乱すると、本物のウィルスにうまく反応できなくなることもあり得ると思うのです。

そのような反応を制御しているのが何かというと、今よく言われてるのがエピジェネティックなのだと思います。通常、親の特徴はDNAに書かれた遺伝子を通じて伝わることがある。これがエピジェネティックです。DNAの遺伝子の一部やDNAを取り巻くたんぱく質の化学的性質が変わることによって、どの遺伝子が発言して働くかが変わってくる。最近の研究ではそれが世代を超えて遺伝することもわかってきています。ある世代で起こった遺伝子発現のパターンの変化が次世代に伝わってしまう。これは驚くべきことです。』

感想

パソコンのOS(オペレーティングシステム)は、多くの開発エンジニアが十分な期間をとって、品質安定のためテストを行うものですが、それでも製品が出荷され、何万、何十万、何百万人とユーザが増え、期間も1カ月、半年、1年と経過するなかで、いわゆるバグが見つかり、改善ということを繰り返し、OSとしての完成度は高まります。

今回のコロナワクチンはインフルエンザで採用されている従来の不活化ワクチンではなく、mRNAワクチンなど、新しいメカニズムをもったワクチンになります。その意味では未知の部分が少なくないことは間違いありません。

抗体の数が大きく取り上げられている状況ですが、細胞性免疫や自然免疫の重要性も非常に高いようです。

また、抗体も中和抗体は力強い味方ですが、抗体全体を眺めてみると、味方ばかりではなく、リスクも存在しています。IgG4については特に触れられていませんでしたが、免疫力が落ちるという論文は複数出てきているとのことです。

以上のことから、オミクロン株への防衛機能が乏しい現在のワクチンによる4回目のブースター接種は見送った方が無難かなという気持ちが強くなりました。

下田歌子10

順心女子学園六十年のあゆみ
順心女子学園六十年のあゆみ

編集:順心女子学園六十周年史編集委員

発行:昭和1984年10月

出版:学書房出版

共愛の世界

・震災後、世の痛切な要求によって、普通の高等女学校も設立された。順心高等女学校がそれである。しかし校長始め理事たちのこの計画は単に世の要求と云う単純なものではない。ここに大きな共愛の世界を創造してみたいというのが理想の根底にあった。

・順心女学校は主として家庭の都合で、高等女学校に通学し得ないもの、又は本人の希望でこの学校を選ぶ人の為の学校である。この二つの学校には富についての差があるが、同じ校舎、同じ職員、行事や式も一所に行われた。家庭の恩恵により高等女学校に学ぶことのできる幸福を深く内省する生徒たちと、境遇上富裕でないが将来の幸福をめざして真剣に努力する女学校の生徒たちとが同じ学び舎で、たとえ内容は違っても共に教育されるということはすばらしいことであった。このように両校の娘達の心の中には富に対する偏見はみられなくなった。感謝と思いやりの心を育てたいというのが私達の姉妹校を併立させた願いであった。

・社会においては富の調和も大切であるに違いないが、更に人心の調和即ち共愛の世界が尊いことと思われる。

森本副校長と姫小松

・『順心高等女学校は創立以来、祖先を崇び、虚飾を避け、質素勤労を旨とし、実践躬行を第一義とし、貞淑にしてしかも毅然たる節操を身につけた女生徒の育成をめざして教育が行われてきた。しかも旧態に捉われることなく、進んでやまない時代に常に適応できる能力の伸長に意が払われてきた。従って明るく真摯な雰囲気が校内にみなぎっていた。この順心教育の根元はもちろん下田校長の優れた教育観と卓越した教育方針にあることは論をまたない。

・下田校長は実践女学校との兼務だったため、森本常吉氏が副校長に就任された。下田校長の訃報に殉ぜられるかのように十余年をもって退職されたが、この期間がおそらく順心高等女学校の黄金時代だったと考えられる。森本副校長は後世に文献を残すため、創意と努力により順心高等女学校学友会誌の“姫小松”を創刊された。この会誌により、当時の学校生活を偲ぶことができる。なお、姫小松の名は下田校長作旧校歌からとられたものである。

順心高等女学校の廃止

・『順心高等女学校は、昭和二十四年三月三十一日をもって、順心の歴史と伝統を、順心中学校、順心高等学校に引き継ぎ、その使命をおえて廃校となった。順心高等女学校は、大正十三年三月、関東大震災直後に創立されてから、四分の一世紀の間、波欄曲節に富む歴史を綴ってきた。その歴史の後半は長い戦争の重圧下におかれていた。にもかかわらず学園は、土曜会、大泉農園の教育にみる如く、女子教育本来の姿を失うことなく、明るく、着実な学園生活が続けられた。その結果として三千百八十三名にのぼる有為の才媛を世に送り出してきた。

順心高等女学校が掲げた高い教育理想と、真摯な教育実践の姿は、今日の順心女子学園に生かされつつある。』

学友会から生徒会へ

・『「今回当校に於いて学友会雑誌姫小松を発刊することになりました。之は当校の発展上誠に適当なることと深く欣ぶ所であります。之までたびたび催された学芸会、運動会、其他いろいろの企てなど、甚だ有益にして且つ趣味深く感じたものの全然跡方もなくなってしまったのは如何にも惜しいことであるが、其れをこうして形の上に留めて置いたならば、現在において有益であるのみでなく、今より後長い間の思い出ともなるでありましょう。……(後略)」

下田校長のことばの通り、この学友会誌「姫小松」は本校の歩むを知るための最も重要な資料的役割を果たしてくれているばかりでなく、これを通して生徒全員を会員として組織されていた学友会が、今日特別教育活動の一環として、人間形成の上から特に重視されてきている生徒会活動の先駆的な姿を示してくれていることを知ることができる。これが今から半世紀も前であることを思う時、当時の先生方の先見に大いに感動をおぼえる。』

“けやき”

・『校庭の真中に立っている一本のけやき、仲間もなく、ひとりぼっちだが孤独を嘆かず、おまえは強く生きる道を知っている。ふとく真直ぐな幹、伸び伸びと広げている枝。季節の訪れをよく知っていて、芽を出すべきときには出し、若葉で色どるときは、美しくいろどり、夏は茂だけ茂って大きな影を落し、秋は近づく冬を知ってたたずまいを整える。おまえはひとりいてさびしがらず、ふとく強く生きる自信と信念をもっているようだ。天と地のめぐみを活用し、光と水をうまく摂取して誤まらず、屹然としてそびえ、空間を画し、生きることのよろこびと誇りを歌いあげている。

ひとはおまえのこの雄々しさと美しさを見あげ、その自然の心の素直な深さと微妙な動きにうたれる。ひとの生きる道の真理をおしゃべり抜きの誠実さだけで教えているようだ。』

欅

画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」

初代・二代の校長に仕えて

・下田校長の校長とする学校にふさわしく、敬神崇祖を根幹とする極めて質素なもの。

・行動訓話に際して、天照大神を遥拝した。

毎月三日に全校生徒職員が往復徒歩で明治神宮に参拝した。

六十年のむかし 第三回卒業生

・『当時の順心は「赤十字病院下」という市電の停留所のそばにあり、附近はどこかの田舎の村のようなところでした。停留所で下車するのは麻布の中学生か、順心の女学生かだけでした。校門を入ると小さな庭があり、その突き当りに二階家の小じんまりした校舎があって二階が講堂、下が料理室、ミシン室があり、道路に沿うて普通の教室が三つあったのです。教室から廊下越しに庭をみると一面の草原で片隅に小使いさんの家庭菜園があり鶏が数羽、いつも楽しそうに遊んでいるのがみえました。この校庭には夏ともなるとトンボや蝶がたくさんとんで来て、私たちを楽しませてくれました。きれいな小川の流れもあったように思います。とてものどかな学校のたたずまいでした。

下田校長先生は時折おみえになり、一同に訓話があり、女としての処世術や時局のお話など数々ありました。円い柔和なお顔は忘れません。また、校長先生が榊の飾った祭壇でのりと[祝詞]をあげられるのを乙女心に不思議なものをみるような好奇心で拝見していたことを憶えています。』

・『学期末には学芸会があり、自分たちでお汗粉を作って何杯もたべたものです。若い時の味というものは忘れ難いものです。この時は誰もがかくし芸をやることになっていて、これには悩まされました。飯田さんという深川から通学している下町娘が義太夫をやったのは驚かされた。威儀を正し、肘を張り、声高らかに“ウー”と語り出した。校服のひざの上の手はきちんとしていて、出し物は何であったか覚えていませんが、感心する人やら、笑いころげる人やら、それはもう大変なさわぎでした。木の葉が動いてもおかしい娘時代全く貴重な体験でした。当時の娘さんで、特殊な方でない限り、こんな芸を持ち合わせている人はなかっただけに、私たちは飯田さんに芸のきびしさを教えられました。其の後飯田さんは人気者になりました。』

・当時の通学は市電だった。電車道は枕木だけで停留所のところに板が敷いてあった。裸の線路に夏草が茂っていたのも目にやきついている。

恩師下田歌子先生を偲んで 第一回卒業生

・『震災前はこの校地に順心女学校という、当時の主な政界財界の夫人の方の集まりの慈善事業として設けられていた三年制の女学校がありました。ところが震災で東京中の学校が大半焼失してしまったので、その窮状に対処すべく取敢えず新しく普通の高等女学校を立てなくてはという事になって急遽創立されたのがこの順心女学園の前身順心高等女学校だったのですから、校舎もそれまであった順心女学校の校舎の一部を使って一応授業がはじめられたような状態でした。ですからはじめのうちは順心女学校と順心高等女学校が同居していたわけでした。幸にも火災に遭わなかったその校舎は、規模は小さいながら、窓枠などは、分厚な額縁のように厚くできていて、木造ながらどっしりと重厚で、外国のクラシックな建物を見るような感じのところがありました。

・当初は、生徒は一年生のみで三組、講堂などもなくて二階にある大きな畳敷きの礼法堂がその代わりに使われた。そこに毎月一度位、校長先生がお見えになって講義があった。

校長先生は平常は実践女学校の方においでになったが、ちょいちょいお見えになっていろいろとお話をしてくださるのを、コチコチに緊張してうかがったものだった。

・『校長先生をはじめ、品格高いお年寄りの夫人方が腐心していられるお気持ちが痛いほど感じられまして、あんなきびしい時代であったにも拘わらず、精神的には全く恵まれた環境で育てて頂いたありがたさが、五十余年経った今、現在のすさんだ世情を思うとき殊更しみじみと感じさせられ、なつかしくもありがたく、感慨一入でございます。』

・『本校は前述のような生い立ちの学校ですから、その母体である理事会評議員会は朝野の名士の夫人方百余名の方々で組織され、下田歌子先生を校長に仰ぎ、顧問には元総理大臣清浦圭吾伯、文部大臣水野錬太郎氏など名を連ねられ、公立私立を問わず他校には類例をみない特殊な存在でありました。ですから第一回卒業式の際は、卒業生約百五十名、在校生四百五十名ばかりの小さな学校で、会場も震災後に建築された簡素なものでしたが、元総理大臣清浦奎吾伯ご夫妻、水野文相、板垣退助氏夫人はじめ輝かしい方々のご臨席はあり、殊に元総理大臣から親しくご祝辞を頂くなど望外の光栄に浴しました。よく伝統ある本校といわれますが、本校の伝統はこういう所に端を発しております。』

・(この卒業生は卒後、実践の国文科に進学)下田先生は国文学者としても名高く、源氏物語の講義は有名だった。実践倫理の時間には、日常の出来事や時事問題を、ある時は国際人として世界の日本人の立場から、ある時は生物界の一員である人間としての立場から、当時としては全くスケールの大きなお話をうかがうことができた。また、父君ゆずりの儒学の造詣は一段と深く、孔子・孟子の道を「論語」「孟子」を講ぜられるのではなく、ご自分の信条として、根本的な心の持ち方として事に触れ折に触れて説かれていた。「各人がまずおのれを修めること。そして身近なものからだんだんと遠くに及ぼして行く。家から社会から天下国家までそれが拡がって行ったとき、どんなに美しく楽しい住みよい世の中が出現するだろう。」というような、すべての根本は各人の心の修養にある。

・下田先生は長く明治天皇の宮中に女官として奉仕し、和漢の学もさる事ながら、特に歌人としてのすばらしい資質は皇后陛下から「歌子」の名を頂戴して以降本名「せき」を改めて「歌子」と名のった。

・王朝時代に宮仕えして文学の道に不滅の名著を残した紫式部や清少納言とよく似た環境にいた。そして、皇女方のご教育のため、また一般子女の教育の為に英国をはじめとして広く欧米各国に二年間、滞在し視察研究を続けられた。帰国後は内親王方のご教育だけでなく、広く女子教育の為に全力を傾注された。

・『「資源の少ない日本は、貧乏な日本、だのにこの頃は物を粗末に扱う傾向が出て来ているのは憂慮に堪えない。」といつもおっしゃっていられましたが、物を大切にせよ、というお話の中で、次のような例をひかれたのがたいへん感銘が深くて、何かにつけて今でもはっきりと思い出されることです。世間では宮中のご生活はさぞぜい沢なものであろうと拝察しているのであろうが、皇族方は物に対して非常につつましいお気持ちをもっていられて、物を大切になさることは想像できない程である。明治天皇の常にお使いになっていらっしゃるお部屋の毛皮の敷物が一部痛んだので、お取換え下さるようにと再三お願いしてもどうしてもお許しがない。使用に堪えない程になるまではどうしてもお取換えにならなかった。又先生がお仕え申し上げていた内親王様がお使いになっていられる鉛筆が短くなってもお換えにならなかった。そしてこういう意味のことをおっしゃった。この鉛筆は今自分が捨ててしまったら永久に鉛筆としての役には立てない。廃物になって捨てられてしまう。大切につかえるだけつかってやらなければ鉛筆が可哀想だ、と。このお年若な内親王様のお言葉には恐懼の外はない。お金がかかるから節約するというのではない。物そのものを大切になさるご精神である。』

建学の理想

・校訓は「健康」「知性」「奉仕」の三つに象徴されている。

・「常識の養成」は下田先生の人格、教養、経験から生まれた人間観や教育観が極めて分かりやすく述べられている。この本の出版後数年して順心女学校が創設された。従ってこの本により、本学園建学の理想を伺い知ることができる。

「健康」

順心女学校の教育課程の中には体育の時間が当初から特設されていたことは、当時の各種学校的私立学校では画期的なことであって、積極的な女子の体力づくりに対する取り組み方がうかがえる。なお先生は運動競技も奨励され薙刀など武道のほかにバレーボール、バスケットボール等をとり入れられていた。特に先生は完全なルールの尊守によってのみ成り立つスポーツを若人の人間形成に必須なものと書いている。また、健康教育の消極面である保健衛生にはあらゆる機会をとらえて理論的・実践的な指導を行っておられた。

「知性」

・『婦人の賢愚が国家社会の盛衰に重大な関係があり、女性の教養の低さや、知識のないことや、何ひとつ頼るべき技能をもたないことが、罪をさえ生むと考えられた婦人慈善会の夫人たちが、そのために創立されたのが順心女学校であるから本学園健校の理想の中心は女性の知性を高める点にあったことは明らかである。下田先生の樹てられた教育目標の主眼もここにあり、「学園深く常識にとみ、知識が広く、必要な技能に熟達した女性を育てる。」と書いておられる。』

・先生は徹底した実学主義の立場を堅持され、実地に役立つ知識や技能の習得を第一義と考えていた。

・生きて働く知識を身につけさせ、あらゆる世の中のできごとに対し、常に適確な判断によって処理できる能力を得させることが大切であると説いた。

・先生は平安時代の婦人よりもなぜ明治、大正の婦人たちが常識に欠けているかを封建制の遺産として事例をあげて歴史的に解明された上で、真の常識の必要性を女性の生き方の問題として述べている。

手芸や裁縫はもちろん、音楽でもよし、書道でもよし、絵画でもよし、語学でもよし、生涯にわたって生きる支えになる何かを身につける為の指導が行われた。

・『「現実の地に足を立て、理想の天に頭をつけよ。」と生徒に説いておられる。理想を抱かぬ人に進歩はない。現実の生活をしっかりとみつめつつ、これに満足することなく、理想に向かって着実な一歩を進めること。これのできる人を知性的女性とよんでおられた。

「奉仕」

・下田校長は「国民的徳性の涵養」を教育目標の重点にかかげた。

・克己犠牲の精神にとみ、どのような困難にも堪え忍び、他のために尽くすことに喜びを感ずる謙虚な品性の高い女子の育成を期した。

・操行点は学業全体の成績にも匹敵する重さをもって評価された。

・操行は他との関り合いの中におけるその人間の品格である。“自らのため”ではなく“誰かのために何かをした”というのが善行である。

麻布今昔

・認可申請書に書かれた学校附近の状況:『西は川を隔てて福田会に接し、東は電車通りを隔てて閑静なる民家に面し、南は育児会拝借地、北は増上寺拝借地にして何れも官有に属する空地なり。且つその近傍には道徳上、衛生上に害を及ぼすべきもの毫もこれなし。』

・有栖川公園は旧藩時代森岡藩主南部美濃守の下屋敷だった。その後、大正二年有栖川宮の祭祀を継がれた高松宮家用地となり、昭和九年一月十五日、有栖川宮威仁親王の御命日を記念して東京市に下賜された。市は自然林泉公園としての遊園設計を樹て、昭和九年十一月に開園され今日に至っている。

・麻布の地名がはじめて文献に現れたのは平安末期の作といわれている「江戸志」であり、これに「ここは多摩川へもほど遠からざれば、古はこの地に麻を多く植え、布をも織り出せるゆえの名ならん。」とある。

・鎌倉時代に入ってからは善福寺の建立にみられるように新仏教の影響が強くこの地にも及んでいた。南北朝の頃の麻布は足利尊氏の所有であったため北朝の正朔を受けていた。

・家光が参勤交代を確立してから諸大名がそれぞれこの美しい麻布の自然にひかれて下屋敷をつくるようになったらしい。将軍直参旗本の修練のための鷹場もこの地にもうけられた。死者十万六千余といわれた明暦の大火の時、江戸市民の避難場所となったのも麻布であり、これらの記録により江戸初期の麻布のもつ特殊な地域的性格をうかがうことができる。

・『順心の校地として定められた現在地「広尾」はもと「つくしが原」とも「広野」とも呼ばれ、野趣に富んだ春の摘草、秋の虫聞などで庶民にも愛好された麻布のなかでも特に武蔵野の趣の豊かに残る地域であった。江戸末期には今の有栖川公園附近に百姓町屋ができ、他は武家屋敷と畑地と林野が点在する有様であったという。維新後、徐々に市街地的発展が広尾にも進み、小規模住宅が密集する地域ができたり、都市には必要であるが地域環境的には望ましくない施設ができたりもした。しかし学園の前面一帯は、江戸時代の諸侯の屋敷の名残りが、北条坂、南部坂、木下坂となって今に残り、これらの坂の名に往時を偲ぶことができる。そしてこの地帯は、長く官有地であったことも幸して、開発の波に洗われることも少なく、緑豊かな麻布の高級住宅地のまま残っている。学園の背面もまた、樹木の多い自然の中に日赤病院の白堊の近代建築を望む、いかにも都会的なしかも静寂な風情をもつ地域である。開校当時の立地条件の本質的なよさを残して近代化の進められているまことに恵まれた場所というべきである。』

感想

全てのブログをふり返り、下田歌子先生の生き様と信念を考えると、まず頭に浮かぶのは圧倒的な”行動力”です。まさに実行の人です。また、生涯にわたって“讀書”を愛しました。同じく、生涯にわたって”敬神”を貫いた信念には一切の揺らぎはありません。

食にも住にも、そして己の欲にも無頓着な先生の教育方針は、“着實質實”であり、先生の生き様を映しています。さらに、留学経験を活かした“国際感覚”と時代を先取りする“洞察力”も他を圧倒しています。

ひ弱な女子には“體育”がことさら重要であると痛感し、武道だけでなく、球技などの必要性も強く訴え、そして運動会を世に広めました。これは思わぬ大発見でした。

下田歌子9

下田先生の著書を探していたときに、「まさか、順心高等女学校に関係する本など売られていないだろうな?」と思いつつ検索したところ出てきたのが今回の『順心女子学園六十年のあゆみ』でした。「こんなものまで、あるんだ」と思いながら、色々な発見がありそうだと思い、ちょっと迷いましたが購入することにしました。

『下田歌子先生傳』は実践女学校出版部の本であり、他の学校に関わることはほとんど書かれていなかったため、この購入は大正解でした。

順心女子学園六十年のあゆみ
順心女子学園六十年のあゆみ

編集:順心女子学園六十周年史編集委員

発行:昭和1984年10月

出版:学書房出版

順心女学校の創立

・『大正七年二月、校舎の移築が完了し、三月には学校設立の認可が東京府知事よりおりた。下田歌子先生を校長に推薦する手続きも終った。校名、学則、教育方針などはすべて下田校長に委嘱された。これらの開校準備の整うのをまって、直ちに本科第一学年五十名の生徒募集に着手した。先ず入学者の資格を「学業に志あるも恵まれない環境の故に希望の達成がはばまれている女子」とした。そして入学の許可を受けた者はすべて無月謝とし、学用品給与等の特典も附されることとした。当時このような学校の創立は稀有のことであったので各新聞もこぞって特種記事としてこれを報道し、宣伝に一役を買い、ために遠隔の地から応募するものも多くまたたくうちに定員に達した。』

大正七年、創立時の校舎
大正七年、創立時の校舎

画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」

設立の認可

・場所:東京市麻布区広尾町官有地七十九番地二号内

・開校予定:大正七年四月二十日

校名の由来

順心の校名は下田校長の命名による。

・婦徳の涵養を女子教育の中心命題とされる先生の教育理想を端的に表明されたものである。

・校名の由来については、昭和三年三月に創刊された順心高等女学校交友誌 姫小松の巻頭に、森本常吉教頭先生が詳しく解説されている。それによると、出典は中国周代の詩経、「女曰鶏鳴之章」にある。

・『順はイツクシムであり、順むとは志同じく道協ひて親愛することをいうと説いておられる。「順」は人間本然の性をもとずくものであり、女子のみに求められる徳ではない。人間は男女それぞれがもって生まれた特性を生かしながら、互いに順み、補い合い、協力し合うところに其の幸福はあるもの。下田先生は女子教育の殿堂である我が校の校名を「順心」とおきめになったのは、男女の平等をその本質においてとらえた上で、婦徳の象徴としてもっともふさわしいものと考えられたからであろう。時代の激動の中にあっても「順心」は燦たる光輝をはなつ、すばらしい校名である。』

校歌・校章(順心高等女学校)

校歌:下田先生自詠の和歌、“神ながら変わらぬ道に新しきかげおもそえよ大和姫小松”に曲付けされたものだった。

訓歌:“曇りなきいろに匂いて仇し世のちりをなすえそ大和撫子”。生徒たちは校歌とともにこの訓歌を、日夕これを朗詠した。

校章:現在の校章は、この二つの歌の心をからつくられた。清楚でやさしいなでしこの花と、風雪にたえ岩頭に逞しく常緑を誇る強さをもつ姫松によって象徴されている。

下田校長略伝

・安政元年(1854年)八月八日生まれ

・明治十七年五月、夫である猛雄氏が三十七才の若さで永眠。家庭生活は五年に満たなかった。

・四十九才のときから支那語(中国語)の勉強を始めた。

・六十六才の時、順心を含めて五つの学校の校長の職に就いていた。

大正七年~昭和十一年の18年間を務めた。

・昭和十一年十月八日午後十一時、逝去さる。

・『先生は明治大正昭和三代を通じ、日本の女子教育の第一人者として不滅の業績を残され、民間女性として達し得るべき最高の御恩寵を皇室より戴かれた。教育界にある人だけでなく、先生の訃報に接した多くの人々は国家の一大損失と哀惜の情を寄せられた。万余の教え児達の哀哭のうちに、その代表が筆を執り護国寺に先生をお送りし、ここで先生は永遠の眠りにつかれた。

わが順心学園は、生みの親でもあり、育ての親でもあられた先生を失った。同年十月二十八日下田先生の追悼式が講堂で行われた。田所校長をはじめ職員生徒は励論、名士貴顕、卒業生など多数が参列し、しめやかにしかも盛大な式が挙げられ、一同先生の御遺徳を偲びつつ、御冥福を祈った。』

昭和八年、講堂落成
昭和八年、講堂落成

画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」

旧礼拝堂
旧礼拝堂

画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」

授業風景
授業風景

画像出展:「順心高等女学校第二回卒業記念」

順心創設のころ

・『大正七年、先生六十六才のとき、財団法人大日本婦人慈善会経営の順心女学校の創立に参加され、その校長になられた。勿論先生を敬慕していた板垣退助婦人ら朝野の名士夫人たちの懇望によってではあるが、本校設立の趣旨に賛同され、実践の姉妹校としてその教育を引き受けられたものと思われる。一般的には老境に入られる年にして先生は、順心を含めて五つの学校の校長として、その経営と教育に東奔西走されていた。教えて倦むことなき先生の女子教育に注がれた情熱は、けだし驚嘆に値するものがある。先生の教育的見識は学校という場で着々と実現されていたばかりでなく、王朝時代の紫清をこえる人として洛陽の紙価を高からしめた等身の著述により、広く日本女性の教養を高めることに貢献されていた。

大正九年社団法人愛国婦人会会長に推された。大正十二年の関東大震災に際しては愛国婦人として救血活動に精根を傾けられた。従って大正十三年の順心高等学校の創設を殊のほか喜ばれ、校長就任を快諾されたという。また、大正十四年には滋賀県下の淡海実務学校の校長も兼ねられることになった。昭和二年に愛国婦人会長を辞され、学校教育のみに専念されることになった。先生は大正七年から昭和十一年まで、十八年もの長い間、順心女学校、順心高等学校の校長として、本校教育の基盤を培われ、その発展に尽された。本校は先生の他の兼務校とちがい実践学園とは距離的にも近く、先生の声咳に接する機会を生徒たちは多くもつことができた。特に先生晩年の昇華し尽した高い教育理念のエキスをいただきながら育てられた順心は極めて恵まれた学校というべきである。

下田校長と順心

・『下田校長の六十余年に及ぶ育英のお仕事の前半は、その対象が主として、桃夭学園、華族女学校、学習院に学ぶ皇族、華族といったいわゆる上流家庭の子女たちであった。しかしその間にあっても先生は、日本の将来のためには一般勤労階級の子女の教育がより重要であることを考えておられた。明治三十一年には、内親王教育係という宮廷生活のかたわら、帝国婦人協会を設立され、付属の実践女学校並びに女子工芸学校をつくられた。そしてこれが先生の一般女子教育の出発点となった。翌三十三年には同協会新潟支部付属新潟女子工芸学校の設立をみている。先生は畏敬する祖父東条琴台翁の遺訓を堅く守られ、子女教育の根幹はあくまでも婦徳の涵養と、生活に直結する知識技能を身につけさせることにあるとの立場を堅持されていた。明治四十一年五月学習院女教授兼学部部長という栄職を最後に公的生活を離れられ、私学の女子教育に専念されることになった。そして先生の教育信条はそれからの後半世に遺憾なく、見事に実現されていった。

大正六年大日本婦人慈善会の板垣絹子会長ら朝野の名士夫人たちは順心女学校を創設して、恵まれない家庭にありながら、しかも向学心に燃える子女の教育を考え、現今の奨学資金制度の先駆けともいうべき給費制の実施を決意された。これと勤労子女の教育に情熱をおもちの下田校長のお考えが完全に一致して、先生は夫人たちの要請に応えられて、無償でその教育計画のいっさいを引き受けられた。すなわち順心女学校は夫人たちの憂国の熱意と、下田校長の教育的信念の結合によって生まれた勤労子女の教育殿堂であった。そして下田校長六十五才の春、大正七年五月三十日順心女学校はその授業を開始した。』 

・『先生の育英の業は昼夜にわたるものであり、勤労子女の教育にそそがれる熱意はまさに超人的なものであった。その中にあって共愛会の手になるわが順心女学校には毎週必ず出校され、生徒たちに訓辞されていたというが、先生は順心女学校を勤労子女教育のモデル校として、とりわけ愛されていたように思われる。この故に関東大震災後、東京の教育荒廃を黙示できずに共愛会がやむにやまれず順心高等学校の設立にふみきった時も、これを誰よりも喜ばれ、校長就任を快諾されている。先生にとって順心女学校と順心高等学校は、同じ教育理想によって育つ姉妹校であった。』

下田校長の国際的視野に立つ教育と順心

・宮中奉仕のかたわら和漢の学に励まれていたが、フランス人から日本文学の指導と交換にフランス語の指導を受けておられた。

・明治二十八年五月の渡欧では、大英帝国のヴィクトリア女皇に、日本女性として初めて拝謁を許された。その時の先生の緑袿緋袴の宮廷の正装は人々を魅了した。先生は何時でも何処でも日本女性としての矜持を失われることはなかった。

・人一倍皇室尊崇の念の厚かったが、「お国のために」という名による煽動におどる浅薄な主体性なき教育者を誰よりも嫌っていた。

下田校長の師道と順心

・『先生は人を教育するということは、その人間の魂の成長に関与することであり、教育者はその一挙一動をおろそかにすべきでないと説かれている。先生の教えを受けた万余の教え児たちの心の中には壇上の先生のお姿が教師の理想像として刻まれていたことは事実である。幾人かの教え児の方からこんなことをきかされた。「先生は鐘の鳴る前に教室に行かれ、鐘の音とともに入口のドアーをお開けになって壇に進まれた。そして号令なしに会釈をかわされて静かに話をおはじめになるのが常だった」と。』

順心高等女学校の創立

・『(関東大震災により)校舎が焼失し復旧の見込なく廃校するものが続出し、学ぶに所なき女子生徒たちを出してしまった。こうした教育の危機に臨んで共愛会の夫人たちはこの焦眉の急を救うべく、万難を排する決意で立ちあがられた。幸にも順心女学校の所在する広尾一帯は大きな災害をうけることもなく、校舎も無事であり、その収容能力にも余地を残していた。共愛会ではとりあえず順心女学校の校舎の一部を利用して普通制高等女学校を創設することにし、大正十三年四月開校を目途に準備が進められた。想えばわが学園のある麻布広尾一帯は、広尾ヶ原とよばれて江戸の郊外であり、春の摘草、秋の紅葉や虫の名所としてきこえ、杖をひく文人墨客の絶えない閑雅な地であった。明治以降都市化が進み、人口も増加し、住宅も密集するようになってきたが、なお緑豊かな静寂な環境は保ち続けられてきた。こうした場所にある順心女学校は、学校として必要な立地条件の多くを満たして存在する恵まれた学校であった。焦土と化した東京で学び舎を求める女生徒のために、環境に恵まれしかも交通至便な都心の一角に、新しい高等女学校を創設するということは、時宜を得た企画であったにちがいない。しかし共愛会の手による順心高女の誕生には並々ならぬ苦労があった。夫人たちも普通教育に手を染めるのははじめてであり迷いのあったことも想像に難くない。下田校長が校長兼務を快諾されたことは夫人たちの大きな力となったことであろう。下田校長の教育的識見にもとづく指導と助言により、いっさいの準備は完了し、大正十三年三月五日順心高等女学校の開校認可があり、三月十八日に下田校長の校長就任が正式に決定した。かくて緑にうえていた女生徒たちが心をはずませながら順心高等女学校の校門をくぐることとなった。』

順心高等女学校・順心女学校
順心高等女学校・順心女学校

画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」

下田歌子8

著者:下田歌子

発行:1910年7月

出版:實業の日本社

目次は”下田歌子6”を参照ください。

第六章 婦人と敎育

三、女子の高等敎育

『然し、近來女子の高等專門敎育を受けるものが漸々多くなりまして、從って、高等敎育を女子が受ける可否も論ぜられる樣になりました。可とするもの々議論は、前に申しました通り、男子と女子と同等の力もあり、躰格も養へば同等になるのであるから、女子も當然高等敎育を受くべきものであると云ふので御座います。此の論については、一寸申して置きました通り、果して、女子の腦力、智力、躰力などが、全然男子と同樣であるか何うかが、先決問題であります。第二に、よし同等のものだとしても、女子は高等敎育を受ける必要があるか何うかと云ふ問題が來るので御座います。

先づ腦力について考へますに、自分は專門の學者でありませぬから、生理學者の言によるの外はありませぬが、生理學者の言によれば、男子と女子とは腦の組織、重量などに於いて著しく異なり、又部分的の發達に於いても異ると云って居ります。(或一部の議論は、それは養ひ樣が、男子と女子と異なって居たからで女子も男子の如く養へば同じ樣になると云ふ説もありますけれ共、其れはまづさうした後結果を見なければ、遺憾ながら、どうも左樣だと斷定することは出來ぬ。)此れに依って觀ても、男子と女子と腦力の向ふ所に差があると云ふ事は判りませう。或學者の如きは、女子高等敎育は、絶對に不可能だと云って居りますが、それも餘りに偏した議論ではありますまいか。現に歐米各國はもとより、日本の古代にも隨分立派な學者として立って居る婦人が澤山あるので御座いますから、人により塲合によって、絶對に不可能とは申されますまい。智力の上に顯れた所を見ても、殘念ながら女子は何うも男子に劣って居る樣で御座います。一體女子は感情に鋭いもので、冷靜な推理の學などには餘程不得手と云はなければなりませぬ。女子の感情に鋭いと云ふ事は、社會や國家の方面に取って、極めて有益な事もあるので御座いますが、少なくとも理性の學問と云ふ方面から見ては、これが為に男子より劣って居ると云はなければなりませぬ。ですから、女子が各種の高等な學問に立ち入って、果して能く男子と同等に推し進む事が出來るか何うかは疑はしい事でありませう。或ひは又「それは初めから女子を敎育しないからである。女子を劣等者として敎育しないから男子に劣って居るのである。敎育したら決して劣るものでなない」と、云れる方もありませう。或ひはさうであるかも知れませぬが、昔から女子には學問(高等なる意味に於いて)は不必要だと云ふ樣な氣風が世界各國の社會に行はれて、今もまづ其方の論が勝を占めて居るのは、即ち自然の合理で、未だ容易に動かし難いことだらうと思はれます。

第三の體格に於いて、男子と女子と同樣の強壯の程度であると云ふ事は、容易に信ぜられませぬ。一般に女子は男子に比して、極めて薄弱であるとしてあります。躰力に於いても、氣力に於いても、皆劣って有ると見られて居ります。特に婦人には婦人特有の組織があって、その為に身體にも精神にも非常なる影響を受けるのは已むを得ませぬ。現に婦人の大部分がヒステリー患者であると云はれるのを見ても解りませう。斯う云ふ異った體格を以って、男子と同樣に高等學術に從事して、それで果して男子と同樣の結果を擧げると云ふ事は、出來るか何うか、大なる問題であらうと存じます。勿論、男子にも女子にも、或少數の例外のあることは云ふ迄もありませぬ。

それに女子の高等學術研究は、まだ他の方面より調べて見なければなりませぬ。即ち、女子自身の幸福に取っては何うであるか。又國家が果してその樣な婦人を多數に要求するか何うかと云ふ點で御座います。一般の女子は、人の家庭に入らなければならぬものであります。即ち結婚と云ふ事は、女子の必要條件と云ってよろしい。前にも一寸申した樣に、男子は結婚によっては別に、自分の目的を妨げられる事はありませぬが、女子に至っては、結婚は我身に對して一大變化を與ふるものであります。結婚が必要條件であるとすれば、結婚前の女子の修養は、大部分この結婚を目的として行はれなければなりませぬ。結婚後は既に人の家庭に在って、大責任を帯びて居るのでありますから、容易に專門敎育に首を入れる事は出來ますまい。さうして、結婚には自から時期があります。ですから、若し婦人が高等敎育を受け樣とするには、勢ひ婚期を延ばすか、又は獨身生活の覺悟でなければなりますまい。此れは女子に取って重大の事で御座いますから、極めて綿密に考へなければならぬ事で御座います。

第二に今の世の中は、女子の高等敎育を歡迎するか何うかと云ふ事で御座います。國家社會の程度が今よりもずっと進んだ後ならば知らず。目今の有樣では、家庭の主婦として最高等なる專門敎育を受けた婦人を迎へる必要がないのみならず、今の社會は却ってこれを嫌って居る樣で御座います。女子の高等敎育を受けた人々が、婚期の遅いのは、女の方では行くべき所を選んで理想が高きに過ぎ、貰ふ方では、あまり歡迎しないと云ふ點にあるのだろうと存じます。して見ると、何れの方面から見ても、女子の高等敎育はさまで必要のものでないと云はなければなりませぬ。併し社會は極めて複雑で、生活の狀態も日に月に困難になって參りますから、婦人は必ずしも結婚して良妻賢母となり得ると云ふ限りでもなくなりませう。歐洲各國の女子高等敎育の盛なのは、大部分此の理由によるのではないかと存じます。(又一方には、女權擴張の為に、男子と同等なる、躰力智力の養成を必要とする理由もありませうが)日本でも、此れから後、この形勢は免れますまい、又何う云ふ事で獨立の必要があるかも知れませぬ。或ひは又一身を學問界に投じようと云ふ婦人も御座いませう。是等の婦人の為に、一二の高等敎育機關のある事は、むしろよい事でありませうが、大體から云っては、女子に高等敎育の必要は、今の所では、さまで痛切だとは思はれないので御座いますから、多數の女學校はまづ高等女學校程度位のが適當であらうと存じます。

尚女子敎育に對する卑見は、他日又別に起稿の積りでありますから、此處には、唯眞の愚案の一端を述べた迄で御座います。』

感想

国家社会が成熟し、社会が複雑化していくという前提に立ち、女子の高等教育の必要性が高まってゆくことは時代の必然であり、既に欧州各国の動向はそれを暗示している。という下田先生の見識は、明治時代にあっては、極めて貴重なものであったと思われます。

下田歌子7

著者:下田歌子

発行:1910年7月

出版:實業の日本社

目次は”下田歌子6”を参照ください。

二、進んで取る勇、退いて守るも勇

勇氣は精神の骨であります。骨は固く、骨は容易に折れてはならぬ。骨のある人は確固して居ります。勇氣のある人も亦、充分確固した所があるので御座います。

勇氣は、決して男子の專有物ではありませぬ。成程千軍萬馬の中に飛び込んで、矢玉を冒して血戰する婦人は一寸珍らしい、けれどもそれ許りが勇氣ではありませぬ。昔風の消極的な考へ方にすれば、婦人は勇氣のないもの、又勇氣の要らぬものと考へられますかも知れませぬが、それは考へ方が違って居るので御座います。婦人であっても亦勇氣なるものは、必要であるので御座います。

では勇氣、即ち確固した意志とは如何なものであらうか。更に進んで研究して見ませう。自分の見る所では、之に二方面ありませうと存じます。

 一、道に當っては進んで取る。

 一、不道に對しては退いて守る。

之の二つを一つに纏めると、やはり道に從って、動く所の強固なる意志と云ふ事になるのであります。其行ひが道にさへ叶って居るならば、進んで取るも勇氣があって、退いて守るも亦勇氣であります。要は道に對する強き決心であります。

この強き決心が、行為に現れた所を御覧なさい、如何許り美しく、亦如何許り華々しく、又如何許り勇ましいでありませうか。

我自ら道を守って病しい所がなくば、百萬の敵に對しても、莞爾と笑って居る事が出來ます。如何に勇ましいではありませぬか。千百の誘惑が、右から左から、前から後から、續々として押し寄せて來ても、我れに堅く信ずる所さへあれば、此等の誘惑を冷然として打ちながめて居る事が出來ます。成し遂ぐべき事、又成し遂げ得る事と信じたならば、百千の障害を推し除けて、百度二百度の失敗にも恐れず、何處までも之を成し遂ぐるのも大なる勇氣があるからであります。為してはならぬもの、不義不正の事と見定めたならば、如何なる忠告を與へられ、如何なる迫害に遇ふても、平然として斷じて不義不正に手を染めぬと云ふのも、大なる勇氣があるからでありませう。

但し男子には、堅きを碎き鋭きを破り、進んで取るの勇氣を要する塲合が多いので御座います。が、兎にも角にも、何の方面に於いても、人の行為の根柢には、常に偉大なる勇氣がなければなりませぬ。例へば蒸汽力が非常に大なる活用をして、世の中に非常なる利益を與へるのは、其の根本に熱と云ふ原動力がある為である。そのやうに人にも勇氣といふ原動力が無ければ、とても思ひ切った善事は出來ないのであります。

勇氣のある處にこそ、大發明の人を出し、萬難を排し、千辛を甞めた處に、大成功者は作り出されます。道に從って悠々然として身を省みぬ、殉國殉義の人ともなります。生命を賭しても、淸き心を守る所の貞操、淑徳の人ともなります。あらゆる善と美と、之を為すのも勇氣に依り、あらゆる惡と醜と之を避けるのも勇氣に依るのであります。

されば勇氣と云ふものは、大事件があって初めて起るものではありませぬ。大事件のある時には、勿論勇氣が必要でありますが、敢えて大事件でなくとも、日々の行為の上に於いても勇氣の必要は極めて大なるもので御座います。例之ば學生が勉強をして、讀本なり、算術なり稽古をして居る。すると眠くなる、眠くなった時に、眠いと云って寢るのは、正しい所の意志の決定に從った譯ではありますまい。正しい意志は、眠ってはいけない、眠る樣では、決して立派にはなれない、其の眠い所を忍耐して勉強しろと云ふのでありませう。それが出來ないで眠ってしまふ人は、それはたしかに自制克己と云ふ念に乏しいので、即ち勇氣に乏しいからだと申さなければなりませぬ。

當今男女學生堕落の聲は、實に忌はしい事でございますが、非常に喧ましくあります。自分は、親愛なる學生の方々が、世間で囂々云って居る程、甚だしく堕落したらうとは存じませぬが、其一部には、遺憾ながら、少しもその形跡が無いと斷言することができませぬ。さて其幾百人のうちの一人でも、不幸にして堕落したと致しましても、そのはじめ遠い國々から、親に分れ、兄弟親戚に別れして、遥々と東京に出て參りました時の心は、何うで御座いましたらう。必ずや其時の其の人の胸の中は、前途の希望と、大決心の勇氣とが充滿して居ったので御座いませう。年は若い盛りであるし、空想は頭の中に縱横に駈け巡る時代でありますから、其人の前途は實に洋々海の如きものがあったに違ひないのでございます。それが何うでせう。東京へ出ると直ちに堕落して、學問も目的も、何も彼も滅茶々々にして仕舞ふと云ふに至っては談るに詞が無い。初め大なる勇氣を持って出て來たが、今では其勇氣は何處へ行ったのか分からなくなったではありませぬか。

これに依って之をいへば、其初め國を出る時の勇氣は、決して眞の勇氣ではありませぬ。眞の勇氣を持って居ったならば、如何樣な誘惑に遭った所で、決して其の誘惑に陷るものではありませぬ。それは都の中は種々なる誘惑の機關が備はって居りまして、手を變へ品を變へて誘惑するので御座いますから、まだほんたうに思想の堅まって居らない若い人々に取っては、知らず知らずの間に其誘惑に陷るのも亦已むを得ない樣にも思はれますが、かと云って、東京へ出て來た男女の學生が、澤山どし々々堕落してゆくかと云ふに決してさうでない。堕落生が假に如何に多いとて、堕落しないで成功するものの方が遥かに澤山あるので御座いますから、矢張堕落するものは、眞に勇氣のないものと申さなければなりますまい。誘惑の惡魔も眞の勇者には寄り附く事が出來ぬのであります。

自分は妙齡の女子達に特に申したいのは、如何なる誘惑が來ても、不正不義と見たならば、死を誓ってこれに抵抗するだけの、大なる勇氣を持って貰ひたいと思ふので御座います。この勇氣を持たない人は、幸いにして、誘惑の魔に觸れる事がなければ兎も角、一度之に觸れたならば忽ちに堕落するので御座います。それでは同うして立派な婦人と云ふ事が出來ませう。昔から今まで、貞女節婦として稱へられて居る人々の行為は、實に斯の樣な塲合に、自若として道を違へず、死生を賭して道の為に爭う所の大なる勇氣に富める人で御座いました。』

三、眞の勇氣と偽の勇氣

『勇氣は誰人にも必要で、又何時如何なる塲合にも必要である事は前申した通りで、又勇氣の二方面、即ち進んで取ると云ふ方面と、退いて守ると云ふ方面とも前述の通りで御座います。進んで取る方面は、事業の方から見れば進取即ち積極的であります。自分の志した事は萬難を排して、之を成し遂げるので御座います。世の中に立ちて、事業をなさんとする人で、進取の勇氣がなくては、到底充分なる成功をなし得るものでは御座いませぬ。退いて守ると云ふのは忍耐であります。守ると云ふと少し云ひ方が惡いので御座いますが、畢竟事業をなし、正義を行ふ上に、思はぬ所の妨害が出來たり、困難が起こったりするのは云ふまでもない事であります。それを克く忍び克く耐へてこそ、初めて成功するので御座います。

この進取の氣象と忍耐の力とは、人生の如何なる方面に行っても極めて必要であります。人間の一生、一時間の中と雖も、これが無くてはならぬ必要のものであります。敢へて例を引くまでもありますまい。家庭の中に在って一家族が暮す時でも、商賣をして他人と取引する中でも、机に對って書を讀む間でも、如何なる時でも、如何なる塲合でも必要でなくてはならぬものであらうと存じます。これ程大切なる勇氣も、克く克く注意しなければ、誠に飛んだ考へ違ひをするものがあります。世に暴虎馮河の勇と云ふ事があります。勇氣と云ふ事は、何でも危險な事も構はないで進み、生命も何も打ち棄てて、火の中水の中へでも飛び込みさへすれば、それでよい樣に考へて居る人があります。成程、或る塲合には、さういふことの必要がないでもありませぬが、それは極めて稀な塲合であります。向ふ見ずに、無茶苦茶に、棄てばちになってやる事、それが勇氣とは決して云ふ事は出來ませぬ。それは昔の人の所謂匹夫の勇と云ふもので、眞の勇氣では御座いませぬ。

さらば眞の勇氣と、匹夫の勇との差は、何處にあるかと云ふ事を考へねばなりませぬ。眞の勇氣とは何んなもので御座いますかと云ふに、進むも引くも道の為にし、義の為にするもので御座います。で、何れが道か、何れが道でないか、其處に充分なる判斷がついて居らなければなりませぬ。

又其行為を決斷するまでには、神聖な純粋な感情に依って動かされなければなりませぬ。例へて申しませうならば、此處に一人の人があります。其人が刀を持って人と爭ひに行くといたします。其の爭ひに行くと云ふ行ひは、それで眞の勇氣であるか、ないかと云ふ事を調べて見ると、爭ひに行くにも種々あります。軍人となって國家の為に正邪の爭ひに行くのもあり。又詰らぬ恨みの為に我身を忘れて無謀な爭ひに行くのもあります。君國の為めに爭ひに行く人は、何故に自分は君國の為めに爭ひをしなければならぬか。自分は君國から何ういふ御恩を受けて居るか、といふ樣な事を充分に知って居って、其上に身を棄てても君や國に盡さうと云ふ一種の尊い感情に動かされます。其の智識も、其の感情も、極めて純粋なものであって、それによって意志は十分に決斷して、勇氣となるので御座いますから、其の勇氣は眞の大勇でありませう。然し右の如きは、男子に於いての塲合です。が、女子にも亦、男恥かしき眞勇を振って正義の為になった人が少なくありませぬ。一寸その一二の例を申せば、かやうな類であります。德川將軍治世の末に在った飯田のお藤は、妙齡の身を以て、藩主の側室若山といふ毒婦を斬って、主家を累卵の危きに救ひ、同じ德川氏時代に於ける、丸龜侯の家中の、孝女お里は、親の仇なる惡漢の武術者を打って、先考の怨恨の靈を地下に慰めました。その他、下婢おさつの仇打、赤穗義士の銘々の、母や妻等殿忠の大義の為に、その身を犧犠にして、眞勇を發揮した婦人も少なくありませぬが、又或ひは親、夫の虐待に耐へ、或ひは家の貧困を忍び、夫の難病に侍して、毫も倦める色無く、悲しめる氣色無く、他の惡を化して善と為し、傾けるを助けて全きを得せしめ、歴代の史傳記綠中に在る所のあまたの賢婦人達の如き、全く進んで取るの勇氣も、退いて守るの勇氣も、全身に滿ち溢れたやうな意志の堅固な婦人方で御座います。

所が、詰らぬ恨の為に身を棄てると云ふと、實に詰らぬ事であります。又詰まらぬ感情に動かされて居るので御座いますから、一時取り逆上せた時こそ身を忘れてかかっても、暫時經って、頭が冷えて來ると、詰らぬ事をしたと後悔するのであります。こんな勇氣は、眞の勇氣では無くて、一時の狂的動作であると申しても宜いのでございます。

そこで眞の勇氣のある人は、安心をして居って、世の中の事に迷ふ事はありませぬ。勇氣のある人は既に何の道が正しくて、那の道は正しく無いと云ふ判斷がついて居ります。又詰らぬ感情に動かされるといふ事はありませぬ。その判斷がついて居らなくて、邪でも非でも無暗にやり通すと云ふのならば、それは眞の勇氣ではありませぬ。既に道の正不正が明らかになって居る人でありますから、自分の行ふて行く行為の上に疑ひを抱くことがありませぬ。例へば春の朝に花鳥に送られ、美はしい太陽に迎へられて、樂しき野邊を行く樣に、心は何時も春風の吹いて居るやうで御座いませう。

眞の勇氣のある人は、決して濫りに他人と爭ひませぬ。既に我が行く道を知って居って、之れを樂しく進む人でありますから、他人に對して恨み忿るなど云ふ事はありませぬ。他人の過ち之を宥じ、我が過は何處までも改め、心の中は淸風名月の樣でありますから、人がよし之を怒らせようとしても、動きもいたしませぬ。其故、大勇は怯に似たりとまで云はれて居ります。

眞の勇氣のある人は、貪り望むと云ふ事はありませぬ。道とみれば進むと同時に、道ならずと見れば如何に勸められても決して入り立ちませぬ。他人が百萬の富を以て誘ふても、斷じて不正の事はしないと云ふ事は、大勇のある人でなければ、決して出來ない事であります。

又、眞の勇氣のある人は、失望しないのであります。心に守る所があって、其の為には百難千難を事ともしないのであるから如何に苦しい位置に立っても失望する道理はありませぬ。普通の人ならば、悲しみ歎きの眼を以て、中天を被ふ黑雲を見て泣いて居る時でも勇氣のある人は、喜び溢る々心の眼で其黑雲の上に照る太陽を見透して、それを樂しみ、それを喜んで居るので御座いますから、心は自から和いで居るのは、勿論その筈で御座います。

勇氣は決して男子に限ったものでは御座いませぬ。又一大事が起った時に初めて必要なものではありませぬ。凡ての人が、凡ての時に於いて持たなければならぬ德で御座います。家庭の風波も、一家の不經濟も、事業の失敗も、生活の困難も、又凡ての誘惑も、何も、彼も、眞の勇氣がない所から起って來るものと云はなければなりませぬ。

で一朝の怒りに嚇となって、疎暴な行為をして、後では夢の覺めたやうに悄然として、後悔したり、狼狽したり、又は心の裡では恐れて居る癖に、弱みを他に示すまいとして、大さうな事を云ったり、荒々しい擧動を示したりするのは、これは眞の勇氣とは似て非なるもの、虛偽の勇氣とでも申しませうか。婦人としてはこれらの事は最も愼むべきであります。即ちこれは、「内剛にして外柔」の反對に、外剛にして内柔とでもいふべきで、殊に爪彈きをせらる々次第であますから、能く他の失態に鑑みて、自ら省みなければなりませぬ。』

下田歌子6

下田歌子先生の『婦人常識の養成』は代表的な著書の一冊と言われています。

拝読させて頂く前は、「あまり関係ないかなぁ」と思っていたのですが、決して“婦人”だけではなく、素晴らしく勉強できるものでした。

ブログは、”第三章 婦人と勇氣”と”第六章 婦人と敎育(三、女子の高等敎育)”の2つだけになります。

また、今回も『下田歌子先生傳』と同じく、時代感を出したいと思い、可能な限り本書に出てくる漢字や言い回しを使っていますが、今回の『婦人常識の養成』は読み仮名がふられていたので助かりました。ただ、漢字が見つからなかった場合は〇となっています。ご容赦ください。

著者:下田歌子

発行:1910年7月

出版:實業の日本社

緒言

『この書は、題名の示す通り、年少婦人の常識を養成する一端にもと思って書き集めたもので御座いまして、決して高尚深遠な學理を説くのが目的ではありませぬ。

書中に説く處は極めて平凡で、通俗で、判り切った事を長々と書いたと思召す方も或は有るだらうと思ひます。それに本書は年少の婦人に讀ますると云ふ考へで、説明の方法も出來るだけ平易に、又出來るだけ丁寧にと考へました處から、或は同じ事をくどくどと云って居ると云ふ嘲りもあらうかとも思はれます。併しそれは、著者の目的か那邊にあるかを御考へ下されたならばおわかりになると思ふので御座います。

本書の中にも幾度も幾度もと申して置きました通り。最も完全な國民といふのは、最も完全な常識と道德とを持った國民を云ふのだらうと思ひます。我日本國民は、種々の事情からして、非常に常識に缺けて居ると云はれて居ります。特に婦人においては、殆と常識の存在を疑はれて居ると云ふ始末で、誠に悲むべく又一日も忽かせにすべからざる大事件であると云はなければなりませぬ。

此の書を世の中に呈出する事に依て、著者は婦人の常識を立派に養成出來やうなどなどの自負心は決して持って居りませぬ。誰目下の缺點を補ふために、汗牛充棟も○ならぬ有樣で出版せらるる良書の末班に加へられて、○かにても斯道に裨盆する處ありと認められたならば、著者の心は足るので御座います。』

明治四十年六月 赤阪靑山の居にて 著者識

目次

第一章 現代婦人の覺悟

一、上古婦人の地位は如何であった乎

二、中古婦人の地位は如何であった乎

三、近古婦人の地位は如何であった乎

四、現代婦人の地位は如何であった乎

五、時代の要求する婦人

六、現代婦人の覺悟

第二章 婦人と慈惠

一、婦人の特長は何ぞ

二、父の嚴命より母の慈訓

三、戰塲に於ける婦人の慈惠

四、盛り塲に於ける止女

五、男子の勇氣と女子の慈心

六、社會の事業と婦人の慈惠

第三章 婦人と勇氣

一、勇氣は品性の骨格

二、進んで取る勇、退いて守るも勇

三、眞の勇氣と偽の勇氣

第四章 婦人と信念

一、安心なる生涯を求めよ

二、正しい判斷から得た所の確信

三、婦人は信念の力が強い

四、夢から夢に入りて醒めざる婦人

第五章 婦人と宗敎

一、老子の口吻を眞似るではないが

二、日本の神樣と西洋の神樣と

三、宗敎は決して無用の者では無い

四、宗敎の婦人に及ぼした影響

第六章 婦人と敎育

一、女子敎育の目的は那邊にあるか

二、完全なる國民としての婦人 ―賢母良妻主義―人格修養主義

三、女子の高等敎育

第七章 婦人と常識

一、昔は常識とは言はなかったが

二、女學校出身者は何故に常識に乏しいか

三、如何にしたら常識が得られようか

第八章 婦人と學問

一、女の生學問といふこと

二、男と女とは學問の價値が違ふ

三、眞の學者としての婦人

四、婦人と文學

第九章 婦人と職業

一、已むを得ずして執る職業

二、日本にはこの兩方面を調和した職業がある

三、婦人は或意味に於いて一大職業を育つ

第十章 婦人と手藝

一、手藝は婦人に天與のものである

二、婦人の嗜なみとしての手藝專門家としての手藝

三、編物押繪に一機軸を出した兩女敎師

第十一章 婦人と禮法

一、禮は文明の尺度

二、自由な國の不自由と不自由な國の自由

三、虡禮虡飾と禮法の精神

第十二章 婦人と音樂

一、人類は音樂的動物である

二、婦人と音樂との關係

三、日本樂と西洋樂と

第十三章 婦人と遊藝

一、誤解されたる遊藝

二、遊藝が品性に及ぼす影響

三、遊藝の選擇

第十四章 婦人と裝飾

一、婦人は社會の花

二、美に捕はれたる婦人

三、外貌の美と精神の美

第十四章 婦人と裝飾

一、婦人は社會の花

二、美に捕はれたる婦人

三、外貌の美と精神の美

第十五章 婦人と交際

一、人は交際的動物である

二、婦人が社交熱の消長及び得失

三、所謂靑年男女の交際

第十六章 趣味と實益

一、雅やびかなふるまひ

二、趣味と實益

第十七章 婦人と衛生思想

一、婦人は家内の衛生係である

二、病に罹らせないのが第一の目的罹ってからの看

三、衛生上より見たる衣食住

第十八章 婦人と經濟思想

一、世帯持のよい婦人

二、時間の經濟と勞力の經濟

三、經濟の點から見た衣食住

第十九章 理想と現實

一、宇宙問題と人生問題

二、現實の地に足を立てて理想の天に頭をつけよ

三、藝術の宮

第二十章 希望及び快樂

一、過去の悲しみに耽る人

二、希望と快樂とは人格によって上下するもの

三、快樂そのものを希望する人

第二十一章 婦人の結婚問題

一、結婚目的のいろいろ

二、結婚の制度

三、良人の選擇

第二十二章 婦人の長所と短所

一、體格の上から見た長所短所

二、精神上から見た長所短所

三、婦人の長所短所とから見たる事業

第二十三章 主婦としての婦人

一、これこそ眞の分業である

二、家庭の圓滿は主婦の德

三、妻としての修養

四、婦人と服從の德

第二十四章 母としての婦人

一、母親たる責任は何時から負ふ乎

二、我が乳で我が兒を育てぬ母親

三、白金も黄金も玉も何かせん

四、母の感化と子の感化

五、母親の資格は如何すれば有てる乎

第二十五章 娘としての婦人

一、女兒は何故男兒よりも一層親に孝行せねばならぬ乎

二、娘時代は修養の時代である

三、理論よりも寧ろ實地が大切である

四、女學校卒業生の下婢となった實驗談

第二十六章 國家と婦人

一、國家と國民、皇室と臣民

二、婦人も國法を知らねばならぬ

三、國家の事變と婦人

第二十七章 婦人の十德

一、正實

二、仁慈

三、恭謙

四、貞淑

五、快濶

六、勤儉

七、堅忍

八、沈着

九、高潔

十、優雅

第三章 婦人と勇氣

一、勇氣は品性の骨格

『東洋では、昔から、智仁勇の三德と稱して居りました。その勇と云ふ德は、譬へば人間の體で申して見れば、骨格の樣なもので御座いませう。人間には御承知の通り、體格上から許りて申しましても、種々の要素が必要で御座います。まづ、皮膚だの筋肉だのが無くてならぬので、其れから、神經だの、血管だの、肺臟、心臟などその他内部の諸々の機關を安全に保ちて行くもの、又は、筋肉や、皮膚や、毛髪や、血管や、神經などをして、充分に活動せしむる為には、骨格と云ふものは、まづ、確乎として居らねばならぬ事は、今更彼是と説明するまでもない事で御座いまして、骨格は、實に人間の有って居る諸機關を、最も良い樣に組み立て、又最も良く活動できる樣に統一し、而も又最も安全である樣に保護して居るものであると云ふ事には、異論の無いことであらうと存じます。

今度は、人間の精神の方の活動について申して見ませう。人間の精神的の活動を仔細に歡察して見ると、先づ三つの方面に分ける事が出來ます。即ち

 一、智の方面による働き

 一、情の方面による働き

 一、意の方面による働き

で御座います。

是等の三方面について詳しく説明するのは、心理學の方の部分で御座いまするから、此處に於いては、なるべく避けようと存じます。唯心理學者の説明によりますれば、是等の三方面の働きが如何なる人の心にもあると云ふので御座いますから、若し或る人の精神の活動を見て、此中の一つが欠けて居る樣では其人は充分完全な人間と云ふ事は出來ないので御座います。敎育と云ふものは、この三方面の精神の活動を、充分完全に發達させる樣にするのだらうと存じます。

さてこの心の活動を極く手短かに説明して見ると、智の作用とは、人間が物を知る事で御座います。人間は他の動物と違ひまして、物事の善惡を判斷する力があります。物の美醜を見分ける力があります。物の適不適を分ける力があります、まだ其の上に、犬とは何んなものか、馬とは何んなものかと云ふ樣に、其物の性質を考へ出す力があります。此樣な、判斷とか、比較とか、概括とか、想像とか、記憶とか云ふ樣な心の活動は、之れ實に心の智的作用によるので御座います。學者は之を理性の作用と云って居ります。

第二の情の作用と云ふ事に就いて、尚自分の精神を自分で考へて見る必要があります。外でもありませぬ。理性の活動を以て、人は善惡、美醜を分ける、甘いか甘くないか。滋養であるかないか、善い行であるか。惡い事であるかなどなど一々判斷がつくのは、それは理性の作用である事は、今申した通りでありますが、心の活動は、それ切りで止まるかと申しますと、決して左樣では御座いませぬ。之の行為の判斷がつくと共に、必ず其所に一種の感じを起しませう。善い行為をした時や、甘いものを食べた時の感じと、惡い行為をした時や、詰らぬ損をした時の感じとは、同じ心の活動でありながら、全く別な樣でありませう。初めの感じを喜びと名ければ、後の感じを悲しみと名づけます。其他に、怒り、樂み、苦み、など、感じの種類が澤山あります。これらの感じを學問上感情と云ふので御座います。

それから意の方面とは、決斷であります。この事を為よう、あの事はすまいと決斷するのは、之を意志の力と云ふので御座います。斯う云ふ事をしたいと云ふ氣が起る。それは惡い事だ。してはならぬと理性で知って、それを斷然せぬと決斷するのは、即ち強い所の意志の力で御座います。人間のどんな行為でも、其初めは必ず心の三方面が活いて、それが行為に表れる樣になるのでありますが、毎日々々行為に表はれるとか。それでなくとも、能く馴れた後には、この樣に規則正しく心に相談して起こるものではなくなるので、之を習慣と云ふので御座います。

斯の樣な心の活動が頓て、其人の行為となって、表面に現れるものでありますが、其行為の上から見ると、其の三方面何れも大切である中にも、特に意志と云ふ方面が最も大切であらうと存じます。意志が確固として居らないと云ふと、智識や、感情が如何に勝れて居ても無益であります。固より、單に意志許りて、智情は何うでもよいとは申しませぬ。智情も固より大切であるが、意志は、殊更に大切であると云ふので御座います。智情の立派で、意志の確固とした人は今日所謂、完全な人格の人と云ふのであります。世間で精神の確固した人と云ふのも、この意味で云ふのでありませう。自分は、この意味に於いて、智情に護られた意志の最も確かに表に現れるものを、勇氣と云ふので御座います。單に自分の見る所許りでは御座いませぬ。前にも一寸申した樣に、古人が智仁勇と、並べ稱せられた中の勇と云ふ德は、此意味に於ける意志と解釋する事が適當であらうと存じます。

して見れば、勇氣は丁度精神の上の骨格で御座いませう。智で知っても、情で感じても、さて之を斷行すると云ふ決心がなければ、何にもなりませぬ。意志は強ければ強い程よい事は、丁度骨は太く逞しければ逞しい程立派な人間であると同樣であるではありますまいか。

前章に女子の滋心と男子の勇氣とを比較して述べました程であるに、爰にまた婦人に於ける勇氣を喋々するのは、或ひは、矛盾の嫌ひがあるかも知れませぬが、それは勇氣をば俗世間で云ふ所の勇氣、即ち、腕力がかった強さを意味するとか、武藝が達者であるとか云ふ方面のことの聯想から起る誤りで御座いまして、今自分が申しました通り、最も強固なる意志であるとすれば、婦人と雖も必要な事は申すまでもありませぬ。唯男子には殊にこの勇氣が生命であると申した譯でありますそれで、若し斯の樣な勇氣が婦人に必要はないと云ふのならば、それは丁度婦人は軟らかなるものであるから、骨は要らぬと云ふのと同樣と云はなければなりませぬ。』

下田歌子5

下田歌子先生傳
下田歌子先生傳

編輯発行:故下田校長先生傳記編纂所(代表:藤村善吉)

出版:1943年10月8日(非売品)

目次は”下田歌子2”を参照ください。

第六節 埋葬

『かくして擧式もすすみては、今はただ講堂そのほかの式場を祓ひ浄め、せまりくる暮色のうちに、更に悼はしき茶毘の儀の終るを待つのみである。ときに十三日午後六時三十分、親族、三校職員總代、生徒總代、同窓會總代等、十六臺の自動車を從へて、嗚呼、故先生の御遺骸も今は變りはてたる一〇の白骨と化し、喪主平尾壽子女史の手に抱かれつつ歸還したのであった。

七時半、うちひしがれたるが如きいひ難き悲嘆のうちに、そを、講堂に設けし新たなる祭壇へと奉安しまつる。しかるのち、皆々、また靈前に侍して、在りし日の思ひ出など、涙のうちに物語る。これぞ實に一同が、故先生の御前にて過すべき最後の一夜であった。

翌昭和十一年十月十四日は、前日來の霏雨もうち忘れし如き快晴の小春日和であった。いよいよ先生の遺骨を、音羽なる護國寺の奥津城どころに、埋葬しまゐらすべき當日である。午後一時三十分、遺骨は講堂の祭壇より正面玄關に出でたたれ、思ひ出も深き先生御生前の常用車にと移りたまふ。これより早く校門の内外には、三校の生徒卒業生等、去る十二日、靈柩を迎へ奉りし時の如く整列せる中を、新たなる戯欷嗚咽をかき分くるもののやうに、喪主、親戚、學校職員、生徒代表等七臺の自動車に分乘、〇從しまつりて出で立たる。これこそ眞に、とどめまゐらする由なき永遠の御出門であった。

御出門
御出門

画像出展:「下田歌子先生傳」

葬列は、まづ靑山なる明治神宮表參道より新宿に出で、高田の馬場、江戸川を經て音羽通りを眞直に護國寺に到着、同窓會代表二十餘名のほか、卒業生有志、常磐會々員等約百名に近く、既に此處まで先着して御待ち申上ぐ。殊に毘きは北白川宮、竹田宮兩大妃殿下には、この度もまた特に、御用掛を御差遺遊ばされし御事であった。かくて午後二時三十分、御遺骨は一先づ本堂に安置せられ、その右に兩御用掛着席、左に本校側各代表、正面に喪主、親戚その他の參列者並びて、護國寺貫主以下數名の僧により、嚴そかなる讀經は始められた。香煙ゆらぐところ「蓮月院殿松操香雪大姉」の御法號は、悲しくもまた床しく輝きて、日頃の面影もいやましに偲ばれるのであった。約四十分にして讀經も終り、御使を初め奉り喪主以下一同の燒香ありて、直ちに埋葬の運びとなる。

御墓所は、當寺墓域の西南の一廓、西向の地位にある。すでに掘られたるほぼ四尺四方と見ゆる墳穴が、早くも人々の涙を誘ひてやまず。いよいよ、特に調へたる尺二寸ほどの唐金の壺に納められたる御遺骨は、更に、四尺の地下ふかく埋められし石槨の中に、音もなく卸されて石蓋かたく閉された。次いで、まづ喪主の手による一握の土塊がその上を蔽ひ、續いて勿體なくも兩御用掛、更に順を追うて參列者一同、いづれも千萬無量の深き思ひもてそを繰返し、終りて次に墓標をばうち立て、眞新しき盛り土は築かれて行った。』

『因みに言ふ、ここ音羽護國寺は、眞言宗新義派の大本山、夙に東都第一の巨刹といはれる大寺であって、その創建は天和元年、開山は亮賢(快意)和尚、これが願主は德川五代將軍綱吉。國寶の本堂及びこれも國寶の江戸時代初期書院造りの代表的建造物たる月光殿と、鎌倉時代の尊勝曼荼羅、並びに藤原時代の金銅五鈷鈴などの寶物をもって鳴るほか、故先生を埋葬せる同じ境内の墓域には、明治の功臣たる三條實美、山田顯義、山縣有朋、大隈重信諸公の墓がある。思ひてここに至れば、早稲田大學の産みの親たる故大隈侯と、實踐學園の創立者たる故下田歌子先生が、同じ境内の同じ墓域を永遠の休息所と選んだのも、また奇しき因縁とはいへないであらうか。

かくしてここに、當面の葬典はすべて滯りなく終了した。なほ翌十月十五日には、午前中専門學校の全生徒、午後は第二高等女學校の全生徒が、更にまた十六日には午前中、高等女學校全生徒が、いづれも各職員に引率されて初の墓參を行った。その後も、五十日祭當日たる十一月二十六日までは、毎日、三校の生徒代表が職員附添のもとに校長邸の靈前に禮拝し、また旬日祭及び護國寺に於いて行はれし各忌日の法要には、それぞれの代表者を參列せしめたほか、特に墓參のため、三校一ヶ月交替にて毎日代表者を送りなどして、ただひたすらに、故校長先生在天の英靈を慰めまゐらすことに努めて行った。』

護国寺の墓域と墓碑銘
護国寺の墓域と墓碑銘

画像出展:「下田歌子先生傳」

第十七章 香雪餘薰

第一節 時代の人

『いまここに、思ひを新たにして、下田先生の燦然たる生涯を回顧し、また、更に、群がる當代の俊傑中から、さまざまの點に於いて比較、相似を發見し得る人物を、二者、拉し來って少しく追懷の筆を進めて見よう。まづその第一の人が、ゆくりなくも下田先生と同じ墓域(音羽護國寺の境内)に眠る大隈重信侯である。侯は天保八年、丁酉の歳十月の出生であるから、先生よりも十八歳の年長で、大正十一年七月、八十五歳をもって易簀した。すなはち下田先生よりも、二歳の長壽を保たれた人であるが、御兩所とも老年まで、〇〇として意氣壯者を凌ぎ、共に九十歳、或いは百歳以上の高壽を保つかに見えてゐた。

面してこの兩偉人が、同じように博識であり宏辯であり、晩年は專ら一つ育英の事に盡した。他者に對して門戸を閉ざさず、何人を相手としても諄々と道を説き、しかも任俠であって世話好きで、常に明るい、華やかな日常生活に終始した。言葉をくだいていはうならば、じめじめした事が大嫌ひであって、とかく、陽氣なこと、賑やかなことがお好きであった。さうして最後まで、新時代の思潮に敏感であり、加ふるに生來の勉強好き、學問好きで、勉倦むことを知らなかった。

下田先生が帝都の西南、澁谷の常磐松に、巍然たる女學の一大聖殿を築き、一萬數千の卒業生、四千の在校生を得て、それ等敎へ子の崇敬の的となれば、大隈侯はまた都の西北、早稲田の森に、一萬の學徒を擁して風雲の去來を窺ひ、その學園の頭目と仰がれる一方、たまたま出でては首相の印綬をも佩び、大正初期の國政を補佐し奉ったこともある。ただ、侯が殆どその生涯を政治家として終始されたに對し、下田先生が、多大の政治家的手腕を備へながらも、後年全くその〇芒を包み、謹〇重厚、あく迄も敎育家としての晩節を完うされた點を異れりとすべきである。』※もう一人は渋沢栄一氏

第二節 知行合一

『かくの如き天の成せる毅然たる禀質は、次第に先生の人格玉成させ、また少女時代、靑年時代の病弱よりして見事に蟬脱し、四十歳前後よりあの健康體となられ、遂には、いかに奮闘されても平然として、なほ疲勞を知らざる人となった。ここに一つ、面白いのはその奮闘時代の先生の健啖ぶりで、それは三度の食事にも側近の者が、しばしば膽を潰すほどであったといふ。食事の嗜好は一體に頗る無頓着の方で、その點臺所を承る侍女たちは大いに助かった。先生は日頃、食膳に供へられた物を凡て悦んで食べられたし、總じて甘い物がお好きであって、麥茶に玉垂(菓子の一種)さへ用意すれば、決して苦情をいはれたことがなかった。ただ生來、枝豆といふ變った好物が別にある。

この朝夕の食事に關して、先生に、傳ふべき一條の美談がある。先生は、久しい以前よりして食事の終る度毎に、最後の一口を必ずお茶漬になさる習慣があった。そしてその濡れた最後の一粒を、茶碗の緣へ箸で上げて、それから一つ御辭儀をして召上がるのが常である。これが如何に多忙な際でも、また病床にあられた折りでも、殊に晩年、病んで右手の故障を告げられる頃に至っても、日々、忘れられたことがない。そこでさる日、側近の者が、それとなく右の理由をうかがってみた。先生の答へが、かうである。

「子供の頃、祖母が自分に、粒々皆之幸苦の句を話され、食事をする毎に、無事に御飯の頂けることを、口の中でよいから有難うございましたといはねばいけないと敎へられた。それが習慣になって、今も缺かすことが出来ない」云々。先生の祖母貞子刀自は、思へば明治十七年、甲申の歳六月、同じく八十九歳の長壽をもって逝かれた方であるが、先生は、その敬愛する亡き祖母君の訓戒を、みづから齡八旬を越して、なほ一日として忘れることがなかったのである。

また先生が、別にこの食事について、いかに無頓着で、無造作であられたかを語る實話として、ここにかういう微笑ましい話柄もある。曾て二十餘年前、先生の一行三名が、特に招かれて九州地方一圓に講演行脚をされたとき、熊本に在住する一敎へ子が、その新婚のつつましい小家庭に、師の君と久にして相逢ふ懐かしさに、推して先生の御立寄りを乞うたことがある。行く先々の一流旅館で、懸の高官や新聞記者連に取り巻かれるのが常であった先生が、その日にその小家庭に於いて、ただ梅干に柔らかい御飯を頂いて、ああ、極樂のやうだと滿足して居られる心易さには、當年の敎へ子がただ有難さ勿體なさに、ひたすら感涙にむせぶばかりであったといふ。

かくの如く、簡素を尊び煩雜を嫌ひ、みづから斷じて門戸、邊幅を飾らざるは、蓋し全く先生の天性に依るものであったらしい。大正十二年、〇亥の歳は先生すでに七十歳で、既記の如く從三位勳四等、愛國婦人會一百數十萬會員の代表者として、大震災の挺身的活動より、いよいよ名聲海内に高き身であられながら、その住み古された靑山六丁目の邸宅たるや、一體どの程度の門戸を張って居られたあらうか。實に、先生はその食に於いて、以上のやうに簡であったやうに、その住に於いても驚くべき素を示されつつ、なほ平然として、一言半句の不足も口にされない人であった。

當時の宅はすでに年古り、周圍には貧弱なる杉の矮木が並んでゐて、その杉木立との間を劃すべき板塀すらもなく、為に、近所の犬どもが欣んで、先生邸へと出入りして居った。家は無論平家建て、五六間の粗末ものであって、明らさまにいへば、當時やうやく五六十圓程度の借家であった。玄關の次が客間であるが、これがたまたま雨にでも遭ふと、屋根が腐朽してゐて盛んに洩れるのである。先生宅を訪れた人々に、降雨の日、その客間に、雨洩りを受けるための盥やバケツの類が、幾つともなく並んでゐる珍光景を目撃して、吃驚一番するのが常であった。

翌大正十三年、甲子の歳に至って、やうやう先生は周圍の懇望を容れ、その隣地を借用して、勿論大きからぬ家を新築された。かくして先生は、七十一歳にして、初めて自己の所有になる家に住む身となられたのである。寡慾は實に、下田先生の天稟であった。かかる先生ゆゑに、昭和九年、甲戌の歳七月、しばしばその右上肢腫張が激しき疼痛を伴ふに及んで、意を決し、然るべき方面の手續を履まれて、正規の遺言書を作製された。先生は先生一代をもって、斷乎、下田家を絶家されることを遺言したのである。地上の財貨の如き、先生にとっては正に浮雲のそれに等しかったのであらう。

傳してここに至って、是非とも再びまた筆を洗って特筆せねばならないのが、先生八十餘年の長き生涯を回顧して、つねにわれわれの胸を打たずにはをかぬ二つの大思念、大精神の具現である。まづその第一を、先生の平常不斷、寸刻と雖も變ずるところのなかった「敬神」の大精神とする。若くして、幾多苦難の關頭にも立たれた先生は、或るときは佛門に、また進んではそのうちの禪門に、心していはゆる安心立命の絶對境を把握されんものと、一方ならぬ内省熾烈の精神苦を經驗されたものであった。

もとより、先生の敎養の一部をなす國學のうちに、直接の系統こそ引いては居らなかったにせよ、かの選ばれて平田篤胤翁の養子となり、明治の初年、特に參與に任ぜられ、宮中にあって侍講をも拝命、その十二年、己卯の歳六月、八十二歳をもって歿した平田鐵胤翁一派の思想が、多少の影響を及ぼさなかった筈はない。およそ、我が下田先生ほど、敬神崇佛の實を、身をもって示現せられた人は蓋し少なかったであらう。實踐學園の校長室には、つねに大神宮が奉祀されてあって、先生は登校、退校ともに、未だ曾て恭しくこれに合掌禮拝されざることがなかった。

人はしばしば、先生のこの深き恭敬謹行に、胸打たれ鞭打たれたものである。朝はまづ、必ず淸水をもって手を淨められ、伊勢大神宮、宮城、明治神宮を遙拝され、續いて兩親の御靈に御挨拶される。歸宅された際も、また同樣である。いかなる旅行途次とても、敬虔なるこれ等の拝禮を缺かされたことはない。みづから「虎の子」と仰せあって、天しろし召す大神宮の貴き護符を、紙入のまま押し戴いて御拝になる。從って、神社にまれ佛閣にまれ、宮城、御殿の御前を通行される際には、たとへ自動車を走らせて居られる時であっても、必ず膝を正して敬虔なる御拝をされるのであった。』

第六節 遺芳萬古

もとより先生は寡孤獨の人、一度嫁して幾ばくもなくその良人を失ひ、寡を守って生涯を君國に捧げられた。先生逝いて、その剰すところの財たるや、現金としては、第一銀行靑山支店の特別當座預金が僅々貮百數十圓に過ぎなかったといふし、また先生ほどの盛名を擁してゐて、その日夕を送り暮らす居宅たるや、實に大正十三年、甲子の歳、七十一歳にして、しかも周圍の〇〇もだしがたく、初めて「自分の家」に住まはれる身になられた次第であったといふ。ましてや先生はその遺言に於いて、斷乎、下田家を自分一代限り、絶家とすることをもってされた。人ここに至れば、まさしくもはや常人ではない。人間以上の存在であり、神である。

先生の歩まれた道は、夙くより學問敎育であって、殊に我が國の一般婦人の指導者たるの途を選ばれたのであるから、もとより非常の國難に直面して、戰陣の間に死生を堵するが如き、男子の行動とはその成り立ちを異にする。が、しかし先生の精神に於いては、その氣魄に於いては、確かに男子のそれをすら凌いでゐた。先生は常に、その高著「日本の女性」の中に擧げられたる、日本古今の賢女烈婦を典型とし、現代日本の子女をしてそれ等の敎君を、時代に應じて活現せしめんと意圖された。かくの如きは、ただ讀書講説をのみ事とする現下の女子敎育界に於いて、確かに、他の何人によっても企及され得ない、眞の人格敎育の大精神であったのである。』

下田歌子4

下田歌子先生傳
下田歌子先生傳

編輯発行:故下田校長先生傳記編纂所(代表:藤村善吉)

出版:1943年10月8日(非売品)

目次は”下田歌子2”を参照ください。

第八章 所謂永田町時代

第三節 寒松垂柳

あまねく歐米の女子敎育狀況を、活眼をもって視察してきた先生は、わが國上流子女の敎育に、いかに「體育」が必要であるかを痛感して、歸來直ちに全學校職員に計り、體操科の大演習ともいふべき「運動會」の開催に努力した。本來華族の子女に、わけても「體育」の缺くべからざる所以は、かねてより知られて居たので、華族女學校でも明治二十年九月以降、努めて普通體操を課してきたが、先生はそれ以上更にこの運動會を、春秋二回にわたって興行し、もって全生徒の體育熱に拍車を加へられたのであった。

運動会に於ける薙刀
運動会に於ける薙刀

画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」

第十一章 志那留學生の教育

第四節 炯眼

『この人物[邊見勇彦:「若い頃まことに、手に負へない亂暴者だった私が、六十餘歳の今日、なほアジア民族の大同團結の為に心を致し、微力を盡してゐることは、全く曾って下田歌子先生に御面接の機會を得、先生に依って、自分の進むべき道を敎示されたからこそである。その當時を思ひ、先生が夙くより、支那問題に深き關心を持たれ、支那の過去、現在及び未來に對する、周到なる見解と抱負とに想到すれば、私などはただ驚嘆これ久しうするほかはない」]のこの追懐談は、次第にこの邊から面白さを増してゆく。「女それ何するものぞ」と、若い豪傑が心に澁りながらも、實姉と義姉とにすすめられてやむを得ず、麹町永田町の華族女學校官舎に下田先生を訪ねると、先生は例の「被布のやうな物」を召して居られて、お會ひになるといきなり漢文口調で「成る程、お見受けするところ、邊見郎太大人のわすれがたみだけあって、容貌、骨格ともに、偉丈夫の相をして居られる。私はこれでも敎育家であるから、何もかも知ってゐる」と、まづ靑年の度膽を抜いて終はれた。

現在の日本の敎育といふものは、人間を、みな一つの鑄型に嵌めようとする。だからあなたのやうな豪傑が、日本の學校では落第したり、暴れたりして、所を得ずに居る。これは取りも直さず、日本の敎育制度の誤りである。一つ日本を諦めて、支那へ行く氣はないか。今は誰も支那を問題にしてゐないが、自分の考へを正直にいへば、日本の興亡といふものは、結局は對支問題を如何に處理してゆくかに在ると思ふ。日本と支那の有樣をこの儘にして置くと、恐るべき結果に陷る。まづ具體的な第一着手としては、彼我新提携の前提として、お互いの人情、風俗、制度、文物をはっきりと認識しなければならぬ。その第一歩としては、まづ彼我の言葉が通じなければならぬ。支那の留學生はだいぶ來てゐるが、支那にゆく日本人の留学生は實に少い。日本の為に、率先して支那に渡って見る氣はないか」と、先生は重ねて喝破されるのであった。

下田先生の一面たる、警抜なる感化力、指導力に眼のあたり接して、根本から更生の途を見出したこの野心勃々たる一靑年は、間もなく上海に渡って、その最も繁華な四萬路に、堂々たる三階建の家を借りて、まづ作新社と稱する出版商社を與し、第一に「支那の靑年層に新知識を普及」せしむる目的をもって、雜誌「大陸」を月刊し、更に日本の政治、經濟書を支那文に翻譯して、盛んにこれを頒布した。』

第十二章 途上十年

第二節 思ひ出の官舎

『事實に於いて、謂ふところの「永田町時代」後半の下田先生は、華族女學校の學監兼敎授として、その聲望は実に一世を壓してゐた。或る意味より考へて、その時代の「反射鏡」ともいひ得る當時の新聞、雜誌の類をいちいち調べてみれば、明治三十七、八年、すなはち日露戰争前後に於ける下田先生の言動もしくは進退が、いかにしばしば、それ等の紙上を賑はしてゐたかに一驚する。試みに、どのやうな按排に先生への風當が強かったか、ここに、眼についたままの實例二三を拾って見よう。』

『その三、これは明治四十一年三月十二日附きの「東京日日」新聞に、「日本一の月給取は下田女史、それでゐて借金澤山」と題し、どこで調べたものか學校、出張敎授、著述の印税、執筆料などを仔細に調べ、先生の年收を七千五百圓と見、第二位にその半分にも足りぬ、年收三千圓前後の音樂家、幸田延子女史を置いた興味本位の記事が出た。先生が、その永田町時代、少なからぬ收入があったにかかはらず、實踐學園の經営、雜誌「日本婦人」の發刊、各種公共團體への喜捨金などで、相當の借財に悩んだことは事實であるが、かく如く喬木なればこそ、正當に働いて報酬を得ても、また、涙を呑んで他から資金の融通を仰いだことに對しても、それが世間の注目に惹いて、忽ち新聞の紙面を飾るに役立つのだから、まことに是非もなき次第であった。

下田先生がつねづねいって居られた言葉に、「自分は生まれつき、政治が嫌ひな方ではない。だから今でも、間違って敎育方面に走って來たやうに、自分を考へることも度々ある。しかし自分の性格は、おそらく政治家には向かないであらう。政治の道に志すのに、自分は第一の資格を缺いてゐる。それは自分が情に脆いといふことだ。困るから助けてくれといって泣きつかれると、自分は自分の立場も體面も忘れて同情してしまふ。かう人情脆くては、所詮政治家は駄目である」といふのがある。』

第四節 描かれし素像

[古い女の完成を (下田歌子女史訪問記) 磯村春子]

『下田先生の人格と、その説く所に就いては、己に世に定評があるから、今更こと新しく「今の女」として紹介するには當るまいが、女史の卓越した見識と、確固たる意見より發せらるる所説は、今の女、後の女の範としてとるべきものが多いと信じ、敢へてここに紹介する事にした。その日、先生は白襟に黑羽二重、三つ紋の被布を着て、こころよく記者を迎へ、相變らず何の隔てなく所信の程を語られる。

私は日課と致しまして、朝早く起きてすぐ冷水摩擦をやり、今日迄病氣のほかは一日もこれを缺かしません。それから天氣がよい朝などは、運動の為に少し散歩をするか、畑を掘り、土を反して草花や野菜の培養を致します。一週に二度は、宮樣の御殿へ伺侯しますので、その日は特に早く起きて、まづ身を浄めます。

伺侯の時間は午前八時から、晝頃までになってゐますので、御殿を下りまして宅に歸り、それから晝の食事を濟して、下澁谷の實踐女學校へ參、歸宅するのは大抵日暮れ頃ですし、歸宅しても學校の職員や、他の訪問客のお約束がありますから、自分だけの時間といふものは殆ど御座いません。

特に私の嗜好と申して、別段これぞと云ふものもありませんが、まづ幼少の頃から、これだけは長い、長い間の習慣となってゐる讀書でせう。近頃は殊に時世の變遷を知る為に、つとめて澤山の新刊書を讀むことにしてゐます。本は、幾ら澤山、また短い時間に早く讀んでも、いまだ曾って頭が疲れたなどといふことはありません。習慣の力といふものは、自分ながら大きなものだと存じます。

私の敎育方針は、やはり現在の國情もよく參酌しては觀ますけれど、古い明治の眞精神を繼續して、しっかりと大地を踏みしめた、着實質實な方針で進んでゆきたいと思ひます。私は今日の女性めいめいが、何でもいいから自分で働くこと、働かねばならぬと信ずること、さういふ頭の生徒を作ってゆくことを、まづ第一の急務だと思ひます。

さうでなくて、徒らに西洋の派手な風俗や思想にかぶれ、輕佻浮華に流れて、自ら働くことを嫌ひ、懐手をしながら樂な生活をしようと心がける現代の女性の将來は、いったいどうなってゆくでせう。借りものの西洋思想ほど、この世に危險なものはないではありませんか。西洋人は、いささかあちらを歩いて存じて居りますが、科學者でも醫者でも、或ひは法律家でもまた統計學といふ方面でも、ちゃんと男子に劣らぬ位にまで進歩、發達してゐる婦人が多いのです。

けれども日本はどうでせう。當然女子の事業たるべき方面にまで、なほ男子の手を借りなくては事が運ばないのに、ただ新しく、ただ奇を狙って進んで行って、いったいどう締めくくりがつくでせうか。何も好んで男子の職業の範圍にまで突貫して行かなくても、女子が女子らしい本當の仕事、たとえば裁縫、刺繍、料理などの方面で、まづ斷然男子に厄介にならなくても濟むやうに、女子の實力を養ってから上のことにしてはどうでせうか。

私は、だから目下の急務として、所謂「新しい女」を完全なものに作りあげるのが、本當の敎育だと信じます。過渡時代の現象として、一面やむ得ないことかも知れませんが、私は新しい女とか、新眞婦人とか自ら名乘る人々が、もう少し堅實な思想を持って、自重して、もっと足許をよく御覧になって、日本の本當の婦人らしい言動を執られんことを、此際こころから希望してやみません。』

[第一流の價値充分 (現代名士の演説ぶり) 小野田翠雨]

『下田女史の演説は確かに巧い。第一流の價値は充分ある。辯舌が如何にも流暢で、抑揚があり、波瀾もあり、興趣もあって、態度、身振も堂に入ってゐる。ただし、所説があまり佳境に進むと、餘に熱心が過ぐる結果か、身振が餘に激しくなって、心ある冷静な第三者には、いささか空々しさを感じさせるやうな懸念がないでもない。

女史の演壇に立った風采は、それはそれは見事なものである。頭髪はいはゆる下田式の束髪で、一體にそれ上の方へあげて結び、廂も髷も大きく出してゐるのだから、頗る聴衆の眼を惹きやすい。しかも服装はと云へば、これも大抵の場合下田式の被布に、黑または紫紺鹽瀨の袴をつけ、澁く、質素に見えながら、その實なかなか地味でない。どことなく濃艶で、ぱっと派手やかな所があり、遠目でみると〇〇〇〇、たしかに十二三歳は若く見える。

女史の演説にも、一つの大きな癖がある。それはしばしば右の手で、例の下田式の束髪を氣にして、無心な調子で撫でつけることだが、これがまた何とも云へぬ愛嬌とも受け取れる。それから言葉としての特色は、「そしてですねぇ」と、この「ねえ」を長く引っぱる癖である。更に演説中、よく出る言葉に、「私の如き學問のない」とか「私如きが敎育家の末席に列しまして」とか、自分を極端に卑下してかかる點で、これは確に聴衆に大きな感動と好意を抱かしめる、何でもない事のやうで、なかなか賢明な方法である。

實踐女學校内に、女子特設の「源氏物語」の講座があるといふが、これは内容も徹底し、造詣もふかく、態度、辯舌も爽かで、大した評判の名講義だと聞くが、女史の國文學は當代でも一流だから、定めし大評判通りの名講演であるに相違ない。女史自身が多分に涙もろい女性らしいから、女學校の卒業式の告別演説などでは、よく聲涙ともにくだる名演説をして、滿堂ただ噓〇流〇のるつぼと化し去るのが常であるといふ。女史は演壇で、女史自身がまづ興奮し、感激するのだから、聴衆が自然と興奮し、感激するのも元より無理はない。』

第十四章 愛國婦人會々長時代

第七節 輝く成果

『續いては先生、年來の宿題の一つたる愛國夜間女學校の開校がある。これは越えて大正十三年、甲子の歳三月二十三日をもって、芽出度く開校の運びとなり、勿論先生はその校長に就任されたのであるが、それは夜間と雖も立派に、修行年限三ヶ年、高等女學校の程度に準ずる本科と、別に裁縫、家事に重きを置く一ヶ年修了の簡易科を附設した。

曾て帝國婦人協會創設のり以來、資なくしてなほ向學の精神に燃ゆる、健氣なる後進女性のために、夜間の女學校を開設することは、實に先生の永き宿望の一つであった。それが、いま端なくも内外の要望に從って、頗る自然に、開設實施の期を見るに至ったのは、實にその前年の九月、突如として襲ひかかった前古未曾有の大震災の故である。

第十六章 哀哭記

第五節 告別祭

昭和十一年十月十三日、つひに一世の偉人を送って、その遺骸に永遠の別れを告ぐべき儀式の日とはなった。夜來の雨、一同の悲しみを知りて竟に降りやまず、午前九時、昨夜より徹宵準備せし講堂に、まづ靈柩を貴賓室より移しまつる。棺側奉仕の敎職員の手もて、やがて靈柩は講堂正面、壇上の靈與に奉安せられ、その前には、黑リボンにて飾れる在りし日の溫容、慈顔、微笑さへ含ませらるる先生の大寫眞を掲げ、恰もそれが護るが如く、勳四等實冠章と、勳三等瑞實章とが、不滅の功績を語りつつ、燦として輝きを放ってゐた。

仰げば壇上左右には、畏きあたりより賜はりし祭資料の御目綠をはじめ奉り、皇太后宮、三笠宮、閑院宮、東伏見宮、伏見宮、山階宮、賀陽宮、久邇宮、梨本宮、東久邇宮、北白川宮、竹田宮、昌德宮、李鍵公妃並びに宮家より御降嫁の立花美年子、佐野禮子、東園佐和子各令夫人より供進せられたる御玉串料、御榊、御菓子、御鏡餅等の供物、まことに所狭きまでに山積せられ、更に壇下左右の兩側には、朝野各方面より供へられし眞榊、花輪、生花などの類數知れず、しかもそれはいづれもその極く一小部分であって、大方は搬入の餘地もなく、やむなく一、二階の廊下、記念館、新築中の校舎等にまで、充ち溢れてゐた。

ここにもまた先生生前の功績と德行との偉大さが偲ばれ、新たなる哀惜の涙を誘ふものがあったが、何分にも會場の收容力には限りがあり、參列生徒にも、また涙を呑んでその數に制限を加へねばならなかった。すなわち三校生徒代表、櫻同窓會員代表を約百五十名、幼稚園代表二名、それに、故先生が曾て校長たりし關係よりして、順心高等女學校より九十名、愛國夜間女學校、明德高等女學校、淡海高等女學校よりの代表若干を加へしのみ、他は各自敎室に於いて遙拝、黙禱せしむることとしたのであったが、すでにこれのみにて、さしも實踐學園の誇る大講堂も、今は全く立錐の餘地すら見ざる有樣であった。

かくて午前十一同着席、齋主、祭官四名、伶人五名まづ着床、いとも嚴かに告別の祭典は開始さる。齋主は前掲の如く出雲大社副管長、千家尊弘氏である。一同起立修祓を受け、伶人の奏する〇〇たる樂の音のうちに、齋主以下祭官列拝、奉幣ののち海山種々の○物献じ、つづいて一同起立のうちに、左の如き齋主の告別祭詞奏上さる。一句また一句、朗々と誦される祭詞の中からも、故先生八十三歳の輝ける生涯の德功が、いよいよ高く偲ばれて、今更ながら痛惜の情をそそるもの大であった。』

告別式
告別式

画像出展:「下田歌子先生傳」

告別式
告別式

画像出展:「下田歌子先生傳」

下田歌子3

下田歌子先生傳
下田歌子先生傳

編輯発行:故下田校長先生傳記編纂所(代表:藤村善吉)

出版:1943年10月8日(非売品)

目次は”下田歌子2”を参照ください。

前回同様、当時の雰囲気をお伝えするため、できる限り本書で使われている漢字を用いています。

第六節 鍊武

【下田歌子先生談】『私は十二三歳からは可なり大きくもなり、從って丈夫にもなりましたが、七八歳までは小さくて、からだも弱く痩せてゐたのです。たしか九ツの時であったと覚えてゐますが、武藝を習わせて下さいと、度々願ひますけれども、からだが弱く、あまり小さいから駄目だと云って許してくれませんでしたが、あまりに熱心に申しますので、母から薙刀習ふことになりました。所が果してあまり小さくて薙刀が持てませぬ。特別に小さい薙刀を造っ貰ひましたが、それでもまだ持てませぬ。

之を見ました父は、それほどに習ひたいのなら、元來私は學問ばかりして、武藝の方は駄目だが、お前に型を教へる位のことは出來るだろうから運動旁々、小太刀を敎へてやらうと申し、それからは父から小太刀の型を敎はりました。そこで多少ながら武藝の手ほどきも出來ましたので、今度は遠緣に當る親戚に、六十歳以上になって隱居をし、發句などを作って樂んでゐる老人がゐましたので、或時この老人に柔道の型を敎へて下さいと申しました。

「成程女でも、柔道の型を知ってゐるのは宜いことですから、御兩親の御許しがあれば敎へて上げてもよい」と、申しました。兩親も存外たやすく許してくれましたので、逆手本手段取りとだんだん進んで、一年半位は續けました。元より武藝を習ったといふほどの立派なことではありませぬが、おさなき日のこのすさびは、先ず武藝の心得がある位の役は致しまして、物に動じない沈着だけは體得したやうに思ひます。

薙刀
薙刀

画像出展:「順心高等女学校 第二回卒業記念」

第四章 宮中奉仕

第一節 雲の上に

明治五年、壬申の歳十月十九日といふ日は、下田歌子先生の一生にとって、實に重大な記念すべき日であった。先生後半の事業の一切が、悉くこの宮中奉仕の日を發足點として築かれたものである。宮内省十五等出仕といふのが、この日先生に授けられた最初の辞令であるが、一家の人々は皆双眼に涙を湛へて、この無上の光榮を喜び合った。

無理もない。平尾家の人々といへば祖父の琴臺翁も父の鍒藏も十八年、十年、只管幕府が倒れて天皇親政の聖代が實現せらるることを唯一の希望として、流〇、幽閉の難苦多き歳月を閲して來た。しかも今や妙齡十九歳、花の如く、玉の如く美しく且つ賢く育った孫娘が、初めて畏き邊りより召され、往時は會て夢にだも思はなかった堂上○紳の貴嬪令嬢と伍して、九重雲深きところに奉仕する身とはなった。嗚呼この光榮、この歡喜、私共は實にこれを表現すべき言葉を知らないのである。』

第三節 婦德

『もう一つ、これは先生の宮中生活と、直接関係はないが、祖母貞子刀自の先見の明を語る、愉快な思ひ出話が、下田先生御自身の口を通して語られてゐる。

曰く「私は子供の時分から、自分で考へてもたしかに男まさりの性格であったらしい。妙齡といふ年頃になっても、とかく綺麗な、ぴかぴか光る着物を着るのが大嫌ひであった。それは活潑に身を動かすことが出來ない上に、汚すと叱られるのがうるさいからである。

そこで或る時祖母が、私に向かってかういひ出した。[人間の福分といふものは、天の定命と同じであって、若い時に濫りに勿體ない消費などをすると、必ずその人間の福分が若いうちに通り越して終ふ。そこへゆくとお前は、少し人間が變ってゐる。つまりお前がいま、綺麗なものを着たくないといふのは、どうも意地や外聞から出た言葉ではないらしい。しかしお前は、着るべき時に着ないのだから、それだけ福分があとに残ってゐることになる。今に見なさい、着物の方から反對に、どうか是非是非これを着て下さいと、頭を下げて賴んできて、どうにも良い着物を着ずには居られなくなる時がくる]云々。

果たして祖母のいふことに間違ひはなかった。私はのち宮中へ御奉仕する身となって、幸ひにも 昭憲皇太后樣から澤山の御下賜品を頂戴して、殆ど着つくすことの出來ない程の衣類を、所持する仕合せにめぐり合った。なにも身分不相應の綺麗なものを着たからといって、その女性の美しさが輝き出す筈のものではない。素質的に美しく生まれついた者ほど、質素ななりをする。それがまた一段と、その女性に奥床しさを添へる。つまり誇りもせず、見得も張らずに、ひとり香り高く咲いてゐる深山の山百合、日本の女性には、なんとしてもこの深山の山百合の心意氣が欲しいと思う」。』

第五章 桃夭女塾前後

第二節 結婚

下田猛雄氏は伊豫の丸龜、京極氏五萬石の藩士であって、また無双の靑年劍客として鳴ってゐた。その刀技の流派を民谷流といふ。島村勇雄門下の高弟であって、やや少軀ながら大膽、慧敏、常に二尺八寸あまりの無外の大刀を横たへてゐたところから、當時の劍士たちはみな「無外の猛雄」と呼んで、その勁烈な刀法に怖れをなしてゐた。麻布の長坂に道場を開いて、一時は數十名の門弟を養ってゐたが、當時の靑年劍客で、名聲高い人々がみな選んだやうに、市内各方面の警察署に出張して、いまの警官、當時の卒諸氏に、得意の劍法を敎へてゐた。

なにもかも、實力がどんどん物をいった時代である。現在ではさういふわけにも行くまいが、明治十年前後の〇卒諸氏中には、なかなかの傑物がゐた。後年内務大臣までつとめた、子爵大浦兼武氏などもその出身である。ただ下田氏は性來の豪放、落な武士氣質から、あくまでも名刺に淡であって、政治方面に少しも興味を抱かなかったから、極く少數の人々を除いて、殆どこの仁の秀でた劍法、男らしい人となりを知る者がない。』 

『下田猛雄氏と、先生の父上平尾鍒藏氏とは、決して維新以後上京してからの、淺い知友關係ではなかった。が、平尾のお父様が下谷の警察署で、多くの警吏諸氏に「論語」を講じてゐた時、また、下田氏も同じ警察署で、同じ警吏諸氏に「劍技」を敎へることになった偶然の〇〇が、この兩人の交情を再び急速度に暖める結果となり、それが直接の縁故となって、やがて良媒を得て、先生が下田猛雄夫人となるに至ったのは事實である。

こうして勿論、先生は下田氏から求婚され、武士仲間であるところの父君の意が、まづ第一番に動いて終はれたらしく、退官されると間もなく一家庭の主婦となった。才藻比類のない先生としては、定めしこの結婚といふ方面の事に關しても、他に何等かの希望も意向もあったであらうけど、あくまでも日本の婦道の中に育ち、家と父とに重點を置いて生き拔かうとする、日本の女性であった先生は、昨日までの華やかな境遇を一切投げ捨てるつもりで、ここに一靑年劍客の夫人となられたものであったらう。 </