中公新書に『体育会系』という題名の本があります(著者:小野雄大先生)。そして、その本の中で『就職と体育会系神話』という本が紹介されていました。
私は大学の体育会でサッカーをしていたのですが、その同期の仲間から誘われ、昨年、今年と連続で気仙沼の早稲田カップのお手伝いをさせて頂きました。この早稲田カップは、早稲田大学ア式蹴球部が東日本大震災発生後、2012年から毎年東北を訪れ、復興支援やサッカーを通した交流を行ってきたというものです。
また、毎年、高田馬場で行われるサッカー部の納会には、1年間戦った選手を讃えたいという思いから、なるべく出席するように心がけています。納会の最後は恒例の「校歌斉唱とエール」ですが、その前に各4年生から、ひとり一人挨拶があります。ここで就職が決まった学生は就職先を報告するのですが、メガバンクや大手の保険会社、商社、広告代理店、コンサルティング会社など有名な企業に就職を決めている学生が多いことに感心させられます。
これが、今回、『就職と体育会系神話』という本に興味をもった理由です。
なお、束原先生は、『現在の体育会系が大学新卒就職市場で有利になる条件とは「威信が高い大学」の「伝統的チームスポーツ」部に属する「男性」と抽象した。これは、就活で優位を維持する「エリート体育会系」と、どちらと言えば不利な立場に置かれることもある「ノンエリート体育会系」へ分化が生じていることを示唆していた。』という見解をお持ちです。
著者:束原文郎
発行:2021年7月
出版:(株)青弓社
内容は非常に細かい分析がされており、なるほどと思うことが多々あったのですが、読んでいてもっとも気になってしまったのは、世界でも極めて珍しい“新卒一括採用”です。韓国も一括採用型ですが、日本ほど厳密ではないようなので、世界で最も新卒一括採用が進んだ国は、我が日本ということで間違いないと思います。「これはどういうこと何だろう?」という疑問から調べてみました。
これだけだと、『就職と体育会系神話』からは、外れっぱなしになってしまうので、最後に米国とデンマークの大学スポーツ事情についてご紹介させて頂きます。
1.アメリカの事例
・『例えばアメリカでは、学生アスリートの教育は大学に一義的な責任があるという認識に立ち、大学に学生アスリート支援システムを構築させる。ただし、NCAAが巨額の利益のなかから費用を一部助成する形態をとる。学生スポーツ産業の維持・発展への基礎とするというやり方だ。
大学やNCAAによるアスリート労働力の搾取であるという批判もあるが、アメリカでは大学の学位は労働市場で大きな意味をもつため、主たる活動がスポーツであっても大学教育を受けることは学生にとって実質的な社会的上昇の手段になる。アメリカには軍に入隊すると授業料が免除されて生活費やボーナスが支給されるという制度もあるが、年間数百万円にものぼる授業料の高騰は日本の比ではなく、中間・貧困層の若者は大学で学ぶために家が建つほどの多額のローンを組むか、軍隊に入るか、高卒で低所得者層になることを受け入れるかという選択を迫られることになる。こうした社会文脈にあって、経済的リソースを持ち合わせていない若者に対するスポーツ奨学金の魅力は十分に大きい。したがって、学生アスリートはプロに上がらない場合でも、大学教育を受ける権利を獲得するために、競技を続けるインセンティブがある。
ちなみにNCAAは2016年10月、その過剰とも言える商業的成功と高等教育としての腐敗が大きな社会問題に発展したことを受け、最も高い競技力と商業的成功を誇るディビジョン一の収益の配分方法について、2019-20年度から学業達成に重きを置いた方式に変えると発表し、ウェブサイト上にその具体的なプランも掲載した。38%を占めていた競技面への配分を2024-25年度まで段階的に24%まで減らし、そのぶんを学業や学生生活支援に充てていくというのだ。日本のUNIVASとは歴史も規模もまったく異なるため、比較にならないと思われるかもしれないが、NCAAが「学生アスリートにとってより重要なのは競技(Athletics)ではなく学業(Academics)である」ことをあらためて認め、発信したことに大きな意義がある。』
2.デンマークの事例
・『対照的に、デンマークでは、チームデンマークという中央スポーツ統括機関と自治体、教育機関(学校)が連携し、アスリートの学業と競技の両立を支援している。生徒や学生がインテンシブな競技生活を学業とパラレルに続けるか否か、意思決定の主体は生徒や学生側にある。
日本では、学校公認のクラブ活動で公式戦に出場することになったり、競技団体などからある年代や地域の選抜選手に選ばれ、競技大会への出場や遠征・合宿に招集された場合、授業の出席免除や欠席による減点への配慮、すなわちパフォーマンスレベルによる優遇や特別扱いを学校側(担当教員)に依頼することが一般的である。実際に、競技成績による大学認知度の向上を期待してスポーツ推薦などで学生を入学させていると、学校・教員側としてもそうしたハイレベルな学生アスリートの遠征や競技会への参加に対して一定の配慮をせざるをえなくなる。競技大会への出場が単位修得の障害になって、学業成績や卒業に支障が出てしまうと就職にも影響が出る可能性があるからだ。新卒一括採用を慣行が維持され、新卒時の就職先の企業規模の重要性が高く、歴史的に学校が職業斡旋機能を担ってきた日本で長く生活してきた人なら、こうした配慮を自然なものとして受け入れてしまうかもしれない。
しかし、デンマークでは、出席状況や学業成績にゲタを履かせて一般学生と同じタイミングで卒業をさせる発想はない。学生アスリートと認定されることで、高校では三年のかわりに四年まで、大学では四年のかわりに六年まで、修行年限を延ばすことを学生アスリート本人の意思で選択できるようにするという。しかも「学生アスリート」として認定を受けるのも、本人による中央スポーツ統括機関や地方自治体の教育委員会への申請がベースになる。本人の申請に基づき、学生アスリートとしての認定を受け、その認定に基づいて、教育現場では一般の生徒・学生と同様の教育内容を享受・修了できるよう融通する。それが中央スポーツ統括機関と地方自治体と学校が連携して、学生アスリートに対しておこなう配慮である。
一見すると日本で一般的になされる配慮と真逆の配慮が求められ、機能するのは、なぜなのか。チームデンマークのデュアルキャリア担当職員クリスティナ・テラーは、「そのような配慮がないと若者は学業を優先してしまい、有望なアスリートが競技をやめてしまうからだ」と説明してくれた。
デンマークの雇用と教育システムは、日本やアメリカと異なる。職域メンバーシップ(ジョブ型)の雇用慣行をとるデンマークでは、ほぼすべての職業で職務の内容に直結した学位を要求される。そのため、大学生には大学に在学しているというだけで月額七万円程度の給金が支給され、ほぼすべての若者に高等教育機関への就学機会が開かれている。同じ職業の場合は企業が変わってもほとんど待遇は変わらず、他業種に転職する場合はまた大学に通い直してその職業に対応した学位を取得する必要がある。このような環境であると、スポーツを生業にできるという確信がないかぎり、学業に集中できないことのリスクが大きすぎると感じられる。デンマークでは、教育機関での学業は職業トレーニングであり、競技への時間と労力の配分は、学位取得に対する障害やリスクと見なされるのである。』
感想
1.体育会の4年間
・「同じ釜の飯を食う」これが原点だったのではないかと思います。得たものは“友”と“誇り”です。“友”は年齢を重ねるごとにその価値に気づきます。“誇り”は大学を卒業し、社会人となった時から今に至るまで、心を豊かにするエネルギーになってきたのではないかと思います。
体育会の4年間は本当に貴重な時間であったと思います。確かにサッカー中心の生活であったことは事実ですが、そこそこ大学生らしいこともやっていました。多分、入学まもない春季対抗戦だったのではないかと思うのですが、1回戦負けという屈辱的な結果から、すでに夜の10時を回っていたように思いますが、「今日は寮に帰りたくねぇなぁ(試合後のためオフ[門限無し])」と言いだした者がおり、「そうだなー、海にでも行くか」ということで話はまとまり、確か3台に分乗し湘南に向かいました。荒井由実の「ひこうき雲」が印象に残っています。
初ディスコは1年生の早慶戦後でした。慶応に勝利し気分を良くした学ランの学生約10人が新宿のディスコに繰り出しました。「勝手にシンドバッド」がかかっていました。東京の高校卒の連中の手慣れた様子をみて、「やっぱり違うな」と感心しました。
バイトも小遣い稼ぎと興味から、いくつか経験しました。大学3年生の時には大泉学園に家庭教師に行っていました。シーズンオフには、晴海ではお中元のバイト(見るからに柔道部だろうという連中など、体育会系のたまり場となっていました)。冬のオフは花屋の売り子、クリスマスケーキの売り子、渋谷パルコのミナミスポーツの店員はちょっと自慢でした。気の利く仲間もいて、合コンもたまにやっていました。
こう考えると、一般の大学生とはだいぶ違うのでしょうが、サッカー漬けという印象は持っていません。1限目から授業にいっており、無事卒業もできました。50年近く前の話なので、今の学生とはかなり違うのだろうと思います。
お伝えしたいことは、体育会は“友”と“誇り”を与えてくれたということと、体育会で日本一を目指してスポーツに没頭することは、価値があるということです。
2.ベンチャーなNCAA
・大学スポーツの印象は、寛容な日本、フェアなデンマーク、ベンチャーな米国という感じです。米国の並はずれたエネルギーは開拓者精神のDNAなのかなと想像します。米国の大学スポーツは明らかにビジネス化していますが、何かを本気でするとなると、現実的にお金が必要なのは確かだと痛感します。
1900年前後の米国では、大学アメリカンフットボールで死亡事故が多発し、15年間で高校~大学レベルで300人以上が死亡したとされています。この状況を重く見た当時のセオドア・ルーズベルト大統領が、ハーバード大学、エール大学、プリンストン大学の関係者をホワイトハウスに呼び、「大学スポーツの安全性とルールを改革せよ」と強く要求しました。その呼びかけを受け、3大学を中心に規則委員会(FRC)がつくられ、その後、海軍兵学校・コーネル大学・ペンシルベニア大学なども加わり、1906年にIAAUS(合衆国大学間運動協会)が発足します。
NCAAの発足のきっかけが大学アメリカンフットボールで死亡事故というのも衝撃的ですが、この深刻な問題にメスを入れたのは、セオドア・ルーズベルト大統領であったというのも驚きでした。
調べたところ、日本の場合、総理大臣が大学スポーツなどの問題を「深刻」と判断しても、アメリカのセオドア・ルーズベルトのようにトップの強い政治的意思だけで即座に新組織(NCAA相当)ができる、という単線構造にはなりにくく、「会議体を作る→検討・報告→関係省庁が通知やガイドライン・補助金要件で誘導→大学側の自主規制・ガイドライン」という、時間をかけたプロセスになるようです。
画像出展:AI(Perplexity)が作成
時間と組織が変わっていく過程によって、問題意識はどんどん薄れていってしまう恐れがあると思います。“改善”は日本が得意とする“ボトムアップ“で対応できますが、“改革”は“トップダウン”でないと難しいと思います。

