戦争調査会2

著者:井上寿一

初版発行:2017年11月

発行:(株)講談社

目次は“戦争調査会1”を参照ください。

Ⅳ章 未完の国家プロジェクト

対日理事会の懸念への対応

・『青木[戦争調査会長官]は議事概要を報告したのち、対日理事会側の危惧がつぎの点にあることを指摘する。戦争調査会は「再び敗けない様な戦争を計画する」のではないか。青木は第一回総会における幣原の発言を引用して、調査の目的が「再び戦争をしないのだ」ということを明らかにすることにあると説明する。他方で、「此の戦争は正当であったか、どうか、止むに止まれぬ戦争であったと言う様な委員の内外に極めて少数ではあるがある」ことを認める。』

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開かれなかった最後の総会 

・『青木は朝海朝海浩一郎から示唆を得る。朝海は青木にアチソンの意向として、戦争調査会から「軍人出身者を全部やめさせてはどうか」と伝えたからである。このことを知った幣原は憤慨した。「一体戦争のことを調査するのに軍人を皆抜いてしまってやれば、どんな調査や結果が出来るかね」。ともあれ青木は吉田首相の了解も得て、戦争調査会の存続を対日理事会に求める文書を作成する。

ところがあらためて青木が吉田を訪問すると、吉田は言った。「其の後マックアーサー元帥との間に相談した結果、軍人だけやめる程度では納まらなくなって、結局調査会全体をやめねばいかぬ」。

青木は8月14日に今度は幣原に呼ばれる。吉田首相を交えて善後策を協議した三人は、マッカーサーが戦争調査会廃止の意向であることを確認する。廃止までの猶予期間は、一、二ヵ月程度だった。廃止は9月末が想定された。

青木は総会の開催を急ぐ。ところが青木によれば、幣原は総会の開催に「左程熱意がない様に見受けられた」。青木の見るところ、幣原は戦争調査会を完全に廃止するのではなく、別の民間団体に引き継がせることを考えているようだった。結局のところ、最後の総会が開かれることはなかった。

10月2日の第16回・対日理事会において、アチソンは戦争調査会の廃止を正式に認める。アチソンは言う。「日本政府は、対日理事会に於いて英国及びソ連から批評があったので誤解されることを好まぬので、自らの発意によってこの調査会を解消することになったのである」。

アチソンの発言は不正確だった。形式手続き上は日本の自発的な意思による廃止だったのだろう。しかし実際はマッカーサーのGHQが対日理事会の構成国間協調を重視した結果だった。少なくとも戦争調査会問題に関する限り、マッカーサーが対日理事会を無視して独断で決めることはなかった。マッカーサーの連合国間協調の重視は、戦争調査会の運命を狂わせた。

こうして「なぜ戦争は起きたのか」を追求する国家プロジェクトは未完に終わった。総会=二回、部会長会議=五回、第一部会=八回、第三部会=九回、第四部会=四回、第五部会=六回、連合部会(第一、第二)=三回、連合部会(第一、第二、第四)=一回、連合部会(第二、第五)=一回、参与会議=二回、合計41回の会議にもかかわらず、戦争調査会は調査結果を報告書にまとめることなく、9月30日付で廃止された。

Ⅴ章 戦争の起源

明治維新の運命―八木秀次

・『同時代の人びとに広く共有されたこの論稿[丸山眞男の論稿「超国家主義の論理と心理」など]にはつぎの一節がある。』

「維新直後に燃え上がった征韓論やその後の台湾出兵などは、幕末以来列強の重圧を絶えず身近に感じていた日本が、統一国家形成を機にいち早く西欧帝国主義のささやかな模倣を試みようとしたもの」だった。この一節を読めば、明治維新直後の征韓論と台湾出兵が戦争の起源だったと考えても無理はなかった。』

問題は帝国憲法の運用

本書には、『問題は帝国憲法の構造よりも運用だった』という記述があったのですが、疑問に感じたので調べてみました(Perplexity)。それによると、「構造と運用の複合問題としての理解」とされており、以下のような説明となっていました。

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帝国憲法は構造より運用に問題があるという見解について.pdf
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1)近年の研究や政策論では、明治憲法体制の特徴として、①天皇に形式上あらゆる権限が集中し、②内閣・軍部・枢密院などがそれぞれ「天皇の名」を盾に分立し、③統合する司令塔(首相のリーダーシップや文民統制)が制度的に弱かった点が、総力戦時代に適応できなかったと指摘されている。

2)帝国憲法については「条文構造のあいまいさ・権限分立の設計そのものに欠陥があり、そこに軍部や右翼が有利になるような運用・解釈を積み重ねた結果として、統帥権独立や文民統制不在が深刻化した」という複合的な問題として見るのが主流的理解になっている。

徳富蘇峰と馬場恒吾

徳富蘇峰氏と馬場恒吾氏の人物像について調べてみました。

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徳富蘇峰と馬場恒吾について.pdf
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1)二人の言説は「帝国主義の時代の支配的思考」を代表する重要な史料として尊重されつつも、今日の価値観からそのまま採用するのではなく、「当時の制約のもとでのリアリズムが、どこまで歴史的責任を伴ったか」を検証的・批判的に読むのが妥当だと考えられている

2)馬場の命題も、歴史的理解としては「そう考えた人がいた」事実として押さえつつ、現代の国際秩序や人権・反植民地の観点からは、「帝国主義の時代だからこそ、それを批判し別のパスを模索すべきだった」という反対方向の教訓を導くのが、現在の研究や歴史教育の一般的なスタンスに近い。

「最大の禁物は、干渉政治」―徳富蘇峰の対中国認識批判

これに関しても聞いてみました。

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「最大の禁物は干渉政治」について.pdf
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1)現代の研究では、この指摘は一種の「遅れてきた警鐘」として評価され、日本が中国を主体性あるパートナーとしてではなく、干渉の対象として見てきたことが、長期的な対立と破局的戦争を呼び込んだという歴史的教訓を示すものと理解されている。

2)蘇峰自身が戦時プロパガンダの中枢にいたという事実から、「干渉政治の危険性を見抜きながら、結果としてその流れを止められなかった(むしろ支えた)」矛盾した知識人像としても批判的に検討されている。

「平和とデモクラシー」―第一次世界大戦の日本への影響

幣原総裁は戦争の起源を明治維新までさかのぼるのではなく、しかし、満州事変よりは前の第一次世界大戦であると考えていた。それは第一次世界大戦が日本経済に及ぼした影響である。それは戦争成金の登場であり、風紀の乱れと1923年9月1日の関東大震災による大きなダメージである。

・第一次世界大戦後の「大正デモクラシー」と、国際的な「平和と民主主義」という風潮は軍部に対する批判につながったが、幣原総裁はこの風潮に危機感を強くもった。

・『幣原は後悔する。「我々が余り財政緊縮を主にして、不必要に色々な方面の反感を惹き起こしたと云うことも、実は私等の責任のように考えて居って、何とか他の方法はなかったものかと近頃は胸に手を当てて考えて居ることがあるのです」。幣原は第一次世界大戦後の「平和とデモクラシー」の風潮が軍部を追い込み、のちの反発につながったと考えた。別の言い方をすれば、幣原は行き過ぎた「平和とデモクラシー」をもたらした第一次世界大戦後にのちの戦争の起源を見出した。

※著者の井上寿一先生が「平和とデモクラシー」と呼ぶのは、日本史の「大正デモクラシー」という枠を越えて、第一次世界大戦後の国際的な「平和と民主主義の時代」を強調するためとのことです。

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第一次世界大戦後の軍部に対する民衆の批判.pdf
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1919年という転機

・第三部会(財政経済)委員の渡辺銕蔵は、1919年が戦争の転機となったと主張した。この1919年は国家社会主義者の北一輝が「国家改造案原理大綱」を執筆した年だった。北が執筆した本書は二・二六事件(1936年)の首謀者たちに思想的な影響を及ぼした。 渡辺にとって戦争の原因は二・二六であり、起源を考えるならば、北の著書が発表された1919年となる。

国民の軍人蔑視の感情

・1922年8月の「東京日日新聞」に掲載されている陸軍軍医の一文は次のようなものである。

「今や軍縮の声は軍人を脅かし、彼らを「不安のドン底に陥れている」。子供が言うことをきかないと、親は「今に軍人にしてやるぞ」と脅す。軍隊が演習で「へとへとに疲れて」ある町にたどり着いても、「町の民衆はいそいで戸をしめ、内から錠をおろす」。兵隊の宿営を断るためだった。若い将校は結婚難に苦しめられ、「カーキ色の服は往来でも電車の中でも汽車の中でも、国民の癪の種」になっていた。

Ⅶ章 日中戦争から日米開戦へ

なぜ戦争は早期に終結できなかったのか?

この章は、私にとって最も関心の高かったものですが、書かれていたのは渡辺銕蔵委員の以下の部分だけでした。

『日中戦争の回避の可能性を前提とする戦争調査会は、「なぜ起きたのか」よりも「なぜ起きた戦争を早期に終結できなかったのか」の方に強い関心を持った。戦争調査会はこのような問題関心から資料を収集し、関係当事者にインタビューしている。』

失われた可能性

松岡は日米戦争の回避を目的として外交を展開していたはずであったが、日米了解案交渉に反対したことは、「いまだに残る昭和史の謎の一つ」であるとされているようです。

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1)松岡の疑念は形式的には正当でしたが、交渉の実質的な進展を妨げ、結果的に日米戦争回避の可能性を狭めることになった点で、「戦略的には失敗だった」というのが、歴史研究の評価になっています。また、米国側の思惑は、この交渉を通じて対日圧力をかけ続けること自体が目的であり、「正式提案か非公式か」という形式は二義的だったとの指摘です。

交渉の継続は戦争回避を意味するものではありませんが、松岡洋右氏が可能性の芽を摘んでしまった行為であったことは確かだと思います。

Ⅷ章 戦争の現実

レーダーと戦争

・日本にとっての敗因の一つは「電波兵器」(レーダー)だった。米軍がミッドウェー海戦でレーダーを実戦配備してきたことは陸海軍とも予想できないことだった。

・第五部会(科学技術)の会長の八木秀次はレーダー技術の専門家であり、「八木アンテナ」を発明した。当時の日本のレーダー技術は米国にもそれほど劣っていなかった。真空管に関しては日本は米英を上回っていた。しかしながら、米国は開戦と同時に数千人(英国は開戦前から数千人)の研究者、技術者を動員して翌年6月のミッドウェー海戦では実戦配備していた。米国のレーダーに用いられていたのは特許切れの「八木アンテナ」だった。

決戦を求めて

・『どこかで決戦を挑み、打撃を与えて、和平に持ち込まなければ、戦争は終わらなかった。決戦はいつか。戦争調査会第五部会における1946年7月10日実施の遠藤三郎陸軍中将・軍需省航空兵器総局長官の談話記録が重要な情報を提供している。

遠藤が軍需省航空兵器総局長官に就任した1943年11月の航空機の喪失は2405機、翌12月は2004機だった。遠藤は陸海軍に資した。「海軍はニューギニアの北で決戦をやるといい、陸軍はフィリピンで決戦をやるという。また海軍では6月頃やるといい、陸軍では8月頃にやるという」。遠藤は抗議した。「そう何遍も決戦をやられては困る」。たしかに決戦とは一回である。何度も戦うのは決戦ではなかった。しかし参謀本部にも軍令部にも計画はなかった。

遠藤は質問を変えた。油(航空用ガソリン)は大丈夫か。海軍は説明した。しかし陸軍からは説明がなかった。状況は極めて深刻だった。「出来た飛行機は油がなくて飛べない。従って余り飛んだやつを御覧にならなかったと思う」。さらにたとえばフィリピンでは飛行場が破壊されていて、補充されて行った飛行機のほとんどは戦わずに壊された。1944年11月頃になると、敵の基地が近くに造られたこともあって、飛ばずに飛行場に並べておいた飛行機は残らず潰された。この年11月、戦闘で失った飛行機900機に対して、戦うことなく敵に壊されたのが950機だった。飛行機の半数以上が戦うことなく失われたことになる。

以上の遠藤の談話記録によると、1943年の末においても、陸海軍の作戦は統合されていなかったことがわかる。決戦の天王山がいくつもあるのでは、どれほど飛行機を増産しても追いつくことはできなかった。

遠藤のみるところ、軍需生産の現場にも問題があった。軍人は軍職を「高尚な仕事」と考える一方で、勤労を「蔑視」していた。軍需生産には熟練工や技術者が欠かせない。ところが彼らを「どんどん徴兵にとって行く、そうして軍隊内においてつまらん所にみな使っておる」。遠藤は批判を込めて言う。「工場で働く労働者を非常に蔑視するという観念が支配したのではないか」。このような軍需生産の現場の状況では、生産効率性が上がるはずはなかった。』

物資動員計画

陸海軍の戦略の不統合と組織利益の対立は、物資動員計画に深刻な影響をもたらせた。

・1937年10月に設立された企画院は1943年11月に軍需省に吸収された。この企画院において物資動員計画の立案の中心にいたのが稲葉秀三だった。稲葉は戦争調査会のインタビュー(1946年2月20日)に応じている。その中で、物資動員計画の未達成の原因が「計画とその実施に携わった軍部官僚の経済認識の不足と軍内部における陸海双方の協力性の欠如」にあると指摘した。そして、次のように結論づけている。「我国としてこの様な一つの[甘い見通し]のもとに開国以来の運命をかけて太平洋戦争に投入したのではなかったであろうか。」

・『さかのぼれば第一次世界大戦後、つぎの戦争は総力戦になるとの危機意識から陸軍統制派を中心に、総力戦体制の構築が目標になったはずである。ところが実際には、総力戦体制が未確立なままに、総力戦を戦うことになった。稲葉は悔恨の念を込めて言う。「私の痛感したことは総力戦争に於ける経済の重要性を口で主張する、或は肯定するということと、それを具体的に認識し、実行するということは別なことであるということである」。物資動員計画の重要性は認識されていた。しかし実行されずに総力戦が始まる。稲葉が言うように、「総動員に対する殆ど準備なしに戦争に突入した」。これでは勝つことはできなかった。

・『陸海軍では組織利害の対立がつづいていた。陸海軍の組織利害の対立がつづいていた。陸海軍の組織利害の対立は日露戦争後にまでさかのぼる。1907年に帝国国防方針が決定される。仮想敵国の順位は、ロシア、アメリカ、フランス、ドイツとなった。「陸主海従」に海軍が反発する。陸軍はロシア(ソ連)、海軍はアメリカをそれぞれの仮想敵国として軍備拡張を進める。陸海軍の戦略は、沖縄戦が始まる戦争末期に至っても、統合されなかった。陸海軍が戦略を統合し、どこかで一度だけ最後の決戦を挑み、打撃を与えて和平に持ち込まなければ、戦争は終わらなかった。付言すれば、レーダー技術の開発が遅れたのも、陸海軍が相互に研究を教えなかったからである。』

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・『軍部内の組織利益の対立を調整・統合する政治の力が必要だった。この調書は慨嘆する。「吾々は衷心大政治家の出現して政戦両略の調整按配を責任を以て律し物動計画の運営を適正ならしめんことを冀ったが遂に実現せられなかった」。物動計画の観点からすれば、軍部を統合する強力な政治的リーダーシップを持たない日本は、戦う前から敗北していた。

極限状況の工場生産

・『この地域の住民は「文化的水準」が高く、「能動的な進歩分子」も多い。また北欧やスイスのような地形と気候は、高級測定機器や時計の生産などの精密作業に向く。それゆえ戦時中は、精密工業の工場九棟がこの地域に新設、移転、疎開していた。

調査官はこのうちのある工場を訪れる。従業員1700人中、大部分は動員学徒と国民学校卒業の少年少女だった。このような生徒たちに工場で働いてもらうには、「教育家」あるいは「宗教家」にも似る愛情をもって教育しなければならないはずだった。ところが現実には「全く反対に軍隊式、恐怖教育を強いたのであった」。この工場では従業員は「圧制下に従うのみ」だった。

このような「沈滞気分」に満ちた工場では、戦争が終わると、従業員は自主的に退職していった。戦争がこの工場に遺したのは、「卑屈な従順だけだった。労働組合が結成ざれることもなく、戦後になっても、「封建的暗さ」を感じさせる工場のままだった。』

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卑屈な従順」:自分の価値を過小評価し、相手に気に入られようとして、自分の意見や尊厳を捨ててまで従うこと。

対ソ外交への過大な期待

・『戦争調査会は調査すべき事項がまだ残っていた。主題は戦争終結外交である。なぜ戦争終結は遅れたのか。戦争の犠牲者がもっとも多かったのは、戦争の最後の年である。もしも1945年の初頭に戦争が終結していれば、東京大空襲も沖縄戦も、広島・長崎への原爆投下も、ソ連の対日参戦のなかった。

戦争終結が遅くなった原因の一つは、対ソ外交への過度な期待だった。日本はソ連の仲介による和平に望みを託しつづけた。しかしソ連が和平の仲介に応じることはなかった。代わりにソ連は8月8日に宣戦を布告した。

東京の外務省本省もモスクワの日本大使館もソ連の仲介を求めつづけた。和平の仲介役にふさわしい国は、戦争当事国の双方に影響を及ぼすことができなければならない。この観点からすると、ソ連は適役だった。ソ連は一方では日本と中立条約を結びながら、他方では第二次欧州戦線において米英との連合国だったからである。

状況は4月5日に暗転する。この日、ソ連が日ソ中立条約の不延長を通告してきたからである。外交上の常識からすれば、ソ連の通告は中立条約の破棄通告に等しかった。それにもかかわらず、和平の仲介を求めて、日本の対ソ外交は積極化する。なぜ日本は可能性を失った対ソ外交にすがりつづけて、戦争終結を遅らせたのか。』 

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現実離れした「日ソ外交」.pdf
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戦争終結できない組織の問題.pdf
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おわりに

外務省報告書「日本外交の過誤」

・『幣原から政権だけでなく戦争調査会も引き継いだ吉田茂は、戦争調査会の廃止から数年を経た1951年1月、斎藤鎮男外務省政務局政務課長を箱根の別荘に呼び出し、指示を与えた。吉田の指示とは、満州事変から敗戦までの時期における日本外交の失敗の原因を課長クラスで研究して、結果を報告するようにというものだった。それから約3ヵ月後、彼らは「日本外交の過誤」と題する約50頁の報告書をまとめる。吉田にとってこの報告書は、外務省版の戦争調査報告書だったのだろう。』

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「日本外交の過誤」を起点としたAIとの意見交換.pdf
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感想

最も印象に残ったことは、卑屈な従順という言葉です。これこそが太平洋戦争時の日本だったのではないかと思いました。陸海軍の統合ができなかったことも、レーダーを軽視して開発が進まなかったことも、全国各地の大空襲による甚大な被害と膨大な民間人の戦死者を直視せず、2つの原爆を投下されるまで戦争を終結できなかったことも、日本国が「卑屈な従順」という“空気”に支配されたことによって、脳の機能が膠着化し客観的、合理的判断ができなかったからではないかと思いました