戦争が何故起きるのかを考えると、思い浮かぶのは「貧困」、「格差」、「イデオロギー」、「教育」の4つです。そして、イデオロギーと教育は密接に関係しているように思います。
では、どのような「教育」が、暴力や戦争から「人」を遠ざけることができるのだろうかと思い、その答えが得られるような本を探してみました。今回の『被抑圧者の教育学』はそのような経緯で見つけました。
画像出展:「さなぎ日記」
目次
序章
Ⅰ なぜ被抑圧者の教育学か?
一 なぜ被抑圧者の教育学か? ―人間化の課題をめぐって―
二 抑圧者-被抑圧者の矛盾とその克服
三 抑圧の具体状況と抑圧者
四 抑圧の具体状況と被抑圧者
五 抑圧からの相互開放 ―省察と実践の共有をとおして―
Ⅱ 銀行型教育と課題提起教育
一 預金行為としての教育 ―非人間化をもたらす教育―
二 銀行型教育 ―教師-生徒、エリート-民衆の矛盾―
三 課題提起教育 ―世界への介在―
四 歴史的使命としての人間化
Ⅲ 対話―自由の実践としての教育の本質
一 対話-自由の実践としての教育の本質
二 対話と対話的教育
三 教育プログラム編成の基礎としての対話
四 生成テーマとその教育プログラム内容
五 生成テーマの探求とその方法
六 生成テーマ探求と意識化の実践
Ⅳ 文化行動の理論
一 反対話的行動理論と対話的行動理論
二 反対話的行動理論とその特徴
●征服
●分割統治
●大衆操作
●文化侵略
三 対話的行動理論とその特徴
●共同
●解放のための団結
●組織化
●文化総合
解説
文献紹介
あとがき
Ⅰ なぜ被抑圧者の教育学か?
一 なぜ被抑圧者の教育学か? ―人間化の課題をめぐって―
●人間化は抑圧者の不正、搾取、暴力によって妨げられる。それは、自由と正義を求める被抑圧者の切なる願いによって、また、失われた人間性を回復しようとする彼らの闘いによって肯定される。非人間化は、人間性を奪われてきた人々だけの特徴ではなく、それを奪い取ってきた人々にもみられる特徴であり、より豊かな人間になるという使命の歪みである。
二 抑圧者-被抑圧者の矛盾とその克服
●自分自身を解放し同様に抑圧者をも解放すること、従ってこれが被抑圧者の偉大な人間的歴史的課題である。
●不正な社会秩序は死、絶望、貧困によって育まれる。
●抑圧社会の恐るべき意味を理解するのに、被抑圧者以上に相応しい人々はいない。
●抑圧者の暴力の中心には愛の欠落が存在する。
●被抑圧者は、えてして闘いの初期において、解放のために努力するどころか、彼ら自身が抑圧者や抑圧者の手下になりがちである。
●抑圧者にとって人間として生きることは抑圧者として生きることに他ならない。これは非抑圧者が時に抑圧者に同化しようとする態度をとるためである。
●被抑圧者は自分が抑圧された環境にいるという自覚を持てないことが多い。これは自分自身を対象化できるほど明瞭に考察できないからであり、また、抑圧の現実の埋没しているためである。
●農地改革を進めるのは、土地を獲得して地主になりたいためである。さらにいえば、他の労働者を支配するボスになりたいためである。
●被抑圧者は抑圧者のイメージを内面化し、抑圧者の指針に身をゆだねているので、自由への恐怖を感じている。
●自由は与えられるものではなく、闘いとるものである。それは、たえず責任をもって追及されなければならない。自由は人間の完成を追求するうえで不可欠な条件である。
●人間が抑圧状況を乗りこえるためには、まずその原因を批判的に理解しなければならない。その結果は、被抑圧者は行動の変革を通して、新しい状況、つまりより豊かな人間性を追求することのできる状況を創造することが可能となる。
●抑圧状況とは、抑圧者とかれらによって抑圧されている人々の双方に影響を及ぼしている非人間化された、また現に非人間化している総体をいうのであるが、踏みにじられた人間性のゆえに、両者のためにより豊かな人間性を求める闘いを行わなければならないのは、実は抑圧された人々の方なのである。
●抑圧者は、他者を非人間化することによって彼自身非人間化されているがゆえに、この闘いを導くことはできない。
●自由のための闘いは、抑圧者だけでなく、さらに大きな弾圧を恐れている彼ら自身の抑圧されている仲間をも脅かす。自由になりたいという熱望を見いだす時、彼らはこの熱望の実現のためには、それと同じ熱望が仲間の間にも呼び覚まされるとき以外にないということを知るのである。
●自由への恐怖に支配されているあいだ、彼らは他者に訴えたり、他者の訴えに耳をかしたり、あるいは自らの良心の訴えに耳を傾けることさえ拒んでいる。彼らは真の仲間同士の繋がりあいよりも、烏合の衆でいる方を好む。彼らは、自由および自由の追求そのものから生みだされる創造的なコミュニケーションよりも、不自由な状態のままで得られる従属の安全性の方を好む。
●被抑圧者は、かれらの内面のもっとも奥深いところにできあがってしまった二重性に苦しんでいる。彼らは自由がなければ確固として生きていくことができないのを発見する。だが、彼らは確かな存在を求める一方で、それを恐れている。彼らは自分自身であると同時に、抑圧者でもある。それは、彼らが抑圧者の意識を自分のものにしてしまっているからである。
●被抑圧者の葛藤は、次のどちらを選択するかにある。完全に自分自身でいるか、引き裂かれたままでいるか。内面の抑圧者を放逐するか、しないか。人間的連帯か、疎外か。命令に従うか、自分で選択するか。傍観者でいるか、行動者になるか。行動するか、それとも、抑圧者の行動をとおして行動の幻想を抱くか。発言するか、それとも、創造と再創造の力を奪われて、また、世界を変革する力を奪われて沈黙しているか。これが、被抑圧者の教育にたずさわるばあいに考慮しなければならない、かれらの悲劇的なジレンマである。
●『本書では、私が「非抑圧者の教育学」と名づけている教育学のいくつかの側面が提示されるだろう。それは、人間性をとりもどすためのたえまない闘いのなかで、被抑圧(個々人であれ全民衆であれ)のためにではなく、被抑圧者とともに鍛え上げられなければならない教育学である。この教育学では、抑圧とその原因が被抑圧者の省察の対象となる。この省察によって、かれらは必然的に自ら解放する闘いへと向かっていくだろう。そして、こうした闘いのなかで、この教育学はつくられ、つくりかえられる。
主要課題は、分裂させられ曖昧な存在である被抑圧者が、いかにかれらの解放の教育学の発展に参加しうるか、にある。自分たちこそが抑圧者の主人であることに気づくときにのみ、かれらは解放の教育学の誕生を助ける産婆術に貢献できるのである。
かれらが、生きるとは誰かのように生きることであり、誰かのように生きるとは抑圧者のように生きることである、といった二重性のなかに生きているかぎり、この貢献はかれらにのぞめない。被抑圧者の教育学は、かれらとかれらの抑圧者がともに非人間化の現われであることを、かれらが批判的に発見するための道具である。
解放とは、このように出産であり、それは苦痛をともなう出産である。』
●被抑圧者が自らの解放の闘いに取り組むことができるためには、被抑圧者の現実を、出口のない閉ざされた世界としてではなく、変革しうる有限の状況として認識することが必要である。しかし、それだけでは不十分である。大事なことは解放行動の原動力になるかどうかである。
四 抑圧の具体状況と被抑圧者
●自分たちの置かれている状態が何に起因しているかに無自覚でいるかぎり、被抑圧者は搾取を宿命のように受け入れる。さらには、自由と自己肯定の闘いの必要性に直面しながらも、被抑圧者はとかく消極的で疎ましげな態度で対応しがちである。だが、徐々にではあるが被抑圧者は、反乱行動の形態を試みてみようとし始める。
解放に向かおうとする努力にみられるこの消極性や自覚の契機が見過ごされたり、見落とされたりしてはならない。被抑圧者は、世界と自分自身についての歪んだ見方にとらわれて、自分を抑制者によって所有されている物のように感じている。
五 抑圧からの相互開放 ―省察と実践の共有をとおして―
●解放のために闘わなければならないという被抑圧者の確信は、革命的指導によって授けられる贈物ではなく、被抑圧者自身の意識化の成果である。革命の指導者たちは、革命的英知にとって決定的に重要な闘争の必要性についての被抑圧者自身の確信が、もしそれが本物であるなら、けっして誰か他の人によって与えられたものではなかったことを思いかえすべきである。
Ⅱ 銀行型教育と課題提起教育
一 預金行為としての教育 ―非人間化をもたらす教育―
●「銀行型教育」とは教師は預金者のように与える側、生徒は一方的に受け取る側ということを意味している。つまり、これは双方向の対話型と異なる、一方通行の教育形態のことを言っている。
・『銀行型教育概念が、人間を順応的で管理しやすい存在としてみなしても驚くにはあたらない。生徒が自分たちに託される預金を貯えようと一生懸命に勉強すればするほど、世界の変革者として世界に介在することから生まれるかれらの批判意識は、ますます衰えていく。押しつけられる受動的な役割を完全に受け入れれば受け入れるほど、かれらはますます完全にあるがままの世界に順応し、かれらに預け入れられる現実についての断片的な見方を受け入れるようになる。』
・『生徒の創造力を最小限に抑え、摘み取り、かれらの軽信をあおりたてる銀行型教育の機能は、世界を解明したいとも思わなければ、それが変革されるのを見たいとも思わない抑圧者の利益に仕えるものである。抑圧者は自分に有利な状況を維持するために、人道主義を利用する。このようにして抑圧者は、批判能力を喚起し、現実についての断片的見解には満足せず、点と点、問題と問題を相互につなぐ絆をつねに探求しようとする教育の、どのようなこころみもほとんど本能的に反対する。』
●「銀行型教育」は極論すると、他者を絶対的無知としてみなす抑圧イデオロギーの特徴となる。教師は生徒に対して必然的な対立物として自らを演ずるようになる。生徒の無知を絶対的なものとみなすことによって、教師は自分自身の存在を正当化する。
●自由論者の教育の存在理由は、統合へ向かって突き進んでいくことにある。教育は、教師—生徒の矛盾の解決から、つまり、両者が同時に教師でしかも生徒になるように矛盾の両極を統合することから始めなければならない。
●銀行型教育方法のヒューマニズムの裏には、人間をロボットに変えようとする意図が隠されている。それはまさに、より豊かな人間になるという存在論的使命の否定である。当人は善意のつもりでも、自分のやっていることが非人間化にしか役立っていないことに気がつかない銀行型教師が無数にいる。
二 銀行型教育 ―教師-生徒、エリート-民衆の矛盾―
●教師の思考は、生徒の思考の中の確実さによって確かなものとなる。教師は生徒のために生徒に代って考えることも、また、自分の思想を生徒に押しつけることもできない。
三 課題提起教育 ―世界への介在―
●教師は生徒と対話するなかで教えられるものにもなる。生徒もまた、教えられると同時に教えるのである。かれらは、すべてが成長する過程に対して共同で責任を負うようになる。
●銀行型教育は意識を埋没状態におこうとし、課題提起教育は意識の出現と現実への批判的介在に向かって努力する。
●問題提起教育において、人間は、世界の中に、世界と共にあり、そしてそこで自分自身を発見する方法を、批判的に知覚する能力を発展させる。かれらは世界を静止した現実としてではなく、過程にある。変化しつつある現実としてみるようになる。
●銀行型教育は現実を神話化することによって、世界の中に存在する人間のあり方を説明するいくつかの事実を覆い隠そうとする。課題提起教育は、非神話化の仕事を自らに課す。銀行型教育は対話に抵抗し、課題提起教育は対話を現実のヴェールを剥ぐ認識行為にとって不可欠のものであるとみなす。
●銀行型教育は生徒を援助の対象として取り扱い、課題提起教育はかれらを批判的思考者にする。銀行型教育は創造性を押しとどめ、意識を世界から隔離することによって、意識の指向性を、完全に破壊することはできないにしても飼い馴らす。そうすることによって、より豊かな人間になるという人間の存在論的、歴史的使命を否定する。課題提起教育は創造性それ自体に根ざし、真の省察と現実に対する行動を喚起し、そのことによって、探求と創造的変革にしたがう場合にのみ真実の存在たりうる人間の使命に、こたえる。
Ⅳ 文化行動の理論
一 反対話的行動理論と対話的行動理論
●『革命は指導者によって民衆のためになされるものでもなければ、民衆によって指導者のためになされるのでもない。ゆるぎない連帯のなかで、両者がともに行動することによってなされるのである。この連帯は、指導者が、民衆との謙虚で愛と勇気にみちた出合いによってそれを証言するとき、はじめて生まれてくる。すべての人間が、この出合いに耐えうるだけの勇気をもっているわけではない。出合いを回避するとき、人間はかたくなになり、他者をたんなる客体として扱うようになる。生命をはぐくむかわりに生命を奪い、生きることを探求するかわりに、そこから逃亡する。こうしたことは抑圧者の特徴である。
対話、つまり世界を変革するための、世界のなかでの人間の出合いを肯定することは、素朴で主観的な観念論だと考える者もあろう。』
感想
1.教師は生徒と対話するなかで教えられるものにもなる。生徒もまた、教えられると同時に教えるのである。教師と生徒は成長する過程に対して共同で責任を負うようになる。
2.銀行型教育は意識を埋没状態におこうとする。一方、課題提起教育は意識の出現と現実への批判的介在に向かって努力し、より豊かな人間になるという人間の存在論的、歴史的使命を肯定する
教育の原点は、教師と生徒は同格であり、批判的精神を尊重しつつ、お互いを通じて学び、成長することにあるのではないかと思います。そして、教育によって育まれた批判的精神が多くの民衆に芽生え、正しい指導者との間を愛と勇気が繋ぎ、確固たる信念と信頼となって深く結びついた時に、抑圧者は非抑圧者と正面から向き合うことができるようになるのではないかと思います。



