咲けない時は根を降ろす

ブログ“源氏物語と紫式部1”は、山本淳子先生の『平安人の心で「源氏物語」を読む』を題材にしているのですが、その山本先生は紫式部が『源氏物語』という大輪の花を咲かせたのは、自分なりの根を降ろしたからこそである。との見識をお持ちです。

この見識は『置かれた場所で咲きなさい』という渡辺和子先生の名著に遺された、「咲けない日があります。その時は、根を下へ下へと降ろしましょう」という教えが、まさに紫式部の生き方に重なるということからきています。

また、渡辺先生は軍人だった父を、二・二六事件の青年将校たちによって目の前で射殺されるという悲惨な衝撃的な体験をされており、そのことも渡辺先生の『置かれた場所で咲きなさい』を読みたいと思った理由です。

ブログはもくじ黒字部分ですが、一つは“変らない現実”、もう一つは“希望”に関するものといえます。

置かれた場所で咲きなさい
置かれた場所で咲きなさい

著者:渡辺和子

初版発行:2012年4月

出版:幻冬舎

もくじ

はじめに

第1章 自分自身に語りかける

・人はどんな場所でも幸せを見つけることができる

・一生懸命はよいことだが、休憩も必要

・人は一人だけでは生きてゆけない

・つらい日々も、笑える日につながっている

・神は力に余る試練を与えない

・不平をいう前に自分から動く

・清く、優しく生きるには

・自分の良心の声に耳を傾ける

・ほほえみを絶やさないために

第2章 明日に向かって生きる

・人に恥じない生き方は心を輝かせる

・親の価値観が子どもの価値観を作る

・母の背中を手本に生きる

・一人格として生きるために

・「いい出会い」を育てていこう

・ほほえみが相手の心を癒す

・心に風を通してよどんだ空気を入れ替える

・心に届く愛の言葉

・順風満帆な人生などない

・生き急ぐよりも心にゆとりを

・内部に潜む可能性を信じる

・理想の自分に近づくために

・つらい夜でも朝は必ず来る

・愛する人のためにいのちの意味を見つける

・神は信じる者を拒まない

第3章 美しく老いる

・いぶし銀の輝きを得る

・歳を重ねてこそ学べること

・これまでの恵みに感謝する

・ふがいない自分と仲よく生きていく

・一筋の光を探しながら歩む

・老いをチャンスにする

・道は必ず開ける

・老いは神さまからの贈り物

第4章 愛するということ

・あなたは大切な人

・九年間に一生分の愛を注いでくれた父

・私を支える母の教え

・2%の余地

・愛は近きより

・祈りの言葉を花束にして

・愛情は言葉となってほとばしる

・「小さな死」を神に捧げる

第1章 自分自身に語りかける

神は力に余る試練を与えない

『心の悩みを軽くする術があるのなら、私が教えてほしいくらいです。人が生きていくということは、さまざまな悩みを抱えるということ。悩みのない人生などあり得ないし、思うがままにならないのは当たり前のことです。もっといえば、悩むからlこそ人間でいられる。それが大前提であることを知っておいてください。

ただし悩みの中には、変えられないものと変えられるものがあります。例えばわが子が障がいを持って生まれてきた。他の子どもができることも、自分の子はできない。「どうしてこの子だけが……」と思う。それは親としては胸を搔きむしられるほどのせつなさでしょう。しかし、いくら悲しんだところで、わが子の障がいがなくなるわけではない。その深い悩みは消えることはありません。この現実は変えることはできない。それでも、子どもに対する向き合い方は変えられます。

生まれてきたわが子を厄介者と思い、日々を悩みと苦しみの中で生きるか。それとも、「この子は私だったら育てられると思って、神がお預けになったのだ」と思えるか。そのとらえ方次第で、人生は大きく変わっていくでしょう。

もちろん、「受け入れる」ということは大変なことです。そこに行き着くまでには大きな葛藤があるでしょう。しかし、変えられないことをいつまでも悩んでいても仕方がありません。前に進むためには、目の前にある現実をしっかりと受け入れ、ではどうするかということに思いを馳せること。悩みを受け入れながら歩いていく。そこにこそ人間としての生き方があるのです。

今あなたが抱えているたくさんの悩み。それを一度整理してみてください。変えられない現実はどうしようもない。無理に変えようとすれば、心は疲れ果ててしまう。ならば、その悩みに対する心の持ちようを変えてみること。そうすることでたとえ悩みは消えなくとも、きっと生きる勇気が芽生えるはずですから。

第2章 明日に向かって生きる

つらい夜でも朝は必ず来る

『希望には人をいかす力も、人を殺す力もあるということをヴィクター・フランクルが、その著書の中に書いています。

フランクルはオーストリアの精神科医でしたが、第二次世界大戦中、ユダヤ人であったためナチスに捕えられて、アウシュビッツやダハウの収容所に送られた後、九死に一生を得て終戦を迎えた人でした。

彼の収容所体験を記した本の中に、次のような実話があります。収容所の中には、1944年のクリスマスまでには、自分たちは自由になれると期待していた人たちがいました。ところがクリスマスになっても戦争は終わらなかったのです。そしてクリスマス後、彼らの多数は死にました。

それが根拠のない希望であったとしても、希望と呼ぶものがある間は、それがその人たちの生きる力、その人たちを生かす力になっていたのです。希望の喪失は、そのまま生きる力の喪失でもありました。

二人だけが生き残りました。この二人は、クリスマスと限定せず、いつか、きっと自由になる日が来る」という永続的な希望を持ち、その時には、一人は自分がやり残してきた仕事を完成させること、もう一人は外国にいて彼を必要としている娘とともに暮らすことを考えていたのです。

事実、戦争はクリスマスの数ヶ月後に終わったのですが、その時まで生き延びた人たちは、必ずしも体が頑健だったわけではなく、希望を最後まで捨てなかった人たちだったと、フランクルは書いています。

希望には叶うものと叶わないものがあるでしょう。大切なのは希望を持ち続けること、そして「みこころのままに、なし給え」と、謙虚にその希望を委ねることではないでしょうか。』

感想

失望、悲しみの真っただ中にいて、苦しみもがいている自分を外から眺め、外側に広がっている世界の中に何かの希望を見つけること、そして、その希望に向かって進んでいくことが、苦しみからの出口なのだろうと思いました。