帰ってきた特攻兵3

著者:鴻上尚史

初版発行:2017年11月

出版:(株)講談社

目次は“帰ってきた特攻兵1”を参照ください。

 

6回消された存在

5回目の特攻から帰ったバコロド飛行場では、佐々木伍長の生還は話題になっていた。以外にも、それは英雄とは言わないまでも人気者だった。これは、空中戦の激しさやレイテ島を飛ぶ危険を良く知っていたためである。

・「佐々木が不時着したのなら、すぐにマニラに帰せ」という連絡が、夜、第四航空軍の作戦参謀から電話があり、翌朝、約6時間飛び続けてマニラに行った。九九双軽は本来4人乗りのため、狭く、また、1人での操縦は精神的にも体力的にも過酷なものだった。

・12月5日、マニラ湾近くのルバング島に寄り、マニラ空襲を知り、昼食を取り空襲が止むのを待って、カロ―カン飛行場に戻った。

・『「報告はいい。すぐに出発せよ、と参謀殿が言っておられる。あの軍偵(九九式襲撃機)について行け。あれは特攻隊の鉄心隊だ」と興奮した表情を見せた。

「ネグロスから帰ったばかりですし、体の調子も悪くて、空中勤務に耐えられそうにありませんから、休ませてください」今日佐々木はすでに、5時間ほど飛んでいた。

村崎少尉は苦渋の表情で、とても難しいと答えた。猿渡参謀長が大変な剣幕だと言うのだ。

九九式襲撃機は、内地から来たばかりで、250キロ爆弾を針金で胴体にくくりつけていた。佐々木の乗る九九双軽に比べて、航続距離は短く、速度も遅いので、あれではレイテまで行けない、行けば簡単にアメリカ軍に食われてしまうと佐々木は主張したが、聞き入れられなかった。

村崎少尉に言ってもムダなので、佐々木は直接、猿渡参謀長に会おうと決めた。

第四飛行師団の本部に恐れずに入っていくと、髭面の猿渡参謀長は陰険な目つきで睨み付けた。佐々木が報告を終えた後、疲労が激しいことを理由に休養を頼むと、猿渡参謀長は大声を上げた。

「いかん! 絶対に許さんぞ! すぐに、鉄心隊について出発しろ。目標はレイテ湾の艦船だ。船はどれでもいい。見つけ次第、突っ込め。今度帰ったら、承知せんぞ!」

佐々木は黙ったまま、猿渡参謀長の言葉を聞いていた。「船はどれでもいい。見つけ次第、突っ込め。今度帰ったら、承知せんぞ!」

佐々木は黙ったまま、猿渡参謀長の言葉を聞いていた。「船はどれでもいい。見つけ次第、突っ込め」という言い方は、とにかく死ねと言っているのと同じだと佐々木は思った。腹立たしかったが、もちろん、軍隊で反論は許されなかった。

佐々木が飛行場に戻ると、九九双軽はすでに燃料を補給され、500キロ爆弾が装着されていた。今までの800キロ爆弾は、もう飛行場にはなくなっていたのだ。

午後3時過ぎ、鉄心隊の3機が離陸し、佐々木が続いた。6回目の出撃だった。直掩の隼9機が特攻隊を先導した。

マニラから東海岸に出ると、攻撃隊は高度40~50メートルの低空を飛んだ。アメリカ軍のレーダーにつかまるのを避けるためだった。

日没の迫ったレイテ湾が近づいてくると、直掩戦闘機は高度を上げ、佐々木達も続いた。

レイテ湾の上空に来ると、機体の両側に無数の船が見えた。左側に、中でも一番大きく見える船があった。鉄心隊の松井浩隊長機がまっすぐにその方向に飛んだ。佐々木も後を追い、攻撃を決意した。

が、すぐに、機体は大型船と行き違いになった。佐々木は機体を傾けて左旋回し、大型船が右側に見えていた時に攻撃態勢に突入した。

高度1000メートル。大型船と平行の位置を取った時、突然、佐々木の後方に爆発が起こった。機体に損傷はなかったが、黒い砲弾の煙の固まりが後方に流れ去った。アメリカ艦船が高射砲を撃ってきたのだ。

画像出展:「乗りものニュース

 この写真は1984年、アメリカ軍が撮影したものでレイテ湾での戦闘とは無関係です。

佐々木があたりを警戒すると、機体の後方に黒煙が炸裂した。続いて、機体の左右に黒い固まりが上がって流れた。

あっと言う間に、高射砲の弾幕で、夕焼け空が曇ってきた。至近距離に起った炸裂が、機体を強く揺すった。佐々木は背筋に寒いものを感じた。

佐々木は左手に操縦桿を持ち、右手で爆弾投下の鋼索を握った。

高射砲に気を取られて、機体の頭を押さえるのを忘れて、500メートルほど上昇していた。目標船は、機体の軸線に入っていたが、ジグザグの回避運動を続けていた。

佐々木は機体を傾け、そのまま斜めに急降下させた。高度1500メートル、角度60度、時速450キロ。操縦桿を倒し続けると、時速が500キロに上がっていく。全身がゆがむような重圧を感じる。目標船が急速に大きくなり、今にもぶつかりそうになる。200メートルから300メートルに近づいた時、佐々木は必死に鋼索を引いて投弾した。その瞬間、目の前を黒い大きなマストが通りすぎた。

佐々木は目標船の舷側を海面すれすれに抜けると、機体を蛇行させた。海面から10メートルの高度だった。

佐々木が振り向くと、大型船が傾いているのがはっきりと分かった。

そのまま、佐々木はミンダナオ島のカガヤン飛行場を目指した。1回目の特攻出撃の時にも着陸した飛行場だ。

カガヤン飛行場に着いて、飛行場大隊長に「レイテ湾で大型船を撃沈しました」と報告した。電報班に頼んで、カロ―カンの村崎少尉に報告すると、早急に戻って来いという電報が返ってきた。

再び現れた佐々木は疲れた顔をしていた。カガヤン飛行場の人々は佐々木を歓迎し、大隊の幹部は会食に招き、佐々木のために宿舎の当番兵は特別にドラム缶の風呂を用意した。

喜んで入浴していると、自分の耳が聞こえなくなっていることに佐々木は気付いた。「連日の飛行の疲労のためだろうか」と不安になった。

2日間、佐々木はカガヤン飛行場の宿舎で休んだ。兵隊達は、佐々木をゆっくり休ませるためか、2日間かけて、丁寧に九九双軽を整備した。』

嘘の戦死報告

・『12月8日は、3度目の開戦記念日だった。ようやく耳が回復した佐々木は、カガヤン飛行場にあった短波ラジオで、開戦記念の大本営発表を聞いた。

それは12月5日、万朶隊の一機が特攻攻撃により、戦艦か大型巡洋艦一隻を大破炎上させたという放送だった。万朶隊としては、佐々木と石渡軍曹の名前が挙げられた。

佐々木は烈しく混乱した。佐々木にとって、2度目の戦死発表だった。今回はカガヤンにいることはちゃんと無線で連絡し、返電も来ている。

さらに、発表の内容も理解できなかった。「万朶隊の一機」が大破炎上させたと発表しながら、11月15日、2回目の出撃で一番機として飛び立ち、行方不明になった石渡軍曹の名前が加えられていた。

放送を一緒に聞いた整備担当の少尉は、「12月5日の攻撃を、今日発表したのは開戦記念日の景気づけだよ。そのために、佐々木伍長をもう一度殺したのさ。その方が気勢が上がるかなら」とうがって言った。

佐々木は、「あの時、爆弾は確かに当たっていた。あれは、間違いなく撃沈している。それを大破炎上ぐらいに言うとは、なんということだ。だいたい、どうして石渡軍曹と一緒に発表するんだろう」と憤慨した。

そして、「2度も戦死を発表されたということは、猿渡参謀長達は、今度こそ自分を戦死させようとして、ますます厳しく出撃させるようになるだろう」と考えた。そして、そう思えば思うほど「俺は決して死なないぞ」と心の中で歯を食いしばった。

12月9日の朝日新聞は「三度目の出撃奏功。佐々木伍長戦艦体当たり」という見出しを一面に掲げた。

記事は、「万朶隊佐々木友次伍長が石渡俊行軍曹とともに単機憤怒の殴り込みだ」と書いた。一機に二人搭乗していたという設定のようだった。

佐々木の故郷、当別村は大本営発表と新聞記事によって、再び、大騒ぎになった。2度目の大がかりな葬式が行なわれたのだ。

※補足:“撃沈”を“大破炎上”と誤って発表されたことに対し、強い憤りを感じたという佐々木伍長の気持ちは、無念の死となった岩本隊長を思い続け、命を賭けて米国軍と戦いそして戦死してほしいと願っていた日本軍の参謀達とも戦っていたということだと感じました。

不時着

・『9日午後4時、佐々木はカロ―カンに戻るためにカガヤン飛行場を離陸した。兵隊が大勢出て、激励しながら見送った。誰もが、佐々木の童顔を見るのは、これが最後だろうと思った。

佐々木は直進を避け、ネグロス島の南部を迂回しながら飛んでいくうちに雨が烈しくなり、マニラのあるルソン島の手前、ミンドロ島に近づくと悪天候のために航路の測定が難しくなった。

雨雲を抜けようと高度を上げ下げしているうちに、目の下に見えたのがルバング島だと気付いた。すぐに機首を東北に変更した。すでに日没になっていた。

雨はますます烈しく、なにも見えなかった。計器だけが手がかりの計器飛行を続けた。混乱して海面すれすれを飛んだりしながら、ようやくマニラの街の光がかすんで見えてきた。

ホッとして燃料計を見ると、赤い警報灯が4つ光っていた。それは燃料がほとんどなく、あと15分か20分しか飛べないことを示していた。

カロ―カン飛行場はマニラの北にあった。すぐに場所が分かれば、なんとかなる。だが、マニラ市街意外は一面の暗闘だった。雨の中、佐々木は旋回を続けながら、着陸の合図である飛行機の前消灯を点滅させた。だが、飛行場の応答らしい灯は返って来なかった。

不時着しかないと佐々木は思った。佐々木の頭の中には、マニラからカロ―カンにかけての地形図があった。それを暗黒の底に投射して、国道を見つけ出した。

闇の中から電灯の光が近づいてきた。速度は200キロから220キロに抑えた。機体の脚は引っ込めたままにしている。

電灯の光が一瞬のうちに後ろ流れ去り、前消灯の光の中に、地面がぐっと浮き上がった。着陸の姿勢を取ると、すぐに大きな衝撃が起こり、機体は烈しい音を立てて地面を跳ね上がり、ぶつかり、地面の上を滑った。烈しい衝撃に佐々木は意識を失った。九九双軽は止まった。

佐々木が意識を取り戻した時、辺りは闇の中で静まり返っていた。どれくらい意識を失っていたか分からなかった。

今にもフィリピン人ゲリラが襲ってくるような恐怖に駆られた。日本兵が彼らに捕まると、なぶり殺しにされると言われていた。

佐々木は操縦席から飛び出し、機体の陰で様子をうかがった。体にはかすり傷もなかった。

雨はやんでいて、遠くに電灯の光が見えた。辺りはまばらに耕した田畑のようだった。佐々木は灯に向かって走り出した。途中に落ちてずぶ濡れになったが、そのまま走った。やがて、家の床下にもぐり込んだ。

ゲリラの村かもしれなかった。近くで犬が吠えた。向かいの家の窓が開いて、フィリピン人が上半身をのぞかせた。その窓の光が、佐々木の体を照らしだした。男と佐々木は恐怖を感じた。自分は素手で、何の武器もない。

男は大声を出して佐々木を手招きした。そして広場に案内した。

そこには、日本語が分かる若い男がいた。電灯のついた家に案内されると「ボカウェ村役場」という日本語の看板がかかっていた。けれど、常駐の日本人も日本軍もいなかった。同時に、幸運なことに、佐々木を狙うゲリラはいなかった。その夜、佐々木はフィリピン人村長の家に泊めてもらった。マニラから北に15~16キロの所にある村だった。』

「臆病者」

不時着は田んぼの中で、機体は頭部を土に突っ込み、両翼は左右に落ち崩れていた。操縦席がぐしゃぐしゃに潰れていた。にもかかわらず、佐々木伍長は軽い打撲だけだった。

画像出展:「九九式双発軽爆撃機〜「金魚」の名を持つ陸軍の奔走者

『日本陸軍の航空戦力において、川崎九九式双発軽爆撃機キ48(以下、九九双軽)は、日中戦争から太平洋戦争末期に至るまで、長く第一線で活躍し続けた代表的な機体です。その特徴的なシルエットから「金魚」「オタマジャクシ」の愛称で親しまれた軍用機です。』

田んぼには稲がなく、地盤が硬かったから機体は止まった。雨と暗闇の中の胴体着陸は奇跡としか言いようがなかった。

・猿渡参謀長は、佐々木伍長が大型船を撃沈したという戦果には全く触れず、次のような非情な言葉が浴びせられた。

『レイテ湾には、敵戦艦はたくさんいたんだ。弾を落としたら、すぐに体当たりをしろ。出発前にそう言ったはずだ。貴様は名誉ある特攻隊だ。弾を落として帰るだけなら、特攻隊でなくてもいいんだ。貴様は特攻隊なのに、ふらふら帰ってくる。貴様は、なぜ死なんのだ!その上、貴様はカガヤンまで逃げて、2日も3日も隠れておった。ようやく帰ってきたかと思えば、飛行機を壊してしまう。貴様、飛行機を壊せば、特攻に出ないですむと思ってやったのだろう。貴様のような卑怯未練な奴は、特攻隊の恥さらしだ!』

さらに、佐々木伍長の弁明に対し、

『弁解などするな!それより、明日にでも出撃したら、絶対に帰ってくるな。必ず死んでこい!』

・『宿舎に戻ると、鉾田飛行場時代に知りあった津田少尉に会った。津田少尉は九九双軽を空輸しろという命令を鉾田で受けてフィリンピンに来たら、いきなり特攻隊にされたと憤慨していた。佐々木は、自分も似たようなものですと答えた。

津田少尉は「佐々木は戦艦を沈めたそうだが、本当か」と尋ね、佐々木は「戦艦ではないが、自分は2隻は沈めたと見ています」と返した。

津田少尉は感心し、けれど、特攻隊がどうして帰ってこられるんだと、不思議そうに尋ねた。佐々木は「体当たりをしなければいいんです」とあっけらかんと答えた。津田少尉は驚いた顔で佐々木を見た。

「万朶隊は5人の将校さんが、攻撃に出る前に戦死したんです。佐々木は将校の5名分の船を沈めるまでは、死なないつもりです。最後の6番目は自分のものですから、このときは、どうするか、まだ分かりません」佐々木の表情は真剣だった。

「体当たりをしないで、戦艦を沈めるにこしたことはない。しかし、特攻隊が体当たりしないで生きていたら、うるさいだろう」津田少尉は正直に聞いた。

「いろいろ言われますが、船を沈めりゃ文句ないでしょう」佐々木は人懐っこい目を細くして、笑いを浮かべた。佐々木は、この頃には、同じようなことを上級下級に区別なく、また新聞記者にも率直に、公然と語り始めていた。誰がなんと言おうと、どんなに参謀達に怒鳴られようと、体当たりでは死なないということをはっきりと宣言しているかのようだった。

適材適所とは真逆の作戦

7回目の出撃命令は胴体着陸から5日後の1944年12月14日だった。これは菊水隊に一機、万朶隊から加わった。

・小川団長は特攻隊に対して何度も抵抗していた。団長は菊水隊の隊員に対して、攻撃には万朶隊の佐々木伍長が一緒に行くとして次のような話をされた。

「特攻をやる覚悟で行って、船を沈めて帰ってきたら、立派なもんだ。もしまた、状況が悪ければ引き返して、何度柄もやりなおすのがいい。佐々木のやっていることは、これこそ特攻隊の最良の模範であると信じている

※補足:小川団長とは、「重爆特攻隊菊水隊」を編成した第5飛行団の団長・小川小二郎少将(あるいは大佐)と思われます。

・『午前7時、佐々木はいつもの手慣れた操作で滑走を始めた。と、急に機体が動揺し、尾部が左右に揺れ動いた。尾輪が固定していないと気付いて、佐々木はフットバーを踏んで、方向舵を動かそうとしたが、機体はあっという間に滑走路を外れて、野地に飛び出してしまった。

整備の見落としだったが、佐々木としては初めての失敗だった。

警備員達が駆け付けて来た時、重い爆音が響いて、呑竜の9機編隊が上空に現れ、大きく旋回し始めた。佐々木と空中集合するためだった。佐々木は見上げ手を振ったが、どうにもならなかった。

しばらくして、呑竜は南に向かって飛び去った。その後、菊水隊は「敵戦闘機と交戦中」の無線を打った後、連絡がつかなくなった。「目標発見」の無線ではなかった。それは、目標の戦艦までたどり着く前に撃ち落されたことを意味していた。

※補足:米国軍は特攻隊の攻撃が開始されて以来、空母への戦闘機を倍にしていました。また、レーダーについては、1942年の段階から既に多くの主力艦に対空レーダーを装備していましたが、1944年10月以降、「特攻対策の中核」として体系化されました。さらに、1945年春の沖縄戦では、島周囲に多数の駆逐艦などを「レーダー・ピケット」として展開し、早期警戒と戦闘機誘導にレーダーを集中的に使う体制が確立されました。

・『吞竜を失った小川団長は、自らの「所感録」に、はたしてこれでよかったのかと書きつけた。「壮烈」「名誉」「旺盛なる責任観念」「任務に邁進」などと精神主義を満足させただけではないのか。指揮官や参謀達にとって、それは、壮烈な快感と言えるだろうが、少しも科学的ではなく、組織として努力していない、なんのための戦いなのだ、司令官達は恥じるべきであると痛烈に批判した。』 

8回目の出撃

7回目に出撃の翌日夜(12月15日)、8回目の出撃命令を受けた。今度は旭光隊と共に出撃せよというものだった。16日早朝、佐々木伍長の一機は、西回りでミンドロ島に向かいサンホセを目指すように言われた。旭光隊の2機は東回りでサンホセを目指した。佐々木伍長には直掩隊は一機もつかず、掩護もなく戦果の報告の確認もできないものだった。

・『猿渡参謀長は姿を見せなかった。整備の村崎少尉が肩を叩いた。

「佐々木、今日は尾輪をしっかりさせておいたぞ。安心して行け」

1時間ほど飛んで、ミンドロ島の上空に近づいてきた。すでに明るくなった大空を、たった一機で飛んでいると強烈な孤独感に襲われた。

島の山ひだにそって飛び続けると、島の南岸が見えてきた。山裾が海岸に沿って傾斜している中に、一部分、土砂崩れが起こったかのような場所があった。

その周辺の海に小さな点が集まっていた。アメリカ軍の上陸地点だった。無数の点は、上陸用の輸送船団と艦船だった。

日本機が接近したことに、まだ気付いてはいなかった。もうすぐ、上陸地点の陸上と海上から、圧倒的な砲火が上がり、大空は花火を連発したような火煙に包まれるだろう。

そこに突っ込んでいくのは恐ろしいけれど、それより、佐々木にはなにか、虚しく馬鹿げているように感じられた。強烈な孤独が佐々木の全身を包んでいた。命懸けで突進する姿を、味方は誰も見ていない。自分の最期を誰も確認しない。200隻近い敵船団に対し、たった一機で突っ込むことに、どんな意味があるのか。

佐々木は、戦闘機に発見される前に戻ろうと決意して、機首を旋回させた。』

9回目

12月18日、佐々木伍長に9回目の出撃命令が出た。冨永司令官は滑走路の横で、出発していく特攻隊に対して、日本刀を抜き、振り回しながら、「進め! 進め! 進め!」と叫んでいた。

・佐々木伍長の九九双軽はマニラ上空を南に向かっている時に、爆音が異常になった。空気と燃料の混合比を示すブースト計の片方に不調が現われていた。これ以上、飛ぶことは危険だと判断した佐々木は、旋回してカロ―カンに戻った。出発してから40分後だった。戻ってみれば、飛行場には誰もおらず飛行場大隊長に事故報告をした。宿舎に戻ると急に熱が出て苦しくなった。

12月20日に再び出撃命令が出たが、佐々木伍長は高熱が続き、全身がだるく歩くとふらつくほどに足に力が入らなかった。

・佐々木伍長への出撃命令を目撃した若桜隊の池田伍長は手記に残した。

『ぼくらは毎日、万朶隊の佐々木伍長の部屋に行き、話し合いました。彼は何度か出撃し、戦果を上げて帰還していました。ぼくらはその考えを何度も難詰(相手の欠点や過ちを指摘し、厳しく非難したり、問い詰めたりすること)しました。彼は「死んで神様になっているのに(佐々木伍長の戦果は体当たりであり戦死したと報告されたという意味)、なんで死に急ぐことがあるか。生きられれば、それだけ国にためだよ。また出撃するさ」と淡々としておりました。

そんなある日、彼が40度の熱を出してマラリアで休んでいる時に、出撃の命令が来ました。命令伝達に来た四航軍の将校が、本人が起きることもできないでいるのに、「貴様は仮病だろう」と、聞くに堪えない悪罵を残して帰って行きました。彼は「軍神は生かしておかないものなあ」と言って、さびしく笑っていました(軍神とは佐々木伍長の最初の戦果の後に、軍神と崇められていたという件)

・『池田伍長は、佐々木が将校に罵られている風景を見た時の気持ちを次のように書いた。「この光景は、若い私達に大きい衝撃となって心に焼き付いてしまいました。この時のことを、一生忘れることはないと思います。ぼくはこの時、はっきりと、特攻隊という言葉から来る重圧感から解放されて、命ある限り戦うことを固く心に決めました。死ぬことの苦悩から解放された後は、案外さっぱりした気分になって過ごしたものです。

池田伍長は、翌21日、特攻隊として出撃した。が、体当たりすることなく、生還した。』

マラリアの苦しみ

・『12月22日。佐々木はマラリアの激しい発作を繰り返していた。悪寒がして全身に震えが起こり、それが1~2時間も続くと、その後には40度前後の高熱が出た。それから、長い時には5時間も汗が流れ続け、水を浴びたようになった。そのために高熱が下がり、悪寒が始まってから10時間ぐらいたって、平熱に戻る。そして、また全身に震えが起こる。』

第3章 2015年のインタビュー

2015年10月22日

・『「いくつか友次さんに聞きたいことがあるんです」僕はドキドキしながら会話を始めました。目の前には札幌の病院に入院している92歳の佐々木友次さんがいました。眼を閉じたまま、上半身を起こし、正面を向いていました。(友次さんは糖尿病で失明して、6年ほどたっていました。当別町で独り暮らしをしていて、ケガをし、入院したのです)』

・飛行機に乗ることに憧れ、17歳で仙台の逓信省の航空機乗員養成所に入った。ここは軍ではなかったが、実質は軍隊と変わらず非常に厳しかった。養成所に入る前は農家をされていた。

特攻と聞いて

・佐々木伍長は飛行機に乗るのがとにかく好きで、ひまさえあれば乗っていた。

死なない強さ

・佐々木伍長は上官の無茶な命令に反抗して二日間絶食するなど、頑固で負けじ魂があった。それは、飛行機に乗ることが何よりも好きであり、前評判の良くなかった九九双軽は乗りやすい飛行機だっため、これに乗って自爆したくないという気持ちも強かった。

何度も何度も自分の飛行機に乗っていると、鳥の羽のように自由に動くようになる。

・故郷に帰ったときの村の人達は冷たかった。生きて帰ってきた妬みもあったと思う。ただし、厳しい言葉は少なかった。

・『ー何があっても生き延びてやるって思っていたのは途中から? 初めから?

1回目で帰ってきた時ですね。これは帰れるかもしれんって思いました。その後、夜中に不時着して、飛行機は壊れたけど、自分はケガしなくて。それが一つの転機になってこれは絶対帰れるなと思って。その気になったんですよ。

・『ー出撃して帰ってきたことを責められたでしょう?

「それは言う方は当たり前でしょうね」

ー言われてもむっとしなかった?

「むっとするような雰囲気は戦場にはないですよ」

ーどう思ったんですか? 反省したんですか?

「反省もなにも、今度は死んでやると思いましたけどね」

ーでも同時に、何があっても生き延びてやると思ったんですか?

「そうなの」

ーそのときの友次さんの本音はどうだったんですか?

今度出たら死んでやるって気持ちもないわけじゃない。だけど生きてやるぞ、生きて帰れるかもしらんっていう気持ちもあったですね」』

ー生きて帰るって気持ちは、岩本大尉が言った、船を沈めればいいんだから爆弾を落とせ、無駄死にするなっていう意味なのか、それともただただ生きて帰りたいと思ったのか?

やっぱり無駄死にはしたくなかった。生きて帰るには条件として岩本大尉が言うように、沈めなきゃだめだぞって、それが第一条件で」』

●佐々木さんを支えたもの

・『ー猿渡大佐はどのくらい本気だったんですかね?「死んでこい」って言っている言葉とか。

「自然に言ったんだと思いますよ」

ー友次さんは、それを聞いて怒ったりもしたんでしょう?

「いや一伍長がね、陸軍大佐をなじるとか横目でにらむとか、そんな仕草はできませんよ、当時」

耐えるしかない?

まあ寿命ですよ。寿命は自分で決めるもんじゃないですから

・『5日目の面会は12月11日。しかし、この日は、友次さんは体調が悪く、少ししか話せませんでした。12月に入って、どんどん体調が悪化していたのです。

長女の坂本美智子さんに病院の談話室でお話を伺いました。

娘さんには、自分から「特攻隊員であったこと」を積極的に話すわけではなく、夏に終戦特集がテレビで流れ、それを偶然見ると、例えば、「フィリンピンに行ってみたい」とつぶやいたりしたそうです。何度も出撃して何度も帰ってきたという話はしていませんでした。子供部屋には岩本大尉の写真が飾られていました