暴力と戦争3

著者:渡辺銕蔵

発行:1988年9月

出版:中央公論社

目次は“暴力と戦争1”を参照ください。

3 反省

・『日米戦争に関して一億総懺悔を唱えるものもあったが、一般国民はこの戦争についてそれほど責任を問われることはないと思う。責任は陸軍と政治の指導者にあるのである。国民は九・一八事変前より種々の宣伝と、誤解の種を植付けられ、次には陸軍を通じたナチスの宣伝に惑わされ、文部省まで出動しての排英米宣伝に躍らされ、欧州戦局の偏頗な報道や各国の実力に関する作為のある材料を教えられ、日米開戦後は戦果と損害について虚偽の発表に誤られていたのである。国民中には五・一五事件に同情したような軍国主義的な者も一部にはあるが、多くは短見者流の煽動や、偽りの宣伝に基く誤解に陥っていたのであるから、八千万の国民の大多数は日米戦争の開始を主張し、あるいは支持していたのでもなく、むしろ不安に感じていたのである。ただナチス勢力に支配されたもののみが、これを期待していたのである。

しかしながら、ここに日本国民の全部が静かに反省せねばならぬ大きな問題がある。それは戦争に於ける残虐行為と、俘慮虐待の問題である。南京事件を描いたチムバーレー氏の「支那に於ける日本の恐怖」に列挙されたような日本軍の残虐な行為が、それ以上の非人道的な行為をも含めて多くの日本人の耳朶に入っている。フィリピンに於ける同様の悲しむべき出来事は、終戦後多数に聯合国側より発表された。戦争の場合には間々この種のことは起り易く、ドイツもまた欧州に於てその責任を問われているとのことであるが、無数に国民の前に暴露された中国およびフィリピンにおける残虐行為については、国民はまったく予期せざる同胞の醜い行為を知ると共に、日本民族の深甚な屈辱を感じ、世界に対してまったく面目を失したことを悲しむのである。

戦争に関する俘虜の取扱いを受け、盛んな葬儀は行われ、米国海軍司令官が列席の兵に対して、日本の勇士のために東京日比谷公園で葬儀を行ったのはそれより後のことである。次いで日本の特殊潜水艦の勇士が豪州シドニーを襲ったとき、その遺骸は棺に納められ、その上に日本の日の丸の国旗を覆うて鄭重に祭られたことは、日本の新聞紙上に載せられた写真によって日本国民のすべて知るところである。日本国民は武士道を誇っていたが、今次の戦争に於ては逆に聯合国側の武士道を目前に示された。そして我われ日本民族の血のうちにいかなる恐しい素質が交わっているのかと、選竦を覚えざるを得ない。

日本の軍隊教育は厳格に過ぎ、訓練に際して、また兵営内の起居の際に於ても、上長が下級兵を虐待することは世間周知のことであり、徴兵忌避の風潮の一部にあったことはまたこれに原因している。これらの虐待行為は我われの周知している極めて狭い範囲に於ても、とうてい信じ難いほど人権を蹂躙したものであり、残酷なものであった。かかる習性はやがて俘虜に対して平気で残虐行為を行わしめるに至ったものと思われる。しかしこの外、日本民族が強者には屈従するが、弱者に対してはこれを侮蔑し、あるいは凌辱することを喜ぶの風があるのであると思う。中国に対する多年の圧迫行為の中にもそれが見出される。我われは日本の同胞として日本民族の欠点をあまり強く指摘したくない。しかしながら我われが封建時代の美点を失い、その悪い習性のみを遺伝しているとするならば、今日のごとき機会に於て徹底的のその真相と由来を検討して、この悪の芟除することに努めねばならぬ。

残忍性の問題は敵軍に対する場合のみではない、同胞に対してもそれがある。全員玉砕を奨励するごとき、非戦闘員および負傷兵の自決あるいは全員戦死を勧奨するがごとき、全隊特攻を強制するごときはいずれも作戦の範囲を超えて無理な抵抗を強化せんとし、多数の貴重な生命を忠君と護国の名の下に無用に犠牲に供するものである。優秀な武器による近代戦に於て、封建時代に於てもあまり例を見ない大量的の屍を君前に曝す戦法を採ることは、ただに志気鼓舞の手段ともならざるのみならず、かえって惨害の累加による厭戦気分を生ぜしめるものである。人道的な立場より見て、これらの行為が忠君手技、国家主義の欠点として非難さるべきことは言うまでもないことである。

さらにフィリピンその他の作戦に於て、食糧を有しない日本が容易に降伏せずして自ら死の道を選び、ことにセブ島に於て、青木大尉が共に逃避を急ぐ非戦闘員の幼い子供達をその母親の面前に於て、足手纏いなりとてこれを殺戮した鬼畜のごとき行為は、聞くだに身の毛をよだたせるものがある。かくのごとく怖るべき行為を為す動機はどこにあったのであるか、いかにしてかかる残虐な素質が日本民族の血の中にあるのであるか、そしてそれはいかにして取除くことが出来るかということは、最も深刻に考究せねばならぬ問題である。

我われはすでに昭和の革命より七・七事変、日米戦争などを通じて、陸軍や軍国主義者のなしたことを見て、幾多の国民の性格や教育上に於ける欠陥を発見した。また政治や言論界に於ける弱点をも気付いた。ここに於て我われの経験した過ちは主としていかなることに原因しているか、そしてそれを改めるべき道筋はどこに見出されるのかを見極めばならぬ。

まず日本人は明治大正時代の驚異的国家発展に慢心していた。そして国際的知識や経済的知識が欠けているために、島国的な偏見や誤解に陥り易かった。岡田という人の書いた「道元禅師」という書物の序文に、「日本の天皇が世界を支配する」と書いてある。これは一例にすぎぬ。また世界の外交舞台に出てからまだ年が浅いために、妥協とか協調とか将来に於ける展開を待つとかいう、余裕や冷静さを持つだけの修練を積んでいなかった。次の個人の性格が未だよく練磨されていなかった。自我が強く他人の立場を考えることを忘れる。即ち利己的である。激情的で逆上し易い。ことに青年の社会的政治的問題に関する感覚はあまり激し過ぎる。暗殺という卑怯な野蛮行為を行う者がほとんど例外なく青年であるということは、日本の青年の一大不名誉である。ことに日本では国の柱石となる最も大切な人を選んで青年が殺すのであるから、最も恐ろしいことである。青年はもっと学識と経験を積んでいる社会の先輩を尊重せねばならぬ。まだ少ししか学問を習わぬ者や、ほとんど学問を知らぬ者、あるいは社会的の見聞の浅い者が、社会上や政治上の問題や国際問題にまで断片的知識をもって独断的結論をつけて大先輩を罵倒したり、殺したりすることは人間社会の進歩を顚倒せしめたり、あるいは今回の日本の例のように国を亡したりする結果になる虞れがある。このことは今後に於ても同じことだと思う。』

ダウンロード
日本軍人に見られる残虐性.pdf
PDFファイル 405.0 KB

•日本軍のより固有な要素

1.軍内部の苛烈な暴力文化が、そのまま対外暴力にストレートに変換されたこと。

2.降伏・敗北に対する極端な蔑視が、捕虜・民間人の人間性を根こそぎ否定したこと。

3.「方針だけ上から」「具体は現場任せ」という無責任構造と、「空気」に従う兵士の同調が、暴力を野放しにしたこと。

4.特定グループだけでなく、占領地住民一般への「無差別・反復的」暴力が目立つこと。


感想

「日本の命運を握ったリーダー達の日本国民を守るという使命は、青年将校による暴力という圧力に屈し、客観的かつ適切な対応もできず、さらに自ら戦争を終結させることもできず、途方もない数の戦死者を生みだしてしまった」。これが太平洋戦争の最大の悲劇ではないかと思いました。

画像出展:「News Pics

『日本人死者は、310万人(軍人・軍属が230万人、民間人が80万人)に達し、その9割が1944年以降の戦争末期に集中して亡くなったと推算される。そのほとんどは戦闘で「名誉の戦死」をしたのではない30万人を超える海没死、異常に高い餓死・戦病死、そして特攻──』

小磯首相は陸軍大将、鈴木首相は海軍大将。陸海軍の対抗意識とリーダー不在の調整型オペレーションが戦争終結の現実を受け入れられず、一部の青年将校に代表される極端なイデオロギーと暴力の肯定、そして、近代日本軍が作り上げた「潔い死・玉砕」という軍人精神が美化され、さらなる悲劇を導いたのではないかと思います。

ダウンロード
切腹について.pdf
PDFファイル 271.6 KB
ダウンロード
青年将校の暴挙について.pdf
PDFファイル 241.5 KB

また、明治憲法下の日本は「君主主権の立憲君主制」であり、民主主義国家ではなかったということも忘れてはならないことだと思います。民主主義国家として適切な文民統制と官僚に依存しすぎない政治家の責任感とリーダーシップが重要だと思います。

ダウンロード
日本の軍人精神.pdf
PDFファイル 175.4 KB
ダウンロード
明治時代の天皇主権について.pdf
PDFファイル 234.4 KB

ダウンロード
日本における文民統制.pdf
PDFファイル 206.8 KB
ダウンロード
政治家と官僚の関係について.pdf
PDFファイル 210.3 KB

最後に、本当に青年将校による暴動は阻止できなかったのだろうかと思い調べてみました。まず、その時代、貧困と格差など生きていくにも困難だった日本の厳しい実情がありました。

一方、政治は腐敗し国民の失望は軍国主義を後押ししました。戦争を主導した日本軍ですが、そこには陸軍と海軍の対立があり、その陸軍には皇道派と統制派が対立していました。二・二六事件は皇道派の青年将校が不十分な計画のまま遂行した稚拙なクーデターであり、クーデターの失敗後は統制派が台頭し、開戦に向けて進んでいきました。

画像出展:「江戸東京博物館

二・二六事件の「蹶起趣意書」です。 

調べたところ、野中四郎(陸軍歩兵大尉)は、決起部隊のリーダー格(第1師団所属)として、趣意書の冒頭に名前を連ねて配布を主導しましたが、作成自体は村中孝次が中心となって行われたとのことです。 

 

対立と曖昧さ、そしてリーダーシップ不在(責任ある立場の人が決断せず先送りする)という日本の構造的問題を考えると、大日本帝国憲法下の国民主権とはいえない国家において、貧困⇒格差⇒暴発(暴力)⇒「軍部・官僚主導の軍国主義」という流れを阻止するのは困難であり、悲しいことですが必然だったのかもしれないと思います。

画像出展:「東洋経済ONLINE

『同じ「皇道派」でも「青年将校と上層部」の間には若干の温度差がありました。そして決定的だったのは、このとき頼みとする「皇道派」上層の将軍たちには、青年将校らが考えるほどの陸軍を動かす力がなかったのです。青年将校は、この「思い違い」に気づかぬまま、計画がまだ不完全ながらも、「上層部頼み」で計画を実行に移してしまったのです。』

『青年将校らは決起を焦り、計画がまだ不完全なままクーデターを実行。肝心の詰めの部分は計画しないままの中途半端な行動になってしまいました。』

 

ダウンロード
昭和恐慌.pdf
PDFファイル 191.4 KB
ダウンロード
皇道派と統制派.pdf
PDFファイル 260.9 KB