後篇 戦争責任論
2 戦争終結についての責任
・『欧州戦局がすでに昭和十八年一月末以来、枢軸側[日本、ドイツ、イタリアの主要国以外に、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、タイ、スロバキア、クロアチア、アルバニア]に不利に転化してきたことは前に述べた通りである。その時より小磯内閣成立[1944年(昭和19年)7月 ~ 1945年(昭和20年)4月]の日まで一年半を経過している。そしてこの間にイタリアはとくに戦線より離脱し[1943年9月8日]、ヨーロッパ東部戦線に就ては、ノルマンディーに大陸上陸作戦[1944年6月6日]を決行した聯合軍は、カン地区を猛攻撃すると共にサンロールを奪取して、さらに進撃を続けており、もはやドイツの敗北はまったく決定的となっているのである。
そして、他面に、聯合国側は昭和十八年春のクェベック会談および秋のカイロ宣言などに於て、すでに戦勝を予定して戦後のドイツ処置案および日本処理案などを討議し、その大綱を決定している。戦後日本の処理案として南洋委任統治領の返還、満州、台湾の中国への返還、朝鮮の独立および国際管理、東京占領などは十八年春に太平洋調査会案として発表されており、当時すでに我が国の皇室問題まで論議されている。
かようにヨーロッパ戦は終末の段階に近く、聯合国側は戦勝後の講和条件および平和機構案まで研究済みとなっているのであるから、小磯大将は組閣当時かかる欧州の戦局と国際情勢を知悉していなければならぬはずである。そもそも東条が米国への開戦当初はただちにドイツの救援を頼みにはしていなかったが、結局はドイツが勝利を得た場合は、なんらかの救援を得られるであろうということを空頼みとしていた程度であろう。しかるにかくもドイツの敗勢が明白となって来ては、小磯内閣はもちろんドイツの救援を頼りとすることは出来ず、東亜で最後まで独力で戦わねばならぬことを覚悟せねばならぬ。しかるに東亜の戦局もまた前述のごとくついにサイパンの失陥まで来ているのであるから、追々窮屈となって来る物動計画の内容、船腹の減退、六月十六日米空軍の九州爆撃の開始、七月三日米機動部隊の硫黄島攻撃などのことをすべて考慮すれば、冷静に考えて日本がこのうえ戦争を継続することはとうてい考えられぬはずのことである。
即ち東条内閣は講和をなすべき最適時に投げ出したのである。したがってこれをリレーした小磯内閣はただちに戦局終結方針に進むべきであったのである。ことに欧州戦に於て空軍の爆撃の効果の怖るべきことを実証しているのであるから、中国基地よりのB29の九州爆撃、機動部隊の硫黄島の偵察攻撃くらいのところで戦争を早急に打切ることが最も賢明な方策であった。しかるにこの第一次の好機を看過して、小磯内閣は「一億憤激を新たにする」の御詔勅を奉戴して戦争継続に邁進し、八月四日には一億総武装を決定し、その翌日は最高戦争指導会議を組織し、十五日には国内警備態勢強化方策を閣議で決定するなど、一路強引の抵抗戦に突進した。
小磯内閣の時代には米空軍は最初は中国基地より北九州、満州などを爆撃していたが、やがて艦載機を交えて台湾、沖縄などの空襲が始まり、九月三十日にはグァム、テニアンの全員戦死が発表され、十月二十日米軍はレイテ島に上陸した。レイテ島の激戦が続いている間に、十一月二十四日、B29、70機が初めて帝都に編隊空襲を行い、それ以来帝都、名古屋、大阪、神戸の四大都市が繰返し大爆撃を蒙った。
ことに十二月下旬よりは、マリアナ基地よりのB29の来襲がますます激化した。小磯首相はレイテ島の戦いを天王山と称していたにもかかわらず、レイテ島が占領され、米軍は進んで昭和二十年一月九日にルソン島のリンガエン湾に上陸し、一月三十一日にはバタンガスに上陸し、二月三日早くもマニラ市の一部に侵入してフィリピン全部が危機に迫っても、彼は決戦に敗れたことを認めようとしなかった。そして二月末には硫黄島の大部を失い、三月十日、B29、130機による帝都の夜間大爆撃を蒙り、帝都の東部は焦土と化した。次いで三月二十一日硫黄島の玉砕が発表され、米軍はさらに突進して三月二十五日慶良間列島に、三月三十一日には沖縄本島に上陸するに至った。三月十日の帝都の大爆撃後、三月十八日、天皇陛下の罹災地行幸のあった時は、私は戦争はただちに終結となるものと確信していたが、ついにそのことなく、米軍が沖縄本島に上陸するに及んで初めて四月五日小磯内閣は兜を脱いだのである。
小磯首相がレイテ島の戦いを天王山と称しながらそれを食言して、この戦いに敗れてもなお戈を収めず、マラリア基地よりのB29の来襲が激化しても平然として戦い続ける間に、日本の最大の四つ都市は米軍の思うがままの爆撃を受けた。小磯首相がサイパン失陥の後を受けて組閣した時には、未だ戦争終結の決意が付かず、あるいは国内の政治情勢がそれを困難ならしめたかも知れぬが、すでにマリアナ基地が整備され、B29の本土来襲の威力が十分に証明された以上は、その後の成行は何人にも判断の出来ることである。したがって昭和十九年末には、小磯首相が国民に対する親切心を持っていたならば、このどうせ敗ける戦争をこの時に打切るべきであった。ことに昭和二十年三月十日の帝都大爆撃の効果を見ては、未だ原子爆弾を見ずと雖も、ただちに講和の手段を構ずべきであったと思う。この頃の一ヵ月あるいは一週間の遅延は、国民の蒙る損害に多大の相違があるのである。小磯内閣がレイテ島の戦いを天王山と称した通り、これを失ったときに食言せずに戦いを止めていたならば、本土は無意味の爆撃の惨害より救われることができたのである。東条内閣は最も妥当な時に総辞職をしたが、小磯内閣な終戦の時期を失し、また辞職の時期を失しているのである。
小磯内閣の後を承けて鈴木貫太郎海軍大将が内閣を組織した。我われは小磯内閣が上記のごとき戦局の最悪状態に於て退却した以上は、鈴木内閣は当然ただちに戦争の終結に対する手段を講ずるものと考えていた。しかるに鈴木大将の内閣は実質上新官僚内閣であって、まったく我われの期待を裏切り、本土上陸決戦を呼号して総軍司令部および航空総軍司令部を創設し、軍需工場の疎開、沿岸の防備強化、特攻隊の全面的活用、山地に於ける籠城設備の造築、国民義勇隊の編成など、着々として聯合軍の上陸に備える態勢を整え始めた。その間スターリングに対して講和の仲介を依頼したごときも一蹴され、しかも鈴木首相は直接米国に対して講和の手段を採らなかった。かかる間に沖縄島にも米空軍の基地が作られ、本土の爆撃は日々に熾烈となってきた。
そして欧州にあっては四月末ベルリンは陥落し、ヒットラーは戦死し、五月六日ドイツは正式に無条件降伏をするに至った。鈴木内閣はこの重大な情勢と、最後とも言うべき講和の機会を無視して、五月九日「帝国不動の方針」を声明し、ますます猪突の勢いを示した。
日米戦争は何時かは終了せしむべきものとすれば、日本の敗色日に月に濃厚となりつつある時に、頼みとするドイツが降伏した時は最も慎重な考慮をなすべき機会である。否、すでに鈴木内閣成立の時は完全にこのことを予定し得たのであるから、あらかじめ戦争終結の手筈を定めて置くべきである。欧州戦終了すれば、ドイツを爆砕しつつあった幾万の米空軍が日本の空を掩い、ドイツに投下された幾万噸の爆弾が、やがて日本に集中投下されることは必至のことである。
硫黄島並びに沖縄島にある数個の基地が完成し、しかも欧州戦を終了した米空軍が日本に対してその勢力を集中する時は、いかなる結果となるべきかは、何人と雖もこれを察知し得ることである。すでに三月十日の帝都爆撃の効果のみを見ても前途が明らかにある。彼らは日本の空襲を受くべきことすら予期していなかったのである。しかし鈴木首相は、かかる単純な情勢の変化を想像し得ぬはずはないと思うのであるが、不幸にして耄碌したか、あるいは精神が錯乱したのであるか、徒に虚勢を張って「帝国不動の方針」を声明して戦いを継続し、ついに救国の最後の機会を失した。
即ち米空軍の勢力は五月以降日々に強大となり、大都市爆撃はいよいよ大規模となり、五月二十三日と二十五日のわずかに二回の夜間爆撃により東京はほとんど廃墟と化し、五月二十九日には横浜市は一挙全滅し、大都市の爆撃を一応終わった米空軍は六月中旬以降は中小都市の爆撃に移り、北海道および東北地方の一部を除く人口三万以上の都市は、ほとんど余すところなく順次に爆撃焼夷され、軍需工場はいかなる僻地にあるものと雖も攻撃を免れず、さらに戦闘機および航空母艦よりする艦載機の活躍もいよいよ激しく、交通機関に対する攻撃も開始せられるに至った。そして七月中旬よりは、米国艦隊は本土沿岸に近接して艦砲射撃を加えるに至り、さらに全国の主要港湾に対して機雷の投下を行い、そのため船舶の蒙る損害はすこぶる甚大となった。
かかる有様はもはや戦争ではない。味方はまったく敵を攻撃する機会も力もなく、ただ手を束ねて米空軍の跳梁に任すのみであって、いかなる方法と、いかなる規模と速度とをもって日本全土が焼き払われ、破壊されるかをただ見物している姿である。そしてついに八月六日広島市に原子爆弾が投下され、九日ソ聯は日本に対して宣戦を布告し、ソ聯軍はただちに満州、朝鮮、樺太に侵入してきたのである。この急激猛烈な総攻撃に政府はまったく度を失い、九日最高戦争指導会議を開き、数日間の紛糾の後ついに十五日、天皇陛下のラジオ御放送により、戦争終結が全国民に周知せしめられるに至ったのである。
ここに於て鈴木内閣の挙措を通観するに、すでに小磯内閣の退却は即ち戦争終結の必要を示すものであるにもかかわらず、目を蓋って猪突し、ドイツ屈服の時をもって最後の戦争終結の時となすべきであるにかかわらず、それすら顧みなかった。それがためたちまちにして五大都市をほとんど廃燼に帰せしめたのみならず、全国の中小都市の大部分を廃墟と化せしめた。もしまた鈴木内閣の強調したごとく、本土上陸決戦を行うとすれば、田野は躊躇せられ、交通機関は破壊せられ、国民は戦禍に加うるに恐るべき飢餓に襲われたに相違ない。いかなる方面より見ても絶対に防ぎ得ざること火を見るよりも明らかな戦いを、ひたすらに継続した鈴木大将の意思は奈辺にあったのであろうか。彼は大本営を信州松代の壕中に移す考えであったとのことであるが、大本営のみが最後まで安全であったとしても、後に残された国民はどうなるのであるか。こうなると彼の戦争目的は何であったのであろうか。彼は何を守らんとしたのであるか。国土廃れ、幾百万の民が爆弾と飢餓に生命を失うことは彼の顧みるところではなかった。端的に言えば、鈴木内閣の戦争目的は徒に全国を焦土とし、幾百万あるいは幾千万の生霊の犠牲を要求することになるのである。彼の愚昧と残忍はとうてい人智をもって測り知るべからざるものである。しかし彼の徹底的に日本を壊滅せしめんとする戦いは、たまたま広島に対する原子爆弾の投下によって終止符を打たねばならぬことになった。
昭和二十年四月七日より八月十五日に至るまで四ヵ月以上にわたって、自らは敵を攻撃する手段絶無にして、たんに空襲を受けることのみが戦いである状態を継続した鈴木大将の心理は、とうてい常人の理解し得ないことである。彼の没常識のために全国は焦土と化し、一千万の国民は家と産を失い、数十万の死傷者を出し、戦後は飢餓に脅かされ、生活と産業の復活を至難ならしめ、今後幾十年にわたって国民は悲惨な生活に甘んじなければならぬ。日本国民としてこれを見れば、彼の罪はその実害に於ていかなる戦争犯罪人よりも上に出るものであって、日本の続く限り彼の愚昧は国民の怨嗟の的となるのであろう。しかも鈴木大将は終戦後と雖も恬然として輔弼の要職を汚していた。その無恥厚顔はまったくただあきれる外はない。
ヨーロッパの敗戦国民は、戦争責任者の他に「国家困窮責任者」を追及している。日本に於てそれに該当する第一位の者は、小磯および鈴木の両首相である。
鈴木内閣の書記官長であった迫水久常君が新聞紙上に発表した「降伏時の真相」なる一文によると、鈴木内閣は成立後ただちに日本の戦争能力に関して徹底的な研究を命じ、五月中旬にそれが出来上ったが、それによると「国内の現状は何等か寧ろ奇蹟的な措置が実行せられない限り、殆ど戦争継続に耐えないことが明らかとなり……」とある。それでもなお鈴木内閣はまごまごしていたのである。そして六月九日の御前会議に於て、上記の実情と国際情勢を基礎として論議したうえ、「国体を護持し、皇土を保衛し、もって戦争を完逐するということになった」というのであるが、これでは上記の調査の結果得た結論はどこへ行ったのかまったく分らぬ」
しかるに六月二十二日、宮中より最高戦争指導会議の構成員を御召しになって、陛下より親しく御懇談あらせられ、「戦争に関しては適当な方法をもってなるべく速やかにこれを終結せしめることを考慮しなければならない旨の御諭しがあった」のである。かかる明白な陛下の御諭しがあったにもかかわらず、鈴木首相はまったく見当違いのソ聯との交渉に荏再日を移し、世界の物笑いの種を蒔いたのみならず、この間に全国の都市を一層激しく米空軍の爆撃するがままに任したのである。
そして七月二十六日、米英華三国のポツダム宣言が発表された時は、あらゆる観点より見てこれを受諾する外はないものと思われていたにもかかわらず、鈴木内閣は軍部の強硬意見に引きずられて黙殺の方法をもってこれを拒絶した。鈴木首相は六月二十二日の戦争終結に関する陛下の御諭しを忘れるはずはない。陸軍の反抗態度がいかに強くとも、自ら総理大臣としての識見を有し、陛下の御聖旨を体していたならば、これを鎮圧するくらいの器量と勇気がなければならぬはずである。しかるにこのさい鈴木首相が世界環視の下に於て陛下に背いて陸軍に屈したことは輔弼の責任を濫すことはなはだしきものである。鈴木首相の総理としての識見なく責任観念薄弱にしてかつ卑屈であったことは、近衛公が陸軍の強要によって仏印進駐を認め、日米戦争の端を作った場合にも優るものと言うべきである。
かくて鈴木首相は戦争終結について組閣のさい、最初の帝都大爆撃および米軍沖縄上陸の機会を捉えず、次にドイツ屈服の重大機会を無視し、三度び戦争能力調査後の去就を決し兼ね、四度び六月二十三日の陛下の御諭しに背き、五度びポツダム宣言即時受諾の機会を看過し、ついに原子爆弾とソ聯の宣戦に止めを刺されるまで国土を燃えるがまま、破壊されるがままに任せたのである。迫水君は「九月末頃には、青森以西全国に在る人口三万以上の都市はことごとく灰燼に帰すべしとの結論が出ていたのである」と言っている。それでもなお講和を為さねばならぬあらゆる機会を無視し、国土の破滅を継続せしめた鈴木首相の心底はまったく解することのできぬことである。
かかる事態に推移したことはもちろん、陸軍がたえず強力な反対をなしつづけたことにあることは言うまでもないが、迫水君は「我が国の生産設備の拡張は、本土が空襲に曝されることはほとんどないという、前提の下に進められていた。現に私が企画院にいた頃、列席した都市防空の会議に於て「こんな会議は時間潰しだ。我が国が空襲されることになったらおしまいで、そんなことには絶対にならない」と方言した軍人があった」と言っている。陸軍の予想や判断や計画はいつも大きな誤をしている。七・七事変の見透しについて杉山元帥が陛下の御叱りを蒙ったごとく、また欧州戦争の見透しについても、ドイツの対英上陸作戦、ドイツの対ソ聯戦の終結時期、英米空軍の威力、米国の戦断のみを継続してきたのである。いわんやドイツ屈服後に於ては、陸軍にしてもし良心があったならば、戦争に関してなんらの発言権がないはずである。総理大臣がこれらの点を捉えて陸軍を究明すれば、彼らは一言もないはずである。しかるに鈴木首相にかかる識見能力なくして陸軍の言うがままに盲従し、辞職もせずに、原子爆弾とソ聯の宣戦を見るまで居据っていたことは、まったく無責任の極致である。
八月九日ソ聯の宣戦布告があった日の夜、最高戦争指導会議が御前に於て開かれたが、そのさい東郷外務大臣は、まずポツダム宣言を無条件にて受諾する外ない旨を主張し、阿南陸軍大臣はこれに反対し戦争継続を主張し、米内海軍大臣および平沼枢密院議長は外務大臣の意見に賛成し、梅津参謀総長および豊田軍司令部総長は陸軍大臣と同じく玉砕を期して戦うことを主張した。かくて賛否三対三のまま議まとまらず十日午前二時に及んだが、鈴木首相は聖慮をもって本会議の決定としたい旨を述べ、陛下は「自分は外務大臣の意見に賛成する」と仰せられ聖断が下った。
その時種々御言葉のあった中に、「戦争開始以来、陸海軍のしたところを見ると、計画と実際との間には非常な縣隔のあることが多かった。もし戦争を継続するに於ては、今後に於てもそういう事態が起るのではないか」と仰せられた。七・七事変以来数回に及んで陛下より判断の誤りを叱責された軍部は、それでも少しも反省、謹慎あるいは悔悟の状を示さず、したがってなんら責任をとることをしなかった。むしろますます政府を強圧し国民を威嚇して我意を張るのみであった。
十日の午前七時頃、政府はポツダム宣言受諾の旨を聯合各国に通告し、十三日朝聯合国の回答が到着した。それにより十四日最高戦争会議が開かれたが、この時も陸軍大臣、参謀総長、軍令部総長の三人はこの回答の解釈に不安ありとして戦争継続を主張したが、陛下は他に意見がないならば自分が意見を言う、「卿等は自分の意見に賛成して欲しい」と仰せられて、「自分の意見は去る九日の御前会議に示したところとなんら変わらない、先方の回答もあれで満足してよい」と仰せられた。迫水君の手記は無条件降伏の経過をかように明白にしているが、この国民にとって悲惨を極めた戦争は陛下の御裁断によってのみ辛うじて終結することが出来たのである。
ポツダム宣言受諾の詔書は、十五日正午玉音をもって御放送遊ばされることになったが、この日午前四時半、陸軍青年将校は機関銃をもって総理大臣官邸を襲撃し、一隊は鈴木総理および平沼枢密院議長の私邸を焼払い、両重臣はわずかに身をもって難を免れ、他の一隊は近衛師団を動かして宮中深く侵入し、宮内官その他を監禁し、玉音の録音盤を奪取し、陛下の御放送を拡大せんとしたが、東部軍司令官田中静壱大将自ら馳せつけて幸うじてこれを鎮圧した。
陸軍青年将校は自己の主張を通さんためには上長官を射殺し、宮中に侵入し、高官を監禁し、首相、枢相を襲撃し、陛下の詔書公布を妨害せんとするなど、軍記、法律、主権など、何物をも犯すことを少しも辞しないのである。
かつて七・七事変に先立って軍の武器を用いて陛下の政府首班、重臣、統帥の首脳を殺戮した陸軍青年将校は、終戦に際してここに再び反逆を繰返し、ついにまさしく「宮中の側近を脅かし奉った」のみならず、陛下自ら手動的に御聖断を下された講和の大権の御行使を妨害せんとしたのである。彼らの眼中自己の立場の擁護と我意の貫徹のほか何物もないのである。この狂態はまさに陸軍軍人の醜を世界に曝したのである。
しかしながら青年将校をして終戦に当りかくも熱狂せしめたことについては、軍の首脳部にも責任がある。即ち大本営の戦果発表は常に誇大あるいは虚偽を重ね、新聞紙の報道はたえず戦勝を伝え、敗退をもって敵を引付ける作戦なりと曲言し、軍部大臣の議会に於ける演説は敵本土に近接すればこれを撃滅し、上陸すればこれを残滅すべきことを豪語していた。かくのごとき虚偽と欺瞞は青年将校のみならず、一般国民の戦局の真相に対する判断をまったく誤らしめていた。したがって戦局の切迫に興奮した青年将校は、全隊特攻の犠牲をも忍んで最後の戦いを挑まんとしていたのである。識者はすでに無用の戦いであることを知っていたが、彼らは未だ命を捨てて甲斐のある戦いと信じていたのである。政府と統帥部の虚偽の宣伝、なかんずく、大本営の戦果発表の大なる欺瞞は、ついに青年将校をして思わざる大罪を犯せしめるには至ったのである。陸海軍の首脳部の責任はかかるところにもまたすこぶる重大なものがある。
以上論じてきたところによって見れば、近衛公、木戸候は共に政治家としての識見なく、人を見るの明を欠き、身は権門の出なるがためかえって意力鍛錬の機会を得ず、薄志弱行、空しく陸軍の誘惑と強迫に追随し、ついに輔弼の途を過り、亡国の根底を作った。
近年の日本陸軍は驚くべきほど利己的であり、浅慮、横暴の限りを尽して、日本の政治、経済および道徳を破壊し、国家を滅亡せしめ、国民の生活を死線に彷徨せしめ、将来の希望を失わしめた。東条は陸軍の弱点の権化であり、加うるに彼は卑怯者である。彼は開戦の全責任と人格低劣の誹謗を、聯合国と日本国民の双方より問われねばならぬ。
鈴木大将は戦局の大勢を察せず、まったく国民の生命および財産を眼中に置かず、敗戦の惨害を極度に拡大し、国家の経済、国民の生活の復興を至難ならしめた。しかも彼はその責任を自覚せぬ。愚昧、無恥、天下に類を絶する。』
