早稲田大学と大隈重信2

著者:渡邉義浩

発行:2023年3月

出版:(株)早稲田大学出版部

目次は“早稲田大学と大隈重信1”を参照ください。

 

第三章 政党内閣

1 東京専門学校

・1882年、大隈邸は雉子橋(現在の千代田区九段南一丁目)にあり、早稲田を別荘としていた。小野梓・高田早苗らによる学校開校計画は、大隈後援のもと、早稲田の地で現実化することになる。

今の大隈庭園となっている大隈邸は、高松藩主であった松平讃岐守の下屋敷、学校の所在地は井伊掃部頭(井伊家当主)の別荘地と言われている。都の西北に広がるのどかな田園地帯だった。

画像出展:「大隈重信と早稲田大学」

・1882年9月9日、小野梓は「東京専門学校規則」を大隈重信のもとに届けた。それを踏まえて11日、大隈英麿(大隈重信の長女・熊子と結婚して婿養子になった。旧姓南部。ダートマス大学で天文学を専攻後、プリンストン大学に移り、数学を修めて理学士号を取得「創立期の隠れた礎」として、その実学志向と教育理念が評価されている)の名で「私塾設置願」が、東京府知事の芳川顕正に提出された。

・設置の目的は、「政治経済学科・法律学科および物理学科を以て目的とし、その傍ら英語学科を設置する。ただし。物理学科は科目は追って認可を経る」と記されていた。

・1882年10月21日の東京専門学校の開校式に、創設者の大隈重信の姿はなかった。それは自らの政治的立場と学校との関係の誤解を避けるためであり、役員にも名を列ねてはいない。その後も学校の運営や教育内容につては距離をおいていた。

学問の「応用」と学問の「独立」を掲げて東京専門学校は開校し、小野梓が演壇で「学の独立」を高らかに宣言した。

「学問の独立」とは第一に外国からの日本の学問の独立であった。東京大学では日本人講師も外国語で授業していたが、東京専門学校は東京大学と同等の高等な学問を、日本語を用いて教授し、有為な人材をいち早く世に送り出そうとした。第二は政治権力からの学問の独立だった。それは東京専門学校の創立が、大隈重信、小野梓以下の立憲改進党の指導部によるものだったためである。

・文学科は小野梓の親友であった坪内逍遥を中心に、日本最初の純粋な文学研究科として文学科は遅れて設置された。

東京専門学校は立憲改進党系の学校とみなされ、私立校への判事・検事および大学教授(当時、大学は東京大学のみ)の出講禁止など、さまざまな妨害や圧迫を加えられ、講師の確保にも窮するほどの状態が続いた。これを支えたのは大隈家の私財と鍋島家からの後援だった。その後、条約改正のため政府が大隈を必要とするようになると、東京専門学校への風当たりは弱まっていく。

・東京専門学校はその後、大学への昇格を展望して組織を改編し、1902年に早稲田大学への改称が認可された。ただし、その時点では制度上は大学ではなく、1904年、専門学校令に準拠する高等教育機関(旧制専門学校)となり、1920年、大学令により正式な大学となった。なお、大学令により私立大学として最初に認可されたのは、早稲田大学と慶応義塾大学の二校だけだった。

4 早稲田大学への発展

・大隈は外相在任中の1897年7月、第三代校長鳩山和夫のもとに行なわれた、東京専門学校創立十五周年記念式典と同時に行なわれた得業証書授与式に参加され次のような演説を行った。

『卒業生の諸君は数年勉強の結果、今日この名誉ある得業の証書を貰って初めて社会に御出になるのは、まずいわば複雑なる社会に於て勇戦奮闘する初陣である。ところがなかなか初陣というものはよほど六ヶしい。そうも諸君が向うところには種々の敵が沢山ある。種々の兵にも出会う。いま近衛侯爵の御話の通りに道徳の腐敗あるいは社会の元気の沮喪などという、これは最も恐るべき敵である。既に出陣しない前に敵が現れて来ているのだ。この敵に向かって諸君は必ず失敗をする。随分失敗をする。また成功があるかも知れませぬけれども、成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな。失敗に打勝たなければならぬ。たびたび失敗するとそれでこの大切なる経験を得る。その経験に依って成功を以て期さなければならぬのである。ところでこの複雑なる社会の大洋に於て航海の羅針盤は何であるか。学問だ。諸君はその必要なる学問を修めたのである。しかしながらなかなかまだ初歩なのである。・・・・・・すべての仕事をなすと同時に手に巻を持っておらなければならぬ。本を持っておらなければならぬ。これを止めたならば誰でも直ちに失敗して再び社会に勢力を得ることの出来ないようになってしまうのである。まず一言を以て諸君を戒めておきます。—早稲田学報五(1897年)』

大隈は失敗はつきものであると言い、そのために「学問」こそが「羅針盤」になるとしている。ここには数多くの失敗を乗り越えてきた大隈の思いが込められている。

・大隈は創設時から東京専門学校をいずれは大学にしたいと考え、複数の学科を置いていった。1902年10月、法制上は専門学校の扱いであったが、早稲田大学へと名称を変更した。その後、1904年に商科、1909年に理工科を設置し、早稲田は総合大学としての実質を整えていく。

画像出展:「大隈重信と早稲田大学」

『此東京専門学校を以て(大隈の)政党拡張の具となさんとするものの如く誤り見たるものが多いと云ふ一事であります。これは大隈伯爵の識量を誤認したものと認める。大隈伯爵は、政治・教育共に熱心であるが、素より政治と教育の別を知って居られる。学校教育の事業は之を政治の外に置き、教育機関を濫用して党勢力拡張の具とするのは策は、断じて取られなかった事は明らかに認める。これは世の中の具眼の人は分かって居るか知らぬが、多くは之を誤解して居った。 —創立二十年記念録』

大隈は伊藤博文の演説を聞き、「伊藤も、とうとう降参して、懺悔演説したよ」と言い、笑って喜んだ。伊藤が認めざるを得ないほど、東京専門学校は大隈抜きでも発展していた。

・伊藤と大隈は、明治14年の政変に代表される対立関係もあったが、一方で「築地梁山泊」以来の親友だった。1907年、早稲田大学が創立二十五周年を記念して、理工科と医学科の設置を試みた際、募金の集まりが悪いのを見た伊藤は皇室からの内帑金三万円(現在の価値で約4200万円)が大学に下賜されるよう奔走した。大隈は憲政本党を離れてから、大隈と伊藤は「築地梁山泊」のころの親しさを取り戻していた。人間は本来、125歳まで生きられると「人生百二十五歳」説を唱えていた大隈にとって、伊藤博文の69歳の死去は耐え難い悲しみであった。

・早稲田大学として成立後、学校運営は高田早苗が取り仕切っていた。1907年、早稲田大学は大隈重信を初代総長に迎えると、高田が初代学長に就任し、校長職は廃止された。

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第四章 教育と文化

2 文明運動

総長の大隈は研究・教育だけでなく、「東西文明の調和」を掲げて、多くの文化活動を展開した。そして、それらは「文明運動」と呼ばれた。1908年に日本文明協会を発足させ、1909年には煙花競技会の会長に就任し、1910年には世界平和の実現に向けて、大日本平和協会の会長に就任した。また、大隈は帝国軍人後援会の会長にも就任した。これには批判もあったが大隈は、軍隊は平和のために必要悪であると考えていた。

文明運動とならんで大隈は出版活動を通じた「国民教育」を目指した。一つは日露戦争の最中に編纂を開始し、1907年に刊行した「開国五十年史」である。本書は大隈による「徳永慶喜公回顧録」により幕末政治の状況を当事者の言葉により記し、伊藤博文の「帝国憲法制定の由来」、松方正義の「帝国財政」、山縣有朋の「陸軍史」、山本権兵衛の「海軍史」、大隈と板垣退助の「政党史」、渋沢栄一の「銀行史」「会社史」、後藤新平の「台湾史」など、一流の当事者による担当項目が並ぶ本だった。大隈は「開国五十年史」の結論において、開国以来五十年の日本の発展は、「開国進取」の国是のもと、西洋の新文明を導入し、応用することによって成し遂げられたと述べている。そして、これからは単に西洋文明を導入するだけではなく、東西文明の代表者として広く東洋を紹介し、「東西両洋の文明を融和綜合して、一層世界の文明を向上せしむること」こそが、日本の今後の使命である、と論じている。

・もう一つは、大隈が1910年に刊行した「国民読本」である。本書は義務教育を終えた青年男女に向けた一種の教科書で、日本の国体・国民性から、立憲政体の仕組みや行政・法律・経済などの広い分野にわたる公民教育を企図したものである。

選挙は理念ではなくお金の力が大きく、多くの代議士は藩閥政治と癒着して権力や利権の獲得に奔走していた。こうした状況を改めるためには、政府を代議士が監視し、代議士を国民が監視することが必要であると大隈は考えていた。そのため、国民の教育を通じて国民のあらゆる能力を向上させようとした。

こうした国民の教育を重視していく大隈の「文明運動」により、大隈は、単に上から政党政治を押しつける政治家ではなく、民衆の支持を受ける大衆政治家へと変貌し、その結果、再び内閣総理大臣の職に就くことになった。

3 第二次内閣

・大隈は組閣後まもなく。従来薩摩閥が握っていた警視総監に非薩摩閥の伊沢多喜男を就け、また19人の知事と29人の道府県部長を移動させるなど、地方人事も大幅に刷新した。

4 国民葬

・大隈重信は1922年1月10日、早稲田の私邸で死去した。数え年で85歳であった。大隈関係者が望んだ国葬は実現せず、国民葬となった日比谷には約30万人の一般市民が参列した。墓所は文京区の護国寺にある大隈家墓所に加え、生まれ故郷の佐賀市の龍泰寺にもある。

第五章 三大教旨

1 小野梓と学問の独立

早稲田大学の教育の基本理念は「学問の独立」、「学問の活用」、「模範国民の造就」である。

・大隈は「建学の父」とされ、小野梓は「建学の母」とされている。開校式では「学問の独立」を宣言した。

小野の「学問の独立」は国民精神の独立、一国の独立につながっており、西欧世界に対する自立の要求と、日本のナショナリズム(忠君愛国)ではなく、「国民が主権を持ち、自ら政治を決める」ということを訴えていた。

・「学問の独立」の実現には、講学の便宜を計ること、講学の障碍を取り除くことの二点を提起し、前者は皇室財政からの経済的な支援策、後者は邦語(日本語)教育を挙げた。これは東京大学で行われる英語での講義ではなく、日本語による講義である。ただし、同時に英語教育にも力を注いだ。このことは当時の多くの学生を惹きつけた。

2 創立三十年

・早稲田大学教旨は現在、「Waseda Vision 150」を掲げ、2032年の創立百五十周年に向けた教育と研究の体制整備の原点としている。

画像出展:「Waseda Vision 150

第六章 留学生・女性教育とスポーツ

1 清国留学生部

・孫文など早稲田大学で学んだ中国人には、中国国民党を率いる孫文、さらには中国共産党の革命に大きな影響を与えた人物が数多く存在する。

宗教仁は袁世凱の独裁に対し、民主的な議院内閣制の必要性を主張し、革命組織を改変して国民党を結成した。しかしながら、袁世凱により暗殺された中国政治は大きな転換点を迎えることとなった。

・孫文、宗教仁、陳独秀(中国共産党初代総書記)、蔡元培(北京大学総長)、彭湃(中国農民運動の先駆者)、廖承志(中日友好協会会長)等、中国の革命や日中国交正常化に関わった中国人が多く早稲田大学の出身者であったため、今でも中国から多くの留学生が早稲田大学に学びにやってきている。

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2 女性教育の拡大

・大隈は女性の社会参加のためは、実業思想の普及が必要であるとし、そのための教育・教養が求められているとした。そして、共働きは文明の進歩に伴って必然化するとして、女性の労働への参画と学問習得の意義を強調した。大隈の機関紙であった「報知新聞」では他社に先駆けて二人の女性記者を雇用した。

・女性参政権については以下のように男女同権の視座から女性に参政権を認めるべきと主張した。

-「男女の間に優劣がなく、人格が同様である以上、是にも、選挙権を与へるのは当然の事で、殊に婦人たりとも、一家を創立し、租税を納むる限りは、選挙権は納税の義務に対する権利であるから、婦人にも此権利を与ふできであろう。」

・第二次大隈内閣で文部大臣になった高田早苗は、1915年に女性の大学教育を制度化する構想を発表した。この背景には1914年の欧米への視察旅行があった。欧米の大学では多数の女性が学んでいる事実に驚愕した。これにより高田は女性への大学教育の有無は、国家の衰退、文明の進退に関わる重要なことと認識し、日本における女性への大学教育を構想した。

・日本の戦前の教育システムにおいて、女性は高等教育から排除されていた。現在の津田塾大学や日本女子大学なども法令上は専門学校という位置づけであった。高等教育機関で最初に女子学生を正規学生として受け入れたのは1913年の東北帝国大学だった。その後も1917年に東京帝国大学が聴講生として受け入れた事例はあるものの、あくまでそれは例外的な措置であった。

・早稲田大学の女性教育は、1921年に聴講生として12名を受け入れたのが始まりだった。1920年の大学令による大学への昇格に合わせて、早稲田大学は正規学生として女性の入学を検討したが、文部省の反対にあって至らなかった。

・早稲田大学における女性の正規学生としての受け入れ開始は1939年だった。法学部に1名、文学部に3名が早稲田で学んだ。そして、1945年までに政治経済学部に1名、法学部に4名、文学部に51名の女性が学んだ。入学者が少なかった理由は、女性自身の大学教育への必要性が十分に高まっていなかったこと、および予科としての高等学院が女性に開放されていなかったことなどが指摘されている。

・1949年、新制大学制度が本格的に実施されると、入学資格は新制高等学校卒業者となり、入学資格や入学順位は完全に男女平等となった。

3 文武両道

・大隈は全学生を収容できる大講堂が必要であると訴えて1927年に完成したのが大隈講堂である。

大隈は「一生自己の力のあらん限り、勉強を続けて行かなければならぬ」と学生に叱咤激励したが、体育の重要性についても言及した。

-「この健康を保つということについては種々な方法がある。近来はこれが頗る進歩した。すべての筋肉を動かすところの体操の如きも大いに進歩している。大いに研究されている。ところが少し本を読む人は体操を軽蔑する。あれは甚だ宜しくない。なんでも一日の中に一時間か二時間は無邪気に盛んに運動するが宜しい。その方が勉強しても早く理解する。矢鱈に本を見てもどうかすると理解が出来ぬ。これは懶惰な勉強をしない人の口実にするところであるが、しかしその中にも一分の真理はある。身体さえ強くなっておれば読んだものを直ぐに消化する、直ぐ理解する。そうして記憶力が盛んなる。かくの如き勉強法は、何時までも継続する。弱い身体の付け元気は永持がしない。この学校に於て体育を奨励するその方法は今研究中で、早晩これを発表されるということを聞いて大いに我が意を得たるものであると喜びに堪えぬ。—「始業式に臨みて」早稲田学報 315号(1921年)」

・東京専門学校は1882年の学校創立直後から、さまざまな運動や武術に取り組んできた。開校翌年には王子の飛鳥山で運動会が行なわれた。

・1895年には早稲田大学体育各部の源流である早稲田倶楽部が設立された。内容は武術が中心であり、撃剣、柔道、相撲などであった。「体育」は知育と徳育が一体化したものという考え方が重視され始めた。

4 オリンピックとラグビー

・早稲田大学の、そして日本人として最初は金メダルリストが三段跳びの織田幹雄であった。商学部1年生だった織田は1928年のアムステルダム大会で15.21mを跳び、金メダルを獲得した。

織田は国内外の跳躍競技に関する文献や新聞記事、雑誌を収集し、最新の技術理論の吸収に努め、理論を吸収すれば直ちに練習で実践し、丹念に記録をつけた。

画像出展:「あの人に会いたい

 

画像出展:「織田幹雄と早稲田大学競走部

余談:私の名前である“幹雄”は父が“織田幹雄”から取ったとのことです。母は“公雄”、祖父は“昭三”を推したようで、どうやら、くじで“幹雄”に決まったと聞きました。とはいえ、特段、織田幹雄氏に関心はなかったのですが、織田氏を本書で見つけ、「そういえば早稲田だったなぁ」と思い、今回、少し重点的に調べてみました。とにかく研究熱心な方だったようですので、私も見習おうと思います。

第七章 早稲田大学の歩み

1 戦前に起源を持つ諸学術院

・『1949年、早稲田大学の新制大学への移行に伴い、高等師範部を前進として、私学では最初の教育学部が設置されます。しかも、当初から必ずしも教員の資格取得を義務づけない、いわゆる開放制の教育課程を実施していることは、教員養成のみを目的とする国公立の教育学部とは大きく異なります。個性を重んじ学問の自由を保証していることが、早稲田大学の大きな特色です。』 

補足

1)議院内閣制

・大隈重信が議院内閣制(政党内閣制)を目指したのは、藩閥官僚中心の政府ではなく、議会・政党を通じて民意を政治に反映させる近代立憲国家を作ろうとしたからとのことです。その背景にあったのは、明治政府が薩長土肥などの藩閥と官僚が主導しており、上からの専制に偏る体制に限界を感じたためでした。

理想としたのはイギリスの議院内閣制であり、議会の多数党を基盤とする内閣が政治を担う体制を考えました。そのため、立憲君主制でも君主大権を強く残すドイツ(プロイセン)型ではなく、議会主権に近いイギリス流をモデルにすべきだと考えました。そして、1882年には立憲改進党を結成し、「イギリス流の議会政治」「漸進的・合法的な改革」「都市の商工業者や知識人の支持」を基盤に、政党内閣制の実現を目指しました。

大隈先生は1881年(明治14年)の政変で参議を免官され、明治政府中枢から追われて官職をすべて失い下野しましたが、下野後も、改進党などを通じて議院内閣制を訴え続け、1898年には憲政党を基盤とする日本初の政党内閣(第1次大隈内閣)を実現しました。

・日本で「英国流の議院内閣制」論を最初に理論的に提示したのは、大隈重信ではなく、福澤諭吉だとされています。整理すると、「英国型の議院内閣制構想の思想的元祖」は福澤諭吉、「それを国家制度として具体的に目指し、政党内閣という形で現実政治に落とし込んだ最初の政治家」は大隈重信ということです。

・伊藤博文も憲法制定の過程でイギリス憲法を調査し、議院内閣制の是非を検討しましたが、最終的にはプロイセン型の君主大権重視の憲法を採用し、制度としては議院内閣制導入を見送りました。これに対し大隈先生は一貫して英国流議会政治・政党内閣を理想に掲げた点で、明治前期政界の中では際立った存在だったようです。

2)議院内閣制を目指した福澤諭吉と大隈重信

・福澤諭吉と大隈重信は、イギリス流の政党政治・議院内閣制を理想として共有し、それを実現する方向でかなり意識的に協力して動いていていたようです。

福澤先生は『民情一新』『時事小言』などで、政党内閣制に基づく国会開設構想を理論化し、「英国流議院内閣制」による政権交代を制度化せよと主張しました。この言論は、まさに同じ英国流議院内閣制の導入を密奏しようとしていた大隈重信の路線を後押しする形になっており、福澤先生は大隈重信を支えるべく重要著作を続々と出したと評価されています。また、大隈先生は統計院設立などを通じて、矢野文雄・尾崎行雄・犬養毅ら慶應義塾出身者(福澤の門下)を登用し、自身の改革路線・議会政治路線の人材基盤としました。立憲改進党内にも慶應出身者が多く参加しており、「福澤の門下生が多いことが党の知的な雰囲気を形成した」とされ、福澤諭吉の人的ネットワークと大隈重信の政党づくりが密接に結びついていました。

ただし、「福澤と大隈が連名で議院内閣制案を政府に提出した」といった意味での直接の共同立案・共同上奏の例は一般には指摘されていないとのことです。

3)進取の精神

・早稲田大学の校歌「都の西北」の中で、まず思い浮かぶのは“学の独立”と“進取の精神”です。前者の“学の独立”はブログの中で触れていますので、ここでは“進取の精神”について調べたいと思います。

・議院内閣制もそうですが、教育においても、留学生の受け入れや女子教育に積極的だったことなど、従来からの慣習にとらわれることなく、物事の本質と向き合い、信念をもって目的達成に突き進むという姿勢を感じます。

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大隈重信の提唱した「進取の精神」.pdf
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