戦争調査会1

太平洋戦争後に、「戦争調査会」が発足していたことは知りませんでした。しかしながら、その調査会は報告されることなく廃止になっていました。

私の1番の関心は、「なぜ、開戦したか」ではなく、「なぜ、日本が自ら戦争を終わらせられなかったのか」という点でしたが、いずれにしても、非常に興味深い本だなと思い購入しました。

著者:井上寿一

初版発行:2017年11月

発行:(株)講談社

井上寿一氏は、自身を特定の党派イデオロギーに結びつけるより、「穏健な政党政治」「現実的な外交・安全保障」「歴史から学ぶ抑制的な政治」を重んじる、やや保守寄りの現実主義的歴史家として位置付けられているとのことです。

ネット検索したところ、興味深いサイトを見つけました。

像出展:「コラムNo.3【 終戦後における戦争調査および史実調査 】

大東亜戦争調査会は幣原内閣による閣議決定「敗戦ノ原因及実相調査ノ件」と、それに続く同1945年11月20日の「大東亜戦争調査会官制」に基づき、内閣総理大臣の下に設置されました。連合国軍の占領下という状況にあったため、大東亜戦争調査会の設置はGHQの了解の下になされましたが、その設置には幣原内閣の意思が強く働いていたと言えるでしょう。

目次

はじめに

●戦争検証の国家プロジェクト

●40回以上もの会議、当事者インタビュー、独自の資料

●敗戦直後の切実さ

●自立的な検証の重要性

●「文明の裁き」対「勝者の裁き」を超えて

●道を誤った原因

●本書の構成

●公文書管理と戦争調査会

第一部 戦争調査会とその時代

Ⅰ章 戦争調査会の始動

●8月15日の車内の光景

●日本再建の基本方針「終戦善後策」

●難航する総裁ポスト

●長官に就いたエリート官僚

●戦犯逮捕と公職追放のなかで―委員の人選

●全国津々浦々の調査

●「さしたる期待すら持ち得ない」―戦争調査会への批判

●第一回総会の開催

●幣原の強い意志

●「なすべからざる戦」―自由主義者・渡辺銕蔵

●1920年代への回帰

●戦争責任をめぐる論戦

●「簡単に避けられた」―アメリカ化の影響

●1930年代はブロック経済だったのか?

●馬場恒吾対幣原喜重郎

●三つの基本方針

Ⅱ章 戦争調査会は何を調査するのか?

●「未だ部会開催に至らず」―第一回部会長会議

●資料の公募―第二回部会長会議

●駐兵問題和平工作

●「公募」の結果

●ラジオ番組「真相箱」

●戦争の原因と敗戦の原因

●石橋蔵相への談判―第三回部会長会議

●GHQ内の対立

●芦田均の危惧

●各部会の調査項目

Ⅲ章 戦争回避の可能性を求めて

●財政経済からみた戦争―第三部会

●「日本経済再建の基本問題」

●後進資本主義国・日本

●領土拡張は必要だったのか―渡辺銕蔵の反論

●戦時下農業の機械化と共同化

●馬場・幣原の再びの論戦―第四部会

●軍部の政治介入

●国家主義の台頭

●二つの日米開戦の回避可能性

Ⅳ章 未完の国家プロジェクト

●敗戦の現実

●各国代表の横顔

●米対ソ英中―対立の構図

●問答無用のマッカーサー

●「米をすぐ寄こせ」―深刻化する食糧危機

●「半官的団体」―問題の顕在化

●争点は補償問題と労働立法問題

●急進的か、穏健な労使協調か

●問題の収束?

●政権交代と公職追放

●対日理事会の懸念への対応

●ソ連の問題視―戦争調査会と旧軍関係者

●楽観を許さぬ情勢

●青木の決意

●開かれなかった最後の総会

第二部 なぜ道を誤ったのか?

Ⅴ章 戦争の起源

●明治維新の運命―八木秀次

●戦争の構造的要因―平野義太郎

●問題は帝国憲法の運用

●日露戦争の意味―馬場のソ連への反論

●戦争と革命

●徳富蘇峰の近代日本擁護論

●徳富蘇峰と馬場恒吾

●「最大の禁物は、干渉政治」―徳富蘇峰の対中国認識批判

●「平和とデモクラシー」―第一次世界大戦の日本への影響

●1919年という転機

●国民の軍人蔑視の感情

●軍縮と成金の時代

●総力戦体制の確立―バーデン・バーデンの盟約

●海軍省の「知恵袋」堀悌吉の証言

●海軍の軍縮の受容

●加藤友三郎と財部彪

●日米妥協案の受託

●なぜ統帥権干犯問題が起きたのか?

Ⅵ章 戦争と平和のあいだ

●満州事変の不拡大の可能性

●協力内閣構想

●なぜ構想は実現しなかったのか?

●江木翼の反論

●二大政党制の限界

●もう一つのチャンス=リットン報告書

●日中冷戦

●人工問題と資源不足問題

●五・一五事件の波紋

●『外交時報』による検証

●保護貿易と自由貿易

●高橋蔵相の対満投資抑制論

●青木得三の反論

●修復に向かう日中関係

●革新運動対自由主義陣営

●「合法派」対「非合法」

●二・二六事件

●宇垣一成の組閣断念

●林(銑十郎)内閣の限界

Ⅶ章 日中戦争から日米開戦へ

●なぜ戦争は早期に終結できなかったのか?

●宇垣外交の可能性

●宇垣・池田・板垣・石射の連繋

●日中和平工作の暗転

●孤立する宇垣

●国策の大転換

●三国同盟と日中和平

●分岐点としての南部仏印進駐

●北進論の抑制

●対日全面禁輸―南部仏印進駐に対するアメリカの反応

●日米交渉の開始

●複雑化する日米交渉

●日米了解案

●松岡外交の展開

●失われた可能性

●岩畔豪雄の証言

●独ソ戦の影響

●連合部会の成果

Ⅷ章 戦争の現実

●南方戦線の現実

●サイパン島「玉砕」

●ミッドウェー海戦=不要不急の作戦

●レーダーと戦争

●ガダルカナル島放棄論

●決戦を求めて

●物資動員計画

●極限状況の工場生産

●都市部における生産性の低下

●戦時統制経済と新日本の建設

●対ソ外交への過大な期待

●問題を解く鍵

●一条件対四条件

●二つの「聖断」

おわりに

●「平和建設所」

●『太平洋戦争前史』全六巻

●外務省報告書「日本外交の過誤」

●戦争調査会と今の日本

●戦争責任の問題

●戦争体験の継承の問題

●歴史研究の問題

はじめに

・『なぜ戦後日本の政府と国民は自らの手で戦争原因を追究しなかったのか。自立的な戦争原因の追求は、第日本帝国の栄光の正当性に陥ることなく、戦前昭和の功罪を明らかにすることができる。

しかし自立的な戦争原因の追求はむずかしい。敗戦国は責任回避に走り、証拠の隠滅を図る。日本も例外ではなかった。陸軍は早くも8月14日の午後から機密書類の焼却を始めている。翌日正午の「玉音放送」後、中央官庁街を見渡すと、外務省・内務省・大蔵省から公文書の焼却による煙が立ち上がっていた。

このような状況にもかかわらず、さらに戦犯容疑者の巣鴨プリズン収監が始まるなかで、敗戦国の首相でありながら、幣原は戦争調査会を設置する。幣原の戦争調査会は、「文明の裁き」や「勝者の裁き」とは異なる、自立的な戦争原因追及の試みだった。そうだとすれば戦争調査会の歴史的な意義は大きい。敗戦国日本は自国の歴史にどのような始末をつけようとしたのか、戦争調査会が示唆しているからである。』

第一部 戦争調査会とその時代

Ⅰ章 戦争調査会の始動

難航する総裁ポスト

・幣原の意中の人物は、戦前、元老に次ぐ重要な内大臣の地位にあった親英米派の牧野伸顕だったが断られた。次に首相を務めた若槻礼次郎にも断られた。その結果、やむをえ幣原自身が総裁の座に就くことになった。

長官に就いたエリート官僚

・総裁と同等以上に重要だったポストは事務方のトップに当たる長官には、大蔵省から庶民金庫(政府系金融機関)の理事長の青木得三に依頼した。青木は理事長を辞して長官の仕事に集中した。戦争調査会で青木は辣腕を振った。

戦犯逮捕と公職追放のなかで―委員の人選

・委員は学識経験者から20名が任命された。この他に臨時委員18名、専門委員3名、参与8名が任命された。事務局内には2つの課(庶務課と資料課)、5つの部会(政治外交、軍事、財政経済、思想文化、科学技術)に対応して、5つの調査室が設置された。各部会の部会長は次の通りである。斎藤隆夫(衆議院議員、日本進歩党)、飯村穣(元憲兵司令官、陸軍中将)、山村宗文(元三菱信託会長)、馬場恒吾(読売新聞社社長、貴族院議員)、八木秀次(大阪帝国大学総長、電気工学、元技術院総裁)の5名であった。

「さしたる期待すら持ち得ない」―戦争調査会への批判

・新聞の論調は戦争調査会に対して冷ややかだった。

-読売報知新聞の社説(1945年11月29日):戦争調査会が「ほんの申訳的に」、日本の敗戦の責任を問おうとしていることを疑問視して、「何故に侵略戦争を開始したかという戦争挑発の責任」を問題にすべきと述べている。

-朝日新聞の社説(1945年12月2日):「政府の企図する戦争調査に対して、われらは固よりさしたる期待すら持ち得ない」。これは政府の人選を問題視した発言で、戦争調査会の公正性・中立性が損なわれたとされた。

・戦争調査会を批判した言論人で戦犯容疑者となった徳富蘇峰は1945年11月26日に次のように記している。

『「元来米国その他連合国側が、戦争犯罪人を云々するは、本来敵国側であったから、不思議はない」。しなしながら「我が国民までが、戦争犯罪人を云々し、更に当局者が、その吟味者となるに至っては、極めて意外千万の事と、いわねばならぬ」。徳富にとって、負けた側が勝った側の裁きを受けるのは仕方がないとしても、負けた側が負けた側を裁くことは論外だった。』

戦争調査はこのような国内社会の無理解、誤解、消極的な反応、批判のなかで、出発した。

第一回総会の開催

・戦争調査は総会、5つの部会(必要に応じて連合部会を開催)、部会長会議(各部会の連絡調整)と参与会議の4つカテゴリーの会議体によって構成されていた。

馬場恒吾対幣原喜重郎

・第二回総会は4月4日、目的は「調査の目標方針及方法」だった。

・幣原は「一つ御注意を願って置かなければなりませぬことは、今日対外関係に於きましては極めて機微なるものがありまして……列国は注意深い眼を以て見て居ります」。ということを伝えた。戦争調査会は国際監視下に置かれており、東京裁判が開廷されようとしていた(開廷:1946年5月3日)。

・馬場は「戦争を始めた其事自身が間違って居るのではないか」。それでも調査をするのであれば、「戦争と云うものの価値、或いは不価値、或いは役に立たぬということ」を明らかにすべきであると発言した。

Ⅱ章 戦争調査会は何を調査するのか?

戦争の原因と敗戦の原因

「昭和19年(1944年)、『戦争はやめるべき』との発言が憲兵に密告され、流言蜚語の罪で投獄された」

・『第二回部会長会議においても異彩を放っていたのが渡辺銕蔵である。渡辺は戦争原因に関連して、開戦決定を批判する。「いろいろな方から、開戦すなわち敗戦だ、こういう意見が大分出た。私も堅くそう思っておる。日本とアメリカと戦争すれば、百パーセント敗けるに決まっておる。これが私の考え方である」。

そうだからこそ渡辺は、戦争になるとは「夢にも想像できなかった」。渡辺はつづける。「然し我々のような考え方は、或は少数であるかも知れない。まあ少数であるからこそ、排斥されたり圧迫されたりしたのだろうと思います」。渡辺は「私共は、ドイツも敗けると思っておった」とも述べている。反ナチス運動に加わり、戦時中、投獄された経験のある渡辺の発言に嘘はなかった。

なぜ「開戦すなわち敗戦」だったのか。渡辺は戦争の経済学の視点から断言する。「非常に正確に数学的に、出来ないということを説明できると思います。殊にアメリカを相手にして戦うだけの物資を調達することができるか」。

八木も同じ意見だった。「どうしても戦時中に敵側に依存して、輸入によって物を解決しなければならなかった」。日本が中国と戦争をつづけながら、南方に武力進駐する背景にあったのは、対米経済依存の現実だった。1939年7月26日、アメリカは輸入で第一位、輸出で第二位の貿易相手国だった。日米通商航海条約が廃棄される以上、アメリカに輸入を依存していた資源を求めて、日本は南進することになる。

渡辺は敗ける戦争を始めた責任だけでなく、敗ける戦争を早く止めなかった責任も追及しようとする。たとえばなぜサイパン島陥落(1944年)の時に、戦争を終結しなかったのか。あるいは東京大空襲の時に「たった百三十機でやってきて、百五十トンの焼夷弾を落としただけで、帝都はあれだけの焼野原になるのだから、これが何十万トン、例えばドイツへ四十万トン落とした。日本へその何分の一か、十万トンでも落とされたらどうなるか。大抵判断がつきそうなものだと思う」。

さらに五月にはドイツが敗れる。第二次欧州大戦が終結する。つぎはどうなるか。「これは子供でも分かるのですが、その後日本は焼土になった訳です」。渡辺は戦争終結のタイミングを逃して無駄に国民を苦しめた責任を追及しないではいられなかった。渡辺は戦争責任だけでなく、「国家困窮責任者」の責任も追及したかった。

青木長官は前年10月30日の閣議決定に立ち返る。この閣議決定の原案では調査会は敗戦の原因と実相を調査するとなっていた。それが戦争の原因と実相を調査すると修正されて、正式決定となった。青木は言う。「戦争の原因必ずしも敗戦の原因ではない」。戦争の原因と敗戦の原因は区別されるべきだった。なぜ戦争は起きたのか。なぜ戦争に敗れたのか。戦争調査会はこれら二つの問題に取り組むことになる。』

各部会の調査項目

像出展:「戦争調査会」