暴力と戦争1

戦争調査会』の本に登場する人物の中で、何としても戦争を止めたいという思いをもって、誰よりも積極的に活動していたのは渡辺銕蔵氏ではないかと思いました。

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渡辺氏は戦争調査会では第3部会(財政経済)で副会長(副部会長)を務め、主として財政・物資動員・経済政策面から戦争を検証する役割を担いました。

その渡辺氏は『自滅の戦い』という本を執筆されています。その本の「序」は“昭和21年9月 東京にて”となっており、これは終戦の翌年ということになります。

本書、「中篇 反戦苦闘の十余年」の冒頭に書かれた部分には、渡辺氏が本書を執筆した理由が書かれています。

『私は十余年にわたって軍部を反省せしめ、日本のナチス化を防止せんとし、ことに速やかに七・七事変を終結せしめ、日米戦争を回避せしめんとして微力を傾けて闘ってきたのであるが、それはまったく徒労に終わった。この敗戦絶対必至の戦いを敢えてしたことに対し、後代のみならず現代の国民と雖も、何故に指導階級がこれを阻止しなかったを訝り、かつ恨むに相違ない。私はこの国の内外に対する自殺的革命に抗争した者が皆無ではなかったことを記して、現代の次代に対する弁解の一端としたいと思うのである。私自身としては、日本の一国民として貧弱な筆舌をもって時の大勢に逆らって論陣を張ったのであるが、孤立無援、世人の冷嘲と官憲の圧迫の下についに牢獄に投ぜられ、結局日本を救うことになんらの貢献をもなし得なかったのである。顧みれば重臣、政治家すべてがただ弱かったために日本を滅亡より救うことができなかったのであるが、私もまたあまりに微力にしてしかもなお闘い尽くさなかったものがあったので、大勢を動かすことができなかったのである。この記録は私の苦闘の歴史であるが、同時にこれはまた私の懺悔録でもあるのである。

また、本書の「後篇 戦争責任」の二として“戦争終結についての責任”という章があります。「やっと見つけた」というのが率直な感想です。このことは拝読させて頂いた『戦争調査会』の中にも、詳しく書かれていなかったことです。

著者:渡辺銕蔵

発行:1988年9月

出版:中央公論社

目次

前篇 自滅への道

1 序説

2 軍縮と暗殺の脅威

3 北一輝の思想と日米戦争の遠因 ―「日本改造案大綱」

4 橘孝三郎の愛国革新運動

5 九・一八事変の前後 ―桜会と三月事件および十月事件

補足)九・一八事変は満州事変の中国側の呼称

6 血盟団事件

7 農民と陸軍による革命 ―アントン・ツィシュカの観察

8 盧溝橋事件の真相とその発展 

9 ナチスに支配された日本

10 近衛内閣と三国同盟および新体制

11 仏進駐より対米開戦まで

12 自滅の戦い

13 勝敗の計算

14 爆撃の惨禍

15 言語圧迫と虚偽の宣伝

中篇 反戦苦闘の十余年

1 反産運動

2 粛軍論

3 ユダヤ人排斥

4 三国同盟反対運動と七・七事変終結論

補足)七・七事変は盧溝橋事件の中国側の呼称

5 渡辺経済研究所の設立

6 第二次欧州大戦と日本の立場

7 日本と米国および英帝国との貿易関係

8 近衛総理および重臣らに対する建言

9 反戦講演

10 『臣民の道』を読みて

11 一茶寮舌禍事件 ―投獄

後篇 戦争責任論

1 開戦の責任

2 戦争終結についての責任

3 反省

 

前篇 自滅への道

3 北一輝の思想と日米戦争の遠因 ―「日本改造案大綱」

1924年武藤山路、1930年浜口雄幸、1931年の三月事件、十月事件、そして1932年井上準之助、團琢磨、犬養毅が続いて暗殺された。これらの陸軍青年将校らによる革命計画は、ついに1936年の二・二六事件として暴発し、その必然として七・七事変(盧溝橋事件)および日米戦争につながった。

・陸軍青年将校に革命思想と侵略戦争思想を植えつけたのは、北一輝(輝次郎)だった。

北一輝によって刊行された「日本改造法案大綱」は、革命的青年将校の聖書のように扱われ、革命および戦争の起源をなした最も有力な思想であった。

・北一輝は日本をアジアの擁護者、世界の盟主を欲し反社会主義的な国家改造の断行を必要とした。その手法として天皇に指揮された日本国民の超法律的運動をもって現今の政治的、経済的特権階級を切開して棄てることを急とし「戦いなき平和は天国の道に非ず」と高唱している。

・太平洋戦争の起源は北一輝の思想そのものであることが肯定される。

・『改造法案の巻一「国民の天皇」の冒頭に「天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為に天皇大権の発動によりて三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を布く」とあるが、彼が常に天皇を奉戴する形式を標榜したことは単純な陸軍軍人を誘惑するに最も有力であったとともに、結局に於て天皇に禍いすることが最大であった。そして七・七事変(盧溝橋事件)のすこし前より陸軍が宣伝しかつ国民を威嚇し始めた「非常時を認識せよ」という標語は、七・七事変の進行とともにますます国民に対して圧迫感を与え、ついに威迫によって政党を解消せしめたのみならず、完全に言動を封鎖し、日米戦争の起るや陸軍の国民並びに政治家に対する威嚇は一層強烈となり、たえず憲法の停止、戒厳令の施行などの強迫的流説が世上に伝えられた事実を回顧する時は、ただちに北一輝の第一主張の影響が想像されるであろう。』

・二・二六事件によって北一輝は死刑となったが、それは「日本改造法案大綱」の起草から18年目であった。そして二・二六事件によって陸軍は北一輝の霊魂を指導者として、改造法案を経典として一路邁進するに至るのである。即ち陸軍は「非常時を認識せよ」との標語のもとに何事も知らざる国民を威嚇して陸軍軍備の大拡張を強行し、七・七事変を惹起し、ナチス・ドイツと提携し、北一輝の言うごとく公然と北進、南進の政策を進行するに至った。

7 農民と陸軍による革命 ―アントン・ツィシュカの観察

・昭和の革命が陸軍部内に十数年来培われて来た膨張思想と、農村の疲弊に対する農村青年の不満とが合わさり爆発したものであることは明らかであるが、日本の内部の欠陥と危険性について鋭く捉えたのは外国人であった。日本人には制限と立場による偏見的観察があり、身近であるが故に深い探求を怠ることがありえる。これに対して外国人は自国や他国と比較しながら日本の実情を広くかつ綿密に、また継続的に観察するため客観的視点から把握することができる。その外国人とはアントン・ツィシュカであり、1936年「世界に於ける日本」という書を著している。内容は第一部日本本国、第二部南方への渇望、第三部日本の北方発展、第四部世界の日本、より成りたっている。1937年12月、日本政府は輸入禁止処分にしたが、1940年2月、内閣情報部において翻訳刊行している。しかしながら情報部は「秘」とした。渡辺銕蔵氏はこの書を枢密顧問官や政党の領袖その他の政治方面の首脳に示したが、誰一人としてこの書を知っている者はいなかった。このような「秘密主義」が日本国民のみならず政治家を愚にし、結局亡国の一大原因を成したのであると述べている。

・『日本は工業化によって経済的伸展を強いられ、三井による発展の途を辿るに到った。三井は露骨な敵意を示さず、最低限度の力と最低限度の武装―世界的貿易―に依って前進することができるのである。

第一は農民の窮乏、第二は農業の生産方法は工業的生産方法ほど近代化出来ないという事実、第三は余りに農民が多く、又工場で余地を見出し得ないほど人間が余りに多いという悲劇的な事情―これ等の事によって、日本は武力的発展と軍事上の伸長を已むなくせられ、市場の獲得ばかりでなく、土地征略にも導かれて行った。』 

9 ナチスに支配された日本

・『ヒットラー統率する「国家社会主義ドイツ労働党」、即ち「ナチュラル・ゾチアリスチュシェ・ドイッチェ・アルバイター・パルタイ」、略称「ナチス」の国家社会主義思想、あるいは全体主義思想と国防国家政策および反英米の立場は、これと同一系統である北一輝や橘孝三郎らの思想にすでに多年感化されて来た日本の軍部にとっては、誠に天来の新福音のごときものであった。ヒットラーの政党弾圧、議会無視、強力専制政治、予算制度廃止、再軍備による軍備大拡張などは、いずれも多年日本の政党政治、軍備縮小などに無限の恨みを懐いていた軍部にとっては、まさに絶好の模範としてたちまちこれに随喜したことは容易に理解の出来ることである。ソヴィエト・ロシアの第一次および第二次五ヵ年計画の進行を見守る陸軍としては、ヒットラーに心酔しかつナチス化し、そして後者の巧妙にして有力な宣伝と策動によって、ナチズムは瞬く間に日本全国を風靡したのである。二・二六事件によって陸軍青年将校は日本の「政治の推進力」となったが、それは間もなくナチ第五列によって代られたのである。』

13 勝敗の計算

・『日米戦争は私から見ればまったく理由のない戦いであり、日本の自殺行為である。しかしながら十年来の迷夢より醒め得なかった陸軍は、ヒットラーの華やかな姿に魅せられてますます甘い夢を貪ろうとした。しかし彼らは、多年彼らの抱いた夢であった乾坤一擲の戦いを始めるに当って、果たして勝敗について計算をしたであろうか。私は精密な計算をしていたが故に、しかも大局を見ていたが故に、米国との戦いを日本の自殺行為であると言ったのである。しかるに日本は大局を見得なかったのはもちろん、彼らの専門的な責任である勝敗に関する計算を全然していなかった。のみならずかかる計算をする者を国賊視して圧迫した。彼らは彼らの古い信仰と、慢心と、自己の面子とのみによって、八十万の国民および子孫と、二千数百年の歴史とを賭けたのである。しかも彼らはこの大賭博を敢えてするに当たって頼むべからざる他力に依頼し、あるいは神助を期待し、統帥部に課せられた重要な計算をなす責務を怠ったのである。

米国の有する資源力―生産力―科学力―資本力およびこれらより生じ得べき武力、並びに米国人の精神力、政治力などに関して幾何の研究がなされ、どの程度の計算がなされたのであろうか。そしてこれらの諸点に関して日本の持つ力といかような比較計算がなされたのであろうか。恐らく日本陸軍は何もしなかったのであろう。もし何事かをしたとすれば、彼らはただちに算盤を投げ出したはずである。

証拠として最も代表的の数字だけを二、三挙げて見よう。日米戦争開始の年昭和十六年(1941)の数字[年産額]だけを見ることとする。』

石炭:日本「71,630」  米国「505,489

石油:日本「142」 米国「189,985

鋼材:日本「4,720」 米国「75,185

14 爆撃の惨禍

・燃草を敷いたような日本の木造家屋は密集していたため、米国の焼夷弾による攻撃は凄まじかった。東京は3月10日と5月23日、5月25日の3回の爆撃によって東京の大部分が灰虚と化した。横浜市は1回、わずか数時間の攻撃で全滅した。川崎、蒲田の工業地帯も一夜にして焼野原となった。あと1カ月、爆撃が続いたなら日本の全ての都市は地上より姿を消したであろう。

日本本土に投下された爆弾は117,200余個、焼夷弾は4,760,000個に上り(沖縄を除く)、焼失家屋は2,333,000戸、死傷者総数564,000人に達し、住むべき家を失った者は10,000,000人を超えた。

・罹災者と疎開者は全国に充満し、ひたすら爆撃による生命の危険を逃れるために右往左往し、行不安な配給にその日の露命を繋ぐのみであった。

・『三月十日の帝都大空襲後間もなく、小磯内閣に代った海軍大将鈴木貫太郎氏は、「国民よ、我が屍を乗り越えて進め」と言った。日本の政治的情勢では戦争終結を決行せんとする総理大臣は暗殺の危険を覚悟せねばならぬ故、私は鈴木大将がこの覚悟示したものと諒解していた。しかるに豈図らんや、鈴木内閣はただ一路決戦を呼号して「敵近接すればこれを水辺に撃滅し、敵上陸すればまさにこれを陸上に残滅せんのみ」と豪語した。そして作戦部が各地海辺に怪しげな堡塁を築き、長野県の山地に広大な防空壕を掘り進め、兵士は爆弾を懐いて匍匐[ほふく]して戦車に体当たりの練習を行い、山村漁村では竹槍を練習している間に、日本の都市は次々に焼夷弾の焔になめられて行った。

さらに航空母艦が近接して、その軽爆と艦載戦闘機が飛行場や工場や交通機関を脅かすに至り、加うるに有力な艦隊が接岸してついに艦砲射撃に見舞われるに及んでも、鈴木内閣は「敵近接すれば撃滅する」と言う約束を少しも実行しなかった。

沖縄島の失陥とともに、九州一円は昼夜兼行の爆撃に息つく隙もないような有様であった。

そして空襲と艦砲射撃は北より南へ南より北へと移動しながら、日本全土をほとんど隙間もなく破壊し燃え上がらせて行った。それでも鈴木内閣は「敵上陸すれば残滅する」と言い続けた。そしてその間に敵は大都市の爆撃を終って、中小都市を順序よく一つ一つ焼き立てて行った。さらに空中より投下された機雷によって各地の港湾に出入りする汽船は盛んに海底に葬られ、たださえ尠ない日本の船腹は最後の止めを刺されるような姿となった。』 

中篇 反戦苦闘の十余年

8 近衛総理および重臣らに対する建言

・昭和16年1月、渡辺氏は日本俱楽部の友人により、近衛総理大臣との面会の約束を得たものの、2回にわたってキャンセルとなったため、渡辺氏はご自分の意見を「時事要言」と題する建言書を同年2月16日に執筆し、近衛総理、木戸内府、松平宮相並びに町田忠治、井坂孝の五氏に提出し、2週間程後に30部を刷って重臣全部、政界有力者、外交界に配布した。さらに1ヵ月後に80部を刷って、地方の有力者にも手渡した。この建言書は幣原喜重郎、小畑酉吉、吉田茂(総理大臣)、宇垣一成の四氏より書面をもって賛成の意向が示されていた。なお、「時事要言」の項目は以下の通りである。

甲 外政

(一) 米国とは絶対に戦うべからず。

(二) 貿易の杜絶は直ちに日本の民力の萎微と国力の低下を来すべし。

(三) 米国及び英国との国交を調整すべし

(四) 七・七事変は一日も速やかに終結せしむべし。

(五) ソヴィエトに対する警戒を怠るべからず。

乙 内政

(一) 経済機構の変革論を抑制すること。

(二) 立憲政治及び議会を尊重すること最も肝要なり。

(三) 言論及び報道の統制の偏頗を是正すること。

10 『臣民の道』を読みて

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「臣民の道」について.pdf
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・『昭和十六年(1941)七月、文部省は教学局編纂による「臣民の道」なる小冊子を発刊して、これを全国に配布した。これは「朝日新聞」に連載され、かつ或る所で百万部を印刷し、これを全国の教師、学生、大工場等に配布したと言われている。これには数種の教師用が出版されていて、教師の問いに対して答案が示されており、学校の試験に「臣民の道」の内容が問題として出されるように、学生をして信ぜしめる術策である。かかる卑劣な計画をしてまで、この冊子を強制的に全国学生に読ましめんとしたのである。その内容は欧米の文化を激越野卑な言辞をもって口を極めて罵倒し、ナチズムとファシズムを賞揚して、これを日本の臣民の道とすべきかのごとき言説をなしたものである。その意図が国民の反英米思想を刺激し、米国との戦争に誘導せんとするにあったことは疑いを容れぬところである。敗戦後、新聞紙上に発表せられた近衛公の手記なるものに現われたところによると、昭和十六年七月二日の御前会議に於て、仏印進駐を決定し、南方進出策を開始したから、これと呼応するために計画したもののようである。したがってこれに伴って漸次に米国に対する国内の開戦空気を作る手段としたものに相違ない。この年の六月、ソ連攻撃を開始したヒットラーが、日本の蹶起を促さんとして猛烈に日本に働きかけたことも想像される。スピンクス博士がナチス第五部隊が文部省にも入り込んだことを指摘していることは、この事実によってもその真実であることが証明される。』