ステップ3 最高の銘柄を最適なタイミングで買う方法
●ブル相場において過ちを犯す可能性は少なく、本格的に値上がりする可能性が最も高いタイミングで、良い銘柄を選択するための法則がある。これらは半世紀にわたる各年の大きな勝ち銘柄(100%~1000%以上高騰した銘柄)が共有する特徴に基づいている。
●どんな銘柄でも、その企業の実態を本当に理解できている銘柄を買う。理解が深ければ安直に株を手放すことはしない。重要なことは常に保有株に関してマーケットが何を伝えようとしているのか注意を払うことである。
●各業界のNo1の企業を選ぶべきである。ただし、このNo1は知名度やブランドではなく、EPSの伸び率、資本利益率(ROE)、売上利益率、売上の伸びなどである。
●株の購入においてはタイミングが重要だが、それは株価が最安値(底値)ということではない。大きく値上がりする確率が最大であるときである。これを見きわめるのに必要なことは、ファンダメンタルズデータ(経済成長率、物価上昇率、失業率、経常収支、財政収支や各企業の業績や財務状況、PER[株価収益率]など)を参考にしながら、チャートを詳しく調べることである。特に日足、週足、月足の値と出来高のチャートが大切である。
-カップウィズハンドル-
●過去50年における最高の銘柄で最も頻繁にみられた、上放れのベースとなるパターンであるが、コーヒーカップを横から見た時の形に似ているためこの名称がつけられた。
●カップの底部とハンドルの下部の出来高が低水準になる傾向がみられる。これは売りが減って、強気に動く前触れの可能性を秘めている。
“8週カップウィズハンドルからわずか24週間で1414%上昇”
画像出展:「オニールの相場師養成講座」
・ずっと1本調子で上昇するということは考えにくく、小休止の調整でハンドル(取っ手)が作られます。
●ベア相場でこのような株を買う最高のタイミングは、安値を切り下がりながら下げていた株価が再び上がり始めてハンドルを完成させ、ハンドル部分の前の高値をまさにブレイクしようとするときである。
●カップウィズハンドルは高値から下げて引けた第1週から始まって、6~8週間続く。多くは完成するのに6カ月から1年かかる。パターン内の絶対高値から絶対安値への調整幅は一般的に25~40%である。
●ハンドルの押し(下落)は、高値から最安値の幅の8~12%以内であることが一般的だが、ベア相場では20%以上になるケースもある。この押しは、急落した日に株主をさらに振るい落とす。
●ハンドル下部における下方調整は、株主を最後のひと下げでさらに振るい落とすことと、カップの底からの強い反発の後の一般的にみられる調整である。
●ハンドルの最後の振るい落としは終わり近くで起こる。その後株価が反転して出来高を増加させたときが絶好の買い場になる場合が多い。
●ハンドルは横ばいに1~2週間と短いことも、10週間近く続くこともある。ハンドルが全くないケースも少ないがある。
●株価パターンを形成する調整や揉み合いの多くが、12~13週、ことによっては24~26週続くことは偶然ではない。この期間は企業の業績発表がある3ヵ月サイクルに対応しており、多くのプロの投資家は次の業績発表まで資金の投入を手控えることがあるからである。
-ダブルボトム-
●このパターンはカップウィズハンドルほど頻繁には現れない。Wのようなパターンであるが、ほとんどが2つ目の下げ足が1つ目の安値より下がっている。1つ目の下げ足で振るい落とされなかったり、下げても前よりも下がることはないと願っていた残りの弱気の株主たちを振るい落とすことになる。
●株価が下がると買いたい水準まで下がったと判断した機関投資家たちが買いに動く。ダブルボトムの絶好の買値はWの中央の高値の水準である。
●株価がこれらのパターンから上放れするときは、その日の出来高がその銘柄の1日平均より50%以上多いことが必要である。過去の顕著なケースでは100、200%以上も出来高を増やしている。上放れした日の出来高増が20%以下の場合は、情報を豊富に持っているプロたちの買い控えが考えられ、上放れが起きない可能性は高くなる。また、週足チャート上で上放れした週の出来高が前の週より少ない場合も、挫折する可能性が高い。
ステップ4 利益を確定する最適なタイミングで売る方法
●株価が20~25%上がったところで、まだ値上がりしているときに利益の多くを確定し、7~8%下がったところですべて損切りするというのが基本である。実績に裏付けられた“売りルール”をうまく実践できるようになることが非常に重要である。
●20~25%の利益確定の例外も必要である。例えば、強いブル相場で、その企業の現在と過去3年間の収益と売上の伸びが堅調で、ROE(自己資本比率)が高く、株を保有している機関投資家が優良で、強い産業グループ内のリーダーであり、健全なベースパターンから上放れしてわずか1、2、または3週間で20%と大きく急騰した場合は、その時点では利益確定はせず、少なくとも8週間は保有するというルールである。これは過去の相場に関する研究において、序盤でロケット並みの勢いのある銘柄が、他を圧倒するような大きな勝者になる可能性が高いためである。
ただし、仮に8週間保有した強力な銘柄であっても、更に保有するかどうかはあらためて状況を分析した上で、やはりルールを設け、それに沿って判断をする。考えられるルールとしては、「期間を決める」、「移動平均線と比較する」、「今後の1~2年の収益予測をもとに予想されるPER(株価収益率)の伸びを検討する」などがある。
●20~25%の利益確定ルールを基本としつつ、飛躍する例外的な株を見極め、新たなルールに従って長期保有を実現できれば、大きな利益を得ることができる。「大きな利益は、アイデアによってではなく、相場に踏みとどまることによって得られる」ということが言える。
●PERは重要な指標ではあるが、それ以上に重要なことはその会社の業績やポテンシャル、そして信頼できる機関投資家による安定した株保有が重要である。
-クライマックストップ-
●何カ月も上昇し続けた主導株が突然、それまでのあらゆる週よりも速いテンポで急騰し始める。
“アマゾンドットコムは典型的なクライマックストップを形成してから95%下落した”
画像出展:「オニールの相場師養成講座」
・このグラフは1999年、25年前のものです。
画像出展:「FinTech」
“アマゾン史上最大の株式分割は何を意味する? 専門家はどう見たか”
こちらは1997年~2022年までのグラフです。この後、約$1600まで下げました。今のアマゾンの最新株価は$178.50(2024年8月31日)。2022年6月に20対1の株式分解しているので、もしこの株式分割がなかったとすると現在の株価は$3570に相当します。
●クライマックストップは誰が見ても更に2倍になりそうな株をみんなが買おうとしている状況である。だが、みんなが興奮してその上昇に引き込まれた、まさにそのとき、クライマックストップは崩れる。
●クライマックストップの兆候は窓を空けて寄り付くことである(エグゾースションギャップという)。例えば、前夜70ドルで引け、翌朝75ドルで寄り付くというように普通はある値刻みがない。それは最後を示すシグナルなのであり、売りに回るときである。天井まであと1日か2日かもしれない。株はまだ上がっていて超強気に見えるが、売ることを考える。なぜなら、クライマックストップで天井に到達した株は急落することが多いからである。これは多くの人が知ったときは買うような人は既に買ってしまい、値下がり局面を迎えているためである。群集心理は、ここぞという相場の大転換点において常に間違っていると考えた方が望ましい。
●『投資で勝つには、勝つために自らを備えることが必要だ。運、不運は関係ない。意を決して自分の過去のすべての過ちから学べば、勝つために備え、学ぶことができる。偉大な投資家たちもみんな最初は過ちを犯していた。』
●20~25%で利益確定できれば、その利益で満足すべきである。株価がさらに高騰したとしても、手にした現金で他の有望株を買うことができる。また、25%の利益確定を3回続けられれば75%の利益を得ることになる。これはとても大きな利益である。
●投資はただでさえ難しいので、買い持ちと空売りを同時にやるような複雑なことはせず、シンプルにやることが一番である。
ステップ5 ポートフォリオ管理―損を抑えて利益を伸ばす方法
●株式ポートフォリオ管理は、ガーデニングに似ている。気を配らないと美しい花は雑草に覆われてしまう。買値より上がっている株が“花”で、1番下がっているか、1番上がっていない株が“雑草”である。もし、雑草を駆除する場合は最もダウンの大きな銘柄から手をつけるのが良い。心情的には株価が戻ることを期待したいものだが、株価が大きく下がっているとすれば市場はネガティブな評価を下しており、元の高い評価を獲得するには、一般的には多くの時間がかかるものである。
商人も売れない商品は値下げしてでも売り切り、売れ筋の商品に入れ替えようとする。ポートフォリオ管理もそれと同じである。
画像出展:「Garten」
ポートフォリオ管理を“花壇”に例えるのはすごくいいなと思いました。
これは月末に行っている資産の棚卸に関する資料の一部で8月31日のものです。銘柄も株数も見えず役に立たない代物ですが、思いきって貼りだしました。
緑Boxはコア(ETF:インデックスファンド)ですが、最低目標としている40%に少し足りていません。ピンクBoxは、個人的に応援したいバイオテクノロジーの新しい会社で“寄付”のつもりで少々買いました。
●ポートフォリオ管理はある程度限定し、十分に追跡できる範囲にしておくことも重要である。例えば、銘柄数の上限を決め、それを超える場合は、最もパフォーマンスの悪い株を売却することで上限を守ることである。
●株価は常に上下するが、長期的に見れば値上がりしている株を買増し、見込みのある保有銘柄の株数を増やし、見込みの低い保有銘柄の株数を減らしていくことは理にかなっている。
●買い増しで注意すべきは、ブル相場かどうかである。ベア相場での買い増しが効を奏することはほとんどない。ベア相場では現金比率を高めることが大切である。
●空売りは自分が何をやっているかを十分に理解しながら、正確に物事を運ぶスキルが必要であり、空売りしてはいけないタイミングがたくさんある。空売りを比較的安全にできる本当に正しいタイミングはわずかしないので、買うよりも複雑で難しい。
●「ナンピン(難平)買い」とは保有銘柄が下落したときに、買い増しをして平均購入単価を下げることだが、これはすべきではない。ただしブル状態の押し目買いは別である。ベアな状況でのナンピン買い下がりは絶対に止めるべきである。
●最初に購入した株に益が出ていない場合は、けっしてそれ以上の投資をするべきではない。
●一桁以下の低位株や顕著な薄商い(1日の平均出来高が少ない)の低位株は避けた方が良い。
●1997~2000年における上位50の値上がり株がそのベースから上放れたときの平均価格は46.78ドルで、それから61週で1031%値上がりした。
●取引時間内に株を売買するときは成行の方が望ましい。これは確実に売買できるからである(株の売買では25セント)を気にするべきではない。
●ポートフォリオ管理において何かを行わないことが大切であることもある。「PER(株価収益率)、配当、簿価」は少なくともブル相場では必要以上に意識しない。基本的なことは優良企業のPERは一般的に高く、優良でない企業のPERは低いということである(プロスポーツのスター選手の年棒が高いのといっしょである)。
●税金も気になるものではあるが、売買の決断からは税金は排除した方が良い。利益の一部を国が取るのは、投資が成功している代償の一部と思った方が良い。納税は多くの成功したベンチャー企業と同じ、勝者の証でもある。
●投資で成功するには自尊心や高いIQよりも、正直さ、倫理観、謙虚さの方が重要な要件である。過去の失敗を受け入れ、そこから学ぶことが賢くなる方法である。古い市場の通念にしがみつくような頑固さやエゴを捨て、新しい投資法を学ぶことに積極的であることが重要である。
●銘柄選択に成功するために必要なことは、企業とその企業が属する産業に関して理解することが60~65%、チャートと相場の動きを理解していることが35~45%である。
●大きな勝ち銘柄の共通した特長は、高い売上総利益率(Gross Margin)、高い資本利益率(ROE)とともに、利益と売上を大幅に伸ばしている企業だった。これらの企業はそれぞれの産業におけるトップ企業であり、通常より高いPER水準で取引されていた。強固なファンダメンタルズ、機関投資家による保有、革新的な新製品やサービスなどの条件が整っていた。
●『どんなことでもそうだが、報いが得られるかどうかは、どれだけ努力するかに依存する。勉強と観察を絶え間なく行うことで得られる細かい重要な情報の積み重ねが、あなたの知識とスキルを向上させ、投資の世界で成功するか、もう一歩のところでとどまるかの分かれ道になる。』
ご参考
「ディストリビューション」、「ストーリング」、「フォロースルーデー」、「カップウィズハンドル」に加え重要な指標として「ベアリッシュリバーサル」、「ブリッシュリバーサル」があります。
感想
1.最も大切なことは「貴重な資産をリスクから守りながら運用する」、「願望やこだわりではなく方針を重視する」、「市場の動向を感じて行動する」、「欲ブタにならない」、そして、そのための情報収集を行い勉強するということだと思います。
2.長期運用は特別なものではなく、基本的には短期と同じであると理解しました。おそらく、2つの運用の差は何を重視するかという重みづけの部分ではないかと思います。また、その投資する企業に対する理解の深さも大きく左右する要因になると思います。
3.優れた企業、魅力的な企業、業績の良い企業を見つけ出し、それらの会社でポートフォリオ(美しい花壇)を作ればリスクを減らせると思います。
4.「良い会社で理解できる会社に分散投資」し、「利益確定ルール」、「利益確定例外ルール」、「損切ルール」に従って運用すれば、大きな損失を避けることができると思います。
※【利益確定】について
・利益確定(利確)を迷うのは、「今、利確してどんどん上がったら儲けが減ってしまう!」という「欲ブタ」な気持ちです。一方、利益を確保するという行動は「資産を守る」という方針に合致します。
ほとんどの投資家は利益確定を行います。さらに株価は市場動向によって必ず上下します。こう考えると、利益確定は「資産を守る」上で非常に重要です。
また、キャッシュを保有しているということは、買い場が来た時に投資ができるため「株式投資を楽しむ」という見地からもお勧めです。言い換えれば、『より楽しく、より安全に資産を増やす』⇒『冷静かつ確実に【利確】をしていく』ということではないかと思います。
【資産を守って奇麗なポートフォリオで楽しく運用】、この大方針でやっていきたいと思います。
3月に“株と債券”というブログをアップしました。その後、「1冊は本格的な投資の本を買って勉強した方が良いだろう」と思って本を探していたのですが、“ばっちゃまの米国株”さんの師匠である広瀬隆雄氏が推奨されている本があり、その中から『オニールの相場師養成講座』という本を購入することにしました。
著者:ウィリアム・J・オニール
初版発行:2004年5月
出版:パンローリング株式会社
この本は非常に勉強になりました。もっと早く読んでいれば良かったのにと思います。1番良かったことは、株式投資はコインの裏表のようなものだと思うのですが、今までは“表”が「儲けたい」、“裏”が「損したくない」という感情的、主観的な「欲ブタ」な感覚だったと思います。今は、“表”は「資産を守る」、“裏”は「方針に従って売買すれば結果はついてくる」という理性的、客観的な感覚をもって、ある程度は考えられるようになったことです。
画像出展:「ユピスタ」
株式投資において理性的、客観的になるというのは「永遠のテーマ」という感じです。
また、チャートの重要性をあらためて認識しました。チャートからの情報を冷静に検討することは、市場(特に金利)と業界・会社(特に業績)とともに最も注目すべきことの一つだと思います。
CONTENTS
訳者まえがき
序文
はじめに
ステップ1 市場全体の方向性を見きわめる方法
ステップ2 利益と損失を3対1に想定する方法
ステップ3 最高の銘柄を最適なタイミングで買う方法
ステップ4 利益を確定する最適なタイミングで売る方法
ステップ5 ポートフォリオ管理―損を抑えて利益を伸ばす方法
はじめに
●市場は人間的な感情と個人的な意見に基づいて行動する多くの人達で構成されている。
●投資での成功と個人の感情や個人的な意見は無関係である。
●市場を動かしているのは群集心理である。特に多くの投資判断を左右しているのは、願望と恐怖心とプライドとエゴである。
●市場が従うのは需要と供給の法則である。つまり、市場に逆らわずに市場に沿って行動することが重要である。
●需要と法則の原則はあらゆるアナリストの意見より優れている。
●投資ルール、投資原則を学ぶべきである。特に、売りルールを持っていなければならない。
●株が値を戻すのを願って待つのではなく、小さな損失が出たらいつもすぐ売ることを学ぶ。
●市場が上向きなのか下向きなのかを知る。
●株は下げている時ではなく、上げている時に買う。
●株は下がりに下がって割安に見える時ではなく、年初来の高値近くで買う。
●安値に沈んでいる株より高値に上がっている株を買う。
●PER(株価収益率)はほどほどにして、利益の伸び、出来高の動き、その企業が業界内でもっとも利益をだしていることなど、実証済の要素に注目する。
●マーケットニュースレターやアナリストなどの情報に対しては慎重かつ客観的に向き合う。
●自分の間違った判断は記録に残し、どんな間違いだったのか分析する。
●チャートと長く接していれば、株価が大きく上昇する前兆となるパターンや手を出してはいけないダマシのパターンを見抜くことも可能になる。
画像出展:「オニールの相場師養成講座」
・バーの上端はその週の最高値、下端は最安値、クロスハッチは終値。週足であれば週の最後の株価です。
・値上がり週(横棒が前週よりも太い線)
・値下がり週(横棒が前週よりも細い線)
●出来高の大小や±は、株価の値動きと同じように重要である。上記のグラフでは①前週よりも売り出来高増が7週、②株の値動きが乏しい、③売り出来高増7週のうち6週が週平均出来高を上回る。この3つがポイントである。
●重要なシグナル
-過去の業績はあまり重要ではない。
-現在の業績の過大評価は禁物である。
-株価が下がっていて割安になっていても、将来の見通しが不透明であれば手を出すべきではない。
ステップ1 市場全体の方向性を見きわめる方法
●マーケケットが上か下か横ばいかを知ることが大切である。
●市場全体(ダウ工業平均、S&P500指数、ナスダック総合指数など)が天井を付けて下方へ転換すると、保有株の多くが下落する可能性は高い。
●市場の天井を見きわめるスキルは非常に大切である。
●景気指数や経済指標に頼りすぎるのは危険である。それは経済が市場をリードしているのではなく、市場が経済をリードしているからである。
●マーケケットテクニカルアナリストは50~100種類のテクニカル指標に注目しているが、大事なことは個別銘柄そのものを注意深く観察することである。森を見ることも必要だが、一つ一つの木を見ることはもっと大切である。
●市場の傾向を掴むには、主要な市場指数を毎日見て自分自身で分析することが大切である。
●総出来高の増減や、1日の出来高と平均出来高と比較することは重要である。
●上昇トレンドでは値動きと出来高がいずれも上昇しているのが一般的である。これは「アキュムレーション」といわれる。
●アキュムレーションを追跡するには、各種指数の高値、安値、終値とその出来高がプロットされているチャートを使うことである。
●売りが買いを上回ることを「ディストリビューション」と呼び、それが起きているのを見きわめることが大切である。ディストリビューションの1日目は指数の終値が前日よりも低く、出来高が大きいときである。
●50年間の研究で認識したことは、2~4週間の中でディストリビューションが5日あると上昇トレンドから本格的な下降トレンドへ転換した可能性があることである。市場が一時的に反発することもあり、下げ幅の大きさにも注意すべきである。
●ディストリビューションのシグナルには「ストーリング(失速)」もある。市場の活発な上昇後、突然その勢いが止まってしまう場合である。下がるわけではなく、上昇率が明らかに小さくなることである。ポイントは売買比率の変化であり、注意すべきは機関投資家などの動き、出来高である。
“2000年3月に株式相場が天井を付けたとき”
画像出展:「オニールの相場師養成講座」
・「ナスダック総合」は米国の代表的な株式市場、NYダウにくらべハイテク関連やインターネット関連の新しい企業が多いのが特徴です。
●総合指数のディストリビューションの出現と主導してきた主要銘柄の天井には関連がある。
●数日間続く大量の売りは、利益確定による可能性が高い。
●短期の下げか長期の下げトレンドかの判断が鍵。ディストリビューションとストーリングが参考になる。
●天井では相場から手を引き、買うことを控えなければならない。
●希望的観測は不要、市場の事実が最重要である。
●スキルを身に付けるには忍耐と鍛錬が必要である。
●ベア相場の傾向として寄り付きで上げ、大引けで下げることが見られる。一方、ブル相場では逆に寄り付きで下げ、大引で上げることがある。
●下降トレンド相場がどこまで進むかは誰にも分からない。分かることは、重いディストリビューション状態にあり、下降するということだけである。
●下降から上昇への切り換え前には数日間の続伸が目安になる。「フォロースルー」は通常、4日目から7日目に見られることが多い。フォロースルーは前日と1日平均よりも多い出来高を伴って1.7%以上の大きな幅で力強く上げている日である。1日、2日の上昇をみて慎重に判断する必要がある。
●新たなブル相場がフォロースルーデーなしに始まったことはない。
画像出展:「フォロースルーデーとは?:投資の勉強」
こちらは“米国株長期投資くらぶ”さまのサイトです。
ステップ2 利益と損失を3対1に想定する方法
●いつ、なぜ、売るのかも分からずに株を買うことは、ブレーキのない自動車を買うようなもの、救命具を持たずにボートに乗るようなものである。
●機関投資家の動向を知ることは非常に大事である。特に「売り」に傾いていることを認識することが大切である。これは機関投資家側からは「売り」の情報が出てくることはないからである。
●自分の感情や他人の言葉に左右されることなく、保有株が思惑に反した動きをしたとしても、常に客観的でなければならない。大事なことは市場の動き、株価と出来高の動きを通じて、機関投資家などのプロが何をしているかに注目することである。
●自分を守る確実な方法は、株価が上昇しているときに利益確定をすること。株価の勢いがなくなり下降し始めたら売って早めに損切りするという現実的なプランを持つことである。具体的には+20~25%で売却(一部)し、-7~8%までにすべて損切することである。つまり目標利益を許容損失の約3倍に設定することである。
●利益がなかなか出そうにない極めて難しい相場では、例えば株価が3~5%下がったところで売り、10~15%上がったところで利益を確定し、投資資金における現金の割合を増やすという選択肢もある。売買の判断を柔軟に変えるのは問題ないが、大事なことは3対1の比率を守ることである。
●『買値から7~8%安で売ったとたん、反発してしまうことがよくあることに注意しなければならない。そうなったら、あなたは自分を愚かだと思うだろう。あなたは、「そもそもこの株を買ったことは正しかったが、売ったことが間違いだったのだ」と自分に言い聞かせるだろう。だが、売ったことが本当に間違いだったのだろうか? 7~8%で売ったことは、回復できないほどの破壊的な損失を確実にさけるためにやったことだ。7~8%が、15~20%、さらに30~40%、あるいはそれ以上に下落することに対して防御しているのだ。一種の保険だと考えてみよう。あなたの家が昨年火事で焼失しなかったからといって、火災保険を掛けていたことで自分を責めるだろうか? そんなことはないだろう。損失を早めにカットすることはそれと同じだ。反転して20%値上がりすることもあり得る株を7%の損失で売ることは、保険を掛けていない家が焼失した場合のように、回復できたとしても、回復するために何年もかかることになる。70%級の損失を避けるための小さなコストなのだ。
そういう売買方法も、もっと大きなリスクを背負って株式投機をやっている人にはいいだろうが、変動幅の小さい「優良株」や「投資適格銘柄」に投資している買い持ち型の長期投資家たちにはどうだろうか?―とあなたは思うかもしれない。さて、皆さんにお知らせがある。そんなものはないのだ。すべての普通株はきわめて投機的であり、一般に安全だと見られている銘柄を含め、大きなリスクを持っている。多数の買い持ち型の長期投資家たちは、売りルールを持っていなかったために2000~2003年にかけて50~75%を失った。』
●事例)ルーセント・テクノロジー(1996年AT&Tから分離~2006年フランスのアルテカSAと合併しアルテカ・ルーセントになった~2016年フィンランドのノキアに買収された)
“リスクのない銘柄はないので、損切りは常に早めにしなければならない”
画像出展:「オニールの相場師養成講座」
・AT&Tから分離独立したルーセント・テクノロジーは世界最大の電気通信機器のサプライヤーであるだけではなく、画期的な技術革新を生み出しました。株価は1999年12月に$64の天井を付けたあと、98%急落し、$1未満にまで落ちました。
ご参考:私自身の良くない事例
1.マイナス96%超になってしまっている保有株
反省
●この銘柄は2021年3月に購入したものなので、まさに“勘”だけで売買していたころの事例です。運用資金の5%程度だったこともあり、十分な検討なしに購入してしまいました。購入したときにはミーム株(SNSなどネット上で話題になる「はやり株」のこと)という言葉も知らず、この株がそのミーム株に該当することも知りませんでした。オニール氏の本を読んでいれば手を出すことはなかったと思います。
●何故買うのか、いつ売るのかといったプランも曖昧なまま手を出しました。株価は購入日から18日後には$4.42と+79%と高騰しましたが、この勢いであれば$6.00は行くだろうと考えて(願って)売ることはしませんでした。その後、最高値から32日後(2021年3月4日)には購入価格($2.46)を割り込みました。同月(3月)は取引日で計10日、買値を上回りましたが、【欲ブタ】になっておりもっと上がるという気持ちは同じでした。
●購入規模が小さかったこともあり危機意識が明らかに欠けていました。この見込みの甘さがすべての問題の原点だと思います。
●利益を得る最後のチャンスは1日のみ、同年10月25日にやってきました。この日の終値は$3.15でしたので、約30%の利益を得ることが可能でした。非常に迷ったことをよく覚えています。しかしながら、「きっともっと上がるだろう(上がってほしい)」という気持ちには勝てませんでした。(またも【欲ブタ】と化していました)
●2024年8月31日時点の株価は$0.093になっています。こここまで下がると紙切れ同然なので売る気もなく、自分自身への警告と思って保有し続けています。この会社はAIのソリューションを手掛けています。2006年設立であり、20年近く続いている会社なので小さな望みは捨てていません。ただ、これも淡い期待と覚悟はしています。
2.まずまずの敗戦処理
反省
●購入は2023年4月3日なので、本での勉強前ではありますが、売却した7月20日は、まさに「株日記」をつけ始めた日であり、“ばっちゃまの米国株”さんのサイトを知ったあとで、“勘”での運用を改めようと考えていた時期でした。
●この株は、4月は買値を上回った日数と下回った日数がいずれも10日と拮抗していましたが、5月になると買値を超えたのは2日と9日の2回だけとなり、下落していきました。
●売却時の損失は9.58%でした。もし、売りルール(‐8~‐7%)に基づいて売却していたとすると、2023年5月15日が売却日となっていました(実際の売却日の約2ヵ月前)。
●国内株を2銘柄買おうと思い、ネットの情報をいくつかみて十分な検討なしに銘柄を決めました。その意味では、1.でご紹介した米国製造会社株の購入に近い感じ、「雰囲気買い」といえます。やはり、慎重な調査、分析が必要で「売りルール&売り例外ルール」を決めておくことも、同様に必須だと思いました。
※この株が2023年7月20日(2210円)以降どうなっているのか調べてみました。翌年(2024年)年初の株価は2022円、その年の5月10日に急騰し2510円に、7月には2700円を突破。8月5日の歴史的大暴落では2187円まで下落するものの、今は2600円台を回復しています。
売却せず10カ月以上保有していれば利益を得るチャンスが到来したわけですが、これは何とも言えないところです。言えることは、根底にあるのはその会社の実力、その会社に対する理解と信頼。そして、その判断の時にどれだけ客観的に検討し、納得して決断したかどうかという事だけだと思います。(この10カ月間は国内金融会社に投資し15%以上アップしていたと思うので、もし、2650円くらいでこの会社の株を売却していたら、負けていたと思います)
●GMや3Mのような真の長期成長株もあるが例外的であり、数年の低迷期は存在する。
●分散投資はリスクを下げるが、2000~2002年のようなベア相場では遅かれ早かれすべての主導株は引きずり下ろされることになる。絶対保証付きの安全策ではない。
●こだわりを持たないことは重要である。株はお金だけでなく、自尊心やエゴ、感情に左右されてはいけない。それは、これらのこだわりは手放す判断の障壁になるからである。
●多くの投資家のこだわりは言い訳につながり判断を鈍らせる。これらは人情に他ならない。こだわりをコントロールすることはとても難しいが、身に付けなければ投資リスクを高めてしまう。
●『株価が下がって評価損が出ている時は、反発することをやみくもに願うのではなく、さらに下がるのではと恐れなければならない。売ることをさらに難しくするのは、あなたの保有銘柄に関してだけでなく、市場や経済全般に関して耳にするたくさんの意見だ。「専門家たち」―そもそもその株を購入したときに耳にしたのと同じ専門家たちかもしれない―が、その会社がまだ優良であり、数ポイント下がった今こそ以前にも増して買い時であると口にするのを耳にするだろう。だが、繰り返すが、それらは彼らの個人的な見解にしかすぎない。株式市場では個人的な意見になんの価値もない。あなたが尊重しなければならない唯一の意見は、市場そのものの意見だけだ。相場はあくまで需給関係で決まるのだから、どこへは行くが、どこへは行かないということはない。だから、戻って来られないような場所へ連れていかれないように気をつけるのは、あなたの役目だ。』
レーザー光に興味をもった理由は3つあります。1つは昨年(2023年)、左眼に網膜剥離の兆候が出ているとのことで、その場でレーザーによる治療を受けたことです。2つ目は光量子の波と粒子の性質を証明した1961年に行われた実際の実験(19世紀のトーマス・ヤングの実験は思考実験でした)にレーザーが利用されていたことです。そして、3つ目は“脳卒中”というブログの中でご紹介しているのですが、友人の鍼灸師の先生から「レーザー(レーザーポインター)」を使った施術方法を教えてもらったことがあったためです。
購入した本は『レーザー技術入門講座 光の基礎知識とレーザー光の原理から応用技術まで』という高度な内容だったため、興味がある部分だけを取り上げました。
著者:谷腰欣司
発行:2007年7月
出版:(株)電波新聞社
ブログは自分自身の勉強のためということもあり、見て頂くほどの内容ではありません。
レーザーについて勉強されたい方は、以下にご紹介させて頂いた2つのサイトがお勧めです。
こちらは「ケイエルブイ(株)」さまの“KLV大学 レーザーコース”の一部です。
こちらは「まどか(株)」さまのサイトです。
目次
第1章 光とは何か
1.1 光とは何だろう
1.2 太陽は7色の光を含んでいる
1.3 光の回折現象
1.4 光の反射と音の反射
1.5 太陽エネルギーとスペクトル分析
1.6 光の速さは電波と同じ
1.7 電磁波と音波どこが違うか
1.8 光はなぜ明るく感じるのか
1.9 放電による光の発生メカニズム
1.10 波長が短いほど光のエネルギーは大きい
1.11 原子と量子力学
1.12 マックスウェルの電磁方程式と光の関係
1.13 光の反射と屈折
1.13.1 光の反射
1.13.2 光の屈折
1.13.3 光の速さと屈折率
1.14 フォトダイオードとは
1.14.1 フォトダイオードの物性的構造による分類
1.15 発光ダイオードとは
第2章 レーザー光とは
2.1 レーザー光とは
2.2 レーザー光は目に見えるか
2.3 レーザーの安全基準
2.4 ルビーレーザーは、なぜピンク色か
2.5 レーザー光は、なぜレーザーと呼ばれているのか
2.6 レーザー光を発振する
2.6.1 原子のエネルギー状態
2.6.2 励起のしくみ
2.6.3 誘導放出のしくみ
2.6.4 光増幅のしくみ
2.6.5 反転分布とは
2.6.6 レーザー媒質はどのようなものが良いか
2.7 レーザー光の特徴
2.7.1 レーザー光と自然光の違い
2.7.2 レーザー光は指向性が鋭い
2.7.3 指向性を数字で表すと
2.7.4 可干渉性(コヒーレント)とは何か
2.7.5 干渉縞とは何か
2.7.6 レーザー光は超高温を作り出すことができる
2.8 レーザー光は鏡で反射する
2.9 レーザー光を目に照射してはいけない
第3章 レーザー光の種類
3.1 レーザー光を波長や媒質で分類すると
3.2 固体レーザー
3.2.1 ルビーレーザー
3.2.2 YAG(ヤグ)レーザー
3.2.3 Qスイッチレーザー
3.3 気体レーザー
3.3.1 ヘリウムネオン(He-Ne)レーザー
3.3.2 エキシマレーザー
3.3.3 炭酸ガスレーザー
3.4 色素レーザー(液体レーザー)
3.5 自由電子レーザー
3.6 X線レーザー
3.7 半導体レーザー
3.7.1 発光ダイオードのしくみ
3.7.2 半導体レーザーの原理
3.7.3 半導体レーザーの特性
第4章 レーザー光の応用技術
4.1 身近なレーザーの応用技術
4.1.1 レーザー光による通信技術
4.1.2 レーザー光で高速大容量通信
4.1.3 電波通信と光ファイバー通信の違い
4.1.4 CDの記録、再生にレーザー光が使われている
4.1.5 青色レーザーを使うと
4.1.6 バーコードリーダー
4.1.7 レーザープリンター
4.1.8 ホログラフィー
4.2 レーザー光による計測
4.2.1 レーザー光で月までの距離を測る
4.2.2 レーザー光による温度センサー
4.2.3 レーザー光を用いた干渉測定器
4.2.4 ライダーとは
4.2.5 レーザージャイロとは
4.2.6 レーザーセオドライト
4.3 レーザー加工
4.3.1 レーザー光で板金を切断する
4.3.2 レーザー光でダイヤモンドに穴を開ける
4.4 レーザー医療
4.4.1 レーザー光による手術
4.4.2 レーザー光による網膜剝離の治療
4.4.3 レーザー光による美容
第5章 レーザー光発明の歴史
5.1 レーザー光発明における7人の侍
5.2 光の誘導放射と光増幅
5.3 メーザーとレーザーの発明
5.4 レーザー光の発振
5.5 レーザーの名付け親
5.6 レーザー光とノーベル賞
第2章 レーザー光とは
2.1 レーザー光とは
●レーザー光が発明されたのは1960年であった。それにより、レーザー光による光ファイバー通信、ミクロンオーダーの微細加工技術、表皮組織および体内の手術、また、軍事関係では命中精度の高いレーザー誘導爆弾などがある。これらはこれまでは不可能とされた未知の領域であった。
●レーザー光は電界と磁界が直交した、一種の波動であり電磁波の一種である。また、同じレーザー光でも赤外線レーザー、可視光レーザー、紫外線レーザーなど波長帯域が違えば、その性質や特性も異なるため使い方も異なってくる。
●レーザープリンターやCDプレーヤーなどの情報機器で使うのは低出力レーザーであり、レーザーポインターに至っては人間にダメージを与えるようなことはない。しかし、このような低出力レーザー光でも、人間に目にとっては非常に危険である。特に眼球内の網膜剥離、焼き付き現象が現れ、一時的もしくは、恒久的に視力障害を引き起こすこともある。
画像出展:「レーザー技術入門講座」
2.2 レーザー光は目に見えるか
●レーザー光は自然光と違い、発振源から遠く離れてもビーム状にエネルギーが集中するため思わぬ災害をもたらすこともある。損傷は高エネルギーによるものである。
●レーザー光は反射する物体がなければ肉眼で直接感知することはできない。また、人間の目には見えない赤外線レーザーや紫外線レーザーなどは人体に照射されてもある程度のパワーがなければ肌で感じることはできない。
画像出展:「レーザー技術入門講座」
2.3 レーザーの安全基準
●レーザー光は極めて狭い範囲に高密度のエネルギーを集中させることができるので、パワー次第では非常に危険である。被害を防止するには使用目的ごとに被曝量(露光量)を知る必要がある。
●IEC60825-1(国際電気標準会議)では安全基準の最大許容露光量(MPE:Maximum Permissible Exposure)を設定している。この数値は、レーザー光によって人体に障害が発生する確率が50%である放射レベルをレーザー傷害のデータから求め、これに安全係数の0.1を掛けた値である。
●日本ではIEC60825-1に準拠したJIS規格、JISC6802-1:2005「レーザー製品の放射安全基準」では、レーザー光の安全度をグループ分けし、各グループに対して許容被曝放出限界(AEL:Accessible Emission Limit)を規定している。
2.5 レーザー光は、なぜレーザーと呼ばれているのか
●自然光は太陽光や焚火の光と同様に、蛍光灯や白熱電球など文明が生み出した電気エネルギーによる光も含まれる。
●自然光は距離が離れるにしたがって広範囲に拡散する。これは物理的には光の振動面とその面内での振幅や位相、振動数などがあらゆる方向に、ばらばらに分布している光源ということになる。一方、レーザー光は波長と位相が揃った強い指向性を有する高エネルギー光である。このような光は自然界には存在せず、人工光とされている。
●レーザー光の誕生は1960年7月だが、光ファイバー通信、精密測定、レーザー医療、レーザー加工などに加え、CD-ROMやDVDがある。さらに特殊な分野では遺伝子の切断や組換え、病原菌の選択的攻撃にまで応用されている。
●レーザー(LASAR)は、光の増幅(Light Amplification)、誘導放出(Stimulated Emission)、放射(Radiation)の頭文字を取ったものである。
2.9 レーザー光を目に照射してはいけない
●40Wの白熱電球は一般に毎秒、約4兆億個の光量子を放出するが、光が四方八方に分散されるため、光源から50cm離れた網膜上の結像の大きさはおよそ200μm(直径)、網膜上の吸収光輝度は1X10-⁴W/cm²である。
●1Wのレーザー光はビーム状となり眼球内にすべて入射される。結像の大きさはおよそ20μmになり、吸収光輝度は白熱電球光の約10億倍(1×10⁵W/cm²)であり、非常に強力なエネルギーが網膜に集中する。
画像出展:「レーザー技術入門講座」
第3章 レーザー光の種類
3.1 レーザー光を波長や媒質で分類すると
●1960年にメイマンによって発明されたレーザーは人工ルビーを使った固体レーザーであった。それから半世紀を超え、多くのレーザー光が発明された。
画像出展:「レーザー技術入門講座」
レーザー光の波長と種類をまとめたもの。三角形の高さは振動数、底辺の長さは波長である。
画像出展:「レーザー技術入門講座」
レーザー光の媒質を相変化でまとめたもの。自由電子レーザーを欄外にまとめたのは特性が異なるためである。
3.2 固体レーザー
●メイマンが発明したルビーレーザーは固体レーザーである。これはガラス(非晶質)や結晶などの母材に活性原子(分子)を均一に分散したものをレーザー媒質としたものである。
●固体レーザーの励起法[励起とは原子や分子などの物質を高エネルギー状態にすること。励起されることで物質はエネルギーを放出して低エネルギー状態に戻ろうとするが、その際に発する光がレーザーの基礎になる]には、一般に光励起法[外部から光を放出して物質を励起する方法]が使われ、その励起光源としてフラッシュランプやアークランプ、レーザーダイオードなどの強力な光源が使われている。
3.2.1 ルビーレーザー
画像出展:「レーザー技術入門講座」
『図はルビーレーザー発振器のイメージイラストです。ここでは棒状に加工した人造ルビーの結晶体に励起用キセノンランプを螺旋状に巻き付け、さらに両サイドに反射鏡を配置しています。
動作を簡単に説明すると、まず第1に励起用フラッシュランプで強力なパルス光を発光させます。次にパルス光が発射されると、その閃光により人造ルビー内の原子(3価のクロムイオン)が励起します。
この励起状態の原子は非常に不安定で、すぐに元の状態に戻ってしまいます。このとき物性のエネルギーバランスを保つため光が放出されますが、この光は波長や位相が不揃いで、まだレーザー光ではありません。
次に、ここまで励起状態にある原子に次々と自然放出光を照射すると、これが刺激となって反転分布を起し誘導放出モードに移行するのです。しかしこれだけではエネルギーレベルが低すぎてレーザー光として実用的なパワーはありません。そこで、この光を左右の反射鏡を使い実用レベルのレーザー光(発振波長694nm)として成長(光増幅)させるのです。』
3.3 気体レーザー
●気体レーザー(ガスレーザー)は気体の活性原子(分子)またはこれを含む混合気体(ガス状)をレーザー媒質としたものである。励起法としては放電(プラズマ)による励起や電子ビームによるものがある。
●主な種類はHe-Ne(ヘリウムネオン)レーザー、炭酸ガスレーザー、Ar(アルゴン)イオンレーザーなどがある。また少し変わったところでは、銅蒸気(Cu)レーザー、エキシマレーザーなどもある。
3.4 色素レーザー(液体レーザー)
●液体レーザーは1970年頃まで注目されていたが、その後台頭したガラスレーザーやYAGレーザーの発展によって影を潜めた。そのため液体レーザーといえば現在は色素レーザーことを表している。
●色素レーザーはエチルアルコールなどの液体に繊維や食品の着色に使われている染料を溶かし、この活性分子を分散させたものをレーザー媒質としたものである。なお、励起法はフラッシュランプによる光励起が一般的に使われている。
●色素レーザーは波長調整が容易でピーク出力も大きく、エネルギー効率にも優れていたが、半導体レーザーやその他のレーザーの進歩発展によって利用の場は奪われた。
3.5 自由電子レーザー
●自由電子レーザー(FEL)は一般のレーザーと異なり、光速に近い速度をもつ電子ビームからの放射を利用したもので、反転分布を必要としない特殊なレーザー光である。
3.6 X線レーザー
●X線レーザーは他のレーザーに比べ、非常に難しい課題を抱えている。それにもかかわらず、X線レーザーが注目されているのはその可能性である。X線は医療分野で活躍しているが、X線レーザー光によるホログラフィーが可能になれば人体を立体的に観察できるようになり、X線CTスキャナーに比べ飛躍的に精度を上げることができる。その他、物質の構造化解析も容易になる。
3.7 半導体レーザー
●半導体レーザーは日本のメーカー、大学、研究機関が大きく貢献している。化合物の種類は増え、パワーもアップしてきた。固体レーザーの励起源としても利用されている。
●主な用途は、光ファイバー通信、CD、DVDの記録、再生、レーザー加工、レーザー医療などがある。
第4章 レーザー光の応用技術
4.1 身近なレーザーの応用技術
●光ファイバー通信は電線の代わりに光ファイバーを使い、その中に近赤外線レーザー光を伝送して通信を行う方式である。光ファイバーとは石英ガラスやプラスチックなどの非常に光透過度の高い素材から作られた細い繊維状の光伝送ケーブルのことである。
4.1.1 レーザー光による通信技術
●電線方式の約3000倍の情報量を送ることができる。ただし、光ファイバー内の伝送信号は単なる光情報なので、端末で電気信号に変換しデータや音声に戻す必要がある。これには電源がなければならない。
4.4 レーザー医療
4.4.1 レーザー光による手術
●医療分野でのレーザー光の利用は皮膚病の治療であった。その後、レーザーメス、レーザー凝固、結石の粉砕、ガン細胞の破壊など、多岐に渡っている。
画像出展:「レーザー技術入門講座」
4.4.2 レーザー光による網膜剝離の治療
●『網膜剝離はレーザー光によって手術を手際よく行うことができます。ここで網膜とは、眼球壁の最内層にあって、多数の視細胞が並び、ここで受けた光の刺激を大脳皮質に伝えて視覚として感じ取る部分、つまり画像認識装置(センサー)の一種です。
網膜剝離とは網膜色素上皮が網膜視細胞層から剥がれ、その隙間に硝子体が貯まる病気で、これが進行すると目が見えなくなります。この治療は、昔はメスによる外科手術が行われていましたが、現在ではレーザー光による手術が行われています。図はその概要を表したものです。ここではアルゴンイオンレーザーが使われています。
ところで、波長400nm近辺の青色レーザー光は、眼科のような透明物資、特に水晶体、硝子体にほとんど吸収されないため、途中の生体組織に影響を与えることなく、眼底の網膜に効率よく照射することができるのです。これによって集光部分の剥離網膜が加熱され、たん白質が凝固作用を起こし、剥離された網膜が眼底に癒着するのです。なお、レーザー光の種類としてはアルゴンイオンレーザーのほか半導体レーザーも使われています。』
画像出展:「レーザー技術入門講座」
ご参考:高照度光療法について
レーザーポインターを使った治療は何かないかと思い調べてみると、パーキンソン病患者さまの歩行訓練に有効であるということが分かりました。動画もありましたのでご紹介させて頂きます。ただし、この歩行訓練への利用は懐中電灯でも同様の働きがあるので、レーザー光に依存するものではありません。“【パーキンソン病】レーザーポインターによる歩行支援” 3分程の動画もあります。
次に見つけたのが「高照度光療法」でした。こちらもパーキンソン病患者さまが対象で、同じく光源はレーザー光ではありませんでした。睡眠障害を改善するのが目的で、睡眠を司っているメラトニンの血中濃度を高めることによって睡眠障害の改善を促します。
サイトの中で特に詳しく説明されていたのは文部科学省のサイトにあった『光資源を活用し、創造する科学技術の振興―持続可能な「光の世紀」に向けて―』で、グラフも出ていました。
その他、“日本を元気にする光療法の総合サイト”には高照度光療法についての説明が出ていました。
レーザー光はレベルにもよりますが、覗くように直接レーザー光を見ることは厳禁で、安全とされているレベル2以下であったとしても直視すべきではありません。これは一言でいえば光のエネルギーが分散せず1点に集約されるので、エネルギー量が爆発的に多くなるためです。医療用レーザーメスが外科手術や美容整形で用いられるのは、その桁違いのエネルギーの強さによるものだということが理解できました。
今回の本は『電子と生命』という題名に魅かれ買ってしまいました。発行は2000年と20年以上前の本です。内容もとても難しく、全くついていくことができませんでした。
そこで、「電子(電気)」、「生命」、「生体エネルギー」というキーワードに注目し、頭に浮かんだ疑問を調べるということにしました。ブログは秩序に欠ける雑多な内容になっています。
なお、本書の目次だけはご紹介させて頂いています。
編集:垣谷俊昭、三室 守
初版発行:2000年6月
出版:共立出版
もくじ
序章 電子と生命
―新しいバイオエナジェティックスの展開
1.生体エネルギー変換の「場」
2.陽光をつかまえろ
3.電子とプロトンのカップルした運動―光合成細菌の場合
4.電子とプロトンのカップルした運動―葉緑体の場合
5.電子とプロトンのカップルした運動―ミトコンドリアの場合
6.電子伝達がベクトル的に起こるわけ
第1章 光エネルギーをとらえ反応の場所に運ぶ
1-1 多様なアンテナ系
1.アンテナ系構築の基本的な戦略
2.光合成細菌の膜内在性アンテナの構造と電子状態
3.光合成細菌の特殊なアンテナ系であるクロロソーム
4.酸素発生型光合成生物の膜内在性アンテナ
5.酸素発生型光合成生物の水溶性アンテナ色素タンパク質の特別な会合様式
1-2 紅色光合成細菌のアンテナ系における励起エネルギー移動の機構
1.光合成細菌アンテナにおけるバクテリオクロロフィル分子(BCh1)の美しい円形配列
2.アンテナ中の励起子による太陽光の捕獲
3.アンテナ系における非常に早い励起エネルギー移動(EET)と従来の理論の破綻
4.光合成初期EETの機構
5.アンテナ系構築の戦略
第2章 電子の方向性のある移動
2-1 光合成反応中心―電子の源流
1.光合成反応中心
2.反応中心の構造
3.反応中心の機能
4.反応中心における電子移動制御戦略
5.電子移動の方向性
2-2 植物における水の電気分解
1.光合成電子伝達系の進化
2.PSⅡの電子伝達体と構造
3.酸素発生の周期性―KokのS状態
4.水分解系におけるマンガンの機能の解明
5.EPRによるマンガンクラスターの構造解明
2-3 植物における高還元物質の生成
1.ニコチンアミドアデニンジヌクレオチドリン酸(NADPH)
2.PSI複合体
3.PSIの酸化側と還元側での電子移動
4.FdからNADP⁺への電子移動(Fd:NADP⁺酸化還元酵素:FNR)
第3章 プロトンの方向性のある移動
3-1 キノンを介した電子とプロトン移動のカップリング―呼吸と光合成に働くシトクロムbc複合体
1.プロトン移動のループ機構とコンフォメーション変化機構
2.キノン酸化のエネルギーを最大限に取り出すもう一つのループ
3.シトクロムbc複合体の構造
4.キノンのもつ二つの電子を酸化側と還元側に振り分ける機構―電子スイッチング
3-2 シトクロム酸化酵素における電子とプロトン移動の共役
1.シトクロム酸化酵素
2.O₂還元酵素
3.水素イオン輸送
4.酸化還元状態変化に共役した立体構造変化
5.ヒスチジンサイクル
6.直接共役と間接共役
第4章 バイオテクノロジーへの展開
4-1 光合成材料を用いたデバイス開発
1.光合成膜での光エネルギー変換システム
2.光合成細菌の反応中心タンパク質複合体(RC)を用いた光電変換機能をもつデバイスの作製
3.反応中心と共役したエネルギー供給システム
4.光合成膜でのシトクロム類およびキノン誘導体を用いたデバイス開発
4-2 遺伝子操作で環境耐性植物をつくる
1.ストレス耐性遺伝子
2.塩ストレス耐性を改変する
3.低温ストレス耐性を改変する
4.高温ストレス耐性を改変する
5.ストレス耐性を改変する遺伝子操作における問題点
以下はブログの目次です。
1.人間には電気が流れています
2.電気の正体とは?
-電気の正体は自由電子だった-
-導体と自由電子(電気の正体)- YouTube 3分32秒
3.人間が電気を通すしくみ
-生体電流-
-超微弱電流療法(マイクロカレント)-
-生体はイオン駆動型のシステム-
-イオンとは何か?- YouTube 4分35秒
-イオンチャネルとは?-
4.宇宙空間のイオンと電子は電波を介してエネルギーをやりとりする
5.生命の源、「水」
6.体内環境という海
7.シアノバクテリア(酸素を生み出した細菌)
8.生態系
9.酸素発生型光合成と藻類
-藍藻の光化学系-
-地球大気と酸素発生型光合成の歴史-
10.生体エネルギー
1.人間には電気が流れています
画像出展:「パワーアカデミー」
『生体が電気信号を発するという現象は、18世紀より、イタリアの生物学者ガルバーニや物理学者ボルタによって、古くから研究がおこなわれてきました。現代医療では、この現象を利用したさまざまな医療機器が活躍しています。』
『具体的には、微弱な脳の電気の活動を調べて脳機能を検査する「脳波計」や、身体の筋肉が活動する際に発生する電気の活動を調べて神経や脳の活動状態を診断する「筋電計」、そして心臓の筋肉で生まれる微弱な電気信号を捉えて心臓の状態を観察する「心電計」などが挙げられます。』
2.電気の正体とは?
-電気の正体は自由電子だった-
画像出展:「子供の科学のWebサイト」
『金属の原子は他の原子とは少し性質が異なり、電子の一部が隣りの電子と行き来することができるのです。これを自由電子といいます。なにもなければ自由電子は金属の原子の中を勝手に動いているだけですが、他から新たに電子が入ってくると、自由電子は次々にこの影響で「同じ方向」に動き出します。これにより「電気の流れ」が生まれるのです。』
-導体と自由電子(電気の正体)- YouTube 3分32秒
画像出展:「TEPCO」
導体における電流(電気の流れ)は原子の周りにある自由電子の流れです。
3.人間が電気を通すしくみ (PDF1枚)
-生体電流-
画像出展:「うしく整形外科クリニック」
『体の中を流れる電流を生体電流と言います。この生体電流は、体のあらゆる組織に作用しています。』
『プラスとマイナスのバランスが正常な状態の場合、各臓器に血液が行きわたり、生体電流のバランス
が保たれます。このバランスが崩れると、体の中に流れる生体電流が乱れてしまい、自律神経も乱れます。その結果、不眠、倦怠感、むくみなどの様々な不調が
起こるのです。』
-超微弱電流療法(マイクロカレント)-
画像出展:「NHKクローズアップ現代」
『感じられないほど微弱な電流が、治療やスポーツの世界を一変させようとしている。腕や足などに流すと、筋肉の疲労回復が早まり、肉離れやねんざなどのケガがより早く治ることが明らかになりつつある。』
-生体はイオン駆動型のシステム-
画像出展:「東北大学」
こちらは東北大学さまの研究プロジェクトです。
タイトルは『ソフトウェット材料による生体親和性デバイスの製造技術を創成し,生体イオントロニクス工学を開拓する』です。
“生体はイオン駆動のシステム”という表現が気に入ったので、ご紹介させて頂きました。なお、イオンとは、「電子の過剰あるいは欠損により電荷を帯びた原子または基(原子の集合体)のこと」です。
※イオントロにクスに関する情報(PDF18枚)
-イオンとは何か?- YouTube 4分35秒
画像出展:「中学理科のポイント解説」
通常原子はプラスとマイナスの電気が釣り合っており中性の状態です。
しかし、なんらかの刺激が加わると内外に変化が起き、原子が電気を帯びるようになります。+の場合は陽イオン、-の場合は陰イオンと呼ばれます。
-イオンチャネルとは?-
画像出展:「moleculardevices」
『イオンチャネルとは、細胞の脂質二重層膜を貫通する細孔を形成するタンパク質群のことです。各チャネルは特定のイオン(例えば、カリウム、ナトリウム、カルシウム、塩化物など)に対する透過性をもっています。』
4.宇宙空間のイオンと電子は電波を介してエネルギーをやりとりする
画像出展:「JAXA」
『地球や惑星周辺の宇宙空間には希薄ながらもイオンや電子が存在します。これらのイオンや電子はエネルギーの低いものから高いものまで様々な状態で存在することが知られていますが、なぜこのような多様性が生まれるのかは分かっていません。』
イオンも電子も地球を超え、宇宙に存在しています。
5.生命の源、「水」
画像出展:「大塚製薬」
『はじめての生命は、水の中で単細胞の生物として発生しました。その後、長い時間をかけて多細胞生物に進化し、その中から脊椎動物が生まれ、さらに陸上へ上がって空気を呼吸する生物が現れました。そして少しずつ、長い進化の道のりを経てようやく人類が誕生しました。
しかし、陸に上がった生命は、決して海と無縁になったわけではありません。私たちの身体の中にはたくさんの「体液」と呼ばれる水分があります。その体液、血液、そして、女性が胎内で新しい生命を育むための羊水にいたるまで、これらは全て電解質(イオン)を含み、太古の海水に成分が似ていると考えられています。これは、生命が海の中で誕生した名残であり、まさに私たちの身体は、内なる海を持っているといえます。』
6.体内環境という海
画像出展:「葉山ハーモニーガーデン」
『イメージ的には、血とかリンパ液とかの方が多いような気がしますが、一つ一つの細胞の中にある細胞内液(細胞質基質)の合計が、体液の60%を占めるということが意外な気がします。そして、細胞と細胞の間にある組織液を含めると90%を占めるというのもすごいことですね。人の体の細胞は本当に、海の中に漂っているというのもうなずけます。』
7.シアノバクテリア(酸素を生み出した細菌) 動画 2分13秒
画像出展:「NHK for School」
“地球に酸素を作り出した生物”
・約35億年の地球。大気は96%が二酸化炭素で、酸素はなかった。
・太陽光と二酸化炭素から酸素を生み出したのは、シアノバクテリアという細菌であった。
8.生態系
二酸化炭素に包まれた地球に酸素が作られ、生物は劇的な進化を遂げ、生態系が形成されました。
画像出展:「浦安市」
『空気、土、水などの自然環境と植物や動物など、その自然環境の中ですんでいる生き物たちは、太陽の光エネルギーを命の源として、お互いにかかわりあっています。このような自然界の物質とその循環をまとめて、生態系といいます。』
9.酸素発生型光合成と藻類
画像出展:「筑波大学 生物学類」
『進化の過程で光合成が発明されてからしばらくのあいだ(もちろん地質学的時間で)、炭酸同化のための電子の供与体は水素や硫化水素あるいはある種の有機化合物であったと考えられています。そして現存の光合成細菌はその当時の光合成の姿を今に残している生物と考えられています。やがて、原核光合成生物の中に、地球上に無尽蔵に存在していた水を電子供与体として利用する生物が現れました。藍藻(ラン藻)や原核緑藻などがそれです。』
-藍藻の光化学系-
画像出展:「筑波大学 生物学類」
『藍藻や真核藻類そして陸上の植物は,地球上のあらゆるところに存在する水を電子供与体として利用することで生息域を地球の全土に広げています。水のエネルギーのレベルは低く、充分な還元力を得るために2つの光化学系を利用しています。図は光化学系Iと光化学系IIの模式図でZスキームの名前で呼ばれています。光化学系IIで水が分解されて電子が取り出され、光エネルギーによって励起されて電子伝達系を流れていきます。その過程でATPが生産されます。』
-地球大気と酸素発生型光合成の歴史-
画像出展:「筑波大学 生物学類」
『現在の地球大気に含まれる酸素はこのような酸素発生型光合成生物によって形成されたものです。図から藍藻を含む藻類が地球大気の形成に果たした役割が理解できるでしょう。』
画像出展:「筑波大学 生物学類」
『生命の歴史を1年歴に表してみると図のようになります。』
『われわれは生物の中心は動植物であると考えがちですが、時間軸でみると陸上の動植物の歴史は生命の歴史のわずか13%にすぎません。これに対して 原核の藻類は30億年の歴史をもち、生命の歴史の8割近い時間を占めています。』
10.生体エネルギー
画像出展:「東京薬科大学」
『我々はご飯を食べ、呼吸することにより、生きていくために必要なエネルギーを作り出しています。この生体エネルギー獲得システムにおいては、有機物の酸化分解反応と酸素の還元反応という2つの化学反応をリンクさせ、そこから電気化学エネルギーを取り出しているのです。これは、負極の化学反応と正極の化学反応をリンクさせ、その間の電位差分のエネルギーを得る電池と同じ構造です(図を参照)。細胞の中で有機物の酸化により放出された電子は、ミトコンドリア内膜の電子伝達系(負極と正極をつなぐ電線)を経て、酸素に渡されます。この過程で膜の内側から外側へプロトンが輸送され、その濃度差を利用して生体内のエネルギー通貨であるATPが合成されるのです。』
感想
宇宙には電子もイオンもあるそうなので、地球が生まれる前から存在しているということです。地球の誕生は約46億年前、生命の誕生は約38億年前、その生命誕生の約3億年前の大気は96%が二酸化炭素で、酸素はなかったそうです。
酸素を生み出したのはシアノバクテリアという細菌です。その後、酸素発生型光合成の藍藻を含む藻類が地球大気の組成を大きく変え、酸素を得た生物は進化のペースを加速させました。
植物は“生態系”の「生産者」とされています。材料は太陽エネルギーと水と二酸化炭素です。人間は「消費者」であり、水と酸素が生命維持には必要で、体の約90%は水でできています。一方、生体エネルギーのATPは、細胞の中で有機物の酸化により放出された電子が、ミトコンドリア内膜の電子伝達系を経て酸素に渡されます。この過程で膜の内側から外側へプロトンが輸送され、その濃度差を利用して生体内のエネルギー通貨であるATPが合成されます。
生態系の「消費者」である人間は、オゾン層に守られたマクロな環境(酸素と水)とミクロな電子の働き(生体電流とATP)によって、生かされているのだと思いました。
かなり強引なまとめですが、何とか「電子と生命」の近くにたどり着いたかなと思います。
第三章 米中対立はどう乗り越えられるか―Z世代の現実主義
●選挙がむしろ民主主義を動揺させる?
・2021年7月に行った調査(ピュー・リサーチ・センター)によれば、民主党の支持者の78%が「投票は[基本的な権利]であり、制限させるべきではない」と考えているのに対し、共和党支持者は67%が「投票は[特権]であり、制限可能」と答えている。ただし、ここには両党の選挙対策上の狙いも存在していると思う。
・『バイデン大統領は投票制限の動きを「民主主義への攻撃」と批判し、民主党議員が多数派を占める連邦議会下院では期日前投票の拡大などを盛り込んだ投票権法が可決された。しかし、民主党と共和党が同数の上院(2022年1月当時)では、共和党だけでなく民主党の中道派からも「党派色の強い法案はさらに民主主義を弱める」といった反対が出るなど、民主党内ですら意見が分裂しており、成立の目処は立っていない。ますます多くの市民が、アメリカでは民主主義がうまく機能していないと考えているが、その危機はどこからきて、どう克服できるのかという次元になると、深刻な党派対立が生じ、民主主義の修復に向けた団結を阻んでいる。
選挙を通じて政治に民意を反映する政治システムは、世界に対するアメリカの魅力やソフトパワーの貴重な源泉となってきた。しかし、2021年1月の議事堂襲撃事件が表したように、党派対立が極限まで進行した結果、4年に一度の大統領選挙は、アメリカ政治を安定化させるどころかむしろ不安定化させ、対外的にアメリカの脆さや弱さを示すものとなってしまっている。
ビュー・リサーチ・センターが2020年大統領選の1ヵ月前に行った調査では、共和党候補のトランプと民主党候補のバイデンの支持者ともに、9割の回答者が、「自分が支持していない政党の候補者が勝利して大統領になった場合には、国に永続的な損害がもたらされる」と回答した。さらにおよそ8割の回答者が、自分と相手陣営の支持者との違いは「アメリカの中核的な価値観」をめぐる根本的なものだとしている。現在アメリカは分裂しているかどうかという問いに対しては、調査対象となった13カ国の中央値47%をはるかに上回る77%の回答者が、「そう思う」と回答した。こうした厳しい党派対立の現状にあって、4年に一度の大統領選は、アメリカの民主主義に活力と魅力を与えるどころか、政治的な分断をますます深めるものになっているのである。
さらには、自分にとって望ましくない選挙結果を暴力で覆すことを容認する傾向も顕著になっている。民主主義の研究で知られる政治学者ラリー・ダイヤモンドらの研究グループが、大統領選が近づいて緊張が高まっていた2020年9月に行った調査では、共和党支持者の44%、民主党支持者の41%が、ライバル陣営の候補者が選挙に勝った場合、暴力を正当化する理由が「少しは」あると回答した。党派対立が激化したアメリカでは、選挙を通じた平和的な権力移行という民主主義の根幹が危うくなっている。』
●「能力」が正当化してきた経済格差
・アメリカの民主主義を機能不全にしているのは政治的対立だけではない。連邦議会予算局の2022年のレポートによると、アメリカでは上位10%の世帯が国の富の72%を保有し、下位50%の世帯は国全体の富の2%しかもたない。
・格差の問題は固定化もしてきている。これは富裕層が資産をシンクタンクや大学、メディア、選挙の候補者などへの資金援助を行い、その政治的な影響力を通じて自分たちにとって有利な相続ルールを形成し、蓄積した富を次世代の残せるようにしてエリート階級を再生産し続けてきた。
・「アメリカンドリーム」はもはや死語である。さらに富の格差は是正の対象というより、個人の「能力」の差異として正当化される傾向にある。
・『世界で揺らぎつつある民主主義への信頼を回復し、民主主義国家の数的な劣勢を挽回するために、アメリカが取るべき行動とは何か。民主主義の素晴らしさを外に向かって喧伝したり、民主主義サミットによって民主主義国の結束をアピールしたり、「非民主主義国」を断罪することよりも実質的な課題があるはずだ。むしろこうした外交は、自分たちの民主主義がいかに危機的な状況にあるかを見失わせてきた。世界を「民主主義と権威主義制の競争」と捉えてしまうことで、アメリカが世界を見る眼は硬直化し、イデオロギーや政治体制の違いを超えて諸国家が取り結ぶ多様な関係性も見えなくなってきた。
アメリカが世界で揺らぎつつある民主主義への信頼を回復し、中国との体制間競争に勝利し、民主主義を守り抜こうとするならば、民主主義の素晴らしさを喧伝するよりも、自国の政治経済や社会が抱えたさまざまな矛盾に謙虚に向き合い、その解決を地道に図っていくことことがまず重要ではないだろうか。』
第四章 終わらない「テロとの戦い」―Z世代にとっての9・11
●「テロとの戦い」への懐疑
・Z世代は「アメリカ例外主義」的な考えから距離を置いている。そして「例外主義」への冷めた眼差しは対外政策にも向けられ、いままで正当化されてきた外交や戦争にも、懐疑と批判の目を向けている。
・Z世代は9・11よりも、その後の中東・アフガニスタンでの戦争に対する関心が強い。アメリカ進歩センターの2019年の調査では、多くのアメリカ市民が「中東・アフガニスタンでの戦争は時間、人命、税金の無駄遣いであり、自国の安全には何の役に立たなかった」と回答しているが、特にZ世代では7割近くなる。
第五章 人道の普遍化を求めて―アメリカのダブル・スタンダードを批判するZ世代
●アメリカのダブル・スタンダードを批判する若者たち
・『Z世代は、アメリカで構造的な差別にさらされてきた黒人の命と尊厳を訴えるブラック・ライブズ・マター運動の中心的な担い手となってきたが、彼らの視野は決して国内に留まらない。ますます世界各地の差別や暴力、特に自分たちの国、アメリカが行使してきた暴力や加担してきた抑圧に厳しい批判を向けている。
外交や安全保障についての若者の啓発の目的の一つに掲げるシンクタンク、ユーラシア・グループ財団が2021年9月に発表した報告書によると、18歳から29歳までの回答者の60%近くがアフガニスタンでのドローン攻撃に批判的であった。この数字はより年長世代の倍以上にあたる。また、この世代は、ロシアや中国などの「権威主義国家」とアメリカなどの「民主主義国家」という、就任以来バイデン政権が掲げてきた二分法的な世界観を無批判に受け入れることもしない。むしろ彼らが指摘するのは、アメリカの偽善とダブル・スタンダードだ。
アメリカの歴代政権は、民主主義や人権の擁護者を対外的に自負しながら、アメリカの同盟国や緊密な関係にある国家がそれらの価値を踏みにじることを黙認し、さらには手厚い援助や支援を与えてきた。人権外交を華々しく掲げたバイデン政権も、新疆ウイグル自治区や香港での中国政府による人権侵害を強く批判する一方で、イスラエルによるパレスチナ人の殺害や人権侵害は黙認し、国民の人権を躊躇し続けてきたフィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ政権に多額の軍事援助をしてきた。権威主義国家に対する民主主義国家の結束を示すことを目的に、バイデン政権の肝煎りで2021年12月に開催された民主主義サミットにはフィリピンも招聘され、そこでドゥテルテは「フィリピンでは報道の自由、表現の自由は完全に享受されている」と公然と主張した。Z世代の若者たちは、ドゥテルテのような人権抑圧的な権威主義国家の詭弁、そしてそれを擁護し、援助するアメリカにますます批判的になっている。
また、アメリカという国の抑圧的・暴力性を考えるうえで無視できない問題が、イスラエル・パレスチナ問題だ。アメリカで黒人が白人警官によって不条理に殺害されるのと同じ様に、イスラエル兵によってパレスチナ人が日々、殺害されてきた。』
第六章 ジェンダー平等への長い道のり―Z世代のフェミニズム
●多様性を象徴する存在
・ハリスはアメリカ社会の多様性を象徴するような存在である。
・母はがん研究者、父は経済学教授というエリート家系の出身。幼いころは黒人バプテスト教会とヒンドゥー教寺院の両方に通い、多様な文化や宗教を経験しながら育った。
・検事の仕事は犯罪者を刑務所に入れるまでという考えが根強い中、ハリスは元犯罪者の社会復帰プログラム「バック・オン・トラック」の作成に取り組んだ。「バック・オン・トラック」は職業訓練、GED(高卒認定試験)コース、社会奉仕活動、薬物治療などを盛り込んだ包括的なプログラムとして着実に成果を挙げ、オバマ政権時代の司法省によって全米のモデルプログラムに選出された。
・2011年には、カリフォルニア州で黒人女性として初の司法長官に就任。サブプライム住宅ローン問題で多くの人々の自宅が差し押さえられると、大手銀行と対決して労働者世帯のために歴史的和解を勝ち取った。また、多くの裁判で死刑求刑を拒否したことでも有名になった。
・2016年、黒人女性としてカリフォルニア州では初、全米で史上2人目の上院議員に当選し、与党共和党を鋭く追及する論客として頭角を現していく。
●黒人コミュニティからの不信感
・ハリスは公民権運動に参加する両親を見て育ち、早い時期から社会正義に関心を抱いたが、デモに従事する活動家ではなく、体制の内からの変革が必要だと考え、後者に自身の役割を見定めていった。その心情について、自伝の中で次にように語っている。
「変化を起こすとはどういうことか、その一例を私は幼いころからこの目で見てきた。外側から声をあげ、デモ行進し、正義を要求する大人たちに囲まれていたからだ。だが私は、内側、つまり意思決定がなされる場にいることが重要であることにも気づいていた。活動家たちがやってきてドアを叩いたら、彼らを招き入れる側になりたかったのである。」
・ハリスに対し、なぜ有色人種の若者を刑務所に送る仕事に加担しているのかという批判する向きは根強く存在する。
・副大統領になってからのハリスは全面的にブラック・ライブズ・マター運動への賛意を示しているものの、同運動の骨子である警察予算の削減についての考えは曖昧である。ハリスの警察に対する考えは、この10年で大きく変化しており、今も定まっていないのかもしれない。
・ハリスの警察に関する見解の変遷を機会主義とみなす向きもある。ブラック・ライブズ・マター運動の共同発起人の1人、パトリス・カラーズは、「バイデンとハリスは決して救世主ではない」と強調する。
●寛容であることの困難
・ハリスが副大統領になって最も変化した考えは移民問題である。副大統領就任後の初の外遊となった中米グアテマラで、ハリスは次のように述べた。「米国国境まで危険な旅をしようと考えているグアテマラの人々には、はっきりと言っておきたい。来ないで(Do not come)」。これは2021年4月に米墨国境で拘束された移民の数は178,000人を超え、20年ぶりの高水準だったことが関係している。また、トランプ政権からバイデン政権に移行し寛大な移民政策に対する大きな期待があり、これがハリス発言につながったと考えられている。この発言によって、ハリスは民主党内の進歩派や人権擁護団体から批判された。
●「壁」問題―「トランプ化」する民主党?
・移民の問題はハリスに限ったものではなく、民主党全体の大きな課題である。バイデンはトランプが250億ドルをかけてメキシコ国境を建設した「壁」に手を加えることはなかったが、2020年中間選挙前の7月、バイデン政権はアリゾナ州ユマに「壁」を建設すると発表した。アリゾナ州とメキシコとの国境沿いの「壁」には、ところどころ数十メートルから数百メートルの隙間があり、そこからアリゾナ州に侵入できる。そのため、アリゾナ州では移民・難民の流入が有権者の一大懸念事項となっていた。
・民主党は移民・難民政策、犯罪対策に疑問を抱く有権者からの支持を失い始めている。
●「アイデンティティ政治」の失敗事例?
・ハリスの失墜はバイデンがハリスの政治家としての資質ではなく、黒人で女性という彼女の「アイデンティティ」を理由に副大統領に起用したという歪んだ理解をされてきた。こうしたハリスへのバッシングは、共和党の政治家や共和党寄りのメディアで数限りなく展開されてきた。
・黒人であり、女性であり、アジア系でもあるハリスは、進歩主義的な有権者の期待は大きかった。しかしながら、ハリスが中道を模索する傾向が強かったため、そのような人々はハリスに失望した。
●中道であることの難しさ
・ハリスは自伝の中で、世の中の政策論争はしばしば「誤った二者択一」に陥っているとして、そうした問題の設定の仕方を拒絶するスタンスを表明している。警察をめぐる議論も「誤った二者択一」と考えている。警察を擁護して存続させるのか、批判して解体させるのかといった論争は不毛なものとハリスは考えている。
・政治社会が両極化する中で政治家たちが中道路線を掲げ、選挙に勝てるだけの支持を集めることはだんだん難しくなっている。
・『さらには今日のアメリカにあって「中道」とは何かという根源的な問題もある。ハリスが中道とみなしてきた政策の多くは、今日の民主党支持者、特に今後、社会でいよいよ重要性を増していく若い有権者の目にはあまりに保守的に映るものだ。警察問題にしても移民問題にしても、ハリスの主張は一貫しておらず、確固たる軸を持った政治家とみなすことは難しい。また、生まれてからこのかた経済格差が肥大化するばかりの時代を生き、資本主義経済にいよいよ幻滅を深めるZ世代にとっては、経済格差を批判しつつも資本主義体制そのものには批判意識をもっていないかのようなハリスの言動は、生ぬるいものでもある。ハリスが有権者の支持、特に若い世代の支持を回復していこうとするならば、自身の政策的な軸を固め、「どっちつかずの中道の政治家」というイメージを脱皮してけるかが鍵となるだろう。ただ、それは意識的に中道を追求してきたハリス自身の政治信条にかなうことではないかもしれない。』
●#Me too運動へのダブル・スタンダード?
・2020年12月、コロナ対策で大きな評価を得ていたニューヨーク州知事アンドリュー・クオモにセクハラ疑惑が持ち上がった際、ハリスはバイデンや民主党の重鎮たちとともに慎重な姿勢を崩さなかった。これはハリスがカリフォルニア州の司法長官時代や上院議員時代とは異にするものであり、敵に厳しく身内に甘いダブル・スタンダードであると見なされた。
●ハリスを超えて―フェミニズムの未来
・Z世代の警察改革への支持は他世代より20%弱高い。Z世代の間にもハリスは新しい時代のフェミニズムの象徴ではないのではないか、ラディカルな社会変革を追求する人物ではないのではないかという懐疑は広がっている。
第七章 揺らぐ中絶の権利―Z世代の人権闘争
●「母親や祖母より権利を持たない世代」
・中絶問題は「プロ・ライフ(中絶反対)」と「プロ・チョイス(中絶賛成)」に分かれる。前者は共和党支持者が多く、後者は民主党支持者に多い。しかしながら、「プロ・ライフ」の中でレイプや近親相姦の場合でも同様に中絶に反対するのは30%程に留まるため、この問題は二者択一では語れない側面がある。
●ロー判決破棄の背景―司法の保守化
・極端な中絶制限と、無制限の中絶容認の両極には大きなグレーゾーンがあり、多くの人々はこのゾーンに位置している。
・アメリカでは最高裁判事は大統領が指名し上院議員が承認する形で決まるが、トランプが大統領の時代に、合計3名の保守派の判事が送り込まれたことで、保守派6名とリベラル派3名というアンバランスがうまれ、保守派の影響が強まった最高裁となった。
・2020年の敗北でトランプの再選はならなかったが、トランプ政権下で進んだ司法の保守化は、しばしば「永久保守革命」とも称される。特に3名の判事はゴーサッチ(1967年生)、カヴァノー(1965年生)、バレット(1972年生)と皆、若い。最高裁判事は終身職であるため健康であれば、数十年にわたって判決に影響を及ぼす。
・トランプは最高裁だけでなく、連邦控訴裁判所・連邦地方裁判所で、226人の保守派の裁判官を任命した。これらの裁判官の多くが保守的な傾向を持つと見られる。これもトランプ時代の遺産として、今後長くアメリカ社会に影響を与えることになる。
●ギンズバーグ判事が見いだしていたロー判決の弱さ
・1993年にビル・クリントンの指名で史上2人目の女性連邦最高裁判事となったギンズバーグは、中絶制限の根底には性差別があり、それこそが問題の核心であると考えていた。子どもを持つことは、女性の人生を大きく左右する。望まない妊娠をし、意に反して子どもを持つことは女性の人生を大きく左右することになる。こうしたリスクは男性にはないものである。子どもを産むかどうかについては女性自身が決定権を持つべきであり、それが実現して初めてジェンダー平等への道が拓かれる。こうした考えからギンズバーグは、中絶の権利はプライバシー権ではなく、男女平等によって基礎づけられるべきだと考えていた。
●声をあげるZ世代
・ギャラップ社の世論調査によると、18歳から29歳のアメリカ人の48%が「いかなる状況でも中絶は合法であるべきだ」と回答し、「中絶は違法であるべきだ」と回答した11%を完全に凌駕している。
●社会運動では勝っても、権力闘争では負けるリベラル?
・『ワシントンポスト紙の映画評論家アン・ホーナデイは断言した。「リベラルの勝利は空虚なものだった。共和党のやり方を「権力ゲーム」と批判することはたやすいし、人権や望ましい価値の実現に向けて、市民ひとりひとりが当事者意識を持ち、さまざまな社会運動に従事することはとても重要だ。しかし、この「権力ゲーム」に勝たないことには取り戻されない権利があることも現実だ。共和党は、社会においては保守的な価値観がだんだんと守勢に立たされている現実を踏まえ、早くからその主戦場を、最高裁や州議会の多数派を占めることに見定めてきた。そのことが、長年定着してきたロー判決が最高裁で覆され、その判決を受けてすぐに、共和党が州議会の多数派を占める州で中絶制限が進んできたことの背景にある。
最高裁の多数派を奪還するには数十年単位の戦略が必要だ。アメリカのリベラルは今、厳しい現実に直面している。』
●権利を守る世代
・Z世代はアメリカ民主主義の未来への危惧も大きい。アメリカが健全な民主主義国家であると信じる人はわずか4%で、29%が自分の投票権が何らかの形で損なわれていると危惧している。若年層の政治意識を調査するCIRCLEの出口調査によれば、この世代は中間選挙(2022年)の主要な争点であった中絶、犯罪、インフレ、移民、銃規制の5つのうち、もっとも重要な争点として44%が中絶を選び、トップとなった。インフレを選んだのは21%だった。中絶問題がインフレを上回ったのはZ世代だけである。
感想
アメリカは経済、軍事両面で世界一の大国です。世界の大国といえば他に中国、ロシアがあり社会主義国家と言われていた両国は、今は権威主義国家と呼ばれています。権威主義国家とは政治的な権力が一部の指導者に集中すると定義されているので、中国は習近平、ロシアはプーチン、この二人に権力が集中しているのは間違いなく、権威主義国家であることは明らかです。一方、民主主義国家であるはずのアメリカ合衆国ですが、18歳~29歳のZ世代はアメリカ民主主義の未来への懸念が強く、アメリカが健全な民主主義国家であると信じる人はわずか4%という調査もあるようです。
共和党右派はプーチンと思想的な共鳴があるとされています。また、前トランプ政権において最高裁判事はリベラル派3名に対して保守派6名と、保守派の影響が出やすい最高裁になっています。さらにトランプの「司法の保守化」は民主主義にとって危機的状況といえます。特に新たな構想である「スケジュールF」(政治任用者を現在の10倍以上、最大5万人程度まで増加させる)が実行に移されると、憲法よりもトランプ氏に忠実でありたいと思う任用者達による、トランプのための政治にならないか非常に心配です。このように考えると、共和党が展開している「権力ゲーム」のゴールは、アメリカを権威主義国家に変容させることで、それを成しえた共和党が未来永劫政権を握ろうとしているのではないかと思われます。
本書の中で一番印象に残ったのはハリスの「誤った二者択一」という考えです。また、右派、左派と両極がクローズアップされるアメリカでは中道を貫いて選挙に勝つのは非常に難しいと言われています。しかしながら、権威主義を否定し分断を是正しようとすれば、中道という立場に立ってこの「誤った二者択一」の問題に取り組むことが、本来求められている姿ではないか思います。
注)政治任用者とは:日本で言えば各省の大臣、副大臣、政務官、局長、審議官などの幹部、これにさらに日本の官僚組織には存在しない「特別補佐官」や「上級補佐官」などが加わる。
最後に、本書を手にした当初の疑問(「カマラ・ハリスは何故人気がないのか」)ですが、1つにはトランプ共和党政権からバイデン民主党政権にかわり、大きな期待をもったZ世代、マイノリティ、女性、移民・難民などからの大きな期待に応えられなかったことがあると思います。そして、もう一つはバイデン政権の副大統領という立場を優先した発言・行動が求められたということではないかと思います。検事→司法長官→上院議員→副大統領という経歴の変遷において、自らの考えを貫くものと柔軟な対応が求められるものに対して、いかに向き合い対応するかという課題は極めて難しいものではなかったかと思います。
画像出展:「キャノングローバル戦略研究所」
組織において“分断”はマイナスです。社内で専務派と常務派に分かれたり、チーム内で監督派とコーチ派に分かれたりすれば、総力は削られ組織の目標に赤信号が灯ります。特別な事情がない限り「百害あって一利なし」それが組織における“分断”だと思います。
一方、今のアメリカに起きている分断は何なのか。それは「多様性」と「権利」のせめぎ合い、そして背景にあるのが「生活」であり、その直接的な大きな要因の一つは「移民問題」ではないかと思います。
世界が注目するアメリカの大統領選挙は2024年11月5日です。バイデン大統領とトランプ元大統領の討論会は、およそ4カ月半前の6月27日に行われました。バイデン氏は年齢の衰えを隠せず、リーダーとしての資質に疑問を呈する場となりました。
一方、7月13日ペンシルベニア州のバトラー市で行われた共和党の集会で、トランプ氏は命を狙った銃弾で耳を負傷するという、あってはならない事件が起きてしまいました。この事件後、共和党内の一体感は高まり、世論は一気にトランプ氏の勝利を織り込むようになってきました。
画像出展:「トランプ狙撃事件が見せた米民主主義の自衛作用(産経新聞)」
バイデン大統領に代わる新しい候補者擁立の動きが活発化する中、7月21日、バイデン大統領は選挙戦からの離脱を表明し、後任を現副大統領のカマラ・ハリス氏に委ねるという発表がありました。もし、ハリス氏が大統領に選ばれると米国初の女性大統領ということになります。
今回の『Z世代のアメリカ』という本は、「カマラ・ハリスは何故人気がないのか」とタイプして見つけたものです。
著者:三牧聖子
発行:2023年7月
出版:NHK出版
NHK出版デジタルマガジンというサイトに、『アメリカ「例外主義」の変化―トランプ大統領が国際秩序にもたらしたものとは』という記事がありました。
なお、この記事は三牧先生の『Z世代のアメリカ』からの抜粋とのことです。
はじめに
第一章 例外主義の終わり―「弱いアメリカ」を直視するZ世代
●戦争はもうこりごり
●ドナルド・トランプ―「例外主義」を放棄した大統領?
●「逆・例外国家」?―バーニー・サンダースの問い
●未完のサンダース革命
●バイデンに受け継がれた「アメリカ第一」
●アフガニスタンからの撤退
●「アメリカにウクライナ支援をする義務はない」
●例外主義の放棄は平和につながるのか
●「盟主」不在の国際秩序とどう向き合うか
●ポスト例外主義世代
第二章 広がる反リベラリズム―プーチンと接近する右派たち
●リベラリズムへの敵意が広がるアメリカ
●内向きになる保守
●「文化闘志」ロン・デサンティスの台頭
●アメリカ右派とプーチンの思想的共鳴
●「キャンセルカルチャー」批判を繰り返すプーチン
●「キャンセル」を超えて
第三章 米中対立はどう乗り越えられるか―Z世代の現実主義
●分断される世界―民主主義サミットが示した問題
●アメリカはもはや民主主義のお手本ではない?
●選挙がむしろ民主主義を動揺させる?
●「能力」が正当化してきた経済格差
●対中感情の歴史的悪化
●Z世代のTikTokブームは「地政学的リスク」か?
●国家安全保障は大事だが、すべてではない
●未来の協調に希望をつなぐ
第四章 終わらない「テロとの戦い」―Z世代にとっての9・11
●「テロとの戦い」への懐疑
●9・11を記憶する
●誰が忘れられてきたのか
●たった1人の反対
●命の値段
●「女性を解放するため」の戦争?
●中村哲医師がみた9・11
●アメリカ=女性の解放者言説の欺瞞
●Z世代フェミニストの問い
第五章 人道の普遍化を求めて―アメリカのダブル・スタンダードを批判するZ世代
●不可視された「テロとの戦い」
●「ドローン大統領」オバマ
●永久戦争?
●忘れられるアフガニスタン
●経済制裁が加速させる人道危機
●アメリカのダブル・スタンダードを批判する若者たち
●人道に潜むレイシズム
●日本、そして私たちにできること
第六章 ジェンダー平等への長い道のり―Z世代のフェミニズム
●カマラ・ハリスの不人気
●多様性を象徴する存在
●黒人コミュニティからの不信感
●寛容であることの困難
●「壁」問題―「トランプ化」する民主党?
●「アイデンティティ政治」の失敗事例?
●中道であることの難しさ
●#Me too運動へのダブル・スタンダード?
●ハリスを超えて―フェミニズムの未来
第七章 揺らぐ中絶の権利―Z世代の人権闘争
●「母親や祖母より権利を持たない世代」
●ロー判決破棄の背景―司法の保守化
●リベラルが中絶に反対した時代
●ギンズバーグ判事が見いだしていたロー判決の弱さ
●母性を否定しない「新しいフェミニズム」?
●プロ・ライフとプロ・チョイスの二分法を問い直す
●1人の女性の中にあるプロ・ライフとプロ・チョイス
●声をあげるZ世代
●社会運動では勝っても、権力闘争では負けるリベラル?
●アメリカは今、人権の旗手といえるのか
●権利を守る世代
●Z世代へ未来をつなぐ
おわりに
第一章 例外主義の終わり―「弱いアメリカ」を直視するZ世代
●戦争はもうこりごり
・2000年代のアメリカは、対外的にはアフガニスタン・イラン戦争後の膠着、肥大化する戦争関連費用に苦しみ、対内的には2008年のリーマン・ショック後の長い不況に見舞われ、貧困の格差も極限まで広がった。
・Z世代が知っている戦争はアメリカから仕掛け、圧倒的な力の差によるものだったが、ロシアとウクライナの戦争は全く異なる。他国から侵略を受けた国に対し、アメリカは何をすべきか、何ができるのかという新しい問いを突き付けられている。
・アメリカが反戦の立場をとって、ウクライナへの武器支援をやめれば平和は訪れるのか。ウクライナの領土や主権が大幅に損なわれたうえで、停戦は実現されるかもしれない。しかし、それは本当に平和と呼べるのか。他方、際限ない武器支援のよって望ましい平和は訪れるのか。ロシアのような軍事大国を屈服させることは可能なのか。Z世代は今、こうした厳しい問いと現実に直面している。
●ドナルド・トランプ―「例外主義」を放棄した大統領?
・2001年の9・11同時多発テロから始まった「テロとの戦い」は過去20年間でアメリカが軍事作戦を展開してきた国は80カ国に及び、その費用は計8兆ドル(約1200兆円)にのぼる。命を落とした米兵の人数は7000人を超え、敵対する兵士や民間人を含めた全世界の死者の総計は90万人前後に及ぶ。
・2017年、第45代アメリカ大統領に就任したトランプは、「世界に搾取され、弱くなったアメリカ」というネガティブな自国像であった。そこには盟主意識も世界の警察という意識も全くない。
・トランプにとって、自国の産業や自国の軍隊を犠牲にするような世界との関与を改め、国益を追求する「アメリカ第一主義」を宣言した。“Make America Great Again”である。
・トランプが放棄した「例外主義」とは、「アメリカは物質的・道義的に比類なき存在で、世界の安全や世界の人々の福利に対して特別な使命を負う」という考えである。トランプが目指すのは「普通の国」ということである。しかしながら、これはアメリカの「例外主義」的な意識に支えられてきた国際秩序が重大な転換点にあることを意味している。
※アメリカ例外主義(Wikiより):アメリカ合衆国がその国是、歴史的進化あるいは特色ある政治制度と宗教制度の故に、他の先進国とは質的に異なっているという信条として歴史の中で使われてきた概念である。
●「逆・例外国家」?―バーニー・サンダースの問い
・アメリカは新型コロナのパンデミックで、社会保障制度の脆弱性が露呈した。
・社会主義の否定の裏には豊かさや自由への誇りがあった。しかし、貧富の差が拡大を続ける中で、状況は大きく変わり今日では多くのアメリカ国民が現状に疑問と不満を募らせている。
・2019年5月のギャラップ社の調査では、43%の回答者が社会主義を「よいもの」だと回答している。これは1942年の25%からの劇的な上昇である。
・新自由主義グローバリズムと格差の拡大が現実的になりつつあるなかで、アメリカ国民はなぜ先進国でありながら、ここまで社会保障制度が未整備なのかと不満を募らせている。
・サンダースが模範とみなすのは、デンマークなどの北欧諸国である。デンマークでは一握りの人々が莫大な富を保有することを可能にする制度を推進する代わりに、子どもや高齢者、障害者を含むあらゆる人が安心して生きられる最低限度の生活水準を保障する制度を作った。
・アメリカ的な「自由」は唯一のものではなく、もしかしたら最善のものでもないかもしれないという主張は、アメリカの「例外主義」を根本から問い直すものであった。
・アメリカの科学技術や文化・芸術に関しては、90%近くが「誇りに思える」と回答しているが、社会保障制度や政治システムに関しては、「誇りに思えない」が60%超えている。
・サンダースの問題定義に最も賛同している世代は若者である。Z世代は物心がついてからずっと、お金がものを言う政治を見せつけられ、政治に希望を見いだすことはできなかった。
●未完のサンダース革命
・サンダースは、2016年はクリントンに、2020年はバイデンに敗北した。敗因はクリントン、バイデンといった中道の重鎮たちは面白みがないが選挙に勝てる可能性が高いと思われている。
・サンダースは「急進左派」と言われているが、その政策はヨーロッパの中道左派の主張に近いものである。
●バイデンに受け継がれた「アメリカ第一」
・バイデン政権は大統領就任直後から、トランプ政権下で進められた排他主義的・単独行動主義的な政策を巻き戻し、世界に開かれ、他国と協調するアメリカを再び打ち出すものだった。しかしながら、アメリカが取り組むべき喫緊の課題は国内に山積しており、大々的な対外関与の余裕はないというのが実状である。
●アフガニスタンからの撤退
・『2021年4月14日、バイデンは20年にわたる「テロとの戦い」において、一つの画期となる決断を表明した。この日バイデンは、2001年10月、ジョージ・W・ブッシュ大統領がアフガニスタンへの空爆開始を宣言したホワイトハウスの「条約調印の間」で演説を行い、「アメリカ史上最長の戦争を終えるときだ」と宣言。アメリカ同時テロから20年迎える9月11日までにアフガニスタンの駐留米軍を完全撤退させると表明した。
アフガニスタンの安定化の見通しがつかないままの完全撤退については共和党のみならず、政権内からも反対の声があがっていた。中央情報局(CIA)のウィリアム・バーンズ長官は14日の上院公聴会で、米軍が撤退すれば、同地域の軍事力低下につながるとあらためて懸念を表明した。完全撤退は、こうした懸念の声をバイデンが押し切る形で決定された。
その後、撤退期限は8月末に早められ、撤退を完了させたバイデンは、アメリカの目的はアメリカ本土に対するテロ攻撃の再発を防止することにあったとし、その目的は実現されたと主張して、次のように宣言した。「アメリカが他国を作り変えるために大規模な軍事作戦を展開する時代を終わらせることだ」。もっともこれはオブラートに包まれた表現で、より率直にバイデンの心境を表現していたのは、首都カブールがタリバンの手に落ちた翌日の8月16日、それでも米軍の撤退を進める決意を国民に示した演説の中の次の中の言葉だろう。それはトランプと見間違えるような、赤裸々な「アメリカ第一」宣言だった。
[アフガニスタン軍が戦わないのに、アメリカ人の娘や息子をあと何世代、アフガニスタンの内戦に送り込めばいいのだろうか。アメリカ人の命をあと何人分、アーリントン国立墓地に延々と並ぶ墓石に変えたらいいのか? その価値があるのだろうかと。(中略)私の答えははっきりしている。私は、過去に起こした過ちを繰り返したくない。アメリカの国益にならない紛争にいつまでも留まり戦うこと、外国での内戦を激化させること、米軍を延々と派遣して国を作り変えようとすること。このような過ちを繰り返してはならないのだ。]
“Remarks by President Biden on Afghanistan ,”White House, August16,2021.
このバイデンの時代認識は、国民にも広く共有されていた。確かに米兵を含む人命の犠牲も出しながらのアフガニスタンからの撤退は、多くの国民の批判に晒されたが、国民の批判は、撤退時期や撤退方法に集中し、撤退というバイデンの判断自体は過半数に支持された。
アフガニスタンからの米軍撤退に関する世論の背景には、より大きな世論の潮流がある。昨今のアメリカでは、アメリカはこれまで過剰に世界に介入し、自国を疲弊させてきたという批判的な意識が高まり、アメリカの国際的な役割をより穏当なレベルに引き下げるべきだという考えが党派を超えたコンセンサスとなっている。各種の世論調査でも、「アメリカは世界の警察をやめるべき」「他国のことより国内問題、特に雇用の問題に取り組むべき」「同盟国に安全保障のコストをもっと負担させるべき」といった見解は、党派を超えて広く支持されてきた。
●ポスト例外主義世代
・「テロとの戦い」による国家的消耗、コロナ禍の甚大な被害の経験から、若い世代ほど対外介入に否定的な意見を持っている。
・2020年6月にギャラップ社が行った調査で、世代別で最も低い値だったのは18歳から29歳までの世代で、アメリカ人であることを「非常に誇りに思う」と回答したのは20%だった。彼らの多くはリベラルな価値観の促進に未来への希望を見いだし、銃規制や気候変動対策を支持し、よき未来に向けて社会運動にも積極的に関与する。行き過ぎた資本主義と経済格差に不満を募らせ、より社会主義的な政策を支持する世代でもある。対外的にはグローバル化する世界におけるアメリカ一国の力の限界への冷静な認識から、アメリカは多少の妥協を伴ったとしても、共通の目的のために他国と協調しなければならないと考え、多国間協調を志向する。
・ロシアのウクライナ侵攻は、国際協調主義の限界を突きつけている。中国やグローバル・サウスとの間の不一致は続いているが対話を閉ざすことはしていない。アメリカ一国の力の限界を自覚している。
・『アメリカの圧倒的な力の優位が失われ、ロシアのように明らかな現状変更を試みる国も現れる中で、いかに平和を回復し、持続させていくのか。国際協調主義をDNAとして組み込んだアメリカのZ世代が、この難問にどう立ち向かっていくのか。私たちも他人事ではなく、自分事としてみていくべきだろう。』
第二章 広がる反リベラリズム―プーチンと接近する右派たち
●リベラリズムへの敵意が広がるアメリカ
・プーチンの権威主義的な政治スタイルは、アメリカ右派の間に共感の輪を広げている。特にプーチンを「強い指導者」と称賛するトランプが大統領となって以降、共和党支持者の間にもプーチンへの好意的な意見が目立って増えてきた。
・2017年には、共和党支持者の49%がロシアを同盟国あるいは友好国とみなし、32%がプーチンに好意的な意見を持っていた。
“Republicans Are Warning Up to Russia, Polls Show.” Morning Consult, May24, 2017.
・2021年1月の連邦議会議事堂襲撃事件が示したように、選挙制度への不信、政治的な目的のための暴力を容認する世論の傾向も顕著になってきている。
・ハーバード大学やシドニー大学が共同で行ってきた「選挙の公正さプロジェクト」の調査によると、アメリカの選挙の公正さは西洋の民主主義国家の中では最低レベルである。
Electoral Integrity Project Report, 2020.
・『昨今は、共和党が上下院の多数を占める州を中心に、「不正投票の防止」という一見もっともな名目で、低所得者やマイノリティの投票を実質的に阻む法律が多数成立している。有権者ID法などで投票時における身元確認が厳格化されたことにより、運転免許証を持たない人や、定まった住居を持たない人の投票が困難にされてきた。』
Brennan Center for Justice, State Voting Laws.
・『アメリカの共和党は過去20年間で非自由主義的な性質を顕著に示すようになっており、ヨーロッパの中道右派政党よりも、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン政権やハンガリーのオルバーン・ヴィクトル政権のような権威主義国家の与党に近いことが明らかになっている。特にトランプ政権下でその傾向は加速した。』
●アメリカ右派とプーチンの思想的共鳴
・共和党右派とプーチンとの間には反リベラリズムという共通の価値観がある。
・欧米諸国の右派が抱くリベラルな価値や政策への不満に巧妙に働きかけ、社会の分断を狙うプーチンの思惑通り、民主党政権のもとでジェンダーの多様性が進み、また移民や難民に寛容すぎるという不満を募らせているアメリカ右派たちはプーチンに対し、共感や親愛の情を抱いてきた。
量子テレポーテーションの実験でノーベル物理学賞を受賞された、アントン・ツァイリンガー博士の著書を見つけ、「どんな実験だったのだろう?」という興味から、今回も、深く考えず購入しました。そして、予想通りほとんど理解できませんでした。しかしながら、ネットには素晴らしいサイトや動画があるので、それらの助けをお借りして何とかブログとしてまとめました。
著者:アントン・ツァイリンガー
監修者:大栗博司
発行:2023年5月
出版:早川書房
こちらは原書ですが、タイトルは“DANCE OF PHOTONS From Einstein to Quantum Teleportation”となっていました。
以下のサイト及び動画をご参考にして頂ければと思います。
“ノーベル物理学賞受賞者が語る「テレポーテーション」の可能性とは?『量子テレポーテーションのゆくえ』本文試し読み”
こちらは出版会社である早川書房さまのサイトです。本書の概要が説明されています。
こちらは産業技術総合研究所(産総研)さまのサイトです。
“【超重要】量子情報はすでに「過去」へと送られている...”
こちらは「シンプリイライフ」さまのサイトです。内容は以下の通りです。22分11秒
1.量子もつれとは 2.量子もつれを実証している男たち(4分26秒) 3.量子テレポーテーションの可能性(7分37秒) 4.量子情報は「過去」に送ることができる (12分23秒) 5.この世界の「秘密」について (17分32秒)
目次
プロローグ ―ドナウ川の地下で
宇宙旅行
光というもの
牧羊犬とアインシュタインの光の粒子
アインシュタインとノーベル賞
対立
不確定性はいかにして確定したか
量子の不確定性 ―私たちにわからないだけなのか、それとも本当に不確定なのか
テレポーテーションに対する量子的判決
量子もつれが助けてくれる
量子実験室のアリストボブ
光の偏光 ―クォンティンガー教授の講義
ジョンによるアインシュタイン、ポドルスキ―、ローゼン入門
局所的な隠れた変数に関するジョンの話
アリスとボブの実験がややこしい結果を出す
ジョン・ベルの物語
アリスとボブは物事が自分たちの思っているとおりではないことを知る
光より速く、そして過去にさかのぼる?
アリスとボブと光の限界
抜け穴
チロルの山にて
量子の宝くじ
量子マネー ―もう偽造できない
量子トラックは運べる量よりもたくさん伝える
原子を使った量子もつれ生成と初期の実験
超高性能生成装置と情報伝達の抜け穴の封鎖
ドナウ川の量子テレポーテーション
多光子のもたらした驚き、そしてその途上での量子テレポーテーション
量子もつれのテレポーテーション
さらなる実験
量子情報テクノロジー
量子テレポーテーションの未来
テネリフェ島上空からの信号
最近の展開と未解決の問題
つまりどういうことなのか?
エピローグ
付録/量子もつれ―量子をめぐる万人の謎
ドナウ川の量子テレポーテーション
画像出展:「量子テレポーテーションのゆくえ」
●この実験の重要な部分はグラスファイバーの中でおきる。
●レーザー装置は巨大で家が買えるくらい高価な装置である。
●大事なことはレーザー装置が生成するのは持続的な光線ではなく、超高速で続けざまに生じるレーザー光のパルス[電気信号の波(周波数)]だということである。1回のパルスの持続時間はおよそ150フェムト[1000兆分の1(10のマイナス15乗)]秒で、装置はパルスを毎秒8,000万回ほど発生させる。これはレーザーの生成する光のパルスがいかに短いかが分かる。たとえば、灯台の明かりが1日1回、しかも1秒しか点滅しない、一瞬の点滅のようなものである。
●短いパルスは量子の識別可能性と関係している。
画像出展:「量子テレポーテーションのゆくえ」
●光りパルスはレーザーから発射されて、小さな結晶[図中央の“C”]を通過する。
●この特殊な結晶は、量子もつれ状態となった光子を生成する。この結晶はわずか2mmと薄いがここで起きることは、実験で1番大事なところである。
●2つの光子がある一定の角度で飛び立つ。この2つは互いに量子もつれ状態にある。
●グラスファイバーの手前に小さなレンズを置く。
●この状態で光子をファイバーに送り込むと、光子はアリス[右上]とボブ[右下]のもとに向かう。
●これによりできたのは光子AとBからなる量子もつれ状態にある双子のペアである。なお、グラスファイバーは光子をテレポートするのに使う量子チャネルである。一方、川の上空を通る電波は古典チャネルである。
※この後、説明が7ページと2つの図が続くのですが理解困難なため、再び「シンプリィライフ」さまの動画に再登場して頂き、この場を切り抜けます。
POINT 3 の「量子テレポーテーションの可能性」(7分37秒~12分23秒)をご覧ください。
さらに詳しいことを知りたい方は、こちらを参照ください。PDF7枚の資料です。
量子情報テクノロジー
●1930年代、アインシュタイン、シュレーディンガーに加え、ボーア、ハイゼンベルク、パウリなどが量子力学の創始者である。アインシュタインは「不気味な遠隔操作」を受け入れず、シュレーディンガーは量子もつれこそ量子力学の本質的な特徴だと訴えた。
●1960年代、レーザーが発明され、局所実在論を検証することが可能になった。局所実在論という理論内でベルの不等式は成立するが、そのベルの不等式の破れを実験により証明したことで、量子力学による予想の正しさが裏付けられた。これらの実験は、哲学的な問いに動かされていた。言い換えれば、一部の人々の好奇心に駆り立てられていた。このような好奇心は人が挑戦するための大事な原動力であり、科学においてはしばしば新しいテクノロジーと結びついて興味深い発見をもたらしてきた。
●1990年代、量子に関する基本的な概念から、情報を伝送して処理する新たな方法に関するアイデアが生まれた。こうした新たなアイデアの中には、量子暗号、量子乱数生成器、量子テレポーテーション、量子コンピューターなどが含まれている。
●現代、新しい量子情報テクノロジーの開発が、世界的に最も活発な研究領域となっている。多くの国で数々のグループが、量子暗号、量子コンピューター、量子通信など、技術応用につながる可能性のあるさまざまなテクノロジーの開発に取り組んでいる。
●技術的に最も成熟度が高いのは量子乱数生成器である。これは量子力学で生じる個々の事象のランダム性を利用する。量子乱数生成器の用途には、コンピューターに保存されている情報の暗号化である。
●量子コンピューターの実用化にはまだまだ時間がかかると思われているが、実験物理学の創造力は過小評価できないと考えている。
量子テレポーテーションの未来
●今後数年のうちに、テレポーテーション実験の距離が伸びることは間違いない。アイデアの一つは地上のステーションと人工衛星の間を結ぶ、光の量子状態を送るテレポーテーションである。
●原子や分子の状態に関するものも考えられる。複雑な分子を記述するために、各原子がどのように配置されてるか、互いにどう結びついているかについて知ることも重要である。
最近の展開と未解決の問題
●量子コンピューターに関してはさまざまアプローチがされている。情報の担体として単独の原子やイオンを使うグループ、従来のコンピューターで採用されている標準的な半導体シリコン技術を使い、個々の量子ビットを暗号化して処理できるように手を加えているグループもある。単独の原子をシリコンなどの半導体に一つずつ埋め込み、互いに対話させることで量子プロセッサーにするというアイデアもある。また、小型の超電導素子を使っているグループなど色々なアプローチが試みられている。現時点では、量子コンピューター技術のさらなる展開やどのテクノロジーが利用されるかなどは全く予想できない。
●興味深いアイデアの一つが、一方向量子コンピューターである。これは他の量子コンピューターやそれ以外のあらゆるコンピューターとは全く違う原理で動くことである。標準的は量子コンピューターでは、入力量子ビットを量子コンピューターに入力する。すると、アルゴリズムがこの量子ビットの量子進化として実行される。
●一方向量子コンピューターは、多数の量子ビットがかかわる複雑な量子もつれ状態からスタートする。このアルゴリズムは量子状態の観測結果を連ねたものである。
●激しい議論を巻き起こしている問題は、量子の概念が脳の中でなんらかの重大な役割を果たしているのかという点である。あらゆる生命現象において量子物理学が果たす役割については、広く意見が一致している。生体内で生じる化学反応は、要するに量子のプロセスだと考えられている。一方で、脳が量子ビットや量子もつれなどを使うとは全く考えられていない。しかしながら、基本的な観点から言うと、量子物理学が脳内でなんらかの役割を果たす可能性を原理的には否定できない。
それは量子コンピューターにおいて2つのメカニズムが実行できることが発見されているからである。その1つはデコヒーレンスに対して頑強となるように情報を保存できること。これはデコヒーレンスの生じない小区画を作るアプローチである。もう1つは冗長とも言える形でたくさんの量子ビットに情報を保存するというアプローチである。とはいえ、今のところこれら全ては仮説にすぎない。
●意識とは何か、心とは何かといった謎の解明を考える人もいるが、これらは徹底的に研究していくべくテーマである。
つまりどういうことなのか?
●重要なことは量子物理学がもたらす概念的および哲学的な帰結だろう。
●装置の選択が量子系の特性を決定し、それが実験結果として現れる。たとえば、二重スリット実験では観測者の選択した装置が、粒子の経路を特定できるものか、それとも干渉パターンがわかるものかによって、経路と干渉パターンのどちらが実在の要素となるかが決まる。しかし注意しなくてはいけない点がある。観測者の心が量子状態に影響するのだと主張する人もいるが、そのように主張することは危険である。また、そのような考え方は量子観測の物理学で裏づけられていない。
※二重スリット実験 (三たび「シンプリィライフ」さまのお力をお借りします)
“【量子力学】二重スリット実験完全解説!いまだに解明できない「観測問題」の謎を解く”
16分16秒
1.完全解説!二重スリット実験
2.検証! 二重スリット実験の謎
3.いまだに謎の「観測問題」
4.「観測」とはいったい何なのか
5.この世のものはまるで存在しないのか?
●『ここで非常に重要なことに触れよう。「現実」と「情報」という概念は互いから切り離せないということだ。私たちは現実について知っていること、すなわち情報を使わなければ、現実について語ることすらできない。物理学の歴史において重大な進歩が遂げられたのは、それまで疑う余地なく別物だと信じられてきた概念を切り離すのをやめたときだったという例が目撃されてきた。たとえば相対性理論において「空間」と「時間」という概念を分けるのをやめて、両者を「時空」という一つの概念に統一したのは、重大な進歩だった。「情報」と「現実」という二つの概念も同様だ。しかしこの二つの概念がコインの裏表のようなものとされる未来がどんなものになるのかについては、まだ答えはほとんど出ていない。
アインシュタインが量子力学を批判せずにいられなかったのはなぜか、なぜ量子もつれを「不気味」と言ったのか、その理由が今、明らかになる。彼の考える事実にもとづいた実在とは、私たちとは無関係に本質的な特性を備えている。このように現実と情報が切り離されているというとらえ方は、量子物理学では擁護できそうにない。
結論すれば、私たちの世界は古典物理学が認めていた世界より自由である。その一方で、私たちは古典物理学的世界にいたときよりも強固に世界と結びついている。』
疑問
●疑問だらけの混沌とした状態ですが、特に最後の『私たちは古典物理学的世界にいたときよりも強固に世界と結びついている。』とは「何だろう?」と思いました。
おそらくこれは“量子もつれ”に端を発する「“現実”と“情報”という概念は切り離せない」ということではないかと思います。
そこで、少々乱暴なのですが『古典物理学的世界にいたときよりも強固に世界と結びついている』とタイプして検索してみました。こうして見つけたものが以下の2つになります。何も語ることはできないのですが、面白そうだなと思ったのでご紹介させて頂きます。
こちらの資料はPDF4枚です。
究極の光と物質の相互作用「超強結合」
『光と物質の相互作用は「量子光学」において中心的な概念として研究が進められてきた。量子光学は、微視的な視点から光を捉える、つまり量子力学的な立場から光と物質との相互作用を解明する学問だ。量子光学では、光を光子の集まりとして捉え、光と物質の間のエネルギーの交換を探求するという側面がある。これまでに量子光学の基礎研究によってもたらされた知見は、レーザーや光通信などに関連する、現代では欠かすことのできない技術の基盤を確立してきた。その量子光学において新たなフロンティアとなっているのが、光と物質における「超強結合」と呼ばれる相互作用である。』
『量子力学の世界では、古典物理の世界を構成する中性子、電子、光子といった微粒子について、一つ一つの粒子か、少数の粒子が研究されています。というのも、超微小な世界では、粒子が全く異なる振る舞いをするためです。ですが、研究されている粒子の数を増やしていけば、最終的にもはや自動的に量子として振舞うことをしない数の粒子となり、私たちの日々の世界と同じような古典物理学のものとなります。では、量子力学の世界と古典物理学の世界の境界線というのはどこにあるのでしょう。この度、沖縄科学技術大学院大学(OIST)の研究チームは、この問題への解答を探る過程で、量子力学の現象と考えられていたものが古典物理学で説明できることを示しました。本研究結果はPhysical Review Lettersに報告されました。』
『研究チームは特に、多くの粒子で構成されている物質と、光との相互作用における強結合に関心を持っていました。強結合は、相互作用により、光と物質が双方とも影響されるときに起きる現象です。通常、光と物質が相互作用をする際、光は影響を受けません。例えば、海に浮かぶボートは波の影響を受けますが、海はボートの存在による影響をあまり受けません。強結合というのは、ボート(物質)と波(光)が両方とも相互作用によって強く影響される点で興味深いのです。一般的にこの現象は、量子効果として考えられてきましたが、研究チームは、量子力学の世界と古典物理学の世界の境界を調べることにしたのです。』
『このようにしてチームは、実験で観察した強結合の現象を説明する古典物理学モデルを作り上げることに成功しました。この発見は、大量の粒子における強結合は、以前から考えられていたように量子力学の世界ではなく、古典物理学の世界に分類される可能性があることを意味します。』
ご参考:量子コンピュータ
個人的に興味があるのは、やはり身近な印象の「量子コンピュータ」です。
探してみると非常に多くの動画があるのですが、”半導体で量子コンピュータを作ろう”は理研さまが作成された動画で6分38秒と短くお勧めです。量子ビットが超電導ではなく半導体で作れれば確かに凄い画期的なことだと思いました。
『2050年までに、経済・産業・安全保障を飛躍的に発展させる誤り耐性型汎用量子コンピュータを実現』
第7章 シンクロニシティへの道 ~ユングとパウリの対話~
・『自然界を1つの理論で表す統一的理論の必要性など、多くの点でアインシュタインに賛同するパウリだったが、量子力学に関しては全く異なる見地だった。彼にしてみれば、量子の世界の織りなす相補性や不確定性、量子もつれなどの真新しい現象は、自然の真理そのものだった。事実、それらの現象を貴重な契機として、自然に潜む対称性などの数学的結びつきが明らかになった。加えて、観測による影響を主題とする量子観測理論により、自然現象だけではなく人間の意志を踏まえた大局的な見地が形成されつつあった。
このような時代背景に、現代物理学に関心を持ち、普段からその意識を認めるユングにとって、パウリは精神と物質の関係性について意見交換する格好の相手だった。対話を通じて、科学的考察を深めることができたからである。自然界における対称性の役割だけではなく、いわゆる超常現象と呼ばれる奇妙な出来事にも話題は及んだ。ただしパウリは、自らの超常現象への関心を他の物理学者に話そうとはしなかった(同じく超常現象に興味を持つ友人、パスクアル・ヨルダンだけは別だった)。一貫して自然界に客観性を求めるアインシュタインの存在が、その消極的な姿勢に拍車をかけた。当然、観測の影響を考慮すべきだとアインシュタインに助言することもなかった。そして、パウリの推察通り、アインシュタインは生涯、量子力学の表す奇妙な世界を自然の真の姿として認めなかったのである。』
●もつれを繙く
・アインシュタインは一般相対性理論をもとに、あらゆる自然現象を網羅する統一場理論を完成させ、量子力学の奇抜な現象を数学的表現のあくまで例外として記述しようと考えた。
・電気力と磁気力を統合したマクスウェルの電磁力[磁界と電流の相互作用で発生した力]へと飛躍し、さらにマクスウェルは電磁気力と重力との間に共通点を見出した。
・統一的理論の足掛かりとなる可能性を指摘するものだったが、マクスウェルがその構築に挑むことはなかった。
●精神の偽らざる姿 [カール・グスタフ・ユング]
・ユングがフロイトに出会ったのは1907年、それから6年間、二人は協力する中で二人とも無意識の中に重要性を見出した。しかし、精神分析の反対派に対するフロイトに耐えられず袂を分けた。フロイトは幼少期の性的傾向を重視したが、ユングは「集合的無意識」に着目して、無意識の動機付けを説明した。集合的無意識とは集団に共通する意識のことで―後に「元型」と呼んだ―、源泉は1つだが、一人ひとりの人間によって個性化する。元型の例として、童話や民族伝承、道徳的禁忌、象徴的表現、宗教儀式、精神的理想などがあげられる。
・ユングは超自然主義にまつわる文献の研究に乗り出すと、錬金術やグノーシス主義、新プラトン主義の各派、仏教、ヒンズー教などの書物を精読し、神話学の第一人者となった。そして、様々な超自然主義の間に、超越的真理の探究や神との一体化への渇望といった共通点を見出し、分析心理学という新たな深層心理学の学派をスイスに立ち上げた。
・ユングが後に心理学と物理学の両面から精神と肉体を統一的に考えたのは、アインシュタインとの数回にわたる対話が主な動機となった。
●シンクロニシティの登場
・ユングの心理学は、一人ひとりの精神は代々受け継がれる共通の無意識的体験がつくる「客観的精神」の個々の解釈である。様々な宗教や信念体系に通底する思想は、そのような世代を超えた精神の源に由来すると考える。母親への思慕や、蛇や暗闇に対する恐怖心、人殺しを非とする倫理観などはいずれも普遍的体験といえる。
・ユングによると男性の無意識には女性らしさを象徴する「アニマ」と呼ばれる女性像の元型が根ざす。アニマは普段、意識的に抑制されており、心理療法によって解放される。対して、女性の無意識に潜むのは、アニムスと呼ばれる男性像の元型がある。ユングは当時の古い価値観に従って、アニマをむき出しの感情に、アニムスを洗練された知性に関連付け、両者のバランスこそが性別を問わず肝要であると説いた。
・ユングの理論は推測の域を出ず、元型という概念を裏打ちする科学的証拠はない。存在するのは、事例研究による間接的な証拠だけである。しかし、人間の精神に関するユングの考察は、歴史や哲学、また文化の面において、非常に示唆に富む内容といえる。
・ユングは非因果的連関の原理を指して、シンクロニシティという言葉を使った。そして、意味ある偶然の一致は、期せずして現れる自然の真理だと強調した。
・『源を一にする非因果的連関というユングの概念から、量子のもつれの並行性―ほぼ同時代に認知された現象―を連想しても、何ら不思議はないだろう。2つの粒子が量子状態を共有するならば、双方が離れても物理量は相関すると、量子もつれは語るのである。だがそうはいっても、ユングの非因果的連関と量子もつれとの間には、決定的な違いが存在する。量子もつれが設定に万全を期す数々の実験によって実証されたのに対して、ユングの非因果的連関は根拠に乏しく、心理学界で幅広い支持を得るには至らなかった。人間の精神において代々伝承される集合的無意識の存在は今もなお、神経科学によって示されていない。
しかし、局所性や因果性を凌駕するユングの世界観は、彼が積極的に物理学者との交流を図ったおかげで、現代科学に広く浸透した。アインシュタインとの夕食をきっかけに芽吹いた彼の物理学への興味は、パウリとの出会いによって一気に花開くのである。』
●パウリの受難
・パウリはゾンマーフェルトに神童として将来を嘱望され、「排他原理(4つ目の量子数であるスピンの発見にによって証明された)」の確立や、ニュートリノの予想(当時まだ観測されていなかったが、ベータ崩壊の解明に大きく寄与した)といった業績により、天才物理学者としての名を確たるものにしていた。しかし、1930年の終わり、極度の精神的不調に苦しんでいた。
・相次ぐ苦難の始まりは、父親の不貞が原因で敬愛する母親が48歳の若さで自殺したことである。そして、その父親はパウリと同年代、20代後半の女性と結婚した。
・1929年5月にはカトリック信仰を捨て、教会を正式に脱退した。同年12月に結婚するも1年もたず1930年11月に離婚、パウリのパートナーは昔から親交があった特に実績のない化学者と一緒になり、この事実もパウリを消沈させた。
・パウリとユングの出会いは、パウリの状態を見かねた父親がユングによる心理療法を勧めたからであった。ユングは当時、パウリが勤めるETHで頻繁に講師を務めており、パウリはユングの理論について聞き及んでいた。また、パウリ自身も何とかしようと考えていたため、父親の提案に従い診療を受ける決断をした。
・『夢や幻想の役割とあわせて、集合的無意識の精神への影響について研究するユングは、優れた記憶力をもつ被験者を探していた。また、シンクロニシティの体系化については、アインシュタインの時空という力学的概念を土台に、物理学者の意見を参考にしながら、考察を掘り下げていた。したがって、複雑な夢を見て、その内容を明確に記憶し、なおかつ著名な量子力学者の肩書を持つ“患者”パウリは、まさしくユングの探し求める相手だったのである。
ただ、精神を病んではいるもののパウリは有能な学者である。分析を通じて秘匿情報を共有することになる可能性があるため、ユングは情報管理に注意を払った。彼の心理療法はフロイトのそれと比べてはるかに積極的に患者と関わる診療として有名だった。そのため、情報操作や行動介入などと、他の精神科医から非難されないよう万全を期した。夢の回想に介入したり影響を与えたりしないように忠告した上で、パウリをローゼンバウムにまず担当させたのも、その点を踏まえてのことだった。本人以外による記述も含め、パウリの夢の記録は最終的におよそ1300にのぼり、ユングはすべてを研究資料として(個人情報の保護を徹底しつつ)活用した。ユング研究で知られるビバリー・ザブリスキーは、冗談まじりにこう記している。「読者のみなさん……、ヴォルフガング・パウリについてユングの知り得たこととは、普段の姿でも物理学の実績でもなく、彼の無意識なのです」』
・『知性のみを優先するあまり、アニマの象徴する感情的な自己が抑圧されていると判断したユングは、本人にそう認識させることを治療の本筋とした。その甲斐あってパウリは、自らの偏った生き方を自覚するようになる。そして2年以上に及ぶ治療の中で、精神的な落ち着き―少なくとも一時的な安定―を徐々に取り戻すようになった。ひいては、1934年にロンドン在住のフランシス力(フランカ)・バートラムと再婚を果たし、平穏な日々を過ごすようになった。自ら治療を終える決断を下したのは、その頃である。一時的ではあるが禁酒にも取り組むほど、精神状態は回復をみせた。パウリはもはや患者ではなくなったが、ユングとの親交はその後も続き、夢の内容を伝えることもあった。その中で2人は、自らの存在意義や元型とのつながりについて意見を交えた。
理論物理学の難題を解決し続けるだけの優れた数学力を考えれば、パウリの夢の中に幾何学的対象や抽象的符号が頻繁に登場しても不思議はなかった。その多くは直線と円が対称的に配置された図形だったが、ユングはそれらを元型の概念に照らして解釈した。数理物理学に根ざしたパウリの描写を、古代の象徴主義と結びつけて考えたのである。そのように類似の基本概念になぞらえることで、2人はそれぞれの研究分野の融合を図った。』
・『パウリによれば、世界時計の動きの調和によって心に安らぎが得られたという。自らが中心となって構築した原子モデルを彷彿させたのかもしれない。ユングにとって世界時計は、初めて出合う曼荼羅の立体図像だった。そして、世界時計をもとに、重要な元型の1つ―穏やか瞑想の象徴―と、現代物理学の時空との結びつきを想定した。はたして彼は、物理学への関心をますます強くしたのである。
パウリは普段、夢分析の被験者であることを他人に話そうとはしなかった。ユングが分析内容を書籍として著す時も、自身の名前を出さないとの条件で許可した(ただし、発刊協力者として名を連ねており、分析に関わっていることは明らかだった)。次第に強くする超自然現象への関心についても、表立って話すことはなかった。
しかし、最も信頼できる研究協力者であり友人でもあるパスクアル・ヨルダンだけは例外だった。ヨルダンだけには、超自然現象への情熱を打ち明けたのである。』
●超心理学と懐疑派
・ヨルダンは1936年、量子力学の入門書「直観的量子論」の最終章の内容はテレパシー実験の検証だった。ヨルダンは1930年代から超心理学に強い関心をもっていた。
・超心理学(非科学的な超自然現象とされる対象を研究する分野)は、生物学者であったアメリカのJ・B(ジョセフ・バンクス)・ラインによって創設されたばかりで物議を醸していた。ラインは1980年に亡くなるまで、自らの研究の正当性を訴え続けた。心理学ではその後、実験環境を統制や厳格な統計手法に一層重点が置かれるようになった。
●ノーベル賞
・最終的にパウリは、観測する側と観測される側―精神と物質―を統一的に表す必要があると信じるようになった。ユングはパウリの考えに賛同した。さらに、アインシュタインとの夕食やリヒアルト・ヴィルヘルムとの議論を経て、ユング自身もそのような理論を望みはじめていた。ユングは精神と物質との統一を「Unus mundus(ウヌス・ムンドゥス)」と呼んだ。
●研究所での洪水
※【パウリ効果】とは
『パウリとその俗に言う実験とは相性が悪かった。彼が実験施設に立ち入ったり、測定機器の近くを通ったりすると、装置に不具合の生じることがしばしばで、周囲から「パウリ効果」と恐れられたほど。機械は故障し、測定器は作動せず、現場に混乱を招くのである。事実、実験物学者のジョージ・ガモフはこう形容する。
「一流の理論物理学者たる者、精巧な実験機器に触れただけで機械に不具合をもたらす、と言われている。その言葉に照らせば、パウリは有能な理論物理学者だ。彼が施設を訪れただけで、装置は壊れ、誤動作を起こし、ひいては全く動かなくなったり、燃えたりするんだ」
最も有名な事件は、パウリが1950年2月、プリンストン大学を訪ねた時のことである。プリンストン大学のパーマー物理研究所の地下にある高エネルギー・サイクロトロン(円形粒子加速器)が火事になり、6時間以上燃えたのだ。もちろん研究所の建物には煙が充満し、あちこちがすすだらけとなった。パウリは現場ではなく、大学の敷地内にいただけだったが、その後やり玉にあげられたことは言うまでもない。』
・『ユング研究所を設立するにあたり、パウリ(当時、ノーベル賞受賞として多くの尊敬を集めていた)にも後援者としての協力を仰いだ。ユングに恩義を感じ、共同で研究する機会を増やしたいと考えていたパウリは、ユングの依頼を快諾した。
また、心理クラブにも招かれ、その年の2月28日と3月6日に講演を行った。パウリは会場で、フラッドやケプラー、そして元型に関する自らの見解を喜んで説明した。科学者にとって講演は、一般に、論文を著す前に自らの考察を整理する良い機会となる。彼は当時、「The Influence of Archetypal Ideas on Kepler’s Theories(元型的観念がケプラーの科学理論に与えた影響)」と題した長編論文を執筆中で、いずれ何らかの形で公表したいと考えていた。
ユング研究所の開所初日となった1948年4月24日、記念セレモニーが盛大に開催された。もちろん、パウリも来賓の1人として招待された。セレモニーはすべて順調に運び、盛況のうちに閉会するかに思われた。ところが……。
突然、会場に何かの割れる音が響き渡った。思いもよらないことに、棚に固定されていたはずの中国の高級花瓶が、勝手に落下したのである。花瓶は床に落ちて粉々に砕け散り、あたりは水浸しになった。ユング研究所は、まさしく洗礼を受ける格好となったのである。
さて、「パウリ効果」を覚えているだろうか?
姿を現しただけで実験装置を故障させる能力は、この頃にはすでに彼の特技として広く認知されていた。ただし、彼自身は、もはや軽く捉えることができず、いたって真剣に悩んでいた。
ドイツ語で「洪水」のことを「Flut(フルート)」という―Robert Fludd(ロバート・フラッド)の「Fludd」のドイツ語読みとほぼ同じ発音である。英語でも、洪水を意味する「Flood」と「Fludd」は、ほぼ同じ響きだ。パウリは会場で起きた些細な洪水と自らの研究との間に、意味ある偶然の一致を認め、驚愕した。単なる偶然の出来事だったかもしれない「パウリ効果」を、彼はユングの唱えた非因果的連関と結びつけ、もはや冗談とはみなさなかったのである。
フラッドとケプラーの理論と元型に関する考察を論文にまとめる中で、パウリは開所式典での奇妙な出来事について深く考えるようになった。そしてユングに対して、シンクロニシティに関する考察を掘り下げ、整理した上で論文に著すことを勧める。ユングの考察に大きな意義を見出そうとしたのである。
ノーベル賞を手にしたパウリに、それ以上自らの才能を示す余地は残されていなかった。それでも彼を駆り立てたのは、アインシュタインと同様、世界を統べる統一的理論への挑戦だった。長きにわたるユングとの親交が、彼をその挑戦へと誘ったのである。』
●すべては2と4のもとに
・ユングとパウリが生んだ功績は、1950年代はじめに、双方の研究分野が融合を見ることである。ユングはパウリのおかげで確率的表現や観測による影響といった、量子力学の表す内容に精通するようになった。逆にパウリはユングのおかげで、神秘主義や数秘術、そして古代の象徴主義の研究に心を奪われるようになった。
・ユングとパウリはピタゴラス学派と同じく、特定の数に価値を見出した。その1つが「2」だった。波と粒子、観測者と観測対象といった二重性を自然の真理としたボーアの相補性の原理は、両者にとって革新的な概念だった。
・ボーアはオランダ哲学者セーレン・キルケゴールの著作(「あれか・これか」など)の中の二分法に感化されたとみられ、家紋に太極図を取り入れている。
画像出展:「ウキペディア」
『偉大な功績により、デンマーク最高の勲章であるエレファント勲章を受けた時、「紋章」に選んだのが、陰と陽、光と闇の互いが互いを生み出す様を表した東洋の意匠、太極図であったことからもうかがえる。』
・パウリは、男性は己の女性らしさ(アニマ)を、女性は己の男性らしさ(アニムス)をそれぞれ抑制しているというユングの主張を支持するようになった。
・パウリは荷電共役対称性(正負の電荷の変換に伴う対称性)、パリティ対称性(鏡像対称性)、時間反転対称性などの二重性を物理学において探求する契機となった。
・数に関して二重性以上にパウリとユングが重視したのが「quaternnio(クワテルニオ)」だった。ラテン語で4つ1組の意である。その概念はエンペドクレスの四次元素説に源を発し、そこから錬金術や、ピタゴラス学派のシンボルであるテトラクテュス(1から4までの整数を構成要素とする三角形)へと派生した。
●非因果的連関の原理
・ユングとパウリは1952年、2人の研究の集大成として共著、「自然現象と心の構造」を発刊した。
画像出展:「シンクロニシティ」
ユングやパウリが講演を行った、チューリッヒの心理学クラブです。
●関係の終焉
・二人の長きに渡る往復書簡は突如、途絶えた。
・パウリはヨルダン以外には自らの神秘主義への興味を他の物理学者にあまり話さなかったのは、ユングの話を無条件に信じていたわけではなかった。いかなる理論にも厳しい目を向けるパウリにとって、ユングの理論も例外ではなかった。
・パウリはボーア宛ての書簡で次のように書いている。『ユングの思想は、フロイトに比べて幅広い領域を対象としますが、その分、明確さに欠けます。最も不満を覚える点は、「精神」という概念が、明確な定義のないまま曖昧に用いられていることです。論理的にも矛盾が認められるのです。』
・パウリとユングの2人の距離が離れたのは、ユングのUFOに対する強い関心も一因だった。
・当時パウリは、ハイゼンベルクと共に、統一場理論の構築に力を注いでいる最中であり、加えて、膵臓がんと診断される前年だったことから、体力の衰えが見え始めていた。
第8章 ふぞろいの姿 ~異を映す鏡のなかへ~
●相互作用のなす業
・『一般相対性理論と量子力学は、それぞれ1910年代半ばから1920年代半ばにかけての10年間に誕生している。一般相対性理論は、時空を主な舞台として、その歪みによって光や粒子の進行方向を定める。量子力学は、特にハイゼンベルクの提唱した解釈において、抽象的なヒルベルト空間[二点間の距離が公式で与えられる三次元空間を無限次元に拡張したもの]を中心に展開する。実験施設の研究員などのような合理的な考えの科学者であれば、いずれも物理学を理解する上で欠かせない理論であるとの認識だろう。理論物理学の重要な分野の1つとして、相対論的な場の量子論―一般相対性理論と量子力学のそれぞれの枠組みを維持しながら統合を図る理論―が存在する所以である。双方の原理を損なうことなく2つの理論の統合を図る試みは、ボーアの主張に端を発する。古典的世界(高速度や強力な重力場などの極限状態においても相対性理論に従う世界)にいる人間が微視的世界に介入する観測という行為の重要性を強く訴えたのがボーアだった。
しかし、アインシュタインやハイゼンベルク、パウリといった巨匠たちが追い求めたのは、微視的世界から人間の日常的な世界、そして宇宙規模の世界までを、単純な原理によって網羅する横断的な理論だった。アインシュタインは、非量子的な手法で(古典的な一般相対性理論を拡張して)、量子力学の原理を説明しようした。対して、全く異なる方法を独自に考案したのがハイゼンベルクだった。彼は、対称群となるヒルベルト空間のエネルギー場に適合な条件を与えることで、自然界の様々な相互作用の再現を目指した。』
第9章 現実へ挑む ~量子もつれと格闘し、量子飛躍をてなずけ、ワームホールに未来を見る~
・『パウリの早すぎる死から数十年、特に1960年代から1980年代にかけては、素粒子物理学や場の量子論、量子測定理論に、極めて画期的な発見がもたらされた。パウリが生前、掘り下げた代表的な概念の一部が、物理学研究の中心を担うようになり、対称性の役割や、(ユングと共に目指した)非因果的相関の体系化に関する研究が主流になったのである。後者に関しては、量子もつれの限界や可能性を検証する実験が盛んになっていった。』
●コズミック・ベル・テスト [アントン・ツァイリンガー]
・オーストリアの物理学者アントン・ツァイリンガーはベルの不等式[量子力学において「隠れた変数」の存在を前提に書かれた関係式。この不等式が成立しないとすれば、量子力学では隠れた変数は存在しないということが証明される]を検証するベル・テストだけでなく、量子テレポーテーションに関して画期的な実験を行ったことでも広く知られている。量子テレポーテーションとは、離れた場所において量子状態を再現することである。
・「コズミック・ベル・テスト」は最新の観測機器を使って太占の光を分析するものである。
・2017年、オーストリアで1.6㎞以上離れた場所に2つの望遠鏡を設置し、異なる恒星の光を観測。それぞれの光から検出される色―赤と青―と、偏光器の設定を連動させ、ベル・テストを実施した。その後、実験設計が改良され、地球から数十億光年離れたクエーサーの光を使って再度測定が行われた。結果はまたしても、ベルの不等式は成立しないことを明示するものだった。アインシュタインではなくボーアの主張の正しさが認められた。
●量子の挙動の実用化へ
・パウリとユングの2人による対話は、厳密な意味で科学的とは言えなかったが、二重性という自然界の中心的概念を導いた。因果的な相互作用と、非因果的な相関。両者を同時に説明する統一的理論が現れた時、人類は確かな英知を手にするだろう。
終章 宇宙のもつれを繙く
●パウリとユングが残したもの
・『物理学の潮流において、ユングの果たした役割は決して小さくないだろう。たしかに、彼の提唱した元型や集合的無意識といった概念は、独創的であり、また魅力的でもあるが、科学的に実証されているわけではない。夢に現れる象形が、代々受け継がれてきた原子的な型である証拠はどこにもないのである。よしんば東洋哲学や錬金術、神秘学を学んだことがあるならば、曼荼羅や錬金術記号などの象形が夢に出てきても不思議はない。夢に現れなくとも、日常で目にする記号から、そのような結びつきを連想するとも考えられる。漫画書籍の熱心な収集家が、ヒーローや悪役の夢を見ると同じである。しかしながら、ユングは夢分析を通じて、自然の摂理に対するパウリの優れた洞察力に触れた。パウリと繰り返し相対したことで、自らの物理学的知識をより豊かにすると同時に、パウリの発想にも示唆を与えたのである。
したがってユングが提唱し、パウリが掘り下げた「シンクロニシティ」という概念は、心理学だけで背景を語ることはできない。あくまで思弁的な考えで、厳格に管理された実験の裏打ちがあるわけではないが、革新的な進展を見せる量子力学と擦り合わせれば、新たな宇宙観につながるとも考えられる。実現すれば、厳格な因果律と純然たる確率が支配する世界の向こう側が覗くかもしれない。非因果性の統べる世界が、である。』
感想
『源を一にする非因果的連関というユングの概念から、量子のもつれの並行性―ほぼ同時代に認知された現象―を連想しても、何ら不思議はないだろう。』ユングが物理学に魅せられたのは、まさにこの事だったのだと思います。
一方のパウリは、ユング研究所の開所初日となった1948年4月24日、記念セレモニーでまたしても【パウリ効果】に遭遇することになります。
そのパウリは、「シンクロニシティに関する考察を掘り下げ、そして、ユングの考察に大きな意義を見出そうとしたのである」とされています。
パウリはユングの心理学を全て受け入れていたわけではありませんでした。しかし、パウリの心を度々揺さぶっていた【パウリ効果】という事件が次第に大きくなり、ついには歴史に名を遺した物理学者と心理学者を結びつけたのだと思いました。
“科学と非科学”をより分けるのは人間の英知が決めることだろうと思います。しかしながら、宇宙規模の世界(マクロ)と量子の世界(ミクロ)において人間が認知できることは一部です。その意味ではシンクロニシティを完全に否定することはできないと思います。
ご参考1:Youtube“【量子力学】この宇宙の真実知りたくない人は見ないでください...『シンクロニシティ 科学と非科学の間に』by ポール・ハルパーン”(開始~8分30秒の中で「量子もつれ」を解説されています。なお動画は19分です)
ご参考2:Youtube“【簡単解説】数式なしで理解したい!「量子テレポーテーション」や「量子もつれ」の原理や仕組み、方法を初心者にも分かるように解説!” (9分33秒~13分33秒に量子テレポーテーションについて解説されています)
パウリとは量子力学の巨匠の一人、ヴォルフガング・パウリのことです。一方、ユングはフロイトと並び称される偉大な心理学者のカール・グスタフ・ユングのことです。
ユングが晩年、物理学に傾倒していた事実は、ブログ“ユングと共時性”の時に知っていたのですが、ユングと接点のあった物理学者がパウリであり、しかも「往復書簡集」として残っているほど、深いつながりがあったことに大変驚きました。
タイトルの“シンクロニシティ”ですが、お恥ずかしい話、当初、気づかなかったのですがこれは“共時性”のことです。内容は物理学の歴史の物語からマクロな宇宙やミクロの量子を中心に、偉大な科学者の足跡が書かれています。私が最も知りたかったことは、このパウリとユングの関係やどんな事に取り組んだのかということでした。
第9章、「量子の挙動の実用化へ」の中で、以下のようなことが書かれています。
『パウリとユングの2人による対話は、厳密な意味で科学的とは言えなかったが、二重性という自然界の中心的概念を導いた。因果的な相互作用と、非因果的な相関。両者を同時に説明する統一的理論が現れた時、人類は確かな英知を手にするだろう。』
ブログは何とか理解でき、印象に残った箇所をご紹介していますが、全体的にはつかみどころのない漠然としたものになっていると思います。
著者:ポール・ハルパーン
訳者:権田敦司
発行:2023年1月
出版:(株)あさ出版
目次
推薦の言葉
量子論の発展に寄せて 福岡伸一 (生物学者)
序章 自然界のつながりを描く
第1章 天空へ挑む ~古代の人々が描いた天界像~
●太陽への信仰
●神殿の谷の夜明け
●宇宙の構成要素
●自然界の隠された光
●遅々として進まない太陽の光
●運動の世界観
第2章 木星からの光が遅れる
●富と知
●天文学の復活
●禁断の惑星
第3章 輝きの源を辿る ~ニュートンとマクスウェルによる補完
●遠隔操作
●ラプラスの悪魔とスピノザの神
●疾走する波と探求心
●金科玉条を探す
●幻の終の棲み処
第4章 障壁と抜け道 ~相対性理論と量子力学による革命~
●光が持つ2つの顔
●相対的な真実
●OPERAの幻
●宇宙を織りなす
●原子の中を覗く
●デンマークからの光
●魔法の数字
第5章 不確定という世界 ~現実主義からの脱却~
●不思議の国のアルベルト
●苦難の道のり
●現実と行列式
●非公開の舞台
●物質波
●母なる光
第6章 対称性の力 ~因果律を超えて~
●対称に次ぐ対称
●保存則が表すもの
●超排他的な住人
●スピン:粒子の謎めいた性質
●姿を見せない粒子
●もつれた経緯
●超自然現象への抗い
第7章 シンクロニシティへの道 ~ユングとパウリの対話~
●もつれを繙く
●皮肉屋兼毒舌家
●精神の偽らざる姿
●シンクロニシティの登場
●パウリの受難
●超心理学と懐疑派
●ノーベル賞
●研究所での洪水
●すべては2と4のもとに
●非因果的連関の原理
●関係の終焉
第8章 ふぞろいの姿 ~異を映す鏡のなかへ~
●ウー夫人の情熱
●ニュートリノという名のサウスポー
●超絶の力
●統一を巡る課題
●相互作用のなす業
●統一への狂騒
第9章 現実へ挑む ~量子もつれと格闘し、量子飛躍をてなずけ、ワームホールに未来を見る~
●ジョン・ベルによる判定試験
●光子の逆相関やいかに
●コズミック・ベル・テスト
●量子の挙動の実用化へ
終章 宇宙のもつれを繙く
●因果律の限界
●光速の因果律を超えて
●パウリとユングが残したもの
●セレンディピティ v.s. 科学
●慎重に非因果性を受け入れる
謝辞
量子論の発展に寄せて 福岡伸一 (生物学者)
・「量子もつれ」は“entanglement”と表現されるが、科学的な言葉で表現すると、“離れて存在している2つの物体が、互いに他のことを認識しあっている”ということである。
序章 自然界のつながりを描く
・『量子もつれは、相互作用ではなく、粒子間の相関である。そのため、因果律に厳格に則った伝播(一般の相互作用が光速以下で連鎖する伝わり方)より速く結果を伝えることができる。つまりそれは、自然界に2種類の「伝達ルート」があることを意味する。光速を最高速度とする伝達経路と、人間の観察と同時に相関を示す量子相関という経路だ。』
・『近年、量子テレポーテーションや量子暗号の分野で革新的な成果を上げている。特筆すべきは、“量子もつれ”の現象を利用して、途方もない遠隔地へと光子の量子状態を転送した点だ。現在は中国の衛星「墨子(Micius)」へ量子状態を送り、解読不能とも言われる量子もつれを活用した量子暗号システムの構築に取り組んでいる。一連の研究が言わんとするところは、量子もつれなどの非因果的相関の重要性と実用性の高さである。』
※ご参考1:“中国の量子通信衛星チームが米科学賞受賞”
※ご参考2:“量子通信・量子暗号・量子中継・量子ネットワーク”
第3章 輝きの源を辿る ~ニュートンとマクスウェルによる補完
●幻の終の棲み処
・19世紀の科学界では自然の振る舞いや人間の意志はすべて科学的に説明できると考えられた。
・いずれ非科学的な思想は淘汰され、予言や亡霊、悪霊、天啓などの余地はなくなるとの見方が大勢を占めた。
・自然現象は理論的に突き詰めれば、原因と結果の連鎖によって記述されると考えられた。
・因果関係を説明できないものは、その考察は希望的観測や迷信であるとされた。
・超自然現象を信じる反対勢力は、科学によって説明できる立場をとった。そして、超常現象の科学分析と精神世界を対象とした研究を図る団体が生まれた。
第4章 障壁と抜け道 ~相対性理論と量子力学による革命~
・19世紀末の科学は厳格な因果律に基づく決定論へと進んでいた。
・20世紀になると原子内部の不可思議な世界が量子力学で明らかになると摩訶不思議な不確定性原理などが登場した。
・相対性理論は因果的な作用の限界が明らかになると同時に、空間と時間の密接な関係が示され、物理学界に革命の波が押し寄せた。
●宇宙を織りなす [アルベルト・アインシュタイン]
・『自然は相対性理論を裏付ける形で、遠隔的ではなく局所的な重力の姿を露わにした。よってアインシュタインは、遠隔作用という概念に否定的な立場を生涯貫くことになる。彼は原因と結果の直接的な連鎖によって宇宙は構成されているとの見方を常に理論の柱とした。その見地に反する対象は彼にとって、偽りの現象か、もしくはまだ実証されていない因果的作用に過ぎなかったのである。』
●デンマークからの光 [ニールス・ボーア]
・『マンチェスター大学と、その後所属したコペンハーゲン大学での研究で、ボーアは太陽系を彷彿させる原子モデルをつくった。正に帯電する原子核が「太陽」のように中心に位置し、その周りを負に帯電する電子が「惑星」のごとく回るという原子像である。全体を結びつける源は、重力ではなく電磁気力だ。その上でボーアは、楕円軌道で運動する惑星とは異なり、電子の軌道は真円になるとした。』
・『ボーアは、当時実測されていた水素などの基本原子のスペクトル線[原子が放射または吸収する光の電磁波]が、原子モデルで再現される必要があるとも考えた。水素の吸収スペクトルと放出スペクトル(分光器で観測される吸収する光と放出する光の色)は、ヨハン・パルマーやセオドア・ラインマン、フリードリッヒ・パッシェンなどの分光学者たちによって測定され、水素原子固有の周波数がすでに判明していた。いずれのスペクトルも、色が飛び飛びの虹のように特定の周波数の色だけを残し、その他の色は消えていた。そして、原子固有の周波数には数学的な規則性が認められた。なぜ、特定の色を現して、他の色を現さないのだろうか?ボーアは直観的に、電子は普段、安定した軌道上に存在し、特定の振動数の光を吸収したりするのではないかと推測した。光を吸収すればすぐさまエネルギーの高い軌道へと遷移し、放出すればエネルギーの低い軌道へと遷移するのではないか、と。』
・『ボーアは、原子の不連続のスペクトルをモデル化するためには、電子の軌道が連続的ではなく、離散的でなければならないと考えた。したがって、1つの軌道から別の軌道への電子の遷移は、連続的な変化ではなく、一瞬の跳躍であるとみなした。』
・『電子がある状態から別の状態へと自発的かつ瞬間的に移動する、という量子跳躍の概念は、アインシュタインとミンコフスキーによって丹念に描かれた相対性理論の時空図と対極をなす考えだった。いわば、厳格に決められた因果関係に対して、電子の自由奔放が際立っていたのである。[「電子があたかも、どの軌道に移るべきあらかじめ知っているかのようだ」by アーネスト・ラザフォード]』
『アメリカの物理学者リチャード・ファインマンが粒子の経路の不確定さを時空に組み入れ、量子力学の世界と時空図を結びつけるのは1940年代に入ってからのことである。それまで、相対性理論における時空と、量子力学における相関は共通項のないそれぞれ独立した概念に過ぎなかった。』
●魔法の数字 [アルノルト・ゾンマーフェルト]
・『ゾンマーフェルトが熱心に研究したのは、主要な磁場(コイルを通電してつくる電磁石による磁場など)に原子を置いた時に現れる現象だった(1897年にオランダの物理学者ピーター・ゼーマンによって発見されたため、ゼーマン効果と呼ばれる)。磁場に原子を置くと、原子の放出スペクトル線が分裂するのである。本来であれば、特定の色を持つ1本の線であるべきところに、それぞれわずかに色の異なる複数の線が現れる。スペクトル線が虹の一部のごとく分光する理由は、まるで判然としなかった―その答えを導いたのがゾンマーフェルトだった。
「ゼーマン効果」は、ボーアの単純な「太陽系」電子モデルの一般化に大きく貢献した。その研究を契機に、原子核の周りを電子が円を描いて運動する原子像は、量子数などの物理量を持つ、特徴豊かな立体的な姿へと発展したのである(電子数が奇数の原子特有のスペクトル線分裂、つまり「異常ゼーマン効果」の研究が原子モデルの一般化を実現させた)。この原子モデルの進歩によって、ミクロの世界の現象に関して、より正確に予想できるようになった。ひいては、量子世界に潜む多様な現象を明らかにし、量子もつれなどの非因果的な作用の存在が判明する。それゆえ、ゾンマーフェルトの研究は、ボーアの初歩的概念から量子力学確立までの経緯において、貴重な橋渡し役を演じたといえるだろう。と同時に私たちを奇妙な世界へと導いたのである。』
第5章 不確定という世界 ~現実主義からの脱却~
●母なる光
・量子力学の哲学を疑問視する声はあるが、その有用性は広く認められており、長きに渡って未解決の問題さえも、量子力学を頼れば解決への道筋が見えてくる。加えて、理論の弾き出す数字は極めて正確である。
第6章 対称性の力 ~因果律を超えて~
●超排他的な住人 [ヴォルフガング・パウリ]
・論理的思考に長けたパウリは数字に秘められた謎の解明に傑出した才能をみせた。また、数秘術や対称性に深く魅了された横顔もパウリを語る上で見逃がせない点である。後年、哲学的考察に傾倒するようになってからは、ヨハネス・ケプラーの影響を受け、数字に隠された規則性から自然法則を導こうとした。
・パウリの提唱した「排他原理」の原型となる概念に初めて言及したのは1924年12月であった。その「排他原理」は1945年、ノーベル物理学賞を受賞した。
●スピン:粒子の謎めいた性質
・ドイツの物理学者のクローニッヒは自転によって電子が小さな電磁石のように働き、外部の電磁場と相互作用すると考えた。その後、1925年オランダ人物理学者のウーレンベックは、外部の磁場と相互作用するのは電子が自転するためだと推測した。発表された論文は完全とは言えなかったが、実際の現象を予測するため、スピンという概念は広く受け入れられた。
現在でいうスピンは、単なる自転とは異なる概念を指す。電子が光速を超える速度で回転するのは不可能である。これは外部の磁場との相互作用がコマの回転現象と似ているということで、電子が実際に自転しているわけではない。
●姿を見せない粒子
・パウリが予想したニュートリノは1956年、カワンとライネスという二人の物理学者によって観察された。発見されたのはベータ崩壊に関わる電子ニュートリノで、その数十年後には、ミューニュートリノとタウニュートリノという2つのニュートリノも発見された。
●もつれた経緯
・『重力の本質を見抜けなかった古典力学により、歴史の闇に葬られようとしていた。だがその後、量子力学によって救われた―力の作用を介さない相関として。遠く離れた2つの粒子間において、切っても切れない相関を存在するのである。
シュレーディンガーはそのような状態を「もつれ」と呼んだ。量子力学でいう「もつれ」とは、多粒子系―ヘリウム原子の基底状態にある対電子の系など―において、任意の粒子の物理量が自ら以外の粒子の物理量と相関する状態をいう。興味深いことに、この「量子のもつれ」は物理的な距離を意に介さない。実験を重ねれば重ねるほど、「量子もつれ」を認める2点間の距離は広がるばかりである。原子の世界に留まらず、一方が河川を飛び越え、宇宙空間に至っても、他方との相関は変わらないのだ。「量子もつれ」は、決して抽象的概念ではなく、現実において極めて有用性は高い。人間が目にすることのなかったであろう物質の状態を生み出すからだ。たとえば、いずれも超低温化で出現する。全く滑らかに流れる粘性のない超流体や、完全に電導する電気抵抗のない超伝導体がそうである。』
予想通り難解な本でした。
『本書は、人間の本性の一つともいうべき「怒り」をめぐり、当代随一の哲学者たちが、議論を戦わせた記録である』とのことです。
何故、この本を買ったのか。それは万病の元であるストレスの中でも“怒り”は特に注意を要するものだという話を聞いたためです。また、以前、『サーノ博士のヒーリング・バックペイン』という本を拝読したことがあったことも、“怒り”という感情を深く知りたいと思った理由です。
なお、同様なタイトルの本には、『腰痛は<怒り>である』や『心はなぜ腰痛を選ぶのか』があります。これらの本に共通している理論はTMS(緊張性筋炎症候群)理論というものです。TMS理論に関しては以下のサイトが参考になると思います。
『TMSジャパンは、ニューヨーク大学医学部のジョン・E・サーノ教授が発表したTMS(Tension Myositis Syndrome:緊張性筋炎症候群)理論を出発点に、腰痛にまつわる迷信や神話の犠牲者、クワッカリー(健康詐欺・インチキ療法)の被害者、ドクターショッピングを繰り返す腰痛難民をひとりでも減らすため、 世界各国が発表している「腰痛診療ガイドライン」の勧告に則した、腰痛の原因と治療に関する根拠に基づく情報を提供しています。』
特段“怒り”についての知識や考えもなく、哲学者の先生の文章は次元が違うものであり、さらに本書が先生達の色々な考えを論じる場となっているため、この本がどんな本なのかを説明することは困難です。そこで、本書の概要をお伝えするには、最後の「監訳者解説」をご紹介させて頂くのが良いと判断しました。
その後、怒りとは何か、何が問題なのか等についてまとめ、そして、この怒りに対してどのように向き合うのが望ましいのかを考えてみました。
著書:アグネス・カラード他
発行:2021年12月
出版:(株)ニュートンプレス
副題は、“正しい「怒り」は存在するか”となっています。
目次
編集者より
レイチェル・アレックス
第1部 問題定義
怒りについて
アグネス・カラード
第2部 応答と論評
暴力の選択
ポール・ブルーム
損害の王国
エリザベス・ブルーニッヒ
被抑圧者の怒りと政治
デスモンド・ジャグモハン
怒りの社会生活
ダリル・キャメロン
ビクトリア・スプリング
もっとも重要な事
ミーシャ・チェリー
なぜ怒りは間違った方向に進むのか
ジェシー・プリンツ
復讐なき責任
レイチェル・アックス
過去は序章にすぎない
バーバラ・ハーマン
道徳の純粋性への反論
オデッド・ナアマン
その傷は本物
アグネス・カラード
第3部 インタビュー&論考集
ラディカルな命の平等性
ブランドン・M・テリーによるジュディス・バトラーへのインタビュー
怒りの歴史
デビッド・コンスタン
被害者の怒りとその代償
マーサ・C・ヌスバウム
誰の怒りが重要なのか
ホイットニー・フィリップス
正しい無礼
エイミー・オルバーディング
寄稿者一覧
監訳者解説
『本書は、人間の本質というべき「怒り」というテーマをめぐって、当代随一の西洋の哲学者たちが議論を戦わせた記録である。アクネス・カラードの問題提起に基づき、立場の異なる複数の哲学者たちがそれに応答し、またインタビューや論考を寄せている。
怒りをめぐってここまで深い議論がなされたことは、かつてなかったといっていいだろう。そもそも怒りをテーマにした哲学書自体が、この世にそう多く存在するわけではない。人口に膾炙[カイシャ]しているのは、本書でも言及されている古代ローマの哲学者セネカの著書、「怒りについて」ぐらいではないだろうか。
奇しくも本書の原著タイトル「On Anger」は、このセネカの名著の英訳と同じである。ただ、大きく異なるのは、それが怒りに対して一人の哲学者の一つの見方からのみ書かれているわけではない点だ。セネカの議論がまさに典型的なのだが、一般に怒りはネガティブなものとしてとらえられている。
ところが本書では、怒りが実に多様な側面をもっている事実が明らかにされる。これから本文を読まれる読者の便宜のため、あるいはすでに読まれた方の頭の整理のために、あえて議論の内容を構成順に簡単に振り返っておきたい。この視点の多様性こそが、本書の重要なメッセージでもあるからだ。
まずアグネス・カラードによって、怒りは決してネガティブなだけのものではないという強烈な問題提起がなされる。その背景には、感情によって人は道徳性を表現するものだという主張が横たわっている。
だから彼女は「怒りの道徳面(モラルサイド)から暗黒面(ダークサイド)を切り離す」ような怒りの鈍化を否定するのである。それは非現実的であると。その結果、怒りの重要な特徴を支持する「悪意支持論」と「復讐支持論」と呼ばれる議論を展開する。恨みを抱き、復讐を果たすことは合理的かつ正当なことだという主張である。
こうしたカラードの立場を象徴するのが、のちにほかの論者たちから何度も言及されることになる「悪い世界では、人は善い存在ではいられない」という一文にほかならない。
このカラードの問題定義によって、怒りの概念をめぐる多種多様な議論が展開するが、基本的には大きく二つの立場に分けることができるだろう。一つはカラードのように怒りのある種の側面を肯定的にとらえる立場である。もう一つは、怒りという感情を否定的にとらえる立場である。
ポール・ブルームは、「暴力の選択」という論稿において、基本的にカラードを支持しつつも、怒りは合理的だという点に疑問を投げかける。そして怒りだけが道徳性を表現する手段ではないと主張している。
エリザベス・ブルーニッヒは、「損害の王国」という論稿において、終わりなき復讐を止め、平和を実現するために「許し」が必要だと説いている。
デスモンド・ジャグハモンは、「被抑圧者の怒りと政治」という論稿において、この表題のとおり、抑圧されている人たちの怒りにもっと寄り添う必要性を論じている。必然的にそれは社会における不合理性、つまり政治の問題を論じることにつながっていく。
ダリル・キャメロンとビクトリア・スプリングは、「怒りの社会生活」という論稿において、基本的にカラードの議論に賛同しつつ、そうした議論を単に倫理的な次元で完結させるのではなく、科学的研究と交錯させるべきことを訴えている。
ミーシャ・チェリーは、「もっと重要なこと」という論稿において、怒りの合理性に関する問いよりも、怒りを生みだしている現実の社会的文脈に着目するよう警鐘を鳴らす。
ジェシー・プリンツは、「なぜ怒りは間違った方向に進むのか」という論稿において、カラードの怒りを擁護する立場を明確に批判している。その際、怒りに一定の意義を認めつつも、有害な怒りを見分ける必要性を訴える。
レイチェル・アックスは、「復讐なき責任」という論稿において、カラードが説く復讐の意義に反論する。カラードによると復讐は相手に責任を負わせる方法になりえる。しかし、それは必ずしも唯一の方法ではないことを説く。
バーバラ・ハーマンは、「過去は序章にすぎない」という論稿において、永遠の怒りを主張するカラードに対し、謝罪を第一歩ととらえて、事態を変えていくべきことを訴えている。
ジュディス・バトラーは、ブランドン・M・テリーのインタビューに答える形で、命のラディカルな平等を受け入れるべきという視点から、暴力の本質を明らかにするとともに、それに対して非暴力という概念を対置させて批判を展開している。
デビッド・コンスタンは、「怒りの歴史」という論稿において、文字どおり怒りの歴史を概観すると同時に、怒りの本質が社会によって変化し得ることを指摘している。
マーサ・C・ヌスバウムは、かなりの紙幅を費やして、「被害者の怒りとその代償」というタイトルのもと、被害者の怒りは代償を伴うことを古代の戯曲とフェミニズムを俎上に載せて説得的に論じている。
ホイットニー・フィリップスは、「誰の怒りが重要なのか」という論稿の中で、極右反動勢力と左派のキャンセル・カルチャーの異同を示しつつも、後者に肩入れすることによって、今求められるべき怒りの内容を示そうとする。
最後にエイミー・オルバーディングは、「正しい無礼」という論稿の中で、無礼に振る舞うことと道徳との関係について論じている。
こうして概観してみると、人間はつくづく怒りとともに生きているという事実を認めざるを得ない。とりわけコロナ禍にあって、私たちはむき出しの生を露わにせざるを得ない状況に追い込まれてしまった。生きるためには、本性を表さずにはいなれないのだ。わかりやすくいうと、なりふり構わず人を蹴落とし、生活の糧を得る必要があるということだ。その過程では、いやがうえにも怒りが顕在化し、人々がいがみあい、ののしり合う姿が多々見られた。
もっとも、そうした対立はコロナ禍によってもたらされたというよりは、炙り出されたといったほうが正確だろう。現に本文で複数の論者たちが例をあげていた現代的問題は、いずれも歴史的に形成されてきたものである。人種問題をめぐって世界的に注目されたブラック・ライブズ・マター(BLM)もそうだし、昨今のキャンセル・カルチャーの是非をめぐる議論もそうだろう。
だからこそ、対立する立場のどちらが正しいかという問題ではなく、どちらの怒りがどんな意味をもっているのかということ自体、つまり怒りという人間が不可避的にもたざるを得ない感情について、その根源にまでさかのぼって議論する必要があるのだ。
本書で展開された議論は、一つのテーマについて哲学の視点から考え、議論する際のお手本になっているといっても過言ではない。思い込みを疑い、多様な視点からとらえ直し、考えを吟味するプロセスである。それを複数の論者が集団知という形で実践している。』
怒りは何が問題なのか
●怒りを強引に押しつぶしてしまうと、自尊心と道徳的な基盤を失う恐れがある。
●怒りの原因が不正行為だった場合、怒りの抑制は不正行為の黙認になる場合がある。つまり怒りを許すことと不道徳を許すこととが同じ場合もある。
●損害を受けて何か失うと、それが何であれ永久に戻ってこない。
●償いとして何かを与えられても、損害を受ける以前の状態に戻ることはない。犯してしまった悪事は謝罪しても軽くなるわけでない。その結果、不当な扱いを受けた者から復讐する気持ちを消し去ることは容易ではない。
●不当な扱いを受けた人には、怒りを捨てなければならない合理的な理由は見つからない。
怒りの特徴
●怒りを抑制することはできても、怒りを浄化することにはならない。
●人には被害を受けたことに対していつまでも怒り続ける理論上の権利だけでなく、遺恨を捨てられない感情的、道徳的な理由がある。
●怒りは学習と本能の両方の側面をもつ複雑な感情であるが、哲学者たちは長い間、怒りを表現するのに道徳的に正しい方法と間違った方法があると主張してきた。
●怒りを持ち続けていると他の感情と同じように疲労する。その結果、怒りは薄れる。それにより正当な要求が主張できなくなったり、不正な行為を罰したりすることが難しくなるかもしれない。
●怒りの中には復讐に駆り立てるものもあるが、日常生活において過ちは珍しいものではなく、復讐を伴うような怒りは一部である。
●発熱は健康な状態ではないが健全な免疫反応であり、発熱が起きないと病状は悪化するだろう。これと同じことが怒りにもいえる。つまり怒りは合理的なものであるということである。
怒りへの対処
●「義憤」や「変革の怒り」という言葉を使って、永続性や復讐心をもたずに悪事に対して正当に抗議する感情を仮定することは可能である。
●怒りの感情は見方を変えることで変化する可能性がある。
●怒りを含めて感情を制御する動機は人それぞれである。
●怒りを抑えて、違反行為を黙認していると思われるリスクを負うのか、怒りを表明してそれ自体が問題となりうる行動を取る危険を冒すのかの選択は複雑である。
●不正行為に適切に対応するために、時として他者を意図的に苦しめることもある。道徳的な理想の実現には苦しみが伴うことを認識する必要がある。
●怒りは時間と共に薄れていく可能性があり、感情的な怒りは残っても道徳的な規律としての許しがあれば、その怒りによる社会への悪影響は避けることができる可能性がある。
●怒りほど理由を聞いたり言ったりすることが求められる感情はない。そのため怒りの「コミュニケーション」が重要とされる。
許しについて
●許しに癒す力があることは知られているが、その効果は限定的なものでしかなく、損害を及ぼした人を許すことは耐え難いものである。
●不当な悪事に対し、個人が犠牲を払って我慢しなければならないというのが実態である。しかしながら、それであっても、許しは良いことであり、皆が知るように平和のために必要な要素かもしれない。
●許しは非常に難しいことである。重要なことは怒りを行動に移さないということである。
●許しを与える罪のない人は、何か崇高な善のために犠牲になることを求められている。それは「平和」や平等主義的な「秩序」、あるいは「神」である。
怒りの必要性
●人間の進化において怒りをもつことは有益だったという見解がある。
●怒りは自分自身と大切な人々の利益を守らせる。
●怒りは脅威や攻撃に反撃するパワーとなり、搾取や虐待の餌食、生存と繁殖の敗者になることから守る。
●怒りは道徳にとって必要なものであるが、その役割は時間の経過とともに変化するものではないか。
●怒りは必要だが、それを自分のなかの手に負えない獣のように考えてはいけない。
怒りの矛先を間違えることがある
例えば、麻薬や窃盗などの犯罪を完全に個人のせいにして、ある程度の情状酌量の余地を生む構造的な原因を考慮しないなどの場合。
1)怒りの責任のありかを間違えることがある
自分自身への不満を外に向ける人や身近な身内に向ける人もいる。
2)怒りの対象が広がりすぎることがある
例えばナチスに対する怒りをドイツ人全体に向けることがある。
3)怒りが虐待になりうることがある
ちょっとしたトラブルに過剰反応して逆上したり、反対意見を暴力で抑えこもうとしたりする人もいる。
4)怒りが過度の権利意識を含むことがある
自分が特別扱いされるのが当然だと思っている人は、期待通りにならないと怒り狂う。男性は女性よりも怒りやすいとよくいわれるが、ここには女性の正当な怒りが抑圧され、男性の子供じみた癇癪が許されるという二重の不公平が存在する。
5)怒りは自己破壊につながることがある
どんな怒りであれ、はけ口が必要である。怒りのエネルギーを、苦しみを追い払うために使わなければ、怒りの炎はその主を焼き尽くしてしまう。
6)抑圧された怒りが有害であるように、怒りを抑制せずに爆発させることにも害がある
自制心を働かせれば、怒りをもつ側は道徳的に優位な立場を主張でき、報復される可能性を減らすことができる。そのような抑制に最終的に必要になってくるのが「コントロール」である。問題は怒りを感じている状態の時に、私たちは物事を冷静に熟慮することが難しいことである。
まとめ
1.怒りという感情の難しさ
●「悪い世界では、人は善い存在ではいられない」。「怒りは合理的なものである」、これが怒りの難しさの所以ではないかと思います。
●怒りを強引に押しつぶしてしまうと、自尊心と道徳的な基盤を失う恐れがあります。その一方で、怒りを許すことは不道徳を許すことになるかもしれません。損害を受けて何か失うと、それが何であれ永久に戻ってはきません。犯してしまった悪事は謝罪しても軽くなるわけでなく、その結果、不当な扱いを受けた者から復讐する気持ちを消し去ることは困難です。このように怒りは、抑制はできても消し去ることは容易ではなく、特に、理由なく愛する人を殺されたような人の怒りは一生消えないと思います。
2.怒りとの付き合いかた
●怒りの大きさ、深刻さによって大きく異なりますが、怒りの矛先を怒りの原因に集中するのではなく、第三者的視点で、自分自身の今の感情や状況に目を向け、そして、怒りの相手に対しては全人格的な視点で理解しようと努めるということが第一歩なのではないでしょうか。ここでのポイントは真剣に相手の話を理解しようとすることだと思います。
そして、誰もが善悪の両面をもっていること、誰もが生まれたときから悪人なのではないこと。加害者の相手は被害者だった過去があるかもしれないこと等、いずれも根本解決にはならないでしょうが、怒りの感情を少なくすることはできると思います。
それはストレスに置き換えて考えてみるならば、ストレスを減らし、ストレスによる心身へのダメージを減らすことにつながると思います。つまり、怒りの感情はなくならないが、怒りによるストレスを減らす努力は有益であるということです。
●強い怒りの感情には効果はないかもしれませんが、起床時間、就寝時間、食事の時間など、あるいは体を動かす時間を作ることなど、生活習慣を整えることは、自分の気持ちや心を整えることにもなり、少なくともストレスを減らす効果は大きいと思います。やはり、怒りをなくすことはできずとも、ストレスを減らす努力をすることが大事だと思います。
ご参考2
以下は、以前アップした”ヨガ”というブログでご紹介したものです。このような境地に至ることが理想なのかもしれません。
画像出展:「ヨガが丸ごとわかる本」
『つまりヨガとは、「本当の自分」は“全宇宙”と同じであり、“全宇宙”は「本当の自分」でもあるという心理に気づくことがヨガの最終境地である。』
41.アインシュタインの統一場理論とEPR論文
●“相補性”は「デジタル大辞泉」によると『電子の位置と速さ、光の粒子性と波動性のように、不確定性原理から二つの量が同時に測定できない関係にある現象を互いに相補的であるといい、このような性質をいう』とされています。そこには人知の理解を超えたものを受け入れる柔軟性のある価値観という感じを受けます。一方、“統一場理論”の前提は実在性に立脚し必ず統合できるという信念、もしくは統合を諦めることは許されないという強迫観念も多少あったのかもしれません。そして、これが両者を分ける根本的な違いであるような気がします。
また、EPR論についても同じような印象を受けます。ひとつは「理論から導かれる結論と人間の経験」ですが、「人間の経験」という表現は枠を意識させます。さらに、実在という泥沼を回避するために、「実在を一般的に定義する必要はない」としたEPR論の主張には違和感を覚えます。
アインシュタインの「量子論のコペンハーゲン解釈と客観的実在とは両立不可能だ」という考えについては、ボーアも同意しており、その上で「量子の世界というものはない。あるのは抽象的な量子力学の記述だけである」という見解を示しました。
『19世紀にマクスウェルは、電気、磁気、光を統一して、包括的なひとつの理論構造にまとめあげた。アインシュタインはそれと同様、電磁気理論と一般相対性理論とを統一したいと考えていたのだ。彼にとって、それらふたつの理論を統一することは次に踏み出すべきステップであり、避けて通ることのできない道筋であると同時に、論理的必然でさえあった。そんな理論を作るという彼の試みはいずれも屑籠箱行になるのだが、彼がその道に最初の一歩を踏み出したのは、1925年のことだった。その後量子力学が発見されてからは、統一場理論ができれば、量子力学はその副産物として得られるだろうと考えるようになっていた。』
『若い世代とのあいだに相互不信はあったものの、アインシュタインといっしょに仕事がしたいと熱望する若手はつねにいた。そんな若手のひとりがネイサン・ローゼンである。ニューヨーク生まれのローゼンは、1934年、25歳のときに、アインシュタインの助手としてマサチューセッツ工科大学(MIT)から高等研究所にやってきた。そのローゼンよりも数カ月ほど早く、ボリス・ポドルスキーが初めてアインシュタインに会ったのは、1931年、カリフォルニア工科大学(カルテック)でのことだった。そのときふたりは共著論文をひとつ書き上げた。アインシュタインはもうひとつの論文のアイデアをもっていた。その論文が、コペンハーゲン解釈に新しい側面から一撃を加え、アインシュタイン=ボーア論争の歴史に新時代を画することになるのである。
1927年と1930年の、二度のソルヴェイ会議でアインシュタインが採った路線は、不確定性原理を突き崩すことにより、量子力学には矛盾があり、それゆえ不完全であることを示すというものだった。ボーアはハイゼンベルクとパウリの協力を得てアインシュタインの思考実験という要塞を解体し、コペンハーゲン解釈を防衛することに成功した。
その後アインシュタインは、量子力学には論理的な矛盾はないものの、ボーアが言うような完全な理論ではないと考えるようになった。量子力学は完全ではなく、物理的実在を十分に捉えていないということを示すためには、これまでとは違う戦略が必要なのはわかっていた。その目的のためにアインシュタインが開発したのが、彼の考案したなかで、もっとも長く攻略に耐えることになる思考実験だった。
1935年が明けるとすぐに、アインシュタインは、ポドルスキーとローゼンを研究室に呼び、三人で数週間にわたって議論を重ね、その新しい戦略を入念に練り上げた。ポドルスキーがその議論の成果を論文として書き上げる作業を担当し、ローゼンはそのために必要な計算のほとんどを担当した。のちにローゼンが語ったところによれば、アインシュタインの担当は、「一般的な考え方、およびその意味」を明らかにすることだった。わずか四ページのその論文―アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼン論文、略してEPR論文―は、三月末には完成し、専門誌に送付された。「物理的実在に関する量子力学の記述は完全だと考えることができるか?(Can Quantum Mechanical Description of Physical Reality Be Considered Complete?)」と題された三人の共著論文は、[Physical Realityの前にあるべき]“the”を落としたまま、5月15日に、アメリカの物理学専門誌「フィジカル・レビュー」に掲載された。タイトルに掲げた問いに対するERPの回答は、敢然たる「ノー!」だった。ERP論文は、著者のひとりにアインシュタインが含まれていたため、専門誌に掲載される前に、誰も望まないかたちで世間の注目を浴びることになった。
1935年5月4日土曜日の「ニューヨーク・タイムズ」の第十一面に、「アインシュタイン、量子論を攻撃する」という派手な見出しの記事が掲載された。「アインシュタイン教授は、科学の重要理論である量子力学を攻撃する予定だ。その理論にとって彼は祖父のような存在である。彼は、量子力学は“正しい”が、“完全”ではないと結論した」。それから三日後、「ニューヨーク・タイムズ」は、明らかに不機嫌なアインシュタインの談話を掲載した。新聞を相手取ることに不慣れではないはずのアインシュタインだったが、言わずもがなのことを言ったのだ。「科学的な問題については、それにふさわしい場でしか論じないというのが、一貫したわたしのやり方である。わたしは、こうした問題についての発表を、論文掲載に先立って一般紙で行うことに反対する」
アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンは発表された論文の中で、まずはじめに、実在そのものと、物理学者が理解するところの実在とを区別した。「物理理論について本格的な考察を行うときにはつねに、理論とはいっさい関係ない客観的実在と、理論のなかで用いられる物理的な概念とは、別のものだということを考慮に入れなければならない。物理的概念は、客観的実在をさせるために作られたものであり、われわれはそれらの概念を使って、自らのために客観的実在をえがき出だすのである。」それに続けてEPRは、物理理論が成功していると言えるためには、次のふたつの問いに対する答えが、無条件に「イエス」でなければならないと主張した。そのふたつとは、「その理論は正しいのか?」と「その理論によって与えられる記述は完全か?」である。
「理論が正しいかどうかは、理論から導かれる結論と人間の経験とが、どの程度合うかによって判断される」とEPRは述べた。物理学で言う「経験」は、実験や測定を意味するから、三人がここで述べたことは、物理学者なら誰でも受け入れるだろう。今日にいたるまで、実験室で行われた実験と、量子力学の理論的な予測とのあいだに矛盾と言えるようなものはない。したがって、量子力学は正しい理論だと言えそうだ。しかしアインシュタインにとって、実験と合う正しい理論だというだけでは不十分だった―理論はそれに加えて、完全でなければならなかったのである。
「完全」という言葉が何を意味しているにせよ、EPRは、物理理論の完全性に対して、ひとつの必要条件を与えた。「物理的な実在の要素はすべて、その物理理論のなかに対応物をもたなければならない」。理論が完全であるための判定基準をこのように定める以上、EPRがこの先に議論を進めるためには、「実在の要素」とは何かを定義しなければならない。
アインシュタインは哲学の泥沼にはまりたくはなかった。あまりにも多くの人たちが、「実在」を定義しようとして、その泥沼に飲み込まれていった。実在が何で構成されているのかを明らかにしようとして、無事にその沼から出てきた者はかつてひとりもいなかったのだ。そこでEPRは、その泥沼を回避するために、自分たちの目的にとって、「実在を一般的に定義する必要はない」と述べた。そのうえで、「実在の要素」を定義するために、「十分」にして「妥当」な判定基準、と三人が考えるものを使うことにした。その判定基準とは、「系をいかなる仕方でもかき乱すことなく、ある物理量の値を、確実に(すなわち確率1で)予測することができるなら、その物理量に対応する、物理的実在の要素が存在する」というものだった。
アインシュタインは、量子力学が捉えていない客観的な「実在の要素」が存在することを示すことにより、量子力学は自然についての完全な基礎理論だというボーアの主張を突き崩したいと考えたのだ。アインシュタインは、ボーアや彼の意見を支持する者たちとの論争の焦点を、量子力学には内部矛盾があるかどうかという問題から、実在はいかなる性質をもつのか、そして理論は役割とは何かという問題へとシフトさせたのである。』
『EPR論文には、量子論のコペンハーゲン解釈と客観的実在とは両立不可能だというアインシュタインの考えが表明されていた。それについてはアインシュタインのいう通りであり、ボーアもそれはわかっていた。じっさいボーアは、「量子の世界というものはない。あるのは抽象的な量子力学の記述だけである」と述べているのである。コペンハーゲン解釈によれば、粒子には、独立した実在性はない。観測されていないときには、粒子は物理的な性質をもたないのだ。アメリカの物理学者ジョン・アーチボルト・ホイーラーは、のちにこの考え方を次のように言い表した。「基礎的な現象は、観測されるまでは実在しない」。EPR論文が世に出る一年ほど前にはパスクアル・ヨルダンが、観測者とは無関係な実在を認めないコペンハーゲン解釈の観点を論理的にとことん突き詰めて次の結論に達した。「われわれ自身が、測定結果を生み出すのである」
ポール・ディラックは、「アインシュタインがこれではダメだと証明したのだから、一からやり直しだ」と言った。彼ははじめ、アインシュタインは量子力学に致命的な打撃を与えたと考えたのだ。しかしすぐに、ディラックもその他多くの物理学者たちと同じく、今回もまたボーア=アインシュタイン論争の戦場から、勝者として帰還したのはボーアだと考えるようになった。量子力学が非常に役に立つ理論であることはとっくの昔に証明されていたし、EPRに対するボーアの回答をじっくり吟味してみようという者はほとんどいなかった―なにしろボーア自身の基準に照らしてさえ、その回答はあいまいで難解だったのだから。』
42.理論と哲学的立場
●アインシュタインの抵抗は、個人的というより物理学界への警鐘だったように思います。「実験の証拠に基づかず、科学理論を基礎として哲学的世界観を作ること」の危機感から、その危険性を強く訴え続けたということではないでしょうか。アインシュタインの執拗ともいえる論争によって、量子力学は可能な限りの精査を通して今に至っているように思います。ボーアも親愛なる友であるアインシュタインからの警告の意図を理解していたからこそ、アインシュタインからの問題定義を真摯に受け止め、生涯にわたって取り組み続けたのではないかと思います。
『ふたりのあいだで語られなかったことは、すでにお互いが知っていることだった。量子力学の解釈に関するふたりの論争は、突き詰めれば、実在をどう位置づけるかに関する哲学的な信念にかかわっていた。世界は実在するのだろうか? ボーアは、量子力学は自然に関する完全な基礎理論だと信じ、その上に立って哲学的な世界観を作り上げた。その世界観にもとづき、ボーアはこう断言した。「量子の世界というものはない。あるのは抽象的な量子力学の記述だけである。物理学の仕事を、自然を見出すことだと考えるのは間違いである。物理学は、自然について何が言えるかに関するものである」。アインシュタインはそれとは別のアプローチを選んだ。彼は、観測者とは独立した、因果律に従う世界がたしかに実在するという揺るがぬ信念の上に立って量子力学を評価した。その結果として、彼はコペンハーゲン解釈を受け入れることができなかった。「われわれが科学と呼ぶものの唯一の目的は、存在するものの性質を明らかにすることである。ボーアにはまず理論があり、次に哲学的な立場があった。その哲学的立場とは、理論が実在について何を語っているかを理解するために作り上げた解釈だった。アインシュタインは、何であれ科学理論を基礎として哲学的世界観を作ることの危険性を知っていた。新しい実験的証拠の光に照らして、理論に不十分な点があることが判明すれば、その理論に支えられていた哲学的な立場は崩れるからだ。「いかなる知覚的行為とも無関係な実在を仮定することは、物理学の基礎です」とアインシュタインは述べた。「しかしその仮定が正しいかどうかを、わたしたちは知らないのです」
アインシュタインは、哲学的には実在論者であり、そのような立場を根拠づけることは不可能であることを知っていた。それは実在に関するひとつの「信念」であって、証明できるようなものではないからだ。しかし、たとえそうだとしても、アインシュタインにとって、「人が理解したいと願うのは、そこに存在する現実の世界」なのだった。彼はモーリス・ソロヴィンへの手紙に次のように書いた。「人間理性にとって手が届くかぎりの実在の本性が合理的なものだという確信について何か語るとすれば、“宗教的”確信というより良い表現が見つかりません。この感覚がなくなるところでは、科学はつねに退屈な経験主義に陥ってしまう恐れがあります」
ハイゼンベルクは、アインシュタインとシュレーディンガーは「古典物理学の実在概念、より一般的な哲学的な言葉を使うなら唯物論[精神の実在を否定して、物質の根源性、独自性のみを主張する哲学の理論]の実在論に戻りたい」のだろうと考えていた。ハイゼンベルクにとって、「石や木が存在するのと同じ意味において、最小の構成要素が客観的に存在するような実世界が、われわれがそれらを観察するかどうかによらずに存在している」という信念をもつことは、「十九世紀の自然科学に広く行き渡っていた、素朴な実在論の観点」に後戻りすることだった。アインシュタインとシュレーディンガーは「物理学を変えることなく哲学を変えたい」のだというハイゼンベルクの判断は、半ば正しく、半ば間違っていた。アインシュタインは物理学そのものを変えることにも懸命だった―彼は、多くの人たちが考えていたような、保守的な過去の遺物ではなかったのである。古典物理学の概念は、何か新しいもので置き換えなければならないとアインシュタインは確信していた。それに対してボーアは、巨視的な世界は古典物理学の概念で記述されるのだから、巨視的な世界については、古典物理学を超える理論は探そうとすることさえ時間の無駄だと論じていた。じっさい、彼が相補性の枠組みを作り上げたのは、古典的な概念を救おうとしてのことだった。ボーアにとって、測定装置とは独立した基礎的な物理的実在などというものは存在しなかった。ハイゼンベルクが指摘したように、「われわれは量子論のパラドックス、すなわち、古典的な諸概念を使うしかないというパラドックスを避けることはできない」とボーアは考えていたのである。アインシュタインが「心休まる哲学」と呼んだのは、古典的諸概念を残さなければならないという、ボーア=ハイゼンベルクの魅力的な呼び声のことだったのだ。』
『アインシュタイン=ボーア論争は、アインシュタインの死をもって終わったわけではなかった。ボーアは、論敵がまだ生きているかのように、その後も量子論争をつづけたのだ。「わたしにはアインシュタインが微笑んでいるのが見える。得意気でありながら、思いやりと優しさを浮かべたあの顔で」。ボーアが物理の基本的な問題について考えるときには、アインシュタインならどう言っただろうかということが、まず頭に浮かぶことが多かった。1962年11月17日の土曜日、ボーアは、自分が量子物理学の発展に果たした役割に関する、五回にわたるインタビューの最後のひとつを受けた。翌日曜日、昼食をとった後、ボーアはいつものように昼寝をするために寝室に向かった。夫の声を聞いた妻のマルグレーデが寝室に急ぐと、そこには意識を失ったボーアがいた。七十七歳のボーアは、致命的な心臓発作を起こしたのだ。前の晩、かつての講義をもう一度反芻しながら、彼が最後に書斎の黒板に描いたのは、アインシュタインの光の箱だった。』
画像出展:「量子革命」
1954年アインシュタインが亡くなる前年の写真です。(プリンストンの自宅にて)
左は1930年、右は1962年11月亡くなる前夜にボーアが書斎の黒板に描いた“光の箱”です。
『アインシュタインは、こう語ったことがある。「わたしは一般相対性理論について考えた時間より、百倍も多くの時間をかけて量子の問題について考えた」。ボーアは、量子力学は、原子の世界について何を教えているのかを理解しようとするなかで、客観的な実在があるという考えを捨てた。アインシュタインにとってボーアのその判断は、量子力学はたかだか真実の一部しか含んでいないことを示す明らかな兆候だった。ボーアは、実験や観察でわかることの背後に、量子の世界が実在するわけではないと主張して譲らなかった。アインシュタインは、「それを認めることに論理的な矛盾はないが、その考えはわたしの科学的直観と真っ向から対立するので、わたしとしてはより完全な理論を探さずにはいられないのである」と述べた。彼は、「単に出来事が起こる確率ではなく、出来事そのものを描き出すような実在のモデルを作ることは可能だ」と信じることをやめなかった。しかし結局、アインシュタインはボーアのコペンハーゲン解釈を論駁することができなかった。プリンストン時代のアインシュタインを知るアブラハム・パイスは、次のように述べた。「相対性理論について語るときの彼は冷静だったが、量子論については熱くなって語った」。そしてパイスはこう言い添えた。 「量子は彼のデーモンだった」。』
43.統一場理論
●アインシュタインが目指したのは電磁気学、一般相対性理論、そして量子力学を統合する重力理論でした。
『アインシュタインは、人生最後の二十五年間をかけて追及したにもかかわらず、いまだ捉えることのできない統一場理論―それは一般相対性理論と電磁気学の結婚だった―が、自分が追い求める完全な理論になると信じていた。その統一場理論は、量子力学を含むような完全な理論になるはずだった。パウリはそんなアインシュタインの統一の夢に対し、「神が引き離したものを、何人たりともふたたび結びつけてはなりません」という辛辣な判定を下した。当時はほとんどすべての物理学者が、アインシュタインは現実が見えていないと言ってあざ笑った。しかし、[重力・電磁力に加えて]放射性崩壊を引き起こす弱い核力と、原子核をまとめている強い核力が発見されて、物理学者が相手にしなければならない力が四つに増えると、まさにアインシュタインが求めていたような理論の探求が、物理学の聖杯になったのである。』
『ボーアとの論争で決定打を出すことはできなかったものの、アインシュタインの挑戦は後々まで余韻を残し、さまざまな思索の引き金となった。彼の戦いはボーム、ベル、エヴェレットらを力づけ、ボーアのコペンハーゲン解釈が圧倒的影響力を誇って、ほとんどの者がそれを疑うことさえしなかった時期にも検討を促した。実在の本性をめぐるアインシュタイン=ボーア論争は、ベルの定理へとつながるインスピレーションの源だった。そしてベルの不等式を検証しようという試みから、量子暗号、量子情報理論、量子コンピューティングといった新しい研究分野が直接間接に生まれてきたのである。こうした新しい分野のなかでもとくに注目すべき、エンタングルメント[量子もつれ]を利用した量子テレポーテーションだ。SFの世界の話しのように聞こえるかもしれないが、1997年には、ひとつならずふたつのチームが、その粒子の量子状態が別の場所にあるもうひとつの粒子に完全に転写されたので、事実上、最初の粒子を移動させたことになるのだ。
アインシュタインは、コペンハーゲン解釈を批判し、彼に取り憑いた量子のデーモンを滅ぼそうとしたせいで人生の最後の三十年は不遇だったが、彼の主張の一部は正しかったことが示された。アインシュタイン=ボーア論争は、量子力学の数学に含まれる式や数値とはほとんど関係がなかった。量子力学は何を意味しているのか? 実在の本性について量子力学は何を語るのか? こうした問いにどう答えるかが、ふたりを分けたのである。アインシュタインは、具体的な解釈を示したことは一度もなかった。なぜなら彼は、物理理論を睨んで自分の哲学を作るということをしなかったからだ。その代わりに彼は、実在は観測者とは独立しているという信念にもとづいて量子力学を調べ抜き、この理論には満足できないと考えるようになったのだ。
1900年12月には、たいていのことは古典物理学で説明がつき、ほとんどすべてのことが古典物理学の支配する領域に収まっていた。そのときマックス・プランクが量子に出くわし、物理学者たちは今なお、量子の取り扱いに苦労している。アインシュタインは、「わたしは量子に強い関心を持ち」、半世紀ものあいだ「考え続けた」が、いまだ理解したというには程遠いありさまだと述べた。最後までその努力を続けたアインシュタインが慰めを見出したのは、ドイツの劇作家にして哲学者でもあるゴットホルト・レッシングの次の言葉だった。「真実を手に入れたいという願望は、真実を手に入れたという確信よりも尊い」。』
感想
1900年、マックス・プランクが「黒体の放射法則の導出法」の中で“量子”と命名し、1905年にはアルベルト・アインシュタインが光量子の存在と光電効果に関する論文を発表しました。しかしながら、量子論の扉を開いたのはニールス・ボーアが1913年7月に発表した論文、「原子と分子の構成について」だったと思います。
量子論から量子力学への道程も困難極まりないものでしたが、ボーアは若い天才物理学者のハイゼンベルクにすべてを託し、そのハイゼンベルクは友人で同じく若き天才物理学者のパウリの協力により、ついに行列力学にもとづく量子力学を確立しました。しかし、この行列力学は難解な数学的なアプローチであったため、多くの物理学者にとって理解困難なものでした。
それに対抗するように登場したのが、直観的で物理学者にとって分かりやすい波動力学でした。そして、波動力学を発見したシュレーディンガーを後押ししたのがアインシュタインでした。アインシュタインは「コペンハーゲン解釈」に対して、ゾンマーフェルトへの手紙の中で、次のように話しています。「量子力学は統計的法則を記述するという意味では正しい理論かもしれませんが、基本的な個々のプロセスを記述する理論として適切ではありません」。
これは、アインシュタインが考える物理学のあるべき姿に照らし合わせると、受け入れることができない“解釈”でした。また、ボーアの【相補性】に対してアインシュタインは【統一場理論】を考えていました。これがシュレーディンガーとともに「コペンハーゲン解釈」を受け入れることなく、論争になった核心の一つだったと思います。しかしながら、このアインシュタインやシュレーディンガーとの論争、特に第五回ソルヴェイ会議の公私にわたる、あたかもチェスのような闘い、さらに四半世紀に渡って繰り広げられた論争は、確実に量子力学を磨き上げました。
アインシュタインの死後十年を経た1965年、ノーベル賞受賞者のリチャード・ファインマンは次のような言葉を残しました。「量子力学を理解している者は、ひとりもいないと言ってよいと思う」また、「「こんなことがあっていいのか?」と考え続けるのはやめなさい―やめられるのならば。その問いへの答えは、誰も知らないのだから」。
不可知とは「人間のあらゆる認識手段を使用しても知り得ないこと」とされています。不可知論は古代ギリシアや古代インドから存在し、近代においては哲学者カントが「純粋理性批判」において、「物自体は認識できずかつ知り得るものではなく、人は主観形式である時間・空間のうちに与えられた現象だけを認識できる能力のみがある」という考えを提示しました。これも一種の不可知論とされています。
本書の中には次のような記述がありました。
『ハイゼンベルクが発見した不確定性は、現実の世界に本来的に備わっている性質なのだ。原子レベルの世界で観測可能な量について、プランク定数の大きさにより規定され、不確定性関係により課される正確さの限界は、装置をどれだけ改良しても決して消滅することはない、とハイゼンベルクは述べた。この驚くべき発見の名前としては、「不確定性」や「不決定性」よりも、「不可知性」(unknowable)というほうがふさわしかったかもしれない。』
不可知性はボーアとアインシュタインを分けた価値観の相違であり、分岐点ではなかったのかと思います。
ご参考:“基礎物理学の課題 -量子論と相対論の統合は可能か-” PDF31枚
ご参考:Youtube“量子力学と仏教は同じだった!?物理学者たちが東洋思想に魅了される理由【宇宙の真理】”(8分54秒)以下がこの動画の内容です。
00:06 物理学者たちの仏教への反応
01:07 量子力学の世界観①(ウィグナーの友人 ; 思考実験)
03:27 西洋哲学者たちの量子力学への反応
04:08 仏教の世界観①(縁起)
05:11 量子力学の世界観②(不確定性原理)
05:58 仏教の世界観②(不可知性)
06:26 不可知性の世界
06:40 コペンハーゲン解釈の世界
06:56 量子力学の父
07:49 東洋思想と量子力学の関係性の論文
※07:58のところで、ボーアは以下のように述べたということが紹介されています。
『・・・この考えは、
陰陽の名で知られるシンボルである太極図で表現された古代東洋と密接に調和しています。この考えによれば、自然界のすべての変化は、二つの主要な原因または原理によって調和され、それぞれが他を補完しているのです。』
『ボーアはデンマークの国民的英雄になり、1947年、デンマーク最高の勲章、大象位勲章を受けた。この勲章をもらうとき、家の紋章を選ぶ規定があった。ボーアはそのとき、彼の思想を表す非常に特徴のある紋章を選んだ。紋章の上には「CONTRARIA SUNT COMPLEMENTA」=対立するものは相補的である。という意味の言葉がかかれていた。ボーアの選んだ紋章は中国の「易」の思想を表すという太極図である。』
赤と黒の二色の円が太極図です。
画像出展:「アインシュタイン ロマン3」
おそらく、向かって左から3人目がボーア博士だろうと思います。また、次のような話をされたとのことです。
『富士山を箱根や伊豆、その他さまざまな場所から見ることができました。富士山は光線や天候によって姿を色々変えます。あるときは山頂が山に隠れ、あるときは雪を頂く山頂が雲の上に浮かんでいました。その時々の印象は非常に異なります。しかし、富士山の本当の優美な姿はその時々の印象がすべて私の中で合わさってできるのです。それは相補性と同じことなのです。』
”ルビンの壺”
画像出展:「Binary Diary」
もし、人間社会において“壺”という物が存在していないとすれば、この図を見て気づくことは向かい合った二人の横顔だけです。
「不可知」は人間のあらゆる認識手段を使用しても知り得ないことです。やはり、我々が生活している物質世界において、不可知という考えも必要ではないかと思います。
37.1927年9月、イタリアのコモで開催された国際物理学会
●ボーアが相補性という考えを発表したのは、イタリアのコモで開催された国際物理学会でした。そして約1か月後には「第五回ソルヴェイ会議」がブリュッセルで行われました。後年、「コペンハーゲン解釈」と呼ばれるようになった量子物理学は、この二つの会議で行ったボーアの講演が原点です。
『1927年9月11日から20日にかけて、イタリアのコモで開催された国際物理学会は、イタリアのアレッサンドロ・ボルタの没後百周年の記念行事だった。会議がたけなわとなっても、ボーアはまだ、9月16日に予定されている講演の原稿を書き続けていた。講演当日、カルドゥッチ研究所で彼の話を待ち受ける参加者のなかには、ボルン、ド・ブロイ、コンプトン、ハイゼンベルク、ローレンツ、パウリ、プランク、ゾンマーフェルトがいた。
ボーアはまず、新しい相補性という考え方の枠組みを初めて公式の場で説明したのち、ハイゼンベルクの不確定性原理を取り上げ、量子論において測定が果たす役割について語った。ボーアが小声で話す内容を、隅から隅まできちんと聞き取るのは難しい人たちもいた。ボーアは、シュレーディンガーの波動関数に関するボルンの確率解釈をはじめ、さまざまな要素をひとつひとつつなぎ合わせ、それらを量子力学に対する新しい物理的理解の基礎とした。物理学者たちはのちに、たくさんのアイデアが混じり合ったその解釈のことを、「コペンハーゲン解釈」と呼ぶようになる。
ボーアの講義は、後年ハイゼンベルクが、「量子論の解釈にかかわるあらゆる疑問について、コペンハーゲンで行われた徹底的な研究」と表現することになる努力の、ひとつの到達点だった。このデンマーク人が与えた回答は、「量子の手品師」たる若きハイゼンベルクさえも、はじめは戸惑いを覚えるほどのものだった。ハイゼンベルクはのちに、当時の様子を次のように語った。「何時間も話し続けてすっかり夜も更け、身通しがつかないまま議論が終わると、わたしはしばしば研究所のそばに広がる公園にひとりで散歩に出かけ、繰り返しこう自問したものだった。自然は本当に、こうした原子レベルの実験が示しているような馬鹿げたものなのだろうか?」。この疑問に対するボーアの答えは、きっぱりとした「イエス」だった。測定と観測にそのような重要な役割を与えることは、自然のなかに規則的なパターンや因果的な結びつきを見出そうとするいっさいの試みを無効にするものだった。
科学の中核的教義のひとつである因果律は捨てなければならないと、論文のなかではっきりと唱えた最初の人物がハイゼンベルクだった。彼は不確定性原理の論文に次のように書いた。「「現在が正確にわかっていれば未来を予測することができる」という決定論的な因果律の定式化において、間違ってるのは結論ではなく、仮定のほうである。現在をあらゆる細部にわたって知ることは、原理的にさえできないからだ」。たとえば、一個の電子がもつ位置と速度を、同時に正確に知ることはできない。それゆえわれわれに計算できるのは、その電子が未来においてもつ位置と速度に関する、「さまざまな」可能性だけである。原子レベルのプロセスについて、一回かぎりの観測や測定で得られる結果を予測することはできない。正確に予測できるのは、ある範囲の可能性のうち、どれかの結果が得られる確率だけなのだ。
ニュートンの敷いた基礎の上に築かれた古典的宇宙は、決定論的な時計仕掛けの宇宙だった。アインシュタインの相対性理論による修正を受けてからも、粒子であれ惑星であれ、与えられた時刻における物体の位置と速度が正確にわかれば、あらゆる時刻における物体の位置と速度は、原理的にはどれほど正確にでも求めることができる。しかし量子的な宇宙では、あらゆる出来事は空所がないのだ。ハイゼンベルクは不確定性原理の論文の最後の段落で、大胆にも次のように述べた。あらゆる実験が量子力学の法則に従い、それゆえ式ΔpΔq=hに従う以上、因果律を復活させようとすることは、「知覚され統計的な世界」とハイゼンベルクが呼ぶものの背後に、何か「真の」世界が隠れていることを期待するのと同様、「非生産的であり、無意味である」というのがハイゼンベルクの考えだった。それが、彼とボーア、そしてパウリ、ボルンの共通の見解だったのである。
コモの会議では、ふたりの物理学者の欠席が目立っていた。シュレーディンガーは数週間前にプランクの後任としてベルリンに移り、新しい環境に慣れるのに忙しかった。アインシュタインはファシズムのイタリアに足を踏み入れることを拒否した。しかしボーアはわずか1カ月後には、ブリュッセルでこのふたりに会えるはずだった。』
38.1927年10月24日~10月29日第五回ソルヴェイ会議
●1926年9月、戦後、ドイツが国際連盟に加入する道が開かれ、第五回ソルヴェイ会議の開催国となったベルギー国王はドイツ人科学者の参加を承認しました。この結果、ソルヴェイ会議にはアインシュタインの参加が認められました。そのソルヴェイ会議の論争の主役はボーアとアインシュタインであり、それは物理学というより哲学に近いものだったようです。
画像出展:「アインシュタイン ロマン3」
『第五回ソルヴェイ会議に招待された物理学者たちはみな、「電子と光子」というテーマを掲げたこの会議は、目下もっとも緊急度の高い問題、物理学というよりむしろ哲学というべき問題について討論するよう企画されていることを知っていた。その問題とは量子力学の意味である。量子力学は自然の本当の姿について何を教えているのだろうか? ボーアはその答えを知っているつもりだった。多くの人たちにとって、ボーアは「量子の王」としてブリュッセルに到着した。しかし、アインシュタインは「物理学の教皇」だった。ボーアにとって、「最近到達した発展の段階は、われわれの観点から見れば、アインシュタイン自身がきわめて独創的なやり方で提示したいくつかの問題を解明するという目的地に至る道のりを、かなり先まで進んだということを意味していた」。彼は、「アインシュタインがそれをどう考えるか」を知りたくてうずうずしていた。ボーアにとってアインシュタインの意見は大問題だったのだ。
かくして灰色の雲に覆われた1927年10月24日の月曜日、最初のセッションが始まる午前十時に、世界有数の量子物理学者のほとんどが、レオポルトド公園内にある生理学研究所の建物に顔をそろえた。その場には大きな期待感がみなぎっていた。それは、準備に一年半をかけ、ドイツが仲間外れにされていた時期を終わらせるために国王の同意を必要とした会議だった。』
『10月26日の水曜日には、量子力学のふたつの対抗理論の提唱者たちがそれぞれ報告を行った。午前のセッションは、ハイゼンベルクとボルンが共同で担当した。ふたつの講演は大きく四つの部分に分かれていた―数学的形式、物理的解釈、不確定性原理、そして量子力学の応用である。
具体的には、この会議の議事録にある通り、上位者のボルンが序説と、第一部および第二部を担当し、第三部と第四部をハイゼンベルクが担当した。ふたりはその報告を次のように切り出した。「量子力学は、不連続の発生こそは原子物理学と古典物理学との本質的な違いだという直観にもとづいています」。そしてふたりはほんの数メートルの距離に座っている物理学者たちに謝意を表す意味で、量子力学は本質的に、「プランク、アインシュタイン、そしてボーアによって創設された量子論を直接的に拡張した」ものだと指摘した。
それに続いて、行列力学、ディラック=ヨルダンの交換理論、確率解釈を説明したのち、不確定性原理と「プランク定数hの意味」に話を進めた。ふたりは、プランク定数は「波と粒子の二重性を介して自然法則に入り込む普遍的なあいまいさの尺度」だと主張した。じっさい、もしも物質と放射が波と粒子の二重性をもたなかったなら、プランクの定数は存在しなかっただろうし、量子力学も存在しなかっただろう。そしてふたりはまとめとして、次のような挑戦的な発言をした。「量子力学は閉じた理論であって、その物理的数学的前提は、もはやいかなる変更も受けることはないと考えています」
閉じた理論だというのは、今後いかなる発展があろうと、量子力学の基本的な特徴は変わらないという意味だ。アインシュタインにとって、量子力学は完全だとか最終理論だとかいう主張はなんであれ、到底受け入れられるものではなかった。たしかに量子力学はみごとな理論だが、アインシュタインの見るところ、まだ本物ではなかったのだ。しかしアインシュタインは挑発に乗ることを拒否し、ふたりの報告に続く討論でも口を閉ざしていた。その討議で発言したのは、ボルン、ディラック、ローレンツ、ボーアの四人で、ボルンとハイゼンベルクの報告に異議を唱えた者はひとりもいなかった。』
『昼食後に演壇に上がったのは、波動力学に関する報告を英語で行ったシュレーディンガーだった。 「波動力学の名のもとに、現在、互いに密接に関係しているが完全に同じではないふたつの理論が使われています」と彼は切り出した。じっさいにはひとつの理論しかないのだが、事実上、それがふたつに分裂していたのだ。一方は、日常的な三次元空間の中にある波についての理論、そして他方は、高度に抽象的な多次元空間を必要とする理論だ。問題は、一個の電子を記述する場合を別にすれば、その波は、三次元よりも高い次元の空間に存在する波になってしまうことだ、とシュレーディンガーは説明した。水素原子に含まれる一個の電子を記述するためには三次元空間で足りるが、ヘリウムの二個の電子を記述するためには、六次元空間が必要になる。とはいえ、配位空間として知られるこの多次元空間は数学的な道具にすぎず、その理論で記述されるプロセスがいかなるものであれ―衝突し合う多数の電子であれ、原子核のまわりを起動運動している一個の電子であれ―そのプロセスは空間と時間の中で起こっている、とシュレーディンガーは論じた。「しかし率直に言って、それらふたつの概念は、まだ完全に統一されていません」と述べてから、彼はふたつの場合それぞれについての説明に話を進めた。
物理学者たちは波動力学を便利に使っていたが、一個の粒子を記述する波動関数はその粒子の電荷と質量の分布を表しているというシュレーディンガーの解釈を支持する者は、指導的な理論家の中にはひとりもいなかった。シュレーディンガーは、ボルンの確率解釈が広く支持されていることにも屈せず、自分の波動関数解釈の妥当性を力説し、定説となっていた「量子飛躍」という考え方に疑問を投げかけた。
シュレーディンガーは、報告者としてこの会議に招待されたときから、「行列派」との衝突は避けられまいと覚悟していた。講演後に最初に質問に立ち上がったのはボーアだった。ボーアは、シュレーディンガーが報告の後半で述べた「困難」は、彼が前半で述べた、ある結果が間違っているからではないかと問いただした。シュレーディンガーは、ボーアのその質問はうまく切り抜けたが、今度はボルンが立ち上がり、別のところで計算に間違いがあるのではないかと質問した。シュレーディンガーは少しいらついた様子で、「その計算は完璧に正しく厳密であり、ボルン氏による抗議は根拠がありません」と述べた。
さらに二人が発言したのち、ハイゼンベルクが立ち上がった。「シュレーディンガー氏は報告の最後で、われわれの知識が深まれば、多次元理論で得られた結果を三次元空間で説明し、理解できるようになるだろうとの希望的観測を述べることで、彼の理論を根拠づけました。しかしわたしの見るところ、シュレーディンガー氏の計算には、この希望的観測を根拠づけるようなものは何もないように思います」。これに対してシュレーディンガーは、「三次元で考えることができるようになるだろうという自分の期待は、さほど荒唐無稽な夢物語というわけではありません」と答えた。それから数分ほどして討議が終わり、議事の第一部にあたる招待講演はすべて終了した。』
『一般的討論のひとつ目のセッションは、10月28日金曜日の午後に始まった。まずローレンツが、因果律、決定論、確率の問題に討論のテーマを絞るために、いくつかの論点を提出した。量子的な出来事には何らかの原因があるのだろうか、ないのだろうか? 彼の言葉を借りるなら、「決定論は、それを信仰箇条のひとつとしなければ主張できないのだろうか? 非決定論のひとつの原理にまで格上げしなければならないのだろうか?」。ローレンツはそれ以上は自分の考えを述べず、ボーアにこのセッションの舵取りを頼んだ。ボーアはそれを受けて、「量子物理学においてわれわれが直面する認識論的な問題」について語り出した。彼の目的が、アインシュタインにコペンハーゲンの解決策の正しさを納得させることにあるのは、誰の目にも明らかだった。』
『アインシュタインは、ボーアが自分の信念の概略を語るあいだ、じっとその言葉に耳を傾けていた。ボーアは、波と粒子の二重性は相補性という枠組みの中でしか説明できないと主張した。また、不確定性原理は、自然に本来にそなわっている特徴であり、古典的念に適用限界があることを明らかにするものだが、その基礎は相補性にあると述べた。そして、量子の世界を調べるために行われた実験の結果を明確に伝達するためには、観測結果そのものだけでなく、実験の設定についても、「古典物理学の語彙を適切に磨き上げた」言葉で表現しなければならないとボーアは主張した。
1927年2月、ボーアが相補性に向かってじりじりと考察を進めていたところ、アインシュタインはベルリンで光の性質に関する講演を行っていた。アインシュタインは、光の量子論と、光の波動論のどちらか一方ではなく、「それらふたつの概念を統合しなければなりません」と主張した。彼がその考えを最初に明らかにしたのは、もう二十年ほども前のことだった。アインシュタインは、「統合」を待望していたのに対し、ボーアは相補性を導入し、波と粒子の性質を、互いに相容れないものとして分離しようとしていた。どんな実験をするかによって、光は波であったり粒子であったりするというのだ。
科学者たちは従来、自分が見ているものを攪乱せずに観測できるという、暗黙の前提の上に立って実験を行ってきた。客体と主体、観測者と観測対象は、はっきりと区別されていたのである。しかしコペンハーゲン解釈によれば、原子の領域では、もはやその区別は成り立たない。その原因を、ボーアは「量子仮説」に求めた―それを彼は、新しい物理学の「エッセンス」と呼んだ。量子仮説とは、量子がそれ以上分割不可能な塊になっているせいで、自然界に不連続性が生じるということを捉えるために、ボーアが導入した言葉である。量子仮説を受け入れれば、観測対象と観測者をはっきり区別することはできなくなる、とボーアは述べた。観測を行おうとすると、測定対象と測定装置とのあいだでかならず相互作用が起こる。しかし量子は塊になっているので、その相互作用を好きなだけゼロに近づけることはできない。そのため原子の領域では、「現象と観測者のどちらに対しても、通常の意味での、独立した物理的実在性を与えることはできない」というのがボーアの考えだった。
ボーアのイメージする実在は、観測されなければ存在しないようなものだった。コペンハーゲン解釈によれば、ミクロな対象はなんらかの性質をあらかじめもつわけではない。電子は、その位置を知るためにデザインされた観測や測定が行われるまでは、どこにも存在しない。速度であれ、他のどんな性質であれ、測定されるまでは物理的な属性をもたないのだ。ひとつの測定が行われてから次の測定が行われるまでのあいだに、電子はどこに存在していたのか、どんな速度で運動していたのか、と問うことは意味がない。量子力学は、測定装置とは独立して存在するような物理的実在については何も語らず、測定という行為がなされたときにのみ、その電子は「実在物」になる。つまり、観測されない電子は、存在しないということだ。
「物理学の仕事を、自然を見出すことだと考えるのは間違いである」とボーアはのちに述べた。「物理学は、自然について何が言えるのかに関するもの」であって、それ以外のなにものでもないというのがボーアの考えだった。彼にとって、科学にはふたつの目的があった。「経験できることの範囲を広げること、そして経験を秩序立てること」だ。アインシュタインはかつてこう述べた。「われわれが科学と呼ぶものの唯一の目的は、存在するものの性質を明らかにすることである」。アインシュタインにとって物理学とは、観測とは独立した存在をありのままに知ろうとすることだった。アインシュタインが、「物理学において語られるのは、“物理的実在”である」と述べたのは、その意味でだった。コペンハーゲン解釈で武装したボーアにとって、物理学において興味があるのは、「何が実在しているか」ではなく、「われわれは世界について何を語りうるか」だった。ハイゼンベルクはその考えを、のちに次のように言い表した。日常的な世界の対象とは異なり、「原子や素粒子そのものは実在物ではない。それらは物事や事実ではなく、潜在性ないし可能性の世界を構成するのである」。
ボーアとハイゼンベルクにとって、「可能性」から「現実」への遷移が起こるのは、観測が行われたときだった。観測者とは関係なく存在するような、基礎的な実在というものはない。アインシュタインにとって科学研究は、観測者とは無関係な実在があると信じることに基礎づけられていた。アインシュタインとボーアとのあいだに起ころうとしている論争には、物理学の魂ともいうべき、実在の本性がかかっていたのである。』
『第五回ソルヴェイ会議は、ブリュッセルに集まった人たちに次のような印象を残した。ボーアは、コペンハーゲン解釈は論理的に無矛盾だと論証することには成功したが、「完全」で閉じた理論についての唯一可能な解釈だとアインシュタインに納得させることはできなかった、と。アインシュタインは会議からの帰りに、ド・ブロイら数人とともにパウリに立ち寄った。彼はこのフランスの貴公子との別れの際に、「続けなさい、あなたは正しい道を歩いている」と言った。しかしブリュッセルで支持を得られなかったことで傷心したド・ブロイは、その後まもなく自説を撤回し、コペンハーゲン解釈の支持に回る。ベルリンに帰り着いたアインシュタインはすっかり疲れ果て、気が抜けたようになっていた。二週間後、彼はアルノルト・ゾンマーフェルトに手紙を書いて、量子力学は「統計的法則を記述するという意味では正しい理論かもしれませんが、基本的な個々のプロセスを記述する理論として適切ではありません」と述べた。
ポール・ランジュヴァンは後年、1927年のソルヴェイ会議で、「概念の混乱は頂点に達した」と述べたが、ハイゼンベルクにとってはこの会議こそ、コペンハーゲン解釈の正しさを証明する道のりの決定的な転換点だった。会議が終わった時点で、ハイゼンベルクはある人物への手紙に、「科学的な成果に関しては、あらゆる点で満足しています」と書いた。「ボーアとわたしの観点は全般的に受け入れられました。少なくとも、深刻な反論は、アインシュタインとシュレーディンガーからさえ、もはや出てきませんでした」。ハイゼンベルクの見るところ、彼は勝利を収めたのだ。彼はそれからほぼ四十年を経て次のように語った。「われわれは古い言葉を使い、それを不確定性関係により制限することで、あらゆることを明らかにすることができたし、首尾一貫した描像を作ることもできた」。「われわれ」とは誰のことかと問われて、ハイゼンベルクはこう答えた。「当時、それは事実上、ボーアとパウリとわたしだった。』
画像出展:「量子革命」
39.ボーア(コペンハーゲンメンバー)とアインシュタインの議論
●ボーアとアインシュタインの論争は会議の外、ホテルのダイニングルームで行われました。アインシュタインは新たな思考実験で武装して、朝食の席に現われました。
『一般的討論の時間にアインシュタインが口を開いたのは、この後はあと一度、ひとつ質問をしたときだけだった。後半ド・ブロイは、「アインシュタインは、確率解釈に対するごく簡単な反論をした以外はほとんど何も言わなかった」と語った。その発言の後、アインシュタインは「ふたたび口をつぐんだ」と。しかし、参加者全員がホテル・メトロポールに滞在していたため、突っ込んだ論争は生理学研究所の会議室でではなく、ホテルのエレガントなアール・デコ様式のダイニングルームで行われていたのである。ハイゼンベルクは、「ボーアとアインシュタインは全面戦争に突入した」と言った。
貴族にはめずらしく、ド・ブロイはフランス語しか話さなかった。彼はダイニングルームでアインシュタインとボーアが話し込んでいて、ハイゼンベルクとパウリらがそれを熱心に聞いているのを見ていたに違いない。しかし彼らはドイツ語で話していたので、ド・ブロイは、アインシュタインとボーアが、ハイゼンベルク言うところの「全面戦争」をしているとは思わなかったのだろう。思考実験の達人として知られるアインシュタインは、毎朝、不確定性原理と、この原理とともに称賛されていたコペンハーゲン解釈の無矛盾性に挑む、新たな思考実験で武装して朝食の席に現われた。
コーヒーとクロワッサンを取りながら、その思考実験の分析が始まった。議論はアインシュタインとボーアが生理学研究所に向かう途中も続けられ、たいていはハイゼンベルク、パウリ、エーレンフェストが、ふたりの後にぞろぞろとついていった。アインシュタインとボーアが歩きながら論じ合ううちに、仮説が洗い出され、論点が明らかにされた。そうこうするうちに午前の部のセッションが始まるのだった。ハイゼンベルクはのちにこう語った。「会議のあいだじゅう、とくに休憩時間には、われわれ若手、とくにパウリとわたしはアインシュタインの実験の分析を試みた。昼食時には、ボーアとコペンハーゲンのメンバーが集まって議論を続けた」。夕方になり、さらにコペンハーゲンのメンバーで相談した後に、共同でアインシュタインの反論に立ち向かった。メトロポール・ホテルで夕食の時間になると、ボーアはアインシュタインに、彼の新しい思考実験は不確定性原理によって課される限界を破ってはいないことを説明するのだった。どの思考実験についても、アインシュタインはコペンハーゲンの反論に欠陥を見出すことができなかったが、ハイゼンベルクが述べたように、「彼が心から納得しているわけではない」のも明らかだった。
ハイゼンベルクがのちに語ったところによれば、数日後、「こうしてボーア、パウリ、そしてわたしは、自分たちの一致点はゆるぎないとわかって納得し、アインシュタインも、量子力学の新しい解釈は、それほど簡単に論駁できないらしいということは理解したようだった」。しかしアインシュタインは屈しなかった。彼は、たとえそれがコペンハーゲン解釈を拒否する理由の本質を捉えてはいけないとしても、「神はサイコロを振らない」という言葉をたびたび口にした。あるときボーアはそれに対して、「しかし、神がどうやってこの世界を回しているのかなど、われわれにはわからないでしょう」と言った。パウル・エーレンフェストは、半ば冗談としてこう言った。「アインシュタイン、残念ながら、きみが新しい量子論に反対するやり方は、きみの敵対者たちが相対性理論について反対するやり方とまったく同じだよ」
アインシュタインとボーアが1927年のソルヴェイ会議で非公式に繰り広げた議論を、偏りのない立場から目撃していた唯一の人物がエーレンフェストだった。ボーアはのちにこう述べた。「アインシュタインの意見が、少数の集団のあいだで熱烈な議論を引き起こした。双方と長年にわたり親しい友人だったエーレンフェストは、きわめて積極的かつ有益なかたちで議論に参加した」。会議が終わって数日後、エーレンフェストはライデン大学の学生たちに手紙を書き、ブリュッセルでの出来事を生き生きと伝えた。「ボーアがみんなを完全に圧倒しています。はじめは誰も彼の言うことが理解できないのですが(ボルンもその場にいました)、ボーアは一歩一歩、みんなを説き伏せて行くのです。もちろん、ボーアは、あの恐るべき意味不明な文句を呪文のように唱えます(気の毒に、ローレンツはイギリス人とフランス人のために通訳をしていますが、まったく意味が伝わりません。ローレンツはボーアの話したことをまとめようとするのですが、ボーアは礼儀正しく、それは自分の言っていることとは全然違うと言うのです)。毎晩夜中の一時になると、ボーアはわたしの部屋にやってきて、「ひとことだけ」と言いながら、午前三時までしゃべり続けます。ボーアとアインシュタインとの対話をそばで見ていられたことは、わたしにとっては喜びでした。ふたりにとって、あれはチェスのようなものなのです。アインシュタインはいつも新しい例を携えてやってきます―それで不確定性関係を打倒しようというのです。ボーアは哲学的なもやのなかから、アインシュタインが次々と打ち出す例を論破する道具を探しだしてきます。しかしアインシュタインは、あたかもびっくり箱の中から飛び出してくる人形のように、毎朝、新しくなって飛び出してきます。こういう議論の価値は計り知れません。しかしわたしはほとんど躊躇なくボーアに賛成し、アインシュタインには反対です」。それでもエーレンフェストはこう認めた。「しかし、アインシュタインと意見の一致をみるまでは、ボーアの心が休まることはないでしょう」
ボーアは後年、1927年のソルヴェイ会議でのアインシュタインとの対話は、「とても楽しい気分のなかで行われた」と語った。しかし彼は少し残念そうにこう言い添えた。「ものの見方や考え方には一定の違いが残った。なぜならアインシュタインは、連続性と因果律を捨てずとも、一見してまったく異質な経験を調和させるみごとな腕前があったので、その理想を捨てる気になれなかったのだろう。それに関して言えば、この新しい学問分野を探求するにあたって、日々新たに蓄積されている原子レベルの現象に関する多くの証拠を調和させるという差し迫った仕事をするためには、連続性と因果律を断念するしかないと考える者たちよりも思い切りが悪かったのだろう」。つまりボーアは、アインシュタインの収めた成功そのものが、彼を過去に縛りつけたと言っているのである。』
画像出展:「量子革命」
左がアインシュタイン、右がボーアです。1930年のソルヴェイ会議となっているので、第五回ではなく、第六回の時の写真ということになります。
画像出展:「量子革命」
右がアインシュタイン、左がボーアです。こちらの写真も第六回になります。
40.「コペンハーゲン解釈」という命名は1955年(28年後)
●イタリアのコモで開催された国際物理学会、そしてベルギーのブリュッセルでの第五回ソルヴェイ会議は1927年に開催されました。「コペンハーゲン解釈」は、それから28年後にハイゼンベルクが使った言葉でした。その中核にあったのは“相補性”であり“統合”を目指したアインシュタインにとっては納得できるものではありませんでした。しかし、アインシュタインは否定はせず、「とても繊細にまとめられている」という認識を持っていました。良くいえば包括的、悪いくいえば寄せ集め的だったかもしれませんが、不可思議なミクロの量子物理学を説明するにはこれが最善だったのだと思います。
『ボーアは、「コペンハーゲン解釈」という言葉を一度も使わなかったし、1955年にハイゼンベルクが使うときまで、誰もこの言葉を使っていない。しかし、初めはほんの一握りの熱狂的な支持者しかいなかったこの解釈は、その後すみやかに広がり、最終的にはほとんどすべての物理学者にとって、「量子力学のコペンハーゲン解釈」は、量子力学と同義語になった。この急速な、「コペンハーゲン精神」の広がりと受容の背景には三つの要素があった。ひとつは、ボーアと彼の研究所が果たした重要な役割である。若いポスドクの時代にマンチェスターのラザフォードの研究所に滞在したときの経験に触発されたボーアは、それと同じような活気―やればできるという感覚―にあふれた、自分自身の研究所を作ることに成功したのだ。
「ボーアの研究所はすみやかに量子物理学の世界的中心地となり、昔のローマ人たちの言葉をもじれば、「すべての道はブライダムスヴァイ十七番地に通ず」という状況だった」と語るのは、1928年の夏にそこを訪れたロシア人のジョージ・ガモフである。アインシュタインが所長を務めるカイザー・ヴィルヘルム理論物理学研究所は書物の上にしか存在せず、アインシュタインはそれでよいと思っていた。彼はたいていひとりで仕事をし、のちには計算をやってくれる助手をひとり雇っただけだったのに対し、ボーアは科学上の子どもたちをたくさん育て上げた。その中でも最初に卓越した権威としての地位にのぼったのは、ハイゼンベルク、パウリ、ディラックだった。後年、ラルフ・クロー二ヒが回想したところでは、この三人はまだ若かったが、ほかの若い物理学者たちがあえて彼らに反論することはなかった。クロー二ヒ自身、パウリにスピンというアイデアを馬鹿にされて、電子のスピンをしまい込んだのだった。
第二の要因として、1927年のソルヴェイ会議のころに、教授のポストにたくさん空きが出たことがある。その席のほとんどすべてを、量子力学という新しい物理学を作るために貢献した者たちが占めた。彼らが向かった研究所は、その後すみやかに、ドイツをはじめヨーロッパ中からもっとも優秀な学生を引き付けるようになる。シュレーディンガーはベルリンで、プランクの後継者というもっとも名誉ある地位に就いた。ソルヴェイ会議の直後に、ハイゼンベルクはライプツィヒ大学の正教授となり、理論物理学研究所の所長も兼任するようになった。その六カ月後の1928年4月には、パウリがハンブルクからチューリッヒに移り、スイス連邦工科大学の教授になった。パスクアル・ヨルダンの数学の力量は、行列力学を発展させるにあたって決定的に重要な役割を果たしたが、そのヨルダンがハンブルクでパウリの後任となった。まもなくハイゼンベルクとパウリは頻繁に行き来するようになり、助手や学生をお互いの研究室やボーアの研究所とで交換し、ライプツィヒとチューリッヒをともに量子力学の中心地にした。クラマースはすでにユトレヒト大学に着任していたし、ボルンはゲッティンゲンにポストを得ていた。かくしてコペンハーゲン解釈はすみやかに量子論の定説となったのである。
三つ目の要因として、ボーアと若い協力者たちは、それぞれ意見に違いがあったにもかかわらず、コペンハーゲン解釈に異議を唱える声に対してはつねに統一戦線を張ったことが挙げられる。唯一の例外が、ポール・ディラックだった。1932年9月に、ケンブリッジ大学でかつてアイザック・ニュートンが務めていた数学のルーカス教授職に着任したディラックは、量子力学の解釈問題にはついに関心を持たなかった。彼にはこの問題が、新しい方程式をもたらさない、つまらない執着のように思えたのだ。興味深いことに、彼は自分のことを数理物理学者と呼んだのに対し、同世代のハイゼンベルクやパウリも、またアインシュタインもボーアも、そう名乗ることは決してなかった。』
『ボーアの論文が英語とドイツ語とフランス語の三カ国語で出版された。英語版は「量子仮説と原子論の最近の発展」と題されて、1928年4月14日に刊行された。その脚注に、「本論文の内容は、1927年9月16日に、コモで開かれたボルタ記念会議で量子論の玄奘について行った講義と本質的に同じものである」とあった。しかし実を言えば、ボーアはその論文のために、コモでの講演とブリュッセルでの発言のどちらよりも、相補性と量子力学に関するアイデアをさらに練り上げていたのである。
ボーアはシュレーディンガーにその論文を一部送り、シュレーディンガーは次のように返信した。「もしもひとつの系、つまり質点を、そのp(運動量)とq(位置)を特定して記述したければ、そのような記述は限られた正確さでしかできないということですね」。だとすれば、そのような制約を受けないような新しい概念を導入する必要がある、とシュレーディンガーは論じ、こう結論した。「しかし、そのような概念的な枠組みを発明するのは非常に難しいということに疑問の余地はないでしょう。というのは―あなたがきわめて印象的に力説したように―そのような枠組みを新しく作るためには、われわれの経験のもっとも深いレベル―すなわち空間と時間と因果律―に触れずにはすまないからです」
ボーアはシュレーディンガーに、「一定の理解を示してくれたこと」には感謝するが、シュレーディンガーは古い経験的な概念を、「視覚化という人間の手段の基礎」と分かちがたく結びつけているので、量子論では「新しい諸概念」が必要だということが理解できていないように見える、と書いた。そしてボーアはふたたび持論を繰り返した。すなわち、問題は古典的な諸概念の適用可能性に多少とも恣意的な制限があるかどうかではなく、観測という概念を分析する相補性という不可避的な特徴が現れることなのだ、と。ボーアは最後に、この手紙の内容についてプランクやアインシュタインと議論してみてもらえないかと書いた。シュレーディンガーがアインシュタインに、ボーアとのやりとりのことを話すと、アインシュタインはこう述べた。「ハイゼンベルク=ボーアの心休まる哲学―というより宗教?―は、たいへん繊細に作り上げられているので、当面、真の信者には優しい枕になってくれるでしょう。信者はそのまどろみから容易には起きないでしょう。そのまま寝かしておきましょう」。』
28.数学的には等価だが物理的世界が異なる波動力学と行列力学
●一度は断念したシュレーディンガーによる二つの量子力学の関係を明らかにする研究は、ついに実を結びました。
『1925年の春が夏に変わろうとするころには、古典物理学においてニュートン力学が果たしたような役割を、原子物理学において果たすべき理論―量子力学―は、まだ存在していなかった。ところがその一年後には、粒子と波ほども性格の異なる、ふたつのライバル理論が存在していた。しかもそれらの理論を同じ問題に当てはめてみると、まったく同じ結果が得られたのだ。ひょっとすると、行列力学と波動力学のあいだには何か関係があるのでは? シュレーディンガーは、画期的な論文を書き終えた直後から、そのことを考えはじめた。彼は二週間ばかり、ふたつの理論の関係を探ってみたが、何も見出せなかった。「結局、それ以上探すのは諦めました」と、シュレーディンガーはヴィルヘルム・ヴィ―ンへの手紙に書いた。関係が見出せなくても、彼は少しも困らなかった。なにしろシュレーディンガーは、「自分の理論がぼんやり頭に浮かぶよりだいぶ前から、行列計算には耐えられないと思っていたから」だ。しかし結局、彼は両者の関係をさらに追及せずにはいられず、ついに三月の初めに、それを発見する。
形の上でも、内容という点でも大きく異なる二つの理論―一方は波動方程式を用いて波を記述し、他方は行列代数を用いて粒子を記述する理論―は、数学的には同じものだったのだ。両者がまったく同じ答えを与えたのも当然のことだった。まもなく、形のうえでは異なっても、互いに等価であるようなふたつの方程式があることの利点が明らかになった。物理学者が出会うほとんどすべての問題で、シュレーディンガーの波動力学のほうが容易に答えを与えてくれた。しかしそれ以外の側面、たとえばスピンが関係する問題では、ハイゼンベルクの行列のアプローチのほうが役に立つことが示されたのだ。
かくして物理学者の関心は、理論の数学的形式から、物理的解釈へと移っていった。ふたつの理論のどちらが正しいのかという、起こっても不思議はなかった論争は、起こる前に息の根を止められたのである。ふたつの理論は、数学的には等価かもしれないが、その背後にある物理的世界は大きく異なっていた―シュレーディンガーの波はなめらかで連続的なのに対し、ハイゼンベルクの粒子は飛び飛びで不連続なのだ。シュレーディンガーとハイゼンベルクはふたりとも、自分の理論のほうが自然の物理的世界の姿を正しく捉えていると堅く信じていた。しかし、それに関するかぎり、両方とも正しいということはありえなかった。』
29.波動力学の限界
●波動方程式はヘリウムやそれより重い原子に当てはめると視覚化は失われ、抽象的な多次元空間なってしまいます。また、光電効果やコンプトン効果を説明することができませんでした。物理学者でも苦労するような行列ですが、量子を幅広く説明するうえでは、ハイゼンベルクの行列力学の方が優れているようです。
『波動力学の波動関数は数学者のいう「複素数」なので、それを直接測定することはできない。複素数は、たとえ4+3iのように、実部と虚部をもつ。このとき実部は4で、普通の数である。虚部は3iである。このiには物理的な意味がない。なぜなら、それはマイナス1の平方根だからである。ある数の平方根とは、二乗したときにその数になるものだ。4の平方根は、2である。(2×2=4)。二乗してマイナス1になる数は存在しない。1×1=1だが、-1×-1もやはり1である。なぜなら、マイナス×マイナスはプラスだからだ。
波動関数を観測することはできない―波動関数は、見ることも触ることもできない観測不可能な雲のようなものだ。しかし複素数を二乗すれば、実験で測定できる量と結びついた実数になる。たとえば、4+3iを二乗すれば、25になる。シュレーディンガーは、電子の波動関数を二乗したもの、|ψ(x,t)|²は、場所xと時刻tにおける電荷の密度を表すと考えたのだ。
波動関数をそのように解釈することに関係して、シュレーディンガーは粒子の実在性に疑問を突きつけ、電子を表すために「波束」というものを導入した。電子を粒子と見なす立場には実験の強力な裏づけがあったにもかかわらず、シュレーディンガーは、電子は粒子のように「見える」だけで、じつは粒子ではないと論じたのである。粒子としての電子というイメージは幻想だ、と彼は考えた。現実の世界に存在するのは波だけであり、電子が粒子のように見えるのは、多数の物質波が重なり合い、波束を作っているからだ、と。空間を進む電子は、波束として進んで行く―ちょうど、一端を固定されたロープの他端を手に持ち、手首を動かして作ったパルスがロープを伝わって行くように。粒子状の波束ができるためには、その粒子に相当する小さな空間領域の外では、さまざまな波長の波が互いに干渉し、打ち消し合わなければならない。
粒子を諦め、すべてを波に還元することで、不連続性と量子飛躍の物理学を回避できるなら、それはシュレーディンガーにとって払う価値のある代償だった。しかしまもなく、彼の解釈は物理的に意味をなさないことが明らかになった。第一に、波束として表された電子は、バラバラに崩れてしまうのだ。もしもその電子を、粒子としてじっさいに検出されている電子と結びつけようとすれば、空間に広がった構成要素の波は、光の速度よりも速く進まなければならないことになる。
シュレーディンガーは、波束が崩れるのをなんとか食い止めようとしたが、手の打ちようがなかった。波速は、波長も振動数も異なるたくさんの波でできているため、それぞれの波が異なる速度で進み、波束はすぐに広がりはじめる。そのため、電子が粒子として検出されるときにはつねに、それぞれの波が瞬間的に一カ所に集中して波束にならなければならない―空間に広がっていたものが、一瞬のうちに、ある一点に局在しなければならないのだ。第二の問題は、波動方程式をヘリウムや、それより重い原子に当てはめようとすると、シュレーディンガーの数学の基礎にある視覚化しやすい世界は、抽象的な多次元空間へと消えてしまうことだった。
一個の電子の波動関数には、三次元の電子の波に関して知るべきことがすべて符号化されている。しかし、ヘリウム電子には、電子が二個含まれており、それらを表す波動関数は、普通の三次元空間のふたつの波ではなく、奇妙な六次元空間に生息するひとつの波になってしまうのだ。周期表の中で、ひとつの元素から次の元素へと順に進んでいくにつれ、電子は一個ずつ増えていく。そして電子が一個増えるたびに、新たに三つの次元が必要になる。そんなわけで、周期表の元素であるリチウムの波動関数は九次元空間を必要とし、ウランの波動関数ともなれば276次元もの空間に生息することになるのである。そういう抽象的な多次元空間の波は、シュレーディンガーが期待したような、連続性を回復させ、量子飛躍を駆逐してくれる物理的な実在の波ではありえなかった。
また、シュレーディンガーの解釈では、光電効果やコンプトン効果を説明することができず、そのほかにも、たとえば次のような問題に答えることができなかった。波束に電荷をもたせるにはどうすればよいのか? 波動力学は、純粋に量子的なものであるスピンを組み入れることができるのか? シュレーディンガーの波動関数が、日常的な三次元空間の中の波を表していないのなら、それはいったい何を表しているのだろうか? これらの問いに答えを与えたのがマックス・ボルンだった。』
30.古典的確率とは異なる量子的確率を使って波と粒子を統合する方法
●ボルンにとって量子の粒子性を否定することはできませんでした。それはゲッティンゲンで行われていた原子同士を衝突させる実験を通して、「粒子という概念の豊かさ」を実感していたからです。
『シュレーディンガーが、粒子性と量子飛躍は認められないと論じている点は、ボルンは到底受け入れるわけにはいかなかった。彼はかねてから、ゲッティンゲンで行われていた原子同士を衝突させる実験を見ており、「粒子という概念の豊かさ」を実感していたからだ。ボルンは、シュレーディンガーの方程式が優れていることは認めたものの、彼の解釈は受け入れなかった。ボルンは1926年の末に、「シュレーディンガーの形式だけを残して、そこに何か新しい物理的内容を盛り込むためには、彼の物理的描像はすっかり捨て去らなければなりません。彼の描像は、古典的な連続の理論を復活させようとするものです」と述べた。「おいそれと粒子を捨て去るわけにはいかない」と確信していたボルンは、波動関数の新しい解釈を考えるなかで、確率を使って波と粒子を統合する方法を見出すのである。』
画像出展:「量子論を楽しむ本」
『ニュートンの宇宙は完全なる決定論の世界であり、そこに偶然の出る幕はない。そのような宇宙では、粒子は与えられた任意の時刻に、はっきりとした運動量と位置をもっている。粒子の運動量と位置が時間とともにどう変わるかは、その粒子に作用する力によって決まる。』
『あらゆることが自然法則に従って進展する決定論的宇宙において確率が顔を出すとすれば、それは人間の無知の反映だった。もしも任意の系で、その系の現在における状態と、その系に作用する力が完全にわかっているなら、未来においてその系に起こることはすべて決定される。古典物理学における決定論は、すべての作用には原因があるという「因果律」の母体と、へその緒でつながっているのだ。
二個のビリヤードの玉が衝突するように、電子が原子に衝突すれば、その電子はあらゆる方向に散乱される可能性だある。しかし電子とビリヤードの玉との類似性が成り立つのはそこまでだ、とボルンは述べて、驚くべき主張をした。原子レベルの衝突に関して、物理学に答えることができるのは、「衝突後の状態はどうなるのか?」という問いではなく、「その衝突の結果として、所定の結果になる可能性はどれだけあるのか?」という問いだというのである。「かくして決定論という大問題が持ち上がる」と、ボルンは自ら認めた。衝突の後で、電子が正確にどこに存在するのかを知ることはできない。物理学者にできるのはただ、電子がある角度に散乱される確率を計算することだけだ、とボルンは述べた。それがボルンの言う「新しい物理的内容」であり、彼の波動関数解釈はすべてそこにかかっていた。
波動関数そのものには物理的実在性はない。波動関数は、ぼんやりとした不思議な可能性の領域に存在している。波動関数は、たとえば原子と衝突した電子が散乱されるかもしれない角度をすべて足し合わせたような、抽象的な可能性を表しているのだ。そのような可能性と確率とのあいだには、大きな違いがある。ボルンは、波動関数を二乗したもの―複素数ではなく実数―は、確率の領域に存在していると論じた。波動関数を二乗しても、たとえば、電子のじっさいの位置が得られるわけではない。それが教えてくれるのは、電子がどこに見出されるかの確率だ。もしも電子の波動関数の値が、場所Yでよりも、場所Xでのほうが二倍大きいとすると、電子がXに見出される確率は、Yに見出される確率よりも四倍大きい。しかし、その電子はXに見出されることもあるし、Yや、それ以外の場所に見出されることもある。』
『自分[ボルン]が物理学に持ち込んだ確率は、従来のものとはまったく異なるということにボルンが十分に納得するまでには、ふたつの論文のあいだに流れた十日間という時間が必要だったのだ。その奇妙な「量子的確率」は、情報の不足から生じ、それゆえ理論上は取り除くことができる古典的確率とは別のものである。それは原子の領域にどこまでもついてまわる性質なのだ。たとえば、放射性物質の内部で、放射性原子がいずれ崩壊するのは確実だが、個々の原子がいつ崩壊するかを予測することができない。それは情報が足りないために予測できないのではなく、放射性崩壊を支配する量子的なルールが確率的性質をもつためなのである。』
31.アインシュタインとハイゼンベルク
●1926年4月28日、ハイゼンベルクはベルリン大学での物理学談話会(コロキウム)の後、アインシュタインに「うちに来ないか」と誘われました。
『講義机にノートを広げ、黒板の前に立ったハイゼンベルクはカチカチに緊張していた。才気あふれる二十五歳の物理学者が硬くなるのも無理はなかった。1926年の4月28日水曜日、彼はベルリン大学の有名な物理学談話会(コロキウム)で、行列力学に関する講義をしようとしていたのだ。ミュンヘンやゲッティンゲンがどれだけの成果を挙げていようと、ハイゼンベルクがいみじくも「ドイツ物理学の牙城」と呼んだのはベルリンだった。聴衆を見渡しながら、ハイゼンベルクは最前列に並んだ四人のノーベル賞受賞者に目を止めた―マックス・フォン・ラウエ、ヴォルター・ネルンスト、マックス・プランク、そしてアルベルト・アインシュタインの面々である。
「そんなにたくさんの有名人と会える初めての機会」にどれほど緊張していたにせよ、「当時としてはかなり型破りな理論の基本的概念と数学的基礎について、わかりやすく説明」できたと我ながら思えるような話をするうちに、ハイゼンベルクの緊張はすぐにほぐれていった。講義が終わり、聴衆がバラバラと帰りはじめたころ、アインシュタインがハイゼンベルクに声をかけ、これからうちに来ないかと誘った。ハーバーラント通りを三十分ばかり歩きながら、アインシュタインがハイゼンベルクに尋ねたのは、家族のことや教育のこと、それまでの研究のことだった。いよいよ本題の議論が始まったのは、アインシュタインの家に着いて、ふたりがゆったり椅子に腰を下ろしてからのことだ。』
32.アインシュタインにとっての行列力学
●量子物理学の歩みにおいて、アインシュタインは時に要所要所に存在する関所のような大きな存在だったようです。また、相対性理論の中でアインシュタイン自身が選択したものではありましたが、「観測可能な量だけからなる理論を見つけようとするのは、完全に間違っている」という考えは揺るぎないものでした。
『ハイゼンベルクの回想によれば、アインシュタインは、「きみの最近の仕事の、哲学的な前提」について尋ねたいと切り出した。「きみは原子の内部に電子が存在すると仮定しているが、それはおそらく正しいだろう」とアインシュタイン。「しかし、霧箱の中に電子の軌跡が見えてもなお、きみは軌道というものを認めないと言うのだね。なぜそんなおかしなことを言い出すのか、その理由をもう少し詳しく聞かせてもらえるだろうか?」。ハイゼンベルクにとってはチャンス到来だった。彼は、この四十七歳の量子論の大家を説得して、なんとか味方に引き入れたいと思っていたのだ。
「われわれは原子内の電子の軌道を見ることはできません」と、ハイゼンベルクは説明を始めた。「しかし放電現象では原子が放射を出しますから、そこから原子内電子の振動数と、それに対応する振幅を導き出すことはできます。そしてハイゼンベルクは持論を開陳しはじめた。「良い理論は、直接的に観測可能な量にもとづかなければならないのですから、電子の軌道の代わりに、振動数と振幅だけを使ったほうがよいと思ったのです」。アインシュタインはそれを聞いてこう言った。「しかし、物理理論には観測可能な量だけしか入ってこないなどと、本気で思っているわけではないだろう?」。それはハイゼンベルクが新しい力学を作る際に、基礎としたものを直撃する問いだった。ハイゼンベルクは驚いてこう聞き返した。「でも、それはあなたが相対性理論を作ったときに基礎とした考え方そのものではありませんか?」
アインシュタインは微笑んでこう言った。「うまい手は二度使っちゃいけないよ」。「たしかに、わたしはその考え方を使ったかもしれない」と彼は認めた。「それでもやはり、そんなものは馬鹿げた考えなのだ」。何がじっさいに観測できるかを考えてみることは、発見法的には役に立つかもしれないが、原理的な観点からは、「観測可能な量だけからなる理論を見つけようとするのは、完全に間違っている」とアインシュタインは言った。「なぜなら事実はその逆だからだ。何が観測可能かを決めているのは、理論なのだよ」。アインシュタインは何を言わんとしているのだろうか?
それよりおよそ百年前の1830年、フランスの哲学者オーギュスト・コントは、いかなる理論も観測に立脚しなければならないが、われわれの頭脳は観測を行うために理論を必要としてもいると論じた。アインシュタインは、観測というものは一般にきわめて複雑なプロセスであり、理論に使われている現象についての仮説もからんでくるということを説明しようとした。「観測している現象は、測定装置の内部で何らかの反応を引き起こす。その結果として、装置内でさらに別のプロセスが起こり、複雑な道筋を経て、最終的には知覚的な印象を生じさせ、われわれの意識に結果を定着させるわけだ」。その結果がどのようなものになるかは、どんな理論を使うかによる、とアインシュタインは言うのだ。「きみの理論にしたって、振動する原子から光が飛び出し、その光が分光器や観測者の目に届くまでのメカニズムは、誰もが仮定するように、やはり本質的にはマクスウェルの法則に従うと仮定しているわけだろう。もし、それすらも仮定しないというなら、きみが観測可能だと言っている量はすべて、そもそも観測できないのだから」。アインシュタインはたたみかけた。「つまり観測可能な量しか持ち込んでいないというきみの主張は、きみが定式化しようとしている理論の性質に関する、ひとつの仮説なのだよ。」のちにハイゼンベルクは、「アインシュタインのその意見には完全に意表を突かれたが、彼の議論には説得力があると思った」と述べている。』
『アインシュタインを説得できずに落胆しつつ辞去するとき、ハイゼンベルクは決断を下さなければならない案件を抱えていた。それから三日後の5月1日には、彼はコペンハーゲンにいる予定になっていた―ボーアの助手とコペンハーゲン大学の講師という、ふたつの仕事が始まるからだ。しかしつい最近、ハイゼンベルクはライプツィヒ大学から正教授として招聘されたのだ。彼のような若輩者にとって、正教授という申し出は非常に名誉なことだったが、はたしてその招きを受けるべきだろうか? ハイゼンベルクはアインシュタインに、この難しい選択のことを話した。ボーアのところに行って、彼といっしょに仕事をしなさい、というのがアインシュタインのアドバイスだった。翌日、ハイゼンベルクは、ライプツィヒからの申し出は断るつもりだと両親に手紙を書いた。「よい論文を書き続ければ、これからもお呼びはかかるでしょう。もしそうでなかったなら、もともと自分にはその価値がなかったということです」。』
33.ボーアとハイゼンベルク(量子の世界のあいまいさの核心、波と粒子の二重性の問題)
●昔の日本の師匠と弟子のような関係だったボーアとハイゼンベルクにとって、最大の問題は古典物理学では考えられない「波と粒子が同時に存在すること」でした。ハイゼンベルクにとって数学を中心に組み立てた理論である行列力学は絶対的なものでしたが、ボーアは波動力学も重要であり、数学の背後にある物理を理解することを優先しました。「原子レベルのプロセスを完全に記述する理論、その理論の内部で粒子と波が同時に存在できるようにするための方法を見つけなければならない」と確信していたボーアにとって、粒子と波という互いに相容れない概念を調停することが、矛盾のない量子力学の物理的解釈へと続く扉を開けるための鍵と考えていました。
『1926年の5月半ば、ボーアはラザフォードへの手紙にこう書いた。「ハイゼンベルクがこっちに来ました。われわれは暇さえあれば、量子論の新展開や、この理論の大きな可能性について講論しています」。ハイゼンベルクはボーア研究所の、「壁が斜めになった小さな屋根裏部屋」に住み込んだ。部屋の窓からは緑のフェレズ公園が見えた。ボーア一家は、研究所に隣接する広々として豪華な所長邸に移っていた。ハイゼンベルクはしょっちゅうボーア邸に行っていたので、まもなく「ボーア家の人たちといっしょにいるのが当たり前のように」なった。』
『「ボーアは、われわれを苛んでいた量子論の困難について議論しようと、夜も更けてからわたしの部屋に来るのでした」とハイゼンベルクは語っている。ふたりが何より頭を痛めたのは、波と粒子の二重性だった。アインシュタインはその二重性をめぐる状況を、エーレンフェストへの手紙に次のように書いた「片手に波、もう片手には粒子! その両方が実在していることは岩のように堅い事実です。そして悪魔はそれを詩にするのです」
古典物理学では、記述すべき対象は粒子または波であって、その両方ということはありえない。ハイゼンベルクは粒子を使い、シュレーディンガーは波を使って、異なるバージョンの量子力学を発見した。行列力学と波動力学が数学的には等価であることが示されても、波と粒子の二重性について理解が深まったわけではなかった。問題は、次の疑問に答えられる者がいないことだ、とハイゼンベルクは言った。「電子は今このとき、波なのだろうか、それとも粒子なのだろうか? そして、わたしがこれこれの働きかけをしたとき、電子はどんな振る舞いをするのだろうか?」。ボーアとハイゼンベルクが、波と粒子の二重性について懸命に考えれば考えるほど、ますます謎は深まるように思われた。』
『ハイゼンベルクはそのころのことを、後年、次のように回想した。「われわれの対話はしばしば真夜中過ぎまで続いた。そうやって何カ月も頑張ったにもかかわらず満足の行く結果が得られなかったので、ふたりとも消耗し、ピリピリした雰囲気になっていった」。ボーアはもう限界だと判断し、1927年2月に四週間の休暇をとり、ノルウェーのグドブランスダールにスキー旅行に出かけることにした。ハイゼンベルクはそれを、「絶望的に難しい問題について、ひとりでじっくり考えるチャンス」と受け止め、ボーアの出発を内心うれしく見送った。最大の問題は霧箱の中の電子の軌跡だった。』
画像出展:「アインシュタイン ロマン3」
34.ハイゼンベルクの不確定性原理
●ハイゼンベルクは与えられた任意の時刻に、粒子の位置と運動量の両方を正確に測定することは量子力学によって禁じられていることを発見しました。そして、「何が観測でき、何が観測できないのかを決めているのは、理論だ」と考えました。
『ある晩遅く、研究所の小さな屋根裏部屋で仕事をしていたハイゼンベルクが、行列力学によれば存在しないはずの電子の軌跡が霧箱の中に見えるという謎について考えていると、思考がふらふらと彷徨いだした。すると突然、「何が観測できるかを決めているのは、理論なのだ」というアインシュタインの言葉が、こだまのように聞こえたのだ。自分は今、何かを掴みかけていると感じたハイゼンベルクは、頭をはっきりさせなければと思い、とうに真夜中を過ぎていたにもかかわらずフェレズ公園に散歩に出かけた。
ほとんど寒さも感じないまま、彼の考えはしだいに、霧箱に残された電子の軌跡とは実のところ何なのかという問題に絞られていった。後年、彼はそのときのことを次のように語った。「これまであまりにも安易に、霧箱の中では電子の軌跡が見えると言ってきた。しかしおそらくわれわれは、それほどのものは見ていないのだ。現実にわれわれが見ているのは、電子よりずっと大きいことのたしかな水滴の列にすぎないではないか」。こうしてハイゼンベルクは、なめらかにつながった軌跡は存在しないという確信を得た。彼とボーアは、問題の立て方を間違っていたのだ。問うべきは次のことだった。「電子がおおよそある場所にあって、おおよそある速度で移動しているという事実を、量子力学は記述できるのだろうか?」
急いで机に戻ったハイゼンベルクは、いまやすっかり手の内に入った数式をあれこれいじりはじめた。どうやら量子力学は、情報や観測可能性に制限を課しているらしかった。しかし量子力学は、観測できるものと観測できないものをどうやって決めているのだろう? その答えが不確定性原理だった。
ハイゼンベルクは、与えられた任意の時刻に、粒子の位置と運動量の両方を正確に測定することは量子力学によって禁じられていることを発見したのである。電子の位置は測定できるし、電子の速度も測定できるけれども、その両方を同時に測定することはできない。どちらか一方を正確に知れば、自然はその代償として、他方に関する情報をあいまいにする。量子の世界にはある種の駆け引きがあって、一方が正確に測定されればされるほど、それだけ他方に関する情報や予測はあいまいになるのだ。ハイゼンベルクは、もしも自分の考え通りなら、不確定性原理によって課される限界を超えて量子の世界を正確に知ることは、いかなる実験によってもできないことを悟った。もちろん、その主張の正しさを「証明する」ことは不可能だが、実験に含まれるあらゆるプロセスが「量子力学の法則に従うはずである以上」、そうでなければならないとハイゼンベルクは確信した。
彼はそれから数日間、不確定性原理―彼の好んだ呼び方によれば、「不決定性原理」―がたしかに成り立っているかどうかを調べることに専念した。ハイゼンベルクは頭の中の実験室で、不確定性原理によれば許されない正確さで、位置と運動量を同時に測定できそうな「思考実験」を次から次へと考え出した。しかし、考えついたかぎりの例で計算してみても、不確定性原理は破れなかった。とくに、あるひとつの思考実験をやってみたとき、「何が観測でき、何が観測できないのかを決めているのは、理論だ」ということを証明できたという手ごたえを得た。』
35.不確定性原理を表す式、ΔpΔp≧h/2πとΔEΔt≧h/2π
●ハイゼンベルクは二つの式の発見でジグゾーパズルは完成したと考えました。そして、その式は量子力学と古典力学の間に横たわる深くて根本的な違いを暴露するものでもありました。
『ハイゼンベルクは、ΔpとΔp(Δはギリシャ文字のデルタ)を、運動量と位置について得られる値の「あいまいさ」とすると、ΔpとΔpの積はつねにh/2π以上になることを示すことができた。その式で表せば、hをプランク定数として、ΔpΔp≧h/2πとなる。これが不確定性原理、すなわち、位置と運動量の「同時測定に関する不正確さ」の数学的表現である。ハイゼンベルクはもうひとつ、いわゆる「互いに共役な変数」であるエネルギーと時間の「不確定性関係」も見出した。ΔEを、系のエネルギーEを求める際のあいまいさ、Δtを、Eを観測した時間tのあいまいさとすると、ΔEΔt≧h/2πとなる。
当初、不確定性原理が成り立つのは、実験装置が技術的に未熟だからだろうと考える人たちがいた。いずれ装置が改良されれば、不確定性は消滅するだろう、と。そんな誤解が生まれたのは、不確定性原理の意味を明らかにするために、ハイゼンベルクが思考実験を使ったためだった。しかし思考実験とは、理想的な条件のもので、完璧な装置を用いて行う架空の実験である。ハイゼンベルクが発見した不確定性は、現実の世界に本来的に備わっている性質なのだ。原子レベルの世界で観測可能な量について、プランク定数の大きさにより規定され、不確定性関係により課される正確さの限界は、装置をどれだけ改良しても決して消滅することはない、とハイゼンベルクは述べた。この驚くべき発見の名前としては、「不確定性」や「不決定性」よりも、「不可知性」(unknowable)というほうがふさわしかったかもしれない。』
◇不可知性:人間のあらゆる認識手段を使っても知り得ないこと。
36.波と粒子の二重性を受け入れるための相補性
●ボーアにとっては波と粒子の二重性こそが量子の世界のあいまさの核心と考えており、シュレーディンガーの波束をハイゼンベルクの新しい原理と結びつけて考えていました。そのため、ハイゼンベルクの粒子と不連続性だけに立脚したアプローチには懐疑的でした。そして、ハイゼンベルクが不確定性関係に没頭していたとき、ボーアは「相補性」を思いついていました。
『ハイゼンベルクがコペンハーゲンで不確定性関係の意味を探ることに没頭していたとき、ボーアはノルウェーのゲレンデで「相補性」を思いついていた。それは彼にとって、単なるひとつの理論や原理ではなく、量子の世界の奇妙な性質を記述するために必要な、それまで欠けていた概念的枠組みだった。波と粒子の二重性という矛盾した性質は、相補性という枠組みの中にうまく収まりそうだった。電子と光子―つまり物質と放射―がもつ波と粒子というふたつの性質は同じひとつの現象の排他的かつ相補的なふたつの側面であり、波と粒子は一枚のコインの裏と表なのだ、とボーアは考えた。
相補性は、波と粒子という、古典的にはまったく異質なふたつの記述方法を、非古典的な世界を記述するために使わなければならないせいで生じた困難を、きれいに迂回するものだった。ボーアによれば、量子的な世界を完全に記述するためには、波と粒子の両方が必要不可欠であり、どちらか一方だけでは不完全な記述しかならない。光子と波はそれぞれ光について異なる絵を描き、それらふたつの絵は隣り合わせに壁に掛けてある。しかし、矛盾を避けるために制限が課されている。与えられた任意の時刻にわれわれに見ることができるのは、ふたつの絵のどちらか一方だけなのである。どんな実験を行っても、粒子と波が同時に見えることはない。ボーアは次のように主張した。「異なる条件のもとで得られた証拠は、一方の絵の中だけで理解することはできず、現象の総体のみが対象について得られる情報を尽くすという意味において、相補的なものとして捉えなければならない」
ボーアがその新しいアイデアに手ごたえを得たのは、ふたつの不確定性関係ΔpΔp≧h/2π、ΔEΔt≧h/2πに、波と連続性を嫌悪するハイゼンベルクには見えなかったものを見たときだった。プランク=アインシュタインの式 E=hvと、ド・ブロイの式p=h/λには、波と粒子の二重性が体現されている。エネルギーと運動量は粒子的な量なのに対し、振動数と波長は波の性質だ。つまりどちらの式にも、粒子の性質を記述する変数と、波の性質を記述する変数の、両方が含まれているのである。ひとつの式に、粒子と波の両方の性質が含まれていることがボーアには腑に落ちなかった。なんといっても粒子と波は、物理的に似ても似つかないものなのだから。
ボーアは、ハイゼンベルクの顕微鏡の思考実験の分析の間違いを正したとき、それと同じことが不確定性関係についてもいえることに気がついた。それに気付いたことでボーアは、相補的かつ排他的な古典的概念(粒子と波動、運動量と位置など)が、量子の世界でどこまで同時に矛盾せずに通用するかを教えているのが不確定性関係だ、という解釈に導かれたのだった。
また、不確定性関係は、エネルギー(不確定性関係の式の中のE)と運動量(p)の保存法則にもとづく記述(ボーアの言葉では「因果的記述」)と、空間(q)と時間(t)の中で出来事を追跡する記述(「時空的」記述)のどちらか一方を選ばなければならないことも意味していた。これらふたつの記述は、考えられるかぎりの実験を説明する際には、互いに排他的、かつ相補的な関係にあった。そこで、位置と運動量のような、互いに相補的な観測可能量を同時に測定しようとしたり、互いに相補的なふたつの記述を同時に用いたりすることには、自然界に本来的にそなわる限界があるのだ、とボーアは考えた。』
画像出展:「陸上競技の理論と実践」
相補的を説明する例としては、「位置と運動量の関係」があると思います。
『ハイゼンベルクは、「粒子」、「波」、「位置」、「運動量」、「軌跡」といった古典的な概念は、原子の領域ではどこまでも無制限に使うことはできないと考えたのに対し、ボーアは、「実験データの解釈は、本質的に古典的な概念によらなければならない」と考えていた。また、ハイゼンベルクは、これらの概念は操作的に定義されなければならない(測定を介して定義されなければならない)と考えたのに対して、ボーアは、それらの概念の定義は、古典物理学でどのように使われているかによって初めから決まっていると考えていた。さかのぼって1923年のこと、ボーアは次のように書いた。「自然のプロセスに関する記述はすべて、古典物理学の理論によって導入され、定義された概念に立脚しなければならない」。不確定性原理がどんな限界を課そうとも、理論の成否は実験によって検証され、データ、論証、解釈は、すべて古典物理学の言葉と概念によって行われるという単純な理由から、古典的概念を別のもので置き換えることはできない、というのがボーアの考えだった。』
『ボーアは電子と光線、すなわち物質と放射を観測するときに、粒子と波、どちらの面が現れるかはどんな実験を行うかによると考え、それについては一歩も譲るつもりはなかった。粒子と波は、基礎となるひとつの現象の相補的かつ排他的なふたつの側面なのだから、現実の実験であれ思考実験であれ、両方の面が同時に現れることはありえない。ヤングの有名な二重スリット実験のように、実験装置が光りの干渉を見るようにデザインされている場合には、波としての光の性質が現れるし、光線を金属表面に照射して光電効果を調べるためにデザインされた実験では、粒子としての光の性質が現れる。光は波なのか、粒子なのかと問うことには意味がない。量子力学においては、光の「正体」を知るすべはない。意味のある質問はただひとつ、光は粒子として「振る舞う」のか、それとも波として「振る舞う」のかということだ。そしてその質問に対しては、「実験の選び方によって、粒子として振る舞うこともあれば、波として振る舞うこともある」と答えることになる、というのがボーアの考えだった。』
ご参考:Youtube“【スピリチュアルに騙されるな】量子力学と二重スリット実験【宇宙の真理】”(6分40秒~19分17秒に二重スリット実験について解説されています。内容は高度ですが凄い動画です)
19.古典物理学からの解放
●ボーアから教えられるかぎりのことを学んだハイゼンベルクは、多くの物理学者が踏み込めなかった量子的な概念は、慣れ親しんだ古典物理学の束縛から解放されることこそが、前進する鍵であることに気づきました。
『1924年9月17日にボーアの研究所に戻ったとき、22歳のハイゼンベルクは、量子物理学に関する単著または共著の優れた論文をすでに十篇以上も発表していた。彼は、自分にはまだ学ぶべきことがたくさんあり、それを教えてくれる人物としてボーア以上の適任者はいないことを知っていた。ハイゼンベルクは後年、「ゾンマーフェルトからは楽観的であることを学び、ゲッティンゲンでは数学を学び、ボーアからは物理学を学んだ」と述べた。ハイゼンベルクはそれからの七カ月間、量子論の困難を克服するためにボーアが採っていたアプローチをみっちりと教え込まれる。ゾンマーフェルトとボルンも同じ矛盾と困難に悩まされていたが、両者とも、ボーアほど四六時中その問題ばかり考えていたわけではなかった。それに対してボーアは、口から出るのは量子のことばかりというほど、この問題に没頭していたのである。
ボーアと徹底的に議論するなかでハイゼンベルクが思い知ったのは、「さまざまな実験結果を統一的に解釈することの難しさ」だった。たとえばコンプトン散乱もそのひとつだ。それは電子がエックス線を散乱させる現象で、アインシュタインの光量子仮説を支持する結果が得られていた。さらにド・ブロイが、波と粒子の二重性は、光だけでなく、あらゆる物質にまで拡張されると言い出したために、実験の解釈は何倍も難しくなったように思われた。教えられるかぎりのことをハイゼンベルクに教え込んだボーアは、この若い弟子に絶大な期待をかけた。「この苦境から脱出する道を見出すために必要なことはすべて、いまやハイゼンベルクの手中にあります」
1925年4月の末に、ハイゼンベルクはボーアの親切に感謝し、「これから先、ひとり寂しく研究を続けていかなければならないと思うと悲しいです」と言って、ゲッティンゲンに帰っていった。しかし彼は、ボーアとの議論、そしてその後も続いたパウリとの対話から、ひとつ非常に重要なことを学んだ―何か、とても基本的なものを捨てなければならないということだ。ハイゼンベルクは、水素原子の線スペクトルの強度という長年の未解決問題に取り組むうちに、何を捨てればよいのかがわかった気がした。ボーア=ゾンマーフェルトによる原子の量子論を使えば、水素の線スペクトルの振動数を説明することはできたが、その明るさ、つまりスペクトルの強度は説明できないと考えた。水素原子の原子核の周囲をめぐる電子の軌道は、観測することができない。そこでハイゼンベルクは、「原子核の周囲を軌道運動している電子」という、慣れ親しんだイメージを捨てることにした。それは大胆な一歩だったが、彼にはその道に踏み出す心の準備ができていた。ハイゼンベルクは以前から、観測できないものを絵に描いて示すというやり方が嫌いだったのだ。』
『ハイゼンベルクがこの新しい戦略を採るより一年以上も早く、パウリはすでに電子軌道という概念に疑問を突き付けていた。「一番重要な問いは、はっきりと規定された電子軌道について、どこまで語りうるのかということだと思います」と、彼は1924年2月にボーアへの手紙に書いた。この引用文の強調は、パウリ自身によるものである。彼はこのときすでに、排他原理へと続く道のりをだいぶ先まで進んでいたし、電子の殻が閉じるということの意味も考え抜いていた。そして同じ年の十二月にボーアに宛てた別の手紙のなかで、パウリは自分が提示した問題に、すでに次のような答えを与えていたのである。「原子をわれわれの偏見の鎖につなぐべきではありません。電子に普通の力学でいうような軌道があるという仮説も、そんな偏見のひとつだというのがわたしの考えです。量子的な概念を、慣れ親しんだ古典物理に合わせようとするのはやめなければならない。物理学者は自由にならなければならない、とパウリは言うのだ。最初にその妥協をやめたのが、ハイゼンベルクだった。彼はプラグマティックな観点から、科学は観測できることにもとづくべきだという実証主義の立場に立ち、観測可能な量だけを使って理論を作ることにしたのである。』
20.観測可能な量だけを使って作った理論
●ハイゼンベルクの花粉症は重症でした。その難敵である花粉のない島がヘルゴラント島です。ここでハイゼンベルクは誰もが待ち望んだ量子力学の扉を開けました。
『七十歳のハイゼンベルクは当時を回想して語った。その宿舎は、赤い砂岩が削られてできた、島の南端にある崖の近くにあった。三階の部屋のバルコニーからは、眼下に広がる村と海岸線を思い出しては、繰り返しそれについて考えた。ゲーテを読んでくつろいだり、小さなリゾート地で日課のように散歩や水泳をしたりするうちに、彼は内省的な気分になっていった。そうこうするうちに体調もだいぶ落ち着き、注意を散らすようなものがほとんどないなか、やがてハイゼンベルクの思索は原子物理学の問題へと戻っていく。ヘルゴラント島では、このところ彼に付きまとっていた暗い気分も消えていた。ゲッティンゲンから背負ってきた数学の重荷をあっさり投げ捨てると、彼はのびのびとした気分で、線スペクトルの強度の謎について考えはじめた。
ハイゼンベルクは、量子化された電子の世界を記述する新しい数学を探すにあたり、電子がエネルギー準位間を瞬間的にジャンプするときに生じる線スペクトルの、振動数と相対強度だけに焦点を合わせることにした。選択の余地はなかった。原子の内部で起こっていることについて教えてくれるデータは、そのふたつしかなかったのだ。量子飛躍という言葉が喚起するイメージとは裏腹に、電子がエネルギー準位間を遷移するときには、わんぱく坊主が塀の上から道路に飛び降りるときのように、空間を移動するわけではない。ある場所にいた電子が、次の瞬間、別の場所に現れるのだ―その中間のどこも通らずに、ハイゼンベルクは覚悟を決めて、観測可能な量と、それらに結びついたものすべては、電子がエネルギー準位間を遷移するときに行う量子飛躍という不思議な手品によって生じるのだと考えて納得することにした。かくして、電子が原子核のまわりを軌道運動しているという、太陽系のミニチュアのようなわかりやすい原子像は消滅した。
ヘルゴラント島という花粉のない天国で、ハイゼンベルクは、電子が行う可能性のあるすべての飛躍―状態から状態への遷移―を書き表すにはどうすればよいだろうかと考えた。エネルギー準位に関係して観測可能な量のそれぞれについて、ジャンプによって生じる変化を追跡するために彼が考えついた唯一の方法は、数を縦横に並べた表を使うことだった。』
『ニュートン力学で観測できる量にはさまざまあるが、ハイゼンベルクがその中で最初に考えたのは、電子の軌道だった。原子核からはるか遠くに離れたところで、一個の電子が軌道運動しているものとしよう―太陽系でいうなら、それは水星というより、むしろ冥王星に近い。ボーアが定常軌道という概念を持ち込んだのは、電子がエネルギーを放出しながら螺旋を描いて原子核に墜落するのを食い止めるためだった。しかしその電子の定常軌道が古典物理学で導かれたものと一致するためには、原子核からはるか遠くに離れたところで軌道運動している電子の軌道振動数(1秒間に軌道をめぐる回数)は、その電子が放出する放射の振動数に一致しなければならない。
これは突飛な思いつきではなく、対応原理―量子の領域と古典的な領域とのあいだにボーアが架けた概念的な橋―を巧みに応用した結果だった。ハイゼンベルクが想定した電子軌道はとても大きかったので、量子の世界と古典的な世界との境界線上にあった。ふたつの世界のあいだに引かれたその境界線上では、電子軌道の振動数は、電子が放出する放射の振動数に等しいはずなのだ。ハイゼンベルクは、原子内にあるそのような電子は、スペクトルのあらゆる振動数を生み出すことができる仮想的な振動子に似ていることを知っていた。マックス・プランクは四半世紀前に、それとよく似たアプローチを使ったのだった。しかし、プランクは恣意的な仮定を置き、正しいことがわかっていた式を力づくで導いたのに対し、ハイゼンベルクは、古典物理学の見慣れた風景につながるはずだという、ボーアの対応原理に導かれていた。いったん振動子を考えてしまえば、ハイゼンベルクは、その運動の特徴―運動量p、平衡の位置からの変異q、そして振動数―を計算することができた。振動数部vmnをもつ線スペクトルは、さまざまな振動子のうちの、どれかひとつによって放出されるはずだ。ハイゼンベルクは、量子的なものと古典的なものとが出会う、その中間地帯を詳しく調べて得られた結果は、原子の内部という未知の領域を探索するために利用できることを知っていたのだ。
ヘルゴラント島でのある夜遅く、突如として、ジグゾーパズルのピースが合いはじめた。観測可能な量だけを使って作った理論は、すべてのデータを再現してくれそうだった。しかしその理論では、エネルギー保存則は成り立つのだろうか? もしもエネルギー保存則を破っていれば、その理論はトランプの家のように崩れ落ちてしまう。自分の理論が、物理的にも数学的にも矛盾がないことを証明できるまであと一歩というところで、24歳の物理学者は、興奮と緊張のあまり、計算をチェックしながら単純なミスを繰り返すようになった。物理学の基本法則のひとつであるエネルギー保存則がたしかに成り立っていると彼がペンを置いたのは、夜中の三時ころだった。彼は点にも昇る心地だったが、動揺もしていた。後年、ハイゼンベルクはそのときのことを次のように語った。「はじめからわたしは、これは大変なことになったと思った。原子的な現象という上辺から、なんとも形容しがたい、美しい内部を覗き込んでいるような気がしたのだ。自然がこれほどまでに気前よくわたしの目の前に広げて見せてくれた、この豊かな数学的構造を、これから詳しく探っていかなければならないと思うと、めまいがするほどだった」。気持ちが高ぶってとても眠れそうになかったので、彼は夜明け前に、ヘルゴラント島の南端に向かって歩き出した。そこには海に突き出した岩があり、何日も前から登ってみたいと思っていたのだ。発見は興奮で吹き出したアドレナリンにエネルギーを注がれるようにして、彼は「たいした苦労もなくその岩によじ上り、太陽が昇ってくるのを待った」。』
画像出展:「MEISTERDRUCKE」
(The Grand Staircase, Helgoland, Germany, Photochrome Print, c.1900)
ボーアから全てを託されたハイゼンベルクが、ヘルゴラント島で発見したものは、量子力学の扉を開けた歴史的出来事だったように思います。
世界はひとつ、重力力学はふたつ。その答えは二つを見渡す境界線にあり、【波】(古典)と【粒】(量子)の構造はコインの裏表のように一体型とのことです。
生命の進化を淘汰とみれば、合理性や最適化が重要だと思います。重力力学が2つ存在するとすれば、そのような理由ではないでしょうか。
21.(A×B)-(B×A)≠ゼロ
●量子力学の扉を開けたハイゼンベルクが最初に著面した難題は、A×BとB×Aの答えが等しくないという奇妙な掛け算の謎を解くことでした。
『朝の冷たい光の中で、ハイゼンベルクのはじめの幸福感や楽観的な展望は色褪せていった。彼の見出した新しい物理学がうまく行くためには、X×YとY×Xが等しくないという、奇妙な掛け算を使うしかなさそうだった。普通の数なら、どの順番で掛け算をしても構わない。4×5の答えと5×4の答えは、どちらも20である。掛け算の結果は順番によらないというこの性質のことを、数学者は可換性と呼んでいる。数は、掛け算の交換法則を満たすので(つまり「可変」なので)、(4×5)-(5×4)はつねにゼロである。これはすべての子どもが学ぶ数学のルールだ。ハイゼンベルクを深く悩ませたのは、数の表の中のふたつの値を掛け算した結果は、掛け合わせる順番によって変わってしまうことだった。(A×B)-(B×A)は、必ずしもゼロではなかったのである。
彼の理論が必要としている、その奇妙な掛け算の意味がわからないまま、6月19日の金曜日、ハイゼンベルクはドイツ本土に戻ると、そのままハンブルクのヴォルフガング・パウリのもとに直行した。数時間後、誰よりも厳しい批判者であるパウリから励ましの言葉をもらったハイゼンベルクは、その発見をもう少し磨きあげて論文にするためにゲッティンゲンに向かった。二日後、その仕事はすぐにできると思っていたハイゼンベルクは、パウリに手紙を書き、「量子力学を作る仕事は遅々として進むみません」と伝えた。一日、また一日と時間が経ち、新しいアプローチを水素原子にうまく応用できないまま、ハイゼンベルクは追い詰められていった。
気がかりなことは山ほどあったが、ハイゼンベルクが確信していたことがひとつだけあった。何を計算するにせよ、「観測可能」な量のあいだの関係のみ、あるいは、現実には測定が難しいとしても、原理的には測定可能な量のあいだの関係しか使ってはならないということだ。彼は、自分の方程式に現れるすべての量が観測可能だということを公理として、「観測できない軌道という概念を完全に消し去り、その対応物で置き換える」ことに、「わずかばかりの努力のすべてを」注ぎ込んだ。
『その謎めいた掛け算規則には、どんな意味があるのだろうか? その問いがボルンに取り憑いて離れなくなり、彼はそれからの数日というもの、寝ても覚めてもそのことばかり考え続けた。ボルンはその計算規則に見覚えがあったのだが、それが何なのか思い出せなかったのだ。ボルンはアインシュタインに手紙を書き、この奇妙な掛け算がどこから出てくるのかはまだ説明できないけれども、「ハイゼンベルクの最新の論文がまもなく発表されることになるでしょう。まだよくわからないところもありますが、真実を捉えており、深いことは確かです」と伝えた。ボルンは自分の研究所にいる若手、とりわけハイゼンベルクを褒め、「彼の考えについて行くだけでも、わたしは相当努力が必要です」と書いた。くる日もくる日もその計算規則のことばかり考え続けたボルンの努力は、ついに報われた。ある朝、ボルンはふと、学生時代に受験したきり忘れていた、ある数学の講義のことを思い出した―ハイゼンベルクが出くわしたのは、行列演算だったのだ。行列演算では、X×Yは必ずしもY×Xにはならないのである。』
22.量子物理学の新時代の幕開けを告げる論文
●ハイゼンベルクに並ぶ天才とされたパウリは、ハイゼンベルクが書き上げた論文について、次のような言葉を送りました。「その論文は、かつてない希望と、新たな生きる喜びを与えてくれた。それで謎が解けたというわけではないにせよ、ここでまた、われわれは前進できるでしょう」と。
『六月の末、ハイゼンベルクは父親への手紙にこう書いた。「ぼくの仕事はと言えば、今のところ、あまりはかばかしくありません」。しかしそれから一週間ほどして、彼は量子物理学の新時代の幕開けを告げる論文を書き上げた。自分がやり遂げたことの意味にまだ確信がもてないハイゼンベルクは、写しを一部パウリに送り、申し訳なさそうに、二、三日のうちにその論文を読んで、返事をくれないかと頼んだ。ハイゼンベルクがそれほど急いでいたのは、7月28日にケンブリッジ大学で講演をする予定になっていたからだ。パウリはその論文を、「歓喜をもって」迎えた。パウリはある物理学者への手紙に、ハイゼンベルクの「その論文は、かつてない希望と、新たな生きる喜び」を与えてくれたと書いた。「それで謎が解けたというわけではないにせよ、ここでまた、われわれは前進できるでしょう」と、パウリは言い添えた。そして正しい方向に真っ先に踏み出したのは、マックス・ボルンだった。』
『ハイゼンベルクはその論文のまとめの部分に到達してからさえ、まだ逡巡していた。「ここに提案したような、観測可能な量のあいだの諸関係を使って量子力学のデータを求めるという方法は、原理的に満足の行くものと見なされるべきなのか、あるいはこの方法は結局のところ、現状ではきわめて込み入った問題であることが明白な、量子力学の理論を作るという物理的問題へのアプローチとしては不十分なものであるのかは、ここではごく表層的に採用したこの方法を、数学的により詳しく調べることによってのみ判定できるであろう」』
23.行列演算と量子力学
●ハイゼンベルクが発見した数の並びは、十九世紀の半ばにイギリス人の数学者アーサー・ケイリーが提唱した行列演算でした。この行列演算は数学では確立された分野でしたが、ハイゼンベルクの世代の理論物理学者にとっては未知の領域でした。また、このことに気づいたボルンはハイゼンベルクが作り出した枠組みを、原子物理学のあらゆる局面に適用できるような、論理的に矛盾のない枠組みに仕上げなければならないと思い、二十二歳のパスクアル・ヨルダンとともにこの大きな難問に取り組みました。
『ハイゼンベルクの掛け算規則は行列演算であることを突き止めたボルンは、位置qと運動量pを、プランク定数を含む式で結びつける方法をすぐさま発見した。その式はpq-qp=(ih/2π)Iと書くことができる。ここで、Iは、数学者が単位行列を使えば、それなしにはただの数にすぎない右辺を行列にすることができるのだ。この基本式にもとづき、それから数カ月のうちに、行列という数学の方法にもとづく量子力学が完成した。』
24.論理的に矛盾のない量子力学を定式化した「三者論文」
●猛烈な勢いで行列を勉強したハイゼンベルクは「三者論文」の作業に参加することができました。
『行列を知らないのはハイゼンベルクばかりではなかった。しかし彼は猛烈な勢いでその新しい数学を学びはじめ、まだコペンハーゲンにいるうちに、ボルンとヨルダンに追いつくほどの力をつけてしまった。十月半ばにゲッティンゲンに戻ったハイゼンベルクは、のちに「三者論文」として知られることになるその論文の最終バージョンを作る作業に参加することができた。彼とボルンとヨルダンの三人はその論文により、論理的に矛盾のない量子力学を定式化したのである。それはながらく探し求められていた、原子の新しい物理学だった。』
25.守備範囲の広い理論家
●シュレーディンガーの最初の論文は実験物理学だったそうです。先にご紹介した若き天才、パウリとハイゼンベルクは理論物理学に傾倒されており、この点が異なります。また、シュレーディンガーは放射性元素、統計物理学、一般相対性理論、色彩論[ゲーテによる光と色の研究]といった幅広い分野で四十篇以上の論文を発表しています。そして、一匹狼で、洒落ていて、気分屋で、親切で、寛大な、じつに愛すべき人間で、しかも、恐ろしく効率のよい、第一級の頭脳の持ち主だったとのことです。
『同僚の物理学者たちの見たシュレーディンガーは、放射性元素、統計物理学、一般相対性理論、色彩論といった幅広い分野で四十篇以上もの論文を発表している。堅実であるが、ずば抜けて優れているというほどもない仕事を重ねてきた、守備範囲の広い器用な理論家だった。シュレーディンガーの仕事のなかには、他人の研究を理解して分析し、分かりやすく説明する力量を示す総説がいくつもあり、いずれも高い評価を得てありがたがられていた。
11月23日、シュレーディンガーのコロキウム(談話会)には、当時二十一歳の学生だったフェリックス・ブロッホが出席していた。ブロッホがのちに語ったところでは、シュレーディンガーは、「ド・ブロイが波と粒子を結びつけた方法や、粒子の定常状態の軌道に整数個の波が収まるという条件を課すことで、なぜニールス・ボーアとゾンマーフェルトの量子化規則が得られるのかという条件を課すことで、なぜニールス・ボーアとゾンマーフェルトの量子化規則が得られのかということを、みごとにわかりやすく説明した」。しかし、波と粒子の二重性には実験の裏づけがなかったため(それが得られるのは1927年のことだ)、デバイは、ド・ブロイの議論は「子どもじみている」との感想を述べた。波の物理学には―音波、電磁波、ヴァイオリンの弦を伝わる波など、どんな波を扱うにせよ―その波を記述する方程式が必要だ。ところが、シュレーディンガーの説明した理論には、「波動方程式」がなかったのだ。ド・ブロイは、物質波の波動方程式を導こうとしたことはなかったし、彼の学位論文を読んだアインシュタインも同様だった。そのコロキウム(談話会)から五十年を経ても、ブロッホはそのときのことを鮮明に覚えており、デバイの指摘は、「あまりにも当たり前すぎて、みんなには軽く聞き流されたようだった」と述べた。
しかしシュレーディンガーは、デバイの言う通りだと思った。「波動方程式のない波では話にならない」のだ。そのとき彼はほとんど瞬時に、ド・ブロイの物質波に対する波動方程式を見つけてやろうと心に決めた。』
26.シュレーディンガーが「作った」波動方程式
●シュレーディンガーは親切で寛大だったとされていますが、駆け引きのない率直な性格で柔軟性、多様性も持っていたのではないでしょうか。デバイの酷評ともとれる「波動方程式のない波では話にならない」という発言を受け入れ、「量子の波動方程式をみつけてやろう」というポジティブな心が多くの物理学者に支持された直観的な方程式の発見を呼び込みました。
『クリスマス休暇から戻り、年明けに開かれた次にコロキウム(談話会)で、シュレーディンガーは声高らかにこう宣言することができた。「前回デバイが、波動方程式が必要だと言いましたが、さてさて、わたしはそれを見つけました!』。シュレーディンガーはその二週間のうちに、胎児のようなド・ブロイのアイデアを取り上げて、立派な量子力学理論に育て上げたのである。
シュレーディンガーには、どこから出発すればよいかも、何をすればよいかもわかっていた。ド・ブロイは、波と粒子の二重性というアイデアの妥当性の保証を、電子の定在波の波数が整数のときに軌道が閉じ、ボーアの原子モデルで許される電子軌道を再現できることに求めたのだった。しかしシュレーディンガーは、自分の探す方程式は、三次元の水素原子モデルを、三次元の定在波として再現できなければならないと考えた。水素原子は彼が見出すべき波動方程式の試金石になるはずだ。
波動方程式を探しはじめてまもなく、シュレーディンガーはまさに求める方程式を捕まえたと思った。しかし、水素原子に当てはめてみると、その方程式からは実験と合わない結果が出てきてしまった。その失敗の根本的な理由は、ド・ブロイが波と粒子の二重性というアイデアを得たときに、アインシュタインの特殊相対性理論と矛盾しないものを考え、そのよううなものとして提示していたことだった。ド・ブロイのやり方を手本にして進んでいたシュレーディンガーは、当然ながら、「相対論的」な形をした波動方程式を捜し、まさにそれを見つけたのである。そのころにはすでに、ウーレンベックとハウトスミットが電子のスピンを発見していたが、ふたりの論文が専門雑誌に掲載されたのは1925年11月下旬のことだった。当然ながら、シュレーディンガーが発見した相対論的な波動方程式にはスピンが含まれておらず、結果として、その波動方程式から出てきた結果は、実験とは合わなかったのだ。
クリスマス休暇が迫ってきたため、シュレーディンガーは相対性理論のことを気にするのはやめて、昔ながらの波動方程式を探すことに努力を集中した。相対論的でない波動方程式は、電子が光速に近い速度で運動するような場合には、相対論的効果が無視できなくなるため使えなくなる。
シュレーディンガーはそのことをよく知っていた。しかしとりあえずは、そんな波動方程式でも間に合ったのだ。』
『12月27日付のヴィルヘルム・ヴィーンへの手紙に、彼は次のように書いた。「目下、新しい原子理論と格闘しているところです。もっと数学を知ってさえいれば! ともあれ、それについてはわたしは非常に楽観的で、結果はとても美しいものになるだろうと予想しています。ただし、解くことができればの話ですが』
『シュレーディンガーはその波動方程式を「導いた」のではなかった―古典物理学から出発して、厳密な論理をたどるという方法では、その式は得られなかったのだ。そこで彼は、粒子に伴う物質波の波長と、その粒子の運動量とを結びつけるド・ブロイの式と、古典物理学のいくつかの式を睨み合わせて、その波動方程式を「作った」のである。簡単そうに聞こえるかもしれないが、シュレーディンガーがその式を書き下す最初の物理学者になれたのは、彼ほどの技量と経験があったればこそだった。シュレーディンガーはそれからの数カ月間で、その波動方程式を基礎として、波動力学という壮大な建物を作り上げることになる。しかしその前に、彼はそれがたしかに探し求めていた波動方程式であることを証明する必要があった。その方程式は、水素原子に応用した場合、水素のエネルギー準位に正しい値を与えてくれるのあろうか?
一月にチューリッヒに戻ったシュレーディンガーがじっさいに調べてみると、その波動方程式は、たしかにボーア=ゾンマーフェルトの水素原子のエネルギー準位を再現することがわかった。ド・ブロイは、電子の波として円軌道にぴったりはまる一次元の定在波を考えたが、シュレーディンガーの理論から得られるのは、もっと複雑な三次元の「軌道関数」だった。そして、波動方程式を解いて軌道関数が得られれば、その関数によって表される電子状態のエネルギーは自動的に決まる。ボーア・ゾンマーフェルトの原子の量子論では、正しいエネルギーの値を得るためには恣意的な条件を課さなければならなかったが、そういう操作はいっさい不要になったのだ。そればかりか、謎めいた量子飛躍さえもが、電子に許される三次元定在波から別の三次元定在波への連続的な遷移に取って代わられたかにみえた。1926年1月27日、「固有問題としての量子化」と題された論文が、「アナーレン・デア・フィジーク』に届いた。3月13日に同誌に掲載されたその論文には、シュレーディンガー版の量子力学と、水素電子に対する応用が示されていた。
シュレーディンガーは、五十年に及んだ物理学者としての経歴のなかで、年平均40ページ相当の論文を発表しづけた。とくに1926年には、256ページ相当という大量の論文を発表し、波動力学はさまざまな原子物理学の問題に幅広く利用できることを明らかにした。また、彼は、時間とともに変化する「系」を扱うことのできる、時間依存型の波動方程式を考え出した。時間とともに変化する系とは、たとえば、電子が放射を放出、吸収、散乱するような場合である。
2月20日、その最初の論文が印刷を待つばかりとなったとき、シュレーディンガーは自分の作った新しい理論に対して、はじめて波動力学という言葉を使った。』
27.ハイゼンベルクの難解な行列力学とシュレーディンガーの直感的な波動力学
●数学は苦にしないと思われる物理学者にとっても、当時、行列という数学はとても厄介な代物だったようです。そのため、難解とされたハイゼンベルクの量子力学(行列力学)に比べ、シュレーディンガーの量子力学(波動力学)は多くの物理学者を勇気づけました。この二つは同等のものとのことです。一つは行列、一つは微分方程式から生まれたということなのですが、私にはその同質性を理解することは到底できません。しかしながら、数学者にも劣ることのないハイゼンベルクと、最初の論文が実験物理学だったというシュレーディンガーの視点の違い、授かった才能の違いが二つの量子力学を世に送り出したのではないかと思います。
『冷たくて禁欲的な行列力学とは対照的に、彼が物理学者たちに与えたのは、使い慣れたおなじみの方法だった―彼の方法は、極度に抽象的なハイゼンベルクの方法よりも、ずっと十九世紀物理学に近い言葉で量子の世界を説明してあげようと、物理学者たちに語り掛けていた。謎めいた行列の代わりにシュレーディンガーが持ち込んだのは、物理学者の数学の道具箱にはかならず入っている微分方程式だった。ハイゼンベルクの行列力学は、量子飛躍と不連続性をもたらした。原子の内部を覗いてみたくとも、視覚的なイメージできるものは、そこには何もなかったのだ。シュレーディンガーは、これからはもう、「自分の直感を抑え込む必要はないし、遷移確率やエネルギー準位といった、抽象的な概念だけを相手にする必要もない」と述べた。物理学者たちがシュレーディンガーの波動力学を熱烈歓迎し、われ先にとそれを使いはじめたのは当然のことだった。
シュレーディンガーは、その論文の抜き刷りを受け取るとすぐに、彼が意見を聞きたいと思う物理学者たちにそれを送った。プランクは4月2日付の手紙に、「ずっと頭から離れなかった謎が解けたと言われて、真剣に話に聞き入る子どものように、あなたの論文を読みました」と書いた。それから二週間後にはアインシュタインから、「あなたの仕事のアイデアは、真の天才から沸き上がったものです」という手紙が届いた。シュレーディンガーは、「あなたとプランクが認めてくださったことは、わたしにとって世界の半分からの賞賛よりも大きな意味があります」と返信した。アインシュタインは、シュレーディンガーが決定的な前進を遂げたことを、「ハイゼンベルク=ボルンの方法は邪道であると確信するのと同じぐらいの強さで確信」したのだった。』
『このふたり以外の人たちが十分に理解するまでには、もう少し時間がかかった。ゾンマーフェルトは当初、波動力学は「完全なたわごと」だと思っていたが、やがて考えを変え、「行列力学が正しいことは疑う余地はありませんが、取り扱いが非常に難しく、おそろしく抽象的です。シュレーディンガーはわれわれを助けに駆け付けてくれました」と述べた。ほかにも多くの人たちが、ハイゼンベルクとゲッティンゲンの仲間たちの抽象的で奇妙な理論と格闘するよりは、波動力学の慣れ親しんだ方法を学び、じっさいに使いはじめてみて、ほっと胸をなでおろした。スピンで名をなした若手のヘオルヘ・ウーレンベックは、「シュレーディンガー方程式のおかげで助かりました。これでもう、不慣れな行列力学を勉強しなくてもすみます」と書いた。エーレンフェストやウーレンベックらライデンの物理学者たちは、行列力学を勉強する代わりに、数週間のあいだ毎日「何時間も黒板の前に立ち」、波動力学の驚くべき意味を汲み尽くそうとした。
パウリはゲッティンゲンの物理学者たちに近かったが、シュレーディンガーの仕事の重要性をすぐに見抜き、深く感銘を受けた。彼は行列力学を水素分子に当てはめて成功した際、ハイゼンベルクの方法のことは隅々まで調べ上げていた―彼がそれを迅速かつ徹底的に行ったことに、のちには誰もが驚くことになる。パウリがその論文を「ツァイトシュリフト・フュール・フィジーク」に送ったのは1月17日。シュレーディンガーが最初の論文を投稿するわずか十日前のことだった。パウリは、シュレーディンガーが波動力学を使って、行列力学を使った場合よりも楽に水素原子を扱っているのを見て愕然とした。彼はパスクアル・ヨルダンに次のように書いた。「その仕事は近年出た論文のなかで、もっとも重要な仕事のひとつだと思います。注意深く、集中してそれを読み込んでください」。六月にはボルンまでが、波動力学は「量子の法則を表す、もっとも深い形式」だと言うまでになった。
ハイゼンベルクは、ボルンが変節して波動力学の支持に回ったことを、「あまり良い気持ちはしない」とヨルダンに語った。彼は、シュレーディンガーが慣れ親しんだ数学を使っていることは、「信じられないほど興味深い」が、物理の内容に関するかぎり、原子レベルの出来事を正しく記述しているのは自分の行列力学のほうだと確信していた。』
9.一般相対性理論
●戦争の四年間は、アインシュタインにとって、もっとも生産的で創造的な時期となりました。彼はこの期間に、一冊の本と五十篇ほどの科学論文を発表し、1915年には最高傑作である一般相対性理論をついに完成させました。
『ニュートン以前から、時間と空間は堅い枠組みであり、終わりのない宇宙のドラマが上演される舞台だと考えられていた。その舞台上では、質量、長さ、時間は、絶対的で不変だった。つまりその劇場の中では、ふたつの出来事の空間距離と時間間隔は、どの観客にとっても同じだったのだ。しかしアインシュタインは、質量、長さ、時間は絶対的ではなく、観測者ごとに変わりうることを見出した。観測者同士がどんな相対運動をしているかによって、空間距離と時間間隔は違って見えるのである。双子の一方が地球に残り、他方が宇宙飛行士になって、光速に近い速度で宇宙旅行をしたとすれば、大きな速度で運動しているほうの双子にとっての時間は伸び(時計の針の進み方が遅くなり)、空間は縮む(運動物体の長さが短くなる)。また、運動している物体の質量は、静止しているときの質量よりも大きくなる。これらはみな、「特殊」相対性理論から引き出せる結論であり、いずれも二十世紀中に実験によって確かめられた。しかし、特殊相対性理論には、速度が変化する場合は含まれていない。それを含むように拡張したのが、「一般」相対性理論である。アインシュタインは、一般相対性理論を作る仕事に取り組んでいたとき、その苦労にくらべれば、特殊相対性理論は「子どもの遊び」のようなものだったと語った。量子は、原子の領域でそれまでの世界像に疑問を突きつけたが、アインシュタインは空間と時間についても、その真の性質に関する知識へと人類を近づけたのだった。一般相対性理論はアインシュタイン版の重力理論であり、やがて物理学者たちはこの理論に導かれて、ビッグバンという起源に迫ることになる。
ニュートンの重力理論によれば、太陽と地球のようなふたつの物体間に働く引力の大きさは、両者の質量の積に比例し、それぞれの物体の質量中心を結ぶ距離の二乗に反比例する。質量同士は接触していないので、ニュートン物理学における重力は、謎めいた「遠隔作用」だ。しかし一般相対性理論における重力は、大きな質量の存在により、空間が歪むために生じる。地球が太陽の周囲をめぐるのは、オカルトのような不思議な力によって地球が太陽に引き寄せられるからではなく、太陽の大きな質量のために空間が歪むためなのだ。それをひとことで言えば、「物質は空間を歪め、歪められた空間は、物質に動き方を教える」ということになる。
1915年の11月、アインシュタインは一般相対性理論を、ニュートンの重力理論では説明できなかった水星軌道の問題に当てはめてみた。水星は太陽のまわりを公転する際、毎回まったく同じ経路をたどるわけではない。天文学者は精密な測定を行って、水星軌道は、そのつどわずかに楕円の軸が回転していることを明らかにしていた。アインシュタインが一般相対性理論を使って、その小さな回転角を計算してみると、小さな誤差の範囲で、観測データとぴったり合う結果が得られた。それがわかったとき、アインシュタインの胸の鼓動が激しくなり、何かストンと腑に落ちるものがあった。「この理論の美しさは、ただごとではありません」と彼は書いた。最大の夢が叶ってアインシュタインは本望だったが、非常な努力を続けたせいで、身も心もくたくたに疲れ果てていた。しかし、やがてその疲労から回復したアインシュタインは、ふたたび量子に目を向ける。』
10.1916年、光量子の確立
●光量子を確立させたアインシュタインでしたが、それは「原子の量子論」に基づくものであり、古典物理学の因果律を否定するというアインシュタインにとっては、容易に受け入れることができない現実を突きつけられました。
『アインシュタインは、まだ一般相対性理論に取り組んでいた1914年5月にはすでに、フランク・ヘルツの実験は、原子のエネルギー準位の存在を立証し、「量子仮説の正しさを裏づける衝撃的な結果」だということを鋭く見抜いていた。そして早くも1916年の夏には、原子が光を放出・吸収するプロセスについて、ある「すばらしいアイデア」を得る。そのアイデアを手掛かりとして、彼は、「あっけないほど簡単に、プランクの式[黒体放射のスペクトルに関する法則であり、量子力学の基本法則のひとつ]」を導くことができた。その導出方法は、「これこそが正しい方法だと思える」ほどのものだった。まもなくアインシュタインは、「光量子は確立されたと思います」と言うまでに、光量子の実在性を確信するにいたる。だが、その確信を得るためには、代償が必要だった―古典物理学の厳密な因果律[原因があって結果が生じる]を捨て、原子の領域に確率を持ち込むことになってしまったのだ。
アインシュタインは以前にも、別の方法でプランクの法則を導いたことがあった。しかし今度の方法は、ボーアによる原子の量子論から出発するものだった。』
11.因果律の否定
●因果律を否定するということは、我々が住むマクロの世界の中では考えられない現象を認めることであり、「因果律を捨てることになれば、わたしとしては非常に不本意です」。とアインシュタイン自身が語っているように、この事実は厳しく、辛いものであったと思います。
『原子の量子論の中核に偶然と確率が潜んでいることに気づいて、アインシュタインは嫌な気持になった。彼はもはや量子の実在性を疑ってはいなかったが、それと引き替えに、因果律を犠牲にしてしまったような気がしたのだ。彼はその三年後の1920年1月に、マックス・ボルンへの手紙に次のように書いた。「因果律のことではかなり悩みました。光が量子として吸収・放出されるプロセスは、因果律が完全に成り立つものとして理解できるのか、それとも統計的な要素はどこまでも残るのか?これについては自分の考えを口にする勇気がありません。しかし、完全に成り立つものとしての因果律を捨てることになれば、わたしとしては非常に不本意です」。
アインシュタインを悩ませたのは、手にもったリンゴから手を放しても、リンゴは落下せず、そのまま空中に浮かんでいるという状況だった。手を離れたリンゴは、地面に置かれている場合よりも不安定なので、すぐさま重力が作用して落下しはじめる。重力が原因となって、リンゴが落下するのだ。ところが、もしもそのリンゴが、励起状態[最もエネルギーの低い状態よりもエネルギーが高い状態]にある原子内の電子のように振る舞えば、リンゴは手を離れてもすぐには落下せず、そのまま空中に浮かんでいるだろう。そして、確率としてしか知ることのできない予測不可能なある時刻に、突如として落下しはじめるのだ。手を放した直後に落下する確率は大きいにせよ、何時間も浮かんでいる確率も、小さいとはいえゼロではないのだ。励起状態にある原子内の電子は、いずれ低いエネルギー準位に飛び降り、安定した基底状態に落ち着く。だがその遷移が正確にいつ起こるかは、運任せなのである。1924年になっても、アインシュタインはまだ、自分の明らかにした事実を受け入れることができずにいた。「光を照射された電子がジャンプする時刻ばかりか、飛び出すときの向きまでも、おのれの自由意志で選ばなければならないというのは、わたしには耐え難いことに思われます。もしも自然がそんな仕組みになっているのなら、わたしは物理学者でいるより、靴の修理屋になるか、あるいはいっそ賭博場にでも雇われたほうがましです」。』
12.アインシュタインとボーアの出会い
●1920年4月27日、アインシュタインは初めて会ったボーアに強い印象を持ちました。
『アインシュタインは、自分より六つも年下のこのデンマーク人を次のように評価していた。「彼は間違いなく、第一級の頭脳の持ち主です。きわめて緻密で洞察力があり、大きな枠組みを見失うことがありません」。アインシュタインがプランクへの葉書にそう書いたのは、1919年10月のことだった。プランクはそれを読んで、ますますボーアにベルリンに来てほしいと思うようになった。アインシュタインがボーアに惚れ込んだのは、もうだいぶ前のことである。1905年の夏、彼の頭のなかで吹き荒れていた創造性の嵐が静まりかけたとき、アインシュタインは、次に取り組むべき「本当に面白いこと」がないと思った。「もちろん、線スペクトルの問題はあるでしょう」と、彼は友人のコンラート・ハビヒトへの手紙に書いた。「しかし、これらの現象と、すでに解明されている現象とのあいだには、簡単な関係はないと思います。したがって、今しばらく、このテーマでは成果を期待できそうにありません」
攻略する機が熟した物理学の問題を鋭く嗅ぎわけることにかけて、アインシュタインの鼻は天下一品だった。線スペクトルの謎を見送ったアインシュタインが次に嗅ぎつけたのが、E=MC²だった。その式は、質量とエネルギーとが変換可能だということを意味していた。もっとも、全能の神が笑いながら、彼を「手玉にとっている」可能性もないとは言えなかったのだが。そんなわけで、1913年にボーアが、原子を量子化することにより、原子スペクトルの謎を解決して見せたときには、アインシュタインにはそれがまるで「奇跡のよう」に思われたのだった。
ボーアは、ベルリン駅から大学へと向かいながら、興奮と不安のために胃が痛くなりそうだった。しかしそんな緊張は、プランクとアインシュタインに会うとすぐに解けてなくなった。ふたりは挨拶もそこそこに物理学の話しを始め、ボーアもすっかりマイペースになった。プランクとアインシュタインは、これ以上違う人間はいないのではないかと思うほど正反対のタイプだった。プランクは、プロセイン流の気まじめさの権化のようだったのに対し、アインシュタインは、大きな目ともじゃもじゃの髪をして、つんつるてんのズボンを穿き、世間との関係はぎくしゃくしていたかもしれないが、自分自身とはうまく折り合いをつけているように見えた。ボーアは、ベルリン滞在中はプランク家に泊まるように招かれ、その申し出をありがたく受けた。』
『ボーアがコペンハーゲンに帰るとすぐに、アインシュタインは彼に手紙を書いた。「これまでの人生で、あなたほど、その存在自体がかくも大きな喜びを与えてくれた人はほとんどいませんでした。わたしは今、あなたのすばらしい論文を勉強しているところです。そして―難しい箇所に躓かないかぎりは―ほがらかで少年っぽい顔をしたあなたが、微笑みながら説明しているのを思い浮かべて楽しい気分になるのです」。ボーアはアインシュタインに、長く消えることのない深い印象を与えた。数日後、アインシュタインは、パウル・エーレンフェストに次のように書いた。「ボーアがベルリンに来ました。わたしもあなた同様、彼にすっかり魅了されました。彼は感じやすい子どものようで、夢の中にでもいるように、この世界を歩き回っているのです」。ボーアもアインシュタインに負けないぐらい熱烈に、この出会いが彼にとってどれほど大きな意味をもったかを、お世辞にも上手とは言えないドイツ語で懸命に伝えようとした。「このたび直接お目にかかってお話しできたことは、わたしにとって最大級の経験となりました。じかにお考えを聞いて、どれほど大きな霊感を受けたことか、あなたには想像もつかないでしょう」。ボーアはまもなく、もう一度それを経験することになった。アインシュタインがその八月、ノルウェーへの旅行からの帰りにコペンハーゲンに立ち寄り、ひとときボーアを訪ねたのだ。
ボーアに会った直後、アインシュタインはローレンツへの手紙に次のように書いた。「彼は大きな天分に恵まれ、しかもすばらしい人物です。優れた物理学者が人間的も立派だというのは、物理学にとってありがたいことですね。』
●ボーアは1922年にノーベル賞を受賞しました。本書ではその喜びを二人に伝えたと記されています。ひとりは恩師であるラザフォードであり、もうひとりはアインシュタインでした。
『もうひとり、ボーアの頭から離れなかった人物が、アインシュタインだった。彼が1922年のノーベル賞を受賞する日に、アインシュタインも一年遅れて1921年のノーベル賞を受賞するという巡り合わせが、ボーアには嬉しく、また、ほっとさせられる成り行きでもあった。ボーアはアインシュタインにこう書いた。「わたしには過分な賞であることは十分承知していますが、これだけは申し上げたいと思うことがあります。それは、わたしが仕事をしたこの特別な分野において、あなたが成し遂げられた基本的な重要な仕事、およびラザフォードとプランクの仕事が、わたしがこの名誉に値すると見なされるよりも先に認められていて、本当によかったということです」
ノーベル賞の受賞者が発表されたとき、アインシュタインは船で地球の反対側に向かっていた。彼は十月八日に、身の安全に不安を感じながら、エルザとともに日本での講演旅行に出発したのだった。アインシュタインは後年、次にように述べた。「ドイツを長期間離れる機会が得られたのはありがたいことでした。そのおかげで一時的に高まった危険から逃れることができたからです」。彼がようやくベルリンに戻ったのは、1923年2月だった。当初の六週間の予定は、結局五カ月に及ぶ大旅行となり、ボーアの手紙を受け取ったのも旅先でのことだった。彼は帰国の途上でボーアに返事を書いた。「少しも大袈裟ではなく、[あなたの手紙を]ノーベル賞と同じくらい嬉しく思いました。とくに、わたしより先に受賞することを心配なさっていたとは、なんて可愛らしいのでしょう―あなたらしいことです。』
13.量子との格闘
●アインシュタインにとっても、ボーアにとっても量子は想像を絶するような難しい問題でした。
『アインシュタインとボーアは、ベルリンとコペンハーゲンで会ってからの二年間、それぞれのやり方で量子との格闘を続けた。しかしふたりとも、しだいにその戦いに疲れを感じはじめていた。「気を散らされることが多いのも、まんざら悪いことではないのでしょう」と、アインシュタインは1922年3月にエーレンフェストへの手紙に書いた。「さもなければ、量子の問題のために、わたしは精神病院に入院していたかもしれませんから」。その一カ月後、ボーアはゾンマーフェルトにこう語った。「ここ数年、科学上の孤立感をひしひしと感じています。体系的に量子論の原理を作ろうと力のかぎり頑張っているのですが、ほとんど誰にも理解してもらえないように思います」。しかし、そんな孤立の時代も終わろうとしていた。ボーアは1922年6月に、ドイツのゲッティンゲン大学で、のちに「ボーア祭り」として知られることになる、十一日間で七回の連続講義という一大イベントを敢行したのだ。』
14.ボーア祭りとアインシュタインの命の危機
●アインシュタインには相対性理論を拡張するという命題があり、また光量子には因果律を否定しなければならないという側面がありました。また、数学が求められるという要因もアインシュタインにとっては望ましいものではありませんでした。一方、ボーアには古典物理学へのこだわりはアインシュタインほどではなく、それよりも量子とは何かということを明らかにしたいという気持ちが強かったように思います。その強い気持ちがこの難題に立ち向かわせ、その使命感が原動力となって、生涯を貫いたのではないかと思います。
『ボーアが原子内電子の「殻模型」について話をするというので、老若とりまぜて百人を超える物理学者たちがドイツ各地から集まってきた。殻模型とは、原子内の電子がどのように配置されているかに応じて、その元素の周期表内での位置と、元素のグループ(類)が決まるという、ボーアの最新理論だった。彼は、原子核の周囲を、ちょうどタマネギの鱗片のように、軌道殻というものが取り巻いているという考えを打ち出した。それぞれの殻は、じっさいには電子軌道の集まりで、その軌道に含まれる電子の個数には上限がある。化学的な性質を共有する元素は、もっとも外側の殻に含まれる電子の数が同じになっている、とボーアは論じた。』
『アインシュタインは、ゲッティンゲンでのボーアの連続講義には出席しなかった。ユダヤ人だったドイツ外相が殺害されたことで、命の危険を感じていたからだ。有力な実業家だったヴァルター・ラーテナウは、外相になってわずか数カ月後の1922年6月24日の白昼に、銃弾に倒れた―第一次世界大戦後に起こった極右による政治的暗殺の、三百五十四番目の犠牲者だった。アインシュタインは、政府内のそんな目立つ地位に就くべきでない、ラーテナウに強く忠告した。人間のひとりだった。ラーテナウが外相に就任すると、右翼新聞はそれを、「国民に対する前代未聞の挑発!」と書きたてた。
「ラーテナウの暗殺という恥ずべき事件が起こって以来、こちらでは気が休まるときがありません」とアインシュタインはモーリス・ソロヴィンに書いた。「わたしはいつも警戒しています。講義は取り止め、公式には不在になっていますが、じっさいにはずっとここにいます」。信頼できる筋から、自分が第一の暗殺目標になっていることを知らされたアインシュタインは、一市民として静かな暮らしを送るため、プロセイン科学アカデミーのポストを辞任することも考えているとマリー・キュリーに打ち明けた。若いころは権威に反発していた彼が、今では権威ある人間になっていた。彼はもはやひとりの物理者ではなく、ドイツ科学のシンボルであると同時に、ユダヤ人のシンボルでもあったのだ。』
●ボーアが提唱した電子の殻模型には、厳密な数学的論証はありませんでした。それでも、ボーアのアイデアが評価されたのは、1922年12月のノーベル賞受賞講演で、原子番号七十二番の未知の元素(のちにハフ二ウムと名づけられる元素)は「希土類」ではないという予測が正しかったからです。しかしボーアの殻模型の背後には、いかなる組織原理も判断基準もなく、それは膨大な化学的・物理的データにもとづいて、周期表の各グループの化学特性のほとんどすべてを説明することができるという、独創的な思いつきにすぎませんでした。
ボーアが経験的データから作り上げた原子内電子の殻模型に、理論的基礎となる組織原理、「排他原理」を発見したのは、ウォルフガング・パウリでした。
『ボーアの新しい原子モデルで、電子がすべて最低エネルギー準位に集まらないように殻の占拠状態を管理していたのは、パウリの排他原理だったのだ、排他原理は、周期表の中の元素がなぜあのような配列になっているのか、そしてなぜ、化学的に不活性な希ガスで殻が閉じるのかに説明を与えた。しかし、これほどみごとな成功を収めたにもかかわらず、パウリは1925年3月21日に「ツァイトシュリフト・フュール・フィジーク」に発表した「原子内電子の群の閉鎖と、スペクトルの複雑な構造との関係について」という論文の中で、「この規則がなぜ成り立つのかについて、より詳しい理由を与えることはできない」と述べざるをえなかった。』
15.スピンという量子的な概念
●パウリが提唱した排他原理、しかしながらパウリ自身が説明できないとしていた課題は、スピンという量子的な概念によって明快な物理的根拠が与えられました。
『原子内電子の位置を指定するために必要な量子数は、なぜ三つではなく四つなのだろうか?ボーアとゾンマーフェルトの実り多い仕事がなされて以来、原子核の周囲で軌道運動をしている原子内電子は三次元空間を動き回っているのだから、その運動を記述するためには三つの量子数が必要なのは当然のことと受けとめられていた。しかし、パウリの四つ目の量子数には、どんな物理的基礎があるのだろう?
1925年の夏も終わろうというころ、ふたりのオランダ人ポスドク、サムエル・ハウトスミットとへオルヘ・ウーレンベックは、パウリが提案した「二価性」には、それまでの量子数とはまったく異なる特徴があることに気がついた。すでに知られていた三つの量子数が、n、κ、mはそれぞれ、軌道上にある電子の角運動量[回転の勢いを表す物理量]、その軌道の形、空間内の向きを指定するものだったが、「二価性」は電子に内在する性質だったのだ。ハウトスミットとウーレンベックはその性質を、「スピン(回転)」と名付けた。くるくると回転する物体をイメージしがちなこの命名は不幸だったが、電子の「スピン」は完全に量子的な概念であり、原子構造の理論に付きまとっていたいくつもの問題を解決し、排他原理に明快な物理的根拠を与えるものだった。』
『1925年の夏中をかけて、ハウトスミットは原子の線スペクトルについて知る限りのことをウーレンベックに教え込んだ。その後、ふたりが排他原理について論じ合っていたときのことである。ハウトスミットは排他原理を、原子スペクトルの混乱状態を少々整理するための場当たり的な規則のひとつにすぎないと考えていたのに対し、ウーレンベックはあるアイデアを思いついた―そのアイデアを、パウリはすでに却下していたのだが。
電子は、上下、前後、左右の方向に運動することができる。これら三通りの運動の仕方を、物理学者は「自由度」と呼んでいる。量子数はいずれも電子の自由度に対応しているのだから、パウリの新しい量子数は、電子は三つの自由度以外に、別の自由度をもつということを意味しているに違いない、とウーレンベックは確信した。そして彼は、その四つ目の量子数は、電子の回転を意味しているのだろうと考えたのだ。しかし、古典物理学でいう回転は、三次元空間の中の回転運動だから、もしも原子が古典物理学的にクルクル回っているだけなら、地球が自転軸のまわりに回転しているのと同じく、四つ目の自由度を持ち込む必要はない。パウリは、自分が導入した新しい量子数は、何か「古典的な考え方では記述できないもの」を表しているはずだと論じた。』
『ボーアは磁場の問題を挙げて、自分はスピンには反対だと言った。すると驚いたことにエーレンフェストが、その問題はアインシュタインが相対性理論を使ってすぐに解決したというではないか。のちにボーアは、アインシュタインの説明は「まさしく啓示」だったと述べた。かくしてボーアは、電子スピンにどんな問題があろうと、いずれ近いうちにすべて克服されるだろうと確信した。ローレンツの反論は、彼が精通している古典物理学にもとづくものだった。しかし電子のスピンは純粋に量子的な概念であり、ローレンツが指摘した問題は、実はそれほど深刻なものではなかったのだ。さらに、イギリスの物理学者リーウェリン・トーマスがふたつ目の問題を解決した。トーマスは原子核のまわりで軌道運動する電子の相対運動の計算で、二重項の分離幅に2の因子がひとつ余分にかかっていたことを明らかにしたのだ。「そのときから、われわれの苦悩は終わったという確信がゆらいだことはありません」とボーアは1926年3月に手紙を書いた。』
注)電子のスピンというアイデアを最初に提唱したのは、ハウトスミットとウーレンベックではなく、21歳のドイツ系アメリカ人のラルフ・クロー二ヒでした。これは当時、パウリがクロー二ヒのアイデアを否定したためでした。
16.古典物理学と量子物理学との架け橋
●古典物理学と量子物理学の架け橋という考え方は、統合ということを常に考えていたアインシュタインには難しいことでした。ボーアがこのような考え方を持つことができたのは、量子とは何かを明らかにすることに集中し、あらゆる可能性を排除せず、白紙から考えを進めたこと、そして、パウリやハイゼンベルク、ボルンといった数学に長けた優秀な科学者の協力を得られたことが大きな要因だったと思います。
『この動乱のなかでも、アインシュタインはボーアによる一連の論文を読んでいた。1922年3月に「ツァイトシュリフト・フュール・フィジーク」に発表された、「原子の構造と、元素の物理的、化学的性質」と題する論文もそのひとつだった。それから半世紀近く経て、アインシュタインは当時を振り返って次のように述べた。「原子の内部にある電子の殻というアイデアは、その科学上の重要性という点からも、当時のわたしには奇跡のように思われました―そしてその思いは今も変わりません。それは思考の領域における音楽性を、もっとも高度なかたちで現したものでした」。じっさいボーアがやったことは、科学というよりはむしろ芸術に近かった。原子の線スペクトルや、それぞれの元素の化学的性質など、さまざまな分野からかき集めた証拠を組み合わせて、ボーアはひとつの原子像を作り上げた。あたかもタマネギの鱗片のように、電子の殻をひとつひとつ重ねていき、周期表の中のすべての元素を再構成したのである。
そんなアプローチの核心にあったのは、ボーアが抱いていたひとつの確信だった。原子のスケールで成り立つ量子規則から得られる結論はすべて、古典物理学が支配するマクロなスケールでの観測結果と矛盾してはならないと彼は信じていたのだ。ボーアはその確信を「対応原理」と名付け、それを使って原子スケールで考えうる可能性のうち、マクロな領域に拡張したときに古典物理学の結果につながらないものを捨てた。1913年以降、量子物理学と古典物理学のあいだに口を開けていた裂け目にボーアが橋を架けることができたのは、その対応原理のおかげだった。ボーアの助手だったヘンドリク・クラマースがのちに述べたように、ボーアのそんな方法論のことを、「コペンハーゲンの外では通用しない魔法の杖」と呼ぶ者もいた。みんなはその杖を振りこなせずに悪戦苦闘していたが、アインシュタインはそこに、自分に匹敵する魔術師の仕事を見て取った。
周期表に関するボーアの理論にしっかりした数学的基礎がないことを不満に思う者はいたにせよ、彼が次々と打ち出すアイデアに感心しない者はいなかった。また、さまざまな未解決問題について理解が深まったのも確かだった。ボーアはコペンハーゲンに戻るとすぐに、ある物理学者への手紙のなかで、「ゲッティンゲン滞在は何もかもがすばらしく、とても勉強になりました」と述べた。「みなさんがわたしに示してくださった友情がどれほど嬉しかったか、とても言葉では言い表せません」。もはや彼は、理解されないとか、孤立しているなどと感じることはなくなった。』
17.量子論から量子力学へ
●“量子のスピン”という純粋に量子的な概念は、既存の物理学という枠組みの中でそのカケラを「量子化」するという方法には限界があることを明らかにしました。
『プランクの黒体放射の法則からアインシュタインの光量子へ、さらにボーアの電子の量子論からド・ブロイの物質の波と粒子の二重性へと、四半世紀以上にわたって繰り広げられてきた量子物理学の進展は、量子的概念と古典物理学との不幸な結婚から生み出されたものだった。しかしその結婚は、1925年までにはほとんど破綻していた。アインシュタインは1912年の5月にはすでに、「量子論は、成功すればするほどますます馬鹿馬鹿しく見えてきます」と書いた。求められていたのは新しい理論―量子の世界で通用する新しい力学だった。
「1920年代半ばに成し遂げられた量子力学の発見は、十七世紀に近代物理学が誕生して以来、物理理論の分野に起こったもっとも意義深い革命だった」と、アメリカのノーベル賞受賞者スティーブ・ワインバーグは述べた。』
『ハウトスミットとウーレンベックは、それまでの量子論はすでに適用限界に突き当たっているということを、はじめて具体的な証拠で示した。理論家はもはや、古典物理学という足場の上に立ち、既存の物理学のカケラを「量子化」するという方法で間に合わせるわけにはいかなくなった。なぜなら電子のスピンは、それに対応する古典物理学の概念のない、純粋に量子的な概念だからである。パウリとふたりのオランダ人がスピンをめぐって成し遂げた発見は、「古い量子論」が達成した数々の偉業の締めくくりとなる仕事だった。あたりは危機感が漂っていた。物理学が置かれた状態は、「方法論という観点から言えば、論理的に一貫した理論というよりはむしろ、仮説、原理、定理、計算方法の寄せ集めと言うべき嘆かわしい状況」だった。物理学の進展が、科学的な論証によってではなく、芸術的な推理や直観によって起こることもしばしばだったのだ。
パウリは排他原理発見から半年ほど経った1925年の5月に、「現在、物理学はまたしても滅茶苦茶です。ともかくわたしには難しすぎて、自分が映画の喜劇役者かなにかで、物理学のことなど聞いたこともないというならよかったのにと思います」とクロー二ヒへの手紙に書いた。「ボーアが今度もまた、何か新しいアイデアを出して、わたしたちを救ってくれるのだろうと期待しています。いますぐやってくださいと頼みたい気持ちです。彼によろしくお伝えください。わたしに対する親切と辛抱強さ、そのすべてにお礼申します、と」。しかしそのボーアは、「われわれが現在直面している理論上の問題」に対しては、何の答えも持ち合わせていなかった。その春、誰もが待ち望む「新しい」量子論―量子力学―をひねり出せるのは、量子の手品師ぐらいだろうと思われた。』
18.量子の手品師
●量子に関わる多くの物理学者が待ち望んだ量子力学、その領域にたどり着いた「量子の手品師」は、ドイツの神童、ヴェルナー・カール・ハイゼンベルクでした。
『「運動学的および力学的な諸関係についての量子論的再解釈」は、誰もが待ち望み、ある者たちにとっては自分が書きたかった論文だった。「ツァイトシュリフト・フュール・フィジーク」の編集人がその論文を受け取った日付は、1925年7月29日。科学者たちが「アブストラクト」と呼ぶ「前書き」のなかで、著者は大胆にも、次のような壮大な計画を示した―その論文の目標は、「原理的には観測可能であるような量のあいだの関係だけにもとづいて、量子力学の理論的基礎を確立することである」と。十五ページほど先でその目標は達成され、著者ヴェルナー・ハイゼンベルクは未来の物理学の基礎を築いた。この年若いドイツの神童は、いったい何者なのだろうか?彼はいかにして、ほかの人たちができなかったことを成し遂げたのだろうか?』
※ヴェルナー・ハイゼンベルクは1901年12月5日、ドイツ、バイエルン州の町ヴュルツブルクに生まれ、若干26歳でライプツィヒ大学の教授になりました。
『ハイゼンベルクの関心を、アインシュタインの相対性理論から、彼がのちに名をなすことになる量子論に向けさせたのは、相対性理論に関するみごとな解説を書いている最中のパウリだった。彼は、この先大きな実りがある分野は、むしろ原子の量子論だと言ったのだ。「原子物理学の分野には、まだ解釈されていない実験結果がどっさりあるんだ」とパウリは言った。「ある領域では、自然界の性質を明らかにしてくれる証拠だと思えるものが、別の領域で得られた証拠と矛盾するように見える。そのせいで、証拠同士の関係についての統一的な描像はまだ半分も描けていないのさ」。これから先まだ何年も、誰もが「深い霧の中で手さぐり」することになるだろう、とパウリは言うのだった。ハイゼンベルクはそんな彼の言葉を真剣に聞きながら、あらがいようもなく量子の世界に引き寄せられていった。』
『第五回ソルヴェイ会議は、「電子と光子」をテーマとして、1927年の10月24日から29日にかけて、ベルギーの首都ブリュッセルで開催された。その会議に参加した人たちの集合写真には、物理学の歴史上、もっとも劇的だった時代が濃縮されている。招待された29人の物理学者のうち、最終的には17人がノーベル賞を受賞することになるこの会議は、歴史上、もっとも輝かしい知性の邂逅のひとつだった。そして、また、物理学の黄金時代―ガリレオとニュートンによってその幕を切って落とされた十七世紀の科学革命以来、科学的な創造力がもっともめざましく発揮された時代―の終焉を告げる出来事だった。』
画像出展:「aucfan」
著者:マンジット・クマール
発行:2013年3月
出版:新潮社
以下は、本書の巻末に掲載されている年表をベースに、8人の物理学者とその他に分けて作ったものです。その8人は左から、マックス・プランク、エルヴィン・シュレーディンガー、アルベルト・アインシュタイン、ニールス・ボーア、マックス・ボルン、ルイ・ド・ブロイ、ヴォルフガング・パウリ、ヴェルナー・ハイゼンベルクになります。拡大して頂ければ文字の確認はできると思います。
右端の「その他」の1972年、1982年、1997年、2007年の欄に、ジョン・クラウザー博士、アラン・アスペ博士、アントン・ツァイリンガー博士の名前が出ています(青字)、まさにこの業績によって、2022年のノーベル物理学賞を受賞されました。
画像出展:「讀賣新聞オンライン」
ご参考:Youtube“【量子力学】この宇宙の真実知りたくない人は見ないでください...『シンクロニシティ 科学と非科学の間に』by ポール・ハルパーン”(開始~8分30秒の中で「量子もつれ」を解説されています。なお動画は19分です)
量子物理学の学術的な知識がゼロに等しい私がまとめた今回のブログは怪しげです。また、身の程知らずのコメントに「いいんだろうか?」という不安な気持ちもあります。しかしながら、私にとっては大きな前進となりました。今まで、興味だけで数冊の量子論、量子力学の本に挑戦してきて分かったことは、量子は存在すること、量子は古典物理学(ニュートン力学とマクスウェル電磁気学)の常識を超えた未知の領域にある不思議なものだということです。
天才物理学者が一堂に会した第五回ソルヴェイ会議の中でも、アルベルト・アインシュタインの圧倒的存在感は、この世に並ぶ者がない孤高の天才を証明しているように思います。また、科学者の論争を超えた視点に立ち、あらたな一歩を世界に示したニールス・ボーアの「コペンハーゲン解釈」も、量子力学の発展には欠くことのできないものだったと思います。
プランク、ボルン、パウリ、ハイゼンベルク、シュレーディンガー、ウーレンベック等の傑出した才能と強烈な個性の妥協なきぶつかり合いが量子論を磨き上げ、古典物理学とは異なる量子物理学を確立できたのだと思います。
そして、その中心にいたのは、使命感に燃え生涯をかけたニールス・ボーアと、一般相対性理論を発見し統一場理論という理想を追求し続けたアルベルト・アインシュタインだったと思います。
量子論や量子力学が難解なのは間違いないのですが、以下のサイトの最後に書かれている通り、これらは、既に生活の中に深く入り込んでいます。その代表的なものが半導体です。
画像出展:「量子力学と私たちの暮らし(無印良品)」
『リニア新幹線に使われる「超伝導モーター」や「量子コンピュータ」など、今後も「量子力学」にもとづく先端技術は次々と生まれ、暮らしの中に入ってくることでしょう。不思議は不思議のまま置いとくとして、「量子力学」が今後の私たちの暮らしを大きく変えていくことだけは間違いなさそうです。』
1970年代後半、半導体は「産業の米」と呼ばれていました。そして、2030年日本の半導体市場は100兆円規模まで拡大すると言われています。量子力学の発見なくして現代の進歩はあらず、人類最大の発見と言っても過言ではないと思います。
ブログは20世紀初頭の量子革命の論争を、主にボーアとアインシュタインを中心にまとめました。見出しに続き、気づいたことや感じたことを最初に書いています。
目次
プロローグ 偉大なる頭脳の邂逅
第一部 量子
第一章 不本意な革命―プランク
第二章 特許の奴隷―アインシュタイン
第三章 ぼくのちょっとした理論―ボーア
第四章 原子の量子論
第五章 アインシュタイン、ボーアと出会う
第六章 二重の貴公子―ド・ブロイ
第二部 若者たちの物理学
第七章 スピンの博士たち
第八章 量子の手品師―ハイゼンベルク
第九章 人生後半のエロスの噴出―シュレーディンガー
第十章 不確定性と相補性―コペンハーゲンの仲間たち
第三部 実在をめぐる巨人たちの激突
第十一章 ソルヴェイ 1927年
第十二章 アインシュタイン、相対性理論を忘れる
第十三章 EPR論文の衝撃
第四部 神はサイコロを振るか?
第十四章 誰がために鐘は鳴る―ベルの定理
第十五章 量子というデーモン
以下はブログの目次です。なお、ブログは6つに分けています。
1.量子の発見
2.「奇跡と年」と光量子説
3.論争を分けたアインシュタインの価値観
4.アインシュタインの数学
5.“量子テレポーテーション”
6.ボーアの人柄と信念
7.原子の量子論
8.相対性理論>量子論
9.一般相対性理論
10.1916年、光量子の確立
11.因果律の否定
12.アインシュタインとボーアの出会い
13.量子との格闘
14.ボーア祭りとアインシュタインの命の危機
15.スピンという量子的な概念
16.古典物理学と量子物理学との架け橋
17.量子論から量子力学へ
18.量子の手品師
19.古典物理学からの解放
20.観測可能な量だけを使って作った理論
21.(A×B)-(B×A)≠ゼロ
22.量子物理学の新時代の幕開けを告げる論文
23.行列演算と量子力学
24.論理的に矛盾のない量子力学を定式化した「三者論文」
25.守備範囲の広い理論家
26.シュレーディンガーが「作った」波動方程式
27.ハイゼンベルクの難解な行列力学とシュレーディンガーの直感的な波動力学
28.数学的には等価だが物理的世界が異なる波動力学と行列力学
29.波動力学の限界
30.古典的確率とは異なる量子的確率を使って波と粒子を統合する方法
31.アインシュタインとハイゼンベルク
32.アインシュタインにとっての行列力学
33.ボーアとハイゼンベルク(量子の世界のあいまいさの核心、波と粒子の二重性の問題)
34.ハイゼンベルクの不確定性原理
35.不確定性原理を表す式、ΔpΔp≧h/2πとΔEΔt≧h/2π
36.波と粒子の二重性を受け入れるための相補性
37.1927年9月、イタリアのコモで開催された国際物理学会
38.1927年10月24日~10月29日第五回ソルヴェイ会議
39.ボーア(コペンハーゲンメンバー)とアインシュタインの議論
40.「コペンハーゲン解釈」という命名は1955年(28年後)
41.アインシュタインの統一場理論とEPR論文
42.理論と哲学的立場
43.統一場理論
1.量子の発見
●量子の発見者はマックス・プランクです。それは1900年、量子は粒子と波の性質をあわせ持った、とても小さな物質でエネルギーの単位といわれています。
『1900年にプランクは、光をはじめあらゆる電磁放射のエネルギーは、ある大きさの塊でしか、物質に吸収されたり物質から放出されたりできないと考えざるをえなくなった。「量子」とは、そんなエネルギーの塊に対し、プランクが与えた名前だった。「エネルギー量子」という考え方は、確立されて久しいエネルギー観―すなわち、エネルギーはあたかも蛇口から流れ落ちる水のように、なめらかに途切れなく放出されたり、吸収されたりするという考え―と、きっぱり手を切る過激な提案だった。ニュートン物理学に支配された巨視的な日常の世界では、水がポタリポタリと雫になって蛇口から滴ることはあっても、エネルギーがさまざまなサイズの滴として交換されることはなかった。だが、原子やそれ以下の階層は、量子の支配する領域なのだ。
やがて、原子の内部に存在する電子についても、そのエネルギーは「量子化」されていることが明らかになった―原子内の電子は、とびとびの値のエネルギー量しかもつことができないのである。同様のことは、エネルギー以外の物理量についても言えた。微視的な領域は、ぶつぶつに切り離された離散的な世界であって、単に日常世界をスケールダウンしただけではないことが明らかになったのだ。日常の生活では、点Aから点Cに移動するためには、どこか中間の点Bを通過しなければならない。ところが微視的な世界では、原子内の電子はエネルギー量子を放出したり吸収したりすることで、いかなる中間点も通過することなく、ある場所で消え、次の瞬間には別の場所にひょっこり現れることができるのだ。そんな現象は、連続的な古典物理学で扱える範囲を超えていた。それはあたかも、ロンドンで謎のように消えた物体が、次の瞬間にはパリ、あるいはニューヨークやモスクワに現れるようなものだった。』
2.「奇跡と年」と光量子説
●アインシュタインが成し遂げた1905年は「奇跡の年」と言われています。それは学術誌に寄稿した四篇の論文です。
1)光量子説
2)原子の大きさを求める新しい方法を提案するもの
3)ブラウン運動―液体中に浮かんだ微粒子がランダムに動きつづける運動―を説明するもの
4)相対性理論の構想を示したもの
『アインシュタイン自身が「真に革命的」だと言ったのは、相対性理論ではなく、光と放射に関するプランクの量子概念を拡張した仕事のほうだった。アインシュタインにとって相対性理論は、すでにニュートンやその他の人びとによって確立された考えを、「修正した」だけにすぎなかったのに対し、光の量子という新しい概念は、完全に彼の独創であり、従来の物理学との断絶の大きさという点では、もっとも過激だと考えていたのだ。アマチュアの物理学者とはいっても、そんな説を唱えるのは冒瀆的なことだった。
それまで半世紀以上にわたり、誰もが光は波だと思っていた。ところがアインシュタインは、「光の生成と変換に関する、ひとつの発見法的観点について」と題したその論文で、光は波ではなく、粒子状の量子でできているという説を打ち出したのだ。』
●光は波であるというのが当時の常識でした。アインシュタインの「光量子仮説」はマックス・プランクが提唱した「エネルギー量子仮説」を拡張し、光はプランク定数と振動数を掛け合わせたエネルギーを持つ粒子(光量子)の集合体であるとするものでした。この革新的な仮説を信じる物理学者はほとんどおらず、アインシュタインの考えは孤立していましたが、18年後の1923年、アーサー・コンプトンによる「コンプトン効果」により「光量子仮説」は完全に立証されました。なお、この事実はニールス・ボーアにとっても衝撃的なものでした。
ご参考:“量子仮説と光量子仮説の違い”(ミクロの世界でエネルギーが不連続であることを解明したのが量子仮説。光は波と粒子の二重性があることを示したのが光量子仮説です)
ご参考:“光電効果と光量子仮説”
ご参考:“光量子仮説 と 光電効果”(【ミクロの世界-その1-】より)
3.論争を分けたアインシュタインの才能と価値観
●スイス特許局の3年間では「多面的に考える」訓練になったという話をされています。アマチュア物理学者時代を経て、世界最高の物理学者の一人となったアインシュタインの無二の才能は、「気味悪いほどの洞察力」と「本質を見抜く嗅覚」であり、最後まで譲ることがなかったのは、物理学の「実在性」だったようです。
『「彼(アインシュタイン)は、良く知られたなにげない事柄の陰に隠れて、みんなに見逃されていた意味を見抜くという、天賦の才に恵まれていた」と述べたのは、アインシュタインの友人で、やはり理論物理学者のマックス・ボルンである。ボルンはさらにこう続けた。「彼をわれわれと隔てていたのは、数学の技量ではなく、自然の仕組みを深く見通す、気味が悪いほどの洞察力だった」。アインシュタインは、数学では直観があまり働かず、真に重要なことを、「本質的でないことから」選り分けることができないと考えていた。しかし物理学になると、彼の嗅覚は誰にも負けなかった。物理学に関するかぎり、すでに学生時代には、「基礎につながる問題だけを嗅ぎつけ、その他の問題―こまごましたことで頭を埋め尽くし、重要なことを見えなくさせるたぐいの問題―から選り分けることができるようになった」と、アインシュタインは述べている。』
4.アインシュタインの数学
●1896年10月、アインシュタインは理数科教員養成課程に入学しました。同期は11人、うち数学と物理学の教員になろうとする学生はアインシュタインを含め5人でした。その中で唯一の女性であった、ミレヴァ・マリチは後にアインシュタインの妻となりました。また、半世紀に渡った量子力学との格闘では、アインシュタインの数学がひとつのターニングポンとになったように思います。
『ミュンヘン時代には、彼の聖典となった小さな幾何学の本をむさぼるように読んだアインシュタインだったが、数学そのものにはすでに興味を失っていた。「ポリ」で数学を教えていたヘルマン・ミンコフスキーは当時を振り返って、アインシュタインは「怠け者」だったと言った。アインシュタインは後年、そうなったのは数学が嫌いだったからではなく、「物理学の基本原理についての深い知識に近づくことは、数学的方法と密接に結びついている」ということが、当時はわからなかったためだと語った。その結びつきを、彼はその後の研究生活で苦労して知ることになる。彼は、「もっとしっかり数学を勉強しなかった」ことを悔やんだ。』
ご参考:“数学と物理の絡み合い” PDF43枚
5.“量子テレポーテーション”
●「1913年7月に発表された第一部の論文([原子と分子の構成について]という同一タイトルの三部作)は、量子を原子の内部にじかに持ち込んだ、真に革命的な仕事だった」との高い評価を受けています。ボーアが気づいた奇妙な性質は“量子テレポーテーション”と呼ばれています。これは、量子状態を転送する技術であり、古典的な情報伝達手段と量子もつれの効果を複合的に利用して行われます。
『ボーアは、電子の量子飛躍には、非常に奇妙な性質があることに気がついた。飛躍しているときの電子の所在については、何も言えないということだ。軌道間の飛躍―エネルギー準位間の遷移―は、瞬間的に起こらなければならない。さもないと、軌道から軌道へと移動するあいだに、電子はエネルギーを放出してしまうからだ。ボーアの原子の内部では、電子は軌道と軌道のあいだの空間には存在することができない。電子はまるで魔法のように、ある軌道上から消えた瞬間、別の軌道に姿を表すのだ。』
“量子テレポーテーション”の実験は84年後の1997年、フランチェスコ・デマルティ―率いるローマ大学の研究チームが成功させました。
ご参考:Youtube“【簡単解説】数式なしで理解したい!「量子テレポーテーション」や「量子もつれ」の原理や仕組み、方法を初心者にも分かるように解説!” (9分33秒~13分33秒に量子テレポーテーションについて解説されています。難解な内容を分かりやすく解説されていると思います)
6.ボーアの人柄と信念
●ボーアの論文([原子と分子の構成について]という同一タイトルの三部作)制作に関して、指導教授のような存在であったアーネスト・ラザフォードに相談する場面があるのですが、ボーアの人柄や研究に対する信念(執念)が出ている興味深いものでした。
『もうひとつ、小さな問題ではあったが、ボーアが深く悩んだ指摘があった。ラザフォードはその論文を、「切り詰めなければ」ならないと言ったのだ。「論文が長いと、じっくり読んでいる余裕がない読者の腰が引けてしまう」というのだ。なんなら英語を直すのを手伝おう、と述べた後、ラザフォードは追伸として、次のように書いた。「不必要と思う部分は、わたしの判断で削除してもかまいませんね? 返事待ちます」
それを読んでボーアは恐れおののいた。単語ひとつ選ぶのにも苦しみ抜き、果てしなく推敲を重ねる彼にとって、たとえそれがラザフォードであろうとも、自分以外の人間が論文に手を加えるなどとは、考えることさえできなかったのだ。二週間後、ボーアは変更と追加を書き込み、さらに長くなった改訂版の原稿を送った。ラザフォードはボーアの改訂を、「良くできているし、妥当な改訂のように思われます」と言ってくれたが、このときもやはり論文を短くするように強く求めた。その二度目の返事を受け取る前に、ボーアはラザフォードに、今度の休暇にマンチェスターに伺いますと告げた。
ボーアが玄関の扉をノックしたとき、ラザフォードは友人のアーサー・イヴをもてなしているところだった。イヴの回想によれば、ラザフォードはすぐに、その「ひょろりとした男の子」を連れて書斎に行き、その場に残ったラザフォード夫人が、今のはデンマーク人で、夫は「あの若者の仕事を、とても高く買っているのです」と言ったという。それから数日のあいだ、夕方何時間も議論に議論を重ね、ボーアは一字一句省くことなどできないと懸命に訴えた。ボーアが後年語ったところでは、ラザフォードはその間、「ほとんど天使のような忍耐力を示した」という。
やがてラザフォードは疲労困憊し、ついに折れた。のちにラザフォードは、この一件を友人や仲間の物理学者たちに話して聞かせるようになった。「彼が論文の一字一句を大切にしていることが良くわかったよ。すべての文、すべての言い回し、すべての引用を、断じて捨てるつもりがないんだ。あの覚悟にはほとほと感心させられたね。どれもこれも、明確な理由があって書いているのだ。わたしははじめ、省略できる文はたくさんあると思っていた。しかし彼の説明を聞いているうちに、全体がきわめて緊密に織りあげられているので、変更できる箇所はひとつもないのだということがわかったよ」。皮肉にも、ボーアはずっと後になって、「議論の提示のしかたが明確でない」というラザフォードの意見は正しかったと述べた。』
7.原子の量子論
●ボーアの論文は画期的でしたが、特に当時の常識に照らし合わせると難しい要素を数多く含んでいました。
『ボーアは、古典物理学と量子力学を混ぜこぜにして、自分の原子モデルを急ごしらえに組み立てた。その過程で、広く認められていた物理学の常識を破るようなことを提唱した。まず、原子内電子は、定常状態という、特定の軌道しか占めることができないということ。つぎに、定常状態にある電子は、エネルギーを放射できないということ。そして、原子は多数ある飛び飛びのエネルギー状態のうち、どれかひとつの状態を占めるということだ。それらの状態のうち、エネルギーがもっとも低い状態を、「基底状態」という。そして電子は、「どういうわけか」、エネルギーの高い定常状態から低い定常状態へと飛び降りることができ、そのエネルギー差をエネルギー量子として吐き出す、というのだった。しかし彼の原子モデルは、水素原子のいくつかの性質―水素原子の半径など―を正しく予測することができたし、線スペクトルが生じる理由を物理的に説明することもできた。のちのラザフォードは、原子の量子論は、「物質に対する頭脳の勝利であり」、ボーアがその謎を解明するまでは、ラザフォード自身、線スペクトルの謎が解けるまでには、「何百年もかかるだろう」と思っていたと述べた。
ボーアの仕事がどれほど大きな事件だったかを知るためには、原子の量子論が引き起こした反応を見ればよい。1913年9月12日、英国科学振興協会(BAAS)の第八十三回年会が、バーミンガムで開かれた。それは原子の量子論が公の場で論じられる最初の機会となった。聴衆の中にはボーア自身もいたが、彼の仕事への反応は冷ややかで微妙だった。J・J・トムソン[1897年、電子を発見した]、ラザフォード、レイリー、ジーンズという錚々たる顔ぶれがそろい、外国からの著名な参加者には、ローレンスやキュリーもいた。ボーアの原子モデルについて強く意見を求められたレイリーは、「70歳を過ぎた者は、新しい理論について性急にものを言うべきではないでしょう」と社交辞令を使った。しかしそんなレイリーも、親しい人たちに対しては、「自然はそんなふうには振る舞わない」し、「そんなことが現実に起こっているとは考えにくい」と語った。トムソンは、ボーアがやったように原子を量子化する必要なないと言い、ジェームズ・ジーンズは、失礼ながら賛成しかねる、という言い方をした。ジーンズは、聴衆でいっぱいの会場で行った講演のなかで、ボーアのモデルが正当化されるためには、「非常に重みのある成功」を収める必要があるだろうと述べた。
ヨーロッパ大陸では、原子の量子論は激しい反発を買った。ある白熱した議論のさなか、マックス・フォン・ラウエは、「まったくのナンセンスだ! マクスウェルの方程式はいかなる状況下でも成り立つ。円軌道を描く電子は、放射を出さなければなりません」と述べた。ゲッティンゲンにいたボーアの弟ハーラルは、当地では彼の仕事に大いに関心が寄せられているが、彼の仮設はあまりに「大胆」かつ「荒唐無稽」だと思われているようだ、と教えてくれた。
ボーアの理論は、初期にひとつの成功を収め、アインシュタインを含めて何人かの支持を得ることができた。』
8.相対性理論>量子論
●アインシュタインにとって、数学は物理学ほど興味を持てる学問ではなかったようです。目にはみえないミクロの世界の量子は数学に頼ることが多く、「ゴリゴリの光量子信者ではありません」という自身の発言になったのだと思います。そして、アインシュタインは相対性理論を拡張するという仕事の方を優先しました。
『アインシュタインは、量子にも、光の二重性にも、容易にはなじめないと思うようになった。彼はヘンドリク・ローレンツへの手紙にこう書いた。「はじめにお断りしておきたいのですが、わたしはあなたが思っていらっしゃるような、ゴリゴリの光量子信者ではありません」。自分がそう誤解されてしまうのは、「論文にあいまいな書き方をしてしまったためです」と彼は言った。まもなくアインシュタインは、「量子は本当に存在するのか」を問題にすることさえやめてしまった。1911年11月に、「放射理論と量子」というテーマで開かれた第一回ソルヴェイ会議から戻ったアインシュタインは、もうたくさんだとばかり、量子の狂気を頭の片隅に追いやった。それから四年間、ボーアが原子の量子論をひっさげて舞台中央に登場しつつあるちょうどそのころ、アインシュタインは重力を取り込むために相対性理論を拡張するという仕事に専念するという仕事に専念すべく、量子のことは事実上棚上げにする。』
株を始めたのは入社5年目です。
きっかけは、営業管理部門から営業に移り、そこのH課長さんに「お金はわずかで良いので、勉強になるから株をやってみたらどうだ」というアドバイスを頂いたことです。確かに営業として顧客を理解する一つの手段になるのは間違いないと思い、自分自身納得して始めました。
その後、かなり長く休眠していた時もあったのですが、40歳を過ぎて「本気でやってみっか!?」という思いが何となく浮かびました。当時、オフィスがあった西新宿のお昼どきだったと思います。
マネックス証券の松本社長の著書だったか、ネットでみた記事だったかは定かではないのですが、「株をやるなら、就職したくなるような会社の株を買ったらいい」という話が頭にありました。また、営業マンだったためか「理解できる会社・業界がいいのではないか」という考えもありました。
そこで、日本HPというITの会社に勤務していたこともあり、ターゲットを外資系ITに限定し、2、3の銘柄にしぼって長期運用することにしました。株式に費やす時間は週1時間程度、「売らなければ損はしない(株が暴落しても慌てない)」、「会社経営のリーダーシップと会社方針が1番大事」という2点を最重要項目として肝に銘じ、挑戦をスタートさせました。
20年後、売買はほとんど直感頼みでしたが、幸い大きな成果を得ることができました。
そして今年、65歳になり「どうせやるなら、少しは投資家っぽくなりたいもんだ。直感頼みではなく、情報とプランに基づいて運用できるようになってみたいもんだ」との思いから、そのための準備を始め、自分なりに熟慮を重ねた結果「ひとまず、次のような方針でやってみよう」ということにしました。
1.分散投資
a)株式
●米国株…80%以上(テクノロジー関連限定)
●日本株…20%未満(3銘柄以下に絞る)
b)株式以外
●S&P500ETF
●米国債券ETF
●米国短期国債
2.運用
●長期運用
●リバース運用
●休むことも運用
3.情報源
●経済指標カレンダー(マネックス証券)
●マネクリ(マネックス証券)
●“ばっちゃまの米国株”(以下のサイトは“ばっちゃま”さんに教えて頂きました)
●VIX(Volatility Index:恐怖指数)
●AAII Investor Sentiment Survey
●Put/Call Ratio(MacroMicro)
●finviz(MapsだけでなくNewsなど、他のコンテンツも大変充実しています)
●Motley Fool(“Earnings
Transcripts”[決算報告]も掲載されています)
●CME FedWach(金利予想です。左メニュー上段、”Probabilities"をクリックして下さい)
※【永久保存版】米国株投資家の俺が広瀬隆雄氏から学んだ最強の投資法とプロの投資マインド
4.時間
●基本、1日1時間以内。
☆ウォーレン・バフェットの言葉
『私はただ、明らかに他のものよりも優れていて、私が理解できるものを見るだけだ。』
『強気相場は悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていく。』
※以下のグラフは、DAILY FXの”Market Cycles | Phases, Stages, and Common Characteristics”から拝借しました。
長い前置きでしたが、今回のメインテーマは米国債券を理解することです。勉強させて頂いたのは、『証券会社がひた隠す 米国債券投資法』です。
著者:杉山暢達
発行:2018年1月
出版:KKベストセラーズ
目次は第3章のみ全て記述、第3章以外は大項目と中項目のみで小項目は記述していません。
ブログに取り上げたのは、黒字の個所になります。
まえがき
第1章 儲け話は山ほどあるけどリスクも山盛り
●「株価の上下は神のみぞ知る」が常識
●ノーベル賞受賞者がファンドをやったら
●運用のプロたちは本当に勝ち続けているのか?
●儲け話は「勝っても地獄、負けても地獄」そのワケとは?
●古今東西いつの時代もはびこる儲け話
●なぜ日本人は金融リテラシーが低いのか?
●年金のインフレーション・デフレーション
●かつて日本円は360円だった。為替とは「変動するもの」
●日本が「AAA」から「A」に格下げされたことの意味
●円安のカウントダウンが始まった。
第2章 なぜ日本人はタンス預金が好きなのか?
●これほど「元本」にこだわるのは、日本人だけ
●複数の銀行に預けても、「日本円」ではリスク分散にならない
●「投資信託」は運良く儲かっても手数料負け
●証券マンは胃が10個あっても足りない
●カモネギ日本人の、間違いだらけの投資法
●イソップ物語が教える運用法。最後に勝つのはアリやカメ
第3章 お金が勝手に増えていく米国債投資の仕組み
●そもそも債券って何?
・債券とは「貸金」
・ゼロクーポン債の仕組み
・日本の国債をお勧めできない理由
●元本がきちんと返ってくるのは債券だけ
・まずは元本を守るということ
・ゼロクーポン債の「収益性」
・「流動性」が資産のバランスを整える
●雪だるま式に増える複利の魅力
・お金が増える「複利」の法則
・米国ゼロクーポン債と為替リスク
第4章 ノーリスク、ストレスフリーの米国債の秘密
●米国債は1年に1度思い出すだけでいい
●米国債なら元本割れリスクはほぼゼロ
●維持費ゼロ!これが他の投資にはない米国債の強み
●どれくらいの金額で、どのように買えばいいのか
●つみたてNISAと米国債で将来不安が激減
●米国債は、農耕民族の日本人にフィットする
●40歳超でも旨味がある米国債投資法
第5章 デメリットは米国が破産したときだけ
●米国債投資に向かない人とは?
●途中解約は元本割れの可能性あり
●為替リスクは、1ドル50円を超える円高だけ
●米国債投資が向かない人
●円安が進むほど米国債投資のメリットは高まる
●米国以外の国債はどうなのか?
第6章 生命保険をやめて米国債を買う
●あなたは毎年、保険料をいくら払っていますか?
●保険商品は「定期」だけでいい?
●他の制度とうまく組み合わせること
●保険の担当者に米国債の話をしてみよう
第7章 老後の資金が毎月10万円入ってくる
●もしも65歳から年金プラス10万円がもらえたら
●米国債投資に必要なのは「口座」「キャッシュ」「スマホ」だけ
●手続きは他の金融商品のなかで、最も簡単
●古都の老舗の旦那衆も米国債は御用達
●20代からの「ズボラ年金」の始め方
●個人型確定拠出年金「iDeCo(イデコ)」と米国債
教えて!米国債 Q&A
あとがき
第1章 儲け話は山ほどあるけどリスクも山盛り
●古今東西いつの時代もはびこる儲け話
・「空売り」とは投資対象(例えば“株”)を所有することなく、売り契約を結ぶこと。
※ご参考:“株の空売りの仕組みとは|シンプルな図解で分かりやすく解説”
※ご参考:“株の「空売り」とは?仕組みやメリット、やり方をわかりやすく解説!”
・「レバレッジ」とは株やFX、不動産投資などでよく使われる。定義は「他人の資本を活用して、自己資本に対する利益を高めること」となる。一言でいえば、「借金して投資する」ということ。「空売り」同様、リスクの高い金融商品である。
●なぜ日本人は金融リテラシーが低いのか?
・海外では学校で、基礎教育として金融について学んでいるが日本では行われていない。そのため、何も勉強せずに株や投信に手を出すことは危険である。
●かつて日本円は360円だった。為替とは「変動するもの」
・FXとはForeign Exchangeの略で、「外国為替証拠金取引」のことである。「日本円⇒米ドル」など通貨を買ったり売ったりしたときに発生する利益に狙う取引である。為替の上下で損得が決まるので、とてもギャンブル性が高い。
●日本が「AAA」から「A」に格下げされたことの意味
・日本の格付けは高いもののトップグループではない。この理由の一つは国の借金で、2023年末には1,068兆円になると予想されている。
※ご参考:“【基礎解説】格付けとは?格付け会社や国債の格付けを紹介!”
※ご参考:“日本国債の格下げ、日銀の政策転換が契機に”
※ご参考:“1~2年は日本格付け変わらない、日銀正常化波乱ならリスク”
※ご参考:“労働生産性の国際比較”
画像出展:「財務省:日本の借金の状況」
画像出展:「ファクトから考える中小製造業の生きる道」
2019年(22年後)
日本:20位(44.6)
米国:7位(77.0)
1997年から2019年の生産性の伸びは、日本は27.8%、米国は215.0%で、米国は日本より約7.7倍、労働生産性が改善されました。
●円安のカウントダウンが始まった。
・一般的には国力の低下はその国の通貨の価値を下げる。日本は超高齢化、少子化、人口減少が懸念され、これらは国力低下の要因に波及するので、中長期的には円安に向かう可能性がある。
※ご参考:“アメリカ合衆国の人口ピラミッド(1950-2100) / 単位(Unit): 千人 / 2019年推計”(Youtube)
※ご参考:“日本の人口ピラミッド(1950-2100) / 単位(Unit): 千人 / 2019年推計”(Youtube)
画像出展:「【日本】未来人口ピラミッド「低位 vs 中位」(-2100) / 2022年推計(note)」
上記の動画が削除されていたので、日本だけですが26年後(2060年)の予想図を貼ります。(2024年8月30日)
第3章 お金が勝手に増えていく米国債投資の仕組み
●そもそも債券って何?
・債券とは「貸金」
-株式は企業への「出資」になるが、債券は「貸金」になる。つまり、債券は借用証書に相当する。
-株式(出資)は、企業価値が高まるとキャピタルゲイン(株価の上昇)やインカムゲイン(配当金)が期待できる反面、株価が下がる場合もあり、上がるか下がるかは企業の業績次第である。
-債券(貸金)の場合は、期間を定めて返済されるが貸金なので利子がつく。多くの債券は購入時に利子が確定しているので、満期まで保有していればいくらになって戻ってくるか明確である。従って、安全性が高い金融商品といえる。
-債券も株式同様、自由に売却ができる。ただし、その場合は流通価格で売却することになる。
・ゼロクーポン債の仕組み
-「クーポン」とは債券に付随する利金ことである。「ゼロクーポン(ゼロクーポン債)」とは、利金がつかない債券を意味する。この「ゼロクーポン」は、利金はつかないが、購入時に額面金額より安く買えるという特徴がある。そのため、「ゼロクーポン」は「割引債」と呼ばれることもある。償還日には額面金額で支払われるため、その償還差益が利金の代わりとなる。
-利金がつくやタイプの債券は、一般的に「利付債」と呼ばれている。「利付債」の魅力は利金がつくため、定期的な収入が得られることである。
-例えば30年物の米国ゼロクーポン債に100万円投資すると、30年後には概算で2.2倍の220万になって返ってくるイメージである(税金及び為替変動は考慮せず)。元本を減らすことなく債券特有の安全性を維持し、これだけのリターンを得られる金融商品は他に見つけることはできない。
・日本の国債をお勧めできない理由
-米国より低い格付けにもかかわらず、利回りも悪いからである。ただし、為替変動のリスクはない。ただし、為替変動のメリットもない。
●元本がきちんと返ってくるのは債券だけ
・まずは元本を守るということ
-債券は満期日の償還額(額面金額)が決まっているので、額面金額を受け取れる。ただし、理論的には発行元の倒産や破綻によって元本の返済や利払いができなくなることがある。そのため、高い格付けの債券を選択すべきである。
・ゼロクーポン債の「収益性」
-債券は途中で売却することもできる。その場合、売却価格は流通価格となる。価格が上がっていれば、途中売却による収益(キャピタルゲイン)を得ることができる。
・「流動性」が資産のバランスを整える
-米国債は世界中で売買されているので、流動性が高く売買しやすいという利点もある。
●雪だるま式に増える複利の魅力
・お金が増える「複利」の法則
-単利とは元本だけに利息がつくもの。元本が100万円で単利が10%の場合、1年後は110万円、2年後は120万円と毎年元本(100万円)の10%(10万円)が加算されていく。
-複利とは元本と利息を含めた金額に利息がつくもの。元本が100万で複利が10%の場合、1年後は110万円、2年後は121万円、3年後は133万円と少しずつ増える金額が多くなっていく。
-元本1,000万円、年利10%を単利と複利について、10年後の金額で比較すると、単利は2,000万円、複利は約2,590万円になる。
・米国ゼロクーポン債と為替リスク
-米国債では為替変動によって日本円の価値は上下する。もし、円高によりドルの価値が下がっている場合でも、そのままドルで持ち続けることができるなら、円安になるまで待って円に換えれば為替による損失を避けることは可能である。
※ご参考:“MUFG 外国為替相場チャート表" 表示期間を“5年”にして頂くと2020年がやや円高ですが、これはコロナの影響(日本での感染の確認は2020年1月15日)が米国の方が深刻だったからではないかと思います。また、短期的にはゼロ金利の見直しにより円高傾向になると考えられますが、長期的には円高局面が長く進行することはないのではないでしょうか。
第4章 ノーリスク、ストレスフリーの米国債の秘密
●米国債は1年に1度思い出すだけでいい
・米国債は「貸金」なので株や投資信託、FXのように投資対象の変化や売買のタイミングで悩んだりすることもない。基本的に「ほったらかし」で運用できる。
・米国ゼロクーポン債を売却せず償還日まで保有するのであれば、購入時に手数料相当分を支払った形になり、その後、手数料はかからない。
・株の「売買手数料」や投資信託の「販売手数料」や「信託報酬」は、米国ゼロクーポン債にはないので有利である。
●米国債なら元本割れリスクはほぼゼロ
・米国債は購入時に利回りが確定する。つまり、いくらの利益($)が出るかが明らかになる。
・『たとえば、米国ゼロクーポン債を野村證券の窓口で購入する場合を考えてみましょう。28年4カ月物米国ゼロクーポン債は、購入単価が「45.52%」となっています(2017年10月時点)。つまり額面金額10,000ドルにしたい場合、4,552ドルで購入できるということです。これが割引債と呼ばれる所以です。額面金額、要するに28年4カ月後にもらえる金額は10,000ドルですが、購入時は「10,000ドル×0.4552[45.52%]=4,552ドル」で買えてしまう。それだけ事前に割引されて(利金分が差し引かれて)、販売しているということです。
ちなみに、この場合の利回りを計算すると、「2.790%」となります。安全に運用できて、かつドルベースで3%近くの利回りが購入時に確定しています。
理論上為替リスクはあるものの、これだけ分かりやすく、しかも安心して購入できる金融商品は、他にありません。』
・万一、米国が破綻する時は地球規模で危機に直面している可能性が高いのではないか。
・米国債の利回りは、米国債は絶えず市場で取引されており、その利回りは常に変化している。
●維持費ゼロ!これが他の投資にはない米国債の強み
・米国債の「口座管理料」は証券会社によって異なる。有料の場合、無料の場合、金額によって口座管理料が無料になる場合があるので、事前に確認すべきである。
第5章 デメリットは米国が破産したときだけ
●途中解約は元本割れの可能性あり
・途中解約は可能。ただし、その時の価格(市場価格)で売却することになるため、購入時の価格を下回る「元本割れ」になる場合もある。従って、安定を最優先にするのであれば途中解約しないことである。
●米国以外の国債はどうなのか?
・米国同等以上の格付けを有している国はあるが、流動性や購入しやすさという点で考えると米国債の方が優れている。
・利付債は利金を得られる一方、複利の効果が得られにくい。貯蓄性を考えると複利効果が大きいゼロクーポン債の方が適している。
重要
「“欲ブタ”になってはいないか?」と自問する。
株をやっていて思うのはメンタルコントロールです。これはスポーツでいえばゴルフに似ているように思います。“ばっちゃまの米国株”さんのお話の中に、“欲ブタ”という言葉が時々出てきますが、英語では“Greedy Pig”となります。日本では「二兎を追う者は一兎をも得ず」に相当すると思います。また、「虻蜂取らず」ということわざもあるようです。
ご参考1:“市場サイクル | フェーズ、段階、および共通の特徴” DAILYFX
『市場サイクルとは、強気市場が最初から最後まで成熟し、その後、強気市場からの行き過ぎが修正される弱気市場に反転するプロセスです。市場の投機が始まって以来、これらのサイクルは同様の形で展開してきました。』
※”ばっちゃの売国株さん”がYouTubeで解説されています。
ご参考2:“G7の1人当たり金融資産の保有金額”
ご参考3:“投資家別の株式売買情報”
画像出展:「西日本新聞」
”個人”は約2割です。
余談
2023年7月20日から“株日記”をつけ始めました。毎日ではないのですが、発見したことや勉強になったことを書き留めています。あるいは持株が大きく下がった時などは、売るべきかか保有するべきかについて、自分なりに調べて分かったことや判断した理由を記録に残すようにしています。
10年後、「これは成功だった」と満足できる成果を上げることができたならば、“アマチュア投資家”の称号を自らに付与したいと密かに思っています。
6章 イノベーションを創出するフレームワーク
1.オープンイノベーションが進展する背景
●厳しい風土が育んだ異業種連携
・デンマークのオープンイノベーションは、文化風土、産業の歴史と密接に関係している。
・天然資源が乏しく、人口の少ない国であり、厳しい自然の中で暮らすために人々は必然的にお互いに協力しあうという文化を育んできた。酪農を営むためは関係者が協同することが不可欠であったし、家具や建築の世界も連携する必要があった。
●複雑化する社会に対応できないシステムの更新
・デジタル化によって各分野の個別システムがつながり、複数の分野を同時に考慮した最適化が行われないと、暮らしやすい都市はつくれないが、現実には行政組織は部門ごとに縦割り組織になっているので、柔軟に対応することができない。
・現代は19世紀につくられた法制度に基づく社会システムの上で、20世紀のビジネスモデルを展開し、そこに21世紀の技術を使おうとしている状況になっているので、さまざまな矛盾が現われている。こうした、時代遅れの社会システムを現在に合う形に再構築するには、異なるセクターの知見を組み合わせたオープンイノベーションが欠かせない。
2.トリプルヘリックス(次世代型産官学連携)
・デンマークではPPP(公民連携:Public Private Partnership)によるスマートシティ・プロジェクトの推進やイノベーションの創出で民間のノウハウを取り入れている。
・コペンハーゲン市はPPPを推し進めるために2009年、コペンハーゲン投資局、広域コペンハーゲン、ジーランド地域が連携して「コペンハーゲン環境技術クラスター」を設立した。このコペンハーゲン環境技術クラスターが特に力を入れていたのが、「トリプルヘリックス(Triple Helix、デンマーク型産官学連携)」である。
・デンマークのトリプルヘリックスは、公的機関、民間企業、研究機関がダイナミックに連携してプロジェクトを進める。日本では各機関からの出向となるが、デンマークでは、このクラスターの正規雇用者となる。
・クラスターの運営責任者はプロジェクトの企画書を作成し、国や自治体、民間企業から出資を募り、プロジェクトを実行する。運営責任者は自身の給与もプロジェクトを通じて捻出しなければならないので、必然的に企画力、関係者を巻き込むコミュニケーション力や交渉力に長けている人材が雇用される。
・クラスターに腰掛けでいる人はいない。それぞれの職務責任も明確なので、結果を出すことに真剣になる。
・このトリプルヘリックスの成功事例としては、コペンハーゲン市やオーフス市のスマートシティ・プロジェクト、オーデンセ市のロボット・プロジェクトなどが挙げられる。
3.IPD(知的公共需要)
・IPDはPPPを高度化した手法である。特に複雑で革新的な要素を取り入れた公共プロジェクトを計画・実証し、大規模なインフラソリューションを調達・導入する際に有効であるとされている。
4.社会課題を解決するイノベーションラボ
●マインドラボ
・「マインドラボ」はデンマークのフューチャーセンター(世界中で展開され、イノベーションを創出する手法として一般化されている)であり、2002年、経済商務省のインキュベーション組織として立ち上げられ、最後は産業・ビジネス・財務省、雇用省、教育省と3省庁の管轄になった。
・マインドラボは、省庁横断的に社会問題を解決するための政策を設定し、ソリューションを開発、それらを社会実装することを目的に設立された。加えて国と自治体を結びつけ、さまざまな利害関係を統合する横断的なプラットフォームとしての機能を持つ。
・マインドラボは2018年に閉鎖され、よりデジタルに特化した組織の「破壊的タスクフォース:Disruption Taskforce」に引き継がれた。
●ブロックスハブ
・「ブロックスハブ」は多様な企業や研究者がより良い都市づくりのソリューションを創出するためのイノベーション・ハブである。
・2016年に建築や都市プロジェクトを支援する民間組織「リアルダニア」、コペンハーゲン市、政府の産業・ビジネス・財務省により設立され、2018年から運用を開始した。
・ブロックスハブは未来のスマートシティ・ソリューションの戦略拠点であり、多国籍企業にとってデンマークや北欧市場へのゲートウェイとして位置づけられている。
・世界中に似たような組織やイノベーションセンターはあるが、異分野横断的な連携を実現できている組織はまだないというのがブロックスハブ幹部の見解(2018年9月)である。それをコペンハーゲンでつくりあげて世界に還元していこうというのがブロックスハブの狙いである。
※ご参考:“BLOXHUB”
5.イノベーションにおけるデザインの戦略的利用
●ユーザー・ドリブン・イノベーション
・デンマークでは2010年前後からイノベーションに注力した取り組みを強化しているが、多くは技術主導型のイノベーション議論が中心であった。一方、利用者をイノベーション・プロセスに巻き込むべきとの認識が高まり、デンマークでは伝統的に人間中心の考え方が浸透していたこともあり、その考え方を体系的にまとめ方法論として組み立てられたのが、「ユーザー・ドリブン・イノベーション」である。ただし、これはデンマーク固有のものではなく、フィンランドやスウェーデンなど他の北欧諸国でも取り組まれている。
●デザイン・ドリブン・イノベーション
・ユーザー・ドリブン・イノベーションはユーザー自身が経験していないもの、認知していないものには対応できないという限界がある。そこで出てきたのが、デザイン・ドリブン・イノベーションである。
・アップルウォッチなどのウェラブル製品もデザイン・ドリブン・イノベーションで新たな価値を創出している。
●データ・ドリブン・イノベーション
・デザイン・ドリブン・イノベーションと並行する形で取り組まれているが、「データ・ドリブン・イノベーション」である。デンマークにはオープンデータの形でビッグデータが豊富にあり、それを利用できる環境にあるので、データを有効活用してイノベーションを創出するという取り組みである。
・日本とは異なり、デンマークのビッグデータは、業種や組織を横断したオープンデータである。
●デザインドリブン・イノベーションから新たな展開へ
・デンマークは人工知能や量子コンピュータでも世界トップクラスの研究を行っている。人工知能についてはXAIと言われる説明可能な人工知能を、社会インフラに導入し、さらに先進的かつ高度化したデンマークシステムを構築するべく、実証実験を進めている。また、量子論の育ての親とされる、理論物理学者ニールス・ボーアが設立したニールス・ボーア研究所では量子コンピュータの研究開発が行われている。
こうした動きを反映して、デンマークでも従来のデザイン・アプローチでは社会システムの変革を導くことは難しくなりつつあると認識しているデザイナーは、デザインを軸に、ビッグデータ+科学+ビジネスモデル+政府&市民を融和した総合的な価値体系の確立を模索している。
画像出展:「デンマークのスマートシティ」
6.社会システムを変えるデザイン
・デザインの戦略的利用の他に、社会システムを変える「ソーシャルデザイン」の取り組みがある。その誘因はデジタル化とIoTなど技術の進展と複雑に絡みあう課題である。
・デンマークは2018年に世界電子政府進捗度ランキングで1位になった。その評価項目の中で行政管理の最適化、オンライン・サービス、ホームページの利便性、オープンデータ活用で1位になっているが、これらの高評価の背景には、ソーシャルデザインが行政部門に浸透していることが関係している。
・ソーシャルデザインが重視されているのは、都市の中で相反する課題を同時に解決しなければならず、社会システムから生みだされた課題は、社会システム自身を変えない限り解決することは難しいからである。なお、相反する課題とは、高齢化対応と質の高い社会福祉サービス、都市化と移民問題、スマートシティの推進とグリーン成長の実現、移民に対する人道的な対応とナショナリズムへの対策などであり、いずれも非常に難しい舵取りに直面している。
・社会システムの設計に必要な要素は次の4つである。
1)成果への集中:公共サービスを社会に実装し、具体的な成果を見える形で提示すること。
2)システム思考:問題と利害関係者の相互関係を把握し、複雑化する社会課題を横断的に俯瞰しながら管理できる能力。
3)市民の参加:単発の市民参加イベントではなく、市民生活の深い洞察を通じて、供給者である行政の目線と需要者である市民の目線の調和を図ること。
4)プロトタイプ:少ないコスト・資源で高い価値をもたらすために、素早い実証と可能性のあるアイデアの改善。
・デンマークでは、ある意味これを実現するために、「マインドラボ」で実験が行われ、「IPD(知的公共需要)」の体系が試され、そして「ブロックスハブ」の取り組みが始まったと言えるかもしれない。そのフレームワークはまだ確立されていないが、デンマークの取り組みを見ているとかなりノウハウと知見が蓄積されていると思われる。
・最近では、「デンマーク・デザインセンター(DDC)」が公的セクターにデザイン手法を取り入れたイノベーションの実現とそれによる新たな社会システムの実現を目指している。元マインドラボの幹部で、DDCのCEOに就任したクリスチャン・ベイソンは、これを「パブリックデザイン」と呼んでいる。
・DDCが強調していることは、リーダーシップの重要性である。人間中心でイノベーションを実現するソーシャルデザインを推進するためにも、公共の利益に基づくリーダーシップがなければ適切な組織をつくることはできないし、組織をまとめあげることもできない。これらを実現するために、2019年から行政や企業の幹部を対象にしたソーシャルデザインのリーダーシッププログラムがある。
画像出展:「デンマークのスマートシティ」
7章 デンマーク×日本でつくる新しい社会システム
1.日本から学んでいたデンマーク
●なぜ、デンマーク・デザインは愛されるのか
・デンマークの企業は従来の「意匠としてのデザイン」から、開発段階で異なる要素を統合する「プロセスとしてのデザイン」を追求するようになり、ここ数年はデザインがビジネスモデルで重要な戦略要素の一つになってきている。政府は、さまざまな社会課題を分野・組織横断的に解決する手段として、デザインの戦略的利用を推進している。
・デンマーク・デザイン協議会が定めたデンマーク・デザインのDNAは10の価値で構成されている。
※ご参考:“DANISH DESIGN DNA"
※ご参考:“DANISH DESIGN DNA RESOURCES"
画像出展:「デンマークのスマートシティ」
●日本からの影響
・デンマーク・デザインは1880年代に日本の工芸品や美術品の技術、特徴、職人技を学習し、一度その技法を真似た上で、そこに北欧独自の表現を加えて新しい体系をつくりだしたという経緯がある。これは現代のイノベーション・プロセスとまったく同じである。
・2017年の日本デンマーク外交関係樹立150周年を記念して、2015年から2018年1月までコペンハーゲンのデンマーク・デザインミュージアムにて「Learning from Japan展」が開催された。
・禅の影響も大きいとされている。簡素で装飾のない室内、そこに流れる静謐で調和した空間、枯山水の考え方が、デンマークで花壇などが減少する要因になったとされている。
2.デンマークと連携する日本の自治体
●なぜ、日本の自治体はデンマークに注目するのか
・日本では2014年に「まち・ひと・しごと創生法」(地方創生法)施行後、雇用創出、新産業の育成を行うべく取り組んではいるが地元ならではの特徴を活かしたプロジェクトを生みだせていない状況がある。こうした日本の自治体がデンマークに注目するのは、スマートシティの分野で世界的に高い評価を得ていること、意外にも観光、農業だけではなく、ICT、ロボット、ライフサイエンス分野においても発展し、そして洗練された社会保障制度に基づく高齢者福祉が充実していること、日本の自治体と同程度の面積、人口でそれらを実現している点にある。
3.北欧型システムをローカライズする
●フレームワークの輸入で起こるギャップ
・日本での顕著な失敗例は、海外で開発されたフレームワークを日本語化してそのまま利用する方法である。他国の異なる理念、制度、システムを導入しても日本の現状とのギャップの大きさにより破綻してしまう。
画像出展:「デンマークのスマートシティ」
4.新たな社会システムの構築
●量子コンピュータ×人工知能がつくる未来への準備
・既に膨大なビッグデータは様々な可能性を有している。エクサスケールのスーパーコンピュータは、仮説の立案と検証サイクルを無限に回すことが可能である。これにより、医療、健康、エネルギーなどの問題解決に必要なソリューションを現場で実証せずとも開発することができるようになる。
・デンマークでは2017年に「技術大使」というポジションを創設し、デンマーク、シリコンバレー、北京に拠点を開き、先端技術の動向と社会に与える影響を分析する体制を整えている。ビッグデータ、人工知能、ブロックチェーン、量子コンピュータの開発を踏まえて人間中心型社会をサイバー攻撃から守り、新しいサイバー社会における人権の確立、新技術の倫理規定、さらにはサイバー空間における差別や格差の排除、そしてデジタル課税にも踏み込んだ研究と議論を進めている。
・デンマークは数十年先の社会を見据えて国家ビジョンを定め、小国が国際社会の中で持続的に存在しリーダーシップを発揮する戦略を構築していることを想定すると、このデンマークが考えている30年後の近未来に対する準備は、かなり現実的なアクションである。
感想
デンマークの面積と人口は北海道のおよそ半分。人口密度は北海道の約2倍です。一方、「2023年の世界経済競争力ランキング」の第1位はデンマーク。日本は35位でした。
この差は何か、本書内のデンマークに接すると、次のようなことではないかと思います。
一つは、自国を大切に思っている人、国の将来を真剣に考えている人の割合が、デンマークは日本より圧倒的に多いからだと思います。ここには、納得するまでは決して妥協しないというデンマークの人達の信念を感じます。なお、これは選挙の投票率からも推測できます。
※ご参考:“平均投票率86%、デンマークの若者は呼びかけなくても選挙に行く。「幸福の国」成り立たせる“小さな民主主義”
そして、二つ目はリーダーシップです。“改善”は現場、ボトムアップでも十分に進みますが、“改革”は「ヒト・モノ・カネ」を考えることができる立場と実力を兼ね備えた人がリーダーにならないと、ダイナミックな推進は困難です。プロジェクトは迷走します。これが“改善”はできてても“改革”は進まず、35位にまで下がってしまった日本が抱える大きな課題ではないかと思います。なお、このリーダーシップの問題には過剰な忖度など、オープンとは言い難い日本特有の閉鎖性や年功序列的発想が障壁になっているケースも多いように思います。
※ご参考:“リスクよりも責任を恐れる日本人:正しい失敗を許容する社会へ”
※ご参考:“人はなぜ失敗を恐れるのか。失敗の正体と正しい生かし方”
5章 デンマークのスマートシティ
1.デンマークのスマートシティの特徴
●デンマークと日本のスマートシティの比較
・国土交通省のスマートシティモデル事業の公募(2018年)や内閣府が国家戦略特区制度(2020年)を活用して2030年頃にスーパーシティを実現するという構想がある。これらは2010年から2015年頃にかけて、各地で展示会が開催され、実証プロジェクトが行われ、その後、ほとんどその言葉は聞かれなくなっていたものである。
・アメリカ、カナダでは大規模なスマートシティ・プロジェクトが継承されている。
・欧州ではスペインで「スマートシティエキスポ世界会議」が毎年開催されている。
※ご参考:“拡大する「スマートシティ」投資、カナダとアメリカで顕著”
※ご参考:“都市間協力で脱炭素・持続可能な未来へ”
※ご参考:“スマートシティEXPO世界会議”
・デンマークと日本の比較で大きく異なるのは2つある。一つはデンマークのスマートシティは定義が広いこと。もう一つはスマートシティをつくることが目的ではなく、都市の課題を解決するための技術やソリューションを開発し、それらを都市に導入することにより課題を解決することが真の目的となる。それにより、出来上がった新しい都市をスマートシティと呼ぶ。
・日本のスマートシティの議論は、スマートグリッドやBEMS(ビルエネルギー管理システム)などのエネルギー・ソリューションに関係するインフラ整備が中心で、都市のインフラ技術を開発して産業を促進させるのが主目的である。
・デンマークでは都市計画、エネルギー政策、環境政策に加えて市民サービスが相互に関連して議論される。スマートシティ構想は必然的に大きなものとなる。持続的な廃棄物管理、交通などのモビリティ、水管理、ビル管理、暖房と冷房、エネルギー、ビッグデータなど、包括的なアプローチとなる。
・デンマークでは住民が優先される「人間中心」であるが、日本は「産業中心」である。その参加者は地方自治体、電力会社、IT企業、ゼネコン、ハウスメーカーなどが参加する。デンマークでもこれらの団体は参加するが、これらに加え、大学などの研究機関、建築家、デザイナー、文化人類学者、そして市民がメンバーに加わって進められる。
・『あるデンマークの自治関係者に、どうしてデザイナーや文化人類学者が参加しているのか聞いたところ、彼は「都市は、行政、企業だけでなく、芸術家、音楽家、市民などが活動する場だ、産業だけでなく、こうした多様な人たちの視点を取り入れることが、豊かな都市をつくるために必要だから」と言っていた。』
画像出展:「デンマークのスマートシティ」
●デンマークのスマートシティのビジョン
・「スマートシティは住みやすさと持続可能性、そして繁栄の実現を目的として、革新的なエコシステムに市民の参加を可能とするしくみを構築し、デジタルソリューションを活用する社会である。大切なことは、新しい技術と新しいガバナンスが、ソリューションそのものよりも、市民にとって福祉と持続的な成長の手段になるということである。」
この定義で参考になるのは、エコシステムもソリューションも手段であって目的ではなく、目的は市民にとっての福祉、そして持続的成長を明確にしている点である。以下がスマートシティのフレームワークである。
画像出展:「デンマークのスマートシティ」
・ビジョン、目的は「住みやすい都市をつくり、持続可能性と成長を実現する」こと。
・住みやすさを実現する要素であるグリーン項目は6つ、“廃棄物”、“モビリティ”、“水”、“ビルディング”、“冷暖房”、“エネルギー”。
・グリーン項目を実現するための基盤(デジタルソリューション)が、“Date Platform”、“Big Data”、“IoT”、“Security & privacy”である。
・このスマートシティを実現させるためには、必要なシステムやソリューションを開発する必要がある。これを担うのが横断的に機能する“リビングラボ”である。そして、海外都市との連携による経験とノウハウを共有するパートナーシップを構築することを挙げている。
・リビングラボは市民が参加するオープンイノベーションの場であり、新たな技術やサービス開発の過程で行政、企業、市民が共創して主体的に関わりながら課題解決の道筋を探るための活動拠点のことである。国際的に協業しながらこれらの技術を組み込んだ包括的かつ人間中心のフレームワークを構築することに注力している。なぜなら、デジタル化で統合された社会では、一つのソリューションがITシステム、ヘルスケア、セキュリティなど複数の問題を同時に解決する可能性がある一方で、複雑な問題は官民が連携して制度面、技術面、ノウハウ面で組織横断的かつ組織の枠組みを越えた協業が必要となる。
●ビッグデータの活用
・デンマークでは2013年から電力セクターが系統データを収集しており、また、2020年までにすべての世帯でスマートメーターの設置が義務づけられているので、今後は電力だけでなく、水、暖房などのインフラ系データが収集され、最終的にはそれらのデータをサービス向上という価値に変え国民に提供される。
2.コペンハーゲンのスマートシティ
・コペンハーゲン市は人口約61万人(2018年)、日本だと千葉県船橋市とほぼ同じ規模である。1990年中頃以降急速に開発が進んでいる。
●CPH2025気候プラン
・コペンハーゲン市のスマートシティは、2012年に策定されたエネルギー計画「コペンハーゲン2025気候プラン」と密接に結びつている。
・カーボンニュートラルな都市をつくるためには、エネルギー計画だけで達成することは不可能で、交通システム、廃棄物管理、冷暖房システムなど、都市を構成する多様な要素を横断的に解決する必要がある。CPH2025気候プランにはスマートシティに関係するエネルギー消費、エネルギー生産、交通(モビリティ)が含まれている。
・市民はエネルギー消費の削減、電気や熱の燃料費の削減を実践するだけでなく、自宅で使用するエネルギーをグリーン対応にすることで、将来エネルギー価格が上昇した場合でもそのインパクトを最小限にすることができる。そして健康で快適な暮らしを送れることを理解している。
・市民1人1人の行動の積み重ねこそがカーボンニュートラルを達成できる原動力であることを、このプランに関わる人が共有している。
●グリーン成長
・デンマークでは「グリーン成長」という言葉がよく使われる。コペンハーゲンでもグリーン成長をCPH2025気候プランの中心に据えており、カーボンニュートラルとグリーン成長を同時に実現することが重要だとしている。日本では環境問題と産業政策は別次元で扱われることが多いが、デンマークではエネルギーと環境問題を解決しながら、その結果として産業を含めた地域の経済的発展を実現するアプローチをとる。
※ご参考:“コペンハーゲンのプランがすごかった!:気候プランとスマートシティ戦略”
※ご参考:“サステナブルな都市計画の例 コペンハーゲン”(pdf28枚)
画像出展:「デンマークのスマートシティ」
●CPH2025気候プランに挙げられたスマートシティに関するソリューション
①デジタル・インフラストラクチャー
-エネルギー消費のモニタリング(特に建物のエネルギー消費の管理)を行う。
-アクセス可能なオープンなデジタル・インフラストラクチャーを構築する。
-市内の建物のエネルギーと水の消費量をリモートメーターで管理する。
②エネルギーの柔軟な消費とスマートグリッド
-スマートグリッドは複数の再生可能エネルギーの需給調整をフレキシブルに調整する。また、市民、企業、市は再生可能エネルギーを選択して利用することができる。
③スマートビル
-IT技術により、エネルギー効率、柔軟性とエネルギー管理を行う。
④スマートCPH
-コペンハーゲンのCPHと水素のH₂を掛け合わせた水素プロジェクト、風力発電の余剰電力で生産された水素を、交通のエネルギー問題解決のソリューションと考えている。
⑤クルーズ船へのオンショア電気の供給
-クルーズ船はドック係留中にエンジンで発電し電気を供給しているが、陸上で発電したオンショア電気を供給することで環境問題を解決する。これは局所的な小さな問題だが、このような領域にも焦点をあてて取り組んでいる。
●最先端の地域熱供給
・地域熱供給は、「CPH2025気候プラン」を達成するための重要なエネルギーシステムである。熱導管を通じて、地域の住宅・施設に熱を送り、暖房・給湯に利用するシステムである。
・デンマークで地域熱供給システムが普及したのは、政府による普及のためのコミットメントと規制プロセスなど具体的な政策の効果が挙げられる。また、洋上風力発電の拡大で、余剰電力が問題となっているが、熱電併合プラントの畜熱槽に熱として貯蔵することで有効活用することができるようになる。
・最近コペンハーゲンで進められているのが地域冷房である。温暖化の影響でデンマークでも30℃近くなることもある。コペンハーゲンでは、海水を利用した冷却システムを利用している。個別の冷房と比較して二酸化炭素の排出量を70%削減し、総コストの40%削減を実現している。
●DOLL(デンマーク街灯ラボ)と都市照明
・LEDを利用した高度な照明システム
-コペンハーゲンはスマートシティを構築する上でLEDを利用した高度な照明システムに力をいれている。
-街灯柱はセンサーや通信インフラを設置すると、広域に対応したスマートシティインフラになる。
・グリーンエコノミーを推進するゲート21
画像出展:「デンマークのスマートシティ」
-ゲート21(Gate21)はスマートインフラを推進するために、コペンハーゲンの各自治体、企業、研究機関が連携した非営利のパートナー組織であり、まさに産官学連携のプロジェクトである。
-ゲート21のミッションは、リビングラボでテストしたり、現場での実証プロジェクトを通じてエネルギーや資源効率化に関係するソリューションを開発したりすることである。注力するのは次の6領域。
1)建物と都市
2)交通
3)エネルギー
4)循環経済と資源
5)グリーン成長
6)スマートシティ
そして、プロジェクトを通じて、グリーンエコノミーへの移行を促進する事業機会を見出すための、新技術、サービス、プラットフォーム、ツール、プロセス、スキルを開発して支援することを目指している。
・DOLL(デンマーク街灯ラボ)
-DOLLはDenmark Outdoor Lighting Lab)は、“リビングラボ”(市民が参加するオープンイノベーションの場であり、新たな技術やサービス開発の過程で行政、企業、市民が共創して主体的に関わりながら課題解決の道筋を探るための活動拠点)の一つ。スマートシティで新しい技術やソリューションを開発するためのプラットフォームとして、2013年にコペンハーゲン近くアルバーツルンド市に設立された。
-DOLLでは、都市照明に関する世界中の先端技術とソリューションを見ることができる。
-DOLLには世界の照明ベンダーやIT企業が参加しているので、技術や都市照明の各ソリューションの比較検討もできるので、DOLLに行けば多くの課題を解決できる。
-DOLL(リビングラボ:活動拠点)のようなプラットフォームは、デンマークが得意とするもので、少ない予算、人材、資源を有効活用するために特定の場所に必要な資源を集積させて、世界でもトップクラスの技術開発、実証、社会実装を行う手法である。
-DOLLは、DOLLリビングラボ、DOLLクオリティラボ、DOLLバーチャルラボという、3つの研究所から構成されている。
・デジタルインフラ
-実証用にWiFi、LoRa、WAN、Sigfox、UNB、NB—IoT、5Gなどさまざまなワイヤレスネットワークを完備しており、都市のネットワーク環境に合わせたデジタルインフラを選定して実証することができる。
※ご参考:“コペンハーゲン首都圏のスマート都市照明”
●フィンテック
・キャッシュレス化が当たり前の社会
-フィンテック(FinTech)はデンマークでもコペンハーゲンを中心に盛り上がりを見せている。
-フィンテックは米国、シンガポールなどが力を入れており、欧州ではイギリスが国際的なフィンテックセンターとしての役割を担うべく台頭している。
・コペンハーゲンフィンテック
-「コペンハーゲン・フィンテック」の目的は、フィンテックのエコシステムを展開し、グローバルな金融サービス産業で主導的なフィンテックラボを形成すること、そしてデンマークの経済成長につなげることである。
-フィンテックの事業化、既存の金融機関、公的機関そして大学などの研究機関がビジョンを共有し連携するエコシステムを形成している。
※ご参考:“Copenhagen Fintech”
画像出展:「デンマークのスマートシティ」
●スマートシティの実験場、ノーハウン
・2005年、デンマーク政府とコペンハーゲン市はノーハウン地区の再開発で合意した。最終的に4万人が暮らす現代的な居住地区とビジネス地区が共存する、コペンハーゲンの新たなウォーターフロントとなる予定である。
※ご参考:“Cobe Nordhavn”
・ノーハウン(Nordhavn)のビジョン
-ノーハウンのビジョンは、スマートシティのビジョンと同期している。ビジョンは6つに分かれ、地域の持続可能性に加えて、多様性、快適性、人間中心の考え方が組み込まれていく。
①環境に配慮した都市
②活気に満ちた都市
③すべての人のための都市
④水の都市
⑤ダイナミックな都市
⑥グリーン交通の都市
・ノーハウンの開発戦略
-ノーハウンをスマートシティにするための開発戦略は6つのテーマに分かれている。
画像出展:「デンマークのスマートシティ」
①島と運河
-イタリアのヴェネチアをイメージしたスマートシティ。
②アイデンティティと歴史
-ノーハウンの歴史(150年に渡る歴史と100年以上の建物)と港湾地区の特徴を考慮した開発。
③5分間都市
-徒歩か自転車で行けるコンパクトで高齢者に優しい街を目指している。
④ブルー&グリーンシティ
-ノーハウンでは市民が水と直接触れ合うことを重視した設計になっている。これは日本との大きな違いである。ここには自己責任の考えた方が浸透しているデンマークならではのアプローチである。
⑤二酸化炭素にフレンドリーな都市
-再生可能エネルギーによる発電、熱供給システムでの暖房、海水を利用した冷房システム、廃棄物の再利用、雨水の再利用はゲリラ豪雨対策を兼ねている。
⑥インテリジェント・グリッド
-これはノーハウンの小島をマス目のように分割し、柔軟なビルディングゾーンとして設計する。これにより、マス目単位の変更が可能で、大規模な全体設計を避けることができる。
3.オーフスのスマートシティ
・オーフス市は人口34万人(2018年)、デンマークで2番目に大きな都市である。群馬県前橋市とほぼ同じ大きさ。
・オーフスでもコペンハーゲンと競うようにスマートシティを推進している。
・オーフスでは2030年にカーボンニュートラルの都市をつくる。オーフスのスマートシティの特徴は、伝統や文化を尊重した取り組み、ヘルスケアや福祉に関するプロジェクトもスマートシティに含まれている。
●スマートオフィス
・スマートオーフスのビジョンと目的
-ビジョンは、パートナーシップに基づいた都市開発のための北欧モデルを国際的に主導すること。
-デジタル技術の功罪を理解した上で、持続的成長とイノベーションを実現する。そして、異なる利害関係者を巻き込みながら社会に価値をもたらし、社会、環境そして経済の課題を解決するというものである。
※ご参考:“スマートオーフス”
4.オーデンセのスマートシティ
・オーデンセ市は人口約17万人(2016年)、デンマーク第三の都市で自治体では立川市や鎌倉市とほぼ同じ規模である。デンマークでも最も古い都市の一つで、アンデルセン生誕の地として知られている。
-オーデンセ市は、エネルギーや交通などに注力するコペンハーゲン、文化を取り込んだスマートシティを標榜するオーフスと差別化するため、オーデンセが得意とする領域、ロボット、ドローン、ヘルスケア(特に福祉技術)に焦点を当てたプロモーションを行っている。
-オーデンセがユニークなのは、福祉技術を含めたヘルスケア・ソリューションを実証実験できるリビングラボ「コーラボ」をオーデンセ・ロボティクスが入るセンター内に設置していることである。
-コーラボには自宅、かかりつけ医、病院、介護施設のモックアップが設置されており、デジタル機器を開発する際、異なる環境でも一貫性のあるユーザーインタフェースをデザインしたり、医者、介護士、作業療法士などが連携して患者に対応する場合に最適な作業プロセスを検証したりすることができる。また、病院の手術室や病室も再現されており、実際の執刀医が立ち会い、手術の模擬テストを通じて医療機器やソリューションの評価を行うことができる。
※ご参考:“Invest in Odense”
※ご参考:“Odense robotics”
3章 市民がつくるオープンガバナンス
1.市民が積極的に政治に参加する北欧型民主主義
●コンセンサス社会が実現する民主主義
・イギリスのエコノミスト社の調査部門であるエコノミスト・インテリジェンス・ユニットが2006年から民主主義指数なるものを発表している。
・デンマークを含む上位国と日本の差は、「選挙プロセスと多元性」「政治的な参画」が大きい。
・日本では、ビジネスの打ち合わせや会食中に政治や宗教の話題は避けられるが、デンマークでは政治の話はご普通であり、選挙が近づくとかなり踏み込んだ議論が行われる。これは自国に限らない。日本の選挙や政治について質問されることは珍しくない。
※ご参考:2021年世界の政治民主化度 国別ランキング (注)出展・参照:“世界銀行”
●デンマークの民主主義の歴史
・デンマークは1849年に君主制度が廃止され、現在のデンマーク王国憲法が制定された。市民が王政に終止符を打ち、民主主義を勝ち取ったという経緯があり、これがデンマークの民主主義の基盤となっている。
・デンマーク型の民主主義とは、「情報をもとに自分で分析し、公平に準備された政策決定プロセスに参加し、自ら決断する。そして自己責任の原則で最終的な結果を受け入れる」。
●高い税負担が政治参加を促す
・税負担が高いため、国民は税金が公平公正に使われているか政治を厳しくチェックする。
※ご参考:“国民負担負担率の国債比較(OECD加盟36カ国) 出展:財務省主計局
上記を見ると、デンマークは3位(65.9%)です。日本は22位、英国は25位、スウェーデンは12位です。
「高齢化を背景に大きく伸びて、欧州諸国との差は縮小」とのことです。
●コンセンサスを育む教育
・北欧型民主主義の特徴である「コンセンサス社会」は、子供からの教育も大きな役割を担っている。
・デンマークの基礎教育は0~10学年まであり、基礎学力の習得だけでなく、自立した人間をつくるために自分の考えを言葉で表現し討論する授業や、異なる考え方や意見を尊重し、トラブルを解決しながらコミュニケーション力を伸ばす授業もある。そして言葉、文化、地域の異なるバックグラウンドを持つ生徒たちの多様な意見をまとめて自分たちなりの合意、つまりコンセンサスをつくりあげることに力を入れている。
・『友人のデンマーク人によると、デンマークでは選挙が近づくと憂鬱になる家庭があるらしい。デンマークでは子供が中学生になると、自分の意見を持ち、社会のしくみも理解して一筋ではいかなくなることから、「子供がモンスターになった」と言われたりする。そして選挙が近づくと、そのモンスター化した子供が社会の授業で、政治家の過去のマニフェストや選挙公約をどれだけ実現できたか調べたりする。そして、次期選挙の公約を政党ごとに表でまとめ比較検討して、自分たちの地域をどのようにしたいかについて議論をする。当然、子供たちは親に自分たちの意見を伝え、親の意見を求める。その時に子供の意見に対してどう考えるのかを回答できないと、親の権威が失墜してしまう。親は、仕事や家事が終わった夜、子供が授業で行ったように政治家の経歴、実績、政治信条を調べ、マニュフェストを確認し、政治家としての実行能力なども確かめて、子供と同じ目線で議論できるように準備しなければならない。ある日、友人の目が赤いのでどうしたのかと聞くと、夜中に政党の公約を調べていたので寝不足だと笑っていた。
こうした政治参加は、選挙の投票行動に反映され、より強固な民主主義の基盤がつくられる。』
2.市民生活に溶け込む電子政府
●デジタル国家のトップランナー
・EUはデジタル化について毎年、「デジタル経済と社会指数(DESI)」という調査を行っており、デンマークは2014~2018年、5年連続で1位になった。(2022年は僅差の2位。1位はフィンランド)
・「デジタル経済と社会指数」は5つの評価項目でランキングしている。「ブロードバンドの接続性」「デジタルスキルを含めた人的資本」「インターネットサービスの利活用」「デジタル技術の統合」「デジタル公共サービス」である。
・デンマークのデジタル化で最も特徴的なのは「デジタル技術の統合」の点で、他国より秀でている。つまり、政府の公共サービスの電子化だけでなく、デジタル技術の統合により、都市を構成しているエネルギー、交通、農業、医療、福祉、教育に至るまで、進展度合いに違いはあるにせよ、基本的に統合されたデジタル化が展開されている。
画像出展:「デンマークのスマートシティ」
画像出展:「デンマークのスマートシティ」
●質の高い社会サービスを実現するデジタル化
・デンマークのデジタル技術の統合に優れているのは、社会制度とデジタル化に関する歴史と政策を見る必要がある。
・1910年代から福祉国家として制度の充実を図ってきた。
・1950年代の黄金期を経て、1990年以降はフレキュシリティなど積極的な労働市場政策に基づく福祉国家の再編を行ってきた。そして、グローバル化、高齢化に伴う労働人口の減少に対応し、福祉サービスの水準を維持するためにさまざまな改革を行ってきた。また、インターネットの普及に伴い、デジタル技術の積極的な利用により、労働不足に伴う公的機関の効率性向上とサービス水準の高度化を同時に行うことを検討されてきた。
●市民生活に溶け込む電子政府
・デンマークでは2001年から中央政府、広域自治体(レギオン)、基礎自治体(コムーネ)との連携や複数のデジタル化戦略を経て進められてきた。
・2000年初頭の電子署名の導入により、市民は公的機関と電子メールでやりとりができるようになった。その後、税金還付や年金受給のための公共決済口座であるNemKontoが開始され、同時期には先進的な医療ポータルであるsundhed.dk、そして市民に電子政府の利便性を提供する市民ポータルのborger.dkが2007年にサービス提供を開始した。そして現在(2019年)は、スマートフォンなどモバイル端末の普及によって2007年に導入されたNemID(新電子署名)に代わる、電子政府の新アクセスIDの導入を進めている。
・デンマークの電子政府は、医療ポータルsundhed.dkと市民ポータルborger.dkの導入が鍵だった。
・市民ポータルborger.dkは、2000年代に構築された、官庁ごとに異なる行政システムをセルフサービス型の一本化されたシステムとして導入された。このポータルが優れているのは、市民が生活に必要な行政情報のすべてをこのポータルから取得することができ、教育、福祉を含めた多様な申請手続きを行えることである。また、マイページにアクセスすると住居・転居、税金、年金、教育などに関する情報をいつでも閲覧することができる。つまり、このborger.dkを活用すれば、行政機関の窓内に行くことはほとんどなくなる。
画像出展:「デンマークのスマートシティ」
3.高度なサービスを実現するオープンガバメント
●透明性の高い政府の実現
・デンマークでは特にオープンガバメントが進んでいる。「オープンガバメント・パートナーシップ」とは、市民と政府の協力のもと、政府の透明性を向上させ、市民参加によりエンパワーメントを図り、新技術とイノベーションを活用してより良い政府をつくることを目的とした多国間イニシアチブである。
●オープンデータ・デンマーク
・デンマークの特徴的な取り組みは「オープンデータ・デンマーク」である。政府が民間に頼ることなく全面手に社会福祉サービスを担っているため、それ関わるデータ量は膨大である(ビッグデータ)。日本のマイナンバーカードに相当するCRPナンバーは1968年に導入された。
・オープンデータ・デンマークは、広域自治体や基礎自治体が管理しており、都市開発や社会課題の解決において公的にデータを自由に活用できる環境を整えることを目的に整備された。
・2018年5月に施行された欧州の個人データ保護に関する法律であるGDPR(EU一般データ保護規則)の関係で、デンマークでも取り扱いは厳しくなっているが、オープンデータ・デンマークから公的オープンデータを収集することができる。
●遠隔医療でのオープンデータの活用
・遠隔医療はオープンデータの活用が期待されているプロジェクトである。
・デンマークではEUと連携する形で遠隔医療の実証実験を続けてきた。
・遠隔医療のニーズは、市民とその家族が主体的に治療に関わりたいとの要望が強まっている。
・高齢化が進む中で高齢者の治療と慢性疾患患者の増加が見込まれている。
・今後の医療コストが増加すると予想されている。
・特に期待されているのは、妊婦の合併症とCOPD(慢性閉塞性肺疾患)に対する治療である。具体的には前者は合併症のリスクを軽減すること、後者は治療が長期間に及ぶため。
・デンマークは人口密度が低く、地域の病院数も限られている。病院側も通院患者が減れば病院の効率が上がり、より重症患者や緊急の患者に対応することができるようになる。
・この遠隔医療は実証実験を経てサービスの検証を行った結果、医療サービスとしての品質、安全性、経済性とともに十分運用可能と結論づけられた。
・デンマークのオープンガバメントの取り組みは、オープンデータ一つとってみても、単にデータの開示による公共サービスの透明性の確保だけでなく、市民生活を向上させるサービスの開発と実社会への導入という観点が含まれていることが特徴である。
4.サムソン島の住民によるガバナンス
・再生可能エネルギー100%の島として知られているサムソ島は、首都コペンハーゲンがあるシェラン島の西に位置しており、北海道の奥尻島と同じくらいの島である。
・夏には多くの観光客が訪れるこの島は、エネルギー企業などの関係者の視察が増え、再生可能エネルギーのショーケースのようになっている。最近は、こうした視察やエネルギープロジェクトに関係した雇用創出で地域活性化に大きく貢献している。
・サムソ島の成功の要因は、地域の共創の理念と、住民を導いたサムソ・エネルギー・アカデミー代表であるソーレン・ハーマーセンを中心とした創造的リーダーシップにある。彼らは地域社会、特に住民の参画に力を入れ、風力発電の技術が分からない住民の理解を得るために、説明会やワークショップを何年にもわたって実施し、住民の意向に沿った開発計画を策定した。
・最近では、サムソ島が再生可能エネルギー100%の島であることより、いかに異なる考え方を有する住民をまとめて一つの方向性に導くことができたのかに関心を持つ視察者が増えている。
・ハーマーセンの元には多くの質問や反対意見が届いた。それらに対し、3年かけて一軒一軒を回り会話をしながら問題を話し合うことで、少しずつ島民の理解を得られるようになった。
・2007年のカーボンニュートラルで再生可能エネルギー100%の島を達成した後も、新たな目標である2030年までに脱化石燃料を目指す。「サムソ2.0」を策定し、将来は循環型社会を目指す「サムソ3.0」を掲げている。
・「パイオニアガイド」はノウハウをまとめたガイドであるが、地域コミュニティが新しいシステムを導入する際の構造化されたアプローチ方法であり、サムソ島のホームページで開示し、必要に応じて出張しセミナーの開催なども行っている。
※ご参考:“コミュニティパワーで100%自然エネルギーの島から次のステップへ:デンマーク、サムソ(市)島”
※ご参考:“世界で一番エコな島~サムソ島” (YouTube 5分53秒)
4章 クリエイティブ産業のエコシステム
1.デンマーク企業の特徴
・日本と比べて圧倒的に小さなデンマーク企業が厳しい競争の中で生き残ることができる鍵は次の6つである。
①革新的かつクリエイティブは技術、ソリューション、デザインを追求する。
②国内市場を目指すのではなく、いきなりグローバル市場に参入する。
③大手企業が見逃しているニッチ市場を攻める。
④ニッチ市場でナンバーワンを目指す。
⑤収益のうち高い比率を研究開発に回す。
⑥研究開発を通じて、さらにクリエイティブな製品やソリューションを開発し、他社の追随を許さない。
・このような戦略が採れるのも、優秀な人材がいてこそである。デンマークの企業は経営幹部も含めて創造性に長けた社員の採用に力を入れているところほど成功している確率が高い。
・デンマークでは大学発ベンチャーにも注力しており、研究室からそのまま起業して成功するなど研究開発型の企業が多いことも特徴である。
画像出展:「デンマークのスマートシティ」
2.世界で活躍するクリエイティブなグローバル企業
●アーステッド:石油・天然ガスから再生可能エネルギー企業へ
・環境エネルギー分野では洋上風力発電のアーステッド社がある。アーステッドはもともと国営企業であり、現在でも株式の過半数をデンマーク政府が保有する。
●ノボノルディスク:糖尿病治療薬のリーディングカンパニー
・1923年に設立されたノルディスク・インスリン研究所と1925年に設立されたノボ・テラピューティスク研究所がインスリン製剤の生産を始め、業界トップ2社となった両社がさらなる成長と発展を目指して1989年にできたのがノボノルディスク社である。その後急成長し、糖尿病、血友病、成長ホルモン治療で世界的企業となっている。
●レゴ:世界の子供の創造力を育てる玩具メーカー
・1932年、オーレ・キアク・クリスチャンによってデンマークの小さな街ビルンで設立された、レゴの経営哲学は「質の良い遊びは子供の人生を豊かにする」というもので、レゴの意味はデンマーク語で「Leg godt(よく遊べ)」の略語である。
3.デジタル成長戦略と連携して進展するIT産業
●デジタル成長戦略
・2018年1月に「デジタル成長戦略」を策定した。骨子は次の3つである。
①デンマークのビジネスがデジタル技術の活用の点において欧州でベストになること、特に中小企業が先端デジタル技術を利用できるように政府がその推進体制を保証する。
②デジタル・トランスフォーメーションを実現するために、政府として最高の環境を整える、特に新しいビジネスモデルや投資を引きつけるための迅速な規制緩和、そしてサイバーセキュリティとデータ処理体制を強化する。
③すべてのデンマーク人がデジタル・トランスフォーメーションに対応し、EUで最もデジタル化に準備をした国民となる。そのために適切なツールと教育を提供し将来の労働市場に備える。