山本七平先生の著書『「空気」の研究』は1977年の発表以来、40年以上にわたって多くの論者に引用・紹介される名著とされており、長期間にわたって読み継がれています。
日本では学校や会社などの組織にいると、「空気」というか「空気感」がとても大きなものであることを痛感します。また、日本では「空気が読めない人」は批判や排除の対象になりやすく、周囲との調和を重視し個人の意見を控えめにすることが一般的に求められます。
ちなみに英語で、この日本特有の「空気を読む」に近い表現は何ですか?とAI(Perplexity)に質問したところ、 “sense the mood”という回答でした。ただし、忠実に表現しようとすると“sense the mood and adjust your behavior accordingly”(ムードを感じ取り、それに応じて行動を調整する)になるそうです。
欧米では空気を読む必要がある場面は限定的で、たとえ空気を読んでも、自分の意見や感情を率直に表現することを重視しており、個人主義が優先されます。また、「空気を読む」概念は存在しますが、その頻度と拘束力は日本ほど強くなく、特に日本ほど「常に空気を読まなければならない」というプレッシャーはないようです。このため「空気が読めない人」への社会的否定は、日本ほど厳しくはないとされています。
この日本特有と思われる「空気/空気感」について考えてみたいと思いました。そこで、山本先生の『「空気」の研究』を拝読させて頂くことから始めました。
本書は3つに分かれています。1.「空気」の研究、2.「水=通常性」の研究、3.日本的根本主義について です。2と3は内容が難しく、集中力を欠いてしまったためによく理解できませんでした。そこで、AIにこの3つの内容とそれぞれの関連性についてたずねました。
『3つの主題は、日本社会が「空気」(場の雰囲気)に支配され、現実的・通常性の「水」すら空気の温床となり、最終的には根本主義的な“場の絶対性”へと収束するという、互いに抜け出せない構造として補完し合っています。このため、外圧や論理的批判があっても、“空気”と“水=通常性”の補完的な力により、日本社会の変革や自己批判が難しくなる背景を示しています。』
ブログは、『「空気」の研究』の中から山本先生の「空気」が特に伝わると思われる部分を抜き出しています。そして、それを踏まえ、出てきた疑問に対するAIの回答を載せています。
1.「空気」の研究
●『「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かも知れない。何しろ、専門家ぞろいの海軍の首脳に、「作戦として形をなさない」ことが「明白な事実」であることを、強行させ、後になると、その最高責任者が、なぜそれを行なったかを一言も説明できないような状態に落とし込んでしまうのだから、スプーンが曲がるの比ではない。こうなると、統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であって、そういうものをいかに精緻に組みたてておいても、いざというときは、それらが一切消しとんで、すべてが「空気」に決定されることになるかも知れぬ。とすると、われわれはまず、何よりも先に、この「空気」なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起こるやら、皆目見当がつかないことになる。
では一体、戦後、この空気の威力は衰えたのであろうか、盛んになったのであろうか。「戦前・戦後の空気の比較」などは、もちろん不可能だから何とも言えないが、相変わらず猛威を振っているように思われる。もっとも、戦後らしく「ムード」と呼ばれることもあり、昔なら「議場の空気」といったところを「当時の議場の全般のムードから言って・・・・・・」などという言い方もしている。そして時にはこの「空気」が竜巻状になるのがブームであろう。いずれにせよ、それらは、戦前・戦後を通じて使われる「空気」と同系統に属する表現と思われる。そしてこの空気が、すべてを制御し統制し、強力な規範となって、各人の口を封じてしまう現象、これは昔と変りがない。』
●『「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。以上の諸例は、われわれが「空気」に順応して判断し決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのではないことを示している。だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。大和の出撃はそのほんの一例にすぎない、と言ってしまえば、実に単純なのだが、現実にはこの二つの基準は、そう截然と分かれていない。ある種の論理的判断の積み重ねが空気的判断の基準を醸成していくという形で、両者は、一体となっているからである。いわば議論における論者の論理の内容よりも、議論における言葉の交換それ自体が一種の「空気」を醸成していき、最終的にはその「空気」が決断の基準となるという形をとっている場合が多いからである。
では一体この「空気」は、どのようにして醸成され、どのように作用し、作用が終ればどのようにして跡形もなく消えてしまうのであろう。これを探求する一つの手掛りは、だれかが、何らかの意図のもとに、ある種の「空気」を意識的に醸成した場合である。言いかえれば、議論が、議論そのものよりも、明らかに、議論によるある種の「空気」の醸成を狙っている場合である。通常「空気」は、このような人工的操作によって作られるものでなく、言葉の交換によって、無意識のうちに、不作為に、いわば自然発生的に醸成されるから「空気」なのだが、それは、ある種の意図を秘めた作為的な「人工空気」の醸成が不可能だということではない。従って、この「人工空気醸成法」を調べていけば、「自然発生的空気」の成立過程も少しはわかるであろうと思われる。』
●『人が完全に空気に支配されて、身動きできなくなる例をあげよう。この例は、日本が重要な決定を下すとき、たとえば日華事変の本格化、太平洋戦争の開始、日中国交回復等に、必ず出てくる図式である。
だがここでは、現在において、まず明確に残っている最高の例と思われる西南戦争をとろう。これならば、すでに歴史上の事件であるし、戦ったのは同じ日本人同士だし、従って外交的配慮から「虚報を事実だ」と強弁する必要もないし、事実としなければ反省が足らんと言われることもあるまい。またどちらを仁徳にあふれる神格化的存在としようと、どちらをその対極にある残虐集団と規定してあろうと、共に日本人だから、どこからも文句は出まい。歴史上の事件で国内事件の場合は、こういう点で、いわば「無害化」されているので、非常に扱いやすい。そしてその基本的図式は、実は現代と全く同じである点で格好のサンプルである。
西南戦争は、いうまでもなく近代日本が行なった最初の近代的戦争であり、また官軍・賊軍という明確な概念がはじめて現実に出てきた戦争である。こういう見方は、戦国時代にはない。同時に、大西郷は、それまで全国民的信望を担っていた人物である。従って西郷危うしとなれば、全国的騒乱になりかねない。否、少なくとも「なりかねないという危惧」を明治政府の当局がもっていた戦争である。ということは「世論」の動向が重要な問題だった最初の戦争であり、従ってこれに乗じてマスコミが本格的に活動し出し、政府のマスコミ利用もはじまった戦争である。元来日本の農民は、戦争は武士のやることで自分たちは無関係の態度(日清戦争時にすらこれがあった)だったのだが、農民微募の兵士を使う官軍側は、この無関心層を、戦争に「心理的参加」させる必要があった。従って、戦意高揚記事が必要され、そのため官僚=正義・仁愛軍、賊軍=不義・残虐人間集団の図式化を行ない、また後の「皇軍大奮闘」的記事のはしりも、官軍は博愛社により敵味方を問わず負傷者を救う正義の軍の宣伝もはじまった。いわば、日中国交回復に至るまでの戦争記事の原型すなわち「空気醸成法」の基本はすべてこのときに揃っているのである。』
『「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かも知れない。』
これは凄い表現だなと思いました。そして、いくつかの疑問が出てきました。
1.日本の「空気」と同じような「空気」を有する国はあるのだろうか?
2.日本の「空気」は何時代からのものだろうか?
3.日本の「空気」(同調性圧力)が日本独特であるとすれば、その背景や理由は何だろうか?
4.日本の「空気」は「村八分」との関連性が特に強いのではないだろうか?
5.日本の「空気」は軍隊の特性(封建主義、従属心・命令絶対主義)と何か関係はないのだろうか?
1.日本の「空気」と同じような「空気」を有する国はあるのだろうか?
●日本型の「空気」「忖度」「同調圧力」と似た文化は東アジアに存在するが、欧米では文化的背景が大きく異なる。
●農村共同体の持つ同調性や集団主義的傾向はグローバルに観察されるものの、「空気」に支配される程度・無言の同調圧力の強さは日本が際立っている。
●どの言語にも、日本の「空気感」の持つ“見えない社会的拘束力・黙示のルール・同調強制”のすべてを飲み込む単独の単語はなく、説明や複数の語句が必要である。この現象自体が日本文化特有であるため、他言語話者に伝える場合は複数語句や説明文によるしかない。
2.日本の「空気」は何時代からのものだろうか?
●同調性や空気による支配は、数世紀にわたり農耕社会や儒教的価値観、国家政策などが複合的に積み重なって定着したものと考えられる。
3.日本の「空気(同調性圧力)」が生まれた背景や理由は何だろうか?
●村社会の伝統と閉鎖性、「和」を重んじる文化価値、高い同質性と集団内関係志向、暗黙の了解や忖度のコミュニケーション、現代社会や教育構造の影響、これらの要因が相互に補強し合うことで、日本独特の「空気」に支配される無言の同調性が際立っているといえる。
4.日本の「空気」は「村八分」との関連性が特に強いのではないだろうか?
●村八分は、最も明確には江戸時代に形成・確立された村落秩序維持の手段だが、その根源は中世村落社会にまで遡る可能性があり、明治以降の近代化と法制度化により、従来の慣習が制度的・法的に問題化されたと考えられる。
●「村八分」という制度自体は江戸時代の村落生活に根付いていたものの、「はちぶされる」という表現そのものは、村落生活とは必ずしも直結せず、江戸時代中期から徐々に慣用句的に使われるようになっていった。
●「村八分」の文化的・共同体的な独特の意味合い(共同生活のほぼ全てから除外するが葬式・火事のみ助ける等)まで一語で伝えるものは他国語にはない。
5.日本の「空気」は日本の軍隊の特性(封建主義、従属心・命令絶対主義)と何か関係はないのだろうか?
●日本の軍隊文化における「空気」は、封建主義的な上下関係や命令絶対主義と密接に結びつき、組織的な従属心や無責任、同調圧力をより強固にする独特の働きを持っている。このため、日本軍の特徴には単なる制度だけでなく文化的な「空気」の影響が不可欠と言える。
感想
日本の「空気」が独特なのは、“潜在的な虞(おそれ)”が心に存在しており、それが多くの日本人の無意識の共感となって“大きな絶対権をもった妖怪(山本先生の言葉)”として漂っているように思います。また、この“妖怪”は影の実力者のごとく、そして隠れた権威主義のように、グループ、組織、行政、国家を動かす測り知れない力として影響を及ぼしているように思います。(“潜在的な虞”には、特に“村八分”と”軍国主義(封建主義と従属心・命令絶対主義)”が何か関係しているのではないかと感じています)
もちろん、「空気」には前向きの素晴らしい力もあります。日本人の「和」や「調和」、「助け合い」の精神等は「空気」が後押ししていることも多いと思います。つまり、「空気」には良い悪いの両面があるということだと思います。

