早稲田大学と大隈重信1

早稲田といえば東伏見でした。午後3時からの練習に出るため、黄色い西武新宿線に乗って高田馬場にあるキャンパスに1限から行っていました。お昼は鈴乃屋で毎度の“肉天・卵定食”を飽きもせず毎日のように食し、パチンコ屋の前のバス停から練習時間に遅刻しないようにと東伏見を目指しました。その東伏見には歴史を感じさせるグリーンハウスという合宿所がありました。

およそ50年前、高校3年生の秋だったと思いますが、サッカー部(ア式蹴球部)主催の受験希望者を対象とした説明会がこのグリーンハウスで行われました。日は暮れ、グリーンハウスの外観はあまり覚えていませんが、古い建物と木製階段のきしむ音を覚えています。

このグリーンハウスはサッカー部のミーティングにも使われていました。そして、とんでもなく恐ろしい“新人歓迎会”もここグリーンハウスでした。

『グリーンハウスは1882年10月に東京専門学校が開校された時、学苑最初の木造洋館の校舎として建設されたものである。1902年に東京専門学校は早稲田大学と改称され、さらに1907年の早稲田大学第二期拡張事業の後文学部専用の校舎となり、多くの学生がここで学んだ。大教室の「文科第七番教室」では坪内逍遥が早稲田名物のシェークスピアを講じ、さらに島村抱月、高山樗牛(ちょぎゅう)といった名だたる講師がここで講義を行った。文学部専用校舎となる以前であるが、小泉八雲が最後の講義を行ったのもここであった。しかし1931年文学部に新校舎が建設される事となり、文学部旧校舎は東伏見運動場へ移築され、運動各部の合宿所として使用する事が維持員会で決定された。こうして多くの文学部学生が学んだ旧校舎は、体育各部の合宿所として多くの早稲田アスリートを育てる場となったのである。移築の際、外側の柱や横板、窓枠をエメラルドグリーンに塗装した事からグリーンハウスの愛称が定着した。以降グリーンハウスは多くの早稲田アスリートが練習に疲れた体を休め、友人と寝食を共にする卒業後も忘れ難い思い出の場所となったのである。しかしアジア・太平洋戦争中はグリーンハウスにも戦争の影が忍び寄った。ラグビー蹴球部の部員たちは1943年の学徒動員により学苑とグラウンドに別れを告げ戦場に赴いた。部員たちは戦時中グリーンハウスに備品を整理・保管していたが、OBに託してユニフォームを埋め、戦地へ向かった。無事に帰り、掘り起こしたユニフォームで練習を再開した部員たちもいたが、二度と帰らぬ部員たちもいた。グリーンハウスは戦争の悲劇を伝える場でもあったのである(早稲田ラグビー60年史編集委員会編『早稲田ラグビー六十年史』 1979年参照)。戦後も体育各部の宿舎として使用されたが、老朽化のため惜しくも1988年解体された。しかし1992年追分セミナーハウス(現軽井沢セミナーハウス)に新築復元され、今日大学関係者の宿舎・ゼミ室として利用されている。』

※上記の絵は「悠々庵気まぐれ日記」さま、文章は「早稲田ウィークリー」さまから拝借しました。

「懐かしい!」まさにこんな感じで日々練習していました。もちろん、後ろの建物がグリーンハウスです。この貴重な写真は『直助の球けり妄想記』さまより拝借しました。

 

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この写真は1884年(明治17年)7月26日に挙行された東京専門学校第1回卒業記念の写真ですが、まさにグリーンハウスです。

画像出展:「大隈重信と早稲田大学」

 

東伏見のグリーンハウスは1988年(昭和63年) 老朽化により東伏見で解体されました。その後、1992年(平成4年) 軽井沢セミナーハウス内に新築復元という形で移されました。

以上のように私にとっての早稲田大学は東伏見ということなのですが、この年齢になって、高田馬場にある早稲田大学および創立者である大隈重信先生について知りたいと思い、本書を購入しました。

著者:渡邉義浩

発行:2023年3月

出版:(株)早稲田大学出版部

 

目次

緒言

はしがき

第一章 大隈の受けた教育

1 砲術

2 朱子学

3 蘭学

4 英学

第二章 殖産興業

1 パークス

2 築地梁山泊

3 財政家

4 政変

第三章 政党内閣

1 東京専門学校

2 条約改正

3 隈板内閣

4 早稲田大学への発展

第四章 教育と文化

1 総長

2 文明運動

3 第二次内閣

4 国民葬

第五章 三大教旨

1 小野梓と学問の独立

2 創立三十年

3 早稲田騒動

4 津田事件

第六章 留学生・女性教育とスポーツ

1 清国留学生部

2 女性教育の拡大

3 文武両道

4 オリンピックとラグビー

第七章 早稲田大学の歩み

1 戦前に起源を持つ諸学術院

2 戦後に創られた諸学術院

3 戦後の総長

4 早稲田大学の目指すもの

さらに深く知りたい人のために

第一章 大隈の受けた教育

1 砲術

・大隈重信は幼名を八太郎といい、明治維新の直後まで八太郎という名を使っていた。

・大隈家は代々の砲術家であった。

・父は八太郎の時に病没し、八太郎は父の職を継いで砲術家になろうとした。後に、藩主の鍋島斉正が大隈の英才に注目して航海術を学べと勧めたとき、それを辞して兵法の修行を願った。

2 朱子学

・大隈が弘道館に対して否定的だったのは、朱子学以外が認められていなかったためと考えられている。

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・「葉隠」は佐賀藩の教育を代表するもう一つの学問である。これは鍋島家の家臣である山本神右衛門常朝の談話を門人の田代陳基が整理したもので、享保元年(1716年)に脱稿された。本来は佐賀藩藩主に仕える者の心構え、および佐賀藩の歴史や習慣に関する知識を集めたもので、とりわけ鍋島家への徹底的な臣従が求められている。

のちに「葉隠」は、明治天皇の御覧を得、「鍋島論語葉隠」と論語を題名に加えることで教訓書としての性格を帯びた。そして、「武士というは死ぬ事と見付けたり」という有名な文章が、生命への執着を核とする自己愛が完全に捨て切られることにより、主君に対する心情の鈍化が成し遂げられると解釈され、「葉隠」は忠君愛国精神の象徴となっていった。三島由紀夫は、「葉隠入門—武士道は生きてゐる」(光文社、1967年)により、「葉隠」の魅力を伝えている。

大隈は「葉隠」に対し、「奇異なる書」と位置づけ厳しく批判している。

-『余が始めて学に就きたる時代に於ける佐賀藩の学制は此の如くなるが上に、又其の窮屈に加味するに、佐賀藩特有の国是とも謂うべき一種の武士道を以てしたり。謂ゆる一種の武士道とは、今より凡そ二百年前に作られたる、実に奇異なものにして、而して其武士道は一巻の書に綴り成したるものにして、其の書名を「葉隠」と称す。其の要旨は、武士なるものは、惟一死を以て佐賀藩の為めに尽くすべしと謂ふにあり。天地の広き、藩士の多きも、佐賀藩より、貴且つ重なるものあらざるが如くに教へたるものなり。此の奇異なる書は、一藩の士の悉く遵奉せざる可らざるものとして、実に神聖侵す可らざる経典なりき。』

4 英学

・大隈は、致遠館で立憲政治家の基礎となる憲法を学んだほか、フルベッキからトマス・ジェファソンが執筆した独立宣言を学んだことが、やがて早稲田大学を創設する考えへと繋がった。

・『吾輩(大隈)は若い頃長崎に遊学して、そこで、オランダ人でアメリカに帰化した宣教師のフルベッキ氏から、オランダ語と英語を教わった。そのときフルベッキ氏がテキストとして用いたのは聖書であった。そこで吾輩は、ぜひ政治に関することを書いたものを読みたいと思って懇請したところ、フルベッキ氏が新たにテキストとして用いたのは、トマス・ジェファソンの執事になる合衆国の独立宣言であった。これを読んで吾輩は、民主主義の思想を知り、それが基礎となって民主主義を信ずるようになったのである。ところが、ジェファソンはその後、合衆国に民主主義の政治を実行するためには、青年を教育することの必要を感じて、ヴァージニア大学を創設された。そこで吾輩も、ジェファソンと同じ考えの下に、早稲田大学を創設したのである。—早稲田学報 610号(1951年)』

・1970年、早稲田大学第九代総長の時子山常三郎は、1982年の百周年に向けて「早稲田大学百年史」を編纂した。

画像出展:「早稲田大学百年史

 

・大隈が早稲田の建学時に掲げた「学問の独立」は、ヴァージニア大学の「人間精神の無限の自由」の影響を受けていると考えられている。

第二章 殖産興業

2 築地梁山泊

・大隈は明治二年(1869年)、旧旗本の三枝七四郎の次女である綾子と結婚し、築地の旗本の戸川安宅の旧邸を政府から拝領した。築地本願寺の脇にある約5000坪(約16,500㎡、サッカーグラウンドの2面以上)の広さをもつ広大なお屋敷であった。そこは築地梁山泊と呼ばれていた。梁山泊は中国の歴史小説「水滸伝」に出てくる。

・伊藤博文は大隈邸のすぐ隣にある小邸宅に住み、井上馨は大隈邸にある小屋を借りていたので三人は明治政府の進歩派、急進派として親交を結んだ。書生暮らしの気軽な二人は大隈邸の裏口から入ってきては、台所で勝手に物を作らせて自由に食っては帰り、朝から晩まで政治改革の議論で盛り上がっていた。

・山縣有朋、五代友厚、渋沢栄一、前島密など日本の近代化を指導する人々が大隈邸で常に議論し合っていた。

3 財政家

・1873年、征韓論をめぐり明治政府は分裂した。征韓論は幕末から明治初期に唱えられた朝鮮侵略論ことである。大隈は征韓論には反対だった。これは国内で改革すべき課題が山積であり、厳しい財政状況のもと他国と戦争を起こすことはできないと考えていた。

4 政変

・大隈と福澤が急速に接近したのは、西南戦争後のインフレの対策を通じてのことだった。福澤は大隈の紹介により地方の富豪を大勢連れて大蔵省の金庫を見学し、政府財政の信用を高めようとした。また、福澤は「通貨論」を著して、金銀よりも紙幣の方が通用に便利であり、政府に信用があれば、準備金が少なくとも紙幣の発行に不安がないことを論じている。大隈財政を言論により民間から後援しようとしたのである。一方、大隈は福澤の優秀な門下生を政府の役人に就けた。最初に福澤から推薦された矢野文雄は、大隈が創設した大蔵省の会計検査院に勤務している。こうして福澤門下の多数の俊英を得た大隈は、彼らを担い手として議会の開設を実現させようと考えていった。