怒りについて

予想通り難解な本でした。

本書は、人間の本性の一つともいうべき「怒り」をめぐり、当代随一の哲学者たちが、議論を戦わせた記録である』とのことです。

何故、この本を買ったのか。それは万病の元であるストレスの中でも“怒り”は特に注意を要するものだという話を聞いたためです。また、以前、『サーノ博士のヒーリング・バックペイン』という本を拝読したことがあったことも、“怒り”という感情を深く知りたいと思った理由です。

なお、同様なタイトルの本には、『腰痛は<怒り>である』や『心はなぜ腰痛を選ぶのか』があります。これらの本に共通している理論はTMS(緊張性筋炎症候群)理論というものです。TMS理論に関しては以下のサイトが参考になると思います。

『TMSジャパンは、ニューヨーク大学医学部のジョン・E・サーノ教授が発表したTMS(Tension Myositis Syndrome:緊張性筋炎症候群)理論を出発点に、腰痛にまつわる迷信や神話の犠牲者、クワッカリー(健康詐欺・インチキ療法)の被害者、ドクターショッピングを繰り返す腰痛難民をひとりでも減らすため、 世界各国が発表している「腰痛診療ガイドライン」の勧告に則した、腰痛の原因と治療に関する根拠に基づく情報を提供しています。』

特段“怒り”についての知識や考えもなく、哲学者の先生の文章は次元が違うものであり、さらに本書が先生達の色々な考えを論じる場となっているため、この本がどんな本なのかを説明することは困難です。そこで、本書の概要をお伝えするには、最後の「監訳者解説」をご紹介させて頂くのが良いと判断しました。

その後、怒りとは何か、何が問題なのか等についてまとめ、そして、この怒りに対してどのように向き合うのが望ましいのかを考えてみました。

著書:アグネス・カラード他

発行:2021年12月

出版:(株)ニュートンプレス

副題は、“正しい「怒り」は存在するか”となっています。

目次

編集者より

 レイチェル・アレックス

第1部 問題定義

 怒りについて

  アグネス・カラード

第2部 応答と論評

 暴力の選択

  ポール・ブルーム

 損害の王国

  エリザベス・ブルーニッヒ

 被抑圧者の怒りと政治

  デスモンド・ジャグモハン

 怒りの社会生活

  ダリル・キャメロン

  ビクトリア・スプリング

 もっとも重要な事

  ミーシャ・チェリー

 なぜ怒りは間違った方向に進むのか

  ジェシー・プリンツ

 復讐なき責任

  レイチェル・アックス

 過去は序章にすぎない

  バーバラ・ハーマン

 道徳の純粋性への反論

  オデッド・ナアマン

 その傷は本物

  アグネス・カラード

第3部 インタビュー&論考集

 ラディカルな命の平等性

  ブランドン・M・テリーによるジュディス・バトラーへのインタビュー

 怒りの歴史

  デビッド・コンスタン

 被害者の怒りとその代償

  マーサ・C・ヌスバウム

 誰の怒りが重要なのか

  ホイットニー・フィリップス

 正しい無礼

 エイミー・オルバーディング 

寄稿者一覧


監訳者解説

本書は、人間の本質というべき「怒り」というテーマをめぐって、当代随一の西洋の哲学者たちが議論を戦わせた記録である。アクネス・カラードの問題提起に基づき、立場の異なる複数の哲学者たちがそれに応答し、またインタビューや論考を寄せている。

怒りをめぐってここまで深い議論がなされたことは、かつてなかったといっていいだろう。そもそも怒りをテーマにした哲学書自体が、この世にそう多く存在するわけではない。人口に膾炙[カイシャ]しているのは、本書でも言及されている古代ローマの哲学者セネカの著書、「怒りについて」ぐらいではないだろうか。

奇しくも本書の原著タイトル「On Anger」は、このセネカの名著の英訳と同じである。ただ、大きく異なるのは、それが怒りに対して一人の哲学者の一つの見方からのみ書かれているわけではない点だ。セネカの議論がまさに典型的なのだが、一般に怒りはネガティブなものとしてとらえられている。

ところが本書では、怒りが実に多様な側面をもっている事実が明らかにされる。これから本文を読まれる読者の便宜のため、あるいはすでに読まれた方の頭の整理のために、あえて議論の内容を構成順に簡単に振り返っておきたい。この視点の多様性こそが、本書の重要なメッセージでもあるからだ。

まずアグネス・カラードによって、怒りは決してネガティブなだけのものではないという強烈な問題提起がなされる。その背景には、感情によって人は道徳性を表現するものだという主張が横たわっている。

だから彼女は「怒りの道徳面(モラルサイド)から暗黒面(ダークサイド)を切り離す」ような怒りの鈍化を否定するのである。それは非現実的であると。その結果、怒りの重要な特徴を支持する「悪意支持論」と「復讐支持論」と呼ばれる議論を展開する。恨みを抱き、復讐を果たすことは合理的かつ正当なことだという主張である。

こうしたカラードの立場を象徴するのが、のちにほかの論者たちから何度も言及されることになる「悪い世界では、人は善い存在ではいられない」という一文にほかならない。

このカラードの問題定義によって、怒りの概念をめぐる多種多様な議論が展開するが、基本的には大きく二つの立場に分けることができるだろう。一つはカラードのように怒りのある種の側面を肯定的にとらえる立場である。もう一つは、怒りという感情を否定的にとらえる立場である。

ポール・ブルームは、「暴力の選択」という論稿において、基本的にカラードを支持しつつも、怒りは合理的だという点に疑問を投げかける。そして怒りだけが道徳性を表現する手段ではないと主張している。

エリザベス・ブルーニッヒは、「損害の王国」という論稿において、終わりなき復讐を止め、平和を実現するために「許し」が必要だと説いている。

デスモンド・ジャグハモンは、「被抑圧者の怒りと政治」という論稿において、この表題のとおり、抑圧されている人たちの怒りにもっと寄り添う必要性を論じている。必然的にそれは社会における不合理性、つまり政治の問題を論じることにつながっていく。

ダリル・キャメロンビクトリア・スプリングは、「怒りの社会生活」という論稿において、基本的にカラードの議論に賛同しつつ、そうした議論を単に倫理的な次元で完結させるのではなく、科学的研究と交錯させるべきことを訴えている。

ミーシャ・チェリーは、「もっと重要なこと」という論稿において、怒りの合理性に関する問いよりも、怒りを生みだしている現実の社会的文脈に着目するよう警鐘を鳴らす。

ジェシー・プリンツは、「なぜ怒りは間違った方向に進むのか」という論稿において、カラードの怒りを擁護する立場を明確に批判している。その際、怒りに一定の意義を認めつつも、有害な怒りを見分ける必要性を訴える。

レイチェル・アックスは、「復讐なき責任」という論稿において、カラードが説く復讐の意義に反論する。カラードによると復讐は相手に責任を負わせる方法になりえる。しかし、それは必ずしも唯一の方法ではないことを説く。

バーバラ・ハーマンは、「過去は序章にすぎない」という論稿において、永遠の怒りを主張するカラードに対し、謝罪を第一歩ととらえて、事態を変えていくべきことを訴えている。

ジュディス・バトラーは、ブランドン・M・テリーのインタビューに答える形で、命のラディカルな平等を受け入れるべきという視点から、暴力の本質を明らかにするとともに、それに対して非暴力という概念を対置させて批判を展開している。

デビッド・コンスタンは、「怒りの歴史」という論稿において、文字どおり怒りの歴史を概観すると同時に、怒りの本質が社会によって変化し得ることを指摘している。

マーサ・C・ヌスバウムは、かなりの紙幅を費やして、「被害者の怒りとその代償」というタイトルのもと、被害者の怒りは代償を伴うことを古代の戯曲とフェミニズムを俎上に載せて説得的に論じている。

ホイットニー・フィリップスは、「誰の怒りが重要なのか」という論稿の中で、極右反動勢力と左派のキャンセル・カルチャーの異同を示しつつも、後者に肩入れすることによって、今求められるべき怒りの内容を示そうとする。

最後にエイミー・オルバーディングは、「正しい無礼」という論稿の中で、無礼に振る舞うことと道徳との関係について論じている。

こうして概観してみると、人間はつくづく怒りとともに生きているという事実を認めざるを得ない。とりわけコロナ禍にあって、私たちはむき出しの生を露わにせざるを得ない状況に追い込まれてしまった。生きるためには、本性を表さずにはいなれないのだ。わかりやすくいうと、なりふり構わず人を蹴落とし、生活の糧を得る必要があるということだ。その過程では、いやがうえにも怒りが顕在化し、人々がいがみあい、ののしり合う姿が多々見られた。

もっとも、そうした対立はコロナ禍によってもたらされたというよりは、炙り出されたといったほうが正確だろう。現に本文で複数の論者たちが例をあげていた現代的問題は、いずれも歴史的に形成されてきたものである。人種問題をめぐって世界的に注目されたブラック・ライブズ・マター(BLM)もそうだし、昨今のキャンセル・カルチャーの是非をめぐる議論もそうだろう。

だからこそ、対立する立場のどちらが正しいかという問題ではなく、どちらの怒りがどんな意味をもっているのかということ自体、つまり怒りという人間が不可避的にもたざるを得ない感情について、その根源にまでさかのぼって議論する必要があるのだ。

本書で展開された議論は、一つのテーマについて哲学の視点から考え、議論する際のお手本になっているといっても過言ではない。思い込みを疑い、多様な視点からとらえ直し、考えを吟味するプロセスである。それを複数の論者が集団知という形で実践している。』

怒りは何が問題なのか

●怒りを強引に押しつぶしてしまうと、自尊心と道徳的な基盤を失う恐れがある。

●怒りの原因が不正行為だった場合、怒りの抑制は不正行為の黙認になる場合がある。つまり怒りを許すことと不道徳を許すこととが同じ場合もある。

●損害を受けて何か失うと、それが何であれ永久に戻ってこない。

●償いとして何かを与えられても、損害を受ける以前の状態に戻ることはない。犯してしまった悪事は謝罪しても軽くなるわけでない。その結果、不当な扱いを受けた者から復讐する気持ちを消し去ることは容易ではない。

●不当な扱いを受けた人には、怒りを捨てなければならない合理的な理由は見つからない。

怒りの特徴

●怒りを抑制することはできても、怒りを浄化することにはならない。

●人には被害を受けたことに対していつまでも怒り続ける理論上の権利だけでなく、遺恨を捨てられない感情的、道徳的な理由がある。

●怒りは学習と本能の両方の側面をもつ複雑な感情であるが、哲学者たちは長い間、怒りを表現するのに道徳的に正しい方法と間違った方法があると主張してきた。

●怒りを持ち続けていると他の感情と同じように疲労する。その結果、怒りは薄れる。それにより正当な要求が主張できなくなったり、不正な行為を罰したりすることが難しくなるかもしれない。

●怒りの中には復讐に駆り立てるものもあるが、日常生活において過ちは珍しいものではなく、復讐を伴うような怒りは一部である。

●発熱は健康な状態ではないが健全な免疫反応であり、発熱が起きないと病状は悪化するだろう。これと同じことが怒りにもいえる。つまり怒りは合理的なものであるということである。

怒りへの対処

●「義憤」や「変革の怒り」という言葉を使って、永続性や復讐心をもたずに悪事に対して正当に抗議する感情を仮定することは可能である。

●怒りの感情は見方を変えることで変化する可能性がある。

●怒りを含めて感情を制御する動機は人それぞれである。

●怒りを抑えて、違反行為を黙認していると思われるリスクを負うのか、怒りを表明してそれ自体が問題となりうる行動を取る危険を冒すのかの選択は複雑である。

●不正行為に適切に対応するために、時として他者を意図的に苦しめることもある。道徳的な理想の実現には苦しみが伴うことを認識する必要がある。

●怒りは時間と共に薄れていく可能性があり、感情的な怒りは残っても道徳的な規律としての許しがあれば、その怒りによる社会への悪影響は避けることができる可能性がある。

●怒りほど理由を聞いたり言ったりすることが求められる感情はない。そのため怒りの「コミュニケーション」が重要とされる。

許しについて

●許しに癒す力があることは知られているが、その効果は限定的なものでしかなく、損害を及ぼした人を許すことは耐え難いものである。

●不当な悪事に対し、個人が犠牲を払って我慢しなければならないというのが実態である。しかしながら、それであっても、許しは良いことであり、皆が知るように平和のために必要な要素かもしれない。

●許しは非常に難しいことである。重要なことは怒りを行動に移さないということである。

●許しを与える罪のない人は、何か崇高な善のために犠牲になることを求められている。それは「平和」や平等主義的な「秩序」、あるいは「神」である。

怒りの必要性

●人間の進化において怒りをもつことは有益だったという見解がある。

●怒りは自分自身と大切な人々の利益を守らせる。

●怒りは脅威や攻撃に反撃するパワーとなり、搾取や虐待の餌食、生存と繁殖の敗者になることから守る。

●怒りは道徳にとって必要なものであるが、その役割は時間の経過とともに変化するものではないか。

●怒りは必要だが、それを自分のなかの手に負えない獣のように考えてはいけない。

怒りの矛先を間違えることがある

例えば、麻薬や窃盗などの犯罪を完全に個人のせいにして、ある程度の情状酌量の余地を生む構造的な原因を考慮しないなどの場合。

1)怒りの責任のありかを間違えることがある

自分自身への不満を外に向ける人や身近な身内に向ける人もいる。

2)怒りの対象が広がりすぎることがある

例えばナチスに対する怒りをドイツ人全体に向けることがある。

3)怒りが虐待になりうることがある

ちょっとしたトラブルに過剰反応して逆上したり、反対意見を暴力で抑えこもうとしたりする人もいる。

4)怒りが過度の権利意識を含むことがある

自分が特別扱いされるのが当然だと思っている人は、期待通りにならないと怒り狂う。男性は女性よりも怒りやすいとよくいわれるが、ここには女性の正当な怒りが抑圧され、男性の子供じみた癇癪が許されるという二重の不公平が存在する。

5)怒りは自己破壊につながることがある

どんな怒りであれ、はけ口が必要である。怒りのエネルギーを、苦しみを追い払うために使わなければ、怒りの炎はその主を焼き尽くしてしまう。

6)抑圧された怒りが有害であるように、怒りを抑制せずに爆発させることにも害がある

自制心を働かせれば、怒りをもつ側は道徳的に優位な立場を主張でき、報復される可能性を減らすことができる。そのような抑制に最終的に必要になってくるのが「コントロール」である。問題は怒りを感じている状態の時に、私たちは物事を冷静に熟慮することが難しいことである。

まとめ

1.怒りという感情の難しさ

●「悪い世界では、人は善い存在ではいられない」。「怒りは合理的なものである」、これが怒りの難しさの所以ではないかと思います。

●怒りを強引に押しつぶしてしまうと、自尊心と道徳的な基盤を失う恐れがあります。その一方で、怒りを許すことは不道徳を許すことになるかもしれません。損害を受けて何か失うと、それが何であれ永久に戻ってはきません。犯してしまった悪事は謝罪しても軽くなるわけでなく、その結果、不当な扱いを受けた者から復讐する気持ちを消し去ることは困難です。このように怒りは、抑制はできても消し去ることは容易ではなく、特に、理由なく愛する人を殺されたような人の怒りは一生消えないと思います。

2.怒りとの付き合いかた

●怒りの大きさ、深刻さによって大きく異なりますが、怒りの矛先を怒りの原因に集中するのではなく、第三者的視点で、自分自身の今の感情や状況に目を向け、そして、怒りの相手に対しては全人格的な視点で理解しようと努めるということが第一歩なのではないでしょうか。ここでのポイントは真剣に相手の話を理解しようとすることだと思います。

そして、誰もが善悪の両面をもっていること、誰もが生まれたときから悪人なのではないこと。加害者の相手は被害者だった過去があるかもしれないこと等、いずれも根本解決にはならないでしょうが、怒りの感情を少なくすることはできると思います。

それはストレスに置き換えて考えてみるならば、ストレスを減らし、ストレスによる心身へのダメージを減らすことにつながると思います。つまり、怒りの感情はなくならないが、怒りによるストレスを減らす努力は有益であるということです。

●強い怒りの感情には効果はないかもしれませんが、起床時間、就寝時間、食事の時間など、あるいは体を動かす時間を作ることなど、生活習慣を整えることは、自分の気持ちや心を整えることにもなり、少なくともストレスを減らす効果は大きいと思います。やはり、怒りをなくすことはできずとも、ストレスを減らす努力をすることが大事だと思います。

ご参考2

以下は、以前アップした”ヨガ”というブログでご紹介したものです。このような境地に至ることが理想なのかもしれません。

画像出展:「ヨガが丸ごとわかる本」

『つまりヨガとは、「本当の自分」は“全宇宙”と同じであり、“全宇宙”は「本当の自分」でもあるという心理に気づくことがヨガの最終境地である。』

 

ボーアとアインシュタイン6

著者:マンジット・クマール

発行:2013年3月

出版:新潮社

目次は“ボーアとアインシュタイン1”を参照ください。

41.アインシュタインの統一場理論とEPR論文

“相補性”は「デジタル大辞泉」によると『電子の位置と速さ、光の粒子性と波動性のように、不確定性原理から二つの量が同時に測定できない関係にある現象を互いに相補的であるといい、このような性質をいう』とされています。そこには人知の理解を超えたものを受け入れる柔軟性のある価値観という感じを受けます。一方、“統一場理論”の前提は実在性に立脚し必ず統合できるという信念、もしくは統合を諦めることは許されないという強迫観念も多少あったのかもしれません。そして、これが両者を分ける根本的な違いであるような気がします。

また、EPR論についても同じような印象を受けます。ひとつは「理論から導かれる結論と人間の経験」ですが、「人間の経験」という表現は枠を意識させます。さらに、実在という泥沼を回避するために、「実在を一般的に定義する必要はない」としたEPR論の主張には違和感を覚えます。

アインシュタインの「量子論のコペンハーゲン解釈と客観的実在とは両立不可能だ」という考えについては、ボーアも同意しており、その上で「量子の世界というものはない。あるのは抽象的な量子力学の記述だけである」という見解を示しました。

『19世紀にマクスウェルは、電気、磁気、光を統一して、包括的なひとつの理論構造にまとめあげた。アインシュタインはそれと同様、電磁気理論と一般相対性理論とを統一したいと考えていたのだ。彼にとって、それらふたつの理論を統一することは次に踏み出すべきステップであり、避けて通ることのできない道筋であると同時に、論理的必然でさえあった。そんな理論を作るという彼の試みはいずれも屑籠箱行になるのだが、彼がその道に最初の一歩を踏み出したのは、1925年のことだった。その後量子力学が発見されてからは、統一場理論ができれば、量子力学はその副産物として得られるだろうと考えるようになっていた。

『若い世代とのあいだに相互不信はあったものの、アインシュタインといっしょに仕事がしたいと熱望する若手はつねにいた。そんな若手のひとりがネイサン・ローゼンである。ニューヨーク生まれのローゼンは、1934年、25歳のときに、アインシュタインの助手としてマサチューセッツ工科大学(MIT)から高等研究所にやってきた。そのローゼンよりも数カ月ほど早く、ボリス・ポドルスキーが初めてアインシュタインに会ったのは、1931年、カリフォルニア工科大学(カルテック)でのことだった。そのときふたりは共著論文をひとつ書き上げた。アインシュタインはもうひとつの論文のアイデアをもっていた。その論文が、コペンハーゲン解釈に新しい側面から一撃を加え、アインシュタイン=ボーア論争の歴史に新時代を画することになるのである。

1927年と1930年の、二度のソルヴェイ会議でアインシュタインが採った路線は、不確定性原理を突き崩すことにより、量子力学には矛盾があり、それゆえ不完全であることを示すというものだった。ボーアはハイゼンベルクとパウリの協力を得てアインシュタインの思考実験という要塞を解体し、コペンハーゲン解釈を防衛することに成功した。

その後アインシュタインは、量子力学には論理的な矛盾はないものの、ボーアが言うような完全な理論ではないと考えるようになった。量子力学は完全ではなく、物理的実在を十分に捉えていないということを示すためには、これまでとは違う戦略が必要なのはわかっていた。その目的のためにアインシュタインが開発したのが、彼の考案したなかで、もっとも長く攻略に耐えることになる思考実験だった。

1935年が明けるとすぐに、アインシュタインは、ポドルスキーとローゼンを研究室に呼び、三人で数週間にわたって議論を重ね、その新しい戦略を入念に練り上げた。ポドルスキーがその議論の成果を論文として書き上げる作業を担当し、ローゼンはそのために必要な計算のほとんどを担当した。のちにローゼンが語ったところによれば、アインシュタインの担当は、「一般的な考え方、およびその意味」を明らかにすることだった。わずか四ページのその論文―アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼン論文、略してEPR論文―は、三月末には完成し、専門誌に送付された。「物理的実在に関する量子力学の記述は完全だと考えることができるか?(Can Quantum Mechanical Description of Physical Reality Be Considered Complete?)」と題された三人の共著論文は、[Physical Realityの前にあるべき]“the”を落としたまま、5月15日に、アメリカの物理学専門誌「フィジカル・レビュー」に掲載された。タイトルに掲げた問いに対するERPの回答は、敢然たる「ノー!」だった。ERP論文は、著者のひとりにアインシュタインが含まれていたため、専門誌に掲載される前に、誰も望まないかたちで世間の注目を浴びることになった。

1935年5月4日土曜日の「ニューヨーク・タイムズ」の第十一面に、「アインシュタイン、量子論を攻撃する」という派手な見出しの記事が掲載された。「アインシュタイン教授は、科学の重要理論である量子力学を攻撃する予定だ。その理論にとって彼は祖父のような存在である。彼は、量子力学は“正しい”が、“完全”ではないと結論した」。それから三日後、「ニューヨーク・タイムズ」は、明らかに不機嫌なアインシュタインの談話を掲載した。新聞を相手取ることに不慣れではないはずのアインシュタインだったが、言わずもがなのことを言ったのだ。「科学的な問題については、それにふさわしい場でしか論じないというのが、一貫したわたしのやり方である。わたしは、こうした問題についての発表を、論文掲載に先立って一般紙で行うことに反対する」

アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンは発表された論文の中で、まずはじめに、実在そのものと、物理学者が理解するところの実在とを区別した。「物理理論について本格的な考察を行うときにはつねに、理論とはいっさい関係ない客観的実在と、理論のなかで用いられる物理的な概念とは、別のものだということを考慮に入れなければならない。物理的概念は、客観的実在をさせるために作られたものであり、われわれはそれらの概念を使って、自らのために客観的実在をえがき出だすのである。」それに続けてEPRは、物理理論が成功していると言えるためには、次のふたつの問いに対する答えが、無条件に「イエス」でなければならないと主張した。そのふたつとは、「その理論は正しいのか?」と「その理論によって与えられる記述は完全か?」である。

「理論が正しいかどうかは、理論から導かれる結論と人間の経験とが、どの程度合うかによって判断される」とEPRは述べた。物理学で言う「経験」は、実験や測定を意味するから、三人がここで述べたことは、物理学者なら誰でも受け入れるだろう。今日にいたるまで、実験室で行われた実験と、量子力学の理論的な予測とのあいだに矛盾と言えるようなものはない。したがって、量子力学は正しい理論だと言えそうだ。しかしアインシュタインにとって、実験と合う正しい理論だというだけでは不十分だった―理論はそれに加えて、完全でなければならなかったのである。

「完全」という言葉が何を意味しているにせよ、EPRは、物理理論の完全性に対して、ひとつの必要条件を与えた。「物理的な実在の要素はすべて、その物理理論のなかに対応物をもたなければならない」。理論が完全であるための判定基準をこのように定める以上、EPRがこの先に議論を進めるためには、「実在の要素」とは何かを定義しなければならない。

アインシュタインは哲学の泥沼にはまりたくはなかった。あまりにも多くの人たちが、「実在」を定義しようとして、その泥沼に飲み込まれていった。実在が何で構成されているのかを明らかにしようとして、無事にその沼から出てきた者はかつてひとりもいなかったのだ。そこでEPRは、その泥沼を回避するために、自分たちの目的にとって、「実在を一般的に定義する必要はない」と述べた。そのうえで、「実在の要素」を定義するために、「十分」にして「妥当」な判定基準、と三人が考えるものを使うことにした。その判定基準とは、「系をいかなる仕方でもかき乱すことなく、ある物理量の値を、確実に(すなわち確率1で)予測することができるなら、その物理量に対応する、物理的実在の要素が存在する」というものだった。

アインシュタインは、量子力学が捉えていない客観的な「実在の要素」が存在することを示すことにより、量子力学は自然についての完全な基礎理論だというボーアの主張を突き崩したいと考えたのだ。アインシュタインは、ボーアや彼の意見を支持する者たちとの論争の焦点を、量子力学には内部矛盾があるかどうかという問題から、実在はいかなる性質をもつのか、そして理論は役割とは何かという問題へとシフトさせたのである。』

EPR論文には、量子論のコペンハーゲン解釈と客観的実在とは両立不可能だというアインシュタインの考えが表明されていた。それについてはアインシュタインのいう通りであり、ボーアもそれはわかっていた。じっさいボーアは、「量子の世界というものはない。あるのは抽象的な量子力学の記述だけである」と述べているのである。コペンハーゲン解釈によれば、粒子には、独立した実在性はない。観測されていないときには、粒子は物理的な性質をもたないのだ。アメリカの物理学者ジョン・アーチボルト・ホイーラーは、のちにこの考え方を次のように言い表した。「基礎的な現象は、観測されるまでは実在しない」。EPR論文が世に出る一年ほど前にはパスクアル・ヨルダンが、観測者とは無関係な実在を認めないコペンハーゲン解釈の観点を論理的にとことん突き詰めて次の結論に達した。「われわれ自身が、測定結果を生み出すのである」

ポール・ディラックは、「アインシュタインがこれではダメだと証明したのだから、一からやり直しだ」と言った。彼ははじめ、アインシュタインは量子力学に致命的な打撃を与えたと考えたのだ。しかしすぐに、ディラックもその他多くの物理学者たちと同じく、今回もまたボーア=アインシュタイン論争の戦場から、勝者として帰還したのはボーアだと考えるようになった。量子力学が非常に役に立つ理論であることはとっくの昔に証明されていたし、EPRに対するボーアの回答をじっくり吟味してみようという者はほとんどいなかった―なにしろボーア自身の基準に照らしてさえ、その回答はあいまいで難解だったのだから。』

42.理論と哲学的立場

アインシュタインの抵抗は、個人的というより物理学界への警鐘だったように思います。「実験の証拠に基づかず、科学理論を基礎として哲学的世界観を作ること」の危機感から、その危険性を強く訴え続けたということではないでしょうか。アインシュタインの執拗ともいえる論争によって、量子力学は可能な限りの精査を通して今に至っているように思います。ボーアも親愛なる友であるアインシュタインからの警告の意図を理解していたからこそ、アインシュタインからの問題定義を真摯に受け止め、生涯にわたって取り組み続けたのではないかと思います。

『ふたりのあいだで語られなかったことは、すでにお互いが知っていることだった。量子力学の解釈に関するふたりの論争は、突き詰めれば、実在をどう位置づけるかに関する哲学的な信念にかかわっていた。世界は実在するのだろうか? ボーアは、量子力学は自然に関する完全な基礎理論だと信じ、その上に立って哲学的な世界観を作り上げた。その世界観にもとづき、ボーアはこう断言した。「量子の世界というものはない。あるのは抽象的な量子力学の記述だけである。物理学の仕事を、自然を見出すことだと考えるのは間違いである。物理学は、自然について何が言えるかに関するものである」。アインシュタインはそれとは別のアプローチを選んだ。彼は、観測者とは独立した、因果律に従う世界がたしかに実在するという揺るがぬ信念の上に立って量子力学を評価した。その結果として、彼はコペンハーゲン解釈を受け入れることができなかった。「われわれが科学と呼ぶものの唯一の目的は、存在するものの性質を明らかにすることである。ボーアにはまず理論があり、次に哲学的な立場があった。その哲学的立場とは、理論が実在について何を語っているかを理解するために作り上げた解釈だった。アインシュタインは、何であれ科学理論を基礎として哲学的世界観を作ることの危険性を知っていた。新しい実験的証拠の光に照らして、理論に不十分な点があることが判明すれば、その理論に支えられていた哲学的な立場は崩れるからだ。「いかなる知覚的行為とも無関係な実在を仮定することは、物理学の基礎です」とアインシュタインは述べた。「しかしその仮定が正しいかどうかを、わたしたちは知らないのです」

アインシュタインは、哲学的には実在論者であり、そのような立場を根拠づけることは不可能であることを知っていた。それは実在に関するひとつの「信念」であって、証明できるようなものではないからだ。しかし、たとえそうだとしても、アインシュタインにとって、「人が理解したいと願うのは、そこに存在する現実の世界」なのだった。彼はモーリス・ソロヴィンへの手紙に次のように書いた。「人間理性にとって手が届くかぎりの実在の本性が合理的なものだという確信について何か語るとすれば、“宗教的”確信というより良い表現が見つかりません。この感覚がなくなるところでは、科学はつねに退屈な経験主義に陥ってしまう恐れがあります」

ハイゼンベルクは、アインシュタインとシュレーディンガーは「古典物理学の実在概念、より一般的な哲学的な言葉を使うなら唯物論[精神の実在を否定して、物質の根源性、独自性のみを主張する哲学の理論]の実在論に戻りたい」のだろうと考えていた。ハイゼンベルクにとって、「石や木が存在するのと同じ意味において、最小の構成要素が客観的に存在するような実世界が、われわれがそれらを観察するかどうかによらずに存在している」という信念をもつことは、「十九世紀の自然科学に広く行き渡っていた、素朴な実在論の観点」に後戻りすることだった。アインシュタインとシュレーディンガーは「物理学を変えることなく哲学を変えたい」のだというハイゼンベルクの判断は、半ば正しく、半ば間違っていた。アインシュタインは物理学そのものを変えることにも懸命だった―彼は、多くの人たちが考えていたような、保守的な過去の遺物ではなかったのである。古典物理学の概念は、何か新しいもので置き換えなければならないとアインシュタインは確信していた。それに対してボーアは、巨視的な世界は古典物理学の概念で記述されるのだから、巨視的な世界については、古典物理学を超える理論は探そうとすることさえ時間の無駄だと論じていた。じっさい、彼が相補性の枠組みを作り上げたのは、古典的な概念を救おうとしてのことだった。ボーアにとって、測定装置とは独立した基礎的な物理的実在などというものは存在しなかった。ハイゼンベルクが指摘したように、「われわれは量子論のパラドックス、すなわち、古典的な諸概念を使うしかないというパラドックスを避けることはできない」とボーアは考えていたのである。アインシュタインが「心休まる哲学」と呼んだのは、古典的諸概念を残さなければならないという、ボーア=ハイゼンベルクの魅力的な呼び声のことだったのだ。』

アインシュタイン=ボーア論争は、アインシュタインの死をもって終わったわけではなかった。ボーアは、論敵がまだ生きているかのように、その後も量子論争をつづけたのだ。「わたしにはアインシュタインが微笑んでいるのが見える。得意気でありながら、思いやりと優しさを浮かべたあの顔で」。ボーアが物理の基本的な問題について考えるときには、アインシュタインならどう言っただろうかということが、まず頭に浮かぶことが多かった。1962年11月17日の土曜日、ボーアは、自分が量子物理学の発展に果たした役割に関する、五回にわたるインタビューの最後のひとつを受けた。翌日曜日、昼食をとった後、ボーアはいつものように昼寝をするために寝室に向かった。夫の声を聞いた妻のマルグレーデが寝室に急ぐと、そこには意識を失ったボーアがいた。七十七歳のボーアは、致命的な心臓発作を起こしたのだ。前の晩、かつての講義をもう一度反芻しながら、彼が最後に書斎の黒板に描いたのは、アインシュタインの光の箱だった。

画像出展:「量子革命」

1954年アインシュタインが亡くなる前年の写真です。(プリンストンの自宅にて)

左は1930年、右は1962年11月亡くなる前夜にボーアが書斎の黒板に描いた“光の箱”です。


アインシュタインは、こう語ったことがある。「わたしは一般相対性理論について考えた時間より、百倍も多くの時間をかけて量子の問題について考えた」。ボーアは、量子力学は、原子の世界について何を教えているのかを理解しようとするなかで、客観的な実在があるという考えを捨てた。アインシュタインにとってボーアのその判断は、量子力学はたかだか真実の一部しか含んでいないことを示す明らかな兆候だった。ボーアは、実験や観察でわかることの背後に、量子の世界が実在するわけではないと主張して譲らなかった。アインシュタインは、「それを認めることに論理的な矛盾はないが、その考えはわたしの科学的直観と真っ向から対立するので、わたしとしてはより完全な理論を探さずにはいられないのである」と述べた。彼は、「単に出来事が起こる確率ではなく、出来事そのものを描き出すような実在のモデルを作ることは可能だ」と信じることをやめなかった。しかし結局、アインシュタインはボーアのコペンハーゲン解釈を論駁することができなかった。プリンストン時代のアインシュタインを知るアブラハム・パイスは、次のように述べた。「相対性理論について語るときの彼は冷静だったが、量子論については熱くなって語った」。そしてパイスはこう言い添えた。 「量子は彼のデーモンだった」。』

43.統一場理論

アインシュタインが目指したのは電磁気学、一般相対性理論、そして量子力学を統合する重力理論でした。

アインシュタインは、人生最後の二十五年間をかけて追及したにもかかわらず、いまだ捉えることのできない統一場理論―それは一般相対性理論と電磁気学の結婚だった―が、自分が追い求める完全な理論になると信じていた。その統一場理論は、量子力学を含むような完全な理論になるはずだった。パウリはそんなアインシュタインの統一の夢に対し、「神が引き離したものを、何人たりともふたたび結びつけてはなりません」という辛辣な判定を下した。当時はほとんどすべての物理学者が、アインシュタインは現実が見えていないと言ってあざ笑った。しかし、[重力・電磁力に加えて]放射性崩壊を引き起こす弱い核力と、原子核をまとめている強い核力が発見されて、物理学者が相手にしなければならない力が四つに増えると、まさにアインシュタインが求めていたような理論の探求が、物理学の聖杯になったのである。』

『ボーアとの論争で決定打を出すことはできなかったものの、アインシュタインの挑戦は後々まで余韻を残し、さまざまな思索の引き金となった。彼の戦いはボーム、ベル、エヴェレットらを力づけ、ボーアのコペンハーゲン解釈が圧倒的影響力を誇って、ほとんどの者がそれを疑うことさえしなかった時期にも検討を促した。実在の本性をめぐるアインシュタイン=ボーア論争は、ベルの定理へとつながるインスピレーションの源だった。そしてベルの不等式を検証しようという試みから、量子暗号、量子情報理論、量子コンピューティングといった新しい研究分野が直接間接に生まれてきたのである。こうした新しい分野のなかでもとくに注目すべき、エンタングルメント[量子もつれ]を利用した量子テレポーテーションだ。SFの世界の話しのように聞こえるかもしれないが、1997年には、ひとつならずふたつのチームが、その粒子の量子状態が別の場所にあるもうひとつの粒子に完全に転写されたので、事実上、最初の粒子を移動させたことになるのだ。

アインシュタインは、コペンハーゲン解釈を批判し、彼に取り憑いた量子のデーモンを滅ぼそうとしたせいで人生の最後の三十年は不遇だったが、彼の主張の一部は正しかったことが示された。アインシュタイン=ボーア論争は、量子力学の数学に含まれる式や数値とはほとんど関係がなかった。量子力学は何を意味しているのか? 実在の本性について量子力学は何を語るのか? こうした問いにどう答えるかが、ふたりを分けたのである。アインシュタインは、具体的な解釈を示したことは一度もなかった。なぜなら彼は、物理理論を睨んで自分の哲学を作るということをしなかったからだ。その代わりに彼は、実在は観測者とは独立しているという信念にもとづいて量子力学を調べ抜き、この理論には満足できないと考えるようになったのだ。

1900年12月には、たいていのことは古典物理学で説明がつき、ほとんどすべてのことが古典物理学の支配する領域に収まっていた。そのときマックス・プランクが量子に出くわし、物理学者たちは今なお、量子の取り扱いに苦労している。アインシュタインは、「わたしは量子に強い関心を持ち」、半世紀ものあいだ「考え続けた」が、いまだ理解したというには程遠いありさまだと述べた。最後までその努力を続けたアインシュタインが慰めを見出したのは、ドイツの劇作家にして哲学者でもあるゴットホルト・レッシングの次の言葉だった。「真実を手に入れたいという願望は、真実を手に入れたという確信よりも尊い」。

感想

1900年、マックス・プランクが「黒体の放射法則の導出法」の中で“量子”と命名し、1905年にはアルベルト・アインシュタインが光量子の存在と光電効果に関する論文を発表しました。しかしながら、量子論の扉を開いたのはニールス・ボーアが1913年7月に発表した論文、「原子と分子の構成について」だったと思います。

量子論から量子力学への道程も困難極まりないものでしたが、ボーアは若い天才物理学者のハイゼンベルクにすべてを託し、そのハイゼンベルクは友人で同じく若き天才物理学者のパウリの協力により、ついに行列力学にもとづく量子力学を確立しました。しかし、この行列力学は難解な数学的なアプローチであったため、多くの物理学者にとって理解困難なものでした。

それに対抗するように登場したのが、直観的で物理学者にとって分かりやすい波動力学でした。そして、波動力学を発見したシュレーディンガーを後押ししたのがアインシュタインでした。アインシュタインは「コペンハーゲン解釈」に対して、ゾンマーフェルトへの手紙の中で、次のように話しています。「量子力学は統計的法則を記述するという意味では正しい理論かもしれませんが、基本的な個々のプロセスを記述する理論として適切ではありません」。

これは、アインシュタインが考える物理学のあるべき姿に照らし合わせると、受け入れることができない“解釈”でした。また、ボーアの【相補性】に対してアインシュタインは【統一場理論】を考えていました。これがシュレーディンガーとともに「コペンハーゲン解釈」を受け入れることなく、論争になった核心の一つだったと思います。しかしながら、このアインシュタインやシュレーディンガーとの論争、特に第五回ソルヴェイ会議の公私にわたる、あたかもチェスのような闘い、さらに四半世紀に渡って繰り広げられた論争は、確実に量子力学を磨き上げました。

アインシュタインの死後十年を経た1965年、ノーベル賞受賞者のリチャード・ファインマンは次のような言葉を残しました。「量子力学を理解している者は、ひとりもいないと言ってよいと思う」また、「こんなことがあっていいのか?と考え続けるのはやめなさい―やめられるのならば。その問いへの答えは、誰も知らないのだから」。

不可知とは「人間のあらゆる認識手段を使用しても知り得ないこと」とされています。不可知論は古代ギリシアや古代インドから存在し、近代においては哲学者カントが「純粋理性批判」において、「物自体は認識できずかつ知り得るものではなく、人は主観形式である時間・空間のうちに与えられた現象だけを認識できる能力のみがある」という考えを提示しました。これも一種の不可知論とされています。

本書の中には次のような記述がありました。

『ハイゼンベルクが発見した不確定性は、現実の世界に本来的に備わっている性質なのだ。原子レベルの世界で観測可能な量について、プランク定数の大きさにより規定され、不確定性関係により課される正確さの限界は、装置をどれだけ改良しても決して消滅することはない、とハイゼンベルクは述べた。この驚くべき発見の名前としては、「不確定性」や「不決定性」よりも、「不可知性」(unknowable)というほうがふさわしかったかもしれない。

不可知性はボーアとアインシュタインを分けた価値観の相違であり、分岐点ではなかったのかと思います。

ご参考Youtube“量子力学と仏教は同じだった!?物理学者たちが東洋思想に魅了される理由【宇宙の真理】(8分54秒)以下がこの動画の内容です。

00:06 物理学者たちの仏教への反応

01:07 量子力学の世界観①(ウィグナーの友人 ; 思考実験)

03:27 西洋哲学者たちの量子力学への反応

04:08 仏教の世界観①(縁起)

05:11 量子力学の世界観②(不確定性原理)

05:58 仏教の世界観②(不可知性)

06:26 不可知性の世界

06:40 コペンハーゲン解釈の世界

06:56 量子力学の父

07:49 東洋思想と量子力学の関係性の論文

※07:58のところで、ボーアは以下のように述べたということが紹介されています。

・・・この考えは、

陰陽の名で知られるシンボルである太極図で表現された古代東洋と密接に調和しています。この考えによれば、自然界のすべての変化は、二つの主要な原因または原理によって調和され、それぞれが他を補完しているのです。』

『ボーアはデンマークの国民的英雄になり、1947年、デンマーク最高の勲章、大象位勲章を受けた。この勲章をもらうとき、家の紋章を選ぶ規定があった。ボーアはそのとき、彼の思想を表す非常に特徴のある紋章を選んだ。紋章の上には「CONTRARIA SUNT COMPLEMENTA」=対立するものは相補的である。という意味の言葉がかかれていた。ボーアの選んだ紋章は中国の「易」の思想を表すという太極図である。 

の二色の円が太極図です。 

画像出展:「アインシュタイン ロマン3」

おそらく、向かって左から3人目がボーア博士だろうと思います。また、次のような話をされたとのことです。

『富士山を箱根や伊豆、その他さまざまな場所から見ることができました。富士山は光線や天候によって姿を色々変えます。あるときは山頂が山に隠れ、あるときは雪を頂く山頂が雲の上に浮かんでいました。その時々の印象は非常に異なります。しかし、富士山の本当の優美な姿はその時々の印象がすべて私の中で合わさってできるのです。それは相補性と同じことなのです。』

ルビンの壺

画像出展:「Binary Diary

もし、人間社会において“壺”という物が存在していないとすれば、この図を見て気づくことは向かい合った二人の横顔だけです。

「不可知」は人間のあらゆる認識手段を使用しても知り得ないことです。やはり、我々が生活している物質世界において、不可知という考えも必要ではないかと思います。

 

ボーアとアインシュタイン5

著者:マンジット・クマール

発行:2013年3月

出版:新潮社

目次は“ボーアとアインシュタイン1”を参照ください。

37.1927年9月、イタリアのコモで開催された国際物理学会

ボーアが相補性という考えを発表したのは、イタリアのコモで開催された国際物理学会でした。そして約1か月後には「第五回ソルヴェイ会議」がブリュッセルで行われました。後年、「コペンハーゲン解釈」と呼ばれるようになった量子物理学は、この二つの会議で行ったボーアの講演が原点です。

『1927年9月11日から20日にかけて、イタリアのコモで開催された国際物理学会は、イタリアのアレッサンドロ・ボルタの没後百周年の記念行事だった。会議がたけなわとなっても、ボーアはまだ、9月16日に予定されている講演の原稿を書き続けていた。講演当日、カルドゥッチ研究所で彼の話を待ち受ける参加者のなかには、ボルン、ド・ブロイ、コンプトン、ハイゼンベルク、ローレンツ、パウリ、プランク、ゾンマーフェルトがいた。

ボーアはまず、新しい相補性という考え方の枠組みを初めて公式の場で説明したのち、ハイゼンベルクの不確定性原理を取り上げ、量子論において測定が果たす役割について語った。ボーアが小声で話す内容を、隅から隅まできちんと聞き取るのは難しい人たちもいた。ボーアは、シュレーディンガーの波動関数に関するボルンの確率解釈をはじめ、さまざまな要素をひとつひとつつなぎ合わせ、それらを量子力学に対する新しい物理的理解の基礎とした。物理学者たちはのちに、たくさんのアイデアが混じり合ったその解釈のことを、コペンハーゲン解釈と呼ぶようになる。

ボーアの講義は、後年ハイゼンベルクが、「量子論の解釈にかかわるあらゆる疑問について、コペンハーゲンで行われた徹底的な研究」と表現することになる努力の、ひとつの到達点だった。このデンマーク人が与えた回答は、「量子の手品師」たる若きハイゼンベルクさえも、はじめは戸惑いを覚えるほどのものだった。ハイゼンベルクはのちに、当時の様子を次のように語った。「何時間も話し続けてすっかり夜も更け、身通しがつかないまま議論が終わると、わたしはしばしば研究所のそばに広がる公園にひとりで散歩に出かけ、繰り返しこう自問したものだった。自然は本当に、こうした原子レベルの実験が示しているような馬鹿げたものなのだろうか?」。この疑問に対するボーアの答えは、きっぱりとした「イエス」だった。測定と観測にそのような重要な役割を与えることは、自然のなかに規則的なパターンや因果的な結びつきを見出そうとするいっさいの試みを無効にするものだった。

科学の中核的教義のひとつである因果律は捨てなければならないと、論文のなかではっきりと唱えた最初の人物がハイゼンベルクだった。彼は不確定性原理の論文に次のように書いた。「現在が正確にわかっていれば未来を予測することができる」という決定論的な因果律の定式化において、間違ってるのは結論ではなく、仮定のほうである。現在をあらゆる細部にわたって知ることは、原理的にさえできないからだ。たとえば、一個の電子がもつ位置と速度を、同時に正確に知ることはできない。それゆえわれわれに計算できるのは、その電子が未来においてもつ位置と速度に関する、「さまざまな」可能性だけである。原子レベルのプロセスについて、一回かぎりの観測や測定で得られる結果を予測することはできない。正確に予測できるのは、ある範囲の可能性のうち、どれかの結果が得られる確率だけなのだ。

ニュートンの敷いた基礎の上に築かれた古典的宇宙は、決定論的な時計仕掛けの宇宙だった。アインシュタインの相対性理論による修正を受けてからも、粒子であれ惑星であれ、与えられた時刻における物体の位置と速度が正確にわかれば、あらゆる時刻における物体の位置と速度は、原理的にはどれほど正確にでも求めることができる。しかし量子的な宇宙では、あらゆる出来事は空所がないのだ。ハイゼンベルクは不確定性原理の論文の最後の段落で、大胆にも次のように述べた。あらゆる実験が量子力学の法則に従い、それゆえ式ΔpΔq=hに従う以上、因果律を復活させようとすることは、「知覚され統計的な世界」とハイゼンベルクが呼ぶものの背後に、何か「真の」世界が隠れていることを期待するのと同様、「非生産的であり、無意味である」というのがハイゼンベルクの考えだった。それが、彼とボーア、そしてパウリ、ボルンの共通の見解だったのである。

コモの会議では、ふたりの物理学者の欠席が目立っていた。シュレーディンガーは数週間前にプランクの後任としてベルリンに移り、新しい環境に慣れるのに忙しかった。アインシュタインはファシズムのイタリアに足を踏み入れることを拒否した。しかしボーアはわずか1カ月後には、ブリュッセルでこのふたりに会えるはずだった。』

38.1927年10月24日~10月29日第五回ソルヴェイ会議

1926年9月、戦後、ドイツが国際連盟に加入する道が開かれ、第五回ソルヴェイ会議の開催国となったベルギー国王はドイツ人科学者の参加を承認しました。この結果、ソルヴェイ会議にはアインシュタインの参加が認められました。そのソルヴェイ会議の論争の主役はボーアとアインシュタインであり、それは物理学というより哲学に近いものだったようです。

画像出展:「アインシュタイン ロマン3」

『第五回ソルヴェイ会議に招待された物理学者たちはみな、「電子と光子」というテーマを掲げたこの会議は、目下もっとも緊急度の高い問題、物理学というよりむしろ哲学というべき問題について討論するよう企画されていることを知っていた。その問題とは量子力学の意味である。量子力学は自然の本当の姿について何を教えているのだろうか? ボーアはその答えを知っているつもりだった。多くの人たちにとって、ボーアは「量子の王」としてブリュッセルに到着した。しかし、アインシュタインは「物理学の教皇」だった。ボーアにとって、「最近到達した発展の段階は、われわれの観点から見れば、アインシュタイン自身がきわめて独創的なやり方で提示したいくつかの問題を解明するという目的地に至る道のりを、かなり先まで進んだということを意味していた」。彼は、「アインシュタインがそれをどう考えるか」を知りたくてうずうずしていた。ボーアにとってアインシュタインの意見は大問題だったのだ。

かくして灰色の雲に覆われた1927年10月24日の月曜日、最初のセッションが始まる午前十時に、世界有数の量子物理学者のほとんどが、レオポルトド公園内にある生理学研究所の建物に顔をそろえた。その場には大きな期待感がみなぎっていた。それは、準備に一年半をかけ、ドイツが仲間外れにされていた時期を終わらせるために国王の同意を必要とした会議だった。』

『10月26日の水曜日には、量子力学のふたつの対抗理論の提唱者たちがそれぞれ報告を行った。午前のセッションは、ハイゼンベルクとボルンが共同で担当した。ふたつの講演は大きく四つの部分に分かれていた―数学的形式、物理的解釈、不確定性原理、そして量子力学の応用である。

具体的には、この会議の議事録にある通り、上位者のボルンが序説と、第一部および第二部を担当し、第三部と第四部をハイゼンベルクが担当した。ふたりはその報告を次のように切り出した。「量子力学は、不連続の発生こそは原子物理学と古典物理学との本質的な違いだという直観にもとづいています」。そしてふたりはほんの数メートルの距離に座っている物理学者たちに謝意を表す意味で、量子力学は本質的に、「プランク、アインシュタイン、そしてボーアによって創設された量子論を直接的に拡張した」ものだと指摘した。

それに続いて、行列力学、ディラック=ヨルダンの交換理論、確率解釈を説明したのち、不確定性原理と「プランク定数hの意味」に話を進めた。ふたりは、プランク定数は「波と粒子の二重性を介して自然法則に入り込む普遍的なあいまいさの尺度」だと主張した。じっさい、もしも物質と放射が波と粒子の二重性をもたなかったなら、プランクの定数は存在しなかっただろうし、量子力学も存在しなかっただろう。そしてふたりはまとめとして、次のような挑戦的な発言をした。「量子力学は閉じた理論であって、その物理的数学的前提は、もはやいかなる変更も受けることはないと考えています」

閉じた理論だというのは、今後いかなる発展があろうと、量子力学の基本的な特徴は変わらないという意味だ。アインシュタインにとって、量子力学は完全だとか最終理論だとかいう主張はなんであれ、到底受け入れられるものではなかった。たしかに量子力学はみごとな理論だが、アインシュタインの見るところ、まだ本物ではなかったのだ。しかしアインシュタインは挑発に乗ることを拒否し、ふたりの報告に続く討論でも口を閉ざしていた。その討議で発言したのは、ボルン、ディラック、ローレンツ、ボーアの四人で、ボルンとハイゼンベルクの報告に異議を唱えた者はひとりもいなかった。』

『昼食後に演壇に上がったのは、波動力学に関する報告を英語で行ったシュレーディンガーだった。 「波動力学の名のもとに、現在、互いに密接に関係しているが完全に同じではないふたつの理論が使われています」と彼は切り出した。じっさいにはひとつの理論しかないのだが、事実上、それがふたつに分裂していたのだ。一方は、日常的な三次元空間の中にある波についての理論、そして他方は、高度に抽象的な多次元空間を必要とする理論だ。問題は、一個の電子を記述する場合を別にすれば、その波は、三次元よりも高い次元の空間に存在する波になってしまうことだ、とシュレーディンガーは説明した。水素原子に含まれる一個の電子を記述するためには三次元空間で足りるが、ヘリウムの二個の電子を記述するためには、六次元空間が必要になる。とはいえ、配位空間として知られるこの多次元空間は数学的な道具にすぎず、その理論で記述されるプロセスがいかなるものであれ―衝突し合う多数の電子であれ、原子核のまわりを起動運動している一個の電子であれ―そのプロセスは空間と時間の中で起こっている、とシュレーディンガーは論じた。「しかし率直に言って、それらふたつの概念は、まだ完全に統一されていません」と述べてから、彼はふたつの場合それぞれについての説明に話を進めた。

物理学者たちは波動力学を便利に使っていたが、一個の粒子を記述する波動関数はその粒子の電荷と質量の分布を表しているというシュレーディンガーの解釈を支持する者は、指導的な理論家の中にはひとりもいなかった。シュレーディンガーは、ボルンの確率解釈が広く支持されていることにも屈せず、自分の波動関数解釈の妥当性を力説し、定説となっていた「量子飛躍」という考え方に疑問を投げかけた。

シュレーディンガーは、報告者としてこの会議に招待されたときから、「行列派」との衝突は避けられまいと覚悟していた。講演後に最初に質問に立ち上がったのはボーアだった。ボーアは、シュレーディンガーが報告の後半で述べた「困難」は、彼が前半で述べた、ある結果が間違っているからではないかと問いただした。シュレーディンガーは、ボーアのその質問はうまく切り抜けたが、今度はボルンが立ち上がり、別のところで計算に間違いがあるのではないかと質問した。シュレーディンガーは少しいらついた様子で、「その計算は完璧に正しく厳密であり、ボルン氏による抗議は根拠がありません」と述べた。 

さらに二人が発言したのち、ハイゼンベルクが立ち上がった。「シュレーディンガー氏は報告の最後で、われわれの知識が深まれば、多次元理論で得られた結果を三次元空間で説明し、理解できるようになるだろうとの希望的観測を述べることで、彼の理論を根拠づけました。しかしわたしの見るところ、シュレーディンガー氏の計算には、この希望的観測を根拠づけるようなものは何もないように思います」。これに対してシュレーディンガーは、「三次元で考えることができるようになるだろうという自分の期待は、さほど荒唐無稽な夢物語というわけではありません」と答えた。それから数分ほどして討議が終わり、議事の第一部にあたる招待講演はすべて終了した。』

『一般的討論のひとつ目のセッションは、10月28日金曜日の午後に始まった。まずローレンツが、因果律、決定論、確率の問題に討論のテーマを絞るために、いくつかの論点を提出した。量子的な出来事には何らかの原因があるのだろうか、ないのだろうか? 彼の言葉を借りるなら、「決定論は、それを信仰箇条のひとつとしなければ主張できないのだろうか? 非決定論のひとつの原理にまで格上げしなければならないのだろうか?」。ローレンツはそれ以上は自分の考えを述べず、ボーアにこのセッションの舵取りを頼んだ。ボーアはそれを受けて、「量子物理学においてわれわれが直面する認識論的な問題」について語り出した。彼の目的が、アインシュタインにコペンハーゲンの解決策の正しさを納得させることにあるのは、誰の目にも明らかだった。

『アインシュタインは、ボーアが自分の信念の概略を語るあいだ、じっとその言葉に耳を傾けていた。ボーアは、波と粒子の二重性は相補性という枠組みの中でしか説明できないと主張した。また、不確定性原理は、自然に本来にそなわっている特徴であり、古典的念に適用限界があることを明らかにするものだが、その基礎は相補性にあると述べた。そして、量子の世界を調べるために行われた実験の結果を明確に伝達するためには、観測結果そのものだけでなく、実験の設定についても、「古典物理学の語彙を適切に磨き上げた」言葉で表現しなければならないとボーアは主張した。

1927年2月、ボーアが相補性に向かってじりじりと考察を進めていたところ、アインシュタインはベルリンで光の性質に関する講演を行っていた。アインシュタインは、光の量子論と、光の波動論のどちらか一方ではなく、「それらふたつの概念を統合しなければなりません」と主張した。彼がその考えを最初に明らかにしたのは、もう二十年ほども前のことだった。アインシュタインは、「統合」を待望していたのに対し、ボーアは相補性を導入し、波と粒子の性質を、互いに相容れないものとして分離しようとしていた。どんな実験をするかによって、光は波であったり粒子であったりするというのだ。

科学者たちは従来、自分が見ているものを攪乱せずに観測できるという、暗黙の前提の上に立って実験を行ってきた。客体と主体、観測者と観測対象は、はっきりと区別されていたのである。しかしコペンハーゲン解釈によれば、原子の領域では、もはやその区別は成り立たない。その原因を、ボーアは「量子仮説」に求めた―それを彼は、新しい物理学の「エッセンス」と呼んだ。量子仮説とは、量子がそれ以上分割不可能な塊になっているせいで、自然界に不連続性が生じるということを捉えるために、ボーアが導入した言葉である。量子仮説を受け入れれば、観測対象と観測者をはっきり区別することはできなくなる、とボーアは述べた。観測を行おうとすると、測定対象と測定装置とのあいだでかならず相互作用が起こる。しかし量子は塊になっているので、その相互作用を好きなだけゼロに近づけることはできない。そのため原子の領域では、「現象と観測者のどちらに対しても、通常の意味での、独立した物理的実在性を与えることはできない」というのがボーアの考えだった。

ボーアのイメージする実在は、観測されなければ存在しないようなものだった。コペンハーゲン解釈によれば、ミクロな対象はなんらかの性質をあらかじめもつわけではない。電子は、その位置を知るためにデザインされた観測や測定が行われるまでは、どこにも存在しない。速度であれ、他のどんな性質であれ、測定されるまでは物理的な属性をもたないのだ。ひとつの測定が行われてから次の測定が行われるまでのあいだに、電子はどこに存在していたのか、どんな速度で運動していたのか、と問うことは意味がない。量子力学は、測定装置とは独立して存在するような物理的実在については何も語らず、測定という行為がなされたときにのみ、その電子は「実在物」になる。つまり、観測されない電子は、存在しないということだ。

「物理学の仕事を、自然を見出すことだと考えるのは間違いである」とボーアはのちに述べた。「物理学は、自然について何が言えるのかに関するもの」であって、それ以外のなにものでもないというのがボーアの考えだった。彼にとって、科学にはふたつの目的があった。「経験できることの範囲を広げること、そして経験を秩序立てること」だ。アインシュタインはかつてこう述べた。「われわれが科学と呼ぶものの唯一の目的は、存在するものの性質を明らかにすることである」。アインシュタインにとって物理学とは、観測とは独立した存在をありのままに知ろうとすることだった。アインシュタインが、「物理学において語られるのは、“物理的実在”である」と述べたのは、その意味でだった。コペンハーゲン解釈で武装したボーアにとって、物理学において興味があるのは、「何が実在しているか」ではなく、「われわれは世界について何を語りうるか」だった。ハイゼンベルクはその考えを、のちに次のように言い表した。日常的な世界の対象とは異なり、「原子や素粒子そのものは実在物ではない。それらは物事や事実ではなく、潜在性ないし可能性の世界を構成するのである」

ボーアとハイゼンベルクにとって、「可能性」から「現実」への遷移が起こるのは、観測が行われたときだった。観測者とは関係なく存在するような、基礎的な実在というものはない。アインシュタインにとって科学研究は、観測者とは無関係な実在があると信じることに基礎づけられていた。アインシュタインとボーアとのあいだに起ころうとしている論争には、物理学の魂ともいうべき、実在の本性がかかっていたのである。

『第五回ソルヴェイ会議は、ブリュッセルに集まった人たちに次のような印象を残した。ボーアは、コペンハーゲン解釈は論理的に無矛盾だと論証することには成功したが、「完全」で閉じた理論についての唯一可能な解釈だとアインシュタインに納得させることはできなかった、と。アインシュタインは会議からの帰りに、ド・ブロイら数人とともにパウリに立ち寄った。彼はこのフランスの貴公子との別れの際に、「続けなさい、あなたは正しい道を歩いている」と言った。しかしブリュッセルで支持を得られなかったことで傷心したド・ブロイは、その後まもなく自説を撤回し、コペンハーゲン解釈の支持に回る。ベルリンに帰り着いたアインシュタインはすっかり疲れ果て、気が抜けたようになっていた。二週間後、彼はアルノルト・ゾンマーフェルトに手紙を書いて、量子力学は「統計的法則を記述するという意味では正しい理論かもしれませんが、基本的な個々のプロセスを記述する理論として適切ではありません」と述べた。

ポール・ランジュヴァンは後年、1927年のソルヴェイ会議で、「概念の混乱は頂点に達した」と述べたが、ハイゼンベルクにとってはこの会議こそ、コペンハーゲン解釈の正しさを証明する道のりの決定的な転換点だった。会議が終わった時点で、ハイゼンベルクはある人物への手紙に、「科学的な成果に関しては、あらゆる点で満足しています」と書いた。「ボーアとわたしの観点は全般的に受け入れられました。少なくとも、深刻な反論は、アインシュタインとシュレーディンガーからさえ、もはや出てきませんでした」。ハイゼンベルクの見るところ、彼は勝利を収めたのだ。彼はそれからほぼ四十年を経て次のように語った。「われわれは古い言葉を使い、それを不確定性関係により制限することで、あらゆることを明らかにすることができたし、首尾一貫した描像を作ることもできた」。「われわれ」とは誰のことかと問われて、ハイゼンベルクはこう答えた。「当時、それは事実上、ボーアとパウリとわたしだった。 

画像出展:「量子革命」

39.ボーア(コペンハーゲンメンバー)とアインシュタインの議論

ボーアとアインシュタインの論争は会議の外、ホテルのダイニングルームで行われました。アインシュタインは新たな思考実験で武装して、朝食の席に現われました。

『一般的討論の時間にアインシュタインが口を開いたのは、この後はあと一度、ひとつ質問をしたときだけだった。後半ド・ブロイは、「アインシュタインは、確率解釈に対するごく簡単な反論をした以外はほとんど何も言わなかった」と語った。その発言の後、アインシュタインは「ふたたび口をつぐんだ」と。しかし、参加者全員がホテル・メトロポールに滞在していたため、突っ込んだ論争は生理学研究所の会議室でではなく、ホテルのエレガントなアール・デコ様式のダイニングルームで行われていたのである。ハイゼンベルクは、「ボーアとアインシュタインは全面戦争に突入した」と言った。

貴族にはめずらしく、ド・ブロイはフランス語しか話さなかった。彼はダイニングルームでアインシュタインとボーアが話し込んでいて、ハイゼンベルクとパウリらがそれを熱心に聞いているのを見ていたに違いない。しかし彼らはドイツ語で話していたので、ド・ブロイは、アインシュタインとボーアが、ハイゼンベルク言うところの「全面戦争」をしているとは思わなかったのだろう。思考実験の達人として知られるアインシュタインは、毎朝、不確定性原理と、この原理とともに称賛されていたコペンハーゲン解釈の無矛盾性に挑む、新たな思考実験で武装して朝食の席に現われた。

コーヒーとクロワッサンを取りながら、その思考実験の分析が始まった。議論はアインシュタインとボーアが生理学研究所に向かう途中も続けられ、たいていはハイゼンベルク、パウリ、エーレンフェストが、ふたりの後にぞろぞろとついていった。アインシュタインとボーアが歩きながら論じ合ううちに、仮説が洗い出され、論点が明らかにされた。そうこうするうちに午前の部のセッションが始まるのだった。ハイゼンベルクはのちにこう語った。「会議のあいだじゅう、とくに休憩時間には、われわれ若手、とくにパウリとわたしはアインシュタインの実験の分析を試みた。昼食時には、ボーアとコペンハーゲンのメンバーが集まって議論を続けた」。夕方になり、さらにコペンハーゲンのメンバーで相談した後に、共同でアインシュタインの反論に立ち向かった。メトロポール・ホテルで夕食の時間になると、ボーアはアインシュタインに、彼の新しい思考実験は不確定性原理によって課される限界を破ってはいないことを説明するのだった。どの思考実験についても、アインシュタインはコペンハーゲンの反論に欠陥を見出すことができなかったが、ハイゼンベルクが述べたように、「彼が心から納得しているわけではない」のも明らかだった。

ハイゼンベルクがのちに語ったところによれば、数日後、「こうしてボーア、パウリ、そしてわたしは、自分たちの一致点はゆるぎないとわかって納得し、アインシュタインも、量子力学の新しい解釈は、それほど簡単に論駁できないらしいということは理解したようだった」。しかしアインシュタインは屈しなかった。彼は、たとえそれがコペンハーゲン解釈を拒否する理由の本質を捉えてはいけないとしても、「神はサイコロを振らない」という言葉をたびたび口にした。あるときボーアはそれに対して、「しかし、神がどうやってこの世界を回しているのかなど、われわれにはわからないでしょう」と言った。パウル・エーレンフェストは、半ば冗談としてこう言った。「アインシュタイン、残念ながら、きみが新しい量子論に反対するやり方は、きみの敵対者たちが相対性理論について反対するやり方とまったく同じだよ」

アインシュタインとボーアが1927年のソルヴェイ会議で非公式に繰り広げた議論を、偏りのない立場から目撃していた唯一の人物がエーレンフェストだった。ボーアはのちにこう述べた。「アインシュタインの意見が、少数の集団のあいだで熱烈な議論を引き起こした。双方と長年にわたり親しい友人だったエーレンフェストは、きわめて積極的かつ有益なかたちで議論に参加した」。会議が終わって数日後、エーレンフェストはライデン大学の学生たちに手紙を書き、ブリュッセルでの出来事を生き生きと伝えた。「ボーアがみんなを完全に圧倒しています。はじめは誰も彼の言うことが理解できないのですが(ボルンもその場にいました)、ボーアは一歩一歩、みんなを説き伏せて行くのです。もちろん、ボーアは、あの恐るべき意味不明な文句を呪文のように唱えます(気の毒に、ローレンツはイギリス人とフランス人のために通訳をしていますが、まったく意味が伝わりません。ローレンツはボーアの話したことをまとめようとするのですが、ボーアは礼儀正しく、それは自分の言っていることとは全然違うと言うのです)。毎晩夜中の一時になると、ボーアはわたしの部屋にやってきて、「ひとことだけ」と言いながら、午前三時までしゃべり続けます。ボーアとアインシュタインとの対話をそばで見ていられたことは、わたしにとっては喜びでした。ふたりにとって、あれはチェスのようなものなのです。アインシュタインはいつも新しい例を携えてやってきます―それで不確定性関係を打倒しようというのです。ボーアは哲学的なもやのなかから、アインシュタインが次々と打ち出す例を論破する道具を探しだしてきます。しかしアインシュタインは、あたかもびっくり箱の中から飛び出してくる人形のように、毎朝、新しくなって飛び出してきます。こういう議論の価値は計り知れません。しかしわたしはほとんど躊躇なくボーアに賛成し、アインシュタインには反対です」。それでもエーレンフェストはこう認めた。「しかし、アインシュタインと意見の一致をみるまでは、ボーアの心が休まることはないでしょう」

ボーアは後年、1927年のソルヴェイ会議でのアインシュタインとの対話は、「とても楽しい気分のなかで行われた」と語った。しかし彼は少し残念そうにこう言い添えた。「ものの見方や考え方には一定の違いが残った。なぜならアインシュタインは、連続性と因果律を捨てずとも、一見してまったく異質な経験を調和させるみごとな腕前があったので、その理想を捨てる気になれなかったのだろう。それに関して言えば、この新しい学問分野を探求するにあたって、日々新たに蓄積されている原子レベルの現象に関する多くの証拠を調和させるという差し迫った仕事をするためには、連続性と因果律を断念するしかないと考える者たちよりも思い切りが悪かったのだろう」。つまりボーアは、アインシュタインの収めた成功そのものが、彼を過去に縛りつけたと言っているのである。 

画像出展:「量子革命」

左がアインシュタイン、右がボーアです。1930年のソルヴェイ会議となっているので、第五回ではなく、第六回の時の写真ということになります。

画像出展:「量子革命」

右がアインシュタイン、左がボーアです。こちらの写真も第六回になります。

40.「コペンハーゲン解釈」という命名は1955年(28年後)

イタリアのコモで開催された国際物理学会、そしてベルギーのブリュッセルでの第五回ソルヴェイ会議は1927年に開催されました。「コペンハーゲン解釈」は、それから28年後にハイゼンベルクが使った言葉でした。その中核にあったのは“相補性”であり“統合”を目指したアインシュタインにとっては納得できるものではありませんでした。しかし、アインシュタインは否定はせず、「とても繊細にまとめられている」という認識を持っていました。良くいえば包括的、悪いくいえば寄せ集め的だったかもしれませんが、不可思議なミクロの量子物理学を説明するにはこれが最善だったのだと思います。

『ボーアは、「コペンハーゲン解釈」という言葉を一度も使わなかったし、1955年にハイゼンベルクが使うときまで、誰もこの言葉を使っていない。しかし、初めはほんの一握りの熱狂的な支持者しかいなかったこの解釈は、その後すみやかに広がり、最終的にはほとんどすべての物理学者にとって、「量子力学のコペンハーゲン解釈」は、量子力学と同義語になった。この急速な、「コペンハーゲン精神」の広がりと受容の背景には三つの要素があった。ひとつは、ボーアと彼の研究所が果たした重要な役割である。若いポスドクの時代にマンチェスターのラザフォードの研究所に滞在したときの経験に触発されたボーアは、それと同じような活気―やればできるという感覚―にあふれた、自分自身の研究所を作ることに成功したのだ。

ボーアの研究所はすみやかに量子物理学の世界的中心地となり、昔のローマ人たちの言葉をもじれば、「すべての道はブライダムスヴァイ十七番地に通ず」という状況だったと語るのは、1928年の夏にそこを訪れたロシア人のジョージ・ガモフである。アインシュタインが所長を務めるカイザー・ヴィルヘルム理論物理学研究所は書物の上にしか存在せず、アインシュタインはそれでよいと思っていた。彼はたいていひとりで仕事をし、のちには計算をやってくれる助手をひとり雇っただけだったのに対し、ボーアは科学上の子どもたちをたくさん育て上げた。その中でも最初に卓越した権威としての地位にのぼったのは、ハイゼンベルク、パウリ、ディラックだった。後年、ラルフ・クロー二ヒが回想したところでは、この三人はまだ若かったが、ほかの若い物理学者たちがあえて彼らに反論することはなかった。クロー二ヒ自身、パウリにスピンというアイデアを馬鹿にされて、電子のスピンをしまい込んだのだった。

第二の要因として、1927年のソルヴェイ会議のころに、教授のポストにたくさん空きが出たことがある。その席のほとんどすべてを、量子力学という新しい物理学を作るために貢献した者たちが占めた。彼らが向かった研究所は、その後すみやかに、ドイツをはじめヨーロッパ中からもっとも優秀な学生を引き付けるようになる。シュレーディンガーはベルリンで、プランクの後継者というもっとも名誉ある地位に就いた。ソルヴェイ会議の直後に、ハイゼンベルクはライプツィヒ大学の正教授となり、理論物理学研究所の所長も兼任するようになった。その六カ月後の1928年4月には、パウリがハンブルクからチューリッヒに移り、スイス連邦工科大学の教授になった。パスクアル・ヨルダンの数学の力量は、行列力学を発展させるにあたって決定的に重要な役割を果たしたが、そのヨルダンがハンブルクでパウリの後任となった。まもなくハイゼンベルクとパウリは頻繁に行き来するようになり、助手や学生をお互いの研究室やボーアの研究所とで交換し、ライプツィヒとチューリッヒをともに量子力学の中心地にした。クラマースはすでにユトレヒト大学に着任していたし、ボルンはゲッティンゲンにポストを得ていた。かくしてコペンハーゲン解釈はすみやかに量子論の定説となったのである。

三つ目の要因として、ボーアと若い協力者たちは、それぞれ意見に違いがあったにもかかわらず、コペンハーゲン解釈に異議を唱える声に対してはつねに統一戦線を張ったことが挙げられる。唯一の例外が、ポール・ディラックだった。1932年9月に、ケンブリッジ大学でかつてアイザック・ニュートンが務めていた数学のルーカス教授職に着任したディラックは、量子力学の解釈問題にはついに関心を持たなかった。彼にはこの問題が、新しい方程式をもたらさない、つまらない執着のように思えたのだ。興味深いことに、彼は自分のことを数理物理学者と呼んだのに対し、同世代のハイゼンベルクやパウリも、またアインシュタインもボーアも、そう名乗ることは決してなかった。』

『ボーアの論文が英語とドイツ語とフランス語の三カ国語で出版された。英語版は「量子仮説と原子論の最近の発展」と題されて、1928年4月14日に刊行された。その脚注に、「本論文の内容は、1927年9月16日に、コモで開かれたボルタ記念会議で量子論の玄奘について行った講義と本質的に同じものである」とあった。しかし実を言えば、ボーアはその論文のために、コモでの講演とブリュッセルでの発言のどちらよりも、相補性と量子力学に関するアイデアをさらに練り上げていたのである。

ボーアはシュレーディンガーにその論文を一部送り、シュレーディンガーは次のように返信した。「もしもひとつの系、つまり質点を、そのp(運動量)とq(位置)を特定して記述したければ、そのような記述は限られた正確さでしかできないということですね」。だとすれば、そのような制約を受けないような新しい概念を導入する必要がある、とシュレーディンガーは論じ、こう結論した。「しかし、そのような概念的な枠組みを発明するのは非常に難しいということに疑問の余地はないでしょう。というのは―あなたがきわめて印象的に力説したように―そのような枠組みを新しく作るためには、われわれの経験のもっとも深いレベル―すなわち空間と時間と因果律―に触れずにはすまないからです」

ボーアはシュレーディンガーに、「一定の理解を示してくれたこと」には感謝するが、シュレーディンガーは古い経験的な概念を、「視覚化という人間の手段の基礎」と分かちがたく結びつけているので、量子論では「新しい諸概念」が必要だということが理解できていないように見える、と書いた。そしてボーアはふたたび持論を繰り返した。すなわち、問題は古典的な諸概念の適用可能性に多少とも恣意的な制限があるかどうかではなく、観測という概念を分析する相補性という不可避的な特徴が現れることなのだ、と。ボーアは最後に、この手紙の内容についてプランクやアインシュタインと議論してみてもらえないかと書いた。シュレーディンガーがアインシュタインに、ボーアとのやりとりのことを話すと、アインシュタインはこう述べた。「ハイゼンベルク=ボーアの心休まる哲学―というより宗教?―は、たいへん繊細に作り上げられているので、当面、真の信者には優しい枕になってくれるでしょう。信者はそのまどろみから容易には起きないでしょう。そのまま寝かしておきましょう」。』

ボーアとアインシュタイン4

著者:マンジット・クマール

発行:2013年3月

出版:新潮社

目次は“ボーアとアインシュタイン1”を参照ください。

28.数学的には等価だが物理的世界が異なる波動力学と行列力学

一度は断念したシュレーディンガーによる二つの量子力学の関係を明らかにする研究は、ついに実を結びました。

『1925年の春が夏に変わろうとするころには、古典物理学においてニュートン力学が果たしたような役割を、原子物理学において果たすべき理論―量子力学―は、まだ存在していなかった。ところがその一年後には、粒子と波ほども性格の異なる、ふたつのライバル理論が存在していた。しかもそれらの理論を同じ問題に当てはめてみると、まったく同じ結果が得られたのだ。ひょっとすると、行列力学と波動力学のあいだには何か関係があるのでは? シュレーディンガーは、画期的な論文を書き終えた直後から、そのことを考えはじめた。彼は二週間ばかり、ふたつの理論の関係を探ってみたが、何も見出せなかった。「結局、それ以上探すのは諦めました」と、シュレーディンガーはヴィルヘルム・ヴィ―ンへの手紙に書いた。関係が見出せなくても、彼は少しも困らなかった。なにしろシュレーディンガーは、「自分の理論がぼんやり頭に浮かぶよりだいぶ前から、行列計算には耐えられないと思っていたから」だ。しかし結局、彼は両者の関係をさらに追及せずにはいられず、ついに三月の初めに、それを発見する。

形の上でも、内容という点でも大きく異なる二つの理論―一方は波動方程式を用いて波を記述し、他方は行列代数を用いて粒子を記述する理論―は、数学的には同じものだったのだ。両者がまったく同じ答えを与えたのも当然のことだった。まもなく、形のうえでは異なっても、互いに等価であるようなふたつの方程式があることの利点が明らかになった。物理学者が出会うほとんどすべての問題で、シュレーディンガーの波動力学のほうが容易に答えを与えてくれた。しかしそれ以外の側面、たとえばスピンが関係する問題では、ハイゼンベルクの行列のアプローチのほうが役に立つことが示されたのだ。

かくして物理学者の関心は、理論の数学的形式から、物理的解釈へと移っていった。ふたつの理論のどちらが正しいのかという、起こっても不思議はなかった論争は、起こる前に息の根を止められたのである。ふたつの理論は、数学的には等価かもしれないが、その背後にある物理的世界は大きく異なっていた―シュレーディンガーの波はなめらかで連続的なのに対し、ハイゼンベルクの粒子は飛び飛びで不連続なのだ。シュレーディンガーとハイゼンベルクはふたりとも、自分の理論のほうが自然の物理的世界の姿を正しく捉えていると堅く信じていた。しかし、それに関するかぎり、両方とも正しいということはありえなかった。』

29.波動力学の限界

波動方程式はヘリウムやそれより重い原子に当てはめると視覚化は失われ、抽象的な多次元空間なってしまいます。また、光電効果やコンプトン効果を説明することができませんでした。物理学者でも苦労するような行列ですが、量子を幅広く説明するうえでは、ハイゼンベルクの行列力学の方が優れているようです。

『波動力学の波動関数は数学者のいう「複素数」なので、それを直接測定することはできない。複素数は、たとえ4+3iのように、実部と虚部をもつ。このとき実部は4で、普通の数である。虚部は3iである。このiには物理的な意味がない。なぜなら、それはマイナス1の平方根だからである。ある数の平方根とは、二乗したときにその数になるものだ。4の平方根は、2である。(2×2=4)。二乗してマイナス1になる数は存在しない。1×1=1だが、-1×-1もやはり1である。なぜなら、マイナス×マイナスはプラスだからだ。

波動関数を観測することはできない―波動関数は、見ることも触ることもできない観測不可能な雲のようなものだ。しかし複素数を二乗すれば、実験で測定できる量と結びついた実数になる。たとえば、4+3iを二乗すれば、25になる。シュレーディンガーは、電子の波動関数を二乗したもの、|ψ(x,t)|²は、場所xと時刻tにおける電荷の密度を表すと考えたのだ。

波動関数をそのように解釈することに関係して、シュレーディンガーは粒子の実在性に疑問を突きつけ、電子を表すために「波束」というものを導入した。電子を粒子と見なす立場には実験の強力な裏づけがあったにもかかわらず、シュレーディンガーは、電子は粒子のように「見える」だけで、じつは粒子ではないと論じたのである。粒子としての電子というイメージは幻想だ、と彼は考えた。現実の世界に存在するのは波だけであり、電子が粒子のように見えるのは、多数の物質波が重なり合い、波束を作っているからだ、と。空間を進む電子は、波束として進んで行く―ちょうど、一端を固定されたロープの他端を手に持ち、手首を動かして作ったパルスがロープを伝わって行くように。粒子状の波束ができるためには、その粒子に相当する小さな空間領域の外では、さまざまな波長の波が互いに干渉し、打ち消し合わなければならない。

粒子を諦め、すべてを波に還元することで、不連続性と量子飛躍の物理学を回避できるなら、それはシュレーディンガーにとって払う価値のある代償だった。しかしまもなく、彼の解釈は物理的に意味をなさないことが明らかになった。第一に、波束として表された電子は、バラバラに崩れてしまうのだ。もしもその電子を、粒子としてじっさいに検出されている電子と結びつけようとすれば、空間に広がった構成要素の波は、光の速度よりも速く進まなければならないことになる。

シュレーディンガーは、波束が崩れるのをなんとか食い止めようとしたが、手の打ちようがなかった。波速は、波長も振動数も異なるたくさんの波でできているため、それぞれの波が異なる速度で進み、波束はすぐに広がりはじめる。そのため、電子が粒子として検出されるときにはつねに、それぞれの波が瞬間的に一カ所に集中して波束にならなければならない―空間に広がっていたものが、一瞬のうちに、ある一点に局在しなければならないのだ。第二の問題は、波動方程式をヘリウムや、それより重い原子に当てはめようとすると、シュレーディンガーの数学の基礎にある視覚化しやすい世界は、抽象的な多次元空間へと消えてしまうことだった。

一個の電子の波動関数には、三次元の電子の波に関して知るべきことがすべて符号化されている。しかし、ヘリウム電子には、電子が二個含まれており、それらを表す波動関数は、普通の三次元空間のふたつの波ではなく、奇妙な六次元空間に生息するひとつの波になってしまうのだ。周期表の中で、ひとつの元素から次の元素へと順に進んでいくにつれ、電子は一個ずつ増えていく。そして電子が一個増えるたびに、新たに三つの次元が必要になる。そんなわけで、周期表の元素であるリチウムの波動関数は九次元空間を必要とし、ウランの波動関数ともなれば276次元もの空間に生息することになるのである。そういう抽象的な多次元空間の波は、シュレーディンガーが期待したような、連続性を回復させ、量子飛躍を駆逐してくれる物理的な実在の波ではありえなかった。

また、シュレーディンガーの解釈では、光電効果やコンプトン効果を説明することができず、そのほかにも、たとえば次のような問題に答えることができなかった。波束に電荷をもたせるにはどうすればよいのか? 波動力学は、純粋に量子的なものであるスピンを組み入れることができるのか? シュレーディンガーの波動関数が、日常的な三次元空間の中の波を表していないのなら、それはいったい何を表しているのだろうか? これらの問いに答えを与えたのがマックス・ボルンだった。

30.古典的確率とは異なる量子的確率を使って波と粒子を統合する方法

ボルンにとって量子の粒子性を否定することはできませんでした。それはゲッティンゲンで行われていた原子同士を衝突させる実験を通して、「粒子という概念の豊かさ」を実感していたからです。

『シュレーディンガーが、粒子性と量子飛躍は認められないと論じている点は、ボルンは到底受け入れるわけにはいかなかった。彼はかねてから、ゲッティンゲンで行われていた原子同士を衝突させる実験を見ており、「粒子という概念の豊かさ」を実感していたからだ。ボルンは、シュレーディンガーの方程式が優れていることは認めたものの、彼の解釈は受け入れなかった。ボルンは1926年の末に、「シュレーディンガーの形式だけを残して、そこに何か新しい物理的内容を盛り込むためには、彼の物理的描像はすっかり捨て去らなければなりません。彼の描像は、古典的な連続の理論を復活させようとするものです」と述べた。「おいそれと粒子を捨て去るわけにはいかない」と確信していたボルンは、波動関数の新しい解釈を考えるなかで、確率を使って波と粒子を統合する方法を見出すのである。 

画像出展:「量子論を楽しむ本」

『ニュートンの宇宙は完全なる決定論の世界であり、そこに偶然の出る幕はない。そのような宇宙では、粒子は与えられた任意の時刻に、はっきりとした運動量と位置をもっている。粒子の運動量と位置が時間とともにどう変わるかは、その粒子に作用する力によって決まる。』

『あらゆることが自然法則に従って進展する決定論的宇宙において確率が顔を出すとすれば、それは人間の無知の反映だった。もしも任意の系で、その系の現在における状態と、その系に作用する力が完全にわかっているなら、未来においてその系に起こることはすべて決定される。古典物理学における決定論は、すべての作用には原因があるという「因果律」の母体と、へその緒でつながっているのだ。

二個のビリヤードの玉が衝突するように、電子が原子に衝突すれば、その電子はあらゆる方向に散乱される可能性だある。しかし電子とビリヤードの玉との類似性が成り立つのはそこまでだ、とボルンは述べて、驚くべき主張をした。原子レベルの衝突に関して、物理学に答えることができるのは、「衝突後の状態はどうなるのか?」という問いではなく、「その衝突の結果として、所定の結果になる可能性はどれだけあるのか?」という問いだというのである。「かくして決定論という大問題が持ち上がる」と、ボルンは自ら認めた。衝突の後で、電子が正確にどこに存在するのかを知ることはできない。物理学者にできるのはただ、電子がある角度に散乱される確率を計算することだけだ、とボルンは述べた。それがボルンの言う「新しい物理的内容」であり、彼の波動関数解釈はすべてそこにかかっていた。

波動関数そのものには物理的実在性はない。波動関数は、ぼんやりとした不思議な可能性の領域に存在している。波動関数は、たとえば原子と衝突した電子が散乱されるかもしれない角度をすべて足し合わせたような、抽象的な可能性を表しているのだ。そのような可能性と確率とのあいだには、大きな違いがある。ボルンは、波動関数を二乗したもの―複素数ではなく実数―は、確率の領域に存在していると論じた。波動関数を二乗しても、たとえば、電子のじっさいの位置が得られるわけではない。それが教えてくれるのは、電子がどこに見出されるかの確率だ。もしも電子の波動関数の値が、場所Yでよりも、場所Xでのほうが二倍大きいとすると、電子がXに見出される確率は、Yに見出される確率よりも四倍大きい。しかし、その電子はXに見出されることもあるし、Yや、それ以外の場所に見出されることもある。』

『自分[ボルン]が物理学に持ち込んだ確率は、従来のものとはまったく異なるということにボルンが十分に納得するまでには、ふたつの論文のあいだに流れた十日間という時間が必要だったのだ。その奇妙な「量子的確率」は、情報の不足から生じ、それゆえ理論上は取り除くことができる古典的確率とは別のものである。それは原子の領域にどこまでもついてまわる性質なのだ。たとえば、放射性物質の内部で、放射性原子がいずれ崩壊するのは確実だが、個々の原子がいつ崩壊するかを予測することができない。それは情報が足りないために予測できないのではなく、放射性崩壊を支配する量子的なルールが確率的性質をもつためなのである。

31.アインシュタインとハイゼンベルク

1926年4月28日、ハイゼンベルクはベルリン大学での物理学談話会(コロキウム)の後、アインシュタインに「うちに来ないか」と誘われました。

『講義机にノートを広げ、黒板の前に立ったハイゼンベルクはカチカチに緊張していた。才気あふれる二十五歳の物理学者が硬くなるのも無理はなかった。1926年の4月28日水曜日、彼はベルリン大学の有名な物理学談話会(コロキウム)で、行列力学に関する講義をしようとしていたのだ。ミュンヘンやゲッティンゲンがどれだけの成果を挙げていようと、ハイゼンベルクがいみじくも「ドイツ物理学の牙城」と呼んだのはベルリンだった。聴衆を見渡しながら、ハイゼンベルクは最前列に並んだ四人のノーベル賞受賞者に目を止めた―マックス・フォン・ラウエ、ヴォルター・ネルンスト、マックス・プランク、そしてアルベルト・アインシュタインの面々である。

「そんなにたくさんの有名人と会える初めての機会」にどれほど緊張していたにせよ、「当時としてはかなり型破りな理論の基本的概念と数学的基礎について、わかりやすく説明」できたと我ながら思えるような話をするうちに、ハイゼンベルクの緊張はすぐにほぐれていった。講義が終わり、聴衆がバラバラと帰りはじめたころ、アインシュタインがハイゼンベルクに声をかけ、これからうちに来ないかと誘った。ハーバーラント通りを三十分ばかり歩きながら、アインシュタインがハイゼンベルクに尋ねたのは、家族のことや教育のこと、それまでの研究のことだった。いよいよ本題の議論が始まったのは、アインシュタインの家に着いて、ふたりがゆったり椅子に腰を下ろしてからのことだ。』

32.アインシュタインにとっての行列力学

量子物理学の歩みにおいて、アインシュタインは時に要所要所に存在する関所のような大きな存在だったようです。また、相対性理論の中でアインシュタイン自身が選択したものではありましたが、「観測可能な量だけからなる理論を見つけようとするのは、完全に間違っている」という考えは揺るぎないものでした。

『ハイゼンベルクの回想によれば、アインシュタインは、「きみの最近の仕事の、哲学的な前提」について尋ねたいと切り出した。「きみは原子の内部に電子が存在すると仮定しているが、それはおそらく正しいだろう」とアインシュタイン。「しかし、霧箱の中に電子の軌跡が見えてもなお、きみは軌道というものを認めないと言うのだね。なぜそんなおかしなことを言い出すのか、その理由をもう少し詳しく聞かせてもらえるだろうか?」。ハイゼンベルクにとってはチャンス到来だった。彼は、この四十七歳の量子論の大家を説得して、なんとか味方に引き入れたいと思っていたのだ。

「われわれは原子内の電子の軌道を見ることはできません」と、ハイゼンベルクは説明を始めた。「しかし放電現象では原子が放射を出しますから、そこから原子内電子の振動数と、それに対応する振幅を導き出すことはできます。そしてハイゼンベルクは持論を開陳しはじめた。「良い理論は、直接的に観測可能な量にもとづかなければならないのですから、電子の軌道の代わりに、振動数と振幅だけを使ったほうがよいと思ったのです」。アインシュタインはそれを聞いてこう言った。「しかし、物理理論には観測可能な量だけしか入ってこないなどと、本気で思っているわけではないだろう?」。それはハイゼンベルクが新しい力学を作る際に、基礎としたものを直撃する問いだった。ハイゼンベルクは驚いてこう聞き返した。「でも、それはあなたが相対性理論を作ったときに基礎とした考え方そのものではありませんか?」

アインシュタインは微笑んでこう言った。「うまい手は二度使っちゃいけないよ」。「たしかに、わたしはその考え方を使ったかもしれない」と彼は認めた。「それでもやはり、そんなものは馬鹿げた考えなのだ」。何がじっさいに観測できるかを考えてみることは、発見法的には役に立つかもしれないが、原理的な観点からは、「観測可能な量だけからなる理論を見つけようとするのは、完全に間違っている」とアインシュタインは言った。「なぜなら事実はその逆だからだ。何が観測可能かを決めているのは、理論なのだよ」。アインシュタインは何を言わんとしているのだろうか?

それよりおよそ百年前の1830年、フランスの哲学者オーギュスト・コントは、いかなる理論も観測に立脚しなければならないが、われわれの頭脳は観測を行うために理論を必要としてもいると論じた。アインシュタインは、観測というものは一般にきわめて複雑なプロセスであり、理論に使われている現象についての仮説もからんでくるということを説明しようとした。「観測している現象は、測定装置の内部で何らかの反応を引き起こす。その結果として、装置内でさらに別のプロセスが起こり、複雑な道筋を経て、最終的には知覚的な印象を生じさせ、われわれの意識に結果を定着させるわけだ」。その結果がどのようなものになるかは、どんな理論を使うかによる、とアインシュタインは言うのだ。「きみの理論にしたって、振動する原子から光が飛び出し、その光が分光器や観測者の目に届くまでのメカニズムは、誰もが仮定するように、やはり本質的にはマクスウェルの法則に従うと仮定しているわけだろう。もし、それすらも仮定しないというなら、きみが観測可能だと言っている量はすべて、そもそも観測できないのだから」。アインシュタインはたたみかけた。「つまり観測可能な量しか持ち込んでいないというきみの主張は、きみが定式化しようとしている理論の性質に関する、ひとつの仮説なのだよ。」のちにハイゼンベルクは、「アインシュタインのその意見には完全に意表を突かれたが、彼の議論には説得力があると思った」と述べている。』

『アインシュタインを説得できずに落胆しつつ辞去するとき、ハイゼンベルクは決断を下さなければならない案件を抱えていた。それから三日後の5月1日には、彼はコペンハーゲンにいる予定になっていた―ボーアの助手とコペンハーゲン大学の講師という、ふたつの仕事が始まるからだ。しかしつい最近、ハイゼンベルクはライプツィヒ大学から正教授として招聘されたのだ。彼のような若輩者にとって、正教授という申し出は非常に名誉なことだったが、はたしてその招きを受けるべきだろうか? ハイゼンベルクはアインシュタインに、この難しい選択のことを話した。ボーアのところに行って、彼といっしょに仕事をしなさい、というのがアインシュタインのアドバイスだった。翌日、ハイゼンベルクは、ライプツィヒからの申し出は断るつもりだと両親に手紙を書いた。「よい論文を書き続ければ、これからもお呼びはかかるでしょう。もしそうでなかったなら、もともと自分にはその価値がなかったということです」。』

33.ボーアとハイゼンベルク(量子の世界のあいまいさの核心、波と粒子の二重性の問題)

昔の日本の師匠と弟子のような関係だったボーアとハイゼンベルクにとって、最大の問題は古典物理学では考えられない「波と粒子が同時に存在すること」でした。ハイゼンベルクにとって数学を中心に組み立てた理論である行列力学は絶対的なものでしたが、ボーアは波動力学も重要であり、数学の背後にある物理を理解することを優先しました。「原子レベルのプロセスを完全に記述する理論、その理論の内部で粒子と波が同時に存在できるようにするための方法を見つけなければならない」と確信していたボーアにとって、粒子と波という互いに相容れない概念を調停することが、矛盾のない量子力学の物理的解釈へと続く扉を開けるための鍵と考えていました。

『1926年の5月半ば、ボーアはラザフォードへの手紙にこう書いた。「ハイゼンベルクがこっちに来ました。われわれは暇さえあれば、量子論の新展開や、この理論の大きな可能性について講論しています」。ハイゼンベルクはボーア研究所の、「壁が斜めになった小さな屋根裏部屋」に住み込んだ。部屋の窓からは緑のフェレズ公園が見えた。ボーア一家は、研究所に隣接する広々として豪華な所長邸に移っていた。ハイゼンベルクはしょっちゅうボーア邸に行っていたので、まもなく「ボーア家の人たちといっしょにいるのが当たり前のように」なった。』

『「ボーアは、われわれを苛んでいた量子論の困難について議論しようと、夜も更けてからわたしの部屋に来るのでした」とハイゼンベルクは語っている。ふたりが何より頭を痛めたのは、波と粒子の二重性だった。アインシュタインはその二重性をめぐる状況を、エーレンフェストへの手紙に次のように書いた「片手に波、もう片手には粒子! その両方が実在していることは岩のように堅い事実です。そして悪魔はそれを詩にするのです」

古典物理学では、記述すべき対象は粒子または波であって、その両方ということはありえない。ハイゼンベルクは粒子を使い、シュレーディンガーは波を使って、異なるバージョンの量子力学を発見した。行列力学と波動力学が数学的には等価であることが示されても、波と粒子の二重性について理解が深まったわけではなかった。問題は、次の疑問に答えられる者がいないことだ、とハイゼンベルクは言った。「電子は今このとき、波なのだろうか、それとも粒子なのだろうか? そして、わたしがこれこれの働きかけをしたとき、電子はどんな振る舞いをするのだろうか?」ボーアとハイゼンベルクが、波と粒子の二重性について懸命に考えれば考えるほど、ますます謎は深まるように思われた。』

『ハイゼンベルクはそのころのことを、後年、次のように回想した。「われわれの対話はしばしば真夜中過ぎまで続いた。そうやって何カ月も頑張ったにもかかわらず満足の行く結果が得られなかったので、ふたりとも消耗し、ピリピリした雰囲気になっていった」。ボーアはもう限界だと判断し、1927年2月に四週間の休暇をとり、ノルウェーのグドブランスダールにスキー旅行に出かけることにした。ハイゼンベルクはそれを、「絶望的に難しい問題について、ひとりでじっくり考えるチャンス」と受け止め、ボーアの出発を内心うれしく見送った。最大の問題は霧箱の中の電子の軌跡だった。』

画像出展:「アインシュタイン ロマン3」

34.ハイゼンベルクの不確定性原理

ハイゼンベルクは与えられた任意の時刻に、粒子の位置と運動量の両方を正確に測定することは量子力学によって禁じられていることを発見しました。そして、「何が観測でき、何が観測できないのかを決めているのは、理論だ」と考えました。

『ある晩遅く、研究所の小さな屋根裏部屋で仕事をしていたハイゼンベルクが、行列力学によれば存在しないはずの電子の軌跡が霧箱の中に見えるという謎について考えていると、思考がふらふらと彷徨いだした。すると突然、「何が観測できるかを決めているのは、理論なのだ」というアインシュタインの言葉が、こだまのように聞こえたのだ。自分は今、何かを掴みかけていると感じたハイゼンベルクは、頭をはっきりさせなければと思い、とうに真夜中を過ぎていたにもかかわらずフェレズ公園に散歩に出かけた。

ほとんど寒さも感じないまま、彼の考えはしだいに、霧箱に残された電子の軌跡とは実のところ何なのかという問題に絞られていった。後年、彼はそのときのことを次のように語った。「これまであまりにも安易に、霧箱の中では電子の軌跡が見えると言ってきた。しかしおそらくわれわれは、それほどのものは見ていないのだ。現実にわれわれが見ているのは、電子よりずっと大きいことのたしかな水滴の列にすぎないではないか」。こうしてハイゼンベルクは、なめらかにつながった軌跡は存在しないという確信を得た。彼とボーアは、問題の立て方を間違っていたのだ。問うべきは次のことだった。「電子がおおよそある場所にあって、おおよそある速度で移動しているという事実を、量子力学は記述できるのだろうか?」

急いで机に戻ったハイゼンベルクは、いまやすっかり手の内に入った数式をあれこれいじりはじめた。どうやら量子力学は、情報や観測可能性に制限を課しているらしかった。しかし量子力学は、観測できるものと観測できないものをどうやって決めているのだろう? その答えが不確定性原理だった。 

ハイゼンベルクは、与えられた任意の時刻に、粒子の位置と運動量の両方を正確に測定することは量子力学によって禁じられていることを発見したのである。電子の位置は測定できるし、電子の速度も測定できるけれども、その両方を同時に測定することはできない。どちらか一方を正確に知れば、自然はその代償として、他方に関する情報をあいまいにする。量子の世界にはある種の駆け引きがあって、一方が正確に測定されればされるほど、それだけ他方に関する情報や予測はあいまいになるのだ。ハイゼンベルクは、もしも自分の考え通りなら、不確定性原理によって課される限界を超えて量子の世界を正確に知ることは、いかなる実験によってもできないことを悟った。もちろん、その主張の正しさを「証明する」ことは不可能だが、実験に含まれるあらゆるプロセスが「量子力学の法則に従うはずである以上」、そうでなければならないとハイゼンベルクは確信した。

彼はそれから数日間、不確定性原理―彼の好んだ呼び方によれば、「不決定性原理」―がたしかに成り立っているかどうかを調べることに専念した。ハイゼンベルクは頭の中の実験室で、不確定性原理によれば許されない正確さで、位置と運動量を同時に測定できそうな「思考実験」を次から次へと考え出した。しかし、考えついたかぎりの例で計算してみても、不確定性原理は破れなかった。とくに、あるひとつの思考実験をやってみたとき、「何が観測でき、何が観測できないのかを決めているのは、理論だ」ということを証明できたという手ごたえを得た。』

35.不確定性原理を表す式、ΔpΔp≧h/2πとΔEΔt≧h/2π

ハイゼンベルクは二つの式の発見でジグゾーパズルは完成したと考えました。そして、その式は量子力学と古典力学の間に横たわる深くて根本的な違いを暴露するものでもありました。

『ハイゼンベルクは、ΔpとΔp(Δはギリシャ文字のデルタ)を、運動量と位置について得られる値の「あいまいさ」とすると、ΔpとΔpの積はつねにh/2π以上になることを示すことができた。その式で表せば、hをプランク定数として、ΔpΔp≧h/2πとなる。これが不確定性原理、すなわち、位置と運動量の「同時測定に関する不正確さ」の数学的表現である。ハイゼンベルクはもうひとつ、いわゆる「互いに共役な変数」であるエネルギーと時間の「不確定性関係」も見出した。ΔEを、系のエネルギーEを求める際のあいまいさ、Δtを、Eを観測した時間tのあいまいさとすると、ΔEΔt≧h/2πとなる。

当初、不確定性原理が成り立つのは、実験装置が技術的に未熟だからだろうと考える人たちがいた。いずれ装置が改良されれば、不確定性は消滅するだろう、と。そんな誤解が生まれたのは、不確定性原理の意味を明らかにするために、ハイゼンベルクが思考実験を使ったためだった。しかし思考実験とは、理想的な条件のもので、完璧な装置を用いて行う架空の実験である。ハイゼンベルクが発見した不確定性は、現実の世界に本来的に備わっている性質なのだ。原子レベルの世界で観測可能な量について、プランク定数の大きさにより規定され、不確定性関係により課される正確さの限界は、装置をどれだけ改良しても決して消滅することはない、とハイゼンベルクは述べた。この驚くべき発見の名前としては、「不確定性」や「不決定性」よりも、「不可知性」(unknowable)というほうがふさわしかったかもしれない。

◇不可知性:人間のあらゆる認識手段を使っても知り得ないこと。

36.波と粒子の二重性を受け入れるための相補性

ボーアにとっては波と粒子の二重性こそが量子の世界のあいまさの核心と考えており、シュレーディンガーの波束をハイゼンベルクの新しい原理と結びつけて考えていました。そのため、ハイゼンベルクの粒子と不連続性だけに立脚したアプローチには懐疑的でした。そして、ハイゼンベルクが不確定性関係に没頭していたとき、ボーアは「相補性」を思いついていました。

『ハイゼンベルクがコペンハーゲンで不確定性関係の意味を探ることに没頭していたとき、ボーアはノルウェーのゲレンデで「相補性」を思いついていた。それは彼にとって、単なるひとつの理論や原理ではなく、量子の世界の奇妙な性質を記述するために必要な、それまで欠けていた概念的枠組みだった。波と粒子の二重性という矛盾した性質は、相補性という枠組みの中にうまく収まりそうだった。電子と光子―つまり物質と放射―がもつ波と粒子というふたつの性質は同じひとつの現象の排他的かつ相補的なふたつの側面であり、波と粒子は一枚のコインの裏と表なのだ、とボーアは考えた。

相補性は、波と粒子という、古典的にはまったく異質なふたつの記述方法を、非古典的な世界を記述するために使わなければならないせいで生じた困難を、きれいに迂回するものだった。ボーアによれば、量子的な世界を完全に記述するためには、波と粒子の両方が必要不可欠であり、どちらか一方だけでは不完全な記述しかならない。光子と波はそれぞれ光について異なる絵を描き、それらふたつの絵は隣り合わせに壁に掛けてある。しかし、矛盾を避けるために制限が課されている。与えられた任意の時刻にわれわれに見ることができるのは、ふたつの絵のどちらか一方だけなのである。どんな実験を行っても、粒子と波が同時に見えることはない。ボーアは次のように主張した。「異なる条件のもとで得られた証拠は、一方の絵の中だけで理解することはできず、現象の総体のみが対象について得られる情報を尽くすという意味において、相補的なものとして捉えなければならない」

ボーアがその新しいアイデアに手ごたえを得たのは、ふたつの不確定性関係ΔpΔp≧h/2π、ΔEΔt≧h/2πに、波と連続性を嫌悪するハイゼンベルクには見えなかったものを見たときだった。プランク=アインシュタインの式 E=hvと、ド・ブロイの式p=h/λには、波と粒子の二重性が体現されている。エネルギーと運動量は粒子的な量なのに対し、振動数と波長は波の性質だ。つまりどちらの式にも、粒子の性質を記述する変数と、波の性質を記述する変数の、両方が含まれているのである。ひとつの式に、粒子と波の両方の性質が含まれていることがボーアには腑に落ちなかった。なんといっても粒子と波は、物理的に似ても似つかないものなのだから。

ボーアは、ハイゼンベルクの顕微鏡の思考実験の分析の間違いを正したとき、それと同じことが不確定性関係についてもいえることに気がついた。それに気付いたことでボーアは、相補的かつ排他的な古典的概念(粒子と波動、運動量と位置など)が、量子の世界でどこまで同時に矛盾せずに通用するかを教えているのが不確定性関係だ、という解釈に導かれたのだった。

また、不確定性関係は、エネルギー(不確定性関係の式の中のE)と運動量(p)の保存法則にもとづく記述(ボーアの言葉では「因果的記述」)と、空間(q)と時間(t)の中で出来事を追跡する記述(「時空的」記述)のどちらか一方を選ばなければならないことも意味していた。これらふたつの記述は、考えられるかぎりの実験を説明する際には、互いに排他的、かつ相補的な関係にあった。そこで、位置と運動量のような、互いに相補的な観測可能量を同時に測定しようとしたり、互いに相補的なふたつの記述を同時に用いたりすることには、自然界に本来的にそなわる限界があるのだ、とボーアは考えた。』 

画像出展:「陸上競技の理論と実践」

相補的を説明する例としては、「位置と運動量の関係」があると思います。

『ハイゼンベルクは、「粒子」、「波」、「位置」、「運動量」、「軌跡」といった古典的な概念は、原子の領域ではどこまでも無制限に使うことはできないと考えたのに対し、ボーアは、「実験データの解釈は、本質的に古典的な概念によらなければならない」と考えていた。また、ハイゼンベルクは、これらの概念は操作的に定義されなければならない(測定を介して定義されなければならない)と考えたのに対して、ボーアは、それらの概念の定義は、古典物理学でどのように使われているかによって初めから決まっていると考えていた。さかのぼって1923年のこと、ボーアは次のように書いた。「自然のプロセスに関する記述はすべて、古典物理学の理論によって導入され、定義された概念に立脚しなければならない」。不確定性原理がどんな限界を課そうとも、理論の成否は実験によって検証され、データ、論証、解釈は、すべて古典物理学の言葉と概念によって行われるという単純な理由から、古典的概念を別のもので置き換えることはできない、というのがボーアの考えだった。

『ボーアは電子と光線、すなわち物質と放射を観測するときに、粒子と波、どちらの面が現れるかはどんな実験を行うかによると考え、それについては一歩も譲るつもりはなかった。粒子と波は、基礎となるひとつの現象の相補的かつ排他的なふたつの側面なのだから、現実の実験であれ思考実験であれ、両方の面が同時に現れることはありえない。ヤングの有名な二重スリット実験のように、実験装置が光りの干渉を見るようにデザインされている場合には、波としての光の性質が現れるし、光線を金属表面に照射して光電効果を調べるためにデザインされた実験では、粒子としての光の性質が現れる。光は波なのか、粒子なのかと問うことには意味がない。量子力学においては、光の「正体」を知るすべはない。意味のある質問はただひとつ、光は粒子として「振る舞う」のか、それとも波として「振る舞う」のかということだ。そしてその質問に対しては、「実験の選び方によって、粒子として振る舞うこともあれば、波として振る舞うこともある」と答えることになる、というのがボーアの考えだった。』

ご参考Youtube“【スピリチュアルに騙されるな】量子力学と二重スリット実験【宇宙の真理】(6分40秒~19分17秒に二重スリット実験について解説されています。内容は高度ですが凄い動画です)

ボーアとアインシュタイン3

著者:マンジット・クマール

発行:2013年3月

出版:新潮社

目次は“ボーアとアインシュタイン1”を参照ください。

19.古典物理学からの解放

ボーアから教えられるかぎりのことを学んだハイゼンベルクは、多くの物理学者が踏み込めなかった量子的な概念は、慣れ親しんだ古典物理学の束縛から解放されることこそが、前進する鍵であることに気づきました。

『1924年9月17日にボーアの研究所に戻ったとき、22歳のハイゼンベルクは、量子物理学に関する単著または共著の優れた論文をすでに十篇以上も発表していた。彼は、自分にはまだ学ぶべきことがたくさんあり、それを教えてくれる人物としてボーア以上の適任者はいないことを知っていた。ハイゼンベルクは後年、「ゾンマーフェルトからは楽観的であることを学び、ゲッティンゲンでは数学を学び、ボーアからは物理学を学んだ」と述べた。ハイゼンベルクはそれからの七カ月間、量子論の困難を克服するためにボーアが採っていたアプローチをみっちりと教え込まれる。ゾンマーフェルトとボルンも同じ矛盾と困難に悩まされていたが、両者とも、ボーアほど四六時中その問題ばかり考えていたわけではなかった。それに対してボーアは、口から出るのは量子のことばかりというほど、この問題に没頭していたのである。

ボーアと徹底的に議論するなかでハイゼンベルクが思い知ったのは、「さまざまな実験結果を統一的に解釈することの難しさ」だった。たとえばコンプトン散乱もそのひとつだ。それは電子がエックス線を散乱させる現象で、アインシュタインの光量子仮説を支持する結果が得られていた。さらにド・ブロイが、波と粒子の二重性は、光だけでなく、あらゆる物質にまで拡張されると言い出したために、実験の解釈は何倍も難しくなったように思われた。教えられるかぎりのことをハイゼンベルクに教え込んだボーアは、この若い弟子に絶大な期待をかけた。「この苦境から脱出する道を見出すために必要なことはすべて、いまやハイゼンベルクの手中にあります」

1925年4月の末に、ハイゼンベルクはボーアの親切に感謝し、「これから先、ひとり寂しく研究を続けていかなければならないと思うと悲しいです」と言って、ゲッティンゲンに帰っていった。しかし彼は、ボーアとの議論、そしてその後も続いたパウリとの対話から、ひとつ非常に重要なことを学んだ―何か、とても基本的なものを捨てなければならないということだ。ハイゼンベルクは、水素原子の線スペクトルの強度という長年の未解決問題に取り組むうちに、何を捨てればよいのかがわかった気がした。ボーア=ゾンマーフェルトによる原子の量子論を使えば、水素の線スペクトルの振動数を説明することはできたが、その明るさ、つまりスペクトルの強度は説明できないと考えた。水素原子の原子核の周囲をめぐる電子の軌道は、観測することができない。そこでハイゼンベルクは、「原子核の周囲を軌道運動している電子」という、慣れ親しんだイメージを捨てることにした。それは大胆な一歩だったが、彼にはその道に踏み出す心の準備ができていた。ハイゼンベルクは以前から、観測できないものを絵に描いて示すというやり方が嫌いだったのだ。』

ハイゼンベルクがこの新しい戦略を採るより一年以上も早く、パウリはすでに電子軌道という概念に疑問を突き付けていた。「一番重要な問いは、はっきりと規定された電子軌道について、どこまで語りうるのかということだと思います」と、彼は1924年2月にボーアへの手紙に書いた。この引用文の強調は、パウリ自身によるものである。彼はこのときすでに、排他原理へと続く道のりをだいぶ先まで進んでいたし、電子の殻が閉じるということの意味も考え抜いていた。そして同じ年の十二月にボーアに宛てた別の手紙のなかで、パウリは自分が提示した問題に、すでに次のような答えを与えていたのである。「原子をわれわれの偏見の鎖につなぐべきではありません。電子に普通の力学でいうような軌道があるという仮説も、そんな偏見のひとつだというのがわたしの考えです。量子的な概念を、慣れ親しんだ古典物理に合わせようとするのはやめなければならない。物理学者は自由にならなければならない、とパウリは言うのだ最初にその妥協をやめたのが、ハイゼンベルクだった。彼はプラグマティックな観点から、科学は観測できることにもとづくべきだという実証主義の立場に立ち、観測可能な量だけを使って理論を作ることにしたのである。

20.観測可能な量だけを使って作った理論

ハイゼンベルクの花粉症は重症でした。その難敵である花粉のない島がヘルゴラント島です。ここでハイゼンベルクは誰もが待ち望んだ量子力学の扉を開けました。

『七十歳のハイゼンベルクは当時を回想して語った。その宿舎は、赤い砂岩が削られてできた、島の南端にある崖の近くにあった。三階の部屋のバルコニーからは、眼下に広がる村と海岸線を思い出しては、繰り返しそれについて考えた。ゲーテを読んでくつろいだり、小さなリゾート地で日課のように散歩や水泳をしたりするうちに、彼は内省的な気分になっていった。そうこうするうちに体調もだいぶ落ち着き、注意を散らすようなものがほとんどないなか、やがてハイゼンベルクの思索は原子物理学の問題へと戻っていく。ヘルゴラント島では、このところ彼に付きまとっていた暗い気分も消えていた。ゲッティンゲンから背負ってきた数学の重荷をあっさり投げ捨てると、彼はのびのびとした気分で、線スペクトルの強度の謎について考えはじめた。

ハイゼンベルクは、量子化された電子の世界を記述する新しい数学を探すにあたり、電子がエネルギー準位間を瞬間的にジャンプするときに生じる線スペクトルの、振動数と相対強度だけに焦点を合わせることにした。選択の余地はなかった。原子の内部で起こっていることについて教えてくれるデータは、そのふたつしかなかったのだ。量子飛躍という言葉が喚起するイメージとは裏腹に、電子がエネルギー準位間を遷移するときには、わんぱく坊主が塀の上から道路に飛び降りるときのように、空間を移動するわけではない。ある場所にいた電子が、次の瞬間、別の場所に現れるのだ―その中間のどこも通らずに、ハイゼンベルクは覚悟を決めて、観測可能な量と、それらに結びついたものすべては、電子がエネルギー準位間を遷移するときに行う量子飛躍という不思議な手品によって生じるのだと考えて納得することにした。かくして、電子が原子核のまわりを軌道運動しているという、太陽系のミニチュアのようなわかりやすい原子像は消滅した。

ヘルゴラント島という花粉のない天国で、ハイゼンベルクは、電子が行う可能性のあるすべての飛躍―状態から状態への遷移―を書き表すにはどうすればよいだろうかと考えた。エネルギー準位に関係して観測可能な量のそれぞれについて、ジャンプによって生じる変化を追跡するために彼が考えついた唯一の方法は、数を縦横に並べた表を使うことだった。』

『ニュートン力学で観測できる量にはさまざまあるが、ハイゼンベルクがその中で最初に考えたのは、電子の軌道だった。原子核からはるか遠くに離れたところで、一個の電子が軌道運動しているものとしよう―太陽系でいうなら、それは水星というより、むしろ冥王星に近い。ボーアが定常軌道という概念を持ち込んだのは、電子がエネルギーを放出しながら螺旋を描いて原子核に墜落するのを食い止めるためだった。しかしその電子の定常軌道が古典物理学で導かれたものと一致するためには、原子核からはるか遠くに離れたところで軌道運動している電子の軌道振動数(1秒間に軌道をめぐる回数)は、その電子が放出する放射の振動数に一致しなければならない。

これは突飛な思いつきではなく、対応原理―量子の領域と古典的な領域とのあいだにボーアが架けた概念的な橋―を巧みに応用した結果だった。ハイゼンベルクが想定した電子軌道はとても大きかったので、量子の世界と古典的な世界との境界線上にあった。ふたつの世界のあいだに引かれたその境界線上では、電子軌道の振動数は、電子が放出する放射の振動数に等しいはずなのだ。ハイゼンベルクは、原子内にあるそのような電子は、スペクトルのあらゆる振動数を生み出すことができる仮想的な振動子に似ていることを知っていた。マックス・プランクは四半世紀前に、それとよく似たアプローチを使ったのだった。しかし、プランクは恣意的な仮定を置き、正しいことがわかっていた式を力づくで導いたのに対し、ハイゼンベルクは、古典物理学の見慣れた風景につながるはずだという、ボーアの対応原理に導かれていた。いったん振動子を考えてしまえば、ハイゼンベルクは、その運動の特徴―運動量p、平衡の位置からの変異q、そして振動数―を計算することができた。振動数部vmnをもつ線スペクトルは、さまざまな振動子のうちの、どれかひとつによって放出されるはずだ。ハイゼンベルクは、量子的なものと古典的なものとが出会う、その中間地帯を詳しく調べて得られた結果は、原子の内部という未知の領域を探索するために利用できることを知っていたのだ。

ヘルゴラント島でのある夜遅く、突如として、ジグゾーパズルのピースが合いはじめた。観測可能な量だけを使って作った理論は、すべてのデータを再現してくれそうだった。しかしその理論では、エネルギー保存則は成り立つのだろうか? もしもエネルギー保存則を破っていれば、その理論はトランプの家のように崩れ落ちてしまう。自分の理論が、物理的にも数学的にも矛盾がないことを証明できるまであと一歩というところで、24歳の物理学者は、興奮と緊張のあまり、計算をチェックしながら単純なミスを繰り返すようになった。物理学の基本法則のひとつであるエネルギー保存則がたしかに成り立っていると彼がペンを置いたのは、夜中の三時ころだった。彼は点にも昇る心地だったが、動揺もしていた。後年、ハイゼンベルクはそのときのことを次のように語った。「はじめからわたしは、これは大変なことになったと思った。原子的な現象という上辺から、なんとも形容しがたい、美しい内部を覗き込んでいるような気がしたのだ。自然がこれほどまでに気前よくわたしの目の前に広げて見せてくれた、この豊かな数学的構造を、これから詳しく探っていかなければならないと思うと、めまいがするほどだった」気持ちが高ぶってとても眠れそうになかったので、彼は夜明け前に、ヘルゴラント島の南端に向かって歩き出した。そこには海に突き出した岩があり、何日も前から登ってみたいと思っていたのだ。発見は興奮で吹き出したアドレナリンにエネルギーを注がれるようにして、彼は「たいした苦労もなくその岩によじ上り、太陽が昇ってくるのを待った」。』

画像出展:「MEISTERDRUCKE

(The Grand Staircase, Helgoland, Germany, Photochrome Print, c.1900)

ボーアから全てを託されたハイゼンベルクが、ヘルゴラント島で発見したものは、量子力学の扉を開けた歴史的出来事だったように思います。

世界はひとつ、重力力学はふたつ。その答えは二つを見渡す境界線にあり、【波】(古典)と【粒】(量子)の構造はコインの裏表のように一体型とのことです。

生命の進化を淘汰とみれば、合理性や最適化が重要だと思います。重力力学が2つ存在するとすれば、そのような理由ではないでしょうか。

21.(A×B)-(B×A)≠ゼロ

量子力学の扉を開けたハイゼンベルクが最初に著面した難題は、A×BとB×Aの答えが等しくないという奇妙な掛け算の謎を解くことでした。

『朝の冷たい光の中で、ハイゼンベルクのはじめの幸福感や楽観的な展望は色褪せていった。彼の見出した新しい物理学がうまく行くためには、X×YとY×Xが等しくないという、奇妙な掛け算を使うしかなさそうだった。普通の数なら、どの順番で掛け算をしても構わない。4×5の答えと5×4の答えは、どちらも20である。掛け算の結果は順番によらないというこの性質のことを、数学者は可換性と呼んでいる。数は、掛け算の交換法則を満たすので(つまり「可変」なので)、(4×5)-(5×4)はつねにゼロである。これはすべての子どもが学ぶ数学のルールだ。ハイゼンベルクを深く悩ませたのは、数の表の中のふたつの値を掛け算した結果は、掛け合わせる順番によって変わってしまうことだった。(A×B)-(B×A)は、必ずしもゼロではなかったのである。

彼の理論が必要としている、その奇妙な掛け算の意味がわからないまま、6月19日の金曜日、ハイゼンベルクはドイツ本土に戻ると、そのままハンブルクのヴォルフガング・パウリのもとに直行した。数時間後、誰よりも厳しい批判者であるパウリから励ましの言葉をもらったハイゼンベルクは、その発見をもう少し磨きあげて論文にするためにゲッティンゲンに向かった。二日後、その仕事はすぐにできると思っていたハイゼンベルクは、パウリに手紙を書き、「量子力学を作る仕事は遅々として進むみません」と伝えた。一日、また一日と時間が経ち、新しいアプローチを水素原子にうまく応用できないまま、ハイゼンベルクは追い詰められていった。

気がかりなことは山ほどあったが、ハイゼンベルクが確信していたことがひとつだけあった。何を計算するにせよ、「観測可能」な量のあいだの関係のみ、あるいは、現実には測定が難しいとしても、原理的には測定可能な量のあいだの関係しか使ってはならないということだ。彼は、自分の方程式に現れるすべての量が観測可能だということを公理として、「観測できない軌道という概念を完全に消し去り、その対応物で置き換える」ことに、「わずかばかりの努力のすべてを」注ぎ込んだ。

『その謎めいた掛け算規則には、どんな意味があるのだろうか? その問いがボルンに取り憑いて離れなくなり、彼はそれからの数日というもの、寝ても覚めてもそのことばかり考え続けた。ボルンはその計算規則に見覚えがあったのだが、それが何なのか思い出せなかったのだ。ボルンはアインシュタインに手紙を書き、この奇妙な掛け算がどこから出てくるのかはまだ説明できないけれども、「ハイゼンベルクの最新の論文がまもなく発表されることになるでしょう。まだよくわからないところもありますが、真実を捉えており、深いことは確かです」と伝えた。ボルンは自分の研究所にいる若手、とりわけハイゼンベルクを褒め、「彼の考えについて行くだけでも、わたしは相当努力が必要です」と書いた。くる日もくる日もその計算規則のことばかり考え続けたボルンの努力は、ついに報われた。ある朝、ボルンはふと、学生時代に受験したきり忘れていた、ある数学の講義のことを思い出した―ハイゼンベルクが出くわしたのは、行列演算だったのだ。行列演算では、X×Yは必ずしもY×Xにはならないのである。

22.量子物理学の新時代の幕開けを告げる論文

ハイゼンベルクに並ぶ天才とされたパウリは、ハイゼンベルクが書き上げた論文について、次のような言葉を送りました。「その論文は、かつてない希望と、新たな生きる喜びを与えてくれた。それで謎が解けたというわけではないにせよ、ここでまた、われわれは前進できるでしょう」と。

『六月の末、ハイゼンベルクは父親への手紙にこう書いた。「ぼくの仕事はと言えば、今のところ、あまりはかばかしくありません」。しかしそれから一週間ほどして、彼は量子物理学の新時代の幕開けを告げる論文を書き上げた。自分がやり遂げたことの意味にまだ確信がもてないハイゼンベルクは、写しを一部パウリに送り、申し訳なさそうに、二、三日のうちにその論文を読んで、返事をくれないかと頼んだ。ハイゼンベルクがそれほど急いでいたのは、7月28日にケンブリッジ大学で講演をする予定になっていたからだ。パウリはその論文を、「歓喜をもって」迎えた。パウリはある物理学者への手紙に、ハイゼンベルクの「その論文は、かつてない希望と、新たな生きる喜び」を与えてくれたと書いた。「それで謎が解けたというわけではないにせよ、ここでまた、われわれは前進できるでしょう」と、パウリは言い添えた。そして正しい方向に真っ先に踏み出したのは、マックス・ボルンだった。』

『ハイゼンベルクはその論文のまとめの部分に到達してからさえ、まだ逡巡していた。「ここに提案したような、観測可能な量のあいだの諸関係を使って量子力学のデータを求めるという方法は、原理的に満足の行くものと見なされるべきなのか、あるいはこの方法は結局のところ、現状ではきわめて込み入った問題であることが明白な、量子力学の理論を作るという物理的問題へのアプローチとしては不十分なものであるのかは、ここではごく表層的に採用したこの方法を、数学的により詳しく調べることによってのみ判定できるであろう」』

23.行列演算と量子力学

ハイゼンベルクが発見した数の並びは、十九世紀の半ばにイギリス人の数学者アーサー・ケイリーが提唱した行列演算でした。この行列演算は数学では確立された分野でしたが、ハイゼンベルクの世代の理論物理学者にとっては未知の領域でした。また、このことに気づいたボルンはハイゼンベルクが作り出した枠組みを、原子物理学のあらゆる局面に適用できるような、論理的に矛盾のない枠組みに仕上げなければならないと思い、二十二歳のパスクアル・ヨルダンとともにこの大きな難問に取り組みました。

『ハイゼンベルクの掛け算規則は行列演算であることを突き止めたボルンは、位置qと運動量pを、プランク定数を含む式で結びつける方法をすぐさま発見した。その式はpq-qp=(ih/2π)Iと書くことができる。ここで、Iは、数学者が単位行列を使えば、それなしにはただの数にすぎない右辺を行列にすることができるのだ。この基本式にもとづき、それから数カ月のうちに、行列という数学の方法にもとづく量子力学が完成した。

24.論理的に矛盾のない量子力学を定式化した「三者論文」

猛烈な勢いで行列を勉強したハイゼンベルクは「三者論文」の作業に参加することができました。

『行列を知らないのはハイゼンベルクばかりではなかった。しかし彼は猛烈な勢いでその新しい数学を学びはじめ、まだコペンハーゲンにいるうちに、ボルンとヨルダンに追いつくほどの力をつけてしまった。十月半ばにゲッティンゲンに戻ったハイゼンベルクは、のちに「三者論文」として知られることになるその論文の最終バージョンを作る作業に参加することができた。彼とボルンとヨルダンの三人はその論文により、論理的に矛盾のない量子力学を定式化したのである。それはながらく探し求められていた、原子の新しい物理学だった。

25.守備範囲の広い理論家

シュレーディンガーの最初の論文は実験物理学だったそうです。先にご紹介した若き天才、パウリとハイゼンベルクは理論物理学に傾倒されており、この点が異なります。また、シュレーディンガーは放射性元素、統計物理学、一般相対性理論、色彩論[ゲーテによる光と色の研究]といった幅広い分野で四十篇以上の論文を発表しています。そして、一匹狼で、洒落ていて、気分屋で、親切で、寛大な、じつに愛すべき人間で、しかも、恐ろしく効率のよい、第一級の頭脳の持ち主だったとのことです。

『同僚の物理学者たちの見たシュレーディンガーは、放射性元素、統計物理学、一般相対性理論、色彩論といった幅広い分野で四十篇以上もの論文を発表している。堅実であるが、ずば抜けて優れているというほどもない仕事を重ねてきた、守備範囲の広い器用な理論家だった。シュレーディンガーの仕事のなかには、他人の研究を理解して分析し、分かりやすく説明する力量を示す総説がいくつもあり、いずれも高い評価を得てありがたがられていた。

11月23日、シュレーディンガーのコロキウム(談話会)には、当時二十一歳の学生だったフェリックス・ブロッホが出席していた。ブロッホがのちに語ったところでは、シュレーディンガーは、「ド・ブロイが波と粒子を結びつけた方法や、粒子の定常状態の軌道に整数個の波が収まるという条件を課すことで、なぜニールス・ボーアとゾンマーフェルトの量子化規則が得られるのかという条件を課すことで、なぜニールス・ボーアとゾンマーフェルトの量子化規則が得られのかということを、みごとにわかりやすく説明した」。しかし、波と粒子の二重性には実験の裏づけがなかったため(それが得られるのは1927年のことだ)、デバイは、ド・ブロイの議論は「子どもじみている」との感想を述べた。波の物理学には―音波、電磁波、ヴァイオリンの弦を伝わる波など、どんな波を扱うにせよ―その波を記述する方程式が必要だ。ところが、シュレーディンガーの説明した理論には、「波動方程式」がなかったのだ。ド・ブロイは、物質波の波動方程式を導こうとしたことはなかったし、彼の学位論文を読んだアインシュタインも同様だった。そのコロキウム(談話会)から五十年を経ても、ブロッホはそのときのことを鮮明に覚えており、デバイの指摘は、「あまりにも当たり前すぎて、みんなには軽く聞き流されたようだった」と述べた。

しかしシュレーディンガーは、デバイの言う通りだと思った。「波動方程式のない波では話にならない」のだ。そのとき彼はほとんど瞬時に、ド・ブロイの物質波に対する波動方程式を見つけてやろうと心に決めた。

26.シュレーディンガーが「作った」波動方程式

シュレーディンガーは親切で寛大だったとされていますが、駆け引きのない率直な性格で柔軟性、多様性も持っていたのではないでしょうか。デバイの酷評ともとれる「波動方程式のない波では話にならない」という発言を受け入れ、「量子の波動方程式をみつけてやろう」というポジティブな心が多くの物理学者に支持された直観的な方程式の発見を呼び込みました。

『クリスマス休暇から戻り、年明けに開かれた次にコロキウム(談話会)で、シュレーディンガーは声高らかにこう宣言することができた。「前回デバイが、波動方程式が必要だと言いましたが、さてさて、わたしはそれを見つけました!』。シュレーディンガーはその二週間のうちに、胎児のようなド・ブロイのアイデアを取り上げて、立派な量子力学理論に育て上げたのである。

シュレーディンガーには、どこから出発すればよいかも、何をすればよいかもわかっていた。ド・ブロイは、波と粒子の二重性というアイデアの妥当性の保証を、電子の定在波の波数が整数のときに軌道が閉じ、ボーアの原子モデルで許される電子軌道を再現できることに求めたのだった。しかしシュレーディンガーは、自分の探す方程式は、三次元の水素原子モデルを、三次元の定在波として再現できなければならないと考えた。水素原子は彼が見出すべき波動方程式の試金石になるはずだ。

波動方程式を探しはじめてまもなく、シュレーディンガーはまさに求める方程式を捕まえたと思った。しかし、水素原子に当てはめてみると、その方程式からは実験と合わない結果が出てきてしまった。その失敗の根本的な理由は、ド・ブロイが波と粒子の二重性というアイデアを得たときに、アインシュタインの特殊相対性理論と矛盾しないものを考え、そのよううなものとして提示していたことだった。ド・ブロイのやり方を手本にして進んでいたシュレーディンガーは、当然ながら、「相対論的」な形をした波動方程式を捜し、まさにそれを見つけたのである。そのころにはすでに、ウーレンベックとハウトスミットが電子のスピンを発見していたが、ふたりの論文が専門雑誌に掲載されたのは1925年11月下旬のことだった。当然ながら、シュレーディンガーが発見した相対論的な波動方程式にはスピンが含まれておらず、結果として、その波動方程式から出てきた結果は、実験とは合わなかったのだ。

クリスマス休暇が迫ってきたため、シュレーディンガーは相対性理論のことを気にするのはやめて、昔ながらの波動方程式を探すことに努力を集中した。相対論的でない波動方程式は、電子が光速に近い速度で運動するような場合には、相対論的効果が無視できなくなるため使えなくなる。

シュレーディンガーはそのことをよく知っていた。しかしとりあえずは、そんな波動方程式でも間に合ったのだ。』

12月27日付のヴィルヘルム・ヴィーンへの手紙に、彼は次のように書いた。「目下、新しい原子理論と格闘しているところです。もっと数学を知ってさえいれば! ともあれ、それについてはわたしは非常に楽観的で、結果はとても美しいものになるだろうと予想しています。ただし、解くことができればの話ですが

シュレーディンガーはその波動方程式を「導いた」のではなかった―古典物理学から出発して、厳密な論理をたどるという方法では、その式は得られなかったのだ。そこで彼は、粒子に伴う物質波の波長と、その粒子の運動量とを結びつけるド・ブロイの式と、古典物理学のいくつかの式を睨み合わせて、その波動方程式を「作った」のである。簡単そうに聞こえるかもしれないが、シュレーディンガーがその式を書き下す最初の物理学者になれたのは、彼ほどの技量と経験があったればこそだった。シュレーディンガーはそれからの数カ月間で、その波動方程式を基礎として、波動力学という壮大な建物を作り上げることになる。しかしその前に、彼はそれがたしかに探し求めていた波動方程式であることを証明する必要があった。その方程式は、水素原子に応用した場合、水素のエネルギー準位に正しい値を与えてくれるのあろうか?

一月にチューリッヒに戻ったシュレーディンガーがじっさいに調べてみると、その波動方程式は、たしかにボーア=ゾンマーフェルトの水素原子のエネルギー準位を再現することがわかった。ド・ブロイは、電子の波として円軌道にぴったりはまる一次元の定在波を考えたが、シュレーディンガーの理論から得られるのは、もっと複雑な三次元の「軌道関数」だった。そして、波動方程式を解いて軌道関数が得られれば、その関数によって表される電子状態のエネルギーは自動的に決まる。ボーア・ゾンマーフェルトの原子の量子論では、正しいエネルギーの値を得るためには恣意的な条件を課さなければならなかったが、そういう操作はいっさい不要になったのだ。そればかりか、謎めいた量子飛躍さえもが、電子に許される三次元定在波から別の三次元定在波への連続的な遷移に取って代わられたかにみえた。1926年1月27日、「固有問題としての量子化」と題された論文が、「アナーレン・デア・フィジーク』に届いた。3月13日に同誌に掲載されたその論文には、シュレーディンガー版の量子力学と、水素電子に対する応用が示されていた。

シュレーディンガーは、五十年に及んだ物理学者としての経歴のなかで、年平均40ページ相当の論文を発表しづけた。とくに1926年には、256ページ相当という大量の論文を発表し、波動力学はさまざまな原子物理学の問題に幅広く利用できることを明らかにした。また、彼は、時間とともに変化する「系」を扱うことのできる、時間依存型の波動方程式を考え出した。時間とともに変化する系とは、たとえば、電子が放射を放出、吸収、散乱するような場合である。

2月20日、その最初の論文が印刷を待つばかりとなったとき、シュレーディンガーは自分の作った新しい理論に対して、はじめて波動力学という言葉を使った。

27.ハイゼンベルクの難解な行列力学とシュレーディンガーの直感的な波動力学

数学は苦にしないと思われる物理学者にとっても、当時、行列という数学はとても厄介な代物だったようです。そのため、難解とされたハイゼンベルクの量子力学(行列力学)に比べ、シュレーディンガーの量子力学(波動力学)は多くの物理学者を勇気づけました。この二つは同等のものとのことです。一つは行列、一つは微分方程式から生まれたということなのですが、私にはその同質性を理解することは到底できません。しかしながら、数学者にも劣ることのないハイゼンベルクと、最初の論文が実験物理学だったというシュレーディンガーの視点の違い、授かった才能の違いが二つの量子力学を世に送り出したのではないかと思います。

『冷たくて禁欲的な行列力学とは対照的に、彼が物理学者たちに与えたのは、使い慣れたおなじみの方法だった―彼の方法は、極度に抽象的なハイゼンベルクの方法よりも、ずっと十九世紀物理学に近い言葉で量子の世界を説明してあげようと、物理学者たちに語り掛けていた。謎めいた行列の代わりにシュレーディンガーが持ち込んだのは、物理学者の数学の道具箱にはかならず入っている微分方程式だった。ハイゼンベルクの行列力学は、量子飛躍と不連続性をもたらした。原子の内部を覗いてみたくとも、視覚的なイメージできるものは、そこには何もなかったのだ。シュレーディンガーは、これからはもう、「自分の直感を抑え込む必要はないし、遷移確率やエネルギー準位といった、抽象的な概念だけを相手にする必要もない」と述べた。物理学者たちがシュレーディンガーの波動力学を熱烈歓迎し、われ先にとそれを使いはじめたのは当然のことだった。

シュレーディンガーは、その論文の抜き刷りを受け取るとすぐに、彼が意見を聞きたいと思う物理学者たちにそれを送った。プランクは4月2日付の手紙に、「ずっと頭から離れなかった謎が解けたと言われて、真剣に話に聞き入る子どものように、あなたの論文を読みました」と書いた。それから二週間後にはアインシュタインから、「あなたの仕事のアイデアは、真の天才から沸き上がったものです」という手紙が届いた。シュレーディンガーは、「あなたとプランクが認めてくださったことは、わたしにとって世界の半分からの賞賛よりも大きな意味があります」と返信した。アインシュタインは、シュレーディンガーが決定的な前進を遂げたことを、「ハイゼンベルク=ボルンの方法は邪道であると確信するのと同じぐらいの強さで確信」したのだった。』

『このふたり以外の人たちが十分に理解するまでには、もう少し時間がかかった。ゾンマーフェルトは当初、波動力学は「完全なたわごと」だと思っていたが、やがて考えを変え、「行列力学が正しいことは疑う余地はありませんが、取り扱いが非常に難しく、おそろしく抽象的です。シュレーディンガーはわれわれを助けに駆け付けてくれました」と述べた。ほかにも多くの人たちが、ハイゼンベルクとゲッティンゲンの仲間たちの抽象的で奇妙な理論と格闘するよりは、波動力学の慣れ親しんだ方法を学び、じっさいに使いはじめてみて、ほっと胸をなでおろした。スピンで名をなした若手のヘオルヘ・ウーレンベックは、「シュレーディンガー方程式のおかげで助かりました。これでもう、不慣れな行列力学を勉強しなくてもすみます」と書いた。エーレンフェストやウーレンベックらライデンの物理学者たちは、行列力学を勉強する代わりに、数週間のあいだ毎日「何時間も黒板の前に立ち」、波動力学の驚くべき意味を汲み尽くそうとした。

パウリはゲッティンゲンの物理学者たちに近かったが、シュレーディンガーの仕事の重要性をすぐに見抜き、深く感銘を受けた。彼は行列力学を水素分子に当てはめて成功した際、ハイゼンベルクの方法のことは隅々まで調べ上げていた―彼がそれを迅速かつ徹底的に行ったことに、のちには誰もが驚くことになる。パウリがその論文を「ツァイトシュリフト・フュール・フィジーク」に送ったのは1月17日。シュレーディンガーが最初の論文を投稿するわずか十日前のことだった。パウリは、シュレーディンガーが波動力学を使って、行列力学を使った場合よりも楽に水素原子を扱っているのを見て愕然とした。彼はパスクアル・ヨルダンに次のように書いた。「その仕事は近年出た論文のなかで、もっとも重要な仕事のひとつだと思います。注意深く、集中してそれを読み込んでください」。六月にはボルンまでが、波動力学は「量子の法則を表す、もっとも深い形式」だと言うまでになった。

ハイゼンベルクは、ボルンが変節して波動力学の支持に回ったことを、「あまり良い気持ちはしない」とヨルダンに語った。彼は、シュレーディンガーが慣れ親しんだ数学を使っていることは、「信じられないほど興味深い」が、物理の内容に関するかぎり、原子レベルの出来事を正しく記述しているのは自分の行列力学のほうだと確信していた。』

ボーアとアインシュタイン2

著者:マンジット・クマール

発行:2013年3月

出版:新潮社

目次は“ボーアとアインシュタイン1”を参照ください。

9.一般相対性理論

戦争の四年間は、アインシュタインにとって、もっとも生産的で創造的な時期となりました。彼はこの期間に、一冊の本と五十篇ほどの科学論文を発表し、1915年には最高傑作である一般相対性理論をついに完成させました。

『ニュートン以前から、時間と空間は堅い枠組みであり、終わりのない宇宙のドラマが上演される舞台だと考えられていた。その舞台上では、質量、長さ、時間は、絶対的で不変だった。つまりその劇場の中では、ふたつの出来事の空間距離と時間間隔は、どの観客にとっても同じだったのだ。しかしアインシュタインは、質量、長さ、時間は絶対的ではなく、観測者ごとに変わりうることを見出した。観測者同士がどんな相対運動をしているかによって、空間距離と時間間隔は違って見えるのである。双子の一方が地球に残り、他方が宇宙飛行士になって、光速に近い速度で宇宙旅行をしたとすれば、大きな速度で運動しているほうの双子にとっての時間は伸び(時計の針の進み方が遅くなり)、空間は縮む(運動物体の長さが短くなる)。また、運動している物体の質量は、静止しているときの質量よりも大きくなる。これらはみな、「特殊」相対性理論から引き出せる結論であり、いずれも二十世紀中に実験によって確かめられた。しかし、特殊相対性理論には、速度が変化する場合は含まれていない。それを含むように拡張したのが、「一般」相対性理論である。アインシュタインは、一般相対性理論を作る仕事に取り組んでいたとき、その苦労にくらべれば、特殊相対性理論は「子どもの遊び」のようなものだったと語った。量子は、原子の領域でそれまでの世界像に疑問を突きつけたが、アインシュタインは空間と時間についても、その真の性質に関する知識へと人類を近づけたのだった。一般相対性理論はアインシュタイン版の重力理論であり、やがて物理学者たちはこの理論に導かれて、ビッグバンという起源に迫ることになる。

ニュートンの重力理論によれば、太陽と地球のようなふたつの物体間に働く引力の大きさは、両者の質量の積に比例し、それぞれの物体の質量中心を結ぶ距離の二乗に反比例する。質量同士は接触していないので、ニュートン物理学における重力は、謎めいた「遠隔作用」だ。しかし一般相対性理論における重力は、大きな質量の存在により、空間が歪むために生じる。地球が太陽の周囲をめぐるのは、オカルトのような不思議な力によって地球が太陽に引き寄せられるからではなく、太陽の大きな質量のために空間が歪むためなのだ。それをひとことで言えば、「物質は空間を歪め、歪められた空間は、物質に動き方を教える」ということになる。

1915年の11月、アインシュタインは一般相対性理論を、ニュートンの重力理論では説明できなかった水星軌道の問題に当てはめてみた。水星は太陽のまわりを公転する際、毎回まったく同じ経路をたどるわけではない。天文学者は精密な測定を行って、水星軌道は、そのつどわずかに楕円の軸が回転していることを明らかにしていた。アインシュタインが一般相対性理論を使って、その小さな回転角を計算してみると、小さな誤差の範囲で、観測データとぴったり合う結果が得られた。それがわかったとき、アインシュタインの胸の鼓動が激しくなり、何かストンと腑に落ちるものがあった。「この理論の美しさは、ただごとではありません」と彼は書いた。最大の夢が叶ってアインシュタインは本望だったが、非常な努力を続けたせいで、身も心もくたくたに疲れ果てていた。しかし、やがてその疲労から回復したアインシュタインは、ふたたび量子に目を向ける。

10.1916年、光量子の確立

光量子を確立させたアインシュタインでしたが、それは「原子の量子論」に基づくものであり、古典物理学の因果律を否定するというアインシュタインにとっては、容易に受け入れることができない現実を突きつけられました。

『アインシュタインは、まだ一般相対性理論に取り組んでいた1914年5月にはすでに、フランク・ヘルツの実験は、原子のエネルギー準位の存在を立証し、「量子仮説の正しさを裏づける衝撃的な結果」だということを鋭く見抜いていた。そして早くも1916年の夏には、原子が光を放出・吸収するプロセスについて、ある「すばらしいアイデア」を得る。そのアイデアを手掛かりとして、彼は、「あっけないほど簡単に、プランクの式[黒体放射のスペクトルに関する法則であり、量子力学の基本法則のひとつ]」を導くことができた。その導出方法は、「これこそが正しい方法だと思える」ほどのものだった。まもなくアインシュタインは、「光量子は確立されたと思います」と言うまでに、光量子の実在性を確信するにいたる。だが、その確信を得るためには、代償が必要だった―古典物理学の厳密な因果律[原因があって結果が生じる]を捨て、原子の領域に確率を持ち込むことになってしまったのだ。 

アインシュタインは以前にも、別の方法でプランクの法則を導いたことがあった。しかし今度の方法は、ボーアによる原子の量子論から出発するものだった。

11.因果律の否定

因果律を否定するということは、我々が住むマクロの世界の中では考えられない現象を認めることであり、「因果律を捨てることになれば、わたしとしては非常に不本意です」。とアインシュタイン自身が語っているように、この事実は厳しく、辛いものであったと思います。

『原子の量子論の中核に偶然と確率が潜んでいることに気づいて、アインシュタインは嫌な気持になった。彼はもはや量子の実在性を疑ってはいなかったが、それと引き替えに、因果律を犠牲にしてしまったような気がしたのだ。彼はその三年後の1920年1月に、マックス・ボルンへの手紙に次のように書いた。「因果律のことではかなり悩みました。光が量子として吸収・放出されるプロセスは、因果律が完全に成り立つものとして理解できるのか、それとも統計的な要素はどこまでも残るのか?これについては自分の考えを口にする勇気がありません。しかし、完全に成り立つものとしての因果律を捨てることになれば、わたしとしては非常に不本意です」。

アインシュタインを悩ませたのは、手にもったリンゴから手を放しても、リンゴは落下せず、そのまま空中に浮かんでいるという状況だった。手を離れたリンゴは、地面に置かれている場合よりも不安定なので、すぐさま重力が作用して落下しはじめる。重力が原因となって、リンゴが落下するのだ。ところが、もしもそのリンゴが、励起状態[最もエネルギーの低い状態よりもエネルギーが高い状態]にある原子内の電子のように振る舞えば、リンゴは手を離れてもすぐには落下せず、そのまま空中に浮かんでいるだろう。そして、確率としてしか知ることのできない予測不可能なある時刻に、突如として落下しはじめるのだ。手を放した直後に落下する確率は大きいにせよ、何時間も浮かんでいる確率も、小さいとはいえゼロではないのだ。励起状態にある原子内の電子は、いずれ低いエネルギー準位に飛び降り、安定した基底状態に落ち着く。だがその遷移が正確にいつ起こるかは、運任せなのである。1924年になっても、アインシュタインはまだ、自分の明らかにした事実を受け入れることができずにいた。「光を照射された電子がジャンプする時刻ばかりか、飛び出すときの向きまでも、おのれの自由意志で選ばなければならないというのは、わたしには耐え難いことに思われます。もしも自然がそんな仕組みになっているのなら、わたしは物理学者でいるより、靴の修理屋になるか、あるいはいっそ賭博場にでも雇われたほうがましです」。』

12.アインシュタインとボーアの出会い 

1920年4月27日、アインシュタインは初めて会ったボーアに強い印象を持ちました。

『アインシュタインは、自分より六つも年下のこのデンマーク人を次のように評価していた。「彼は間違いなく、第一級の頭脳の持ち主です。きわめて緻密で洞察力があり、大きな枠組みを見失うことがありません」。アインシュタインがプランクへの葉書にそう書いたのは、1919年10月のことだった。プランクはそれを読んで、ますますボーアにベルリンに来てほしいと思うようになった。アインシュタインがボーアに惚れ込んだのは、もうだいぶ前のことである。1905年の夏、彼の頭のなかで吹き荒れていた創造性の嵐が静まりかけたとき、アインシュタインは、次に取り組むべき「本当に面白いこと」がないと思った。「もちろん、線スペクトルの問題はあるでしょう」と、彼は友人のコンラート・ハビヒトへの手紙に書いた。「しかし、これらの現象と、すでに解明されている現象とのあいだには、簡単な関係はないと思います。したがって、今しばらく、このテーマでは成果を期待できそうにありません」

攻略する機が熟した物理学の問題を鋭く嗅ぎわけることにかけて、アインシュタインの鼻は天下一品だった。線スペクトルの謎を見送ったアインシュタインが次に嗅ぎつけたのが、E=MC²だった。その式は、質量とエネルギーとが変換可能だということを意味していた。もっとも、全能の神が笑いながら、彼を「手玉にとっている」可能性もないとは言えなかったのだが。そんなわけで、1913年にボーアが、原子を量子化することにより、原子スペクトルの謎を解決して見せたときには、アインシュタインにはそれがまるで「奇跡のよう」に思われたのだった。

ボーアは、ベルリン駅から大学へと向かいながら、興奮と不安のために胃が痛くなりそうだった。しかしそんな緊張は、プランクとアインシュタインに会うとすぐに解けてなくなった。ふたりは挨拶もそこそこに物理学の話しを始め、ボーアもすっかりマイペースになった。プランクとアインシュタインは、これ以上違う人間はいないのではないかと思うほど正反対のタイプだった。プランクは、プロセイン流の気まじめさの権化のようだったのに対し、アインシュタインは、大きな目ともじゃもじゃの髪をして、つんつるてんのズボンを穿き、世間との関係はぎくしゃくしていたかもしれないが、自分自身とはうまく折り合いをつけているように見えた。ボーアは、ベルリン滞在中はプランク家に泊まるように招かれ、その申し出をありがたく受けた。』

『ボーアがコペンハーゲンに帰るとすぐに、アインシュタインは彼に手紙を書いた。「これまでの人生で、あなたほど、その存在自体がかくも大きな喜びを与えてくれた人はほとんどいませんでした。わたしは今、あなたのすばらしい論文を勉強しているところです。そして―難しい箇所に躓かないかぎりは―ほがらかで少年っぽい顔をしたあなたが、微笑みながら説明しているのを思い浮かべて楽しい気分になるのです」。ボーアはアインシュタインに、長く消えることのない深い印象を与えた。数日後、アインシュタインは、パウル・エーレンフェストに次のように書いた。「ボーアがベルリンに来ました。わたしもあなた同様、彼にすっかり魅了されました。彼は感じやすい子どものようで、夢の中にでもいるように、この世界を歩き回っているのです」。ボーアもアインシュタインに負けないぐらい熱烈に、この出会いが彼にとってどれほど大きな意味をもったかを、お世辞にも上手とは言えないドイツ語で懸命に伝えようとした。「このたび直接お目にかかってお話しできたことは、わたしにとって最大級の経験となりました。じかにお考えを聞いて、どれほど大きな霊感を受けたことか、あなたには想像もつかないでしょう」。ボーアはまもなく、もう一度それを経験することになった。アインシュタインがその八月、ノルウェーへの旅行からの帰りにコペンハーゲンに立ち寄り、ひとときボーアを訪ねたのだ。

ボーアに会った直後、アインシュタインはローレンツへの手紙に次のように書いた。「彼は大きな天分に恵まれ、しかもすばらしい人物です。優れた物理学者が人間的も立派だというのは、物理学にとってありがたいことですね。』

ボーアは1922年にノーベル賞を受賞しました。本書ではその喜びを二人に伝えたと記されています。ひとりは恩師であるラザフォードであり、もうひとりはアインシュタインでした。

『もうひとり、ボーアの頭から離れなかった人物が、アインシュタインだった。彼が1922年のノーベル賞を受賞する日に、アインシュタインも一年遅れて1921年のノーベル賞を受賞するという巡り合わせが、ボーアには嬉しく、また、ほっとさせられる成り行きでもあった。ボーアはアインシュタインにこう書いた。「わたしには過分な賞であることは十分承知していますが、これだけは申し上げたいと思うことがあります。それは、わたしが仕事をしたこの特別な分野において、あなたが成し遂げられた基本的な重要な仕事、およびラザフォードとプランクの仕事が、わたしがこの名誉に値すると見なされるよりも先に認められていて、本当によかったということです」

ノーベル賞の受賞者が発表されたとき、アインシュタインは船で地球の反対側に向かっていた。彼は十月八日に、身の安全に不安を感じながら、エルザとともに日本での講演旅行に出発したのだった。アインシュタインは後年、次にように述べた。「ドイツを長期間離れる機会が得られたのはありがたいことでした。そのおかげで一時的に高まった危険から逃れることができたからです」。彼がようやくベルリンに戻ったのは、1923年2月だった。当初の六週間の予定は、結局五カ月に及ぶ大旅行となり、ボーアの手紙を受け取ったのも旅先でのことだった。彼は帰国の途上でボーアに返事を書いた。「少しも大袈裟ではなく、[あなたの手紙を]ノーベル賞と同じくらい嬉しく思いました。とくに、わたしより先に受賞することを心配なさっていたとは、なんて可愛らしいのでしょう―あなたらしいことです。』

13.量子との格闘

アインシュタインにとっても、ボーアにとっても量子は想像を絶するような難しい問題でした。

『アインシュタインとボーアは、ベルリンとコペンハーゲンで会ってからの二年間、それぞれのやり方で量子との格闘を続けた。しかしふたりとも、しだいにその戦いに疲れを感じはじめていた。「気を散らされることが多いのも、まんざら悪いことではないのでしょう」と、アインシュタインは1922年3月にエーレンフェストへの手紙に書いた。「さもなければ、量子の問題のために、わたしは精神病院に入院していたかもしれませんから」。その一カ月後、ボーアはゾンマーフェルトにこう語った。「ここ数年、科学上の孤立感をひしひしと感じています。体系的に量子論の原理を作ろうと力のかぎり頑張っているのですが、ほとんど誰にも理解してもらえないように思います」。しかし、そんな孤立の時代も終わろうとしていた。ボーアは1922年6月に、ドイツのゲッティンゲン大学で、のちに「ボーア祭り」として知られることになる、十一日間で七回の連続講義という一大イベントを敢行したのだ。』

14.ボーア祭りとアインシュタインの命の危機

アインシュタインには相対性理論を拡張するという命題があり、また光量子には因果律を否定しなければならないという側面がありました。また、数学が求められるという要因もアインシュタインにとっては望ましいものではありませんでした。一方、ボーアには古典物理学へのこだわりはアインシュタインほどではなく、それよりも量子とは何かということを明らかにしたいという気持ちが強かったように思います。その強い気持ちがこの難題に立ち向かわせ、その使命感が原動力となって、生涯を貫いたのではないかと思います。

『ボーアが原子内電子の「殻模型」について話をするというので、老若とりまぜて百人を超える物理学者たちがドイツ各地から集まってきた。殻模型とは、原子内の電子がどのように配置されているかに応じて、その元素の周期表内での位置と、元素のグループ(類)が決まるという、ボーアの最新理論だった。彼は、原子核の周囲を、ちょうどタマネギの鱗片のように、軌道殻というものが取り巻いているという考えを打ち出した。それぞれの殻は、じっさいには電子軌道の集まりで、その軌道に含まれる電子の個数には上限がある。化学的な性質を共有する元素は、もっとも外側の殻に含まれる電子の数が同じになっている、とボーアは論じた。』

『アインシュタインは、ゲッティンゲンでのボーアの連続講義には出席しなかった。ユダヤ人だったドイツ外相が殺害されたことで、命の危険を感じていたからだ。有力な実業家だったヴァルター・ラーテナウは、外相になってわずか数カ月後の1922年6月24日の白昼に、銃弾に倒れた―第一次世界大戦後に起こった極右による政治的暗殺の、三百五十四番目の犠牲者だった。アインシュタインは、政府内のそんな目立つ地位に就くべきでない、ラーテナウに強く忠告した。人間のひとりだった。ラーテナウが外相に就任すると、右翼新聞はそれを、「国民に対する前代未聞の挑発!」と書きたてた。

「ラーテナウの暗殺という恥ずべき事件が起こって以来、こちらでは気が休まるときがありません」とアインシュタインはモーリス・ソロヴィンに書いた。「わたしはいつも警戒しています。講義は取り止め、公式には不在になっていますが、じっさいにはずっとここにいます」。信頼できる筋から、自分が第一の暗殺目標になっていることを知らされたアインシュタインは、一市民として静かな暮らしを送るため、プロセイン科学アカデミーのポストを辞任することも考えているとマリー・キュリーに打ち明けた。若いころは権威に反発していた彼が、今では権威ある人間になっていた。彼はもはやひとりの物理者ではなく、ドイツ科学のシンボルであると同時に、ユダヤ人のシンボルでもあったのだ。』

ボーアが提唱した電子の殻模型には、厳密な数学的論証はありませんでした。それでも、ボーアのアイデアが評価されたのは、1922年12月のノーベル賞受賞講演で、原子番号七十二番の未知の元素(のちにハフ二ウムと名づけられる元素)は「希土類」ではないという予測が正しかったからです。しかしボーアの殻模型の背後には、いかなる組織原理も判断基準もなく、それは膨大な化学的・物理的データにもとづいて、周期表の各グループの化学特性のほとんどすべてを説明することができるという、独創的な思いつきにすぎませんでした。

ボーアが経験的データから作り上げた原子内電子の殻模型に、理論的基礎となる組織原理、「排他原理」を発見したのは、ウォルフガング・パウリでした。

『ボーアの新しい原子モデルで、電子がすべて最低エネルギー準位に集まらないように殻の占拠状態を管理していたのは、パウリの排他原理だったのだ、排他原理は、周期表の中の元素がなぜあのような配列になっているのか、そしてなぜ、化学的に不活性な希ガスで殻が閉じるのかに説明を与えた。しかし、これほどみごとな成功を収めたにもかかわらず、パウリは1925年3月21日に「ツァイトシュリフト・フュール・フィジーク」に発表した「原子内電子の群の閉鎖と、スペクトルの複雑な構造との関係について」という論文の中で、「この規則がなぜ成り立つのかについて、より詳しい理由を与えることはできない」と述べざるをえなかった。』

15.スピンという量子的な概念

パウリが提唱した排他原理、しかしながらパウリ自身が説明できないとしていた課題は、スピンという量子的な概念によって明快な物理的根拠が与えられました。

『原子内電子の位置を指定するために必要な量子数は、なぜ三つではなく四つなのだろうか?ボーアとゾンマーフェルトの実り多い仕事がなされて以来、原子核の周囲で軌道運動をしている原子内電子は三次元空間を動き回っているのだから、その運動を記述するためには三つの量子数が必要なのは当然のことと受けとめられていた。しかし、パウリの四つ目の量子数には、どんな物理的基礎があるのだろう?

1925年の夏も終わろうというころ、ふたりのオランダ人ポスドク、サムエル・ハウトスミットとへオルヘ・ウーレンベックは、パウリが提案した「二価性」には、それまでの量子数とはまったく異なる特徴があることに気がついた。すでに知られていた三つの量子数が、n、κ、mはそれぞれ、軌道上にある電子の角運動量[回転の勢いを表す物理量]、その軌道の形、空間内の向きを指定するものだったが、「二価性」は電子に内在する性質だったのだ。ハウトスミットとウーレンベックはその性質を、「スピン(回転)」と名付けた。くるくると回転する物体をイメージしがちなこの命名は不幸だったが、電子の「スピン」は完全に量子的な概念であり、原子構造の理論に付きまとっていたいくつもの問題を解決し、排他原理に明快な物理的根拠を与えるものだった。

『1925年の夏中をかけて、ハウトスミットは原子の線スペクトルについて知る限りのことをウーレンベックに教え込んだ。その後、ふたりが排他原理について論じ合っていたときのことである。ハウトスミットは排他原理を、原子スペクトルの混乱状態を少々整理するための場当たり的な規則のひとつにすぎないと考えていたのに対し、ウーレンベックはあるアイデアを思いついた―そのアイデアを、パウリはすでに却下していたのだが。

電子は、上下、前後、左右の方向に運動することができる。これら三通りの運動の仕方を、物理学者は「自由度」と呼んでいる。量子数はいずれも電子の自由度に対応しているのだから、パウリの新しい量子数は、電子は三つの自由度以外に、別の自由度をもつということを意味しているに違いない、とウーレンベックは確信した。そして彼は、その四つ目の量子数は、電子の回転を意味しているのだろうと考えたのだ。しかし、古典物理学でいう回転は、三次元空間の中の回転運動だから、もしも原子が古典物理学的にクルクル回っているだけなら、地球が自転軸のまわりに回転しているのと同じく、四つ目の自由度を持ち込む必要はない。パウリは、自分が導入した新しい量子数は、何か「古典的な考え方では記述できないもの」を表しているはずだと論じた。』

『ボーアは磁場の問題を挙げて、自分はスピンには反対だと言った。すると驚いたことにエーレンフェストが、その問題はアインシュタインが相対性理論を使ってすぐに解決したというではないか。のちにボーアは、アインシュタインの説明は「まさしく啓示」だったと述べた。かくしてボーアは、電子スピンにどんな問題があろうと、いずれ近いうちにすべて克服されるだろうと確信した。ローレンツの反論は、彼が精通している古典物理学にもとづくものだった。しかし電子のスピンは純粋に量子的な概念であり、ローレンツが指摘した問題は、実はそれほど深刻なものではなかったのだ。さらに、イギリスの物理学者リーウェリン・トーマスがふたつ目の問題を解決した。トーマスは原子核のまわりで軌道運動する電子の相対運動の計算で、二重項の分離幅に2の因子がひとつ余分にかかっていたことを明らかにしたのだ。「そのときから、われわれの苦悩は終わったという確信がゆらいだことはありません」とボーアは1926年3月に手紙を書いた。』

注)電子のスピンというアイデアを最初に提唱したのは、ハウトスミットとウーレンベックではなく、21歳のドイツ系アメリカ人のラルフ・クロー二ヒでした。これは当時、パウリがクロー二ヒのアイデアを否定したためでした。

16.古典物理学と量子物理学との架け橋

古典物理学と量子物理学の架け橋という考え方は、統合ということを常に考えていたアインシュタインには難しいことでした。ボーアがこのような考え方を持つことができたのは、量子とは何かを明らかにすることに集中し、あらゆる可能性を排除せず、白紙から考えを進めたこと、そして、パウリやハイゼンベルク、ボルンといった数学に長けた優秀な科学者の協力を得られたことが大きな要因だったと思います。

『この動乱のなかでも、アインシュタインはボーアによる一連の論文を読んでいた。1922年3月に「ツァイトシュリフト・フュール・フィジーク」に発表された、「原子の構造と、元素の物理的、化学的性質」と題する論文もそのひとつだった。それから半世紀近く経て、アインシュタインは当時を振り返って次のように述べた。「原子の内部にある電子の殻というアイデアは、その科学上の重要性という点からも、当時のわたしには奇跡のように思われました―そしてその思いは今も変わりません。それは思考の領域における音楽性を、もっとも高度なかたちで現したものでした」。じっさいボーアがやったことは、科学というよりはむしろ芸術に近かった。原子の線スペクトルや、それぞれの元素の化学的性質など、さまざまな分野からかき集めた証拠を組み合わせて、ボーアはひとつの原子像を作り上げた。あたかもタマネギの鱗片のように、電子の殻をひとつひとつ重ねていき、周期表の中のすべての元素を再構成したのである。

そんなアプローチの核心にあったのは、ボーアが抱いていたひとつの確信だった。原子のスケールで成り立つ量子規則から得られる結論はすべて、古典物理学が支配するマクロなスケールでの観測結果と矛盾してはならないと彼は信じていたのだ。ボーアはその確信を「対応原理」と名付け、それを使って原子スケールで考えうる可能性のうち、マクロな領域に拡張したときに古典物理学の結果につながらないものを捨てた。1913年以降、量子物理学と古典物理学のあいだに口を開けていた裂け目にボーアが橋を架けることができたのは、その対応原理のおかげだった。ボーアの助手だったヘンドリク・クラマースがのちに述べたように、ボーアのそんな方法論のことを、「コペンハーゲンの外では通用しない魔法の杖」と呼ぶ者もいた。みんなはその杖を振りこなせずに悪戦苦闘していたが、アインシュタインはそこに、自分に匹敵する魔術師の仕事を見て取った。

周期表に関するボーアの理論にしっかりした数学的基礎がないことを不満に思う者はいたにせよ、彼が次々と打ち出すアイデアに感心しない者はいなかった。また、さまざまな未解決問題について理解が深まったのも確かだった。ボーアはコペンハーゲンに戻るとすぐに、ある物理学者への手紙のなかで、「ゲッティンゲン滞在は何もかもがすばらしく、とても勉強になりました」と述べた。「みなさんがわたしに示してくださった友情がどれほど嬉しかったか、とても言葉では言い表せません」。もはや彼は、理解されないとか、孤立しているなどと感じることはなくなった。』

17.量子論から量子力学へ

“量子のスピン”という純粋に量子的な概念は、既存の物理学という枠組みの中でそのカケラを「量子化」するという方法には限界があることを明らかにしました。

『プランクの黒体放射の法則からアインシュタインの光量子へ、さらにボーアの電子の量子論からド・ブロイの物質の波と粒子の二重性へと、四半世紀以上にわたって繰り広げられてきた量子物理学の進展は、量子的概念と古典物理学との不幸な結婚から生み出されたものだった。しかしその結婚は、1925年までにはほとんど破綻していた。アインシュタインは1912年の5月にはすでに、「量子論は、成功すればするほどますます馬鹿馬鹿しく見えてきます」と書いた。求められていたのは新しい理論―量子の世界で通用する新しい力学だった。

「1920年代半ばに成し遂げられた量子力学の発見は、十七世紀に近代物理学が誕生して以来、物理理論の分野に起こったもっとも意義深い革命だった」と、アメリカのノーベル賞受賞者スティーブ・ワインバーグは述べた。』

『ハウトスミットとウーレンベックは、それまでの量子論はすでに適用限界に突き当たっているということを、はじめて具体的な証拠で示した。理論家はもはや、古典物理学という足場の上に立ち、既存の物理学のカケラを「量子化」するという方法で間に合わせるわけにはいかなくなった。なぜなら電子のスピンは、それに対応する古典物理学の概念のない、純粋に量子的な概念だからである。パウリとふたりのオランダ人がスピンをめぐって成し遂げた発見は、「古い量子論」が達成した数々の偉業の締めくくりとなる仕事だった。あたりは危機感が漂っていた。物理学が置かれた状態は、「方法論という観点から言えば、論理的に一貫した理論というよりはむしろ、仮説、原理、定理、計算方法の寄せ集めと言うべき嘆かわしい状況」だった。物理学の進展が、科学的な論証によってではなく、芸術的な推理や直観によって起こることもしばしばだったのだ。

パウリは排他原理発見から半年ほど経った1925年の5月に、「現在、物理学はまたしても滅茶苦茶です。ともかくわたしには難しすぎて、自分が映画の喜劇役者かなにかで、物理学のことなど聞いたこともないというならよかったのにと思います」とクロー二ヒへの手紙に書いた。「ボーアが今度もまた、何か新しいアイデアを出して、わたしたちを救ってくれるのだろうと期待しています。いますぐやってくださいと頼みたい気持ちです。彼によろしくお伝えください。わたしに対する親切と辛抱強さ、そのすべてにお礼申します、と」。しかしそのボーアは、「われわれが現在直面している理論上の問題」に対しては、何の答えも持ち合わせていなかった。その春、誰もが待ち望む「新しい」量子論―量子力学―をひねり出せるのは、量子の手品師ぐらいだろうと思われた。』

18.量子の手品師

量子に関わる多くの物理学者が待ち望んだ量子力学、その領域にたどり着いた「量子の手品師」は、ドイツの神童、ヴェルナー・カール・ハイゼンベルクでした。

『「運動学的および力学的な諸関係についての量子論的再解釈」は、誰もが待ち望み、ある者たちにとっては自分が書きたかった論文だった。「ツァイトシュリフト・フュール・フィジーク」の編集人がその論文を受け取った日付は、1925年7月29日。科学者たちが「アブストラクト」と呼ぶ「前書き」のなかで、著者は大胆にも、次のような壮大な計画を示した―その論文の目標は、「原理的には観測可能であるような量のあいだの関係だけにもとづいて、量子力学の理論的基礎を確立することである」と。十五ページほど先でその目標は達成され、著者ヴェルナー・ハイゼンベルクは未来の物理学の基礎を築いた。この年若いドイツの神童は、いったい何者なのだろうか?彼はいかにして、ほかの人たちができなかったことを成し遂げたのだろうか?』

※ヴェルナー・ハイゼンベルクは1901年12月5日、ドイツ、バイエルン州の町ヴュルツブルクに生まれ、若干26歳でライプツィヒ大学の教授になりました。

『ハイゼンベルクの関心を、アインシュタインの相対性理論から、彼がのちに名をなすことになる量子論に向けさせたのは、相対性理論に関するみごとな解説を書いている最中のパウリだった。彼は、この先大きな実りがある分野は、むしろ原子の量子論だと言ったのだ。「原子物理学の分野には、まだ解釈されていない実験結果がどっさりあるんだ」とパウリは言った。「ある領域では、自然界の性質を明らかにしてくれる証拠だと思えるものが、別の領域で得られた証拠と矛盾するように見える。そのせいで、証拠同士の関係についての統一的な描像はまだ半分も描けていないのさ」。これから先まだ何年も、誰もが「深い霧の中で手さぐり」することになるだろう、とパウリは言うのだった。ハイゼンベルクはそんな彼の言葉を真剣に聞きながら、あらがいようもなく量子の世界に引き寄せられていった。』

ボーアとアインシュタイン1 

第五回ソルヴェイ会議は、「電子と光子」をテーマとして、1927年の10月24日から29日にかけて、ベルギーの首都ブリュッセルで開催された。その会議に参加した人たちの集合写真には、物理学の歴史上、もっとも劇的だった時代が濃縮されている。招待された29人の物理学者のうち、最終的には17人がノーベル賞を受賞することになるこの会議は、歴史上、もっとも輝かしい知性の邂逅のひとつだった。そして、また、物理学の黄金時代―ガリレオとニュートンによってその幕を切って落とされた十七世紀の科学革命以来、科学的な創造力がもっともめざましく発揮された時代―の終焉を告げる出来事だった。』

画像出展:「aucfan

著者:マンジット・クマール

発行:2013年3月

出版:新潮社

以下は、本書の巻末に掲載されている年表をベースに、8人の物理学者とその他に分けて作ったものです。その8人は左から、マックス・プランク、エルヴィン・シュレーディンガー、アルベルト・アインシュタイン、ニールス・ボーア、マックス・ボルン、ルイ・ド・ブロイ、ヴォルフガング・パウリ、ヴェルナー・ハイゼンベルクになります。拡大して頂ければ文字の確認はできると思います。

右端の「その他」の1972年、1982年、1997年、2007年の欄に、ジョン・クラウザー博士アラン・アスペ博士アントン・ツァイリンガー博士の名前が出ています青字)、まさにこの業績によって、2022年のノーベル物理学賞を受賞されました。

2022年のノーベル物理学賞に「量子もつれ」の研究者3人

画像出展:「讀賣新聞オンライン

ご参考:Youtube“【量子力学】この宇宙の真実知りたくない人は見ないでください...『シンクロニシティ 科学と非科学の間に』by ポール・ハルパーン(開始~8分30秒の中で「量子もつれ」を解説されています。なお動画は19分です)

量子物理学の学術的な知識がゼロに等しい私がまとめた今回のブログは怪しげです。また、身の程知らずのコメントに「いいんだろうか?」という不安な気持ちもあります。しかしながら、私にとっては大きな前進となりました。今まで、興味だけで数冊の量子論、量子力学の本に挑戦してきて分かったことは、量子は存在すること、量子は古典物理学(ニュートン力学とマクスウェル電磁気学)の常識を超えた未知の領域にある不思議なものだということです。

天才物理学者が一堂に会した第五回ソルヴェイ会議の中でも、アルベルト・アインシュタインの圧倒的存在感は、この世に並ぶ者がない孤高の天才を証明しているように思います。また、科学者の論争を超えた視点に立ち、あらたな一歩を世界に示したニールス・ボーアの「コペンハーゲン解釈」も、量子力学の発展には欠くことのできないものだったと思います。

プランク、ボルン、パウリ、ハイゼンベルク、シュレーディンガー、ウーレンベック等の傑出した才能と強烈な個性の妥協なきぶつかり合いが量子論を磨き上げ、古典物理学とは異なる量子物理学を確立できたのだと思います。

そして、その中心にいたのは、使命感に燃え生涯をかけたニールス・ボーアと、一般相対性理論を発見し統一場理論という理想を追求し続けたアルベルト・アインシュタインだったと思います。

量子論や量子力学が難解なのは間違いないのですが、以下のサイトの最後に書かれている通り、これらは、既に生活の中に深く入り込んでいます。その代表的なものが半導体です。

画像出展:「量子力学と私たちの暮らし(無印良品)」

リニア新幹線に使われる「超伝導モーター」や「量子コンピュータ」など、今後も「量子力学」にもとづく先端技術は次々と生まれ、暮らしの中に入ってくることでしょう。不思議は不思議のまま置いとくとして、「量子力学」が今後の私たちの暮らしを大きく変えていくことだけは間違いなさそうです。

1970年代後半、半導体は「産業の米」と呼ばれていました。そして、2030年日本の半導体市場は100兆円規模まで拡大すると言われています。量子力学の発見なくして現代の進歩はあらず、人類最大の発見と言っても過言ではないと思います。

ブログは20世紀初頭の量子革命の論争を、主にボーアとアインシュタインを中心にまとめました。見出しに続き、気づいたことや感じたことを最初に書いています。

目次

プロローグ 偉大なる頭脳の邂逅

第一部 量子

第一章 不本意な革命―プランク

第二章 特許の奴隷―アインシュタイン

第三章 ぼくのちょっとした理論―ボーア

第四章 原子の量子論

第五章 アインシュタイン、ボーアと出会う

第六章 二重の貴公子―ド・ブロイ

第二部 若者たちの物理学

第七章 スピンの博士たち

第八章 量子の手品師―ハイゼンベルク

第九章 人生後半のエロスの噴出―シュレーディンガー

第十章 不確定性と相補性―コペンハーゲンの仲間たち

第三部 実在をめぐる巨人たちの激突

第十一章 ソルヴェイ 1927年

第十二章 アインシュタイン、相対性理論を忘れる

第十三章 EPR論文の衝撃

第四部 神はサイコロを振るか?

第十四章 誰がために鐘は鳴る―ベルの定理

第十五章 量子というデーモン

以下はブログの目次です。なお、ブログは6つに分けています。

1.量子の発見

2.「奇跡と年」と光量子説

3.論争を分けたアインシュタインの価値観

4.アインシュタインの数学

5.“量子テレポーテーション”

6.ボーアの人柄と信念

7.原子の量子論

8.相対性理論>量子論

9.一般相対性理論

10.1916年、光量子の確立

11.因果律の否定

12.アインシュタインとボーアの出会い 

13.量子との格闘

14.ボーア祭りとアインシュタインの命の危機

15.スピンという量子的な概念

16.古典物理学と量子物理学との架け橋

17.量子論から量子力学へ

18.量子の手品師

19.古典物理学からの解放

20.観測可能な量だけを使って作った理論

21.(A×B)-(B×A)≠ゼロ

22.量子物理学の新時代の幕開けを告げる論文

23.行列演算と量子力学

24.論理的に矛盾のない量子力学を定式化した「三者論文」

25.守備範囲の広い理論家

26.シュレーディンガーが「作った」波動方程式

27.ハイゼンベルクの難解な行列力学とシュレーディンガーの直感的な波動力学

28.数学的には等価だが物理的世界が異なる波動力学と行列力学

29.波動力学の限界

30.古典的確率とは異なる量子的確率を使って波と粒子を統合する方法

31.アインシュタインとハイゼンベルク

32.アインシュタインにとっての行列力学

33.ボーアとハイゼンベルク(量子の世界のあいまいさの核心、波と粒子の二重性の問題)

34.ハイゼンベルクの不確定性原理

35.不確定性原理を表す式、ΔpΔp≧h/2πとΔEΔt≧h/2π

36.波と粒子の二重性を受け入れるための相補性

37.1927年9月、イタリアのコモで開催された国際物理学会

38.1927年10月24日~10月29日第五回ソルヴェイ会議

39.ボーア(コペンハーゲンメンバー)とアインシュタインの議論

40.「コペンハーゲン解釈」という命名は1955年(28年後)

41.アインシュタインの統一場理論とEPR論文

42.理論と哲学的立場

43.統一場理論

1.量子の発見

量子の発見者はマックス・プランクです。それは1900年、量子は粒子と波の性質をあわせ持った、とても小さな物質でエネルギーの単位といわれています。

 『1900年にプランクは、光をはじめあらゆる電磁放射のエネルギーは、ある大きさの塊でしか、物質に吸収されたり物質から放出されたりできないと考えざるをえなくなった。「量子」とは、そんなエネルギーの塊に対し、プランクが与えた名前だった。「エネルギー量子」という考え方は、確立されて久しいエネルギー観―すなわち、エネルギーはあたかも蛇口から流れ落ちる水のように、なめらかに途切れなく放出されたり、吸収されたりするという考え―と、きっぱり手を切る過激な提案だった。ニュートン物理学に支配された巨視的な日常の世界では、水がポタリポタリと雫になって蛇口から滴ることはあっても、エネルギーがさまざまなサイズの滴として交換されることはなかった。だが、原子やそれ以下の階層は、量子の支配する領域なのだ。

やがて、原子の内部に存在する電子についても、そのエネルギーは「量子化」されていることが明らかになった―原子内の電子は、とびとびの値のエネルギー量しかもつことができないのである。同様のことは、エネルギー以外の物理量についても言えた。微視的な領域は、ぶつぶつに切り離された離散的な世界であって、単に日常世界をスケールダウンしただけではないことが明らかになったのだ。日常の生活では、点Aから点Cに移動するためには、どこか中間の点Bを通過しなければならない。ところが微視的な世界では、原子内の電子はエネルギー量子を放出したり吸収したりすることで、いかなる中間点も通過することなく、ある場所で消え、次の瞬間には別の場所にひょっこり現れることができるのだ。そんな現象は、連続的な古典物理学で扱える範囲を超えていた。それはあたかも、ロンドンで謎のように消えた物体が、次の瞬間にはパリ、あるいはニューヨークやモスクワに現れるようなものだった。』

2.「奇跡と年」と光量子説

アインシュタインが成し遂げた1905年は「奇跡の年」と言われています。それは学術誌に寄稿した四篇の論文です。

1)光量子説

2)原子の大きさを求める新しい方法を提案するもの

3)ブラウン運動―液体中に浮かんだ微粒子がランダムに動きつづける運動―を説明するもの

4)相対性理論の構想を示したもの

アインシュタイン自身が「真に革命的」だと言ったのは、相対性理論ではなく、光と放射に関するプランクの量子概念を拡張した仕事のほうだった。アインシュタインにとって相対性理論は、すでにニュートンやその他の人びとによって確立された考えを、「修正した」だけにすぎなかったのに対し、光の量子という新しい概念は、完全に彼の独創であり、従来の物理学との断絶の大きさという点では、もっとも過激だと考えていたのだ。アマチュアの物理学者とはいっても、そんな説を唱えるのは冒瀆的なことだった。

それまで半世紀以上にわたり、誰もが光は波だと思っていた。ところがアインシュタインは、「光の生成と変換に関する、ひとつの発見法的観点について」と題したその論文で、光は波ではなく、粒子状の量子でできているという説を打ち出したのだ。』

●光は波であるというのが当時の常識でした。アインシュタインの「光量子仮説」はマックス・プランクが提唱した「エネルギー量子仮説」を拡張し、光はプランク定数と振動数を掛け合わせたエネルギーを持つ粒子(光量子)の集合体であるとするものでした。この革新的な仮説を信じる物理学者はほとんどおらず、アインシュタインの考えは孤立していましたが、18年後の1923年、アーサー・コンプトンによる「コンプトン効果」により「光量子仮説」は完全に立証されました。なお、この事実はニールス・ボーアにとっても衝撃的なものでした。

ご参考:“光量子仮説とは”(【物理解体新書】より)

ご参考量子仮説と光量子仮説の違い(ミクロの世界でエネルギーが不連続であることを解明したのが量子仮説。光は波と粒子の二重性があることを示したのが光量子仮説です)

ご参考:“光電効果と光量子仮説

3.論争を分けたアインシュタインの才能と価値観

スイス特許局の3年間では「多面的に考える」訓練になったという話をされています。アマチュア物理学者時代を経て、世界最高の物理学者の一人となったアインシュタインの無二の才能は、「気味悪いほどの洞察力」と「本質を見抜く嗅覚」であり、最後まで譲ることがなかったのは、物理学の「実在性」だったようです。

『「彼(アインシュタイン)は、良く知られたなにげない事柄の陰に隠れて、みんなに見逃されていた意味を見抜くという、天賦の才に恵まれていた」と述べたのは、アインシュタインの友人で、やはり理論物理学者のマックス・ボルンである。ボルンはさらにこう続けた。「彼をわれわれと隔てていたのは、数学の技量ではなく、自然の仕組みを深く見通す、気味が悪いほどの洞察力だった」。アインシュタインは、数学では直観があまり働かず、真に重要なことを、「本質的でないことから」選り分けることができないと考えていた。しかし物理学になると、彼の嗅覚は誰にも負けなかった。物理学に関するかぎり、すでに学生時代には、「基礎につながる問題だけを嗅ぎつけ、その他の問題―こまごましたことで頭を埋め尽くし、重要なことを見えなくさせるたぐいの問題―から選り分けることができるようになった」と、アインシュタインは述べている。』

4.アインシュタインの数学

1896年10月、アインシュタインは理数科教員養成課程に入学しました。同期は11人、うち数学と物理学の教員になろうとする学生はアインシュタインを含め5人でした。その中で唯一の女性であった、ミレヴァ・マリチは後にアインシュタインの妻となりました。また、半世紀に渡った量子力学との格闘では、アインシュタインの数学がひとつのターニングポンとになったように思います。

 『ミュンヘン時代には、彼の聖典となった小さな幾何学の本をむさぼるように読んだアインシュタインだったが、数学そのものにはすでに興味を失っていた。「ポリ」で数学を教えていたヘルマン・ミンコフスキーは当時を振り返って、アインシュタインは「怠け者」だったと言った。アインシュタインは後年、そうなったのは数学が嫌いだったからではなく、「物理学の基本原理についての深い知識に近づくことは、数学的方法と密接に結びついている」ということが、当時はわからなかったためだと語った。その結びつきを、彼はその後の研究生活で苦労して知ることになる。彼は、「もっとしっかり数学を勉強しなかった」ことを悔やんだ。』

ご参考数学と物理の絡み合い PDF43枚

5.“量子テレポーテーション”

「1913年7月に発表された第一部の論文([原子と分子の構成について]という同一タイトルの三部作)は、量子を原子の内部にじかに持ち込んだ、真に革命的な仕事だった」との高い評価を受けています。ボーアが気づいた奇妙な性質は“量子テレポーテーション”と呼ばれています。これは、量子状態を転送する技術であり、古典的な情報伝達手段と量子もつれの効果を複合的に利用して行われます。

 『ボーアは、電子の量子飛躍には、非常に奇妙な性質があることに気がついた。飛躍しているときの電子の所在については、何も言えないということだ。軌道間の飛躍―エネルギー準位間の遷移―は、瞬間的に起こらなければならない。さもないと、軌道から軌道へと移動するあいだに、電子はエネルギーを放出してしまうからだ。ボーアの原子の内部では、電子は軌道と軌道のあいだの空間には存在することができない。電子はまるで魔法のように、ある軌道上から消えた瞬間、別の軌道に姿を表すのだ。

“量子テレポーテーション”の実験は84年後の1997年、フランチェスコ・デマルティ―率いるローマ大学の研究チームが成功させました。

ご参考Youtube“【簡単解説】数式なしで理解したい!「量子テレポーテーション」や「量子もつれ」の原理や仕組み、方法を初心者にも分かるように解説! (9分33秒~13分33秒に量子テレポーテーションについて解説されています。難解な内容を分かりやすく解説されていると思います)

6.ボーアの人柄と信念

ボーアの論文([原子と分子の構成について]という同一タイトルの三部作)制作に関して、指導教授のような存在であったアーネスト・ラザフォードに相談する場面があるのですが、ボーアの人柄や研究に対する信念(執念)が出ている興味深いものでした。

 『もうひとつ、小さな問題ではあったが、ボーアが深く悩んだ指摘があった。ラザフォードはその論文を、「切り詰めなければ」ならないと言ったのだ。「論文が長いと、じっくり読んでいる余裕がない読者の腰が引けてしまう」というのだ。なんなら英語を直すのを手伝おう、と述べた後、ラザフォードは追伸として、次のように書いた。「不必要と思う部分は、わたしの判断で削除してもかまいませんね? 返事待ちます」

それを読んでボーアは恐れおののいた。単語ひとつ選ぶのにも苦しみ抜き、果てしなく推敲を重ねる彼にとって、たとえそれがラザフォードであろうとも、自分以外の人間が論文に手を加えるなどとは、考えることさえできなかったのだ。二週間後、ボーアは変更と追加を書き込み、さらに長くなった改訂版の原稿を送った。ラザフォードはボーアの改訂を、「良くできているし、妥当な改訂のように思われます」と言ってくれたが、このときもやはり論文を短くするように強く求めた。その二度目の返事を受け取る前に、ボーアはラザフォードに、今度の休暇にマンチェスターに伺いますと告げた。

ボーアが玄関の扉をノックしたとき、ラザフォードは友人のアーサー・イヴをもてなしているところだった。イヴの回想によれば、ラザフォードはすぐに、その「ひょろりとした男の子」を連れて書斎に行き、その場に残ったラザフォード夫人が、今のはデンマーク人で、夫は「あの若者の仕事を、とても高く買っているのです」と言ったという。それから数日のあいだ、夕方何時間も議論に議論を重ね、ボーアは一字一句省くことなどできないと懸命に訴えた。ボーアが後年語ったところでは、ラザフォードはその間、「ほとんど天使のような忍耐力を示した」という。

やがてラザフォードは疲労困憊し、ついに折れた。のちにラザフォードは、この一件を友人や仲間の物理学者たちに話して聞かせるようになった。「彼が論文の一字一句を大切にしていることが良くわかったよ。すべての文、すべての言い回し、すべての引用を、断じて捨てるつもりがないんだ。あの覚悟にはほとほと感心させられたね。どれもこれも、明確な理由があって書いているのだ。わたしははじめ、省略できる文はたくさんあると思っていた。しかし彼の説明を聞いているうちに、全体がきわめて緊密に織りあげられているので、変更できる箇所はひとつもないのだということがわかったよ」。皮肉にも、ボーアはずっと後になって、「議論の提示のしかたが明確でない」というラザフォードの意見は正しかったと述べた。』 

7.原子の量子論

ボーアの論文は画期的でしたが、特に当時の常識に照らし合わせると難しい要素を数多く含んでいました。

 ボーアは、古典物理学と量子力学を混ぜこぜにして、自分の原子モデルを急ごしらえに組み立てた。その過程で、広く認められていた物理学の常識を破るようなことを提唱した。まず、原子内電子は、定常状態という、特定の軌道しか占めることができないということ。つぎに、定常状態にある電子は、エネルギーを放射できないということ。そして、原子は多数ある飛び飛びのエネルギー状態のうち、どれかひとつの状態を占めるということだ。それらの状態のうち、エネルギーがもっとも低い状態を、「基底状態」という。そして電子は、「どういうわけか」、エネルギーの高い定常状態から低い定常状態へと飛び降りることができ、そのエネルギー差をエネルギー量子として吐き出す、というのだった。しかし彼の原子モデルは、水素原子のいくつかの性質―水素原子の半径など―を正しく予測することができたし、線スペクトルが生じる理由を物理的に説明することもできた。のちのラザフォードは、原子の量子論は、「物質に対する頭脳の勝利であり」、ボーアがその謎を解明するまでは、ラザフォード自身、線スペクトルの謎が解けるまでには、「何百年もかかるだろう」と思っていたと述べた。

ボーアの仕事がどれほど大きな事件だったかを知るためには、原子の量子論が引き起こした反応を見ればよい。1913年9月12日、英国科学振興協会(BAAS)の第八十三回年会が、バーミンガムで開かれた。それは原子の量子論が公の場で論じられる最初の機会となった。聴衆の中にはボーア自身もいたが、彼の仕事への反応は冷ややかで微妙だった。J・J・トムソン[1897年、電子を発見した]、ラザフォード、レイリー、ジーンズという錚々たる顔ぶれがそろい、外国からの著名な参加者には、ローレンスやキュリーもいた。ボーアの原子モデルについて強く意見を求められたレイリーは、「70歳を過ぎた者は、新しい理論について性急にものを言うべきではないでしょう」と社交辞令を使った。しかしそんなレイリーも、親しい人たちに対しては、「自然はそんなふうには振る舞わない」し、「そんなことが現実に起こっているとは考えにくい」と語った。トムソンは、ボーアがやったように原子を量子化する必要なないと言い、ジェームズ・ジーンズは、失礼ながら賛成しかねる、という言い方をした。ジーンズは、聴衆でいっぱいの会場で行った講演のなかで、ボーアのモデルが正当化されるためには、「非常に重みのある成功」を収める必要があるだろうと述べた。

ヨーロッパ大陸では、原子の量子論は激しい反発を買った。ある白熱した議論のさなか、マックス・フォン・ラウエは、「まったくのナンセンスだ! マクスウェルの方程式はいかなる状況下でも成り立つ。円軌道を描く電子は、放射を出さなければなりません」と述べた。ゲッティンゲンにいたボーアの弟ハーラルは、当地では彼の仕事に大いに関心が寄せられているが、彼の仮設はあまりに「大胆」かつ「荒唐無稽」だと思われているようだ、と教えてくれた。

ボーアの理論は、初期にひとつの成功を収め、アインシュタインを含めて何人かの支持を得ることができた。』 

8.相対性理論>量子論

アインシュタインにとって、数学は物理学ほど興味を持てる学問ではなかったようです。目にはみえないミクロの世界の量子は数学に頼ることが多く、「ゴリゴリの光量子信者ではありません」という自身の発言になったのだと思います。そして、アインシュタインは相対性理論を拡張するという仕事の方を優先しました。

 アインシュタインは、量子にも、光の二重性にも、容易にはなじめないと思うようになった。彼はヘンドリク・ローレンツへの手紙にこう書いた。「はじめにお断りしておきたいのですが、わたしはあなたが思っていらっしゃるような、ゴリゴリの光量子信者ではありません」。自分がそう誤解されてしまうのは、「論文にあいまいな書き方をしてしまったためです」と彼は言った。まもなくアインシュタインは、「量子は本当に存在するのか」を問題にすることさえやめてしまった。1911年11月に、「放射理論と量子」というテーマで開かれた第一回ソルヴェイ会議から戻ったアインシュタインは、もうたくさんだとばかり、量子の狂気を頭の片隅に追いやった。それから四年間、ボーアが原子の量子論をひっさげて舞台中央に登場しつつあるちょうどそのころ、アインシュタインは重力を取り込むために相対性理論を拡張するという仕事に専念するという仕事に専念すべく、量子のことは事実上棚上げにする。

株と債券

株を始めたのは入社5年目です。

きっかけは、営業管理部門から営業に移り、そこのH課長さんに「お金はわずかで良いので、勉強になるから株をやってみたらどうだ」というアドバイスを頂いたことです。確かに営業として顧客を理解する一つの手段になるのは間違いないと思い、自分自身納得して始めました。

その後、かなり長く休眠していた時もあったのですが、40歳を過ぎて「本気でやってみっか!?」という思いが何となく浮かびました。当時、オフィスがあった西新宿のお昼どきだったと思います。

マネックス証券の松本社長の著書だったか、ネットでみた記事だったかは定かではないのですが、「株をやるなら、就職したくなるような会社の株を買ったらいい」という話が頭にありました。また、営業マンだったためか「理解できる会社・業界がいいのではないか」という考えもありました。

そこで、日本HPというITの会社に勤務していたこともあり、ターゲットを外資系ITに限定し、2、3の銘柄にしぼって長期運用することにしました。株式に費やす時間は週1時間程度、「売らなければ損はしない(株が暴落しても慌てない)」、「会社経営のリーダーシップと会社方針が1番大事」という2点を最重要項目として肝に銘じ、挑戦をスタートさせました。

20年後、売買はほとんど直感頼みでしたが、幸い大きな成果を得ることができました。

そして今年、65歳になり「どうせやるなら、少しは投資家っぽくなりたいもんだ。直感頼みではなく、情報とプランに基づいて運用できるようになってみたいもんだ」との思いから、そのための準備を始め、自分なりに熟慮を重ねた結果「ひとまず、次のような方針でやってみよう」ということにしました。

1.分散投資

a)株式

 ●米国株…80%以上(テクノロジー関連限定)

 ●日本株…20%未満(3銘柄以下に絞る)

b)株式以外

 ●S&P500ETF

 ●米国債券ETF

 ●米国短期国債

2.運用

 ●長期運用

 ●リバース運用

 ●休むことも運用

3.情報源

 ●経済指標カレンダー(マネックス証券)

 ●マネクリ(マネックス証券)

 Yahoo Finance

 ●“ばっちゃまの米国株(以下のサイトは“ばっちゃま”さんに教えて頂きました)

  ●VIX(Volatility Index:恐怖指数)

  ●Fear & Greed Index 

  ●AAII Investor Sentiment Survey

  ●Put/Call Ratio(MacroMicro)

  ●finviz(MapsだけでなくNewsなど、他のコンテンツも大変充実しています)

  ●Motley Fool(“Earnings Transcripts”[決算報告]も掲載されています)

  ●CME FedWach(金利予想です。左メニュー上段、”Probabilities"をクリックして下さい)

  【永久保存版】米国株投資家の俺が広瀬隆雄氏から学んだ最強の投資法とプロの投資マインド 

4.時間

 ●基本、1日1時間以内。

☆ウォーレン・バフェットの言葉

『私はただ、明らかに他のものよりも優れていて、私が理解できるものを見るだけだ。』

強気相場は悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていく。

※以下のグラフは、DAILY FXの”Market Cycles | Phases, Stages, and Common Characteristics”から拝借しました。


長い前置きでしたが、今回のメインテーマは米国債券を理解することです。勉強させて頂いたのは、『証券会社がひた隠す 米国債券投資法』です。

著者:杉山暢達

発行:2018年1月

出版:KKベストセラーズ

目次は第3章のみ全て記述、第3章以外は大項目と中項目のみで小項目は記述していません。

ブログに取り上げたのは、黒字の個所になります。

まえがき

第1章 儲け話は山ほどあるけどリスクも山盛り

●「株価の上下は神のみぞ知る」が常識

●ノーベル賞受賞者がファンドをやったら

●運用のプロたちは本当に勝ち続けているのか?

●儲け話は「勝っても地獄、負けても地獄」そのワケとは?

●古今東西いつの時代もはびこる儲け話

●なぜ日本人は金融リテラシーが低いのか?

●年金のインフレーション・デフレーション

●かつて日本円は360円だった。為替とは「変動するもの」

●日本が「AAA」から「A」に格下げされたことの意味

●円安のカウントダウンが始まった。

第2章 なぜ日本人はタンス預金が好きなのか?

●これほど「元本」にこだわるのは、日本人だけ

●複数の銀行に預けても、「日本円」ではリスク分散にならない

●「投資信託」は運良く儲かっても手数料負け

●証券マンは胃が10個あっても足りない

●カモネギ日本人の、間違いだらけの投資法

●イソップ物語が教える運用法。最後に勝つのはアリやカメ

第3章 お金が勝手に増えていく米国債投資の仕組み

●そもそも債券って何?

・債券とは「貸金」

・ゼロクーポン債の仕組み

・日本の国債をお勧めできない理由

●元本がきちんと返ってくるのは債券だけ

・まずは元本を守るということ

・ゼロクーポン債の「収益性」

・「流動性」が資産のバランスを整える

●雪だるま式に増える複利の魅力

・お金が増える「複利」の法則

・米国ゼロクーポン債と為替リスク

第4章 ノーリスク、ストレスフリーの米国債の秘密

●米国債は1年に1度思い出すだけでいい

●米国債なら元本割れリスクはほぼゼロ

●維持費ゼロ!これが他の投資にはない米国債の強み

●どれくらいの金額で、どのように買えばいいのか

●つみたてNISAと米国債で将来不安が激減

●米国債は、農耕民族の日本人にフィットする

●40歳超でも旨味がある米国債投資法

第5章 デメリットは米国が破産したときだけ

●米国債投資に向かない人とは?

●途中解約は元本割れの可能性あり

●為替リスクは、1ドル50円を超える円高だけ

●米国債投資が向かない人

●円安が進むほど米国債投資のメリットは高まる

●米国以外の国債はどうなのか?

第6章 生命保険をやめて米国債を買う

●あなたは毎年、保険料をいくら払っていますか?

●保険商品は「定期」だけでいい?

●他の制度とうまく組み合わせること

●保険の担当者に米国債の話をしてみよう

第7章 老後の資金が毎月10万円入ってくる

●もしも65歳から年金プラス10万円がもらえたら

●米国債投資に必要なのは「口座」「キャッシュ」「スマホ」だけ

●手続きは他の金融商品のなかで、最も簡単

●古都の老舗の旦那衆も米国債は御用達

●20代からの「ズボラ年金」の始め方

●個人型確定拠出年金「iDeCo(イデコ)」と米国債

教えて!米国債 Q&A

あとがき

第1章 儲け話は山ほどあるけどリスクも山盛り

古今東西いつの時代もはびこる儲け話

・「空売り」とは投資対象(例えば“株”)を所有することなく、売り契約を結ぶこと。

※ご参考:“株の空売りの仕組みとは|シンプルな図解で分かりやすく解説

※ご参考:“株の「空売り」とは?仕組みやメリット、やり方をわかりやすく解説!

・「レバレッジ」とは株やFX、不動産投資などでよく使われる。定義は「他人の資本を活用して、自己資本に対する利益を高めること」となる。一言でいえば、「借金して投資する」ということ。「空売り」同様、リスクの高い金融商品である。

なぜ日本人は金融リテラシーが低いのか?

・海外では学校で、基礎教育として金融について学んでいるが日本では行われていない。そのため、何も勉強せずに株や投信に手を出すことは危険である。

かつて日本円は360円だった。為替とは「変動するもの」

・FXとはForeign Exchangeの略で、「外国為替証拠金取引」のことである。「日本円⇒米ドル」など通貨を買ったり売ったりしたときに発生する利益に狙う取引である。為替の上下で損得が決まるので、とてもギャンブル性が高い。

日本が「AAA」から「A」に格下げされたことの意味

・日本の格付けは高いもののトップグループではない。この理由の一つは国の借金で、2023年末には1,068兆円になると予想されている。

※ご参考:“【基礎解説】格付けとは?格付け会社や国債の格付けを紹介!

※ご参考:“日本国債の格下げ、日銀の政策転換が契機に

※ご参考:“1~2年は日本格付け変わらない、日銀正常化波乱ならリスク

※ご参考:“労働生産性の国際比較

画像出展:「ファクトから考える中小製造業の生きる道

1997年

日本:13位(34.9)

米国:11位(35.8)

画像出展:「ファクトから考える中小製造業の生きる道

2019年(22年後)

日本:20位(44.6)

米国:7位(77.0)

1997年から2019年の生産性の伸びは、日本は27.8%米国は215.0%で、米国は日本より7.7倍労働生産性が改善されました。

円安のカウントダウンが始まった

・一般的には国力の低下はその国の通貨の価値を下げる。日本は超高齢化少子化人口減少が懸念され、これらは国力低下の要因に波及するので、中長期的には円安に向かう可能性がある。

※ご参考:“アメリカ合衆国の人口ピラミッド(1950-2100) / 単位(Unit): 千人 / 2019年推計”(Youtube)

※ご参考:“日本の人口ピラミッド(1950-2100) / 単位(Unit): 千人 / 2019年推計”(Youtube)

第3章 お金が勝手に増えていく米国債投資の仕組み

そもそも債券って何?

・債券とは「貸金」

-株式は企業への「出資」になるが、債券は「貸金」になる。つまり、債券は借用証書に相当する。

-株式(出資)は、企業価値が高まるとキャピタルゲイン(株価の上昇)やインカムゲイン(配当金)が期待できる反面、株価が下がる場合もあり、上がるか下がるかは企業の業績次第である。

債券(貸金)の場合は、期間を定めて返済されるが貸金なので利子がつく。多くの債券は購入時に利子が確定しているので、満期まで保有していればいくらになって戻ってくるか明確である。従って、安全性が高い金融商品といえる。

-債券も株式同様、自由に売却ができる。ただし、その場合は流通価格で売却することになる。

ゼロクーポン債の仕組み

-「クーポン」とは債券に付随する利金ことである。「ゼロクーポン(ゼロクーポン債)」とは、利金がつかない債券を意味する。この「ゼロクーポン」は、利金はつかないが、購入時に額面金額より安く買えるという特徴がある。そのため、「ゼロクーポン」は「割引債」と呼ばれることもある。償還日には額面金額で支払われるため、その償還差益が利金の代わりとなる。

利金がつくやタイプの債券は、一般的に「利付債」と呼ばれている。「利付債」の魅力は利金がつくため、定期的な収入が得られることである。

-例えば30年物の米国ゼロクーポン債に100万円投資すると、30年後には概算で2.2倍の220万になって返ってくるイメージである(税金及び為替変動は考慮せず)。元本を減らすことなく債券特有の安全性を維持し、これだけのリターンを得られる金融商品は他に見つけることはできない。

日本の国債をお勧めできない理由

-米国より低い格付けにもかかわらず、利回りも悪いからである。ただし、為替変動のリスクはない。ただし、為替変動のメリットもない。

元本がきちんと返ってくるのは債券だけ

・まずは元本を守るということ

-債券は満期日の償還額(額面金額)が決まっているので、額面金額を受け取れる。ただし、理論的には発行元の倒産や破綻によって元本の返済や利払いができなくなることがある。そのため、高い格付けの債券を選択すべきである。

ゼロクーポン債の「収益性」

債券は途中で売却することもできる。その場合、売却価格は流通価格となる。価格が上がっていれば、途中売却による収益(キャピタルゲイン)を得ることができる。

・「流動性」が資産のバランスを整える

-米国債は世界中で売買されているので、流動性が高く売買しやすいという利点もある。

雪だるま式に増える複利の魅力

・お金が増える「複利」の法則

-単利とは元本だけに利息がつくもの。元本が100万円で単利が10%の場合、1年後は110万円、2年後は120万円と毎年元本(100万円)の10%(10万円)が加算されていく。

-複利とは元本と利息を含めた金額に利息がつくもの。元本が100万で複利が10%の場合、1年後は110万円、2年後は121万円、3年後は133万円と少しずつ増える金額が多くなっていく。

-元本1,000万円、年利10%を単利と複利について、10年後の金額で比較すると、単利は2,000万円、複利は約2,590万円になる。

米国ゼロクーポン債と為替リスク

米国債では為替変動によって日本円の価値は上下する。もし、円高によりドルの価値が下がっている場合でも、そのままドルで持ち続けることができるなら、円安になるまで待って円に換えれば為替による損失を避けることは可能である。

※ご参考:“MUFG 外国為替相場チャート表"  表示期間を“5年”にして頂くと2020年がやや円高ですが、これはコロナの影響(日本での感染の確認は2020年1月15日)が米国の方が深刻だったからではないかと思います。また、短期的にはゼロ金利の見直しにより円高傾向になると考えられますが、長期的には円高局面が長く進行することはないのではないでしょうか。

第4章 ノーリスク、ストレスフリーの米国債の秘密

米国債は1年に1度思い出すだけでいい

・米国債は「貸金」なので株や投資信託、FXのように投資対象の変化や売買のタイミングで悩んだりすることもない。基本的に「ほったらかし」で運用できる。

・米国ゼロクーポン債を売却せず償還日まで保有するのであれば、購入時に手数料相当分を支払った形になり、その後、手数料はかからない。

・株の「売買手数料」や投資信託の「販売手数料」や「信託報酬」は、米国ゼロクーポン債にはないので有利である。

米国債なら元本割れリスクはほぼゼロ

・米国債は購入時に利回りが確定する。つまり、いくらの利益($)が出るかが明らかになる。

・『たとえば、米国ゼロクーポン債を野村證券の窓口で購入する場合を考えてみましょう。28年4カ月物米国ゼロクーポン債は、購入単価が「45.52%」となっています(2017年10月時点)。つまり額面金額10,000ドルにしたい場合、4,552ドルで購入できるということです。これが割引債と呼ばれる所以です。額面金額、要するに28年4カ月後にもらえる金額は10,000ドルですが、購入時は「10,000ドル×0.4552[45.52%]=4,552ドル」で買えてしまう。それだけ事前に割引されて(利金分が差し引かれて)、販売しているということです。

ちなみに、この場合の利回りを計算すると、「2.790%」となります。安全に運用できて、かつドルベースで3%近くの利回りが購入時に確定しています。

理論上為替リスクはあるものの、これだけ分かりやすく、しかも安心して購入できる金融商品は、他にありません。』

・万一、米国が破綻する時は地球規模で危機に直面している可能性が高いのではないか。

・米国債の利回りは、米国債は絶えず市場で取引されており、その利回りは常に変化している。

維持費ゼロ!これが他の投資にはない米国債の強み

・米国債の「口座管理料」は証券会社によって異なる。有料の場合、無料の場合、金額によって口座管理料が無料になる場合があるので、事前に確認すべきである。

第5章 デメリットは米国が破産したときだけ

途中解約は元本割れの可能性あり

・途中解約は可能。ただし、その時の価格(市場価格)で売却することになるため、購入時の価格を下回る「元本割れ」になる場合もある。従って、安定を最優先にするのであれば途中解約しないことである。

米国以外の国債はどうなのか?

・米国同等以上の格付けを有している国はあるが、流動性や購入しやすさという点で考えると米国債の方が優れている。

・利付債は利金を得られる一方、複利の効果が得られにくい。貯蓄性を考えると複利効果が大きいゼロクーポン債の方が適している。

重要

「“欲ブタ”になってはいないか?」と自問する。

株をやっていて思うのはメンタルコントロールです。これはスポーツでいえばゴルフに似ているように思います。“ばっちゃまの米国株”さんのお話の中に、“欲ブタ”という言葉が時々出てきますが、英語では“Greedy Pig”となります。日本では「二兎を追う者は一兎をも得ず」に相当すると思います。また、「虻蜂取らず」ということわざもあるようです。


『市場サイクルとは、強気市場が最初から最後まで成熟し、その後、強気市場からの行き過ぎが修正される弱気市場に反転するプロセスです。市場の投機が始まって以来、これらのサイクルは同様の形で展開してきました。』

※”ばっちゃの売国株さん”がYouTubeで解説されています。

画像出展:「m3.com QOL君メルマガ株式会社リスクマネジメント・ラボラトリー

善し悪しは別にして、日本の株式投資は24年間でもあまり増えていないようです。

 

ご参考3:“投資家別の株式売買情報” 

画像出展:「西日本新聞

”個人”は約2割です。

余談

2023年7月20日から“株日記”をつけ始めました。毎日ではないのですが、発見したことや勉強になったことを書き留めています。あるいは持株が大きく下がった時などは、売るべきかか保有するべきかについて、自分なりに調べて分かったことや判断した理由を記録に残すようにしています。

10年後、「これは成功だった」と満足できる成果を上げることができたならば、“アマチュア投資家”の称号を自らに付与したいと密かに思っています。

デンマークのスマートシティ5

著者:中島健祐

発行:2019年12月

出版:学芸出版社

目次は”デンマークのスマートシティ1”を参照ください。

6章 イノベーションを創出するフレームワーク

1.オープンイノベーションが進展する背景

厳しい風土が育んだ異業種連携

・デンマークのオープンイノベーションは、文化風土、産業の歴史と密接に関係している。

・天然資源が乏しく、人口の少ない国であり、厳しい自然の中で暮らすために人々は必然的にお互いに協力しあうという文化を育んできた。酪農を営むためは関係者が協同することが不可欠であったし、家具や建築の世界も連携する必要があった。

複雑化する社会に対応できないシステムの更新

・デジタル化によって各分野の個別システムがつながり、複数の分野を同時に考慮した最適化が行われないと、暮らしやすい都市はつくれないが、現実には行政組織は部門ごとに縦割り組織になっているので、柔軟に対応することができない。

現代は19世紀につくられた法制度に基づく社会システムの上で、20世紀のビジネスモデルを展開し、そこに21世紀の技術を使おうとしている状況になっているので、さまざまな矛盾が現われている。こうした、時代遅れの社会システムを現在に合う形に再構築するには、異なるセクターの知見を組み合わせたオープンイノベーションが欠かせない。

2.トリプルヘリックス(次世代型産官学連携)

・デンマークではPPP(公民連携:Public Private Partnership)によるスマートシティ・プロジェクトの推進やイノベーションの創出で民間のノウハウを取り入れている。

・コペンハーゲン市はPPPを推し進めるために2009年、コペンハーゲン投資局、広域コペンハーゲン、ジーランド地域が連携して「コペンハーゲン環境技術クラスター」を設立した。このコペンハーゲン環境技術クラスターが特に力を入れていたのが、「トリプルヘリックス(Triple Helix、デンマーク型産官学連携)」である。

デンマークのトリプルヘリックスは、公的機関、民間企業、研究機関がダイナミックに連携してプロジェクトを進める。日本では各機関からの出向となるが、デンマークでは、このクラスターの正規雇用者となる。

・クラスターの運営責任者はプロジェクトの企画書を作成し、国や自治体、民間企業から出資を募り、プロジェクトを実行する。運営責任者は自身の給与もプロジェクトを通じて捻出しなければならないので、必然的に企画力、関係者を巻き込むコミュニケーション力や交渉力に長けている人材が雇用される。

クラスターに腰掛けでいる人はいない。それぞれの職務責任も明確なので、結果を出すことに真剣になる。

・このトリプルヘリックスの成功事例としては、コペンハーゲン市やオーフス市のスマートシティ・プロジェクト、オーデンセ市のロボット・プロジェクトなどが挙げられる。

3.IPD(知的公共需要)

・IPDはPPPを高度化した手法である。特に複雑で革新的な要素を取り入れた公共プロジェクトを計画・実証し、大規模なインフラソリューションを調達・導入する際に有効であるとされている。

4.社会課題を解決するイノベーションラボ

マインドラボ

・「マインドラボ」はデンマークのフューチャーセンター(世界中で展開され、イノベーションを創出する手法として一般化されている)であり、2002年、経済商務省のインキュベーション組織として立ち上げられ、最後は産業・ビジネス・財務省、雇用省、教育省と3省庁の管轄になった。

マインドラボは、省庁横断的に社会問題を解決するための政策を設定し、ソリューションを開発、それらを社会実装することを目的に設立された。加えて国と自治体を結びつけ、さまざまな利害関係を統合する横断的なプラットフォームとしての機能を持つ。

・マインドラボは2018年に閉鎖され、よりデジタルに特化した組織の「破壊的タスクフォース:Disruption Taskforce」に引き継がれた。

※ご参考:“デンマークの公共部門におけるデザイン思考の実践―クリスチャン・ベイソン氏講演内容より―”

ブロックスハブ

「ブロックスハブ」は多様な企業や研究者がより良い都市づくりのソリューションを創出するためのイノベーション・ハブである。

・2016年に建築や都市プロジェクトを支援する民間組織「リアルダニア」、コペンハーゲン市、政府の産業・ビジネス・財務省により設立され、2018年から運用を開始した。

・ブロックスハブは未来のスマートシティ・ソリューションの戦略拠点であり、多国籍企業にとってデンマークや北欧市場へのゲートウェイとして位置づけられている。

・世界中に似たような組織やイノベーションセンターはあるが、異分野横断的な連携を実現できている組織はまだないというのがブロックスハブ幹部の見解(2018年9月)である。それをコペンハーゲンでつくりあげて世界に還元していこうというのがブロックスハブの狙いである。

※ご参考:“BLOXHUB

5.イノベーションにおけるデザインの戦略的利用

ユーザー・ドリブン・イノベーション

・デンマークでは2010年前後からイノベーションに注力した取り組みを強化しているが、多くは技術主導型のイノベーション議論が中心であった。一方、利用者をイノベーション・プロセスに巻き込むべきとの認識が高まり、デンマークでは伝統的に人間中心の考え方が浸透していたこともあり、その考え方を体系的にまとめ方法論として組み立てられたのが、「ユーザー・ドリブン・イノベーション」である。ただし、これはデンマーク固有のものではなく、フィンランドやスウェーデンなど他の北欧諸国でも取り組まれている。

デザイン・ドリブン・イノベーション

・ユーザー・ドリブン・イノベーションはユーザー自身が経験していないもの、認知していないものには対応できないという限界がある。そこで出てきたのが、デザイン・ドリブン・イノベーションである。

・アップルウォッチなどのウェラブル製品もデザイン・ドリブン・イノベーションで新たな価値を創出している。

データ・ドリブン・イノベーション

・デザイン・ドリブン・イノベーションと並行する形で取り組まれているが、「データ・ドリブン・イノベーション」である。デンマークにはオープンデータの形でビッグデータが豊富にあり、それを利用できる環境にあるので、データを有効活用してイノベーションを創出するという取り組みである。

日本とは異なり、デンマークのビッグデータは、業種や組織を横断したオープンデータである。

デザインドリブン・イノベーションから新たな展開へ

デンマークは人工知能や量子コンピュータでも世界トップクラスの研究を行っている。人工知能についてはXAIと言われる説明可能な人工知能を、社会インフラに導入し、さらに先進的かつ高度化したデンマークシステムを構築するべく、実証実験を進めている。また、量子論の育ての親とされる、理論物理学者ニールス・ボーアが設立したニールス・ボーア研究所では量子コンピュータの研究開発が行われている。

こうした動きを反映して、デンマークでも従来のデザイン・アプローチでは社会システムの変革を導くことは難しくなりつつあると認識しているデザイナーは、デザインを軸に、ビッグデータ+科学+ビジネスモデル+政府&市民を融和した総合的な価値体系の確立を模索している。

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

6.社会システムを変えるデザイン

・デザインの戦略的利用の他に、社会システムを変える「ソーシャルデザイン」の取り組みがある。その誘因はデジタル化とIoTなど技術の進展と複雑に絡みあう課題である。

・デンマークは2018年に世界電子政府進捗度ランキングで1位になった。その評価項目の中で行政管理の最適化、オンライン・サービス、ホームページの利便性、オープンデータ活用で1位になっているが、これらの高評価の背景には、ソーシャルデザインが行政部門に浸透していることが関係している。

ソーシャルデザインが重視されているのは、都市の中で相反する課題を同時に解決しなければならず、社会システムから生みだされた課題は、社会システム自身を変えない限り解決することは難しいからである。なお、相反する課題とは、高齢化対応と質の高い社会福祉サービス、都市化と移民問題、スマートシティの推進とグリーン成長の実現、移民に対する人道的な対応とナショナリズムへの対策などであり、いずれも非常に難しい舵取りに直面している。

社会システムの設計に必要な要素は次の4つである。

1)成果への集中:公共サービスを社会に実装し、具体的な成果を見える形で提示すること。

2)システム思考:問題と利害関係者の相互関係を把握し、複雑化する社会課題を横断的に俯瞰しながら管理できる能力。

3)市民の参加:単発の市民参加イベントではなく、市民生活の深い洞察を通じて、供給者である行政の目線と需要者である市民の目線の調和を図ること。

4)プロトタイプ:少ないコスト・資源で高い価値をもたらすために、素早い実証と可能性のあるアイデアの改善。

デンマークでは、ある意味これを実現するために、「マインドラボ」で実験が行われ、「IPD(知的公共需要)」の体系が試され、そして「ブロックスハブ」の取り組みが始まったと言えるかもしれない。そのフレームワークはまだ確立されていないが、デンマークの取り組みを見ているとかなりノウハウと知見が蓄積されていると思われる。

・最近では、デンマーク・デザインセンター(DDC)」が公的セクターにデザイン手法を取り入れたイノベーションの実現とそれによる新たな社会システムの実現を目指している。元マインドラボの幹部で、DDCのCEOに就任したクリスチャン・ベイソンは、これを「パブリックデザイン」と呼んでいる。

DDCが強調していることは、リーダーシップの重要性である。人間中心でイノベーションを実現するソーシャルデザインを推進するためにも、公共の利益に基づくリーダーシップがなければ適切な組織をつくることはできないし、組織をまとめあげることもできない。これらを実現するために、2019年から行政や企業の幹部を対象にしたソーシャルデザインのリーダーシッププログラムがある。

※ご参考:“国営デザイン・コンサルファーム DDCの全貌 ― クリスチャン・ベイソンさん

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

7章 デンマーク×日本でつくる新しい社会システム

1.日本から学んでいたデンマーク

なぜ、デンマーク・デザインは愛されるのか

・デンマークの企業は従来の「意匠としてのデザイン」から、開発段階で異なる要素を統合する「プロセスとしてのデザイン」を追求するようになり、ここ数年はデザインがビジネスモデルで重要な戦略要素の一つになってきている。政府は、さまざまな社会課題を分野・組織横断的に解決する手段として、デザインの戦略的利用を推進している。

・デンマーク・デザイン協議会が定めたデンマーク・デザインのDNAは10の価値で構成されている。

※ご参考:“DANISH DESIGN DNA"

ご参考:“DANISH DESIGN DNA RESOURCES"

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

●日本からの影響

・デンマーク・デザインは1880年代に日本の工芸品や美術品の技術、特徴、職人技を学習し、一度その技法を真似た上で、そこに北欧独自の表現を加えて新しい体系をつくりだしたという経緯がある。これは現代のイノベーション・プロセスとまったく同じである。

・2017年の日本デンマーク外交関係樹立150周年を記念して、2015年から2018年1月までコペンハーゲンのデンマーク・デザインミュージアムにて「Learning from Japan展」が開催された。

・禅の影響も大きいとされている。簡素で装飾のない室内、そこに流れる静謐で調和した空間、枯山水の考え方が、デンマークで花壇などが減少する要因になったとされている。

※ご参考:“【北欧だより8】Design Museum『Learning from Japan』展

2.デンマークと連携する日本の自治体

なぜ、日本の自治体はデンマークに注目するのか

・日本では2014年に「まち・ひと・しごと創生法」(地方創生法)施行後、雇用創出、新産業の育成を行うべく取り組んではいるが地元ならではの特徴を活かしたプロジェクトを生みだせていない状況がある。こうした日本の自治体がデンマークに注目するのは、スマートシティの分野で世界的に高い評価を得ていること、意外にも観光、農業だけではなく、ICT、ロボット、ライフサイエンス分野においても発展し、そして洗練された社会保障制度に基づく高齢者福祉が充実していること、日本の自治体と同程度の面積、人口でそれらを実現している点にある。

3.北欧型システムをローカライズする

フレームワークの輸入で起こるギャップ

日本での顕著な失敗例は、海外で開発されたフレームワークを日本語化してそのまま利用する方法である。他国の異なる理念、制度、システムを導入しても日本の現状とのギャップの大きさにより破綻してしまう。

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

4.新たな社会システムの構築

量子コンピュータ×人工知能がつくる未来への準備

・既に膨大なビッグデータは様々な可能性を有している。エクサスケールのスーパーコンピュータは、仮説の立案と検証サイクルを無限に回すことが可能である。これにより、医療、健康、エネルギーなどの問題解決に必要なソリューションを現場で実証せずとも開発することができるようになる。

・デンマークでは2017年に「技術大使」というポジションを創設し、デンマーク、シリコンバレー、北京に拠点を開き、先端技術の動向と社会に与える影響を分析する体制を整えている。ビッグデータ、人工知能、ブロックチェーン、量子コンピュータの開発を踏まえて人間中心型社会をサイバー攻撃から守り、新しいサイバー社会における人権の確立、新技術の倫理規定、さらにはサイバー空間における差別や格差の排除、そしてデジタル課税にも踏み込んだ研究と議論を進めている。

・デンマークは数十年先の社会を見据えて国家ビジョンを定め、小国が国際社会の中で持続的に存在しリーダーシップを発揮する戦略を構築していることを想定すると、このデンマークが考えている30年後の近未来に対する準備は、かなり現実的なアクションである。

感想

デンマークの面積と人口は北海道のおよそ半分。人口密度は北海道の約2倍です。一方、「2023年の世界経済競争力ランキング」の第1位はデンマーク。日本は35位でした。

この差は何か、本書内のデンマークに接すると、次のようなことではないかと思います。

一つは、自国を大切に思っている人、国の将来を真剣に考えている人の割合が、デンマークは日本より圧倒的に多いからだと思います。ここには、納得するまでは決して妥協しないというデンマークの人達の信念を感じます。なお、これは選挙の投票率からも推測できます。

※ご参考:“平均投票率86%、デンマークの若者は呼びかけなくても選挙に行く。「幸福の国」成り立たせる“小さな民主主義

そして、二つ目はリーダーシップです。“改善”は現場、ボトムアップでも十分に進みますが、“改革”は「ヒト・モノ・カネ」を考えることができる立場と実力を兼ね備えた人がリーダーにならないと、ダイナミックな推進は困難です。プロジェクトは迷走します。これが“改善”はできてても“改革”は進まず、35位にまで下がってしまった日本が抱える大きな課題ではないかと思います。なお、このリーダーシップの問題には過剰な忖度など、オープンとは言い難い日本特有の閉鎖性や年功序列的発想が障壁になっているケースも多いように思います。

※ご参考:“リスクよりも責任を恐れる日本人:正しい失敗を許容する社会へ

※ご参考:“人はなぜ失敗を恐れるのか。失敗の正体と正しい生かし方

デンマークのスマートシティ4

著者:中島健祐

発行:2019年12月

出版:学芸出版社

目次は”デンマークのスマートシティ1”を参照ください。

5章 デンマークのスマートシティ

1.デンマークのスマートシティの特徴

デンマークと日本のスマートシティの比較

・国土交通省のスマートシティモデル事業の公募(2018年)や内閣府が国家戦略特区制度(2020年)を活用して2030年頃にスーパーシティを実現するという構想がある。これらは2010年から2015年頃にかけて、各地で展示会が開催され、実証プロジェクトが行われ、その後、ほとんどその言葉は聞かれなくなっていたものである。

・アメリカ、カナダでは大規模なスマートシティ・プロジェクトが継承されている。

・欧州ではスペインで「スマートシティエキスポ世界会議」が毎年開催されている。

※ご参考:“拡大する「スマートシティ」投資、カナダとアメリカで顕著

※ご参考:“都市間協力で脱炭素・持続可能な未来へ

※ご参考:“スマートシティEXPO世界会議

・デンマークと日本の比較で大きく異なるのは2つある。一つはデンマークのスマートシティは定義が広いこと。もう一つはスマートシティをつくることが目的ではなく、都市の課題を解決するための技術やソリューションを開発し、それらを都市に導入することにより課題を解決することが真の目的となる。それにより、出来上がった新しい都市をスマートシティと呼ぶ。

・日本のスマートシティの議論は、スマートグリッドやBEMS(ビルエネルギー管理システム)などのエネルギー・ソリューションに関係するインフラ整備が中心で、都市のインフラ技術を開発して産業を促進させるのが主目的である。

・デンマークでは都市計画、エネルギー政策、環境政策に加えて市民サービスが相互に関連して議論される。スマートシティ構想は必然的に大きなものとなる。持続的な廃棄物管理、交通などのモビリティ、水管理、ビル管理、暖房と冷房、エネルギー、ビッグデータなど、包括的なアプローチとなる。

デンマークでは住民が優先される「人間中心」であるが、日本は「産業中心」である。その参加者は地方自治体、電力会社、IT企業、ゼネコン、ハウスメーカーなどが参加する。デンマークでもこれらの団体は参加するが、これらに加え、大学などの研究機関、建築家、デザイナー、文化人類学者、そして市民がメンバーに加わって進められる。

・『あるデンマークの自治関係者に、どうしてデザイナーや文化人類学者が参加しているのか聞いたところ、彼は「都市は、行政、企業だけでなく、芸術家、音楽家、市民などが活動する場だ、産業だけでなく、こうした多様な人たちの視点を取り入れることが、豊かな都市をつくるために必要だから」と言っていた。』

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

デンマークのスマートシティのビジョン

スマートシティは住みやすさと持続可能性、そして繁栄の実現を目的として、革新的なエコシステムに市民の参加を可能とするしくみを構築し、デジタルソリューションを活用する社会である。大切なことは、新しい技術と新しいガバナンスが、ソリューションそのものよりも、市民にとって福祉と持続的な成長の手段になるということである。

この定義で参考になるのは、エコシステムもソリューションも手段であって目的ではなく、目的は市民にとっての福祉、そして持続的成長を明確にしている点である。以下がスマートシティのフレームワークである。

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

・ビジョン、目的は「住みやすい都市をつくり、持続可能性と成長を実現する」こと。

・住みやすさを実現する要素であるグリーン項目は6つ、“廃棄物”、“モビリティ”、“水”、“ビルディング”、“冷暖房”、“エネルギー”。

・グリーン項目を実現するための基盤(デジタルソリューション)が、“Date Platform”、“Big Data”、“IoT”、“Security & privacy”である。

・このスマートシティを実現させるためには、必要なシステムやソリューションを開発する必要がある。これを担うのが横断的に機能する“リビングラボ”である。そして、海外都市との連携による経験とノウハウを共有するパートナーシップを構築することを挙げている。

・リビングラボは市民が参加するオープンイノベーションの場であり、新たな技術やサービス開発の過程で行政、企業、市民が共創して主体的に関わりながら課題解決の道筋を探るための活動拠点のことである。国際的に協業しながらこれらの技術を組み込んだ包括的かつ人間中心のフレームワークを構築することに注力している。なぜなら、デジタル化で統合された社会では、一つのソリューションがITシステム、ヘルスケア、セキュリティなど複数の問題を同時に解決する可能性がある一方で、複雑な問題は官民が連携して制度面、技術面、ノウハウ面で組織横断的かつ組織の枠組みを越えた協業が必要となる。

ビッグデータの活用

・デンマークでは2013年から電力セクターが系統データを収集しており、また、2020年までにすべての世帯でスマートメーターの設置が義務づけられているので、今後は電力だけでなく、水、暖房などのインフラ系データが収集され、最終的にはそれらのデータをサービス向上という価値に変え国民に提供される。

2.コペンハーゲンのスマートシティ

・コペンハーゲン市は人口約61万人(2018年)、日本だと千葉県船橋市とほぼ同じ規模である。1990年中頃以降急速に開発が進んでいる。

CPH2025気候プラン

・コペンハーゲン市のスマートシティは、2012年に策定されたエネルギー計画「コペンハーゲン2025気候プラン」と密接に結びつている。

カーボンニュートラルな都市をつくるためには、エネルギー計画だけで達成することは不可能で、交通システム、廃棄物管理、冷暖房システムなど、都市を構成する多様な要素を横断的に解決する必要がある。CPH2025気候プランにはスマートシティに関係するエネルギー消費、エネルギー生産、交通(モビリティ)が含まれている。

・市民はエネルギー消費の削減、電気や熱の燃料費の削減を実践するだけでなく、自宅で使用するエネルギーをグリーン対応にすることで、将来エネルギー価格が上昇した場合でもそのインパクトを最小限にすることができる。そして健康で快適な暮らしを送れることを理解している。

・市民1人1人の行動の積み重ねこそがカーボンニュートラルを達成できる原動力であることを、このプランに関わる人が共有している。

グリーン成長

・デンマークでは「グリーン成長」という言葉がよく使われる。コペンハーゲンでもグリーン成長をCPH2025気候プランの中心に据えており、カーボンニュートラルとグリーン成長を同時に実現することが重要だとしている。日本では環境問題と産業政策は別次元で扱われることが多いが、デンマークではエネルギーと環境問題を解決しながら、その結果として産業を含めた地域の経済的発展を実現するアプローチをとる。

※ご参考:“コペンハーゲンのプランがすごかった!:気候プランとスマートシティ戦略

※ご参考:“サステナブルな都市計画の例 コペンハーゲン”(pdf28枚)

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

CPH2025気候プランに挙げられたスマートシティに関するソリューション

①デジタル・インフラストラクチャー

-エネルギー消費のモニタリング(特に建物のエネルギー消費の管理)を行う。

-アクセス可能なオープンなデジタル・インフラストラクチャーを構築する。

-市内の建物のエネルギーと水の消費量をリモートメーターで管理する。

②エネルギーの柔軟な消費とスマートグリッド

-スマートグリッドは複数の再生可能エネルギーの需給調整をフレキシブルに調整する。また、市民、企業、市は再生可能エネルギーを選択して利用することができる。

③スマートビル

-IT技術により、エネルギー効率、柔軟性とエネルギー管理を行う。

④スマートCPH

-コペンハーゲンのCPHと水素のH₂を掛け合わせた水素プロジェクト、風力発電の余剰電力で生産された水素を、交通のエネルギー問題解決のソリューションと考えている。

⑤クルーズ船へのオンショア電気の供給

-クルーズ船はドック係留中にエンジンで発電し電気を供給しているが、陸上で発電したオンショア電気を供給することで環境問題を解決する。これは局所的な小さな問題だが、このような領域にも焦点をあてて取り組んでいる。

最先端の地域熱供給

・地域熱供給は、「CPH2025気候プラン」を達成するための重要なエネルギーシステムである。熱導管を通じて、地域の住宅・施設に熱を送り、暖房・給湯に利用するシステムである。

・デンマークで地域熱供給システムが普及したのは、政府による普及のためのコミットメントと規制プロセスなど具体的な政策の効果が挙げられる。また、洋上風力発電の拡大で、余剰電力が問題となっているが、熱電併合プラントの畜熱槽に熱として貯蔵することで有効活用することができるようになる。

・最近コペンハーゲンで進められているのが地域冷房である。温暖化の影響でデンマークでも30℃近くなることもある。コペンハーゲンでは、海水を利用した冷却システムを利用している。個別の冷房と比較して二酸化炭素の排出量を70%削減し、総コストの40%削減を実現している。

DOLL(デンマーク街灯ラボ)と都市照明

LEDを利用した高度な照明システム

-コペンハーゲンはスマートシティを構築する上でLEDを利用した高度な照明システムに力をいれている。

-街灯柱はセンサーや通信インフラを設置すると、広域に対応したスマートシティインフラになる。

・グリーンエコノミーを推進するゲート21

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

-ゲート21(Gate21)はスマートインフラを推進するために、コペンハーゲンの各自治体、企業、研究機関が連携した非営利のパートナー組織であり、まさに産官学連携のプロジェクトである。

ゲート21のミッションは、リビングラボでテストしたり、現場での実証プロジェクトを通じてエネルギーや資源効率化に関係するソリューションを開発したりすることである。注力するのは次の6領域。

1)建物と都市

2)交通

3)エネルギー

4)循環経済と資源

5)グリーン成長

6)スマートシティ

そして、プロジェクトを通じて、グリーンエコノミーへの移行を促進する事業機会を見出すための、新技術、サービス、プラットフォーム、ツール、プロセス、スキルを開発して支援することを目指している。

・DOLL(デンマーク街灯ラボ)

-DOLLはDenmark Outdoor Lighting Lab)は、“リビングラボ”(市民が参加するオープンイノベーションの場であり、新たな技術やサービス開発の過程で行政、企業、市民が共創して主体的に関わりながら課題解決の道筋を探るための活動拠点)の一つ。スマートシティで新しい技術やソリューションを開発するためのプラットフォームとして、2013年にコペンハーゲン近くアルバーツルンド市に設立された。

DOLLでは、都市照明に関する世界中の先端技術とソリューションを見ることができる。

-DOLLには世界の照明ベンダーやIT企業が参加しているので、技術や都市照明の各ソリューションの比較検討もできるので、DOLLに行けば多くの課題を解決できる。

-DOLL(リビングラボ:活動拠点)のようなプラットフォームは、デンマークが得意とするもので、少ない予算、人材、資源を有効活用するために特定の場所に必要な資源を集積させて、世界でもトップクラスの技術開発、実証、社会実装を行う手法である。

-DOLLは、DOLLリビングラボ、DOLLクオリティラボ、DOLLバーチャルラボという、3つの研究所から構成されている。

・デジタルインフラ

-実証用にWiFi、LoRa、WAN、Sigfox、UNB、NB—IoT、5Gなどさまざまなワイヤレスネットワークを完備しており、都市のネットワーク環境に合わせたデジタルインフラを選定して実証することができる。

※ご参考:“コペンハーゲン首都圏のスマート都市照明

フィンテック

・キャッシュレス化が当たり前の社会

-フィンテック(FinTech)はデンマークでもコペンハーゲンを中心に盛り上がりを見せている。

-フィンテックは米国、シンガポールなどが力を入れており、欧州ではイギリスが国際的なフィンテックセンターとしての役割を担うべく台頭している。

コペンハーゲンフィンテック

-「コペンハーゲン・フィンテック」の目的は、フィンテックのエコシステムを展開し、グローバルな金融サービス産業で主導的なフィンテックラボを形成すること、そしてデンマークの経済成長につなげることである。

-フィンテックの事業化、既存の金融機関、公的機関そして大学などの研究機関がビジョンを共有し連携するエコシステムを形成している。

※ご参考:“Copenhagen Fintech

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

スマートシティの実験場、ノーハウン

・2005年、デンマーク政府とコペンハーゲン市はノーハウン地区の再開発で合意した。最終的に4万人が暮らす現代的な居住地区とビジネス地区が共存する、コペンハーゲンの新たなウォーターフロントとなる予定である。

※ご参考:“Cobe Nordhavn

・ノーハウン(Nordhavn)のビジョン

ノーハウンのビジョンは、スマートシティのビジョンと同期している。ビジョンは6つに分かれ、地域の持続可能性に加えて、多様性、快適性、人間中心の考え方が組み込まれていく。

①環境に配慮した都市

②活気に満ちた都市

③すべての人のための都市

④水の都市

⑤ダイナミックな都市

⑥グリーン交通の都市

・ノーハウンの開発戦略

-ノーハウンをスマートシティにするための開発戦略は6つのテーマに分かれている。

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

①島と運河

-イタリアのヴェネチアをイメージしたスマートシティ。

②アイデンティティと歴史

-ノーハウンの歴史(150年に渡る歴史と100年以上の建物)と港湾地区の特徴を考慮した開発。

③5分間都市

-徒歩か自転車で行けるコンパクトで高齢者に優しい街を目指している。

④ブルー&グリーンシティ

-ノーハウンでは市民が水と直接触れ合うことを重視した設計になっている。これは日本との大きな違いである。ここには自己責任の考えた方が浸透しているデンマークならではのアプローチである。

⑤二酸化炭素にフレンドリーな都市

-再生可能エネルギーによる発電、熱供給システムでの暖房、海水を利用した冷房システム、廃棄物の再利用、雨水の再利用はゲリラ豪雨対策を兼ねている。

⑥インテリジェント・グリッド

-これはノーハウンの小島をマス目のように分割し、柔軟なビルディングゾーンとして設計する。これにより、マス目単位の変更が可能で、大規模な全体設計を避けることができる。

3.オーフスのスマートシティ

・オーフス市は人口34万人(2018年)、デンマークで2番目に大きな都市である。群馬県前橋市とほぼ同じ大きさ。

・オーフスでもコペンハーゲンと競うようにスマートシティを推進している。

・オーフスでは2030年にカーボンニュートラルの都市をつくる。オーフスのスマートシティの特徴は、伝統や文化を尊重した取り組み、ヘルスケアや福祉に関するプロジェクトもスマートシティに含まれている。

スマートオフィス

・スマートオーフスのビジョンと目的

ビジョンは、パートナーシップに基づいた都市開発のための北欧モデルを国際的に主導すること。

-デジタル技術の功罪を理解した上で、持続的成長とイノベーションを実現する。そして、異なる利害関係者を巻き込みながら社会に価値をもたらし、社会、環境そして経済の課題を解決するというものである。

※ご参考:“スマートオーフス

4.オーデンセのスマートシティ

・オーデンセ市は人口約17万人(2016年)、デンマーク第三の都市で自治体では立川市や鎌倉市とほぼ同じ規模である。デンマークでも最も古い都市の一つで、アンデルセン生誕の地として知られている。

-オーデンセ市は、エネルギーや交通などに注力するコペンハーゲン、文化を取り込んだスマートシティを標榜するオーフスと差別化するため、オーデンセが得意とする領域、ロボット、ドローン、ヘルスケア(特に福祉技術)に焦点を当てたプロモーションを行っている。

オーデンセがユニークなのは、福祉技術を含めたヘルスケア・ソリューションを実証実験できるリビングラボ「コーラボ」をオーデンセ・ロボティクスが入るセンター内に設置していることである。

-コーラボには自宅、かかりつけ医、病院、介護施設のモックアップが設置されており、デジタル機器を開発する際、異なる環境でも一貫性のあるユーザーインタフェースをデザインしたり、医者、介護士、作業療法士などが連携して患者に対応する場合に最適な作業プロセスを検証したりすることができる。また、病院の手術室や病室も再現されており、実際の執刀医が立ち会い、手術の模擬テストを通じて医療機器やソリューションの評価を行うことができる。

※ご参考:“Invest in Odense

※ご参考:“Odense robotics

デンマークのスマートシティ3

著者:中島健祐

発行:2019年12月

出版:学芸出版社

目次は”デンマークのスマートシティ1”を参照ください。

3章 市民がつくるオープンガバナンス

1.市民が積極的に政治に参加する北欧型民主主義

コンセンサス社会が実現する民主主義

・イギリスのエコノミスト社の調査部門であるエコノミスト・インテリジェンス・ユニットが2006年から民主主義指数なるものを発表している。

・デンマークを含む上位国と日本の差は、「選挙プロセスと多元性」「政治的な参画」が大きい。

・日本では、ビジネスの打ち合わせや会食中に政治や宗教の話題は避けられるが、デンマークでは政治の話はご普通であり、選挙が近づくとかなり踏み込んだ議論が行われる。これは自国に限らない。日本の選挙や政治について質問されることは珍しくない。

※ご参考:2021年世界の政治民主化度 国別ランキング (注)出展・参照:“世界銀行”

デンマークの民主主義の歴史

・デンマークは1849年に君主制度が廃止され、現在のデンマーク王国憲法が制定された。市民が王政に終止符を打ち、民主主義を勝ち取ったという経緯があり、これがデンマークの民主主義の基盤となっている。

デンマーク型の民主主義とは、「情報をもとに自分で分析し、公平に準備された政策決定プロセスに参加し、自ら決断する。そして自己責任の原則で最終的な結果を受け入れる」。

高い税負担が政治参加を促す

税負担が高いため、国民は税金が公平公正に使われているか政治を厳しくチェックする。

※ご参考:“国民負担負担率の国債比較(OECD加盟36カ国) 出展:財務省主計局

上記を見ると、デンマークは3位(65.9%)です。日本は22位、英国は25位、スウェーデンは12位です。

「高齢化を背景に大きく伸びて、欧州諸国との差は縮小」とのことです。 

画像出展:「ニッセイ基礎研究所

2020年 

日本:47.9%

英国:46.0%

スウェーデン:54.5%

 コンセンサスを育む教育

・北欧型民主主義の特徴である「コンセンサス社会」は、子供からの教育も大きな役割を担っている。

デンマークの基礎教育は0~10学年まであり、基礎学力の習得だけでなく、自立した人間をつくるために自分の考えを言葉で表現し討論する授業や、異なる考え方や意見を尊重し、トラブルを解決しながらコミュニケーション力を伸ばす授業もある。そして言葉、文化、地域の異なるバックグラウンドを持つ生徒たちの多様な意見をまとめて自分たちなりの合意、つまりコンセンサスをつくりあげることに力を入れている。

・『友人のデンマーク人によると、デンマークでは選挙が近づくと憂鬱になる家庭があるらしい。デンマークでは子供が中学生になると、自分の意見を持ち、社会のしくみも理解して一筋ではいかなくなることから、「子供がモンスターになった」と言われたりする。そして選挙が近づくと、そのモンスター化した子供が社会の授業で、政治家の過去のマニフェストや選挙公約をどれだけ実現できたか調べたりする。そして、次期選挙の公約を政党ごとに表でまとめ比較検討して、自分たちの地域をどのようにしたいかについて議論をする。当然、子供たちは親に自分たちの意見を伝え、親の意見を求める。その時に子供の意見に対してどう考えるのかを回答できないと、親の権威が失墜してしまう。親は、仕事や家事が終わった夜、子供が授業で行ったように政治家の経歴、実績、政治信条を調べ、マニュフェストを確認し、政治家としての実行能力なども確かめて、子供と同じ目線で議論できるように準備しなければならない。ある日、友人の目が赤いのでどうしたのかと聞くと、夜中に政党の公約を調べていたので寝不足だと笑っていた。

こうした政治参加は、選挙の投票行動に反映され、より強固な民主主義の基盤がつくられる。』

2.市民生活に溶け込む電子政府

デジタル国家のトップランナー

・EUはデジタル化について毎年、「デジタル経済と社会指数(DESI)」という調査を行っており、デンマークは2014~2018年、5年連続で1位になった。(2022年は僅差の2位。1位はフィンランド) 

画像出展:「欧州連合

1位:FI(フィンランド) 

2位:DK(デンマーク)

・「デジタル経済と社会指数」は5つの評価項目でランキングしている。「ブロードバンドの接続性」「デジタルスキルを含めた人的資本」「インターネットサービスの利活用」「デジタル技術の統合」「デジタル公共サービス」である。

デンマークのデジタル化で最も特徴的なのは「デジタル技術の統合」の点で、他国より秀でている。つまり、政府の公共サービスの電子化だけでなく、デジタル技術の統合により、都市を構成しているエネルギー、交通、農業、医療、福祉、教育に至るまで、進展度合いに違いはあるにせよ、基本的に統合されたデジタル化が展開されている。

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

 

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

 

質の高い社会サービスを実現するデジタル化

・デンマークのデジタル技術の統合に優れているのは、社会制度とデジタル化に関する歴史と政策を見る必要がある。

・1910年代から福祉国家として制度の充実を図ってきた。

・1950年代の黄金期を経て、1990年以降はフレキュシリティなど積極的な労働市場政策に基づく福祉国家の再編を行ってきた。そして、グローバル化、高齢化に伴う労働人口の減少に対応し、福祉サービスの水準を維持するためにさまざまな改革を行ってきた。また、インターネットの普及に伴い、デジタル技術の積極的な利用により、労働不足に伴う公的機関の効率性向上とサービス水準の高度化を同時に行うことを検討されてきた。

市民生活に溶け込む電子政府

・デンマークでは2001年から中央政府、広域自治体(レギオン)、基礎自治体(コムーネ)との連携や複数のデジタル化戦略を経て進められてきた。

・2000年初頭の電子署名の導入により、市民は公的機関と電子メールでやりとりができるようになった。その後、税金還付や年金受給のための公共決済口座であるNemKontoが開始され、同時期には先進的な医療ポータルであるsundhed.dk、そして市民に電子政府の利便性を提供する市民ポータルのborger.dkが2007年にサービス提供を開始した。そして現在(2019年)は、スマートフォンなどモバイル端末の普及によって2007年に導入されたNemID(新電子署名)に代わる、電子政府の新アクセスIDの導入を進めている。

・デンマークの電子政府は、医療ポータルsundhed.dkと市民ポータルborger.dkの導入が鍵だった。

・市民ポータルborger.dkは、2000年代に構築された、官庁ごとに異なる行政システムをセルフサービス型の一本化されたシステムとして導入された。このポータルが優れているのは、市民が生活に必要な行政情報のすべてをこのポータルから取得することができ、教育、福祉を含めた多様な申請手続きを行えることである。また、マイページにアクセスすると住居・転居、税金、年金、教育などに関する情報をいつでも閲覧することができる。つまり、このborger.dkを活用すれば、行政機関の窓内に行くことはほとんどなくなる。

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

3.高度なサービスを実現するオープンガバメント

透明性の高い政府の実現

・デンマークでは特にオープンガバメントが進んでいる。「オープンガバメント・パートナーシップ」とは、市民と政府の協力のもと、政府の透明性を向上させ、市民参加によりエンパワーメントを図り、新技術とイノベーションを活用してより良い政府をつくることを目的とした多国間イニシアチブである。

オープンデータ・デンマーク

・デンマークの特徴的な取り組みは「オープンデータ・デンマーク」である。政府が民間に頼ることなく全面手に社会福祉サービスを担っているため、それ関わるデータ量は膨大である(ビッグデータ)。日本のマイナンバーカードに相当するCRPナンバーは1968年に導入された。

オープンデータ・デンマークは、広域自治体や基礎自治体が管理しており、都市開発や社会課題の解決において公的にデータを自由に活用できる環境を整えることを目的に整備された。

・2018年5月に施行された欧州の個人データ保護に関する法律であるGDPR(EU一般データ保護規則)の関係で、デンマークでも取り扱いは厳しくなっているが、オープンデータ・デンマークから公的オープンデータを収集することができる。

※ご参考:“デンマークはビッグデータの収集と開示により都市の成長と確信を促進

遠隔医療でのオープンデータの活用

・遠隔医療はオープンデータの活用が期待されているプロジェクトである。

・デンマークではEUと連携する形で遠隔医療の実証実験を続けてきた。

・遠隔医療のニーズは、市民とその家族が主体的に治療に関わりたいとの要望が強まっている。

・高齢化が進む中で高齢者の治療と慢性疾患患者の増加が見込まれている。

・今後の医療コストが増加すると予想されている。

・特に期待されているのは、妊婦の合併症とCOPD(慢性閉塞性肺疾患)に対する治療である。具体的には前者は合併症のリスクを軽減すること、後者は治療が長期間に及ぶため。

・デンマークは人口密度が低く、地域の病院数も限られている。病院側も通院患者が減れば病院の効率が上がり、より重症患者や緊急の患者に対応することができるようになる。

・この遠隔医療は実証実験を経てサービスの検証を行った結果、医療サービスとしての品質、安全性、経済性とともに十分運用可能と結論づけられた。

デンマークのオープンガバメントの取り組みは、オープンデータ一つとってみても、単にデータの開示による公共サービスの透明性の確保だけでなく、市民生活を向上させるサービスの開発と実社会への導入という観点が含まれていることが特徴である。

4.サムソン島の住民によるガバナンス

・再生可能エネルギー100%の島として知られているサムソ島は、首都コペンハーゲンがあるシェラン島の西に位置しており、北海道の奥尻島と同じくらいの島である。

・夏には多くの観光客が訪れるこの島は、エネルギー企業などの関係者の視察が増え、再生可能エネルギーのショーケースのようになっている。最近は、こうした視察やエネルギープロジェクトに関係した雇用創出で地域活性化に大きく貢献している。

サムソ島の成功の要因は、地域の共創の理念と、住民を導いたサムソ・エネルギー・アカデミー代表であるソーレン・ハーマーセンを中心とした創造的リーダーシップにある。彼らは地域社会、特に住民の参画に力を入れ、風力発電の技術が分からない住民の理解を得るために、説明会やワークショップを何年にもわたって実施し、住民の意向に沿った開発計画を策定した。

最近では、サムソ島が再生可能エネルギー100%の島であることより、いかに異なる考え方を有する住民をまとめて一つの方向性に導くことができたのかに関心を持つ視察者が増えている。

・ハーマーセンの元には多くの質問や反対意見が届いた。それらに対し、3年かけて一軒一軒を回り会話をしながら問題を話し合うことで、少しずつ島民の理解を得られるようになった。

・2007年のカーボンニュートラルで再生可能エネルギー100%の島を達成した後も、新たな目標である2030年までに脱化石燃料を目指す。「サムソ2.0」を策定し、将来は循環型社会を目指す「サムソ3.0」を掲げている。

・「パイオニアガイド」はノウハウをまとめたガイドであるが、地域コミュニティが新しいシステムを導入する際の構造化されたアプローチ方法であり、サムソ島のホームページで開示し、必要に応じて出張しセミナーの開催なども行っている。

※ご参考:“コミュニティパワーで100%自然エネルギーの島から次のステップへ:デンマーク、サムソ(市)島

※ご参考:“世界で一番エコな島~サムソ島” (YouTube 5分53秒)

4章 クリエイティブ産業のエコシステム

1.デンマーク企業の特徴

日本と比べて圧倒的に小さなデンマーク企業が厳しい競争の中で生き残ることができる鍵は次の6つである。

①革新的かつクリエイティブは技術、ソリューション、デザインを追求する。

②国内市場を目指すのではなく、いきなりグローバル市場に参入する。

③大手企業が見逃しているニッチ市場を攻める。

④ニッチ市場でナンバーワンを目指す。

⑤収益のうち高い比率を研究開発に回す。

⑥研究開発を通じて、さらにクリエイティブな製品やソリューションを開発し、他社の追随を許さない。

このような戦略が採れるのも、優秀な人材がいてこそである。デンマークの企業は経営幹部も含めて創造性に長けた社員の採用に力を入れているところほど成功している確率が高い。

・デンマークでは大学発ベンチャーにも注力しており、研究室からそのまま起業して成功するなど研究開発型の企業が多いことも特徴である。

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

2.世界で活躍するクリエイティブなグローバル企業

アーステッド:石油・天然ガスから再生可能エネルギー企業へ

・環境エネルギー分野では洋上風力発電のアーステッド社がある。アーステッドはもともと国営企業であり、現在でも株式の過半数をデンマーク政府が保有する。

ノボノルディスク:糖尿病治療薬のリーディングカンパニー

・1923年に設立されたノルディスク・インスリン研究所と1925年に設立されたノボ・テラピューティスク研究所がインスリン製剤の生産を始め、業界トップ2社となった両社がさらなる成長と発展を目指して1989年にできたのがノボノルディスク社である。その後急成長し、糖尿病、血友病、成長ホルモン治療で世界的企業となっている。

レゴ:世界の子供の創造力を育てる玩具メーカー

・1932年、オーレ・キアク・クリスチャンによってデンマークの小さな街ビルンで設立された、レゴの経営哲学は「質の良い遊びは子供の人生を豊かにする」というもので、レゴの意味はデンマーク語で「Leg godt(よく遊べ)」の略語である。

3.デジタル成長戦略と連携して進展するIT産業

デジタル成長戦略

2018年1月に「デジタル成長戦略」を策定した。骨子は次の3つである。

①デンマークのビジネスがデジタル技術の活用の点において欧州でベストになること、特に中小企業が先端デジタル技術を利用できるように政府がその推進体制を保証する。

②デジタル・トランスフォーメーションを実現するために、政府として最高の環境を整える、特に新しいビジネスモデルや投資を引きつけるための迅速な規制緩和、そしてサイバーセキュリティとデータ処理体制を強化する。

③すべてのデンマーク人がデジタル・トランスフォーメーションに対応し、EUで最もデジタル化に準備をした国民となる。そのために適切なツールと教育を提供し将来の労働市場に備える。

そして、これらの戦略を実行するための6つの領域を定めている。

①デジタル化による成長環境を強化するための「デジタル・ハブ・デンマーク」を設置

②中小企業のデジタル化対応強化

③すべてのデンマーク人がデジタルスキルを身につける

④貿易と産業の成長にビッグデータを活用

⑤貿易と産業の迅速な規制緩和

⑥企業におけるサイバーセキュリティを強化

この中でも産業のエコシステムに関して注目に値するのは、①デジタル・ハブ・デンマーク、②中小企業のデジタル化対応、そして④ビッグデータの活用である。

デジタル・ハブ・デンマーク

・「デジタル・ハブ・デンマーク」は、産業・ビジネス・財務省が推進する、デジタル化で強力な成長を実現するためのフレームワークである。意外だが、デンマークは人工知能(AI)やビッグデータの活用では他国に遅れをとっていると認識されており、具体的なアクションにつなげている。

中小企業向けデジタル化対応

・中小企業のデジタル化は大手企業に比べると遅れており、デジタル技術の活用により複数の産業で事業開発が進展できると考えている。

ビッグデータの活用

・データ活用で重視しているのは、製造業、小売、エネルギー産業、保険、交通セクターにおけるデータの収集と分析に基づいた企業経営の最適化である。

・デンマークは小国ゆえに日本のNEC、富士通、日立のような広範な分野に対応できる総合IT企業はない。そのため、多くはアプリケーションを開発するソフトウェア企業など限られた分野に特化した企業が多い。

4.スタートアップ企業と支援体制

北欧のスタートアップシーン

・北欧でスタートアップといえばスウェーデン(特にストックホルム)が有名である。北欧諸国の中で資金面、エコシステムで最も充実したフレームワークを整えている。一方、デンマークもここ数年でスタートアップに対する支援が充実してきており、スウェーデンに続く北欧のハブになりつつある。

スタートアップ・デンマーク

・「スタートアップ・デンマーク」は、産業・ビジネス・財務省と移民・統合・住宅省が運営しており、国が主導している起業支援機関である。

コペンハーゲンのスタートアップ・プログラム

・自治体の中では、特にコペンハーゲン市がスタートアップ・プログラムに注力している。

5.新北欧料理とノマノミクス

・「noma(ノーマ)」は世界的に有名なレストランである。ノーマを創業したシェフたちは、調理で食材が変化するしくみを科学的観点から分析して、調理法の改善、新たな食材の活用等を開発する分子ガストロノミー、顧客の五感を刺激する見せ方、美しい店舗デザイン等によって「新北欧料理」というジャンルを構築した。

デンマークのスマートシティ2

著者:中島健祐

発行:2019年12月

出版:学芸出版社

目次は”デンマークのスマートシティ1”を参照ください。

3.共生と共創の精神

資源と産業のない貧しい国

・デンマークは1950年以前、北ヨーロッパの田舎で、天然資源は少なく、土壌も痩せて農業には適さないなど、かなり過酷な条件の揃った国であった。寒さと飢えで亡くなる人々も多く、アンデルセンのマッチ売りの少女さながらの現実が19世紀にはあった。デンマークで共生と共創の精神が根づいているのは、こうした厳しい環境と関係している。

画像出展:「マッチ売りの少女

 ・現在のデンマークは小資源国であっても十分大国と渡りあえることを証明している。ソフトウェアや人工知能、量子コンピュータの開発で、物量ではアメリカや中国には適わないが、質の面では世界トップクラスの水準となっており、マイクロソフトは2017年に量子コンピュータの研究センターをコペンハーゲン大学のニールス・ボーア研究所に開設している。

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

ニールス・ボーア研究所 

 ・デンマークは既に再生可能エネルギー大国である。既に国内の消費電力のうち約40%が風力発電により賄われ、2050年には脱化石燃料の国家を宣言している。

※ご参考:“デンマーク、2050年までに化石燃料脱却を目指す「エネルギー戦略2050」を発表

・デンマークの国教は福音ルーテル派だが、日常生活と宗教は密接に結びついておらず、日曜日に礼拝に行く慣習は特にない。宗教より「ヤンテの掟」のように、倫理や道徳の教育がデンマーク人の精神に根づいている。

北欧の気候風土とヒュッゲ

・デンマークは北緯55度に位置し、北海道の稚内(北緯45度)より北に位置してるが、暖流であるメキシコ湾流の影響で高緯度の割に気候は穏やかで、寒い日でも氷点下10℃程である。また、比較的四季もはっきりしている。

・夏の日没は午後10時、冬は日の出が午前8時半過ぎ、日没は午後4時前なので、通勤、通学時は日が落ちて真っ暗である。

・こうした気候風土の中で育まれた文化が「ヒュッゲ」である。これは日本では正月に家族や親戚が集まり、お節料理やお酒を飲んで、ゆっくりとくつろぐ時間のようなものである。

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

 4.課題解決力を伸ばす教育

教育システムのしくみ

・デンマークは先進国の中で教育費支出が高い国の一つである。

・デンマークにおける教育の目的は、「人格形成を平等に行い、社会の一員として責任を持ち義務を遂行し社会に貢献できる能力を育むこと」とされている。また、生徒の社会的背景、特に経済的かつ身体的状況に配慮し、差別をなくして1人1人の個性を尊重し、個々の能力を伸ばすことに力を入れている。

※ご参考:“世界の公的教育費対GDP比率 国別ランキング・推移” (先進国以外も対象)

 ・デンマーク:21位

 ・日本:121位

教えるのではなく、導く教育

・重視しているのは知識より、社会を作る上で必要な人格形成、人間性の向上など、日本では大人になってから考え始めるような人生哲学に力を入れている。これはニコライ・F・S・グルントヴィの思想が大きく影響している。学ぶ者には学ぶことへの内側から湧き出る動機が必要であるとしている教師は生徒との自由な対話によって、若者に気づきを与える教育が大切であるとした

直観力の育成

人間力育成に加えて、課題解決力の育成にも力を入れている。これには問題の本質を見極めて効率的にかつ公平に、最短で解決策を見出す教育に保育園から取り組んでいる。

・「森の幼稚園」では、自然と触れ合うことは人間としての感性と直感力を育て、国際的に重視されているSTEM教育(科学・技術・工学・数学教育の総称)の基礎となる自分で考え理解する力を養うことになる。

『全ての子ども達にたっぷりの愛と自然とのふれあいを。子育てを支え合い、喜びに満ちあふれた社会の実現を目指します。子ども達よ、命の根っこを輝かそう。森で、海で、里で、この空の下で。』

 問題解決力の育成

問題解決力は、対話によるコミュニケーション力と、自ら目標をたて実行する自立力がベースになっている。

・コミュニケーション力を養う教育としては、中学生の生徒同士で議論してコンセンサスを得る能力を磨く機会がたくさんある。そのために必要なことは、異なる価値観を持つ仲間と共同作業を行う力、得られたコンセンサスを皆の前で発表し共感を得る力、必要な情報を自分で収集できる力で、その方法を学習していく。

・デンマーク人は学校でも家庭でも生まれた時から1人の個人として尊重され、自分の考えで物事を決めることを求められる。こうした特性は小学生の間に培われるが、中学生になると個人と社会との関りを学び、また複雑な関係を調和されることが問われる。

 5.働きやすい環境

非学歴社会

・デンマークでは学歴を問われることはない。そもそもデンマークでは日本のように一斉に行われる大学入試や就職試験はない。大学を卒業するのも、社会に出るのも人によってバラバラで、各個人の価値観、人生計画に応じて組み立てられる。

企業においても日本の会社に見られるような、有望な部下を意図的に引き上げることはなく、ポストは広く内外に募集されるので、派閥がつくられることもない。個の自立を重視してきたデンマークでは、日本のように同質性の社会システムにみられる閉鎖的な決定プロセスはなく、フラットで公平なしくみが息づいている。

生産性の高い働き方

・デンマークでは先進国の中でも労働時間の少ない国の一つである。一般的には8時に出社し16時には退社する。大抵の職場でフレックス制度が導入されているので、自由度がとても高い。

・デンマーク人は家庭で過ごす時間を大切にしているので、仕事を効率的に仕上げて自宅に帰る人が一般的である。デンマークの企業で毎日18時まで職場に残っていると、能力のない人材と思われてしまうだろう。

・労働時間の縛りはないが、仕事のパフォーマンスが厳しく問われる。与えられた目標を達成することは当たり前で、職種によってはそこに付加価値と革新性が加えられているかが評価のポイントになる。パフォーマンスが低い者はすぐに解雇されることもある。

会議では、議題を事前に設定し参加者全員が意見を述べる。基本的に持ち帰ることはしないで、参加している者のコンセンサスをまとめてその場で意思決定をすることが求められる。参加しているものが決定権を持っているので、たとえ役員の代理で新入社員が参加して最終決定をした場合でも、その社員の決断が尊重される。

フレキュシリティ

「フレキュシリティ」とは、「flexibility」(柔軟性)と「security」(安全性)を組み合わせた造語で、柔軟な労働マーケットと労働に対する社会保障を組み合わせた政策のことである。

・デンマークでは仕事の成果が出ないとすぐに解雇されることもある。しかし、労働者が慌てることがないのは、このフレキュシリティ政策があることも背景の一因である。

・フレキュシリティモデルは、①労働市場の柔軟性、②所得補償、③効果的な労働市場政策を組み合わせた形でゴールデントライアングルとも呼ばれている。

※ご参考:“フレキシキュリティとは?意味や効果、デンマークやオランダの事例を詳しく解説

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

 

・労働市場の柔軟性は、雇用主が雇用と解雇をやりやすくすることで、労働力の構成を柔軟に変更でき、経済情勢や産業構造の変化に迅速に対応した組織を再構築することができる。従って、デンマークでは産業としては衰退しているにもかかわらず、雇用を守るために存続するゾンビ企業はほとんどない。

・簡単に解雇されるリスクがあるということは労働者にとっては不安要因である。そこで、失業者には最長2年間の所得補償が失業保険ファンドから支給される。特に低所得者層への支援は厚く、最大で前職給与の90%が支給される。

・効果的な労働市場政策は、社会保障制度の中でも特に重要な位置づけにあり、本政策に関する政府の支出はGDP比3.7%(2012年の実績値)にも達している。目的は、柔軟な労働市場が機能するための施策を打つことであり、失業者の再教育、転職の支援など多岐にわたっている。この失業者の再教育システムは実にうまく機能している。

・再教育は進捗状況を含めてかなり細かくかつ定時的にレポートを提出することが求められ、内容も逐次精査される。このため多くの人は再教育よりも企業で働くことを望むことになる。

デンマークの格差を是正するシステムは、単に手厚い支援を提供するだけでなく、国民の税金を使うだけの義務と厳しさが緻密に組み込まれていることが、うまく機能している理由の一つである。

6.格差がないからこそ起こること

高齢者は尊敬されない

・首相や大臣経験者、大企業の社長でも引退してしまえばただの高齢者になる。日本のように引退後に名誉顧問になり会社に残ることもなければ、財界活動に参加して過去の栄光で影響力を及ぼすこともない。デンマークでは高齢者という理由では特別尊敬もされない。

女性の方が強い

・女性の進出が進む社会では、生活するうえで男性に依存する必要がないので離婚がかなり多い。

・デンマーク人の結婚に至るパターンは、女性が男性をつかまえて、まず同棲しお互いの相性が良いと結婚するが、離婚する場合は女性が男性を捨てることが多い。

難民増加による右翼化の動き

・デンマークは移民を受け入れてきたが、最近は右寄りの論調が増えてきている。中東からの移民増加の影響もあり、人口に占める移民の比率は12.39%(2020年)になっている。

・人々の間では移民は仕事をしないで北欧の福祉制度にタダ乗りしているとの不満が高まっている。

北欧諸国は民主主義、平等、博愛という理念のもとに福祉政策を進めてきたが、移民の増加と社会保障支出の問題が複雑に絡みあい、今のところすべての利害関係者を納得させる解決策を見出せてない。将来的に格差のない社会システムを維持する上で、デンマークも大きな課題を抱えている。

2章 サステイナブルな都市デザイン

1.2050年に再生可能エネルギー100%の社会を実現

脱炭素化が加速する要因

・2050年までに世界で保有している化石燃料の80%を燃やせないというカーボンニュートラルが大きく関係している。

再生可能エネルギーの発電コストが大幅に低下している。2010年~2017年の7年間で太陽光は73%、陸上風力は23%低下した。洋上発電も欧州のセントラル方式による入札、開発プロジェクトの大型化、風力発電の大型化、技術力の強化などにより大幅なコストの低下と開発リスクの低減を実現している。

エネルギー戦略2050の策定

・デンマークは2011年、2050年までに化石燃料からの完全な脱却を目指す「エネルギー戦略2050(Energy Strategy 2050)」を公表した。

・エネルギー戦略の背景として、近い将来、アジアを中心とした新興国の経済発展に伴うエネルギー需要の増加から、石油や石炭などの化石燃料の価格が上昇することが見込まれていたことがある。資源のないデンマークでは価格高騰や自国では制御が難しい外部リスクを取り除く必要があった。

社会に実装するための緻密なデザイン

・エネルギー戦略2050について、小国ゆえに策定できたのだろうとの見方があるが、たとえ小規模でも国家が方向性を大転換し、新しいイニシアチブを発揮することは容易なことではない。そのために、数年かけて政治家、行政関係者、研究者が戦略の実行可能性について検討を重ねてきた。

・エネルギー戦略2050は、①再生可能エネルギー、②エネルギー効率、③電化、④研究開発と実証、の4つから構成されており、それぞれ詳細な分析に基づく行動計画が定められている。また、戦略を確実に実行するための原則としくみが組み込まれている。

1970年代からのエネルギー政策

・デンマークでは1973年の第一次オイルショックをきっかけに、1985年に原子力発電に依存しないエネルギー計画を国会で決議し、風力発電による再生可能エネルギーを導入するなど段階的に取り組んできた。

2.サーキュラーエコノミー(循環型経済)の推進

EUで加速する循環型経済

・サーキュラ―エコノミー(循環型経済)とはリサイクルや産業廃棄物削減を狙った施策であるが、デンマークはEUと連携して積極的な取り組みを行っている。

デンマークのポテンシャル

・サーキュラ―エコノミーの定義は次のようなものである。

「サーキュラーエコノミーは、デザインにより再生、再利用するしくみであり、製品とそれを構成する部品、原材料を技術的なものと生物学的なサイクルとに区別しながら、その価値と利用可能性を最も高い水準で維持すること」

民間主導のビジネスモデル

・デンマークでは、民間企業が政府を引っ張る形で積極的にサーキュラーエコノミーに対応したビジネスを展開している。サーキュラーエコノミーを収益力もあり、持続可能な解決策にするためには、製品のデザイン段階からサーキュラーエコノミーの原則を組み込んだアプローチが重要であり、若手のデザイナーを中心にサーキュラーデザインの活動が進んでいる。

※ご参考:“DANSK SYMBIOCENTER

※ご参考:“サーキュラーエコノミーとは

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

 

3.世界有数の自転車都市

コペンハーゲンの自転車政策

・デンマークはオランダと並んで自転車大国として知られている。コペンハーゲンの市民の通勤・通学の41%(2017年)が自転車を利用している。

・コペンハーゲン市は技術・環境市長が主導し、サイクリストにとって世界で最も優れた都市になることを目標にしている。

自転車スーパーハイウエイの整備

・総延長467㎞(2018年時点)の「自転車スーパーハイウエイ」が整備された。コペンハーゲンでは5㎞未満の移動では60%の市民が自転車を利用するが、5㎞を超えた途端にその比率は20%以下に下がる。この数値を引き上げるためハイウエイの新線が追加された。

※ご参考:“グリーンな社会目指すデンマーク 自転車ハイウェイとIoT

※ご参考:“海外事例研究 | コペンハーゲンのサイクリング都市化における交通データ利活用

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

 

自転車走行速度を統一するグリーンウェーブ

・高性能な信号機を導入し、時速20㎞で走行すれば赤信号で止められることはない。これにより、子供を乗せている母親も高齢者も安心して自転車を利用できる。

多面的な包括的アプローチ

自転車政策は環境エネルギー、都市交通の課題解決に加えて、市民の健康管理、社会保障コストの削減、投資誘致と産業の発展、家庭の幸福にもつながっている。これはよくデンマークで取り上げられる「包括的アプローチ(holistic approach)」と言われるもので、物事を多面的に捉えて問題の本質に迫り、多様性の中で解決策を探る方法である。

・包括的アプローチは自転車以外にも再生可能エネルギー、医療や福祉、スマートシティなど多くの分野で取り入れられている。

・自転車=移動手段という単純な発想ではなく、自転車を多面的にしたたかに利用する包括的なアプローチこそ、デンマークの政策デザインの特徴でもある。

4.複合的な価値を生むパブリックデザイン

良いパブリックデザインとは

・デンマークの世界的都市デザイナーであり建築家のヤン・ゲール曰く、「良いパブリックデザインとは、魅力的な都市をつくりだす。魅力的な都市とは子供たちと高齢者がストリートに見られることだ」(インタビュー「都市の魅力を構成する要素とはなにか?」より)

2009年に「世界で一番素晴らしい都市になる」と宣言したコペンハーゲンのパブリックデザインが優れている要因の一つは、もう50年も前から人間中心のまちづくりを推し進め、自転車道を整備し、パブリックスペースから自動車や駐車場を減らして、市民に開放してきたことである。

もう一つの要因は、市が2025年に「世界で初めてのカーボンニュートラル首都になる」と宣言したことを、政治家や行政の公約と考えるのではなく、市民1人1人が日常生活の中で目標達成に向けて取り組み、街の未来をつくろうとしていることである。

・パブリックデザインとは快適性を追求することだけでなく、都市の課題を解決したり、未来のイノベーションを実現したりするためのデザインでもある。

アマー資源センター:廃棄物施設を都心のスポーツリゾートへ

・世界的な建築家であるビャルケ・インゲルスが率いるBIG(ビュルケ・インゲルス・グループ)が手がけ、2017年3月にオープンした廃棄物発電施設「アマー資源センター」はデンマークのパブリックデザインを象徴する公共建築である。

・屋上には斜面450mの人工スキーコースが設けられ、夏はトレッキングを楽しみ、頂上ではコペンハーゲンの眺望を楽しみながら小さなカフェで寛げる。

・CHP(熱電供給)廃棄物発電は、コペンハーゲンのCPH2025気候プランを支える重要な機能の一つであり、コペンハーゲン市で年間扱う40万トンの固形廃棄物を燃やすことができる。0~63MWまでの発電能力により6万2500世帯に電気を、157~247MWの地域熱供給能力で16万世帯に熱を供給可能となっている。エネルギー効率は90%以上で、世界で最もクリーンな焼却施設である。

 施設の煙突は排ガスだけではなく、大きなリング状の煙(実際は水蒸気)が排出され、夜になるとレーザーで明るく浮かび上がる。この煙突から出されるリング状の煙一つで、1トンの二酸化炭素の量を表しており、市民に1トンの二酸化炭素量とはどの程度のものかを考えてもらうきっかけにしようとしている。さらに内部は見学できるようになっており、市民の環境知性の育成にも一役買っている。つまり、アマー資源センターは、廃棄物発電による電力と熱供給施設×リゾート施設×教育施設ということになる。

画像出展:「HILLS LIFE

『2019年10月、デンマークの首都、コペンハーゲンの海辺の工業地帯、アマーに出現した、まさに「都会の丘」をイメージさせる巨大施設〈コペンヒル〉。』

 

ハーバース:水質を改善した、都心の海のプール

・コペンハーゲンの夏の人気スポットは、イスラン・ブリゲにある市民プール「ハーバーバス」。コペンハーゲン港内の海の中にあるプールで短い夏を楽しむ人々の光景は夏の風物詩にもなっている。

・このハーバーバスもBIGが設計している。一見すると奇抜なアイデアが印象的だが、そこには緻密な計算に基づいた設計がなされている。デザインには、「連続性」「安全性」「アクセス性」「特別な景観」の4つのポイントがある。連続性は、埠頭のエッジから港の海水まで見えるように設計することで、利用者はプールという区切られたスペースに入るのではなく、海に直接入水する特別な体験を得られる。

・安全性は、各プールの外枠角度が中央のライフガードの位置から一目で確認できるようにライフガードの視野に合わせて決められている。このプールは最大で600名が利用できる。しかし無料で運営されているため、複数のライフガードを配置することは難しく、運営経費と安全性のバランスを考えた設計になっている。

・アクセス性は、障がい者を含めたすべての市民が楽しめるように配慮されている。たとえ車椅子であっても奥のプールサイドまで行ける。親が障がい者でも子供はプールで遊べ、子供が障がい者でも親子でプールサイドで楽しむことができる。

・景観はビーチにいる感覚を感じられるよう、ウッドデッキ、埠頭、ボートなどを象徴的に設置することで、都会リゾートとしての特別感を演出している。

画像出展:「Copenhagen Harbour Bath

 

 

スーパーキーレン:多様な住民の交流を育む公園

・コペンハーゲン中心部の北に位置するノアブロ地区に、2012年につくられた公園で、総面積約3万㎡(新宿中央公園は約8万8千㎡)、縦750mの細長い施設である。公園は3つの区画に分かれており、赤の広場(スポーツとアクティビティのエリア)、黒の広場(交流のエリア)、緑の広場(住民の庭のエリア)となっている。地面が赤、黒、緑に色分けされ、広場の特徴が誰でも一目でわかるようになっている。

画像出展:「NEKKI MESSE

 

『デンマークのコペンハーゲン市内に2012年6月に完成した、ユニークな公園がある。その名は「Superkilen(スーパーキーレン)」。市内中心部から北に伸びるノアブロゲーテ通りとテインスヴァイ通りの間となるノアブロ地区に位置し、広さは約3万㎡にも及ぶ。」』

・北欧は移民を積極的に受け入れてきた経緯があり、コペンハーゲンでもアジア系を含めて多国籍化が進んでいる。公園があるノアブロ地区には安い集合住宅があった関係で、多くの外国人が移り住んでいた。このように国籍が異なる住民が多く集まるこの地区は、住民間のコミュニケーション不足、生活様式の違いから起きる些細なトラブルや犯罪が多発するようになった。将来スラム化するリスクを抱えたこの地区の改善は、コペンハーゲン市にとって課題となっていた。

・コペンハーゲン市は同地区にあった国鉄の車庫跡地を公園につくり変えることを決め、競争入札を実施した。その結果、BIGとアーティストユニットのスーパーフレックス、都市デザイン事務所のトポテック1が選出された。

・彼らが取り組んだのは、住民と徹底的に話し合い、住民主導で公園のアイデアをつくりあげることだった。住民との議論を通じて採用されたのは、多国籍の住民の多様性を尊重しながらも住民同士のコミュニケーションを改善し、ノアブロに新しい価値を創出することであったその方法として、約60カ国に及ぶ住民の出身国の遊具、照明、ベンチなどの設備を集めることで、自分の故郷の記憶を辿ると同時に、他国出身の住民の文化に触れて自然と彼らとコミュニケーションがとれるようにするというアプローチをとった。

・コペンハーゲンに世界の遊具を集めた公園ができたとの評判はすぐに広まり、休日になると地元住民に加え他の自治体からも親子連れが訪れるようになった。

・この地区に人が集まることで、新しいカフェ、レストランもオープンして人気のホットスポットとなり、治安も改善されるなど当初の目的を達成しただけでなく、新たな地域再生の成功事例として注目を集めることとなった。

このプロジェクトでは、住民間のコミュニケーションの改善+治安の改善+ノアブロ地区の価値創出など、複合的な成果を生み出すことに成功している。

画像出展:「デンマークのスマートシティ」

デンマークのスマートシティ1

“コロナ worldmeter”というブログをアップしています。約100年ぶりのパンデミックとして世界中に広がった新型コロナ(COVID-19)の感染状況を約2年8ヵ月に渡って記録をつけていました。「worldmeter」はその情報源です。

そして、そのレビューを書こうと思って気づいたのが、デンマークの圧倒的な情報管理力です。日本に比べれるとはるかに小さな国ではありますが、これは、よほどITが進んでいるのだろうと思いました。「一体どんなことをしているのだろうか?」と思い、見つけた本が今回の『デンマークのスマートシティ データを活用した人間中心の都市づくりでした。

また、偶然ですが、背中を後押しするようなこともありました。それは『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯という本の中に書かれた、チボリ(Tivoli Gardens)というデンマークの首都、コペンハーゲンにある1843年に設立された歴史的な公園(遊園地)です。

画像出展:「北欧フィーカ

 

ウォルト・ディズニーは“未来都市”(EPCOT:Experimental Prototype Community of Tomorrow)”という将来構想を創造し、世界中をまわって数多くの公園を視察しましたが、最も強く感銘を受けたのがこのチボリ公園でした。もしかしたら、1966年に他界したウォルト・ディズニーが描いていた“未来都市(EPCOT)”とは、デンマークのスマートシティのようなものだったのかも知れません。

そして、デンマークを調べていて大変驚いたことがありました。それは2023年の世界経済競争力ランキング(World Economic Competitiveness Ranking)第1位がデンマークだったということです。ちなみ日本は35位です。なお、世界経済競争力ランキングについては以下のサイトをご覧ください。

日本の競争力は「過去最低」の世界35位。「世界競争力ランキング2023」衝撃の結果

著者:中島健祐

発行:2019年12月

出版:学芸出版社

デンマーク、そして首都コペンハーゲンの都市開発は圧巻です。まさに“未来都市”のようです。

また、一つの国をここまで真剣に理解しようとしたのは初めてだったので、とても新鮮で貴重は時間となりました。お伝えしたいと思うことは山盛りで、ブログを5つに分けました。

ご参考)著者である中島先生のプレゼンテーション資料を見つけました。20枚に凝縮された内容で、全体像をご理解頂くことができます。

デジタル先進国デンマークで展開される人間中心主義のスマートシティと社会実装

はじめに

1章 格差が少ない社会のデザイン

1.格差を生まない北欧型社会システム

2.税金が高くても満足度の高い社会を実現

3.共生と共創の精神

4.課題解決力を伸ばす教育

5.働きやすい環境

6.格差がないからこそ起こること

2章 サステイナブルな都市デザイン

1.2050年に再生可能エネルギー100%の社会を実現

2.サーキュラーエコノミー(循環型経済)の推進

3.世界有数の自転車都市

4.複合的な価値を生むパブリックデザイン

3章 市民がつくるオープンガバナンス

1.市民が積極的に政治に参加する北欧型民主主義

2.市民生活に溶け込む電子政府

3.高度なサービスを実現するオープンガバメント

4.サムソン島の住民によるガバナンス

4章 クリエイティブ産業のエコシステム

1.デンマーク企業の特徴

2.世界で活躍するクリエイティブなグローバル企業

3.デジタル成長戦略と連携して進展するIT産業

4.スタートアップ企業と支援体制

5.新北欧料理とノマノミクス

5章 デンマークのスマートシティ

1.デンマークのスマートシティの特徴

2.コペンハーゲンのスマートシティ

3.オーフスのスマートシティ

4.オーデンセのスマートシティ

6章 イノベーションを創出するフレームワーク

1.オープンイノベーションが進展する背景

2.トリプルヘリックス(次世代型産官学連携)

3.IPD(知的公共需要)

4.社会課題を解決するイノベーションラボ

5.イノベーションにおけるデザインの戦略的利用

6.社会システムを変えるデザイン

7章 デンマーク×日本でつくる新しい社会システム

1.日本から学んでいたデンマーク

2.デンマークと連携する日本の自治体

3.北欧型システムをローカライズする

4.新たな社会システムの構築

おわりに

1.格差を生まない北欧型社会システム

フラットな社会

デンマークの社内はオープンフラットである。デンマークで暮らしていて学歴、所属組織の社会的地位、保有している国家資格などが問われることはまずない。大切なのは、個人としてどのような考えを持ち、価値を提供できるかということである。

・年齢も関係ない。デンマーク語には日本語の敬語や丁寧語に相当する言葉もあまりない。

・自分が疑問に思ったことは相手が大臣や大手企業の社長であっても、気兼ねなく質問して議論を交わすのが普通である。

・『ある日本の大手企業の現地社長も、似たような経験を語ってくれた。彼は日本企業で長く勤務した後、デンマークの会社の社長となり、多くの従業員を雇用していたが、どの従業員も彼に友達感覚で接してくるそうだ。朝、工場労働者と会うと、背中をバンと叩かれ、ファーストネームで呼ばれながら「元気にやっているかい?」と言われ、企業文化の違いに戸惑ったらしい。日本では常に役員室にいて、外出の際は黒塗りの専用車で送迎され、いつもお付きの社員がサポートする体制で仕事をしていたため、デンマークのフラットすぎる社会に馴染むのが大変だったようだ。』

デンマーク社会を支えた哲学

・デンマークの社会制度は1890年代から120年以上かけて試行錯誤しながらつくられた。

・社会保障制度をつくる基礎となったデンマーク人の精神性、価値観は、デンマークの歴史が深く関わっている。

デンマーク人の価値観に大きな影響を与えたのは、デンマークの近代精神および教育の父と呼ばれ、現在も運営されている「フォルケホイスコーレ」(国民高等学校、全寮制の教育機関)の理念を提唱した牧師であり詩人、哲学者であったニコライ・F・S・グルントヴィ(1783-1872)である。

・グルントヴィの理念は、現在のデンマーク社会に次のような影響を与えている。

国民すべてが平等な生活を送ることに価値をおく=格差の少ない北欧型社会システム

知識ではなく対話を重視=コンセンサス型社会システム

死の学校から生のための学校=知識から知恵や問題解決能力を習得する教育

・1890年からの社会福祉政策は計画的ではなく、少しずつ進められた。デンマークではドイツ型の賃金労働者だけを対象にするのではなく農民も含めたすべての国民を対象とした社会保障制度を目指すことになった。そして、特に社会的弱者である病人、障がい者、十分な教育を受けられなかった人々も対象とした。

・20世紀になると、様々な改革が行われ、1933年には社会制度改革が実施された。

・当時の社会大臣は福祉事業の主流であった失業対策、自助努力、救済事業に対し、市民の社会的権利である福祉原則を提示し、市民の最低保証生活水準を保障することは国家の義務であるとした。デンマークの福祉国家としての普遍的理念はこれにより確立された。

・1960年代以降、日本と同様に高度経済成長期を迎え、労働者不足の問題が女性の社会進出を後押しした。その結果、これまで家庭で行われてきた育児、高齢者の介護が難しくなり、より充実した社会福祉が発展することになった。

・社会福祉の発展においても、その根底にはニコライ・F・S・グルントヴィの思想が育んだデンマーク人の精神性、価値観があった。

女性の社会進出

・デンマークにおける女性の社会進出は、前述の通り、1960年代の経済成長による労働力不足が深く関係している。

・1965年に設立された社会制度改革委員会では、女性や障がい者が柔軟に職に就けるような制度改革を行い、出産休暇、職場に復帰する権利、保育所の整備などが行われ、女性が働きながら子育てを行える社会的環境が整備された。その結果、1980年代以降、女性の就業率は70%を超えている。ただし、エネルギー産業、製造業、鉱業などはまだ男性が中心である。その一方で、企業の主要幹部には多くの女性が登用されており、女性の大臣も珍しくはない。

※この「女性の社会進出」に書かれていることは、少子化や育児・子育ての問題がやっと注目されてきた、ここ数年の日本に似ていると思いました。もし、デンマークがここに書かれている対策を実施していたとすれば、少子化について、日本ほどには問題になっていないのではないかと思われます。

そこで、探してみると“人口ピラミッド”の動画が同条件でアップされていました。これは「世界人口推計2019年版」(国連)に基づき、1950年から2100年までの人口の推移を動画にしたもので、大変興味深いものです。そして、その対照的な結果に、驚きを通り越して恐怖すら感じます。

デンマーク王国の人口ピラミッド(1950-2100) / 単位(Unit): 千人 / 2019年推計” (Youtube)

日本の人口ピラミッド(1950-2100) / 単位(Unit): 千人 / 2019年推計” (Youtube)

医師と患者が対等に治療に当たるデジタルヘルス

・デンマークの医療制度は社会保障制度を代表するサービスであり、医療費は税金で賄われ、原則無料となっている。

・デンマークの医療システム(ヘルスケアシステム)は世界的にもトップレベルで、特に医療格差がない国としても知られている。しかし、高齢化による医療労働者の不足が深刻化している。

・政府は対策として、デジタル技術を利用すること(デジタルヘルス)で、効率化による資源の最適化を模索している。

・デンマークでは1968年に導入されたCPRナンバー(国民識別番号)に加え、電子政府の基盤でもある医療ポータル(sundhed.dk)の普及がデジタルヘルスを後押ししている。

sundhed.dkにアクセスすると、自分の医療情報、例えば、過去の治療情報、入通院履歴、投薬情報などを確認でき、それをかかりつけ医や病院の医師とも共有できる。

この医療システムの重要なところは、デジタル化により効率性と利便性を実現しているだけではなく、医療従事者と患者の関係を対等にするというコンセプトが含まれていることである。デンマークではこれを市民と患者のエンパワーメント(権限付与)と表現している。

・デジタルヘルスには、医師と協働するために必要な知識の習得を支援するという側面もある。

高齢者福祉の三原則

・高齢者福祉も社会保障国家としての柱である。

高齢者福祉の三原則によりサービスに一貫性がある。三原則は1982年に設定された。

・三原則は、①継続性の原則②自己決定の原則③残存能力の活用、である。

継続性の原則とは、可能な限り、健康な時のスタイルを維持し、基本は自宅で暮らし続けるようにすることである。このため、やむおえず福祉施設に入居する場合でも、自宅で使っていた家具などを持ち込むことができる。

自己決定の原則は、たとえ介護が必要な状態になっても、自分の人生に関することは自分で決定することである。それを家族や介護スタッフは尊重しなければならない。これはデンマーク人の自立とも関係しており、大原則の一つである。

残存能力の活用は、体が不自由になったとしても、まだ健常な機能がある場合は、補助器具などを利用して自力で対応することである。

・この三原則は、サービスを提供する行政サイドにとっても、無駄な支出をしないサービスの水準を維持するために重要なものとなっている。

・デンマークの国民年金制度は共生の理念に基づいた所得の再分配システムが機能しており、高額所得者や資産家は年金が減額される。しかし、不満を持つものはあまりいない。資産があり、自活できる高齢者は自力で対応し、余力のない高齢者により多く分配することで、老後でも貧富の差を最小化しようとの考えが根底にある。

障がい者福祉

・デンマークの障がい福祉制度は現在の形になるまで150年以上かかっている。また、現在の制度は1959年の知的障がい者福祉法の制定が関係している。

・『障がい者が一般市民と同じように働き生活することには厳しさも伴う。たとえば、以前ある自治体でITシステム構築を担当する、下半身が不自由なソフトウェア開発者と知りあった。彼は車椅子を利用し、自力で車を運転して職場まで通勤していた。ところが1年後、財政削減の関係で彼は解雇されてしまっていた。このようにデンマークでは、ノーマライゼーションとは差別をなくし、障がいがある人も、障がいがない人と同じように生活できることを保障する一方で、知的障がい者でない限り、一般人と同じ条件で処遇させることを意味している。

ヤンテの掟とフラットな社会

・デンマークの人は謙虚な姿勢をもつ人が多い。世代にもよるし、一概には言えないが「ヤンテの掟」が影響しているかもしれない。「ヤンテの掟」とは成功者に対しての戒めである。これは1933年に作家のアクセル・サンダムーサが書いた小説の中に出てくる架空の村の10カ条の掟である。

※ご参考:“【ヤンテの掟】北欧社会の平等性に通じる、デンマークの小説を元にした戒律

2.税金が高くても満足度の高い社会を実現

高福祉社会を支える税負担

・国民の対GDPに対する税負担率を見ると、デンマークは第3位(2019年)と高い。また消費税も25%と高い。しかし、多くのデンマーク人は高額な税金を納得して収めている。その理由は、政治を信頼し、自分たちが収めている税金が正しく使われており、国の発展や不幸な人たちの支援に当てられることは義務であると、国民に認識されているからである。

国民は税金を徴収されているというより、信頼関係に基づいた投資であると考えていることも大きな理由である。投資なので、将来の生活に還元されると確信している。

・デンマークの民主主義の水準は高く、政治におけるクリーン度は高い。世界180カ国を対象にした腐敗認識指数2022年で、デンマークは1位(日本は18位)である。つまり、国民が選挙で選んだ議員を信頼しており、議員が汚職などに手を染めることは極めて少ないので、安心して税金の再分配を任せているということである。なお、こうした政治に信頼を置く国民性は教育制度にも関係している。

”税金が高い国ランキング発表 日本は世界で2番目”

世界で最も税金が高い国はどこでしょうか。

海外ニュースサイトに掲載された高税率国ランキングが話題を呼んでいます。同サイトは独自に調査した世界各国の法人税、給与税、個人所得税、消費税を基準にランキングを作成し、公表。日本は2位に位置付けられました。

このサイトによると、デンマークと日本の各税の税率は以下のようになっています。北欧諸国と言えば、「福祉は充実しているが税金が非常に高い」というイメージでしたが、国レベルでは「違うようだ」と思いました。

消費税で公平性を担保しつつ、障がい者や高齢者などには徹底した福祉・公共サービスといった、セーフティーネットを充実させて支援していくという仕組みのように思います。

注)この記事がいつ書かれたものか分かりませんが、日本の税率については、それぞれ右側に分かる範囲で追記しておきました。デンマークで給与税が低いのは、一生懸命働いて得た対価に税金をかけたくないということなのでしょうか。

情報が古いため、日本のランクについては疑問がありますが、消費税だけでなく国レベルで税金を考えるべきだと思いました。(少ない多い

【デンマーク】

法人税23.5%

個人税46.03〜61.03%

給与税8%

消費税25%

【日本】

法人税38.01%(平成30年度:法人実効税率 29.74%)

個人税15〜50%(令和5年度:5~55%)

給与税25.63%(5~45%)

消費税8%(10%)

公共サービス

市民が高い税金の負担に納得していることは、実際に提供されるサービスを見れば理解できる。

◇妊娠と出産

・デンマークでは特に出産や子育てのサービスにかなり力を入れている。

資源が少ないデンマークでは人材が一番重要であり、次の100年を支える人を育てることは社会の義務であるとの考えが浸透している。

出産までの医師、助産婦による相談、検診はすべて無料である。ただし、デンマークでは出産は病気とは扱われないので、初産は1泊の入院だが、経験のある妊婦は数時間で退院する。

◇育児

・デンマークでは出産後32週間の育休を終えると職場に戻るのが一般的である。そのため、子供のための保育サービスを利用することになる。6カ月~3歳児までは乳幼児託児所や保育ママ(家庭内保育)を利用する。

・保育ママは市から認定された保育士が各家庭で4~5人の子供を預かる制度で、自治体にとっては保育施設の新設や維持費用がかからないこと、また子供の両親にとっても家庭的な雰囲気の中で保育してもらえるため、デンマークでは主流となっている。

保育ママは職業としても成立するだけの収入体系となっている。例えば5人の子供を預かった場合、保護者からの利用料と自治体からの助成金を合わせて年収600万円くらいになるとされ、保育ママのなり手が不足することはない。

3歳~6歳の子供は保育園に預ける。デンマークでは自治体が希望する子供をすべて保育園に入園させる義務がある。コペンハーゲンなどの都心では順番待ちの保育園もあるが、施設さえ選ばなければ確実に入園させることができる。

保育料は自治体により異なるが、一般的に保育料の約30%を保護者が負担する。しかし、保護者の年収が低い場合は保護者の負担が実質ゼロになり、高い高額所得者は保育料を全額負担しなくてはならない。

・デンマークでは年収が低くても、高額所得者とまったく同じ育児サービスを受けられるようになっており、格差を少なくする社会のしくみは人生のスタート時から保障されている。

◇学校教育

・格差がないという点で世界に誇るシステムになっている。

教育は初頭/中等学校教育(1~10年)、高等学校教育、大学教育、大学院教育と、授業料は公立の場合はすべて無料となっている。

憲法に、教育義務の年齢にある子供は公立学校で教育を無料で受けることができる権利を有していると記されている。

・障がい者に対する特別支援教育も充実している。しかし、特別支援学校は設置数が限られているので、通学の問題が発生する。これに対し、自治体は自家用車の利用にかかる燃料費やタクシーの利用料金を支援する体制がとられている。

大学では勉強に集中するために奨学支援金10万円程度が毎月支給される(学生のおかれた条件や物価により変動する)。加えて低金利のローンを活用することで、家庭の経済力と関係なく大学教育を受けることができる。

・デンマークの大学は入学するより卒業する方がはるかに大変で、一般的に大学生は週に50時間程度は勉強すると言われている。

経済的な理由で勉学の道が閉ざされることなく、経済格差が教育格差を生まないしくみが構築されている。

「生命とは何か」

本書は“シュレーディンガーの方程式”などにより、量子力学に多大な貢献をされた、エルヴィン・シュレーディンガーの有名な著書で、発行は1944年なので約79年前に書かれたものということになります。

私にとって量子力学は出口の見えないトンネルのようなものなのですが、本書の副題が『物理的にみた生細胞』となっており、とても興味をもったというのが手に取った理由です。

ブログは「まえがき」の一部と、71のテーマの中の4つと、鎮目恭夫先生の「岩波新書版(1975年)への訳者あとがき」の中の“シュレーディンガー略歴”になります。ブログの内容は乏しいのですが、個人的には新たな発見もあり、時間をかけた価値はあったなと思っています。

著者:エルヴィン・シュレーディンガー

出版:2008年5月

出版:岩波文庫

まえがき

『そもそも科学者というものは、或る一定の問題については、完全な徹底した知識を身につけているものだと考えられています。したがって、科学者は自分が十分に通暁していない問題については、ものを書かないものだと世間では通っています。このたびは、私はとにかくこの身分を放棄して、この身分につきまとう掟から自由になることを許していただきたいと思います。これに対する私の言いわけは次の通りです。

われわれは、すべてのものを包括する統一的な知識を求めようとする熱望を、先祖代々受け継いできました。学問の最高の殿堂に与えられた総合大学の名は、古代から幾世紀もの時代を通じて、総合的な姿こそ、十全の信頼を与えられるべき唯一のものであったことを、われわれの心に銘記させます。しかし、過ぐる100年余の間に、学問の多種多様の分枝は、その広さにおいても、またその深さにおいてもますます拡がり、われわれは奇妙な矛盾に直面するに至りました。われわれは、今までに知られてきたことの総和を結び合わせて一つの全一的なものにするに足りる信頼できる素材が、今ようやく獲得されはじめたばかりであることを、はっきりと感じます。ところが一方では、ただ一人の人間の頭脳が、学問全体の中の一つの小さな専門領域以上のものを十分に支配することは、ほとんど不可能に近くなってしまったのです。

この矛盾を切り抜けるには(われわれの真の目的が永久に失われてしまわないするためには)、われわれの中の誰かが、諸々の事実や理論を総合する仕事に思いきって手を着けるより他に道がないと思います。たとえ物笑いの種になる危険を冒しても、そうするより他には道がないと思うのです。

私の言いわけはこれだけにします。

目次

まえがき

第一章 この問題に対して古典的物理学者はどう近づくか?

1 研究の一般的特質と目的

2 統計物理学からみて、生物と、無生物とは構造が根本的に異なっている

3 きまじめな物理学者は、この問題にどう近づくか?

4 原子はなぜそんなに小さいのか?

5 生物体の働きには正確な物理法則が要る

6 物理法則は原子に関する統計に基づくものであり、近似的なものにすぎない

7 法則の精度は、多数の原子の参与していることがもとになっている第一の例(常磁性)

8 第二の例(ブラウン運動、拡散)

9 第三の例(測定の精度の限界)

10 分子数の平行根の法則

第二章 遺伝のしくみ

11 古典物理学者の予想は、決してつまらぬものとは言い棄てられないが、誤っている

12 遺伝の暗号文(染色体)

13 生物体は細胞分裂(有糸分裂)で生長する

14 有糸分裂では、すべての染色体がそれぞれ二つになる

15 減数分裂と受精(接合)

16 一倍体の個体

17 減数分裂はとりわけ重要である

18 乗り換え。遺伝形質は染色体の局部的な場所に座を占めている

19 遺伝子の大きさの限界

20 遺伝子は少数個の原子からなる

21 遺伝子の永続性

第三章 突然変異

22 不連続は突然変異―自然淘汰の行われる根拠

23 突然変異種は育種可能である、すなわちそれは完全に遺伝する

24 遺伝子の座、劣性と優性

25 若干の学術用語の紹介

26 近縁交配は有害な結果を生ずる

27 一般的な注意と史実

28 突然変異は稀な出来事でなければならない

29 X線によって引き起こされる突然変異

30 第一の法則、突然変異は単一事象である

31 第二の法則、この事象は或る限られた場所で起こる

第四章 量子力学によりはじめて明らかにされること

32 遺伝子の永続性は古典物理学では説明できない

33 量子論によれば説明できる

34 量子論―飛び飛びの状態―量子飛躍

35 分子

36 分子の安定度は温度に依存する

38 修正すべき第一の点

39 第二の修正点

第五章 デルブリュックの模型の検討と吟味

40 遺伝物質の一般的な描像

41 この描像は唯一のものである

42 従来行われてきたいくつかの誤った考え

43 物質の異なる「状態」

44 本当に問題になる区別

45 非周期性の固体

46 縮図の中におしこめられた種々様な内容

47 事実との比較、安定度および突然変異の不連続性

48 自然淘汰により安定な遺伝子が選ばれる

49 突然変異種にはしばしば安定性の低いものがある

50 温度の影響は安定なものより不安定なものに対する方が少ない

51 X線はどんな仕方で突然変異を起こすか?

52 X線の効率は、自発的な突然変異の頻度の大小にはよらない

53 突然変異は元に戻せる

第六章 秩序、無秩序、エントロピー

54 この模型からでてくる注目すべき一般的な結論

55 秩序性を土台とした秩序性

56 生命をもっているものは崩壊して平衡状態になることを免れている

57 生物体は「負エントロピー」を食べて生きている

58 エントロピーとは何か

59 エントロピーの統計的な意味

60 生物体は環境から「秩序」をひき出すことにより維持されている

第七章 生命は物理学者の法則に支配されているか?

61 生物体ではどんな新法則が期待されるか?

62 生物学的な事情の概観

63 物理学的な事情の概括

64 両者は著しい対照をなしている

65 秩序性を生み出す二つの道

66 この新原理は物理学と相いれないものではない

67 時計の運動

68 時計仕掛けもつきつめてみれば統計的なものである

69 熱力学の第三法則(ネルンストの定理)

70 振子時計は事実上絶対零度にある

71 時計仕掛けと生物体との関係

エピローグ 決定論と自由意志について

岩波新書版(1975年)への訳者あとがき

21世紀前半の読者にとっての本書の意義

  ―岩波文庫への収録(2008年)に際しての訳者あとがき

第一章 この問題に対して古典的物理学者はどう近づくか?

1 研究の一般的特質と目的

・この小著は、一理論物理学者が約400人の聴衆に対して行った一連の公開講演をもとにしたものである。

・数学を使っていないのは、あまりに複雑で十分に数学を使うことができなかったからである。

この講演の目的は、生物学と物理学との中間で宙に迷っている基礎的な観念を、物理学者と生物学者との双方に対して明らかにすることにあった。

・重要でしばしば論議されている疑問とは、生きている生物体の空間的境界の内部で起こる時間・空間的事象は、物理学と化学とによってどのように議論されるのか?

・『この小著により解き明かして、はっきりさせようと試みるその答は、前もって次のように要約できます。今日の物理学と化学とが、このような事象を説明する力を明らかにもっていないからといって、これらの科学がそれを説明できないのではないか、と考えてはならないのです、と。

2 統計物理学からみて、生物と、無生物とは構造が根本的に異なっている

・『周期性結晶が研究の対象として最も複雑なものの一つであると私が言ったのは、もっぱら物理学者を念頭においてのことです。事実、有機化学は、ますます複雑な分子を研究することにより、かの「非周期性結晶」のごく近くにまで到達しました。私の考えでは、非周期性結晶こそ、生命をになっている物質なのです。それ故、生命の問題に対して、有機化学はすでに大きな重要な貢献をなしているのに、物理学者がまだほとんど何ら寄与していないのは、さして不思議ではありません。』

非周期性結晶”について知りたいと思い見つけたのが下記の早川先生の寄稿です。これは、(1999.3.24 於討論集会「生命物理と複雑系」東北大学電気通信研究所)となっているのでかなり古いものですが、物理学者としてのシュレーディンガー、著書の「生命とは何か」、そして疑問の“非周期性結晶”について記述されているのでピックアップさせて頂きました。

「生命物理は物理のフロンティアか」 早川尚男 (京都大学大学院人間・環境学研究科)

『シュレディンガーの生命観は御承知の通り素朴な決定論に基づいていました。 特に彼は染色体に注目し「非周期的結晶」と呼ぶに相応しい物質であると注目しておりました。非周期結晶とは 個々の単位は同じではないが、それらが周期的に現れ規則的配列をしているという意味で使っていますが、この考え方が後に重要な 役割を果たすことになります。特に染色体がその結晶的構造故に重要で遺伝暗号を媒介する遺伝子を持つということはシュレディンガーが初めて陽に言った様です。 ここで強調したいのは結晶を重要視し、素朴な力学的考察で生命現象は理解できるとした非常に力強い信念があった点です。 その意味で彼は生命を分子機械であると捉えていたと言えるかもしれません。』

こちらは早川先生のTwitterです。早川先生は現在、基礎物理学研究所 物質構造研究部門 教授 で間違いないと思います。

第三章 突然変異

22 不連続は突然変異―自然淘汰の行われる根拠

・『今から約40年前に、オランダ人のド・フリースは、完全に純粋種のものの子孫さえも、小さいが「飛び離れた」変化をしたものがごく少数、たとえば何万に二つとか三つとかの割合で出現する、ということを発見しました。「飛び離れた」という言葉は変化がはなはだ大きいという意味ではなく、変化の起こっていないものとごく少数の変化の起こったものとの中間の形のものがまったくない、という意味で不連続性があることを意味します。ド・フリースは、それを突然変異と名づけました。

不連続性ということことが重要なことなのです。これは、物理学者に量子力学―隣り合った二つのエネルギー準位の中間のエネルギーは現われないこと―を連想させます。物理学者は、ド・フリースの突然変異の説を、比喩的に生物学の量子論と呼びたいような気がするかもしれません。後の説明、これは単なる喩え以上に深い意味のあることがわかるはずです。実際、突然変異は、遺伝子という分子の中で起こる量子飛躍によるのです。

[突然変異と量子論]で検索したところ大変興味深いサイトが2つ見つかりました。

以前、私は「生物と量子力学」というブログをアップしているのですが、まさにこの分野は新事実がどんどん出てきているようで注目です。

画像出展:「ナゾロジー

『英国サリー大学(University of Surrey)で行われた研究によれば、DNAでは従来考えられていたよりも遥かに高い確率でトンネル効果が発生している可能性が高い、とのこと。

量子力学の世界では電子や陽子など小さな粒子の存在確率はあやふやであり、粒子がある場所から別の場所に突然、移動に必要なエネルギーを無視して、トンネルを通ったかのように出現する現象が起こり得ます。

研究結果が正しければ、生物進化の原動力として、量子効果が大きな影響を与えていることになるでしょう。』

画像出展:「ナゾロジー

『DNAは「生命の設計図」としての機能があり、私たち生物の体を作るためには欠かせない存在となっています。またDNAに刻まれた情報は世代を超えて子孫に継承され、親同じような体をした子を作ることを可能にし、種の概念を与えてくれます。しかしDNAの構造は不変ではなく、さまざまな要因で変化してしまうことが知られています。

DNA変異は有害物質や紫外線などの化学的・物理的要因に誘発されるだけでなく、複製時の酵素反応のエラーなど生物学的な要因によっても発生します。

DNAは誕生した当初から、物理的要因・化学的要因・生物学的要因の全てから挑戦を受けてきたと言えるでしょう。しかし量子力学と生物学との融合によって誕生した「量子生物学」の進歩により、生命活動において量子的な効果が無視できないことがわかってきました。

たとえば植物の光合成では、化合物間の間で古典物理学に反した電子のジャンプが頻繁に行われており、植物たちが量子力学を使って光合成効率を高めていることがわかってきました。』

もう1つは、量子科学技術研究開発機構さまのサイトです。

“量子力学の観点からメス  生命の謎に迫る”

『第4の波後半の20世紀、分子生物学が大きく花開いた。デオキシリボ核酸(DNA)二重らせん構造の発見に始まり、DNAに記された遺伝情報からたんぱく質が作られる仕組みやその役割などが明らかになった。がんやさまざまな病気に対する医薬、新型コロナウイルスに対する治療薬やmRNA(メッセンジャーRNA)ワクチンなどが開発され、人類は分子生物学の恩恵を受けている。

ヒトを始めとしたさまざまな生物種の全遺伝情報(ゲノム)もすでに解読され、生物の部品の情報が得られた。しかし、自動車は分解して組み立てると動くが、ヒトや大腸菌を分解しても元通りにならない。部品どうしの繊細な相互作用の情報が欠落しているからだ。つまり要素還元的なアプローチだけでは「生命とは何か?」に対する答えを得ることはできない。

第4の波で花開いた分子生物学の限界が見えた。第5の波は量子生命科学が花開くと考える。量子論・量子力学の視点や技術で生命科学にパラダイムシフトを起こそうとするのが、量子生命科学だ。生命科学の発展は科学技術の発展に依存する。16世紀末に光学顕微鏡が発明されて細胞が発見され、生命科学は分類学から細胞生物学にパラダイムシフトした。そして、電子顕微鏡や遺伝子工学の技術革新で分子生物学が花開き、免疫学、ウイルス学、脳神経科学などの生命科学が飛躍的発展を遂げた。』

第四章 量子力学によりはじめて明らかにされること

33 量子論によれば説明できる

・『今日の知識に照らしてみれば、遺伝子の仕掛けは、量子論の基礎そのものと密接に結びついている、というよりはむしろ、その上に打ち立てられているといえます。量子論は1900年にマクス・プランクにより発見されたものです。 

画像出展:「WAKARA

以下の文章は「Chem-Stationに書かれている内容です。このサイトには英語ですが、1分36秒のマックス・プランクの動画がありました。

『マックス・カール・エルンスト・ルードヴィヒ・プランク(Max Karl Ernst Ludwig Planck、1858年4月23日-1943年10月4日)は、ドイツの理論物理学者である。1918年にノーベル物理学賞を受賞。量子論の開祖の一人。

マックス・プランクは「量子論の父」と呼ばれているとのことで、ちょっと気になったのは、以前ご紹介したことのある、ニールス・ボアは何だっけ? というと、確認したところ、「量子論の育ての親」とのことでした。

 

近代遺伝学はド・フリース、コレンス、チェルマクによるメンデルの法則の再発見(1900年)およびド・フリースの突然変異に関する論文(1901-03年)から出発したといえます。したがって二つの偉大な理論の誕生はほとんど時を一つにしており、両者の結びつきができるまでに、或る程度の成熟に達する時をかさねなければならなかったのは不思議ではありません。量子論の側では、四半世紀かかって1926-27年になりようやく、W・ハイトラーとF・ロンドンにより、化学結合の量子理論の全貌が一般的原理において明らかにされました。ハイトラー-ロンドンにより化学結合の理論は、量子論の最近の発展(量子力学または波動力学と呼ばれるもの)の中で最も巧妙でこみ入った諸概念を含んでおります。計算を用いないでそのおおよその説明をすることは不可能に近く、あるいは少なくとも、本書と同じ位の小さい本を一冊必要としてます。しかし幸いに、われわれの考えを明らかにするために必要な説明はすっかり済みましたから、「量子飛躍」と突然変異との間の関連をもっと直に指摘し、最も顕著な点をいま拾いあげることができると思われます。このことこそ本書でこれから試みようとすることなのです。

岩波新書版(1975年)への訳者あとがき

シュレーディンガー略歴

『シュレーディンガーは、1887年オーストリアのウィーンに生まれました。同地で教育を受け、ウィーン大学に学びましたが、そのころウィーン大学には、確固たる原子論の立場にたつ統計力学の指導者ボルツマンがいました。ボルツマンは1906年自殺したので、彼が接した期間は短かったが、その学風から影響を受けたことは少なくなかったと思われます。シュレーディンガーは研究生活に入ると間もなく1912年に、物質の電気的・磁気的性質を電子論と原子構造から理論的に導く研究論文を発表しました。その後の研究は、多方面の理論的な問題におよんでいますが、その中には、大気中の音の音波の伝播の問題や、薄い液体膜(泡)の振動などの研究があります。また結晶格子とX線の干渉などの論文もあります。要するに、振動(物質中の音波や光の波)とその原子的(粒子的)な構造との関係というものが主要な関心の的だったといえましょう。

1920年にウィーンを去り、スツットガルト大学の理論物理学教授の席を得、同年結婚し、翌年にはスイスのチューリヒ大学の教授になりました。そのころようやく、前期量子論と相対性理論との立場から従来の力学に適当な制限を付加するというやり方での研究が行きづまり、原子のような世界にあてはまる新しい力学体系が必要になってきました。その中で1925年にハイゼンベルクが、まったく新しい立場から原子の力学を提唱し、ボルンとヨルダンはこれをマトリックス力学の形にし、これにより従来のニュートン力学と原子の力学との間に或る形式的な対応がつけられました。これに対し、シュレーディンガーはより直感的なモデルを考えており、従来の物理学で力学と光学との形式上の相似の関係を追及していました。1923年フランスのド・ブロイが、物質粒子の中の電子の波動が、干渉によっていくつかの定常波をつくって安定な電子軌道を生ずるというアイデアから、波動力学と名づける新力学を提出しました。1926年、彼が38歳の年の3月から9月にわたり発表した「固有値問題としての量子化」と題する前後四篇の論文は、今日シュレーディンガーの波動方程式と呼ばれる基本的な形式を導き、この波動力学がハイゼンベルクらのマトリックス力学と数学的に等価なものあることを証明し、さらに水素原子への応用例を示した論文でした。こうして新しい原子力学(やがて量子力学と呼ばれるようになったもの)が基本的に確立されました。

彼は1927年にプランクのあとをついでベルリン大学理論物理学教授になり、ユダヤ人ではなかったが、ヒトラーのナチスがドイツの政権を獲得した1933年にイギリスに渡り、同年ディラックと共にノーベル物理学賞を与えられ、オクスフォード大学とアイルランドのダブリン高級学術研究所に席を得ました。そして1936年にオーストリアのグラーツ大学に戻りましたが、第二次大戦の勃発により中立国アイルランドのダブリン研究所に落着きました。

ところで、シュレーディンガーの波動力学は、ハイゼンベルクのマトリックス力学やディラックの非可換代数学とくらべて直感的・時空的な原子像を頭に描くのにははるかに好都合で、そのため化学結合の理論やその他の原子・分子レベルの諸問題について量子力学の威力と信用を急速に高めるのに役立ちました。しかしまた彼が頭に描いた原子像・自然像は、アインシュタインのそれと似て、物質の時空的連続性について古典物理学的自然像に執着したものであり、そのためこの連続性と量子力学的現象で問題になる非連続性(物質構造の量子的非連続性や時間的変化の因果的非連続性)との矛盾に鋭くぶつかりました。そしてこの矛盾については、ボルンが「量子力学的確率」という観念を導入し、ハイゼンベルクが「不確定性原理」を提唱し、ボーアが物質の構造とその変化について時空的記述と因果的記述とは同一物の二つの側面像―二つの側面を同時に直接見ることはできないが二つの側面像は相互に補い合うもの―であるという「相補性原理」を提案したことによって、学界の大勢は哲学的不安から解放され、以来これが量子力学の正統派的解釈(コペンハーゲン的解釈)として学界の主流になり、理論物理学界の中央最前線は1920年代末からこの線にそった量子力学による素粒子物理の研究へ向かいました。しかし、アインシュタインやシュレーディンガーは量子力学のこの正統派的解釈に終生にわたり強い疑問と不信をいだき、そのためシュレーディンガーはアインシュタインと同様に1920年代末以降は理論物理学界の主流から全くはずれ、精神的孤独な生涯を歩いたのでした。個人というものは、ある究極的な意味では誰もみな孤独でありひとりで死んでゆくものでありますが、シュレーディンガーはその孤独さを後半生にはっきり自覚的に体験しつつ生きた人の一人でした。そのような孤独の自覚は古今東西の万人との一体的連帯感と相補的なものであり、そのことが本書のエピローグの哲学的な文章のなかに反映していると訳者は思うのですが。

1930年ごろ以来、シュレーディンガーの関心の最も中心的な焦点は、アインシュタインの場合と全く同じではないが、物質と電磁気と重力とを統一的に扱う単一場理論と宇宙論へ向かったように思われます。彼はダブリンで三冊の優れた小著―本書(1944年)と「統計熱力学」(1950年)―を次々に世に送りました。いずれも、簡潔な教科書的書物のなかに独自の鋭い哲学的思索を示したものです。その後1956年に母国に帰り、ウィーン大学教授となり、1961年1月4日に73年余の生涯を閉じました。』

ご参考

“シュレーディンガーの略歴”の中に、「アインシュタインやシュレーディンガーは量子力学のこの正統派的解釈に終生にわたり強い疑問と不信をいだき」とありますが、このことに触れている2つのブログをアップしていましたのでご紹介させて頂きます。 

ブログ:「数学と量子力学/物理学

確率解釈には激しく抵抗しました。なぜなら確率などという原理を物理学の中に持ち込むと、物理学はもはや「決定論」ではなくなってしまうと考えられるからです。

 

 

ブログ:「超ひも理論(超弦理論)

●量子重力理論

相対論と量子論が“結婚”出来れば究極の理論になる

-相対性理論は時間や空間、そして重力に関する物理学の理論である。

-量子論は原子や素粒子などのふるまいを説明する物理学の理論である。

マクロの世界に加え、ミクロの世界でも重力計算ができるようになれば、究極の理論は完成するということです。そして”素粒子=点”ではなく、”素粒子=ひも(弦)”と捉えることにより、可能性が生まれるということが分かりました。 

社内規程立案2

社内規程立案の手引き
社内規程立案の手引き

著者:外山秀行

発行:2019年7月

出版:中央経済社

目次は“社内規程立案1”を参照ください。

第4章 社内規程の効力

・社内規程の効力は施行期日から生じる。

17 社内規程の効力はいつから生じるのか

1)施行という概念

・「施行」とは制定された規範の効力を一般的に発動し、作用させることである。

・特に「適用」とは極めて類似しているが、「適用」は個別具体の事象に対する効力の発動・作用であるという点が異なる。

2)施行期日に関する条文

(1)条文の表記

・施行期日を示す条文は、附則に置かれている。社内規程の場合、附則にこれ以外の条文を置くことはあまりない。

・施行期日が唯一の条文の場合、見出しも条名もなく、施行期日を定める文章だけが表記される。

(2)表記されている期日などの意味

・社内規程は、制定後に改定されることがある。例えば、改定があった場合、条文中の「この規則」とは制定当初の規則のことか、改定後の規則のことかに迷うことがある。これは、附則の条文が示している年月日は直近に改定された時の施行期日であるため、改定後の現在規則ということになる。

18 社内規程の効力は誰に対して生じるのか

・社内規程の効力は、会社とその構成員である役職員に対して生じる。つまり「適用」という語を使えば、社内規程は「会社とその構成員である役職員に適用される。」ということになる。

1)適用という概念

・「適用」とは、施行された規範の効力を個別具体の事象に対して発動し、作用させることである。

2)会社に適用されることの意味

・会社とは場所や社屋等ではなく、会社という属性を持つ法人に対する属人主義的な適用を意味する。

3)運用対象が限定的にみえる社内規程

(1)組織関係規程

・社内規程の中には、適用の対象が役職員の一部に限定されているかのようにみえるものがある。

4)適用対象に関する明文の規定

・全ての社内規程は、会社とその構成員である役職員に適用されるべきものであるが、規程等管理規程などに規定を置き、明文化しておくことも有益である。

19 社内規程の効力が否定される場合とは

1)効力が否定される場合

・社内規程の効力が否定される事態というのは、相異なる社内規程の条項が互いに抵触している場合、どちらかの効力が否定される事態のことである。特に新規の社内規程の制定や現行の社内規程の改定によって新設された条項は注意すべきである。

20 社内規程の効力は子会社にも及ぶのか

・子会社の経営を適切に管理することは、親会社の重要な経営課題である。会社法では、子会社について「会社が議決権の過半数を有する株式会社その他の経営を支配している法人として法務省令で定めるもの」であると定義している。

実践編

第1章 社内規程の運営

1 社内規程の整備・運用はどのように行うべきか

・社内規程の管理には、個々の社内規程の管理と社内規程の全体統括という二つの側面がある。

1)個別管理と全体統括の概念

個別管理と全体統治
個別管理と全体統治

画像出展:「社内規程立案の手引き」

2)担当者の具体像

・個別管理の担当者は個々の社内規程を所管する部門の担当者のことである。一方、全体統括の方は、法務部や総務部において社内法務を一元的に統括する者が担当者になる。

3)担当者の役割

(1)個別管理

①現行の運用

②制定・改定の要否の検討

③立案作業の遂行

(2)全体統括

①規程集の整備

・全ての規程を収録した規程集を作成し、保管する。規程集は、関係者が常時閲覧できるようにするとともに、規程の制定・改廃があった場合には、これを速やかに反映させる。

②立案時における案文の審査

③制定・改廃の社内通知

2 社内規程の実効的な運用のために必要なことは何か

・社内規程の実効的運用とは、社内に浸透し励行されていることをいう。

1)浸透の難易度による社内規程の分類

・浸透の問題は規程を立案したものと、適用の対象となる者との距離が重要である。

2)規程を浸透させる必要性

・規程立案担当者及び運用責任者には、適用対象者が規程の意義を十分に認識し、その内容を理解できるように工夫する必要がある。

3)浸透させる努力と工夫

分かりやすい資料(Q&Aも有効)を用意し、説明会を必要に応じて開催するなどの高い意識が必要である。

3 社内規程の立案について心掛けるべきことは何か

・社内規程の立案は、適時適切に行うよう心掛けなければならない。

1)「適時」について

・社内規程を立案すべき時期は、個々の規程の性格によって様々である。

2)「適切」について

立案が適切であるための要件は、①規程の内容が規範として妥当なものであること、②規程の表記が規範として的確であること、③立案から施行に至る過程で所要の手続きを履行すること、である。

(1)内容の妥当性

①規定する措置の内容が立案の目的に照らして合理的なものであるか。

②立案する規程のレベルが内容の重要性に見合ったものになっているか。

③立案の内容が上位の規程に反していないか。

(2)表記の的確性

規程の全体が適切に構成されているか(条文の配列など)。

各条文が適切に構成されているか(条項の区切り、号の活用など)。

条項の引用表現に誤りはないか。

条項中の用事と用語が法令のルールに準拠しているか。

(3)適正手続きの履行

①立案開始時に余裕を持った日程を立てているか。

②関係部門との調整を早期に開始しているか。

③統括管理者(法務部など)による十分な審査を受けているか。

④規程の浸透に配意しているか(前広な周知、趣旨の説明など)。

4 社内規程の審査について心掛けるべきことは何か

1)審査の観点

・社内審査の目的は、立案された規程が内容において妥当であり、かつ、表記において的確であるかどうかを吟味し、問題点が発見された場合にはこれを是正することである。

2)審査担当者の心掛け

・審査の事務において、問題点を適確に発見し、是正する役割を果たすためには、①知見の涵養、②審査時間の確保、③支援する姿勢、④審査項目の共有、が大切である。

5 内部統制システムの関係者は社内規程にどう向き合うべき

・会社の役職員は様々な立場から内部統制システムに関係している。他方、社内規程は、内部統制システムを構築し、運用するための法的な基盤となっており、組織、業務、人事、コンプライアンスという各分野の社内規程が、それぞれ内部統制システムの構成要素に対して定められている。

1)内部統制システムの概念

・内部統制システムという概念は、会社法の定めに由来するものである。具体的には、「会社の業務の適正を確保するために必要な体制の整備」を意味する概念である。

2)内部統制システムの構成要素

①情報の保存及び管理に関する体制

②損失の危険の管理に関する体制

③取締役の職務の執行が効率的に行われることを確保するための体制

④監査役の監事が実効的に行われることを確保するための体制

第2章 立案の方式及び留意点

6 社内規程の制定、改定及び廃止はどのような方式で行なえばよいのか

・社内規程の制定、改定及び廃止を行う方式には、手続と様式の二つの側面がある。

1)手続き

社内規程を制定、改定又は廃止するためには、各規程のレベルに応じて、決議又は決裁という手続を経る必要がある。規程のレベルというのは、社内規程全体の階層構造の中で個々の社内規程が位置している階層のことであり、上から順に規程、規則、細則、要領というレベルがある。

・社内規程の制定・改廃権者は各レベルに対応しており、規程は取締役会、規則は経営会議、細則は社長、要領は本部長とされており、会議での決裁や社長、本部長の決裁の手続きが必要になる。

2)様式

・様式は社内規程のレベルを問わず、制定、改定又は廃止のいずれかによって異なっている。

(1)制定

・新規に規程を制定する場合は、決議又は決裁を求める際に、制定の経緯や目的、規程案の骨子などを説明した後に、「次の規程を制定することとしたい。」と記載し、当該規程案を添付した書面を提出する。

(2)改定

・現行規程を改定する場合には、改定の経緯や趣旨を説明した文章に加えて、改定の具体的な内容を示すため、新旧対照表を作成して添付する必要がある。

新旧対照法
新旧対照法

画像出展:「社内規程立案の手引き」

(3)廃止

・社内規程を廃止する場合は、廃止の理由を説明するとともに、「○○規程を廃止することとしたい。」と記載した書面に廃止する規程を添付して、決議又は決裁を求める。

7 新規の規程を制定する場合、特に留意すべきことは何か

・立案上の留意点は、内容の妥当性、表記の的確性及び適正手続きの履行以外に、新規と改定にはそれぞれ固有の留意点がある。

・新規の規程を立案する場合には、①主管部門の適切な決定、②規程のレベルの適切な選択、③現行規程との関係に対する考慮の三点である。

1)主管部門の適切な決定

・立案の主管部門は、制定しようとする事項を担当している部門とするのが原則である。

2)規程のレベルの適切な選択

・規程集の最上位に来る「規程等管理規程」が作成されていれば、各レベルの規程で定めるべき事項の性質が規定されているので、その趣旨を踏まえ、制定する事項の内容とその重要度に応じた適切なレベルを選択しなければならない。これが新規制定の際に最も留意すべき点である。

・不適切なレベル選択は、「規程等管理規程」の趣旨に反するばかりでなく、社内のガバナンスを阻害することにもなるので、十分な注意が必要である。

3)現行規程との関係に対する考慮

・社内規程は規程事項の内容によって、組織、業務、人事、コンプライアンスという四つの分野に大別される。

・新規の規程といっても、現行の規程と全く無縁の存在ではなく、何らかの関係を持つ場合が少なくない。

・上位にある規程との関係だけでなく、同列の規程との関係にも留意する必要がある。

8 規程のレベル選択を間違いやすいのはなぜか

・規程等管理規程では、「重要な事項は上位の機関が決める」という思想に基づき、各レベルの規程に置いて規定すべき事項を次のように定めている。

画像出展:「社内規程立案の手引き」

・レベルの選択を間違えるというのは、上記のような対応関係を考慮せずに不適切なレベルの規程を選択してしまうことである。その中でも最も起こりやすい間違いは規程又は規則で規定すべき事項を細則又は要領で想定してしまうことである。このような間違いが起こる原因としては、次の三つが考えられる。

1)特定を定める規程のレベルに関する誤解

・一般的に、特例、特則は一般則と同じレベルでなければならない。この原理は法令も同様である。

2)規程の主管と規程のレベルとの混同

・レベルの選択は規程の内容とその重要度によって判断すべきである。その内容が各部門に関係し、全社的な統制の下で実施すべきものであれば、重要性を鑑みて、上位のレベルを選択するのが適切である。

3)手続きの簡便性に惹かれる担当者の心理

・規程のレベルが上がるほど関係者が多く、制定手続にも時間がかかるので、担当者は下位のレベルを選択しようとする意識が働き、規定事項の重要性を軽視したレベルの選択が行われやすくなる。

9 規程のレベル選択の間違いを是正する方法とは

・規定事項が全ての役職員に対して一定の義務を課し、又は一定の権利を与えるようなものであれば、規程又は規則というレベルを選択すべきであるが、立案担当者が何らかの事情により、要領という形式を選択し、施行してしまった場合には、早急に是正する必要がある。

1)レベルの是正が必要な理由

①規程等管理規程の趣旨に反する。

②社内統治(ガバナンス)の実効性が損なわれてしまう。

2)レベルの是正に必要な手続き

・規程の題名を変更することはできず、一旦「○○要領」を廃止し、同内容の「○○規程」を制定するという二つの手続きを踏む必要がある。

3)レベルの適正を確保する方策

・レベル選択の誤りの発見と是正には、法務に精通したものに検証を依頼する必要がある。

・レベルの選択の誤りを防止するには、法務担当者の研修や啓蒙活動の他、審査する体制の構築が求められる。

10 現行の規程を改定する場合、特に留意すべきことは何か

・改定には、字句の変更、条項の追加、条項の削除という三つの類型がある。

・主な留意点には、目的規定との関係、題名、章名等との関係、追加する条項の単位がある。

1)改定の三類型

改定の三類型
改定の三類型

画像出展:「社内規程立案の手引き」

2)目的規定との関係

規程の第1条に目的規定がある。規程を改定する際には、改定した後の条項の内容と目的規定で定められている内容と整合していることを確認しなければならない。追加条項と整合するように現行規程の目的規定を改めるか、条項の追加ではなく、新規規程の制定という形式にする場合もある。

3)題名、章名等との関係

・目的の修正を要する追加改定を行う場合、題名が適切でなくなることもあるため相応しい題名に変更する。

・例えば、コンプライアンス組織規程に業務運営に関する条項を追加するような場合には、題名をコンプライアンス体制運営規程などと改正する必要がある。

4)追加する条項の単位

条項の追加する際には、条として追加するか、項として追加するかを検討する必要がある。密接な関係にある場合は項として追加し、やや独立した関係にある場合は、別の条を建てて規定するのが適切である。

11 規程の立案に際して手続面で履行すべきことは何か

・規程の立案には幾つかの段階がある。

①立案の開始を決定した段階:全行程の想定

②案文を作成するまでの間:関係先との協議

③案文を作成した段階:審査部への持ち込み

④機関決定後、施行までの間:社内における周知

1)全行程の想定

・案文の作成から機関決定を経て施行に至るまで、どのような手続をどの時点で履行するかを検討し、全工程の予定を想定しておく。

2)関係先との協議

・必要に応じて関係先との協議は早めに進めた方が良い。

3)審査部への持ち込み

・立案者の案文の審査は余裕をもって依頼するよう心掛けたい。

4)社内における周知

・規程成立後、施行されるまでに社内への周知を迅速かつ十分に行うことが重要である。特に制定・改定の背景や趣旨を詳しく説明したり、特に関係が深い者を対象に説明会を開催するなど周知のための工夫や配慮が必要である。

第3章 規程全体の書き方

12 社内規程の構成は法律とどこが違うのか

・社内規程の構成というのは、社内規程の全体にどのような規程をどのような順序で配列するかという問題である。

1)共通点

①冒頭に題名を付ける。

②本則、附則の順に条文を規定する。

③本則には規程の目的に直結する本体的な事項を規定し、附則には付属的な事項を規定する。

④本則の条文が多数に及ぶ場合には、「章」、「節」などの区分を設ける。

⑤本則に章などの区分を設ける場合には、第1章は「総則」とし、目的、定義など、規程全体に関連する事項を規定する。

⑥附則の冒頭に、施行期日を定める規定を置く。

2)相違点

(1)罰則の有無

・罰則は法律にしか存在しない。

・社内規程の場合には、罰則という制裁がないので、就業規則の中に通常、「社内規程に違反する行為が懲戒処分の対象となる」旨を定める規定をおく。これが違反行為を抑止する役割を果たしている。

(2)制定権者を示す条文の有無

・本則の最後に必ず、制定・改廃権者が誰であるかを示す条文が置かれる。

13 社内規程の題名を付ける際に留意すべきことは何か

1)社内規程における題名の例

・社内規程の題名は、概ね簡潔である。

2)法律における題名の例

・法律の題名は、簡潔なものと長文のものがある。

3)「規程等管理規程」という題名について

・社内規程の階層や効力関係など、社内規程全般に及ぶ重要事項を定める通則法的な規程である。

14 社内規程の本則には条文をどのように配列すべきか

・社内規程に共通する基本原則

条文配列の基本原則
条文配列の基本原則

画像出展:「社内規程立案の手引き」

1)総則的な条文の配列順

・目的規定は、原則として、全ての規程の第1条として置かれる条文である。

2)実体的な条文の配列順

・条文の配列順序はケースバイケースであるが、その内容を性質別に分類できる場合には、その性質を手掛かりに配列する。

・行為の準則を定める規程であれば、規定対象の行為に関する条文を時系列で並べるのが適切である。

3)雑則的な条文の配列順

・雑則的な条文の中には、本則の最後の条として、各規程の改廃の権限・手続を定める条文である。

15 章の区分について留意すべきことは何か

1)章に区別すべき場合

・本則の条文が多数あり、条文の見出しを追うのも大変な場合には、章に区分した上で、目次を付すのが一般的である。

2)条文のグループ分け

・重要なことは同じ章には同質の条文だけを置く。

3)章名の付け方

・章名は内容を端的に表示したものでなければならない。

・章名は「組織」「運営」など、できるだけ簡潔な方が良い。

・雑則的な条文は、「雑則」「改廃」という章名が相応しく、「第○章 その他」のような章名は不適切である。

16 目次について留意すべきことは何か

・目次は題名と本則の間に置く。

1)目次を置くべき場合

・規程の本則が章に区分されている場合には、必ず目次を置くようにすべきである。

2)目次の体裁

条文配列の基本原則
条文配列の基本原則

画像出展:「社内規程立案の手引き」

・上記にあるように、各章の章名と、各章に属する条文の範囲を示す括弧書きを表記する。

3)目次のメンテナンス

目次のある規程を改定する際には、改定による目次への影響に注意しなければならない。本則にある章名の変更や追加、削除を行う場合は、目次中の関係部分を全て改定しなければならない。

・条文の範囲が括弧書きで記載されているときは、改定後の本則の条名と整合するよう改定しなければならない。

17 社内規程の附則にはどのようなことを規定すればよいのか

・社内規程の附則は、通常、施行時期を規定する条文だけが記載されている。

画像出展:「社内規程立案の手引き」

1)「附則」という表記

・附則では、先ず、自らを「附則」と表記し、その後で次行から条文を書くことになっている。

2)制定・改定履歴の付記

・最終行に記載されている改定の年月日が、附則の条文に規定される施行時期となっている。

補足)“ひな型Rev1.0”のその後

”たたき台Rev0.1”を、何とか”ひな型Rev1.0”までブラッシュアップしましたが、その後、施行まで3つのアクションをとりました。

1.すでにお世話になっていた「埼玉県よろず支援拠点」の先生にご相談しご指摘を頂きました。

2.非営利型一般社団法人に精通されている、顧問税理士の先生にご確認頂きました。

3.浦和西高のOBでもある、顧問弁護士の先生に最終の確認をして頂きました。

以上、必要カ所の修正を行い、完成した正式版Rev1.0を一社UNSSの全メンバーに説明し、承認を受けめでたく施行となりました。(自分自身に「お疲れ様」といいたい)

埼玉県よろず支援拠点
埼玉県よろず支援拠点

『「埼玉県よろず支援拠点」は、経済産業省・中小企業庁が、全国47都道府県に設置する経営なんでも相談所です。

中小企業・小規模事業者、NPO法人・一般社団法人・社会福祉法人等の中小企業・小規模事業者に類する方の売上拡大、経営改善など経営上のあらゆるお悩みの相談に無料で対応します。』

社内規程立案1

今まで、「プロジェクト計画書」、「非営利型一般社団法人」、「定款作成物語」というブログをアップしてきました。これらは我が母校である、埼玉県立浦和西高校サッカー部OB会を法人化するために必要なことでした。

法人化により法人口座をもち、契約できるようになりました。そして、任意団体は法人格の団体となり、社会的信用は確実に高まりました。

何故、法人化したのか、これはサッカー部のOBが主体となって、寄付を募り、その資金で土のグラウンドを人工芝のグラウンドに替えるためです。募金の目標金額は5,500万円です。

なお、法人成立は2022年8月、社名は「一般社団法人UNSS」、UNSSは「浦和西高スポーツサポーターズクラブ」の略称です。

ご興味あればのぞいてみてください。

一社(一般社団法人)の立ち上げは完了しましたが、会社のルールブックである定款を補完するための「運営管理規程」の整備が残っていました。この難題は、定款作成を進めてきた私の仕事になりました。これには違和感はないものの、今まで経験したこともなく、「これは、まいったな。大ピンチ!」というところです。

とりあえず、『一般社団法人及び一般財団法人に関する法律』という法律をのぞいてみました。本則は全部で344条、一般財団法人の部分に加え、当面は不要と思われる条文もかなりありました。一方、ネットにあったさまざまな管理規程のサンプルを集めました。

この二つの方向から眺め、絞りに絞った条文を、誰がみても何とか意味が分かるような文章に修正しました。こうして、“雛形”とは言い難い、“たたき台rev0.1”は出来上がりました。

作ってはみたものの、運営管理規程策定のルールも作法もよく知らない者が作ったrev0.1のため、かなり怪しい出来上がりのような気がしました。

そこで、今更であり、順番は逆になりましたが、「やはり、少し勉強せねば」と考え、約160ページの『社内規程立案の手引き』という本を図書館から借りてきました。思いきって買ってしまいたかったのですが、定価2,400円の本は在庫がなく、中古本は5,000円以上と高額だったため、断念しました。

社内規程立案の手引き
社内規程立案の手引き

著者:外山秀行

発行:2019年7月

出版:中央経済社

基礎編

第1章 社内規程の意義

1 社内規程とは何か

2 社内規程にはどのような種類があるのか

3 どの会社にも必要な社内規程とは

4 社内規程は誰のため、何のためにあるのか

5 社内規程は内部統制システムとどのような関係にあるのか

6 社内規程は法律とどのような関係にあるのか

第2章 社内規程の体系

7 社内規程の体系とは何か

8 社内規程の体系はどこで定められているのか

9 社内規程の体系はなぜ重要なのか

10 社内規程の体系が形骸化する事態とは

11 社内規程の体系と法体系の共通点と相違点は何か

第3章 社内規程の構造

12 社内規程の立案に当たって必要な構造的理解とは

13 社内規程は同列の社内規程とどのような関係にあるのか

14 社内規程は上下の社内規程とどのような関係にあるのか

15 個々の社内規程はどのように構成されているのか

16 社内規程の条文はどのように表記されているのか

第4章 社内規程の効力

17 社内規程の効力はいつから生じるのか

18 社内規程の効力は誰に対して生じるのか

19 社内規程の効力が否定される場合とは

20 社内規程の効力は子会社にも及ぶのかのか

実践編

第1章 社内規程の運営

1 社内規程の整備・運用はどのように行うべきか

2 社内規程の実効的な運用のために必要なことは何か

3 社内規程の立案について心掛けるべきことは何か

4 社内規程の審査について心掛けるべきことは何か

5 内部統制システムの関係者は社内規程にどう向き合うべきか

第2章 立案の方式及び留意点

6 社内規程の制定、改定及び廃止はどのような方式で行なえばよいのか

7 新規の規程を制定する場合、特に留意すべきことは何か

8 規程のレベル選択を間違いやすいのはなぜか

9 規程のレベル選択の間違いを是正する方法とは

10 現行の規程を改定する場合、特に留意すべきことは何か

11 規程の立案に際して手続面で履行すべきことは何か

第3章 規程全体の書き方

12 社内規程の構成は法律とどこが違うのか

13 社内規程の題名を付ける際に留意すべきことは何か

14 社内規程の本則には条文をどのように配列すべきか

15 章の区分について留意すべきことは何か

16 目次について留意すべきことは何か

17 社内規程の附則にはどのようなことを規定すればよいのか

第4章 条文の書き方

18 条文の書き方について一般的に留意すべきことは何か

19 条文に見出しを付ける際に留意すべきことは何か

20 枝番号の条文を置くことは許されるのか

21 条文に複数の項を置く場合に留意すべきことは何か

22 項中のただし書はどのように書けばよいのか

23 項中の後段にはどのようなものがあるのか

24 号の使用について留意すべきことは何か

25 表とはどのようなものか

26 別表とはどのようなものか

27 目的規定はどのように書けばよいのか

28 定義規定はどのように書けばよいのか

29 条項の引用はどのように書けばよいのか

30 他の条項にある事項を引用するときの書き方とは

31 条項の準用とは何か

32 条文を読みやすくするための工夫とは

第5章 用字

33 条文中の漢字の使用にはどのようなルールがあるのか

34 副詞や接続詞は漢字を使って書くのか

35 送り仮名の付け方にはどのようなルールがあるのか

36 句読点の使い方にはどのようなルールがあるのか

37 外来語を使うときに留意すべきことは何か

38 数字を使うときに留意すべきことは何か

39 括弧などの記号はどのようなときに使えばよいのか

第6章 用語

40 条文中の語句の使用について留意すべきことは何か

41 語句を並べるときはどのように表現するのか

42 「又は」「若しくは」は、どう使い分けるのか

43 「及び」「並びに」は、どう使い分けるのか

44 「その他」と「その他の」は、どう違うのか

45 「とする」は、どのような場合に使うのか

46 「による」は、どのような場合に使うのか

47 「ものとする」は、どのような場合に使うのか

48 「しなければならない」は、どのような場合に使うのか

49 「してはいけない」は、どのような場合に使うのか

50 「することはできない」は、どのような場合に使うのか

51 「することができる」は、どのような場合に使うのか

52 「要しない」「妨げない」は、どのような場合に使うのか

53 「置く」「行う」などで結語するのは、どのような場合か

54 「みなす」と「推定する」は、どう違うのか

55 「場合」「とき」は、どう使い分けるのか

56 「もの」には、どのような使い方があるのか

57 「含む」「除く」「限る」には、どのような使い方があるのか

58 「等」は、どのように使えばよいのか

59 「この」「その」「当該」は、どのように使えばよいのか

60 「直ちに」「速やかに」「遅滞なく」は、どう違うのか

ブログは基礎編と実践編の第3章までです。

基礎編

第1章 社内規程の意義

1 社内規程とは何か

・「社内規程とは、社内で制定され、社内に適用される規定である。」

・個々の条項の定めを指すときは「規定」といい、一連の条項の総体としての定めを指すときは「規程」という。

1)制定と適用

制定権限のある機関が所定の手続きによって法令としての案文を確定し、これを法令として定立する行為。

施行制定された法令の規定の効力を一般的に発動し、作用させること。

適用施行された法令の規定の効力を個別具体の事象に対して発動し、作用させること。

2 社内規程にはどのような種類があるのか

1)分野別の種類

分野別分類
分野別分類

画像出展:「社内規程立案の手引き」

・定款と規程等管理規程は、会社経営や社内規程の全体をカバーする基本的な重要事項を規定するものであり、個別分野には限定されない「スーパー社内規程」なので、上記の分類表には入っていない。

2)階層別の種類

定款-規程-規則-細則-要領

3 どの会社にも必要な社内規程とは

1)組織関係規定

・定款

・社内規程

2)人事関係規定

・人事関係の分野では、労働基準法の規定により、一定規模以上の会社は就業規則を作成しなければならないことになっている。

・労働法との関連では、育児・介護休業法や労働安全衛生法の規定を実施するため、社内の体制や手続を定める規定が必要となる。

3)コンプライアンス関係規定

・コンプライアンスの分野では、金融商品取引法や個人情報保護法などの規則法が定めている義務を社内で確実に履行するために、内部者取引防止規程、個人情報保護規程などの社内規程を制定することが必要になる。

4 社内規程は誰のため、何のためにあるのか

社内規程は、会社と役職員のため、会社経営の適正を確保するためにある。

1)総体としての社内規程の意義

(1)社内規程は誰のためにあるのか

・社内規程は会社と役職員のためにある。

・「役職員のためにある」とは、会社の業務を担う役員と職員が社内規程によって責任と権能を与えられていることを意味する。

(2)社内規程は何のためにあるのか

・社内規程は、会社経営の適正を確保するためにある。

「会社経営の適正」というのは、会社の経営が会社法、労働法、金融商品取引法などの関係法に従って適正に行われる。ということを意味している。

会社が関係法の適正な履行を確保するためには、関係法の受け皿としての内規を制定し、法的基盤を構築する必要がある。社内規程は、そのような内規の役割を担っている。

2)個々の社内規程の意義

(1)組織関係規程

①取締役会規程と経営会議規程

・役員を適用対象とし、会の運営を適切に行うための準則、指針としての意義を持っている。

②組織規程

・会社全体と各組織の構成員を適用対象とし、会社業務の責任分担と効率的な業務運営の体制を確立する意義を持っている。

(2)人事関係規程

①就業規則と給与規則

②育児・介護休業規則

(3)業務関係規程:経理規程、情報システム管理規程、営業管理規程

(4)コンプライアンス関係規程

①内部者取引防止規程、会社情報開示規程、個人情報保護規程

②内部通報規程

5 社内規程は内部統制システムとどのような関係にあるのか

1)内部統制システムという概念

・内部統制システムという概念は、会社法の定めに由来するものである。

・「会社の業務の適正を確保するために必要な体制」

2)内部統制システムに関する法令の規定

・会社法では、内部統制システムについて、取締役会が自ら決定しなければならない事項であると定めている。

3)社内規程と内部統制システムとの関係

会社はこのような法令の趣旨を踏まえ、組織、人事、業務、コンプライアンスの各分野で、適切な関係規程を制定し、運用することが求められる。会社の社内規程は、内部統制システムがどのように整備されているかという姿を映し出す鏡であるといっても過言ではない。

6 社内規程は法律とどのような関係にあるのか

1)法律の規定に由来する社内規程

(1)制定義務の履行

・社内規程の中には、法律によって制定が義務付けられているものがある。代表的なものは以下の通り。

-規程名:定款  

-根拠条文:会社法第26条

(2)法定機関の設置

・組織関係規程の中には、法律が定める機関を設置するために必要なものがある。

(3)法制度の確実な履行

・人事やコンプライアンス関係規程の中には、法律が定める制度を確実に履行するために必要なものがある。代表的なものは以下の通り。

-制度名:個人情報保護制度

-根拠法:個人情報保護法

-規程名:個人情報保護規程

2)法律に準拠した表記

社内規程は、成分の規範である点で法律と共通しているので、その表記も基本的には法律における表記のルールに準拠している。

(1)基本構造

規程の全体は、題名、本則、附則という要素で構成する。

本則には、総則的な条文、実体的な条文、雑則的な条文という順序で条文を配列する。

(2)条文表記

各条文には、第1条から順次、「第○条」という条名を表記する。

各条文には、冒頭に括弧書きで見出しを付ける。

文章としての条文は、必要に応じて、「項」に分ける。

条文の文章は、法令用語を適切に使って、規範らしく書く。

第2章 社内規程の体系

7 社内規程の体系とは何か

・社内規程は全体として統一的な秩序を保持するよう、上下の階層構造が設定され、上位の規程が下位の規程に優先するという原理が定められている。

1)上下の階層構造とは

(1)階層構造の全体像

規程の名称:定款-規程-規則-細則-要領

(2)階層構造の基本思想

・「より重要な事項は、より権限の大きい機関が決定すべきである。」という思想に基づくものである。

2)上位規程優先の原理とは

・上位にある社内規程は常に下位の社内規程に優先する効力をもつよう定められている。

3)社内規程の秩序との関係

・社内規程の体系は、社内規程の秩序を保持する重要な仕組みとなっており、立案関係者に対する警告としての意義も持っている。

8 社内規程の体系はどこで定められているのか

・社内規程の体系は、「規程等管理規程」という題名の規程によって定められており、定款を除けば最も上位の階層に位置する。

1)「社内規程の体系」に直接関係する規定

(1)社内規程の種類

①定款 

②規程

③規則

④細則

⑤要領

2)その他の規定

・規程等管理規程では、社内規程の管理運用に関し、法務を司る部署が規程集を整備する責任を負うとされている。

3)法体系を定める法令

・法令にも、憲法、法律、政令、省令という上下の階層構造と上位法令優先の原理を骨子とする法体系があるが、規程等管理規程に相当する法令は、今のところ存在しない。

9 社内規程の体系はなぜ重要なのか

1)社内規程の体系

・社内規程は上下の階層構造から成り立っており、下位の規程が上位の規程を覆すことは許されない。

2)企業経営の規律

・企業経営の規律には、経営に対する規律と経営における規律という二つの概念がある。

3)社内規程の体系の役割

(1)経営に対する規律との関係

・社内規程の体系が定款を最上位の規程としていることは、経営に対する規律を保証する役割を果たしている。

(2)経営における規律との関係

・社内規程の体系では取締役会を制定・改廃権者とする規程が定款の次に位置づけられていることが重要である。

・取締役会は次に掲げる株式会社の場合においては設置しなければならない。

-公開会社

-監査役会設置会社

-監査等委員会設置会社

-指名委員会等設置会社

10 社内規程の体系が形骸化する事態とは

・社内規程の全体を規律する「規程等管理規程」の下位になる個々の社内規程は、それぞれの規程事項を所管する各部局の担当者によって立案され、運用される仕組みになっている。このため担当者によって尊守する意識にばらつきがあるため、「社内規程の体系」が形骸化するリスクがある。

1)形骸化する事態

・形骸化とは、本来上位の規程が定めるべき事項を下位の規程が定め、これを事実上施行してしまうことである。

2)形骸化する原因

・担当部署以外からの是正する力が働かないと、形骸化するリスクは避けされない。

3)是正策

・上位の規程に対し、全てが規程に反している場合は廃止、一部の場合は当該条項を削除する。

4)予防策

・社内規程の立案に携わる者が日頃から社内規程の体系について十分に認識することができるように定期的に研修等を行う必要がある。

11 社内規程の体系と法体系の共通点と相違点は何か

・社内規程と法体系の共通点と相違点を理解しておくことは有用である。

1)共通点

(1)階層構造の存在

・個々の規範は全て階層構造に置かれている。

(2)上位規範優先の原理

・上位にある規範が常に下位の規範に優先する効力をもつ。

2)相違点

(1)体系を定めた包括的な規範

・社内規程の体系には定款に続く、規程管理規程があるが、法令には存在しない。

(2)下位の規範の独自性

・下位の規程は内容が上位の規程に反しない限り、上位の規程からの委任は必要とせず、制定することができる。一方、政令、省令(行政立法)は、法律を補完する必要がある場合のみ制定される。

(3)規範の効力を裁定する機関

・下位の法令の条項が上位の法令に違反した場合、裁判所が裁定するが、社内規程では裁定するような機関は存在しない。

第3章 社内規程の構造

12 社内規程の立案に当たって必要な構造的理解とは

1)社内規程には、社内規程全体の基調となる構造と、個々の社内規程の条文に関する構造がある。

(1)社内規程全体の基調となる構造(=マクロ的な構造)

①事項の分担を基調とした構造(=横の構造)

・社内規程は、組織、人事、業務、コンプライアンスの各分野における規程事項を互いに分類している。

②上下の序列を基調とした構造(=縦の構造)

・社内規程は、「重要なことは上位の機関が決める」という理念に基づき、階層構造を有する。

(2)個々の社内規程の条文に関する構造(=ミクロ的な構造)

①規程全体の条文配列に関する構造

・各規程は、題名、本則、附則という要素で構成され、本則には一定の順序で条文が配列される。

②各条文の表記に関する構造

・各条文は、見出し、条名、項などの要素で構成され、条項の文章は、法令用語を用いて、「条文らしく」表記される。

2)構造と立案の関係

・規程立案には次のような点を考慮する必要がある。

(1)規程を立案する場合、同じ分野にある現行社内規程と規定事項を適切に分担するには、新規制定、追加改定のうち、いずれの形式にすべきか。

(2)規程を新規に制定する場合、条文をどのように配列すべきか。

(3)規程を新規に制定する場合、条文をどのように配列すべきか。また、条文を追加する改定を行う場合、本則のどこに追加するのが適切か。

(4)条文を作成する場合、見出しの表現、条項の分け方、文章中の用語などをどのようにすれば「条文らしい」表記となるか。

13 社内規程は同列の社内規程とどのような関係にあるのか

1)組織関係の規程

・取締役会を掲げる株式会社においては、取締役会を制定権者とする同列の規程として、組織規程、職務権限規程、及び取締役会規程という規程がある。

2)人事関係の規則

・具体例として、就業規則、給与規則、退職手当規則などがある。これらは、いずれも経営会議が制定権者となっている同列の規程である。

14 社内規程は上下の社内規程とどのような関係にあるのか

・階層構造は「重要なことは上位の機関が決める」という思想に基づくものである。

1)組織関係規程

・会社にどのような組織を置き、職務権限をどのように配分するかということは、会社の基本的な経営体制に関わる最重要事項である。組織と職務権限はそれぞれが等しく重要と考えられるので、その基本を「組織規程」と「職務権限規程」で先ず定めることが必要になる。

2)人事関係規程

・従業員の就業条件に関する重要事項は、労働基準法に基づき就業規則で定めなければならない。

15 個々の社内規程はどのように構成されているのか

・個々の社内規程は、冒頭から末尾まで、題名、本則、附則などの要素で構成されている。このうち最も重要な要素は本則であり、条文を本則にどのように配列するかは、立案事務の基礎として重要である。

1)社内規程の構成要素

(1)題名

・「組織規則」、「就業規則」など。

(2)目次

・社内規程の本則が章に区分されている場合には、題名と本則の間に、章の名称を示す目次が置かれることがある。

(3)本則

・規程の本体となる部分。第1条には規程の目的が、最終条には規程の制定権者が示される。

(4)附則

・規程の本体付属する部分が「附則」として、本則の次に表示される。

・附則には、最終の改定が施行される年月日を示す条文が置かれる。

(5)履歴

附則の次に、規程の制定と改定が施行された年月日が表示される。

(6)別表

・規程の中には、複雑な内容を分かりやすく示すために、本来は本則で規定すべき事項の一部分を末尾に別表として示すものがある。

2)本則への条文の配列

(1)条文全体の配列

条文全体をその性格によって、総則的な条文、実体的な条文、雑則的な条文の三種類に分け、この順に配列する。

(2)総則的な条文の配列

・総則的な条文とは、規程全体に関わる事項を定める条文である。第1条は目的規定とし、以下、必要があれば定義規定などの条文を配列する。

(3)実体的な条文の配列

・実体的な条文とは、規程の中核となる具体的な事項を定める条文である。その配列順は、規定する事項の内容次第である。以下は一応の目安である。

組織や権限を定める規程であれば重要性の順

一連の手続きや業務処理を定める規程であれば行為の時系列順

(4)雑則的な条文の配列

・雑則的な条文とは、手続や細則などの事項を定める条文である。本則の最後には制定・改廃の権限と手続を定める条文を置き、他の雑則的な規定が必要であれば、その直前に配列する。

16 社内規程の条文はどのように表記されているのか

1)条文の構成要素

・見出しは第1行目に括弧書きである。

・条名は第2行目の冒頭に「第5条」という表記になる。

・この条文では二つあり、二番目の項の冒頭に「2」という項番号が付されている。

画像出展:「社内規程立案の手引き」

2)条文らしい表現

・条文は法令用語が適切に使われることによって、規範の内容が「条文らしく」なる。

表現で最も重要なのは文章末尾の表現である。

・代表的な末尾の表現には次のようなものがある。

(1)「……とする。

(2)「……による。

(3)「……しなければならない。」「……することができる。

黄金の華の秘密

ブログで取り上げた 『ユングと共時性』に、次のようなことが書かれていました。

ユングと共時性
ユングと共時性

リヒャルト・ヴィルヘルムが翻訳した中国の錬金術の本が「黄金の華の秘密」である。ユングがこの本に払った苦心は、主要な心理学的概念を発展させるための重要な源となっている。特に、ユングが「共時性」を初めて公に使ったのが、1930年のリヒャルト・ヴィルヘルムの葬儀での賛辞の中であったことはとても意義深い。

 

ユングにとって、リヒアルト・ヴィルヘルムによって翻訳されたこの『黄金の華の秘密』はとても重要な出会いでした。

今まで何度も、「まぁ、何とかなるだろう」と思って身分不相応の本を何冊も買ってきたのですが、今回の本もほとんど歯が立ちませんでした。

ただ、立ち向かった足跡だけでも残したいものだと思い、印象に残った部分とC・G・ユングにとって、人生最大級の出会いとなった、リヒアルト・ヴィルヘルムについて書き残すことにしました。

黄金の華の秘密
黄金の華の秘密

訳者:湯浅泰雄、定方昭夫

出版:人文書院

発行:初版 1980年3月31日

   新装版 初版第一刷 2018年4月20日

   新装版 初版第ニ刷 2021年10月20日

 

 

目次

第二版のための序文……C・G・ユング

第五版のための序文……ザロメ・ヴィルヘルム

リヒアルト・ヴィルヘルムを記念して……C・G・ユング

ヨーロッパの読者のための註解……C・G・ユング

 序論

 基礎概念

 対象からの意識の離脱

 完成

 結論

ヨーロッパのマンダラの例……C・G・ユング

太乙金華宗旨の由来と内容……リヒアルト・ヴィルヘルム

 一 本書の由来

 ニ 本書の心理学的・宇宙論的前提

太乙金華宗旨

 第一章 天心

 第二章 元神・識神

 第三章 回光守中

 第四章 回光調息

 第五章 回光差謬

 第六章 回光微験

 第七章 回光活法

 第八章 逍遥訣

 第九章 百日立基

 第十章 性光識光

 第十一章 ○離交媾

 第十二章 周天

 第十三章 勧世歌

慧命経

 一 漏尽

 ニ 六候

 三 任脈と督脈

 四 道胎

 五 出胎

 六 化身

 七 面壁

 八 虚空粉粋

訳者解説

 1 ユングとヴィルヘルムの出会い

 2 太乙金華宗旨と呂祖師

 3 思想的内容と心理学的視点

 4 本書の内容と邦訳について

第二版のための序文  C・G・ユング

●リヒアルト・ヴィルヘルムは1928年、C・G・ユングに『黄金の華の秘密』のテキストを送った。C・G・ユングは1913年から集合的無意識の諸過程について研究を進めていたが、15年間の努力の成果は比較可能な手掛かりが掴めず、不安定な状態にあった。その状態から抜け出せたのは『黄金の華の秘密』の中にグノーシス主義者たちの中に求めても得られなかった部分を含んでいたからである。そして、本書はC・G・ユングの研究に正しい方向づけを与えた。

第五版のための序文  ザロメ・ヴィルヘルム

●1926年、リヒアルト・ヴィルヘルムは次のような短い序文を書いている。

『「慧命経―意識と生命の書―は、1794年に柳華陽が著した書物である。この本は「黄金の華の秘密」と合本にして千部刊行された。

この著作は仏教的瞑想法と道教的瞑想法をまじえたものである。この書の基本的見解によれば、生命が生まれるとき、心は、意識と無意識という二つの領域に分かれる。意識とは人間において個人化され、分離された要素であり、無意識とは、彼を宇宙に結びつける要素である。この書の基本原理は、瞑想を通じて二つの要素を結びつけるところにある。無意識は、意識がその中に沈潜してゆくことによって、その内容をゆたかにされねばならない。瞑想によって無意識の活動は活潑となり、意識領域まで昇る。こうして豊かな内容をもつに至った意識とともに、心は、再生するという形をとって、超個人的な魂の領域へと入ってゆく。この魂の再生は、やがて意識作用の内面的分化発展へとみちびき、自由自在な思考の状態にまで至る。しかし、さらに瞑想が深まってその終極に至ると、必然的に、すべての差別が消滅した究極的無差別の中にある大いなる一つの生命に解消していくのである」。』

ヨーロッパの読者のための註解

序論

現代心理学が理解を可能にする

●『人間の身体があらゆる人種的相違をこえて共通の解剖学的構造を示すのと同じように、魂(プシケ)というものも、あらゆる文化と意識形態の相違の彼方に共通の低層を有しているものであって、私はそれを集合的無意識と名づけたのである。この無意識の魂は、意識化され得る内容から成り立っているものではなく、ある種の同一の反応へと向う潜在的な素質から成り立っているのである。集合的無意識という事実は、あらゆる人種の相違を超えて脳の構造が同一であるということの心的な表現なのである。そこから、さまざまな神話のモティーフや象徴の間に見出される類似性あるいは同一性、さらには人間の相互理解の可能性一般が同一性を示すという事実も、説明がつくようになるのである。心の発展のさまざまな方向は、一つの共通な根底から出発しているものであって、その根は、あらゆる過去の発達段階にまで達している。そこには動物との心的類似さえ存在しているのである。

純粋に心理学的にみれば、ここでは、表象(想像)し行動する本能における共通性が問題なのである。あらゆる意識的表象と行動とは、この無意識的範例の上に発達してきたものであって、いつもそれと関連しあっている。特に、意識がまだあまり高い明晰さにまで達していない場合、言いかえれば、意識がそのすべての作用において意識された意志よりもむしろ衝動に、まだ理性的な判断よりも感情によって動かされている場合がそうである。この状態は、原始的な心の健康を保証しているものであるが、しかしそれは、より高い道徳的行為を必要とするような状況が現われてくると、たちまち適応性を欠いたものになる。本能というものは、全体としていつも同じ自然状態のうちに埋めこまれている個体にとってしか、十分役に立つものではない。したがって、意識的選択よりも無意識的なものに依存する個人は、断乎たる心的保守主義に向う傾向がある。原始人の考え方が何千年にもわたって変化せず、あらゆる見なれないものや異常なものに対して恐れを感じる理由もそこにあるのである。場合によっては、彼らは不適応状態にみちびかれたり、それによって重大な精神的危機、つまり一種のノイローゼにおちいったりするかもしれない。異質なものをドウかすることによってのみ生じてくる、より高度の、またより広い意識は、自律的態度へと向い、古き神々に対する反抗へみちびく傾向もある。古き神々とは、それまで意識を本能への依存状態に止めた強力な無意識的範例に他ならないのである。』

基礎概念

道の諸現象

アニムスとアニマ

私事ですが、約30年前にC・G・ユングの夫人であるE・ユング(エンマ・ユング)の著書である『内なる異性 -アニムスとアニマ-』という本を読んだことがありました。

一方、同書に書かれた「アニムスとアニマ」は冒頭、“魂”と“魄”について書かれており、これは「どういうことなんだろー」と大変興味を持ちました。

内なる異性
内なる異性

この本の裏表紙には次のような紹介がされていました。(一部)

著者(C・G・ユング夫人)は、夢や神話、民話、文学作品等にあらわれたアニムスとアニマの典型的な形姿を研究することから、男性の本質、女性の本質を浮彫りにする。そしてこれら内なる異性を認識・承認し、人格全体の中へ組み入れることこそ、自己実現にとって不可欠の、また現代人にとって緊急の課題であることを指摘する。』 

●『この書によれば、無意識の諸形態には、神々ばかりでなく、アニムスとアニマも見出される。ヴィルヘルムは「魂」Hunという言葉をアニムスと訳している。実際、私が用いているアニムスという概念は「魂」にぴったり適合している。その字形は「雲」をあらわす字〔云〕と「悪魔」をあらわす字〔鬼〕から構成されている。つまり魂は、雲のようなデモン、高いところで息吹する雲というような意味であり、「陽」の原理に属しているから男性的なものである。死後、「魂」は天に昇って「神」つまり「みずから拡大して示現する」霊、または神となる。これに対して「魄」は「白さ」をあらわす字〔白〕と「悪魔」をあらわす字〔鬼〕で示されている。「魄」はアニマである。それは「白い幽霊」であり、地上的な身体にともなう霊であって、「陰」の原理に属している。したがってそれは女性的である。死後、「魄」は下方へ沈み、「鬼」すなわち「(大地へと)帰る者」、いわゆる亡霊あるいは幽霊になる。このようにアニマとアニムスが死後分離してばらばらになってしまうということは、中国人の意識にとって、両者がさまざまの作用をもつものとして、互いにはっきり区別できる心的要因であったことを示している。』

●『ヴィルヘルムがこの書物のことを知らせてくれる何年も前から、私は、「アニマ」という概念に含まれた形而上的仮定は別にして、この概念を、中国語の定義と全く類似した形で使っていた。心理学者にとって、アニマは何も超越的なものでなく、全く経験可能な実体である。というのは、中国語の定義もはっきり示しているように、情動的状態は直接的な経験なのであるから。しかしこの場合、なぜ人は、アニマ〔という人格化された像〕について語って、気分については語らないのだろうか。その理由は次のような点にある。情動作用は、範囲を限定できる意識内容、つまり人格の一部である。それらは人格の一部であるので、当然、人格的特徴をもっている。したがってそれは容易に人格化され得るのである。先にあげた例が示しているように、それは今日もなお進行している過程なのである。情動をかき立てられた個人は、中立的になることができず、ふだんの性格とは全くちがった、一定のはっきりした性質を示すようになる。その意味で、〔情動作用を〕人格化することは、無意味なつくりごとではないのである。この場合、慎重にしらべてみると、男性では、情動的性質が女性的特徴を示すことが明らかになる。「魄」についての中国人の教えは、私のアニマについての理解と同様に、こういう心理学的事実に属している。深い内省や恍惚の体験は、〔男性の〕無意識領域に女性的な形姿が実在していることを明らかにする。したがって「心」には、〔昔から〕アニマ、プシケ、ゼーレといった女性名詞が用いられているのである。アニマは、男性が女性に関してもつあらゆる経験からつくり出されたイメージ、ないし元型、あるいは沈殿物である。と定義することもできるだろう。したがってアニマ像は、きまって〔現実の〕女性に投影される。

●『一般的にいえば、私はアニマを無意識の人格化と定義した。したがってアニマは、無意識〔領域〕への橋渡し、つまり無意識に対する関係の機能としてとらえられる。こう考えた場合、われわれの書物の考え方は興味がある。この書は、意識(すなわち個人的意識)はアニマ〔魄〕から出てくるものと考えている。西洋的精神は意識の立場からしか考えないので、アニマを定義する場合には、私がこれまでやってきたような〔アニマをかくれた無意識の作用と解する〕やり方で、解釈しなくてはならない。ところが東洋は逆に、まず無意識の立場に立って考えるので、意識とはアニマのはたらき〔の産物〕であると見なしているのである! たしかに〔東洋が考えているように〕、意識は元来無意識から生じるものである。われわれ〔西洋人〕は無意識についてはほとんど考えようとしないので、「心(プシケ)」を一般に「意識」と定義したり、そこまでゆかなくても、無意識は意識の派生物か、それに従属する作用であるといつも考えようとする(たとえばフロイトの抑圧説)。しかし上にのべてきた理由からいっても、無意識の現実的作用を取り去ることはできないし、また無意識から現われてくる形姿は、そこに作用している〔心のエネルギーの〕量と考えるべきである。』

訳者解説 湯浅泰雄

ユングとヴィルヘルムの出会い

●『ヴィルヘルムは、1873年〔明治六年〕5月10日に南ドイツのシュツットガルトに生まれた。ユングより二歳の年長である。リヒアルトは1891年から95年までテュービンゲン大学で神学を学び、97年にプロテスタント教会の副牧師になった。1899年、ザロメ・ブルームハルトと婚約し、翌年結婚した。

1898年、ドイツは、清国から山東省膠州湾の租借権を得た。この帝政ドイツの中国進出政策が、はからずもヴィルヘルムを中国に結びつける機縁となる。翌1899年、26歳の青年ヴィルヘルムは、膠州湾に臨む青島の町に設立された教会の主任司祭として赴任する。以後、前後二十五年にわたる彼の中国生活が始まるのである。この時代は世界列強の東アジア進出の時期に当たっており、ヴィルヘルムが中国で暮らしていた間に、日清戦争、義和団事件(拳匪の乱)、日露戦争、辛亥革命、そして第一次世界大戦が起こっている。しかしヴィルヘルムの若い魂をひきつけたのは、動乱と革命にゆれ動くアジアではなく、古い東洋の精神世界であった。彼は、1909年に設立された徳華専門学校の教団に立って中国人子弟の教育に当たるかたわら、熱心に論語、老子その他の古典の翻訳に没頭した。ユングの思い出によると、あるときヴィルヘルムはユングに向かって、「自分は中国に居る間、ただ一人の中国人も洗礼しなかったが、そのことを大いに満足に思っているのです」と語ったという。彼が通常の宣教師タイプとちがって、深く中国文化に魅了されていたことがわかる。ヴィルヘルムは、近代中国の知識人が西洋文明の影響を受けて今や捨て去ろうとしていた儒教と道教の世界に沈潜して行ったのである。1911年、辛亥革命によって清朝は滅亡し、孫文が臨時大統領となったが、翌年、中華民国の発足とともに袁世凱が初代大統領となり、軍閥内戦の時代に突入する。このころヴィルヘルムは、1913年に、青島の儒教教会を設立している。しかし、1914年、第一次世界大戦の勃発とともに膠州湾は日本軍に占領された。大戦終了後の1920年、彼は二十二年にわたる中国での生活を終わって敗戦の故国に帰る。この年、ヘルツマン・カイゼルリング伯はダルムシュタットに、「叡智の学校」を設立した。ユングと出会ったのは、この会合の席である。1922年には、ユングに招かれてチューリヒの心理学クラブで易について講義している。

同じ1922年、ヴィルヘルムは北京のドイツ公使館の学術顧問に任命され、再び中国に赴く。二度目の中国滞在は足かけ三年、1924年までである。この間、1923年には、北京大学の教授に迎えられている。このころ彼は、労乃宣(ラウ・ナイ・シュアン)という道士の弟子になって、易を学ぶ。くわしい注釈つきの「易経」1 Ging、2 Bamde、1924 の名訳は、この老師の協力を得て出版されたものである。「最後のページの翻訳がすんで、印刷屋の最初の校正刷が来たとき、老師労乃宣は死んだ。それはあたかも、彼が自分の仕事を仕上げ、古い死滅しつつあった中国の最後のメッセージをヨーロッパに伝え終わったかのようであった。ヴィルヘルムは、この比類なき腎人の大きな夢をかなえたのであった。」1924年、任を終えて帰国したヴィルヘルムは、フランクフルト大学に設立された中国学講座の担当者となり、中国研究所を設立、その所長に就任した。機関誌は「中国学芸雑誌」Chinesishe Blatter fur Wissenschaft und Kunst(のちにSinicaと改名)という。しかし、彼の故国での活動の時間は短く、六年後の1930年3月1日、テュービンゲンで死去する。五十七歳であった。彼の業績は古典の翻訳が多いので、日本の中国学界ではあまり知られていないようであるが、彼はドイツの中国学の開創者ともいうべき人物であろう。

ユングはヴィルヘルムとはじめて会ったとき、つよい印象を受けたようである。「私が会ったとき、ヴィルヘルムは書き方やしゃべり方と同様に、外面的な態度も完全に中国人のように見えた。東洋的なものの見方と古代中国文化が、頭の先から足の先までしみこんでいた」と、ユングは当時の思い出を語っている易経の独訳が出たとき、ユングは早速それを入手し、ヴィルヘルムの解釈に満足を覚える。「われわれは、中国の哲学と宗教についてたくさん話しあった。中国人の心性についての豊富な知識の中から彼が私に語ったことは、ヨーロッパ人の無意識が私に提起していた最も困難な問題のいくつかを解明してくれた。他方、無意識に関する私の研究の結果について、私が言わねばならなかった事柄は、彼には何の驚きも引き起こさなかった。というのは、彼が中国の哲学的伝統の占有物と考えていた事柄を、それらの中に認めたからである。」こうしてユングは、かつてグノーシス主義の研究に求めて得られなかった自己の学問的足場が、東洋思想の伝統の中に古くから伝えられていたことを感じるに至るのである。

1928年、ユングは、イメージが浮かんでくるのに任せて一つのマンダラを描いていた。できあがった形を眺めながら彼は、どうしてこのマンダラはこうも中国風なのだろう、と自問した。表面的にはそうもみえなかったが、そのように感じられてしかたがなかった。それから間もなく、ヴィルヘルムからユングの許へ「黄金の華の秘密」の独訳原稿が送られてきた。それには、ユングに対して心理学者として註解を書いてほしいという手紙がそえられていた。原稿をよんだユングは、深いおどろきにうたれる。マンダラのイメージについて彼が模索しつつあった考え方に対して、そこに思いがけない確証が与えられていたからである。「これは私の孤独を破った最初の出来事だった」と彼はのべている。「『黄金の華の秘密』という本を読んだ後に、やっと錬金術の性質の上に光がさし始めた。……私は錬金術の原典をもっとくわしく知りたいという望みにかき立てられた。私はミュンヘンの本屋に、錬金術の本を手に入れることができるものは、皆知らせるように言った。」ユングはこの深いおどろきを記念して、自分の描いた中国風のマンダラの下に「1928年、この黄金色の固く守られた城の絵を描いていたとき、フランクフルトのリヒアルト・ヴィルヘルムが、黄色い城、不死の身体の根源についての、一千年前の中国の本を送ってきてくれた」と書き記した。本書はこうして、翌1929年に出版されたのであった。

以上のように、この書は、ユングが彼自身の理論的また思想的立場を確立する機縁を与えた書物である。この書によって彼はまた、ヨーロッパの精神史に対する彼の基本的見解を確立するに至る。古代ローマのグノーシス主義と近代ヨーロッパを結ぶ失われた環が中世錬金術の中にあることに、彼は気づいたのである。西洋精神史に関する彼の最初の著作「心理学と錬金術(1944年)は、これが機縁になって生まれたものである。この書の中で、彼はこう回顧している。「私はマンダラ象徴の生成過程とその像について、二十年来、私自身の経験から得たたくさんの材料に即して観察をつづけてきた。(はじめの)十四年間、私は、自分の観察について先入見を下さないために、それについて執筆も講演もしなかった。しかし、1929年にリヒアルト・ヴィルヘルムが、「黄金の華」のテキストを私にみせてくれたとき、私は研究結果の一部を公表する決心をしたのだった。」このように、本書はユングの思想形成にとって重要な意義をもつ書物であり、したがってまた、深層心理学の観点から東洋思想について考える場合、よい手がかりを与える書物でもある。』

※シュツットガルト

リヒアルト・ヴィルヘルムが生まれた南ドイツのシュツットガルトは、私にとって思い出の地です。

また、シュツットガルトといえば、ドイツブンデスリーガの1部に所属する名門チームがあります。浦和レッズに在籍していたギド・ブッフバルトや日本人選手では、岡崎慎司、長谷部誠、今は遠藤航がキャプテンとして活躍しています。 

サッカーワールドカップ カタール大会 ドイツ戦
サッカーワールドカップ カタール大会 ドイツ戦

画像出展:「au Webポータル

11月23日のサッカーワールドカップ カタール大会の初戦、強豪ドイツを2-1で撃破し、歴史的な逆転勝利となりましたが、遠藤 航 選手のチームへの貢献は素晴らしいものでした。

確認したところ、遠藤選手が浦和レッズに在籍していたのは2016-2018年でした。

そのシュツットガルトは、私の初めての海外出張先でした。

最初の営業はCADという設計支援ソフト(ME10)を販売する部門だったのですが、そのソフトの開発・製造拠点がシュツットガルトのボブリンゲンという町にありました。なお、ME10という2次元CADは、調べてみたところ、CoCreate社を経て2007年にPTCに買収されCreoという製品群の一部になっていました。

出張は新製品の研修がメインだったのですが、ご褒美旅行も兼ねていました。これは日本だけでなく、世界的に業績が好調だったためです。そして、その研修会はモナコで行われました。モナコといえば、高級リゾート地であり、F1のモナコグランプリは特に有名です。我々が宿泊したホテルはローズ・モンテカルロ(現在はフェアモント・モンテカルロです。ローズ・ヘアピンとして有名ですが、このホテルに泊まれたのは灌漑深いものがありました。

ローズ・ヘアピンとホテル
ローズ・ヘアピンとホテル
旧ローズモンテカルロ
旧ローズモンテカルロ

中央にとても邪魔なヒトが立っていますね。どいてほしい。

旧ローズモンテカルロの室内
旧ローズモンテカルロの室内

まさか、ローズモンテカルロに泊まれるとは思ってもみませんでした。窓の外は青く静かな地中海の海が広がっていました。

そして、開発・製造拠点のシュツットガルトはモナコの後に訪問しました。シュツットガルトにはメルセデスベンツ・ミュージアムがあります。小さな町のボブリンゲンは明るく綺麗な素敵な町で、とても穏やかな気持ちになりました。

メルセデスーベンツ・ミュージアム
メルセデスーベンツ・ミュージアム

シュツットガルトといえば、メルセデスーベンツです。

Mercedes-Benz Museum Stuttgart

ボブリンゲンの休日
ボブリンゲンの休日

ボブリンゲンの休日です。何かのフェスティバルが開催されていたようでした。

ユングと共時性2

ユングと共時性
ユングと共時性

著者:イラ・プロゴフ

訳者:河合隼雄、河合幹雄

出版:創元社

発行:1987年9月

目次は”ユングと共時性1”を参照ください。

 

Ⅸ 共時性の働き

●『共時性原理は、非常に多様な事象のなかに表出されていることがわかる。たとえば、ある人が、夢あるいは一連の夢を見、そしてそれが、外的事象と符号することがわかる。ある個人が、何か特定の願いをするか、あるいは、それを、強く望み、希望するかしており、そして、何か説明不可能な方法でそれが起こる。ある人が、他の人、あるいは何か特殊な象徴を信じており、その人がその信仰のもとで祈るか黙想するかしているときに、身体的な治療あるいは他の「奇跡」が起こる。人間のいるところにはどこでも共時的事象が起こるのである。そして、実のところ、ひとたび見つけるべきものを知ったならば、その数は、これまで予想されてきたものよりはるかに大きいことに気づくことになろう。

すべてのこうした事象のなかでは、強い元型的要因が、ヌミノース[事象には説明し難い部分が存在する。神への信仰心、超自然現象、聖なるもの、先験的なものに触れることで沸き起こる感情]な方法で働いている。意識が利用できるものを越えた知識を与えうる夢は、必然的に、心の深層にあるイメージを含んでいる。願望の力への信仰は、人間の原始的な心の奥深くに達する。それは、魔術師の原初的イメージの効力を説明する鍵である。信仰の根本的な体験は、その形や対象がどのようであっても、常に、無意識の最深レベルに達するものである。このために、情動的な強さがヌミノースで元型的な要因のまわりに生じ、その結果、それに相応するエネルギーの退潮、すなわち、心の他の部分での心的水準の低下が生じる。これが、心が時間のパターンを反映するようにする「低下」の心理学的メカニズムである。これを認識することによって、個人は共時的事象と関係をもつことができる。』

●『ユングは、自分の経験として次のように述べている。超心理的事象は、「ほとんど常に、元型的コンステレーションのなか、すなわち、元型を活性化させた、あるいは、元型の自律的行為によって呼び起こされた状況のなかで起こる」。元型の強さは、それ自身の要求と性質をもつ状況を明白につくり、そしてこれらの性質は、その元型が効力をもつようになる時に形成するパターンのなかで、表出される。「心的水準の低下」を通して生じる。「自己」のなかでの心的反映は、元型に符号した形をとる。』

●『ユングの、より大きな概念の本質は、元型は、因果律によって作用するのではないことである。実際、ユングが、因果律と並ぶ別の原理の可能性を研究する必要を感じたのはまさに、元型は因果律以外の何かに従うことに気づいたときであった。かくしてユングは、共時性の仮説の定式化に導かれたのである。

この外見上の対立の背後にある原理を理解するために、われわれは、共時性を全体としてのマクロコスモスのなかで作用する原理と考える、より大きな見地を心に留めなければならない。あるそのときを横切って共時性に形成されるパターンは、全宇宙を包括する。これは、一般原理としては正しい。そして、哲学的に見れば、それはライプニッツに帰する。しかし、この一般文脈のなかには、そのパターンに関係する個人的存在があり、その人生と行為は、そのパターンを表現する。

個人のミクロコスモス的生は、マクロコスモスの、より大きな一般的パターンの一側面である。にもかかわらず、自分を取り巻くマクロコスモスのパターンを表わすことに従事している個人は、自分の人生のなかで、明らかに合理的に決定された行為によって、それを行なっている。その人は、意識的に決定された目標に向かって動き、また、因果律による思考を基礎にして自分の目標を目指して進む。

このように、人間の人生の展開は、二つの別個の次元、つまり存在の二つに分離した次元上で同時に起こる。第一は、自分の人生、動機、行為に対する個人的知覚である。この次元は、思考と情緒によって起こり、原因と結果を、現代のように合理的に考えるにしろ、原始的魔術のように物活論的に考えるにしろ、原因と結果というものを仮定した上で知覚できる目標に向かって動く。

他方、第二の次元は、個人以上のものである。それは、共時性が動く、トランスパーソナルなマクロコスモス的領域である。各特定の瞬間に時間軸を横切る宇宙のパターンを含むこの領域内では、ユングが、元型の多様な特性、そのヌミノース、それらが活性化される方法、それらが心の平衡をひっくり返す効力、そして、心の他の内容をそれらのまわりのコンプレックスに引き込む布陣を行う特質を分析するとき、ユングが明らかにしようと求めているのは、これらの規則性である。』

ヨガ
ヨガ

画像出展:「ヨガが丸ごとわかる本」

『つまりヨガとは、「本当の自分」は“全宇宙”と同じであり、“全宇宙”は「本当の自分」でもあるという心理に気づくことがヨガの最終境地である。』

本文に出てくる。”マクロコスモス”、“ミクロコスモス”の文面を見たとき、以前のブログ”ヨガ”の内容を思い出しました。この内容はヨガの考え方に近いもののように思います。

 

●ユングは共時性を人間の経験領域の中に位置づけることに主眼を置いたと思われるかもしれないが、実は、反対であった。ユングは物理学者を説得するために努力した。ユングの晩年における共時性に関しての対話は、まさに物理学者たちとのものであった。それはユングが共時性を人間の研究に限定しない全科学に関わる知識の一般原理として打ち建てることに、次第に興味を持つようになっていたからである。

ユングは研究の最晩年、最終的に物理学と心理学は統合されるという確信を持っていた。ユングの見方によると、心の深層心理的概念と物理学者の原子の見方との間の一致によって、二つの分野のこの結合は、現実的可能性をもっている。原子の深層に閉じ込められたエネルギーが解放され得るならば、人間の心の深層にあるエネルギーもまた解放されるのかもしれない。

●ユングは共時性が科学の一般原理であることに強調点を置いたので、個人の生涯や超心理的現象や多様な社会的経験の領域における共時性の存在を記録するのを犠牲にして、一般原理であることを強調する傾向があった。これらの領域に対する共時性の関連はきわめて重大であるが、ユングは、かろうじてその可能性を示しただけである。心の深層経験に関する共時性の役割は、人間の生の研究にとってものすごく意義深く、それは確かに、共時性原理のさらに一般的で広い考察の基礎として重要なものである。

●ユング自身は共時性の人間的な基礎をあまり強調しない立場に身を置いていた。ユングは全体としての自然科学や理論物理学に深層心理学を結合するという、より大きな可能性にあまりにも魅せられたため、研究の必要がある人間的要素への注意が弱まるままにしておいた思われる。共時性についてユングのいくつかの議論において、誤解や不明瞭さが指摘されるのはそのためと考えられる。

●元型は個人と非因果的秩序原理とを、心的経験を通して結合させる可能性を担っている。

共時性につながった素材は人々の人生経験の中にある。なぜなら、ユングは深層心理学に照らしてそれらを観察していたからである。この素材はユングに共時性を示唆し、個人の運命を深く研究するには、因果律を越えた新たな展望が必要であることを認識し、この概念を発表したのである。

Ⅹ アイシュタインとより広い見解

●『精神と肉体の関係についての疑問が、この共時性の定義には生じる。ライプニッツの抽象的な定式から超心理学の実験的研究まで、これまで論じてきたポイントのうち数点が、この文脈において理解されるならば、最終的に、精神と肉体の問題の解決につながるかもしれない。これらの研究分野には、大きな可能性が開かれている。』

●『ユングは、自分の研究と物理学との関係について書いたなかでは、ニールス・ボーアの思想と関連させて自分を位置づけることを好み、アインシュタインには、ほとんど言及していない。しかし、私とユングの個人的な議論のなかで、ユングは、アインシュタインがチューリッヒで研究しており、しばしばユングを訪れていた今世紀初頭頃のことを私に語っている。それによると、アインシュタインは、よく昼食をとりにきたものだし、その際に、ユングとアインシュタインは、長い議論に陥ることがあったそうだ。

ユングは、生涯のこの時期において、まだ自分の概念を発展させ始めたばかりであり、無意識についての自分の新しい概念をアインシュタインに伝えることには困難を感じていたように私には思われた。ユングは、いくぶん見くびった感じで、アインシュタインは、なんといっても「分析的」な精神の持ち主だと語っていた。ユングのこの言葉は、ユングが、アインシュタインは象徴的次元の体験についてはあまり才能がないと感じていたことを意味している。

このことに関しては、アインシュタインの個人的な手記が最近公開されたことによって、夢とイメージが、アインシュタインの創造的な生涯において非常に重要な役割を果たしていたことが明らかになったことに留意するのは興味深い。あの昼食時の対話は、ユングが思っていたよりも益があったのかもしれない。とりわけ、アインシュタインが、心の深い水準に対する鋭い感性をもっていたことを知った上ではそう思われる。後ほどいつか、ユングとアインシュタインの関係について研究することは非常に実りあることだろう。それも特に、アインシュタインが、ヒンズー教と仏教の思想に興味をもっていたことと、相対性という概念の元型的特性についての彼の後の記述を考慮すればなおさらである。

ユングが、アインシュタインに重要な心理的影響を及ぼしていたかもしれない一方、相対性理論は、共時性についてのユング自身の考えの基礎と出発点となった。いくつかの点で、ユングは、相対性理論と対応する概念を、心という次元をつけ加えることによって発展させようと意識的に求めていたように思われる。

それゆえ、ユングは、エラノスの講演をもとにした論文のなかで、次のように書いている。

「物理学は、望めるかぎり平易に次のように論証してきた。それは、原子の大きさの世界では、客観的事実は、観察者を前提としており、この条件のもとでのみ、満足な説明図式が可能になるということである。このことは、主観的な要素が、物理学者の世界像に結びついていることを意味し、また、第二に、説明の対象たる心と、客観的時間空間の連続体との間には必ずつながりがあることを意味する」。ユングが、1940年代において、あらゆる人間の物質世界の認識には、物理学者がいかに客観的であろうと努めても、生来の「主観的な要素」があると述べていることは、明白なことと思えるかもしれない。しかし、その主観的な条件が、あらゆる状況に対する、新たな要因であるということは、相対性理論の概念の第一の要素である。それによると、最終的なものも完全なものも、けっして存在しない。なぜなら、常にもう一つの要因が加えられるべきだからである。そしてその要因というのが、主観的な要素、つまり観察者の意識なのである。』

●『相対性理論と易経の間には、越えなければならないみぞがある。そして、このみぞを越え、両者の間につながりを打ち建てることは、共時性の主要目的の一つである。このようなわけで、ユングは、物理的マクロコスモスの一般的解釈と、心理的ミクロコスモスの個別的研究の両方に関与する必要を感じたのであった。生命についての外見上の対立を、意味のある定式のなかで結びつけることは、共時性の根底にある目的である。共時性が、この目的を完全には成し遂げなかったとしても、共時性がその内容上、本性的に、外面と内面、つまり、物理的環境と心理的事象という対立物を結合するものであることは真実である。

●『ユングは、次のように書いている。「にもかかわらず、心と物理的連続体の相対的な、あるいは部分的な同一性は、理論上最も重要なものである。なぜなら、それは、外観上同じ標準で計れない、物理的世界と心的世界をつなぐことによって、おびただしい単純化をもたらすからである。もちろん、それは、何らかの具体的方法によってではなく、物理的なほうからは数学的な式によって、心理学的なほうからは経験上生じた諸仮定つまり元型によってなされている。その内容は、あるとしても、精神に現われ得ない」。これで、ユングが、コスモスの物理的領域と心理的領域を一緒に記述することを思いついた包括的見地が理解できる。物理的世界は秩序と様式化を数学によって与えられている。一方、心理的世界での、それに対比される構造化は、元型によってなされている。これが、これまで述べてきた、元型の「秩序づける」性質である。』

Ⅺ 共時性から超因果性へ

●『共時性原理を研究するにあたって、次に必要なステップは、研究の体系だったプログラムをつくることであることは明らかである。それによって、われわれは、人間の一生における共時的事象の発生を同定し、詳細に記述することができる。共時性の含蓄を、因果律と相対性理論と相並ぶ、宇宙の運行の解釈原理として理解することは非常に大きなことである。ユングの未来像が実現され、原子物理学が深層心理学と統一され得る日が来たあかつきには、それは、人間精神の歴史における実に偉大な瞬間となるであろう。その日に向けて、なされなければならない個々の研究は膨大である。そして、その研究のためのデータは、人の経験する事象のなかに発見されるはずである。これは、われわれにとって最もたやすく使える素材であるだけでなく、共時性は、人間の運命のあやを、個人の人生と人類の歴史の両方にわたって理解するために特殊な貢献をしている。ここが、共時性がティヤール・ド・シャルダン[フランスの地質学者、古生学者、思想家。物理的世界から生物的世界へ、さらにその上に思考力を備えた人間の世界がどのようにして成立してきたのか、またこの人類が何を目指して進んでいきつつあるか、という未来への展望をはらんだ雄大な諸科学の総合的世界観が展開されている]の精神圏の概念と結びつき、それを、知の本質的な次元で補完するところである。そして、ここはまた、超因果律という新たな概念が、共時性という抽象的原理を、人間性の謎の理解へと変えることを可能にする中軸的要因となる点でもある。』

●『アブラハム・リンカーンの生涯において共時的事象が起きているが、それは、共時性の本性とその未来について多くのことを語ってくれるであろう。リンカーンには、世界には、彼が為すべき、意味のある仕事が存在していることが暗にわかっていた。しかし、リンカーンは、その仕事をするには、自分の知性をみがくことと、専門的な技術を身に着けることが必要であることも認識していた。これらの主観的な感じと戦うなかで、リンカーンの置かれたフロンティアの環境にあっては、専門的な研究のための知的な道具を見つけることは非常に困難であるという事実があった。リンカーンが、自分の願いはけっしてかなえられないだろうと信じていたとしても、もっともであった。

ある日、見知らぬ男がリンカーンのところに、がらくたを一杯入れた樽をもってやってきた。その男は、リンカーンに、自分はお金が必要であることと、リンカーンがその樽を1ドルで買ってくれたら非常に助かるであろうことを述べた。

その男は、樽の中味はたいした価値のないものだと言った。それらは、古新聞や他のそのような類のものであった。しかし、その見知らぬ男は、なんとしても1ドルが必要だった。その物語によると、リンカーンは、親切な性格だったので、その中味が何かに使えるとは考えなれなかったにもかかわらず、樽と引き替えにその男に1ドルを渡した。リンカーンは、しばらくたって、その樽を整理しようとしたとき、その樽には、ブラックストーンの「注解」の全集がほとんど入っていることに気づいた。リンカーンが、法律家になり、ついに政界に進出することを可能にしたのは、偶然、あるいは共時的な、それらの本の獲得であった。

 

1830年代の$1.00 は、2021年では$26.30でした。

画像出展:「AbeBooks

Commentaries on the Laws of England, In Four Books. 14th ed

Blackstone, Sir William

$1,000.00で販売されていました。

 

 

リンカーンの生涯の内には一本の連続した因果の鎖が働いていた。それは、運命についてリンカーンに暗示を与え、また、限られた困難な環境の中に生きることに絶望を感じさせた。同時に、その見知らぬ男の生涯のなかにも、因果的なつながりがあった。その男は、不景気がつのって、目にとまる自分の持ち物は、何であれ1ドルで売らなければならなかったのである。事象のこの二つの筋をつなぐ因果関係はなかった。しかし、ある意味のある時に、それらは共に起こった。このことは、予期されない結果を引き起こしたのであるから、共時性のなかの超因果的要因の働きであった。

リンカーンが、ふとしたことからその樽を買うことによって、ブラックストーンの「注解」を手に入れたことは、人間の生涯のなかで共時的事象が発生することの一例である。これは、共時性の一例にすぎないけれども、共時性が最終的に、どれほど豊かな知識を与えてくれるかを示しているであろう。共時性は、予期できない仕方で、それらがあると最も予期されない所に存在しているのであろう。しかし、リンカーンのように、われわれが、その時の統合性に誠実であれば、ユングの直観したものがわれわれ全員の知識になるであろうと信じるに足る理由が存在している。』

まとめ

ユングの共時性に関する研究は20年以上におよび、その発表は75歳目前であった。しかしながら、それは未完成なものであり、科学的にいかがわしいものと揶揄された。それでも勇敢に立ち向かったのは、個人の運命を深く研究するには、因果律を越えた新たな展望が必要であることを確信したためである。

共時性とは、相互に因果関係がない二つの分離した事象が同時に起こること。それらは無関係であるにもかかわらず同時に起こり、しかも、それらは互いに意味深く関係し合っている。また、共時性は人間の運命の本性に関連する教えへの扉を開く鍵となるとされる。

心と物理的連続体の相対的な、あるいは部分的な同一性は、理論上最も重要なものである。なぜなら、それは、外観上同じ標準で計れない、物理的世界と心的世界をつなぐことによって、おびただしい単純化をもたらすからである。もちろん、それは、何らかの具体的方法によってではなく、物理的なほうからは数学的な式によって、心理学的なほうからは経験上生じた諸仮定つまり元型によってなされている。

ユングの晩年における共時性に関しての対話は、まさに物理学者たちとのものであった。それはユングが共時性を人間の研究に限定しない全科学に関わる知識の一般原理として打ち建てることに、次第に興味を持つようになっていたからである。

共時性の含蓄を、因果律と相対性理論と相並ぶ、宇宙の運行の解釈原理として理解することは非常に大きなことである。ユングの未来像が実現され、原子物理学が深層心理学と統一され得る日が来たあかつきには、それは、人間精神の歴史における実に偉大な瞬間となるであろう。

感想

『時間を水平に横ぎり、そして、本来垂直である因果のカテゴリ(時間的な連続性)が適用できないパターンから、あなたが求めていた回答をふと見つけたという新たな事実が現われる。明らかに、この二組の出来事の間の、どのような因果関係も論証することはできない。ただ、ある種の意味深い関係が、それらの間に存在する』

友人等との会話だけでなく、散歩をしていて、お風呂にはいっていて、あるいは本を読んでいて、ふと気づく瞬間があります。「閃き💡」という表現が最も近く、垂直思考の因果を水平に横ぎる感覚ともいえるかもしれません。そして、その「閃き💡」は全く忘れていた過去の何かの琴線に触れたかのように浮かび上がってくる感覚です。その「閃き💡」が流れを大きく変えるケースは少なくないように思います。場合によっては、人生に影響を与える可能性もあると思います。

宇宙の大きさは無限のように感じます。一方、原子より小さな量子世界は不思議な世界です。大きな宇宙も小さな量子の世界も間違いなく実存し、我々の命に関わっています。

ユングの母方の祖父母は霊能者です。私も完全とは言い難いのですが、その存在を肯定しています。霊能者が有する能力がどこから生み出されるのか分かりません。心が関係しているのでしょうか。そこには時間・場所といった物理の世界と心の世界が関係しているように思います。そして、一般人の常識といわれる範疇では理解できないものが実在しているように感じます。

ユングは、『心と物理的連続体の相対的な、あるいは部分的な同一性は、理論上最も重要なものである。』と説いていますが、晩年、ユングが物理学に傾倒されたという事実は大変興味深いことでした。

ユングと共時性1

今回の「ユングと共時性」は9月30日、10月7日の「宗教と科学の接点」の続きともいえるものです。この本の中で最も気になったキーワードが“共時性”だったのですが、今回の「ユングと共時性」という本の中に、知りたいことが書かれているのではないかと思い購入しました。

ユングと共時性
ユングと共時性

著者:イラ・プロゴフ

訳者:河合隼雄、河合幹雄

出版:創元社

発行:1987年9月

 

C.G.ユング
C.G.ユング

画像出展:「ユングと共時性」

ユングの晩年、『非因果的関係の原理としての共時性』を発表したころのユング。

 

 

目次

Ⅰ 多重的宇宙の解釈 ―ユングとティヤール・ド・シャルダン―

Ⅱ 共時性と科学と秘教

Ⅲ ユングと易をたてたこと ―個人的経験―

Ⅳ 共時性の基礎

Ⅴ 因果律と目的論を越えて

Ⅵ ライプニッツと道

Ⅶ 元型と時間の様式化

Ⅷ 超心理的事象の共時的基礎

Ⅸ 共時性の働き

Ⅹ アイシュタインとより広い見解

Ⅺ 共時性から超因果性へ

注)Ⅶには触れていません。

Ⅰ 多重的宇宙の解釈 ―ユングとティヤール・ド・シャルダン―

●科学は限定された合理主義の言葉で表現されるものではなく、科学は物事を知ること、すなわち、人間の行なう知識の探求すべてと考えられる。この考え方(精神)によって、ユングは、理論物理学の研究と彼自身の深層心理学の研究の間には、一致、少なくとも相似が存在するという直観により、自ら“共時性(synchronicity)と名づけた「非因果的連関」の原理を1920年代後半に形作り始めた。

●共時性の概念は、元来彼の、深いレベルでの自己(Self)の研究から生まれたものである。それも特に、人生という旅の中で運命を変えることに関わる、いくつかの経典および注釈―ことに東洋のもの―の中に彼が見出した解釈法と、夢の中での出来事の進展との相互関係にユングが注目していたことによるものである。

●ユングが自分の仮説を系統立てて説く契機となったのは、物理学者ニールス・ボーアヴォルフガング・パウリとの接触と、アルバート・アインシュタインとの早くからの親交であった。ユングは彼らと対話するうちに、物理学の世界での基本単位としての原子と、人間の“心(:サイケ[psyche])”が等価であることに気づいたのである。特に人間の深層についての特有の手がかりとして発展させた、“心”という概念に、原子をたとえる時に、その一致度は特に強くなる。

第五回ソルヴェイ物理学会議
第五回ソルヴェイ物理学会議

画像出展:「シュレーディンガー その生涯と思想」

第五回ソルヴェイ物理学会議

・期間:1927年10月24日~10月29日

写真は中央の列向かって右端がボーア、3列目右から4人目がパウリ。前列右から5人目がアインシュタイン。

 

 

 

●ユングの研究のひとつの根本的な結果は、共時性の概念である。

●ユングは共時性を科学的な世界観におけるギャップを満たす手段として、ことに因果律に対するバランスとして提出した。共時性は、物理的な現象と同様に非物理的な現象をも含んでおり、これらの現象を、これらの相互の間の非因果的であるが意味のある関係のなかに認めることである。

核心はユングが、人間の心は意識のレベルよりさらに深い層で関わっている現象を、理解可能とする説明原理を打ち立てることに従事していたことである。

●我々はユングから発展性のある二つの仮設を得ている。精神圏の内容についての仮説と、精神圏の作用原理についての仮説である。

Ⅱ 共時性と科学と秘教

●ユングは共時性原理についての論議を、理論物理学の枠組みのなかに位置づけ、そして、他方では科学以前の時代の種々様々な秘教やオカルトの教えを、宇宙のなかに共時性原理が存在することに対する人間の直観的理解を暗示するものとしてして言及している。合理的な科学と非合理的な秘教という二つの知識の源泉は、相いれないように思えるが、これらは両立する。ユングの目的の一つは、それらの共通の特質と相互の関連を、我々に見させることにある。

しかし、異質な材料を一つの議論の中に入れ込んだために、ユングの理論は、より因習的な人々にとっては、混乱を起こさせるもの、疑わしいものとなった。そして、そのことにより共時性はほとんど注目されなかった。

●秘教の教えと手法の多様な形式へのユングの興味は、それらが、若干のあいまいな方法で人間の経験の「内面」を表現しているというユングの洞察に根差してきた。それらは文字通りに受け取るべきではなく、夢のようなものとして受け取るべきであり、それ自身の生来の象徴的意義の文脈の中で自らを語る機会を与えるべきものである。ユングはまさに、秘教やオカルトに、各々の知恵の固有のスタイルを語り、露にする機会を与えようと企てた。彼はこれを錬金術(Alchemy)から禅(Zen)へと文字通りAからZに至る、これらの主題についての本を、解釈し紹介することによって行った。そのなかには、占星術、死者の書、タロ、易経、そして他の多くの古代東洋の原始的な教養が含まれていた。

共時性は人間の運命の本性に関連する教えへの扉を開く鍵となることができる。この点において、共時性はこの世の生における神秘的な次元に対する鍵であるだけでなく、その背後に存在する現代科学の経験に対しても、鍵となるという特別な利点をもっている。

●ユングは著書の中で極めて率直な記述と、後からその大胆な彼の論点の衝撃を柔らげる否認と緩和とが交互に現れる。このことがユングの著作に認められる曖昧さの原因となっている。

この本(「ユングと共時性」)は、ユングの共時性の概念を、より大きな哲学と理論的根拠とに関連させて記述し説明し、そして、この複雑な問題の本質を可能な限り明確に紹介するためのものである。

●共時性は二つのレベルで重要である。理論レベルでは、展開する宇宙のなかでの人間の経験の本質に関する、意識の新しい次元を開く。また、経験的レベルでは、人間の人生と運命の最も捉えがたい相のいくつかを、事実に基づいて研究する道を与えるものである。

Ⅲ ユングと易をたてたこと ―個人的経験―

●ユングが研究したすべての秘教のなかで、易経は、最も明確に共時性原理を表出しており、また、最も洗練された形式でそれを応用しているものである。

●リヒャルト・ヴィルヘルムが翻訳した中国の錬金術の本が「黄金の華の秘密」である。ユングがこの本に払った苦心は、主要な心理学的概念を発展させるための重要な源となっている。特に、ユングが「共時性」を初めて公に使ったのが、1930年のリヒャルト・ヴィルヘルムの葬儀での賛辞の中であったことはとても意義深い。

黄金の華の秘密
黄金の華の秘密

共時性の理解のためには必須ではないかと考え、思い切って購入しました。次の課題です。

●因果律とは、ある一つの出来事が、他のことではなく、どのようにして起こるのかという作業仮説といえる。それに対して、共時性とは相互に因果関係がない二つの分離した事象が同時に起こること。それらは無関係であるにもかかわらず同時に起こり、しかも、それらは互いに意味深く関係し合っている。これは、易経の基礎となる原理である。

●易経の中には二つの要素がある。一つは、個人の人生のその時の状況である。他方は、コインを投げてそれを定められた形式によって古代の書物に関連づける行為である。明らかにこれらには因果的関係はなく、しかも互いに意味深い関係を持っている。それらが会う瞬間に、何か普通でなない重要な価値が生じるのである。

表面的には、それは偶然のように見える。しかしユングにとってそれは、明らかに偶然をはるかにしのぐものであり、しかも因果関係でもなかった。明確な原因は捉えどころがないままだが、ユングにとっては中国で何世紀にも渡って維持され続けた原理が、何か重大な秘密を持つに違いないことは明白に思われた。

●易経には基礎となる深くて言葉にするのが難しい知恵が存在し、それゆえ易経の経験は、現代人によって探求されるべき重要なものであることを、ユングは確信していた。

Ⅳ 共時性の基礎

●ユングは共時性とは何かということをうまく伝えることはできなかった。それはつかまえどころのない、抽象的かつ普通とは言えない原理を分かりやすく説明することができなかったためである。

●ユングが取り上げた非因果的解釈の中には、占い、占星術、託宣[神が人にのり移ったり夢に現れたりして意志を告げること]、タロなどが含まれていた。これらは非常に広範囲にわたり、また、現代には受け入れ難く、研究は思うように進まなかった。それらを科学的に正当な理由に基づいて研究することさえ疑いをかけられていた。

しかし、ユングは自分が自分の患者の無意識の非合理的働きを辿る方法を学びたいならば、これらの前科学的な手順を洞察することが必要であると確信していた。ユングが学問上の愚弄に勇敢に立ち向かい、科学的にいかがわしい主題に関わったのは、彼の心理学を満たすために必要なことだったためである。

●ユングは共時性について、自分の行なったことを経験的に観察すること、自分のゼミの中で様々なアプローチすることによって、20年以上もの間、共時性について研究し続けた。そして、ユングが「非因果的関係の原理としての共時性」についての小論を書き始めたのは、75歳になろうとしていた時であった。

ユングは実験的レベルにおいても概念的レベルにおいても不十分であることは理解していたが、ユングの共時性の概念が論議され、示唆や批判を受けることができるように、世に送り出さなければならないと感じていた。つまり、ユングの「非因果的関係の原理としての共時性」は未完の研究、試案として書かれていることを理解すべきである。

●共時性は日常生活の中で経験される。ユングの著書には、共時性を示す多くの事例や逸話が載っている。

●『仮定的な例として、あなたが、ある特定固有の問題について考え続けていたが、それについて自分が考えているということを誰にも語らなかったとしてみよう。そこへ、だれかがあなたの問題に無関係で全く独立な理由で、あなたに会いに来るとしよう、そして、会話は、訪問の目的に従って進み、それから、あなたの問題について何も議論しないうちに、あなたが探し続けていた鍵を与える言葉が、ふと、予想外に語られたとしよう。

もし、われわれが回想によって、このような状況を振り返り、起こった事の意味を分析的に理解しようと努めるならば、明確な因果的連関を通して各々の出来事を突きとめるであろう因果の鎖をたどることは、いたって簡単である。因果律によってわれわれ、あなたが、その特定の問題にかかわるようになった「理由」をたどることができる。それで、われわれは、その日に訪れた特定の個人を、どのようにして知るようになったのか、その訪問の約束が、どのようにしてなされるようになったのか、そして議論の筋が、どのようにして発展するようになったのかを、分析的にたどることができる。すべてのこれらの事を、やりつくすことは可能であろう。そして、それらが因果律の用語に還元されたとき、それらは、あなたの人生の発展という特定の見地から再構成できるので、その状況の基礎を与えることになろう。

それに対応して、因果分析の類似した筋が訪問者側の見地からもたどることができるであろう。すなわち、彼をあなたに訪れさせた原因となった出来事の連なり、実にあなたの興味を引いた知識を、彼はどのようにして得たのか、どのようにしてまさにその特定の時間に、あなたと約束するようになったのか、どのように「偶然」に、あなたが興味をもっていると彼が予想しなかった問題について語るようになったのかである。これもまた、すべて因果的用語で記述することができるであろう。

あなたと訪問者が出会うとき、それぞれは、因果的に説明できる過去のなかに広がる背景をもっている。そして、それらすべてが、あなた方が出会う特定の点で出会うことになる。あなた方が握手して会話を始めるところへの到着は、発展の縦の線の頂点を示している。その発展は、過去からの絶え間ない流れのなかでの動きであり、また、あなた方それぞれに個別の作用である。なぜなら、あなた方は、それぞれ自身の経験の枠組みと重みによっているからである。

しかし、あなた方が会った瞬間、過去のこの原因すべては、現在の瞬間のコンステレーションの一部、すなわち、時間を水平に横ぎり、そして、本来垂直である因果のカテゴリ―つまり時間的な連続性―が適用できないパターンの一部となる。どういうわけか、このパターンから、そこに、あなたが自分が求めていた回答をふと見つけたという新たな事実が現われる。明らかに、この二組の出来事の間の、どのような因果関係も論証することはできない。ただ、ある種の意味深い関係が、それらの間に存在することだけが、同様に明らかである。

それが符号であったと言うことは全く正しい。しかし、明確にするためには、それは意味深い符号であった、と付け加えなければならない。なぜなら、出来事の交差した連なりは明確な意味をもっていたからである。本来因果律は、符号という事実を含まないものであるから、われわれが最大限言えることは、原因や結果である出来事は、意味深い符号が起きる生の素材を供給するということである。これらの符号の意義、すなわち、それらを単なる無関係な出来事ではなく、現実の符号とする、意味の特別な性質は、因果律によって跡づけられる背景にある要因からは決して導き出せない。それらは、時間的に連続でなく、何らかの方法で時間軸を横ぎるパターンに属している。この理由により、それらは、その本当の本性が何であれ、少なくともまちがいなく非因果的な原理を含んでいる。

ここに示した非常に簡単な例は、それに対応し、関係づけられ派生する局面がすべて考慮されたとき、人の経験の相当大きな領域を含んでいる。長い間、偶然、符号、願望成就、夢を通じての認知、祈りとその答え、信仰による奇跡と治癒、予知、そして同様な現象への疑問は、精神的な魔術の多様な形式によって説明されてきたか、あるいは、さもなければ迷信として片づけられてきた。しかし、量的に見るなら、これらの経験は、いわゆる未開あるいは後進社会だけでなく、われわれ現代西洋文明においても、日々に起こる出来事の非常に大きな率を占めている。

多くの例において宗教の歴史は明らかに、因果律を越えていてそれでもなお現実であるような出来事に基づいている。しかし、われわれは、宗教的な形の現象をはるかに越えたものが含まれていることを認識しなければならない。政治史の上においてさえ、それは表面的には合理的に導かれた決定や少なくとも外交上の認識に従う行為の場であるが、因果的説明ができない、多くの重大な出来事が認められるのである。経済レベルについての妥当性にもかかわらず、歴史についての決定論は、いったん人の運命というさらに大きな問題がもち上ったならば、浅薄で、はなはだ不適当なものとして捨てられなければならないことは、確かに、まさに本質的な理由によるものである。

われわれが、人間の活動の根底を深く研究するならば、宗教の主観性から政治上の動かせぬ事実、あるいは商取り引きの冷静な計算から個人的な親密な関係に至るまで、歴史のすべての側面において、社会の全構造は、社会と個人の作用を記述する厳密な「法則」を見つけるべしという強制を感じているために、これらの不愉快な非合理的事象の存在は、無視されなければならなかった。

知識のどのような標準をもってしても、これらの非合理的事象に理解を伴った説明をすることは、非常に困難であることを認めなければならないが、それは、それらを無視する十分な根拠とはならない。少なくともユングは、非合理性と非因果性が重要であることによってそのような現象が、非常に真剣な注目を受けることが肝要になっていることを感じていた。彼は、どのような種類の現象も無視することは正当でないという事実に加えて、そこには、それらの出来事の下に隠されている何か他の、より一般的な原理が存在すると感じていた。これが、非因果的関係をもつ共時性現象についての彼の研究の背後にある、問いの真意と予感であった。そして、それは、広大な含蓄をもつ共時性の概念へと至った。』

Ⅴ 因果律と目的論を越えて

共時性は、ユングが研究した第三の説明原理として現れる。三つとは、因果律、目的論、そして共時性である。ユングは無意識を説明するために目的論的見地を発展させたが、さらに共時性へと導かれた。この三つは全て、問題と状況に応じて用いられて、ユングの思考のなかにとどまってきた。目的論的見地は、彼の思考の中枢の位置を保つ。なぜなら、それは、因果律をそのなかに含み、しかも、共時性の問題へ直接に通じているからである。しかし、共時性は、他の原理と釣り合い、それらを補足する独立した原理である。

Ⅵ ライプニッツと道

共時性は本来、知的概念ではないけれども、過去に共時性を哲学的に説明した人物は膨大な数にのぼる。我々がしたように、ユングをヒュームとカントに関連させることの要点は、ユングの思想が現代西洋哲学の合理主義から現れてきた歴史的過程を示すことであった。しかし、西洋文化における共時性の重要な哲学的先駆者は、合理主義をはるかに越えた源泉に求めるべきである。それらは、ライプニッツによって代表される。

●共時性が関わっている範囲内で、ライプニッツの研究の最も意義深い面は肉体と魂の関係の定式である。学問的には彼の理論は「精神身体的並行論」として分類され、軽視されて、現代思想では哲学的には厄介物視されるほどになってきている。しかし、今や共時性原理の定式と、ユングが心の深い現象を観察することによって為した研究によって、我々はライプニッツの概念の隠れた含蓄のいくらかを理解し始めることができる。

ライプニッツと老子[中国春秋時代の哲学者。道教の始祖]はユングにとって共時性の概念の先駆者であり、源泉であったとすることは正しい。しかし、二つの間には意義深い違いもまた存在する。そしてその違いは、西洋思想の伝統的発展に関係してる。ライプニッツは無形の影響を自分の心に把握しようと努めるが、道教[儒教、仏教と並ぶ三大宗教の一つ。多神教であり、概念規定は確立しておらず様々な要素を含んでいる]はそれを把握しようとはせず、一部になろうとし、調和する自然の流れの時間の中に入ろうと努めるのである。

Ⅷ 超心理的事象の共時的基礎

●超心理学の現象の研究において、遠くの事象の知覚や未来に起こることの予見は、ユングは自明であるとする。

●ユング自身の人生と心理療法の中で体験した数多くの超心理的な事象は、自分の無意識と密接な関係のもとに生きている。ただ、この無意識との関係は、鋭敏な人格内のより広い認知力の意識的発展によるときと、精神病の場合のように、無意識が無統制に優勢になるときがある。

ユングは超心理的事象の存在は明らかであり、必要なことは超心理的事象を理解する何らかの方法を見つけることであるという意見を支持している。

●ユングの共時性原理は、超心理学の道程にそって更に先の地点に至っている。ユングは共時性原理のデータをまとめて解釈するための基礎の役を果たすことのできる作業仮説を試みている。

ユングは心のレベルを四つに分け、人間の認識力の様々なタイプを記述した。表層は自我意識、そのすぐ下が個人的無意識、その下でとても深いところまで達しているのが、トランスパーソナル[自己超越、トランスパーソナル心理学は、神との交感、宇宙との融合感など、人間の知覚を超えたものが人間の心理に与える影響を研究する学問。人間の普遍的な姿を求める]なレベルの集合的無意識。そして底にあるのが、自然そのものの領域に達している類心的レベルである。

●超心理学的研究のこの側面[超心理学現象の発生は、実験室外の環境では非常に大きい広がりをもつ]は、近年、明らかになってきている。その中で、最も注目すべきはガードナー・マーフィで、彼は、「自然発生的経験」が、超心理的現象の研究の中で重要であることを強調している。

「自然発生的経験」について述べることは、超心理的事象は、第一に日常生活の流れの中で起こるという認識を意味している。これは、もちろん、ユングが深層心理学者としての自分の治療研究を基礎として到達した結論である。多くの宗教についての研究によってもまた、ユングは心の元型的[人類に共通する動きのパターンであり情動を伴う]レベルでの象徴と、宗教史上で起こった様々な奇跡的体験との間の関連について、強い印象を受けた。

●自発性は共時性事象に重要な要素であるが、その自発性はあくまで非計画的なものである。そのため、超心理学の研究は非計画的人生経験の中で起こる現象を研究する方法を見つけなければならない。これは、多様な共時的事象を、社会生活の影響下で引き起こされるものとして研究する必要性を意味している。

●共時的事象は、宗教的伝統と神話の基礎となる「奇跡的」出来事に対する重要な糸口をもっている。

左は”EARTHSHIP CONSULTING”さまのサイトです。

「元型」について詳しく解説されています。

『「元型」(archetype)とは、人間に生まれ持ってそなわる集合的無意識で働く「人類に共通する心の動き方のパターン」のことである。分析心理学者C.G.ユング(1875-1961)が提唱した概念。』

宗教と科学の接点2

「宗教と科学の接点」
「宗教と科学の接点」

著者:河合隼雄

初版発行:1986年5月

出版:岩波書店

目次は”宗教と科学の接点1”を参照ください。

第三章 死について

●瀕死体験

・『アメリカの精神科医レイモンド・ムーディは最初に哲学を専攻し、後に医学に転じたが、哲学の講義で霊魂の不滅について論じたときに、学生の一人から彼の祖母の瀕死体験について聞かされ、その後は積極的にこの問題と取り組むことになった。瀕死体験とは、医者が医学的に死んだと判定した後に奇跡的に蘇生した人の体験、および、事故、病気などで死に瀕した人の体験である。ムーディーは間接的な資料も加えて約150の事例から、次に述べるような結論を出したのである。

瀕死体験は人によってそれぞれ異なるが、驚くほどの共通点が存在する。それらの共通点を組み合わせて、ムーディはひとつの理論的な「典型」を提出している。これは非常に重要と思われるので、そのままここに引用してみよう。

「わたしは瀕死の状態にあった。物理的な肉体の危機が頂点に達した時、担当の医師がわたしの死を宣告しているのが聞こえた。耳障りな音が聞こえ始めた。大きく響きわたる音だ。騒々しくうなるような音といったほうがいいかもしれない。同時に、長くて暗いトンネルの中を猛烈な速度で通り抜けているような感じがした。それから突然、自分自身の物理的肉体から抜け出したのがわかった。しかしこの時はまだ、今までと同じ物理的世界にいて、わたしはある距離を保った場所から、まるで傍観者のように自分自身の物理的肉体を見つめていた。その異常な状態で、自分がついさきほど抜け出した物理的な肉体に蘇生術が施されるのを観察している。精神的には非常に混乱していた。

しばらくすると落ちついてきて、現に自分がおかれている奇妙な状態に慣れてきた。わたしには今でも[体]が備わっているが、この体は先に抜け出した物理的肉体とは本質的に異質なもので、きわめて特異な能力を持っていることがわかった。そして、今まで一度も経験したことがないような愛と暖かさに満ちた霊―光の生命―が現れた。この光の生命は、わたしに自分の一生を総括させるために質問を投げかけた。具体的なことばを介在させずに質問したのである。さらに、わたしの生涯における主なできごとを連続的に、しかも一瞬のうちに再生してみせることで、総括の手助けをしてくれた。ある時点で、わたしは自分が一種の障壁とも境界ともいえるようなものに少しずつ近づいているのに気がついた。それはまぎれもなく、現世と来世との境い目であった。しかし、わたしは現世にもどらなければならない。今はまだ死ぬ時ではないと思った。この時点で葛藤が生じた。なぜなら、わたしは今や死後の世界での体験にすっかり心を奪われていて、現世にもどりたくはなかったから。激しい歓喜、愛、やすらぎに圧倒されていた。ところが意に反して、どういうわけか、わたしは再び自分自身の物理的肉体と結合し、蘇生した。」

これは一種のモデルであり、個人によっていろいろ異なるのは当然である。ムーディはこのモデルに含まれる約15の要素のうち、多くの人が8ないしそれ以上の要素について報告し、12の要素を報告した人が数人いると述べている。また、人によってはこのモデルとは異なる順序で体験しており、たとえば、「光の生命」に出会うのが肉体から離脱するより先であることもある。また、臨床的な死を宣告された後に蘇生したが、先に述べたような体験を一切しなかったと報告する人もある。

これらの体験をした人は誰も、このようなことを適切に表現できる言葉が全然見つからぬことを強調している。それとその内容があまりにも予想外のことなので他人に話をしても、まともに受けとって貰えないということもあった。このためにこのような体験をした人も沈黙を守っていることが多く、ムーディたちが真剣に聞いてくれるので、はじめて話をしたという人もある。ここに述べられている身体外意識の体験は、ユングも共時性の一現象として記述しているが、当時ではなかなか信用されなかったものである。交通事故で足がちぎれたりした人が、自分のその体を上から眺めているというのだから、まったくの幻覚と思われがちだが、そのときにその人の見た事実と現実がぴったりと照合するので信頼せざるを得ない。特に、キュブラー・ロスが全盲の人達の体験を報告しているのは興味深い。彼らは全盲でありながら、瀕死体験の際は、そこに居あわせた人の身につけていた着物や装身具などまで描写できるのである。』

第六章 心理療法について

●心理療法とは何か

・『宗教と科学の接点の問題について論じてきたが、私がこのようなことに関心をもつようになったのは、私自身が専門としている心理療法という仕事を通じてのことであった。心理療法を実際にやり抜いてゆこうとすると、今まで述べてきたようなことを考えざるを得ないのである。それは自分のしている心理療法は「科学であるのか」という疑問に答えるためにも、そして、それに関連することであるが、心理療法の対象である「人間」という存在について考えるためにも、必要なことであった。心理療法についてはいろいろな語り方があると思うが、ここでは宗教と科学の接点という問題意識をもって述べることにしよう。』

・心理療法は19世紀の終わり頃より発展をはじめ、現代の欧米においては欠かせないものとなった。

・心理療法は古来から存在していたと考えられ、宗教、教育、医学の分野にそれを見出すことができるが、近代においては、「宗教」に対する反撥が強く、むしろ宗教に対立するものとして、教育、医学の分野から生じてきたように思われる。

・心理療法が心理学から生じてこなかったは、「心理学」が物理学を範として「客観的に観察し得る現象」の研究をしようとするものであり、人間の意識は研究対象になりえなかったからである。

・教育には指導や助言という要素が強く、これが心理療法に発展したと思われるが、心理療法は指導や助言では不十分なことも多く、この領域を超えることが求められている。

・医学においては身体に問題がないのに障害がみられる「病気」があることが解ってきて、その治療として19世紀の終り頃より精神分析が出てきた。しかし、医学モデルは型にはめようとしがちで、単純なモデルであるため、効果が限定的であることが多い。

・『対人恐怖症のためにどうしても学校に行けぬ生徒に、学校へは行くべきとか、行かないと損をする、と指導助言しても何の効果もない。あるいは、「学校に行けない原因があるだろう、それを言いなさい」などと迫っても、およそ答えられないであろう。時には、子どもたちは質問者の勢いにおされて、「先生が怖い」とか「お母さんがうるさい」とか適当に答えるときもある。原因追及型の線型の論理一本槍の人は、次に矛先を変えて、「原因」としての教師や母親を攻撃することになる。それに熱心な人ほど、自分の思いどおりの結果が生じないときは、その熱意は憎しみや攻撃の感情に変化しやすいものである。自分はこれほど熱心にやっているのに、母親が悪いから、あるいは、本人の意志が弱すぎるから……などの理由でうまくゆかぬと嘆いている人は多い。教育モデル、医学モデルに頼るときは、結果はうまくゆかぬとしても、自分は熱心で正しいことをしているのに、誰か必ず自分以外の悪者がいるからうまくゆかないのだ、という結論に達することができるので、なかなか便利である。このような便利さのために、有効性が低い割に現在もなお相当に用いられていると思われる。』

●自己治癒の力

・指導や助言も効果がなく、病因を探し出す方法も有効でないとすると、どのような方法があるのか。それは治療者が治療するのではなく、患者自身の治る力を利用することによってなされる。このことは心理療法において極めて大切なことである。

・『たとえば、学校に行きたいのにどうしても学校に行けぬと言う高校生が来談したとする。私がこの高校生を出来るだけ早く学校に行かしてあげたいという気持ちや、なぜ学校へ行きたいのか原因を知りたいという気持ちを全然もっていないと言うと、それはうそになるだろう。しかし、一応それらのことは括弧に入れておいて、ともかくこの高校生の自由な表現をできる限り許容し、それに耳を傾ける態度をとるだろう。そして、場合によってはその人の見た夢について話して貰ったり、絵を描いて貰ったり、箱庭を作って貰ったりすることになるだろう。多くの患者さんたちは、私に対して指導や助言を期待しておられたり、なかには「どうしてこうなったのでしょう」と尋ねる人もあるように、原因を早く知りたがったりされるが、それらにはほとんど関心を払わない私の態度に不思議な感じを抱かれるが、私の態度に支えられて、いろいろと自由な表現をされる。

これは、本人および本人を取り巻く人々の、そのときの意志や考えよりも「たましい」の語ることを尊重しようとしているのだ、と言うことができるであろう。夢や箱庭や絵画などを利用するのは、たましいの言語としての「イメージ」を尊重しようとするからに他ならない。

多くの人は後から振り返ってみて、なぜ自分はあんな話をしたのか解らないと言われる。つまり、学校のことを問題にするつもりだったのに、「自由に」話していたら、知らぬまに母親のことばかり話をしていたとか、まったく思いがけない過去のことを思い出して話をしてしまったとか言われるのである。これは治療者が通常の意識レベルにおける原因―結果の論理からフリーになった態度で接しているので、患者の方は知らず知らず感情のおもむくままに話をはじめ、心の深い層へと下降をはじめるわけである。自由に、感情のおもむくままに、ということは自我がたましいの方に主導権を譲るということである。

人間のもつ自己治癒力は不思議なものである。患者さんに箱庭をおいて貰っているだけで治療が進むときがある。

・箱庭療法は西洋で始まったものであるが、日本人は非常に向いている。これは、箱庭のような非言語的手段によって自分の自分の内面を表現し、またそれを治療者が理解することが難しくないということが大きい。

・一般的に患者さんは、はじめは片隅に少しだけ置いておくものだが、徐々に箱の領域全体を使うようになり、表現も豊かになっていく。こうして症状も改善していく。

・箱庭の変化の過程を写真にとっていくと、明らかにその流れが解るため、患者さんの内界に変化が生じ納得も得られやすい。

・箱庭療法の本質は、治療者が指導したり助けたりすることを放棄して、ただそこにいることなのである。何もしないでただそこにいること。これが治療者の役割である。

箱庭療法
箱庭療法

左の写真は「飯田橋メンタルクリニック」さまより拝借しました。

こちらのサイトには”箱庭療法”についての詳細な説明が書かれています。

●治療者の役割

・教育モデル、医学モデルに対し否定的な話をしてきたが、重要なことはこれらのモデルの有効性を判断することである。臨機応変の態度をもっていることが求められる。

・『われわれの態度は来談した人を客観的「対象」として見るのではなく、自と他との境界をできる限り取り去って接するようになる。治療者は自分の自我の判断によって患者を助けようとすることを放棄し、「たましい」の世界に患者と共に踏みこむことを決意するのである。ここのところがいわゆる自然科学的な研究法と異なるのである。

このような治療者の態度に支えられてこそ、患者の自己治癒力の力が活性化され、治療に到る道が開かれる。従って、治療者は何もしないようでありながら、たとえば、箱庭を患者が作ろうとするとき、どのような治療者がどのような態度で傍にいるかによって、その表現はまったく異なるものとなるのである。そうでなければ、各人が勝手に絵を描いたり、箱庭を作ったりしてノイローゼを治してゆけそうなものだが、そうはならないのである。このような態度は言うはやすく行うは難いことであり、相当な訓練を受けないとできないことである。』

・自己治癒力の力がはたらくと言っても、実はそこには大変な危険性や苦しみが存在する。

・多くの場合、治ることに苦しみはつきものである。というよりは、正面から苦しむことによってこそ治癒はあると考えるべきである。

心理療法によって苦しみや不安はむしろ増えてくる。治療者は患者がそれと正面から向き合うようにし、その苦しみを共にわかち合うことによって乗り越えようとしている

●コンステレーションを読む

・コンステレーションとはすぐに原因と結果とを結びつけるのではなく、いろいろな事柄の全体像を把握することである。

コンステレーションを読むには、われわれは「開かれた」態度を持たねばならない。このような「開かれた」態度で現象に接していると、共時的現象が思いの他に生じており、それが極めて治療的に作用することに気づく。

・『長い間学校へ行けなかった子がとうとう登校を決意する。明日行くというときに、風邪を引いて寝込んでしまう。このときに「またか!」と思い両親も治療者も落胆してしまうのと、登校する以前に病気ということを通じて母と子がもう一度一体感を確かめる機会を与えられたと受けとめるのとでは、まったく結果が異なってくる。病気のときは子どもも案外素直に甘えられるし、母親も子どもの肌に自然に触れられたりして、一体感を味わいやすいものなのである。奇跡が起こると言っても奇跡はしばしばマイナスの形で生じ、それを読む力のあるものにとってはプラスになることも多いので、コンステレーションを読む能力は治療者にとって非常に大切なものである。』

●宗教と科学の接点

・『「開かれた」態度によって治療者が接すると、それまでに考えられなかったような現象が生じ、そこにはしばしば共時的現象が生じる。その現象は因果律によっては説明できない。しかし、そこに意味のある一致の現象が生じたことは事実である。そのことを出来る限り正確に記述しようとしたとき、それは「科学」なのであろうか。それは広義の科学なのだという人もあるだろう。しかし、それはまた広義の宗教だとも言えるのではなかろうか。つまり、そこには教義とか信条とかは認められないが、自我による了解を超える現象をそのまま受け入れようとする点において、宗教的であると言えるのではなかろうか。

宗教はもともと人間の死をどのように受けとめるか、ということから生じてきたとも言うことができる。死をどううけとめるのかという点から生じてきた体系、といっても、それは単なる知識体系ではない。たとえば、仏教においては戒・定・慧の重要性が説かれるように、戒を守ることや禅定の体験を通じて得られる知こそ意味があるのである。

しかし、近代人は既に述べたように自我が肥大し過ぎて、過去の宗教の体系を単なる知識系として見ようとすることもあって、なかなか受けいれられない。従って既存の宗教を信じられなくなるのだが、何を信じようと信じまいと、人間にとって死は必ず存在するのである。最初はいかに生きるかに焦点があてられていた心理療法においても、死をどう受けとめるかが問題にならざるを得なくなった。ユングは彼の患者の約三分の一は、この世によく適応している人だったと述べている。いかに適応している人でも、死の問題は残る。ユングのもとに来たこれらの人は、いかに生きるかということよりも、いかに死ぬかという問題のために来たと言ってもいいだろう。』

感想

一通り拝読させて頂き、消化できたとは言い難いのですが、一番印象に残ったことは、

「開かれた態度」-「共時的現象(因果律では説明できないが、意味ある一致の現象)」-「自己治癒力(正面から苦しみと向き合うこと)」ということでした。

特に、この中で“共時的現象”については、もう一歩踏み込んでその実体を知りたいと思いました。調べたところ、『ユングと共時性』と題する本があったので、こちらも読んでみたいと思います。

宗教と科学の接点1

30年以上前の話です。決して重たいものではなかったのですが、自分捜しをしていた時期があり、そのときに読んだ本の中に河合隼雄先生の『明恵 夢を生きる』という本がありました。明恵とは鎌倉時代、40年にわたり夢を書き残した高僧です。

また、本棚を見て思い出しましたが、同じ時期に、C.G.ユングの『元型論 無意識の構造』と『心理学と錬金術』、さらにE.ユングの『内なる異性 アニムスとアニマ』も読んでいました。私の記憶では、この時の自分捜しの解答は、「客観的であること、外から自分を眺められるようになることがとても重要だ」ということだったと思います。

今回の『宗教と科学の接点』は河合先生の著書ですが、C.G.ユングの説や考えも重要な位置をしめています。

鍼を身体への物理刺激(侵害刺激)と考えると、解剖学生理学は鍼の影響(効果)を考える上で重要な医学です。

一方、「病は気から」などの“気”を“エネルギー”と考えると、ミクロの世界に存在する量子の力学を連想します。

我々が生きている世界はニュートン力学の世界ですが、原子より小さな世界は量子力学の摩訶不思議な世界です。そして、これは間違いなく実在しています。もし、量子力学が発見されていなかったら、半導体は生まれていません。なお、ここにある科学の主役は物理学です。

私は宗教にはあまり関心をもっていませんが、霊や霊能者には興味があり、“完全無欠ではない霊支持者”です。

フロイトとともに心理学の巨星であるC.G.ユングは、母方の家系に牧師で精神科医、そして霊能者として知られていた祖父(ゼムエル・ブライスヴェルク)がおり、祖母のアウグステも有名な霊能者だったそうです。

霊と量子、気と量子、それぞれ何か関係があるのか、これを明らかにすることは極めて難しいものだと思われますが、“量子力学の父”とよばれた、ニールス・ボーアが東洋医学に興味をもっていたという事実は、これらの関係性を意識させます。

「量子論を楽しむ本」
「量子論を楽しむ本」

ニールス・ボーアは量子論が明らかにした物質観・自然観の特徴を“相補性”という概念で説明しています、ボーアはこの“相補性”を表すシンボルとして古代中国の「陰陽思想」を象徴する“太極図”を好んで用いたとのことです。このことは、「量子論を楽しむ本」の中に書かれていました。

※ご参考:ブログ「量子論1」 

以上のような思いが交差し、河合先生の『宗教と科学の接点』には、何が書かれているのだろうか、是非、読んでみたいと思った次第です。

なお、ブログは何とか理解できた個所、直観的に「これは」と思った個所(目次の黒字部分)を取り上げていますが、散発的でまとまりに欠けます。

「宗教と科学の接点」
「宗教と科学の接点」

著者:河合隼雄

初版発行:1986年5月

出版:岩波書店

目次

第一章 たましいについて

●はじめに

●トランスパーソナル学会

●日本の状況

●人間存在

●たましいとは何か

●西洋近代の自我

●東洋と西洋

第二章 共時性について

●共時性とは何か

●易

●共時性と科学

●共時性と宗教

●ホログラフィック・パラダイム