人権について考える

入江 杏先生は上智大学グリーフケア研究所非常勤講師をされています。そして、悲しみについて思いを馳せる会の「ミシュカの森」の主宰をされています。

グリーフケアとは、「家族や親しい友人との別れ、死別、あるいは生きがいや希望の喪失など、喪失に胸を痛めている人、喪失から生じる悲嘆に苦しんでいる人に寄り添い、支えようとする活動である」。これは、グリーフケア研究所の島薗 進所長のお言葉です。

クリック頂くと、YouTubeが立ち上がります。約16分です。

こちらは、”上智大学グリーフケア研究所”さまのホームページです。

入江 杏先生は2000年12月30日に発生し、いまだ未解決の「世田谷一家殺害事件」の犠牲者のお一人、宮澤泰子さんのお姉さまでもあります。今回の『悲しみとともにどう生きるか』では編著(編集と著作)をされています。

悲しみとともにどう生きるか
悲しみとともにどう生きるか

著者:柳田邦男、若松英輔、星野智幸、東畑開人、平野啓一郎、島薗 進、入江 杏

初版発行:2020年11月22日

発行:集英社

この本は6つの章に分かれていますが、第一章から第五章までは2008年から2019年に行われた講演が基になっています。第六章はグリーフケア研究所所長の島薗先生の書下ろしで、「グリーフケア」や「ミシュカの森」について書かれています。

詳細は次の通りです。

第一章 「ゆるやかなつながり」が生き直す力を与える  柳田邦男 2008年12月27日 玉川区民会館ホール

第三章 沈黙を強いるメカニズムに抗して  星野智幸 2016年12月25日 上智大学

第四章 限りなく透明に近い居場所  東畑開人 2018年12月9日 芝コミュニティはうす

第五章 悲しみとともにどう生きるか  平野啓一郎 2019年12月14日 ビジョンセンター田町

第六章 悲しみをともに分かち合う  島薗 進 “書下ろし”

ブログは芥川賞作家でもある平野啓一郎先生の第五章について触れています。この五章に書かれているのは主に、“死刑制度のこと”、“人権のこと”、そして“コミュニケーションと分人”についてです。“分人”には多様性が求められると思いますが、背景には“客観的&主体的な変化と順応”ということが隠れているように思います。

この中で“死刑制度のこと”、“人権のこと”は、私自身64年も生きてきて、まともに考えたことが一度もなかったことを思い知りました。また、書かれている内容はとてもインパクトの大きなものであり、自分自身はどう考えるのだろうか、頭の中を整理したいと思いました。

第五章の小見出しは以下の通りです。(ブログでは最初の2つには触れていません)

●「カテゴリー」として扱われがちな被災者や事件の被害者

●当事者でないからこそ書けることがある

●死刑制度への考え方

●「なぜ人を殺してはいけないか」への応答として生まれた『決壊』

●心から死刑は廃止するべきだと思った理由

●個人の責任に収斂させる死刑は国家の欺瞞

●死刑制度は犯罪防止にならない

●犯罪被害者へのケアが不十分

●犯罪の被害者の心の中に芽生える感情は複雑

●「赦し」と「罰」は同じ機能を果たす

●共感や同情ではなく、人権を権利の問題として捉える教育が必要

●「負け組」に対する積極的な否定論

●すべての人の基本的人権を尊重するという大前提

●自死して償うという日本的発想

●社会の分断と対立の始まり

●対立点からではなく、接点からコミュニケーションを始める

●分人の集合として自分を捉える

●人生の経過とともに分人の構成は変わっていく

●愛する人を喪失した人へ

死刑制度への考え方

・平野先生は現在、死刑制度を廃止すべきという立場であるが、『決壊』を書く以前の20代ぐらいまでは心情的には死刑制度に肯定的な立場の近い所にいた。しかし、はっきりした考えは持っておらず迷っていた。

・ヨーロッパではベラルーシ以外はすべて死刑制度が廃止されている。今も死刑制度が残っているのは、アジア諸国、中東、アメリカ合衆国の一部の州などである。

2014年死刑執行国
2014年死刑執行国

画像出展:「2014死刑判決と死刑執行」

 

アムネスティ
アムネスティ

死刑判決と死刑執行 アムネスティ・インターナショナル報告書(抄訳)

上記をクリック頂くと、PDF13枚の資料がダウンロードされます。

下記はアムネスティのサイトにあった記事です。

死刑廃止 - 最新の死刑統計(2020)

 

以下はネットで見つけた記事です。

死刑制度をめぐる日本の議論:世論は8割が死刑容認

この中に“死刑制度の存廃をめぐる議論のポイント”という箇所があり、項目として8つ挙げられています。

■根本的な思想・哲学

■死刑に犯罪抑止力があるかどうか

■誤判・冤罪の恐れをどう考えるか

■被害者・遺族の心情をどう考えるか

■犯人の更生可能性について

■世論調査をどうみるか

■死刑廃止が国際的潮流である点をどうみるか

■死刑は憲法に違反しないか

「なぜ人を殺してはいけないか」への応答として生まれた『決壊』

・これは、TBSの『NEWS23』で収録された若者たちとの対話での発言。その時の出演者からは的確な回答は出なかった。

・『決壊』という作品の中で、平野先生は「なぜ人を殺してはいけないか」という根本的な問いに対して、その理由を説得力を持って書きたいと思っていた。

心から死刑は廃止するべきだと思った理由

・警察の捜査に対する不信感(袴田事件など)。

・「人は殺してはいけない」という絶対的な禁止に、例外を設けてはいけないという考えが自分の中で確かなものになった。人の命は、「場合によっては殺していい」という例外を作ってはいけない。

・死刑は加害者を同じ目に遭わせてやりたいという身体刑である。

個人の責任に収斂させる死刑は国家の欺瞞

・立法的、行政的な救済を必要とする犯罪被害者への支援が十分とはいえない状況で、事件に対して司法が死刑を宣告して、その人を社会から排除し、あたかも何もなかったかのような顔をするのは国家の欺瞞ではないか。

・社会の責任が大きいような環境で育った人が罪を犯した時、それをその人の「自己責任」にすべて収斂させて、死刑にすることで終わらせてはいけないのではないか。

・社会的責任は一切なく、あくまでその個人に全ての責任があるとする犯罪の場合であっても、国家がその犯罪者と同じ次元に降りてきて、事情があれば人を殺していいという判断(死刑)をするのは良くないのではないか。

・『我々の共同体は人を殺さない。一人ひとりの人間は基本的人権を備えていて、生存については絶対的に保障されている。我々の社会はそういう社会であるという前提は、例外的にそれを破る人が出てきても崩してはならないはずです。だから、あなたは人を殺したかもしれないけど、我々の社会はあなたを殺さない。それが我々の社会です、ということを、あくまで維持しなければならないのではないか。おまえが殺したから俺もその次元にまで下がっていって、同じように殺すということは、許されることなのか?

何かよほどの事情があれば人を殺していい、という思想自体を社会の中からなくしていかないと、殺人という悪自体が永遠になくならないのではないかと考えるわけです。

死刑制度は犯罪防止にならない

・死刑囚にも自分の死が怖いと思う人とそうでない人がいる。

・“拡大自殺”とは死刑になりたいから多くの人を巻き添えにした殺人を起こすことである。

-2008年6月:“秋葉原通り魔事件”では7人が死亡。

-2021年12月:大阪ビル放火事件“では25人が死亡。

犯罪被害者へのケアが不十分

・全国犯罪被害者の会では、附帯私訴制度(民事裁判を起こすことなく、刑事裁判の中で損害賠償を求める手続きができる仕組み)の実現が一つの目標になっているが、これは遺族が裁判にうまく関与できない状況になっている。

・被害者に対する誹謗中傷などに対する被害者をケアするシステムが不十分である。

被害者が十分に守られていない状況では、人は「被害に遭った人たちはあんなにかわいそうな目に遭っているのに、何で加害者の人権が守られなきゃいけないんだ」という反発から、「死刑制度は反対」とか「加害者にも人権はある」という声に社会は強く反発する。死刑制度の議論は、被害者のケアの充実を第一に図っていかない限り、国民が加害者側の人権を考えることは難しい。

本来は、犯罪被害者の悲しみを癒すことに関わることが大切だが、それは簡単ではないこともあり、被害者の気持ちになり代わって、「犯人を死刑にしろ!」となっていく傾向が強い。

人権概念の理解の徹底こそが重要であるが、感情的な問題も無視はできない。

犯罪の被害者の心の中に芽生える感情は複雑

・『犯人は死刑になった後、ご遺族がそれで本当に区切りがつけられたのか、何らかの慰めなり癒やしが得られたのかどうかということは、ジャーナリズムの一種のはばかりからか、怠惰からか、それほど具体的な追跡調査がなされていません。ですから、社会は勝手に、遺族は死刑にならないことには収まりがつかないし、死刑になったらそれで一つ区切りがつくと考えて、犯人が死刑宣告を受けて死刑にされたら、途端に遺族のことはすっかり忘れてしまいます。しかし、実はその時にこそ、遺族は社会の中で最も孤独を感じているかもしれない。加害者を憎むということにおいてのみ被害者の側に立った人たちは、加害者に死刑が執行された途端に、被害者への興味を一切失ってしまいます。もし自分の家族が殺されたなら、という仮定は、一体、何だったのでしょうか?

また、死刑が区切りになるかどうかということとは関係なく、とにかく関わりたくない、死刑も望まず、赦すなんてことももちろんできないけど、とにかくもう思い出したくない、別の人生を歩みたいという方もいらっしゃいます。

死刑で一件落着、それが一つの区切りになるなどという考え方で犯罪被害者の方のすべての感情を物語化することはできない。誰かと話をしたいとか、じっくり一時間、二時間、話を聞いてもらいたいとか、孤独に寄り添ってほしいとか、事件のこととは関係なく、楽しくごはんでも食べに行きたいとか、被害者というカテゴリーにくくられたくないとか……、それは当然、さまざまです。だけど、「被害者の気持ちを考えたことがあるのか」と言う人は、そのうちの「憎しみ」の部分にしか興味がありません。それ以外の部分で、被害に遭った方の悲しみをどういうふうに癒すのかということには、全くコミットしようとしないわけです。これが非常に大きな問題ではないかと思います。

「赦し」と「罰」は同じ機能を果たす

・赦しと罰は、何かを終わらせるという意味では同じ機能を果たしているといえる(ハンナ・アーレントの『人間の条件』より)

・被害者の方が“赦し”を選んだ時に、社会はその人の決断をあたたかい尊敬の気持ちで称賛し、抱擁すべきである。決して「あなたは亡くなった人に対する思いが薄いんじゃない?」などと非難することがあってはならない。他者を理解するというのは、自分が決して理解できないことを理解しようと努めることである。

共感や同情ではなく、人権を権利の問題として捉える教育が必要

・死刑制度の問題から気づくことは、日本人は人権というものに対する教育に失敗していると思うことである。

・『僕自身が小学校で受けた人権教育を思い返してみても、結局のところ、人権というのがよくわからないままだった気がします。小学校の教育の中で多かったのは一種の感情教育で、人がそういう時にはどんな「気持ち」になっているかを考えてみましょうとか「自分が嫌なことを相手にもしてはいけません」という心情教育に偏っていました。他者に対する共感の大事さを説くばかりで、人権という、権利の問題としてきちんと教育されてこなかった気がします。実際、講演[地方自治体の人権週間での講演]の時の作文[小・中学生の作文]も、「相手の気持ちを考えず、嫌な気持ちにさせてすごく悪かった」という結論に至っているものがほとんどでした。この感覚が大人になるまでずっと続いてるので、不祥事で政治家や企業の社長が謝罪する時にも、その理由は「不快な気持ちにさせてしまったこと」です。

・共感能力が重要であることは間違いないが、人権という権利の問題を考える時に、共感ということが前面に出すぎるのは望ましくない。

かわいそうかどうかは主観的な感情である。一方、権利とはある前提の中では不変なものだと思う。それ故、主観的な感情とは距離をとり、客観的に向き合う必要があると思う。

・『例えばNHKの番組で、格差社会の中の「相対的貧困」といわれるような状態の人たちの特集があって、そこに登場した女の子の部屋の棚に漫画が並んでいた。そうすると、「貧困っていっているけど、漫画を読んでいるなんてぜいたくだ」「世の中にはもっと大変でかわいそうな人がいる」と、主観的な話になってバッシングが起きる。結果、こんな人たちは別に救う必要がないとか、特集する必要はないといった否定的意見が出てきます。

これは生活保護バッシングにも似ています。「生活保護とかいいながらパチンコしているじゃないか」と。「同情に値しない。かわいそうじゃない」「自己責任だから、そういう人たちを救う必要はない」という論調が日本社会の一部に強くあります。これもやはり、人権の問題としてその人たちの生存を考えているのではなく、かわいそうかどうかという共感の次元で捉えてしまっているがゆえに起こっていることです。』

「負け組」に対する積極的な否定論

・「勝ち組」、「負け組」は当初、株式投資に関し企業を判断するものとして出てきた。その後、新自由主義的の風潮の中でいつの間にか人間についてもいわれるようになった。そして、負け組の人たちは努力が足りない怠け者だというような論調が社会の中で語られるようになった。

すべての人の基本的人権を尊重するという大前提

・『人権というのは、一人ひとりの人間が生まれながらにその生命を尊重されて、それは誰からも侵されないという権利で、ヨーロッパの思想史の流れの中で考えられたものです。人類の歴史の流れによっては、人間は生まれながらに差別されるのは当然で、一部の人だけが富めばいいという社会がずっと続くこともありえたと思います。しかし、そうはならず、すべての人間が基本的な人権を備えていて、それは絶対尊重しなければいけないという想に基づいて憲法をつくり、国家を成立させ、そして、国家権力はそれを侵してはいけないという仕組みをつくり上げていった。近代以降のその流れは、僕は基本的に正しかったと思っています。その思想を受け継いでいることを幸福と感じます。

人間には生まれながらにして権利があるという話は、フィクションといえばフィクションですけど、それをたくましい努力で守り抜こうとする思想は、偉大です。

実際には内戦が続いている地域など、基本的人権という考え方が通じなくて、国家が溶解したような状態で、ひたすら弱者が暴力の被害に遭っているという現実もあります。本当にそういう社会でいいのかと考えた時に、僕はやはり一人ひとりの人間は絶対に殺されてはいけないし、国家の主権者として生存権や社会権が守られているという大前提を崩すべきでないと考えています。

ですから、学校でいじめが起きている時に、かわいそうなことをしているからやめましょうと諭すことも大事ですが、まず、いじめるということは相手の教育を受ける権利を侵害していることだから、やってはいけないことだ、と教えなくてはならない。人を殺すというのは、その人が生まれながらにして持っている、誰からも生命を侵害されることがないという権利を奪うことだからやってはいけないことだと教えなくてはならない。

心情的な教育というのをやりながら、一方で、すべての人は、社会の役に立とうが立つまいが、そんなことは関係なくて、生まれてきたからには、自分の命は誰からも侵害されない権利がある、という原則を子どもたちに教えることが非常に重要です。

その上で、僕も自己反省的に、そもそも、どうして自分は子どもの頃、人を殺した人は死刑になっても当然だと思っていたのだろうかということを考えてみました。一つには、漫画やアニメ、テレビの時代劇などで悪者を成敗する勧善懲悪のストーリーが戦後ずっと続いていて、その刷り込みがかなり強いのではないかと思います。漫画や小説などフィクションが与える影響というのは馬鹿にできません。』

自死して償うという日本的発想

・日本では自死(自殺)は個人として追い詰められた結果ということではなく、一種の社会的な償いとして死ぬべきであるという考えが強くある。社会に命を差し出すことが償いになるという考え方自体を問い直す必要がある。

社会の分断と対立の始まり

・『ノーベル経済学賞を受賞した経済学者で思想家でもあるインド出身のアマルティア・センがアイデンティティーと暴力という本を書いています。その中で彼は、なぜインドで深刻な宗教対立や民族対立が起きるのかということに関して、個人を一つのアイデンティティーに縛りつけてしまうことがすべての社会的な分断、対立の始まりだと分析しています。

社会を分断させたい人、あるいは対立させたい人にとっては、個人が単一のアイデンティティーに収まっていることが何よりも重要なんだと言うんですね。あの人はキリスト教徒、あの人はイスラム教徒というふうに単一のアイデンティティーにくくりつけてしまう。あるいは、あの人は死刑存置派、あの人は死刑反対派というふうに。そこから際限のない対立が始まってしまうわけです。

センは、さらにこう続けます。実際には、人間というのは非常に複雑な要素の集合体である、と。

ある人はプロテスタントであり、同時に二児の父親で、野球はヤンキースを応援していて、音楽はジャズが好きというふうに、一人の人間は複雑な属性を備えている。そうすると、死刑制度を支持するかどうかというような一つのトピックスに関しては対立する部分があるけど、音楽の話をすると、「俺もあのバンド好きなんだよ」と共感する部分があったり、「実は北九州出身で、俺もあの先生に習ったんだ」と、複数の属性を照合し合わせると、どこかにコミュニケーションの可能性を見出しうる。

センは、そこに対話の糸口があり、そこを通じてコミュニケーションを図り続けることによって、一つの対立点で社会が分断されそうな時にも、別のところで人間同士のつながりが可能になるということを言っています。

これは非常に重要なことです。僕たちは単一のアイデンティティーや、単一のカテゴリーに自分が押し込められることに非常に不自由を感じます。実際には自分にはもっと多様な面がある。犯罪の被害に遭われた方のことも、「犯罪被害者」というふうにカテゴリーとしてつい語ってしまいますが、その人の中にも、一方で会社員であったり、昔の友達とわいわいい楽しく過ごす時間もあったりというふうに、複雑な顔があるわけです。』

対立点からではなく、接点からコミュニケーションを始める

人間は複雑な属性を備えているというアマルティア・センの指摘について、平野先生は「分人」ということばで個人や社会の多様性を重視すべきであると説いている。

・人間にはコミュニケーションの中で混ざり合っていく他者性があり、他者に対する柔軟なコミュニケーションを重ねることにより、自分の中にいくつかの人格がパターンのようにしてできていく。これを個人という概念に対して、「分人」と呼んでいる。

分人の集合として自分を捉える

・自分という存在を唯一つの存在とするのではなく、分人という自分の中の多様性によって、好きな自分、嫌いな自分、楽しい自分、辛い自分などいろいろな面があり、相対化して分人として自分を眺めることができれば、自殺の衝動を抑制することもできる。

人生の経過とともに分人の構成は変わっていく 

・分人の構成は他人や社会から強いられるものではなく、バランスを取るように自分がコントロールすべきものである。ただし、これは容易なものではなく、社会や政治といった自分の外側に目を向けることも大事である。

愛する人を喪失した人へ

・『僕たちは自分が愛している人との分人を生きたいわけですけど、その相手を失うことによって、それができなくなってしまう。その辛さが愛する人を亡くした時の大きな喪失感ではないでしょうか。

だけど、生きている人たちとの関係の中で新しい分人をつくってみたり、今まで仲がよかった人との分人の比率が大きくなっていくことで、その後の人生を続けていくことができるはずだと思います。

そういう意味で、最初の話に戻りますけど、辛い状況にある当事者の人に対して、自分はどう接したらいいかわからないと立ち止まるのではなく、その人に辛い分人だけを生きさせないために、新たな分人をつくることができるような関与をすることが大事ではないでしょうか。

感想

長いコロナ禍、テレビの刑事モノを観る機会が増えたのですが、時々出てくる刑事のセリフ、「罪を憎んで人を憎まず」。これは死刑制度、人権、自死(自殺)に紐づく重要なキーワードになるのではないかと思いました。もちろん、簡単な話ではないと思いますが。。

日本人の約8割は死刑容認とのことです。私も平野先生のお考えを勉強させていただく前は、そもそも深く考えたこともなかったのですが、死刑容認派で間違いないと思います。

自分なりに何故、容認派なのか考えてみると、先生が指摘された漫画やアニメの“勧善懲悪”の影響は確かに大きいと思います。また、“切腹”や“敵討ち・仇討ち”なども、物語の中では多くは美化されており、嫌悪感はほとんど持ちません。拷問のように痛みを実感できる体罰(身体罰)は受け入れられないのに、拷問よりも残酷な死刑という命を奪ってしまう身体罰は、一瞬のことだからなのか、なぜか寛容です。

また、島国、村社会である日本は“村八分”や“出る杭は打たれる”など、昔から村民に同質性を求める傾向が強いと思います。しかしながらこれは生きていくための知恵でもあり、日本人の慣習、文化になっているように感じます。注意すべきは同質性を重んじることは、多様性に対しては懐疑的になりやすいのではないかという側面です。

脳の機能で考えると、本能や感情に関わるのは“古い脳”といわれる大脳辺縁系などです。一方、理性に関わるのは“新しい脳”の大脳皮質です。犯罪は怒りや悲しみが先行するものなので、まずは“古い脳”が活性化すると思います。特に怒りなどの先には、法による罰が存在し、“怒り”に対して“罰”という結果がすぐに結びつきます。それに対して、“悲しみ“あるいは“犯罪被害者支援”に関しては、法による罰に相当するような明快な解決策がないこともあり、あぶり出された”理性”が落しどころを捜すうちに迷子になってしまうのではないか。この点も“新しい脳”の活性化を難しくさせているように思います。

下の絵で考えれば、犯罪は“脳の命令の力関係”からも圧倒的に古い脳(情動脳)を活性化させやすい状況だと思います。 

命令の力関係
命令の力関係

こちらの画像は、Web活用術さまの“古い脳 VS 新しい脳|脳の特徴でわかる人生の苦悩と解決策”という記事から拝借しました。

 

 

この記事では次のように古い脳と新しい脳を比較されています(一部追加)。

古い脳

・爬虫類能(反射能)

 ・構造:脳幹・大脳基底核・脊髄

 ・機能:心拍・呼吸・摂食・飲水・体温調節・性行動⇒「生きたい」

哺乳類能(情動脳)

 ・構造:大脳辺縁系(扁桃体・海馬体・海馬傍回・帯状回・側坐核)

 ・機能:喜び・愛情・怒り恐怖嫌悪などの情動⇒「仲間意識(関わりたい)」

新しい脳

人間能(理性脳)

 ・構造:大脳皮質(右脳・左脳)

 ・機能:知能・記憶・言語・創造倫理・繊細な運動など⇒「目的意識(成長したい)」

新しい脳(理性脳)を活性化させることは、犯罪を減らす一つの答えになると思います。繰り返しになりますが、具体的には”犯罪被害者の悲しみ”に対して明快な解決策を用意し、犯罪者に対する法的罰則と同様に、犯罪被害者に対する被害者支援の道が用意され、被害者の方を思う一人ひとりの”理性”を迷子にさせないことです。

国民の意識が「罪を憎んで人を憎まず」に向かえば、多様性に対しての理解も進み、さらに国民的コンセンサスとしての高まりとなれば、死刑制度の意識も変わるかもしれません。そして、治安や暮らしやすさの改善にもつながると思います。 ただ、もし自分の家族が殺されたとして、「罪を憎んで人を憎まず」という気持ちに本当になれますか? と問われれば、やっぱり自信はありません)

罪はすべての人が“善”と“悪”を内在していると思うので、なくなることはないと思いますが、新しい脳である理性を活性化できるようになれば、犯罪だけでなく自死も減るのではないかと思います。そして、間接的であっても、”貧困と格差の是正”につなげられれば、さらに犯罪も自死も減るものと思います。

ご参考1

「”罪を憎んで人を憎まず”とは誰の言葉なのだろう?」と思い調べたところ、なんと”孔子”でした。実は2ヵ月程前に、”論語と仁”というブログをアップしていましたのでリンクさせて頂きます。

ご参考2

犯罪被害者のアンケート調査のような資料がないものかネットで探したところ、2007年と新しくはないのですが、社団法人の被害者支援都民センターによる調査資料がありました。

以下の資料名をクリック頂くと、PDF70枚の資料がダウンロードされます。

平成18年度 被害者支援調査研究事業 今後の被害者支援を考えるための事業報告書



殺人・傷害致死 計38人
殺人・傷害致死 計38人

この棒グラフは左上の”被害後に悩まされた問題”の中から”殺人・傷害致死 38人”だけを抜き出したものです。

また、上記右上のグラフは”事件直後の必要な支援”に関するものです。

二次的被害を受けた相手
二次的被害を受けた相手

こちらは”二次的被害を受けた相手”のグラフです。

上記の”被害後に悩まされた問題”と合わせて考えると、犯罪被害者の方は、多くのストレスに直面していることが分かります。特に、”民事裁判に勝訴したが、実際には賠償金を支払われていない”という人が36.8%もおり、精神的ストレス、手続きの煩わしさ、時間の拘束に加え、金銭的も厳しいということが分かります。

2007年から15年たった今でも同様であるとすれば、犯罪被害者への支援は喫緊の大きな課題といえます。