第4章 社内規程の効力
・社内規程の効力は施行期日から生じる。
17 社内規程の効力はいつから生じるのか
1)施行という概念
・「施行」とは制定された規範の効力を一般的に発動し、作用させることである。
・特に「適用」とは極めて類似しているが、「適用」は個別具体の事象に対する効力の発動・作用であるという点が異なる。
2)施行期日に関する条文
(1)条文の表記
・施行期日を示す条文は、附則に置かれている。社内規程の場合、附則にこれ以外の条文を置くことはあまりない。
・施行期日が唯一の条文の場合、見出しも条名もなく、施行期日を定める文章だけが表記される。
(2)表記されている期日などの意味
・社内規程は、制定後に改定されることがある。例えば、改定があった場合、条文中の「この規則」とは制定当初の規則のことか、改定後の規則のことかに迷うことがある。これは、附則の条文が示している年月日は直近に改定された時の施行期日であるため、改定後の現在規則ということになる。
18 社内規程の効力は誰に対して生じるのか
・社内規程の効力は、会社とその構成員である役職員に対して生じる。つまり「適用」という語を使えば、社内規程は「会社とその構成員である役職員に適用される。」ということになる。
1)適用という概念
・「適用」とは、施行された規範の効力を個別具体の事象に対して発動し、作用させることである。
2)会社に適用されることの意味
・会社とは場所や社屋等ではなく、会社という属性を持つ法人に対する属人主義的な適用を意味する。
3)運用対象が限定的にみえる社内規程
(1)組織関係規程
・社内規程の中には、適用の対象が役職員の一部に限定されているかのようにみえるものがある。
4)適用対象に関する明文の規定
・全ての社内規程は、会社とその構成員である役職員に適用されるべきものであるが、規程等管理規程などに規定を置き、明文化しておくことも有益である。
19 社内規程の効力が否定される場合とは
1)効力が否定される場合
・社内規程の効力が否定される事態というのは、相異なる社内規程の条項が互いに抵触している場合、どちらかの効力が否定される事態のことである。特に新規の社内規程の制定や現行の社内規程の改定によって新設された条項は注意すべきである。
20 社内規程の効力は子会社にも及ぶのか
・子会社の経営を適切に管理することは、親会社の重要な経営課題である。会社法では、子会社について「会社が議決権の過半数を有する株式会社その他の経営を支配している法人として法務省令で定めるもの」であると定義している。
実践編
第1章 社内規程の運営
1 社内規程の整備・運用はどのように行うべきか
・社内規程の管理には、個々の社内規程の管理と社内規程の全体統括という二つの側面がある。
1)個別管理と全体統括の概念
2)担当者の具体像
・個別管理の担当者は個々の社内規程を所管する部門の担当者のことである。一方、全体統括の方は、法務部や総務部において社内法務を一元的に統括する者が担当者になる。
3)担当者の役割
(1)個別管理
①現行の運用
②制定・改定の要否の検討
③立案作業の遂行
(2)全体統括
①規程集の整備
・全ての規程を収録した規程集を作成し、保管する。規程集は、関係者が常時閲覧できるようにするとともに、規程の制定・改廃があった場合には、これを速やかに反映させる。
②立案時における案文の審査
③制定・改廃の社内通知
2 社内規程の実効的な運用のために必要なことは何か
・社内規程の実効的運用とは、社内に浸透し励行されていることをいう。
1)浸透の難易度による社内規程の分類
・浸透の問題は規程を立案したものと、適用の対象となる者との距離が重要である。
2)規程を浸透させる必要性
・規程立案担当者及び運用責任者には、適用対象者が規程の意義を十分に認識し、その内容を理解できるように工夫する必要がある。
3)浸透させる努力と工夫
・分かりやすい資料(Q&Aも有効)を用意し、説明会を必要に応じて開催するなどの高い意識が必要である。
3 社内規程の立案について心掛けるべきことは何か
・社内規程の立案は、適時適切に行うよう心掛けなければならない。
1)「適時」について
・社内規程を立案すべき時期は、個々の規程の性格によって様々である。
2)「適切」について
・立案が適切であるための要件は、①規程の内容が規範として妥当なものであること、②規程の表記が規範として的確であること、③立案から施行に至る過程で所要の手続きを履行すること、である。
(1)内容の妥当性
①規定する措置の内容が立案の目的に照らして合理的なものであるか。
②立案する規程のレベルが内容の重要性に見合ったものになっているか。
③立案の内容が上位の規程に反していないか。
(2)表記の的確性
①規程の全体が適切に構成されているか(条文の配列など)。
②各条文が適切に構成されているか(条項の区切り、号の活用など)。
③条項の引用表現に誤りはないか。
④条項中の用事と用語が法令のルールに準拠しているか。
(3)適正手続きの履行
①立案開始時に余裕を持った日程を立てているか。
②関係部門との調整を早期に開始しているか。
③統括管理者(法務部など)による十分な審査を受けているか。
④規程の浸透に配意しているか(前広な周知、趣旨の説明など)。
4 社内規程の審査について心掛けるべきことは何か
1)審査の観点
・社内審査の目的は、立案された規程が内容において妥当であり、かつ、表記において的確であるかどうかを吟味し、問題点が発見された場合にはこれを是正することである。
2)審査担当者の心掛け
・審査の事務において、問題点を適確に発見し、是正する役割を果たすためには、①知見の涵養、②審査時間の確保、③支援する姿勢、④審査項目の共有、が大切である。
5 内部統制システムの関係者は社内規程にどう向き合うべきか
・会社の役職員は様々な立場から内部統制システムに関係している。他方、社内規程は、内部統制システムを構築し、運用するための法的な基盤となっており、組織、業務、人事、コンプライアンスという各分野の社内規程が、それぞれ内部統制システムの構成要素に対して定められている。
1)内部統制システムの概念
・内部統制システムという概念は、会社法の定めに由来するものである。具体的には、「会社の業務の適正を確保するために必要な体制の整備」を意味する概念である。
2)内部統制システムの構成要素
①情報の保存及び管理に関する体制
②損失の危険の管理に関する体制
③取締役の職務の執行が効率的に行われることを確保するための体制
④監査役の監事が実効的に行われることを確保するための体制
第2章 立案の方式及び留意点
6 社内規程の制定、改定及び廃止はどのような方式で行なえばよいのか
・社内規程の制定、改定及び廃止を行う方式には、手続と様式の二つの側面がある。
1)手続き
・社内規程を制定、改定又は廃止するためには、各規程のレベルに応じて、決議又は決裁という手続を経る必要がある。規程のレベルというのは、社内規程全体の階層構造の中で個々の社内規程が位置している階層のことであり、上から順に規程、規則、細則、要領というレベルがある。
・社内規程の制定・改廃権者は各レベルに対応しており、規程は取締役会、規則は経営会議、細則は社長、要領は本部長とされており、会議での決裁や社長、本部長の決裁の手続きが必要になる。
2)様式
・様式は社内規程のレベルを問わず、制定、改定又は廃止のいずれかによって異なっている。
(1)制定
・新規に規程を制定する場合は、決議又は決裁を求める際に、制定の経緯や目的、規程案の骨子などを説明した後に、「次の規程を制定することとしたい。」と記載し、当該規程案を添付した書面を提出する。
(2)改定
・現行規程を改定する場合には、改定の経緯や趣旨を説明した文章に加えて、改定の具体的な内容を示すため、新旧対照表を作成して添付する必要がある。
(3)廃止
・社内規程を廃止する場合は、廃止の理由を説明するとともに、「○○規程を廃止することとしたい。」と記載した書面に廃止する規程を添付して、決議又は決裁を求める。
7 新規の規程を制定する場合、特に留意すべきことは何か
・立案上の留意点は、内容の妥当性、表記の的確性及び適正手続きの履行以外に、新規と改定にはそれぞれ固有の留意点がある。
・新規の規程を立案する場合には、①主管部門の適切な決定、②規程のレベルの適切な選択、③現行規程との関係に対する考慮の三点である。
1)主管部門の適切な決定
・立案の主管部門は、制定しようとする事項を担当している部門とするのが原則である。
2)規程のレベルの適切な選択
・規程集の最上位に来る「規程等管理規程」が作成されていれば、各レベルの規程で定めるべき事項の性質が規定されているので、その趣旨を踏まえ、制定する事項の内容とその重要度に応じた適切なレベルを選択しなければならない。これが新規制定の際に最も留意すべき点である。
・不適切なレベル選択は、「規程等管理規程」の趣旨に反するばかりでなく、社内のガバナンスを阻害することにもなるので、十分な注意が必要である。
3)現行規程との関係に対する考慮
・社内規程は規程事項の内容によって、組織、業務、人事、コンプライアンスという四つの分野に大別される。
・新規の規程といっても、現行の規程と全く無縁の存在ではなく、何らかの関係を持つ場合が少なくない。
・上位にある規程との関係だけでなく、同列の規程との関係にも留意する必要がある。
8 規程のレベル選択を間違いやすいのはなぜか
・規程等管理規程では、「重要な事項は上位の機関が決める」という思想に基づき、各レベルの規程に置いて規定すべき事項を次のように定めている。
・レベルの選択を間違えるというのは、上記のような対応関係を考慮せずに不適切なレベルの規程を選択してしまうことである。その中でも最も起こりやすい間違いは規程又は規則で規定すべき事項を細則又は要領で想定してしまうことである。このような間違いが起こる原因としては、次の三つが考えられる。
1)特定を定める規程のレベルに関する誤解
・一般的に、特例、特則は一般則と同じレベルでなければならない。この原理は法令も同様である。
2)規程の主管と規程のレベルとの混同
・レベルの選択は規程の内容とその重要度によって判断すべきである。その内容が各部門に関係し、全社的な統制の下で実施すべきものであれば、重要性を鑑みて、上位のレベルを選択するのが適切である。
3)手続きの簡便性に惹かれる担当者の心理
・規程のレベルが上がるほど関係者が多く、制定手続にも時間がかかるので、担当者は下位のレベルを選択しようとする意識が働き、規定事項の重要性を軽視したレベルの選択が行われやすくなる。
9 規程のレベル選択の間違いを是正する方法とは
・規定事項が全ての役職員に対して一定の義務を課し、又は一定の権利を与えるようなものであれば、規程又は規則というレベルを選択すべきであるが、立案担当者が何らかの事情により、要領という形式を選択し、施行してしまった場合には、早急に是正する必要がある。
1)レベルの是正が必要な理由
①規程等管理規程の趣旨に反する。
②社内統治(ガバナンス)の実効性が損なわれてしまう。
2)レベルの是正に必要な手続き
・規程の題名を変更することはできず、一旦「○○要領」を廃止し、同内容の「○○規程」を制定するという二つの手続きを踏む必要がある。
3)レベルの適正を確保する方策
・レベル選択の誤りの発見と是正には、法務に精通したものに検証を依頼する必要がある。
・レベルの選択の誤りを防止するには、法務担当者の研修や啓蒙活動の他、審査する体制の構築が求められる。
10 現行の規程を改定する場合、特に留意すべきことは何か
・改定には、字句の変更、条項の追加、条項の削除という三つの類型がある。
・主な留意点には、目的規定との関係、題名、章名等との関係、追加する条項の単位がある。
1)改定の三類型
2)目的規定との関係
・規程の第1条に目的規定がある。規程を改定する際には、改定した後の条項の内容と目的規定で定められている内容と整合していることを確認しなければならない。追加条項と整合するように現行規程の目的規定を改めるか、条項の追加ではなく、新規規程の制定という形式にする場合もある。
3)題名、章名等との関係
・目的の修正を要する追加改定を行う場合、題名が適切でなくなることもあるため相応しい題名に変更する。
・例えば、コンプライアンス組織規程に業務運営に関する条項を追加するような場合には、題名をコンプライアンス体制運営規程などと改正する必要がある。
4)追加する条項の単位
・条項の追加する際には、条として追加するか、項として追加するかを検討する必要がある。密接な関係にある場合は項として追加し、やや独立した関係にある場合は、別の条を建てて規定するのが適切である。
11 規程の立案に際して手続面で履行すべきことは何か
・規程の立案には幾つかの段階がある。
①立案の開始を決定した段階:全行程の想定
②案文を作成するまでの間:関係先との協議
③案文を作成した段階:審査部への持ち込み
④機関決定後、施行までの間:社内における周知
1)全行程の想定
・案文の作成から機関決定を経て施行に至るまで、どのような手続をどの時点で履行するかを検討し、全工程の予定を想定しておく。
2)関係先との協議
・必要に応じて関係先との協議は早めに進めた方が良い。
3)審査部への持ち込み
・立案者の案文の審査は余裕をもって依頼するよう心掛けたい。
4)社内における周知
・規程成立後、施行されるまでに社内への周知を迅速かつ十分に行うことが重要である。特に制定・改定の背景や趣旨を詳しく説明したり、特に関係が深い者を対象に説明会を開催するなど周知のための工夫や配慮が必要である。
第3章 規程全体の書き方
12 社内規程の構成は法律とどこが違うのか
・社内規程の構成というのは、社内規程の全体にどのような規程をどのような順序で配列するかという問題である。
1)共通点
①冒頭に題名を付ける。
②本則、附則の順に条文を規定する。
③本則には規程の目的に直結する本体的な事項を規定し、附則には付属的な事項を規定する。
④本則の条文が多数に及ぶ場合には、「章」、「節」などの区分を設ける。
⑤本則に章などの区分を設ける場合には、第1章は「総則」とし、目的、定義など、規程全体に関連する事項を規定する。
⑥附則の冒頭に、施行期日を定める規定を置く。
2)相違点
(1)罰則の有無
・罰則は法律にしか存在しない。
・社内規程の場合には、罰則という制裁がないので、就業規則の中に通常、「社内規程に違反する行為が懲戒処分の対象となる」旨を定める規定をおく。これが違反行為を抑止する役割を果たしている。
(2)制定権者を示す条文の有無
・本則の最後に必ず、制定・改廃権者が誰であるかを示す条文が置かれる。
13 社内規程の題名を付ける際に留意すべきことは何か
1)社内規程における題名の例
・社内規程の題名は、概ね簡潔である。
2)法律における題名の例
・法律の題名は、簡潔なものと長文のものがある。
3)「規程等管理規程」という題名について
・社内規程の階層や効力関係など、社内規程全般に及ぶ重要事項を定める通則法的な規程である。
14 社内規程の本則には条文をどのように配列すべきか
・社内規程に共通する基本原則
1)総則的な条文の配列順
・目的規定は、原則として、全ての規程の第1条として置かれる条文である。
2)実体的な条文の配列順
・条文の配列順序はケースバイケースであるが、その内容を性質別に分類できる場合には、その性質を手掛かりに配列する。
・行為の準則を定める規程であれば、規定対象の行為に関する条文を時系列で並べるのが適切である。
3)雑則的な条文の配列順
・雑則的な条文の中には、本則の最後の条として、各規程の改廃の権限・手続を定める条文である。
15 章の区分について留意すべきことは何か
1)章に区別すべき場合
・本則の条文が多数あり、条文の見出しを追うのも大変な場合には、章に区分した上で、目次を付すのが一般的である。
2)条文のグループ分け
・重要なことは同じ章には同質の条文だけを置く。
3)章名の付け方
・章名は内容を端的に表示したものでなければならない。
・章名は「組織」「運営」など、できるだけ簡潔な方が良い。
・雑則的な条文は、「雑則」「改廃」という章名が相応しく、「第○章 その他」のような章名は不適切である。
16 目次について留意すべきことは何か
・目次は題名と本則の間に置く。
1)目次を置くべき場合
・規程の本則が章に区分されている場合には、必ず目次を置くようにすべきである。
2)目次の体裁
・上記にあるように、各章の章名と、各章に属する条文の範囲を示す括弧書きを表記する。
3)目次のメンテナンス
・目次のある規程を改定する際には、改定による目次への影響に注意しなければならない。本則にある章名の変更や追加、削除を行う場合は、目次中の関係部分を全て改定しなければならない。
・条文の範囲が括弧書きで記載されているときは、改定後の本則の条名と整合するよう改定しなければならない。
17 社内規程の附則にはどのようなことを規定すればよいのか
・社内規程の附則は、通常、施行時期を規定する条文だけが記載されている。
1)「附則」という表記
・附則では、先ず、自らを「附則」と表記し、その後で次行から条文を書くことになっている。
2)制定・改定履歴の付記
・最終行に記載されている改定の年月日が、附則の条文に規定される施行時期となっている。
補足)“ひな型Rev1.0”のその後
”たたき台Rev0.1”を、何とか”ひな型Rev1.0”までブラッシュアップしましたが、その後、施行まで3つのアクションをとりました。
1.すでにお世話になっていた「埼玉県よろず支援拠点」の先生にご相談しご指摘を頂きました。
2.非営利型一般社団法人に精通されている、顧問税理士の先生にご確認頂きました。
3.浦和西高のOBでもある、顧問弁護士の先生に最終の確認をして頂きました。
以上、必要カ所の修正を行い、完成した正式版Rev1.0を一社UNSSの全メンバーに説明し、承認を受けめでたく施行となりました。(自分自身に「お疲れ様」といいたい)
『「埼玉県よろず支援拠点」は、経済産業省・中小企業庁が、全国47都道府県に設置する経営なんでも相談所です。
中小企業・小規模事業者、NPO法人・一般社団法人・社会福祉法人等の中小企業・小規模事業者に類する方の売上拡大、経営改善など経営上のあらゆるお悩みの相談に無料で対応します。』
今まで、「プロジェクト計画書」、「非営利型一般社団法人」、「定款作成物語」というブログをアップしてきました。これらは我が母校である、埼玉県立浦和西高校サッカー部OB会を法人化するために必要なことでした。
法人化により法人口座をもち、契約できるようになりました。そして、任意団体は法人格の団体となり、社会的信用は確実に高まりました。
何故、法人化したのか、これはサッカー部のOBが主体となって、寄付を募り、その資金で土のグラウンドを人工芝のグラウンドに替えるためです。募金の目標金額は5,500万円です。
なお、法人成立は2022年8月、社名は「一般社団法人UNSS」、UNSSは「浦和西高スポーツサポーターズクラブ」の略称です。
一社(一般社団法人)の立ち上げは完了しましたが、会社のルールブックである定款を補完するための「運営管理規程」の整備が残っていました。この難題は、定款作成を進めてきた私の仕事になりました。これには違和感はないものの、今まで経験したこともなく、「これは、まいったな。大ピンチ!」というところです。
とりあえず、『一般社団法人及び一般財団法人に関する法律』という法律をのぞいてみました。本則は全部で344条、一般財団法人の部分に加え、当面は不要と思われる条文もかなりありました。一方、ネットにあったさまざまな管理規程のサンプルを集めました。
この二つの方向から眺め、絞りに絞った条文を、誰がみても何とか意味が分かるような文章に修正しました。こうして、“雛形”とは言い難い、“たたき台rev0.1”は出来上がりました。
作ってはみたものの、運営管理規程策定のルールも作法もよく知らない者が作ったrev0.1のため、かなり怪しい出来上がりのような気がしました。
そこで、今更であり、順番は逆になりましたが、「やはり、少し勉強せねば」と考え、約160ページの『社内規程立案の手引き』という本を図書館から借りてきました。思いきって買ってしまいたかったのですが、定価2,400円の本は在庫がなく、中古本は5,000円以上と高額だったため、断念しました。
基礎編
第1章 社内規程の意義
1 社内規程とは何か
2 社内規程にはどのような種類があるのか
3 どの会社にも必要な社内規程とは
4 社内規程は誰のため、何のためにあるのか
5 社内規程は内部統制システムとどのような関係にあるのか
6 社内規程は法律とどのような関係にあるのか
第2章 社内規程の体系
7 社内規程の体系とは何か
8 社内規程の体系はどこで定められているのか
9 社内規程の体系はなぜ重要なのか
10 社内規程の体系が形骸化する事態とは
11 社内規程の体系と法体系の共通点と相違点は何か
第3章 社内規程の構造
12 社内規程の立案に当たって必要な構造的理解とは
13 社内規程は同列の社内規程とどのような関係にあるのか
14 社内規程は上下の社内規程とどのような関係にあるのか
15 個々の社内規程はどのように構成されているのか
16 社内規程の条文はどのように表記されているのか
第4章 社内規程の効力
17 社内規程の効力はいつから生じるのか
18 社内規程の効力は誰に対して生じるのか
19 社内規程の効力が否定される場合とは
20 社内規程の効力は子会社にも及ぶのかのか
実践編
第1章 社内規程の運営
1 社内規程の整備・運用はどのように行うべきか
2 社内規程の実効的な運用のために必要なことは何か
3 社内規程の立案について心掛けるべきことは何か
4 社内規程の審査について心掛けるべきことは何か
5 内部統制システムの関係者は社内規程にどう向き合うべきか
第2章 立案の方式及び留意点
6 社内規程の制定、改定及び廃止はどのような方式で行なえばよいのか
7 新規の規程を制定する場合、特に留意すべきことは何か
8 規程のレベル選択を間違いやすいのはなぜか
9 規程のレベル選択の間違いを是正する方法とは
10 現行の規程を改定する場合、特に留意すべきことは何か
11 規程の立案に際して手続面で履行すべきことは何か
第3章 規程全体の書き方
12 社内規程の構成は法律とどこが違うのか
13 社内規程の題名を付ける際に留意すべきことは何か
14 社内規程の本則には条文をどのように配列すべきか
15 章の区分について留意すべきことは何か
16 目次について留意すべきことは何か
17 社内規程の附則にはどのようなことを規定すればよいのか
第4章 条文の書き方
18 条文の書き方について一般的に留意すべきことは何か
19 条文に見出しを付ける際に留意すべきことは何か
20 枝番号の条文を置くことは許されるのか
21 条文に複数の項を置く場合に留意すべきことは何か
22 項中のただし書はどのように書けばよいのか
23 項中の後段にはどのようなものがあるのか
24 号の使用について留意すべきことは何か
25 表とはどのようなものか
26 別表とはどのようなものか
27 目的規定はどのように書けばよいのか
28 定義規定はどのように書けばよいのか
29 条項の引用はどのように書けばよいのか
30 他の条項にある事項を引用するときの書き方とは
31 条項の準用とは何か
32 条文を読みやすくするための工夫とは
第5章 用字
33 条文中の漢字の使用にはどのようなルールがあるのか
34 副詞や接続詞は漢字を使って書くのか
35 送り仮名の付け方にはどのようなルールがあるのか
36 句読点の使い方にはどのようなルールがあるのか
37 外来語を使うときに留意すべきことは何か
38 数字を使うときに留意すべきことは何か
39 括弧などの記号はどのようなときに使えばよいのか
第6章 用語
40 条文中の語句の使用について留意すべきことは何か
41 語句を並べるときはどのように表現するのか
42 「又は」「若しくは」は、どう使い分けるのか
43 「及び」「並びに」は、どう使い分けるのか
44 「その他」と「その他の」は、どう違うのか
45 「とする」は、どのような場合に使うのか
46 「による」は、どのような場合に使うのか
47 「ものとする」は、どのような場合に使うのか
48 「しなければならない」は、どのような場合に使うのか
49 「してはいけない」は、どのような場合に使うのか
50 「することはできない」は、どのような場合に使うのか
51 「することができる」は、どのような場合に使うのか
52 「要しない」「妨げない」は、どのような場合に使うのか
53 「置く」「行う」などで結語するのは、どのような場合か
54 「みなす」と「推定する」は、どう違うのか
55 「場合」「とき」は、どう使い分けるのか
56 「もの」には、どのような使い方があるのか
57 「含む」「除く」「限る」には、どのような使い方があるのか
58 「等」は、どのように使えばよいのか
59 「この」「その」「当該」は、どのように使えばよいのか
60 「直ちに」「速やかに」「遅滞なく」は、どう違うのか
ブログは基礎編と実践編の第3章までです。
基礎編
第1章 社内規程の意義
1 社内規程とは何か
・「社内規程とは、社内で制定され、社内に適用される規定である。」
・個々の条項の定めを指すときは「規定」といい、一連の条項の総体としての定めを指すときは「規程」という。
1)制定と適用
・制定:権限のある機関が所定の手続きによって法令としての案文を確定し、これを法令として定立する行為。
・施行:制定された法令の規定の効力を一般的に発動し、作用させること。
・適用:施行された法令の規定の効力を個別具体の事象に対して発動し、作用させること。
2 社内規程にはどのような種類があるのか
1)分野別の種類
・定款と規程等管理規程は、会社経営や社内規程の全体をカバーする基本的な重要事項を規定するものであり、個別分野には限定されない「スーパー社内規程」なので、上記の分類表には入っていない。
2)階層別の種類
・定款-規程-規則-細則-要領
3 どの会社にも必要な社内規程とは
1)組織関係規定
・定款
・社内規程
2)人事関係規定
・人事関係の分野では、労働基準法の規定により、一定規模以上の会社は就業規則を作成しなければならないことになっている。
・労働法との関連では、育児・介護休業法や労働安全衛生法の規定を実施するため、社内の体制や手続を定める規定が必要となる。
3)コンプライアンス関係規定
・コンプライアンスの分野では、金融商品取引法や個人情報保護法などの規則法が定めている義務を社内で確実に履行するために、内部者取引防止規程、個人情報保護規程などの社内規程を制定することが必要になる。
4 社内規程は誰のため、何のためにあるのか
・社内規程は、会社と役職員のため、会社経営の適正を確保するためにある。
1)総体としての社内規程の意義
(1)社内規程は誰のためにあるのか
・社内規程は会社と役職員のためにある。
・「役職員のためにある」とは、会社の業務を担う役員と職員が社内規程によって責任と権能を与えられていることを意味する。
(2)社内規程は何のためにあるのか
・社内規程は、会社経営の適正を確保するためにある。
・「会社経営の適正」というのは、会社の経営が会社法、労働法、金融商品取引法などの関係法に従って適正に行われる。ということを意味している。
・会社が関係法の適正な履行を確保するためには、関係法の受け皿としての内規を制定し、法的基盤を構築する必要がある。社内規程は、そのような内規の役割を担っている。
2)個々の社内規程の意義
(1)組織関係規程
①取締役会規程と経営会議規程
・役員を適用対象とし、会の運営を適切に行うための準則、指針としての意義を持っている。
②組織規程
・会社全体と各組織の構成員を適用対象とし、会社業務の責任分担と効率的な業務運営の体制を確立する意義を持っている。
(2)人事関係規程
①就業規則と給与規則
②育児・介護休業規則
(3)業務関係規程:経理規程、情報システム管理規程、営業管理規程
(4)コンプライアンス関係規程
①内部者取引防止規程、会社情報開示規程、個人情報保護規程
②内部通報規程
5 社内規程は内部統制システムとどのような関係にあるのか
1)内部統制システムという概念
・内部統制システムという概念は、会社法の定めに由来するものである。
・「会社の業務の適正を確保するために必要な体制」
2)内部統制システムに関する法令の規定
・会社法では、内部統制システムについて、取締役会が自ら決定しなければならない事項であると定めている。
3)社内規程と内部統制システムとの関係
・会社はこのような法令の趣旨を踏まえ、組織、人事、業務、コンプライアンスの各分野で、適切な関係規程を制定し、運用することが求められる。会社の社内規程は、内部統制システムがどのように整備されているかという姿を映し出す鏡であるといっても過言ではない。
6 社内規程は法律とどのような関係にあるのか
1)法律の規定に由来する社内規程
(1)制定義務の履行
・社内規程の中には、法律によって制定が義務付けられているものがある。代表的なものは以下の通り。
-規程名:定款
-根拠条文:会社法第26条
(2)法定機関の設置
・組織関係規程の中には、法律が定める機関を設置するために必要なものがある。
(3)法制度の確実な履行
・人事やコンプライアンス関係規程の中には、法律が定める制度を確実に履行するために必要なものがある。代表的なものは以下の通り。
-制度名:個人情報保護制度
-根拠法:個人情報保護法
-規程名:個人情報保護規程
2)法律に準拠した表記
・社内規程は、成分の規範である点で法律と共通しているので、その表記も基本的には法律における表記のルールに準拠している。
(1)基本構造
①規程の全体は、題名、本則、附則という要素で構成する。
②本則には、総則的な条文、実体的な条文、雑則的な条文という順序で条文を配列する。
(2)条文表記
①各条文には、第1条から順次、「第○条」という条名を表記する。
②各条文には、冒頭に括弧書きで見出しを付ける。
③文章としての条文は、必要に応じて、「項」に分ける。
④条文の文章は、法令用語を適切に使って、規範らしく書く。
第2章 社内規程の体系
7 社内規程の体系とは何か
・社内規程は全体として統一的な秩序を保持するよう、上下の階層構造が設定され、上位の規程が下位の規程に優先するという原理が定められている。
1)上下の階層構造とは
(1)階層構造の全体像
・規程の名称:定款-規程-規則-細則-要領
(2)階層構造の基本思想
・「より重要な事項は、より権限の大きい機関が決定すべきである。」という思想に基づくものである。
2)上位規程優先の原理とは
・上位にある社内規程は常に下位の社内規程に優先する効力をもつよう定められている。
3)社内規程の秩序との関係
・社内規程の体系は、社内規程の秩序を保持する重要な仕組みとなっており、立案関係者に対する警告としての意義も持っている。
8 社内規程の体系はどこで定められているのか
・社内規程の体系は、「規程等管理規程」という題名の規程によって定められており、定款を除けば最も上位の階層に位置する。
1)「社内規程の体系」に直接関係する規定
(1)社内規程の種類
①定款
②規程
③規則
④細則
⑤要領
2)その他の規定
・規程等管理規程では、社内規程の管理運用に関し、法務を司る部署が規程集を整備する責任を負うとされている。
3)法体系を定める法令
・法令にも、憲法、法律、政令、省令という上下の階層構造と上位法令優先の原理を骨子とする法体系があるが、規程等管理規程に相当する法令は、今のところ存在しない。
9 社内規程の体系はなぜ重要なのか
1)社内規程の体系
・社内規程は上下の階層構造から成り立っており、下位の規程が上位の規程を覆すことは許されない。
2)企業経営の規律
・企業経営の規律には、経営に対する規律と経営における規律という二つの概念がある。
3)社内規程の体系の役割
(1)経営に対する規律との関係
・社内規程の体系が定款を最上位の規程としていることは、経営に対する規律を保証する役割を果たしている。
(2)経営における規律との関係
・社内規程の体系では取締役会を制定・改廃権者とする規程が定款の次に位置づけられていることが重要である。
・取締役会は次に掲げる株式会社の場合においては設置しなければならない。
-公開会社
-監査役会設置会社
-監査等委員会設置会社
-指名委員会等設置会社
10 社内規程の体系が形骸化する事態とは
・社内規程の全体を規律する「規程等管理規程」の下位になる個々の社内規程は、それぞれの規程事項を所管する各部局の担当者によって立案され、運用される仕組みになっている。このため担当者によって尊守する意識にばらつきがあるため、「社内規程の体系」が形骸化するリスクがある。
1)形骸化する事態
・形骸化とは、本来上位の規程が定めるべき事項を下位の規程が定め、これを事実上施行してしまうことである。
2)形骸化する原因
・担当部署以外からの是正する力が働かないと、形骸化するリスクは避けされない。
3)是正策
・上位の規程に対し、全てが規程に反している場合は廃止、一部の場合は当該条項を削除する。
4)予防策
・社内規程の立案に携わる者が日頃から社内規程の体系について十分に認識することができるように定期的に研修等を行う必要がある。
11 社内規程の体系と法体系の共通点と相違点は何か
・社内規程と法体系の共通点と相違点を理解しておくことは有用である。
1)共通点
(1)階層構造の存在
・個々の規範は全て階層構造に置かれている。
(2)上位規範優先の原理
・上位にある規範が常に下位の規範に優先する効力をもつ。
2)相違点
(1)体系を定めた包括的な規範
・社内規程の体系には定款に続く、規程管理規程があるが、法令には存在しない。
(2)下位の規範の独自性
・下位の規程は内容が上位の規程に反しない限り、上位の規程からの委任は必要とせず、制定することができる。一方、政令、省令(行政立法)は、法律を補完する必要がある場合のみ制定される。
(3)規範の効力を裁定する機関
・下位の法令の条項が上位の法令に違反した場合、裁判所が裁定するが、社内規程では裁定するような機関は存在しない。
第3章 社内規程の構造
12 社内規程の立案に当たって必要な構造的理解とは
1)社内規程には、社内規程全体の基調となる構造と、個々の社内規程の条文に関する構造がある。
(1)社内規程全体の基調となる構造(=マクロ的な構造)
①事項の分担を基調とした構造(=横の構造)
・社内規程は、組織、人事、業務、コンプライアンスの各分野における規程事項を互いに分類している。
②上下の序列を基調とした構造(=縦の構造)
・社内規程は、「重要なことは上位の機関が決める」という理念に基づき、階層構造を有する。
(2)個々の社内規程の条文に関する構造(=ミクロ的な構造)
①規程全体の条文配列に関する構造
・各規程は、題名、本則、附則という要素で構成され、本則には一定の順序で条文が配列される。
②各条文の表記に関する構造
・各条文は、見出し、条名、項などの要素で構成され、条項の文章は、法令用語を用いて、「条文らしく」表記される。
2)構造と立案の関係
・規程立案には次のような点を考慮する必要がある。
(1)規程を立案する場合、同じ分野にある現行社内規程と規定事項を適切に分担するには、新規制定、追加改定のうち、いずれの形式にすべきか。
(2)規程を新規に制定する場合、条文をどのように配列すべきか。
(3)規程を新規に制定する場合、条文をどのように配列すべきか。また、条文を追加する改定を行う場合、本則のどこに追加するのが適切か。
(4)条文を作成する場合、見出しの表現、条項の分け方、文章中の用語などをどのようにすれば「条文らしい」表記となるか。
13 社内規程は同列の社内規程とどのような関係にあるのか
1)組織関係の規程
・取締役会を掲げる株式会社においては、取締役会を制定権者とする同列の規程として、組織規程、職務権限規程、及び取締役会規程という規程がある。
2)人事関係の規則
・具体例として、就業規則、給与規則、退職手当規則などがある。これらは、いずれも経営会議が制定権者となっている同列の規程である。
14 社内規程は上下の社内規程とどのような関係にあるのか
・階層構造は「重要なことは上位の機関が決める」という思想に基づくものである。
1)組織関係規程
・会社にどのような組織を置き、職務権限をどのように配分するかということは、会社の基本的な経営体制に関わる最重要事項である。組織と職務権限はそれぞれが等しく重要と考えられるので、その基本を「組織規程」と「職務権限規程」で先ず定めることが必要になる。
2)人事関係規程
・従業員の就業条件に関する重要事項は、労働基準法に基づき就業規則で定めなければならない。
15 個々の社内規程はどのように構成されているのか
・個々の社内規程は、冒頭から末尾まで、題名、本則、附則などの要素で構成されている。このうち最も重要な要素は本則であり、条文を本則にどのように配列するかは、立案事務の基礎として重要である。
1)社内規程の構成要素
(1)題名
・「組織規則」、「就業規則」など。
(2)目次
・社内規程の本則が章に区分されている場合には、題名と本則の間に、章の名称を示す目次が置かれることがある。
(3)本則
・規程の本体となる部分。第1条には規程の目的が、最終条には規程の制定権者が示される。
(4)附則
・規程の本体付属する部分が「附則」として、本則の次に表示される。
・附則には、最終の改定が施行される年月日を示す条文が置かれる。
(5)履歴
・附則の次に、規程の制定と改定が施行された年月日が表示される。
(6)別表
・規程の中には、複雑な内容を分かりやすく示すために、本来は本則で規定すべき事項の一部分を末尾に別表として示すものがある。
2)本則への条文の配列
(1)条文全体の配列
・条文全体をその性格によって、総則的な条文、実体的な条文、雑則的な条文の三種類に分け、この順に配列する。
(2)総則的な条文の配列
・総則的な条文とは、規程全体に関わる事項を定める条文である。第1条は目的規定とし、以下、必要があれば定義規定などの条文を配列する。
(3)実体的な条文の配列
・実体的な条文とは、規程の中核となる具体的な事項を定める条文である。その配列順は、規定する事項の内容次第である。以下は一応の目安である。
①組織や権限を定める規程であれば重要性の順
②一連の手続きや業務処理を定める規程であれば行為の時系列順
(4)雑則的な条文の配列
・雑則的な条文とは、手続や細則などの事項を定める条文である。本則の最後には制定・改廃の権限と手続を定める条文を置き、他の雑則的な規定が必要であれば、その直前に配列する。
16 社内規程の条文はどのように表記されているのか
1)条文の構成要素
・見出しは第1行目に括弧書きである。
・条名は第2行目の冒頭に「第5条」という表記になる。
・この条文では二つあり、二番目の項の冒頭に「2」という項番号が付されている。
2)条文らしい表現
・条文は法令用語が適切に使われることによって、規範の内容が「条文らしく」なる。
・表現で最も重要なのは文章末尾の表現である。
・代表的な末尾の表現には次のようなものがある。
(1)「……とする。」
(2)「……による。」
(3)「……しなければならない。」「……することができる。」
ブログで取り上げた 『ユングと共時性』に、次のようなことが書かれていました。
リヒャルト・ヴィルヘルムが翻訳した中国の錬金術の本が「黄金の華の秘密」である。ユングがこの本に払った苦心は、主要な心理学的概念を発展させるための重要な源となっている。特に、ユングが「共時性」を初めて公に使ったのが、1930年のリヒャルト・ヴィルヘルムの葬儀での賛辞の中であったことはとても意義深い。
ユングにとって、リヒアルト・ヴィルヘルムによって翻訳されたこの『黄金の華の秘密』はとても重要な出会いでした。
今まで何度も、「まぁ、何とかなるだろう」と思って身分不相応の本を何冊も買ってきたのですが、今回の本もほとんど歯が立ちませんでした。
ただ、立ち向かった足跡だけでも残したいものだと思い、印象に残った部分とC・G・ユングにとって、人生最大級の出会いとなった、リヒアルト・ヴィルヘルムについて書き残すことにしました。
目次
第二版のための序文……C・G・ユング
第五版のための序文……ザロメ・ヴィルヘルム
リヒアルト・ヴィルヘルムを記念して……C・G・ユング
ヨーロッパの読者のための註解……C・G・ユング
序論
基礎概念
対象からの意識の離脱
完成
結論
ヨーロッパのマンダラの例……C・G・ユング
太乙金華宗旨の由来と内容……リヒアルト・ヴィルヘルム
一 本書の由来
ニ 本書の心理学的・宇宙論的前提
太乙金華宗旨
第一章 天心
第二章 元神・識神
第三章 回光守中
第四章 回光調息
第五章 回光差謬
第六章 回光微験
第七章 回光活法
第八章 逍遥訣
第九章 百日立基
第十章 性光識光
第十一章 ○離交媾
第十二章 周天
第十三章 勧世歌
慧命経
一 漏尽
ニ 六候
三 任脈と督脈
四 道胎
五 出胎
六 化身
七 面壁
八 虚空粉粋
訳者解説
1 ユングとヴィルヘルムの出会い
2 太乙金華宗旨と呂祖師
3 思想的内容と心理学的視点
4 本書の内容と邦訳について
第二版のための序文 C・G・ユング
●リヒアルト・ヴィルヘルムは1928年、C・G・ユングに『黄金の華の秘密』のテキストを送った。C・G・ユングは1913年から集合的無意識の諸過程について研究を進めていたが、15年間の努力の成果は比較可能な手掛かりが掴めず、不安定な状態にあった。その状態から抜け出せたのは『黄金の華の秘密』の中にグノーシス主義者たちの中に求めても得られなかった部分を含んでいたからである。そして、本書はC・G・ユングの研究に正しい方向づけを与えた。
第五版のための序文 ザロメ・ヴィルヘルム
●1926年、リヒアルト・ヴィルヘルムは次のような短い序文を書いている。
『「慧命経―意識と生命の書―は、1794年に柳華陽が著した書物である。この本は「黄金の華の秘密」と合本にして千部刊行された。
この著作は仏教的瞑想法と道教的瞑想法をまじえたものである。この書の基本的見解によれば、生命が生まれるとき、心は、意識と無意識という二つの領域に分かれる。意識とは人間において個人化され、分離された要素であり、無意識とは、彼を宇宙に結びつける要素である。この書の基本原理は、瞑想を通じて二つの要素を結びつけるところにある。無意識は、意識がその中に沈潜してゆくことによって、その内容をゆたかにされねばならない。瞑想によって無意識の活動は活潑となり、意識領域まで昇る。こうして豊かな内容をもつに至った意識とともに、心は、再生するという形をとって、超個人的な魂の領域へと入ってゆく。この魂の再生は、やがて意識作用の内面的分化発展へとみちびき、自由自在な思考の状態にまで至る。しかし、さらに瞑想が深まってその終極に至ると、必然的に、すべての差別が消滅した究極的無差別の中にある大いなる一つの生命に解消していくのである」。』
ヨーロッパの読者のための註解
序論
現代心理学が理解を可能にする
●『人間の身体があらゆる人種的相違をこえて共通の解剖学的構造を示すのと同じように、魂(プシケ)というものも、あらゆる文化と意識形態の相違の彼方に共通の低層を有しているものであって、私はそれを集合的無意識と名づけたのである。この無意識の魂は、意識化され得る内容から成り立っているものではなく、ある種の同一の反応へと向う潜在的な素質から成り立っているのである。集合的無意識という事実は、あらゆる人種の相違を超えて脳の構造が同一であるということの心的な表現なのである。そこから、さまざまな神話のモティーフや象徴の間に見出される類似性あるいは同一性、さらには人間の相互理解の可能性一般が同一性を示すという事実も、説明がつくようになるのである。心の発展のさまざまな方向は、一つの共通な根底から出発しているものであって、その根は、あらゆる過去の発達段階にまで達している。そこには動物との心的類似さえ存在しているのである。
純粋に心理学的にみれば、ここでは、表象(想像)し行動する本能における共通性が問題なのである。あらゆる意識的表象と行動とは、この無意識的範例の上に発達してきたものであって、いつもそれと関連しあっている。特に、意識がまだあまり高い明晰さにまで達していない場合、言いかえれば、意識がそのすべての作用において意識された意志よりもむしろ衝動に、まだ理性的な判断よりも感情によって動かされている場合がそうである。この状態は、原始的な心の健康を保証しているものであるが、しかしそれは、より高い道徳的行為を必要とするような状況が現われてくると、たちまち適応性を欠いたものになる。本能というものは、全体としていつも同じ自然状態のうちに埋めこまれている個体にとってしか、十分役に立つものではない。したがって、意識的選択よりも無意識的なものに依存する個人は、断乎たる心的保守主義に向う傾向がある。原始人の考え方が何千年にもわたって変化せず、あらゆる見なれないものや異常なものに対して恐れを感じる理由もそこにあるのである。場合によっては、彼らは不適応状態にみちびかれたり、それによって重大な精神的危機、つまり一種のノイローゼにおちいったりするかもしれない。異質なものをドウかすることによってのみ生じてくる、より高度の、またより広い意識は、自律的態度へと向い、古き神々に対する反抗へみちびく傾向もある。古き神々とは、それまで意識を本能への依存状態に止めた強力な無意識的範例に他ならないのである。』
基礎概念
道の諸現象
アニムスとアニマ
私事ですが、約30年前にC・G・ユングの夫人であるE・ユング(エンマ・ユング)の著書である『内なる異性 -アニムスとアニマ-』という本を読んだことがありました。
一方、同書に書かれた「アニムスとアニマ」は冒頭、“魂”と“魄”について書かれており、これは「どういうことなんだろー」と大変興味を持ちました。
この本の裏表紙には次のような紹介がされていました。(一部)
『著者(C・G・ユング夫人)は、夢や神話、民話、文学作品等にあらわれたアニムスとアニマの典型的な形姿を研究することから、男性の本質、女性の本質を浮彫りにする。そしてこれら内なる異性を認識・承認し、人格全体の中へ組み入れることこそ、自己実現にとって不可欠の、また現代人にとって緊急の課題であることを指摘する。』
●『この書によれば、無意識の諸形態には、神々ばかりでなく、アニムスとアニマも見出される。ヴィルヘルムは「魂」Hunという言葉をアニムスと訳している。実際、私が用いているアニムスという概念は「魂」にぴったり適合している。その字形は「雲」をあらわす字〔云〕と「悪魔」をあらわす字〔鬼〕から構成されている。つまり魂は、雲のようなデモン、高いところで息吹する雲というような意味であり、「陽」の原理に属しているから男性的なものである。死後、「魂」は天に昇って「神」つまり「みずから拡大して示現する」霊、または神となる。これに対して「魄」は「白さ」をあらわす字〔白〕と「悪魔」をあらわす字〔鬼〕で示されている。「魄」はアニマである。それは「白い幽霊」であり、地上的な身体にともなう霊であって、「陰」の原理に属している。したがってそれは女性的である。死後、「魄」は下方へ沈み、「鬼」すなわち「(大地へと)帰る者」、いわゆる亡霊あるいは幽霊になる。このようにアニマとアニムスが死後分離してばらばらになってしまうということは、中国人の意識にとって、両者がさまざまの作用をもつものとして、互いにはっきり区別できる心的要因であったことを示している。』
●『ヴィルヘルムがこの書物のことを知らせてくれる何年も前から、私は、「アニマ」という概念に含まれた形而上的仮定は別にして、この概念を、中国語の定義と全く類似した形で使っていた。心理学者にとって、アニマは何も超越的なものでなく、全く経験可能な実体である。というのは、中国語の定義もはっきり示しているように、情動的状態は直接的な経験なのであるから。しかしこの場合、なぜ人は、アニマ〔という人格化された像〕について語って、気分については語らないのだろうか。その理由は次のような点にある。情動作用は、範囲を限定できる意識内容、つまり人格の一部である。それらは人格の一部であるので、当然、人格的特徴をもっている。したがってそれは容易に人格化され得るのである。先にあげた例が示しているように、それは今日もなお進行している過程なのである。情動をかき立てられた個人は、中立的になることができず、ふだんの性格とは全くちがった、一定のはっきりした性質を示すようになる。その意味で、〔情動作用を〕人格化することは、無意味なつくりごとではないのである。この場合、慎重にしらべてみると、男性では、情動的性質が女性的特徴を示すことが明らかになる。「魄」についての中国人の教えは、私のアニマについての理解と同様に、こういう心理学的事実に属している。深い内省や恍惚の体験は、〔男性の〕無意識領域に女性的な形姿が実在していることを明らかにする。したがって「心」には、〔昔から〕アニマ、プシケ、ゼーレといった女性名詞が用いられているのである。アニマは、男性が女性に関してもつあらゆる経験からつくり出されたイメージ、ないし元型、あるいは沈殿物である。と定義することもできるだろう。したがってアニマ像は、きまって〔現実の〕女性に投影される。』
●『一般的にいえば、私はアニマを無意識の人格化と定義した。したがってアニマは、無意識〔領域〕への橋渡し、つまり無意識に対する関係の機能としてとらえられる。こう考えた場合、われわれの書物の考え方は興味がある。この書は、意識(すなわち個人的意識)はアニマ〔魄〕から出てくるものと考えている。西洋的精神は意識の立場からしか考えないので、アニマを定義する場合には、私がこれまでやってきたような〔アニマをかくれた無意識の作用と解する〕やり方で、解釈しなくてはならない。ところが東洋は逆に、まず無意識の立場に立って考えるので、意識とはアニマのはたらき〔の産物〕であると見なしているのである! たしかに〔東洋が考えているように〕、意識は元来無意識から生じるものである。われわれ〔西洋人〕は無意識についてはほとんど考えようとしないので、「心(プシケ)」を一般に「意識」と定義したり、そこまでゆかなくても、無意識は意識の派生物か、それに従属する作用であるといつも考えようとする(たとえばフロイトの抑圧説)。しかし上にのべてきた理由からいっても、無意識の現実的作用を取り去ることはできないし、また無意識から現われてくる形姿は、そこに作用している〔心のエネルギーの〕量と考えるべきである。』
訳者解説 湯浅泰雄
ユングとヴィルヘルムの出会い
●『ヴィルヘルムは、1873年〔明治六年〕5月10日に南ドイツのシュツットガルトに生まれた。ユングより二歳の年長である。リヒアルトは1891年から95年までテュービンゲン大学で神学を学び、97年にプロテスタント教会の副牧師になった。1899年、ザロメ・ブルームハルトと婚約し、翌年結婚した。
1898年、ドイツは、清国から山東省膠州湾の租借権を得た。この帝政ドイツの中国進出政策が、はからずもヴィルヘルムを中国に結びつける機縁となる。翌1899年、26歳の青年ヴィルヘルムは、膠州湾に臨む青島の町に設立された教会の主任司祭として赴任する。以後、前後二十五年にわたる彼の中国生活が始まるのである。この時代は世界列強の東アジア進出の時期に当たっており、ヴィルヘルムが中国で暮らしていた間に、日清戦争、義和団事件(拳匪の乱)、日露戦争、辛亥革命、そして第一次世界大戦が起こっている。しかしヴィルヘルムの若い魂をひきつけたのは、動乱と革命にゆれ動くアジアではなく、古い東洋の精神世界であった。彼は、1909年に設立された徳華専門学校の教団に立って中国人子弟の教育に当たるかたわら、熱心に論語、老子その他の古典の翻訳に没頭した。ユングの思い出によると、あるときヴィルヘルムはユングに向かって、「自分は中国に居る間、ただ一人の中国人も洗礼しなかったが、そのことを大いに満足に思っているのです」と語ったという。彼が通常の宣教師タイプとちがって、深く中国文化に魅了されていたことがわかる。ヴィルヘルムは、近代中国の知識人が西洋文明の影響を受けて今や捨て去ろうとしていた儒教と道教の世界に沈潜して行ったのである。1911年、辛亥革命によって清朝は滅亡し、孫文が臨時大統領となったが、翌年、中華民国の発足とともに袁世凱が初代大統領となり、軍閥内戦の時代に突入する。このころヴィルヘルムは、1913年に、青島の儒教教会を設立している。しかし、1914年、第一次世界大戦の勃発とともに膠州湾は日本軍に占領された。大戦終了後の1920年、彼は二十二年にわたる中国での生活を終わって敗戦の故国に帰る。この年、ヘルツマン・カイゼルリング伯はダルムシュタットに、「叡智の学校」を設立した。ユングと出会ったのは、この会合の席である。1922年には、ユングに招かれてチューリヒの心理学クラブで易について講義している。
同じ1922年、ヴィルヘルムは北京のドイツ公使館の学術顧問に任命され、再び中国に赴く。二度目の中国滞在は足かけ三年、1924年までである。この間、1923年には、北京大学の教授に迎えられている。このころ彼は、労乃宣(ラウ・ナイ・シュアン)という道士の弟子になって、易を学ぶ。くわしい注釈つきの「易経」1 Ging、2 Bamde、1924 の名訳は、この老師の協力を得て出版されたものである。「最後のページの翻訳がすんで、印刷屋の最初の校正刷が来たとき、老師労乃宣は死んだ。それはあたかも、彼が自分の仕事を仕上げ、古い死滅しつつあった中国の最後のメッセージをヨーロッパに伝え終わったかのようであった。ヴィルヘルムは、この比類なき腎人の大きな夢をかなえたのであった。」1924年、任を終えて帰国したヴィルヘルムは、フランクフルト大学に設立された中国学講座の担当者となり、中国研究所を設立、その所長に就任した。機関誌は「中国学芸雑誌」Chinesishe Blatter fur Wissenschaft und Kunst(のちにSinicaと改名)という。しかし、彼の故国での活動の時間は短く、六年後の1930年3月1日、テュービンゲンで死去する。五十七歳であった。彼の業績は古典の翻訳が多いので、日本の中国学界ではあまり知られていないようであるが、彼はドイツの中国学の開創者ともいうべき人物であろう。
ユングはヴィルヘルムとはじめて会ったとき、つよい印象を受けたようである。「私が会ったとき、ヴィルヘルムは書き方やしゃべり方と同様に、外面的な態度も完全に中国人のように見えた。東洋的なものの見方と古代中国文化が、頭の先から足の先までしみこんでいた」と、ユングは当時の思い出を語っている。易経の独訳が出たとき、ユングは早速それを入手し、ヴィルヘルムの解釈に満足を覚える。「われわれは、中国の哲学と宗教についてたくさん話しあった。中国人の心性についての豊富な知識の中から彼が私に語ったことは、ヨーロッパ人の無意識が私に提起していた最も困難な問題のいくつかを解明してくれた。他方、無意識に関する私の研究の結果について、私が言わねばならなかった事柄は、彼には何の驚きも引き起こさなかった。というのは、彼が中国の哲学的伝統の占有物と考えていた事柄を、それらの中に認めたからである。」こうしてユングは、かつてグノーシス主義の研究に求めて得られなかった自己の学問的足場が、東洋思想の伝統の中に古くから伝えられていたことを感じるに至るのである。
1928年、ユングは、イメージが浮かんでくるのに任せて一つのマンダラを描いていた。できあがった形を眺めながら彼は、どうしてこのマンダラはこうも中国風なのだろう、と自問した。表面的にはそうもみえなかったが、そのように感じられてしかたがなかった。それから間もなく、ヴィルヘルムからユングの許へ「黄金の華の秘密」の独訳原稿が送られてきた。それには、ユングに対して心理学者として註解を書いてほしいという手紙がそえられていた。原稿をよんだユングは、深いおどろきにうたれる。マンダラのイメージについて彼が模索しつつあった考え方に対して、そこに思いがけない確証が与えられていたからである。「これは私の孤独を破った最初の出来事だった」と彼はのべている。「『黄金の華の秘密』という本を読んだ後に、やっと錬金術の性質の上に光がさし始めた。……私は錬金術の原典をもっとくわしく知りたいという望みにかき立てられた。私はミュンヘンの本屋に、錬金術の本を手に入れることができるものは、皆知らせるように言った。」ユングはこの深いおどろきを記念して、自分の描いた中国風のマンダラの下に「1928年、この黄金色の固く守られた城の絵を描いていたとき、フランクフルトのリヒアルト・ヴィルヘルムが、黄色い城、不死の身体の根源についての、一千年前の中国の本を送ってきてくれた」と書き記した。本書はこうして、翌1929年に出版されたのであった。
以上のように、この書は、ユングが彼自身の理論的また思想的立場を確立する機縁を与えた書物である。この書によって彼はまた、ヨーロッパの精神史に対する彼の基本的見解を確立するに至る。古代ローマのグノーシス主義と近代ヨーロッパを結ぶ失われた環が中世錬金術の中にあることに、彼は気づいたのである。西洋精神史に関する彼の最初の著作「心理学と錬金術(1944年)は、これが機縁になって生まれたものである。この書の中で、彼はこう回顧している。「私はマンダラ象徴の生成過程とその像について、二十年来、私自身の経験から得たたくさんの材料に即して観察をつづけてきた。(はじめの)十四年間、私は、自分の観察について先入見を下さないために、それについて執筆も講演もしなかった。しかし、1929年にリヒアルト・ヴィルヘルムが、「黄金の華」のテキストを私にみせてくれたとき、私は研究結果の一部を公表する決心をしたのだった。」このように、本書はユングの思想形成にとって重要な意義をもつ書物であり、したがってまた、深層心理学の観点から東洋思想について考える場合、よい手がかりを与える書物でもある。』
※シュツットガルト
リヒアルト・ヴィルヘルムが生まれた南ドイツのシュツットガルトは、私にとって思い出の地です。
また、シュツットガルトといえば、ドイツブンデスリーガの1部に所属する名門チームがあります。浦和レッズに在籍していたギド・ブッフバルトや日本人選手では、岡崎慎司、長谷部誠、今は遠藤航がキャプテンとして活躍しています。
画像出展:「au Webポータル」
11月23日のサッカーワールドカップ カタール大会の初戦、強豪ドイツを2-1で撃破し、歴史的な逆転勝利となりましたが、遠藤 航 選手のチームへの貢献は素晴らしいものでした。
確認したところ、遠藤選手が浦和レッズに在籍していたのは2016-2018年でした。
そのシュツットガルトは、私の初めての海外出張先でした。
最初の営業はCADという設計支援ソフト(ME10)を販売する部門だったのですが、そのソフトの開発・製造拠点がシュツットガルトのボブリンゲンという町にありました。なお、ME10という2次元CADは、調べてみたところ、CoCreate社を経て2007年にPTCに買収されCreoという製品群の一部になっていました。
出張は新製品の研修がメインだったのですが、ご褒美旅行も兼ねていました。これは日本だけでなく、世界的に業績が好調だったためです。そして、その研修会はモナコで行われました。モナコといえば、高級リゾート地であり、F1のモナコグランプリは特に有名です。我々が宿泊したホテルはローズ・モンテカルロ(現在はフェアモント・モンテカルロ)です。ローズ・ヘアピンとして有名ですが、このホテルに泊まれたのは灌漑深いものがありました。
画像出展:「英語日常会話マスターブログ」
そして、開発・製造拠点のシュツットガルトはモナコの後に訪問しました。シュツットガルトにはメルセデスベンツ・ミュージアムがあります。小さな町のボブリンゲンは明るく綺麗な素敵な町で、とても穏やかな気持ちになりました。
Ⅸ 共時性の働き
●『共時性原理は、非常に多様な事象のなかに表出されていることがわかる。たとえば、ある人が、夢あるいは一連の夢を見、そしてそれが、外的事象と符号することがわかる。ある個人が、何か特定の願いをするか、あるいは、それを、強く望み、希望するかしており、そして、何か説明不可能な方法でそれが起こる。ある人が、他の人、あるいは何か特殊な象徴を信じており、その人がその信仰のもとで祈るか黙想するかしているときに、身体的な治療あるいは他の「奇跡」が起こる。人間のいるところにはどこでも共時的事象が起こるのである。そして、実のところ、ひとたび見つけるべきものを知ったならば、その数は、これまで予想されてきたものよりはるかに大きいことに気づくことになろう。
すべてのこうした事象のなかでは、強い元型的要因が、ヌミノース[事象には説明し難い部分が存在する。神への信仰心、超自然現象、聖なるもの、先験的なものに触れることで沸き起こる感情]な方法で働いている。意識が利用できるものを越えた知識を与えうる夢は、必然的に、心の深層にあるイメージを含んでいる。願望の力への信仰は、人間の原始的な心の奥深くに達する。それは、魔術師の原初的イメージの効力を説明する鍵である。信仰の根本的な体験は、その形や対象がどのようであっても、常に、無意識の最深レベルに達するものである。このために、情動的な強さがヌミノースで元型的な要因のまわりに生じ、その結果、それに相応するエネルギーの退潮、すなわち、心の他の部分での心的水準の低下が生じる。これが、心が時間のパターンを反映するようにする「低下」の心理学的メカニズムである。これを認識することによって、個人は共時的事象と関係をもつことができる。』
●『ユングは、自分の経験として次のように述べている。超心理的事象は、「ほとんど常に、元型的コンステレーションのなか、すなわち、元型を活性化させた、あるいは、元型の自律的行為によって呼び起こされた状況のなかで起こる」。元型の強さは、それ自身の要求と性質をもつ状況を明白につくり、そしてこれらの性質は、その元型が効力をもつようになる時に形成するパターンのなかで、表出される。「心的水準の低下」を通して生じる。「自己」のなかでの心的反映は、元型に符号した形をとる。』
●『ユングの、より大きな概念の本質は、元型は、因果律によって作用するのではないことである。実際、ユングが、因果律と並ぶ別の原理の可能性を研究する必要を感じたのはまさに、元型は因果律以外の何かに従うことに気づいたときであった。かくしてユングは、共時性の仮説の定式化に導かれたのである。
この外見上の対立の背後にある原理を理解するために、われわれは、共時性を全体としてのマクロコスモスのなかで作用する原理と考える、より大きな見地を心に留めなければならない。あるそのときを横切って共時性に形成されるパターンは、全宇宙を包括する。これは、一般原理としては正しい。そして、哲学的に見れば、それはライプニッツに帰する。しかし、この一般文脈のなかには、そのパターンに関係する個人的存在があり、その人生と行為は、そのパターンを表現する。
個人のミクロコスモス的生は、マクロコスモスの、より大きな一般的パターンの一側面である。にもかかわらず、自分を取り巻くマクロコスモスのパターンを表わすことに従事している個人は、自分の人生のなかで、明らかに合理的に決定された行為によって、それを行なっている。その人は、意識的に決定された目標に向かって動き、また、因果律による思考を基礎にして自分の目標を目指して進む。
このように、人間の人生の展開は、二つの別個の次元、つまり存在の二つに分離した次元上で同時に起こる。第一は、自分の人生、動機、行為に対する個人的知覚である。この次元は、思考と情緒によって起こり、原因と結果を、現代のように合理的に考えるにしろ、原始的魔術のように物活論的に考えるにしろ、原因と結果というものを仮定した上で知覚できる目標に向かって動く。
他方、第二の次元は、個人以上のものである。それは、共時性が動く、トランスパーソナルなマクロコスモス的領域である。各特定の瞬間に時間軸を横切る宇宙のパターンを含むこの領域内では、ユングが、元型の多様な特性、そのヌミノース、それらが活性化される方法、それらが心の平衡をひっくり返す効力、そして、心の他の内容をそれらのまわりのコンプレックスに引き込む布陣を行う特質を分析するとき、ユングが明らかにしようと求めているのは、これらの規則性である。』
画像出展:「ヨガが丸ごとわかる本」
『つまりヨガとは、「本当の自分」は“全宇宙”と同じであり、“全宇宙”は「本当の自分」でもあるという心理に気づくことがヨガの最終境地である。』
本文に出てくる。”マクロコスモス”、“ミクロコスモス”の文面を見たとき、以前のブログ”ヨガ”の内容を思い出しました。この内容はヨガの考え方に近いもののように思います。
●ユングは共時性を人間の経験領域の中に位置づけることに主眼を置いたと思われるかもしれないが、実は、反対であった。ユングは物理学者を説得するために努力した。ユングの晩年における共時性に関しての対話は、まさに物理学者たちとのものであった。それはユングが共時性を人間の研究に限定しない全科学に関わる知識の一般原理として打ち建てることに、次第に興味を持つようになっていたからである。
ユングは研究の最晩年、最終的に物理学と心理学は統合されるという確信を持っていた。ユングの見方によると、心の深層心理的概念と物理学者の原子の見方との間の一致によって、二つの分野のこの結合は、現実的可能性をもっている。原子の深層に閉じ込められたエネルギーが解放され得るならば、人間の心の深層にあるエネルギーもまた解放されるのかもしれない。
●ユングは共時性が科学の一般原理であることに強調点を置いたので、個人の生涯や超心理的現象や多様な社会的経験の領域における共時性の存在を記録するのを犠牲にして、一般原理であることを強調する傾向があった。これらの領域に対する共時性の関連はきわめて重大であるが、ユングは、かろうじてその可能性を示しただけである。心の深層経験に関する共時性の役割は、人間の生の研究にとってものすごく意義深く、それは確かに、共時性原理のさらに一般的で広い考察の基礎として重要なものである。
●ユング自身は共時性の人間的な基礎をあまり強調しない立場に身を置いていた。ユングは全体としての自然科学や理論物理学に深層心理学を結合するという、より大きな可能性にあまりにも魅せられたため、研究の必要がある人間的要素への注意が弱まるままにしておいた思われる。共時性についてユングのいくつかの議論において、誤解や不明瞭さが指摘されるのはそのためと考えられる。
●元型は個人と非因果的秩序原理とを、心的経験を通して結合させる可能性を担っている。
●共時性につながった素材は人々の人生経験の中にある。なぜなら、ユングは深層心理学に照らしてそれらを観察していたからである。この素材はユングに共時性を示唆し、個人の運命を深く研究するには、因果律を越えた新たな展望が必要であることを認識し、この概念を発表したのである。
Ⅹ アイシュタインとより広い見解
●『精神と肉体の関係についての疑問が、この共時性の定義には生じる。ライプニッツの抽象的な定式から超心理学の実験的研究まで、これまで論じてきたポイントのうち数点が、この文脈において理解されるならば、最終的に、精神と肉体の問題の解決につながるかもしれない。これらの研究分野には、大きな可能性が開かれている。』
●『ユングは、自分の研究と物理学との関係について書いたなかでは、ニールス・ボーアの思想と関連させて自分を位置づけることを好み、アインシュタインには、ほとんど言及していない。しかし、私とユングの個人的な議論のなかで、ユングは、アインシュタインがチューリッヒで研究しており、しばしばユングを訪れていた今世紀初頭頃のことを私に語っている。それによると、アインシュタインは、よく昼食をとりにきたものだし、その際に、ユングとアインシュタインは、長い議論に陥ることがあったそうだ。
ユングは、生涯のこの時期において、まだ自分の概念を発展させ始めたばかりであり、無意識についての自分の新しい概念をアインシュタインに伝えることには困難を感じていたように私には思われた。ユングは、いくぶん見くびった感じで、アインシュタインは、なんといっても「分析的」な精神の持ち主だと語っていた。ユングのこの言葉は、ユングが、アインシュタインは象徴的次元の体験についてはあまり才能がないと感じていたことを意味している。
このことに関しては、アインシュタインの個人的な手記が最近公開されたことによって、夢とイメージが、アインシュタインの創造的な生涯において非常に重要な役割を果たしていたことが明らかになったことに留意するのは興味深い。あの昼食時の対話は、ユングが思っていたよりも益があったのかもしれない。とりわけ、アインシュタインが、心の深い水準に対する鋭い感性をもっていたことを知った上ではそう思われる。後ほどいつか、ユングとアインシュタインの関係について研究することは非常に実りあることだろう。それも特に、アインシュタインが、ヒンズー教と仏教の思想に興味をもっていたことと、相対性という概念の元型的特性についての彼の後の記述を考慮すればなおさらである。
ユングが、アインシュタインに重要な心理的影響を及ぼしていたかもしれない一方、相対性理論は、共時性についてのユング自身の考えの基礎と出発点となった。いくつかの点で、ユングは、相対性理論と対応する概念を、心という次元をつけ加えることによって発展させようと意識的に求めていたように思われる。
それゆえ、ユングは、エラノスの講演をもとにした論文のなかで、次のように書いている。
「物理学は、望めるかぎり平易に次のように論証してきた。それは、原子の大きさの世界では、客観的事実は、観察者を前提としており、この条件のもとでのみ、満足な説明図式が可能になるということである。このことは、主観的な要素が、物理学者の世界像に結びついていることを意味し、また、第二に、説明の対象たる心と、客観的時間空間の連続体との間には必ずつながりがあることを意味する」。ユングが、1940年代において、あらゆる人間の物質世界の認識には、物理学者がいかに客観的であろうと努めても、生来の「主観的な要素」があると述べていることは、明白なことと思えるかもしれない。しかし、その主観的な条件が、あらゆる状況に対する、新たな要因であるということは、相対性理論の概念の第一の要素である。それによると、最終的なものも完全なものも、けっして存在しない。なぜなら、常にもう一つの要因が加えられるべきだからである。そしてその要因というのが、主観的な要素、つまり観察者の意識なのである。』
●『相対性理論と易経の間には、越えなければならないみぞがある。そして、このみぞを越え、両者の間につながりを打ち建てることは、共時性の主要目的の一つである。このようなわけで、ユングは、物理的マクロコスモスの一般的解釈と、心理的ミクロコスモスの個別的研究の両方に関与する必要を感じたのであった。生命についての外見上の対立を、意味のある定式のなかで結びつけることは、共時性の根底にある目的である。共時性が、この目的を完全には成し遂げなかったとしても、共時性がその内容上、本性的に、外面と内面、つまり、物理的環境と心理的事象という対立物を結合するものであることは真実である。』
●『ユングは、次のように書いている。「にもかかわらず、心と物理的連続体の相対的な、あるいは部分的な同一性は、理論上最も重要なものである。なぜなら、それは、外観上同じ標準で計れない、物理的世界と心的世界をつなぐことによって、おびただしい単純化をもたらすからである。もちろん、それは、何らかの具体的方法によってではなく、物理的なほうからは数学的な式によって、心理学的なほうからは経験上生じた諸仮定つまり元型によってなされている。その内容は、あるとしても、精神に現われ得ない」。これで、ユングが、コスモスの物理的領域と心理的領域を一緒に記述することを思いついた包括的見地が理解できる。物理的世界は秩序と様式化を数学によって与えられている。一方、心理的世界での、それに対比される構造化は、元型によってなされている。これが、これまで述べてきた、元型の「秩序づける」性質である。』
Ⅺ 共時性から超因果性へ
●『共時性原理を研究するにあたって、次に必要なステップは、研究の体系だったプログラムをつくることであることは明らかである。それによって、われわれは、人間の一生における共時的事象の発生を同定し、詳細に記述することができる。共時性の含蓄を、因果律と相対性理論と相並ぶ、宇宙の運行の解釈原理として理解することは非常に大きなことである。ユングの未来像が実現され、原子物理学が深層心理学と統一され得る日が来たあかつきには、それは、人間精神の歴史における実に偉大な瞬間となるであろう。その日に向けて、なされなければならない個々の研究は膨大である。そして、その研究のためのデータは、人の経験する事象のなかに発見されるはずである。これは、われわれにとって最もたやすく使える素材であるだけでなく、共時性は、人間の運命のあやを、個人の人生と人類の歴史の両方にわたって理解するために特殊な貢献をしている。ここが、共時性がティヤール・ド・シャルダン[フランスの地質学者、古生学者、思想家。物理的世界から生物的世界へ、さらにその上に思考力を備えた人間の世界がどのようにして成立してきたのか、またこの人類が何を目指して進んでいきつつあるか、という未来への展望をはらんだ雄大な諸科学の総合的世界観が展開されている]の精神圏の概念と結びつき、それを、知の本質的な次元で補完するところである。そして、ここはまた、超因果律という新たな概念が、共時性という抽象的原理を、人間性の謎の理解へと変えることを可能にする中軸的要因となる点でもある。』
●『アブラハム・リンカーンの生涯において共時的事象が起きているが、それは、共時性の本性とその未来について多くのことを語ってくれるであろう。リンカーンには、世界には、彼が為すべき、意味のある仕事が存在していることが暗にわかっていた。しかし、リンカーンは、その仕事をするには、自分の知性をみがくことと、専門的な技術を身に着けることが必要であることも認識していた。これらの主観的な感じと戦うなかで、リンカーンの置かれたフロンティアの環境にあっては、専門的な研究のための知的な道具を見つけることは非常に困難であるという事実があった。リンカーンが、自分の願いはけっしてかなえられないだろうと信じていたとしても、もっともであった。
ある日、見知らぬ男がリンカーンのところに、がらくたを一杯入れた樽をもってやってきた。その男は、リンカーンに、自分はお金が必要であることと、リンカーンがその樽を1ドルで買ってくれたら非常に助かるであろうことを述べた。
その男は、樽の中味はたいした価値のないものだと言った。それらは、古新聞や他のそのような類のものであった。しかし、その見知らぬ男は、なんとしても1ドルが必要だった。その物語によると、リンカーンは、親切な性格だったので、その中味が何かに使えるとは考えなれなかったにもかかわらず、樽と引き替えにその男に1ドルを渡した。リンカーンは、しばらくたって、その樽を整理しようとしたとき、その樽には、ブラックストーンの「注解」の全集がほとんど入っていることに気づいた。リンカーンが、法律家になり、ついに政界に進出することを可能にしたのは、偶然、あるいは共時的な、それらの本の獲得であった。
画像出展:「AbeBooks」
Commentaries on the Laws of England, In Four Books. 14th ed
Blackstone, Sir William
$1,000.00で販売されていました。
リンカーンの生涯の内には一本の連続した因果の鎖が働いていた。それは、運命についてリンカーンに暗示を与え、また、限られた困難な環境の中に生きることに絶望を感じさせた。同時に、その見知らぬ男の生涯のなかにも、因果的なつながりがあった。その男は、不景気がつのって、目にとまる自分の持ち物は、何であれ1ドルで売らなければならなかったのである。事象のこの二つの筋をつなぐ因果関係はなかった。しかし、ある意味のある時に、それらは共に起こった。このことは、予期されない結果を引き起こしたのであるから、共時性のなかの超因果的要因の働きであった。
リンカーンが、ふとしたことからその樽を買うことによって、ブラックストーンの「注解」を手に入れたことは、人間の生涯のなかで共時的事象が発生することの一例である。これは、共時性の一例にすぎないけれども、共時性が最終的に、どれほど豊かな知識を与えてくれるかを示しているであろう。共時性は、予期できない仕方で、それらがあると最も予期されない所に存在しているのであろう。しかし、リンカーンのように、われわれが、その時の統合性に誠実であれば、ユングの直観したものがわれわれ全員の知識になるであろうと信じるに足る理由が存在している。』
まとめ
ユングの共時性に関する研究は20年以上におよび、その発表は75歳目前であった。しかしながら、それは未完成なものであり、科学的にいかがわしいものと揶揄された。それでも勇敢に立ち向かったのは、個人の運命を深く研究するには、因果律を越えた新たな展望が必要であることを確信したためである。
共時性とは、相互に因果関係がない二つの分離した事象が同時に起こること。それらは無関係であるにもかかわらず同時に起こり、しかも、それらは互いに意味深く関係し合っている。また、共時性は人間の運命の本性に関連する教えへの扉を開く鍵となるとされる。
心と物理的連続体の相対的な、あるいは部分的な同一性は、理論上最も重要なものである。なぜなら、それは、外観上同じ標準で計れない、物理的世界と心的世界をつなぐことによって、おびただしい単純化をもたらすからである。もちろん、それは、何らかの具体的方法によってではなく、物理的なほうからは数学的な式によって、心理学的なほうからは経験上生じた諸仮定つまり元型によってなされている。
ユングの晩年における共時性に関しての対話は、まさに物理学者たちとのものであった。それはユングが共時性を人間の研究に限定しない全科学に関わる知識の一般原理として打ち建てることに、次第に興味を持つようになっていたからである。
共時性の含蓄を、因果律と相対性理論と相並ぶ、宇宙の運行の解釈原理として理解することは非常に大きなことである。ユングの未来像が実現され、原子物理学が深層心理学と統一され得る日が来たあかつきには、それは、人間精神の歴史における実に偉大な瞬間となるであろう。
感想
『時間を水平に横ぎり、そして、本来垂直である因果のカテゴリ(時間的な連続性)が適用できないパターンから、あなたが求めていた回答をふと見つけたという新たな事実が現われる。明らかに、この二組の出来事の間の、どのような因果関係も論証することはできない。ただ、ある種の意味深い関係が、それらの間に存在する』
友人等との会話だけでなく、散歩をしていて、お風呂にはいっていて、あるいは本を読んでいて、ふと気づく瞬間があります。「閃き💡」という表現が最も近く、垂直思考の因果を水平に横ぎる感覚ともいえるかもしれません。そして、その「閃き💡」は全く忘れていた過去の何かの琴線に触れたかのように浮かび上がってくる感覚です。その「閃き💡」が流れを大きく変えるケースは少なくないように思います。場合によっては、人生に影響を与える可能性もあると思います。
宇宙の大きさは無限のように感じます。一方、原子より小さな量子世界は不思議な世界です。大きな宇宙も小さな量子の世界も間違いなく実存し、我々の命に関わっています。
ユングの母方の祖父母は霊能者です。私も完全とは言い難いのですが、その存在を肯定しています。霊能者が有する能力がどこから生み出されるのか分かりません。心が関係しているのでしょうか。そこには時間・場所といった物理の世界と心の世界が関係しているように思います。そして、一般人の常識といわれる範疇では理解できないものが実在しているように感じます。
ユングは、『心と物理的連続体の相対的な、あるいは部分的な同一性は、理論上最も重要なものである。』と説いていますが、晩年、ユングが物理学に傾倒されたという事実は大変興味深いことでした。
今回の「ユングと共時性」は9月30日、10月7日の「宗教と科学の接点」の続きともいえるものです。この本の中で最も気になったキーワードが“共時性”だったのですが、今回の「ユングと共時性」という本の中に、知りたいことが書かれているのではないかと思い購入しました。
目次
Ⅰ 多重的宇宙の解釈 ―ユングとティヤール・ド・シャルダン―
Ⅱ 共時性と科学と秘教
Ⅲ ユングと易をたてたこと ―個人的経験―
Ⅳ 共時性の基礎
Ⅴ 因果律と目的論を越えて
Ⅵ ライプニッツと道
Ⅶ 元型と時間の様式化
Ⅷ 超心理的事象の共時的基礎
Ⅸ 共時性の働き
Ⅹ アイシュタインとより広い見解
Ⅺ 共時性から超因果性へ
注)Ⅶには触れていません。
Ⅰ 多重的宇宙の解釈 ―ユングとティヤール・ド・シャルダン―
●科学は限定された合理主義の言葉で表現されるものではなく、科学は物事を知ること、すなわち、人間の行なう知識の探求すべてと考えられる。この考え方(精神)によって、ユングは、理論物理学の研究と彼自身の深層心理学の研究の間には、一致、少なくとも相似が存在するという直観により、自ら“共時性(synchronicity)と名づけた「非因果的連関」の原理を1920年代後半に形作り始めた。
●共時性の概念は、元来彼の、深いレベルでの自己(Self)の研究から生まれたものである。それも特に、人生という旅の中で運命を変えることに関わる、いくつかの経典および注釈―ことに東洋のもの―の中に彼が見出した解釈法と、夢の中での出来事の進展との相互関係にユングが注目していたことによるものである。
●ユングが自分の仮説を系統立てて説く契機となったのは、物理学者ニールス・ボーア、ヴォルフガング・パウリとの接触と、アルバート・アインシュタインとの早くからの親交であった。ユングは彼らと対話するうちに、物理学の世界での基本単位としての原子と、人間の“心(:サイケ[psyche])”が等価であることに気づいたのである。特に人間の深層についての特有の手がかりとして発展させた、“心”という概念に、原子をたとえる時に、その一致度は特に強くなる。
画像出展:「シュレーディンガー その生涯と思想」
第五回ソルヴェイ物理学会議
・期間:1927年10月24日~10月29日
写真は中央の列向かって右端がボーア、3列目右から4人目がパウリ。前列右から5人目がアインシュタイン。
●ユングの研究のひとつの根本的な結果は、共時性の概念である。
●ユングは共時性を科学的な世界観におけるギャップを満たす手段として、ことに因果律に対するバランスとして提出した。共時性は、物理的な現象と同様に非物理的な現象をも含んでおり、これらの現象を、これらの相互の間の非因果的であるが意味のある関係のなかに認めることである。
●核心はユングが、人間の心は意識のレベルよりさらに深い層で関わっている現象を、理解可能とする説明原理を打ち立てることに従事していたことである。
●我々はユングから発展性のある二つの仮設を得ている。精神圏の内容についての仮説と、精神圏の作用原理についての仮説である。
Ⅱ 共時性と科学と秘教
●ユングは共時性原理についての論議を、理論物理学の枠組みのなかに位置づけ、そして、他方では科学以前の時代の種々様々な秘教やオカルトの教えを、宇宙のなかに共時性原理が存在することに対する人間の直観的理解を暗示するものとしてして言及している。合理的な科学と非合理的な秘教という二つの知識の源泉は、相いれないように思えるが、これらは両立する。ユングの目的の一つは、それらの共通の特質と相互の関連を、我々に見させることにある。
しかし、異質な材料を一つの議論の中に入れ込んだために、ユングの理論は、より因習的な人々にとっては、混乱を起こさせるもの、疑わしいものとなった。そして、そのことにより共時性はほとんど注目されなかった。
●秘教の教えと手法の多様な形式へのユングの興味は、それらが、若干のあいまいな方法で人間の経験の「内面」を表現しているというユングの洞察に根差してきた。それらは文字通りに受け取るべきではなく、夢のようなものとして受け取るべきであり、それ自身の生来の象徴的意義の文脈の中で自らを語る機会を与えるべきものである。ユングはまさに、秘教やオカルトに、各々の知恵の固有のスタイルを語り、露にする機会を与えようと企てた。彼はこれを錬金術(Alchemy)から禅(Zen)へと文字通りAからZに至る、これらの主題についての本を、解釈し紹介することによって行った。そのなかには、占星術、死者の書、タロ、易経、そして他の多くの古代東洋の原始的な教養が含まれていた。
●共時性は人間の運命の本性に関連する教えへの扉を開く鍵となることができる。この点において、共時性はこの世の生における神秘的な次元に対する鍵であるだけでなく、その背後に存在する現代科学の経験に対しても、鍵となるという特別な利点をもっている。
●ユングは著書の中で極めて率直な記述と、後からその大胆な彼の論点の衝撃を柔らげる否認と緩和とが交互に現れる。このことがユングの著作に認められる曖昧さの原因となっている。
●この本(「ユングと共時性」)は、ユングの共時性の概念を、より大きな哲学と理論的根拠とに関連させて記述し説明し、そして、この複雑な問題の本質を可能な限り明確に紹介するためのものである。
●共時性は二つのレベルで重要である。理論レベルでは、展開する宇宙のなかでの人間の経験の本質に関する、意識の新しい次元を開く。また、経験的レベルでは、人間の人生と運命の最も捉えがたい相のいくつかを、事実に基づいて研究する道を与えるものである。
Ⅲ ユングと易をたてたこと ―個人的経験―
●ユングが研究したすべての秘教のなかで、易経は、最も明確に共時性原理を表出しており、また、最も洗練された形式でそれを応用しているものである。
●リヒャルト・ヴィルヘルムが翻訳した中国の錬金術の本が「黄金の華の秘密」である。ユングがこの本に払った苦心は、主要な心理学的概念を発展させるための重要な源となっている。特に、ユングが「共時性」を初めて公に使ったのが、1930年のリヒャルト・ヴィルヘルムの葬儀での賛辞の中であったことはとても意義深い。
●因果律とは、ある一つの出来事が、他のことではなく、どのようにして起こるのかという作業仮説といえる。それに対して、共時性とは相互に因果関係がない二つの分離した事象が同時に起こること。それらは無関係であるにもかかわらず同時に起こり、しかも、それらは互いに意味深く関係し合っている。これは、易経の基礎となる原理である。
●易経の中には二つの要素がある。一つは、個人の人生のその時の状況である。他方は、コインを投げてそれを定められた形式によって古代の書物に関連づける行為である。明らかにこれらには因果的関係はなく、しかも互いに意味深い関係を持っている。それらが会う瞬間に、何か普通でなない重要な価値が生じるのである。
表面的には、それは偶然のように見える。しかしユングにとってそれは、明らかに偶然をはるかにしのぐものであり、しかも因果関係でもなかった。明確な原因は捉えどころがないままだが、ユングにとっては中国で何世紀にも渡って維持され続けた原理が、何か重大な秘密を持つに違いないことは明白に思われた。
●易経には基礎となる深くて言葉にするのが難しい知恵が存在し、それゆえ易経の経験は、現代人によって探求されるべき重要なものであることを、ユングは確信していた。
Ⅳ 共時性の基礎
●ユングは共時性とは何かということをうまく伝えることはできなかった。それはつかまえどころのない、抽象的かつ普通とは言えない原理を分かりやすく説明することができなかったためである。
●ユングが取り上げた非因果的解釈の中には、占い、占星術、託宣[神が人にのり移ったり夢に現れたりして意志を告げること]、タロなどが含まれていた。これらは非常に広範囲にわたり、また、現代には受け入れ難く、研究は思うように進まなかった。それらを科学的に正当な理由に基づいて研究することさえ疑いをかけられていた。
しかし、ユングは自分が自分の患者の無意識の非合理的働きを辿る方法を学びたいならば、これらの前科学的な手順を洞察することが必要であると確信していた。ユングが学問上の愚弄に勇敢に立ち向かい、科学的にいかがわしい主題に関わったのは、彼の心理学を満たすために必要なことだったためである。
●ユングは共時性について、自分の行なったことを経験的に観察すること、自分のゼミの中で様々なアプローチすることによって、20年以上もの間、共時性について研究し続けた。そして、ユングが「非因果的関係の原理としての共時性」についての小論を書き始めたのは、75歳になろうとしていた時であった。
●ユングは実験的レベルにおいても概念的レベルにおいても不十分であることは理解していたが、ユングの共時性の概念が論議され、示唆や批判を受けることができるように、世に送り出さなければならないと感じていた。つまり、ユングの「非因果的関係の原理としての共時性」は未完の研究、試案として書かれていることを理解すべきである。
●共時性は日常生活の中で経験される。ユングの著書には、共時性を示す多くの事例や逸話が載っている。
●『仮定的な例として、あなたが、ある特定固有の問題について考え続けていたが、それについて自分が考えているということを誰にも語らなかったとしてみよう。そこへ、だれかがあなたの問題に無関係で全く独立な理由で、あなたに会いに来るとしよう、そして、会話は、訪問の目的に従って進み、それから、あなたの問題について何も議論しないうちに、あなたが探し続けていた鍵を与える言葉が、ふと、予想外に語られたとしよう。
もし、われわれが回想によって、このような状況を振り返り、起こった事の意味を分析的に理解しようと努めるならば、明確な因果的連関を通して各々の出来事を突きとめるであろう因果の鎖をたどることは、いたって簡単である。因果律によってわれわれ、あなたが、その特定の問題にかかわるようになった「理由」をたどることができる。それで、われわれは、その日に訪れた特定の個人を、どのようにして知るようになったのか、その訪問の約束が、どのようにしてなされるようになったのか、そして議論の筋が、どのようにして発展するようになったのかを、分析的にたどることができる。すべてのこれらの事を、やりつくすことは可能であろう。そして、それらが因果律の用語に還元されたとき、それらは、あなたの人生の発展という特定の見地から再構成できるので、その状況の基礎を与えることになろう。
それに対応して、因果分析の類似した筋が訪問者側の見地からもたどることができるであろう。すなわち、彼をあなたに訪れさせた原因となった出来事の連なり、実にあなたの興味を引いた知識を、彼はどのようにして得たのか、どのようにしてまさにその特定の時間に、あなたと約束するようになったのか、どのように「偶然」に、あなたが興味をもっていると彼が予想しなかった問題について語るようになったのかである。これもまた、すべて因果的用語で記述することができるであろう。
あなたと訪問者が出会うとき、それぞれは、因果的に説明できる過去のなかに広がる背景をもっている。そして、それらすべてが、あなた方が出会う特定の点で出会うことになる。あなた方が握手して会話を始めるところへの到着は、発展の縦の線の頂点を示している。その発展は、過去からの絶え間ない流れのなかでの動きであり、また、あなた方それぞれに個別の作用である。なぜなら、あなた方は、それぞれ自身の経験の枠組みと重みによっているからである。
しかし、あなた方が会った瞬間、過去のこの原因すべては、現在の瞬間のコンステレーションの一部、すなわち、時間を水平に横ぎり、そして、本来垂直である因果のカテゴリ―つまり時間的な連続性―が適用できないパターンの一部となる。どういうわけか、このパターンから、そこに、あなたが自分が求めていた回答をふと見つけたという新たな事実が現われる。明らかに、この二組の出来事の間の、どのような因果関係も論証することはできない。ただ、ある種の意味深い関係が、それらの間に存在することだけが、同様に明らかである。
それが符号であったと言うことは全く正しい。しかし、明確にするためには、それは意味深い符号であった、と付け加えなければならない。なぜなら、出来事の交差した連なりは明確な意味をもっていたからである。本来因果律は、符号という事実を含まないものであるから、われわれが最大限言えることは、原因や結果である出来事は、意味深い符号が起きる生の素材を供給するということである。これらの符号の意義、すなわち、それらを単なる無関係な出来事ではなく、現実の符号とする、意味の特別な性質は、因果律によって跡づけられる背景にある要因からは決して導き出せない。それらは、時間的に連続でなく、何らかの方法で時間軸を横ぎるパターンに属している。この理由により、それらは、その本当の本性が何であれ、少なくともまちがいなく非因果的な原理を含んでいる。
ここに示した非常に簡単な例は、それに対応し、関係づけられ派生する局面がすべて考慮されたとき、人の経験の相当大きな領域を含んでいる。長い間、偶然、符号、願望成就、夢を通じての認知、祈りとその答え、信仰による奇跡と治癒、予知、そして同様な現象への疑問は、精神的な魔術の多様な形式によって説明されてきたか、あるいは、さもなければ迷信として片づけられてきた。しかし、量的に見るなら、これらの経験は、いわゆる未開あるいは後進社会だけでなく、われわれ現代西洋文明においても、日々に起こる出来事の非常に大きな率を占めている。
多くの例において宗教の歴史は明らかに、因果律を越えていてそれでもなお現実であるような出来事に基づいている。しかし、われわれは、宗教的な形の現象をはるかに越えたものが含まれていることを認識しなければならない。政治史の上においてさえ、それは表面的には合理的に導かれた決定や少なくとも外交上の認識に従う行為の場であるが、因果的説明ができない、多くの重大な出来事が認められるのである。経済レベルについての妥当性にもかかわらず、歴史についての決定論は、いったん人の運命というさらに大きな問題がもち上ったならば、浅薄で、はなはだ不適当なものとして捨てられなければならないことは、確かに、まさに本質的な理由によるものである。
われわれが、人間の活動の根底を深く研究するならば、宗教の主観性から政治上の動かせぬ事実、あるいは商取り引きの冷静な計算から個人的な親密な関係に至るまで、歴史のすべての側面において、社会の全構造は、社会と個人の作用を記述する厳密な「法則」を見つけるべしという強制を感じているために、これらの不愉快な非合理的事象の存在は、無視されなければならなかった。
知識のどのような標準をもってしても、これらの非合理的事象に理解を伴った説明をすることは、非常に困難であることを認めなければならないが、それは、それらを無視する十分な根拠とはならない。少なくともユングは、非合理性と非因果性が重要であることによってそのような現象が、非常に真剣な注目を受けることが肝要になっていることを感じていた。彼は、どのような種類の現象も無視することは正当でないという事実に加えて、そこには、それらの出来事の下に隠されている何か他の、より一般的な原理が存在すると感じていた。これが、非因果的関係をもつ共時性現象についての彼の研究の背後にある、問いの真意と予感であった。そして、それは、広大な含蓄をもつ共時性の概念へと至った。』
Ⅴ 因果律と目的論を越えて
●共時性は、ユングが研究した第三の説明原理として現れる。三つとは、因果律、目的論、そして共時性である。ユングは無意識を説明するために目的論的見地を発展させたが、さらに共時性へと導かれた。この三つは全て、問題と状況に応じて用いられて、ユングの思考のなかにとどまってきた。目的論的見地は、彼の思考の中枢の位置を保つ。なぜなら、それは、因果律をそのなかに含み、しかも、共時性の問題へ直接に通じているからである。しかし、共時性は、他の原理と釣り合い、それらを補足する独立した原理である。
Ⅵ ライプニッツと道
●共時性は本来、知的概念ではないけれども、過去に共時性を哲学的に説明した人物は膨大な数にのぼる。我々がしたように、ユングをヒュームとカントに関連させることの要点は、ユングの思想が現代西洋哲学の合理主義から現れてきた歴史的過程を示すことであった。しかし、西洋文化における共時性の重要な哲学的先駆者は、合理主義をはるかに越えた源泉に求めるべきである。それらは、ライプニッツによって代表される。
●共時性が関わっている範囲内で、ライプニッツの研究の最も意義深い面は肉体と魂の関係の定式である。学問的には彼の理論は「精神身体的並行論」として分類され、軽視されて、現代思想では哲学的には厄介物視されるほどになってきている。しかし、今や共時性原理の定式と、ユングが心の深い現象を観察することによって為した研究によって、我々はライプニッツの概念の隠れた含蓄のいくらかを理解し始めることができる。
●ライプニッツと老子[中国春秋時代の哲学者。道教の始祖]はユングにとって共時性の概念の先駆者であり、源泉であったとすることは正しい。しかし、二つの間には意義深い違いもまた存在する。そしてその違いは、西洋思想の伝統的発展に関係してる。ライプニッツは無形の影響を自分の心に把握しようと努めるが、道教[儒教、仏教と並ぶ三大宗教の一つ。多神教であり、概念規定は確立しておらず様々な要素を含んでいる]はそれを把握しようとはせず、一部になろうとし、調和する自然の流れの時間の中に入ろうと努めるのである。
Ⅷ 超心理的事象の共時的基礎
●超心理学の現象の研究において、遠くの事象の知覚や未来に起こることの予見は、ユングは自明であるとする。
●ユング自身の人生と心理療法の中で体験した数多くの超心理的な事象は、自分の無意識と密接な関係のもとに生きている。ただ、この無意識との関係は、鋭敏な人格内のより広い認知力の意識的発展によるときと、精神病の場合のように、無意識が無統制に優勢になるときがある。
●ユングは超心理的事象の存在は明らかであり、必要なことは超心理的事象を理解する何らかの方法を見つけることであるという意見を支持している。
●ユングの共時性原理は、超心理学の道程にそって更に先の地点に至っている。ユングは共時性原理のデータをまとめて解釈するための基礎の役を果たすことのできる作業仮説を試みている。
●ユングは心のレベルを四つに分け、人間の認識力の様々なタイプを記述した。表層は自我意識、そのすぐ下が個人的無意識、その下でとても深いところまで達しているのが、トランスパーソナル[自己超越、トランスパーソナル心理学は、神との交感、宇宙との融合感など、人間の知覚を超えたものが人間の心理に与える影響を研究する学問。人間の普遍的な姿を求める]なレベルの集合的無意識。そして底にあるのが、自然そのものの領域に達している類心的レベルである。
●超心理学的研究のこの側面[超心理学現象の発生は、実験室外の環境では非常に大きい広がりをもつ]は、近年、明らかになってきている。その中で、最も注目すべきはガードナー・マーフィで、彼は、「自然発生的経験」が、超心理的現象の研究の中で重要であることを強調している。
「自然発生的経験」について述べることは、超心理的事象は、第一に日常生活の流れの中で起こるという認識を意味している。これは、もちろん、ユングが深層心理学者としての自分の治療研究を基礎として到達した結論である。多くの宗教についての研究によってもまた、ユングは心の元型的[人類に共通する動きのパターンであり情動を伴う]レベルでの象徴と、宗教史上で起こった様々な奇跡的体験との間の関連について、強い印象を受けた。
●自発性は共時性事象に重要な要素であるが、その自発性はあくまで非計画的なものである。そのため、超心理学の研究は非計画的人生経験の中で起こる現象を研究する方法を見つけなければならない。これは、多様な共時的事象を、社会生活の影響下で引き起こされるものとして研究する必要性を意味している。
●共時的事象は、宗教的伝統と神話の基礎となる「奇跡的」出来事に対する重要な糸口をもっている。
左は”EARTHSHIP CONSULTING”さまのサイトです。
「元型」について詳しく解説されています。
『「元型」(archetype)とは、人間に生まれ持ってそなわる集合的無意識で働く「人類に共通する心の動き方のパターン」のことである。分析心理学者C.G.ユング(1875-1961)が提唱した概念。』
第三章 死について
●瀕死体験
・『アメリカの精神科医レイモンド・ムーディは最初に哲学を専攻し、後に医学に転じたが、哲学の講義で霊魂の不滅について論じたときに、学生の一人から彼の祖母の瀕死体験について聞かされ、その後は積極的にこの問題と取り組むことになった。瀕死体験とは、医者が医学的に死んだと判定した後に奇跡的に蘇生した人の体験、および、事故、病気などで死に瀕した人の体験である。ムーディーは間接的な資料も加えて約150の事例から、次に述べるような結論を出したのである。
瀕死体験は人によってそれぞれ異なるが、驚くほどの共通点が存在する。それらの共通点を組み合わせて、ムーディはひとつの理論的な「典型」を提出している。これは非常に重要と思われるので、そのままここに引用してみよう。
「わたしは瀕死の状態にあった。物理的な肉体の危機が頂点に達した時、担当の医師がわたしの死を宣告しているのが聞こえた。耳障りな音が聞こえ始めた。大きく響きわたる音だ。騒々しくうなるような音といったほうがいいかもしれない。同時に、長くて暗いトンネルの中を猛烈な速度で通り抜けているような感じがした。それから突然、自分自身の物理的肉体から抜け出したのがわかった。しかしこの時はまだ、今までと同じ物理的世界にいて、わたしはある距離を保った場所から、まるで傍観者のように自分自身の物理的肉体を見つめていた。その異常な状態で、自分がついさきほど抜け出した物理的な肉体に蘇生術が施されるのを観察している。精神的には非常に混乱していた。
しばらくすると落ちついてきて、現に自分がおかれている奇妙な状態に慣れてきた。わたしには今でも[体]が備わっているが、この体は先に抜け出した物理的肉体とは本質的に異質なもので、きわめて特異な能力を持っていることがわかった。そして、今まで一度も経験したことがないような愛と暖かさに満ちた霊―光の生命―が現れた。この光の生命は、わたしに自分の一生を総括させるために質問を投げかけた。具体的なことばを介在させずに質問したのである。さらに、わたしの生涯における主なできごとを連続的に、しかも一瞬のうちに再生してみせることで、総括の手助けをしてくれた。ある時点で、わたしは自分が一種の障壁とも境界ともいえるようなものに少しずつ近づいているのに気がついた。それはまぎれもなく、現世と来世との境い目であった。しかし、わたしは現世にもどらなければならない。今はまだ死ぬ時ではないと思った。この時点で葛藤が生じた。なぜなら、わたしは今や死後の世界での体験にすっかり心を奪われていて、現世にもどりたくはなかったから。激しい歓喜、愛、やすらぎに圧倒されていた。ところが意に反して、どういうわけか、わたしは再び自分自身の物理的肉体と結合し、蘇生した。」
これは一種のモデルであり、個人によっていろいろ異なるのは当然である。ムーディはこのモデルに含まれる約15の要素のうち、多くの人が8ないしそれ以上の要素について報告し、12の要素を報告した人が数人いると述べている。また、人によってはこのモデルとは異なる順序で体験しており、たとえば、「光の生命」に出会うのが肉体から離脱するより先であることもある。また、臨床的な死を宣告された後に蘇生したが、先に述べたような体験を一切しなかったと報告する人もある。
これらの体験をした人は誰も、このようなことを適切に表現できる言葉が全然見つからぬことを強調している。それとその内容があまりにも予想外のことなので他人に話をしても、まともに受けとって貰えないということもあった。このためにこのような体験をした人も沈黙を守っていることが多く、ムーディたちが真剣に聞いてくれるので、はじめて話をしたという人もある。ここに述べられている身体外意識の体験は、ユングも共時性の一現象として記述しているが、当時ではなかなか信用されなかったものである。交通事故で足がちぎれたりした人が、自分のその体を上から眺めているというのだから、まったくの幻覚と思われがちだが、そのときにその人の見た事実と現実がぴったりと照合するので信頼せざるを得ない。特に、キュブラー・ロスが全盲の人達の体験を報告しているのは興味深い。彼らは全盲でありながら、瀕死体験の際は、そこに居あわせた人の身につけていた着物や装身具などまで描写できるのである。』
第六章 心理療法について
●心理療法とは何か
・『宗教と科学の接点の問題について論じてきたが、私がこのようなことに関心をもつようになったのは、私自身が専門としている心理療法という仕事を通じてのことであった。心理療法を実際にやり抜いてゆこうとすると、今まで述べてきたようなことを考えざるを得ないのである。それは自分のしている心理療法は「科学であるのか」という疑問に答えるためにも、そして、それに関連することであるが、心理療法の対象である「人間」という存在について考えるためにも、必要なことであった。心理療法についてはいろいろな語り方があると思うが、ここでは宗教と科学の接点という問題意識をもって述べることにしよう。』
・心理療法は19世紀の終わり頃より発展をはじめ、現代の欧米においては欠かせないものとなった。
・心理療法は古来から存在していたと考えられ、宗教、教育、医学の分野にそれを見出すことができるが、近代においては、「宗教」に対する反撥が強く、むしろ宗教に対立するものとして、教育、医学の分野から生じてきたように思われる。
・心理療法が心理学から生じてこなかったは、「心理学」が物理学を範として「客観的に観察し得る現象」の研究をしようとするものであり、人間の意識は研究対象になりえなかったからである。
・教育には指導や助言という要素が強く、これが心理療法に発展したと思われるが、心理療法は指導や助言では不十分なことも多く、この領域を超えることが求められている。
・医学においては身体に問題がないのに障害がみられる「病気」があることが解ってきて、その治療として19世紀の終り頃より精神分析が出てきた。しかし、医学モデルは型にはめようとしがちで、単純なモデルであるため、効果が限定的であることが多い。
・『対人恐怖症のためにどうしても学校に行けぬ生徒に、学校へは行くべきとか、行かないと損をする、と指導助言しても何の効果もない。あるいは、「学校に行けない原因があるだろう、それを言いなさい」などと迫っても、およそ答えられないであろう。時には、子どもたちは質問者の勢いにおされて、「先生が怖い」とか「お母さんがうるさい」とか適当に答えるときもある。原因追及型の線型の論理一本槍の人は、次に矛先を変えて、「原因」としての教師や母親を攻撃することになる。それに熱心な人ほど、自分の思いどおりの結果が生じないときは、その熱意は憎しみや攻撃の感情に変化しやすいものである。自分はこれほど熱心にやっているのに、母親が悪いから、あるいは、本人の意志が弱すぎるから……などの理由でうまくゆかぬと嘆いている人は多い。教育モデル、医学モデルに頼るときは、結果はうまくゆかぬとしても、自分は熱心で正しいことをしているのに、誰か必ず自分以外の悪者がいるからうまくゆかないのだ、という結論に達することができるので、なかなか便利である。このような便利さのために、有効性が低い割に現在もなお相当に用いられていると思われる。』
●自己治癒の力
・指導や助言も効果がなく、病因を探し出す方法も有効でないとすると、どのような方法があるのか。それは治療者が治療するのではなく、患者自身の治る力を利用することによってなされる。このことは心理療法において極めて大切なことである。
・『たとえば、学校に行きたいのにどうしても学校に行けぬと言う高校生が来談したとする。私がこの高校生を出来るだけ早く学校に行かしてあげたいという気持ちや、なぜ学校へ行きたいのか原因を知りたいという気持ちを全然もっていないと言うと、それはうそになるだろう。しかし、一応それらのことは括弧に入れておいて、ともかくこの高校生の自由な表現をできる限り許容し、それに耳を傾ける態度をとるだろう。そして、場合によってはその人の見た夢について話して貰ったり、絵を描いて貰ったり、箱庭を作って貰ったりすることになるだろう。多くの患者さんたちは、私に対して指導や助言を期待しておられたり、なかには「どうしてこうなったのでしょう」と尋ねる人もあるように、原因を早く知りたがったりされるが、それらにはほとんど関心を払わない私の態度に不思議な感じを抱かれるが、私の態度に支えられて、いろいろと自由な表現をされる。
これは、本人および本人を取り巻く人々の、そのときの意志や考えよりも「たましい」の語ることを尊重しようとしているのだ、と言うことができるであろう。夢や箱庭や絵画などを利用するのは、たましいの言語としての「イメージ」を尊重しようとするからに他ならない。
多くの人は後から振り返ってみて、なぜ自分はあんな話をしたのか解らないと言われる。つまり、学校のことを問題にするつもりだったのに、「自由に」話していたら、知らぬまに母親のことばかり話をしていたとか、まったく思いがけない過去のことを思い出して話をしてしまったとか言われるのである。これは治療者が通常の意識レベルにおける原因―結果の論理からフリーになった態度で接しているので、患者の方は知らず知らず感情のおもむくままに話をはじめ、心の深い層へと下降をはじめるわけである。自由に、感情のおもむくままに、ということは自我がたましいの方に主導権を譲るということである。』
・人間のもつ自己治癒力は不思議なものである。患者さんに箱庭をおいて貰っているだけで治療が進むときがある。
・箱庭療法は西洋で始まったものであるが、日本人は非常に向いている。これは、箱庭のような非言語的手段によって自分の自分の内面を表現し、またそれを治療者が理解することが難しくないということが大きい。
・一般的に患者さんは、はじめは片隅に少しだけ置いておくものだが、徐々に箱の領域全体を使うようになり、表現も豊かになっていく。こうして症状も改善していく。
・箱庭の変化の過程を写真にとっていくと、明らかにその流れが解るため、患者さんの内界に変化が生じ納得も得られやすい。
・箱庭療法の本質は、治療者が指導したり助けたりすることを放棄して、ただそこにいることなのである。何もしないでただそこにいること。これが治療者の役割である。
左の写真は「飯田橋メンタルクリニック」さまより拝借しました。
こちらのサイトには”箱庭療法”についての詳細な説明が書かれています。
●治療者の役割
・教育モデル、医学モデルに対し否定的な話をしてきたが、重要なことはこれらのモデルの有効性を判断することである。臨機応変の態度をもっていることが求められる。
・『われわれの態度は来談した人を客観的「対象」として見るのではなく、自と他との境界をできる限り取り去って接するようになる。治療者は自分の自我の判断によって患者を助けようとすることを放棄し、「たましい」の世界に患者と共に踏みこむことを決意するのである。ここのところがいわゆる自然科学的な研究法と異なるのである。
このような治療者の態度に支えられてこそ、患者の自己治癒力の力が活性化され、治療に到る道が開かれる。従って、治療者は何もしないようでありながら、たとえば、箱庭を患者が作ろうとするとき、どのような治療者がどのような態度で傍にいるかによって、その表現はまったく異なるものとなるのである。そうでなければ、各人が勝手に絵を描いたり、箱庭を作ったりしてノイローゼを治してゆけそうなものだが、そうはならないのである。このような態度は言うはやすく行うは難いことであり、相当な訓練を受けないとできないことである。』
・自己治癒力の力がはたらくと言っても、実はそこには大変な危険性や苦しみが存在する。
・多くの場合、治ることに苦しみはつきものである。というよりは、正面から苦しむことによってこそ治癒はあると考えるべきである。
・心理療法によって苦しみや不安はむしろ増えてくる。治療者は患者がそれと正面から向き合うようにし、その苦しみを共にわかち合うことによって乗り越えようとしている。
●コンステレーションを読む
・コンステレーションとはすぐに原因と結果とを結びつけるのではなく、いろいろな事柄の全体像を把握することである。
・コンステレーションを読むには、われわれは「開かれた」態度を持たねばならない。このような「開かれた」態度で現象に接していると、共時的現象が思いの他に生じており、それが極めて治療的に作用することに気づく。
・『長い間学校へ行けなかった子がとうとう登校を決意する。明日行くというときに、風邪を引いて寝込んでしまう。このときに「またか!」と思い両親も治療者も落胆してしまうのと、登校する以前に病気ということを通じて母と子がもう一度一体感を確かめる機会を与えられたと受けとめるのとでは、まったく結果が異なってくる。病気のときは子どもも案外素直に甘えられるし、母親も子どもの肌に自然に触れられたりして、一体感を味わいやすいものなのである。奇跡が起こると言っても奇跡はしばしばマイナスの形で生じ、それを読む力のあるものにとってはプラスになることも多いので、コンステレーションを読む能力は治療者にとって非常に大切なものである。』
●宗教と科学の接点
・『「開かれた」態度によって治療者が接すると、それまでに考えられなかったような現象が生じ、そこにはしばしば共時的現象が生じる。その現象は因果律によっては説明できない。しかし、そこに意味のある一致の現象が生じたことは事実である。そのことを出来る限り正確に記述しようとしたとき、それは「科学」なのであろうか。それは広義の科学なのだという人もあるだろう。しかし、それはまた広義の宗教だとも言えるのではなかろうか。つまり、そこには教義とか信条とかは認められないが、自我による了解を超える現象をそのまま受け入れようとする点において、宗教的であると言えるのではなかろうか。
宗教はもともと人間の死をどのように受けとめるか、ということから生じてきたとも言うことができる。死をどううけとめるのかという点から生じてきた体系、といっても、それは単なる知識体系ではない。たとえば、仏教においては戒・定・慧の重要性が説かれるように、戒を守ることや禅定の体験を通じて得られる知こそ意味があるのである。
しかし、近代人は既に述べたように自我が肥大し過ぎて、過去の宗教の体系を単なる知識系として見ようとすることもあって、なかなか受けいれられない。従って既存の宗教を信じられなくなるのだが、何を信じようと信じまいと、人間にとって死は必ず存在するのである。最初はいかに生きるかに焦点があてられていた心理療法においても、死をどう受けとめるかが問題にならざるを得なくなった。ユングは彼の患者の約三分の一は、この世によく適応している人だったと述べている。いかに適応している人でも、死の問題は残る。ユングのもとに来たこれらの人は、いかに生きるかということよりも、いかに死ぬかという問題のために来たと言ってもいいだろう。』
感想
一通り拝読させて頂き、消化できたとは言い難いのですが、一番印象に残ったことは、
「開かれた態度」-「共時的現象(因果律では説明できないが、意味ある一致の現象)」-「自己治癒力(正面から苦しみと向き合うこと)」ということでした。
特に、この中で“共時的現象”については、もう一歩踏み込んでその実体を知りたいと思いました。調べたところ、『ユングと共時性』と題する本があったので、こちらも読んでみたいと思います。
30年以上前の話です。決して重たいものではなかったのですが、自分捜しをしていた時期があり、そのときに読んだ本の中に河合隼雄先生の『明恵 夢を生きる』という本がありました。明恵とは鎌倉時代、40年にわたり夢を書き残した高僧です。
また、本棚を見て思い出しましたが、同じ時期に、C.G.ユングの『元型論 無意識の構造』と『心理学と錬金術』、さらにE.ユングの『内なる異性 アニムスとアニマ』も読んでいました。私の記憶では、この時の自分捜しの解答は、「客観的であること、外から自分を眺められるようになることがとても重要だ」ということだったと思います。
今回の『宗教と科学の接点』は河合先生の著書ですが、C.G.ユングの説や考えも重要な位置をしめています。
鍼を身体への物理刺激(侵害刺激)と考えると、解剖学と生理学は鍼の影響(効果)を考える上で重要な医学です。
一方、「病は気から」などの“気”を“エネルギー”と考えると、ミクロの世界に存在する量子の力学を連想します。
我々が生きている世界はニュートン力学の世界ですが、原子より小さな世界は量子力学の摩訶不思議な世界です。そして、これは間違いなく実在しています。もし、量子力学が発見されていなかったら、半導体は生まれていません。なお、ここにある科学の主役は物理学です。
私は宗教にはあまり関心をもっていませんが、霊や霊能者には興味があり、“完全無欠ではない霊支持者”です。
フロイトとともに心理学の巨星であるC.G.ユングは、母方の家系に牧師で精神科医、そして霊能者として知られていた祖父(ゼムエル・ブライスヴェルク)がおり、祖母のアウグステも有名な霊能者だったそうです。
霊と量子、気と量子、それぞれ何か関係があるのか、これを明らかにすることは極めて難しいものだと思われますが、“量子力学の父”とよばれた、ニールス・ボーアが東洋医学に興味をもっていたという事実は、これらの関係性を意識させます。
ニールス・ボーアは量子論が明らかにした物質観・自然観の特徴を“相補性”という概念で説明しています、ボーアはこの“相補性”を表すシンボルとして古代中国の「陰陽思想」を象徴する“太極図”を好んで用いたとのことです。このことは、「量子論を楽しむ本」の中に書かれていました。
※ご参考:ブログ「量子論1」
以上のような思いが交差し、河合先生の『宗教と科学の接点』には、何が書かれているのだろうか、是非、読んでみたいと思った次第です。
なお、ブログは何とか理解できた個所、直観的に「これは」と思った個所(目次の黒字部分)を取り上げていますが、散発的でまとまりに欠けます。
目次
第一章 たましいについて
●はじめに
●トランスパーソナル学会
●日本の状況
●人間存在
●たましいとは何か
●西洋近代の自我
●東洋と西洋
第二章 共時性について
●共時性とは何か
●易
●共時性と科学
●共時性と宗教
●ホログラフィック・パラダイム
●心身の相関
●実際的価値
第三章 死について
●死の恐怖
●死の位置
●瀕死体験
●銀河鉄道の夜
●「知る」ということ
●死後性
第四章 意識について
●無意識の発見
●いろいろな意識
●東洋の知恵
●スーフィー的意識の構造
●意識のスペクトル
●ドラッグ体験
●修行の過程
第五章 自然について
●人と自然
●自然とは何か
●自然・自我・自己
●東西の進化論
●昔話における自然
●「自然」の死
第六章 心理療法について
●心理療法とは何か
●自己治癒の力
●治療者の役割
●コンステレーションを読む
●意識の次元
●宗教と科学の接点
あとがき
第一章 たましいについて
●はじめに
・宗教と科学の問題は21世紀の人類を考える上で極めて重要な問題である。
・『筆者[河合隼雄先生]はもともと数学科の出身であるが、その後、臨床心理学に転じ、生身の人間と取り組まねばならぬ領域にはいりこんだため、人間を研究対象とする上での方法論、科学論には常に関心をもち続けてきたが、心理療法の経験が深まれば深まるほど、人間の宗教性についても考えざるを得なくなり、文字どおり科学と宗教の接点に立たされることになったと言えるのである。そのような体験を踏まえて、本書において宗教と科学の接点の問題について論じてみたい。ただ、ニューエイジ科学運動においては、深層心理学はもちろんであるが、理論物理学、大脳生理学、生物学、生態学、文化人類学、宗教学など実に多岐にわたる専門分野が関連してきて、到底それをすべてカバーして理解することは不可能である。そこで、筆者としては、もっぱら自分の専門分野である心理療法家であるという立場を生かしつつ、筆者の能力の及ぶ範囲内において、この問題を論じてみたいと思っている。これが機縁となって、わが国の各分野から宗教と科学についての討論が生じてくるならば、まことに幸せであると思っている。』
●人間存在
・『たましいとユングが呼んだものと、どのように接触してゆくかということを、人間はいろいろと考え出し、それを宗教という形で伝えてきた。宗教はそれぞれ特定の宗派をもち、それぞれがたましいにいかに接するか、それをどのように考えるか、などの点について厳格な理論や方法を有してきた。しかし、ユングはたましいを宗教としてではなく、あくまで心理学として研究しようとした。すなわち彼は、固定した方法や理論、つまり儀式や教義を確定するのではなく、個々の場合に応じてたましいの現象をよく見てゆき、それを記述しようと試みたのである。もちろん、古来からの宗教の知識はその点において極めて有用であり、その多くを利用はしたが、どれか特定のものに頼ろうとはしなかった。
たましいの現象は不思議なことや不可解なことに満ちていた。ユングはそれらを真剣に観察し記録していったが、多くのことに関しては発表してもおそらくは理解してもらえないだろうと思い、公表を長らくためらったものもある。公表した後も、彼は死の時まで自分の行っていることに対する方法論についてあいまいであったり、直観に頼って理論的な詰めをおろそかにしたりするという欠点のためもあったが、何しろ彼の考えが時代の流れをあまりにも先取りし過ぎていたためと言えるであろう。』
●西洋近代の自我
・『人間存在を全体として、たましいということも含めて考えようとすることは、宗教との必然的なかかわりを生ぜしめる。しかし、そこであくまでもたましいの現象を探求してゆこうとする態度は科学的と呼んで差し支えないものであり、ここに科学と宗教の接点が生じてくるのである。
しかし、そんなことを言っても、たましいなどということを対象とすること自体、既に科学的でない、と反論する人もあろう。つまり、たましいなどという測定不能なものは科学の対象外なのである。この点をどう考えるべきであろうか。これを考えるためには、西洋近代に確立された、自我の問題について少し考察する必要があるだろう。』
・自我とは自分と他と切り離した独立した存在として自覚し、自立的であろうとするところに特徴がある。このような自我によって外界を客観的に観察できるのである。
●東洋と西洋
・東洋人は西洋人のように自と他をそれほど切り離して考えていない。
・外界と内界などという区別を最初から立てていない。
・仏教は哲学、宗教、科学、などを未分化のまま包摂しつつ壮大な体系を持っている。その上、注目すべきことは、このような仏教の体系を見出した僧たちは、西洋の自我と異なる意識状態の中で、それを見出したと考えられる。
第二章 共時性について
●共時性とは何か
・『宗教と科学の接点を考える上において、ユングが提唱した、共時性(synchronicity)ということを取りあげることが必要であると思われる。最近、小野泰博が「宗教に何が問われているか」という論文において、共時性の問題を取りあげて論じているが、これまでのところ、わが国においても正面から論じられることが少なかった。というのも、これは論じることの難しいものであり、ユングもこのことを発表しようとしながら、「長年にわたってそれを果たすだけの勇気を持たなかった」と述べているほどである。彼はこのような考えを、相当早くからもっていたが、公的に発表したのは、1951年にエラノス会議において、「共時性について」という講義を行ったのが最初である。
ユングによる共時性について、まず簡単に説明しよう。ユングは彼の心理療法の過程のなかで、「意味ある偶然の一致」の現象が、相当に、しかも心理療法的に際めて意味深い形で生じることに気づいた。彼は1920年代半ば頃から、共時性の問題について考えていたが、その頃の体験として次のような例をあげている。彼の治療していたある若い婦人は、決定的な時機に、自分が黄金の神聖甲虫を与えられる夢を見た。彼女がその話をユングにしているときに、神聖甲虫によく似ている黄金虫が、窓ガラスにコンコンとぶつかってきたのである。この偶然の一致がこの女性の心をとらえ、夢の分析がすすんだことをユングは報告しているが、このうような例が、心理療法場面ではよく生じるのである。
こんなのを聞くと、それこそ「偶然の一致」で、「意味のある」などと大げさに言う必要もないと思われるだろう。しかし、もっと劇的なことは割にあって、特に筆者は夢分析を行っているので、夢と外的事象の一致という形で、このことを体験する。たとえば、夢で知人の死を見た翌朝、その人の死亡を知らせる電話を受けて驚いた人もあった。人間の死と関連して、このようなことは起こりやすいようであり、多くの類似の体験がユング派以外の夢の研究者によっても報告されている。たとえば、メダルト・ボスは多くのこのような類の夢を発表しているので興味のある方は、それを参考にして頂きたい[「夢 その現存在分析」]。』
●共時性と科学
・西洋の近代は因果的思考に頼りすぎていて一面的になっているとユングは考えている。
・中国人は現象を全体的にとらえる。それは史観にも現れている。
・アメリカ人は中国人の史観を理解できない。アメリカ人のいう本質とは事象の中に因果関係の連鎖を読みとることであり、中国の歴史の本質は、アメリカ人から見て末梢的と思える事象をすべて読みとった後に、全体のなかに浮かびあがってくる姿を把握することである。
・中国の文明史を見ると、共時性に関する深い知恵と、因果律を追求する科学の萌芽などの混在が認められる。
・近代の科学を代表するニュートンもガリレオも、現代において言う「科学的」思考のみに頼って事象を見ていたわけではない。
・ユングは共時性の概念の先駆者としてライプニッツを高く評価している。ライプニッツは哲学者であるが、微分積分の発見者で、二進法の道をひらき、動力学を創出した。ライプニッツは「単子(モナド)」という概念を導入し、ひとつひとつの単子は全宇宙を反映するミクロコスモスであり、単子は直接相互に作用を及ぼし合うことはないが、「予定調和」に従って、互いに「対応」したり「共鳴」したりすると考えた。彼のいう「対応」や「共鳴」の現象は、ユングのいう共時的現象と等価のものと考えられる。
・『ミクロコスモスとマクロコスモスの対応という考え方は、ミクロコスモスとしての人間をマクロコスモスとしての宇宙に関連づける思想であったが、西洋の近代自我が自我を世界から切り離し、自我を取り巻く世界を客観対象として見ることを可能にしたとき、そこに観察される事象は、個人を離れた普遍性をもつことになり、自然科学が急激に進歩したのである。普遍的な学としての自然科学はその後ますます力を発揮し、人間は世界を支配したかの如く見えながら、宇宙との「対応」を失ってしまったという点において、自らを宇宙のなかにどう定位するかという点で、根本的な問題をかかえこむことになった。』
・『自然科学の最先端において、それまでの方法論に対して根本的な反省をうながす問題が生じてきたのである。まず、1906年にラザフォードらによってα崩壊現象が研究され、自然現象のあるものは、単に人間の無知にもとづくものではない本質的な偶然性に支配されていることが明らかにされた。続いて量子力学の分野において、ハイゼンベルクの不確定性原理やボーアの相補性の概念などにより、古典的な機械論的世界観を否定する立場が打ち出されることになった。ハイゼンベルクの不確実性原理は、現象の因果性を論じる前に問題となる物事の決定可能性について論じ、電子の位置と運動量の相方を同時に正確に測定することはできないことを明らかにした。ボーアは光や電子はときには波動のように、ときには粒子のように振舞い、その相矛盾した性質が相補的にはたらくという考えを明らかにし、機械論的なモデルを変更したのである。』
・『ユングが共時性について発表したときは賛否相半ばし、たとえば、ユング心理学についてユング派以外の人間として、よき入門書を書いたアンソニー・ストーも、「共時性に関する彼の著作は、混乱して、ほとんど実際的価値がないと私には思えることを、告白せざるを得ない」と述べている。しかし、一方ではハイゼンベルクやパウリなどの理論物理学者が、この考えに深い理解と共感を示したことも非常に興味深いことである。特に、パウリ[スイスの物理学者、スピンの理論など]はユングと共に、共時性に関する書物を出版するに到ったのである。』
●共時性と宗教
・『共時性の現象の背景に、ユングは元型(Archetypus)ということを考える。ユングの元型は解りにくいし、よく誤解もされるが、ここにひとつのたとえをあげてみる。朝まだ明けやらぬうちに、牛乳配達がくる、小鳥がさえずり始める、そして朝刊の配達がある。この順序が確立しているとき、われわれは、小鳥がさえずっているから、もう牛乳が配達されているだろう、とか、小鳥がさえずっているから、もうすぐ朝刊が配られるだろう、などという。しかし、これらの事象の間に因果関係は存在していない。これらの事象の背後にある、人間生活にとっての朝、明け方、というものによって、これらは布置されているのである。われわれは朝そのものを見ることも、手に触れることもできない。しかし、それは明らかに事象にあるまとまりを与え、それは意味をもっている。これが文化の異なるところに行けば、個々の事象は変わるだろう。あるところでは、新聞配達が来たから、そのうちに小鳥がさえずるだろう、と言うかも知れぬ。あるところでは新聞や牛乳の配達などまったく無いだろう。しかし、それら文化の異なるところにおいても、「朝」が人間にとってどのようなはたらきをするかは、たとえば、「活動の始まり」などの言葉によって、ある程度は一括的に記述できるであろう。
ユングは外界のみではなく、人間の内界にも、われわれの意識を超えた一種の客観界が存在すると考えた。彼はそれを類心(サイコイド)領域と呼んだりした。外界において既に述べたような「朝」という現象が生じるとき、内界においてもそれに呼応する「朝」のパターンが活性化され、人間の意識は外的現象を「朝」として知覚するのだ、と考える。人間はこの世に生まれるとき、何もない外界に生まれてくるのではなく、既にいろいろなものが準備されているところに生まれてくるように、その内界にも既にいろいろなパターンが可能性として存在している状態として生まれてくるのである。それだからこそ、人間は人間として行動するわけである。つまり、人間はまったくの白紙として生まれてくるのではなく、そのあらゆる行動において、ある種の潜在的なパターンを背負って生まれてくる。ユングはこのように考え、潜在的な基本的パターンを元型と呼んだ。』
●心身の相関
・『古来からつねに論じ続けられてきた心身相関の問題も、共時性との関連で考えてみるべきと思われる。心身に何らかの関係があることは古くから指摘されてきたし、われわれも日常生活においても経験している。恐ろしいと感じたときに冷汗が出たり、悲しいときに涙が出たりする。このときは単純に、自分の感情の変化が身体の変化を生ぜしめると考えがちだが、一方では、周知のように、ジェームズ・ランゲ説というのがあって、むしろ、身体的変化が先行し、それが原因で感情の変化が生じると主張されている。こんなのを見ると、日常に生じている単純な事象でも、原因-結果という見方は容易に反転せしめ得るほどのものであることがわかる。つまり、心身相関の問題はなかなか単純なことではないのである。』
ジェームズ・ランゲ説:哲学者ジョン・デューイによって開発され、19世紀の2人の学者、ウィリアム・ジェームズとカール・ランゲにちなんで名付けられました。理論の基本的な前提は、生理的覚醒が感情を引き起こすということです。
Youtubeに「情動の2要因説」を説明された分かりやすい動画がありました。なお、こちらは宮川 純先生の”すき間時間の心理学”というサイトです。
●実際的価値
・『アンソニー・ストーが共時性の考えには実際的価値がないと指摘していることは述べた。一見するとそのように思えるのも無理からぬところがあり、筆者もかつてそのように考えたことがある。因果律による場合は、原因で明らかにしそれに操作を加えることによって結果を異なったものに変えられる。しかし、共時的現象というのは、ただ「そうだ」と言えるだけで、そこから何らの有用な操作を引き出すことができない。しかし、その後、筆者は心理療法家としての経験を増すにつれて、共時性の考えの実際的価値について思い到るようになった。』
心理療法を受けに来る人たちは、軽症の場合を除いて、その葛藤が合理的、一般的な方法によって解決できない場合が多い。いくら考えてもよい解決策が浮んで来ない。まさにボームの言うように思考は思考を超えるものの濾過器として働き、考えれば考えるほど問題解決のいと口がなくなってしまう。このようなとき共時的現象に心を開くときは、偶然として一般に棄て去れそうな事柄が、思いがけない洞察への鍵となることを、われわれはよく体験する。たとえば、ユングの例であれば、黄金虫の突然の出現が、この患者のそれまでの考えを改めさせるきっかけとなったのである。
ここで大切なことは、共時性の現象はそれを体験する主体のかかわりを絶対に必要とすることである。つまり、黄金虫の侵入は偶然として処理し得る。しかし、それを共時性の現象として受けとめることによって、そこに主体のコミットメントが生じる。近代合理主義によって硬く武装された自我は、ある程度の安定はもつにしろ、世界への主体的なかかわりを喪失する危険が高い。ユングがよく記述する、何もかもがうまく行っていて、しかも不安で仕方ないとか、孤独に耐えられなくなるような例が、これに当たるだろう。共時性の現象を受け容れることによって、われわれは失われていた、マクロコスモスとミクロコスモスの対応を回復するのだとも言える。つまり、コスモロジーのなかに、自分を定位できるのである。
しかし、黄金虫の例や、あるいは筆者の易の例は簡単に冷笑の対象ともなり得る。それは極めて一般性を欠いた事象であるからである。しかし、普遍的に正しいことばかりに支えられて生きていて、その人は個人としての人生を生きたと言えるのだろうか。因果律による法則は個人を離れた普遍的な事象の解明に力をもつ。しかし、個人の一回かぎりの事象について、個人にとっての「意味」を問題にするとき、共時的な現象の見方が有効性を発揮する。そして、心理療法においては、後者の方こそが重要なのである。』
・『家庭や人間関係の問題を考えるとき、単純に因果的思考に頼ると、すぐに「原因」を見出し、誰かを悪者にしたてあげることが多い。たとえば、母親が悪の根源のように思われたりする。しかし、全体の現象を元型的布置として見るときは、誰かが「原因」などではなく、すべてのことが相関連し合っている姿がよく把握され、そのような意識的把握と、その全体の布置に治療者が加わってくることによって、事態が変化するものである。つまり、誰が悪いかと考えるよりは、皆がこれからどのようにすればよいかと考えることによって、解決の道が見出されてくるのである。実際、われわれ心理療法家が、困難な問題をかかえている人にお会いすると、本人も家族も、自分を悪者にされるように、あるいは自分以外の誰かを悪者に仕立てるために一生懸命で、バラバラになって硬直した関係をつくりあげている。またなかには、そのようなことを助長するような発言をする「教育者」とか「治療者」も多くいる。こんなときに、因果的思考から全員が自由になるだけでも、家族関係は変わるし、視野も広くなるし、回復への道が発見しやすくなるのである。このように、共時性に注目する態度をもつことは、実際的価値を有していると思われる。』
私が所属する団体は、ある目的のために「非営利型の一般社団法人」を目指すことになりました。
以下の図で見ると、“法人税法上の取り扱い”と書かれた色付きBox内の中央になります。これは公益法人に位置づけられる、一般社団法人というものになります。
当初はお金を払ってでも司法書士の先生にお願いした方が良いのではないかと考えましたが、結果的には、手間をかけてでも自前で作るという選択は正解でした。それは定款は会社経営のルールブックであり、定款を深く理解すること、そして、法人立上げに関わる全ての人が理解しようとすることがとても重要であることを知ったためです。
以下の図にあるように、最初に取り組むべきは“定款”の作成です。
ネット上に多くの情報があるのですが、それらを調べつつも、やはり一冊は読んでおきたいと思い、購入したのは『改訂4版 一般社団法人・一般財団法人の実務 設立・運営・税務から公益認定まで』という本でした。
一通り目を通し、いずれにしても定款を作らなければならないのは決まっていことなので、内容を一つ一つ吟味し理解することが大切であると考え、本書1-3の「定款作成の手引き・一般社団法人(社員総会+理事+監事)」に書かれている条文を書き写すという作業に移りました。そして、「こんな感じかなぁ」と思いながら、微妙に編集していきました。
この行動は悪くはなかったと思うのですが、“定款のひな型”については、「日本公証人連合会」のサイトにある“定款等記載例”の中から、最も近いものを利用する方が良かったかも知れません。
『以下の定款の記載例は、起業者の方の参考に供するため、飽くまでも一つの事例として提示したものであり、網羅的な内容とはなっておりません。したがって、法人の目的、株式の内容、法人の機関設計、役員の責任軽減の有無等についてよく御検討いただき、公証人にも事前に御相談の上、作成されるようお願いいたします。』
何とか、自分なりの“定款ひな型”はできたので、司法書士あるいは行政書士の先生に、確認事項を列記したものを用意し、お話を伺って一気に完成させてしまおうという作戦を立てました。
ネット検索すると、中には初回1時間相談無料という事務所もあり、まずは当院の近くにある事務所の先生に訪問してきました。
「定款の内容を確認するとなると、それはまさに業務になってしまうので無償ではできない」とのことで、あっさり、作戦は未遂に終わってしまいましたが、貴重なアドバイスを頂くことができました。
1.うまくいっている一般社団法人に共通していること
①自分たちの団体を分かりやすく正しく公表していること。
②常に最新の状況を知ってもらえるように、情報をアップデートし続けていること。
『これにより世間の人は協力しよう、支援しようという気持ちになるものです。そして、このことが最も重要なことです。怪しい一般社団法人ほど、これらのことができていません。また、一般社団法人が組織的に壊れていく原因の多くは、お金に関わるところです。お金の管理がしっかりできないと問題が大きくなり、遂には解散ということになっていきます。優れた団体のサイトには情報がたくさん出ているので、それらを参考にするといいですよ。』とのお話でした。
第1回目の作戦は失敗に終わったものの、あわよくば何とかなるのではないかと思い、懲りずに第2の先生を見つけました。「定款があるならそれを持参してください」とのコメントもあり、「もしや。。。」と期待しつつ、その日がやってきました。が、結果は2連敗でした。ただ、今回も色々なお話を伺うことができ有意義な時間をもてました。
最後に、『「埼玉県よろず支援拠点」という支援団体があるので、そこに問い合わせてみるのも一案ですよ。』とのアドバイスを頂き、その日の夜に“問合せフォーム”を使って依頼をかけました。
『「埼玉県よろず支援拠点」は、経済産業省・中小企業庁が、全国47都道府県に設置する経営なんでも相談所です。
中小企業・小規模事業者、NPO法人・一般社団法人・社会福祉法人等の中小企業・小規模事業者に類する方の売上拡大、経営改善など経営上のあらゆるお悩みの相談に無料で対応します。』
すると、翌日、早速お電話を頂きました。お話では『こちらより、“創業・ベンチャー支援センター”の方が適しているので、そちらを紹介させて頂きます。』とのことでした。そして、アポ取りをしました。
創業・ベンチャー支援センターでは月2回、「司法書士相談会」というのを開催されているとのお話だったので、すぐに予約を入れました。受付の方からも、『作ったひな型をメールで送ってください。事前に先生に見て頂きます。』とのことで、遂にたどり着いたなという気分でした。
実は、この創業・ベンチャー支援センター訪問の翌日に、埼玉会館の近くにある、の“公証センター”にアポが取れていました。本当は、この日の創業・ベンチャー支援センター訪問で、概ね完成させ、最後のチェックを公証センターの先生に見てもらおうという狙いだったのですが、それは外れ、順番が逆になってしまいましたが、それでもゴールは近いという気持ちでした。
なお、公証センターにアポが取れたのは、“基金”と“寄付”と“会費”の位置づけなど調べたのですが、ピンと来なかったため公証センターに問い合わせたところ、電話に出られた受付の方が「相談に来られますか?」との嬉しい提案があり、すかさず、それにのったというものでした。
『定款認証には,紙(書面)の定款を認証する方法と、インターネットを介して電磁的記録の定款(電子定款)を認証する方法とがあります。このうちインターネットを利用した電子定款認証の利用方法は、日本公証人連合会のホームページや法務省の専用サイトに分かり易く説明されていますので,ご参照ください。』
この公証センターの訪問で、ついに定款のひな型はほぼ完成しました。ほぼというのは、いくつか自信のない箇所が残っているという意味です。これらの宿題は、創業・ベンチャー支援センターの「司法書士相談会」でクリアにする予定です。
“定款”は会社のルールブックとされ、法人立上げメンバー全員で検討し、納得いくものを作り上げる必要があります。
ひな型完成に大手をかけていたわけですが、社員の対象範囲をどうするか、理事会を設置するかどうかなど、メンバーとの検討会の中でいくつか課題が浮上し、ゴール直前で数歩後退する事態になりました。
私自身も特に最初は「定款=事務手続き」という認識で、決して高くなかったのですが、この後退は他のメンバーの定款に対する関心を高めるきっかけとなり、正しいプロセスを経て、ゴールを切れるという見通しが立ったという意味でとても良かったと思います。思わぬ収穫という感じです。
ただ、新たな宿題が降りかかり、定款との悪戦苦闘は今しばらく続くことになりました。
仕事とは関係ないのですが、非営利型一般社団法人について調べることになりました。
非営利型一般社団法人と聞いて思ったのは、いわゆる、一般社団法人と何が違うのか、これらは同じカテゴリーに含まれる異なるタイプの法人なのかという疑問でした。ところが、これらはいずれも一般社団法人であり、一般的なものを“普通型”と呼び、それと区別して“非営利型”という型があるということでした。
では、非営利型一般社団法人になるためには、届出段階で何か違うのか、そうではないのかがよく分からず、さらに調べてみると、「非営利型一般社団法人であるかどうかの判断は税務当局が担っている」ということを知り、早速、最寄りの税務署に問い合わせてみました。
今回のブログはその税務署への電話で分かったこと、税務署の方から教えて頂いた国税庁の資料、さらに『図解 社団法人・財団法人のしくみ』を読んで知ったことを中心にまとめたものとなっています。かなり、限定的な内容ですが概要をお伝えすることはできるのではないかと思います。
■非営利型一般社団法人とは、一般社団法人と異なる位置づけのものではなく、一般社団法人の中の一つの型です。図を見ると、”一般社団法人”の中で、「非営利型法人の要件に該当するか」が「はい」であれば、<非営利型法人>になります。
なお、非営利型法人の要件は2つありますが、”非営利性が徹底された法人”に該当する場合は以下の①になります。
ここで注目すべきは、1と2です。これを見ると、いずれも『定款に定めていること』と書かれています。税務署の方の話でも、上記1(剰余金の分配)と2(解散時の対応)が、“定款”に明確に記述されていれば、その事実をもとに税務署が、この社団法人は<非営利型法人>として認めるということでした。なお、上記のスライドは以下の資料の中にあります。
『一般社団法人・一般財団法人と法人税-国税庁』(4枚)
次の資料は、『新たな公益法人関係税制の手引-国税庁』(87枚)からになります。
この図では水色破線枠内、青色Boxになります。
以下は「一般社団法人の設立手続き」です。
概要
1.社団法人の設立
・一定の手続きと登記だけで設立できる。
2.定款
・設立時に重要なことは定款の作成である。
-定款は法人の組織活動の根本規則である。
-記載内容によって法人の在り方が変わる。
-内容は次の3つに分けられる。
1)「必要的記載事項」…記載しないと定款が無効になる。(目的、名称、事務所の所在地など)
2)「相対的記載事項」…記載しないと定款が無効になる。(社員総会の決議要件など)
3)「任意的記載事項」…法律内であれば任意に記載できる。
3.機関
・社員総会は意思決定機関である。
・理事が3人以上いる場合は、理事会を置くことができる。
・業務執行は代表理事が選任されている場合は、代表理事が行うが、選任されていない場合は理事が関与する。
・監事のみ、あるいは会計監査人と監事を併せて置くこともできる。
4.社員
・社団法人にとっての社員とは、「定款で定めるところにより経費を支払う業務を負い(一般法27)、社員総会で評議権を行使できる者(一般法48Ⅰ)」という。
・設立時には2人以上が必要である。
・社員の資格は定款で自由に決めることができる。
・社員は任意で退社することもできるが、定款で退社を制限することも可能である(一般法28)。
5.理事の役割と責任
・理事会は別途定款にさだめている場合を除き、業務を執行して法人を代表する。
・理事は社員総会の決議で選任される。
・理事の人数は1人以上。
・理事の任期は原則として2年以内。
・理事と一般社団法人は委任関係にある。
-理事は法人に対して善管注意義務を負う(民法644)。
-法令・定款・社員総会の決議を尊守して忠実に職務を行う「忠実義務」を負っている(一般法83)。
-社員総会での説明義務(一般法53)。
-競合取引・利益相反取引の制限(一般法84Ⅰ)。
-社員等に対する報告義務(一般法85)。
-法人や第三者に対する損害賠償責任(一般法111、117)。
6.理事会
・一般社団法人では任意の機関である。
7.監事
・一般社団法人では監事は任意であるが、理事会を設置した場合は必須となる。
・監事は理事の職務の執行を監査し、監査結果に基づき監査報告を作成する。
・監事は理事が作成した計算書類・事業報告・附属明細書を監査する。
・招集権者に理事会の招集を請求することができる。
・理事が不正行為や法令・定款違反をした場合などに、理事・理事会に報告する。
8.基金の意義
・基金とは社団法人に拠出された金銭、その他の財産をいう。
・社団法人は基金の拠出者(「社員」とは限らない)に対して、一般法や当事者間の合意に基づいて返還義務を負う。
・基金制度は剰余金の分配を目的としないという社団法人の基本的性格を維持しつつ、その活動の原資となる資金を調達して、
社団法人が安定して活動を行うという「財産的基礎」の維持を図るための制度である。
・基金は貸借対照表上では負債ではなく、純資産の部に計上する(一般法規則31)。
・基金制度は法人の任意であり、定款に「基金の拠出者の権利に関する規定」と「基金の返還の手続」を定めることに
よって基金制度を設けることができる。
9.基金の募集と返還
・具体的な基金の募集手続きは一般法によって以下のとおり定められている。一方、基金の返還は定時社員総会の決議によって、貸借対照表の純資産が「基金の総額」等を超える場合に限り、その超過額を限度として一定の期間内に行うことができる(一般法141ⅠⅡ)。
ご参考:社団法人について
社団法人については、以下のサイトに分かりやすい説明が出ていました。
まずはそもそも「社団」とはどういう意味なのでしょうか。
社団とは、一定の目的をもった人の集まり、団体を言います。そして、「社団法人」とは、法律によってその団体に「法人格」が与えられた法人を言います。更に、社団法人はその根拠となる法律によって「社団法人」、「一般社団法人」、「公益社団法人」の3つに分類されます。
「法人格」とは、その団体名義で銀行口座を開設、財産(土地・建物などの不動産や自動車など)を所有するなど、その団体名義で法律行為を行なうことができる「法律上の人格」を言います。
入江 杏先生は上智大学グリーフケア研究所非常勤講師をされています。そして、悲しみについて思いを馳せる会の「ミシュカの森」の主宰をされています。
グリーフケアとは、「家族や親しい友人との別れ、死別、あるいは生きがいや希望の喪失など、喪失に胸を痛めている人、喪失から生じる悲嘆に苦しんでいる人に寄り添い、支えようとする活動である」。これは、グリーフケア研究所の島薗 進所長のお言葉です。
クリック頂くと、YouTubeが立ち上がります。約16分です。
こちらは、”上智大学グリーフケア研究所”さまのホームページです。
入江 杏先生は2000年12月30日に発生し、いまだ未解決の「世田谷一家殺害事件」の犠牲者のお一人、宮澤泰子さんのお姉さまでもあります。今回の『悲しみとともにどう生きるか』では編著(編集と著作)をされています。
この本は6つの章に分かれていますが、第一章から第五章までは2008年から2019年に行われた講演が基になっています。第六章はグリーフケア研究所所長の島薗先生の書下ろしで、「グリーフケア」や「ミシュカの森」について書かれています。
詳細は次の通りです。
第一章 「ゆるやかなつながり」が生き直す力を与える 柳田邦男 2008年12月27日 玉川区民会館ホール
第三章 沈黙を強いるメカニズムに抗して 星野智幸 2016年12月25日 上智大学
第四章 限りなく透明に近い居場所 東畑開人 2018年12月9日 芝コミュニティはうす
第五章 悲しみとともにどう生きるか 平野啓一郎 2019年12月14日 ビジョンセンター田町
第六章 悲しみをともに分かち合う 島薗 進 “書下ろし”
ブログは芥川賞作家でもある平野啓一郎先生の第五章について触れています。この五章に書かれているのは主に、“死刑制度のこと”、“人権のこと”、そして“コミュニケーションと分人”についてです。“分人”には多様性が求められると思いますが、背景には“客観的&主体的な変化と順応”ということが隠れているように思います。
この中で“死刑制度のこと”、“人権のこと”は、私自身64年も生きてきて、まともに考えたことが一度もなかったことを思い知りました。また、書かれている内容はとてもインパクトの大きなものであり、自分自身はどう考えるのだろうか、頭の中を整理したいと思いました。
第五章の小見出しは以下の通りです。(ブログでは最初の2つには触れていません)
●「カテゴリー」として扱われがちな被災者や事件の被害者
●当事者でないからこそ書けることがある
●死刑制度への考え方
●「なぜ人を殺してはいけないか」への応答として生まれた『決壊』
●心から死刑は廃止するべきだと思った理由
●個人の責任に収斂させる死刑は国家の欺瞞
●死刑制度は犯罪防止にならない
●犯罪被害者へのケアが不十分
●犯罪の被害者の心の中に芽生える感情は複雑
●「赦し」と「罰」は同じ機能を果たす
●共感や同情ではなく、人権を権利の問題として捉える教育が必要
●「負け組」に対する積極的な否定論
●すべての人の基本的人権を尊重するという大前提
●自死して償うという日本的発想
●社会の分断と対立の始まり
●対立点からではなく、接点からコミュニケーションを始める
●分人の集合として自分を捉える
●人生の経過とともに分人の構成は変わっていく
●愛する人を喪失した人へ
●死刑制度への考え方
・平野先生は現在、死刑制度を廃止すべきという立場であるが、『決壊』を書く以前の20代ぐらいまでは心情的には死刑制度に肯定的な立場の近い所にいた。しかし、はっきりした考えは持っておらず迷っていた。
・ヨーロッパではベラルーシ以外はすべて死刑制度が廃止されている。今も死刑制度が残っているのは、アジア諸国、中東、アメリカ合衆国の一部の州などである。
以下はネットで見つけた記事です。
この中に“死刑制度の存廃をめぐる議論のポイント”という箇所があり、項目として8つ挙げられています。
■根本的な思想・哲学
■死刑に犯罪抑止力があるかどうか
■誤判・冤罪の恐れをどう考えるか
■被害者・遺族の心情をどう考えるか
■犯人の更生可能性について
■世論調査をどうみるか
■死刑廃止が国際的潮流である点をどうみるか
■死刑は憲法に違反しないか
●「なぜ人を殺してはいけないか」への応答として生まれた『決壊』
・これは、TBSの『NEWS23』で収録された若者たちとの対話での発言。その時の出演者からは的確な回答は出なかった。
・『決壊』という作品の中で、平野先生は「なぜ人を殺してはいけないか」という根本的な問いに対して、その理由を説得力を持って書きたいと思っていた。
●心から死刑は廃止するべきだと思った理由
・警察の捜査に対する不信感(袴田事件など)。
・「人は殺してはいけない」という絶対的な禁止に、例外を設けてはいけないという考えが自分の中で確かなものになった。人の命は、「場合によっては殺していい」という例外を作ってはいけない。
・死刑は加害者を同じ目に遭わせてやりたいという身体刑である。
●個人の責任に収斂させる死刑は国家の欺瞞
・立法的、行政的な救済を必要とする犯罪被害者への支援が十分とはいえない状況で、事件に対して司法が死刑を宣告して、その人を社会から排除し、あたかも何もなかったかのような顔をするのは国家の欺瞞ではないか。
・社会の責任が大きいような環境で育った人が罪を犯した時、それをその人の「自己責任」にすべて収斂させて、死刑にすることで終わらせてはいけないのではないか。
・社会的責任は一切なく、あくまでその個人に全ての責任があるとする犯罪の場合であっても、国家がその犯罪者と同じ次元に降りてきて、事情があれば人を殺していいという判断(死刑)をするのは良くないのではないか。
・『我々の共同体は人を殺さない。一人ひとりの人間は基本的人権を備えていて、生存については絶対的に保障されている。我々の社会はそういう社会であるという前提は、例外的にそれを破る人が出てきても崩してはならないはずです。だから、あなたは人を殺したかもしれないけど、我々の社会はあなたを殺さない。それが我々の社会です、ということを、あくまで維持しなければならないのではないか。おまえが殺したから俺もその次元にまで下がっていって、同じように殺すということは、許されることなのか?
何かよほどの事情があれば人を殺していい、という思想自体を社会の中からなくしていかないと、殺人という悪自体が永遠になくならないのではないかと考えるわけです。』
●死刑制度は犯罪防止にならない
・死刑囚にも自分の死が怖いと思う人とそうでない人がいる。
・“拡大自殺”とは死刑になりたいから多くの人を巻き添えにした殺人を起こすことである。
-2008年6月:“秋葉原通り魔事件”では7人が死亡。
-2021年12月:大阪ビル放火事件“では25人が死亡。
●犯罪被害者へのケアが不十分
・全国犯罪被害者の会では、附帯私訴制度(民事裁判を起こすことなく、刑事裁判の中で損害賠償を求める手続きができる仕組み)の実現が一つの目標になっているが、これは遺族が裁判にうまく関与できない状況になっている。
・被害者に対する誹謗中傷などに対する被害者をケアするシステムが不十分である。
・被害者が十分に守られていない状況では、人は「被害に遭った人たちはあんなにかわいそうな目に遭っているのに、何で加害者の人権が守られなきゃいけないんだ」という反発から、「死刑制度は反対」とか「加害者にも人権はある」という声に社会は強く反発する。死刑制度の議論は、被害者のケアの充実を第一に図っていかない限り、国民が加害者側の人権を考えることは難しい。
・本来は、犯罪被害者の悲しみを癒すことに関わることが大切だが、それは簡単ではないこともあり、被害者の気持ちになり代わって、「犯人を死刑にしろ!」となっていく傾向が強い。
・人権概念の理解の徹底こそが重要であるが、感情的な問題も無視はできない。
●犯罪の被害者の心の中に芽生える感情は複雑
・『犯人は死刑になった後、ご遺族がそれで本当に区切りがつけられたのか、何らかの慰めなり癒やしが得られたのかどうかということは、ジャーナリズムの一種のはばかりからか、怠惰からか、それほど具体的な追跡調査がなされていません。ですから、社会は勝手に、遺族は死刑にならないことには収まりがつかないし、死刑になったらそれで一つ区切りがつくと考えて、犯人が死刑宣告を受けて死刑にされたら、途端に遺族のことはすっかり忘れてしまいます。しかし、実はその時にこそ、遺族は社会の中で最も孤独を感じているかもしれない。加害者を憎むということにおいてのみ被害者の側に立った人たちは、加害者に死刑が執行された途端に、被害者への興味を一切失ってしまいます。もし自分の家族が殺されたなら、という仮定は、一体、何だったのでしょうか?
また、死刑が区切りになるかどうかということとは関係なく、とにかく関わりたくない、死刑も望まず、赦すなんてことももちろんできないけど、とにかくもう思い出したくない、別の人生を歩みたいという方もいらっしゃいます。
死刑で一件落着、それが一つの区切りになるなどという考え方で犯罪被害者の方のすべての感情を物語化することはできない。誰かと話をしたいとか、じっくり一時間、二時間、話を聞いてもらいたいとか、孤独に寄り添ってほしいとか、事件のこととは関係なく、楽しくごはんでも食べに行きたいとか、被害者というカテゴリーにくくられたくないとか……、それは当然、さまざまです。だけど、「被害者の気持ちを考えたことがあるのか」と言う人は、そのうちの「憎しみ」の部分にしか興味がありません。それ以外の部分で、被害に遭った方の悲しみをどういうふうに癒すのかということには、全くコミットしようとしないわけです。これが非常に大きな問題ではないかと思います。』
●「赦し」と「罰」は同じ機能を果たす
・赦しと罰は、何かを終わらせるという意味では同じ機能を果たしているといえる(ハンナ・アーレントの『人間の条件』より)
・被害者の方が“赦し”を選んだ時に、社会はその人の決断をあたたかい尊敬の気持ちで称賛し、抱擁すべきである。決して「あなたは亡くなった人に対する思いが薄いんじゃない?」などと非難することがあってはならない。他者を理解するというのは、自分が決して理解できないことを理解しようと努めることである。
●共感や同情ではなく、人権を権利の問題として捉える教育が必要
・死刑制度の問題から気づくことは、日本人は人権というものに対する教育に失敗していると思うことである。
・『僕自身が小学校で受けた人権教育を思い返してみても、結局のところ、人権というのがよくわからないままだった気がします。小学校の教育の中で多かったのは一種の感情教育で、人がそういう時にはどんな「気持ち」になっているかを考えてみましょうとか「自分が嫌なことを相手にもしてはいけません」という心情教育に偏っていました。他者に対する共感の大事さを説くばかりで、人権という、権利の問題としてきちんと教育されてこなかった気がします。実際、講演[地方自治体の人権週間での講演]の時の作文[小・中学生の作文]も、「相手の気持ちを考えず、嫌な気持ちにさせてすごく悪かった」という結論に至っているものがほとんどでした。この感覚が大人になるまでずっと続いてるので、不祥事で政治家や企業の社長が謝罪する時にも、その理由は「不快な気持ちにさせてしまったこと」です。』
・共感能力が重要であることは間違いないが、人権という権利の問題を考える時に、共感ということが前面に出すぎるのは望ましくない。
・かわいそうかどうかは主観的な感情である。一方、権利とはある前提の中では不変なものだと思う。それ故、主観的な感情とは距離をとり、客観的に向き合う必要があると思う。
・『例えばNHKの番組で、格差社会の中の「相対的貧困」といわれるような状態の人たちの特集があって、そこに登場した女の子の部屋の棚に漫画が並んでいた。そうすると、「貧困っていっているけど、漫画を読んでいるなんてぜいたくだ」「世の中にはもっと大変でかわいそうな人がいる」と、主観的な話になってバッシングが起きる。結果、こんな人たちは別に救う必要がないとか、特集する必要はないといった否定的意見が出てきます。
これは生活保護バッシングにも似ています。「生活保護とかいいながらパチンコしているじゃないか」と。「同情に値しない。かわいそうじゃない」「自己責任だから、そういう人たちを救う必要はない」という論調が日本社会の一部に強くあります。これもやはり、人権の問題としてその人たちの生存を考えているのではなく、かわいそうかどうかという共感の次元で捉えてしまっているがゆえに起こっていることです。』
●「負け組」に対する積極的な否定論
・「勝ち組」、「負け組」は当初、株式投資に関し企業を判断するものとして出てきた。その後、新自由主義的の風潮の中でいつの間にか人間についてもいわれるようになった。そして、負け組の人たちは努力が足りない怠け者だというような論調が社会の中で語られるようになった。
●すべての人の基本的人権を尊重するという大前提
・『人権というのは、一人ひとりの人間が生まれながらにその生命を尊重されて、それは誰からも侵されないという権利で、ヨーロッパの思想史の流れの中で考えられたものです。人類の歴史の流れによっては、人間は生まれながらに差別されるのは当然で、一部の人だけが富めばいいという社会がずっと続くこともありえたと思います。しかし、そうはならず、すべての人間が基本的な人権を備えていて、それは絶対尊重しなければいけないという思想に基づいて憲法をつくり、国家を成立させ、そして、国家権力はそれを侵してはいけないという仕組みをつくり上げていった。近代以降のその流れは、僕は基本的に正しかったと思っています。その思想を受け継いでいることを幸福と感じます。
人間には生まれながらにして権利があるという話は、フィクションといえばフィクションですけど、それをたくましい努力で守り抜こうとする思想は、偉大です。
実際には内戦が続いている地域など、基本的人権という考え方が通じなくて、国家が溶解したような状態で、ひたすら弱者が暴力の被害に遭っているという現実もあります。本当にそういう社会でいいのかと考えた時に、僕はやはり一人ひとりの人間は絶対に殺されてはいけないし、国家の主権者として生存権や社会権が守られているという大前提を崩すべきでないと考えています。
ですから、学校でいじめが起きている時に、かわいそうなことをしているからやめましょうと諭すことも大事ですが、まず、いじめるということは相手の教育を受ける権利を侵害していることだから、やってはいけないことだ、と教えなくてはならない。人を殺すというのは、その人が生まれながらにして持っている、誰からも生命を侵害されることがないという権利を奪うことだからやってはいけないことだと教えなくてはならない。
心情的な教育というのをやりながら、一方で、すべての人は、社会の役に立とうが立つまいが、そんなことは関係なくて、生まれてきたからには、自分の命は誰からも侵害されない権利がある、という原則を子どもたちに教えることが非常に重要です。
その上で、僕も自己反省的に、そもそも、どうして自分は子どもの頃、人を殺した人は死刑になっても当然だと思っていたのだろうかということを考えてみました。一つには、漫画やアニメ、テレビの時代劇などで悪者を成敗する勧善懲悪のストーリーが戦後ずっと続いていて、その刷り込みがかなり強いのではないかと思います。漫画や小説などフィクションが与える影響というのは馬鹿にできません。』
●自死して償うという日本的発想
・日本では自死(自殺)は個人として追い詰められた結果ということではなく、一種の社会的な償いとして死ぬべきであるという考えが強くある。社会に命を差し出すことが償いになるという考え方自体を問い直す必要がある。
●社会の分断と対立の始まり
・『ノーベル経済学賞を受賞した経済学者で思想家でもあるインド出身のアマルティア・センが「アイデンティティーと暴力」という本を書いています。その中で彼は、なぜインドで深刻な宗教対立や民族対立が起きるのかということに関して、個人を一つのアイデンティティーに縛りつけてしまうことがすべての社会的な分断、対立の始まりだと分析しています。
社会を分断させたい人、あるいは対立させたい人にとっては、個人が単一のアイデンティティーに収まっていることが何よりも重要なんだと言うんですね。あの人はキリスト教徒、あの人はイスラム教徒というふうに単一のアイデンティティーにくくりつけてしまう。あるいは、あの人は死刑存置派、あの人は死刑反対派というふうに。そこから際限のない対立が始まってしまうわけです。
センは、さらにこう続けます。実際には、人間というのは非常に複雑な要素の集合体である、と。
ある人はプロテスタントであり、同時に二児の父親で、野球はヤンキースを応援していて、音楽はジャズが好きというふうに、一人の人間は複雑な属性を備えている。そうすると、死刑制度を支持するかどうかというような一つのトピックスに関しては対立する部分があるけど、音楽の話をすると、「俺もあのバンド好きなんだよ」と共感する部分があったり、「実は北九州出身で、俺もあの先生に習ったんだ」と、複数の属性を照合し合わせると、どこかにコミュニケーションの可能性を見出しうる。
センは、そこに対話の糸口があり、そこを通じてコミュニケーションを図り続けることによって、一つの対立点で社会が分断されそうな時にも、別のところで人間同士のつながりが可能になるということを言っています。
これは非常に重要なことです。僕たちは単一のアイデンティティーや、単一のカテゴリーに自分が押し込められることに非常に不自由を感じます。実際には自分にはもっと多様な面がある。犯罪の被害に遭われた方のことも、「犯罪被害者」というふうにカテゴリーとしてつい語ってしまいますが、その人の中にも、一方で会社員であったり、昔の友達とわいわいい楽しく過ごす時間もあったりというふうに、複雑な顔があるわけです。』
●対立点からではなく、接点からコミュニケーションを始める
・人間は複雑な属性を備えているというアマルティア・センの指摘について、平野先生は「分人」ということばで個人や社会の多様性を重視すべきであると説いている。
・人間にはコミュニケーションの中で混ざり合っていく他者性があり、他者に対する柔軟なコミュニケーションを重ねることにより、自分の中にいくつかの人格がパターンのようにしてできていく。これを個人という概念に対して、「分人」と呼んでいる。
●分人の集合として自分を捉える
・自分という存在を唯一つの存在とするのではなく、分人という自分の中の多様性によって、好きな自分、嫌いな自分、楽しい自分、辛い自分などいろいろな面があり、相対化して分人として自分を眺めることができれば、自殺の衝動を抑制することもできる。
●人生の経過とともに分人の構成は変わっていく
・分人の構成は他人や社会から強いられるものではなく、バランスを取るように自分がコントロールすべきものである。ただし、これは容易なものではなく、社会や政治といった自分の外側に目を向けることも大事である。
●愛する人を喪失した人へ
・『僕たちは自分が愛している人との分人を生きたいわけですけど、その相手を失うことによって、それができなくなってしまう。その辛さが愛する人を亡くした時の大きな喪失感ではないでしょうか。
だけど、生きている人たちとの関係の中で新しい分人をつくってみたり、今まで仲がよかった人との分人の比率が大きくなっていくことで、その後の人生を続けていくことができるはずだと思います。
そういう意味で、最初の話に戻りますけど、辛い状況にある当事者の人に対して、自分はどう接したらいいかわからないと立ち止まるのではなく、その人に辛い分人だけを生きさせないために、新たな分人をつくることができるような関与をすることが大事ではないでしょうか。』
感想
長いコロナ禍、テレビの刑事モノを観る機会が増えたのですが、時々出てくる刑事のセリフ、「罪を憎んで人を憎まず」。これは死刑制度、人権、自死(自殺)に紐づく重要なキーワードになるのではないかと思いました。もちろん、簡単な話ではないと思いますが。。
日本人の約8割は死刑容認とのことです。私も平野先生のお考えを勉強させていただく前は、そもそも深く考えたこともなかったのですが、死刑容認派で間違いないと思います。
自分なりに何故、容認派なのか考えてみると、先生が指摘された漫画やアニメの“勧善懲悪”の影響は確かに大きいと思います。また、“切腹”や“敵討ち・仇討ち”なども、物語の中では多くは美化されており、嫌悪感はほとんど持ちません。拷問のように痛みを実感できる体罰(身体罰)は受け入れられないのに、拷問よりも残酷な死刑という命を奪ってしまう身体罰は、一瞬のことだからなのか、なぜか寛容です。
また、島国、村社会である日本は“村八分”や“出る杭は打たれる”など、昔から村民に同質性を求める傾向が強いと思います。しかしながらこれは生きていくための知恵でもあり、日本人の慣習、文化になっているように感じます。注意すべきは同質性を重んじることは、多様性に対しては懐疑的になりやすいのではないかという側面です。
脳の機能で考えると、本能や感情に関わるのは“古い脳”といわれる大脳辺縁系などです。一方、理性に関わるのは“新しい脳”の大脳皮質です。犯罪は怒りや悲しみが先行するものなので、まずは“古い脳”が活性化すると思います。特に怒りなどの先には、法による罰が存在し、“怒り”に対して“罰”という結果がすぐに結びつきます。それに対して、“悲しみ“あるいは“犯罪被害者支援”に関しては、法による罰に相当するような明快な解決策がないこともあり、あぶり出された”理性”が落しどころを捜すうちに迷子になってしまうのではないか。この点も“新しい脳”の活性化を難しくさせているように思います。
下の絵で考えれば、犯罪は“脳の命令の力関係”からも圧倒的に古い脳(情動脳)を活性化させやすい状況だと思います。
この記事では次のように古い脳と新しい脳を比較されています(一部追加)。
古い脳
・爬虫類能(反射能)
・構造:脳幹・大脳基底核・脊髄
・機能:心拍・呼吸・摂食・飲水・体温調節・性行動⇒「生きたい」
・哺乳類能(情動脳)
・構造:大脳辺縁系(扁桃体・海馬体・海馬傍回・帯状回・側坐核)
・機能:喜び・愛情・怒り・恐怖・嫌悪などの情動⇒「仲間意識(関わりたい)」
新しい脳
・人間能(理性脳)
・構造:大脳皮質(右脳・左脳)
・機能:知能・記憶・言語・創造・倫理・繊細な運動など⇒「目的意識(成長したい)」
新しい脳(理性脳)を活性化させることは、犯罪を減らす一つの答えになると思います。繰り返しになりますが、具体的には”犯罪被害者の悲しみ”に対して明快な解決策を用意し、犯罪者に対する法的罰則と同様に、犯罪被害者に対する被害者支援の道が用意され、被害者の方を思う一人ひとりの”理性”を迷子にさせないことです。
国民の意識が「罪を憎んで人を憎まず」に向かえば、多様性に対しての理解も進み、さらに国民的コンセンサスとしての高まりとなれば、死刑制度の意識も変わるかもしれません。そして、治安や暮らしやすさの改善にもつながると思います。( ただ、もし自分の家族が殺されたとして、「罪を憎んで人を憎まず」という気持ちに本当になれますか? と問われれば、やっぱり自信はありません)
罪はすべての人が“善”と“悪”を内在していると思うので、なくなることはないと思いますが、新しい脳である理性を活性化できるようになれば、犯罪だけでなく自死も減るのではないかと思います。そして、間接的であっても、”貧困と格差の是正”につなげられれば、さらに犯罪も自死も減るものと思います。
ご参考1
「”罪を憎んで人を憎まず”とは誰の言葉なのだろう?」と思い調べたところ、なんと”孔子”でした。実は2ヵ月程前に、”論語と仁”というブログをアップしていましたのでリンクさせて頂きます。
ご参考2
犯罪被害者のアンケート調査のような資料がないものかネットで探したところ、2007年と新しくはないのですが、社団法人の被害者支援都民センターによる調査資料がありました。
以下の資料名をクリック頂くと、PDF70枚の資料がダウンロードされます。
この棒グラフは左上の”被害後に悩まされた問題”の中から”殺人・傷害致死 38人”だけを抜き出したものです。
また、上記右上のグラフは”事件直後の必要な支援”に関するものです。
こちらは”二次的被害を受けた相手”のグラフです。
上記の”被害後に悩まされた問題”と合わせて考えると、犯罪被害者の方は、多くのストレスに直面していることが分かります。特に、”民事裁判に勝訴したが、実際には賠償金を支払われていない”という人が36.8%もおり、精神的ストレス、手続きの煩わしさ、時間の拘束に加え、金銭的も厳しいということが分かります。
2007年から15年たった今でも同様であるとすれば、犯罪被害者への支援は喫緊の大きな課題といえます。
仕事ではないのですが、「プロジェクト計画書」を作ることになりました。25年も営業をしてきたので、“営業プラン”や“新規開拓プラン”に類するものは度々作ってはいたのですが、今回は不慣れなテーマに加え広い視点が求められると思い、また、やり直しは最小限度に抑えたいため、作成する前に少し準備することにしました。
購入した本は石井真人先生の『知りたいことがパッとわかる 事業計画書のつくり方がわかる本』です。作るべきは「プロジェクト計画書」なので、本書の中から必要と思う箇所を重点的に勉強させて頂きました。
ブログはかなりアレンジしたものになっているため、本書の概要をお伝えすることはできておりません。そのため、最初に「はじめに」の一部をご紹介させて頂きます。
著者:石井真人
出版:ソーテック社
初版発行:2010年9月
第1章 伝わる事業計画書の作り方
第2章 事業計画書を作成する前にすること
第3章 ビジネスプラン作成の流れとポイント
第4章 ビジネスプランつくり込みのテクニック
第5章 事業推進フローチャートのつくり方
第6章 損益計算書作成のテクニック
第7章 資金繰り計算書作成のテクニック
第8章 数値情報のポイントまとめるテクニック
第9章 伝わるビジネスプランのポイント解説
はじめに
『「新規事業のアイデアを思いついた瞬間から、事業戦略を考え抜くまでの思考プロセス、さらにその事業戦略を“伝わる事業計画書”に仕上げるまでの作成手順を1から伝えたい」というコンセプトを持って、執筆しました。』
『本書では架空の事業を1つつくり上げ、思考プロセスから事業計画書の完成まで、すべてサンプルをご用意させていただきました。また思考プロセスの流れに沿って、1ページ目から読み進んでいただけるように構成しています。』
『事業計画書は立案者視点で作成するのではなく、詠んでもらう第三者に“伝わる”ように作成しなければ意味はありません。本書では新規事業計画書をテーマにしており、新規事業の素晴らしさを第三者に伝えるための実務ノウハウをサンプルの中に散りばめて解説しております。中長期事業計画書など新規事業以外でも“第三者に伝える”実務ノウハウがそのまま活用していただけるように、イメージ図の使い方や文章の書き方など、作業レベルのテクニックまで網羅しました。』
1.伝わるプロジェクト計画書の作り方
●プロジェクト計画書が与えてくれるメリット
・資金調達において事業計画書が求められる
・立案者の“思い”は文書化しなければ伝わらない
●プロジェクト計画書を構成する具体的な書類
①プロジェクトプラン
「なぜ、いつ、誰が、どこで、誰のために、何を」を客観的な根拠に基づいて解説する書類。事業計画全体のストーリーを作る。
②プロジェクト推進フローチャート
プロジェクト計画のストーリーおよび行動計画を図式化した資料。期日、担当者を明確にする。
③数値シミュレーション
資金繰り計算表
2.プロジェクト計画書を作成する前にすること
●何をプロジェクト化したいのか?「6W1H」で情報整理をする
・Who、Why、What、Where、Whom、When、How
●プロジェクトコンセプトを文書化し全体像をイメージできるようにする
3.プロジェクトプラン作成の流れとポイント
●各構成要素の計画内容を文書化するルール
・各構成要素を「6W1H」で説明する
・チェック表を活用して「知りたいポイント」の欠如を防ぐ
・キーワードは言い回しを統一して繰り返す
●ストーリーの流れを意識するルール
・シンプルに論理的な説明をする
・構成要素と構成要素のつなぎをオーバーラップさせる
・キーワード以外の説明は重複しない
●各構成要素で伝えたいポイントを1つにまとめる
・理解しやすい必要最低限の情報がポイント
-膨大な情報をすべて理解してもらうことは不可能
-特にお金に関わる数値は最も重要
●グラフ・イメージ図などを加えたドラフト版の作成
・構成要素と説明文章を基にページ構成をつくりあげる
・構成要素がページタイトルになる
・プロジェクトプランは枠組みを決めてから着手する
4.プロジェクトプランつくり込みのテクニック
●「表紙」作成テクニック
・作成日、作成者、更新情報(revision)を書く
●「目次」作成テクニック
・目次の項目とページタイトルは必ず一致させる
・ページ番号は最後の仕上げ作業として行う
●「ビジョン」作成テクニック
・できるかぎり目標設定を数値化する
・将来の「ありたい姿」を掲げる
●「予算化戦略」作成のテクニック
・予算獲得に大きく影響するチャネルの各戦略を描く
・獲得率を算出する
・広告等のコストを明確にする
●「情報戦略」作成のテクニック
・情報の整理整頓と維持管理(個人情報保護とセキュリティー)
●「プロジェクトスケジュール」作成のテクニック
・準備項目を時系列で明らかにする
・コスト発生の時期を明確にする
5.プロジェクト推進フローチャートのつくり方
●プロジェクト推進フローチャートの役割
・「実行できるのか」を判断するキーポイント
・コストの発生時期が見える
●プロジェクト推進フローチャート作成前に知っておきたいこと
・可能な限り、各分野の経験者から意見を聞いて参考にする
・項目の棚卸⇒作業期間決定⇒担当者決定の順番で作成する
・役割と要員に問題がないか確認する
6.損益計算書作成のテクニック
●収支シミュレーション作成の流れ
・収入と支出を可能な限り洗い出す
・数値情報の根拠を明確にする
●告知にかかる費用を明確にする
・「何を・いくらで・実施するのか」を情報整理する
・獲得目標数に見合う効果の検討
・スケジュールとの整合性
●体制のつくり方
・各役割を明確にする
●経費項目を棚卸する
7.資金繰り計算書作成のテクニック
●資金繰り計算表とは
・収入と支出から必要とする資金の不足を正確に把握できる
8.数値情報のポイントまとめるテクニック
9.伝わるプロジェクトプランのポイント解説
●サンプル(『オーガニック化粧品の製造販売事業』)
・本書内では計32枚のスライドが紹介されています。
ブログ“源氏物語と紫式部1”は、山本淳子先生の『平安人の心で「源氏物語」を読む』を題材にしているのですが、その山本先生は紫式部が『源氏物語』という大輪の花を咲かせたのは、自分なりの根を降ろしたからこそである。との見識をお持ちです。
この見識は『置かれた場所で咲きなさい』という渡辺和子先生の名著に遺された、「咲けない日があります。その時は、根を下へ下へと降ろしましょう」という教えが、まさに紫式部の生き方に重なるということからきています。
また、渡辺先生は軍人だった父を、二・二六事件の青年将校たちによって目の前で射殺されるという悲惨な衝撃的な体験をされており、そのことも渡辺先生の『置かれた場所で咲きなさい』を読みたいと思った理由です。
ブログはもくじの黒字部分ですが、一つは“変らない現実”、もう一つは“希望”に関するものといえます。
もくじ
はじめに
第1章 自分自身に語りかける
・人はどんな場所でも幸せを見つけることができる
・一生懸命はよいことだが、休憩も必要
・人は一人だけでは生きてゆけない
・つらい日々も、笑える日につながっている
・神は力に余る試練を与えない
・不平をいう前に自分から動く
・清く、優しく生きるには
・自分の良心の声に耳を傾ける
・ほほえみを絶やさないために
第2章 明日に向かって生きる
・人に恥じない生き方は心を輝かせる
・親の価値観が子どもの価値観を作る
・母の背中を手本に生きる
・一人格として生きるために
・「いい出会い」を育てていこう
・ほほえみが相手の心を癒す
・心に風を通してよどんだ空気を入れ替える
・心に届く愛の言葉
・順風満帆な人生などない
・生き急ぐよりも心にゆとりを
・内部に潜む可能性を信じる
・理想の自分に近づくために
・つらい夜でも朝は必ず来る
・愛する人のためにいのちの意味を見つける
・神は信じる者を拒まない
第3章 美しく老いる
・いぶし銀の輝きを得る
・歳を重ねてこそ学べること
・これまでの恵みに感謝する
・ふがいない自分と仲よく生きていく
・一筋の光を探しながら歩む
・老いをチャンスにする
・道は必ず開ける
・老いは神さまからの贈り物
第4章 愛するということ
・あなたは大切な人
・九年間に一生分の愛を注いでくれた父
・私を支える母の教え
・2%の余地
・愛は近きより
・祈りの言葉を花束にして
・愛情は言葉となってほとばしる
・「小さな死」を神に捧げる
第1章 自分自身に語りかける
神は力に余る試練を与えない
『心の悩みを軽くする術があるのなら、私が教えてほしいくらいです。人が生きていくということは、さまざまな悩みを抱えるということ。悩みのない人生などあり得ないし、思うがままにならないのは当たり前のことです。もっといえば、悩むからlこそ人間でいられる。それが大前提であることを知っておいてください。
ただし悩みの中には、変えられないものと変えられるものがあります。例えばわが子が障がいを持って生まれてきた。他の子どもができることも、自分の子はできない。「どうしてこの子だけが……」と思う。それは親としては胸を搔きむしられるほどのせつなさでしょう。しかし、いくら悲しんだところで、わが子の障がいがなくなるわけではない。その深い悩みは消えることはありません。この現実は変えることはできない。それでも、子どもに対する向き合い方は変えられます。
生まれてきたわが子を厄介者と思い、日々を悩みと苦しみの中で生きるか。それとも、「この子は私だったら育てられると思って、神がお預けになったのだ」と思えるか。そのとらえ方次第で、人生は大きく変わっていくでしょう。
もちろん、「受け入れる」ということは大変なことです。そこに行き着くまでには大きな葛藤があるでしょう。しかし、変えられないことをいつまでも悩んでいても仕方がありません。前に進むためには、目の前にある現実をしっかりと受け入れ、ではどうするかということに思いを馳せること。悩みを受け入れながら歩いていく。そこにこそ人間としての生き方があるのです。
今あなたが抱えているたくさんの悩み。それを一度整理してみてください。変えられない現実はどうしようもない。無理に変えようとすれば、心は疲れ果ててしまう。ならば、その悩みに対する心の持ちようを変えてみること。そうすることでたとえ悩みは消えなくとも、きっと生きる勇気が芽生えるはずですから。』
第2章 明日に向かって生きる
つらい夜でも朝は必ず来る
『希望には人をいかす力も、人を殺す力もあるということをヴィクター・フランクルが、その著書の中に書いています。
フランクルはオーストリアの精神科医でしたが、第二次世界大戦中、ユダヤ人であったためナチスに捕えられて、アウシュビッツやダハウの収容所に送られた後、九死に一生を得て終戦を迎えた人でした。
彼の収容所体験を記した本の中に、次のような実話があります。収容所の中には、1944年のクリスマスまでには、自分たちは自由になれると期待していた人たちがいました。ところがクリスマスになっても戦争は終わらなかったのです。そしてクリスマス後、彼らの多数は死にました。
それが根拠のない希望であったとしても、希望と呼ぶものがある間は、それがその人たちの生きる力、その人たちを生かす力になっていたのです。希望の喪失は、そのまま生きる力の喪失でもありました。
二人だけが生き残りました。この二人は、クリスマスと限定せず、いつか、きっと自由になる日が来る」という永続的な希望を持ち、その時には、一人は自分がやり残してきた仕事を完成させること、もう一人は外国にいて彼を必要としている娘とともに暮らすことを考えていたのです。
事実、戦争はクリスマスの数ヶ月後に終わったのですが、その時まで生き延びた人たちは、必ずしも体が頑健だったわけではなく、希望を最後まで捨てなかった人たちだったと、フランクルは書いています。
希望には叶うものと叶わないものがあるでしょう。大切なのは希望を持ち続けること、そして「みこころのままに、なし給え」と、謙虚にその希望を委ねることではないでしょうか。』
感想
失望、悲しみの真っただ中にいて、苦しみもがいている自分を外から眺め、外側に広がっている世界の中に何かの希望を見つけること、そして、その希望に向かって進んでいくことが、苦しみからの出口なのだろうと思いました。
第二章 光源氏の晩年
(四十)三十八帖「鈴虫」 出家を選んだ女たち
・『「出家とは、生きながら死ぬということ」。自ら出家の道を選ばれた、瀬戸内寂聴尼の言葉である。ご自身の体験を踏まえてこその一言であるに違いないが、この言葉は、こと平安時代の貴族女性においても、ほとんどそのまま真実と言ってよい。』
・『貴族社会では、尼となれば恋人や夫との関係を断ち、世俗の楽しみを捨てて、厳しい仏道修行に励まなくてはならなかった。それでも彼女たちは、それぞれに心の救済を求めて、出家の道を選んだのである。動機は、大きく三つに分けられよう。何らかのできごとをきっかけに、生きる意欲をなくして出家するタイプ。また家族など大切な人を喪って出家するタイプ。そして最後に、病を得たり年老いたりして、死を身近なものと感じ出家するタイプである。』
・「源氏物語」の女君の出家の多くは最初のタイプである。光源氏から逃れるために出家した“藤壺”、継息子に言い寄られて世に嫌気がさした“空蝉”。柏木に犯されて出産し「もう死にたい」と出家した“女三の宮”、自殺未遂の果てに出家した“浮舟”もそうである。
・史実では例えば、一条天皇(980-1011)の中宮定子[ていし]がいる。天皇との幸せな日々を過ごしていたが、父の関白・藤原道隆が亡くなり、追い打ちをかけるように翌年、兄と弟が「長徳の政変」から流罪を受けた。定子は家が受けた辱めに耐えられず、絶望の中で出家した。その心は、半ば自殺に等しいものではないか。このことは当初、同情を以て貴族社会に受け止められた。だが一年後に、定子を諦められない一条天皇によって彼女が復縁させられると、「尼なのに」「還俗か」と批判を受けた。
・『仏教では、俗界は汚辱と苦に満ちていると考える。生まれ変わってもまた、それは同じだ。来世を少しでもよいものにするには、現世で功徳を積むしかない。そして仏の救いを得、極楽浄土への往生を果たすことが、最後の幸福だ。当時の仏道の基本はこうした考えだったと言ってよい。貴族たちも、華やかな日々の暮らしの奥底にこうした世界観を持っていた。そして何か事があれば、俗世界を脱して仏道専心の清らかな世界、つまり来世や浄土のことだけを思う出家生活に入ることを願った。出家とはその意味で、世俗の生から死への緩衝地帯といえる。だからこそ、女に若い身空で出家されることは、夫や家族にとってつらく、また忌まわしいことでもあったのだ。』
(四十三)四十帖「御法」 死者の魂を呼び戻す呪術~平安の葬儀
・『今の昔も葬法の儀礼は、死者のためのものであると同時に、遺された人のためのものでもある。儀式を一つ一つ行うことで、大切な人を喪ったことを受け入れ、きちんと悲しむ。心理学ではこれを「喪の仕事」という。それができない時、人はもがき苦しむ。』
(四十四)四十一帖「幻」 『源氏物語』を書き継いだ人たち
・紫式部が書いた「源氏物語」が、今我々が目にしているものと同じかどうかは分からない。式部自身が書いた本が伝わっていないので確認のしようがないからである。
・大長編の「源氏物語」は一気に発表されたのではなく、最初はばらばらに世に出た。
・「源氏物語」が現在のように整った形で伝えられるようになるには、幾人もの中興の祖がおり、その筆頭が藤原定家[ていか]だったと思われる。
・紫式部の時代から二百年を経ずして、「源氏物語」は注釈が必要なほど読みにくくなっていた。その理由はいくつかある。一つには草稿の流出である。このため下書きと完成原稿の両方が出回ってしまった。第二は誤写である。江戸時代以前、本は書き写して伝えられたため誤写は避けられなかった。そして第三は書写の際の勝手な書き換えや創作である。和歌と違って作者が尊重されていなかった物語は、書き換え御免と考えられていた節さえある。
・藤原定家は歌道に精進するとともに、平安時代の歌集や物語を集め自ら写した。「源氏物語」を写したのは嘉禄元(1225)年で、定家は六十四歳になっていた。定家の「源氏物語」は表紙の色から「青表紙本」と呼ばれた。また、定家と同じころ源光行と親行父子による「河内本」と呼ばれる優れた写本もあった。二つの本はそれぞれ尊重され、さらに写し継がれて時代を超えた。その数は計り知れずこの物語の命をつないだ。
第三章 光源氏の没後
(四十五)四十二帖「匂兵部卿」 血と汗と涙の『源氏物語』
・今読んでいる「源氏物語」は池田亀鑑(1896-1956)によるものである。「青表紙本」と「河内本」もその後の時の流れの中で転写を繰り返すうち、誤写だけでなく戦乱や災害で傷つけられる運命を免れなかった。また写本によっては、「青表紙本」と「河内本」が混ざって写されることもあった。そうしたなかで、もう一度「源氏物語」の本文を見直そうとしたのが、池田亀鑑であった。
・池田亀鑑は東京帝大文学部に就職して「源氏物語」関連プロジェクトを任され、全国の旧家や寺などを訪ね回り、古書など約三万冊を集めた。こうして七年、彼はようやく「校本」の原稿を完成させた。なお、それは「河内本」系統に属するものだった。ところが発表前、佐渡の旧家から「お宝」が現れた。
「源氏物語」の「浮舟」を除く五十三帖揃い。売り手の希望価格の1万円は当時にしては一軒家が買える巨額なものであった。亀鑑は蔵書家で知られた大島雅太郎に購入してもらい、それを亀鑑がそれを借り受ける形で亀鑑は解読し始める。そして、その本が現存する四帖分の定家自筆本と九帖分のその模写本に次いで古い「青表紙本」の写本であることに気づく。奥書には文明十三(1482)年の書写とあり、しかも書道の名家、飛鳥井雅康の自筆だった。
亀鑑は七年かけた「校本」の原稿をなげうった。書き換えに要した月日はさらに十年。ついに「校本」の刊行にこぎつけたのは、第二次世界大戦下の昭和十七年であった。
その後、大島本の所蔵は京都文化博物館に移り、活発な研究が続いている。
第四章 宇治十帖
(六十)五十四帖「夢浮橋」 紫式部の気づき
最後の五十四帖の解説は、この本の中で最も印象に残りました。
・『修道女の渡辺和子さんに「置かれた場所で咲きなさい」という名著がある。「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです」「咲けない日があります。その時は、根を下へ下へと降ろしましょう」。文中の慈愛に満ちたこの言葉に、私は紫式部に通じるものを感じてならない。渡辺さんは、軍人だった父を二・二六事件の青年将校たちによって目の前で射殺された体験を持つ。紫式部の人生も、悲嘆や逆境の連続だった。だが紫式部も、置かれたその場その場に自分なりの根を降ろしている。「源氏物語」という大輪の花さえも咲かせている。
「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に、雲隠れにし夜半の月かな」。紫式部の私家集「紫式部集」の冒頭歌だ。小倉百人一首でご存じの方も多いだろう。紫式部自身が記す詞書によれば、これは幼馴染に詠んだ和歌だった。長く別れ別れになっていて、年を経てばったり再会。だが彼女は月と競うように家に帰ってしまった。「思いがけない巡り合い。「あなたね?」、そう見分けるだけの暇もなく、あなたは消えてしまったね。それはまるで、雲に隠れる月のように」。楽しい友情の一場面のようだが、そうではない。この友はやがて筑紫に下り、その地で死んだ。天空で輝いていた月が突然雲に隠されて姿を消すように、二度と会えない人となったのだ。
紫式部が人生の最晩年に自伝ともいうべき家集を編んだ時、巻頭にこの和歌を置いたのは、ほかでもない、こうした「会者定離[会う者は必ず離れる定めにあるということ]」こそ自分の人生だと感じていたからだ。紫式部は、おそらく幼い頃に母を亡くしている。姉がいたが、この姉も紫式部の思春期になくなった。そんな頃出会ったのが、先の友人である。偶然にも彼女の方は妹を亡くしており、二人は互いに「亡きが代はりに(喪った人の身代わりに)」慕い合った。「源氏物語」に幾度も現れる「身代わり」というテーマ。紫式部にとって幼馴染を喪ったとは、母と姉と友自身の、三人分を喪ったことでもあったのだ。
それでも折れなかった心が、夫を喪った時、とうとう折れた。本来、人に身代わりなどないのだ。哀しみを慰める術の限界を突きつけられて、紫式部は泣くしかない。この時の心境は、紫の上を喪った光源氏と大君を喪った薫各々の述懐に活かされていよう。自分に無常を思い知らせようとする仏の計らいだ、つまり降参するしかないと、彼らは言うのだ。光源氏はそれを機会に出家する。薫は魂の彷徨を続ける。では紫式部はどうしたか。人生を見つめ、そして目覚めたのである。
人とは何か。それは、時代や運命や世間という「世(現実)」に縛られた「身」である。身は決して心のままにならない。まずそれを、紫式部はつくづく思った。だが次には、心はやがて身の置かれた状況に従うものだと知る。胸の張り裂けるような嘆きが、いつしか収まったことに気づいたのだ。「数ならぬ心に身をば任せねど 身にしたがうは心なりけり(ちっぽけな私、思い通りになる身のはずがないけれど、現実に慣れ従うのが心というものなのだ)」(「紫式部集」五十五番)。紫式部は「置かれた場所」で生き直し始めたといえよう。
だが紫式部は、現実にひれ伏すだけではなかった。彼女は心というものの力にも気づいたのだ。「心だにいかなる身にか適ふらむ 思ひ知れども思ひ知られず(現実に従うという心だが、それさえどんな現実に収まるものだというのか。心は現実を思い知っている。でも思い知りきれず、はみ出すのだ)(同五十六番)。そう、心は何にも縛られない。易々と現実から抜け出て、死んだ人とも会話し、未来を夢想する。架空の世界まで創りだす。時空を超えて、それが心というものの普通だ。紫式部はこの「心」という世界に腰を据え、人というものに考えを致し続けた。彼女にとって、「置かれた場所」で「下へ下へと根を降ろす」とはこのことだった。「源氏物語」はその結実であったと、私は思う。
無駄に漢学の才のある娘だと、父親に嘆かれたこと。新婚わずか三年で、娘を抱え寡婦となったこと。「源氏物語」を書けば書いたで、意に沿わぬまま中宮彰子の女房にスカウトされ、同僚からは高慢な才女と誤解されていじめにあったこと。「人生は憂いばかり」と、紫式部はため息をつく。だがそれぞれの場で、彼女は考えることを手放さず生きた。果たして、漢学は彰子に請われて進講するに至り、娘は母の背を見て成長し、同僚たちの信頼も勝ち得て、紫式部は彰子後宮に欠かせない女房となった。「心」という根が、ぶれることなく彼女を支えたのだと私は思う。
「源氏物語」の最終場面。浮舟も薫も揺れ動く心を抱えて、いったいどうなってしまうのだろう。紫式部は答えを用意している。それは、どうなろうと「それでも、生きてゆく」ということだ。「紫式部集」の最終歌が、紫式部の至った最後の境地を私たちに教えてくれる。「いづくとも身をやる方の知られねば 憂しと見つつも永らふるかな(憂さの晴れる世界など、どことも知れませんからね。この世は憂い。そう思いながら、私は随分長く生きて来ましたし、これからも生きてゆきますよ)」(百十四番)
この和歌に励まされつつ、私たちもそれぞれに置かれた場所で咲こうではないか。』
ご参考:『源氏物語講義』
こちらの本は昭和9年(1934年)発行の非常に古い本なのですが、とても貴重と思えるページがありました。著者の下田歌子先生は日本の女子教育の先駆者で、源氏物語をはじめとする古典研究や歌人としても名高く、一部では“明治時代の紫式部”とも呼ばれていたようです。
※実践女子大学・短期大学さまのサイトに”下田歌子年表”がありました。
本の右横に書き出した文章は、下田先生による紫式部と源氏物語を分析したもので、非常に興味深い内容です。見出しに続き、要約してご紹介させて頂きます。
紫式部は古今に卓絶せる女性
『要するに、自分が紫式部なる人の幻影の眼底に浮ぶ儘に、夢裡の虚言的であろうが、今少し記して見よう。』
●蒲柳[ホリュウ]の質(生まれつき体が弱く病気にかかりやすい体質)の方だったらしい。
●容貌も普通で、多少良いぐらいの所であったようだが、頗る[スコブ]謙遜な態度であったらしい。
●常に鋭い理智の光芒(一筋の光)を内に隠すも、時にその閃光が仄めく様な場合もあっただろう。
●定めて品がよく、甘味[ウマミ:面白さ]が含まれて居て、その内部には存外強き意志が根を張って居り、だいぶ佛教より受けた厭世的悲哀的の心持もあるが、さりとて陰鬱などと云う程ではなくて、所謂「物のあはれ」を泌々と身にしめて、自然の妙趣を深く味いつつ、随時、心を雲外玄門(雲の上の仏門)に遣やりて、現世目前の煩わしきを排除していた事であろうと想像する。
●物堅き学者の家に生まれ、相当に学問あり、且つ、見識あるところの藤原宣孝に嫁いだが、早く寡居[カキョ:未亡人]して克[ヨ]く二人の遺児を養育した。
●特に稀有の天才に恵まれたる上に、能く学問芸術を履修し、実学の研究を重ねて、遂に源氏物語と云う未曾有の一大名著を産出した。
源氏物語の全貌、平安朝の絵巻物
●全体に就いて略評すれば、この物語の目的が、著者の那邊[シャヘン:どの辺]にあったかは、今更確かめるよしもないが、著者は恐らくは既成の物語本などを読んで、徒然の慰めがてら自分も面白い物語を書いて見たい、自分が書いたら、恐らくは是よりは今少し立ち勝った情趣のあるものが出来るであろうと自信して、筆を執り始めたものであろうと思われる。
●式部が現在目に見る事、過去に聞き置いた事などを描写して組み立て、それに自己の理想を加えて記述したのであろう。高尚なる理想に実際的世間の事柄を以て肉づけ、且つ温かい血を通わせて、平安朝の舞台に活動させたのである。
●この物語は五十余帖の浩瀚[コウカン:書物の量が多いこと]なものを一貫して、先ず不確実な所も不自然な所も無く、見る者をして全く春花秋葉の美観を呈する平安朝の極彩絵巻を、後から後からと繰り拡げて見る様な心地がする間に、おりおり奥深き人情の根底に触れ、事細かき人世の裏面迄も、ささやき告ぐる聲[声]が聞えて来る様な感を生ぜしむるのである。
人情の機微を穿[ウガ]ち、教化の眞諦[シンテイ:絶対不変の真理]に觸る。
●平安朝盛時の写実であるから、全幅総て戀[恋]物語が場所を取って居る。その中にかつて文字の上では見た事もない様な、人情の機微を穿って[ウガッテ:本質を捉えて]居る点は、実に未曾有の書と禮讃[ライサン:称賛]される。
●式部は当代の政治上にも一隻眼[物を見抜く力がある独特の見識]を有して、その飽かずおぼゆる節を仄かにして居る様である。
●随分力を入れて書いたかと思われる点は教育面である。先ず物語中の女性主要人物紫上に対して女子教育を、主人公源氏君の嫡男夕霧に対して男子教育を、その他此處彼處[ここかしこ]に教育面を説いて居り、殆ど当時貴族の欠点、及び教育の短所を指摘し補足したかの如き記事には、千載の下[千年後]今なお採って以て行いたき適切の事さえあるのには、殆ど敬服感激する次第である。
自然美の融合
●物語の全体に亘って、えも云わぬ美しさ軟かさ氣高さが、非常に深みのある様に思われるのは、全く大自然を愛する著者の感情から渾[混]然として湧き出づる一種の和氣[穏やかな様子]、その和氣がおのずからすべての方面を包んでいるからであろう。
●植物動物の色音[イロネ:花の色、鳥の声]芳香は勿論、四季おりおりの風物、日夕[ニッセキ]朝夜[アサヨ]の靄霞[キリカ]雲霧[ウンム]も、皆著者が筆硯[ヒッケン:文筆]に呑吐[ドント]されたのである。
※『例せば源氏物語第一帖桐壺帝巻の終りに、源氏君の二條院を公けより立派に御改造になる事を記して居るけれども、殿内のことは一寸とも、其の模様は記してなくて、唯庭園の事のみ「もとの木立山のややずまひ、面白き所なりけるを、いとど池の心廣くしなしてめでたく造りののしる」とある。あの最も壮麗なりとする六條院にても、殿内の事はその構造も室内装飾も、記す所が甚だ貧弱なるにも関らず、四季の庭園及び花弁の種類配置等は、後世庭造の根源なりと称する程、存外非常に細やかに記してある。』
画像出展:「源氏物語講義」
●紫式部の父は藤原爲時(越前守)である。
●紫式部の同胞(兄弟姉妹)については以下のように記述されている。
『式部には三人の兄があり、猶一人の妹があって夭死[ヨウシ:若死]したと云う説もあるが、能く分らない。そして惟規は式部と同母であり、他の二人は異腹兄であると傳[伝]えられて居る。』
●紫式部の夫、子供については以下のように記述されている。
『夫の[藤原]宣孝には既に数人の子息があり、式部は即ち後妻である。地位も生家と比べて大抵同等の所である。して見れば、別に地位の上から見て、式部には出世的の縁組でもない。あの式部の才識と気位とを以て、必ずしも宣孝を夫に選ばなくても善さそうなものである。まだもっともっと勝った良縁を求められそうなものであるのに、何うした事であろうと思われるが、併しあの階級の中では、宣孝は一寸異彩を放った人であったらしい。此の頃の御嶽詣には、必ず白き浄衣の疎末なものを着て、熊と身をやつやつ[目立たない]しく行かなければ、恐ろしい佛罰に当たると稱[ショウ]した世間一般の迷信を排して、子息隆光と共に、位職に相当する儀容[ギヨウ:礼儀にかなった姿]を備えて詣でて成功した等、当時には珍しい一種の気慨のあった人であるから、当人は勿論、学者の父がこんな点に打ち込んで、所謂人物本位で、宣孝を婿に取ったのかも知れぬ。此の宣孝の御嶽詣の一事は、当時異様の事として世間にも喧傳[ケンデン:世間でやかましく言いたてる]されたものと見えて、枕草子にも載って居る。是等に就きての卑見[ヒケン:自分の意見をへりくだっていう]は、更に後段に譲るとしよう。宣孝の卒去は長保三年四月とある。年齢は大凡少くとも三十三四歳以上四十歳位の時であったろうかと思はるる。』
『式部が義子即ち宣孝の子は、長男隆光の外に頼宣、儀明、隆佐、明懐といふ、つまり五人の男児があり、隆光の母は下総守顯猷の女、頼宣の母は讃岐守平季明女、隆佐、明懐の母は中納言朝距の女であると云ふ。』
画像出展:「源氏物語講義」
これだけコンパクトにまとめられた表は無いように思います。“源氏君”はもちろん、“光源氏”です。その下の同じく黒枠(男性)の“薫”と“夕霧”は源氏君亡きあとの物語の中心人物です。黒&赤の二重線(=)は夫婦もしくは愛人関係で、破線(---)は表面上の親子となっています。また、輪郭とゴシックは特に重要な人物とのことで、ゴシックは先の三人(源氏君・薫・夕霧)の主人公に加え、唯一の女性である“紫上”を加えた計四人となっています。藤原の一文字の“藤”と父の役職の“式部”を組み合わせて”藤式部”とされていたのが、源氏物語が一世を風靡して“紫式部”と呼ばれるようになった背景が紫上とされているという説もあります。数字は黒は男性、赤は女性で結婚年齢を示しています。また、漢数字は出生時父年齢・出生時母年齢になります。
画像出展:「源氏物語講義」
これは非常に薄い半透明の和紙に、『傳 紫 式 部 筆 古今和歌集の一部 (福岡子爵藏)』とだけ書かれ、その半透明の和紙をめくると、『古今和歌集巻第十三』と題するページが現れます。
調べたところ、”福岡子爵”は大政奉還や五か条の御誓文に関わった”福岡孝弟”のことで間違いないと思います。
ネットで調べた範囲では、紫式部直筆の般若経があるような記述もあったのですが、それを否定する記事もあり、正式に認められた紫式部直筆のものはないように思います。従いまして、この『傳 紫 式 部 筆 古今和歌集の一部 (福岡子爵藏)』は昭和初期においては、紫式部の書ではないかとされていたと考えるのが妥当のように思います。
無縁だった「源氏物語」との接点は英語の勉強です。29年間の会社勤めでは遣り残し感はなかったのですが、英語に関しては「できてないなぁ~」という感じでした。そのためいずれは再チャレと考えていたのですが、そろそろ動き出すことにしました。
11月に始めたヨガは、浦和パルコが入居するビルの10階にある、”浦和コミュニティセンター”で開催されているのですが、色々なサークルや講座、イベントなどが行われ、またそれらを紹介するためのチラシやパンフレットがたくさん置かれています。そして、いずれもその気になりやすい庶民的金額となっています。それらの中で今回ひっかかったのが、【源氏物語を英語で読む会】という会です。
最初は“お試し参加”ということでしたが、なかなか面白そうでした。「英語の勉強もできるし、日本人だったら源氏物語がどんなものかぐらいは知っておいた方がよかろう」という思いがあり、少し迷いましたが正会員になりました。
とはいうものの、“テキ”は日本語でも難しいとされる源氏物語です。どんな雰囲気のものか、ある程度は知っておきたいと思い、見つけた参考書が山本淳子先生の『平安人の心で「源氏物語」を読む』という本でした。山本先生がご指摘されている通り、現代と平安時代の差を知ることが必要だと考えたためです。
それにしても“光源氏”と私、比較するのも失礼千万、無礼千万ではありますが、あまりの真逆の人物像に思わず驚きの苦笑いが出てしまいました。
著者:山本淳子
初版発行:2014年6月
出版:朝日新聞出版
『「源氏物語」をひもといた平安人[へいあんびと]たちは、誰もが平安時代の社会の意識と記憶でもって、この物語を読んだはずです。千年の時が経った今、平安人ではない現代人の私たちがそれをそのまま共有することは残念ながらできません。が、少しでも平安社会の意識と記憶を知り、その空気に身を浸しながら読めば、物語をもっとリアルに感じることができ、物語が示している意味をもっと深く読み取ることもできるのではないでしょうか。本書はその助けとなるために、平安人の世界を様々な角度からとらえ、そこに読者をいざなうことを目指して作りました。』
本書の最後に多くの参考文献が紹介されているのですが、さらにその後ろに、8ページにわたって“主要人物関係図”が付いています。これを見ても登場人物の多さにあらためて驚きます。
せめて光源氏と直接関わった人達については頭に入れておきたいと思い、ごく一部ですが表を作ることにしました。
また、参考文献の後に紹介されているものの中から、“寝殿造”の絵図をご紹介させて頂きます。
画像出展:『平安人の心で「源氏物語」を読む』
『中央部が母屋で、周囲を廂[ひさし]、その外側を濡れ縁の簀子[すのこ]と高欄[こうらん]が取り囲む。寝殿の東・西・北面に対[たい]の屋[や]があり、寝殿とは渡殿[わたどの]でつながれている。外からの出入り口は妻戸[つまど]で、それ以外は格子[こうし](蔀戸[しとみど])はめられている。』
目次の黒字がブログで取り上げたものです。特に“平安人[へいあんびと]の時代”と作者の“紫式部”に注目しました。また、長くなったのでブログを2つに分けました。
目次
第一章 光源氏の前半生
(一)一帖「桐壺」 後宮における天皇、きさきたちの愛し方
(二)二帖「帚木」 十七歳の光源治、人妻を盗む
(三)三帖「空蝉」 秘密が筒抜けの豪邸…寝殿造
(四)四帖「夕顔」 平安京ミステリーゾーン
(五)五帖「若紫」 そもそも、源氏とは何者か?
(六)六帖「末摘花」 恋の“燃え度”を確かめ合う、後朝の文
(七)七帖「紅葉賀」 暗躍する女房たち
(八)八帖「花宴」 顔を見ない恋
(九)九帖「葵」 復讐に燃える、父と娘の怨霊タッグ
(十)十帖「賢木」 祖先はセレブだった紫式部
(十一)十一帖「花散里」 巻名は誰がつけた?
(十二)十二帖「須磨」 流された人々の憂愁
(十三)十三帖「明石」 紫式部はニックネーム?
(十四)十四帖「澪標」 哀切の斎宮、典雅の斎院
(十五)十五帖「蓬生」 待ち続ける女
(十六)十六帖「関屋」 『源氏物語』は石山寺で書かれたのか?
(十七)十七帖「絵合」 平安のサブカル、「ものがたり」
(十八)十八帖「松風」 平安貴族の遠足スポット、嵯峨野・嵐山
(十九)十九帖「薄雲」 ドラマチック物語、出生の秘密
(二十)二十帖「朝顔」 三途の川で「初回の男」を待つ
(二十一)二十一帖「少女」 平安社会は非・学歴社会
(二十二)二十二帖「玉鬘」 現世の「神頼み」は、観音様に
(二十三)二十三帖「初音」 新春寿ぐ“尻叩き”
(二十四)二十四帖「胡蝶」 歌のあんちょこ
(二十五)二十五帖「蛍」 平安の色男、華麗なる遍歴
(二十六)二十六帖「常夏」 ご落胤、それぞれの行方
(二十七)二十七帖「篝火」 内裏女房の出生物語
(二十八)二十八帖「野分」 千年前の、自然災害を見る目
(二十九)二十九帖「行幸」 ヒゲ面はもてなかった
(三十)三十帖「藤袴」 近親の恋、タブーの悲喜劇
(三十三)三十三帖「藤裏葉」 どきっと艶めく平安歌謡、「催馬楽」
第二章 光源氏の晩年
(三十四)三十四帖「若菜上」前半 紫の上は正妻だったのか
(三十五)三十四帖「若菜上」後半 千年前のペット愛好家たち
(三十六)三十五帖「若菜下」前半 物を欲しがる現金な神様~住吉大社
(三十七)三十五帖「若菜下」後半 糖尿病だった藤原道長~平安の医者と病
(三十八)三十六帖「柏木」 病を招く、平安ストレス社会
(三十九)三十七帖「横笛」 楽器に吹き込まれた魂
(四十)三十八帖「鈴虫」 出家を選んだ女たち
(四十一)三十九帖「夕霧」前半 きさきたちのその後
(四十二)三十九帖「夕霧」後半 結婚できない内親王
(四十三)四十帖「御法」 死者の魂を呼び戻す呪術~平安の葬儀
(四十四)四十一帖「幻」 『源氏物語』を書き継いだ人たち
第三章 光源氏の没後
(四十五)四十二帖「匂兵部卿」 血と汗と涙の『源氏物語』
(四十六)四十三帖「紅梅」 左近の“梅”と右近の橘
(四十七)四十四帖「竹河」 性悪女房の問わず語り
第四章 宇治十帖
(四十八)四十五帖「橋姫」 乳を奪われた子、乳母子の人生
(四十九)四十六帖「椎本」 親王という生き方
(五十)四十七帖「総角」前半 乳母不在で生きる姫君
(五十一)四十七帖「総角」後半 薫は草食系男子か?
(五十二)四十八帖「早蕨」 平安の不動産、売買と相続
(五十三)四十九帖「宿木」前半 「火のこと制せよ」
(五十四)四十九帖「宿木」後半 平安式、天下取りの方法
(五十五)五十帖「東屋」 一族を背負う妊娠と出産
(五十六)五十一帖「浮舟」前半 受領の妻、娘という疵
(五十七)五十一帖「浮舟」後半 穢れも方便
(五十八)五十二帖「蜻蛉」 女主人と女房の境目
(五十九)五十三帖「手習」 尼僧の還俗
(六十)五十四帖「夢浮橋」 紫式部の気づき
第五章 番外編 深く味はふ『源氏物語』
番外編一 平安人の占いスタイル
番外編二 平安貴族の勤怠管理システム
番外編三 「雲隠」はどこへいった?
番外編四 時代小説、『源氏物語』
番外編五 中宮定子をヒロインモデルにした意味
参考文献
『源氏物語』主要人物関係図
一帖「桐壺」~八帖「花宴」
九帖「葵」~十三帖「明石」
十四帖「澪標」~十六帖「関屋」
十七帖「絵合」~二十一帖「少女」
二十二帖「玉鬘」~三十帖「藤袴」
三十一帖「真木柱」~四十一帖「幻」
四十二帖「匂兵部卿」~四十四帖「竹河」
四十五帖「橋姫」~五十四帖「夢浮橋」
平安の暮らし解説絵図
平安京
大内裏
後宮
寝殿造
男性の平常着・直衣姿
女性の正装・裳唐衣姿(十二単)と平常着・袿姿
あとがき
第一章 光源氏の前半生
(五)五帖「若紫」 そもそも、源氏とは何者か?
・光源氏の源氏は、源頼朝の「源」と同じであり、「源氏」とは源の性を持つ一族を意味する。そして「源」の祖先は天皇である。
・平安時代初期の嵯峨天皇(789-842)は強大な力をもっており、男子だけでも22人の皇子がいた。その皇子たちにより子孫は鼠算式に増えていく。そして、逼迫する皇室費用を抑制するための措置として考えられたのが、皇子を三種類に分けることであった。一つは天皇を継ぐ東宮[とうぐう](皇太子)。もう一つは控えの皇太子要員といえる親王。そして最後が源氏であった。そしてこれらの分類は母の家柄で決まった。
・「源」の姓を賜った者たちは、天皇の血をひきながら皇族とは切り離されて臣下に降り、他の氏族の者と同様に自ら生計を立てた。誇り高い姓ではあるが、皇位継承の道を閉ざされた氏族ともいえる。
・光源氏は架空の物語であるが、始祖の桐壺帝は世の信望厚い聖帝とされ、光源氏は天皇から一代、つまり「一世源氏」である。史実をみると権威ある嵯峨天皇や村上天皇の一世源氏は、何人もの大臣を輩出している。
・源頼朝の始祖である清和天皇は影が薄く、しかも頼朝は十代であり、光源氏との違いは明らかである。それでも「源」の血の威光は絶大だった。
・『一世源氏とは、父帝の至高の血という優越性と、帝位には不相応な母の血という劣等性とを、共に受け継ぐ者だった。自らの血を自負すればいいのか、卑下すればいいのか。その葛藤は想像に余りある。光源氏は、桐壺帝の十人の皇子でただ一人臣籍に降ろされた。「源氏物語」というタイトルは、主人公が身分社会の敗者であることを示していたのだ。』
(十)十帖「賢木」 祖先はセレブだった紫式部
・紫式部の父の藤原為時は彼女が二十歳の頃、越前守の国守となった[その前の10年間は決まったポストがなく、失業中]。これは貴族の「受領」に属する。受領は赴任先では権力の頂点であるが、朝廷の地位を示す位階は四位から六位である。「ここからが貴族」というラインが五位なので上流貴族とは言えない。
このように受領は特有の自由な気風や上昇志向を持ち、成り金的な一方、多少の哀愁も漂う。なお、平安の才女たちは清少納言、和泉式部など、多くがこの階級に属していた。
・紫式部の父は目立たない受領だったが、直系の曽祖父である藤原兼輔は中納言であった。また、父の母の父の曽祖父にあたる藤原定方は右大臣であった。家や血統が今よりも格段に重視された時代、式部は過去の栄光と今の落魄を痛感していたのではないか。
そして、この二人の曽祖父は「源氏物語」にも影響を与えていると思われる。「源氏物語」の桐壺帝の時代は、式部から数十年前に実在した醍醐天皇(885-930)の時代に設定されていると言われているが、この醍醐天皇の時代は二人の曽祖父、兼輔と定方が活躍していた時代である。
さらに醍醐天皇は定方の姉の胤子が宇多天皇(867-931)との間に産んだ子なので、定方にとって甥になる。また、兼輔は娘の桑子を醍醐天皇に入内させている。曽祖父たちにとって聖帝とあがめられた醍醐天皇は身内の天皇といえるものだった。
・『少し前まで華やかだったのに、今は没落して受領階級となった家の娘。「源氏物語」を読むとき、作者のこの「負け組」感覚を忘れてはならない。それは東宮はおろか親王にさえなれなかった皇子である光源氏のリベンジにつながり、政争に負けた桐壺・明石一族のお家復活劇につながるのだ。
ほかにも、物語中には数々の没落者がひしめく。父に先立たれた末摘花、六条御息所、空蝉、そして宇治の女君たち。中でも空蝉は、実家の昔への矜持と今属する受領階級への引き目とを二つながら心に抱く点、紫式部自身の分身ともいえる。彼らへの、紫式部の悲しくも温かいまなざしに注目したい。』
(十三)十三帖「明石」 紫式部はニックネーム?
・紫式部は本名でも女房名でもない。だいたい「紫」とは何なのか? 本名は公文書に記すときなどごく限られた場合にしか使われない。女性が家で家族や召使から呼ばれる場合は「君」や「上」などと呼ばれるし、女房[朝廷などに仕えた女官]になれば女房名で呼ばれるのが普通である。「清少納言」も女房名である。女房名には大方の決まりがあり、父や兄など身内の男性の官職名を使う。例えば父が伊勢守だったなら、その国名を取って「伊勢」という具合である。
紫式部は、中宮彰子のもとに仕え始めた時、「式部」と呼んでほしいと申し出たらしい。これは父の藤原為時がかつて式部省に勤めていたからである。しかし、そこで困ったことが起きた。それは彰子の周りの女房には、既に二人の「式部」がいたからである。このようなケースは珍しくなく、姓から一文字とってつけることになる。清少納言は官職名の「少納言」に「清原」の一文字をつけたものである。紫式部の場合は「藤原」から一文字を取って「藤式部[とうしきぶ]」となったが、これがもともとの女房名である。
「紫式部日記」には次のような一節がある。「あなかしこ。このわたりにわかむらさきやさぶらふ(失礼。この辺りに若紫さんはお控えかな)」。これは文化の世界の重鎮である藤原公任[きんとう]の言葉である。これは「源氏物語」が既に高い評価をされていたということに他ならない。藤原公任が「藤式部」を「若紫」と呼んだのは、その場限りの座興だったかもしれない。だがやがて、彼女は「紫」と呼ばれるようになっていく。公任による戯れをきっかけにしてか、あるいはまた、「源氏物語」における「桐壺更衣」から「藤壺中宮」そして「紫の上」につながる重要な設定「紫のゆかり」にちなんで、読者が作者に与えた愛すべきニックネームか。この「紫」と、もともとの女房名「藤式部」を合体させたのが。「紫式部」である。
三田小山町(現・三田一丁目)で生まれた母親は2歳になる前に引っ越し、小学校教諭になる前の約20年を麻布竹谷町(現・南麻布一丁目)で暮らしました。仙台坂を下って麻布十番によく行っていたということを、懐かしそうに、そしてやや自慢げに話していました。
麻布といえば各国の大使館がひしめく高級住宅街で、埼玉一筋の私からは縁遠い高嶺の花です。以前から「なんで? いつから麻布?」という疑問を持っていたのですが、今回、母方の戸籍を調べてみることにしました。
一方、麻布を詳しく知るために購入した本が『麻布十番 街角物語』です。著者の辻堂真理[マサトシ]先生は、ご自分を「昭和四十年代に幼少期を過ごした十番小僧」と呼んでいます。この本の“第六章 消えた風景の記憶”の中に、“麻布竹谷町の今昔”と題するパートがあるのですが、麻布竹谷町に加え、三田小山町についても紹介されていたのには驚きました。
ブログの題名を「麻布竹谷町と三田小山町」としたのは、『変わらない磁場のようなものを二つの町からは強く感じるのです。』という、辻堂先生のお話が印象に残ったためです。
著者:辻堂真理
発行:2019年8月
出版:言視社
『竹谷町にも小山町にも、私が十番小僧だった昭和四十年代にこれらの町が照射していた「オーラ」のようなものが、いまも残っているからではないか、とも考えるのです。
バブル期を境に麻布十番という街が変容してしまったことはすでに述べましたが、そのなかで竹谷町と小山町の西地区は大規模な再開発計画から逃れた稀有なエリアということができます。もちろん個々の建物は新しくなり、マンションの数が増えたことも確かだけれども、それでも変わらない磁場のようなものを二つの町からは強く感じるのです。』
辻堂先生の『麻布十番 街角物語』に関しては、“麻布の歴史”、“麻布十番”、“麻布竹谷町”、“高見順”、“東町小学校”という5つの題名に分類させて頂きました。その後に、私事になりますが調べて分かったことを追記しました。
麻布の歴史
●江戸市街の整備は天正十八年(1590年)に徳川家康が江戸に入府してから。寛永十二年(1635年)には参勤交代が制度化され、諸藩の屋敷が江戸市中に林立した。この頃から麻布の台地にも武家屋敷が建ちはじめた。
●明暦三年(1657年)一月十八日に、死者数万人におよぶ「明暦の大火」が発生。この大火がきっかけとなり、幕府は江戸市街に密集していた武家地や寺社地を郊外に移す施策を打ち出した。このような経緯により、それまで田畑と原野だった麻布の台地に武家屋敷の建設ラッシュが始まった。麻布十番は江戸城まで5~6km、徒歩で1時間程度であり、徳川に仕える武家たちにとって好適地だった。
●延宝年間(1673~1681年)には、善福寺門前の雑式集落より東のエリアも武家屋敷となり人口は増えていった。
●麻布エリアが正式に江戸市中に組み入れられたのは、正徳三年(1713年)にまず百姓屋敷が、次いで延享二年(1745年)には善福寺門前の町屋がそれぞれ町奉行の支配下となり、江戸八百八町の仲間入りを果たした。
●文政十年(1827年)の資料を見ると、麻布エリアは59人の旗本とその関係者が居住しており、芝や愛宕に次ぐ武家屋敷町であった。
画像出展:「分間江戸大地図」文政11年(1828年)
この古地図は文政11年ということなので、本書にある、「文政十年」の翌年ということになります。水色が“古川”です。地図を拡大して頂くと、中央やや右、古川が直角に曲がっている箇所の左側に現在の“麻布十番駅”があります。駅の下方には“善福寺”があり“センダイ坂”を挟んで“松平陸奥”の大名屋敷となっています。この松平陸奥と書かれた場所がおおむね麻布竹谷町になります。
●日米修好通商条約が締結された安政五年(1858年)の翌年、日本初のアメリカ公使館が麻布山善福寺に置かれた。そして初代アメリカ公使のタウンゼント・ハリスや通訳のヒュースケンをはじめ、二十人ほどのアメリカ人が滞留することとなった。
画像出展:「御府内場末往還其外沿革図書」
こちらは文久2年(1862年)の古地図です。1858年の“日米修好通商条約”締結の4年後になります。緑色(土手・百姓地)に囲まれた水色は“古川”です。また、オレンジ色は“宮・寺”で中央の大きなエリアが“善福寺”です。白色は“武家地”ですが非常に多いことが分かります。
●明治維新を迎え、武家中心の町であった麻布十番の商店街は一時の賑わいを失った。
その後、栄えるきっかけとなったのは明治六年(1873年)、麻布十番からほど近い芝赤羽の旧久留米藩有馬家の上屋敷跡(現在の国際医療福祉大学三田病院、済生会中央病院、三田国際ビル、都立三田高校、港区立赤羽小学校などを含む二万五千坪に及ぶ広大な場所)に、工部省の赤羽製作所(官営の機械製作工場、後の海軍造兵廠)が開設されたことである。
画像出展:「分間江戸大地図」文政11年(1828年)
こちらは最初の古地図(文政11年)のほぼ中央部分を拡大したものです。現赤羽橋駅の古川に沿って大きなエリアを占めているのが“有馬玄蕃”の上屋敷です。そして、有馬家の上屋敷の左側に隣接するのが三田小山町になります。
画像出展:「江戸の外国公使館」
写真の左側が有馬家の上屋敷の塀とのことです。方角が不明確ですが、上図(文政11年)から考えると、左が有馬家なので右は松平家(松平隠岐)の上屋敷ではないかと思います。
画像出展:「市原正秀[明治東京全図]」
こちらは明治9年(1876年)の地図です。上部に“古川”が書かれています(左から小さく“中ノ橋”、“赤羽橋”とあるのでこれが川だということが分かります)。これを見ると、有馬家の上屋敷の跡地に工部省の赤羽製作所(この地図には“製作寮”となっています)があったことが確認できます。
●その後、明治八年(1875年)には、赤羽製作所の西側に三田製糸所が開業。明治十二年には三田製作所(芝五丁目)、明治二十年に東京製綱株式会社(南麻布三丁目)、明治三十二年に日本電気(芝五丁目)といった大企業が次々に設立された。さらに、日露戦争[1904-1905]後には古川沿いにも工場が林立し、十番街商店街は工場労働者の日用品や食料品の供給基地として、再び活況を呈するようになった。
●麻布の台地部では、明治二十年代の後半あたりから武家地の区画整理が急速に進んだ。特に西町(現在の元麻布二丁目)あたりを中心に、政治家や実業家の大きな邸宅が建ち並ぶようになり、明治の後期には皇族や華族、政府の高級官吏などが住む都内屈指の高級住宅街となった。
●古川沿いの低地に開けた繁華な商店街と、台地上から商店街を眺める高級住宅街―麻布十番の特徴的なコントラストは、明治期から大正期を通じて完成され、そのまま昭和という激動の時代へと突き進んだ。
麻布十番
●昭和はじめ頃の麻布十番の名物は「露店」だった。稲垣利吉先生の「十番わがふるさと」には次のように紹介されている。
『「当時の十番は今の一丁目から三丁目にかけて二百余軒の店舗が並び、夜ともなると露店が五十軒位出店した。露店といっても毎晩同じ人が同じ場所に店を出す人が多く、今の追分食堂(麻布十番二-五あたり)前や吉野湯(麻布十番一-十一あたり)の横町などには風呂帰りの人を相手の飲食店の屋台が並んだ」ということです。』
また、幼少期から二十年間を麻布竹谷町(現・南麻布一丁目1~4、9~26、27番の一部、三丁目3番)で暮らした高見順先生も、短編小説の「山の手の子」の中で露店について次のようにふれている。
『「夜店も私には楽しいものだった。アセチレンのにおいがなつかしく思い出される。縁日の夜店へは、私は子供の頃、母に連れられてよく行った。(中略)麻布十番通りの夜店―そこへ行くのに母は、おまいりに行きましょうと言うのが常だったが、ほんとは気晴らしに出かけたのにちがいない。安い、小さな鉢植えの植物を買うのが、母の、そして私の楽しみだった」と記しています。』
●麻布十番という名称が正式に地名となったのは昭和三十七年(1962年)のことで、それまでは麻布宮下町、麻布網代町、麻布坂下町、麻布山元町などに細分化されていた。
麻布竹谷町
●竹谷町は麻布村の一部で、明暦年間(1655~1658年)に仙台藩伊達氏の下屋敷となった。
●麻布十番から仙台坂を上り、麻布山入口信号の先を左折して150メートルほど行くと、左側に港区シルバー人材センターのビル(南麻布1-5-26)がある。この辺りが旧麻布竹谷町になるが、江戸中期までは伊達家下屋敷の敷地内の一部で、享保八年(1723年)以降は禄の低い旗本のお屋敷地だったようである。
●明治五年(1872年)に武家地を合併して麻布竹谷町になった。仙台坂は町の北辺の長い坂である。仙台坂の由来は坂の南に仙台藩の広大な下屋敷があったためである。
●仙台坂は二之橋の交差点を起点に西の方向(西麻布方向)へ、およそ500メートルつづく急勾配の長い坂。坂上の台地(元麻布)と坂下の低地(麻布十番)を結ぶ主要路であり、麻布十番と南麻布を分ける境界線にもなっている。
画像出展:「御府内場末往還其外沿革図書」
こちらは先にご紹介した文久2年(1862年)の古地図の中央付近を拡大したものです。オレンジ色は“宮・寺”、白色は“武家地”、灰色は“町屋”、緑色は“土手・百姓地”、クリーム色は“道”です。ほぼ中央の道が“仙台坂”です。
地下鉄日比谷線 広尾駅で降りて、有栖川公園を越え少し歩いていると”仙台坂”の交差点にきます。右前方が”旧 松平陸奥守下屋敷坂(上図)”です。
また、この仙台坂を下った左側に善福寺があり、その前方左側が”麻布十番”になります。
●昭和二十年(1945年)五月、夷弾の爆撃により一面焼け野原と化し、それまであった家並みは激変したが、町の地勢はそれほど変わらない。
本書の著者である辻堂先生は、昔の竹谷町を見つけました。
『土地の高低差を手がかりに崖を目指して西の方向へ進んでいくと、いやはやマンションが目の前に立ちはだかって、崖下の風景は見る影もありません。昭和四十年代までは高層建築は珍しく、ほとんどが平屋か二階建ての家屋ばかりだったので、屋根越しに崖肌を見ることができたのに……と、さらに歩を進めてみると、見えました!マンションのほんのわずかな隙間から、五十年前と変わらぬ姿で崖肌がのぞいていたのです。』
この崖上の台地が仙台藩の下屋敷があったところで、後に明治期に総理大臣を二度も務めた松方正義の三男・正作の屋敷となり、この敷地内の一部に先述した仙華園がありました。
高見順
●高見順先生は明治四十年(1907年)、福井県で生まれた。上京したのは一歳九ヵ月、飯倉三丁目あたりに落ちくつくも、ほどなくして竹谷町五番地に引越し。結婚され大田区大森に新居を移す昭和五年(1930年)までの二十二年間を竹谷町とその周辺で暮らした。
●高見先生は大正二年(1912年)、今の麻布区立本村小学校に入学するが、竹谷町のすぐ隣の東町に開校した「東町小学校」に転向した(著者の辻堂先生も東町小学校出身とのことです)。
なお、辻堂先生が特に高見先生に興味をもったのは、二十代の頃にたまたま読んだ「わが胸の底のここには」の中に、大正から昭和にかけての竹谷町の風景を見つけたからとのことです。
画像出展:「東京市麻布区図」
緑色のサインペンでマークした部分が“竹谷町五番地”です。また、右端に破線で大きく囲った部分は“東町小学校”になります。
●高見先生は母上から人一倍厳格に育てられた。そして先生もそうした母上の訓育に応えるように、勉学に勤しみ、一校(現・都立日比谷高校)、帝大(現・東京大学)というエリートコースを進み、やがて昭和を代表する小説家・詩人となった。
●高見先生は昭和二十年(1945年)の空襲の一ヶ月ほど前に竹谷町を訪れている。
『竹谷町に出た。私の通った東町小学校は昔のままだった。前の赤煉瓦の邸宅も昔のままだ。懐かしい。学校に沿った横道に入った。突き当りの岡本さんは、私のうちでいろいろ世話になったところで、ここまで来たのだから挨拶して行こうと思ったら、―家がつぶれている。強制疎開だ。ごく最近、取りこわしたらしい様子だ。(「高見順日記」昭和二十年四月二十二日)』
東町小学校
●東町小学校は大正二年(1913年)に開校した。関東大震災による倒壊は免れたものの、昭和二十年(1945年)の空襲で全焼した。一旦は廃校になったが、昭和三十年(1955年)に再開した。
●東町小学校が高見文庫を設立したのは、高見先生が病気で亡くなった昭和四十年(1965年)十一月二十二日。「高見順日記」、「昭和文学盛衰記」や、高見家から寄贈された数百冊の著書が展示されている。
●展示されているのは約40冊と、高見先生の小学生時代の写真や新宿伊勢丹で開催された高見順展のパンフレット、「われは草なり」が掲載された国語の教科書なども陳列されている。
私事の件
1.「なんで? いつから麻布?」という疑問
答えは、高祖母の旧姓吉田ミヨ(天保14年[1843年]生まれ)の父である吉田宗衛門(母の高祖父)が、東京府麻布区坂下町(現・麻布十番二丁目・三丁目)に住んでいたというのがルーツでした。
戸籍から調べるのはこれが限界でした。この先はどのような方法があるのだろう思い、図書館から借りてきた本、『自分でつくれる200年家系図』をみると、いくつか手掛かりが出ていましたので一部をご紹介させて頂きます。
さまざまな手法:血縁よりも家としてのルーツ探し
・まずは郷土誌を読む
・総本家や親戚に行く(現地を訪ね、祖先の情報を得る。図書館や教育委員会にも手がかり)
・古文書を調べる(先祖が庶民なら“宗門人別長”を、武家の場合は“分限帳・由緒”も)
・菩提寺を訪ねる(“過去帳”や“墓誌”を見せてもらう。お寺と疎遠な場合は本家を通じて)
・名字を調べる(地名・地形・役職などに由来。ルーツ探しの手がかりになることもある)
・家紋を調べる(二万種もあるといわれる家紋。同族が必ずしも同じ紋ではない)
2.竹谷町五番地と竹谷町弐番地
母親の百歳を記念して”【祝】百歳”というブログをアップしているですが、東京大空襲直後の上野駅と電車の様子を知りたいと思い、探し当てたのが高見順先生の『高見順日記 第三巻』でした。
高見先生は明治四十年(1907年)、福井県で生まれ昭和五年(1930年)までの約22年間を“麻布竹谷町五番地”で暮らしました。なお、「高見順」のペンネームで小説を書き始めたのは、東京帝国大学英文学科在学中とのことです。
一方、11歳年下になる母も約20年、同じく麻布竹谷町に住んでいたので、もしかしたら小学生時代に高見先生とすれ違っていたかもしれません。
なお、戸籍によると”東京市麻布區竹谷町弐(2)番地”は”東京市港區麻布竹谷町壱(1)番地拾五(15)号”に変わっていました。
画像出展:「東京市麻布区図」
大正13年(1924年)の地図です。緑色でマークした部分が“麻布區竹谷町五番地”で、赤色は母親の自宅があったと考えられる箇所です。
画像出展:「マピオン」
現在の同地域の地図です。中央やや上方の”竹の湯”は創業大正二年です。
竹の湯からみる麻布區竹谷町弐番地方面の様子です。
辻堂先生が特に高見先生に興味をもったのは、二十代の頃にたまたま読んだ「わが胸の底のここには」とのお話でしたが、私も気になってこの本を買ってしまいました。
ご参考
麻布竹谷町と三田小山町について、とても変参考になったサイトがありましたのでご紹介させて頂きます。
1.江戸町巡り
”麻布”に関する情報もあります。
ここまであまりご紹介してこなかった“三田小山町”に関して、とても詳しく書かれています。なお、こちらのサイトは『東京都港区麻布周辺の情報、昔話などをお届けします。』とのことです。
父方の祖父は明治23年生まれ、幼少期より浅草で育ちました。若かりし頃には、まさに「髪結いの亭主」だったこともあるそうです。私が知っている祖父は気骨ある明治の男という印象が強く、相撲と時代劇、そしてよく本を読んでいました。また、鉄棒、ブランコ、ニワトリ小屋など何でも作ってくれたのですが、祖父の弟さんは有名な宮大工だったとのことです。
特によく覚えているのは御嶽山と覚明さん(覚明行者)を敬い、深く信仰していたということです。毎朝、長い経文[キョウモン]を唱えていました。何を言っているのかサッパリわかりませんでしたが、最後の「かしこみかしこみ申す」という言葉だけは覚えています。
10月に母が他界し、宗教や死後の世界に興味をもったことで、祖父が深く信仰していた覚明さん(覚明行者)の御嶽信仰がどんなものか知りたくなりました。そして、『木曽のおんたけさん』という本を見つけ購入しました。
犠牲者・行方不明者あわせて63名の大惨事となった御嶽山の噴火は2014年9月27日でした。そして、山頂までの登頂が再開されたのは2019年7月1日でした。
大惨事後に設置されたこのシェルターの写真は“My Roadshow -登山ブログ”さまから拝借しました。
ブログは“山岳信仰”、“御嶽信仰”、“覚明行者”および覚明行者によって開かれた“黒沢口登山道”を取り上げました。
なお、黒沢口登山道が開かれる前は、御嶽山への登山は熱心な一部の信者に限られたものでしたが、この登山道が開かれたことによって一般の信者も登山が可能になったとのことです。
日本の山岳信仰
・日本における山岳信仰は縄文時代にさかのぼるが、それが宗教として展開し始めたのは弥生時代以降と考えられている。
・弥生時代になり水稲農耕が行われるようになり、山は水田に必要な水を供給する場所、水分神(ミクマリシン)の場所として崇敬され、祭祀が行われるようになった。
・飛鳥、奈良時代になると、仏教の僧侶たちは山林での修行を行うようになった。
・奈良、平安時代には多数の霊山が開山された。
・平安時代、天台宗の最澄や真言宗の空海は唐で密教を学んだ。これらの宗派は比叡山や高野山などの霊山に修行の場を求めていった。そのため、天台宗や真言宗の全国展開とともに、多くの山々に寺院が建立された。また、この頃から主に仏教側からの働きかけによって、在来の神道の信仰と仏教が混ざり合う「神仏習合」の信仰が盛んになっていった。
・山中の霊場を巡って修行する僧侶や行者の中には社会的に大きな活躍をするものもあり、人々はこうした山の宗教者を「験者」や「山伏」と呼んだ。その後、これらの宗教者は「修験者」となっていった。
・室町時代に入ると、こうした修験者の修行のルートや拝所、山で行う修行法、儀礼や教義が整えられ、人々の宗教的な要求に応えて祈祷活動を行う修験道が成立した。また、こうした教義の成立とともに日本各地の山々や里に住む修験者や熊野先達の組織化が進められ、天台宗系の本山派と、真言宗系の当山派という二つの修験道組織ができた。
・江戸時代に入ると、幕府は武装勢力でもあった修験勢力を統御するために、本山派と当山派を競合させたり、修験道法度を発するなど統制下に置くことに努めた。
・諸国を遊行しながら修行していた修験者たちは、この頃から村落などの地域社会に定住するようになった。そして、自分が所属する派の霊山に入って修行を行うことで修験者としての立場と位階を認められた。
・江戸時代の山岳信仰の特色として、一般の人々による諸国の霊山崇拝が盛んになったことが挙げられる。これによって霊山は修験者だけでなく、多くの人の対象として繁栄していった。
御嶽信仰
・日本人は古来より国の豊かな自然に接して、山や自然そのものに対して山川草木に神が宿るという、素朴な信仰を育んできた。そして、そのような信仰を基に、仏教や神道などの影響を受けて修験道と呼ばれる山岳信仰が形成されてきた。
・木曽御嶽も素朴な信仰を基に、奈良時代から鎌倉時代にかけては修験道の影響を受け、また、室町時代から江戸時代初期にかけては黒沢と王滝の両御嶽神社により組織されて、道者と呼ばれる宗教者が活躍していた。
・江戸時代中期には覚明行者と普寛行者が現れて、この山を一般の人々にも開き、講集団を中心とした御嶽信仰が尾張や江戸を中心に盛んになり、やがて全国へと広まっていった。
・明治以降は神仏分離や講集団の教団化、戦後の信仰の自由など、時代の荒波の中で信仰が維持され、今日に至っている。
・現在の御嶽信仰は神道を中心に、素朴な信仰を基として、仏教や講集団の信仰が重なって成立している。
覚明行者の誕生
・御嶽山が一般の人々にも開かれた信仰の山となったのは江戸時代末期、尾張の覚明行者が黒沢口を開放したことによる。それまでは、里宮の管轄指導のもと、百日にも及ぶ重潔斎を必要とし、その潔斎期間や経済的な面からも、一般の人々による登拝は無縁だった。
・覚明行者は享保三年(1718年。四年という説もあり)に生まれたとされている。
・覚明行者は、宝暦二年(1752年)、宝暦八年(1758年)、宝暦九年(1759年)、宝暦十一年(1762年)、宝暦十三年(1763年)、明和元年(1764年)、明和三年(1766年)と計七回もの巡礼修行を行っており、次第に人々を救済するという行者としての新たな世界を見出していったと考えられている。
黒沢口登山道から御嶽山頂上へ
・黒沢口が天明五年(1785年)の覚明行者による中興開山以来、御嶽講を中心に登拝に利用されてきた歴史ある道である。
・黒沢口から登る場合、御岳ロープウェイで七合目まで入る人が多い。
・大きな駐車場は六合目にある。
-『登山口となる黒沢口六合目は大きな駐車場となっており、おんたけ交通バス(季節運行)の待合所やトイレもある。身支度を整えたら、バス待合所左脇から登山道に入ろう。歩きはじめるとすぐに、平成二十年から休業となった中の湯別館があらわれ、そこから本格的な登りとなる。針葉樹と笹の中に続く登山道には、ところどころ木が敷き詰められたり、木段となっているので足元は安心してよい。休業中の日野製薬の売店小屋を過ぎ、旧湯の小屋分岐から急坂の登りが続く、二十分ほどがんばれば勾配は緩やかになり、すがすがしい針葉樹林を登って行けば七合目の行場小屋に着く。
ここから御岳ロープウェイ山頂駅までは遊歩道で十分たらずである。
行場小屋を出るとすぐに橋で小さな沢を横切るが、ここは覚明行者が修行をした場所と伝えられ、石碑も建てられている。そこからは地面や倒木の上に美しい苔が生えた森の中の道となる。はじめは緩やかであった登山道も次第に勾配がきつくなり、汗をかきながらのジグザグ登りとなる。急な木段の細道も小さな桟橋まで上がれば大分緩やかになり、いつのまにか針葉樹の森がダケカンバなどの灌木に変わっている。すれ違う講の登山者たちが鳴らす鈴の音と活気に慰められながら、広くなった登山道を歩き続け、次第にハイマツ多く見られるようになれば、まもなく八合目女人堂に出る。
ここからは城塞のように切り立った御嶽山の稜線が眺められる。また、小屋前は阿波ヶ嶽と呼ばれ、四国方面の御嶽講社の霊場となっている。
女人堂からはいったん小さな谷を巻いてから尾根に取り付くが、この部分は七月上旬には雪が残っていることが多い。少し登って登山道が右に折れたところが剛童子で、登山道の右手に小さな祠[ホコラ]が祀られている。江戸時代まで女性はここまでしか登拝が許されなかった。
また、祠の横に大きな岩が立っているが、これは天照大神が隠れた天の岩戸を手力男命が開いたときに、放り投げた岩戸が飛んできたものであるといわれている。また、この一帯は古い霊神碑が林立し、独特の宗教的雰囲気をかもし出している。風化した霊神碑や素朴な風貌の神像を眺めながら登ると、次第に道は勾配を増してゆく。ハイマツの間の、雨によってえぐられた登山道を登って行くと、大きな鳥居と三笠山刀利天像がみえてくる。鳥居の前は少し広くなっているのでグループ登山の休憩に用いることができる。
さらにもうひとがんばりすれば急に視界が開け、砂礫[サレキ]の裸尾根に出る。ここには弘法大師の大きな銅像が祀られており、展望もよく、晴れた日には中央アルプスの眺望が素晴らしい。団体の休憩にはよい場所である。ここからは眺めのよい尾根上の登りとなるが、、道は砂礫状になっているため少々歩きにくく、六合目、又は七合目から歩いてきたときには疲れが出はじめるところでもある。砂ザレの急登を周囲に慰められながら登り、道が尾根の右側をまくようになると小さな鞍部にでる。
ここで息を整えたら、いよいよ黒沢口登山道一番の急登に入る。大きな岩石の階段を上がるような道は少々しんどいが、高度もぐいぐいかせいでいける。ゆっくりと、一歩一歩岩の階段をあがり、登山道脇に巴講の霊神碑を見れば、まもなく九合目の石室山荘に着く。ここから道は砂礫まじりのジグザグ道となるが、次の山小屋の覚明堂は目の前に見えているので気分は楽である。
覚明堂から石段を登り、鳥居を潜ると、覚明行者の大きな銅像や沢山の霊神碑が並び立つ拝所に出る。ここは二ノ池付近で亡くなった覚明行者のなきがらを祀った場所であることから、御嶽講の大事な聖地とされ、夏山中は講の信者たちが敬虔な祈りを捧げているのを眼にすることができよう。そこからもしばらく急坂が続くが、目の前の尾根に上がれば傾斜はくなり、まもなく御嶽の主稜線上に出る。
二ノ池や王滝知頂上への分岐など、いくつか道が分かれ、霧が掛かったときには迷いやすいが、案内板や登山道の両側に張ってあるロープに沿って行けば迷うことはない。稜線の眺望を楽しみつつ、砂礫混じりの道を一歩一歩踏みしめて行けば、まもなく頂上山荘に到着する。
頂上山荘前の石段を登れば、御嶽山の頂上、剣ヶ峰である。正面に小さな社殿や素朴な神像が並び立った大きな磐座[イワクラ]がある。それが御嶽神社の奥社であるので先ずは参拝しよう。神社の正面は次々と登ってくる講中が参拝に使うので、参拝をすませたら、神社の右手前の三角点が置かれた広場で休むとよい。そこからは一ノ池、二ノ池、王滝頂上など御嶽山の頂稜部を一望することができ、南側には木曽駒ヶ岳や宝剣岳など中央アルプス、北方には乗鞍岳とその向こうに槍ヶ岳、西北には白山を望むことができる。晴れていれば至福の時を過ごすことができるだろう!』
ご参考:御嶽山に関すること
ネット上には御嶽山(御岳山)に関するサイトが沢山ありました。ここでは三つのサイトをご紹介させて頂きます。
ボランティア活動に興味があり、『ボランティアってなんだっけ?』という本を買ってみました。70ページに満たない本で、親しみやすい題名だったため軽く考えていたのですが、その内容はとても深く、色々なことを考えさせられました。
地震や水害などの被災地への災害ボランティアは、人手不足を補うものとして確実に現地の助けになるものと思いますが、ボランティア活動を広く見渡すと、様々な課題があることが分かりました。
目次
Ⅰ そこで何が起こっているのか? ―自発性が生まれる場所、自発性から生まれるもの
Ⅱ それって自己満足じゃない? ―無償性という難問
Ⅲ ほんとうに世界のためになっているの? ―ボランティアと公共性
終章 ボランティアの可能性
Ⅰ そこで何が起こっているのか?
「ボランティアでは続かない」
●生き生きとボランティアを始めていた人の情熱が、時間が経つとだんだん冷めていくことがある。活動が整理されていくなかで、思ったことが言えなくなって、こなすだけになってしまったら熱は冷めていく。
●何をすべきかを自由に考えることよりも、これまでの活動を継続するための業務に追われ、活動への違和感を話し合えず、なんで活動するのかを考える機会もなくなると情熱は冷め、活動に距離を置くようになる。
●一人の参加者として責任のない立場で関わるのは良かったが、責任を負う立場になると敬遠する人もいる。すると責任を負う人の負担感や孤立感は強まっていく。
●ボランティアで始まった活動が持続性を高めていくために、非営利活動法人(NPO法人)や一般社団法人に移行していく。定款が作られ、事務局ができ、会費や寄付の制度が確立されていく。専従職員となる人が出て組織も確立していく一方で、初期の使命感が薄れ、活動の持続が目的となってしまうこともある。
●有償で働く専従職員とボランティアの間に溝が生まれ、ボランティアの数は減っていく。
●『「ボランティアでは続かない」ということはある面において正しいのだが、一方「ボランティアでないと続かない」ということも正しい。そんなことを、ある夏の体験で思った。』
ネットワーキング―出会いから広がっていく、出会いから変わっていく
●農園で子ども向けの農業体験イベントを開催した。1回目に参加した子どもが次の会には兄妹や友人を連れてきた。地域の情報誌に記事が掲載されて参加者が増えた。イベントの様子をSNSで公開したら、次々にシェアされていった。環境教育や農業に関心のある学生や社会人がボランティアをしたいと集まってきた。彼らの経験が企画に活かされて、体験講座の内容は専門化されていった。会議も定期的に開かれるようになり、助成金でキャンプをするためのテントや調理器具を買いそろえた。助成金の申請のためには規約や決算書、活動報告書が必要なため、事務局がつくられた。そんな中で、イベントの企画よりも農作業に興味を持ち始めた仲間から、子どもたちに農業体験をさせることよりも、自分たちがしっかり農業を勉強すべきだという声も出てきた。彼らの中には地方の専業農家のところに研修に行く人もいた。やがて、子どもたちへの農業体験を重視する立場と、学生自身が農業を学ぶことを重視する立場の違いが生まれ、活動をめぐって議論がなされるようになった。活動が広がる中で、新しい視点がもたらされ、活動自体の意味をめぐる議論が生まれる。その先に、活動自体の見直しが起こるかもしれないし、活動の分裂が起きるかもしれない。
●『「注意して見てほしい。一緒に団体を立ち上げた友人の関心は子どもの貧困問題だったのだが、次第に活動は子どもたちの農業体験/環境教育にシフトしており、そこからさらに農業への関心が生まれている。このような変化のなかで、友人には自分の当初の思いとつながるものを見出していくのか(たとえば、農業体験に来ている子どもたちのなかに貧困につながる問題を見出すのかしれない)、それとも流れに身を任せて当初の問題意識を忘れてしまうのか(たとえば、専業農家と出会って農業の面白さに心を奪われるのかもしれない)、それとも自分のやりたいことはここにはないといって去っていくのか、三つの方向があるだろう。』
Ⅱ それって自己満足じゃない? ―無償性という難問
無償性はめんどくさい―贈与のパラドックス
●あなたが誰か困っている人に何かをしてあげたいとする。見返りを求めてやったのではなく、困っている人を助けたいという気持ちに突き動かされたとあなた自身は思っている。しかし、あなたの内面は誰にも見えない。だから、周りから、本当は、「困っている人を助けている姿を見せて、自分の評価を上げたいのではないか」とか、「そうやって善行をつんで、死後に天国に行こうとしている」と指摘されたり、心の中で思われたりするのを防ぐことはできない。あるいは、「そうやってあなたが無償で誰かを助けてしまうことで、本当はそれをすべき〇〇が仕事をしなくなる」と言われることもある。この〇〇は例えば、政府が入る。このように贈与は常に、贈与と反対のものを見出されてしまうというパラドックスを抱えている。
贈与から交換へ―ボランティア・NPO・CSR・社会企業・プロボノ……
●1990年代以降、NPO活動が注目を集め、1998年には特定非営利活動促進法(NPO法)が成立するようになると、ボランティアよりもNPOの関心が高まった。
●NPOの非営利性とは、事業を通して利益を上げたとしても組織の成員で分配しないということである。
●ボランティアは“贈与”と考えられているが、NPOは“交換”の要素が強い。そしてNPOに続く、CSR(Corporate Social Responsibility)、社会的企業、社会的起業家、プロボノ、BOP (Base of the Economic Pyramid)ビジネス、エシカル消費、SDGs (Sustainable Development Goals)などもまた、“交換”と“贈与”の間にある言葉である。
●ボランティアという言葉が使われるのは、無償であるのが当然であると考えられる領域や、学校教育の現場に限られていった。
●阪神淡路大地震が起きた1995年がボランティア元年と言われているが、ボランティアをする人の割合は減少する傾向にある。
●『ボランティアが語られることや、そもそもボランティアをする人が減っていくなかで、久しぶりにボランティアが声高に語られ、議論を巻き起こしたのが東京五輪ボランティアだった。しかし、そこにおいて、贈与のパラドックスを伴う「無償性」は放棄されてしまったように見える。』
ケアの論理
●ケアはケアする人とされる人の二者間の行為ではなく、家族、関係のある人々、同じ病気・障害・苦悩を抱える人、薬、食べ物、環境などの全てからなる協働的な作業と考えられている。
●ケアの出発点は、人が何を欲しいと言っているのかではなく、何を必要としているかである。それを知るためには、その人の意思だけでなく、その人の状況や暮らし、困っていること、どのような人やシステムから支援を受けられるのか、それらの支援によって、その人の暮らしがどう変わってしまうのかなどについて理解する必要がある。
●苦悩はケアされる人だけではなく、家族や関係する人達も苦悩する。状況の改善は人や物、システムなど全てとの関わり合いの中でケアが行なわれるという意識を持つ必要がある。
終章 ボランティアの可能性
●ボランティアは国家や市場システムに都合よく使われることもある。隅々まで浸透した世の中と思っても、国家や市場システムから見放された世界が存在する。ボランティアがなければ苦しい人々は間違いなく存在する。
●国家や市場のシステムを批判し、今ある世界に取って代わるような理想像を掲げるのではなく、今あるシステムがうまく機能していないところに入り込み、他者と共に生きる空間を作っていくことは一つの在り方である。
以前、友人から「ヨガはいいよ」と教えてもらったことがあり、いずれ一度はやってみたいなと思っていました。
場所や時間、費用面で適当なものがあったらと思いながら探していると、親しみやすい、始めやすい感じの講習会があり、早速、大きなバスタオルを持参して参加してきました。
友人が言っていた通り、いい感じです。深い呼吸、適度な身体的負荷、何だか清々しい気持ちになります。「これは続ける価値ありだな」ということで、入会し続けることにしました。
また、一度やってみて、バスタオルは摩擦がなく足元が不安定になりやすいためNGということが分かったので、ネットショップでヨガ用マットを購入し次回に備えました。また、ヨガといえばインドですが、せっかく始めるのだったらヨガがどんなものか、最低限のことは知っておきたいと思い、色々ある中から『ヨガが丸ごとわかる本』という本を買ってざっと一読してみました。
ブログは目次の黒字箇所です。最初にヨガの概要をお伝えしたかったため、Chapter_7、”ヨガとスピリチュアル”の中にあったものを最初に持ってきています。
目次(Contents)
プロローグ
Chapter_1
ヨガとは何か?
・ヨガとは何かを探ってみよう
・ヨガが与えてくれるもの
・ヨガの歴史
・紀元前から2016年まで世界と日本のヨガヒストリー
・日本のヨガ偉人
・世界の人々に影響を与えたヨギー&ヨギー二
・インドの聖者達
・ヨガする世界のセレブ達
Chapter_2
ヨガの流派について
・古典ヨガと現代ヨガ
-アイアンガーヨガ
-アシュタンガヨガ
-クリシュナマチャリアのアイアンガーヨガ
-沖ヨガ
-クリパルヨガ
-クンダリーニヨガ
-シバナンダヨガ
-パワーヨガ
-ホットヨガ
-リストラティブヨガ
-陰ヨガ
-ライフステージ
-ニュースタイル
・ハタヨガとヴィンヤーサヨガ
・その他
・新しいヨガ
Chapter_3
ちょっとディープなヨガの考え方と哲学
・本当の自分について
・プラシャとプラクリティについて
・人間の体の考えかた 五つの鞘「パンチャコーシャ」
・エネルギーの質、トリグナ
・マンガで知るヨガ「そもそもヨガ哲学って、なあに?」編
・ヨガの八支則について
-ヤマ
-ニヤマ
-アーサナ
-プラーナーヤーマ
-プラティヤーハーラ
-ダーラナ
-ディヤーナ
-サマディ
・禅の十牛図とヨガの関係を見ていく
・ヨガは呼吸が大切な理由
・呼吸がもたらすもの
・いろいろある呼吸法
・プラーナを知ろう
・体に作用するプラーナの流れ
・さまざまな角度からプラーナを捉える
・プラーナとナーディの哲学
・呼吸には「完成」がある
・呼吸とプラーナのことQ&A
Chapter_5
ポーズについて
・アシュタンガヨガの太陽礼拝A
・アシュタンガヨガの「トリスターナ」
・シヴァナンダヨガの太陽礼拝
・立位のポーズ
・座位のポーズ
・後屈のポーズ
・逆転のポーズ
・ポーズ名に出てくるサンスクリット語
・ポーズのことQ&A
Chapter_6
瞑想
・瞑想の基本
・座り方と印
・迷走しないための瞑想コラム
・注意点
・瞑想に種類ってあるの?
・たくさんある瞑想
・マンガで知るヨガ「とにかく瞑想をやってみよう!」編
・マインドフルネス瞑想
・瞑想中に起きていることは
・四つの三昧(サマーディ)状態
・あの偉人達の瞑想
Chapter_7
ヨガとスピリチュアル
・マンガで知るヨガ「スピリチュアル」編
Chapter_8
ヨガのメディカル的側面
・ヨガで健康を手に入れる
・沖ヨガ
・ヨーガ療法
・ヨーガセラピー
・がんへのヨガ的アプローチに注目!
・ヨガの健康における概念
・アーナンドラが語る鞘の話
FEEL THE INDIA
・ヨガを生活に取り入れて楽しむ、学ぶ
-Fashion
-Goods
-Food
-Music&Mantra
-ヨガを学ぶ、習う
-先生になる
-情報を得る
-ヨガのイベント
・ヨガ旅へ出かけよう!
-INDIA
-NEWYORK
-HAWAII
・ヨガ用語辞典
Chapter_7
ヨガとスピリチュアル
「エクササイズからの卒業」と題するページに書かれていたことは次のようなものです。
『ヨガを始めると、ヨガが単なるエクササイズではないと知る。日常的にも道徳的なヨガの心が芽生え、そして生き方が変わってくる。それこそが本質的なヨガの始まりなのだ。』
そして、次のページにある「目に見えないものを受け入れていく」は、ヨガというものの概要を端的に伝えているように思います。
『ヨガはエクササイズではない。そこには深い精神性が横たわっている。ヨガはポーズを中心としたフィットネス部分のみだけではなく、道徳的な、日常の行いへの意識づけから始まり、呼吸を中心に心へ焦点を当て、感情の起伏や、心の波を穏やかにしていくもの。それらは、“目に見えない”ものが多い。
身体的アプローチで目に見えているはずのポーズや呼吸も、目に見えない部分に対してアプローチするのが練習の本質だ。ヨガは論理的には説明できないことまで、すべて丸飲み込みして行っていく。そうすると、到達するところは、感動的で魂が振るえるほどの歓びが存在する場所。ヨガは体にだけアプローチするボディワークではなく、スピリチュアルワーク(魂への行い)なのだ!』
Chapter_3
ちょっとディープなヨガの考え方と哲学
●本当の自分について
-ヨガでは「自分」という存在を追及していく。これはヨガ哲学の根幹である。そして「本当の自分(真我)と自我によって作られた「自分」がいると考える。
-私とは「本当の自分」と「それを取り巻く自分」の二つでできていると考えられている。
-「本当の自分」は、観る存在であり活動する自分を観察している。今「認識している自分」は、この世を体験するための器。傷ついたり、辛い思い、痛い思いをしたのは「本当の自分」ではない。
-「本当の自分」は何があっても常に美しく、尊厳が保たれた満ち足りた存在である。
●プラシャとプラクリティについて
-プラシャ(真我)とは?
+ヨガでは「自分」は、二つのものからできていると考え、それが一つになることを目的とする。
+二つとは今「認識している自分」と「本当の自分」である。
+プルシャは「本当の自分」のことで、真我ともいう。
+プルシャは常に「自分(自我。認識している自分)」を観察しているが、自我(心)の活動が激しいと、その活動ばかりに意識が向いてしまい、奥にあるプルシャの存在に気づけない。
+瞑想は波打つ心(自我)の活動を静め、波がなくなり透き通った湖の底に眠るような「真我」に気づき一つになるための方法である。
+プルシャは大自然(宇宙。大いなるもの)の一部であり、真我と一つになることは大自然と一つになること、自分は大自然の一部だと気づくことでもある。
-プラクリティとは?
+プルシャを取り巻くもので、普遍的なプルシャに対して移りゆくものをプラクリティ(質の源)という。
+プルシャは「質」を持たないので、プラクリティを使って“世界”(生きた宇宙。イーシュワラともいう)を映し出し、それを観察している。
+人でいうと、肉体、考え、言葉、行動など、変わり続けるのはすべてプラクリティであり、それをプラクリティが観ているということになる。
+プラクリティが濁ごることなく浄化されていれば、真我とつながりやすくなり、大いなるものの智慧に基づく生き方ができる。
●ヨガの八支則について
-ヨガの八支則はヨガのゴールに到達するための方法であり、考え方である。
-ヨガの八支則は自分自身における抑制、つまり自分で自分のことを管理するということである。
-『ヤマ[Yama]は禁戒として訳されることが多く、日常生活で慎むべきこと(してはいけないこと)ということだ。そしてヤマとセットとなるのが、ニヤマ[Niyama]。これは勧戒と訳され、自分自身が努めるべきこと(すべきこと)だ。
ヤマとニヤマの中は五つに分かれている。ヤマには、アヒムサ(非暴力)、サティヤ(正直)、アスティーヤ(不盗)、ブランマチャリア(禁欲)、アパリグラハ(無執着)ということが含まれる。
そして、ニヤマには、シャウチャ(清潔)、サントーシャ(知足)、タパス(苦行)、スワディヤード(独習)、イーシュワラプラニダーナ(信仰)というものが含まれる。
これらのヤマ、ニヤマはヨガをするものにとっての道徳的戒律として存在している。ただ、日常生活、社会生活で、これらを完璧に行うことができたら、言わば聖人であり、神であるという人もいる。それほど難しいものだと考えていいだろう。
これらヤマ、ニヤマのような道徳的な考え方を持ちながら生活を律し、自分として心に引っかかることはない状態にしておき、アーサナ[Asana](坐法)により体の滞りをなくし、プラーナーヤーマ[Pranayama](調気、呼吸)によって呼吸を整え、プラティヤーハーラ[Pratyahara](感覚抑制)により感覚を内へと向けて、ダーラナ[Dharana](集中)で自分の中へ集中し、それが深くなりディヤーナ[Dhyana](瞑想)の状態へ。そこから瞑想していることも忘れるほど、一つの意識になる。すべてのものと隔たりのないような状態になり、融合、合一するサマディ[Samadhi](三昧)と続くのだ。これらは段階的に考えられていることが多いが、すべて横並びで、それぞれちょっとずつ高めていくという考え方もある。どれかを一つ高めても仕方がなく、どれもやり続けなくてはならないということ。』
Chapter_8
ヨガのメディカル的側面
●がんへのヨガ的アプローチに注目!
画像出展:「ヨガが丸ごとわかる本」
補完代替医療としてのヨガの可能性
『医療的側面をあわせもつヨガ。その可能性は乳がん予防や、再発予防にまで広がる。ヨガの次のステージはメディカルシーンへの貢献だろう。』
『現在、乳がん経験者、及び多くの女性に向けて、ヨガを通して乳がん予防のクラスを開催していたり、さまざまなシンポジウムや講演等で乳がん予防や再発予防にヨガの良さを伝えているアクションが多くある。』
-ゆっくりした動きのヨガは、治療経験者や治療中の人にも無理なく行うことが可能である。
-筋肉を鍛える必要があるならば、鍛える筋群の筋力アップを目的にあった“ポーズ”を取り入れることができる。
-硬くなった筋肉を緩める効果が期待できる。
-ヨガの基本である呼吸法は、副交感神経の働きを高め不安や緊張を軽減する。
-リラックス効果によりNK細胞などの免疫細胞が活性化し、がん細胞への攻撃力を高める。
-補完代替医療としてヨガは注目されている。1998年には米国国立衛生研究所がヨガ研究に公的資金の投入を開始し、2013年にはハーバード大学がヨガと瞑想の効果を科学的に検証する試みが行われるなど、米国ではヨガは統合医療の一つとして浸透してきている。
今年の大河ドラマは渋沢栄一の物語、“青天を衝け”です。渋沢栄一といえば、知っているのは名前程度で、埼玉県出身だということも、日本の「近代資本主義の父」とよばれていることも知りませんでした。
今回、拝読させて頂いたのは『論語の読み方』という本ですが、編・解説者である竹内 均先生の“解説”の中にあった「巨人・渋沢栄一の原点となった孔子の人生訓」に、渋沢先生の生い立ちから晩年までの話がまとめられていましたので、まず、そちらをご紹介します。
『渋沢栄一は、1840(天保11)年に、現在の埼玉県深谷市字血洗島の豪農に生まれ、年少の頃から商才を発揮した。そのうえ少年時代から本好きで「論語」との出会いもこの頃であった。
幕末の動乱期には尊王攘夷論に傾倒したが、後に京都に出て一橋(徳川)家の慶喜に仕えた。1886(慶應2)年、弟の昭武に従って渡欧せよとの命令が慶喜から下った。翌年から約2年間をかけて欧州各地を視察し、資本主義文明を学んだ。このときの見聞によって得た産業・商業・金融に関する知識は、彼が後に資本主義の指導者として日本の近代化を推し進めるのに大いに役立った。
帰国後は大隈重信の説得で明治新政府に移り、大蔵省租税正、大蔵大丞を歴任した。1873(明治6)年に大蔵省を辞してから実業に専念し、第一国立銀行(第一勧業銀行の前身)の創設をはじめ、70歳で実業界から退くまで500余りの会社を設立し、資本主義的経営の確立に大いに貢献するとともに、ビジネスマンの地位の向上と発展に努めた。
晩年は社会・教育・文化事業に力を注ぎ、大学や病院の設立など、各種社会事業に広く関係した。』
渋沢先生は「論語」を拠り所とされていました。そして竹内先生が編・解説をされた『論語の読み方』は、渋沢先生の『論語講義』のエッセンスを集大成したものであり、竹内先生の他の2つの著書、『孔子 人間、どこまで大きくなれるか』と『孔子 人間、一生の心得』を再編成したものでした。
しかしながら、話に水を差してしまうのですが、実は『論語講義』は渋沢先生自らが執筆されたものではないということです。そのことは“公益財団法人渋沢栄一記念財団 情報資源センター”さまのサイトに出ていました。
『公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターがお送りするブログです。渋沢栄一、社史を始めとする実業史、アーカイブズや図書館に関連する情報をご紹介しています。』
『渋沢栄一述とされる【論語講義】は、そもそも二松学舎の舎外生のために発行された【漢学専門二松学舎講義録】という全30回の月刊刊行物に29回(12号は休載)にわたって掲載された記事をまとめたものである。渋沢が口述したものを二松学舎教授の尾立維孝が筆述したとされるこの【論語講義】について、本論の筆者は「稿本」「初版本」「新版」等を詳細に比較検討した。その結果この【講義】は渋沢が口述したのではなく、渋沢述の【実験論語処世談】に基づいて尾立が起稿したもので、渋沢の校閲を経た上で連載されるはずであった。しかし校閲が間に合わず尾立の原稿のままで刊行が始まってしまい、渋沢の校閲が追いつくことはついになかった、と結論づけている。』
ブログのタイトルを”論語講義”ではなく、“論語と仁”としたのは『論語講義』が『実験論語処世談』からの起稿であり、渋沢先生の校閲を受けていない本だからです。
また、「仁」を特別の存在として注目し、取り上げたのは論語の中で「仁」は圧倒的に大事なものとされてきたためです。それは次の解説で明らかです。
『この仁の一文字は孔子の生命で、また「論語」二十編の血液である。もし孔子の教訓から仁を取り去ったならば、あたかも辛味のぬけた胡椒と同じであろう。孔子はこの仁のために生命を捧げたほど大切なことで、孔子の一生は仁を求めて始まり、仁を行なって終わったといっても差し支えない。孔子の精神骨髄は仁の一字にあり、このゆえに孔子は仁をもって倫理の基本とすると同時に、他の一面においては政治の基本としたのである。王政王道もつまり仁から出発したものである。』
さらに、次のような記述もありました。
『仁は「論語」の最大主眼であるから、孔子はあらゆる角度からこれを丁寧に詳しく説明している。そのため、中国・日本の古今の学者がさまざまな解釈を下して一定しない。そして、たいてい文字上の言句にとらわれて空理空論の悪弊を生み、わが国の学問もこれを受け継いで、学問と実生活が別物となり、学問は学問、実生活は実生活と分離してしまった。』
1.『子曰く、苟[イヤシ]くも仁に、志す。悪きことなり。』
●自分を大切にせよ、だが偏愛するな
・人間が悪事をなすのは、自分の偏愛、利己主義から始まる。
・仁者は広く大衆を愛し、利己を考えない。
・仁に生きることは純粋な心で行動することである。
・仁に志し、仁に生きようとするならば、その人の心に悪は生じない。
2.『或ひと曰く、雍[ヨウ]や仁にして佞[ネイ]ならずと、子曰く、焉[イズク]んぞ佞を用いんや。人に禦[アタ]るに口給を以てすれば、しばしば人に憎まる。その仁を知らざるも、焉んぞ佞を用いんや。』
●“口”の清い人、“情”の清い人、“知”の清い人
・弁が立たたないことは、むしろ美徳であり短所ではない。
・仁は徳の中心であり、基本である。
・広く民に施して大衆を救うのが仁である。
・仁者はその言行が親切で、言葉やさしく、自分の意見を述べるときも穏やかに説明して、大変人あたりがよい。
3.『樊遅[ハンチ]、知を問う。子曰く、民の義を務め、鬼神を敬して而してこれを遠ざく、知と謂うべし。仁を問う。曰く、仁者は難きを先きにして、而して獲ることをのちにす、仁と謂うべし。』
●孔子流の「先憂後楽」の生き方
・仁者は自分中心の心に打ち克って礼に立ち返り、誠意をもって人に接する。苦労を先にして、利益を獲得するのを後にするのが仁である。
4.『子曰く、道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に游ぶ』
●孔子が考えた“完全なる人物”像
・仁とは博く愛することで、単に自ら足るを知って他へ迷惑をかけないだけでなく、他へ幸福を分かち与えようとする心情である。
5.『子曰く、仁遠からんかな。我仁を欲すれば、ここに仁至る。』
●ひからびた心の畑に“慈雨”を降らせる法
・仁は忠恕(思いやりの心を推し進めて広く人を愛し、他人と自分との垣根を取り払うこと)。つまり、仁は自分の心の中にあり、外に求めるものではない。心から仁を求めようとするならば、仁は近く自分の心の中にあって、即時に仁は得られるものである。
6.『子曰く、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼[オソ]れず。』
●これこそ「知・仁・勇」三徳のバランスに秀でた人物
・“論語”では仁者について、時に極めて狭義に解釈し、時に非常に広義に説かれている。
・ある場合には人を愛する情であるとか、他人の難儀を救う行為を仁としている。また、ある場合にはよく天下国家を治め、万民を安住させることを仁の極致であると言っている。
・仁者は天命を知り、一点の私心がなく、おのれの分を尽くし、人間としての道を行うのであるから、いささかの煩悶もなく、すべての物事に対して憂いというものがない。心中つねに洋々たる春の海のような気分である。これは仁者に備わる徳である。
・勇者はその心が大きく強く、常に道義にかない虚心坦懐であるから、何事に遭遇しても恐れることがない。これが勇者の徳である。
・人間は知と勇ばかりではいけない。知恵のある人、勇気のある人はもとより貴ぶべきではあるが、知勇は性格上の一部分であって、これだけでは完全な人とはいえない。仁を兼ね備えてはじめて人間としての価値が生じるのである。よって仁こそが最上の徳である。
7.『顔淵仁を問う。子曰く、己に克って礼を復[フ]むを仁となす。一日己に克って礼を復めば、天下仁に帰す。仁をなすは己に由[ヨ]る。而して人に由らんやと。顔淵曰く、その目を請い問う。子曰く、非礼視ること勿れ。非礼聴くこと勿れ。非礼言うこと勿れ。非礼動くこと勿れと。顔淵曰く、回不敏と雖[イエド]も、請うこの話を事とせんと。』
●孔子の最高弟・顔淵にしてこの“日頃の戒め”あり
・顔淵は孔子の門弟3000人中の高弟72人の中で最高の人である。年は孔子より37歳若かったが、徳行家で孔子に次ぐ人と称せされ、「亜聖」の名があったほどの人物である。
・顔淵は孔子に対して、「仁とはいかなるものですか」と質問した。以下は孔子による回答。
-自分の欲望に打ち勝ち何事にも礼を踏まえて行なう。これを仁という(仁の体)。
-一日でも自分の欲望に打ち勝ち、礼を踏まえて行えば、人々はすべてその仁にすがる。その影響の迅速なことは、早飛脚で命令を伝えるようなものである(仁の効)。
-仁は元々自分の心の中にあって、よそから借りてくるものではない。だから仁を実践しようと欲すれば、仁は直ちに成立する。いつでもどこでもこれを成し得る(仁の用)。
・仁は上記のように、極めて広大なものである。仁は天下国家を治める道にもなり、一家をととのえ一身を処する道ともなる。その徳は天地に充満して草木禽獣すべて仁のもとに息づくのである。
・人に対して優しく指示をするのも仁の一つである。不幸な人に同情するのも仁である。
・上を敬い下を慈しむのも仁である。広く施して大衆を救うのは仁の大きなものである。
・すべて人間が私心私欲に打ち勝って、その言動が礼にかなって行き過ぎがなければ、それがすなわち仁である。
・七情(喜・怒・哀・楽・愛・悪[憎]・欲)の発動がよく理知でコントロールされるのが仁である。
8.『子曰く、剛毅朴訥[ゴウキボクトツ]は仁に近し。』
●温室の中では、“心のある花”は育たない
・「剛毅木訥」は「巧言令色」と対になった言葉である。
・人の資質が堅強で屈せず(剛)、またよく自ら忍ぶ者(毅)、容貌質朴で飾り気なく(木)、言語がつたなくて口がうまくない者(訥)は、みな内に守るところがある。内に守るところがある人は、学んで仁徳を成就しやすい。
・剛毅木訥がそのまま仁であるとはいえないが、このような人は仁を成しやすいので、仁に近しというのである。
9.『子曰く、徳ある者は必ず言あり、言ある者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり、勇者は必ずしも仁あらず。』
●人の“言葉と徳”だけは「逆も真なり」は通用しない
・仁者は人の危難を見過ごせず、義を見れば必ず身を殺してもこれを救う。だから仁者は必ず勇気をもっている。しかし、勇気は血気に乗じて発揮することもあり、勇者が必ずしも仁者であるとは限らない。
番外編:“青天を衝け”
“青天を衝け”では、栄一が血洗島を出て江戸に行きたいという熱い思いを、父にぶつけるシーンがありましたが、活字で見るとより重さを感じます。ここでは栄一へ渡された父からの言葉をご紹介します。
『人にはおのおの備わった才能がある。またおのおのの異なった性分がある。その性分の好む所に向かって驀進するのが、天分の才能を発揮する方法であるから、お前を遠く外へ出したくはないけれども、お前の決心もわかったし、また必ずしも悪い思いつきでもない。強いて止めればお前は家出するだろう。そうなれば不幸の子となるから、強いて止めはしない。お前の身体はお前の自由にするがよい。望みどおり出発せよ。』
筋膜性疼痛症候群(MPS)研究会は、2018年4月、日本整形内科学研究会(JNOS)となり、前身の会員だった私は幸いにも新しくなったJNOSの准会員として、引き続き勉強させて頂いています。充実したオンラインセミナーは後日、動画配信されるため多くの有意義な機会を得ることができます。
今回のブログはその動画配信で学んだことであり、本はその時、紹介されていたものです。
“5W1H”の中には、“Why”も含まれていますが、「対話型ファシリテーション」の極意は、事実を明らかにすること、そのためには「なぜ?」「どうです?」を使ってはならないということです。これはかなり衝撃的でした。
著者:中田豊一
出版:認定法人ムラのミライ
初版発行:2015年12月
ブログで触れているのは、もくじの黒字の箇所です。
もくじ
1.「なぜ?」と聞かない質問術
2.「どうでした?」ではどうにもならない
3.「朝ごはんいつも何食べる?」の過ち
4.簡単な事実質問が現実を浮かび上がらせる
5.「いつ?」質問の力
6.行動変化に繋がる気付きを促すファシリテーション
7.○○したことは、使う
8.信じて待つ=ファシリテーションの極意
9.気付きには時間がかかる
10.達人のファシリテーション
11.対話型ファシリテーションを使うインドの村人
12.答えられる質問をする
13.それは本当に問題か
14.都合のいいように解釈する
15.時系列で聞いていく
16.対話型ファシリテーションの実践性
17.○○が足りない
18.問題とは何か
19.栄養不良の原因は何か
20.考えさせるな、思い出させろ
21.空中戦を地上戦に
22.対話型ファシリテーションは最強のコミュニケーションツール
6.行動変化に繋がる気付きを促すファシリテーション
●ファシリテーションはまちづくりや開発教育などのための参加型のワークショップの進行役がファシリテーターと呼ばれるようになり、それに伴って、技能としてのファシリテーションという言葉が徐々に広まった。
●ファシリテーションの技能の核心は、ワークショップなどにおいて、参加者の気付きを「促す」ことにある。
●養豚の方法についてラオスの村人達と研修したときの話(2回の研修では出席者は全員男性だった)
・ファシリテーター:①「今朝、豚に餌をあげましたか?」(全員、うなずく) ②「餌をあげる作業は誰がやりましたか?」(参加者の6世帯中、5世帯は妻の仕事だった)→村人曰く「母ちゃんを連れてきます」との気付きが生まれ、結果的に次回の研修では多くの村人が夫婦での参加となった。
・対話型ファシリテーションは、簡単な事実質問によるやりとりを通して相手に気付きを促し、その結果として、問題を解決するために必要な行動変化を当事者自らが起こすように働きかけるための手法である。重要なことは、問題の当事者の「気付き」が「行動変化」のための大きなエネルギーになるということである。
7.○○したことは、使う
①聞いたことは、忘れる。
②見たことは、覚えている。
③やったことは、わかる、身に付く
④自分で見つけたことは、使う
・自分で見つけたもの以外は、ほとんど忘れる。ファシリテーションでは相手が答えを自分で見つけるまで、粘り強く働きかける必要がある。
・自分で発見することは、気付きの喜びを得ることでもあり、その喜びをエネルギーに行動変化のための第一歩となる。
・同じ答えでも自分が見つけるのと他人から教えてもらうのとでは、心理的な効果という点では、天地の差がある。
●実際の場面では、すぐに気付くわけでも、すぐに行動に移るわけではなく、ほとんどの場合多くの時間を要する。そのため、ファシリテーターは焦ることなく地道に働きかけを続けていくことが求められる。
10.達人のファシリテーション
●対話型ファシリテーションの訓練は複雑なものではなく、「事実質問に徹する」という単純な実践の繰り返しである。事実質問を重ねていくと、人間の意識と行動と感情を繋ぐ糸の共通の仕組みがだんだんと目に見えるようになっていく。
●意識と行動と感情を繋ぐ糸は、「これは何ですか?」「それはいつですか?」と聞いていくことで見えてくる。
12.答えられる質問をする
●対話型ファシリテーションの前提は相手のことに関心をもっているということである。また、その際心がけることは「相手が答えられる質問をする」ことである。
●「答えられる」という意味は2つある。1つは、思い出す努力を少しすれば楽に答えられることである。代表的な質問は、「いつ、どこで、誰が?」というものである。もう1つは、心理的に答えやすい質問である。嫌なことを思い出させるような質問を無神経にしていては、相手は距離を置き、心を開くことはない。
●相手が答えられる簡単な事実質問をすることが、敬意を伝えるために最高の方法である。簡単な事実質問に答えているうちに、相手の自己肯定感が高まり、自然と互いの心が開かれていく。
14.都合のいいように解釈する
●人が自分自身の問題の原因を分析する場合、自分の都合のいいように解釈するのは、人に元々備わっている精神の自己防衛システムであり、重要な役割を果たしている。しかしながら、それ故に自分の問題の原因を冷静に客観的に分析するのは、本人が考えているよりはるかに難しいものとなる。
●人は相手が問題について語り始めると、「それは何故ですか」「どうしてですか」とつい聞いてしまう。すると、人は自分勝手な安易な原因分析や用意していた言い訳を離し始めてしまう。
・例)「なぜお子さんに朝ご飯をきちんと食べさせないのですか?」→「朝は時間がないからです」あるいは、「子どもが朝早く起きないからです」等々。
●相手の問題や失敗について「なぜ?」と直接聞くと、詰問や非難のように取られることも少なくない。本当の原因を知りたい場合は、「なぜ?」「どうして?」は使ってはいけない。
●問題を明らかにするための支援では、「問題はなんですか?」という問いかけは、「なぜ?」や「どうして?」と同様に、問題の真実をむしろ隠してしまう。
15.時系列で聞いていく
●対話型ファシリテーションでは、相手が問題を語り始めたら、まずは、「一番最近、それで誰がどのように困りましたか?」あるいは「それを解決するためにどんな努力をこれまでしてきましたか?」と聞く。そして、それが本当に問題だという合意をすることが必須であり、その確証がないまま本格的な分析に入っていってはいけない。
●合意できた問題の分析の基本は、常に、「いつですか?」「覚えていますか?」と聞きながら、時系列で質問を進めていくことである。一般的には、一番最近のことから聞いていき、徐々に古い記憶を呼び起こし、問題の大まかな姿が明らかになったら、いよいよ出発点の話に入っていくのが良い方法である。
●Nさん(喘息患者)に対する医師Aと医師Bの例
Nさん:かなり前から、時々、喘息発作に襲われていて、その都度手近な医院に駆け込んでいた。
・医師A:「どの程度の頻度で発作が起こりますか?」→Nさん:「年に2、3回くらいだと思います」。この結果、医師はその都度、薬を処方し発作は治まるということをここ何年も繰り返してきた。
・医師B:「前回、発作が起こったのはいつですか?」「その前は?」→これらの質問の結果、最近4カ月の間に少なくとも3回くらい発作が起こっていたことが分かった。
-医師B:「最初に喘息が起こったのはいつですか?」→Nさん「小さい時から小児喘息があったんです」→医師B「あったということは、それは治ったんですね?」→Nさん「はい、治りました」→医師B「それはいつですか?」→Nさん「高校生の時です」→この段階でNさんは気付いた。それは、高校を出るまでは母が付き添ってくれて定期的に通院していたけど、大学生になってからはそれがなくなり、たまに発作が起こっても病院に行かなくなり、誰からも「治った」と言われたことがないのに、「小児喘息は治った」と勝手に思っていた。という事実を認識した。
-医師B:「今の薬は強すぎますね。強い薬を使わず、微量の薬を毎日服用し時間を掛けて喘息との付き合い方、薬の手放し方を対処していきましょう」→Nさんは、今まで自分から進んで努力してこなかったが、今回、自分の病歴をはっきり意識し、自分でしっかり受け止めたところ、前向きのエネルギーが出てきたとのことである。まさにこれが、『自分で見つけたことは使う』ということである。
18.問題とは何か
●「問題とは“こうありたい姿”と“現実の姿”との距離である」という定義をコンサルタントは使うようである。問題の大小は距離の大きさになる。距離を縮める方法は2つ、一つはありたい姿に現実を変えていく方法、もう一つは目標を下げる方法である。そして、まずはっきりさせなければならないのは2つの距離である。距離は問題を明らかにすることであり、目標を設定することである。距離が明確になると、内側からやる気が湧いてくる。距離を縮める方法を考えることも、それを実行に移すことも、前向きになれることが多いのはファシリテーションの力といえる。
第一部 宇宙と量子と人間の心
第三章 心の神秘
意識はコンピュータに乗せられない
・意識というものは科学的に説明すべき問題である。
・図3-4は物質的世界と精神的世界をまとめたものである。
画像出展:「心は量子で語れるか」
『右側には“物質的世界”の様子が示されている―第一、第二で論じたように、物質的世界は、正確で数学的な物理法則によって支配されていると考えられる。左側には“精神的世界”に属する意識や、“魂”や“精神”や“宗教”などの言葉が並んでいる。』
微小管は八面六臂
・微小管はシナプス強度[シナプスにおける情報伝達率]の決定に関係していると思われる。
・微小管がシナプス強度に影響を与える方法の一つは、樹状突起棘の性質に影響を与えることであると思われる。これは棘内部のアクチン(筋肉収縮のメカニズムを司る不可欠な構成要素)に変質が起こることによって引き起こされる。樹状突起棘に隣接する微小管は、このアクチンに強く影響を与え、ひいてはシナプス結合の形またはその誘電特性に影響を及ぼす。
・『微小管がシナプス強度に影響を与える方法は、このほか少なくとも二通りある。信号を、あるニューロンから次のニューロンに伝える神経伝達物質の運搬に、確かに微小管は関与している。神経伝達物質を軸索や樹状突起に沿って運ぶのが微小管であり、その働きは、軸索の先端や樹状突起の中の化学物質の濃度に影響を与えるだろう。そして、これがシナプス強度に影響を及ぼすことになろう。さらに微小管は、ニューロンの成長と退化に影響を与え、その結果、ニューロンを連結してできたネットワークそのものを変えてしまうだろう。』
・『微小管とは何か? その一つを図3-18に描いた。それは“チューブリン”と呼ばれる、蛋白質から成る小さな管である。それはいろいろな点で興味深い。チューブリンは、(少なくとも)二つの異なる状態、または構造をもっていて、一方の構造から他方の構造へと変化できるようである。一見してわかるように、それはメッセージを管に沿って送ることができる。
事実、スチュアート・ハメロフ[米国の麻酔科医。ロジャー・ペンローズとの意識に関する共同研究で有名]と彼の同僚は、管に沿って信号を送る方法について、興味深い考え方を示している。ハメロフによると、たぶん微小管は“セル・オートマトン”[空間に格子状に敷き詰められた多数のセルが、近隣のセルと相互作用をする中で自らの状態を時間的に変化させていく「自動機械(オートマトン)」である。計算可能性理論、数学、物理学、複雑適応系、数理生物学、微小構造モデリングなどの研究で利用される]のように振る舞い、その管に沿って複雑な信号を伝達するのだという。チューブリンの二つの異なる構造が、デジタル・コンピュータの0と1を表現していると考えてみよう。すると1個の微小管が、それ自身でコンピュータのように振る舞うことができるから、ニューロンがどんなことを行っているかを考察する際には、この点を考慮しなければならない。各ニューロンは単にスイッチのような働きをするのではなく、非常に多くの微小管をもっていて、それぞれの微小管は極めて複雑なことをやってのけるのである。』
“意識”の理解に最も必要なこと
・『ここから、私自身の考えに入ろう。以上の過程を理解する上で、量子力学は欠かせないものかもしれない。微小管で私が最も興味をおぼえることの一つは、それらが“管”だということである。管であるがゆえに、管の内部で起こっていることを周囲のランダムな動きから隔離できる可能性が高まってくるのである。
第二章で私はOR物理学という新しい形式が必要だと主張した。そしてOR物理学が適切であるならば、周囲から十分に隔離されて、量子的に重ね合わされた質量移動が可能になるに違いない。管内部では、何か超伝導体[電気抵抗ゼロの物質]のような、ある種の大規模な量子的干渉[波動関数の重ね合わせの結果起こる干渉現象]が生じているのだろう。この活動が(ハメロフ型の)チューブリン構造と結びつき始めたときにのみ、おそらく顕著な質量移動を伴うはずだ。ここでは“セル・オートマトン”の振る舞い自体が、量子的重ね合わせの影響を受けるかもしれない。起こりうる状況を図3-19に描いておいた。
この図の一部で、おそらくあるタイプの干渉性量子的振動が、管内部で生じているに違いない。この量子的振動は脳の広範な領域にまで及ぶ必要があろう。
かなり以前にハーバート・フレーリッヒが、一般的なタイプの量子的振動に関して、いくつかの提案を行った。それによって、生物学の体系の中で、この性質をもつ対象の存在が、いくぶん現実性を帯びてきた。微小管は、その内部で大規模な量子的干渉が生じている構造と考えて差し支えないと思われる。』
・『私には、意識というものが何か大域的なものだと思われる。したがって意識の原因となるどんな物理過程も、本質的に大域的な性質をもっているに違いない。量子的干渉は確かにこの点での要求を満たしている。そのような大規模な量子的干渉が可能であるためには高度な隔離が必要とされ、微小管の壁によって、それが実現されているのかもしれない。しかしチューブリンの構造が関与するとなると、さらに多くのことが必要となる。
こうして要求される周囲からの隔離は、微小管のすぐ外側にある“秩序化された水”によってなされるだろう。(生きた細胞には存在することが知られている) 秩序化された水は、管の内部で起こる量子的干渉性振動の重要な構成要素でもあると思われる。このことはいささか難しい要求かもしれないが、以上のことがどれも事実だということは、たぶん全くの不合理というわけではないだろう。
微小管内部での量子的振動は、何らかの方法で微小管の活動、すなわちハメロフが言うところのセル・オートマトンの活動と結びつける必要があるだろうが、ここでは彼の考え方と量子力学とを結びつけなければならない。すなわち現段階では、通常の意味での計算活動だけではなく、こうしたさまざまな活動の重ね合わせに関連する量子計算も考慮しなければならない。
もし以上の話がすべてだとしたら、まだ私たちは量子レベルにとどまっていることになる。ある時点で、おそらく量子状態は環境と絡み合ってくるだろう。そのとき私たちは、量子力学における通常のRという手順に従って、一見したところランダムな方法で古典レベルへ飛び上がることになる。だが純粋な計算不可能の登場を期待するならば、これでは全く不十分である。そのためには、ORの計算不可能な側面が現れてこなければならないし、それには高度な隔離が要求される。
かくして、新たなOR物理学が重要な役割を演じるのに十分な隔離を行う何かが、脳の内部に存在しなければならない。つまり私たち〔の脳〕に必要なのは、重ね合わされた微小管による計算が一旦開始されるや、その計算が十分に隔離されて、その結果、新しい物理学が本当にその役割を果たすようになることである。
というわけで、私が考えている状況は次のようになる。しばらくの間この量子計算が進行し、十分に長い間(たぶん一秒くらいのオーダーで)、その計算は他の要素から隔離され続ける。そうすると、私が話した種類の基準が通常の量子的手順を引き継いで、非計算的な構成要素が登場し、標準的な量子論とは本質的に異なる何かが得られるのである。
もちろん以上の考え方の至る所に、かなり推測が入っている。だがそれらは、意識と生物物理学的な過程との関係をかなりはっきりと定量的に描いており、私たちに何かしら本物の展望を与えている。少なくとも私たちは、OR作用が関与するためには、どのくらいのニューロンが必要かを計算できる。
その計算に必要なものは、第二章の終わりにかけて私が述べた時間スケールTの、およその見積もりである。つまり、意識上の出来事がORの出現と関係していると仮定するなら、Tをいくつと見積もるのか? 意識はどのくらいの時間を要するのか? これらの問題に関連した二つのタイプの実験があって、そのいずれにも、リベットと彼の同僚がかかわっている。二つの実験のうち一方は自由意志または能動的意識を、もう一方は、感覚または受動的意識を扱っている。』
画像出展:「心は量子で語れるか」
客観的収縮=OR
『将来、物理学が成し遂げねばならないと思うことを示すため、図2-17には修整が施されている。Rという文字で表現した手続きは、まだ私たちが見つけていない何かを近似したものである。その未発見の何かとは、私がORと呼ぶものであり、“客観的収縮(Objective Reduction)”を表してる。
ORは客観的事実である― 一方、“または”他方が客観的に起こる ―今なお私たちには欠落している理論である。ORというのは、うまい頭文字になっている。というのもORは“または”をも表しており、それは実際、一方“もしくは”(OR)他方のどちらかが起こるからである。』
画像出展:「心は量子で語れるか」
自然が審判を下すための時間
『プランク長の10⁻33センチメートルは、量子状態の収縮とどんな関係があるのだろうか? 図2-19に、分岐しようとしている時空をかなり模式図的に示した。
ここで、二つの時空(一方は生きた猫を、他方は死んだ猫を表すことができる)が一つの重ね合わせに至る状態があって、この二つの時空は何とかして重ね合わせられる必要があるとしよう。このとき、次のような疑問が生じる。
「互いに法則を変えるべきだと思えるほど、二つの時空が十分に異なるようになるのはいつか?」
ある適切な意味で、二つの時空の差がおよそプランク長のオーダーに等しくなるとき、私たちはそのような状況に遭遇するだろう。二つの時空の幾何学がそれくらいの違いを見せ始めるとき、そのときこそ、私たちは法則が変わることを心配しなくてはならないだろう。なお、強調しておくが、私たちが扱っているのは時空であり、単なる空間ではない。
“プランク・スケールの時空分離”については、小さな空間的分離がより長い時間に対応し、より大きな空間的分離がより短い時間に対応する。ここで必要なのは、どんな場合に二つの時空が有意に異なるかを見積もるための評価基準である。
そこから、二つの時空の間で自然が選択を行う際の“時間スケール”が導かれるだろう。こうして自然は、私たちが未だ理解していない何らかの法則に従って、どちらか一方の時空を選択するのである。
この選択を行うのに、自然はどのくらいの時間を要するのか? アインシュタインの理論に対するニュートン的近似が十分であって、かつ、量子論重ね合わせ(二つの複素振幅の大きさは大体等しい)に従う二つの重力場が明らかに異なるとき、その時間スケールを設計することができる。私が示そうとする答えは、次のようになる。まず猫を球体で置き換えてみる。
では、その球体はどれくらいの大きさで、どこまで動かなければならないのか? また状態ベクトルの崩壊が生じるための時間スケールはどれくらいなのか(図2-20)?
画像出展:「心は量子で語れるか」
私は、一つの状態ともう一つの重ね合わせを、不安定な状態―それは崩壊しかかっている素粒子やウラン原子核などに少し似ている―と見なしたい。素粒子などは崩壊すると別のものになるが、その崩壊と結びついた一定の時間スケールが存在する。状態の重ね合わせが不安定だというのは一つの仮説だが、この不安定性は、私たちが理解していない物理学の存在を暗示しているはずである。
崩壊の時間スケールを算出するため、ある状態の球体を、(その球体の)別の状態の重力場から移動させるために必要なエネルギーEを考えてみよう。プランク定数を2πで割ったℏ[換算プランク定数またはディラック定数]を重力エネルギーEで割ると、この状態での崩壊に対する時間スケールTとなるはずである。
T=ℏ/E
この一般的な推論に従う多くの理論がある。一般的な重力理論は、細かな点では違いがあるものの、どれもこれと何かしら同じ趣き〔似たような関係〕を備えている。』
“微小管”について
まずは「人体の正常構造と機能」という本に出ていた3つの図をご紹介します。
●微小管は太さ約24㎚の中空の管であり、チューブリンという蛋白質からできている。
●線毛や鞭毛の動きは微小管が行っている。
●神経の軸索突起などの大きな細胞突起を支持する。
●細胞分裂の際に、染色体を両極に引っぱる紡錘糸は微小管からできている。
画像出展:「人体の正常構造と機能」
■線毛の芯は“9+2配列”の微小管でできている
『線毛の中央部は直径0.25~0.3μmで、電子顕微鏡で観察すると、各線毛は細胞膜で囲まれ、その中に微小管とその付属蛋白からなる軸糸という構造が認められる。軸糸を構成する微小管は、チューブリンという球状蛋白が重合してできた管状の構造物で、外径25㎚、壁厚5㎚ほどある。軸糸の中心には1対の単一微小管からなる中心微小管があり、そのまわりを9対の二連微小管からなる周辺微小管が取り囲む。各周辺微小管の作る面は、線毛の接線面に対し5~10度傾いており、中心近くにあるものからA細管、B細管と呼ぶ。A細管と中心微小管とはスポークで連結される。またA細管から隣の周辺微小管のB細管に向かって、ダイニンというモーター蛋白でできた2本の腕突起(内腕と外腕)が伸びており、内腕はさらにネキシンの細い線維が結合している。これらは微小管の長軸方向に一定の間隔で並ぶ。線毛の先端側は微小管のプラス端にあたり、各微小管は自由な断端となって終わる。線毛の根元側は微小管のマイナス端にあたり、細胞質内まで伸びたところで周辺周辺微小管にさらにC細管が加わり、基底小体という三連微小管となる。この周辺には根小毛という線維束があり、線毛を細胞質に固定している。基底小体下にはミトコンドリアが豊富である。』
■線毛の屈曲運動は微小管の滑り合いによって起こる
『線毛の屈曲は、周辺微小管の滑り合いにより生じる。周辺微小管の腕突起を構成するダイニン蛋白はATPase活性を持ち、ATPの存在下で隣の微小管のB細管上をマイナス端へ向かって移動する。その結果、微小管どうしが滑り合い、線毛は屈曲する。滑り合いと屈曲運動の関係は、短柵状の紙を2枚に折って重ねて指で滑らせてみると納得がいくだろう。線毛内のスポークやその他の連結の役目をする構造物も、線毛運動の調節をしていると考えられている。』
画像出展:「人体の正常構造と機能」
■精子は長距離を移動するために無駄のない形をしている
『尾部[遊泳運動を担う]は長さ約60μmの鞭毛からなる。鞭毛の中心を軸糸と呼ばれる構造が全長にわたって走行している。軸糸は、2本の中心微小管とそれを取り巻く9対の周辺微小管で構成され、線毛にみられるのと同様の構造である。これらのチューブリンという蛋白質からなり、その滑り合いによって軸糸を屈曲させ、独特の三次元的波状運動をもたらす。軸糸の屈曲に要するエネルギーは、中間部の軸糸をらせん状に取り囲むように配列するミトコンドリア鞘で産生されるATPによって供給される。』
画像出展:「人体の正常構造と機能」
■軸索輸送によって必要な物質が供給される
『軸索内には蛋白合成を行う細胞内小器官がない。そのため、軸索の成長やシナプスの形成に必要な蛋白質や小器官は、細胞体で合成されたのち、軸索を通って輸送される。これを順行性軸索輸送という、逆に、神経終末で取り込まれた栄養因子や化学物質は、逆行性軸索輸送により細胞体へ輸送される。微小管がこれらの輸送のレールの役目を果たし、モーター蛋白のキネシンをはじめとするKIF蛋白は順行性の輸送に、ダイニンは逆行性の輸送に働く。
順行性輸送では、いろいろな物質が異なる速さで運ばれる。シナプス小胞は速い流れ(100~400㎜/day)で、ミトコンドリアは中間の流れ(60㎜/day)で、細胞骨格(アクチン、ニューロフィラメント、微小管)は遅い流れ(10㎜/day以下)で運ばれる。逆行性輸送では、100~200㎜/dayの速さでライソソームなどが運ばれる。
軸索内では、微小管はチューブリンの重合と脱重合の速度が速い分、つまり微小管の伸長している部分(プラス端)は絶えず遠位側にある。また、軸索にはタウ蛋白と呼ばれる微小管関連蛋白が特異的に分布しており、チューブリンの重合を促進し微小管の安定化に寄与している。』
続いて、「病気を治す飲水法」に出ていたもの(ブログは“飲水の重要性”)と、その時に見つけたサイトをご紹介します。
画像出展:「病気を治す飲水法」
『脳で生産された物質は、水に乗って、神経終末部の目標地点にたどり着き、情報の伝達に使われる。神経には、情報を梱包して流す「極微細管」と呼ばれる微細な水路が存在する。』
原文が確認できないので、“極微細管”が“微小管”のことであるのかは分からないのですが、図を見る限り、同一のものだと思われます。この図に興味をもったのは、「神経伝達に水路がある」ということに大変驚いたためです。
この時、この“水路”に関してネットで見つけたサイトが以下のものになります。残念ながら“水路”というものではなかったのですが、絵が似ていたことと、「細胞内輸送の解明にかける思い」という記事から関係があるように思いました。
画像出展:「UTokyo Focus」
『細胞は細胞液の入った風船のようなもので、その中に核やミトコンドリアなどの細胞小器官が漂っていると思われがちです。しかし、実際には、微小管というレールが整然と張り巡らされており、それに沿ってミトコンドリアや小胞(膜でできた袋)などの「荷物」が行き来しています。これを「細胞内輸送」といいます。レールの上で荷物を運んでいるのは、小さなモータータンパク質です。「モータータンパク質が人間のサイズだとしたら、直径5mの土管の上を、10トントラックをかついで、秒速100m以上の速さで走っていることになります」と語るのは、医学研究科の廣川信隆特任教授。神経細胞をモデルとして、細胞内輸送のメカニズム解明に取り組んできました。』
感想
「心や意識は脳が作り出すもの」。これは正確ではないかもしれませんが、深く関係しているのは間違いありません。
ストレスは脳にアタックをかけます。脳が疲労し、その疲労が身体におよぶと自律神経失調症が懸念されます。ちょっと強引ですが、「病は気から」ということわざの“気”は脳の疲労などによってもたらされた“ネガティブな意識”ということかもしれません。
一方、「ポジティブ・シンキング」、「瞑想法」などはネガティブなストレスとは異なり、心身にとって良いポジティブなものですが、こちらも脳(心や意識)と肉体のつながりを感じさせます。
以下の左図に書かれているように脳は“神経系”の中の“中枢神経系”とよばれています。これは脳が指令を出すためです。出された指令は“末梢神経系”によって然るべき組織や器官に届きます。“末梢神経系”には運動や感覚などの動物性機能を担う体性神経系(動物神経系)と、内臓や血管に分布して呼吸、消化、吸収、循環、分泌などの活動を不随意的に調節する自律神経系(植物神経系)があります。
なお、右側の図を見て頂くと、“神経系”は内臓を含め、体中をカバーしているのが分かります。
注)2つの図は「看護roo!」さまより拝借しました。
左図:“神経系はどんな構成になっている?”より
右図:“神経のしくみと働き|神経系の機能”より
左の図では“交感神経”も“副交感神経”も「遠心性」(脳⇒末梢)となっていますが、現在は次のような見解が正しいとされています。つまり、“自律神経”は「遠心性+求心性」(脳⇔末梢)ということです。
『求心性神経と遠心性神経:自律神経系(交感神経と副交感神経)は、かつては遠心性の線維のみからなるとされていたが、求心性線維も多く含まれていることがわかってきた。迷走神経(副交感神経)構成線維の約75%、内臓神経(交感神経)の50%は求心性線維とされている。 実験医学 2010年6月号 Vol.28 No.9』
“神経”は我々のような動物だけでなく、ゾウリムシのような単細胞生物にも存在します(「動くニューロン[神経細胞]」と呼ばれているそうです)。また、神経ということではありませんが、微生物とされるバクテリアの線毛にも微小管は存在しています。
以上のことから神経細胞の輸送のためのレールなど、微小管は地球上の多くの生物の中にあり、生命に深く関わっていると言えます。さらに、微小管は精子の尾部(鞭毛)にも存在しているので、種の保存という大事な仕事も任されています。
そして微小管はペンローズ先生がご指摘されているように“管”として内部と外部を分けることができるという大変興味深い特徴を有しています。マクロ(ニュートン力学)の世界とミクロ(量子力学)の世界を分けているのかも知れません。
ペンローズ先生は「心は量子で語れるか」の中で、“微小管”と“水”の関係についてもお話されていました。
『私には、意識というものが何か大域的なものだと思われる。したがって意識の原因となるどんな物理過程も、本質的に大域的な性質をもっているに違いない。量子的干渉は確かにこの点での要求を満たしている。そのような大規模な量子的干渉が可能であるためには高度な隔離が必要とされ、微小管の壁によって、それが実現されているのかもしれない。しかしチューブリンの構造が関与するとなると、さらに多くのことが必要となる。
こうして要求される周囲からの隔離は、微小管のすぐ外側にある“秩序化された水”によってなされるだろう(生きた細胞には存在することが知られている)。秩序化された水は、管の内部で起こる量子的干渉性振動の重要な構成要素でもあると思われる。』
この“水”は鍼灸師の私にとってとても興味深いものです。
人間の体は成人では60~65%が水で満たされています。また、東洋医学には“津液(シンエキ)”という考え方があります。津液とは人体を潤す全ての正常な水液とされています。この津液をあえて現代医学に当てはめて意識するときに、汗や涙、唾液や胃液、血漿、リンパ、漿液、脳脊髄液などを想像していました。今回の件で、その水の中には神経伝達に関わる水、微小管のすぐ外側にある“秩序化された水”があることを知りました。これは大きな発見です。私の“津液”のイメージにこの”秩序化された水”も加えたいと思います。
付記:ロジャー・ペンローズ先生は、2020年のノーベル物理学賞を受賞されました。
画像出展:「SankeiBiz」
画像出展:「WAKARA」
アインシュタイン以来の天才!?ノーベル物理学賞受賞ロジャー・ペンローズが生み出した現代宇宙観
『実は、ブラックホールが存在する可能性に気づいたのは、ペンローズが初めてではありません。天体物理学者カー・シュヴァルツシルトが、相対性理論の重要な方程式であるアインシュタイン方程式を解いてみたところ、ある特殊解が得られて、その結果特異点が存在することに気づきました。のちにブラックホール発見の重要なきっかけとなった特異点ですが、当時アインシュタイン自身はこの特異点について、「あくまで理論的な計算の結果出てきたもので、実在するものとは無関係である」と判断し、1939年の自身の論文でブラックホールの存在を明確に否定しているのです。
その説をアインシュタインが相対性理論を生み出した方法と同じ、計算によって覆して見せたのがペンローズでした。彼は相対性理論を拡張し、特異点、つまりブラックホールが相対性理論から自然に導かれる存在であることを証明しました。星の大きさに対して一定の重さになるとその星が崩壊し特異点を生じ、その特異点ではあらゆる物質、光でさえも一度入ると抜け出せない、ブラックホールになることを相対性理論から導いて見せたのです!彼が1965年に書いた画期的な論文は、相対性理論におけるアインシュタイン以来の前進とみなされています。』
邦題である「心は量子で語れるか」は、翻訳された中村和幸先生が付けられたのですが、それは次のような理由からです。
『なお、原題にあるように、本書では宇宙と量子と人間の心を扱っているが、意識は無数の量子によって生じるというペンローズの意を受けて、邦題では「心は量子で語れるか」とした。』
私は、以前“生物と量子力学3(意識)”というブログをアップしているのですが、その時にロジャー・ペンローズ先生の「皇帝の新しい心」という本の存在を知りました。そして、この時から「量子と心(意識)との関係」について関心を持っていました。
ネット検索中に「心は量子で語れるか」という本を見つけ、当然、難解な内容であることは承知しつつも思わず買ってしまいました。
本の内容は想像以上に難しく、ほとんど理解できませんでした。にもかかわらず、ブログにアップしたのは、この本の題名がとても気に入ったのと、微小管が謎を解く重要な器官らしいということを知ったためです。
この本がどんな本なのかをご説明することも難しいため、目次に続き、翻訳された中村先生が書かれた“翻訳にあたって”の冒頭の部分と、同じく中村先生の“訳者あとがき”の一部をご紹介させて頂きます。また、それ以降は微小管について書かれた第三章の“意識はコンピュータに乗せられない”、“微小管は八面六臂”、“意識の理解に最も必要なこと”の3つを中心にご紹介していますが、力不足のため要約することができず、多くが引用となっています。なお、[ ]内は用語説明として私自身が書き加えたものになります。また、ブログは長くなったので2つに分けました。
目次
マルコルム・ロンゲアによる序文
第一部 宇宙と量子と人間の心
第一章 宇宙の未完成交響曲
数学が描き出す世界
人間的スケールの不思議
誤解された量子力学
ニュートンの時空図、アインシュタインの時空図
光円錐の見方
驚くべき変換
ニュートン力学よりシンプルな相対論
重力は消えていない
テンソルは語る
アインシュタインはこんなにも正しい
目の前の空間を漂う理論
空間の曲率で宇宙を分類する
宇宙空間を牛耳る天使と悪魔
悩みから生まれた幾何学
ロバチェフスキー空間の魅力
COBE衛星が見たもの
見えないエントロピーをつかまえる
私たちが探し求める理論
ワイル曲率仮説
神の一刺し
第二章 量子力学の神秘
数学から物理学へ、物理学から数学へ
古代ギリシアに逆もどり?
どこでも量子力学
複素数の妙技
変わる法則
量子状態をどう表現するか
Zミステリー、Xミステリー
Zミステリー(1) 量子的な非局所性
Zミステリー(2) 爆弾検査問題
もしも量子力学を信じるならば
本当に“まじめ”なのか
多世界観による“認識”の解釈
“こちら”と“あちら”の扱い方
現実を記述するのは不可能か
すべての実用的な目的のためにできること
客観的収縮=OR
あらかじめ仕組まれた挫折
自然が審判を下すための時間
重力エネルギーの非局所性
“環境”が量子力学に及ぼす影響
立方体の完成を目指して
第三章 心の神秘
ホッパーが考えた第三の世界
三つの神秘、三つの偏見
意識はコンピュータに乗せられない
アウェアネス、自由意志、理解
アウェアネスに対する四つの立場
コンピュータが指した次の一手
簡単な計算にトライ
爆走する計算
Ⅱ₁文とは何か
完全な証明などあるのだろうか
チューリング対ゲーデル
二つのイラストでアルゴリズムの謎を解く
プラトン的世界との接触
ポリオミノ・タイリング
計算不可能性の台頭
ニューロンは計算的か
微小管は八面六臂
“意識”の理解に最も必要なこと
パラドックスを生む二つの実験
これが偶然と思えるか
第二部 ペンローズと三人の科学者
第四章 精神、量子力学、潜在的可能性の実現について
アブナー・シモニー ボストン大学名誉教授
序論
四・一 精神の解明を目指して
四・二 量子力学は心身の問題を説明できるか
四・三 潜在的可能性を実現させるために
第五章 なぜ物理学か?
ナンシー・カートライト ロンドン大学社会科学部教授
第六章 恥知らずな反論
スティーブン・ホーキング ケンブリッジ大学ルーカス記念講座教授
第七章 それでも地球は回る
ロジャー・ペンローズ
オックスフォード大学ラウズ・ボール記念講座教授
七・一 アブナー・シモニーへの回答
七・二 ナンシー・カートライトへの回答
七・三 スティーブン・ホーキングへの回答
訳者あとがき
翻訳にあたって
『本書は、今世紀における天才数学者の一人にかぞえられるロジャー・ペンローズが、彼自身の量子論や宇宙論の知識を駆使して、人間の魂の根源に迫ろうとした力作である。はたして現代物理学 ―特に量子力学― には、人間の意識について語る資格があるのだろうか? ペンローズ自身は、現在の量子力学は不完全だと考えており、それをより精密なものにすることによって、人の魂の成り立ちを説明できると主張している。もちろんこの主張には数多くの批判が寄せられているが、さまざまな機会をとらえて、ペンローズは自己の立場を擁護している。
それにしてもペンローズの話は、実に壮大なドラマである。まず新しい量子論を掲げ、次に数学の立場から人間の思考や意識の特色を探り出し、それらをふまえて物質から精神が生じるさまを説明しようというのである。さらにペンローズは、意識が生じる場所として、生体中の微小管をその候補に挙げている。
この予想が的確かどうかは、今後の科学の進展を待たねばならないが、幅広い知識に基づいて一つの仮説を作り上げた彼の構想力は、並大抵のものではない。また、実験で確認できることをペンローズは提案しており、論争の白黒はそこでつけられるだろう。』
訳者あとがき
『よく知られているように、量子力学ではシュレディンガーの波動方程式[粒子の運動状態を記述する方程式]が重要な役割を果たしている。その方程式には、現実世界では見かけない虚数単位i[2乗して-1となる数のこと(記号iで表す)]が登場し、何か奇妙な印象を与えるかもしれない。しかしペンローズが本書の第二章で述べているように、そうしたプラトニック[観念的]な構成を整えることによって、原子の安定性や電子のエネルギー準位[量子力学において電子が安定状態でもちうるエネルギーの値]などを、見事に説明することができたのである。現実をうまく説明できること、これは理論にとって非常に大切なことである。
だが科学の歴史をひもとくとわかるように、ある理論が数多くの現象をうまく説明できず、その解決には一般相対論の登場を待たなければならなかった。同じような事態が、実は量子力学でも起こりうるとペンローズは考えているのである。
ここで問題になるのは、本書で言うところの“状態ベクトルの収縮(R)”[この用語は、『心の影2―意識をめぐる未知の科学を探る』の “第2部 心を理解するのにどんな新しい物理学が必要なのか:心のための計算不可能な物理学の探求”の“5 量子世界の構造”の中に出てくるようです]である。
たとえば電子の場合、観測以前には決定論的で波の状態にあるが、観測した疑問にその波が一点に収縮してしまうのである。しかもそれがどこに収縮するかは確率論的にしかわからない。そもそも人間の観測によって収縮することをどう考えるのか? また量子レベルU(ユリタリ)[こちらは『心の影2』では“ユニタリ発展U”として出ているようです。また、大阪市立大学 橋本義武先生の“雑文集”の“量子力学の枠組み”に、『量子力学は、原子レベルの現象を統計的に記述する。用いるのはユニタリ行列の数学である。』との記述がありました]過程は時間反転に対して対称だが、R過程は時間反転に対して非対称になっている。
そこで、この状態ベクトルの収縮をめぐって、量子力学の世界にさまざまな解釈が生まれており、それをペンローズが第二章の図2-8で要約している。
その中で主だったものには、ニールス・ボーアを中心としたコペンハーゲン解釈[量子世界の物理状態は重ね合わさり、波を形づくっているが、観測された瞬間に波はしぼみ、1つの状態に落ち着く(波束の収縮)。どの状態が観測されるかは、波の振幅をもとに確率論的に予想できるというもの]やそれと通じるところがあるFAPP[“すべての実用的な目的のために(For All Practical Purposes)”の意味]があり、さらに多世界解釈[観測者の世界が枝分かれするとみる立場]がある。
コペンハーゲン解釈にはボルンの確率解釈理論[電子のような小さな粒子を観測する確率が、波動関数の絶対値の2乗に比例するという法則]的な計算と実験結果とが一致するのだが、波が収縮するメカニズムを明確にはしていない。
コペンハーゲン解釈:観測すると、電子の波が瞬時にちぢむ!? “とがった波”が、粒子のようにみえる
『一つの電子は「波と粒子の二面性」をもちます。この矛盾したような事実は、どう解釈したらよいのでしょうか。コペンハーゲンを中心に活躍したデンマークの物理学者のニールス・ボーア(1885~1962)らは、「コペンハーゲン解釈」とよばれる解釈を提案しました。
コペンハーゲン解釈によると、電子は観測していないときは、波の性質を保ちながら空間に広がっています。しかし、光を当てるなどして電子を観測すると、波が瞬時にちぢみ、1か所に集中した“とがった波”になります(波の収縮)。このような波が、粒子のように見えるというのです。
電子は、観測すると、観測前に波として広がっていた範囲内のどこかに出現します。しかしどこに出現するかは、確率的にしかわかりません。このような解釈をすれば、電子などの「波と粒子の二面性」を矛盾なく説明できると、ボーアらは考えたのです。』
画像出展:「13歳からの量子論のきほん」
また、観測ごとに世界が分裂していく多世界解釈についても、あまりエコノミカルではないとペンローズは批判している。
ではペンローズ自身は、どのような立場を取っているのか? 彼は現在のR(下部【注】参照)を本来あるべき理論の近似と考えており、重力も考慮に入れた“客観的収縮(OR)”(下部【注】参照)を提案している。ペンローズによると、ORは決定論的だが計算不可能な過程であるという。そこで彼は、決定論的だが計算不可能な過程がどのようなものか、“オモチャの宇宙”[計算不可能な例、“ポリオミノ・タイリング”。『しばしば、“オモチャの宇宙モデル”と呼ばれている―別のもっと良い例を思いつかないときに、物理学者がよく持ち出すものである。』]を例にして第三章を説明している。
こうした新たな量子重力の理論を予想しつつ、ペンローズは人間の意識が生じる過程について話を展開しているのである。彼の考えでは、量子力学に非計算的な要素があるので、人間の知性(意識)をコンピュータのような計算機械では再現できないという。』
【注】上記の“R”(Reduction)ですが、ペンローズ先生はそれを重力も考慮に入れた“客観的収縮(OR:Objective Reduction)”と位置づけ、量子レベル(U)と古典レベル(C)を関係付けるものとされています。なお、これについては、「第二章 量子力学の神秘」の中の「古代ギリシアに逆もどり?」、「変わる法則」、「客観的収縮=OR」のそれぞれの内容を組み合わせてまとめてみました。スッキリしたものではありませんがご参考になればと思います。
画像出展:「心は量子で語れるか」
古代ギリシアに逆もどり?
『第一章では、さまざまな対象のスケールを確かめた。それは、長さと時間の基本単位であるプランク長[量子的揺動が時空間の配置より大きくなると考えられる長さ]とプランク時間[物理世界の最小単位。量子力学の基本量であるプランク定数hと、真空中の光速c、重力定数Gの3つの定数で決まる]から始まり、素粒子で扱われる最小の大きさ(といってもプランク・スケールより約10の20乗倍も大きい)、人間スケールの長さや時間(この宇宙で私たちは非常に安定した構造体であることを示した)を経て、宇宙の年齢や半径にまで及んだ。』
画像出展:「心は量子で語れるか」
『そのとき私は、かなりやっかいな事実にふれた。基本的な物理学を記述する際に、大スケールの状況を扱うのか、小スケールの状況を扱うのかによって、二つの全く異なる記述法を使っていることについて述べたのである。それは、図2-1に示したように、小スケールの量子レベルの活動を記述するには量子力学を用い、大スケールの現象を記述するのには古典物理学を使う。そして量子レベルに対してはユリタリ(Unitary)を表すUの字を当て、古典レベルに対してはC(Classical)で評した。大スケールの物理学は第一章でとりあげ、大スケールと小スケールでは全く違う法則があるに違いないということを強調した。
物理学者たちはふつう、量子物理学が適切に理解されれば古典物理学者はそこから、導き出せると考えているようである。しかし、私の主張は違う。実際には物理学者はそうしておらず、古典レベルか量子レベルかのどちらかを用いている。』
変わる法則
『量子レベルでは、システムの状態は、とりうる全選択肢を複素数で重み付けした重ね合わせで与えられる。量子状態の時間(的)発展は“ユリタリ発展(またはシュレディンガー発展)”と呼ばれ、それが実際にUの表す内容なのである。
Uの重要な特性は、それが線形だという点である。このことは、二つの状態がそれぞれ個々に変化すると、それに応じて二つの状態の重ね合わせも同じように変化するが、重ね合わせに用いた複素数の重み付け係数は時間に関して一定である、ということである。この線形性が、シュレディンガー方程式の基本的な特徴であり、量子レベルでは、このような複素数で重み付けされた重ね合わせが、いつでも保持される。
しかしながら、何かを古典レベルへ拡大しようとすると、“法則”が変化する。古典レベルへ拡大するとは、図2-1のレベルU(上側)からレベルC(下側)へ行くことを意味している。物理的にいえば、たとえばこれは、スクリーン上の一点を観測することである。小スケールの量子事象が、実際に古典レベルで観測される。さらに大きな何かを引き起こすのである。
標準的な量子論で行われていることは、あまり口にしたくないものを引っぱり出してくるようなことであり、それは、“波動関数の崩壊”とか“状態ベクトルの収縮”と呼ばれている。この過程に対して、私はR(Reduction)という文字を使用したい。Rは、ユリタリ発展とは全くことなるものである。
二つの選択肢の重ね合わせにおいて、二つの複素数に着目し、それらを二乗すると、―このことはアルガン平面[直交座標の横軸に実数値、縦軸に虚数値をとり、一つの複素数を一つの点で示す平面]では、原点からの距離を二乗することを意味する―これら二乗された係数のおのおのは、二つの選択肢に対する確率の比となる。
だがこのことは、“測定する”または“観測する”ときにのみ起こり、それは図2-1においては、UレベルからCレベルへ現象を拡大する過程に相当する。この過程で法則は変化し、あの線形的な重ね合わせは維持されなくなる。突如として、これら二乗された係数の比が、確率となるのである。
非決定論が顔を出すのは、UレベルからCレベルへ行くときだけである。この非決定論はRと共に登場する。Uレベルではすべてが決定論的であり、“測定”という行為をするときにのみ、量子力学は非決定論になる。
以上が、標準的な量子力学で用いられる形式である。たしかに、基本理論にしては、非常に奇妙なタイプの形式である。これが単に基本的な他の理論の近似にすぎないというのであれば、それはそれで道理にかなう。だが、この複合的な手続きは、すべての専門家によって、それ自体が基本理論と見なされているのだ!』
画像出展:「心は量子で語れるか」
客観的収縮=OR
『将来、物理学が成し遂げねばならないと思うことを示すため、図2-17には修整が施されている。Rという文字で表現した手続きは、まだ私たちが見つけていない何かを近似したものである。その未発見の何かとは、私がORと呼ぶものであり、“客観的収縮(Objective Reduction)を表してる。
ORは客観的事実である― 一方、“または”他方が客観的に起こる ―今なお私たちには欠落している理論である。ORというのは、うまい頭文字になっている。というのもORは“または”をも表しており、それは実際、一方“もしくは”(OR)他方のどちらかが起こるからである。』
超ひも理論はテレビで知りました。耳にした内容は「相対性理論」と「量子論」を結びつけるような画期的な理論だということでした。
過去に量子論という超難解なものに手を出しているのですが、これはブルース・リプトン先生の『思考のすごい力』という本がきっかけです(ブログ“がんと自然治癒力13”の最後[追記:“量子物理学が生物学・医学を変える日は近い”]にその経緯があります)。
ブルース・リプトン先生が感銘を受けた本が、こちらの『量子の世界』です。
著者:H.R. パージェル
出版:地人選書
発行:1983年11月
この中に“量子論の奇怪さ”について書かれた章があります。下記はその一部です。
『「量子的奇怪さ」とはいったい何なのか。それを見るため、新しい量子論の物理学を、それが取って代わった古いニュートン物理学と対比させてみよう。ニュートンの法則は、石の落下や惑星の運行とか、川や潮の流れなど、見慣れた物体やありふれた出来事からなる、目に見える世界の秩序をつかさどるものだ。このニュートン的世界像を第一義的に特色づけているのは、決定論的性格と客観性である。つまり、時計仕掛けとしての宇宙は時間の始まりから終わりに至るまで決定しているし、石や惑星などは我々が直接にそれらを観測しなくても客観的に実在しているのだ―背を向けていたってちゃんと存在している。
量子論になると、世界を(決定論や客観性のような)常識に基づいて解釈することはもはや許されなくなる。もちろん量子世界も理性によって理解しうるのだけれども、ニュートン的世界のように描写してみせることはできないのだ、これは原子やそれよりも小さい量子の世界の極微性だけが原因ではなくて、通常の物体の世界からそのまま借用した表現の手段が量子的対象には通用しないということによっている。たとえば、石などはそれが静止していて、しかもある定まった場所に置かれているという様子を我々は容易に心に描くことができる。だが電子のような量子的粒子に対して、それが空間のある一点に静止しているなどと言っても意味をなさないのだ。さらに、電子は、ニュートンの法則ではありえないような場所にも物質化して現われることができる。』
1965年に量子電磁力学の発展への貢献により、ノーベル物理学賞を受賞された物理学者のリチャード・フィリップス・ファインマン先生は次のようなユニークなアドバイスをしています。
『量子力学が本当に理解できている人はまずいないだろう、と言って私は間違っていないと思う。諸君はもしできるなら、「だが、どうしてそんなことがありうるのだろうか」と自分自身に問い続けるのはやめた方がよい。なぜならますます深みにはまって、袋小路をさまようのが落ちで、そこから出口を見つけて出てきた人はまだいないのだから。どうして量子力学ではそうなるのかは、誰もわかってはいないのだ。』
超ひも理論の「最小部品の“ひも”は1秒間に10の42乗回以上で振動している」とか、「それは9次元(もしくは10次元)で高速に振動している」などは、理解不能、イメージ困難な別世界です。ここは、ファインマン先生の教えに従い、これらの異次元のものへの追及は早々にあきらめ、超ひも理論が「相対性理論と量子論を統合する理論」と言われている理由は何なのか? これが分かれば良しとしたいと思います。
手に入れたのはNewtonの別冊“超ひも理論と宇宙のすべてを支配する数式”です。4章に分かれていますが、ブログは最も知りたかった【量子重力理論(相対性理論と量子論を統合する理論)】を最初にお伝えし、その後、1章について何となく分かったような気になった箇所をいくつか列挙します。
目次
1.超ひも理論入門
プロローグ
●“究極の数式”を求めて①~②
●物質の“最小部品”
ひもの正体
●ひもの性質①~②
●ひもの振動
●ひもの振動と質量①~②
超ひも理論の世界
●超ひも理論の歴史①~②
●高次元空間①~②
●超対称性
●ブレーン①~②
究極の理論をめざして
●量子重力理論
●宇宙のはじまり
●ダークマター
●超ひも理論の証明
●広がる応用例①~②
2.もっとくわしく! 超ひも理論
特別インタビュー
●橋本幸二博士 超ひも理論の次の“革命”は明日にもおきる!?
●ブライアン・グリーン博士 超ひも理論の“伝道師”が語る、理論物理学の最前線
●大栗博司博士 「万物の理論」の探求物語
余剰次元の検証
●「見えない次元」をさがし出せ!
3.宇宙のすべてを支配する数式
宇宙のすべてを支配する数式①~②
第1項
●重力の作用①
第1項の前
●重力の作用③
第2項
●電磁気力・弱い力・強い力①~②
第3項
●粒子と反粒子①~②
第4項・第5項
●質量の起源①~②
第6項
●湯川相互作用①~②
未来の数式
●ダークマター①~②
●力の統一
●究極の理論
4.もっとくわしく! 宇宙のすべてを支配する数式
特別インタビュー
●村山斉博士 最終的には、一つだけの力、一つだけの基本法則ですべてを説明したい
●南部陽一郎博士 何もないところに種をまくのが楽しい
●梶田隆章博士 素粒子の「標準理論」を超える、新たな地平を開いた
●量子重力理論
・『相対論と量子論が“結婚”出来れば究極の理論になる』
-相対性理論は時間や空間、そして重力に関する物理学の理論である。
-量子論は原子や素粒子などのふるまいを説明する物理学の理論である。
-多くの超ひも理論研究者は、「量子重力理論」と「究極の理論」をほぼ同じ意味で使っている。
-相対論と量子論が統合したものは「量子重力理論」と呼ばれているが、ミクロな世界での重力の計算に「くりこみ理論」を適用できないことが統合できない理由である。
-ミクロな距離を伝わる重力を相対性理論に基づいて計算しようとすると、電磁気力には適用できた「くりこみ理論」が使えず、計算結果に無限大があらわれてしまい、計算が破たんする。
以上のことから、マクロの世界に加え、ミクロの世界でも重力計算ができるようになれば、究極の理論は完成するということです。そして”素粒子=点”ではなく、”素粒子=ひも(弦)”と捉えることにより、可能性が生まれるということが分かりました。
※くりこみ理論:場の量子論で使われる、計算結果が無限大に発散してしまうのを防ぐ数学的な技法。(ウィキペディアより)
1.超ひも理論入門
『超ひも理論によれば、あらゆるものは、分割していくと、最終的にきわめて小さな「ひも」にたどりつくと考えられています。超ひも理論は未完成の理論ですが、現代の物理学者たちが追い求める“究極の理論”になる可能性を秘めています。』
プロローグ
●物質の“最小部品”
・『「超ひも理論は、ひとことでいえば、物質の“最小部品”である素粒子が、大きさをもたない[点]ではなく、長さをもつ[ひも(弦)]でできていると考える理論です」。』
ひもの正体
●ひもの性質①~②
・ひもは伸び縮みして切れたりくっついたりする
・ひもは一つにつながったり、二つに分かれたりする
●ひもの振動
・ひもは、常に高速で振動している(ひもは1秒間に10の42乗回以上も振動すると考えられている)
●ひもの振動と質量①~②
・ひもは振動が激しいほど重い
・ひもは開いたひも(光子や電子など)と閉じたひも(重力子[未発見])がある
超ひも理論の世界
●超ひも理論の歴史①~②
・素粒子を点(大きさをもたない)だと考えたときの“限界”をひもは突破できる
・『現在、自然界には、「電磁気力」、「弱い力(原子核を構成する中性子が陽子に変わる反応[ベータ崩壊]などを引きおこす力)」、「強い力(原子核の中で陽子や中性子を結びつける源となっている力であり、ごく近距離ではたらく)」、そして「重力」という四つの力が存在することが明らかになっています。標準理論では、そのうち電磁気力、弱い力、強い力の三つについては、いっしょに計算することができるのですが、どうしても「重力」を合わせて計算することができないのです。
このような標準理論の限界は、「素粒子=点」だと考えたときの矛盾点をなくす理論である「くりこみ理論」の限界を意味します。この限界を突破する可能性を秘めたのが、「素粒子=ひも」だと考える「超ひも理論」です。』
●高次元空間①~②
・ひもの振動状態と現実の素粒子を矛盾なく対応づけるためには、ひもの振動方向(次元)は9個(9次元)必要になる。6次元は「コンパクト化」されており、小さすぎて私たちはその存在に気づけない
●超対称性
・素粒子のスピン(自転)が整数のボソンに、半整数のフェルミオンを加えたことにより、パートナー粒子(超対称性粒子)の存在を認められ、自然界に存在するすべての素粒子を扱えるようになった。
●ブレーン①~②
・超ひも理論には、1次元の“ひも”に加え、2次元の“膜”や“立体”もある。
究極の理論をめざして
●宇宙のはじまり
・宇宙のはじまりはミクロの世界で重力が非常に強くなる。これは、素粒子が狭い空間にぎゅうぎゅうに詰め込まれた、高温・高密度な状態と考えられるからである。
・空間さえもゆらぐミクロの世界での重力を、正しく計算できる可能性があるのは、超ひも理論だけである。
●ダークマター
・超ひも