感想
「組織の命令には従う」これは基本です。ただし、その組織の判断が適切であることが前提です。もし、明らかに不適切な判断だとすれば、やはり、正す努力をすべきだと思います。
第一の悲劇は戦争を始めたことです。悲劇といえるのは、山本五十六連合艦隊司令長官などの進言を聞き入れて、冷静に戦力分析をしていれば避けることはできたかも知れません。
開戦時点においては、空母機動部隊の質と数で米国軍より優位にあった日本軍でしたが、ミッドウェー海戦で主力4隻と熟練搭乗員多数を失ったことで、空母航空戦力は回復不能なまでの打撃を受けました。以後、日本は空母戦力を削り取られ、米国は逆に、エセックス級を中心とする大量の空母を投入していくことで、量・質ともに圧倒的優位へと一気に傾いていきます。
近衛首相から「対米戦争の結果はどうなるか」と問われた際にも、「日本は二度三度も焦土化するだろう」と暗い見通しを示し、開戦に反対しました。また、海軍内外で親米派・穏健派として批判や孤立を覚悟しながらも、終始戦争回避・外交的解決を最優先していました。
画像出展:「幻の大戦果 台湾沖航空戦の真相 1/4」
この約15分の動画は“石原莞爾”さまのサイトから拝借しました。内容は「日本ニュース」からです。日本ニュースは、太平洋戦争を間近に控えた1940年(昭和15年)から終戦をはさみ、1951年(昭和26年)まで制作されたニュース映画です。
米国軍側の太平洋戦争中に損失(沈没)した空母は5隻ですが、日本軍は太平洋戦争期間中に14隻の空母を失いました。終戦時は日本が4隻、米国は29隻と約7倍の空母を保有していました。
1942年の米国軍の空母喪失
•レキシントン(USS Lexington, CV-2):1942年5月のサンゴ海海戦で沈没
•ヨークタウン(USS Yorktown, CV-5):1942年6月のミッドウェー海戦で沈没
•ワスプ(USS Wasp, CV-7):1942年9月に日本の潜水艦I-19の魚雷攻撃で沈没
•ホーネット(USS Hornet, CV-8):1942年10月のサンタクルーズ諸島沖海戦で沈没
そして、もう一つの悲劇は、極めて難しいことだったと思いますが、日本の意思と決断で戦争を終わらすことができなかったことです。それは最初の隠蔽という行為がその後の命運を左右しました。それはミッドウェー海戦の敗北を隠したことです。それは動画にも出てくるように、海軍と陸軍の無益な対立が背景にあり、事実が歪められたということです。大本営内に海軍と陸軍を統括し、総合的かつ客観的に判断できる人が不在だったという点が大きな要因だったと思います。
実際に戦争の分岐点となったミッドウェー海戦の敗戦原因は、陸海両軍内部の意見対立によって、当初予定していた8隻の空母が使えず4隻に減ってしまったというところにありました。
以下が、大本営の組織図です。形式上は天皇になっていますが、現実問題として、天皇が戦争を指揮していたわけではありません。本来は大本営の中に海軍と陸軍を統括する機能(リーダーシップ)が必要でした。
画像出展:「大本営発表 ねつ造された戦果」
お伝えするまでもないかもしれませんが、スポーツの世界に限らず「一枚岩になる」という表現がよく使われます。チーム内の指導者達と選手達との間、あるいは監督とコーチの間など、いずれも信頼関係は極めて重要です。お互いの信頼感がないチームは、勝利に対する意識が低く淡白で粘りがありません。
戦争においても、組織はとても重要だと思います。幹部と兵士、幹部間の信頼関係に基づく共同作業が基本だと思います。その意味では日本軍の中核となった大本営の組織の脆弱さが敗戦の第一歩であり、また象徴でもあったように思います。
ここで、日清戦争(1894~1895)、日露戦争(1904~1905)、第一次世界大戦(1914~1918)の時はどうだったのか調べてみました。すると、当時は元老という存在がいたことが分かりました。
元老は憲法上の地位は明文化されていませんが、首相指名、重要な外交・戦争決定で天皇に意見具申するという形で、実質的に最高意思決定を左右しました。また、日清・日露戦争期においては、元老は大本営の組織内ではなく、「大本営の外側」で天皇の私的顧問として動き、軍と内閣をつなぐ政治的ハブとして機能していました。
次に、太平洋戦争の時に元老はいなかったとされているのですが、その理由を調べてみました。
まず、「元老」は制度的に排斥されたというより「自然消滅」に近いようです。その背景としては、軍部と政党の台頭により元老の実力がそがれ、新しい元老をつくるほどの合意も人材もいなかったことがありました。結果として太平洋戦争期は「元老不在のまま軍と官僚・重臣会議が政策決定を担う 体制」に移行していったということです。
今一度、海軍と陸軍を統括し総合的に判断するリーダーを置くことは本当にできなかったのか調べてみました。まず問題と思ったことは、「軍政と軍令の二重構造」に加え、「大本営・政府・宮中の三重構造」があり、これらが複雑に絡んでいたという事実です。この「三重構造」と「二重構造」を「一つのシステム」として見ると、次の3つのレベルで複雑さと歪みが重なっていたことが分かります。
1.縦のラインが二重・三重に重なっていた
●本来は「国民 → 議会 → 内閣(政府) → 軍」という一本の政治・軍事の指揮系統が望ましいところ、戦前日本では「天皇-大本営(軍令)」「天皇-政府(国務)」「天皇-宮中重臣」の複数ラインが並立していました。さらに軍内部でも「軍令(参謀本部・軍令部)-天皇」と「軍政(陸軍省・海軍省)-天皇」のラインがあったため、誰が最終責任者として全体を見ているのかが常に曖昧になりました。
2.横の調整メカニズムが弱く、責任だけが拡散した
●大本営は作戦担当、政府は政治・経済担当、宮中は天皇を支える場、軍政は人員・装備、軍令は作戦と、それぞれ役割はありましたが、これらを横断的に束ねて「戦略(何のために・どこまで戦うのか)」を決める強い統合機関がありませんでした。
・形式上は大本営政府連絡会議や御前会議が「統合の場」でしたが、そこで話し合われる前に、大本営・政府・宮中それぞれの内部で調整・妥協案が検討されました。そして、最終の場では「責任を明確に取る決断」より「誰も決定的に反対しない妥協案」が選ばれやすい構造でした。
3.「天皇直属」を盾にした情報遮断と統制不能
●軍令機関(参謀本部・軍令部)は「統帥権独立」を根拠に政府からの統制を拒み、同時に「天皇直属」を理由に自らの判断を正当化しやすく、都合の悪い戦況情報を政府や国民に出し渋ることとなりました。(大本営発表問題)。
●宮中側は「天皇のご意思」を盾に政治へ影響力を及ぼし、政府側は軍事は天皇の特別な権限(統帥権)であり、口を出せないという理屈が前面に出ていたため、内閣・政府が軍の作戦や運用に本来あるべき政治的コントロールをかけられず、事実上、軍の好きなように動かれてしまっていました。
以上のように、「天皇の名のもとに動く複数の中枢」が互いに責任をなすりつけながら進む、という統制不能状態が生まれました。
画像出展:「歴代の天皇の車」
「大本営は作戦担当」、「政府は政治・経済担当」、「宮中は天皇を支える立場」、「軍政は人員・装備」、「軍令は作戦」というように天皇直下にあって役割は決まっていました。しかし、天皇は常に後部座席に座るものであり、御料車(日本国)を運転するドライバーは不在でした。その結果それぞれの組織のエゴや怖れや保身が御料車(日本国)を迷走させました。完全なドライバーとは言えませんが、何とかコントロールしようとした「元老」が日清・日露・第一次世界大戦のときにはいました。しかしながら、太平洋戦争の時には、その「元老」もいませんでした。これが「大本営・政府・宮中・軍政・軍令」の混乱を深めたと思います。
残念ながら、海軍と陸軍を統括するリーダーを立てることは、現実的にはほぼ不可能だったことが分かりました。それは、日本国は自らの意思で戦争を終結させる決断を下すことができない国だったということです。この事実を受け入れるならば、原点である「戦争を始めるべきではなかった」ということしか、大空襲と原爆による80万の民間人の命を救うことはできなかったということになります。
そこで、今度は戦争を始めた原因を考えることにしました。少し調べてみると、その原因は軍部の台頭にありました。そして、それは1920年代まで遡る必要がありました。
1.1920年代
●第一次世界大戦後、日本はワシントン会議(1921~22年)で海軍軍縮や中国の「門戸開放」原則を受け入れ、米英との協調を軸とする外交路線を採っており、外務大臣・幣原喜重郎のもとで、1920年代の対中政策は「内政不干渉・条約範囲内での権益維持」を掲げる穏健路線であり、中国国民政府と協調しようとする姿勢が基本だった。つまり、公式外交としては「国際協調の枠組みの中で、すでに獲得した権益(南満州鉄道・関東州など)を守りつつ、軍事的緊張を高めない」という方向であった。
一方、政財界・軍部のエリート層では、すでに1920年代の段階で「日本の将来の経済発展は満州抜きにはあり得ない」という見方がかなり広く共有されていた。ただし、当時の日本政府・外務省は「直接の併合(国土として取り込む)」よりも、「条約・租借・鉄道権益・駐兵権などを通じて経済的・政治的支配力を広げる」形を主眼としており、これを「対華権益」「大陸政策」として位置づけていた。
●「満州大陸は日本の生命線」と考えたのは、主に軍・政・財界のエリートで、理由は「経済(資源・市場)+安全保障(対ソ防波堤)+帝国拡張の中核」と見なされたからである。
1)経済面
-満州は石炭・鉄鉱石・穀物などの資源に富み、日本本土では不足していた原料・食糧の供給地として期待された。
-南満州鉄道は高収益事業で、日本最大級の国策企業となり、「満州開発=日本経済の成長エンジン」という意識が強まった。
-世界恐慌後、保護貿易とブロック経済が広がる中で、「自前の経済圏(自給自足圏)を持たねば日本は生き残れない、その核が満州だ」という発想が広がった。
2)安全保障・軍事面
-満州はソ連と接する国境地帯であり、「対ソ防波堤」「大陸における軍事前進基地」として重視された。
-日露戦争で多くの血を流して得た地であるという感情的正当化(「血で購った土地」)があり、「ここを失えば日露戦争の犠牲が無駄になる」という論理が用いられた。
3)帝国構想・イデオロギー面
-朝鮮・台湾と並ぶ帝国の中核植民地として、満州を足場に華北・華中へ経済的・政治的影響力を広げる「大陸帝国構想」が描かれていた。
-1930年に外交通の松岡洋右が「満州は日本の生命線」と表現し、このスローガンが政治・軍・世論に広く浸透していた。
-軍部や国家主義者は、国内不満や不況を外征・領域拡大で解決しようとする傾向があり、「満州生命線論」は対外膨張を正当化するプロパガンダとしても機能した。
●満州事変はその中で軍部側の膨張志向が一気に噴き出した転換点となった。
●満州事変にいたる柳条湖での南満洲鉄道線路爆破は関東軍の自作自演だった(外務省編『日本外交年表竝主要文書』など戦後の公的編集資料でも、「柳条湖事件は関東軍の自作自演であった」旨が記載されており、日本政府系の史料でもこの理解が前提になっている)。
2.1930年代
・日本の1930〜40年代の外交は、軍部主導の対外膨張と「ブロック経済に対抗する自給自足圏(大東亜共栄圏)」の追求によって、段階的に戦争へと踏み込んでいった過程だった。
3.1930年代以降の日本の軍事国家化
●世界恐慌・満州事変(1931年)以降、関東軍の独走や五・一五事件・二・二六事件など「テロとクーデター未遂」によって政党内閣が崩壊し、軍や官僚が主導する体制に移行した。
-五・一五事件は「既成政党・財閥打倒」「昭和維新」を掲げた若手将校・農村青年らの急進的テロ・クーデター
-二・二六事件は「昭和維新」「国体護持」「重臣・政党・財閥打倒」を掲げた陸軍皇道派青年将校による大規模クーデター
●1930年代半ばからは、軍部が内閣の存立を左右するようになり(現役武官制・軍部大臣単独辞任で内閣総辞職に追い込める)、満州・華北・日中戦争など軍事拡張が外交の中心になった。
●言論統制・治安維持法の強化などで反対勢力が抑え込まれるなどの過程を経て、「軍事が政治と社会を主導する体制=日本軍国主義」が確立した。
●1940年には大政翼賛会による一党体制化と国家総動員法による統制経済が進み、「戦時国家(国防国家)・軍事国家」と呼べる状態になったといわれている。
4.1933年、国際連盟脱退
・リットン調査団報告書は、「満州は中国の主権下にある」「満州国は日本軍の産物であり、承認できない」「日本軍は撤兵すべきだ」という骨子で構成されており、これを国際連盟総会が採択したことに対し、日本は抗議し1933年に連盟脱退を決めた。
※補足:日本にとっての「満州国」は、ロシアが一方的に樹立したウクライナ内の「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」に似ているのではないかと思い調べてみました。
『日本占領下につくられた満州国とロシアが支援するドネツク・ルガンスクは、他国領土に作られた傀儡国家という意味でよく似たケースだ」と整理してよく、その類似性を手がかりに、過去の日本の行為と現在の国際政治を対比して考えることは、むしろ国際法と歴史認識を深めるうえで有益だと考えられます。』
五・一五事件、二・二六事件に出てくるキーワードに「昭和維新」というものがあります。ポイントは、①既得権益化した政治家・財閥を排除、②腐敗した議会制民主主義と財閥支配を打倒 になります。それは当時の世界大恐慌による失業・貧困、農村の疲弊、財閥への反発、軍縮に対する軍部の不満などから生みだされたされています。
そしてこのクーデターによって、実際には既存の民主主義体制を破壊し、軍部独裁へ道を開く歴史的転換点となったとされています。
画像出展:「ウィキペディア」
まとめ
1. 太平洋戦争時の日本の組織は、「軍政と軍令の二重構造」に加え、「大本営・政府・宮中の三重構造」が存在し、これらが複雑に絡んで、責任と役割が極めて不透明な組織となっていた。そして、この組織の複雑さは、日本が自らの判断で戦争を終わらせることができなかった大きな要因となった。
2. 太平洋戦争は自作自演の満州事変、そして1933年の国際連盟脱退が戦争への道を作ってしまった。しかし、問題はそれより前、1894年の日清戦争からの軍部の台頭にあった。1930年以降、2人の首相、2人の大臣、そして元陸軍次官の5人が犠牲者となった深刻な事件が政治に暴力を持ち込んでしまった。この暴力の流れが太平洋戦争につながったのではないかと思う。
3. 五・一五、二・二六は許されるものではないが、その原因は腐敗した政治、既得権益化した財閥、世界大恐慌による失業・貧困、農村の疲弊などといった問題が原因だった。国民のために正しい政治が行われていたならば悲劇は避けられたかもしれない。
今の日本における懸念
新しい憲法により天皇は象徴天皇になりました。万一、戦争となった場合の日本における最高責任者は内閣総理大臣であり、その配下に防衛大臣-自衛隊が組織されるということになると思います。少なくとも太平洋戦争に見られた天皇を中心に「軍政と軍令の二重構造」と「大本営・政府・宮中の三重構造」という入り組んだ曖昧な組織にはならないと思います。そのような懸念はないと思いますが、一方で、今の日本においても隠蔽体質や暴力への寛容さ等は残っているのではないだろうかという不安と疑問を感じました。
1.情報公開と隠蔽体質
・森友学園問題の黒塗り文書を思い起こすと、日本における情報開示はどうなっているのかと思います。これは氷山の一角ではないのかと思い少し調べてみました。
画像出展:「92%黒塗り公文書の衝撃」
『新図書館建設をめぐって発表された基本計画や基本構想には、さまざまな立場の市民がそこに集まって、より豊かな地域文化をみんなでつくりあげていくというような美辞麗句が並べられている。なのに、そのプロセスの一端を記録した公文書には、計画文書の中身とはおよそ別世界の暗黒行政が現われたのは、いったいどうしてなのか。』
TBSが2012年に放送された番組に「運命の人」があります。これは1971年の沖縄返還協定を巡る「西山事件」をモデルに、ジャーナリストと外務省事務官との関係を中心に、国家権力とジャーナリズムの戦いと人間模様を描いたものです。調べたところ、この西山事件に関してはNHKの「1972年ニュースハイライト」という動画がありました
画像出展:「沖縄密約・外務省機密漏えい事件」
National Security Archiveなどを通じて、米国で沖縄返還密約の核心文書がまとまって公開されたのは1997年前後とされています。それ対して、日本ではどのような状況なのかを調べてみました。
以上のことから、少なくとも米国に比べ、日本政府の情報公開に対する考え方は消極的であると判断できると思います。
2.体罰について
・「体罰」を暴力の入口と仮定してその行為を考えてみました。1960年から1970年は、学校においても体罰は特に珍しいものではありませんでした。よくビンタをもらっている友人もいました。父母から苦情が出ているという話は一度も聞いたことがありません。
中学時代の部活では、殴る先輩はいなかったものの、1年生は毎日のようにしごかれていました。10か20がよく覚えていませんが、部則なるものもあり中には「先輩には服従する」というものもありました。友人の中には「服従」の意味を理解していたのかどうかわかりませんが、「先輩には服従しない」などと驚きの言葉を発してしまい、いきなり走らされたりしていました。これらは50年以上前の話ですが、思うに日本では体罰を容認する空気がありました。
画像出展:「AI(Perplexity)が作成」
『実際の運用と社会的許容度の高さにおいて、戦後の欧米・北欧より(体罰は)寛容だった。特に家庭での体罰に関しては、2020年の法改正まで明確な禁止規定はなかった』とのことです。
最後に
随分と脱線してしまいました。あらためて、最初にお伝えした「一枚岩になる」というお互いの信頼関係がない組織は、意識が低く淡白で粘りがないということを考えてみました。
特攻とは上官からの一方的な命令であり、一か八かの体当たりという淡白な作戦です。そして、そこには信頼関係はほとんど存在しないと思います。
一方、佐々木伍長の攻撃は父と岩本大尉の信念を引き継ぎ、いかに敵艦を沈めるかを深く考え、急降下爆撃という飛行技術を磨きあげて日本軍の勝利に貢献しようと、命懸けで何度も何度も果敢に出撃したという、戦う兵士の真の生き様だったように思います(実際、2度大きな戦果を上げました)。
多くの兵士を失った日本が戦争を続けるには、学徒出陣のように、戦争の素人を集めるしかなく、訓練もままならぬ状態で戦地に送られました。“特攻隊”とはそのような戦況が生み出した異常な作戦だったと思います。そこには「勝つため」という合理的な目的は存在せず、「止めよう!」ということを誰も言えない状況で、脳は思考することを停止し、ただただ無謀な戦いを続けていったということだったように思います。






