第三章 政党内閣
1 東京専門学校
・1882年、大隈邸は雉子橋(現在の千代田区九段南一丁目)にあり、早稲田を別荘としていた。小野梓・高田早苗らによる学校開校計画は、大隈後援のもと、早稲田の地で現実化することになる。
・今の大隈庭園となっている大隈邸は、高松藩主であった松平讃岐守の下屋敷、学校の所在地は井伊掃部頭(井伊家当主)の別荘地と言われている。都の西北に広がるのどかな田園地帯だった。
・1882年9月9日、小野梓は「東京専門学校規則」を大隈重信のもとに届けた。それを踏まえて11日、大隈英麿(大隈重信の長女・熊子と結婚して婿養子になった。旧姓南部。ダートマス大学で天文学を専攻後、プリンストン大学に移り、数学を修めて理学士号を取得。「創立期の隠れた礎」として、その実学志向と教育理念が評価されている)の名で「私塾設置願」が、東京府知事の芳川顕正に提出された。
・設置の目的は、「政治経済学科・法律学科および物理学科を以て目的とし、その傍ら英語学科を設置する。ただし。物理学科は科目は追って認可を経る」と記されていた。
・1882年10月21日の東京専門学校の開校式に、創設者の大隈重信の姿はなかった。それは自らの政治的立場と学校との関係の誤解を避けるためであり、役員にも名を列ねてはいない。その後も学校の運営や教育内容につては距離をおいていた。
・学問の「応用」と学問の「独立」を掲げて東京専門学校は開校し、小野梓が演壇で「学の独立」を高らかに宣言した。
・「学問の独立」とは第一に外国からの日本の学問の独立であった。東京大学では日本人講師も外国語で授業していたが、東京専門学校は東京大学と同等の高等な学問を、日本語を用いて教授し、有為な人材をいち早く世に送り出そうとした。第二は政治権力からの学問の独立だった。それは東京専門学校の創立が、大隈重信、小野梓以下の立憲改進党の指導部によるものだったためである。
・文学科は小野梓の親友であった坪内逍遥を中心に、日本最初の純粋な文学研究科として文学科は遅れて設置された。
・東京専門学校は立憲改進党系の学校とみなされ、私立校への判事・検事および大学教授(当時、大学は東京大学のみ)の出講禁止など、さまざまな妨害や圧迫を加えられ、講師の確保にも窮するほどの状態が続いた。これを支えたのは大隈家の私財と鍋島家からの後援だった。その後、条約改正のため政府が大隈を必要とするようになると、東京専門学校への風当たりは弱まっていく。
・東京専門学校はその後、大学への昇格を展望して組織を改編し、1902年に早稲田大学への改称が認可された。ただし、その時点では制度上は大学ではなく、1904年、専門学校令に準拠する高等教育機関(旧制専門学校)となり、1920年、大学令により正式な大学となった。なお、大学令により私立大学として最初に認可されたのは、早稲田大学と慶応義塾大学の二校だけだった。
4 早稲田大学への発展
・大隈は外相在任中の1897年7月、第三代校長鳩山和夫のもとに行なわれた、東京専門学校創立十五周年記念式典と同時に行なわれた得業証書授与式に参加され次のような演説を行った。
『卒業生の諸君は数年勉強の結果、今日この名誉ある得業の証書を貰って初めて社会に御出になるのは、まずいわば複雑なる社会に於て勇戦奮闘する初陣である。ところがなかなか初陣というものはよほど六ヶしい。そうも諸君が向うところには種々の敵が沢山ある。種々の兵にも出会う。いま近衛侯爵の御話の通りに道徳の腐敗あるいは社会の元気の沮喪などという、これは最も恐るべき敵である。既に出陣しない前に敵が現れて来ているのだ。この敵に向かって諸君は必ず失敗をする。随分失敗をする。また成功があるかも知れませぬけれども、成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな。失敗に打勝たなければならぬ。たびたび失敗するとそれでこの大切なる経験を得る。その経験に依って成功を以て期さなければならぬのである。ところでこの複雑なる社会の大洋に於て航海の羅針盤は何であるか。学問だ。諸君はその必要なる学問を修めたのである。しかしながらなかなかまだ初歩なのである。・・・・・・すべての仕事をなすと同時に手に巻を持っておらなければならぬ。本を持っておらなければならぬ。これを止めたならば誰でも直ちに失敗して再び社会に勢力を得ることの出来ないようになってしまうのである。まず一言を以て諸君を戒めておきます。—早稲田学報五(1897年)』
・大隈は失敗はつきものであると言い、そのために「学問」こそが「羅針盤」になるとしている。ここには数多くの失敗を乗り越えてきた大隈の思いが込められている。
・大隈は創設時から東京専門学校をいずれは大学にしたいと考え、複数の学科を置いていった。1902年10月、法制上は専門学校の扱いであったが、早稲田大学へと名称を変更した。その後、1904年に商科、1909年に理工科を設置し、早稲田は総合大学としての実質を整えていく。
画像出展:「大隈重信と早稲田大学」
『此東京専門学校を以て(大隈の)政党拡張の具となさんとするものの如く誤り見たるものが多いと云ふ一事であります。これは大隈伯爵の識量を誤認したものと認める。大隈伯爵は、政治・教育共に熱心であるが、素より政治と教育の別を知って居られる。学校教育の事業は之を政治の外に置き、教育機関を濫用して党勢力拡張の具とするのは策は、断じて取られなかった事は明らかに認める。これは世の中の具眼の人は分かって居るか知らぬが、多くは之を誤解して居った。 —創立二十年記念録』
・大隈は伊藤博文の演説を聞き、「伊藤も、とうとう降参して、懺悔演説したよ」と言い、笑って喜んだ。伊藤が認めざるを得ないほど、東京専門学校は大隈抜きでも発展していた。
・伊藤と大隈は、明治14年の政変に代表される対立関係もあったが、一方で「築地梁山泊」以来の親友だった。1907年、早稲田大学が創立二十五周年を記念して、理工科と医学科の設置を試みた際、募金の集まりが悪いのを見た伊藤は皇室からの内帑金三万円(現在の価値で約4200万円)が大学に下賜されるよう奔走した。大隈は憲政本党を離れてから、大隈と伊藤は「築地梁山泊」のころの親しさを取り戻していた。人間は本来、125歳まで生きられると「人生百二十五歳」説を唱えていた大隈にとって、伊藤博文の69歳の死去は耐え難い悲しみであった。
・早稲田大学として成立後、学校運営は高田早苗が取り仕切っていた。1907年、早稲田大学は大隈重信を初代総長に迎えると、高田が初代学長に就任し、校長職は廃止された。
第四章 教育と文化
2 文明運動
・総長の大隈は研究・教育だけでなく、「東西文明の調和」を掲げて、多くの文化活動を展開した。そして、それらは「文明運動」と呼ばれた。1908年に日本文明協会を発足させ、1909年には煙花競技会の会長に就任し、1910年には世界平和の実現に向けて、大日本平和協会の会長に就任した。また、大隈は帝国軍人後援会の会長にも就任した。これには批判もあったが大隈は、軍隊は平和のために必要悪であると考えていた。
・文明運動とならんで大隈は出版活動を通じた「国民教育」を目指した。一つは日露戦争の最中に編纂を開始し、1907年に刊行した「開国五十年史」である。本書は大隈による「徳永慶喜公回顧録」により幕末政治の状況を当事者の言葉により記し、伊藤博文の「帝国憲法制定の由来」、松方正義の「帝国財政」、山縣有朋の「陸軍史」、山本権兵衛の「海軍史」、大隈と板垣退助の「政党史」、渋沢栄一の「銀行史」「会社史」、後藤新平の「台湾史」など、一流の当事者による担当項目が並ぶ本だった。大隈は「開国五十年史」の結論において、開国以来五十年の日本の発展は、「開国進取」の国是のもと、西洋の新文明を導入し、応用することによって成し遂げられたと述べている。そして、これからは単に西洋文明を導入するだけではなく、東西文明の代表者として広く東洋を紹介し、「東西両洋の文明を融和綜合して、一層世界の文明を向上せしむること」こそが、日本の今後の使命である、と論じている。
・もう一つは、大隈が1910年に刊行した「国民読本」である。本書は義務教育を終えた青年男女に向けた一種の教科書で、日本の国体・国民性から、立憲政体の仕組みや行政・法律・経済などの広い分野にわたる公民教育を企図したものである。
・選挙は理念ではなくお金の力が大きく、多くの代議士は藩閥政治と癒着して権力や利権の獲得に奔走していた。こうした状況を改めるためには、政府を代議士が監視し、代議士を国民が監視することが必要であると大隈は考えていた。そのため、国民の教育を通じて国民のあらゆる能力を向上させようとした。
こうした国民の教育を重視していく大隈の「文明運動」により、大隈は、単に上から政党政治を押しつける政治家ではなく、民衆の支持を受ける大衆政治家へと変貌し、その結果、再び内閣総理大臣の職に就くことになった。
3 第二次内閣
・大隈は組閣後まもなく。従来薩摩閥が握っていた警視総監に非薩摩閥の伊沢多喜男を就け、また19人の知事と29人の道府県部長を移動させるなど、地方人事も大幅に刷新した。
4 国民葬
・大隈重信は1922年1月10日、早稲田の私邸で死去した。数え年で85歳であった。大隈関係者が望んだ国葬は実現せず、国民葬となった日比谷には約30万人の一般市民が参列した。墓所は文京区の護国寺にある大隈家墓所に加え、生まれ故郷の佐賀市の龍泰寺にもある。
第五章 三大教旨
1 小野梓と学問の独立
・早稲田大学の教育の基本理念は「学問の独立」、「学問の活用」、「模範国民の造就」である。
・大隈は「建学の父」とされ、小野梓は「建学の母」とされている。開校式では「学問の独立」を宣言した。
・小野の「学問の独立」は国民精神の独立、一国の独立につながっており、西欧世界に対する自立の要求と、日本のナショナリズム(忠君愛国)ではなく、「国民が主権を持ち、自ら政治を決める」ということを訴えていた。
・「学問の独立」の実現には、講学の便宜を計ること、講学の障碍を取り除くことの二点を提起し、前者は皇室財政からの経済的な支援策、後者は邦語(日本語)教育を挙げた。これは東京大学で行われる英語での講義ではなく、日本語による講義である。ただし、同時に英語教育にも力を注いだ。このことは当時の多くの学生を惹きつけた。
2 創立三十年
・早稲田大学教旨は現在、「Waseda Vision 150」を掲げ、2032年の創立百五十周年に向けた教育と研究の体制整備の原点としている。
画像出展:「Waseda Vision 150」
第六章 留学生・女性教育とスポーツ
1 清国留学生部
・孫文など早稲田大学で学んだ中国人には、中国国民党を率いる孫文、さらには中国共産党の革命に大きな影響を与えた人物が数多く存在する。
・宗教仁は袁世凱の独裁に対し、民主的な議院内閣制の必要性を主張し、革命組織を改変して国民党を結成した。しかしながら、袁世凱により暗殺された中国政治は大きな転換点を迎えることとなった。
・孫文、宗教仁、陳独秀(中国共産党初代総書記)、蔡元培(北京大学総長)、彭湃(中国農民運動の先駆者)、廖承志(中日友好協会会長)等、中国の革命や日中国交正常化に関わった中国人が多く早稲田大学の出身者であったため、今でも中国から多くの留学生が早稲田大学に学びにやってきている。
2 女性教育の拡大
・大隈は女性の社会参加のためは、実業思想の普及が必要であるとし、そのための教育・教養が求められているとした。そして、共働きは文明の進歩に伴って必然化するとして、女性の労働への参画と学問習得の意義を強調した。大隈の機関紙であった「報知新聞」では他社に先駆けて二人の女性記者を雇用した。
・女性参政権については以下のように男女同権の視座から女性に参政権を認めるべきと主張した。
-「男女の間に優劣がなく、人格が同様である以上、是にも、選挙権を与へるのは当然の事で、殊に婦人たりとも、一家を創立し、租税を納むる限りは、選挙権は納税の義務に対する権利であるから、婦人にも此権利を与ふできであろう。」
・第二次大隈内閣で文部大臣になった高田早苗は、1915年に女性の大学教育を制度化する構想を発表した。この背景には1914年の欧米への視察旅行があった。欧米の大学では多数の女性が学んでいる事実に驚愕した。これにより高田は女性への大学教育の有無は、国家の衰退、文明の進退に関わる重要なことと認識し、日本における女性への大学教育を構想した。
・日本の戦前の教育システムにおいて、女性は高等教育から排除されていた。現在の津田塾大学や日本女子大学なども法令上は専門学校という位置づけであった。高等教育機関で最初に女子学生を正規学生として受け入れたのは1913年の東北帝国大学だった。その後も1917年に東京帝国大学が聴講生として受け入れた事例はあるものの、あくまでそれは例外的な措置であった。
・早稲田大学の女性教育は、1921年に聴講生として12名を受け入れたのが始まりだった。1920年の大学令による大学への昇格に合わせて、早稲田大学は正規学生として女性の入学を検討したが、文部省の反対にあって至らなかった。
・早稲田大学における女性の正規学生としての受け入れ開始は1939年だった。法学部に1名、文学部に3名が早稲田で学んだ。そして、1945年までに政治経済学部に1名、法学部に4名、文学部に51名の女性が学んだ。入学者が少なかった理由は、女性自身の大学教育への必要性が十分に高まっていなかったこと、および予科としての高等学院が女性に開放されていなかったことなどが指摘されている。
・1949年、新制大学制度が本格的に実施されると、入学資格は新制高等学校卒業者となり、入学資格や入学順位は完全に男女平等となった。
3 文武両道
・大隈は全学生を収容できる大講堂が必要であると訴えて1927年に完成したのが大隈講堂である。
・大隈は「一生自己の力のあらん限り、勉強を続けて行かなければならぬ」と学生に叱咤激励したが、体育の重要性についても言及した。
-「この健康を保つということについては種々な方法がある。近来はこれが頗る進歩した。すべての筋肉を動かすところの体操の如きも大いに進歩している。大いに研究されている。ところが少し本を読む人は体操を軽蔑する。あれは甚だ宜しくない。なんでも一日の中に一時間か二時間は無邪気に盛んに運動するが宜しい。その方が勉強しても早く理解する。矢鱈に本を見てもどうかすると理解が出来ぬ。これは懶惰な勉強をしない人の口実にするところであるが、しかしその中にも一分の真理はある。身体さえ強くなっておれば読んだものを直ぐに消化する、直ぐ理解する。そうして記憶力が盛んなる。かくの如き勉強法は、何時までも継続する。弱い身体の付け元気は永持がしない。この学校に於て体育を奨励するその方法は今研究中で、早晩これを発表されるということを聞いて大いに我が意を得たるものであると喜びに堪えぬ。—「始業式に臨みて」早稲田学報 315号(1921年)」
・東京専門学校は1882年の学校創立直後から、さまざまな運動や武術に取り組んできた。開校翌年には王子の飛鳥山で運動会が行なわれた。
・1895年には早稲田大学体育各部の源流である早稲田倶楽部が設立された。内容は武術が中心であり、撃剣、柔道、相撲などであった。「体育」は知育と徳育が一体化したものという考え方が重視され始めた。
4 オリンピックとラグビー
・早稲田大学の、そして日本人として最初は金メダルリストが三段跳びの織田幹雄であった。商学部1年生だった織田は1928年のアムステルダム大会で15.21mを跳び、金メダルを獲得した。
・織田は国内外の跳躍競技に関する文献や新聞記事、雑誌を収集し、最新の技術理論の吸収に努め、理論を吸収すれば直ちに練習で実践し、丹念に記録をつけた。
画像出展:「あの人に会いたい」
画像出展:「織田幹雄と早稲田大学競走部」
余談:私の名前である“幹雄”は父が“織田幹雄”から取ったとのことです。母は“公雄”、祖父は“昭三”を推したようで、どうやら、くじで“幹雄”に決まったと聞きました。とはいえ、特段、織田幹雄氏に関心はなかったのですが、織田氏を本書で見つけ、「そういえば早稲田だったなぁ」と思い、今回、少し重点的に調べてみました。とにかく研究熱心な方だったようですので、私も見習おうと思います。
第七章 早稲田大学の歩み
1 戦前に起源を持つ諸学術院
・『1949年、早稲田大学の新制大学への移行に伴い、高等師範部を前進として、私学では最初の教育学部が設置されます。しかも、当初から必ずしも教員の資格取得を義務づけない、いわゆる開放制の教育課程を実施していることは、教員養成のみを目的とする国公立の教育学部とは大きく異なります。個性を重んじ学問の自由を保証していることが、早稲田大学の大きな特色です。』
補足
1)議院内閣制
・大隈重信が議院内閣制(政党内閣制)を目指したのは、藩閥官僚中心の政府ではなく、議会・政党を通じて民意を政治に反映させる近代立憲国家を作ろうとしたからとのことです。その背景にあったのは、明治政府が薩長土肥などの藩閥と官僚が主導しており、上からの専制に偏る体制に限界を感じたためでした。
理想としたのはイギリスの議院内閣制であり、議会の多数党を基盤とする内閣が政治を担う体制を考えました。そのため、立憲君主制でも君主大権を強く残すドイツ(プロイセン)型ではなく、議会主権に近いイギリス流をモデルにすべきだと考えました。そして、1882年には立憲改進党を結成し、「イギリス流の議会政治」「漸進的・合法的な改革」「都市の商工業者や知識人の支持」を基盤に、政党内閣制の実現を目指しました。
大隈先生は1881年(明治14年)の政変で参議を免官され、明治政府中枢から追われて官職をすべて失い下野しましたが、下野後も、改進党などを通じて議院内閣制を訴え続け、1898年には憲政党を基盤とする日本初の政党内閣(第1次大隈内閣)を実現しました。
・日本で「英国流の議院内閣制」論を最初に理論的に提示したのは、大隈重信ではなく、福澤諭吉だとされています。整理すると、「英国型の議院内閣制構想の思想的元祖」は福澤諭吉、「それを国家制度として具体的に目指し、政党内閣という形で現実政治に落とし込んだ最初の政治家」は大隈重信ということです。
・伊藤博文も憲法制定の過程でイギリス憲法を調査し、議院内閣制の是非を検討しましたが、最終的にはプロイセン型の君主大権重視の憲法を採用し、制度としては議院内閣制導入を見送りました。これに対し大隈先生は一貫して英国流議会政治・政党内閣を理想に掲げた点で、明治前期政界の中では際立った存在だったようです。
2)議院内閣制を目指した福澤諭吉と大隈重信
・福澤諭吉と大隈重信は、イギリス流の政党政治・議院内閣制を理想として共有し、それを実現する方向でかなり意識的に協力して動いていていたようです。
福澤先生は『民情一新』『時事小言』などで、政党内閣制に基づく国会開設構想を理論化し、「英国流議院内閣制」による政権交代を制度化せよと主張しました。この言論は、まさに同じ英国流議院内閣制の導入を密奏しようとしていた大隈重信の路線を後押しする形になっており、福澤先生は大隈重信を支えるべく重要著作を続々と出したと評価されています。また、大隈先生は統計院設立などを通じて、矢野文雄・尾崎行雄・犬養毅ら慶應義塾出身者(福澤の門下)を登用し、自身の改革路線・議会政治路線の人材基盤としました。立憲改進党内にも慶應出身者が多く参加しており、「福澤の門下生が多いことが党の知的な雰囲気を形成した」とされ、福澤諭吉の人的ネットワークと大隈重信の政党づくりが密接に結びついていました。
ただし、「福澤と大隈が連名で議院内閣制案を政府に提出した」といった意味での直接の共同立案・共同上奏の例は一般には指摘されていないとのことです。
3)進取の精神
・早稲田大学の校歌「都の西北」の中で、まず思い浮かぶのは“学の独立”と“進取の精神”です。前者の“学の独立”はブログの中で触れていますので、ここでは“進取の精神”について調べたいと思います。
・議院内閣制もそうですが、教育においても、留学生の受け入れや女子教育に積極的だったことなど、従来からの慣習にとらわれることなく、物事の本質と向き合い、信念をもって目的達成に突き進むという姿勢を感じます。
早稲田といえば東伏見でした。午後3時からの練習に出るため、黄色い西武新宿線に乗って高田馬場にあるキャンパスに1限から行っていました。お昼は鈴乃屋で毎度の“肉天・卵定食”を飽きもせず毎日のように食し、パチンコ屋の前のバス停から練習時間に遅刻しないようにと東伏見を目指しました。その東伏見には歴史を感じさせるグリーンハウスという合宿所がありました。
およそ50年前、高校3年生の秋だったと思いますが、サッカー部(ア式蹴球部)主催の受験希望者を対象とした説明会がこのグリーンハウスで行われました。日は暮れ、グリーンハウスの外観はあまり覚えていませんが、古い建物と木製階段のきしむ音を覚えています。
このグリーンハウスはサッカー部のミーティングにも使われていました。そして、とんでもなく恐ろしい“新人歓迎会”もここグリーンハウスでした。
『グリーンハウスは1882年10月に東京専門学校が開校された時、学苑最初の木造洋館の校舎として建設されたものである。1902年に東京専門学校は早稲田大学と改称され、さらに1907年の早稲田大学第二期拡張事業の後文学部専用の校舎となり、多くの学生がここで学んだ。大教室の「文科第七番教室」では坪内逍遥が早稲田名物のシェークスピアを講じ、さらに島村抱月、高山樗牛(ちょぎゅう)といった名だたる講師がここで講義を行った。文学部専用校舎となる以前であるが、小泉八雲が最後の講義を行ったのもここであった。しかし1931年文学部に新校舎が建設される事となり、文学部旧校舎は東伏見運動場へ移築され、運動各部の合宿所として使用する事が維持員会で決定された。こうして多くの文学部学生が学んだ旧校舎は、体育各部の合宿所として多くの早稲田アスリートを育てる場となったのである。移築の際、外側の柱や横板、窓枠をエメラルドグリーンに塗装した事からグリーンハウスの愛称が定着した。以降グリーンハウスは多くの早稲田アスリートが練習に疲れた体を休め、友人と寝食を共にする卒業後も忘れ難い思い出の場所となったのである。しかしアジア・太平洋戦争中はグリーンハウスにも戦争の影が忍び寄った。ラグビー蹴球部の部員たちは1943年の学徒動員により学苑とグラウンドに別れを告げ戦場に赴いた。部員たちは戦時中グリーンハウスに備品を整理・保管していたが、OBに託してユニフォームを埋め、戦地へ向かった。無事に帰り、掘り起こしたユニフォームで練習を再開した部員たちもいたが、二度と帰らぬ部員たちもいた。グリーンハウスは戦争の悲劇を伝える場でもあったのである(早稲田ラグビー60年史編集委員会編『早稲田ラグビー六十年史』 1979年参照)。戦後も体育各部の宿舎として使用されたが、老朽化のため惜しくも1988年解体された。しかし1992年追分セミナーハウス(現軽井沢セミナーハウス)に新築復元され、今日大学関係者の宿舎・ゼミ室として利用されている。』
「懐かしい!」まさにこんな感じで日々練習していました。もちろん、後ろの建物がグリーンハウスです。この貴重な写真は『直助の球けり妄想記』さまより拝借しました。
この写真は1884年(明治17年)7月26日に挙行された東京専門学校第1回卒業記念の写真ですが、まさにグリーンハウスです。
東伏見のグリーンハウスは1988年(昭和63年) 老朽化により東伏見で解体されました。その後、1992年(平成4年) 軽井沢セミナーハウス内に新築復元という形で移されました。
画像出展:「集まれ!未来の科学者の卵たち!」
以上のように私にとっての早稲田大学は東伏見ということなのですが、この年齢になって、高田馬場にある早稲田大学および創立者である大隈重信先生について知りたいと思い、本書を購入しました。
目次
緒言
はしがき
第一章 大隈の受けた教育
1 砲術
2 朱子学
3 蘭学
4 英学
第二章 殖産興業
1 パークス
2 築地梁山泊
3 財政家
4 政変
第三章 政党内閣
1 東京専門学校
2 条約改正
3 隈板内閣
4 早稲田大学への発展
第四章 教育と文化
1 総長
2 文明運動
3 第二次内閣
4 国民葬
第五章 三大教旨
1 小野梓と学問の独立
2 創立三十年
3 早稲田騒動
4 津田事件
第六章 留学生・女性教育とスポーツ
1 清国留学生部
2 女性教育の拡大
3 文武両道
4 オリンピックとラグビー
第七章 早稲田大学の歩み
1 戦前に起源を持つ諸学術院
2 戦後に創られた諸学術院
3 戦後の総長
4 早稲田大学の目指すもの
さらに深く知りたい人のために
第一章 大隈の受けた教育
1 砲術
・大隈重信は幼名を八太郎といい、明治維新の直後まで八太郎という名を使っていた。
・大隈家は代々の砲術家であった。
・父は八太郎の時に病没し、八太郎は父の職を継いで砲術家になろうとした。後に、藩主の鍋島斉正が大隈の英才に注目して航海術を学べと勧めたとき、それを辞して兵法の修行を願った。
2 朱子学
・大隈が弘道館に対して否定的だったのは、朱子学以外が認められていなかったためと考えられている。
・「葉隠」は佐賀藩の教育を代表するもう一つの学問である。これは鍋島家の家臣である山本神右衛門常朝の談話を門人の田代陳基が整理したもので、享保元年(1716年)に脱稿された。本来は佐賀藩藩主に仕える者の心構え、および佐賀藩の歴史や習慣に関する知識を集めたもので、とりわけ鍋島家への徹底的な臣従が求められている。
のちに「葉隠」は、明治天皇の御覧を得、「鍋島論語葉隠」と論語を題名に加えることで教訓書としての性格を帯びた。そして、「武士というは死ぬ事と見付けたり」という有名な文章が、生命への執着を核とする自己愛が完全に捨て切られることにより、主君に対する心情の鈍化が成し遂げられると解釈され、「葉隠」は忠君愛国精神の象徴となっていった。三島由紀夫は、「葉隠入門—武士道は生きてゐる」(光文社、1967年)により、「葉隠」の魅力を伝えている。
・大隈は「葉隠」に対し、「奇異なる書」と位置づけ厳しく批判している。
-『余が始めて学に就きたる時代に於ける佐賀藩の学制は此の如くなるが上に、又其の窮屈に加味するに、佐賀藩特有の国是とも謂うべき一種の武士道を以てしたり。謂ゆる一種の武士道とは、今より凡そ二百年前に作られたる、実に奇異なものにして、而して其武士道は一巻の書に綴り成したるものにして、其の書名を「葉隠」と称す。其の要旨は、武士なるものは、惟一死を以て佐賀藩の為めに尽くすべしと謂ふにあり。天地の広き、藩士の多きも、佐賀藩より、貴且つ重なるものあらざるが如くに教へたるものなり。此の奇異なる書は、一藩の士の悉く遵奉せざる可らざるものとして、実に神聖侵す可らざる経典なりき。』
4 英学
・大隈は、致遠館で立憲政治家の基礎となる憲法を学んだほか、フルベッキからトマス・ジェファソンが執筆した独立宣言を学んだことが、やがて早稲田大学を創設する考えへと繋がった。
・『吾輩(大隈)は若い頃長崎に遊学して、そこで、オランダ人でアメリカに帰化した宣教師のフルベッキ氏から、オランダ語と英語を教わった。そのときフルベッキ氏がテキストとして用いたのは聖書であった。そこで吾輩は、ぜひ政治に関することを書いたものを読みたいと思って懇請したところ、フルベッキ氏が新たにテキストとして用いたのは、トマス・ジェファソンの執事になる合衆国の独立宣言であった。これを読んで吾輩は、民主主義の思想を知り、それが基礎となって民主主義を信ずるようになったのである。ところが、ジェファソンはその後、合衆国に民主主義の政治を実行するためには、青年を教育することの必要を感じて、ヴァージニア大学を創設された。そこで吾輩も、ジェファソンと同じ考えの下に、早稲田大学を創設したのである。—早稲田学報 610号(1951年)』
・1970年、早稲田大学第九代総長の時子山常三郎は、1982年の百周年に向けて「早稲田大学百年史」を編纂した。
画像出展:「早稲田大学百年史」
・大隈が早稲田の建学時に掲げた「学問の独立」は、ヴァージニア大学の「人間精神の無限の自由」の影響を受けていると考えられている。
第二章 殖産興業
2 築地梁山泊
・大隈は明治二年(1869年)、旧旗本の三枝七四郎の次女である綾子と結婚し、築地の旗本の戸川安宅の旧邸を政府から拝領した。築地本願寺の脇にある約5000坪(約16,500㎡、サッカーグラウンドの2面以上)の広さをもつ広大なお屋敷であった。そこは築地梁山泊と呼ばれていた。梁山泊は中国の歴史小説「水滸伝」に出てくる。
・伊藤博文は大隈邸のすぐ隣にある小邸宅に住み、井上馨は大隈邸にある小屋を借りていたので三人は明治政府の進歩派、急進派として親交を結んだ。書生暮らしの気軽な二人は大隈邸の裏口から入ってきては、台所で勝手に物を作らせて自由に食っては帰り、朝から晩まで政治改革の議論で盛り上がっていた。
・山縣有朋、五代友厚、渋沢栄一、前島密など日本の近代化を指導する人々が大隈邸で常に議論し合っていた。
3 財政家
・1873年、征韓論をめぐり明治政府は分裂した。征韓論は幕末から明治初期に唱えられた朝鮮侵略論ことである。大隈は征韓論には反対だった。これは国内で改革すべき課題が山積であり、厳しい財政状況のもと他国と戦争を起こすことはできないと考えていた。
4 政変
・大隈と福澤が急速に接近したのは、西南戦争後のインフレの対策を通じてのことだった。福澤は大隈の紹介により地方の富豪を大勢連れて大蔵省の金庫を見学し、政府財政の信用を高めようとした。また、福澤は「通貨論」を著して、金銀よりも紙幣の方が通用に便利であり、政府に信用があれば、準備金が少なくとも紙幣の発行に不安がないことを論じている。大隈財政を言論により民間から後援しようとしたのである。一方、大隈は福澤の優秀な門下生を政府の役人に就けた。最初に福澤から推薦された矢野文雄は、大隈が創設した大蔵省の会計検査院に勤務している。こうして福澤門下の多数の俊英を得た大隈は、彼らを担い手として議会の開設を実現させようと考えていった。
私は鍼灸において①自然治癒力、②経絡、③氣、を三本柱と考えています。そして、①「自然治癒力:ストレス適応と栄養代謝(栄養代謝とは消化・吸収・代謝を意味しています)」、②「経絡:経絡≒ファシア」、「氣:氣≒シグナル伝達分子(特にセロトニン、GABA、アセチルコリン、メラトニン、ドーパミン)」であると考えています。もし、ご興味あれば“氣とは何だろう44(まとめ)”をご覧ください。
しかしながら、この中の「経絡≒ファシア」には考えなければならない問題があります。それは経絡の代表ともいえる経脈や経脈上に存在している経穴(ツボ)が有する主治をどう考えるかという点です。今回もあくまで個人的な考えということになりますが、考えてみたいと思います。
本間祥白先生は、特に経絡治療の理論と臨床の体系化・普及に大きな功績を残した人物として知られています。1961年には、柳谷素霊先生に次いで二番目の日本代表として、ドイツ・ミュンヘンで開かれた国際鍼学会に招聘され、「陰陽五行による日本の鍼灸」という題で講演されました。
まず、最初に思ったことは正経十二経脈の流注(流れ)について詳しく勉強する必要があると考えました。そこで見つけたのは『古典から学ぶ 経絡の流れ』という本です。著者は浅川 要先生ですが、浅川先生は私が学んだ“東京医療福祉専門学校”の教員であり、浅川先生の講義を受講していました。
目次
まえがき
凡例
主篇
●手太陰肺経の循行
●手陽明大腸経の循行
●足陽明胃経の循行
●足太陰脾経の循行
●手少陰心経の循行
●手太陽小腸経の循行
●足太陽膀胱経の循行
●足少陰腎経の循行
●手厥陰心包経の循行
●手少陽三焦経の循行
●足少陽胆経の循行
●足厥陰肝経の循行
●任脈の循行
●督脈の循行
付篇(参考資料)
●経絡系統一覧
●十四経脈循行図
●経絡に関する基本知識
●経絡循行に関する用語一覧
●経絡の循行に関する基本的字句
●経絡表記の変遷
●経別の循行経絡と六合表
●絡脈循行一覧
●十二経脈の属絡関係と起点部位
●十二経脈の標本関係
●足六経脈の根結関係
●六陽経の根溜注入関係
●十四経脈の病候
●『新版 経絡経穴概論』の経絡流注
●経絡循行に関する歴代の論争点のいくつか
まえがき
・『「鍼灸甲乙経」「銅人腧穴鍼灸図経」「鍼灸大成」など歴代の鍼灸書には、各経穴に「主治」と@「刺灸手技」が記載されている。そして、その主治の多くは「経脈の通じる所は、主治に及ぶ所」という慣用句で言い表されているように、経穴が所属する経絡の循行部位における病症である。たとえば手陽明大腸経の合谷穴は、「四総穴歌」(明代の「乾坤生意」出)に「面口合谷これを収む」とあるように、顔面の様々な病症を主治できるが、これは大腸経が手指から前腕、上腕を通って顔面部まで循行しているからにほかならない。
しかし、大腸経各穴の主治を1つひとつ見てみると、たとえば同経の商陽穴では、「耳鳴、耳聾」が主治にあげられている。常識的には、大腸経は「上りて鼻孔を挟む」ところで終わっていて、大腸経の循行には耳とのかかわりが出てこないのだが、商陽穴はなぜ、耳の病症を治すことができるのだろうか。
これは要するに、「其の別なる者、耳に入りて、宗脈に合す」と「霊枢」経脈篇にあるように、大腸経の絡脈が耳に入っているからである。したがって大腸経には、耳に関係する経穴が存在するのである。同様に、足三里穴の主治に「目不明」があるが、これは、胃経の経別(別行する正経)が目系につながっているからにほかならない。
こうして見てみると、各経穴の主治を各経脈の循行を視野に入れて考える際には、本経のみではなく、絡脈や経別までを含めて、体系的に経絡をとらえなければならないのであろう。
翻って、日本の鍼灸学校における現行の教科書「新編 経絡経穴概論」は、経穴解剖学的位置については詳細に述べられているが、歴代の鍼灸書に登場する「主治」や「手技」がまったく示されていない。これは、道具の説明書において、その道具がなにに使うものなのか、どのように使うのかを記していないに等しいことである。さらに、各経穴が「主治」を欠くことによって、十四経の各経ごとに冒頭に書かれている経脈流注は、その後に続く所属の経穴と結びつかず、流注説明は単なる飾り物でしかなくなってしまっている。さらに流注説明も絡脈や経別を省くことによって、学生が経絡流注の全貌を知るには程遠いものとなっている。
もし、東洋医学にもとづく鍼灸治療を志すならば、経穴の主治に依拠するだけでなく、その経穴が所属する経絡の流注に着目しなければならず、さらには、その経絡循行の理解は絡脈や経別も含めた全体的なものでなければならないであろう。』
『各経穴の主治を各経脈の循行を視野に入れて考える際には、本経のみではなく、絡脈や経別までを含めて、体系的に経絡をとらえなければならないのであろう』
まず、この浅川先生のご指摘を考えたいと思います。
画像出展:「経絡の流れ」
経絡は経脈と絡脈に分かれ、経脈は更に正経十二経脈と奇経八脈に分かれ、その正経十二経脈を補完するようなものとして、十二経別、十二経筋、十二皮部があるという全体像になっています。
続いて、“絡脈”や“経別”など「経絡系統一覧」に記載されている全てについて個別に調べてみました。
経絡は“縦”x“横”x“深さ”からなる立体であり、体の表面から内臓に至るまで網の目のように覆っています。経絡の代表的存在である正経十二経脈と奇経八脈である“任脈”と“督脈”を加えた計十四の経脈を経絡そのものとして語られることが非常に多いのですが、あくまで「十四経脈∈経絡」であり、「十四経脈≠経絡」です。これは経絡を理解する上でとても重要なポイントです。
“体”を“日本の国土”とするならば、“経絡”は“全ての道”に相当すると思います。ただし、“経絡”は体内の内臓にも繋がっているので、それを考慮すると地上だけではなく、地下深くまで“道”があって自由自在に行くことができるということになります。
山梨県の河口湖インターから中央高速に入り、高井戸出口で環状八号線に出て、国道17号線から463号線、そして市道といった具合に道を進むと自宅につきますが、中央高速が経脈、高速道路を含めた日本にある全ての道が経絡というイメージで私は考えています。
なお、「経絡は“縦”x“横”x“深さ”からなる立体であり、体の表面から内臓に至るまで網の目のように覆っています」。ということが、私が「経絡≒ファシア(膜)」であると考える理由です。
※ファシア:一般社団法人 日本整形内科学研究会さまのサイトに詳しい説明が出ています。
続いて、高速道路に相当する十四の経脈上にある経穴と主治について表にまとめてみました。
●(経絡上)は38.8%、●(経絡の近く)は23.7%、●(経絡から離れたところ)は37.5%です。●+●は62.5%です。●が最も多い場所は“頭”で155、これは●の42.8%です。この“頭”に含まれる主治は、頭痛、偏頭痛、失神、片麻痺、高血圧、慢性疲労、めまい、神経衰弱(不安障害など)、小児麻痺、精神病、後頭痛、熱中症、うつ症状、睡眠障害の計14疾患になります。これらの疾患は頭から離れた経穴からの刺鍼でも効果があるということになります。
このことは古くからの経験則という単純なものだけではないと思いますが、勉強不足のためご説明することはできません。一方、私自身は経絡は立体であり、日本の国土を“体”とすれば“経絡”は「日本に存在するすべての道」のようなものと考えているので、どこからの刺鍼でも頭部にたどり着くことはできるはずであるという理屈になります。
以下は東亜医学協会さまのサイトです。古典に掲載された経穴の情報が確認できます。
画像出展:「鍼灸経絡図・図版資料データベース」
また、『経絡の流れ』に掲載されていた十四経脈(十四経脈∈経絡)をご紹介させて頂きます。
次に、現代医学的にこの離れたところ(例えば手足)からの刺鍼がどのようなメカニズムで頭部にたどり着くのかを考えたいと思います。
体性—自律神経反射には分節性反射(脊髄反射)と全身性反射(脳幹反射)があります。
■分節性反射(脊髄反射): 刺激した皮膚に近い内臓に反応が出る(腹部の刺激で胃の動きが変化)。
■全身性反射(脳幹反射): 手足の刺激等が全身の循環や呼吸に影響する(手足の刺激で血圧上昇)。
このことは、お腹に刺鍼すれば分節性反射(脊髄反射)で胃や腸に影響を及ぼす。手足に刺鍼すれば全身の循環や呼吸の変化を通じて各臓器に影響を及ぼすことができるということです。
英語の動画ですが、刺鍼による脳の反応をみる実験です。
『鍼治療が脳の複数のレベルで大脳辺縁系-傍大脳辺縁系-大脳新皮質ネットワークと、それと相関する感覚運動/傍大脳辺縁系ネットワークを活性化し、血行動態反応が心理物理学的反応の影響を受けることを示しています。』
まとめ
私のイメージは以下の通りです。
1. 経絡は“道”である。一般的に経絡と認識されている十四経脈は経絡の一部にすぎず、“高速道路”のような最も重要な“道”といえる。
2. 経絡は体表から体内まで張りめぐらされており、刺鍼によって離れた部位に影響を及ぼすことは可能である。
3. 現代医学的に考えると、刺鍼によって体性‐自律神経反射が発生する。このメカニズムには脊髄が関わる分節性反射と脳幹が関わる全身性反射の2つがある。後者の全身性反射は①ホメオスタシス維持(血圧・循環調節)、②ストレス防御、③体温・発汗・呼吸の統合調節、④心身状態(情動)との連動。という効果が期待できる。
一方、例えば足の陽明胃経という経脈の経穴(ツボ)への刺鍼が、特に“胃”に影響を及ぼすのかどうかということを明らかにすることはできませんでした。しかしながら、全身性反射(脳幹反射)を通じて、臓器の働きを良くする効果はあると言えます。
広岡氏は巨人軍の有名な遊撃手(ショート)でしたが、巨人の熱烈なファンであった私の小学校時代の遊撃手は黒江選手でした。そのため広岡氏は巨人というより、西武ライオンズの厳しい監督という印象です。
この本は、その題名と広岡氏が中村天風先生と藤平光一先生を“師”と仰いでいるということに興味を持ちました。本書の中で中村先生は“人間学の第一人者”として、藤平先生は“心身統一合氣道の創始者”として紹介されています。
目次
まえがき
1章 93歳、積極的に生きる
●体は衰える。だが、学びの収穫は大きくなる
●人をけなさない。HOW TO DOを必ず添える
●自主性の尊重は、好き勝手を許すことはではない
●天才だからいい、才能がないからダメ、ではない
●女房の死、自然治癒力を無視すれば体は弱る
●人の死で金勘定をされると思うと、おちおち死ねない
●寝小便など氣にするな。誰もが育つから大丈夫
●人生は心が決める。不遇も幸せも自分次第
●人生が変わった! この世になにをしに来たの?
●中村天風の教えは、なぜ生き続けるのか
●病院を頼りすぎない。自然治癒力をもっと信じて
●病氣のときにも、「ありがとう」と感謝する
2章 野球が教えてくれた、大切なこと
●海軍の父の教え。ひとりが手を抜けば艦は沈む
●ひとりで育つわけではない。積み重ねて今がある
●死なない限り生きている。生命は生きようとする
●心の隙を生まない方法。ただひとつ、鍛えるしかない
●運のいい人と悪い人、違いは選ばれた場所でどう取り組んだか
●プロは食うか食われるかの世界。甘ちゃんは追い出される
●川上哲治さんとの確執の噂。本当はどうなのか
●強いチームは懐が深い。蹴落とすのではなく磨き上げる
●今だけ、この場だけ、自分だけ。目先優先では未来は危うい
●「ボールが止まって見えた」という神様・川上名言の真相
●心と体の使い方を知らないと、技術は高まらない
●ライバルは蹴落とすのではなく、切磋琢磨する存在だ
●固執すれば流れは淀み、全体が腐っていく
●人生はなるようになる。だから憂えることなかれ
3章 人間を育てる、広岡の流儀
●野球解説者になろう。ただしやるなら本氣で
●本氣でやると、不運も幸運に転じてくる
●根氣よく教えれば人は必ず育つ。あきらめた時点で終わり
●よい面を見ればよい面が伸びる。悪い面を見れば悪い面が伸びる
●ぬるま湯に浸っている甘ちゃんは冷水に放り込めばいい
●本氣だから鬼になれる。本氣にならなくては伝わらない
●弱小チームにいるからこそ、多くのことを学べる
●ローテーションの分業制は、投手を本氣にさせる制度
●自然食にすると動作は俊敏になり、ケガも減る
●肉を食べないライオンズ。事実はそうではない
●本氣は伝播する。氣はエネルギーなり
●内臓に負担をかけない。体力が必要なプロ選手なら当たり前
●心に迷いがあると体も迷い、能力を発揮できない
●組織を強くするには、味方になる人をふたり置く
●チームに緊張感があると、ごまかしが利かなくなる
●リーダーには「向き・不向き」がある
4章 すべては心が決めている
●死を宣告されてもやれることをやる
●すべては心の持ち方なのだ
●無念無想ほど強いものはない
●あらゆる力は氣から生まれる
●凝り深い私が本物と認めたふたり
●来た球を、ただ打てばいい
●臍下の一点とはどこにあるのか
●正しい心の持ち方と氣の原理を知れば、迷いはなくなる
●王貞治の一本足打法は、心身統一合氣道から生まれた
●二本足でふらつくなら一本足にしたらいい
●心身統一の四大原則と私の「心身統一野球道」
●「やる」と決めると本当にできる
●ふたりの師匠はとても人間味があった。
5章 天風直伝
●天地自然の健康法
●年齢に応じた食事とお酒、果物の効果
●無理して食べたら、逆にパワーが出なくなる
●唾液の効用。よく噛むほど健康になり、力も出る
●感情と血液の関係。積極的な心は血液をよくする
●心身統一。健全な精神が健全な肉体をつくる
●消極的な心でいると病氣になる
●医者が治すのではなく、自分で治すのだ
●睡眠中に生命エネルギーを取り入れる
●すべての関節を動かして、体に血液を巡らせる
●病氣は自分がつくる。それに氣づかないと治らない
●自分の体のことは、自分で責任を持つ
●食事は植物性本位にすることが、無病長寿の秘訣
●動物性食品を摂り過ぎると体は衰える
●逃げ道をつくらない。自然は弱氣な人をもっと弱くする
6章 人生が好転するたたひとつの方法
●太陽はどんなときも照らしてくれる。受け入れるか拒むかは自分次第
●丁寧な準備があるから、流れる動作ができる
●自然な動きを考えたら、なにが正しいかわかる
●負けたときには、氣を出すように仕向ける
●いい人と悪い人。付き合ってみなければ真実はわからない
●自分を高めるためにはライバルをつくる
●ライバルは自分でつくる。人のよさを認められる人は強い
●好き嫌いをせず公平に教える。育つかどうかは本人の問題
●どんな選手も育つ。早いか遅いかの違いだけ
●過去の遺産で生きるなかれ、自分で学ぶとぶれなくなる
●自分に固執せず、自分を活かすことを考える
●嫌いな人がいるのは仕方がない。でも嫌いな人にも声をかける
●知らないうちに人の元氣を奪う人。人を元氣にさせる人
●苦しい欲望と楽しい欲望。どうせなら楽しい欲望を持って生きる
あとがき
1章 93歳、積極的に生きる
●天才だからいい、才能がないからダメ、ではない
・「この選手はこうすれば必ず伸びる」「このチームはこうすれば勝てる」という根拠と信念を持たない人は、指導者になるべきではない。また、「なんとしてでも伸ばしてやる」という気概のない人も、同様に指導者には向いていない。
・負けていたチームが少しずつ勝てるようになると、「監督のことは嫌いだが、言っていること、やっていることは正しい」という声が聞こえるようになる。このような段階にくると、選手もチームもどんどん変わっていく。選手は「俺たちはできる。勝てる」と思いはじめるので、厳しい練習も自ら率先してやるようになる。
●人生は心が決める。不遇も幸せも自分次第
・『どんな人生を歩むかは、心が決めています。仮に、「私は不遇だ」と思って生きたら、人生は不遇なものになるでしょう。不遇だと思っている人は、不遇な行為を選んでいるからです。それが積み重なれば、不遇な人生になっていくのは当たり前のことでしょう。ところがこの簡単な“道理”がわからない人が多いのです。』
●病院を頼りすぎない。自然治癒力をもっと信じて
・医者は「心の持ち方が人を病氣にもするし、元氣にもする」という天地自然の法則を知る必要がある。医者は人間を診るのが仕事である。ところが、人間を見ずに病氣だけを見ていると患者は不安になり、病氣は悪化する。
●病氣のときにも、「ありがとう」と感謝する
・心の持ち方や考え方、行動に何らかの間違いがあるから病氣になる。病氣はそれを教えてくれるものである。
・病氣になったことで間違いに気づき、改めることができる。病氣にならなければ、そのまま間違った考えを行動を続けてしまう。疲れやストレスも同様である。ストレスは「これは危険だ」、「これ以上やるな」と知らせるサインである。
・病氣なっても自分の力で癒せるよう、そして病氣をできるだけ近づけぬよう、心と体を整えておくことが大事である。
2章 野球が教えてくれた、大切なこと
●運のいい人と悪い人、違いは選ばれた場所でどう取り組んだか
・『与えられた役割で自分を磨き続ける―。世間の人はよく「運がいい」とか「運が悪い」とか言います。でも、運とは、運ばれてくるものではありません。運ばれた場所で、いかに努力をするかだと思います。やるべきことをひとつひとつ、心を込めてやるから運がよくなるのです。反対にやるべきことをやらないと、運が悪くなります。
もちろん、嫌な環境に運ばれてしまうこともあります。しかし、そこで不貞腐れたり、文句ばかり言って手抜きをしていたら、運の悪いままです。そこで「なにくそ」と奮起したり、目の前の課題と必死に向き合っていれば、なぜかおもしろくなってきます。自然と力もつくし、人から認めてもらえたりします。運がよくなってくるのです。不思議ですけれど、これは天地自然の法則なのだと思います。』
●固執すれば流れは淀み、全体が腐っていく
・考えて、実践して、失敗する。また考えて、実践して失敗する。そうやって、何度も何度もくり返して掴んだものでなければ、自分のものにはならない。
・先達が自分の利益だけを考え、ポジションに固執すれば、後進の歩みは止まる。それどころか全体が滞り、腐っていく。それは未来を危うくすることでもある。
3章 人間を育てる、広岡の流儀
●心に迷いがあると体も迷い、能力を発揮できない
・迷いがあるうちは力を出せない。しかし「これは正しい」と思うと心が決まる。こうなると本来の能力を発揮することができるようになる。
・指導者は自分の進むべき道は正しいと信念を持つことが必要である。指導者に迷いがあれば選手も迷ってしまう。
●リーダーには「向き・不向き」がある
・リーダーになるために1番大切なことは「動機」である。「人を自分の思い通りに動かしたい」などと考える人はリーダーには向いていない。
・「ひとりひとりの持っている力を引き出したい」と思う人はリーダーに向いている。
・「人のため」にリーダーになる人は、個人の能力や性質をよく見抜き、どう伸ばすか、組織にどう活かしていくかを考えられる。
・リーダーは「誰になんと言われようと、やるべきことはやる」という揺るぎない“実行力”が求められる。つまり、リーダーの覚悟が問われる。
・自分本位だと“我が身可愛さ”のあまり心が揺らぎ、迷いが生じる。一方、世のため人のためという他社本位だと、心がきまる。自分を捨てて、他者のために働けるリーダーは本物である。
5章 天風直伝
●感情と血液の関係。積極的な心は血液をよくする
・「感情と血液の関係」はとても興味あるものですが、内容を拝見したところ少し疑問があったので、ここはネットにあった情報とAI(Perplexity)の回答をご紹介させて頂きます。
画像出展:「Frontiers」
『ここでレビューした研究の結果は、心血管の健康における心理的幸福の重要性について多くの証拠を提供しています。健康な個人とCVD患者の両方において、肯定的な心理的構成と健康指標の改善との間に関連が認められています。』
6章 人生が好転するたたひとつの方法
●ライバルは自分でつくる。人のよさを認められる人は強い
・素直な人間は、人を認めることができる。人の良いところを素直に認めて学び、自分の悪いところは素直に認めて直す。そのような人は確実に伸びる。
感想
ブログでは、主に「人の成長」に必要な要件と、リーダーにとって必要な資質に焦点をあてました。一方、非常に興味をもったのは、“中村天風先生”という偉大な人物です。
中村先生が自ら書いた本『真人生の探求』の第四版を“日本の古本屋”で見つけ購入しました。
画像出展:「中村天風とその足跡」
『明治9(1876)年生まれ。
日露戦争の軍事探偵として満蒙で活躍。帰国後、当時不治の病であった肺結核を発病し、心身ともに弱くなったことから人生を深く考え、人生の真理を求めて欧米を遍歴する。
一流の哲学者、宗教家を訪ねるが望む答えを得られず、失意のなか帰国を決意。その帰路、奇遇にもヨガの聖者と出会いヒマラヤの麓で指導を受け、「自分は大宇宙の力と結びついている強い存在だ」という真理を悟ることで、病を克服し運命を切り拓く。帰国後は実業界で活躍するが、大正8年、病や煩悶や貧乏などに悩まされている人々を救おうと、自らの体験から“人間の命”の本来の在り方を研究、「心身統一法」を創見し講演活動を始める。』
画像出展:「心身統一法とは」
『人間は誰でも、大した経験や学問をしなくても、完全な人間生活、いわゆる心身を統一できる人間であれば、男でも、女でも、だれでも、ひとかどの成功ができるようになっているのである』
(中村天風『運命を拓く』より)
歯周病の区分は次の通りです。
これを見ると私の歯周病は「軽度歯周炎」でした。対策は歯周病用の薬用歯磨きと歯ブラシを使い、1日2、3回、丁寧な歯磨き(10分以上)をすることでした。これを実践した結果、歯周病の症状(出血、腫れ、口臭)はなくなりました。ただし、これは「完治」ではなく、「治癒し安定した状態」と考えるべきとのことです。
以前は、誤って口腔内を傷つけてしまった場合、必ず口内炎になってしまっていたのですが、丁寧な歯磨きを行うようになって以来、口腔内の衛生状態が改善されたためと思いますが、口内炎にならず治癒するようになりました。なお、一点補足すると、口腔内を傷つけてしまった場合、就寝時に口腔内を乾燥させないように(口呼吸にならないように)、「鼻呼吸テープ」を3日間程使うようにしています。
幸い、歯周病は改善したのですが、歯周病を勉強するために数冊の本を買っていました。以下の本はその中の1冊ですが、書かれていることが斬新だったため調べてみました。
目次
第一部 歯周病の謎が解けた!
第二部 新治療法の普及を目指す現場から
新治療の効果に驚く歯科医師からの報告
歯周病が治った、驚いた! 患者さんの体験
Q&A
本書の「まえがき」に以下のような記述があります。
『歯周病といままでいわれてきた疾患はカンジダによって歯ぐきが食い荒らされ、そこから侵入した細菌が二次感染を起こしていたのだということがわかりました。
したがって、通称歯周病は、「口腔カンジダ症」の一病態であって、歯周病という疾患は存在しません。歯周病の症状を呈するいくつかの疾患の病態に対して、これらを一つの疾患と混同して、その状態に対して歯周病と俗称しているに過ぎないのです。』
この見解は一般的に考えられている歯周病とは異なるものです。そこで「国際歯周内科学研究会」と「日本歯周病学会」の見解を比較してみることにしました。
国際歯周病科学研究会
●「当会では下記文献に基づき、カンジダは歯周病の悪化に関与する増悪因子と捉えています。」
●歯周内科治療では「細菌・真菌・原虫などを特定し、それらに感受性のある薬剤を選択して微生物叢を綺麗な状態に改善する」治療と説明されています。
日本歯周病学会
●歯周病の主因・原因菌
日本歯周病学会は、歯周病の病因を「歯周ポケット内の細菌性プラーク(嫌気性グラム陰性桿菌など)によるバイオフィルム感染」と位置づけており、カンジダ属はここには含めていません。
●カンジダ属の扱い
カンジダは「口腔カンジダ症・義歯性口内炎などの日和見感染の原因真菌」として、主に高齢者・免疫抑制患者のリスク因子として別枠で扱われています。
歯周病の病原微生物としては、学会レベルでは採用されておらず、「歯周病カンジダ病原説」や抗真菌薬有効説についても、「学会としてエビデンスを認めていない」旨の解説があります。
●「無関係」とまでは言っていない
口腔カンジダ症と歯周病が同じ口腔内に共存し得ること、重度歯周病患者でカンジダ検出率が高いことなど、関連の可能性を示す研究は多数ありますが、系統的レビューでも「関連は強いが、病因としての正確なメカニズムは未解明」と結論づけられています。
ご参考:“慢性歯周炎患者におけるカンジダ属の検出”
『偏差値45からの東大合格 成績アップは「国語」で決まる!』の著者である神田直樹氏は、中学時代はドイツ・ミュンヘンの日本人学校に通い、帰国後NHK学園高等学校(通信制)に進学し、東京大学文科一類に合格されました。そして、現在は、個別指導塾「ヨミサマ」を運営する株式会社Overfocus代表取締役をされています。
画像出展:「東大新聞オンライン」
画像出展:「ヨミサマ」
本書に関心を持ったのは、単純に「凄い!」ということと、「国語が決め手とはどういうことだろう?」という疑問に加え、ブログ“英国のエリート教育”で知った、英国の“ザ・ナイン”と呼ばれている伝統校では昔から「文書作成」に力をいれており、この英国エリート高校の取り組みと神田氏の取り組みには何か共通点があるのだろうかと考えました。
目次
Prologue
国語の勉強法を確立させて偏差値45から完全独学で東大合格
Part1
成績アップに直結!「記憶」は国語力がモノをいう
Part2
成績を底上げする「語彙力」の高め方
Part3
全科目成績アップにつながる「問題集」との上手なつきあい方
Part4
国語が得意な人の「問題文」の読む方
Part5
国語が得意な人の「問題文」の解き方
Part6
国語ができる人の「仮説」の引き出し方
Part7
多くの東大生が実践した国語力を高める「対話勉強法」
Part8
成績をみるみる伸ばす「勉強習慣」のつけ方
Part9
わが子の成績を伸ばすために親ができること
Epilogue
自分の人生を選び取るための武器となる「国語」
『「頭がいい=国語力が高い」―僕はそう思っています。国語力を総合的に磨いておけば、それ以外はすべての科目の理解度も深まり、試験の成績も上がります。』
この「理解する力」、「熟考する力」、「伝達する力」の3つが重要であり、これらの力をつけるために神田氏は国語力を磨きました。読書は哲学書を中心に1日11時間、4ヵ月で200冊ほどの本を読んだとのことです。つまり、神田氏の国語力とは主に読解力を指していると思います。
ここで疑問に思ったことは、「読解力」と「文章作成力」はそれぞれ、どのような力を向上させるものなのかということです。
本を読むことも文書を書くことも知性を磨くうえで極めて重要ですが、「読む力」はパッシブ、「書く力」はアクティブな力だと思います。
昭和40年代、国語の授業で作文はありましたが記憶に残っているのは「感想文」くらいで、文章を書くことはあまり多くはなかったように思います。
そこで、今の日本はどうなのか、また欧米と比べてどうなのか調べてみました。
これを見ると、日本と欧米では文書作成の質や目的が異なっているのが分かります。日本の場合は「感想文」や「生活文」が主であり、これは相手の気持ちを考えたり、協調性を高めたりするところに主眼があるように思います。一方、欧米の中学・高校では、主張を明確にし、理由と具体例で支える論理的文章(アカデミック・ライティング)を早期から訓練するのが特徴とのことです。
続いて、1970年以降の日本における国語教育の変遷と現状について調べてみました。
文部省による取り組みは明らかに変化してきています。
『1970年代以降の国語教育は、「詰め込み的な現代化 → ゆとりと個性 → 生きる力・言語力強化 → 主体的・対話的で深い学びと情報化対応」という流れで変化してきました。』
その一方で、世界的には日本人のリーダーシップは浸透しているとはいえないようです。その原因は以下となっています。
1.教育効果のタイムラグ:2008年以降の教育を受けた世代が社会の中核を担うには時間がかかる。
2.社会・企業文化との乖離:学校で論述や討論を学んでも、就職後は年功序列・協調重視の環境に適応を求められる。
3.評価軸の違い:日本の学校教育は依然として「正解を出す」ことに重きがあり、「自分の意見を持ち、主張する」ことへの評価が相対的に弱い。
4.文化的要因の根深さ:「和」を重んじる文化や「出る杭は打たれる」風土は教育政策だけでは短期間に変わりにくい。
サッカーに関しては、3人の選手がドイツの所属チームでキャプテンを務めています。
長谷部誠氏:ブンデスリーガ・フランクフルトで公式にチームキャプテン(主将)を務めた初の日本人とされます。
酒井高徳氏:ブンデスリーガ・ハンブルガーSVで、クラブ史上初の日本人キャプテンとしてブンデス1部のチームを率いました。
遠藤航氏:ドイツ・シュツットガルトで正主将に選ばれた事例があり、日本人が伝統クラブでキャプテンマークを託された象徴的なケースとされています。
2008年に高校1年生だった人の多くは32歳です。10年後、これらの世代の人が40歳台になった時、日本にも新しい組織文化が台頭してきているかもしれません。日本らしく協調性を大事にしつつ、責任を全うする強いリーダーシップで、日本を再び豊かな国にしてもらえればと思います。
画像出展:「HISTORIST」
一人当たりのGDPはG7では最下位、G20では9位というのが、今の日本のポジションです。
戦争が何故起きるのかを考えると、思い浮かぶのは「貧困」、「格差」、「イデオロギー」、「教育」の4つです。そして、イデオロギーと教育は密接に関係しているように思います。
では、どのような「教育」が、暴力や戦争から「人」を遠ざけることができるのだろうかと思い、その答えが得られるような本を探してみました。今回の『被抑圧者の教育学』はそのような経緯で見つけました。
画像出展:「さなぎ日記」
目次
序章
Ⅰ なぜ被抑圧者の教育学か?
一 なぜ被抑圧者の教育学か? ―人間化の課題をめぐって―
二 抑圧者-被抑圧者の矛盾とその克服
三 抑圧の具体状況と抑圧者
四 抑圧の具体状況と被抑圧者
五 抑圧からの相互開放 ―省察と実践の共有をとおして―
Ⅱ 銀行型教育と課題提起教育
一 預金行為としての教育 ―非人間化をもたらす教育―
二 銀行型教育 ―教師-生徒、エリート-民衆の矛盾―
三 課題提起教育 ―世界への介在―
四 歴史的使命としての人間化
Ⅲ 対話―自由の実践としての教育の本質
一 対話-自由の実践としての教育の本質
二 対話と対話的教育
三 教育プログラム編成の基礎としての対話
四 生成テーマとその教育プログラム内容
五 生成テーマの探求とその方法
六 生成テーマ探求と意識化の実践
Ⅳ 文化行動の理論
一 反対話的行動理論と対話的行動理論
二 反対話的行動理論とその特徴
●征服
●分割統治
●大衆操作
●文化侵略
三 対話的行動理論とその特徴
●共同
●解放のための団結
●組織化
●文化総合
解説
文献紹介
あとがき
Ⅰ なぜ被抑圧者の教育学か?
一 なぜ被抑圧者の教育学か? ―人間化の課題をめぐって―
●人間化は抑圧者の不正、搾取、暴力によって妨げられる。それは、自由と正義を求める被抑圧者の切なる願いによって、また、失われた人間性を回復しようとする彼らの闘いによって肯定される。非人間化は、人間性を奪われてきた人々だけの特徴ではなく、それを奪い取ってきた人々にもみられる特徴であり、より豊かな人間になるという使命の歪みである。
二 抑圧者-被抑圧者の矛盾とその克服
●自分自身を解放し同様に抑圧者をも解放すること、従ってこれが被抑圧者の偉大な人間的歴史的課題である。
●不正な社会秩序は死、絶望、貧困によって育まれる。
●抑圧社会の恐るべき意味を理解するのに、被抑圧者以上に相応しい人々はいない。
●抑圧者の暴力の中心には愛の欠落が存在する。
●被抑圧者は、えてして闘いの初期において、解放のために努力するどころか、彼ら自身が抑圧者や抑圧者の手下になりがちである。
●抑圧者にとって人間として生きることは抑圧者として生きることに他ならない。これは非抑圧者が時に抑圧者に同化しようとする態度をとるためである。
●被抑圧者は自分が抑圧された環境にいるという自覚を持てないことが多い。これは自分自身を対象化できるほど明瞭に考察できないからであり、また、抑圧の現実の埋没しているためである。
●農地改革を進めるのは、土地を獲得して地主になりたいためである。さらにいえば、他の労働者を支配するボスになりたいためである。
●被抑圧者は抑圧者のイメージを内面化し、抑圧者の指針に身をゆだねているので、自由への恐怖を感じている。
●自由は与えられるものではなく、闘いとるものである。それは、たえず責任をもって追及されなければならない。自由は人間の完成を追求するうえで不可欠な条件である。
●人間が抑圧状況を乗りこえるためには、まずその原因を批判的に理解しなければならない。その結果は、被抑圧者は行動の変革を通して、新しい状況、つまりより豊かな人間性を追求することのできる状況を創造することが可能となる。
●抑圧状況とは、抑圧者とかれらによって抑圧されている人々の双方に影響を及ぼしている非人間化された、また現に非人間化している総体をいうのであるが、踏みにじられた人間性のゆえに、両者のためにより豊かな人間性を求める闘いを行わなければならないのは、実は抑圧された人々の方なのである。
●抑圧者は、他者を非人間化することによって彼自身非人間化されているがゆえに、この闘いを導くことはできない。
●自由のための闘いは、抑圧者だけでなく、さらに大きな弾圧を恐れている彼ら自身の抑圧されている仲間をも脅かす。自由になりたいという熱望を見いだす時、彼らはこの熱望の実現のためには、それと同じ熱望が仲間の間にも呼び覚まされるとき以外にないということを知るのである。
●自由への恐怖に支配されているあいだ、彼らは他者に訴えたり、他者の訴えに耳をかしたり、あるいは自らの良心の訴えに耳を傾けることさえ拒んでいる。彼らは真の仲間同士の繋がりあいよりも、烏合の衆でいる方を好む。彼らは、自由および自由の追求そのものから生みだされる創造的なコミュニケーションよりも、不自由な状態のままで得られる従属の安全性の方を好む。
●被抑圧者は、かれらの内面のもっとも奥深いところにできあがってしまった二重性に苦しんでいる。彼らは自由がなければ確固として生きていくことができないのを発見する。だが、彼らは確かな存在を求める一方で、それを恐れている。彼らは自分自身であると同時に、抑圧者でもある。それは、彼らが抑圧者の意識を自分のものにしてしまっているからである。
●被抑圧者の葛藤は、次のどちらを選択するかにある。完全に自分自身でいるか、引き裂かれたままでいるか。内面の抑圧者を放逐するか、しないか。人間的連帯か、疎外か。命令に従うか、自分で選択するか。傍観者でいるか、行動者になるか。行動するか、それとも、抑圧者の行動をとおして行動の幻想を抱くか。発言するか、それとも、創造と再創造の力を奪われて、また、世界を変革する力を奪われて沈黙しているか。これが、被抑圧者の教育にたずさわるばあいに考慮しなければならない、かれらの悲劇的なジレンマである。
●『本書では、私が「非抑圧者の教育学」と名づけている教育学のいくつかの側面が提示されるだろう。それは、人間性をとりもどすためのたえまない闘いのなかで、被抑圧(個々人であれ全民衆であれ)のためにではなく、被抑圧者とともに鍛え上げられなければならない教育学である。この教育学では、抑圧とその原因が被抑圧者の省察の対象となる。この省察によって、かれらは必然的に自ら解放する闘いへと向かっていくだろう。そして、こうした闘いのなかで、この教育学はつくられ、つくりかえられる。
主要課題は、分裂させられ曖昧な存在である被抑圧者が、いかにかれらの解放の教育学の発展に参加しうるか、にある。自分たちこそが抑圧者の主人であることに気づくときにのみ、かれらは解放の教育学の誕生を助ける産婆術に貢献できるのである。
かれらが、生きるとは誰かのように生きることであり、誰かのように生きるとは抑圧者のように生きることである、といった二重性のなかに生きているかぎり、この貢献はかれらにのぞめない。被抑圧者の教育学は、かれらとかれらの抑圧者がともに非人間化の現われであることを、かれらが批判的に発見するための道具である。
解放とは、このように出産であり、それは苦痛をともなう出産である。』
●被抑圧者が自らの解放の闘いに取り組むことができるためには、被抑圧者の現実を、出口のない閉ざされた世界としてではなく、変革しうる有限の状況として認識することが必要である。しかし、それだけでは不十分である。大事なことは解放行動の原動力になるかどうかである。
四 抑圧の具体状況と被抑圧者
●自分たちの置かれている状態が何に起因しているかに無自覚でいるかぎり、被抑圧者は搾取を宿命のように受け入れる。さらには、自由と自己肯定の闘いの必要性に直面しながらも、被抑圧者はとかく消極的で疎ましげな態度で対応しがちである。だが、徐々にではあるが被抑圧者は、反乱行動の形態を試みてみようとし始める。
解放に向かおうとする努力にみられるこの消極性や自覚の契機が見過ごされたり、見落とされたりしてはならない。被抑圧者は、世界と自分自身についての歪んだ見方にとらわれて、自分を抑制者によって所有されている物のように感じている。
五 抑圧からの相互開放 ―省察と実践の共有をとおして―
●解放のために闘わなければならないという被抑圧者の確信は、革命的指導によって授けられる贈物ではなく、被抑圧者自身の意識化の成果である。革命の指導者たちは、革命的英知にとって決定的に重要な闘争の必要性についての被抑圧者自身の確信が、もしそれが本物であるなら、けっして誰か他の人によって与えられたものではなかったことを思いかえすべきである。
Ⅱ 銀行型教育と課題提起教育
一 預金行為としての教育 ―非人間化をもたらす教育―
●「銀行型教育」とは教師は預金者のように与える側、生徒は一方的に受け取る側ということを意味している。つまり、これは双方向の対話型と異なる、一方通行の教育形態のことを言っている。
・『銀行型教育概念が、人間を順応的で管理しやすい存在としてみなしても驚くにはあたらない。生徒が自分たちに託される預金を貯えようと一生懸命に勉強すればするほど、世界の変革者として世界に介在することから生まれるかれらの批判意識は、ますます衰えていく。押しつけられる受動的な役割を完全に受け入れれば受け入れるほど、かれらはますます完全にあるがままの世界に順応し、かれらに預け入れられる現実についての断片的な見方を受け入れるようになる。』
・『生徒の創造力を最小限に抑え、摘み取り、かれらの軽信をあおりたてる銀行型教育の機能は、世界を解明したいとも思わなければ、それが変革されるのを見たいとも思わない抑圧者の利益に仕えるものである。抑圧者は自分に有利な状況を維持するために、人道主義を利用する。このようにして抑圧者は、批判能力を喚起し、現実についての断片的見解には満足せず、点と点、問題と問題を相互につなぐ絆をつねに探求しようとする教育の、どのようなこころみもほとんど本能的に反対する。』
●「銀行型教育」は極論すると、他者を絶対的無知としてみなす抑圧イデオロギーの特徴となる。教師は生徒に対して必然的な対立物として自らを演ずるようになる。生徒の無知を絶対的なものとみなすことによって、教師は自分自身の存在を正当化する。
●自由論者の教育の存在理由は、統合へ向かって突き進んでいくことにある。教育は、教師—生徒の矛盾の解決から、つまり、両者が同時に教師でしかも生徒になるように矛盾の両極を統合することから始めなければならない。
●銀行型教育方法のヒューマニズムの裏には、人間をロボットに変えようとする意図が隠されている。それはまさに、より豊かな人間になるという存在論的使命の否定である。当人は善意のつもりでも、自分のやっていることが非人間化にしか役立っていないことに気がつかない銀行型教師が無数にいる。
二 銀行型教育 ―教師-生徒、エリート-民衆の矛盾―
●教師の思考は、生徒の思考の中の確実さによって確かなものとなる。教師は生徒のために生徒に代って考えることも、また、自分の思想を生徒に押しつけることもできない。
三 課題提起教育 ―世界への介在―
●教師は生徒と対話するなかで教えられるものにもなる。生徒もまた、教えられると同時に教えるのである。かれらは、すべてが成長する過程に対して共同で責任を負うようになる。
●銀行型教育は意識を埋没状態におこうとし、課題提起教育は意識の出現と現実への批判的介在に向かって努力する。
●問題提起教育において、人間は、世界の中に、世界と共にあり、そしてそこで自分自身を発見する方法を、批判的に知覚する能力を発展させる。かれらは世界を静止した現実としてではなく、過程にある。変化しつつある現実としてみるようになる。
●銀行型教育は現実を神話化することによって、世界の中に存在する人間のあり方を説明するいくつかの事実を覆い隠そうとする。課題提起教育は、非神話化の仕事を自らに課す。銀行型教育は対話に抵抗し、課題提起教育は対話を現実のヴェールを剥ぐ認識行為にとって不可欠のものであるとみなす。
●銀行型教育は生徒を援助の対象として取り扱い、課題提起教育はかれらを批判的思考者にする。銀行型教育は創造性を押しとどめ、意識を世界から隔離することによって、意識の指向性を、完全に破壊することはできないにしても飼い馴らす。そうすることによって、より豊かな人間になるという人間の存在論的、歴史的使命を否定する。課題提起教育は創造性それ自体に根ざし、真の省察と現実に対する行動を喚起し、そのことによって、探求と創造的変革にしたがう場合にのみ真実の存在たりうる人間の使命に、こたえる。
Ⅳ 文化行動の理論
一 反対話的行動理論と対話的行動理論
●『革命は指導者によって民衆のためになされるものでもなければ、民衆によって指導者のためになされるのでもない。ゆるぎない連帯のなかで、両者がともに行動することによってなされるのである。この連帯は、指導者が、民衆との謙虚で愛と勇気にみちた出合いによってそれを証言するとき、はじめて生まれてくる。すべての人間が、この出合いに耐えうるだけの勇気をもっているわけではない。出合いを回避するとき、人間はかたくなになり、他者をたんなる客体として扱うようになる。生命をはぐくむかわりに生命を奪い、生きることを探求するかわりに、そこから逃亡する。こうしたことは抑圧者の特徴である。
対話、つまり世界を変革するための、世界のなかでの人間の出合いを肯定することは、素朴で主観的な観念論だと考える者もあろう。』
感想
1.教師は生徒と対話するなかで教えられるものにもなる。生徒もまた、教えられると同時に教えるのである。教師と生徒は成長する過程に対して共同で責任を負うようになる。
2.銀行型教育は意識を埋没状態におこうとする。一方、課題提起教育は意識の出現と現実への批判的介在に向かって努力し、より豊かな人間になるという人間の存在論的、歴史的使命を肯定する
教育の原点は、教師と生徒は同格であり、批判的精神を尊重しつつ、お互いを通じて学び、成長することにあるのではないかと思います。そして、教育によって育まれた批判的精神が多くの民衆に芽生え、正しい指導者との間を愛と勇気が繋ぎ、確固たる信念と信頼となって深く結びついた時に、抑圧者は非抑圧者と正面から向き合うことができるようになるのではないかと思います。
3 反省
・『日米戦争に関して一億総懺悔を唱えるものもあったが、一般国民はこの戦争についてそれほど責任を問われることはないと思う。責任は陸軍と政治の指導者にあるのである。国民は九・一八事変前より種々の宣伝と、誤解の種を植付けられ、次には陸軍を通じたナチスの宣伝に惑わされ、文部省まで出動しての排英米宣伝に躍らされ、欧州戦局の偏頗な報道や各国の実力に関する作為のある材料を教えられ、日米開戦後は戦果と損害について虚偽の発表に誤られていたのである。国民中には五・一五事件に同情したような軍国主義的な者も一部にはあるが、多くは短見者流の煽動や、偽りの宣伝に基く誤解に陥っていたのであるから、八千万の国民の大多数は日米戦争の開始を主張し、あるいは支持していたのでもなく、むしろ不安に感じていたのである。ただナチス勢力に支配されたもののみが、これを期待していたのである。
しかしながら、ここに日本国民の全部が静かに反省せねばならぬ大きな問題がある。それは戦争に於ける残虐行為と、俘慮虐待の問題である。南京事件を描いたチムバーレー氏の「支那に於ける日本の恐怖」に列挙されたような日本軍の残虐な行為が、それ以上の非人道的な行為をも含めて多くの日本人の耳朶に入っている。フィリピンに於ける同様の悲しむべき出来事は、終戦後多数に聯合国側より発表された。戦争の場合には間々この種のことは起り易く、ドイツもまた欧州に於てその責任を問われているとのことであるが、無数に国民の前に暴露された中国およびフィリピンにおける残虐行為については、国民はまったく予期せざる同胞の醜い行為を知ると共に、日本民族の深甚な屈辱を感じ、世界に対してまったく面目を失したことを悲しむのである。
戦争に関する俘虜の取扱いを受け、盛んな葬儀は行われ、米国海軍司令官が列席の兵に対して、日本の勇士のために東京日比谷公園で葬儀を行ったのはそれより後のことである。次いで日本の特殊潜水艦の勇士が豪州シドニーを襲ったとき、その遺骸は棺に納められ、その上に日本の日の丸の国旗を覆うて鄭重に祭られたことは、日本の新聞紙上に載せられた写真によって日本国民のすべて知るところである。日本国民は武士道を誇っていたが、今次の戦争に於ては逆に聯合国側の武士道を目前に示された。そして我われ日本民族の血のうちにいかなる恐しい素質が交わっているのかと、選竦を覚えざるを得ない。
日本の軍隊教育は厳格に過ぎ、訓練に際して、また兵営内の起居の際に於ても、上長が下級兵を虐待することは世間周知のことであり、徴兵忌避の風潮の一部にあったことはまたこれに原因している。これらの虐待行為は我われの周知している極めて狭い範囲に於ても、とうてい信じ難いほど人権を蹂躙したものであり、残酷なものであった。かかる習性はやがて俘虜に対して平気で残虐行為を行わしめるに至ったものと思われる。しかしこの外、日本民族が強者には屈従するが、弱者に対してはこれを侮蔑し、あるいは凌辱することを喜ぶの風があるのであると思う。中国に対する多年の圧迫行為の中にもそれが見出される。我われは日本の同胞として日本民族の欠点をあまり強く指摘したくない。しかしながら我われが封建時代の美点を失い、その悪い習性のみを遺伝しているとするならば、今日のごとき機会に於て徹底的のその真相と由来を検討して、この悪の芟除することに努めねばならぬ。
残忍性の問題は敵軍に対する場合のみではない、同胞に対してもそれがある。全員玉砕を奨励するごとき、非戦闘員および負傷兵の自決あるいは全員戦死を勧奨するがごとき、全隊特攻を強制するごときはいずれも作戦の範囲を超えて無理な抵抗を強化せんとし、多数の貴重な生命を忠君と護国の名の下に無用に犠牲に供するものである。優秀な武器による近代戦に於て、封建時代に於てもあまり例を見ない大量的の屍を君前に曝す戦法を採ることは、ただに志気鼓舞の手段ともならざるのみならず、かえって惨害の累加による厭戦気分を生ぜしめるものである。人道的な立場より見て、これらの行為が忠君手技、国家主義の欠点として非難さるべきことは言うまでもないことである。
さらにフィリピンその他の作戦に於て、食糧を有しない日本が容易に降伏せずして自ら死の道を選び、ことにセブ島に於て、青木大尉が共に逃避を急ぐ非戦闘員の幼い子供達をその母親の面前に於て、足手纏いなりとてこれを殺戮した鬼畜のごとき行為は、聞くだに身の毛をよだたせるものがある。かくのごとく怖るべき行為を為す動機はどこにあったのであるか、いかにしてかかる残虐な素質が日本民族の血の中にあるのであるか、そしてそれはいかにして取除くことが出来るかということは、最も深刻に考究せねばならぬ問題である。
我われはすでに昭和の革命より七・七事変、日米戦争などを通じて、陸軍や軍国主義者のなしたことを見て、幾多の国民の性格や教育上に於ける欠陥を発見した。また政治や言論界に於ける弱点をも気付いた。ここに於て我われの経験した過ちは主としていかなることに原因しているか、そしてそれを改めるべき道筋はどこに見出されるのかを見極めばならぬ。
まず日本人は明治大正時代の驚異的国家発展に慢心していた。そして国際的知識や経済的知識が欠けているために、島国的な偏見や誤解に陥り易かった。岡田という人の書いた「道元禅師」という書物の序文に、「日本の天皇が世界を支配する」と書いてある。これは一例にすぎぬ。また世界の外交舞台に出てからまだ年が浅いために、妥協とか協調とか将来に於ける展開を待つとかいう、余裕や冷静さを持つだけの修練を積んでいなかった。次の個人の性格が未だよく練磨されていなかった。自我が強く他人の立場を考えることを忘れる。即ち利己的である。激情的で逆上し易い。ことに青年の社会的政治的問題に関する感覚はあまり激し過ぎる。暗殺という卑怯な野蛮行為を行う者がほとんど例外なく青年であるということは、日本の青年の一大不名誉である。ことに日本では国の柱石となる最も大切な人を選んで青年が殺すのであるから、最も恐ろしいことである。青年はもっと学識と経験を積んでいる社会の先輩を尊重せねばならぬ。まだ少ししか学問を習わぬ者や、ほとんど学問を知らぬ者、あるいは社会的の見聞の浅い者が、社会上や政治上の問題や国際問題にまで断片的知識をもって独断的結論をつけて大先輩を罵倒したり、殺したりすることは人間社会の進歩を顚倒せしめたり、あるいは今回の日本の例のように国を亡したりする結果になる虞れがある。このことは今後に於ても同じことだと思う。』
•日本軍のより固有な要素
1.軍内部の苛烈な暴力文化が、そのまま対外暴力にストレートに変換されたこと。
2.降伏・敗北に対する極端な蔑視が、捕虜・民間人の人間性を根こそぎ否定したこと。
3.「方針だけ上から」「具体は現場任せ」という無責任構造と、「空気」に従う兵士の同調が、暴力を野放しにしたこと。
4.特定グループだけでなく、占領地住民一般への「無差別・反復的」暴力が目立つこと。
感想
「日本の命運を握ったリーダー達の日本国民を守るという使命は、青年将校による暴力という圧力に屈し、客観的かつ適切な対応もできず、さらに自ら戦争を終結させることもできず、途方もない数の戦死者を生みだしてしまった」。これが太平洋戦争の最大の悲劇ではないかと思いました。
画像出展:「News Pics」
『日本人死者は、310万人(軍人・軍属が230万人、民間人が80万人)に達し、その9割が1944年以降の戦争末期に集中して亡くなったと推算される。そのほとんどは戦闘で「名誉の戦死」をしたのではない。30万人を超える海没死、異常に高い餓死・戦病死、そして特攻──』
小磯首相は陸軍大将、鈴木首相は海軍大将。陸海軍の対抗意識とリーダー不在の調整型オペレーションが戦争終結の現実を受け入れられず、一部の青年将校に代表される極端なイデオロギーと暴力の肯定、そして、近代日本軍が作り上げた「潔い死・玉砕」という軍人精神が美化され、さらなる悲劇を導いたのではないかと思います。
また、明治憲法下の日本は「君主主権の立憲君主制」であり、民主主義国家ではなかったということも忘れてはならないことだと思います。民主主義国家として適切な文民統制と官僚に依存しすぎない政治家の責任感とリーダーシップが重要だと思います。
最後に、本当に青年将校による暴動は阻止できなかったのだろうかと思い調べてみました。まず、その時代、貧困と格差など生きていくにも困難だった日本の厳しい実情がありました。
一方、政治は腐敗し国民の失望は軍国主義を後押ししました。戦争を主導した日本軍ですが、そこには陸軍と海軍の対立があり、その陸軍には皇道派と統制派が対立していました。二・二六事件は皇道派の青年将校が不十分な計画のまま遂行した稚拙なクーデターであり、クーデターの失敗後は統制派が台頭し、開戦に向けて進んでいきました。
画像出展:「江戸東京博物館」
二・二六事件の「蹶起趣意書」です。
調べたところ、野中四郎(陸軍歩兵大尉)は、決起部隊のリーダー格(第1師団所属)として、趣意書の冒頭に名前を連ねて配布を主導しましたが、作成自体は村中孝次が中心となって行われたとのことです。
対立と曖昧さ、そしてリーダーシップ不在(責任ある立場の人が決断せず先送りする)という日本の構造的問題を考えると、大日本帝国憲法下の国民主権とはいえない国家において、貧困⇒格差⇒暴発(暴力)⇒「軍部・官僚主導の軍国主義」という流れを阻止するのは困難であり、悲しいことですが必然だったのかもしれないと思います。
画像出展:「東洋経済ONLINE」
『同じ「皇道派」でも「青年将校と上層部」の間には若干の温度差がありました。そして決定的だったのは、このとき頼みとする「皇道派」上層の将軍たちには、青年将校らが考えるほどの陸軍を動かす力がなかったのです。青年将校は、この「思い違い」に気づかぬまま、計画がまだ不完全ながらも、「上層部頼み」で計画を実行に移してしまったのです。』
『青年将校らは決起を焦り、計画がまだ不完全なままクーデターを実行。肝心の詰めの部分は計画しないままの中途半端な行動になってしまいました。』
後篇 戦争責任論
2 戦争終結についての責任
・『欧州戦局がすでに昭和十八年一月末以来、枢軸側[日本、ドイツ、イタリアの主要国以外に、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、タイ、スロバキア、クロアチア、アルバニア]に不利に転化してきたことは前に述べた通りである。その時より小磯内閣成立[1944年(昭和19年)7月 ~ 1945年(昭和20年)4月]の日まで一年半を経過している。そしてこの間にイタリアはとくに戦線より離脱し[1943年9月8日]、ヨーロッパ東部戦線に就ては、ノルマンディーに大陸上陸作戦[1944年6月6日]を決行した聯合軍は、カン地区を猛攻撃すると共にサンロールを奪取して、さらに進撃を続けており、もはやドイツの敗北はまったく決定的となっているのである。
そして、他面に、聯合国側は昭和十八年春のクェベック会談および秋のカイロ宣言などに於て、すでに戦勝を予定して戦後のドイツ処置案および日本処理案などを討議し、その大綱を決定している。戦後日本の処理案として南洋委任統治領の返還、満州、台湾の中国への返還、朝鮮の独立および国際管理、東京占領などは十八年春に太平洋調査会案として発表されており、当時すでに我が国の皇室問題まで論議されている。
かようにヨーロッパ戦は終末の段階に近く、聯合国側は戦勝後の講和条件および平和機構案まで研究済みとなっているのであるから、小磯大将は組閣当時かかる欧州の戦局と国際情勢を知悉していなければならぬはずである。そもそも東条が米国への開戦当初はただちにドイツの救援を頼みにはしていなかったが、結局はドイツが勝利を得た場合は、なんらかの救援を得られるであろうということを空頼みとしていた程度であろう。しかるにかくもドイツの敗勢が明白となって来ては、小磯内閣はもちろんドイツの救援を頼りとすることは出来ず、東亜で最後まで独力で戦わねばならぬことを覚悟せねばならぬ。しかるに東亜の戦局もまた前述のごとくついにサイパンの失陥まで来ているのであるから、追々窮屈となって来る物動計画の内容、船腹の減退、六月十六日米空軍の九州爆撃の開始、七月三日米機動部隊の硫黄島攻撃などのことをすべて考慮すれば、冷静に考えて日本がこのうえ戦争を継続することはとうてい考えられぬはずのことである。
即ち東条内閣は講和をなすべき最適時に投げ出したのである。したがってこれをリレーした小磯内閣はただちに戦局終結方針に進むべきであったのである。ことに欧州戦に於て空軍の爆撃の効果の怖るべきことを実証しているのであるから、中国基地よりのB29の九州爆撃、機動部隊の硫黄島の偵察攻撃くらいのところで戦争を早急に打切ることが最も賢明な方策であった。しかるにこの第一次の好機を看過して、小磯内閣は「一億憤激を新たにする」の御詔勅を奉戴して戦争継続に邁進し、八月四日には一億総武装を決定し、その翌日は最高戦争指導会議を組織し、十五日には国内警備態勢強化方策を閣議で決定するなど、一路強引の抵抗戦に突進した。
小磯内閣の時代には米空軍は最初は中国基地より北九州、満州などを爆撃していたが、やがて艦載機を交えて台湾、沖縄などの空襲が始まり、九月三十日にはグァム、テニアンの全員戦死が発表され、十月二十日米軍はレイテ島に上陸した。レイテ島の激戦が続いている間に、十一月二十四日、B29、70機が初めて帝都に編隊空襲を行い、それ以来帝都、名古屋、大阪、神戸の四大都市が繰返し大爆撃を蒙った。
ことに十二月下旬よりは、マリアナ基地よりのB29の来襲がますます激化した。小磯首相はレイテ島の戦いを天王山と称していたにもかかわらず、レイテ島が占領され、米軍は進んで昭和二十年一月九日にルソン島のリンガエン湾に上陸し、一月三十一日にはバタンガスに上陸し、二月三日早くもマニラ市の一部に侵入してフィリピン全部が危機に迫っても、彼は決戦に敗れたことを認めようとしなかった。そして二月末には硫黄島の大部を失い、三月十日、B29、130機による帝都の夜間大爆撃を蒙り、帝都の東部は焦土と化した。次いで三月二十一日硫黄島の玉砕が発表され、米軍はさらに突進して三月二十五日慶良間列島に、三月三十一日には沖縄本島に上陸するに至った。三月十日の帝都の大爆撃後、三月十八日、天皇陛下の罹災地行幸のあった時は、私は戦争はただちに終結となるものと確信していたが、ついにそのことなく、米軍が沖縄本島に上陸するに及んで初めて四月五日小磯内閣は兜を脱いだのである。
小磯首相がレイテ島の戦いを天王山と称しながらそれを食言して、この戦いに敗れてもなお戈を収めず、マラリア基地よりのB29の来襲が激化しても平然として戦い続ける間に、日本の最大の四つ都市は米軍の思うがままの爆撃を受けた。小磯首相がサイパン失陥の後を受けて組閣した時には、未だ戦争終結の決意が付かず、あるいは国内の政治情勢がそれを困難ならしめたかも知れぬが、すでにマリアナ基地が整備され、B29の本土来襲の威力が十分に証明された以上は、その後の成行は何人にも判断の出来ることである。したがって昭和十九年末には、小磯首相が国民に対する親切心を持っていたならば、このどうせ敗ける戦争をこの時に打切るべきであった。ことに昭和二十年三月十日の帝都大爆撃の効果を見ては、未だ原子爆弾を見ずと雖も、ただちに講和の手段を構ずべきであったと思う。この頃の一ヵ月あるいは一週間の遅延は、国民の蒙る損害に多大の相違があるのである。小磯内閣がレイテ島の戦いを天王山と称した通り、これを失ったときに食言せずに戦いを止めていたならば、本土は無意味の爆撃の惨害より救われることができたのである。東条内閣は最も妥当な時に総辞職をしたが、小磯内閣な終戦の時期を失し、また辞職の時期を失しているのである。
小磯内閣の後を承けて鈴木貫太郎海軍大将が内閣を組織した。我われは小磯内閣が上記のごとき戦局の最悪状態に於て退却した以上は、鈴木内閣は当然ただちに戦争の終結に対する手段を講ずるものと考えていた。しかるに鈴木大将の内閣は実質上新官僚内閣であって、まったく我われの期待を裏切り、本土上陸決戦を呼号して総軍司令部および航空総軍司令部を創設し、軍需工場の疎開、沿岸の防備強化、特攻隊の全面的活用、山地に於ける籠城設備の造築、国民義勇隊の編成など、着々として聯合軍の上陸に備える態勢を整え始めた。その間スターリングに対して講和の仲介を依頼したごときも一蹴され、しかも鈴木首相は直接米国に対して講和の手段を採らなかった。かかる間に沖縄島にも米空軍の基地が作られ、本土の爆撃は日々に熾烈となってきた。
そして欧州にあっては四月末ベルリンは陥落し、ヒットラーは戦死し、五月六日ドイツは正式に無条件降伏をするに至った。鈴木内閣はこの重大な情勢と、最後とも言うべき講和の機会を無視して、五月九日「帝国不動の方針」を声明し、ますます猪突の勢いを示した。
日米戦争は何時かは終了せしむべきものとすれば、日本の敗色日に月に濃厚となりつつある時に、頼みとするドイツが降伏した時は最も慎重な考慮をなすべき機会である。否、すでに鈴木内閣成立の時は完全にこのことを予定し得たのであるから、あらかじめ戦争終結の手筈を定めて置くべきである。欧州戦終了すれば、ドイツを爆砕しつつあった幾万の米空軍が日本の空を掩い、ドイツに投下された幾万噸の爆弾が、やがて日本に集中投下されることは必至のことである。
硫黄島並びに沖縄島にある数個の基地が完成し、しかも欧州戦を終了した米空軍が日本に対してその勢力を集中する時は、いかなる結果となるべきかは、何人と雖もこれを察知し得ることである。すでに三月十日の帝都爆撃の効果のみを見ても前途が明らかにある。彼らは日本の空襲を受くべきことすら予期していなかったのである。しかし鈴木首相は、かかる単純な情勢の変化を想像し得ぬはずはないと思うのであるが、不幸にして耄碌したか、あるいは精神が錯乱したのであるか、徒に虚勢を張って「帝国不動の方針」を声明して戦いを継続し、ついに救国の最後の機会を失した。
即ち米空軍の勢力は五月以降日々に強大となり、大都市爆撃はいよいよ大規模となり、五月二十三日と二十五日のわずかに二回の夜間爆撃により東京はほとんど廃墟と化し、五月二十九日には横浜市は一挙全滅し、大都市の爆撃を一応終わった米空軍は六月中旬以降は中小都市の爆撃に移り、北海道および東北地方の一部を除く人口三万以上の都市は、ほとんど余すところなく順次に爆撃焼夷され、軍需工場はいかなる僻地にあるものと雖も攻撃を免れず、さらに戦闘機および航空母艦よりする艦載機の活躍もいよいよ激しく、交通機関に対する攻撃も開始せられるに至った。そして七月中旬よりは、米国艦隊は本土沿岸に近接して艦砲射撃を加えるに至り、さらに全国の主要港湾に対して機雷の投下を行い、そのため船舶の蒙る損害はすこぶる甚大となった。
かかる有様はもはや戦争ではない。味方はまったく敵を攻撃する機会も力もなく、ただ手を束ねて米空軍の跳梁に任すのみであって、いかなる方法と、いかなる規模と速度とをもって日本全土が焼き払われ、破壊されるかをただ見物している姿である。そしてついに八月六日広島市に原子爆弾が投下され、九日ソ聯は日本に対して宣戦を布告し、ソ聯軍はただちに満州、朝鮮、樺太に侵入してきたのである。この急激猛烈な総攻撃に政府はまったく度を失い、九日最高戦争指導会議を開き、数日間の紛糾の後ついに十五日、天皇陛下のラジオ御放送により、戦争終結が全国民に周知せしめられるに至ったのである。
ここに於て鈴木内閣の挙措を通観するに、すでに小磯内閣の退却は即ち戦争終結の必要を示すものであるにもかかわらず、目を蓋って猪突し、ドイツ屈服の時をもって最後の戦争終結の時となすべきであるにかかわらず、それすら顧みなかった。それがためたちまちにして五大都市をほとんど廃燼に帰せしめたのみならず、全国の中小都市の大部分を廃墟と化せしめた。もしまた鈴木内閣の強調したごとく、本土上陸決戦を行うとすれば、田野は躊躇せられ、交通機関は破壊せられ、国民は戦禍に加うるに恐るべき飢餓に襲われたに相違ない。いかなる方面より見ても絶対に防ぎ得ざること火を見るよりも明らかな戦いを、ひたすらに継続した鈴木大将の意思は奈辺にあったのであろうか。彼は大本営を信州松代の壕中に移す考えであったとのことであるが、大本営のみが最後まで安全であったとしても、後に残された国民はどうなるのであるか。こうなると彼の戦争目的は何であったのであろうか。彼は何を守らんとしたのであるか。国土廃れ、幾百万の民が爆弾と飢餓に生命を失うことは彼の顧みるところではなかった。端的に言えば、鈴木内閣の戦争目的は徒に全国を焦土とし、幾百万あるいは幾千万の生霊の犠牲を要求することになるのである。彼の愚昧と残忍はとうてい人智をもって測り知るべからざるものである。しかし彼の徹底的に日本を壊滅せしめんとする戦いは、たまたま広島に対する原子爆弾の投下によって終止符を打たねばならぬことになった。
昭和二十年四月七日より八月十五日に至るまで四ヵ月以上にわたって、自らは敵を攻撃する手段絶無にして、たんに空襲を受けることのみが戦いである状態を継続した鈴木大将の心理は、とうてい常人の理解し得ないことである。彼の没常識のために全国は焦土と化し、一千万の国民は家と産を失い、数十万の死傷者を出し、戦後は飢餓に脅かされ、生活と産業の復活を至難ならしめ、今後幾十年にわたって国民は悲惨な生活に甘んじなければならぬ。日本国民としてこれを見れば、彼の罪はその実害に於ていかなる戦争犯罪人よりも上に出るものであって、日本の続く限り彼の愚昧は国民の怨嗟の的となるのであろう。しかも鈴木大将は終戦後と雖も恬然として輔弼の要職を汚していた。その無恥厚顔はまったくただあきれる外はない。
ヨーロッパの敗戦国民は、戦争責任者の他に「国家困窮責任者」を追及している。日本に於てそれに該当する第一位の者は、小磯および鈴木の両首相である。
鈴木内閣の書記官長であった迫水久常君が新聞紙上に発表した「降伏時の真相」なる一文によると、鈴木内閣は成立後ただちに日本の戦争能力に関して徹底的な研究を命じ、五月中旬にそれが出来上ったが、それによると「国内の現状は何等か寧ろ奇蹟的な措置が実行せられない限り、殆ど戦争継続に耐えないことが明らかとなり……」とある。それでもなお鈴木内閣はまごまごしていたのである。そして六月九日の御前会議に於て、上記の実情と国際情勢を基礎として論議したうえ、「国体を護持し、皇土を保衛し、もって戦争を完逐するということになった」というのであるが、これでは上記の調査の結果得た結論はどこへ行ったのかまったく分らぬ」
しかるに六月二十二日、宮中より最高戦争指導会議の構成員を御召しになって、陛下より親しく御懇談あらせられ、「戦争に関しては適当な方法をもってなるべく速やかにこれを終結せしめることを考慮しなければならない旨の御諭しがあった」のである。かかる明白な陛下の御諭しがあったにもかかわらず、鈴木首相はまったく見当違いのソ聯との交渉に荏再日を移し、世界の物笑いの種を蒔いたのみならず、この間に全国の都市を一層激しく米空軍の爆撃するがままに任したのである。
そして七月二十六日、米英華三国のポツダム宣言が発表された時は、あらゆる観点より見てこれを受諾する外はないものと思われていたにもかかわらず、鈴木内閣は軍部の強硬意見に引きずられて黙殺の方法をもってこれを拒絶した。鈴木首相は六月二十二日の戦争終結に関する陛下の御諭しを忘れるはずはない。陸軍の反抗態度がいかに強くとも、自ら総理大臣としての識見を有し、陛下の御聖旨を体していたならば、これを鎮圧するくらいの器量と勇気がなければならぬはずである。しかるにこのさい鈴木首相が世界環視の下に於て陛下に背いて陸軍に屈したことは輔弼の責任を濫すことはなはだしきものである。鈴木首相の総理としての識見なく責任観念薄弱にしてかつ卑屈であったことは、近衛公が陸軍の強要によって仏印進駐を認め、日米戦争の端を作った場合にも優るものと言うべきである。
かくて鈴木首相は戦争終結について組閣のさい、最初の帝都大爆撃および米軍沖縄上陸の機会を捉えず、次にドイツ屈服の重大機会を無視し、三度び戦争能力調査後の去就を決し兼ね、四度び六月二十三日の陛下の御諭しに背き、五度びポツダム宣言即時受諾の機会を看過し、ついに原子爆弾とソ聯の宣戦に止めを刺されるまで国土を燃えるがまま、破壊されるがままに任せたのである。迫水君は「九月末頃には、青森以西全国に在る人口三万以上の都市はことごとく灰燼に帰すべしとの結論が出ていたのである」と言っている。それでもなお講和を為さねばならぬあらゆる機会を無視し、国土の破滅を継続せしめた鈴木首相の心底はまったく解することのできぬことである。
かかる事態に推移したことはもちろん、陸軍がたえず強力な反対をなしつづけたことにあることは言うまでもないが、迫水君は「我が国の生産設備の拡張は、本土が空襲に曝されることはほとんどないという、前提の下に進められていた。現に私が企画院にいた頃、列席した都市防空の会議に於て「こんな会議は時間潰しだ。我が国が空襲されることになったらおしまいで、そんなことには絶対にならない」と方言した軍人があった」と言っている。陸軍の予想や判断や計画はいつも大きな誤をしている。七・七事変の見透しについて杉山元帥が陛下の御叱りを蒙ったごとく、また欧州戦争の見透しについても、ドイツの対英上陸作戦、ドイツの対ソ聯戦の終結時期、英米空軍の威力、米国の戦断のみを継続してきたのである。いわんやドイツ屈服後に於ては、陸軍にしてもし良心があったならば、戦争に関してなんらの発言権がないはずである。総理大臣がこれらの点を捉えて陸軍を究明すれば、彼らは一言もないはずである。しかるに鈴木首相にかかる識見能力なくして陸軍の言うがままに盲従し、辞職もせずに、原子爆弾とソ聯の宣戦を見るまで居据っていたことは、まったく無責任の極致である。
八月九日ソ聯の宣戦布告があった日の夜、最高戦争指導会議が御前に於て開かれたが、そのさい東郷外務大臣は、まずポツダム宣言を無条件にて受諾する外ない旨を主張し、阿南陸軍大臣はこれに反対し戦争継続を主張し、米内海軍大臣および平沼枢密院議長は外務大臣の意見に賛成し、梅津参謀総長および豊田軍司令部総長は陸軍大臣と同じく玉砕を期して戦うことを主張した。かくて賛否三対三のまま議まとまらず十日午前二時に及んだが、鈴木首相は聖慮をもって本会議の決定としたい旨を述べ、陛下は「自分は外務大臣の意見に賛成する」と仰せられ聖断が下った。
その時種々御言葉のあった中に、「戦争開始以来、陸海軍のしたところを見ると、計画と実際との間には非常な縣隔のあることが多かった。もし戦争を継続するに於ては、今後に於てもそういう事態が起るのではないか」と仰せられた。七・七事変以来数回に及んで陛下より判断の誤りを叱責された軍部は、それでも少しも反省、謹慎あるいは悔悟の状を示さず、したがってなんら責任をとることをしなかった。むしろますます政府を強圧し国民を威嚇して我意を張るのみであった。
十日の午前七時頃、政府はポツダム宣言受諾の旨を聯合各国に通告し、十三日朝聯合国の回答が到着した。それにより十四日最高戦争会議が開かれたが、この時も陸軍大臣、参謀総長、軍令部総長の三人はこの回答の解釈に不安ありとして戦争継続を主張したが、陛下は他に意見がないならば自分が意見を言う、「卿等は自分の意見に賛成して欲しい」と仰せられて、「自分の意見は去る九日の御前会議に示したところとなんら変わらない、先方の回答もあれで満足してよい」と仰せられた。迫水君の手記は無条件降伏の経過をかように明白にしているが、この国民にとって悲惨を極めた戦争は陛下の御裁断によってのみ辛うじて終結することが出来たのである。
ポツダム宣言受諾の詔書は、十五日正午玉音をもって御放送遊ばされることになったが、この日午前四時半、陸軍青年将校は機関銃をもって総理大臣官邸を襲撃し、一隊は鈴木総理および平沼枢密院議長の私邸を焼払い、両重臣はわずかに身をもって難を免れ、他の一隊は近衛師団を動かして宮中深く侵入し、宮内官その他を監禁し、玉音の録音盤を奪取し、陛下の御放送を拡大せんとしたが、東部軍司令官田中静壱大将自ら馳せつけて幸うじてこれを鎮圧した。
陸軍青年将校は自己の主張を通さんためには上長官を射殺し、宮中に侵入し、高官を監禁し、首相、枢相を襲撃し、陛下の詔書公布を妨害せんとするなど、軍記、法律、主権など、何物をも犯すことを少しも辞しないのである。
かつて七・七事変に先立って軍の武器を用いて陛下の政府首班、重臣、統帥の首脳を殺戮した陸軍青年将校は、終戦に際してここに再び反逆を繰返し、ついにまさしく「宮中の側近を脅かし奉った」のみならず、陛下自ら手動的に御聖断を下された講和の大権の御行使を妨害せんとしたのである。彼らの眼中自己の立場の擁護と我意の貫徹のほか何物もないのである。この狂態はまさに陸軍軍人の醜を世界に曝したのである。
しかしながら青年将校をして終戦に当りかくも熱狂せしめたことについては、軍の首脳部にも責任がある。即ち大本営の戦果発表は常に誇大あるいは虚偽を重ね、新聞紙の報道はたえず戦勝を伝え、敗退をもって敵を引付ける作戦なりと曲言し、軍部大臣の議会に於ける演説は敵本土に近接すればこれを撃滅し、上陸すればこれを残滅すべきことを豪語していた。かくのごとき虚偽と欺瞞は青年将校のみならず、一般国民の戦局の真相に対する判断をまったく誤らしめていた。したがって戦局の切迫に興奮した青年将校は、全隊特攻の犠牲をも忍んで最後の戦いを挑まんとしていたのである。識者はすでに無用の戦いであることを知っていたが、彼らは未だ命を捨てて甲斐のある戦いと信じていたのである。政府と統帥部の虚偽の宣伝、なかんずく、大本営の戦果発表の大なる欺瞞は、ついに青年将校をして思わざる大罪を犯せしめるには至ったのである。陸海軍の首脳部の責任はかかるところにもまたすこぶる重大なものがある。
以上論じてきたところによって見れば、近衛公、木戸候は共に政治家としての識見なく、人を見るの明を欠き、身は権門の出なるがためかえって意力鍛錬の機会を得ず、薄志弱行、空しく陸軍の誘惑と強迫に追随し、ついに輔弼の途を過り、亡国の根底を作った。
近年の日本陸軍は驚くべきほど利己的であり、浅慮、横暴の限りを尽して、日本の政治、経済および道徳を破壊し、国家を滅亡せしめ、国民の生活を死線に彷徨せしめ、将来の希望を失わしめた。東条は陸軍の弱点の権化であり、加うるに彼は卑怯者である。彼は開戦の全責任と人格低劣の誹謗を、聯合国と日本国民の双方より問われねばならぬ。
鈴木大将は戦局の大勢を察せず、まったく国民の生命および財産を眼中に置かず、敗戦の惨害を極度に拡大し、国家の経済、国民の生活の復興を至難ならしめた。しかも彼はその責任を自覚せぬ。愚昧、無恥、天下に類を絶する。』
『戦争調査会』の本に登場する人物の中で、何としても戦争を止めたいという思いをもって、誰よりも積極的に活動していたのは渡辺銕蔵氏ではないかと思いました。
渡辺氏は戦争調査会では第3部会(財政経済)で副会長(副部会長)を務め、主として財政・物資動員・経済政策面から戦争を検証する役割を担いました。
その渡辺氏は『自滅の戦い』という本を執筆されています。その本の「序」は“昭和21年9月 東京にて”となっており、これは終戦の翌年ということになります。
本書、「中篇 反戦苦闘の十余年」の冒頭に書かれた部分には、渡辺氏が本書を執筆した理由が書かれています。
『私は十余年にわたって軍部を反省せしめ、日本のナチス化を防止せんとし、ことに速やかに七・七事変を終結せしめ、日米戦争を回避せしめんとして微力を傾けて闘ってきたのであるが、それはまったく徒労に終わった。この敗戦絶対必至の戦いを敢えてしたことに対し、後代のみならず現代の国民と雖も、何故に指導階級がこれを阻止しなかったを訝り、かつ恨むに相違ない。私はこの国の内外に対する自殺的革命に抗争した者が皆無ではなかったことを記して、現代の次代に対する弁解の一端としたいと思うのである。私自身としては、日本の一国民として貧弱な筆舌をもって時の大勢に逆らって論陣を張ったのであるが、孤立無援、世人の冷嘲と官憲の圧迫の下についに牢獄に投ぜられ、結局日本を救うことになんらの貢献をもなし得なかったのである。顧みれば重臣、政治家すべてがただ弱かったために日本を滅亡より救うことができなかったのであるが、私もまたあまりに微力にしてしかもなお闘い尽くさなかったものがあったので、大勢を動かすことができなかったのである。この記録は私の苦闘の歴史であるが、同時にこれはまた私の懺悔録でもあるのである。』
また、本書の「後篇 戦争責任」の二として“戦争終結についての責任”という章があります。「やっと見つけた」というのが率直な感想です。このことは拝読させて頂いた『戦争調査会』の中にも、詳しく書かれていなかったことです。
著者:渡辺銕蔵
発行:1988年9月
出版:中央公論社
目次
序
前篇 自滅への道
1 序説
2 軍縮と暗殺の脅威
3 北一輝の思想と日米戦争の遠因 ―「日本改造案大綱」
4 橘孝三郎の愛国革新運動
補足)九・一八事変は満州事変の中国側の呼称
6 血盟団事件
7 農民と陸軍による革命 ―アントン・ツィシュカの観察
8 盧溝橋事件の真相とその発展
9 ナチスに支配された日本
10 近衛内閣と三国同盟および新体制
11 仏進駐より対米開戦まで
12 自滅の戦い
13 勝敗の計算
14 爆撃の惨禍
15 言語圧迫と虚偽の宣伝
中篇 反戦苦闘の十余年
1 反産運動
2 粛軍論
3 ユダヤ人排斥
4 三国同盟反対運動と七・七事変終結論
補足)七・七事変は盧溝橋事件の中国側の呼称
5 渡辺経済研究所の設立
6 第二次欧州大戦と日本の立場
7 日本と米国および英帝国との貿易関係
8 近衛総理および重臣らに対する建言
9 反戦講演
10 『臣民の道』を読みて
11 一茶寮舌禍事件 ―投獄
後篇 戦争責任論
1 開戦の責任
2 戦争終結についての責任
3 反省
前篇 自滅への道
3 北一輝の思想と日米戦争の遠因 ―「日本改造案大綱」
・1924年武藤山路、1930年浜口雄幸、1931年の三月事件、十月事件、そして1932年井上準之助、團琢磨、犬養毅が続いて暗殺された。これらの陸軍青年将校らによる革命計画は、ついに1936年の二・二六事件として暴発し、その必然として七・七事変(盧溝橋事件)および日米戦争につながった。
・陸軍青年将校に革命思想と侵略戦争思想を植えつけたのは、北一輝(輝次郎)だった。
・北一輝によって刊行された「日本改造法案大綱」は、革命的青年将校の聖書のように扱われ、革命および戦争の起源をなした最も有力な思想であった。
・北一輝は日本をアジアの擁護者、世界の盟主を欲し反社会主義的な国家改造の断行を必要とした。その手法として天皇に指揮された日本国民の超法律的運動をもって現今の政治的、経済的特権階級を切開して棄てることを急とし「戦いなき平和は天国の道に非ず」と高唱している。
・太平洋戦争の起源は北一輝の思想そのものであることが肯定される。
・『改造法案の巻一「国民の天皇」の冒頭に「天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為に天皇大権の発動によりて三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を布く」とあるが、彼が常に天皇を奉戴する形式を標榜したことは単純な陸軍軍人を誘惑するに最も有力であったとともに、結局に於て天皇に禍いすることが最大であった。そして七・七事変(盧溝橋事件)のすこし前より陸軍が宣伝しかつ国民を威嚇し始めた「非常時を認識せよ」という標語は、七・七事変の進行とともにますます国民に対して圧迫感を与え、ついに威迫によって政党を解消せしめたのみならず、完全に言動を封鎖し、日米戦争の起るや陸軍の国民並びに政治家に対する威嚇は一層強烈となり、たえず憲法の停止、戒厳令の施行などの強迫的流説が世上に伝えられた事実を回顧する時は、ただちに北一輝の第一主張の影響が想像されるであろう。』
・二・二六事件によって北一輝は死刑となったが、それは「日本改造法案大綱」の起草から18年目であった。そして二・二六事件によって陸軍は北一輝の霊魂を指導者として、改造法案を経典として一路邁進するに至るのである。即ち陸軍は「非常時を認識せよ」との標語のもとに何事も知らざる国民を威嚇して陸軍軍備の大拡張を強行し、七・七事変を惹起し、ナチス・ドイツと提携し、北一輝の言うごとく公然と北進、南進の政策を進行するに至った。
7 農民と陸軍による革命 ―アントン・ツィシュカの観察
・昭和の革命が陸軍部内に十数年来培われて来た膨張思想と、農村の疲弊に対する農村青年の不満とが合わさり爆発したものであることは明らかであるが、日本の内部の欠陥と危険性について鋭く捉えたのは外国人であった。日本人には制限と立場による偏見的観察があり、身近であるが故に深い探求を怠ることがありえる。これに対して外国人は自国や他国と比較しながら日本の実情を広くかつ綿密に、また継続的に観察するため客観的視点から把握することができる。その外国人とはアントン・ツィシュカであり、1936年「世界に於ける日本」という書を著している。内容は第一部日本本国、第二部南方への渇望、第三部日本の北方発展、第四部世界の日本、より成りたっている。1937年12月、日本政府は輸入禁止処分にしたが、1940年2月、内閣情報部において翻訳刊行している。しかしながら情報部は「秘」とした。渡辺銕蔵氏はこの書を枢密顧問官や政党の領袖その他の政治方面の首脳に示したが、誰一人としてこの書を知っている者はいなかった。このような「秘密主義」が日本国民のみならず政治家を愚にし、結局亡国の一大原因を成したのであると述べている。
・『日本は工業化によって経済的伸展を強いられ、三井による発展の途を辿るに到った。三井は露骨な敵意を示さず、最低限度の力と最低限度の武装―世界的貿易―に依って前進することができるのである。
第一は農民の窮乏、第二は農業の生産方法は工業的生産方法ほど近代化出来ないという事実、第三は余りに農民が多く、又工場で余地を見出し得ないほど人間が余りに多いという悲劇的な事情―これ等の事によって、日本は武力的発展と軍事上の伸長を已むなくせられ、市場の獲得ばかりでなく、土地征略にも導かれて行った。』
9 ナチスに支配された日本
・『ヒットラー統率する「国家社会主義ドイツ労働党」、即ち「ナチュラル・ゾチアリスチュシェ・ドイッチェ・アルバイター・パルタイ」、略称「ナチス」の国家社会主義思想、あるいは全体主義思想と国防国家政策および反英米の立場は、これと同一系統である北一輝や橘孝三郎らの思想にすでに多年感化されて来た日本の軍部にとっては、誠に天来の新福音のごときものであった。ヒットラーの政党弾圧、議会無視、強力専制政治、予算制度廃止、再軍備による軍備大拡張などは、いずれも多年日本の政党政治、軍備縮小などに無限の恨みを懐いていた軍部にとっては、まさに絶好の模範としてたちまちこれに随喜したことは容易に理解の出来ることである。ソヴィエト・ロシアの第一次および第二次五ヵ年計画の進行を見守る陸軍としては、ヒットラーに心酔しかつナチス化し、そして後者の巧妙にして有力な宣伝と策動によって、ナチズムは瞬く間に日本全国を風靡したのである。二・二六事件によって陸軍青年将校は日本の「政治の推進力」となったが、それは間もなくナチ第五列によって代られたのである。』
13 勝敗の計算
・『日米戦争は私から見ればまったく理由のない戦いであり、日本の自殺行為である。しかしながら十年来の迷夢より醒め得なかった陸軍は、ヒットラーの華やかな姿に魅せられてますます甘い夢を貪ろうとした。しかし彼らは、多年彼らの抱いた夢であった乾坤一擲の戦いを始めるに当って、果たして勝敗について計算をしたであろうか。私は精密な計算をしていたが故に、しかも大局を見ていたが故に、米国との戦いを日本の自殺行為であると言ったのである。しかるに日本は大局を見得なかったのはもちろん、彼らの専門的な責任である勝敗に関する計算を全然していなかった。のみならずかかる計算をする者を国賊視して圧迫した。彼らは彼らの古い信仰と、慢心と、自己の面子とのみによって、八十万の国民および子孫と、二千数百年の歴史とを賭けたのである。しかも彼らはこの大賭博を敢えてするに当たって頼むべからざる他力に依頼し、あるいは神助を期待し、統帥部に課せられた重要な計算をなす責務を怠ったのである。
米国の有する資源力―生産力―科学力―資本力およびこれらより生じ得べき武力、並びに米国人の精神力、政治力などに関して幾何の研究がなされ、どの程度の計算がなされたのであろうか。そしてこれらの諸点に関して日本の持つ力といかような比較計算がなされたのであろうか。恐らく日本陸軍は何もしなかったのであろう。もし何事かをしたとすれば、彼らはただちに算盤を投げ出したはずである。
証拠として最も代表的の数字だけを二、三挙げて見よう。日米戦争開始の年昭和十六年(1941)の数字[年産額]だけを見ることとする。』
-石炭:日本「71,630」 米国「505,489」
-石油:日本「142」 米国「189,985」
-鋼材:日本「4,720」 米国「75,185」
14 爆撃の惨禍
・燃草を敷いたような日本の木造家屋は密集していたため、米国の焼夷弾による攻撃は凄まじかった。東京は3月10日と5月23日、5月25日の3回の爆撃によって東京の大部分が灰虚と化した。横浜市は1回、わずか数時間の攻撃で全滅した。川崎、蒲田の工業地帯も一夜にして焼野原となった。あと1カ月、爆撃が続いたなら日本の全ての都市は地上より姿を消したであろう。
・日本本土に投下された爆弾は117,200余個、焼夷弾は4,760,000個に上り(沖縄を除く)、焼失家屋は2,333,000戸、死傷者総数564,000人に達し、住むべき家を失った者は10,000,000人を超えた。
・罹災者と疎開者は全国に充満し、ひたすら爆撃による生命の危険を逃れるために右往左往し、行不安な配給にその日の露命を繋ぐのみであった。
・『三月十日の帝都大空襲後間もなく、小磯内閣に代った海軍大将鈴木貫太郎氏は、「国民よ、我が屍を乗り越えて進め」と言った。日本の政治的情勢では戦争終結を決行せんとする総理大臣は暗殺の危険を覚悟せねばならぬ故、私は鈴木大将がこの覚悟示したものと諒解していた。しかるに豈図らんや、鈴木内閣はただ一路決戦を呼号して「敵近接すればこれを水辺に撃滅し、敵上陸すればまさにこれを陸上に残滅せんのみ」と豪語した。そして作戦部が各地海辺に怪しげな堡塁を築き、長野県の山地に広大な防空壕を掘り進め、兵士は爆弾を懐いて匍匐[ほふく]して戦車に体当たりの練習を行い、山村漁村では竹槍を練習している間に、日本の都市は次々に焼夷弾の焔になめられて行った。
さらに航空母艦が近接して、その軽爆と艦載戦闘機が飛行場や工場や交通機関を脅かすに至り、加うるに有力な艦隊が接岸してついに艦砲射撃に見舞われるに及んでも、鈴木内閣は「敵近接すれば撃滅する」と言う約束を少しも実行しなかった。
沖縄島の失陥とともに、九州一円は昼夜兼行の爆撃に息つく隙もないような有様であった。
そして空襲と艦砲射撃は北より南へ南より北へと移動しながら、日本全土をほとんど隙間もなく破壊し燃え上がらせて行った。それでも鈴木内閣は「敵上陸すれば残滅する」と言い続けた。そしてその間に敵は大都市の爆撃を終って、中小都市を順序よく一つ一つ焼き立てて行った。さらに空中より投下された機雷によって各地の港湾に出入りする汽船は盛んに海底に葬られ、たださえ尠ない日本の船腹は最後の止めを刺されるような姿となった。』
中篇 反戦苦闘の十余年
8 近衛総理および重臣らに対する建言
・昭和16年1月、渡辺氏は日本俱楽部の友人により、近衛総理大臣との面会の約束を得たものの、2回にわたってキャンセルとなったため、渡辺氏はご自分の意見を「時事要言」と題する建言書を同年2月16日に執筆し、近衛総理、木戸内府、松平宮相並びに町田忠治、井坂孝の五氏に提出し、2週間程後に30部を刷って重臣全部、政界有力者、外交界に配布した。さらに1ヵ月後に80部を刷って、地方の有力者にも手渡した。この建言書は幣原喜重郎、小畑酉吉、吉田茂(総理大臣)、宇垣一成の四氏より書面をもって賛成の意向が示されていた。なお、「時事要言」の項目は以下の通りである。
甲 外政
(一) 米国とは絶対に戦うべからず。
(二) 貿易の杜絶は直ちに日本の民力の萎微と国力の低下を来すべし。
(三) 米国及び英国との国交を調整すべし
(四) 七・七事変は一日も速やかに終結せしむべし。
(五) ソヴィエトに対する警戒を怠るべからず。
乙 内政
(一) 経済機構の変革論を抑制すること。
(二) 立憲政治及び議会を尊重すること最も肝要なり。
(三) 言論及び報道の統制の偏頗を是正すること。
10 『臣民の道』を読みて
・『昭和十六年(1941)七月、文部省は教学局編纂による「臣民の道」なる小冊子を発刊して、これを全国に配布した。これは「朝日新聞」に連載され、かつ或る所で百万部を印刷し、これを全国の教師、学生、大工場等に配布したと言われている。これには数種の教師用が出版されていて、教師の問いに対して答案が示されており、学校の試験に「臣民の道」の内容が問題として出されるように、学生をして信ぜしめる術策である。かかる卑劣な計画をしてまで、この冊子を強制的に全国学生に読ましめんとしたのである。その内容は欧米の文化を激越野卑な言辞をもって口を極めて罵倒し、ナチズムとファシズムを賞揚して、これを日本の臣民の道とすべきかのごとき言説をなしたものである。その意図が国民の反英米思想を刺激し、米国との戦争に誘導せんとするにあったことは疑いを容れぬところである。敗戦後、新聞紙上に発表せられた近衛公の手記なるものに現われたところによると、昭和十六年七月二日の御前会議に於て、仏印進駐を決定し、南方進出策を開始したから、これと呼応するために計画したもののようである。したがってこれに伴って漸次に米国に対する国内の開戦空気を作る手段としたものに相違ない。この年の六月、ソ連攻撃を開始したヒットラーが、日本の蹶起を促さんとして猛烈に日本に働きかけたことも想像される。スピンクス博士がナチス第五部隊が文部省にも入り込んだことを指摘していることは、この事実によってもその真実であることが証明される。』
イメージトレーニング
1 実力発揮とイメージトレーニング
・イメージトレーニングには2つある。1つは実力発揮のため、もう1つは新たな技術、戦術の習得のためである。イメージによって体だけでなく心も反応する。
・『本番1週間前から毎日、試合当日を想定しながら一連の流れや成功イメージを作るようにしておくと、本番では頭の中では「8回目のプレー」になるのです。イメージの中でリハーサルをいっぱい積んでおく。実力を発揮するためにイメージトレーニングというのは非常に重要です。』
2 対応策の蓄え(ソリューションバンク)
・イメージトレーニングの中で大切なのは、起きそうな出来事を想定して対応策の蓄えを作っておくことである。これを「ソリューションバンク」という。つまり、対応策をシミュレーションしておくということである。例えば、試合開始早々に失点してしまったような場合でも、チーム内にそのような事態の時の準備(ソリューションバンク)があれば、動揺を最小限に抑えることができる。
3 メンタルコーチの重要性を痛感した2014年W杯でのブラジル代表
・心技体の中で「技」と「体」は1日にしてなくなることはないが、「心」はたった1試合でも大きく崩れる。これはサッカーにおいて「心」の重要性を説いている。
2014年W杯での日本対コートジボワール戦、後半62分にディディエ・ドログバが交代出場し、スタジアムの空気も試合の流れも一変した。スタジアムの異様な雰囲気に飲まれてしまった日本イレブンは64分、66分と2分間で2失点し、1対2で逆転負けとなった。[日本リード-疲労が出はじめる後半途中のドログバ登場⇒その時、日本チームの心理的準備はどうあるべきか]というソリューションバンクを用意しておけば悲劇は避けられたかもしれない。
4 サッカーで「2点リードは危険なスコア」と言われる理由
・「2点リードは危険なスコア」は、“トップダウン性注意”と“ボトムアップ性注意”に関係している。トップダウン性とは集中させられている状態、受動的な状態である。2—0になると勝っているチームは守りの気持ちが強くなる。一方、負けているチームは点を取ろうと能動的になる。これがボトムアップ性である。そして、試合展開は負けているチームがコントロールし始める。このバランスを欠いた一方的な試合の流れから失点は生まれやすい。この危機的状況を避けるために必要なことは、受動的ではなく能動的に守るということである。つまり、トップダウン性ではなくボトムアップ性の本来の守り方を徹底することである。このようにボトムアップ性注意になれば、コートジボワール戦のように2分間に2失点するようなことは避けられる可能性が高くなる。
・サッカーはボールを保持しているチームが有利である。これはチーム全体がボトムアップ性注意の状態であるため、ゲームをコントロールしやすいからである。この相手に対抗するために重要なことはトップダウン性注意になりがちな守備をボトムアップ性注意に切り換えた守備にすることである。これは「パスを回されている状態」から「パスを回させている状態」に変えることである。
5 新たな技術、戦術を身につけるためのイメージトレーニング
・イメージトレーニングの2つ目の目的である新しい技術や戦術の習得がある。このトレーニングでは、まずは頭の中のイメージ作りから入る。それには良いプレーを見ることが何よりも大切である。次の段階は見たプレーをスローモーションのようにやってみることである。
・イメージトレーニングではリラックスした状態でやる必要がある。それは、イメージトレーニングは右脳を使うためである。
※リラックスとイメージトレーニング:調べたところ次のようなことが分かりました。『ストレスは創造的思考の最大の障害の一つであり、リラックスしているときの方が創造的なアイデアが出やすいと神経科学・心理学の文献で繰り返し指摘されています。』
・イメージトレーニングには内的イメージと外的イメージがある。前者は自分目線、後者は観客目線、自分を外から見ているような俯瞰のイメージである。トップアスリートはこの2つができる。外的イメージには自分のプレーの映像を見ることがとても役に立つ。また、人のプレーを後ろから見ることもとても有効である。スキーのインストラクターが生徒の順番を変えるのは、インストラクターのすぐ後ろの生徒の習熟度が高いことが明らかだからである。サッカーでもドリブルやキック、トラップなどコーチやドルブルが得意な選手のプレーを後ろから見てイメージを作る。
6 2種類の真似学習
・真似学習にはモデリングと呼ばれているものもある。モデリングは対象とするプレーヤーの思考まで探るものである。例えばメッシのプレーを真似するだけでなく、「なぜメッシはその場面でこのようにボールを触ったのか?」、「なぜここでスピードを下げたのか?」という狙いまで探ることである。これがモデリングと模倣の違いである。モデリングはプロセスも大事にする。試行錯誤を通し、上達を目指して自分自身と向き合うことに価値がある。
7 五感を使うことの重要性
・トップアスリートはイメージする時に雰囲気、音、感触、感覚的な部分、筋運動感覚、リズムといった五感をフル活用している。これは研究結果としても出ている。
・イメージだけのグループ、体を動かすグループ、イメージトレーニングと体を動かすトレーニングを両方行うグループで行なった研究では、両方やったグループが断トツだった。一方、イメージトレーニングだけ、体を動かすだけのトレーニングは大差なかった。重要なことは、ただ単に体を動かすだけの練習は十分ではなく、体と同じくらい頭を使うということである。特にゆっくり体を動かすということも大切である。
8 イメージ力を上げるための工夫
・予測力、判断力、決断力はとても大切である。この3つは作戦能力に関わる。この3つがないと臨機応変な対応ができない。試合の流れを感じて、攻めに出たり、相手の攻撃の特徴を見て守り方を変えたりといった対応をできるようにするためにこれらの能力も磨く必要がある。
9 ボトムアップ理論
・サッカーで「センス」があるというのは、周りが見えていて、相手の嫌がることをできるということであり、そのためには、予測力、決断力、判断力が重要である。
10 試合当日のイメージトレーニング
・イメージトレーニングは習慣化されると良い。試合当日はシンプルに成功イメージを作り、試合前のストレッチの間などにもできる。
・イメージトレーニングは個人だけでなく、チームとしてイメージを共有することも大事である。例えば「今日の相手はこうしてくるだろうからその場合はこう対応しよう」といったことを話合うことです。
11 プロ選手が試合のためのバス移動で音楽を聴く理由
・音楽には「この曲を聴くと気持ちが乗る」といった条件付け効果がある。また、自分なりの集中法であったり、緊張を和らげる目的だったりもする。
セルフコントロール
1 自信の作り方
・「自信」の構成要素は3つである。①結果や目標に対する自信、②自分の能力、③自信に影響する要因。
① は「勝利」、「得点」、「評価」という結果からの自信である。②は「背が高いからヘディングが得意」、「ドリブル、技術、フェイントが得意」、「強い気持ち、諦めない気持ち」など、「強い気持ち、諦めない気持ち」など、心技体の能力からくる自信である。主にここは長所とか武器からきている。③は「生活からくる自信」である。これには普段のトレーニング、家庭生活といった日常生活からくるようなものである。
・この3つが高まると「よい自信」となる。結果による自信は相手が必要であり、また失いやすいが、②能力、③生活からくる2つの自信は自分で作ることができる。
2 準備からの自信を作る
・大切なのは能力と生活から作る自信で、この2つを一つの言葉で表現するなら「準備」である。つまり、自信と準備は表裏のような関係である。
・準備することは継続的なやる気、モチベーションにつながる。継続に大切なのは「自分らしさ」、「自分のペース」である。
3 理想的な心理状態とは
・試合中の理想的な心理状態とは、「集中している」状態である。これは今やるべきこと、今できること、目標に対してスポットライトが当たっている状態である。そして、「今やるべきこと」は何かを分析する必要がある。
5 広島がG大阪に逆転勝利した試合
・「能動的な守備」とは相手が自由にボールをコントロールしている状態である。特にファールは相手のペースを加速させるため危険である。このような相手ペースを崩すには、「自由に持たせない」、「判断を遅らせる」、「パスを弱める」、「パスコースを限定する」、「プレッシャーにいくと見せかける」、「わざと体を当てる」など相手のペースを乱し、自分たちのペースに引き込む工夫をすることが相手の流れを止めることになる。
・人は興味あるものに対しては集中できる。これは言い換えれば、興味を作れば集中力が高まるということである。種を蒔くと、「どんな芽が出るのか」、「どんな花が咲くのか」という興味が湧くように、サッカーでも「こうなるかもしれない」、「こういうことが起きるかもしれない」という予測があると自然と興味は高まる。つまり、「相手はどのようにするのか」と考えることで、自然に集中力、注意力が高まっていく。これがボトムアップ性注意である。相手の攻撃に受け身となり、無意識的に漠然と相手に合わせ守っている状態は非常に危険である。これがトップダウン性注意である。
6 試合前は多くを話さない。できるだけシンプルに
・人間は一つのことにしか意識が向いていないと他のことに注意が向かないという傾向がある。そのため注意することは「相手を感じてプレーすること」である。試合で大切なことは相手を感じて味方が優位なスペースにボールを運ぶことである。それは相手にとって嫌なプレーになる。
・ボールを持っているチームが優位なのは相手の注意を惹きつけ、先手を取った積極的なプレーをしかけることができるからである。それは相手に疲労をもたらし、集中力の低下から守備の穴を作ることにつながる。
・集中力はやるべきことを明確にすることで高めることができる。集中力が散漫になり始めるのは、心と体の疲れ、トップダウン性注意が続いている局面(相手に合わせ、流れにまかせたまま無意識的に守っているような状態)である。
・サッカーのプレーは進行していくが、あえて「間」を作っていくことも大切な戦術である。これはわずかな時間を使って集中し直す工夫をすることである。これを「リフォーカス」という。チームとして、個人として現状を把握し、いますべきこと次に起ることを探り次の適切な行動を取れるようにする。
7 「ゾーン」を作るには
・適度な緊張感、興奮は重要だがこれには「目標」、「課題」、「役割」などが重要である。練習日誌や自己分析、「自分がどうなりたいのか」という中・長期的な目標、課題、プラン、役割、イメージは特に有効である。
11 コントロールできないものはコントロールしない
・セルフコントロールにおいて大切な考え方に、「自分がコントロールできないものをコントロールしようとしない」というものがある。天気、ピッチ、過去などは変えられない。コントロールできるのは自分の心である。今できることは何かを考え、それを行動に移すことである。これを「心理的柔軟性」といい、とても重要である。
・天気もピッチのコントロールできないが、その状況を把握し試合に活かすことはできる。
12 パフォーマンスルーティーン
・「パフォーマンスルーティーン」とは一連の動作・手順で集中力を高め、イメージをつくり、プレーの成功率やパフォーマンスの向上を促すものである。
・『ルーティーンは走りながらでもできないとダメだと思っています。つまり、オフ・ザ・ボールの状態でセルフコントロールを完了し、最終的には無意識でできていることがベストです。オフ・ザ・ボールと駆け引きで消える動きやフェイク、そういった相手を引きつける動きが重要だと、私はいつも言っています。それ自体をルーティーンにしてしまうということも指導しています。一度出て戻る、戻って出て裏を取る動きなどですね。
FWとしてのボールの受け方も、それ自体をパフォーマンスルーティーンとみなしてもいいと思います。あとは、オトリです。オトリの動きを入れていくこと。自分のペースで自分の得意なことを出していくこと。それを自分のルーティーンにしていく。ただし、ルーティーンを作りすぎると相手に読まれてしまいます。』
・シンプルなルーティーンとしては、まず「姿勢」である。姿勢の確認の動作、重心の確認(体重を感じる)からリラックスすることもできる。次は「呼吸」である。呼吸を意識し、確認、整える、感じることで集中力を高めることができる。
・声は大切である。声は2つの効果があるとされている。一つは自分のセルフコントロール、そしてもう一つはチームメイトに集中やリラックス、鼓舞するメッセージを発信する。
感想
「モチベーション(やる気)がなければ、メンタル強化は意味がない」そして、重要なのは「自己決定理論」であり、これは自分で考えて行動していく力を養うことにより成長するものである。また、メンタル強化と目標達成は表裏一体のようなものである。
これらのことから、「モチベーション⇒目標達成(自分で考えて行動していく力)⇒メンタル強化」ということではないかと思います。
西武台高校の選手は全国高校サッカー選手権出場を目指し。また多くの選手はJリーガーもしくは大学サッカーを目指しているように思います。目標設定は浦和西高の選手にとって難しい部分かもしれません。しかしながら、目標達成のプロセス自体に重点を置き、ひとり一人が「自己決定理論」と真剣に向き合うことは、高校3年間のみならず、豊かな人生につながる“揺るぎない力”を獲得できるような気がします。
画像出展:「日本の人事部」
「自己決定理論」を見て、マーク・ザッカーバーグの著書『マーク・ザッカーバーグの生声』に書かれていた内容を思い出しました。
それはザッカーバーグが社員を採用するときに重視している2つの才能です。一つは「心からの共感」です。そして最も重視しているのは「地頭のよさ」ということです。この「地頭のよさ」は「自己決定理論」を追求することで磨かれるように思います。
新3年生、2年生で戦う新人戦は、母校である埼玉県立浦和西高が南部支部の優勝校となりました。
上位リーグである県リーグ2部(S2)に所属する川口市立高校に競り勝ち、準決勝でも同じくS2のさいたま市立浦和高校との厳しい試合にも勝利することができました。ここ数年、市立浦和高校には常に先行されてきただけにOBにとっても会心の勝利でした。その勢いを維持し、決勝でも強豪の大宮南高校を破り、支部優勝を果たしました。
画像出展:「Yahoo」
県大会の出場権も手に入れ、初戦を突破すれば当面の目標ともいえる、県内ベスト8に入ります。その大事な一戦の相手は県リーグ1部(S1)の上位リーグ(プリンス2部)で戦っている西武台高校でした。
前半に失点を許したものの、0対1で折り返し、まだまだ勝負の行方は分からない試合展開でしたが、後半立ち上り3分にPKを与えてしまい0対2となった時点で、西高にとっては非常に難しい状況となり、終わってみれば0対4という厳しい結果になりました。
50年前、さいたま市ではなく浦和市の時代、野球一色だったスポーツ界でしたが、浦和ではサッカーが第一でした。そして、浦和市立南高校、浦和市立高校、埼玉県立浦和高校、県北にあった児玉高校、そして浦和西高の5校が県内では強豪チームとなっていました。当時のことを思い浮かべると、「ベスト4からが本当の戦い」と思って大会に臨んでいました。もっとも3年間で2試合、不甲斐ない試合をしてしまったことはあるので100%ではないのですが、思うに、この強い気持ち、「勝って当たり前」という強いメンタルが大きかったのではないかと思います。
言いたいことは、西武台vs浦和西の試合はメンタルにおいて、西武台>浦和西になっていたのではないかということです。この壁を突破できないと格上相手に勝つことは難しいと思います。
「どうしたらメンタルを強くすることができるのだろうか?」と思って、見つけたのが今回の『サッカーメンタル強化メソッド』でした。霧が晴れるというか謎が解けたというか、素晴らしい内容の本だったため思わず顧問の先生にメールしてしまいました。
はじめに
モチベーションと競技力
1 モチベーション
2 外発的動機付けのエスカレート性
3 指導者、親は気をつけたい外発性動機付けの報酬
4 やる気の勘違い
5 目標とモチベーション
6 結果目標
7 目標設定の書き方 ―8つのルール―
8 プロセス目標
9 目標設定を日常生活で活かす方法
10 仮説を立てて行動してみよう
11 アチーブメント・ゴール・セオリー(達成目標理論)
12 目標設定の注意点
13 指導者に求められること
14 目標設定用紙との上手な付き合い方
15 指導者にとっての「モチベーター」、「ディモチベーター」の分かれ道
16 継続的モチベーションを持つために必要な自分の型
イメージトレーニング
1 実力発揮とイメージトレーニング
2 対応策の蓄え(ソリューションバンク)
3 メンタルコーチの重要性を痛感した2014年W杯でのブラジル代表
4 サッカーで「2点リードは危険なスコア」と言われる理由
5 新たな技術、戦術を身につけるためのイメージトレーニング
6 2種類の真似学習
7 五感を使うことの重要性
8 イメージ力を上げるための工夫
9 ボトムアップ理論
10 試合当日のイメージトレーニング
11 プロ選手が試合のためのバス移動で音楽を聴く理由
セルフコントロール
1 自信の作り方
2 準備からの自信を作る
3 理想的な心理状態とは
4 集中力とその種類
5 広島がG大阪に逆転勝利した試合
6 試合前は多くを話さない。できるだけシンプルに
7 「ゾーン」を作るには
8 リラックスするためにはどうしたらいいか
9 斬新的筋弛緩法でリラックス
10 練習への落とし込み方
11 コントロールできないものはコントロールしない
12 パフォーマンスルーティーン
13 ポジティブシンキング
試合に対する心理的準備
1 試合当日の朝の使い方
2 調子の良かった日、悪かった日の分析
3 会場の下見
4 試合当日に喋り出す選手と無口になる選手
5 ドーピングは“勝ちたい”からするのではない
6 指導者は結果を求めていいのか?
7 心理的な柔軟性
8 サッカーにおけるコミュニケーション
9 話し上手、喋るのが得意なだけではリーダーシップは発揮できない
10 ノンバーバルコミュニケーションを用いて心理的に優位に立つ方法
11 チームビルディング
12 リンゲルマン現象
参考文献
おわりに
モチベーションと競技力
1 モチベーション
・モチベーション(やる気)がなければ、メンタル強化は意味がない。宝の持ち腐れである。
・人間のモチベーションは「外発的動機付け」と「内発的動機付け」の2つがある。重要なのは「内発的動機付け」であり、「自己決定理論」とも呼ばれる。これは自分で考えて行動していく力を養うことにより成長する。
4 やる気の勘違い
・やる気の根源は、自分の中で「やれそうだ」、「できそうだ」というポジティブな見方が増えていくことで生まれる。
・「やる気は周りや結果が作るもの」は勘違いである。この勘違いをなくすことが、サッカーのメンタル強化には必要である。人間の理想的なやる気というのは、自分でしか作ることができない。
・モチベーションに有効なものは目標設定である。
5 目標とモチベーション
・目標設定はメンタルトレーニングのベースになるものである。目標がなければメンタル強化はうまくいかない。
・明確な目標があるからこそ、人はやる気が出て、強い気持ちで前へ進んでいくことができる。
・目標設定には「結果目標設定」と「プロセス目標設定」の2種類がある。
9 目標設定を日常生活で活かす方法
・目標は意識することである。意識すると頭の中にある“センサー”の感度が良くなる。そして、見たもの、聞いたものをどうやって活かすのかを考えるようになる。
・「こうすれば、こうなるんじゃないか?」と行動に仮説を立てて、実際にやってみる。このやり方を繰り返すことで、少しずつ目標達成に近づいていく。
11 アチーブメント・ゴール・セオリー(達成目標理論)
・目標に対する考え方、捉え方でその人のやる気、行動、感情が変わってしまうという理論が「アチーブメント・ゴール・セオリー(達成目標管理)である。
・『自我目標思考性が強い人というのは成績を考えた行動をします。これも行動が変わります。さらに言うと、課題目標思考性が強い人が目指すものは自分の新しい技術の習得や自分自身です。つまり、進化、グレードアップを目指すわけです。自我目標思考性が強い人は結果、評価、比較を重視して、目指すべきものが好成績と高評価になります。こうなると、情報の進め方、対応の仕方が変わってくるわけです。つまり失敗やミスというものに対する考え方、対処の仕方に関し、課題目標思考性の強い人は、失敗やミスに対する対処として「すぐに切り替えて次の準備」、「一つ発見できた」、つまり「成功の情報源を得られた」というプラスの捉え方になります。
しかし、自我目標思考性が強い人は「ミス、失敗=低評価」の情報源となります。評価が下がる情報と考えるわけです。自分自身の成績が下がる情報源となりますので、それを隠そうとしたり、不安を見出してしまう。これにより次のプレーの質も変わってくる。当然ながら、その影響はプレーにも出てきます。ミスを恐れたプレー、失敗を恐れたプレーによって、ますます視野が狭くなる。味方しか見ることができなくなってしまいます。サッカーは相手あってのスポーツのはずですが、重要な相手が見えなくなってしまうのです。そうした状況で起きてくるミスとしては、相手の残像にパスを出したり、できることだけを一生懸命、惰性的にやろうとして無理やりドリブルでゴリゴリやってボールを失う。難しいシュートを無理に打って外してしまう。味方に出そうと思って出したものの、手前に相手がいて真正面でカットされてしまう。
しかし、課題目標思考性が強い人はミスをチャレンジに変えますから、ミスする度に次のプレーを模索したり、ミスも次の駆け引きに利用します。つまり、目標というものを考えた時に、結果目標が大切ですが、そのためのプラン・プロセスというのが大事になるわけです。
プラン・プロセスからどんな気づきがあって、近い将来どういう役に立つのかということが大事なのです。つまり、結果を出すためだけでなくて、そのための中身、工夫、内容、小さなプラン、これが大事になってくるということです。』
12 目標設定の注意点
・「いけそうだ、できそうだ」というのが“結果期待感”である。ミスに対して「ミスは気づきや発見だ」と捉えることができれば、ミスも「よい結果につなげられる」とイメージすることにより、自分自身で“結果期待感”を上げることができる。
・“効力期待感”は自分の長所や得意なプレーに対して、それを「このチームにとってこう役に立つ」とか「こうやれば点が取れそうだ」といった具体的なプランを考えることで得られる。
・「こうすれば」、「こうやれば」という工夫を増やす。そして「今すべきこと」に意識を向ける。この作業は自信の構築にもつながる。
13 指導者に求められること
・『「どんなことに気づいたか?」、「どんな見立てを立てたのか?」という質問をどんどんしていきましょう。選手が持っていたイメージ、どんなチャレンジをしたのか、どんな欠点、見立てを立てていたのか、それについての質問をしていくことが大切です。練習、試合においてはあまり局面的な結果をその場で評価しないということも大事です。』
14 目標設定用紙との上手な付き合い方
・やらされているという意識では忍耐力が続かない。大切なことは自己実現意欲である。
15 指導者にとっての「モチベーター」、「ディモチベーター」の分かれ道
・モチベーターとはリーダーである。選手に「目標達成は可能」という気持ちにさせられる人である。選手のトライ&エラーを寛容に受け止め、それに対して選手に適切なフィードバックを行う。一方、「お前なんか・・・」といった言葉はディモチベーターの特徴である。
Ⅳ章 未完の国家プロジェクト
●対日理事会の懸念への対応
・『青木[戦争調査会長官]は議事概要を報告したのち、対日理事会側の危惧がつぎの点にあることを指摘する。戦争調査会は「再び敗けない様な戦争を計画する」のではないか。青木は第一回総会における幣原の発言を引用して、調査の目的が「再び戦争をしないのだ」ということを明らかにすることにあると説明する。他方で、「此の戦争は正当であったか、どうか、止むに止まれぬ戦争であったと言う様な委員の内外に極めて少数ではあるがある」ことを認める。』
●開かれなかった最後の総会
・『青木は朝海[朝海浩一郎]から示唆を得る。朝海は青木にアチソンの意向として、戦争調査会から「軍人出身者を全部やめさせてはどうか」と伝えたからである。このことを知った幣原は憤慨した。「一体戦争のことを調査するのに軍人を皆抜いてしまってやれば、どんな調査や結果が出来るかね」。ともあれ青木は吉田首相の了解も得て、戦争調査会の存続を対日理事会に求める文書を作成する。
ところがあらためて青木が吉田を訪問すると、吉田は言った。「其の後マックアーサー元帥との間に相談した結果、軍人だけやめる程度では納まらなくなって、結局調査会全体をやめねばいかぬ」。
青木は8月14日に今度は幣原に呼ばれる。吉田首相を交えて善後策を協議した三人は、マッカーサーが戦争調査会廃止の意向であることを確認する。廃止までの猶予期間は、一、二ヵ月程度だった。廃止は9月末が想定された。
青木は総会の開催を急ぐ。ところが青木によれば、幣原は総会の開催に「左程熱意がない様に見受けられた」。青木の見るところ、幣原は戦争調査会を完全に廃止するのではなく、別の民間団体に引き継がせることを考えているようだった。結局のところ、最後の総会が開かれることはなかった。
10月2日の第16回・対日理事会において、アチソンは戦争調査会の廃止を正式に認める。アチソンは言う。「日本政府は、対日理事会に於いて英国及びソ連から批評があったので誤解されることを好まぬので、自らの発意によってこの調査会を解消することになったのである」。
アチソンの発言は不正確だった。形式手続き上は日本の自発的な意思による廃止だったのだろう。しかし実際はマッカーサーのGHQが対日理事会の構成国間協調を重視した結果だった。少なくとも戦争調査会問題に関する限り、マッカーサーが対日理事会を無視して独断で決めることはなかった。マッカーサーの連合国間協調の重視は、戦争調査会の運命を狂わせた。
こうして「なぜ戦争は起きたのか」を追求する国家プロジェクトは未完に終わった。総会=二回、部会長会議=五回、第一部会=八回、第三部会=九回、第四部会=四回、第五部会=六回、連合部会(第一、第二)=三回、連合部会(第一、第二、第四)=一回、連合部会(第二、第五)=一回、参与会議=二回、合計41回の会議にもかかわらず、戦争調査会は調査結果を報告書にまとめることなく、9月30日付で廃止された。』
Ⅴ章 戦争の起源
●明治維新の運命―八木秀次
・『同時代の人びとに広く共有されたこの論稿[丸山眞男の論稿「超国家主義の論理と心理」など]にはつぎの一節がある。』
「維新直後に燃え上がった征韓論やその後の台湾出兵などは、幕末以来列強の重圧を絶えず身近に感じていた日本が、統一国家形成を機にいち早く西欧帝国主義のささやかな模倣を試みようとしたもの」だった。この一節を読めば、明治維新直後の征韓論と台湾出兵が戦争の起源だったと考えても無理はなかった。』
●問題は帝国憲法の運用
本書には、『問題は帝国憲法の構造よりも運用だった』という記述があったのですが、疑問に感じたので調べてみました(Perplexity)。それによると、「構造と運用の複合問題としての理解」とされており、以下のような説明となっていました。
1)近年の研究や政策論では、明治憲法体制の特徴として、①天皇に形式上あらゆる権限が集中し、②内閣・軍部・枢密院などがそれぞれ「天皇の名」を盾に分立し、③統合する司令塔(首相のリーダーシップや文民統制)が制度的に弱かった点が、総力戦時代に適応できなかったと指摘されている。
2)帝国憲法については「条文構造のあいまいさ・権限分立の設計そのものに欠陥があり、そこに軍部や右翼が有利になるような運用・解釈を積み重ねた結果として、統帥権独立や文民統制不在が深刻化した」という複合的な問題として見るのが主流的理解になっている。
●徳富蘇峰と馬場恒吾
徳富蘇峰氏と馬場恒吾氏の人物像について調べてみました。
1)二人の言説は「帝国主義の時代の支配的思考」を代表する重要な史料として尊重されつつも、今日の価値観からそのまま採用するのではなく、「当時の制約のもとでのリアリズムが、どこまで歴史的責任を伴ったか」を検証的・批判的に読むのが妥当だと考えられている
2)馬場の命題も、歴史的理解としては「そう考えた人がいた」事実として押さえつつ、現代の国際秩序や人権・反植民地の観点からは、「帝国主義の時代だからこそ、それを批判し別のパスを模索すべきだった」という反対方向の教訓を導くのが、現在の研究や歴史教育の一般的なスタンスに近い。
●「最大の禁物は、干渉政治」―徳富蘇峰の対中国認識批判
これに関しても聞いてみました。
1)現代の研究では、この指摘は一種の「遅れてきた警鐘」として評価され、日本が中国を主体性あるパートナーとしてではなく、干渉の対象として見てきたことが、長期的な対立と破局的戦争を呼び込んだという歴史的教訓を示すものと理解されている。
2)蘇峰自身が戦時プロパガンダの中枢にいたという事実から、「干渉政治の危険性を見抜きながら、結果としてその流れを止められなかった(むしろ支えた)」矛盾した知識人像としても批判的に検討されている。
●「平和とデモクラシー」―第一次世界大戦の日本への影響
・幣原総裁は戦争の起源を明治維新までさかのぼるのではなく、しかし、満州事変よりは前の第一次世界大戦であると考えていた。それは第一次世界大戦が日本経済に及ぼした影響である。それは戦争成金の登場であり、風紀の乱れと1923年9月1日の関東大震災による大きなダメージである。
・第一次世界大戦後の「大正デモクラシー」と、国際的な「平和と民主主義」という風潮は軍部に対する批判につながったが、幣原総裁はこの風潮に危機感を強くもった。
・『幣原は後悔する。「我々が余り財政緊縮を主にして、不必要に色々な方面の反感を惹き起こしたと云うことも、実は私等の責任のように考えて居って、何とか他の方法はなかったものかと近頃は胸に手を当てて考えて居ることがあるのです」。幣原は第一次世界大戦後の「平和とデモクラシー」の風潮が軍部を追い込み、のちの反発につながったと考えた。別の言い方をすれば、幣原は行き過ぎた「平和とデモクラシー」をもたらした第一次世界大戦後にのちの戦争の起源を見出した。』
※著者の井上寿一先生が「平和とデモクラシー」と呼ぶのは、日本史の「大正デモクラシー」という枠を越えて、第一次世界大戦後の国際的な「平和と民主主義の時代」を強調するためとのことです。
●1919年という転機
・第三部会(財政経済)委員の渡辺銕蔵は、1919年が戦争の転機となったと主張した。この1919年は国家社会主義者の北一輝が「国家改造案原理大綱」を執筆した年だった。北が執筆した本書は二・二六事件(1936年)の首謀者たちに思想的な影響を及ぼした。 渡辺にとって戦争の原因は二・二六であり、起源を考えるならば、北の著書が発表された1919年となる。
●国民の軍人蔑視の感情
・1922年8月の「東京日日新聞」に掲載されている陸軍軍医の一文は次のようなものである。
『「今や軍縮の声は軍人を脅かし、彼らを「不安のドン底に陥れている」。子供が言うことをきかないと、親は「今に軍人にしてやるぞ」と脅す。軍隊が演習で「へとへとに疲れて」ある町にたどり着いても、「町の民衆はいそいで戸をしめ、内から錠をおろす」。兵隊の宿営を断るためだった。若い将校は結婚難に苦しめられ、「カーキ色の服は往来でも電車の中でも汽車の中でも、国民の癪の種」になっていた。』
Ⅶ章 日中戦争から日米開戦へ
●なぜ戦争は早期に終結できなかったのか?
この章は、私にとって最も関心の高かったものですが、書かれていたのは渡辺銕蔵委員の以下の部分だけでした。
『日中戦争の回避の可能性を前提とする戦争調査会は、「なぜ起きたのか」よりも「なぜ起きた戦争を早期に終結できなかったのか」の方に強い関心を持った。戦争調査会はこのような問題関心から資料を収集し、関係当事者にインタビューしている。』
●失われた可能性
松岡は日米戦争の回避を目的として外交を展開していたはずであったが、日米了解案交渉に反対したことは、「いまだに残る昭和史の謎の一つ」であるとされているようです。
1)松岡の疑念は形式的には正当でしたが、交渉の実質的な進展を妨げ、結果的に日米戦争回避の可能性を狭めることになった点で、「戦略的には失敗だった」というのが、歴史研究の評価になっています。また、米国側の思惑は、この交渉を通じて対日圧力をかけ続けること自体が目的であり、「正式提案か非公式か」という形式は二義的だったとの指摘です。
交渉の継続は戦争回避を意味するものではありませんが、松岡洋右氏が可能性の芽を摘んでしまった行為であったことは確かだと思います。
Ⅷ章 戦争の現実
●レーダーと戦争
・日本にとっての敗因の一つは「電波兵器」(レーダー)だった。米軍がミッドウェー海戦でレーダーを実戦配備してきたことは陸海軍とも予想できないことだった。
・第五部会(科学技術)の会長の八木秀次はレーダー技術の専門家であり、「八木アンテナ」を発明した。当時の日本のレーダー技術は米国にもそれほど劣っていなかった。真空管に関しては日本は米英を上回っていた。しかしながら、米国は開戦と同時に数千人(英国は開戦前から数千人)の研究者、技術者を動員して翌年6月のミッドウェー海戦では実戦配備していた。米国のレーダーに用いられていたのは特許切れの「八木アンテナ」だった。
●決戦を求めて
・『どこかで決戦を挑み、打撃を与えて、和平に持ち込まなければ、戦争は終わらなかった。決戦はいつか。戦争調査会第五部会における1946年7月10日実施の遠藤三郎陸軍中将・軍需省航空兵器総局長官の談話記録が重要な情報を提供している。
遠藤が軍需省航空兵器総局長官に就任した1943年11月の航空機の喪失は2405機、翌12月は2004機だった。遠藤は陸海軍に資した。「海軍はニューギニアの北で決戦をやるといい、陸軍はフィリピンで決戦をやるという。また海軍では6月頃やるといい、陸軍では8月頃にやるという」。遠藤は抗議した。「そう何遍も決戦をやられては困る」。たしかに決戦とは一回である。何度も戦うのは決戦ではなかった。しかし参謀本部にも軍令部にも計画はなかった。
遠藤は質問を変えた。油(航空用ガソリン)は大丈夫か。海軍は説明した。しかし陸軍からは説明がなかった。状況は極めて深刻だった。「出来た飛行機は油がなくて飛べない。従って余り飛んだやつを御覧にならなかったと思う」。さらにたとえばフィリピンでは飛行場が破壊されていて、補充されて行った飛行機のほとんどは戦わずに壊された。1944年11月頃になると、敵の基地が近くに造られたこともあって、飛ばずに飛行場に並べておいた飛行機は残らず潰された。この年11月、戦闘で失った飛行機900機に対して、戦うことなく敵に壊されたのが950機だった。飛行機の半数以上が戦うことなく失われたことになる。
以上の遠藤の談話記録によると、1943年の末においても、陸海軍の作戦は統合されていなかったことがわかる。決戦の天王山がいくつもあるのでは、どれほど飛行機を増産しても追いつくことはできなかった。
遠藤のみるところ、軍需生産の現場にも問題があった。軍人は軍職を「高尚な仕事」と考える一方で、勤労を「蔑視」していた。軍需生産には熟練工や技術者が欠かせない。ところが彼らを「どんどん徴兵にとって行く、そうして軍隊内においてつまらん所にみな使っておる」。遠藤は批判を込めて言う。「工場で働く労働者を非常に蔑視するという観念が支配したのではないか」。このような軍需生産の現場の状況では、生産効率性が上がるはずはなかった。』
●物資動員計画
・陸海軍の戦略の不統合と組織利益の対立は、物資動員計画に深刻な影響をもたらせた。
・1937年10月に設立された企画院は1943年11月に軍需省に吸収された。この企画院において物資動員計画の立案の中心にいたのが稲葉秀三だった。稲葉は戦争調査会のインタビュー(1946年2月20日)に応じている。その中で、物資動員計画の未達成の原因が「計画とその実施に携わった軍部官僚の経済認識の不足と軍内部における陸海双方の協力性の欠如」にあると指摘した。そして、次のように結論づけている。「我国としてこの様な一つの[甘い見通し]のもとに開国以来の運命をかけて太平洋戦争に投入したのではなかったであろうか。」
・『さかのぼれば第一次世界大戦後、つぎの戦争は総力戦になるとの危機意識から陸軍統制派を中心に、総力戦体制の構築が目標になったはずである。ところが実際には、総力戦体制が未確立なままに、総力戦を戦うことになった。稲葉は悔恨の念を込めて言う。「私の痛感したことは総力戦争に於ける経済の重要性を口で主張する、或は肯定するということと、それを具体的に認識し、実行するということは別なことであるということである」。物資動員計画の重要性は認識されていた。しかし実行されずに総力戦が始まる。稲葉が言うように、「総動員に対する殆ど準備なしに戦争に突入した」。これでは勝つことはできなかった。』
・『陸海軍では組織利害の対立がつづいていた。陸海軍の組織利害の対立がつづいていた。陸海軍の組織利害の対立は日露戦争後にまでさかのぼる。1907年に帝国国防方針が決定される。仮想敵国の順位は、ロシア、アメリカ、フランス、ドイツとなった。「陸主海従」に海軍が反発する。陸軍はロシア(ソ連)、海軍はアメリカをそれぞれの仮想敵国として軍備拡張を進める。陸海軍の戦略は、沖縄戦が始まる戦争末期に至っても、統合されなかった。陸海軍が戦略を統合し、どこかで一度だけ最後の決戦を挑み、打撃を与えて和平に持ち込まなければ、戦争は終わらなかった。付言すれば、レーダー技術の開発が遅れたのも、陸海軍が相互に研究を教えなかったからである。』
・『軍部内の組織利益の対立を調整・統合する政治の力が必要だった。この調書は慨嘆する。「吾々は衷心大政治家の出現して政戦両略の調整按配を責任を以て律し物動計画の運営を適正ならしめんことを冀ったが遂に実現せられなかった」。物動計画の観点からすれば、軍部を統合する強力な政治的リーダーシップを持たない日本は、戦う前から敗北していた。』
●極限状況の工場生産
・『この地域の住民は「文化的水準」が高く、「能動的な進歩分子」も多い。また北欧やスイスのような地形と気候は、高級測定機器や時計の生産などの精密作業に向く。それゆえ戦時中は、精密工業の工場九棟がこの地域に新設、移転、疎開していた。
調査官はこのうちのある工場を訪れる。従業員1700人中、大部分は動員学徒と国民学校卒業の少年少女だった。このような生徒たちに工場で働いてもらうには、「教育家」あるいは「宗教家」にも似る愛情をもって教育しなければならないはずだった。ところが現実には「全く反対に軍隊式、恐怖教育を強いたのであった」。この工場では従業員は「圧制下に従うのみ」だった。
このような「沈滞気分」に満ちた工場では、戦争が終わると、従業員は自主的に退職していった。戦争がこの工場に遺したのは、「卑屈な従順だけだった。労働組合が結成ざれることもなく、戦後になっても、「封建的暗さ」を感じさせる工場のままだった。』
「卑屈な従順」:自分の価値を過小評価し、相手に気に入られようとして、自分の意見や尊厳を捨ててまで従うこと。
●対ソ外交への過大な期待
・『戦争調査会は調査すべき事項がまだ残っていた。主題は戦争終結外交である。なぜ戦争終結は遅れたのか。戦争の犠牲者がもっとも多かったのは、戦争の最後の年である。もしも1945年の初頭に戦争が終結していれば、東京大空襲も沖縄戦も、広島・長崎への原爆投下も、ソ連の対日参戦のなかった。
戦争終結が遅くなった原因の一つは、対ソ外交への過度な期待だった。日本はソ連の仲介による和平に望みを託しつづけた。しかしソ連が和平の仲介に応じることはなかった。代わりにソ連は8月8日に宣戦を布告した。
東京の外務省本省もモスクワの日本大使館もソ連の仲介を求めつづけた。和平の仲介役にふさわしい国は、戦争当事国の双方に影響を及ぼすことができなければならない。この観点からすると、ソ連は適役だった。ソ連は一方では日本と中立条約を結びながら、他方では第二次欧州戦線において米英との連合国だったからである。
状況は4月5日に暗転する。この日、ソ連が日ソ中立条約の不延長を通告してきたからである。外交上の常識からすれば、ソ連の通告は中立条約の破棄通告に等しかった。それにもかかわらず、和平の仲介を求めて、日本の対ソ外交は積極化する。なぜ日本は可能性を失った対ソ外交にすがりつづけて、戦争終結を遅らせたのか。』
おわりに
●外務省報告書「日本外交の過誤」
・『幣原から政権だけでなく戦争調査会も引き継いだ吉田茂は、戦争調査会の廃止から数年を経た1951年1月、斎藤鎮男外務省政務局政務課長を箱根の別荘に呼び出し、指示を与えた。吉田の指示とは、満州事変から敗戦までの時期における日本外交の失敗の原因を課長クラスで研究して、結果を報告するようにというものだった。それから約3ヵ月後、彼らは「日本外交の過誤」と題する約50頁の報告書をまとめる。吉田にとってこの報告書は、外務省版の戦争調査報告書だったのだろう。』
感想
最も印象に残ったことは、「卑屈な従順」という言葉です。これこそが太平洋戦争時の日本だったのではないかと思いました。陸海軍の統合ができなかったことも、レーダーを軽視して開発が進まなかったことも、全国各地の大空襲による甚大な被害と膨大な民間人の戦死者を直視せず、2つの原爆を投下されるまで戦争を終結できなかったことも、日本国が「卑屈な従順」という“空気”に支配されたことによって、脳の機能が膠着化し客観的、合理的判断ができなかったからではないかと思いました。
太平洋戦争後に、「戦争調査会」が発足していたことは知りませんでした。しかしながら、その調査会は報告されることなく廃止になっていました。
私の1番の関心は、「なぜ、開戦したか」ではなく、「なぜ、日本が自ら戦争を終わらせられなかったのか」という点でしたが、いずれにしても、非常に興味深い本だなと思い購入しました。
著者:井上寿一
初版発行:2017年11月
発行:(株)講談社
井上寿一氏は、自身を特定の党派イデオロギーに結びつけるより、「穏健な政党政治」「現実的な外交・安全保障」「歴史から学ぶ抑制的な政治」を重んじる、やや保守寄りの現実主義的歴史家として位置付けられているとのことです。
ネット検索したところ、興味深いサイトを見つけました。
画像出展:「コラムNo.3【 終戦後における戦争調査および史実調査 】」
大東亜戦争調査会は幣原内閣による閣議決定「敗戦ノ原因及実相調査ノ件」と、それに続く同1945年11月20日の「大東亜戦争調査会官制」に基づき、内閣総理大臣の下に設置されました。連合国軍の占領下という状況にあったため、大東亜戦争調査会の設置はGHQの了解の下になされましたが、その設置には幣原内閣の意思が強く働いていたと言えるでしょう。
画像出展:「戦争調査会資料綴 昭21.1.21~21.5.25」
ここらは国立公文書館 アジア歴史資料センターにあった資料です。
目次
はじめに
●戦争検証の国家プロジェクト
●40回以上もの会議、当事者インタビュー、独自の資料
●敗戦直後の切実さ
●自立的な検証の重要性
●「文明の裁き」対「勝者の裁き」を超えて
●道を誤った原因
●本書の構成
●公文書管理と戦争調査会
第一部 戦争調査会とその時代
Ⅰ章 戦争調査会の始動
●8月15日の車内の光景
●日本再建の基本方針「終戦善後策」
●難航する総裁ポスト
●長官に就いたエリート官僚
●戦犯逮捕と公職追放のなかで―委員の人選
●全国津々浦々の調査
●「さしたる期待すら持ち得ない」―戦争調査会への批判
●第一回総会の開催
●幣原の強い意志
●「なすべからざる戦」―自由主義者・渡辺銕蔵
●1920年代への回帰
●戦争責任をめぐる論戦
●「簡単に避けられた」―アメリカ化の影響
●1930年代はブロック経済だったのか?
●馬場恒吾対幣原喜重郎
●三つの基本方針
Ⅱ章 戦争調査会は何を調査するのか?
●「未だ部会開催に至らず」―第一回部会長会議
●資料の公募―第二回部会長会議
●駐兵問題和平工作
●「公募」の結果
●ラジオ番組「真相箱」
●戦争の原因と敗戦の原因
●石橋蔵相への談判―第三回部会長会議
●GHQ内の対立
●芦田均の危惧
●各部会の調査項目
Ⅲ章 戦争回避の可能性を求めて
●財政経済からみた戦争―第三部会
●「日本経済再建の基本問題」
●後進資本主義国・日本
●領土拡張は必要だったのか―渡辺銕蔵の反論
●戦時下農業の機械化と共同化
●馬場・幣原の再びの論戦―第四部会
●軍部の政治介入
●国家主義の台頭
●二つの日米開戦の回避可能性
Ⅳ章 未完の国家プロジェクト
●敗戦の現実
●各国代表の横顔
●米対ソ英中―対立の構図
●問答無用のマッカーサー
●「米をすぐ寄こせ」―深刻化する食糧危機
●「半官的団体」―問題の顕在化
●争点は補償問題と労働立法問題
●急進的か、穏健な労使協調か
●問題の収束?
●政権交代と公職追放
●対日理事会の懸念への対応
●ソ連の問題視―戦争調査会と旧軍関係者
●楽観を許さぬ情勢
●青木の決意
●開かれなかった最後の総会
第二部 なぜ道を誤ったのか?
Ⅴ章 戦争の起源
●明治維新の運命―八木秀次
●戦争の構造的要因―平野義太郎
●問題は帝国憲法の運用
●日露戦争の意味―馬場のソ連への反論
●戦争と革命
●徳富蘇峰の近代日本擁護論
●徳富蘇峰と馬場恒吾
●「最大の禁物は、干渉政治」―徳富蘇峰の対中国認識批判
●「平和とデモクラシー」―第一次世界大戦の日本への影響
●1919年という転機
●国民の軍人蔑視の感情
●軍縮と成金の時代
●総力戦体制の確立―バーデン・バーデンの盟約
●海軍省の「知恵袋」堀悌吉の証言
●海軍の軍縮の受容
●加藤友三郎と財部彪
●日米妥協案の受託
●なぜ統帥権干犯問題が起きたのか?
Ⅵ章 戦争と平和のあいだ
●満州事変の不拡大の可能性
●協力内閣構想
●なぜ構想は実現しなかったのか?
●江木翼の反論
●二大政党制の限界
●もう一つのチャンス=リットン報告書
●日中冷戦
●人工問題と資源不足問題
●五・一五事件の波紋
●『外交時報』による検証
●保護貿易と自由貿易
●高橋蔵相の対満投資抑制論
●青木得三の反論
●修復に向かう日中関係
●革新運動対自由主義陣営
●「合法派」対「非合法」
●二・二六事件
●宇垣一成の組閣断念
●林(銑十郎)内閣の限界
Ⅶ章 日中戦争から日米開戦へ
●なぜ戦争は早期に終結できなかったのか?
●宇垣外交の可能性
●宇垣・池田・板垣・石射の連繋
●日中和平工作の暗転
●孤立する宇垣
●国策の大転換
●三国同盟と日中和平
●分岐点としての南部仏印進駐
●北進論の抑制
●対日全面禁輸―南部仏印進駐に対するアメリカの反応
●日米交渉の開始
●複雑化する日米交渉
●日米了解案
●松岡外交の展開
●失われた可能性
●岩畔豪雄の証言
●独ソ戦の影響
●連合部会の成果
Ⅷ章 戦争の現実
●南方戦線の現実
●サイパン島「玉砕」
●ミッドウェー海戦=不要不急の作戦
●レーダーと戦争
●ガダルカナル島放棄論
●決戦を求めて
●物資動員計画
●極限状況の工場生産
●都市部における生産性の低下
●戦時統制経済と新日本の建設
●対ソ外交への過大な期待
●問題を解く鍵
●一条件対四条件
●二つの「聖断」
おわりに
●「平和建設所」
●『太平洋戦争前史』全六巻
●外務省報告書「日本外交の過誤」
●戦争調査会と今の日本
●戦争責任の問題
●戦争体験の継承の問題
●歴史研究の問題
はじめに
・『なぜ戦後日本の政府と国民は自らの手で戦争原因を追究しなかったのか。自立的な戦争原因の追求は、第日本帝国の栄光の正当性に陥ることなく、戦前昭和の功罪を明らかにすることができる。
しかし自立的な戦争原因の追求はむずかしい。敗戦国は責任回避に走り、証拠の隠滅を図る。日本も例外ではなかった。陸軍は早くも8月14日の午後から機密書類の焼却を始めている。翌日正午の「玉音放送」後、中央官庁街を見渡すと、外務省・内務省・大蔵省から公文書の焼却による煙が立ち上がっていた。
このような状況にもかかわらず、さらに戦犯容疑者の巣鴨プリズン収監が始まるなかで、敗戦国の首相でありながら、幣原は戦争調査会を設置する。幣原の戦争調査会は、「文明の裁き」や「勝者の裁き」とは異なる、自立的な戦争原因追及の試みだった。そうだとすれば戦争調査会の歴史的な意義は大きい。敗戦国日本は自国の歴史にどのような始末をつけようとしたのか、戦争調査会が示唆しているからである。』
第一部 戦争調査会とその時代
Ⅰ章 戦争調査会の始動
●難航する総裁ポスト
・幣原の意中の人物は、戦前、元老に次ぐ重要な内大臣の地位にあった親英米派の牧野伸顕だったが断られた。次に首相を務めた若槻礼次郎にも断られた。その結果、やむをえ幣原自身が総裁の座に就くことになった。
●長官に就いたエリート官僚
・総裁と同等以上に重要だったポストは事務方のトップに当たる長官には、大蔵省から庶民金庫(政府系金融機関)の理事長の青木得三に依頼した。青木は理事長を辞して長官の仕事に集中した。戦争調査会で青木は辣腕を振った。
●戦犯逮捕と公職追放のなかで―委員の人選
・委員は学識経験者から20名が任命された。この他に臨時委員18名、専門委員3名、参与8名が任命された。事務局内には2つの課(庶務課と資料課)、5つの部会(政治外交、軍事、財政経済、思想文化、科学技術)に対応して、5つの調査室が設置された。各部会の部会長は次の通りである。斎藤隆夫(衆議院議員、日本進歩党)、飯村穣(元憲兵司令官、陸軍中将)、山村宗文(元三菱信託会長)、馬場恒吾(読売新聞社社長、貴族院議員)、八木秀次(大阪帝国大学総長、電気工学、元技術院総裁)の5名であった。
●「さしたる期待すら持ち得ない」―戦争調査会への批判
・新聞の論調は戦争調査会に対して冷ややかだった。
-読売報知新聞の社説(1945年11月29日):戦争調査会が「ほんの申訳的に」、日本の敗戦の責任を問おうとしていることを疑問視して、「何故に侵略戦争を開始したかという戦争挑発の責任」を問題にすべきと述べている。
-朝日新聞の社説(1945年12月2日):「政府の企図する戦争調査に対して、われらは固よりさしたる期待すら持ち得ない」。これは政府の人選を問題視した発言で、戦争調査会の公正性・中立性が損なわれたとされた。
・戦争調査会を批判した言論人で戦犯容疑者となった徳富蘇峰は1945年11月26日に次のように記している。
『「元来米国その他連合国側が、戦争犯罪人を云々するは、本来敵国側であったから、不思議はない」。しなしながら「我が国民までが、戦争犯罪人を云々し、更に当局者が、その吟味者となるに至っては、極めて意外千万の事と、いわねばならぬ」。徳富にとって、負けた側が勝った側の裁きを受けるのは仕方がないとしても、負けた側が負けた側を裁くことは論外だった。』
・戦争調査はこのような国内社会の無理解、誤解、消極的な反応、批判のなかで、出発した。
●第一回総会の開催
・戦争調査は総会、5つの部会(必要に応じて連合部会を開催)、部会長会議(各部会の連絡調整)と参与会議の4つカテゴリーの会議体によって構成されていた。
●馬場恒吾対幣原喜重郎
・第二回総会は4月4日、目的は「調査の目標方針及方法」だった。
・幣原は「一つ御注意を願って置かなければなりませぬことは、今日対外関係に於きましては極めて機微なるものがありまして……列国は注意深い眼を以て見て居ります」。ということを伝えた。戦争調査会は国際監視下に置かれており、東京裁判が開廷されようとしていた(開廷:1946年5月3日)。
・馬場は「戦争を始めた其事自身が間違って居るのではないか」。それでも調査をするのであれば、「戦争と云うものの価値、或いは不価値、或いは役に立たぬということ」を明らかにすべきであると発言した。
Ⅱ章 戦争調査会は何を調査するのか?
●戦争の原因と敗戦の原因
「昭和19年(1944年)、『戦争はやめるべき』との発言が憲兵に密告され、流言蜚語の罪で投獄された」
・『第二回部会長会議においても異彩を放っていたのが渡辺銕蔵である。渡辺は戦争原因に関連して、開戦決定を批判する。「いろいろな方から、開戦すなわち敗戦だ、こういう意見が大分出た。私も堅くそう思っておる。日本とアメリカと戦争すれば、百パーセント敗けるに決まっておる。これが私の考え方である」。
そうだからこそ渡辺は、戦争になるとは「夢にも想像できなかった」。渡辺はつづける。「然し我々のような考え方は、或は少数であるかも知れない。まあ少数であるからこそ、排斥されたり圧迫されたりしたのだろうと思います」。渡辺は「私共は、ドイツも敗けると思っておった」とも述べている。反ナチス運動に加わり、戦時中、投獄された経験のある渡辺の発言に嘘はなかった。
なぜ「開戦すなわち敗戦」だったのか。渡辺は戦争の経済学の視点から断言する。「非常に正確に数学的に、出来ないということを説明できると思います。殊にアメリカを相手にして戦うだけの物資を調達することができるか」。
八木も同じ意見だった。「どうしても戦時中に敵側に依存して、輸入によって物を解決しなければならなかった」。日本が中国と戦争をつづけながら、南方に武力進駐する背景にあったのは、対米経済依存の現実だった。1939年7月26日、アメリカは輸入で第一位、輸出で第二位の貿易相手国だった。日米通商航海条約が廃棄される以上、アメリカに輸入を依存していた資源を求めて、日本は南進することになる。
渡辺は敗ける戦争を始めた責任だけでなく、敗ける戦争を早く止めなかった責任も追及しようとする。たとえばなぜサイパン島陥落(1944年)の時に、戦争を終結しなかったのか。あるいは東京大空襲の時に「たった百三十機でやってきて、百五十トンの焼夷弾を落としただけで、帝都はあれだけの焼野原になるのだから、これが何十万トン、例えばドイツへ四十万トン落とした。日本へその何分の一か、十万トンでも落とされたらどうなるか。大抵判断がつきそうなものだと思う」。
さらに五月にはドイツが敗れる。第二次欧州大戦が終結する。つぎはどうなるか。「これは子供でも分かるのですが、その後日本は焼土になった訳です」。渡辺は戦争終結のタイミングを逃して無駄に国民を苦しめた責任を追及しないではいられなかった。渡辺は戦争責任だけでなく、「国家困窮責任者」の責任も追及したかった。
青木長官は前年10月30日の閣議決定に立ち返る。この閣議決定の原案では調査会は敗戦の原因と実相を調査するとなっていた。それが戦争の原因と実相を調査すると修正されて、正式決定となった。青木は言う。「戦争の原因必ずしも敗戦の原因ではない」。戦争の原因と敗戦の原因は区別されるべきだった。なぜ戦争は起きたのか。なぜ戦争に敗れたのか。戦争調査会はこれら二つの問題に取り組むことになる。』
●各部会の調査項目
感想
「組織の命令には従う」これは基本です。ただし、その組織の判断が適切であることが前提です。もし、明らかに不適切な判断だとすれば、やはり、正す努力をすべきだと思います。
第一の悲劇は戦争を始めたことです。悲劇といえるのは、山本五十六連合艦隊司令長官などの進言を聞き入れて、冷静に戦力分析をしていれば避けることはできたかも知れません。
開戦時点においては、空母機動部隊の質と数で米国軍より優位にあった日本軍でしたが、ミッドウェー海戦で主力4隻と熟練搭乗員多数を失ったことで、空母航空戦力は回復不能なまでの打撃を受けました。以後、日本は空母戦力を削り取られ、米国は逆に、エセックス級を中心とする大量の空母を投入していくことで、量・質ともに圧倒的優位へと一気に傾いていきます。
近衛首相から「対米戦争の結果はどうなるか」と問われた際にも、「日本は二度三度も焦土化するだろう」と暗い見通しを示し、開戦に反対しました。また、海軍内外で親米派・穏健派として批判や孤立を覚悟しながらも、終始戦争回避・外交的解決を最優先していました。
画像出展:「幻の大戦果 台湾沖航空戦の真相 1/4」
この約15分の動画は“石原莞爾”さまのサイトから拝借しました。内容は「日本ニュース」からです。日本ニュースは、太平洋戦争を間近に控えた1940年(昭和15年)から終戦をはさみ、1951年(昭和26年)まで制作されたニュース映画です。
米国軍側の太平洋戦争中に損失(沈没)した空母は5隻ですが、日本軍は太平洋戦争期間中に14隻の空母を失いました。終戦時は日本が4隻、米国は29隻と約7倍の空母を保有していました。
1942年の米国軍の空母喪失
•レキシントン(USS Lexington, CV-2):1942年5月のサンゴ海海戦で沈没
•ヨークタウン(USS Yorktown, CV-5):1942年6月のミッドウェー海戦で沈没
•ワスプ(USS Wasp, CV-7):1942年9月に日本の潜水艦I-19の魚雷攻撃で沈没
•ホーネット(USS Hornet, CV-8):1942年10月のサンタクルーズ諸島沖海戦で沈没
そして、もう一つの悲劇は、極めて難しいことだったと思いますが、日本の意思と決断で戦争を終わらすことができなかったことです。それは最初の隠蔽という行為がその後の命運を左右しました。それはミッドウェー海戦の敗北を隠したことです。それは動画にも出てくるように、海軍と陸軍の無益な対立が背景にあり、事実が歪められたということです。大本営内に海軍と陸軍を統括し、総合的かつ客観的に判断できる人が不在だったという点が大きな要因だったと思います。
実際に戦争の分岐点となったミッドウェー海戦の敗戦原因は、陸海両軍内部の意見対立によって、当初予定していた8隻の空母が使えず4隻に減ってしまったというところにありました。
以下が、大本営の組織図です。形式上は天皇になっていますが、現実問題として、天皇が戦争を指揮していたわけではありません。本来は大本営の中に海軍と陸軍を統括する機能(リーダーシップ)が必要でした。
画像出展:「大本営発表 ねつ造された戦果」
お伝えするまでもないかもしれませんが、スポーツの世界に限らず「一枚岩になる」という表現がよく使われます。チーム内の指導者達と選手達との間、あるいは監督とコーチの間など、いずれも信頼関係は極めて重要です。お互いの信頼感がないチームは、勝利に対する意識が低く淡白で粘りがありません。
戦争においても、組織はとても重要だと思います。幹部と兵士、幹部間の信頼関係に基づく共同作業が基本だと思います。その意味では日本軍の中核となった大本営の組織の脆弱さが敗戦の第一歩であり、また象徴でもあったように思います。
ここで、日清戦争(1894~1895)、日露戦争(1904~1905)、第一次世界大戦(1914~1918)の時はどうだったのか調べてみました。すると、当時は元老という存在がいたことが分かりました。
元老は憲法上の地位は明文化されていませんが、首相指名、重要な外交・戦争決定で天皇に意見具申するという形で、実質的に最高意思決定を左右しました。また、日清・日露戦争期においては、元老は大本営の組織内ではなく、「大本営の外側」で天皇の私的顧問として動き、軍と内閣をつなぐ政治的ハブとして機能していました。
次に、太平洋戦争の時に元老はいなかったとされているのですが、その理由を調べてみました。
まず、「元老」は制度的に排斥されたというより「自然消滅」に近いようです。その背景としては、軍部と政党の台頭により元老の実力がそがれ、新しい元老をつくるほどの合意も人材もいなかったことがありました。結果として太平洋戦争期は「元老不在のまま軍と官僚・重臣会議が政策決定を担う 体制」に移行していったということです。
今一度、海軍と陸軍を統括し総合的に判断するリーダーを置くことは本当にできなかったのか調べてみました。まず問題と思ったことは、「軍政と軍令の二重構造」に加え、「大本営・政府・宮中の三重構造」があり、これらが複雑に絡んでいたという事実です。この「三重構造」と「二重構造」を「一つのシステム」として見ると、次の3つのレベルで複雑さと歪みが重なっていたことが分かります。
1.縦のラインが二重・三重に重なっていた
●本来は「国民 → 議会 → 内閣(政府) → 軍」という一本の政治・軍事の指揮系統が望ましいところ、戦前日本では「天皇-大本営(軍令)」「天皇-政府(国務)」「天皇-宮中重臣」の複数ラインが並立していました。さらに軍内部でも「軍令(参謀本部・軍令部)-天皇」と「軍政(陸軍省・海軍省)-天皇」のラインがあったため、誰が最終責任者として全体を見ているのかが常に曖昧になりました。
2.横の調整メカニズムが弱く、責任だけが拡散した
●大本営は作戦担当、政府は政治・経済担当、宮中は天皇を支える場、軍政は人員・装備、軍令は作戦と、それぞれ役割はありましたが、これらを横断的に束ねて「戦略(何のために・どこまで戦うのか)」を決める強い統合機関がありませんでした。
・形式上は大本営政府連絡会議や御前会議が「統合の場」でしたが、そこで話し合われる前に、大本営・政府・宮中それぞれの内部で調整・妥協案が検討されました。そして、最終の場では「責任を明確に取る決断」より「誰も決定的に反対しない妥協案」が選ばれやすい構造でした。
3.「天皇直属」を盾にした情報遮断と統制不能
●軍令機関(参謀本部・軍令部)は「統帥権独立」を根拠に政府からの統制を拒み、同時に「天皇直属」を理由に自らの判断を正当化しやすく、都合の悪い戦況情報を政府や国民に出し渋ることとなりました。(大本営発表問題)。
●宮中側は「天皇のご意思」を盾に政治へ影響力を及ぼし、政府側は軍事は天皇の特別な権限(統帥権)であり、口を出せないという理屈が前面に出ていたため、内閣・政府が軍の作戦や運用に本来あるべき政治的コントロールをかけられず、事実上、軍の好きなように動かれてしまっていました。
以上のように、「天皇の名のもとに動く複数の中枢」が互いに責任をなすりつけながら進む、という統制不能状態が生まれました。
画像出展:「歴代の天皇の車」
「大本営は作戦担当」、「政府は政治・経済担当」、「宮中は天皇を支える立場」、「軍政は人員・装備」、「軍令は作戦」というように天皇直下にあって役割は決まっていました。しかし、天皇は常に後部座席に座るものであり、御料車(日本国)を運転するドライバーは不在でした。その結果それぞれの組織のエゴや怖れや保身が御料車(日本国)を迷走させました。完全なドライバーとは言えませんが、何とかコントロールしようとした「元老」が日清・日露・第一次世界大戦のときにはいました。しかしながら、太平洋戦争の時には、その「元老」もいませんでした。これが「大本営・政府・宮中・軍政・軍令」の混乱を深めたと思います。
残念ながら、海軍と陸軍を統括するリーダーを立てることは、現実的にはほぼ不可能だったことが分かりました。それは、日本国は自らの意思で戦争を終結させる決断を下すことができない国だったということです。この事実を受け入れるならば、原点である「戦争を始めるべきではなかった」ということしか、大空襲と原爆による80万の民間人の命を救うことはできなかったということになります。
そこで、今度は戦争を始めた原因を考えることにしました。少し調べてみると、その原因は軍部の台頭にありました。そして、それは1920年代まで遡る必要がありました。
1.1920年代
●第一次世界大戦後、日本はワシントン会議(1921~22年)で海軍軍縮や中国の「門戸開放」原則を受け入れ、米英との協調を軸とする外交路線を採っており、外務大臣・幣原喜重郎のもとで、1920年代の対中政策は「内政不干渉・条約範囲内での権益維持」を掲げる穏健路線であり、中国国民政府と協調しようとする姿勢が基本だった。つまり、公式外交としては「国際協調の枠組みの中で、すでに獲得した権益(南満州鉄道・関東州など)を守りつつ、軍事的緊張を高めない」という方向であった。
一方、政財界・軍部のエリート層では、すでに1920年代の段階で「日本の将来の経済発展は満州抜きにはあり得ない」という見方がかなり広く共有されていた。ただし、当時の日本政府・外務省は「直接の併合(国土として取り込む)」よりも、「条約・租借・鉄道権益・駐兵権などを通じて経済的・政治的支配力を広げる」形を主眼としており、これを「対華権益」「大陸政策」として位置づけていた。
●「満州大陸は日本の生命線」と考えたのは、主に軍・政・財界のエリートで、理由は「経済(資源・市場)+安全保障(対ソ防波堤)+帝国拡張の中核」と見なされたからである。
1)経済面
-満州は石炭・鉄鉱石・穀物などの資源に富み、日本本土では不足していた原料・食糧の供給地として期待された。
-南満州鉄道は高収益事業で、日本最大級の国策企業となり、「満州開発=日本経済の成長エンジン」という意識が強まった。
-世界恐慌後、保護貿易とブロック経済が広がる中で、「自前の経済圏(自給自足圏)を持たねば日本は生き残れない、その核が満州だ」という発想が広がった。
2)安全保障・軍事面
-満州はソ連と接する国境地帯であり、「対ソ防波堤」「大陸における軍事前進基地」として重視された。
-日露戦争で多くの血を流して得た地であるという感情的正当化(「血で購った土地」)があり、「ここを失えば日露戦争の犠牲が無駄になる」という論理が用いられた。
3)帝国構想・イデオロギー面
-朝鮮・台湾と並ぶ帝国の中核植民地として、満州を足場に華北・華中へ経済的・政治的影響力を広げる「大陸帝国構想」が描かれていた。
-1930年に外交通の松岡洋右が「満州は日本の生命線」と表現し、このスローガンが政治・軍・世論に広く浸透していた。
-軍部や国家主義者は、国内不満や不況を外征・領域拡大で解決しようとする傾向があり、「満州生命線論」は対外膨張を正当化するプロパガンダとしても機能した。
●満州事変はその中で軍部側の膨張志向が一気に噴き出した転換点となった。
●満州事変にいたる柳条湖での南満洲鉄道線路爆破は関東軍の自作自演だった(外務省編『日本外交年表竝主要文書』など戦後の公的編集資料でも、「柳条湖事件は関東軍の自作自演であった」旨が記載されており、日本政府系の史料でもこの理解が前提になっている)。
2.1930年代
・日本の1930〜40年代の外交は、軍部主導の対外膨張と「ブロック経済に対抗する自給自足圏(大東亜共栄圏)」の追求によって、段階的に戦争へと踏み込んでいった過程だった。
3.1930年代以降の日本の軍事国家化
●世界恐慌・満州事変(1931年)以降、関東軍の独走や五・一五事件・二・二六事件など「テロとクーデター未遂」によって政党内閣が崩壊し、軍や官僚が主導する体制に移行した。
-五・一五事件は「既成政党・財閥打倒」「昭和維新」を掲げた若手将校・農村青年らの急進的テロ・クーデター
-二・二六事件は「昭和維新」「国体護持」「重臣・政党・財閥打倒」を掲げた陸軍皇道派青年将校による大規模クーデター
●1930年代半ばからは、軍部が内閣の存立を左右するようになり(現役武官制・軍部大臣単独辞任で内閣総辞職に追い込める)、満州・華北・日中戦争など軍事拡張が外交の中心になった。
●言論統制・治安維持法の強化などで反対勢力が抑え込まれるなどの過程を経て、「軍事が政治と社会を主導する体制=日本軍国主義」が確立した。
●1940年には大政翼賛会による一党体制化と国家総動員法による統制経済が進み、「戦時国家(国防国家)・軍事国家」と呼べる状態になったといわれている。
4.1933年、国際連盟脱退
・リットン調査団報告書は、「満州は中国の主権下にある」「満州国は日本軍の産物であり、承認できない」「日本軍は撤兵すべきだ」という骨子で構成されており、これを国際連盟総会が採択したことに対し、日本は抗議し1933年に連盟脱退を決めた。
※補足:日本にとっての「満州国」は、ロシアが一方的に樹立したウクライナ内の「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」に似ているのではないかと思い調べてみました。
『日本占領下につくられた満州国とロシアが支援するドネツク・ルガンスクは、他国領土に作られた傀儡国家という意味でよく似たケースだ」と整理してよく、その類似性を手がかりに、過去の日本の行為と現在の国際政治を対比して考えることは、むしろ国際法と歴史認識を深めるうえで有益だと考えられます。』
五・一五事件、二・二六事件に出てくるキーワードに「昭和維新」というものがあります。ポイントは、①既得権益化した政治家・財閥を排除、②腐敗した議会制民主主義と財閥支配を打倒 になります。それは当時の世界大恐慌による失業・貧困、農村の疲弊、財閥への反発、軍縮に対する軍部の不満などから生みだされたされています。
そしてこのクーデターによって、実際には既存の民主主義体制を破壊し、軍部独裁へ道を開く歴史的転換点となったとされています。
画像出展:「ウィキペディア」
まとめ
1. 太平洋戦争時の日本の組織は、「軍政と軍令の二重構造」に加え、「大本営・政府・宮中の三重構造」が存在し、これらが複雑に絡んで、責任と役割が極めて不透明な組織となっていた。そして、この組織の複雑さは、日本が自らの判断で戦争を終わらせることができなかった大きな要因となった。
2. 太平洋戦争は自作自演の満州事変、そして1933年の国際連盟脱退が戦争への道を作ってしまった。しかし、問題はそれより前、1894年の日清戦争からの軍部の台頭にあった。1930年以降、2人の首相、2人の大臣、そして元陸軍次官の5人が犠牲者となった深刻な事件が政治に暴力を持ち込んでしまった。この暴力の流れが太平洋戦争につながったのではないかと思う。
3. 五・一五、二・二六は許されるものではないが、その原因は腐敗した政治、既得権益化した財閥、世界大恐慌による失業・貧困、農村の疲弊などといった問題が原因だった。国民のために正しい政治が行われていたならば悲劇は避けられたかもしれない。
今の日本における懸念
新しい憲法により天皇は象徴天皇になりました。万一、戦争となった場合の日本における最高責任者は内閣総理大臣であり、その配下に防衛大臣-自衛隊が組織されるということになると思います。少なくとも太平洋戦争に見られた天皇を中心に「軍政と軍令の二重構造」と「大本営・政府・宮中の三重構造」という入り組んだ曖昧な組織にはならないと思います。そのような懸念はないと思いますが、一方で、今の日本においても隠蔽体質や暴力への寛容さ等は残っているのではないだろうかという不安と疑問を感じました。
1.情報公開と隠蔽体質
・森友学園問題の黒塗り文書を思い起こすと、日本における情報開示はどうなっているのかと思います。これは氷山の一角ではないのかと思い少し調べてみました。
画像出展:「92%黒塗り公文書の衝撃」
『新図書館建設をめぐって発表された基本計画や基本構想には、さまざまな立場の市民がそこに集まって、より豊かな地域文化をみんなでつくりあげていくというような美辞麗句が並べられている。なのに、そのプロセスの一端を記録した公文書には、計画文書の中身とはおよそ別世界の暗黒行政が現われたのは、いったいどうしてなのか。』
TBSが2012年に放送された番組に「運命の人」があります。これは1971年の沖縄返還協定を巡る「西山事件」をモデルに、ジャーナリストと外務省事務官との関係を中心に、国家権力とジャーナリズムの戦いと人間模様を描いたものです。調べたところ、この西山事件に関してはNHKの「1972年ニュースハイライト」という動画がありました
画像出展:「沖縄密約・外務省機密漏えい事件」
National Security Archiveなどを通じて、米国で沖縄返還密約の核心文書がまとまって公開されたのは1997年前後とされています。それ対して、日本ではどのような状況なのかを調べてみました。
以上のことから、少なくとも米国に比べ、日本政府の情報公開に対する考え方は消極的であると判断できると思います。
2.体罰について
・「体罰」を暴力の入口と仮定してその行為を考えてみました。1960年から1970年は、学校においても体罰は特に珍しいものではありませんでした。よくビンタをもらっている友人もいました。父母から苦情が出ているという話は一度も聞いたことがありません。
中学時代の部活では、殴る先輩はいなかったものの、1年生は毎日のようにしごかれていました。10か20がよく覚えていませんが、部則なるものもあり中には「先輩には服従する」というものもありました。友人の中には「服従」の意味を理解していたのかどうかわかりませんが、「先輩には服従しない」などと驚きの言葉を発してしまい、いきなり走らされたりしていました。これらは50年以上前の話ですが、思うに日本では体罰を容認する空気がありました。
画像出展:「AI(Perplexity)が作成」
『実際の運用と社会的許容度の高さにおいて、戦後の欧米・北欧より(体罰は)寛容だった。特に家庭での体罰に関しては、2020年の法改正まで明確な禁止規定はなかった』とのことです。
最後に
随分と脱線してしまいました。あらためて、最初にお伝えした「一枚岩になる」というお互いの信頼関係がない組織は、意識が低く淡白で粘りがないということを考えてみました。
特攻とは上官からの一方的な命令であり、一か八かの体当たりという淡白な作戦です。そして、そこには信頼関係はほとんど存在しないと思います。
一方、佐々木伍長の攻撃は父と岩本大尉の信念を引き継ぎ、いかに敵艦を沈めるかを深く考え、急降下爆撃という飛行技術を磨きあげて日本軍の勝利に貢献しようと、命懸けで何度も何度も果敢に出撃したという、戦う兵士の真の生き様だったように思います(実際、2度大きな戦果を上げました)。
多くの兵士を失った日本が戦争を続けるには、学徒出陣のように、戦争の素人を集めるしかなく、訓練もままならぬ状態で戦地に送られました。“特攻隊”とはそのような戦況が生み出した異常な作戦だったと思います。そこには「勝つため」という合理的な目的は存在せず、「止めよう!」ということを誰も言えない状況で、脳は思考することを停止し、ただただ無謀な戦いを続けていったということだったように思います。
●6回消された存在
・5回目の特攻から帰ったバコロド飛行場では、佐々木伍長の生還は話題になっていた。以外にも、それは英雄とは言わないまでも人気者だった。これは、空中戦の激しさやレイテ島を飛ぶ危険を良く知っていたためである。
・「佐々木が不時着したのなら、すぐにマニラに帰せ」という連絡が、夜、第四航空軍の作戦参謀から電話があり、翌朝、約6時間飛び続けてマニラに行った。九九双軽は本来4人乗りのため、狭く、また、1人での操縦は精神的にも体力的にも過酷なものだった。
・12月5日、マニラ湾近くのルバング島に寄り、マニラ空襲を知り、昼食を取り空襲が止むのを待って、カロ―カン飛行場に戻った。
・『「報告はいい。すぐに出発せよ、と参謀殿が言っておられる。あの軍偵(九九式襲撃機)について行け。あれは特攻隊の鉄心隊だ」と興奮した表情を見せた。
「ネグロスから帰ったばかりですし、体の調子も悪くて、空中勤務に耐えられそうにありませんから、休ませてください」今日佐々木はすでに、5時間ほど飛んでいた。
村崎少尉は苦渋の表情で、とても難しいと答えた。猿渡参謀長が大変な剣幕だと言うのだ。
九九式襲撃機は、内地から来たばかりで、250キロ爆弾を針金で胴体にくくりつけていた。佐々木の乗る九九双軽に比べて、航続距離は短く、速度も遅いので、あれではレイテまで行けない、行けば簡単にアメリカ軍に食われてしまうと佐々木は主張したが、聞き入れられなかった。
村崎少尉に言ってもムダなので、佐々木は直接、猿渡参謀長に会おうと決めた。
第四飛行師団の本部に恐れずに入っていくと、髭面の猿渡参謀長は陰険な目つきで睨み付けた。佐々木が報告を終えた後、疲労が激しいことを理由に休養を頼むと、猿渡参謀長は大声を上げた。
「いかん! 絶対に許さんぞ! すぐに、鉄心隊について出発しろ。目標はレイテ湾の艦船だ。船はどれでもいい。見つけ次第、突っ込め。今度帰ったら、承知せんぞ!」
佐々木は黙ったまま、猿渡参謀長の言葉を聞いていた。「船はどれでもいい。見つけ次第、突っ込め。今度帰ったら、承知せんぞ!」
佐々木は黙ったまま、猿渡参謀長の言葉を聞いていた。「船はどれでもいい。見つけ次第、突っ込め」という言い方は、とにかく死ねと言っているのと同じだと佐々木は思った。腹立たしかったが、もちろん、軍隊で反論は許されなかった。
佐々木が飛行場に戻ると、九九双軽はすでに燃料を補給され、500キロ爆弾が装着されていた。今までの800キロ爆弾は、もう飛行場にはなくなっていたのだ。
午後3時過ぎ、鉄心隊の3機が離陸し、佐々木が続いた。6回目の出撃だった。直掩の隼9機が特攻隊を先導した。
マニラから東海岸に出ると、攻撃隊は高度40~50メートルの低空を飛んだ。アメリカ軍のレーダーにつかまるのを避けるためだった。
日没の迫ったレイテ湾が近づいてくると、直掩戦闘機は高度を上げ、佐々木達も続いた。
レイテ湾の上空に来ると、機体の両側に無数の船が見えた。左側に、中でも一番大きく見える船があった。鉄心隊の松井浩隊長機がまっすぐにその方向に飛んだ。佐々木も後を追い、攻撃を決意した。
が、すぐに、機体は大型船と行き違いになった。佐々木は機体を傾けて左旋回し、大型船が右側に見えていた時に攻撃態勢に突入した。
高度1000メートル。大型船と平行の位置を取った時、突然、佐々木の後方に爆発が起こった。機体に損傷はなかったが、黒い砲弾の煙の固まりが後方に流れ去った。アメリカ艦船が高射砲を撃ってきたのだ。
画像出展:「乗りものニュース」
この写真は1984年、アメリカ軍が撮影したものでレイテ湾での戦闘とは無関係です。
佐々木があたりを警戒すると、機体の後方に黒煙が炸裂した。続いて、機体の左右に黒い固まりが上がって流れた。
あっと言う間に、高射砲の弾幕で、夕焼け空が曇ってきた。至近距離に起った炸裂が、機体を強く揺すった。佐々木は背筋に寒いものを感じた。
佐々木は左手に操縦桿を持ち、右手で爆弾投下の鋼索を握った。
高射砲に気を取られて、機体の頭を押さえるのを忘れて、500メートルほど上昇していた。目標船は、機体の軸線に入っていたが、ジグザグの回避運動を続けていた。
佐々木は機体を傾け、そのまま斜めに急降下させた。高度1500メートル、角度60度、時速450キロ。操縦桿を倒し続けると、時速が500キロに上がっていく。全身がゆがむような重圧を感じる。目標船が急速に大きくなり、今にもぶつかりそうになる。200メートルから300メートルに近づいた時、佐々木は必死に鋼索を引いて投弾した。その瞬間、目の前を黒い大きなマストが通りすぎた。
佐々木は目標船の舷側を海面すれすれに抜けると、機体を蛇行させた。海面から10メートルの高度だった。
佐々木が振り向くと、大型船が傾いているのがはっきりと分かった。
そのまま、佐々木はミンダナオ島のカガヤン飛行場を目指した。1回目の特攻出撃の時にも着陸した飛行場だ。
カガヤン飛行場に着いて、飛行場大隊長に「レイテ湾で大型船を撃沈しました」と報告した。電報班に頼んで、カロ―カンの村崎少尉に報告すると、早急に戻って来いという電報が返ってきた。
再び現れた佐々木は疲れた顔をしていた。カガヤン飛行場の人々は佐々木を歓迎し、大隊の幹部は会食に招き、佐々木のために宿舎の当番兵は特別にドラム缶の風呂を用意した。
喜んで入浴していると、自分の耳が聞こえなくなっていることに佐々木は気付いた。「連日の飛行の疲労のためだろうか」と不安になった。
2日間、佐々木はカガヤン飛行場の宿舎で休んだ。兵隊達は、佐々木をゆっくり休ませるためか、2日間かけて、丁寧に九九双軽を整備した。』
●嘘の戦死報告
・『12月8日は、3度目の開戦記念日だった。ようやく耳が回復した佐々木は、カガヤン飛行場にあった短波ラジオで、開戦記念の大本営発表を聞いた。
それは12月5日、万朶隊の一機が特攻攻撃により、戦艦か大型巡洋艦一隻を大破炎上させたという放送だった。万朶隊としては、佐々木と石渡軍曹の名前が挙げられた。
佐々木は烈しく混乱した。佐々木にとって、2度目の戦死発表だった。今回はカガヤンにいることはちゃんと無線で連絡し、返電も来ている。
さらに、発表の内容も理解できなかった。「万朶隊の一機」が大破炎上させたと発表しながら、11月15日、2回目の出撃で一番機として飛び立ち、行方不明になった石渡軍曹の名前が加えられていた。
放送を一緒に聞いた整備担当の少尉は、「12月5日の攻撃を、今日発表したのは開戦記念日の景気づけだよ。そのために、佐々木伍長をもう一度殺したのさ。その方が気勢が上がるかなら」とうがって言った。
佐々木は、「あの時、爆弾は確かに当たっていた。あれは、間違いなく撃沈している。それを大破炎上ぐらいに言うとは、なんということだ。だいたい、どうして石渡軍曹と一緒に発表するんだろう」と憤慨した。
そして、「2度も戦死を発表されたということは、猿渡参謀長達は、今度こそ自分を戦死させようとして、ますます厳しく出撃させるようになるだろう」と考えた。そして、そう思えば思うほど「俺は決して死なないぞ」と心の中で歯を食いしばった。
12月9日の朝日新聞は「三度目の出撃奏功。佐々木伍長戦艦体当たり」という見出しを一面に掲げた。
記事は、「万朶隊佐々木友次伍長が石渡俊行軍曹とともに単機憤怒の殴り込みだ」と書いた。一機に二人搭乗していたという設定のようだった。
佐々木の故郷、当別村は大本営発表と新聞記事によって、再び、大騒ぎになった。2度目の大がかりな葬式が行なわれたのだ。』
※補足:“撃沈”を“大破炎上”と誤って発表されたことに対し、強い憤りを感じたという佐々木伍長の気持ちは、無念の死となった岩本隊長を思い続け、命を賭けて米国軍と戦いそして戦死してほしいと願っていた日本軍の参謀達とも戦っていたということだと感じました。
●不時着
・『9日午後4時、佐々木はカロ―カンに戻るためにカガヤン飛行場を離陸した。兵隊が大勢出て、激励しながら見送った。誰もが、佐々木の童顔を見るのは、これが最後だろうと思った。
佐々木は直進を避け、ネグロス島の南部を迂回しながら飛んでいくうちに雨が烈しくなり、マニラのあるルソン島の手前、ミンドロ島に近づくと悪天候のために航路の測定が難しくなった。
雨雲を抜けようと高度を上げ下げしているうちに、目の下に見えたのがルバング島だと気付いた。すぐに機首を東北に変更した。すでに日没になっていた。
雨はますます烈しく、なにも見えなかった。計器だけが手がかりの計器飛行を続けた。混乱して海面すれすれを飛んだりしながら、ようやくマニラの街の光がかすんで見えてきた。
ホッとして燃料計を見ると、赤い警報灯が4つ光っていた。それは燃料がほとんどなく、あと15分か20分しか飛べないことを示していた。
カロ―カン飛行場はマニラの北にあった。すぐに場所が分かれば、なんとかなる。だが、マニラ市街意外は一面の暗闘だった。雨の中、佐々木は旋回を続けながら、着陸の合図である飛行機の前消灯を点滅させた。だが、飛行場の応答らしい灯は返って来なかった。
不時着しかないと佐々木は思った。佐々木の頭の中には、マニラからカロ―カンにかけての地形図があった。それを暗黒の底に投射して、国道を見つけ出した。
闇の中から電灯の光が近づいてきた。速度は200キロから220キロに抑えた。機体の脚は引っ込めたままにしている。
電灯の光が一瞬のうちに後ろ流れ去り、前消灯の光の中に、地面がぐっと浮き上がった。着陸の姿勢を取ると、すぐに大きな衝撃が起こり、機体は烈しい音を立てて地面を跳ね上がり、ぶつかり、地面の上を滑った。烈しい衝撃に佐々木は意識を失った。九九双軽は止まった。
佐々木が意識を取り戻した時、辺りは闇の中で静まり返っていた。どれくらい意識を失っていたか分からなかった。
今にもフィリピン人ゲリラが襲ってくるような恐怖に駆られた。日本兵が彼らに捕まると、なぶり殺しにされると言われていた。
佐々木は操縦席から飛び出し、機体の陰で様子をうかがった。体にはかすり傷もなかった。
雨はやんでいて、遠くに電灯の光が見えた。辺りはまばらに耕した田畑のようだった。佐々木は灯に向かって走り出した。途中に落ちてずぶ濡れになったが、そのまま走った。やがて、家の床下にもぐり込んだ。
ゲリラの村かもしれなかった。近くで犬が吠えた。向かいの家の窓が開いて、フィリピン人が上半身をのぞかせた。その窓の光が、佐々木の体を照らしだした。男と佐々木は恐怖を感じた。自分は素手で、何の武器もない。
男は大声を出して佐々木を手招きした。そして広場に案内した。
そこには、日本語が分かる若い男がいた。電灯のついた家に案内されると「ボカウェ村役場」という日本語の看板がかかっていた。けれど、常駐の日本人も日本軍もいなかった。同時に、幸運なことに、佐々木を狙うゲリラはいなかった。その夜、佐々木はフィリピン人村長の家に泊めてもらった。マニラから北に15~16キロの所にある村だった。』
●「臆病者」
・不時着は田んぼの中で、機体は頭部を土に突っ込み、両翼は左右に落ち崩れていた。操縦席がぐしゃぐしゃに潰れていた。にもかかわらず、佐々木伍長は軽い打撲だけだった。
画像出展:「九九式双発軽爆撃機〜「金魚」の名を持つ陸軍の奔走者」
『日本陸軍の航空戦力において、川崎九九式双発軽爆撃機キ48(以下、九九双軽)は、日中戦争から太平洋戦争末期に至るまで、長く第一線で活躍し続けた代表的な機体です。その特徴的なシルエットから「金魚」「オタマジャクシ」の愛称で親しまれた軍用機です。』
・田んぼには稲がなく、地盤が硬かったから機体は止まった。雨と暗闇の中の胴体着陸は奇跡としか言いようがなかった。
・猿渡参謀長は、佐々木伍長が大型船を撃沈したという戦果には全く触れず、次のような非情な言葉が浴びせられた。
『レイテ湾には、敵戦艦はたくさんいたんだ。弾を落としたら、すぐに体当たりをしろ。出発前にそう言ったはずだ。貴様は名誉ある特攻隊だ。弾を落として帰るだけなら、特攻隊でなくてもいいんだ。貴様は特攻隊なのに、ふらふら帰ってくる。貴様は、なぜ死なんのだ!その上、貴様はカガヤンまで逃げて、2日も3日も隠れておった。ようやく帰ってきたかと思えば、飛行機を壊してしまう。貴様、飛行機を壊せば、特攻に出ないですむと思ってやったのだろう。貴様のような卑怯未練な奴は、特攻隊の恥さらしだ!』
さらに、佐々木伍長の弁明に対し、
『弁解などするな!それより、明日にでも出撃したら、絶対に帰ってくるな。必ず死んでこい!』
・『宿舎に戻ると、鉾田飛行場時代に知りあった津田少尉に会った。津田少尉は九九双軽を空輸しろという命令を鉾田で受けてフィリンピンに来たら、いきなり特攻隊にされたと憤慨していた。佐々木は、自分も似たようなものですと答えた。
津田少尉は「佐々木は戦艦を沈めたそうだが、本当か」と尋ね、佐々木は「戦艦ではないが、自分は2隻は沈めたと見ています」と返した。
津田少尉は感心し、けれど、特攻隊がどうして帰ってこられるんだと、不思議そうに尋ねた。佐々木は「体当たりをしなければいいんです」とあっけらかんと答えた。津田少尉は驚いた顔で佐々木を見た。
「万朶隊は5人の将校さんが、攻撃に出る前に戦死したんです。佐々木は将校の5名分の船を沈めるまでは、死なないつもりです。最後の6番目は自分のものですから、このときは、どうするか、まだ分かりません」佐々木の表情は真剣だった。
「体当たりをしないで、戦艦を沈めるにこしたことはない。しかし、特攻隊が体当たりしないで生きていたら、うるさいだろう」津田少尉は正直に聞いた。
「いろいろ言われますが、船を沈めりゃ文句ないでしょう」佐々木は人懐っこい目を細くして、笑いを浮かべた。佐々木は、この頃には、同じようなことを上級下級に区別なく、また新聞記者にも率直に、公然と語り始めていた。誰がなんと言おうと、どんなに参謀達に怒鳴られようと、体当たりでは死なないということをはっきりと宣言しているかのようだった。』
●適材適所とは真逆の作戦
・7回目の出撃命令は胴体着陸から5日後の1944年12月14日だった。これは菊水隊に一機、万朶隊から加わった。
・小川団長は特攻隊に対して何度も抵抗していた。団長は菊水隊の隊員に対して、攻撃には万朶隊の佐々木伍長が一緒に行くとして次のような話をされた。
『「特攻をやる覚悟で行って、船を沈めて帰ってきたら、立派なもんだ。もしまた、状況が悪ければ引き返して、何度柄もやりなおすのがいい。佐々木のやっていることは、これこそ特攻隊の最良の模範であると信じている』
※補足:小川団長とは、「重爆特攻隊菊水隊」を編成した第5飛行団の団長・小川小二郎少将(あるいは大佐)と思われます。
・『午前7時、佐々木はいつもの手慣れた操作で滑走を始めた。と、急に機体が動揺し、尾部が左右に揺れ動いた。尾輪が固定していないと気付いて、佐々木はフットバーを踏んで、方向舵を動かそうとしたが、機体はあっという間に滑走路を外れて、野地に飛び出してしまった。
整備の見落としだったが、佐々木としては初めての失敗だった。
警備員達が駆け付けて来た時、重い爆音が響いて、呑竜の9機編隊が上空に現れ、大きく旋回し始めた。佐々木と空中集合するためだった。佐々木は見上げ手を振ったが、どうにもならなかった。
しばらくして、呑竜は南に向かって飛び去った。その後、菊水隊は「敵戦闘機と交戦中」の無線を打った後、連絡がつかなくなった。「目標発見」の無線ではなかった。それは、目標の戦艦までたどり着く前に撃ち落されたことを意味していた。』
※補足:米国軍は特攻隊の攻撃が開始されて以来、空母への戦闘機を倍にしていました。また、レーダーについては、1942年の段階から既に多くの主力艦に対空レーダーを装備していましたが、1944年10月以降、「特攻対策の中核」として体系化されました。さらに、1945年春の沖縄戦では、島周囲に多数の駆逐艦などを「レーダー・ピケット」として展開し、早期警戒と戦闘機誘導にレーダーを集中的に使う体制が確立されました。
・『吞竜を失った小川団長は、自らの「所感録」に、はたしてこれでよかったのかと書きつけた。「壮烈」「名誉」「旺盛なる責任観念」「任務に邁進」などと精神主義を満足させただけではないのか。指揮官や参謀達にとって、それは、壮烈な快感と言えるだろうが、少しも科学的ではなく、組織として努力していない、なんのための戦いなのだ、司令官達は恥じるべきであると痛烈に批判した。』
●8回目の出撃
・7回目に出撃の翌日夜(12月15日)、8回目の出撃命令を受けた。今度は旭光隊と共に出撃せよというものだった。16日早朝、佐々木伍長の一機は、西回りでミンドロ島に向かいサンホセを目指すように言われた。旭光隊の2機は東回りでサンホセを目指した。佐々木伍長には直掩隊は一機もつかず、掩護もなく戦果の報告の確認もできないものだった。
・『猿渡参謀長は姿を見せなかった。整備の村崎少尉が肩を叩いた。
「佐々木、今日は尾輪をしっかりさせておいたぞ。安心して行け」
1時間ほど飛んで、ミンドロ島の上空に近づいてきた。すでに明るくなった大空を、たった一機で飛んでいると強烈な孤独感に襲われた。
島の山ひだにそって飛び続けると、島の南岸が見えてきた。山裾が海岸に沿って傾斜している中に、一部分、土砂崩れが起こったかのような場所があった。
その周辺の海に小さな点が集まっていた。アメリカ軍の上陸地点だった。無数の点は、上陸用の輸送船団と艦船だった。
日本機が接近したことに、まだ気付いてはいなかった。もうすぐ、上陸地点の陸上と海上から、圧倒的な砲火が上がり、大空は花火を連発したような火煙に包まれるだろう。
そこに突っ込んでいくのは恐ろしいけれど、それより、佐々木にはなにか、虚しく馬鹿げているように感じられた。強烈な孤独が佐々木の全身を包んでいた。命懸けで突進する姿を、味方は誰も見ていない。自分の最期を誰も確認しない。200隻近い敵船団に対し、たった一機で突っ込むことに、どんな意味があるのか。
佐々木は、戦闘機に発見される前に戻ろうと決意して、機首を旋回させた。』
●9回目
・12月18日、佐々木伍長に9回目の出撃命令が出た。冨永司令官は滑走路の横で、出発していく特攻隊に対して、日本刀を抜き、振り回しながら、「進め! 進め! 進め!」と叫んでいた。
・佐々木伍長の九九双軽はマニラ上空を南に向かっている時に、爆音が異常になった。空気と燃料の混合比を示すブースト計の片方に不調が現われていた。これ以上、飛ぶことは危険だと判断した佐々木は、旋回してカロ―カンに戻った。出発してから40分後だった。戻ってみれば、飛行場には誰もおらず飛行場大隊長に事故報告をした。宿舎に戻ると急に熱が出て苦しくなった。
・12月20日に再び出撃命令が出たが、佐々木伍長は高熱が続き、全身がだるく歩くとふらつくほどに足に力が入らなかった。
・佐々木伍長への出撃命令を目撃した若桜隊の池田伍長は手記に残した。
『ぼくらは毎日、万朶隊の佐々木伍長の部屋に行き、話し合いました。彼は何度か出撃し、戦果を上げて帰還していました。ぼくらはその考えを何度も難詰(相手の欠点や過ちを指摘し、厳しく非難したり、問い詰めたりすること)しました。彼は「死んで神様になっているのに(佐々木伍長の戦果は体当たりであり戦死したと報告されたという意味)、なんで死に急ぐことがあるか。生きられれば、それだけ国にためだよ。また出撃するさ」と淡々としておりました。
そんなある日、彼が40度の熱を出してマラリアで休んでいる時に、出撃の命令が来ました。命令伝達に来た四航軍の将校が、本人が起きることもできないでいるのに、「貴様は仮病だろう」と、聞くに堪えない悪罵を残して帰って行きました。彼は「軍神は生かしておかないものなあ」と言って、さびしく笑っていました(軍神とは佐々木伍長の最初の戦果の後に、軍神と崇められていたという件)』
・『池田伍長は、佐々木が将校に罵られている風景を見た時の気持ちを次のように書いた。「この光景は、若い私達に大きい衝撃となって心に焼き付いてしまいました。この時のことを、一生忘れることはないと思います。ぼくはこの時、はっきりと、特攻隊という言葉から来る重圧感から解放されて、命ある限り戦うことを固く心に決めました。死ぬことの苦悩から解放された後は、案外さっぱりした気分になって過ごしたものです。
池田伍長は、翌21日、特攻隊として出撃した。が、体当たりすることなく、生還した。』
●マラリアの苦しみ
・『12月22日。佐々木はマラリアの激しい発作を繰り返していた。悪寒がして全身に震えが起こり、それが1~2時間も続くと、その後には40度前後の高熱が出た。それから、長い時には5時間も汗が流れ続け、水を浴びたようになった。そのために高熱が下がり、悪寒が始まってから10時間ぐらいたって、平熱に戻る。そして、また全身に震えが起こる。』
第3章 2015年のインタビュー
●2015年10月22日
・『「いくつか友次さんに聞きたいことがあるんです」僕はドキドキしながら会話を始めました。目の前には札幌の病院に入院している92歳の佐々木友次さんがいました。眼を閉じたまま、上半身を起こし、正面を向いていました。(友次さんは糖尿病で失明して、6年ほどたっていました。当別町で独り暮らしをしていて、ケガをし、入院したのです)』
・飛行機に乗ることに憧れ、17歳で仙台の逓信省の航空機乗員養成所に入った。ここは軍ではなかったが、実質は軍隊と変わらず非常に厳しかった。養成所に入る前は農家をされていた。
●特攻と聞いて
・佐々木伍長は飛行機に乗るのがとにかく好きで、ひまさえあれば乗っていた。
●死なない強さ
・佐々木伍長は上官の無茶な命令に反抗して二日間絶食するなど、頑固で負けじ魂があった。それは、飛行機に乗ることが何よりも好きであり、前評判の良くなかった九九双軽は乗りやすい飛行機だっため、これに乗って自爆したくないという気持ちも強かった。
・何度も何度も自分の飛行機に乗っていると、鳥の羽のように自由に動くようになる。
・故郷に帰ったときの村の人達は冷たかった。生きて帰ってきた妬みもあったと思う。ただし、厳しい言葉は少なかった。
・『ー何があっても生き延びてやるって思っていたのは途中から? 初めから?
「1回目で帰ってきた時ですね。これは帰れるかもしれんって思いました。その後、夜中に不時着して、飛行機は壊れたけど、自分はケガしなくて。それが一つの転機になってこれは絶対帰れるなと思って。その気になったんですよ。』
・『ー出撃して帰ってきたことを責められたでしょう?
「それは言う方は当たり前でしょうね」
ー言われてもむっとしなかった?
「むっとするような雰囲気は戦場にはないですよ」
ーどう思ったんですか? 反省したんですか?
「反省もなにも、今度は死んでやると思いましたけどね」
ーでも同時に、何があっても生き延びてやると思ったんですか?
「そうなの」
ーそのときの友次さんの本音はどうだったんですか?
「今度出たら死んでやるって気持ちもないわけじゃない。だけど生きてやるぞ、生きて帰れるかもしらんっていう気持ちもあったですね」』
ー生きて帰るって気持ちは、岩本大尉が言った、船を沈めればいいんだから爆弾を落とせ、無駄死にするなっていう意味なのか、それともただただ生きて帰りたいと思ったのか?
「やっぱり無駄死にはしたくなかった。生きて帰るには条件として岩本大尉が言うように、沈めなきゃだめだぞって、それが第一条件で」』
●佐々木さんを支えたもの
・『ー猿渡大佐はどのくらい本気だったんですかね?「死んでこい」って言っている言葉とか。
「自然に言ったんだと思いますよ」
ー友次さんは、それを聞いて怒ったりもしたんでしょう?
「いや一伍長がね、陸軍大佐をなじるとか横目でにらむとか、そんな仕草はできませんよ、当時」
耐えるしかない?
「まあ寿命ですよ。寿命は自分で決めるもんじゃないですから」』
・『5日目の面会は12月11日。しかし、この日は、友次さんは体調が悪く、少ししか話せませんでした。12月に入って、どんどん体調が悪化していたのです。
長女の坂本美智子さんに病院の談話室でお話を伺いました。
娘さんには、自分から「特攻隊員であったこと」を積極的に話すわけではなく、夏に終戦特集がテレビで流れ、それを偶然見ると、例えば、「フィリンピンに行ってみたい」とつぶやいたりしたそうです。何度も出撃して何度も帰ってきたという話はしていませんでした。子供部屋には岩本大尉の写真が飾られていました。』
●岩本隊長の作戦
・『体当たり機の爆弾が外れないとしたら、不時着や事故のあった時に、爆弾を抱えていなければならない。それはとても危険ではないか。そのままなら、無駄な犠牲を出すことになる。
「爆弾を落とす方法はないものだろうか」稲妻のような思いが、佐々木の頭に閃いた。
その時、かがり火の中に見えていた影達が、ぽつぽつと暗い闇に向かって走り出した。闇の向こうには、自分達が乗ってきた九九双軽があった。やがて、全員が一斉に闇に向かって死に物狂いの気配で駆け出した。佐々木もまた、飛行場の片隅にある九九双軽に向かった。みんな、同じことを考えていたのだ。
口には出さなかった。出せば、卑怯と言われる。軍人精神の裏切りと責められる。けれど、みんな、なんとかして生きたかった。誰もが命が惜しいことを隠さなかった。
佐々木は操縦席について、スイッチを入れた。真っ暗な中、正面に丸いたくさんの計器が、右側に配電盤が明るく浮かび上がった。爆弾を吊っている電磁器に作用する線は配電盤にある。佐々木は何度か、配電盤の各所にヒューズを差し込み、スイッチを押してみた。が、何の反応もなかった。
失意のまま、電源を切った。暗闇が訪れ、飛行機は暗黒の空洞に変わった。佐々木は墓穴の中にいるような気がした。』
・岩本隊長は独断で、飛行に邪魔な3本のツノを1本にした。さらに、爆弾を投下できるように改装させていた。投下装置はなかったが手動で爆弾を落とすこともできるようにした。
『「念のため、言っておく。このような改装を、しかも四航軍の許可を得ないでしたのは、この岩本が命を惜しくてしたのではない。自分の生命と技術を、最も有意義に使い生かし、できるだけ多くの敵艦を沈めたいからだ。
体当たり機は、操縦者を無駄に殺すだけではない。体当たりで、撃沈できる公算は少ないのだ。こんな飛行機や戦術を考えたやつは、航空本部か参謀本部か知らんが、航空の実際を知らないか、よくよく思慮の足らんやつだ」
岩本隊長の怒りのこもった言葉を聞いているうちに、佐々木は体中が熱くなった。そして、心の中につかえていたものが、一度に消えるように感じた。
佐々木はずっと迷っていた。もし、爆弾を落とす方法を見つけたとしても、勝手に飛行機を改装することは許されない。もし見つかったら、いったいどうなるか。
その迷いを岩本隊長は一気に吹き飛ばしてくれた。
それから、岩本隊長は、攻撃要領の説明を始めた。想像を超える対空砲火を浴びることを覚悟すること。防御火器がないことを肝に銘じること。
佐々木ら下士官は、「超飛爆撃」の訓練は受けていなかった。岩本隊長は、急降下爆撃について、両手を使って、急降下の角度や方向を丁寧に説明した。
急降下は、まっすぐ一直線に、船の「軸線」に沿って突入すること。船を横からではなく、縦に1本の線として見る。その方向を「軸線」と称した。
艦船の横側から急降下してしまうと、艦船との近接は一瞬で終わってしまう。だが、「軸線」に沿って急降下すれば、一定の時間、近接が可能になる。小さな艦船でも100メートル、大きければ上甲板は200メートルになる。これだけ長くなれば、爆弾が命中する可能性は高くなる。
ただし、敵艦船の艦尾の方向から急降下しなければならない。なぜなら、いくら「軸線」に沿っていても、艦首から接近してしまうと、自分の速度と相手の速度が合算され、上甲板に近接する時間が短くなってしまうのだ。
「急降下の時に、不幸にして、その上空で被弾しても、軸線に入っていれば、最後の処置として体当たりも容易であるから、無駄に死ぬことがない。しかし、これぞと思う目標を捉えるまでは、何度でも、やり直しをしていい。それまでは、命を大切に使うことだ。決して、無駄な死に方をしてはいかんぞ」
岩本隊長の言葉がさらに熱を帯びた。操縦者は身が引き締まる思いだった。
岩本隊長は謄写版で印刷したフィリピンの要図を配った。そこには、日本軍が使っている全飛行場の位置と地名が記されていた。部隊や燃料のある飛行場や敵が近く危険な飛行場など、150近い飛行場が示されていた。それは、どんな状態であろうと、とにかく着陸できる場所、ということだった。
岩本隊長は、それらを詳しく説明してから力強く言った。
「出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい」
集合室には異常に緊迫した空気が満ちていた。あきらかに命令違反であり、抗命の重罪だった。軍隊では死刑に相当する発言だった。全員が黙って岩本隊長を見つめた。』
●理不尽なマニラ行き
・『11月4日、岩本隊長以下5名の将校は、マニラに来るように命令を受けた。ネグロス島にいた冨永司令官がようやくマニラに戻ることになり、儀式好きの司令官は、陸軍最初の特攻隊員と宴会をしようと決めたのだ。
もうひとつ、岩本隊長が九九双軽を許可なく改装したという情報が届き、マニラの司令部で参諜達が直接事情を聞こうという理由もあった。だが、司令部はそれを深刻なものとは考えず、副次的な扱いだった。一番の理由は、岩本隊長達をマニラの料亭「広松」に招き、芸者を見せ、酒を飲ませ、冨永司令官自らが激励することだった。
その夜、佐々木と奥原伍長が将棋を指すつもりで集会室に行くと、将校たちがいた。思わず立ち止まると、安藤浩中尉が「遠慮せず入れ」と声をかけた。リパに来てからは、将校と下士官の垣根が低くなっていた。特攻隊という死が前提の部隊に放り込まれ、心と心を寄せ合う気持ちになっていたのだ。
園田芳巳中尉が、明日、岩本隊長以下、空中勤務者(操縦や通信)の将校は全員マニラに行くから、隊長におみやげを頼むといいと軽口を叩いた。岩本隊長は笑って、二人をたたきつけることはないと返した。岩本隊長の久しぶりの笑顔だと佐々木は思った。
翌5日、午前8時。岩本隊長は、午前中は飛行機の警備、午後は飛行訓練を実施するようにという訓示を佐々木達に与えた後、将校4名と共に九九双軽に乗り込みマニラに向けて離陸した。
ルソン島は快晴だった。太陽はすでに高くなり、陽射しは皮膚に痛いほど強かった。アメリカ軍の空襲が、毎朝、定期便のように始まる時刻だった。岩本隊長達が乗っている九九双軽は、一門の機関砲もなく、一機の護衛もつかない状態で、単独でマニラを目指した。
岩本隊長の離陸からしばらくして、リパ飛行場は二度、アメリカ軍の空襲を受けた。佐々木が経験する、初めての激しい攻撃だった。爆弾が空気を切り裂いて落下する音が聞こえ、続いて凄まじい爆発が連続して起こり、地面が揺れた。
佐々木は、椰子の根元にしがみつくように伏せるしかなかった。機銃掃射が椰子にあたる音がして、大きな葉が佐々木達の上にばさばさと落ちた。万朶隊の民間整備員1名が死亡し、操縦者1名と通信員1名が重傷を負った。
午前11時過ぎ、第四航空軍司令部から、万朶隊宛に無線が送られてきた。
「岩本隊長は出発せしや。状況によりては、地上、自動車にてこられたし」
リパとマニラの直線距離は約90キロ、九九双軽なら、20分足らずで到着する予定だった。岩本機は、午前8時に出発したのだ。
午後になって、もう一度、「岩本隊長は出発せしや」という無電が届いた。
万朶隊全員が暗い予感に怯えた。ただ、岩本隊長は操縦の名手であり、もし、アメリカ機と遭遇しても、どこかに逃げきったに違いないと思い込もうとした。
夜9時過ぎ万朶隊に、岩本隊長の乗った九九双軽がグラマン戦闘機に襲われて墜落、岩本隊長以下4名の将校が戦死したという知らせが届いた。
午前8時を少し過ぎた時間に、海軍の若い操縦者が偶然、一部始終を目撃していた。九九双軽は、マニラ近くを高度400~500メートルで飛んでいた。その高度は、マニラ周辺の飛行場を探しているためかと、目撃した操縦者は思った。
突然、九九双軽の後上方から、二つの黒点が落下するのが見えた。グラマン戦闘機2機だった。2機は後上方から急降下しながら射撃を続け、急上昇した。九九双軽は急旋回しながら、バイ湖の岸の方に隠れた。そして、その方向から黒煙が上がった。
すぐに、救助隊が編成され、急行した。そして、マニラ近く、バイ湖のほとりで岩本隊長以下4名の遺体は発見、回収された。通信担当の中川克己少尉だけは重傷だった。4名の将校操縦者はグラマンの機銃掃射を受けて、即死状態だった。
万朶隊員達は、祭壇を作って、その前で通夜をした。誰もが泣いた。そして、マニラに呼び寄せた命令の理不尽さを罵った。岩本隊長達は、冨永司令官の宴会のために死んだのだ。
陸軍最初の特攻隊は、隊長だけでなく、将校の操縦者を一気に失ってしまった。
前夜、集会室で岩本隊長はこう言っていた。
「飛行機乗りは、初めっから死ぬことは覚悟している。同じ死ぬなら、できるだけ有意義に死にたいだけさ。敵の船が一隻も沈むかどうかも分からんのに、ただ体当たりをやれ、「と」号機(特攻用飛行機)を作ったから乗って行け、というのは、頭が足りないよ」
佐々木は、歯噛みをしながら岩本隊長の無念を思った。涙が溢れて止まらなかった。』
●出撃の夜
・『佐々木達特攻隊員の胸には、白布に吊るされていた。残留隊員が用意した遺骨の箱だった。小箱を包む白布の端は、佐々木達の首の後ろで結ばれていた。
それぞれの小箱の前には、5日に亡くなった将校達の名前が小さく書かれていた。遺骨はマニラの東本願寺に納められたので、箱の中には分骨の意味で霊位を記した紙片が入っていた。佐々木の首から吊るされた小箱には「川島中尉之霊と書かれた小箱は、田中曹長の胸に吊るされていた。
冨永司令官は激励の訓示を語った。諸君は必ず大戦果を挙げることを確信していると始めた後、「必ず、空母を狙え。空母が見当たらなければ、戦艦をやれ。それでも格好の獲物がない時は、ためらわずに引き返して再挙をはかれ。決して小型艦などに体当たりをしてはならない」と先日と同じことを繰り返した。』
・『暗闇の中に、点々と赤い小さな火が燃え上がり、長い2本の線を作った。地上勤務の兵達が、ヤシ油の標識灯に火を付けたのだ。2列の赤い点線が、暗闇の中に幅30メートル、長さ1200メートルの滑走路を浮かび上がられた。
激しい爆音が響いて、援護戦闘機の隼が20機、始動態勢に入った。海軍の誇る戦闘機は零戦、そして陸軍が誇るのが隼だった。
特別攻撃隊の九九双軽は銃火器を取り外して、丸裸の状態だ。なおかつ、550キロ爆弾が最大定量なのに800キロを積んでいる。速度も遅くなり、動きも鈍くなる。だからこそ、アメリカ軍の攻撃から特別攻撃隊を守る援護の戦闘機は絶対必要だった。
佐々木は操縦席に乗り込み、首にかけた川島中尉の遺骨箱を傍に置いた。目の前では、さまざまな計器が深海魚のように、弱く冷たい光を放っていた。ガソリンの量は、タンク一杯を示している。
佐々木は機械や計器類を一通り点検してスイッチを入れ、フラップを下げた。定員4名の九九双軽の操作を、たった独りでやらなければならない。
なおかつ、800キロの爆弾に3メートルの死のツノだ。通常の飛行とはまったく違う。離陸は容易ではない。佐々木は興奮し、同じくらい緊張した。
夜はまだ明けず、下弦の月が高くかかっていた。熱帯の月なので、細くても明るく輝いている。夜明け前で暑くもない。日本で言えば、初秋ぐらいの気温だった。』
●レイテ湾の戦い
・『「この戦闘機の目の前で、見事800キロ爆弾をぶち当ててやるんだ」佐々木は心の中で誓った。
佐々木は前方の田中曹長機を見つめた。編隊試行中は、隊長機に7、周囲に3の注意が必要と教えられた。
翼に下には、白い波が打ち寄せる海岸線が見えていた。それが、なめらかに光っている海と、濃い緑の樹林に覆われた陸地を区切っていた。大きな島だった。サマール島だと佐々木はすぐに分かった。この島の南の端が目標のレイテ湾だ。
青空を飛ぶのは本当に気持ちいいと佐々木は思った。いや、夜も気持ちいい。だが、朝日の中、青い海を下に見て、青空を飛ぶのは、本当に幸せだった。
たとえ、今から死と直面すると分かっていても、空を飛ぶことが自分は大好きなんだと佐々木はあらためて思った。
自分が奥原伍長のように緊張しないのは、生来の負けん気と操縦の自信と父親の「人間は、容易なことで死ぬもんじゃないぞ」という言葉のせいだと思っていたが、ただ単純に空を飛ぶことが好きだからかもしれないと佐々木は思った。』
・『「俺は今、敵の頭上にいる」
非常な緊張感と同時に激しい気力が湧き上がってきた。
海面を見ていた佐々木の目に黒い影がちらりと映って、すぐに断雲の層が流れ去った。
「いた!」 1隻、2隻、3隻。レイテ湾の外に向かって、一列の単縦陣で進んでいた。白い航跡が見える。
田中曹長も気付いているらしく、その方向に進路を変えた。佐々木は後を追いながら、なお海面を探した。だが、空母の姿は見えない。
田中曹長は艦船に対して、艦首の方向から軸線に入ろうとしていた。久保軍曹も続いている。
理想的な突入は、艦尾からだ。艦首からだと、岩本隊長が説明したように、自分の飛行機の速度と敵艦の速度が合算されてしまう。
さらに太陽を背にして突入するのが最も望ましい急降下攻撃だ。艦船からの砲撃が、太陽の目くらましでいくらか精度が落ちるからだ。だが、うまく太陽の位置が合わない。
もうひとつ、高度が高すぎることも佐々木は気になった。現在の高度は5000メートルだ。鉾田飛行場以来、急降下爆撃の訓練の時には、高度は3000メートルだった。それ以上の高度から突っ込んだことは一度か二度しかなかった。
高度が高ければ、突入の角度が浅くなる。結果、目標を捉えるのが難しくなるのだ。
3機は艦隊の真上に迫ろうとしていた。艦首から突入になってしまったので、数秒の後には、艦隊と飛行機が行違って、攻撃のチャンスを逸してしまう。
その時、田中曹長機が翼を振って突入の合図を出した。久保軍曹機も続いた。2機は機首を下げて、急降下に入った。』
●突入
・『佐々木が目標を見定めようとして下を向いた時には、軍艦はかなり下方に来ていた。少し入りすぎたと佐々木は一瞬、不安になった。が、同時に操縦桿を力一杯、押し倒していた。
目標は三番艦だ。急降下によって圧力がかかり、全身が引き裂かれそうな強い衝撃に包まれた。大きな音をたてて、操縦席の後ろに飛び上がるものがあった。川島中尉の遺骨箱だった。
たとえ艦尾から軸線に入っても、そもそも艦船は真っ直ぐに逃げたりしない。艦船は空襲を受けるとジグザグの回避行動に出る。時速500キロ以上の速度で急降下する飛行機は、ジグザグ行動の先を予想して突っ込まなければいけないのだ。
読みを誤れば、艦船ではなく海に突進することになってしまう。実戦での急降下攻撃ははるかに難しい。
突入角度は40度前後だったが、体感としては、垂直に落下していく感覚に近かった。
佐々木は歯を食いしばり、必死になって目を見開いた。頭の上に海が青い幕のように広がっていく。
目標はどこだ。軍艦はどこだ。操縦桿を押しているが、軍艦を捉えられない。苦痛と不安と焦りが湧き上がってくる。
速度計の針は、500キロから550キロ、そしてついに600キロを超えた。
全身の血液が頭に充満し、噴き出しそうだった。これ以上速度を上げると、九九双軽は空中分解する。圧力に負けないと力む頭で佐々木を考えた。
500キロの速度から来る圧力が、全身を歪め、血を逆流させた。
高度800メートル。佐々木は夢中で鋼索の取っ手を引いた。その瞬間、急に軽くなった機体が弾み上がるような衝撃を受けた。初めての実戦では、佐々木は500メートル以下までは待てなかった。
すぐに操縦桿を引き起こした。翼の下を船体が流れ去った。佐々木は急上昇しながら、振り返った。船体から離れた海面に大きな白い波紋が沸き立っていた。
「しまった」思わず、言葉が出た。
佐々木は急上昇を続けた。九九双軽は身軽になった。早く逃げろ。撃たれる。佐々木は背中に寒いものを感じた。前方に断雲があった。佐々木はその中に飛び込んだ。
ミンダナオ島に逃げようと佐々木は計画していた。生還するために前もって考えていた場所だ。レイテ島のアメリカ空軍の飛行場から遠く離れて安全な場所だった。
この場所を教えたのはもちろん、岩本隊長だった。雨の日に配ってくれたフィリピンの飛行場地図で知ったのだ。
佐々木は500メートルの高度で海上を1時間飛び続け、アメリカ軍機に発見されずに、ミンダナオ島のカガヤン飛行場に着陸した。』
●消された存在
・『大本営発表後のしばらく後、ルソン島のカロ―カン飛行場の上空に、3メートルの死のツノを突き出した九九双軽が現れた。
着陸姿勢に入った時、万朶隊だと分かった地上勤務兵隊は逃げ出した。800キロ爆弾を積んだまま着陸しようとしている、死のツノに触れたら簡単に爆発してしまう、と怯えたのだ。
やがて、無事に着陸した九九双軽に人々は殺到した。座席の天蓋が開いて、佐々木が姿を現した時、全員が信じられないものを見たという、驚きの声を上げた。
佐々木はその反応が不思議だった。佐々木はミンダナオ島のカガヤン飛行場に不時着した時、すぐに無線の連絡を頼んでいたのだ。だが、それは届いていなかった。
人々は、口々に佐々木をほめた。戦艦一隻を沈めたという大本営の発表を信じていたのだ。
佐々木は、「やったかどうか、分からんよ」と熱狂する人達に正直に答えた。
そして、万朶隊のメンバーには、詳しく語った。』
・『第四航空軍から「翌日、報告に来るように」という命令が佐々木に届いた。
石渡俊行軍曹が重苦しい表情で「四航軍は慌ててるんじゃないか。佐々木伍長は体当たりせり、なんて大本営へ報告したところへ、本人が帰ってきたんだから」と言うと、通信員の浜崎曹長が、「明日、軍司令部へ行くとしぼられるぞ」と脅かすように付け加えた。
「自分が狙ったのは、確かに揚陸船だったと思うんです。出発の時に、冨永閣下も、輸送船なんかに体当たりするな、と言われていましたから、実際の通りに報告してきます」
佐々木はつとめて冷静に答えた。
しかし、整備の村崎少尉は、爆弾を落とすように改装したことを、軍司令部は正式に許可していないことを心配した。それを問われたら、岩本隊長がやられたことで、帰還する時800キロ爆弾を抱えては危険だからと答えるといいとアドバイスした。
「しかし、佐々木が帰ってきてよかった。今夜は生還祝いをやろう」村崎少尉が明るい声で全員を見た。』
・『翌14日、佐々木の生まれ故郷、石狩郡当別村も前日の大本営発表のラジオ放送を聞いて大騒ぎになっていた。
緊急に招集された村会議は万歳三唱し、黙禱し、「神鷲の偉業を顕彰するための委員会」設置を可決した。佐々木の生家に、村の人々は、雪を踏み、馬そりに乗って、弔問に来た。
同じ日、第四航空軍に呼ばれた佐々木は「大本営で発表したことは、恐れ多くも、上聞に達したことである。このことをよく肝に銘じて、次の攻撃では本当に戦艦を沈めてもらいたい」と参謀から言われた。
上聞、つまり、天皇に報告したことは、絶対に訂正できない。天皇に嘘の報告をしたことになれば、司令官の責任問題になる。だから、分かっているな、という暗黙の命令だった。「本当に戦艦を沈めてもらいたい」は、「本当に体当たりして死んでもらいたい」を意味した。』
●2回目の出撃
・2回目の出撃は前日(14日)夕方に発表された。石渡軍曹、近藤伍長、奥原伍長、佐々木伍長の4名だった。
・15日。午前4時に万朶隊は集合した。その際、第四飛行師団の参謀長、猿渡大佐は佐々木伍長に向かって「どういうつもりで帰ってきたのか? 佐々木は死ぬのが怖くなったのではないか」と詰問した。
佐々木伍長は「犬死にしないように、やりなおすつもりでした」と答えた。
・15日は月明りに照らされていたが雲が多く、出撃には不向きのコンディションだった。
・攻撃隊は、成果確認の百式司偵機が離陸し、万朶隊4機、直掩の隼8機が続いた。
・佐々木伍長は死にツノが出た、丸裸の飛行機に乗って特攻に出撃すると分かっていても、やはり興奮した。空に舞い上がれば、ただ、それだけで感動した。
・石渡軍曹の一番機は後続を待たず直進してしまったため、飛行隊はバラバラとなり空中集合もできなかった。そして、闇の底に強烈な光が閃き、赤い火柱と大きな爆発が起こった。敵機を見つけることはできなかったが、バラバラとなってしまったため、奥原伍長と佐々木伍長は着陸した。爆発はマニラでの近藤伍長機だった。石渡軍曹と百式司偵機は帰ってこなかった。
・大本営は第四航空軍司令部の報告を受けて、佐々木伍長を特攻戦死として、二階級特進させる予定だったが、司令部は2回目の特攻の失敗を受けて、やむなく、佐々木伍長の生還を明らかにし、感状(栄誉を讃える文章)と特進の手続きを取り消すことにした。
●急襲
・3回目の出撃は11月25日、奥原伍長と佐々木伍長の二人だけだった。
・『25日、正午近く、大きな口髭をつけた猿渡参謀長は、厳しい顔で「佐々木はすでに、二階級特進の手続きをした。その上、天皇陛下にも体当たりを申し上げてある。軍人としては、これにすぐる名誉はない。今日こそは必ず体当たりをしてこい。必ず帰ってきてはならんぞ」と𠮟りつけるように言った。
直掩機の隊長、作見一郎中尉が、佐々木に燃料はどれくらい持っていくかとたずねた。佐々木はできるだけ一杯にして行くと答えた。さらに爆弾は落とせるのかと作見隊長は聞き、佐々木は落とせるようにしていると返した。
作見隊長はうなずいた。同じパイロットとして、特攻隊に選ばれるか、直掩機の担当になるかで運命は大きく変わった。
直掩機のパイロットは、特攻隊のパイロットに対して複雑な心境があった。自分達は最後の最後、特攻を残して帰って来る。それが、どうにもやりきれなかった。』
・『3度目の出撃の宴で乾杯を終え、佐々木は操縦席に着いた。エンジンを回し点検しようとした時、天蓋が激しく叩かれた。整備員が上空を指さし、大声で叫んでした。
見上げれば、黒い編隊の機影がまっすぐに飛行場に向かっていた。佐々木はスイッチを切り、機体の外に飛び出して走り始めた。奥原伍長も走っていた。二人は必死になって走りながら、目は上空の機影から離せなかった。
上空1000メートルから、アメリカ艦載機は爆弾を落とした。佐々木達は、滑走路脇に立つ兵舎の前の溝に飛び込んだ。
その瞬間、猛烈な爆発が起こった。熱気と振動と爆風が佐々木の体を襲い、振り回し、叩きつけた。その上に、土砂が水のように流れ落ちた。
アメリカ艦載機が爆弾を落とし終わると、グラマン戦闘機が急襲して銃撃を加えた。
佐々木と奥原伍長の九九双軽は火を噴き上げた。直掩機も燃え上がった。
佐々木は必死で起き上がり、滑走路から宿舎の方向に走った。
空襲が終わり、人から言われて、顔から血が流れているのに気付いた。汗だと思っていたら、べっとりと顔に血がついていたのだ。
佐々木は急に腹が立ってきた。こんな真っ昼間に飛行機を並べて出そうとしたら、やられるのは当然だ。危険な時間帯に、ノンキに出撃の儀式の乾杯までするとは。参謀どもはバカではないのか。
宿舎に戻ると奥原伍長はいなかった。しばらく待っても、帰って来ない。滑走路を探しに歩くと、飛行服の袖と白い手が土の中から突き出しているのが見えた。
慌てて掘り起こすと、すでに奥原伍長は死んでいた。爆弾の破片が胸を大きくえぐっていた。佐々木が倒れ込んだ場所から3メートルほどの所だった。その短い距離が、二人の生死を分けた。
佐々木は激しい衝撃を受けた。いたたまれない悲しみと淋しさだった。』
●一機だけで
・11月28日、頭に包帯を巻いた佐々木に4度目の出撃命令が出た。前回同様、白昼に近い午前10時だった。この出撃命令は佐々木伍長ただ一機での命令だったが、カロ―カン飛行場では佐々木伍長に同情が集まっていた。それは、佐々木伍長を殺すための出撃と思う人が多かったからである。
・レイテ湾は雲が多く、出撃には悪い条件だった。
・『滑走路脇の指揮所に佐々木が行くと、猿渡参謀長が待っていた。
「今日の直掩隊は必ず、敵艦船の上空まで誘導する。そして、佐々木の突入は必ず確認することになっている。晴の舞台だ。万朶隊の名に恥じないよう、立派な体当たりをするんだ」
猿渡参謀長はしわがれ声で威圧的に言った。
第四航空軍から特別に来ていた佐藤勝雄作戦参謀が話を続けた。
「佐々木伍長に期待するのは、敵艦撃沈の大戦果を、爆撃ではなく、体当たり攻撃によってあげることである。佐々木伍長は、ただ敵艦を撃沈すればよいと考えているが、それは考え違いである。爆撃で敵艦を沈めることは困難だから体当たりするのだ。体当たりならば、確実に撃沈できる。この点、佐々木伍長にも、多少誤解があったようだ。今度の攻撃には、必ず体当たりで確実に戦果を上げてもらいたい」
天皇に上聞した以上、佐々木は生きていては困る。後からでも、佐々木が特攻で死ねば、結果として嘘をついたことにならない。そのまま、佐々木は二階級特進することになる。上層部の意図ははっきりしていた。
佐々木は答えた。
「私は必中攻撃でも死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」
伍長が大佐や中佐に向かって反論するのは、軍隊ではあり得なかった。軍法会議の処分が当然のことだった。
さらに、軍隊用語では一人称を「自分」と言わなければいけなかった。佐々木は、それを「私」と言った。それは、佐々木の始まりが軍隊ではなく逓信省航空局の航空機乗員養成所だったからだ。腹を据えて反抗しようという時、佐々木は軍隊ではなく、養成所出身ということを意識したのだ。
「佐々木の考えは分かるが、軍の責任ということがある。今度は必ず死んでもらう。いいな。大きな奴を沈めてくれ。戦闘隊とは、よく打ち合わせて行け」
佐々木は納得しなかった。「佐々木伍長、出発します」それだけ言って、その場を離れた。6機の直掩隊と共に、佐々木はただ一機の特攻隊として出発した。
天気図では雲量が多かったが、レイテ島に接近すると快晴だった。四方の空には積乱雲が壁のように続いていた。』
※補足:この一機だけの特攻は直掩機の隊長が佐々木伍長に同情し、わざわざ殺すことはないと考え、適当な場所まで飛んで引き返したというものでした。猿渡参謀長へは「レイテ湾上空は気象情報通り雲量が多く敵艦船を発見できなかった」と報告されていました。
●5回目の出撃
・1944年10月25日、海軍の敷島隊が行なった初めての特攻隊による攻撃後、海軍、陸軍をあわせて、大和隊、菊水隊、富嶽隊など40隊以上が出撃していた。一方、敷島隊による特攻からおよそ1か月後の11月29日、マリアナ基地を出発したB29爆撃機が初めて東京を夜間爆撃し、神田や日本橋などが焼夷弾で燃え上がった。
・アメリカ軍は特攻対策として、空母に載せる急降下爆撃機の数を半減させ、艦上戦闘機の数を2倍にした。そして、戦力再編を行ない、特攻機の目標である空母の前方60カイリ(約110キロ)にレーダー警戒駆逐艦を配備した。この対策により、近づく特攻隊をいち早くレーダーが発見し、何百機という艦上戦闘機で迎え撃つ態勢が敷かれた。つまり、このような米国側の厳重な守りに対して、重い爆弾を抱え、迎え撃つ銃器も持たない特攻機が、かいくぐってアメリカ艦船に近づかなければならなかった。特攻隊の成果がどんどん落ちていったのはこのような戦場の変化だった。
・佐々木伍長の5回目の壮行会に酒さかなの用意はなかった。猿渡参謀長は現れず、代わりに若い参謀が来て、一房のバナナを差し出した。
・『午後3時、佐々木は万朶隊として再び飛び立った。直掩は隼二機だった。
天気図は、ルソン島からレイテ島にかけて快晴を示していた。
高度4000メートルを飛びながら、佐々木はバナナを食べた。爆弾を命中させることに不安はなかった。ただ、アメリカ軍の戦闘機が現れた時、逃げ切れるか不安だった。
出発して3時間、燃えるような夕焼け空は、下の方から暗く陰り始めていた。前方に、夕日を受けて、金属のように光るレイテ湾の海面が見えてきた。高度を5000メートルに上げると、右斜め下の海上に100を越える無数の艦船が確認できた。
その時、佐々木は、小さな点が近づいて来るのに気付いた。アメリカ戦闘機の編隊だった。
前を飛ぶ直掩隊の隊長はまだ発見していないようだった。佐々木はすぐに直掩二機との編隊飛行を離脱し、低空に降りた。逃げきるために、身軽になろうとして800キロ爆弾を海上に投下した。
カロ―カンに引き返そうと思ったが、猿渡参謀長の怖い顔が浮かんだ。佐々木はレイテ島の上空をまっすぐ西に飛んで、ネグロス島に向かい、バコロド飛行隊に着陸した。』
※補足:特攻機の九九双軽は攻撃のための機関銃が外されていたので戦えません。また、太平洋戦争時代の米国軍の空母は30機~100機の飛行機が搭載可能でした。つまり、2機の隼は、15機(戦闘機は半分)以上の敵機と交戦しなければならなかったという状況だったと思われます。
・『何度目かの帰還の時か、司令官が軍刀の柄を両手で摑み、ギラつく目で佐々木をにらめつけた。
「きさま、それほど命が惜しいのか、腰抜けめ!」
佐々木伍長は落ち着いた声で答えた。
「おことばを返すようですが、死ぬばかりが能ではなく、より多く敵に損害を与えるのが任務と思います」
司令官は激怒した。
「馬鹿もん! それはいいわけにすぎん。死んでこいといったら死んでくるんだ!」
「はい、では佐々木伍長、死んで参ります!」
こう叫んで佐々木はその場を辞した。本(「特攻隊振武寮 証言・帰還兵は地獄を見た[講談社]」)では怒鳴ったのは、冨永司令官と書かれているが、猿渡参謀長の間違いだろう』
今回の本は、前回のブログでご紹介した山本七平先生の『「空気」の研究』という本と同じ時期に購入していました。
「何故、9回の出撃命令にも関わらず、命を落とすことがなかったのだろうか? 一体、何が起きていたのだろうか?」 これは是非、知りたいと思いました。読み終えて、思ったことは次の通りです。
1.父親の体験と教え
2.岩本益臣隊長の信念と無念の死
3.空を飛ぶことが子どもの頃からの夢だった
4.下級下士官だったこと(ご本人のお話)
太平洋戦争に関しては、海軍大将であった山本五十六連合艦隊司令長官の戦争回避の進言を無視し、米国との戦力差が拡大する一方の厳しい戦況が続く中、B29による日本本土への空襲は1944年6月16日未明、北九州(目標は八幡製鐵所)が最初でした。そして、日本の特攻隊による攻撃は最初の空襲から約4ヵ月後の1944年10月25日でした。
この狂気とも思える攻撃が米国を震撼させたことは確かだと思います。しかしながら、それは1945年3月10日の東京大空襲につながったように思います。大空襲は日本各地に拡がりそれでも降伏しない日本に対し、ついに原爆が長崎・広島に投下されました。大空襲から終戦までの約半年間に、太平洋戦争における民間人の約74%となる80万人が戦死しました。
大本営内の海軍と陸軍の暗闘、バラバラな上層部、責任感の欠落が戦争の被害を拡大したと思います。
本書の「第2章 戦争のリアル」の部分は、高木俊朗氏の『陸軍特別攻撃隊』からの引用が多くなっています。この中で猿渡篤孝参謀長は佐々木友次伍長の天敵のように非常に厳しい接し方をされています。気になったので猿渡氏について調べてみました。
思うに、佐々木友次伍長と猿渡篤孝参謀長の対立は、戦場において命をかけて勝利のため(戦艦を沈めるため)に何をすべきかを粘り強く追求し続け、そして実行した兵士の佐々木伍長と、絶対服従という組織のルールを守り、疑問点があったとしてもそれを封印して、非道とも思える命令を実行し続けた上官の猿渡参謀長とのイデオロギーの対立だったと思います。
猿渡参謀長としては、命令に忠実に従い体当たりを実践して戦死していった部下達のことを思うと、佐々木伍長の単独行動を許すことはできなかったのだろうと思います。そのように考えると、数々の非道な発言も事実に近いのではないかと思います。ただし、それは猿渡参謀長の非情な人間性というより、大本営の命令を愚直に実行したものだったと思います。
悲惨な結末は戦争の指揮をとった大本営内の海軍と陸軍がバラバラだったことが大きな要因です。戦争を始めた責任、勝てない戦争を続けた責任、74万人の戦死した民間人の命、日本の歴史上最大の悲劇だと思います。
前回の“空気と同調圧力”のブログを参考にすれば、【今さら、やめられない!】という空気(妖怪)に支配され、目先の確執(海軍と陸軍)に囚われ、理性的な判断をすることができなかった大本営の責任は極めて重いと思います。
当初は猿渡参謀長の言動が真実かどうか分からなかったので、あまり取り上げるべきではないと考えていたのですが、上記に書いたように、猿渡参謀長の言動は人間性からではなく、大本営の命令に忠実に従ったものであると考え、参謀長の言動こそが、大本営の不合理さ、非情さ、無計画さ等を知ることができるのではと考え直し、当初の内容に戻しました。
目次
はじめに
第1章 帰ってきた特攻兵
●生き残った特攻隊員
●振武寮という地獄
●第一回の特攻隊
●旅の始まり
●テレビ取材
●佐々木さんに会いたい
●札幌の病院で
第2章 戦争のリアル
●『陸軍特別攻撃隊』から読み解く
●生い立ち
●飛行機乗りへの道程
●岩本益臣隊長
●3本の槍
●艦船を沈める難しさ
●妻・和子との別れ
●万朶隊の結成
●特殊任務
●特攻は努力と技術の否定か
●死への飛行
●巧妙な仕掛け
●父の教え
●神風特別攻撃隊の「成功」
●フィリピンへ
●儀式好きの冨永司令官
●岩本隊長の作戦
●理不尽なマニラ行き
●残された者
●出撃の夜
●レイテ湾の戦い
●突入
●割り増しされる「戦果」
●消された存在
●2回目の出撃
●急襲
●軍神の家
●一機だけで
●5回目の出撃
●6回消された存在
●嘘の戦死報告
●不時着
●「臆病者」
●適材適所とは真逆の作戦
●8回目の出撃
●9回目
●マラリアの苦しみ
●レイテ戦の敗北
●処刑飛行
●無能なリーダー
●アメリカ軍の上陸が迫る中で
●司令官の逃亡
●“軍神”は死なねばならない
●全軍特攻
●敗戦へ
●殺害命令
●帰国の途
●雪の北海道
●戦後を生きる
第3章 2015年のインタビュー
●2015年10月22日
●特攻と聞いて
●死なない強さ
●2回目のインタビュー
●生き残った者として
●3回目のインタビュー
●4回目のインタビュー
●佐々木さんを支えたもの
第4章 特攻の実像
●特攻隊とはなんだったのか
●「神風特別攻撃隊」の欺瞞
●「命令した側」の物語
●集められた遺書
●守られたエリート
●洗脳
●すり替えと責任逃れ
●「熱望する 希望する 希望せず」
●偽善の姿
●未熟で若いパイロット
●特攻の有効性
●嘘で塗り固めて
●本当の命中率
●現実を見る能力
●特攻を続けた本当の理由
●天皇と特攻
●国民の熱狂
●売れるから書く
●精神主義の末路
●リーダーとしての器
●特攻を拒否した美濃部少佐
●非常事態はしょうがない?
●日本人の性質と特攻
●思考の放棄と「集団我」
●特攻前夜の暗い瞳
●現代の「所与性」の形
●当事者ではない人間の怖さ
おわりに
第1章 帰ってきた特攻兵
●生き残った特攻隊員
・最初の特攻隊の海軍であり、1944年10月25日の「神風特別攻撃隊」とされた「敷島隊」だった。陸軍の「万朶隊」の出撃は11月12日だった。共通していたのはいずれも優秀なパイロットが選抜されたということだった。しかし、パイロットにとって特攻は鍛錬してきた技術とプライドを無視するものであり、パイロットは怒りのため苦悩した。
・本書の主人公である佐々木友次伍長「戦艦」一隻を撃沈したという成果を報道され、天皇にまで報告され軍神として褒めたたえられた。にもかかわらず、佐々木伍長は生きていた。体当たりではなく急降下爆撃後、不時着していた。
第2章 戦争のリアル
●岩本益臣隊長
・佐々木伍長に大きな影響を与えたのは、「万朶隊」の岩本益臣隊長であった。岩本隊長は陸軍士官学校を出た28歳。操縦と爆撃の名手であり、戦局打開のための「超飛爆撃(爆弾を海に落として跳ね上がらせ命中させる方法。水面に石を横投げすると、幾段にも跳ねて飛ぶのと同じメカニズム)」の第一人者だった。爆弾は上空から落とすより、艦船の側面を狙った方が命中率は上がり、かつ側面は上甲板より強度が弱いので艦船に大きなダメージを与えることができる。
・岩本大尉はアメリカ軍の戦法であった「超飛爆撃」の研究と演習を続けていた。
画像出展:「茨城県立歴史館」
『陸軍最初の特攻隊「万朶隊」の隊長岩本益臣大尉の関係史料の一つ。朝日新聞の従軍記者から妻和子へ送られた、戦死前日の姿です(昭和19年11月4日撮影)。岩本は跳飛爆撃の名手で、特攻作戦に反対でしたが、皮肉にも最初の特攻隊長に選ばれました。』
画像出展:「万朶隊 陸軍最初の特別攻撃隊」
『「大空は魂の故郷」と言われます。空への憧れから飛行兵を志した少年たちは、戦況の悪化とともに「十死零生」、つまり死を前提とした特攻作戦に投入され、約四千人の若者がフィリピンや沖縄などの海に消えていきました。』
●3本の槍
・3本の槍には起爆管のスイッチがついており、体当たりにより押されると爆発する仕掛けである。
・『竹下少佐は黙ってうなずいた。立川飛行場に勤務する彼もまた、「超飛爆撃」を研究していて、共に沖縄の演習を指導していた。
「爆弾投下器はどうなっていますか?」混乱しながら、岩本大尉は聞いた。
「はずしてしまった。いらない機械はみんなおろした」苦々しい答えが返ってきた。
それはつまり、操縦席からは爆弾を落とせないことを意味した。爆弾を破裂させるには、体当たりしかないということだ。
「こんなもの作れって、どこから言ってきたんです」岩本大尉は怒気をはらんだ口調で聞いた。
「航空本部さ。本部長が7月25日に決裁している。参謀本部(大本営)の二課(作戦課)で考えていた」
「それじゃ、本気で、実戦に使うつもりですか?」
「本気さ。どしどし準備を進めている」竹下少佐は吐き捨てるように言った。
岩本大尉の顔は怒りで険しくなった。「ろくな飛行機も作らんでおいて」
戦況が悪化すると、陸海軍の中から体当たり攻撃を主張する声が聞こえ始めた。しかし、岩本大尉も竹下少佐も、体当たりには反対だった。理由は、体当たりが操縦者の生命と飛行機を犠牲にするだけで、効果があり得ないと考えるからだ。』
●特殊任務
・『岩本隊長を含めた3機の九九双軽は、フィリピンに輸送する資材を受け取るために、いったん、立川飛行場に立ち寄った。
佐々木ら下士官は、練習用の飛行機3機に分乗し、先に、岐阜県の各務ヶ原飛行場へ飛んだ。そこで、自分の飛行機を受け取るためだ。若い下士官達は、初めて自分の搭乗する飛行機を貰えるということに興奮していた。しかし、各務ヶ原飛行場には、それらしき飛行機は見当たらなかった。
やがて、教えられて行った場所は、飛行場の北隅の繫留地帯だった。目につかないその場所に、20機近くの九九双軽が並んでいた。勇んで走り寄る下士官が見たのは、飛行機の先端から3本のツノが突き出た九九双軽だった。
「なんだ、このツノは?」
自分が乗る飛行機を前にして、「万朶隊」の下士官達は、お互いに顔を見合わせた。
やがて、立川飛行場から岩本隊長達が到着し、全員を前に緊張した顔で訓示した。
「我々は、フィリピンの激戦場に行くのであるから、生還を期さない覚悟であるのは言うまでもない。特に言っておきたいのは、我々は特殊任務につくということである。これについては、改めて教えるが、なお一層、必死必殺の決心を固めてもらいたい」
佐々木ら下士官は、初めて自分達の出撃が「特殊任務」だということを教えられた。
そして、それは、九九双軽の風防ガラスから突き出している3本のツノと関係があると気がついた。
「特殊任務とは、なんだろう?」鵜沢軍曹が不安そうな声をだした。
「体当たりだよ」田中逸夫曹長が小声で教えた。鵜沢軍曹は、急に黙り込んだ。顔色が変わっていた。川島孝中尉が、硬い表情で言った。
「あのツノは信管だな。あれがぶつかると、機体の中で爆弾が破裂するんだ」
若い下士官達は、思わず顔を見合わせた。あきらかに動揺した表情だった。
九九双軽は機首に旋回銃座がついている。だが、目の前にある九九双軽は、機関銃自体が取り払われ、死のツノが飛び出ていた。後部にあるはずの二つの旋回銃もなかった。
佐々木友次は、動けないまま、3本のツノをじっと見つめていた。』
●父の教え
・佐々木伍長に父は日露戦争の時、旅順の203高地を攻撃する決死隊の白襷隊の一員だった。夜間、白い襷を肩からかけて、高地の斜面を登り、敵陣地を強襲しようという部隊だった。白い襷は夜の闇の中でかえって目標になってしまったため、白襷隊は全滅に近い悲劇となった。
この激戦の中で父の佐々木藤吉は生き残った。その時に一つの信念が生まれた。それは「人間は、容易なことでは死ぬものでない」ということだった。この藤吉の信念は子供達の心に染み通り、人生の希望となった。その父の信念が佐々木友次の心に浮かび上がった。「俺は死ぬはずがない」
画像出展:「白襷隊 - 日露戦争・旅順攻囲戦の決死隊」
『白襷隊は、日露戦争の旅順攻囲戦で、志願兵からなる決死隊として夜間ロシア軍要塞に銃剣による奇襲攻撃を仕掛け、失敗。
ほぼ壊滅してしまった部隊です。』
山本七平先生の著書『「空気」の研究』は1977年の発表以来、40年以上にわたって多くの論者に引用・紹介される名著とされており、長期間にわたって読み継がれています。
日本では学校や会社などの組織にいると、「空気」というか「空気感」がとても大きなものであることを痛感します。また、日本では「空気が読めない人」は批判や排除の対象になりやすく、周囲との調和を重視し個人の意見を控えめにすることが一般的に求められます。
ちなみに英語で、この日本特有の「空気を読む」に近い表現は何ですか?とAI(Perplexity)に質問したところ、 “sense the mood”という回答でした。ただし、忠実に表現しようとすると“sense the mood and adjust your behavior accordingly”(ムードを感じ取り、それに応じて行動を調整する)になるそうです。
欧米では空気を読む必要がある場面は限定的で、たとえ空気を読んでも、自分の意見や感情を率直に表現することを重視しており、個人主義が優先されます。また、「空気を読む」概念は存在しますが、その頻度と拘束力は日本ほど強くなく、特に日本ほど「常に空気を読まなければならない」というプレッシャーはないようです。このため「空気が読めない人」への社会的否定は、日本ほど厳しくはないとされています。
この日本特有と思われる「空気/空気感」について考えてみたいと思いました。そこで、山本先生の『「空気」の研究』を拝読させて頂くことから始めました。
本書は3つに分かれています。1.「空気」の研究、2.「水=通常性」の研究、3.日本的根本主義について です。2と3は内容が難しく、集中力を欠いてしまったためによく理解できませんでした。そこで、AIにこの3つの内容とそれぞれの関連性についてたずねました。
『3つの主題は、日本社会が「空気」(場の雰囲気)に支配され、現実的・通常性の「水」すら空気の温床となり、最終的には根本主義的な“場の絶対性”へと収束するという、互いに抜け出せない構造として補完し合っています。このため、外圧や論理的批判があっても、“空気”と“水=通常性”の補完的な力により、日本社会の変革や自己批判が難しくなる背景を示しています。』
ブログは、『「空気」の研究』の中から山本先生の「空気」が特に伝わると思われる部分を抜き出しています。そして、それを踏まえ、出てきた疑問に対するAIの回答を載せています。
1.「空気」の研究
●『「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かも知れない。何しろ、専門家ぞろいの海軍の首脳に、「作戦として形をなさない」ことが「明白な事実」であることを、強行させ、後になると、その最高責任者が、なぜそれを行なったかを一言も説明できないような状態に落とし込んでしまうのだから、スプーンが曲がるの比ではない。こうなると、統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であって、そういうものをいかに精緻に組みたてておいても、いざというときは、それらが一切消しとんで、すべてが「空気」に決定されることになるかも知れぬ。とすると、われわれはまず、何よりも先に、この「空気」なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起こるやら、皆目見当がつかないことになる。
では一体、戦後、この空気の威力は衰えたのであろうか、盛んになったのであろうか。「戦前・戦後の空気の比較」などは、もちろん不可能だから何とも言えないが、相変わらず猛威を振っているように思われる。もっとも、戦後らしく「ムード」と呼ばれることもあり、昔なら「議場の空気」といったところを「当時の議場の全般のムードから言って・・・・・・」などという言い方もしている。そして時にはこの「空気」が竜巻状になるのがブームであろう。いずれにせよ、それらは、戦前・戦後を通じて使われる「空気」と同系統に属する表現と思われる。そしてこの空気が、すべてを制御し統制し、強力な規範となって、各人の口を封じてしまう現象、これは昔と変りがない。』
●『「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。以上の諸例は、われわれが「空気」に順応して判断し決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのではないことを示している。だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。大和の出撃はそのほんの一例にすぎない、と言ってしまえば、実に単純なのだが、現実にはこの二つの基準は、そう截然と分かれていない。ある種の論理的判断の積み重ねが空気的判断の基準を醸成していくという形で、両者は、一体となっているからである。いわば議論における論者の論理の内容よりも、議論における言葉の交換それ自体が一種の「空気」を醸成していき、最終的にはその「空気」が決断の基準となるという形をとっている場合が多いからである。
では一体この「空気」は、どのようにして醸成され、どのように作用し、作用が終ればどのようにして跡形もなく消えてしまうのであろう。これを探求する一つの手掛りは、だれかが、何らかの意図のもとに、ある種の「空気」を意識的に醸成した場合である。言いかえれば、議論が、議論そのものよりも、明らかに、議論によるある種の「空気」の醸成を狙っている場合である。通常「空気」は、このような人工的操作によって作られるものでなく、言葉の交換によって、無意識のうちに、不作為に、いわば自然発生的に醸成されるから「空気」なのだが、それは、ある種の意図を秘めた作為的な「人工空気」の醸成が不可能だということではない。従って、この「人工空気醸成法」を調べていけば、「自然発生的空気」の成立過程も少しはわかるであろうと思われる。』
●『人が完全に空気に支配されて、身動きできなくなる例をあげよう。この例は、日本が重要な決定を下すとき、たとえば日華事変の本格化、太平洋戦争の開始、日中国交回復等に、必ず出てくる図式である。
だがここでは、現在において、まず明確に残っている最高の例と思われる西南戦争をとろう。これならば、すでに歴史上の事件であるし、戦ったのは同じ日本人同士だし、従って外交的配慮から「虚報を事実だ」と強弁する必要もないし、事実としなければ反省が足らんと言われることもあるまい。またどちらを仁徳にあふれる神格化的存在としようと、どちらをその対極にある残虐集団と規定してあろうと、共に日本人だから、どこからも文句は出まい。歴史上の事件で国内事件の場合は、こういう点で、いわば「無害化」されているので、非常に扱いやすい。そしてその基本的図式は、実は現代と全く同じである点で格好のサンプルである。
西南戦争は、いうまでもなく近代日本が行なった最初の近代的戦争であり、また官軍・賊軍という明確な概念がはじめて現実に出てきた戦争である。こういう見方は、戦国時代にはない。同時に、大西郷は、それまで全国民的信望を担っていた人物である。従って西郷危うしとなれば、全国的騒乱になりかねない。否、少なくとも「なりかねないという危惧」を明治政府の当局がもっていた戦争である。ということは「世論」の動向が重要な問題だった最初の戦争であり、従ってこれに乗じてマスコミが本格的に活動し出し、政府のマスコミ利用もはじまった戦争である。元来日本の農民は、戦争は武士のやることで自分たちは無関係の態度(日清戦争時にすらこれがあった)だったのだが、農民微募の兵士を使う官軍側は、この無関心層を、戦争に「心理的参加」させる必要があった。従って、戦意高揚記事が必要され、そのため官僚=正義・仁愛軍、賊軍=不義・残虐人間集団の図式化を行ない、また後の「皇軍大奮闘」的記事のはしりも、官軍は博愛社により敵味方を問わず負傷者を救う正義の軍の宣伝もはじまった。いわば、日中国交回復に至るまでの戦争記事の原型すなわち「空気醸成法」の基本はすべてこのときに揃っているのである。』
『「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かも知れない。』
これは凄い表現だなと思いました。そして、いくつかの疑問が出てきました。
1.日本の「空気」と同じような「空気」を有する国はあるのだろうか?
2.日本の「空気」は何時代からのものだろうか?
3.日本の「空気」(同調性圧力)が日本独特であるとすれば、その背景や理由は何だろうか?
4.日本の「空気」は「村八分」との関連性が特に強いのではないだろうか?
5.日本の「空気」は軍隊の特性(封建主義、従属心・命令絶対主義)と何か関係はないのだろうか?
1.日本の「空気」と同じような「空気」を有する国はあるのだろうか?
●日本型の「空気」「忖度」「同調圧力」と似た文化は東アジアに存在するが、欧米では文化的背景が大きく異なる。
●農村共同体の持つ同調性や集団主義的傾向はグローバルに観察されるものの、「空気」に支配される程度・無言の同調圧力の強さは日本が際立っている。
●どの言語にも、日本の「空気感」の持つ“見えない社会的拘束力・黙示のルール・同調強制”のすべてを飲み込む単独の単語はなく、説明や複数の語句が必要である。この現象自体が日本文化特有であるため、他言語話者に伝える場合は複数語句や説明文によるしかない。
2.日本の「空気」は何時代からのものだろうか?
●同調性や空気による支配は、数世紀にわたり農耕社会や儒教的価値観、国家政策などが複合的に積み重なって定着したものと考えられる。
3.日本の「空気(同調性圧力)」が生まれた背景や理由は何だろうか?
●村社会の伝統と閉鎖性、「和」を重んじる文化価値、高い同質性と集団内関係志向、暗黙の了解や忖度のコミュニケーション、現代社会や教育構造の影響、これらの要因が相互に補強し合うことで、日本独特の「空気」に支配される無言の同調性が際立っているといえる。
4.日本の「空気」は「村八分」との関連性が特に強いのではないだろうか?
●村八分は、最も明確には江戸時代に形成・確立された村落秩序維持の手段だが、その根源は中世村落社会にまで遡る可能性があり、明治以降の近代化と法制度化により、従来の慣習が制度的・法的に問題化されたと考えられる。
●「村八分」という制度自体は江戸時代の村落生活に根付いていたものの、「はちぶされる」という表現そのものは、村落生活とは必ずしも直結せず、江戸時代中期から徐々に慣用句的に使われるようになっていった。
●「村八分」の文化的・共同体的な独特の意味合い(共同生活のほぼ全てから除外するが葬式・火事のみ助ける等)まで一語で伝えるものは他国語にはない。
5.日本の「空気」は日本の軍隊の特性(封建主義、従属心・命令絶対主義)と何か関係はないのだろうか?
●日本の軍隊文化における「空気」は、封建主義的な上下関係や命令絶対主義と密接に結びつき、組織的な従属心や無責任、同調圧力をより強固にする独特の働きを持っている。このため、日本軍の特徴には単なる制度だけでなく文化的な「空気」の影響が不可欠と言える。
感想
日本の「空気」が独特なのは、“潜在的な虞(おそれ)”が心に存在しており、それが多くの日本人の無意識の共感となって“大きな絶対権をもった妖怪(山本先生の言葉)”として漂っているように思います。また、この“妖怪”は影の実力者のごとく、そして隠れた権威主義のように、グループ、組織、行政、国家を動かす測り知れない力として影響を及ぼしているように思います。(“潜在的な虞”には、特に“村八分”と”軍国主義(封建主義と従属心・命令絶対主義)”が何か関係しているのではないかと感じています)
もちろん、「空気」には前向きの素晴らしい力もあります。日本人の「和」や「調和」、「助け合い」の精神等は「空気」が後押ししていることも多いと思います。つまり、「空気」には良い悪いの両面があるということだと思います。
未読の本が溜まってしまっていて、この本を何で買ったのかよく覚えていないのですが、そのことは気にせず読み始めました。そのようなやや緊張感を欠いた中で、2章の「質問力とはなにか」が気になりました。
私はあまり空気を気にしないタイプなので、質問の時間になり一呼吸おいて誰も手を上げない場合は、毎回のように最初の質問者になっていました。これは真剣に話を聞いていると必ず疑問が出てきてしまうためですが、もう一つは、誰もが質問できるような空気を作りたいという気持ちも少しありました。
目次
はじめに 質問は現状を大きく変える力
1章 質問は人生を変える
●いい質問ができる人はどういう人か
●問題を提起できる人が偉い
●イノベーションを興す時間
●思いついたアイデアをすぐやってみる
●なぜ日本人は質問が下手なのか
●世の中には正解はない
●頭のいい人は自分に質問する
●科学的真実は絶対ではない
●質問力は誰でも鍛えられる
●自分の頭で考える
2章 質問力とはなにか
●質問と疑問は違う
●自分の中の違和感に気づく
●感情と論理の橋渡しをする
●誰の人生にも偏りがある
●自分の感情に気づくレッスン
●質問とは自分との対話
●自分自身をメタ認知する
●いい質問ができれば、答えは半分出たようなもの
●人生の選択肢を広げるツール
●世の中には三つタイプがいる
3章 いい質問、悪い質問
●知識と教養は違う
●質問とはカウンセリング力
●あなたの質問はナイーブかもしれない
●ソクラテスならこう聞く
●悪い質問①正確を直接求める
●悪い質問②おススメを聞く
●悪い質問③相手に同意を求める
●悪い質問④相手を問い詰める
●悪い質問⑤どちらかを選ぶ
●いい質問①空気を変える
●いい質問②相手の経験を聞く
●いい質問③好きなものを聞く
●いい質問④本心に気づかせる
●いい質問⑤自分の生き方を問う
●いい質問をするためのキーワード
●子どもの「なぜ?」にどう答えるべきか
4章 質問は脳の可能性を広げる
●質問するとき脳はどう機能しているのか
●脳は他人の心を読み取れる
●脳は細かいところまでよく見ている
●記憶を蓄えて予測する
●意識に無意識の邪魔をさせない
●しっくりくるまで時間をかける
●脳は新しいことにすぐ慣れる
●脳の強化学習を利用する
●創造性を高める脳のバッチ処理
5章 質問力をさらに高める8つのアクション
●質問力は一日にしてならず
●質問力を高めるアクション①お茶を飲む
●質問力を高めるアクション②思考をアウトプットする
●質問力を高めるアクション③繰り返す
●質問力を高めるアクション④正直になる
●質問力を高めるアクション⑤欠点を指摘する
●質問力を高めるアクション⑥締め切りをつくる
●質問力を高めるアクション⑦むちゃぶりをする
●質問力を高めるアクション⑧芸術を観る
6章 日常生活で活かす質問術
●脳内質問でトレーニングする
●世界で活躍できる人になるために必要な質問
●自分が越えられない壁を乗り越えるための質問
●自分とは違う人と向き合うための質問
●原因を究明するときの質問
●自分の望みがかなわないときの質問
●将来なにをしたらいいのか分からないときの質問
おわりに ブルー・オーシャンの時代を生きるために
現状を変えるための質問
目次
2章 質問力とはなにか
●質問と疑問は違う
・質問するとは「これでいいのか?」、「なにか変だ」、「なにか嫌だ」というモヤモヤしているものが何なのかを具体的に知る必要がある。
・“疑問”は曖昧な違和感やひっかかりであり、それを感じる「感情力」が必要である。
・“質問”は具体的に解決につながるように提案する力、「論理力」が必要である。
・良い質問をするためには、感情と論理の橋渡しができるようにならなければならない。その鍵になるのが「メタ認知」である。メタ認知とは、自分の感情を冷静に観察し、「今、自分の状態はこうだ」「自分はこんな感情を持っている」と気づく力のことである。「モヤモヤ」や「イライラ」の原因が何であるかを認識できないと、それを「変えよう」という気持ちにならない。
・現状の違和感を持つ感情力、それに気づくメタ認知力、「どうするか」考える論理力。これらが一体となって良い質問が生まれる。
●質問とは自分との対話
・自分の問題を見つけることは自立した生き方につながる。
・自分を一生支えてくれるような発見は、自分の感情との対話、つまりメタ認知を通して起こる。
画像出展:「eラーニングで学習者のメタ認知を支援する方法」
『「メタ認知」とは、今まさに何かを考えている自分の思考や、何かに取り組んでいる自分の行動について、一歩引いて、今よりも高い視点から把握する能力「客観的に自己評価する力」のことです。』
●いい質問ができれば、答えは半分出たようなもの
・『こんな質問がありました。「大学受験に落ちてしまいました。浪人する気がありません。でも科学者になりたいと思っています。大学に行かなくても科学者になる方法はありますか?」
この質問をした人の中核にある気持ちは、次のようなものではないのでしょうか。「大学受験に疲れてしまった。今はもう努力する気になれない」
だから本当は「大学に行かなくても科学者になる方法」が聞きたいのではなく、次のことが聞きたいのではないでしょうか。
「どうしたらもう一度勇気を振り絞って困難に立ち向かっていけますか?」
自分で自分自身の中核にある感情に気がついて、このように質問することができたなら、「ああ、今は疲れているのだな。少し休むことが先決だ」という解が出てくるはずです。自分自身をごまかさず、自分がとらわれている感情に気づくことが重要なのです。』
・自分の状態を正確に把握することは簡単ではない。多くの場合、人は自分の感情をごまかしたり、曖昧にしてしまったりしてしまう。もし、何が問題なのかが正確に把握できれば、自ずと答えは出てくるものである。
感想
自分を振り返って考えてみると、最初に頭に浮かぶのは“疑問”であり、それは確かに感情から出てくるものだと思います。そこで頭に浮かんだ疑問をそのままぶつけて、感情的満足感を得ることはできると思いますが、それが解決になるかどうかは微妙です。
生きた質問に変えるには、受け手にこちら側の質問を正しく理解して頂く必要があります。また、“疑問”の答えを知ることが問題解決になるのかどうかを事前によく考える必要があると思います。
例えば疑問が3つあったとして、その3つをそのままぶつけるのではなく、その3つの疑問をまず自問自答してみて、精査された1つの質問にまとめ、本当に知りたい答えを得ることを目指すべきだと思います。
まさにこのような質問をすることが、茂木先生の言われる“いい質問”なのではないかと思います。そして、この“疑問”を“いい質問”に変換する作業に関わっているのが“メタ認知”だと思います。
この“メタ認知”に向き合うことは“、いい質問”に限らず自分自身の気持ちを正しく理解することによって、自分自身のストレスを軽減できる素晴らしい行為だと思います。
そして、メタ認知の習慣を身につけることはより良い生活のみならず、より良い人生にも関わる極めて大切な生きる知恵だと思います。
サッカーに関する本を何気なく見ていて、『世界一受けたいサッカーの授業 戦術・戦略に欠かせない100の基本』を見つけました。まず、そのタイトルに興味を持ちました。著者はレアル・ソシエダというスペインの強豪チームの育成年代からトップチームコーチ、そして強化ディレクターを歴任された、ミケル・エチャリ氏でした。
「サッカー部OBに過ぎない私が買うのもなぁ」と思ったのですが、スペインサッカーの何かを知ることができるかもしれないと思い買ってしまいました。
読み終わって気づいたことは、“スペース”という部分です。50年以上前の記憶ではありますが、サッカーにおいて“スペース”ということを深く追求したことはなかったなと思いました。選手として、ほとんど感覚的にスペースを使っていたに過ぎなかったと思います。
そこで、もし監督だったらサッカーにおけるスペースの問題をどのような戦略・戦術に落とすのかということを考えてみることにしました。
目次
1.知識の伝達方法は議論の的になり続ける
2.育成年代の目的設定とそれを達成するための方法論
3.そのほかの職業で行われているような継続した観察や分析は、フットボールという職業においても、職業訓練の質を維持向上させるために必要である
4.知識の伝達を通じて、フットボールを『見る』ことをサポートする
5.フットボーラーはピッチで思慮深い存在でなければならない
6.戦術の進化は終わりを知らない
7.監督は自チームがロジックを機能させられるようにしなければならない
8.戦術は技術よりも短い時間で習得される
9.戦術的判断に影響を及ぼす要素には、スペース、スピード、時間がある
10.決断されたアクションは味方に安定を与え、相手には対応を余儀なくさせる
11.ロジックを通じて入ってくるのは必ず身につけることができる
12.相手よりもいかに賢いか
13.フットボールにおける会話は『動き』を通じて行われる
14.常に何かをやっていなければいけない
15.プレーのリハーサルは実際のプレーで回答を見つけることを速め、そして、それはフットボールのスピードを上げる
16.各選手に求められる機能はスペースをどう共有するかによって決まる
17.いいプレーをするにはボールから目を切らなければいけない
18.選手は自分の目の高さから情報を得てプレーしている
19.各ポジションの機能を知っておくことが重要
20.選手の動きはアクションとリアクションの原則に基づく
21.目的を変更するための戦術的豊かさ
22.繰り返し発生する不均衡の中で均衡を見つけ続ける
23.スペースを埋める作業はポジションバランスの獲得につながる
24.話すことは情報の伝達を意味する
25.作られるスペースと埋められるスペース
26.近い方から離れて遠い方を背中で受ける
27.リベロとマーカーの距離を制限する
28.ボールに対して遠い方が修正する
29.声で押す
30.数的優位よりポジション優位の方が大事である
31.良いフットボールをするのは難しく、その形はひとつではない
32.フットボールをプレーする際の目的は『点を取られず』に点を取ることである
33.技術的に貧しいチームは、スペースを確保した状態でプレーできるように、速攻を志向するべきだ
34.全ての瞬間で攻撃と守備が存在する
35.指導者は、ボール近くの現在のエリアではなく、その先に有益になる未来のエリアに集中するべきである
36.ボキャブラリーは選手と指導者の間で共通したものであるべき
37.多様な目的を達成するための中間ポジション
38.リスタートのアドバンテージ
39.未来に注意する
40.価値あるスペースに変わり得る場所を相手よりも速く予測する
41.パフォーマンス向上のカギとなる視野の確保
42.幅は失ってもいいが、深みを失うことはできない
43.ピッチ中央でのポジションバランス
44.騒音の中を生きる
45.フットボールにおける才能とクオリティー
46.背景を知ることもプレーを評価する一部である
47.基本的なことをいかに素晴らしく行えるか
48.ポジションバランスの獲得はパスコースを作ることにつながる
49.正しく動く11本の棒を突破するのは難しい
50.似たような状況での同じ回答
51.90分間で得られなかったものを取り返すことはできない
52.逆サイドのサイドバックの動き
53.攻撃陣の守備戦術の欠如はチームに危険をもたらす
54.遠い方のセンターバックが守備を指揮する
55.近い選手によるプレッシングと遠い選手による警備
56.ペナルティーエリア前での最後のディフェンダー
57.円を描く動きとポジション優位
58.ラインをカバーリングするための逆サイドからのダイアゴナル
59.『1対2』よりも『3対4』の方が守りやすい
60.壁パスにおける壁役は出し手と反対側へ
61.物体は通り抜けることができない。空中は支配することができない
62.逆サイドのディフェンダーの体の向き
63.『触れ』と『放っておけ』
64.逆サイドのサイドバックはセンターバック方向に絞る
65.本当の動きから嘘の動きへ
66.最後方の守備の相手の最前方から2番目の選手にはアタックできない
67.ストップを通じてだます
68.あらかじめ『いる』のと『現れる』や『つく』は違う
69.壁パスにおける離れながらのサポート
70.壁パスでの幅と深み
71.技術が高い選手は人に仕掛け、技術が低い選手はスペースに仕掛ける
72.動きが変われば、作られるスペースも変わる
73.幅と厚みを考慮した速攻の準備
74.数的不利な状況において、2列目から飛び出しに注意しながら、オフサイドを誘発する
75.ひとつに集中する方がゾーン内のすべてに集中するよりも簡単である
76.『ゾーンでマークする』のであって、『ゾーンをマークする』のではない
77.ゾーンは埋めるもの、人はマークするもの
78.マークの立ち位置を決定する要因
79.攻撃における自由は守備における安全性に基づく
80.遠い成功のために近い危険を冒してはいけない
81.構造を整えるための動きはチームにポジションバランスを与える
82.攻から守への『切り替え前』に準備しておく
83.守から攻への『切り替え前』に準備しておく
84.特別な選手の模倣可能な部分とそうでない部分を区別する
85.パスコースは短命である
86.良い状態の仲間がいる場所に自分のマークを引き連れていかない
87.写真+記憶=プレー視野
88.静的ではなく動的なコントロールを
89.プレッシャーを受けてボールを運んだ場合、そのあとのボールの移動中に、『見えなかったエリア』に目をやる
90.斜めの動きと円を描く動き
91.サイドで休憩する
92.利き足を内側にしてプレーすることで作られる角度
93.軸足の指の向きはボールの軌道に影響を与える
94.フィニッシュにおける数メートルのアドバンテージ
95.チームが守備しているとき、攻撃は同サイドで待つ
96.斜めのポジション回復
97.何人を前に並べるかではなく、何人と敵陣に迫るかが重要である。そして、ポジション優位を意識する
98.詰める選手はどこに詰めるかを選定し、クロスを上げる選手はどこにボールを届けるかを選択する
99.サイドからパスを受ける3人目の攻撃の選手は止まるか少し下がる
100.フィニッシュにおける交差の順番
最後に 人間は最後の日まで学び続けることができる
目次
18.選手は自分の目の高さから情報を得てプレーしている
●言われてみれば当然なのですが、あまり意識したことはなく、しかし、とても重要な注意点だと思います。
●『指導者が絶対にやってはならないのは、選手が実際にどんな環境でプレーしているのかを忘れて指導することです。』とのことです。
23.スペースを埋める作業はポジションバランスの獲得につながる
●ここで書かれていることの前提は、『チームの構成員全体でどのスペースが有益なのかを知る必要があります』
ということです。対戦相手が変われば戦略も戦術も同じではありませんが、チームのメンバーはある程度固定されますので、戦い方が試合ごとに大きく変わるということは、あまりないと思います。したがって、攻撃においても守備においてもそのチームの戦い方を十分に理解したうえで、スペースの問題も考える必要があると思います。
25.作られるスペースと埋められるスペース
●セットプレーよって試合が止まらない限り、プレーによってスペースは新たに作られたり、埋められたりと常に変化します。大事なことは自分の周りに加え、少しでも広くフィールドのスペースを把握できるよう周りを見られるというスキルを身につけることです。
61.物体は通り抜けることができない。空中は支配することができない
●ボール支配率は試合を有利にする方法です。特に主導権を握るということは身体的および精神的な疲労を軽減することにもつながります。試合終盤、残り時間5分をきってからの劇的な得点は、このような疲労の差ではないかと思います。ただし、技術面などに課題が多い場合などパスをつなげるサッカーが難しい場合は、中盤の後ろのスペースをチーム戦略として狙うという選択もあります。これは空中をうまく理由した攻撃といえます。
パス主体のポゼッションサッカーであってもパスに固執すると攻撃が単調になり、相手にとって守りやすくなるため、空中を使った攻撃を効果的に組み合わせることは有効です。ただし、対戦相手に対するチーム戦術として事前に練習を通してチーム内の意識合わせができていないと、この戦術はうまく機能しないように思います。
81.構造を整えるための動きはチームにポジションバランスを与える
●ここでのポイントは、『チームがボールを持って攻撃をしているときに攻撃をしないグループが存在しなければなりません。そして、チームが守備をしている際に守備をしないグループが存在しなければならないことも重要になります』。
これはバランスという事だと思います。「全員攻撃全員守備」であったとしても、攻守は一瞬にして替わってしまうものなので、フィールドプレイヤー全員が100%攻撃、100%守備では逆襲による失点のリスクを高めるとともに、攻撃においては有効な反撃ができず、守勢一方になってしまうリスクがあると思います。試合の流れを冷静に判断しつつ、攻守のバランスを意識した対応(ポジションバランス)が重要だと思います。
86.良い状態の仲間がいる場所に自分のマークを引き連れていかない
●『自分と相手の関係だけに意識を向けていたことによって、味方がフリーでボールを受けようとする場所に自分のマークを引き連れていってしまう、そんな現象をほとんどのサッカー場で見かけます。』
これは試合をしているとついやってしまうプレーだと思います。確かにチャンスを自ら潰してしまう悪いプレーです。これをなくすには、周りの状況を把握できる個人のスキルとチームとしての戦い方やスペースの使い方の意識合わせができているということが対策になると思います。
87.写真+記憶=プレー視野
画像出展:「世界一受けたいサッカーの授業」
●『優れたプレー視野をいかに持つことができるかが、フットボールをうまくプレーする上での最も重要なパラメータになります。育成年代においては、その選手のプレー視野をいかに向上させるかが、その選手の成長を加速させるカギになります。では、優れたプレー視野はどのように獲得されるのでしょうか。試合中、常に首を振って周りを見ようとすることが大事だと言われます』
89.プレッシャーを受けてボールを運んだ場合、そのあとのボールの移動中に、『見えなかったエリア』に目をやる
●『ボールを運んでいるときに、ピッチの状況をくまなくチェックするのは不可能です。そのため、ボールを一度離したら、失った時間を埋めるべく、運んでいる間に見ることができなかったエリアにすぐさま目をやる必要があります。なぜならば、それらの情報を基に次のアクションを決めなければならないからです。見えなかった場所にいかに速く目をやるかが、その選手のプレーの質やスピードを上げるカギを握っています。ボールの移動中は、情報を得るための時間だと言えます。』
91.サイドで休憩する
画像出展:「世界一受けたいサッカーの授業」
●『ボールを持っている中央の選手がプレッシャーを受けているとき、サイドの選手はどんなプレーを求められているでしょうか。相手の背後でボールを受けるために、サイドを一生懸命に駆け上がる選手をよく見かけます。しかし、ボール保持者である味方がプレッシャーを受けている場合、サイドの選手は、一度ストップし、足元でボールを要求するべきです。そうすれば、ボール保持者は、ボールを失わずに、味方に預けることができます。私は、これを「サイドで休憩する」と表現します。』
感想
ショートパスをつなぐスペインのサッカーは観ている観客を魅了します。パスを回すには選手間の距離が重要です。また、ボール、味方、敵、スペースを把握するというスキルも必要ですし、正確なキック(多くはサイドキック)の技術も必要です。これらを身につければ細かくパスをつなぐサッカーはできるはずです。後は、これらの技術、スキルを身につけるための練習を工夫し、高い意識で取り組み、そして体で覚えることです。
このパスサッカーを身につけるために、「サイドで休憩する」ということも大切だと思います。タッチラインでのプレーは背後から敵はこないので、比較的落ち着いてボール保持することができます。従って、このエリアはチームの決まり事の一つになると思います。
サイドから同サイドのゴールポスト半径25mのエリアをどう狙うかも面白い決まり事になるように思います。パスをつないでいくのか、空中を活用するのか、ドリブルでそのエリアに入り込むのか、基本的にはこの3つです。これらを試合で生かすには、明確な狙いをもった練習を準備します。そして、チームの決まりごとに加えます。
また、中盤をシンプルに経由して、逆サイドのゴールポストの半径25mのスペースを狙って攻撃するというパターンも相手ディフェンスを揺さぶる戦法になると思います。
美しいパスサッカーも、単調な攻撃が繰り返されれば守りやすくなります。そこには変化のある攻撃が有効になります。時に“空中”を活用し、“狙いのスペース”をチーム戦術の中に落とし込むことにより、相手のディフェンスに圧力をかけることができます。
そして、相手のディフェンスが両サイドへの意識に偏より、中央にスペースができ始めたら、時折、ドリブル、ワンツーパス、ミドルシュートなどの攻撃を仕掛け、さらに相手のディフェンスが混乱するように揺さぶりをかけます。
最終的に、“両サイドのスペース”と“中央のスペース”を臨機応変に組み合わせた攻撃ができるようになれば、相手にとっての脅威になります。
ここで書いたようなことを、敵に囲まれたフィールドで実践することは容易ではありませんが、チーム全員の高い目的意識と具体的な戦術、そして効果的な練習の積み重ねによって、チームに根付かせることは可能だと思います。
小学生時代、習字(書写)の授業で「考える子」という題材がありました。賞をもらったからということもあったと思うのですが、「“考える”ことは大切なんだ」と感じたことも確かだったと思います。それが「考える子」が記憶に残ったということだと思います。
わが母校は公立高校でありながら、部員数は100名を超える大所帯です。もちろん、顧問の先生はひとりではありませんが、部員数が多いというメリットを確かなものにするには、より有効な指導方法を工夫していく必要があると思います。そして、そのキワードが「考える」ということだと思います。
以前、“高校サッカー研究1”というブログの中で、清水商業高校監督(現在の清水桜ケ丘高校)の大瀧雅良先生についてご紹介させて頂いているのですが、その中で「サッカーを通して考え抜くこと」と、「圧倒的な当事者意識をもつことで、我々はそれぞれの役割を全うできる」という言葉が特に印象に残りました。そして、「圧倒的な当事者意識」こそが“考える原動力”になるのではないかと思っています。「圧倒的な当事者意識」に欠けた人は責任感に欠けます。厳しく苦しい事態に直面したとき、決してあきらめず、最後の最後まで何としてでもこの問題を解決しなければと考える脳は「圧倒的な当事者意識」の元で活性化します。「もう逃げたい」と思った瞬間に問題解決のための思考(脳の働き)はどこかにいってしまいます。
何が言いたいかというと、選手一人ひとりが「圧倒的な当事者意識」をもつことができれば、そして、チームとして一つにまとまることができれば、あらゆる難局にも動ぜず、チーム一丸となって乗り越えようとするのではないかと思います。
「“考えること”と“当事者意識をもつこと”を重視した指導法とは何だろう?」と思い、サッカーの教本を探していて見つけたのが今回の畑 喜美夫先生の本でした。
拝読させて頂いた上で、一つ考慮したのは「選手主導」ではなく、「選手と指導者による協業」ということでした。これは学業との両立を考慮すると、選手への負荷が高くなりすぎるのは望ましくないと考えたためです。責任は指導者100%なのは当然ですが、部活の運営は50:50の関係性が良いのではないかと思いました。ただし、指導を進めていく過程で、結果的に選手のウェイトが60や70になることはむしろ望むものであり、自然の流れに任せていけば良いと思います。
なお、上記のような考えでまとめたため、畑先生のお考えをベースに少しアレンジした内容になりました。
はじめに
ボトムアップ指導にたどり着くまで
Lesson1 ボトムアップ理論の基本を知る
●2つの指導スタイルを知ろう
●チームの方向性を合わせよう
●日常生活からサッカーを見直す
●“プレーヤーズファースト”の本当の意味を知ろう
●選手との関係性を築いていく準備
●選手の保護者とのコミュニケーション
Lesson2 ボトムアップ実践の授業 練習編
●必ずおさえておきたいボトムアップのポイント
●選手育成における基本の3本柱を知る
●あいさつの習慣づけ
●「いいえ」「わかりません」の環境づくり
●当たり前のように身の回りを整理できること
●なぜ荷物整理が大切なのか?
●組織構築の3本柱を知る
●量より質の練習ってどんな練習?
練習メニュー紹介
①脈拍トレーニング1対1&2対2
②3分割トレーニング
●サッカーノートをつけよう
●自分たちでチームを作っている意識を植えつける
●各学年にキャプテンを置いて自分の学年を構築させる
●個々をたくましくさせる全員リーダー制を採用
リーダー制の紹介
①ビデオ・リーダー
②ビブス・リーダー
③ライン・リーダー
④ドリンク・リーダー
Lesson3 ボトムアップ実践の授業 試合編
●ボトムアップを試合にどう生かすのか?
●試合も練習と同じ意識をもって行う
●一日の試合を選手たちでコーディネート
●徹底的なミーティングを実践する
●グッドゲームの追求
●TEAMの意味を知る
Lesson4 困ったときのための役立つQ&A集
Q1.ボトムアップの指導がうまくいかないときは?
Q2.ボトムアップはどの年代から取り入れることができるのか
Q3.どのくらいで選手の自主性に効果が出る?
Q4.ボトムアップは放任と思われないか?
Q5.どうすれば選手がサッカーを楽しく好きになってくれるのか
Q6.選手の言葉を引き出す具体的な方法とは?
Q7.モチベーションはどのようにアップさせる?
Q8.選手の書いたサッカーノートにうまく言葉が返せない
Q9.やんちゃな選手をどう指導すればよい?
Q10.選手同士のケンカ、どう仲裁する?
Q11.どうしても選手にコーチングしてしまう自分がいたとしたら?
Q12.ボトムアップはサッカー以外のスポーツでも取り入れられる?
Q13.新チームのスタートで何から最初に取り組めばよいか?
Q14.ボトムアップで大変だった、もしくは失敗だった事例はある?
Q15.荷物整理を、どうサッカーの勝利につなげるのか?
Q16.ボトムアップを取り入れたいのですが、監督はトップダウン。どうすればいい?
はじめに
・『私は、子どもたちが将来、成人して大人の社会に直面したときのことを想像します。その現場で子どもたちが、自分の考えることに対して、ハキハキと発言することができたり、自分の身に起った問題に対して、しっかりと自己解決能力を発揮できたりすることが大切ではないかと思うのです。だからこそ、子どもの自立心を引き出す指導が、いま求められている指導です。
まさに、「子どもたちが率先して意見を言い合える」「子どもたちが主体的に行動できる」チームづくりです。』
ボトムアップ指導にたどり着くまで
Lesson1 ボトムアップ理論の基本を知る
●2つの指導スタイルを知ろう
・指導者は選手の可能性を引き出すサポートをするファシリテーター(進行者)として良い方向へと導く役割である。
・ボトムアップの指導法は誰にでもできる指導法である。大切なことは、個々の選手の能力を認めてリスペクトする、「心」の指導である。
●日常生活からサッカーを見直す
・チームが今どんな状況にあるか、指導者はしっかりと向き合わなければならない。そして、常にどうすれば良いチームになるか考える。
●“プレーヤーズファースト”の本当の意味を知ろう
・すべての選手の個性を認めて、ひとり一人の能力を引き出すことを考え行動する。
・子どもを指示待ちの人間にしない。これにより、的確な判断力と自己の課題を発見する力や改善する能力がついてくる。
・選手たちが自ら切り開いていく環境を作る。
●選手との関係性を築いていく準備
・子どもを上から見下ろして話すと、選手は萎縮してしまう。ボトムアップの指導ではしっかりと同じ目線に立って対話することが大切である。
Lesson2 ボトムアップ実践の授業 練習編
●サッカーノートをつけよう
・信頼と絆の関係を築くためにノートを活用する。1冊はサッカーノート、もう1冊はトレーニングノートである。
・安芸南高校では、毎週月曜日の朝、部員全員に提出させている。土日の試合の反省点、どんな時間帯に失点したか、自分自身の良かった点、悪かった点、チームとしての反省点、そして今後どう解決していくのか。全体を踏まえての総評などを書き込む。その提出されたノートに対し、子どもたちが書いた解決法や質問について、ひとり一人の個性や現状を考えアドバイスを行う。大切なことは答えではなく、選手たち自身が自ら導き出せるように返信することである。すぐに改善することを求めず、じっくり考えて改善に取り組む姿勢を重視する。
・もう1冊のトレーニングノート(コミュニケーションノート)は月、水、金の練習のない日の朝、部員全員が提出し、その日の夕方までに目を通しコメントを書いて、帰宅するときに返却する。トレーニングノートは24時間をコーディネートしたスケジュールを記入する。起床から就寝まで、学校の授業が終わってから、自主トレの内容や、休養、ケガの治療の通院など休日の自分の行動プランを書く。ポイントは普段練習に当てている時間帯のところを子どもたちがその時間をどのようにコーディネートしているか。自主トレーニングであれば、どんな方法でするのか、また、その本質をついているのか、共有して、アドバイスを書き加える。また、サッカー以外のことも書いてもらうようにしている。
・トレーニングノートは指導者と選手の交換日記的な役割を担っていて、子どもたちとの絆を深め、信頼を構築するうえでのコミュニケーションツールになっている。
・サッカーノートを始めたきっかけは、広島観音高校に赴任して選手が100人近くになり、物理的に選手全員とグラウンドで直接コミュニケーションを取ることが困難になったため、この方法で部員全員のことを把握するために始めた。また、練習や試合などグラウンドだけでなく、広く知ることが重要と考えたためである。
・子どもたちに考える時間と位置づけている週3日の休日とこのトレーニングノート(コミュニケーションノート)は密接につながっていて、子どもが考えたことに対するモチベーションを高く持たせながら成功に導けるかが、コメントを書くポイントになる。
●自分たちでチームを作っている意識を植えつける
・仲間で話し合って自分たちで解決するという高い意識は人間力を高める。
Lesson3 ボトムアップ実践の授業 試合編
●徹底的なミーティングを実践する
・練習では、ところどころ時間を止めて、練習の目的が達成(徹底)されているか、良かった点や悪かった点などの意見を出し合う。これにより練習の改善につなげる。
・話し合う必要を感じたときに、遠慮することなく、率直な意見を言い合える環境作りが重要である。
・試合では指導者からの指示を待つのではなく、ピッチの選手だけ判断できるようにしていく。
・『いまさら監督やコーチを頼ることがないのです。ピンチは自分たちで打開しようとします。そんな場面では、本当に選手たちが頼もしく、素敵な存在に見えます。私が最もワクワクする瞬間です。前任の広島観音高校では、全国大会で全国の強豪チームと対戦し、失点しビハインドな状況であればあるほど、グラウンドでのミーティングで打開策を考え、勝ち抜き、試合のたびに、成長する選手たちを見てきました。
普段の練習からミーティングを実践する力をつけて、試合でも生かせるように選手たちに促していってほしいと思います。』
●グッドゲームの追求
・グッドゲームには直接的スキルと間接的スキルを同時に伸ばすことが重要である。直接的スキルとは①技術、②戦術、③体力。間接的スキルとは①コンディション(モチベーション)、②フェアプレー、③運。と考えている。
・間接的スキルとは「オフ・ザ・ピッチ」を重視するものである。子どもは親の鏡といわれるように、チームは監督の鏡であると考え、監督自身が常に落ち着いた心情で客観的な判断をできるように心がけることが重要である。
●TEAMの意味を知る
・『みんなで一緒に、一人ひとりが成し遂げれば、そこに「奇跡」が起こるのです。私は、子どもたち、一人ひとりが一緒になったときこそ、「奇跡が起こる!」と伝えています。うなくいかなかったとき、「まだまだチームが一つになっていないのかな。もうひと頑張りで、チームになって奇跡を起こそう!」といって鼓舞します。』
[選手たちの明るい未来を信じて]
『育成年代の選手たちは、小学生から高校生あるいは大学生まで含めて、無限の可能性があると言ってきました。やはり、その可能性を伸ばす形で選手たちの自主性を尊重していくのです。もちろんすべてうまくいくとは限りませんが、そこには必ず未来があります。自分たちのミッションやビジョンを描きながら、どんな未来が待っているでしょうか。私は選手一人ひとりが自立した人間に成長することによって、明るい未来が持っていると信じています。』
Lesson4 困ったときのための役立つQ&A集
Q4.ボトムアップは放任と思われないか?
・『ボトムアップは、ミッション(使命)とビジョン(未来像)という軸がある限り、放任とはなりません。その軸があるので、その中で子どもたちがどういうふうに組織を作っていくか、そして指導者も見守っていき、時には問題提起をしながら、子どもたちに考えさせるので、放任とはかけ離れたものです。
放任は言葉通り、すべて自由自在に白い画用紙に好きなように何でも描いていいよと言ってしまい、その後どんなふうに描いたかも全く関心がない状況です。
しかし、ボトムアップでは、テーマや条件、ルールなどを提起して、その枠組みの中で描くように進めるという感じでしょうか。そこに筋道があったり、軸を置き、良い距離間で選手を見守る限りは、放任という手法ではないのです。』
感想
繰り返しになりますが、「はじめに」の中で以下の記述ありました。
『私は、子どもたちが将来、成人して大人の社会に直面したときのことを想像します。その現場で子どもたちが、自分の考えることに対して、ハキハキと発言することができたり、自分の身に起った問題に対して、しっかりと自己解決能力を発揮できたりすることが大切ではないかと思うのです。だからこそ、子どもの自立心を引き出す指導が、いま求められている指導です。』
畑先生がボトムアップ指導法に挑戦した動機の原点はこれなんだと思います。この気持ちや認識に共感できないのであれば、ボトムアップ指導法は中途半端なものになってしまう可能性が高いように思います。
ご参考:“流通経済大柏・榎本雅大監督が考える“自分らしさ”という言葉の捉え方”
今年の全国高校サッカー選手権大会で準決勝に進出した、千葉県代表の流通経済大学付属柏高等学校はハードワークのプレーが印象深いのですが、自主性を尊重する指導方針とのことを知り少々驚きました。東京代表の堀越学園においても、生徒中心のボトムアップサッカーを目指しています。どの程度、自主性に委ねるかはそれぞれのチーム事情によると思いますが、「考えるサッカー」は生徒の「問題解決能力」を磨くことにもなるため、あらためて重要なことだと思いました。
50年以上前、私の周辺の父母のほとんどは公立の学校で学ばせることが当たり前と思っていました。様々な家庭環境の子どもが集まる公立の学校には、生徒の多様性と接し受け入れるという環境が多く存在していると思います。これは特に小学生、中学生の年代では意味のあることだと思います。
一方、受験という高いハードルをクリアし、学力や家庭環境において同質の生徒が集まる私立の学校には、同質ゆえの合理性があると思います。また、受験に合格したという達成感、成功体験が子供の自信を育み、親子の絆も高まるだろうと思います。そして、入学した学校の伝統や誇りといった価値観を親子や友人と共有することはとても素晴らしいことだと思います。
特に父母の方々からすれば、入学が難しいとされる難関の高校や大学に合格するためには、小学生の時から同じような生活環境、同じような学力の生徒が集まる私学の方が可能性は高いと考えるのだと思います。また、かなり以前から大学進学にしても、スポーツにしても、公立より私学の高校の方に勢いを感じます。
母校の人工芝化プロジェクトを通じて、学校側と話し合う機会が多かったのですが、公立高校の難しさは校長先生などの管理職の先生が2年、3年と短期で代わってしまうという点です。これは止むおえないことですが、企業でいえば、社長が頻繁に変わってしまうようなものです。ただでさえ、公立という枠の中にはめられた学校なので、その学校の個性や特色を出すことは容易ではないと感じました。このような現状も私立高校を希望する保護者や中学生が増えている要因だと思います。
学業においてもスポーツにおいても、能力の高い優秀な学生を集めることが、その学校の成果、名声につながることは間違いありません。私学においても特に少子化時代においては、企業と同じように生き残りをかけ、熾烈な争奪戦が生まれていると思います。その切り札は進学校では難関大学への進学率であり、スポーツでは全国大会での実績だと思います。また、インターネット、SNSの普及により情報を見つけることは容易であり、結果を出した学校に優秀な学生が集まりやすい環境になっています。
ここで疑問が出てきました。それは「エリート教育とは何だろう?」というものです。“エリート教育”と聞いて、頭に浮かぶのは英国のエリート教育です。一方、日本で有名な最難関進学校の開成高等学校も、その印象は東大や京大の合格者数であったり偏差値であったりします。
“教育理念”や“教育方針”は出ているのですが、目指すべき人間像の育成に関しては、具体的なものは浮かんできません。良くも悪くも“エリート教育”とすぐに結びつくようなメッセージは見つかりませんでした。
そこで英国のエリート名門校の教育はどうなのだろうと思い、見つけた本が『英国エリート名門校が教える 最高の教養』でした。
以下の目次を見て頂くと明らかなのですが、英国エリート名門校の特色の一つは“文章作成能力の養成”にあるようです。
Chapter1 何を読むか
1 英国エリート名門校の秘伝「教養のための必読リスト114冊」
2 作品はどう表現されるのか? 古典とは何か?
Chapter2 どう読むか
1 自分の好きなものを読んでいい
2 人生の支えとなる本に出会うには
Chapter3 どう書くか
1 3分の1の時間をかけて構想を練る
2 自分の「声」の見つけ方
3 編集―完膚なきまで削ぎ落とせ
Chapter4 エッセイをどう構成するか
1 ヘーゲルみたいに2つのアイデアを戦わせよ
2 アリストテレス―「エトス」「ロゴス」「パトス」を駆使せよ
3 質問への答えのパラグラフは、この5パターンに分けられる
Chapter5 ストーリーをどう語るか
1 「動き」「会話」「描写」
2 偉大な作家と勝負しよう
本題に入る前に、まずは英国エリート名門校(英国パブリックスクール)についてご紹介します。
<英国パブリックスクールとは> (『英国エリート名門校が教える 最高の教養』より)
『イギリスに古くから存在する名門中高一貫校のこと。世界の大学ランキングにて8年連続1位のオックスフォード大学やケンブリッジ大学へ、卒業生の多くが進学。ウィンストン・チャーチルからボリス・ジョンソン、リシ・スナクまで、英国の歴代首相を40人近く輩出してきた。イートン、ハロウ、ウィンチェスター、ウェストミンスター、ラグビーなどの上位9校は、ザ・ナインと呼ばれている。全寮制で、映画「ハリー・ポッター」のロケ舞台にもなった。秘密主義のヴェールに包まれたエリートのみに伝授される<最高の教育>を求めて、世界中の皇族や上流階級、富裕層の子弟も入学している。』
※ザ・ナインの9校は以下の通りです。
●ウィンチェスター・カレッジ(Winchester College)
●イートン・カレッジ(Eton College)
●ハロウ校(Harrow School)
●ラグビー校(Rugby School)
●シャルターハウス校(Charterhouse)
●セント・ポールズ校(St. Paul’s School)
●マーチャント・テイラーズ校(Merchant Taylors’ School)
●セント・ピーターズ校(St. Peter’s School, York)
●シュルーズベリー校(Shrewsbury School)
以下は日本に開校しているザ・ナインの2校です。
続いて、「はじめに」の冒頭の部分をご紹介します。
英国エリート名門校が推奨する「役に立たない学び」
『1996年、18歳の時、歴史の先生だったクレーマー博士の講演で、今のわたしの教育哲学を象徴するふたつの言葉を初めて耳にした。
ふたりがともに5年間を過ごし、ともに間もなく去ることになる学校。この学校を唯一無二の存在にしたのは何であったか、博士は自問した(その学校はウィンチェスター・カレッジ、イギリス最古のパブリックスクールのひとつだ)。クレーマー博士の見解では、ウィンチェスター・カレッジをほかの学校と違うものにしたのは「役に立たない学び」であった。
ウィンチェスター・カレッジの精神は、この考えに、すなわち「何かを学ばなければならないとすれば、それが面白いか、学ぶこと自体に価値があるからにほかならない」という考えに完全に基づいていた。これにより、生徒は毎日、どの試験のシラバスにも関係のない「補習」と呼ばれる授業を受けたし、週に一度はこの「補習」でエッセイの宿題が課された。これは毎週の宿題でいちばん大変だったが、どの科目の成績にも関係しなかった。にもかかわらず、わたしたち生徒には、学期末に「補習」で最高のグレードを得るのは、義務教育修了時の統一試験(GCBE)でどれだけ多くのA⁺を取るより大事なことだった。』
この冒頭部分には「エッセイの宿題」はウィンチェスターだけのように書かれていますが、調べたところ、“ザ・ナイン”すべてで実施されていました。
※『ウィンチェスター・カレッジ以外のザ・ナインでも、エッセイ課題は学問の中核的役割を果たし、教育的伝統として扱われています。』
次にエッセイ課題の歴史と狙いについて調べてみました。
※『16世紀~17世紀にかけてラテン文法だけでなく、英語による論述やエッセイの課題がイギリスの学校教育全体で拡がり始めました。17世紀には英語で思考や議論を行うためのエッセイ形式が一般化し、近代的な意味での「エッセイの宿題」として定着していったと考えられます。』
※『厳密に評価されるエッセイの宿題や教科書的なエッセイ課題は、19世紀~20世紀前半のパブリックスクール教育の標準化とともに整備されました。』
※『ウィンチェスター・カレッジにおけるエッセイの宿題は、幅広い学力と自発的な学習姿勢を育むために設計されています。特に英語や歴史といった科目で多く出題され、創造性・論理性・分析力・構成力が重視されます。』
※『ウィンチェスター・カレッジのエッセイ課題は、学問的な好奇心や分析力、そして表現力を養う絶好の機会です。提出前の見直しと論理的な構成が高評価につながります。』
続いて、エッセイ課題の位置付けと評価について調べてみました。
※『ザ・ナインでは「エッセイ宿題=個人の学問的成熟度とキャラクターの根幹を測る最重要指標」とみなされており、その評価は内申、進学、マインドセットや人格評価まで強く影響します。』
※『エッセイ評価は単なる科目の得点にとどまらず、入学選考の合否、個人評価、人物評、そして進学や将来の可能性にまで大きく作用しています。』
※『エッセイ課題では独自の見解・創造力・批判的思考力や表現力が問われ、「個人の人格・リーダーシップ資質・知的好奇心」の根拠となるケースがほとんどです。定期的な課題提出やフィードバック・改善過程も、「勤勉さ」「向上意欲」として評価尺度に含まれます。』
ここまできて英国パブリックスクールのことを調べてきて思ったことは、リーダーシップ/リーダーを育てるということが根幹にあるのではないかということです。紹介文に書かれていた「英国の歴代首相を40人近く輩出してきた」という言葉はまさにこのことを指しているように思います。
そこで、ザ・ナインのリーダーシップを育てる教育に関して調べてみました。
※『英国のザ・ナイン(パブリックスクール)は、「リーダーシップの養成」を極めて重要な教育目標として掲げています。具体的には、人格教育・自立・協調性・社会への奉仕を「全人教育」の柱とし、学業や課外活動、寮生活を通じてリーダーシップを体系的に育てる方針が確立されています。』
※『ザ・ナインは学業成績だけでなく、「人格・社会性・互助・実践力」を重んじるエリート教育を展開し、英国社会のリーダー層はこの独自の教育理念で培われています。のリーダーシップ教育は世界的にも高く評価されています』
一方、日本の難関進学校におけるリーダーシップ教育の現状について調べてみました。
※『日本の進学校では「進学実績最大化」が学校評価や運営の最重要指標になっており、その結果「大学合格=個人の人生成功」への最短ルートに教育資源が集中しています。』
※『日本社会の価値観として「和」「協調性」「集団の調和」をより重視してきた歴史的背景があります。そのため、リーダーシップ教育よりも周囲との協働やグループ内のバランスを保つことが優先されがちです。』
※『リーダーシップ評価も「突出した個人の指導力・決断力」より「合意形成」「周囲と協力する力」「皆と一緒にやり切る力」に重きが置かれています。』
感想
日本の難関高校と英国のパブリックスクールの1番の違いは“リーダーシップ教育”にあると思いました。そして、その違いは国と国民性を背景にしたものであり、本質的な問題だと思います。
欧米においてのリーダーとは“責任”と“実行力”に裏づけられた真の信頼を獲得すること。そして、その信頼が人を、組織を、動かすものではないかと思います。
一方、日本のリーダーシップは、突出した個人の指導力・決断力より“合意形成”などグループ内の“バランス”を調整する能力が優先されます。この違いが高校教育にも反映されているということだと思います。
懸念
インターネットが普及し、更にAIが社会の中に浸透していく現代においては、政治でも企業でも、今まで以上に的確かつ迅速な判断力と実行力が求められます。そのため、組織のトップのリーダーシップが非常に重要になっていると思います。
誰がリーダーなのか分かりづらい、日本式のリーダーシップは分析-判断-決断のスピードが求められる時代には合わないと思います。日本の良さである“和”や“協調性”を重視しつつも、欧米型のリーダーシップを適材適所に取り入れていく必要があると思います。
※1984年は入社3年目でした。この年の世界企業トップ20社の中に日本の企業は半分の10社が名を連ねています。2024年を見ると、日本の企業は1社もなく、トヨタ自動車が日本のトップで39位となっていました。一方、米国は15社であり75%を占めています。なお、アジアでは台湾のTSMC(半導体製造)が10位にランクインしています。
残念ながら日本は諸外国との比較において、GDPでも生産性でも後退しています。このままでは増々日本と世界の差は拡がってしまいます。
TSMCが会社の命運をかけて取り組んだとされる「人に依存した人事」から「制度に則った公正な人事」に移行できれば、旧態依然とした日本の組織においても突破口となり、志の高い人材によるリーダーシップによって政治も企業も徐々に変わっていくだろうと思います。
