帰ってきた特攻兵2

著者:鴻上尚史

初版発行:2017年11月

出版:(株)講談社

目次は“帰ってきた特攻兵1”を参照ください。

 

岩本隊長の作戦

・『体当たり機の爆弾が外れないとしたら、不時着や事故のあった時に、爆弾を抱えていなければならない。それはとても危険ではないか。そのままなら、無駄な犠牲を出すことになる。

「爆弾を落とす方法はないものだろうか」稲妻のような思いが、佐々木の頭に閃いた。

その時、かがり火の中に見えていた影達が、ぽつぽつと暗い闇に向かって走り出した。闇の向こうには、自分達が乗ってきた九九双軽があった。やがて、全員が一斉に闇に向かって死に物狂いの気配で駆け出した。佐々木もまた、飛行場の片隅にある九九双軽に向かった。みんな、同じことを考えていたのだ。

口には出さなかった。出せば、卑怯と言われる。軍人精神の裏切りと責められる。けれど、みんな、なんとかして生きたかった。誰もが命が惜しいことを隠さなかった。

佐々木は操縦席について、スイッチを入れた。真っ暗な中、正面に丸いたくさんの計器が、右側に配電盤が明るく浮かび上がった。爆弾を吊っている電磁器に作用する線は配電盤にある。佐々木は何度か、配電盤の各所にヒューズを差し込み、スイッチを押してみた。が、何の反応もなかった。

失意のまま、電源を切った。暗闇が訪れ、飛行機は暗黒の空洞に変わった。佐々木は墓穴の中にいるような気がした。

岩本隊長は独断で、飛行に邪魔な3本のツノを1本にした。さらに、爆弾を投下できるように改装させていた。投下装置はなかったが手動で爆弾を落とすこともできるようにした。

『「念のため、言っておく。このような改装を、しかも四航軍の許可を得ないでしたのは、この岩本が命を惜しくてしたのではない。自分の生命と技術を、最も有意義に使い生かし、できるだけ多くの敵艦を沈めたいからだ。

体当たり機は、操縦者を無駄に殺すだけではない。体当たりで、撃沈できる公算は少ないのだ。こんな飛行機や戦術を考えたやつは、航空本部か参謀本部か知らんが、航空の実際を知らないか、よくよく思慮の足らんやつだ

岩本隊長の怒りのこもった言葉を聞いているうちに、佐々木は体中が熱くなった。そして、心の中につかえていたものが、一度に消えるように感じた。

佐々木はずっと迷っていた。もし、爆弾を落とす方法を見つけたとしても、勝手に飛行機を改装することは許されない。もし見つかったら、いったいどうなるか。

その迷いを岩本隊長は一気に吹き飛ばしてくれた。

それから、岩本隊長は、攻撃要領の説明を始めた。想像を超える対空砲火を浴びることを覚悟すること。防御火器がないことを肝に銘じること。

佐々木ら下士官は、「超飛爆撃」の訓練は受けていなかった。岩本隊長は、急降下爆撃について、両手を使って、急降下の角度や方向を丁寧に説明した。

急降下は、まっすぐ一直線に、船の「軸線」に沿って突入すること。船を横からではなく、縦に1本の線として見る。その方向を「軸線」と称した。

艦船の横側から急降下してしまうと、艦船との近接は一瞬で終わってしまう。だが、「軸線」に沿って急降下すれば、一定の時間、近接が可能になる。小さな艦船でも100メートル、大きければ上甲板は200メートルになる。これだけ長くなれば、爆弾が命中する可能性は高くなる。

ただし、敵艦船の艦尾の方向から急降下しなければならない。なぜなら、いくら「軸線」に沿っていても、艦首から接近してしまうと、自分の速度と相手の速度が合算され、上甲板に近接する時間が短くなってしまうのだ。

「急降下の時に、不幸にして、その上空で被弾しても、軸線に入っていれば、最後の処置として体当たりも容易であるから、無駄に死ぬことがない。しかし、これぞと思う目標を捉えるまでは、何度でも、やり直しをしていい。それまでは、命を大切に使うことだ。決して、無駄な死に方をしてはいかんぞ」

岩本隊長の言葉がさらに熱を帯びた。操縦者は身が引き締まる思いだった。

岩本隊長は謄写版で印刷したフィリピンの要図を配った。そこには、日本軍が使っている全飛行場の位置と地名が記されていた。部隊や燃料のある飛行場や敵が近く危険な飛行場など、150近い飛行場が示されていた。それは、どんな状態であろうと、とにかく着陸できる場所、ということだった。

岩本隊長は、それらを詳しく説明してから力強く言った。

「出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい」

集合室には異常に緊迫した空気が満ちていた。あきらかに命令違反であり、抗命の重罪だった。軍隊では死刑に相当する発言だった。全員が黙って岩本隊長を見つめた

理不尽なマニラ行き

・『11月4日、岩本隊長以下5名の将校は、マニラに来るように命令を受けた。ネグロス島にいた冨永司令官がようやくマニラに戻ることになり、儀式好きの司令官は、陸軍最初の特攻隊員と宴会をしようと決めたのだ。

もうひとつ、岩本隊長が九九双軽を許可なく改装したという情報が届き、マニラの司令部で参諜達が直接事情を聞こうという理由もあった。だが、司令部はそれを深刻なものとは考えず、副次的な扱いだった。一番の理由は、岩本隊長達をマニラの料亭「広松」に招き、芸者を見せ、酒を飲ませ、冨永司令官自らが激励することだった。

その夜、佐々木と奥原伍長が将棋を指すつもりで集会室に行くと、将校たちがいた。思わず立ち止まると、安藤浩中尉が「遠慮せず入れ」と声をかけた。リパに来てからは、将校と下士官の垣根が低くなっていた。特攻隊という死が前提の部隊に放り込まれ、心と心を寄せ合う気持ちになっていたのだ。

園田芳巳中尉が、明日、岩本隊長以下、空中勤務者(操縦や通信)の将校は全員マニラに行くから、隊長におみやげを頼むといいと軽口を叩いた。岩本隊長は笑って、二人をたたきつけることはないと返した。岩本隊長の久しぶりの笑顔だと佐々木は思った。

翌5日、午前8時。岩本隊長は、午前中は飛行機の警備、午後は飛行訓練を実施するようにという訓示を佐々木達に与えた後、将校4名と共に九九双軽に乗り込みマニラに向けて離陸した。

ルソン島は快晴だった。太陽はすでに高くなり、陽射しは皮膚に痛いほど強かった。アメリカ軍の空襲が、毎朝、定期便のように始まる時刻だった。岩本隊長達が乗っている九九双軽は、一門の機関砲もなく、一機の護衛もつかない状態で、単独でマニラを目指した。

岩本隊長の離陸からしばらくして、リパ飛行場は二度、アメリカ軍の空襲を受けた。佐々木が経験する、初めての激しい攻撃だった。爆弾が空気を切り裂いて落下する音が聞こえ、続いて凄まじい爆発が連続して起こり、地面が揺れた。

佐々木は、椰子の根元にしがみつくように伏せるしかなかった。機銃掃射が椰子にあたる音がして、大きな葉が佐々木達の上にばさばさと落ちた。万朶隊の民間整備員1名が死亡し、操縦者1名と通信員1名が重傷を負った。

午前11時過ぎ、第四航空軍司令部から、万朶隊宛に無線が送られてきた。

「岩本隊長は出発せしや。状況によりては、地上、自動車にてこられたし」

リパとマニラの直線距離は約90キロ、九九双軽なら、20分足らずで到着する予定だった。岩本機は、午前8時に出発したのだ。

午後になって、もう一度、「岩本隊長は出発せしや」という無電が届いた。

万朶隊全員が暗い予感に怯えた。ただ、岩本隊長は操縦の名手であり、もし、アメリカ機と遭遇しても、どこかに逃げきったに違いないと思い込もうとした。

夜9時過ぎ万朶隊に、岩本隊長の乗った九九双軽がグラマン戦闘機に襲われて墜落、岩本隊長以下4名の将校が戦死したという知らせが届いた。

午前8時を少し過ぎた時間に、海軍の若い操縦者が偶然、一部始終を目撃していた。九九双軽は、マニラ近くを高度400~500メートルで飛んでいた。その高度は、マニラ周辺の飛行場を探しているためかと、目撃した操縦者は思った。

突然、九九双軽の後上方から、二つの黒点が落下するのが見えた。グラマン戦闘機2機だった。2機は後上方から急降下しながら射撃を続け、急上昇した。九九双軽は急旋回しながら、バイ湖の岸の方に隠れた。そして、その方向から黒煙が上がった。

すぐに、救助隊が編成され、急行した。そして、マニラ近く、バイ湖のほとりで岩本隊長以下4名の遺体は発見、回収された。通信担当の中川克己少尉だけは重傷だった。4名の将校操縦者はグラマンの機銃掃射を受けて、即死状態だった。

万朶隊員達は、祭壇を作って、その前で通夜をした。誰もが泣いた。そして、マニラに呼び寄せた命令の理不尽さを罵った。岩本隊長達は、冨永司令官の宴会のために死んだのだ。

陸軍最初の特攻隊は、隊長だけでなく、将校の操縦者を一気に失ってしまった。

前夜、集会室で岩本隊長はこう言っていた。

飛行機乗りは、初めっから死ぬことは覚悟している。同じ死ぬなら、できるだけ有意義に死にたいだけさ。敵の船が一隻も沈むかどうかも分からんのに、ただ体当たりをやれ、「と」号機(特攻用飛行機)を作ったから乗って行け、というのは、頭が足りないよ」

佐々木は、歯噛みをしながら岩本隊長の無念を思った。涙が溢れて止まらなかった。 

画像出展:「ウィキペディア 

『カローカン基地指揮所の黒板には岩本が詠んだ短歌が記されて、全員が岩本らの仇を討つことを誓った』

 

出撃の夜

・『佐々木達特攻隊員の胸には、白布に吊るされていた。残留隊員が用意した遺骨の箱だった。小箱を包む白布の端は、佐々木達の首の後ろで結ばれていた。

それぞれの小箱の前には、5日に亡くなった将校達の名前が小さく書かれていた。遺骨はマニラの東本願寺に納められたので、箱の中には分骨の意味で霊位を記した紙片が入っていた。佐々木の首から吊るされた小箱には「川島中尉之霊と書かれた小箱は、田中曹長の胸に吊るされていた。

冨永司令官は激励の訓示を語った。諸君は必ず大戦果を挙げることを確信していると始めた後、「必ず、空母を狙え。空母が見当たらなければ、戦艦をやれ。それでも格好の獲物がない時は、ためらわずに引き返して再挙をはかれ。決して小型艦などに体当たりをしてはならない」と先日と同じことを繰り返した。

・『暗闇の中に、点々と赤い小さな火が燃え上がり、長い2本の線を作った。地上勤務の兵達が、ヤシ油の標識灯に火を付けたのだ。2列の赤い点線が、暗闇の中に幅30メートル、長さ1200メートルの滑走路を浮かび上がられた。

画像出展:「ウィキペディア 

『初出撃日に日本酒で乾杯する万朶隊隊員、左から佐々木友次伍長、生田留夫曹長、田中逸夫曹長、久保昌昭軍曹、奥原秀孝伍長』

 

激しい爆音が響いて、援護戦闘機の隼が20機、始動態勢に入った。海軍の誇る戦闘機は零戦、そして陸軍が誇るのが隼だった。

特別攻撃隊の九九双軽は銃火器を取り外して、丸裸の状態だ。なおかつ、550キロ爆弾が最大定量なのに800キロを積んでいる。速度も遅くなり、動きも鈍くなる。だからこそ、アメリカ軍の攻撃から特別攻撃隊を守る援護の戦闘機は絶対必要だった。

佐々木は操縦席に乗り込み、首にかけた川島中尉の遺骨箱を傍に置いた。目の前では、さまざまな計器が深海魚のように、弱く冷たい光を放っていた。ガソリンの量は、タンク一杯を示している。

佐々木は機械や計器類を一通り点検してスイッチを入れ、フラップを下げた。定員4名の九九双軽の操作を、たった独りでやらなければならない。

なおかつ、800キロの爆弾に3メートルの死のツノだ。通常の飛行とはまったく違う。離陸は容易ではない。佐々木は興奮し、同じくらい緊張した。

夜はまだ明けず、下弦の月が高くかかっていた。熱帯の月なので、細くても明るく輝いている。夜明け前で暑くもない。日本で言えば、初秋ぐらいの気温だった。』

レイテ湾の戦い

・『「この戦闘機の目の前で、見事800キロ爆弾をぶち当ててやるんだ」佐々木は心の中で誓った。

佐々木は前方の田中曹長機を見つめた。編隊試行中は、隊長機に7、周囲に3の注意が必要と教えられた。

翼に下には、白い波が打ち寄せる海岸線が見えていた。それが、なめらかに光っている海と、濃い緑の樹林に覆われた陸地を区切っていた。大きな島だった。サマール島だと佐々木はすぐに分かった。この島の南の端が目標のレイテ湾だ。

青空を飛ぶのは本当に気持ちいいと佐々木は思った。いや、夜も気持ちいい。だが、朝日の中、青い海を下に見て、青空を飛ぶのは、本当に幸せだった。

たとえ、今から死と直面すると分かっていても、空を飛ぶことが自分は大好きなんだと佐々木はあらためて思った。

自分が奥原伍長のように緊張しないのは、生来の負けん気と操縦の自信と父親の「人間は、容易なことで死ぬもんじゃないぞ」という言葉のせいだと思っていたが、ただ単純に空を飛ぶことが好きだからかもしれないと佐々木は思った。

画像出展:「不死身の特攻兵」 

 

 

・『「俺は今、敵の頭上にいる」

非常な緊張感と同時に激しい気力が湧き上がってきた。

海面を見ていた佐々木の目に黒い影がちらりと映って、すぐに断雲の層が流れ去った。

「いた!」 1隻、2隻、3隻。レイテ湾の外に向かって、一列の単縦陣で進んでいた。白い航跡が見える。

田中曹長も気付いているらしく、その方向に進路を変えた。佐々木は後を追いながら、なお海面を探した。だが、空母の姿は見えない。

田中曹長は艦船に対して、艦首の方向から軸線に入ろうとしていた。久保軍曹も続いている。

理想的な突入は、艦尾からだ。艦首からだと、岩本隊長が説明したように、自分の飛行機の速度と敵艦の速度が合算されてしまう。

さらに太陽を背にして突入するのが最も望ましい急降下攻撃だ。艦船からの砲撃が、太陽の目くらましでいくらか精度が落ちるからだ。だが、うまく太陽の位置が合わない。

もうひとつ、高度が高すぎることも佐々木は気になった。現在の高度は5000メートルだ。鉾田飛行場以来、急降下爆撃の訓練の時には、高度は3000メートルだった。それ以上の高度から突っ込んだことは一度か二度しかなかった。

高度が高ければ、突入の角度が浅くなる。結果、目標を捉えるのが難しくなるのだ。

3機は艦隊の真上に迫ろうとしていた。艦首から突入になってしまったので、数秒の後には、艦隊と飛行機が行違って、攻撃のチャンスを逸してしまう。

その時、田中曹長機が翼を振って突入の合図を出した。久保軍曹機も続いた。2機は機首を下げて、急降下に入った。』

突入

・『佐々木が目標を見定めようとして下を向いた時には、軍艦はかなり下方に来ていた。少し入りすぎたと佐々木は一瞬、不安になった。が、同時に操縦桿を力一杯、押し倒していた。

目標は三番艦だ。急降下によって圧力がかかり、全身が引き裂かれそうな強い衝撃に包まれた。大きな音をたてて、操縦席の後ろに飛び上がるものがあった。川島中尉の遺骨箱だった。

たとえ艦尾から軸線に入っても、そもそも艦船は真っ直ぐに逃げたりしない。艦船は空襲を受けるとジグザグの回避行動に出る。時速500キロ以上の速度で急降下する飛行機は、ジグザグ行動の先を予想して突っ込まなければいけないのだ。

読みを誤れば、艦船ではなく海に突進することになってしまう。実戦での急降下攻撃ははるかに難しい。

突入角度は40度前後だったが、体感としては、垂直に落下していく感覚に近かった。

佐々木は歯を食いしばり、必死になって目を見開いた。頭の上に海が青い幕のように広がっていく。

目標はどこだ。軍艦はどこだ。操縦桿を押しているが、軍艦を捉えられない。苦痛と不安と焦りが湧き上がってくる。

速度計の針は、500キロから550キロ、そしてついに600キロを超えた。

全身の血液が頭に充満し、噴き出しそうだった。これ以上速度を上げると、九九双軽は空中分解する。圧力に負けないと力む頭で佐々木を考えた。

500キロの速度から来る圧力が、全身を歪め、血を逆流させた。

高度800メートル。佐々木は夢中で鋼索の取っ手を引いた。その瞬間、急に軽くなった機体が弾み上がるような衝撃を受けた。初めての実戦では、佐々木は500メートル以下までは待てなかった。

すぐに操縦桿を引き起こした。翼の下を船体が流れ去った。佐々木は急上昇しながら、振り返った。船体から離れた海面に大きな白い波紋が沸き立っていた。

「しまった」思わず、言葉が出た。

佐々木は急上昇を続けた。九九双軽は身軽になった。早く逃げろ。撃たれる。佐々木は背中に寒いものを感じた。前方に断雲があった。佐々木はその中に飛び込んだ。

ミンダナオ島に逃げようと佐々木は計画していた。生還するために前もって考えていた場所だ。レイテ島のアメリカ空軍の飛行場から遠く離れて安全な場所だった。

この場所を教えたのはもちろん、岩本隊長だった。雨の日に配ってくれたフィリピンの飛行場地図で知ったのだ。

佐々木は500メートルの高度で海上を1時間飛び続け、アメリカ軍機に発見されずに、ミンダナオ島のカガヤン飛行場に着陸した。』 

消された存在

・『大本営発表後のしばらく後、ルソン島のカロ―カン飛行場の上空に、3メートルの死のツノを突き出した九九双軽が現れた。

着陸姿勢に入った時、万朶隊だと分かった地上勤務兵隊は逃げ出した。800キロ爆弾を積んだまま着陸しようとしている、死のツノに触れたら簡単に爆発してしまう、と怯えたのだ。

やがて、無事に着陸した九九双軽に人々は殺到した。座席の天蓋が開いて、佐々木が姿を現した時、全員が信じられないものを見たという、驚きの声を上げた。

佐々木はその反応が不思議だった。佐々木はミンダナオ島のカガヤン飛行場に不時着した時、すぐに無線の連絡を頼んでいたのだ。だが、それは届いていなかった。

人々は、口々に佐々木をほめた。戦艦一隻を沈めたという大本営の発表を信じていたのだ。

佐々木は、「やったかどうか、分からんよ」と熱狂する人達に正直に答えた。

そして、万朶隊のメンバーには、詳しく語った。』

・『第四航空軍から「翌日、報告に来るように」という命令が佐々木に届いた。

石渡俊行軍曹が重苦しい表情で「四航軍は慌ててるんじゃないか。佐々木伍長は体当たりせり、なんて大本営へ報告したところへ、本人が帰ってきたんだから」と言うと、通信員の浜崎曹長が、「明日、軍司令部へ行くとしぼられるぞ」と脅かすように付け加えた。

自分が狙ったのは、確かに揚陸船だったと思うんです。出発の時に、冨永閣下も、輸送船なんかに体当たりするな、と言われていましたから、実際の通りに報告してきます

佐々木はつとめて冷静に答えた。

しかし、整備の村崎少尉は、爆弾を落とすように改装したことを、軍司令部は正式に許可していないことを心配した。それを問われたら、岩本隊長がやられたことで、帰還する時800キロ爆弾を抱えては危険だからと答えるといいとアドバイスした。

「しかし、佐々木が帰ってきてよかった。今夜は生還祝いをやろう」村崎少尉が明るい声で全員を見た。

・『翌14日、佐々木の生まれ故郷、石狩郡当別村も前日の大本営発表のラジオ放送を聞いて大騒ぎになっていた。

緊急に招集された村会議は万歳三唱し、黙禱し、「神鷲の偉業を顕彰するための委員会」設置を可決した。佐々木の生家に、村の人々は、雪を踏み、馬そりに乗って、弔問に来た。

同じ日、第四航空軍に呼ばれた佐々木は「大本営で発表したことは、恐れ多くも、上聞に達したことである。このことをよく肝に銘じて、次の攻撃では本当に戦艦を沈めてもらいたい」と参謀から言われた。

上聞、つまり、天皇に報告したことは、絶対に訂正できない。天皇に嘘の報告をしたことになれば、司令官の責任問題になる。だから、分かっているな、という暗黙の命令だった。「本当に戦艦を沈めてもらいたい」は、「本当に体当たりして死んでもらいたい」を意味した。』

2回目の出撃

・2回目の出撃は前日(14日)夕方に発表された。石渡軍曹、近藤伍長、奥原伍長、佐々木伍長の4名だった。

・15日。午前4時に万朶隊は集合した。その際、第四飛行師団の参謀長、猿渡大佐は佐々木伍長に向かって「どういうつもりで帰ってきたのか? 佐々木は死ぬのが怖くなったのではないか」と詰問した。

佐々木伍長は「犬死にしないように、やりなおすつもりでした」と答えた。

・15日は月明りに照らされていたが雲が多く、出撃には不向きのコンディションだった。

・攻撃隊は、成果確認の百式司偵機が離陸し、万朶隊4機、直掩の隼8機が続いた。

佐々木伍長は死にツノが出た、丸裸の飛行機に乗って特攻に出撃すると分かっていても、やはり興奮した。空に舞い上がれば、ただ、それだけで感動した。

・石渡軍曹の一番機は後続を待たず直進してしまったため、飛行隊はバラバラとなり空中集合もできなかった。そして、闇の底に強烈な光が閃き、赤い火柱と大きな爆発が起こった。敵機を見つけることはできなかったが、バラバラとなってしまったため、奥原伍長と佐々木伍長は着陸した。爆発はマニラでの近藤伍長機だった。石渡軍曹と百式司偵機は帰ってこなかった。

大本営は第四航空軍司令部の報告を受けて、佐々木伍長を特攻戦死として、二階級特進させる予定だったが、司令部は2回目の特攻の失敗を受けて、やむなく、佐々木伍長の生還を明らかにし、感状(栄誉を讃える文章)と特進の手続きを取り消すことにした

急襲

3回目の出撃は11月25日、奥原伍長と佐々木伍長の二人だけだった。

・『25日、正午近く、大きな口髭をつけた猿渡参謀長は、厳しい顔で「佐々木はすでに、二階級特進の手続きをした。その上、天皇陛下にも体当たりを申し上げてある。軍人としては、これにすぐる名誉はない。今日こそは必ず体当たりをしてこい。必ず帰ってきてはならんぞ」と𠮟りつけるように言った。

直掩機の隊長、作見一郎中尉が、佐々木に燃料はどれくらい持っていくかとたずねた。佐々木はできるだけ一杯にして行くと答えた。さらに爆弾は落とせるのかと作見隊長は聞き、佐々木は落とせるようにしていると返した。

作見隊長はうなずいた。同じパイロットとして、特攻隊に選ばれるか、直掩機の担当になるかで運命は大きく変わった。

直掩機のパイロットは、特攻隊のパイロットに対して複雑な心境があった。自分達は最後の最後、特攻を残して帰って来る。それが、どうにもやりきれなかった。

・『3度目の出撃の宴で乾杯を終え、佐々木は操縦席に着いた。エンジンを回し点検しようとした時、天蓋が激しく叩かれた。整備員が上空を指さし、大声で叫んでした。

見上げれば、黒い編隊の機影がまっすぐに飛行場に向かっていた。佐々木はスイッチを切り、機体の外に飛び出して走り始めた。奥原伍長も走っていた。二人は必死になって走りながら、目は上空の機影から離せなかった。

上空1000メートルから、アメリカ艦載機は爆弾を落とした。佐々木達は、滑走路脇に立つ兵舎の前の溝に飛び込んだ。

その瞬間、猛烈な爆発が起こった。熱気と振動と爆風が佐々木の体を襲い、振り回し、叩きつけた。その上に、土砂が水のように流れ落ちた。

アメリカ艦載機が爆弾を落とし終わると、グラマン戦闘機が急襲して銃撃を加えた。

佐々木と奥原伍長の九九双軽は火を噴き上げた。直掩機も燃え上がった。

佐々木は必死で起き上がり、滑走路から宿舎の方向に走った。

空襲が終わり、人から言われて、顔から血が流れているのに気付いた。汗だと思っていたら、べっとりと顔に血がついていたのだ。

佐々木は急に腹が立ってきた。こんな真っ昼間に飛行機を並べて出そうとしたら、やられるのは当然だ。危険な時間帯に、ノンキに出撃の儀式の乾杯までするとは。参謀どもはバカではないのか。

宿舎に戻ると奥原伍長はいなかった。しばらく待っても、帰って来ない。滑走路を探しに歩くと、飛行服の袖と白い手が土の中から突き出しているのが見えた。

慌てて掘り起こすと、すでに奥原伍長は死んでいた。爆弾の破片が胸を大きくえぐっていた。佐々木が倒れ込んだ場所から3メートルほどの所だった。その短い距離が、二人の生死を分けた。

佐々木は激しい衝撃を受けた。いたたまれない悲しみと淋しさだった。』

一機だけで

11月28日、頭に包帯を巻いた佐々木に4度目の出撃命令が出た。前回同様、白昼に近い午前10時だった。この出撃命令は佐々木伍長ただ一機での命令だったが、カロ―カン飛行場では佐々木伍長に同情が集まっていた。それは、佐々木伍長を殺すための出撃と思う人が多かったからである。

・レイテ湾は雲が多く、出撃には悪い条件だった。

・『滑走路脇の指揮所に佐々木が行くと、猿渡参謀長が待っていた。

「今日の直掩隊は必ず、敵艦船の上空まで誘導する。そして、佐々木の突入は必ず確認することになっている。晴の舞台だ。万朶隊の名に恥じないよう、立派な体当たりをするんだ」

猿渡参謀長はしわがれ声で威圧的に言った。

第四航空軍から特別に来ていた佐藤勝雄作戦参謀が話を続けた。

「佐々木伍長に期待するのは、敵艦撃沈の大戦果を、爆撃ではなく、体当たり攻撃によってあげることである。佐々木伍長は、ただ敵艦を撃沈すればよいと考えているが、それは考え違いである。爆撃で敵艦を沈めることは困難だから体当たりするのだ。体当たりならば、確実に撃沈できる。この点、佐々木伍長にも、多少誤解があったようだ。今度の攻撃には、必ず体当たりで確実に戦果を上げてもらいたい」

天皇に上聞した以上、佐々木は生きていては困る。後からでも、佐々木が特攻で死ねば、結果として嘘をついたことにならない。そのまま、佐々木は二階級特進することになる。上層部の意図ははっきりしていた。

佐々木は答えた。

私は必中攻撃でも死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます

伍長が大佐や中佐に向かって反論するのは、軍隊ではあり得なかった。軍法会議の処分が当然のことだった。

さらに、軍隊用語では一人称を「自分」と言わなければいけなかった。佐々木は、それを「私」と言った。それは、佐々木の始まりが軍隊ではなく逓信省航空局の航空機乗員養成所だったからだ。腹を据えて反抗しようという時、佐々木は軍隊ではなく、養成所出身ということを意識したのだ。

「佐々木の考えは分かるが、軍の責任ということがある。今度は必ず死んでもらう。いいな。大きな奴を沈めてくれ。戦闘隊とは、よく打ち合わせて行け」

佐々木は納得しなかった。「佐々木伍長、出発します」それだけ言って、その場を離れた。6機の直掩隊と共に、佐々木はただ一機の特攻隊として出発した。

天気図では雲量が多かったが、レイテ島に接近すると快晴だった。四方の空には積乱雲が壁のように続いていた。』

※補足:この一機だけの特攻は直掩機の隊長が佐々木伍長に同情し、わざわざ殺すことはないと考え、適当な場所まで飛んで引き返したというものでした。猿渡参謀長へは「レイテ湾上空は気象情報通り雲量が多く敵艦船を発見できなかった」と報告されていました。

5回目の出撃

・1944年10月25日、海軍の敷島隊が行なった初めての特攻隊による攻撃後、海軍、陸軍をあわせて、大和隊、菊水隊、富嶽隊など40隊以上が出撃していた。一方、敷島隊による特攻からおよそ1か月後の11月29日、マリアナ基地を出発したB29爆撃機が初めて東京を夜間爆撃し、神田や日本橋などが焼夷弾で燃え上がった。

アメリカ軍は特攻対策として、空母に載せる急降下爆撃機の数を半減させ、艦上戦闘機の数を2倍にした。そして、戦力再編を行ない、特攻機の目標である空母の前方60カイリ(約110キロ)にレーダー警戒駆逐艦を配備した。この対策により、近づく特攻隊をいち早くレーダーが発見し、何百機という艦上戦闘機で迎え撃つ態勢が敷かれた。つまり、このような米国側の厳重な守りに対して、重い爆弾を抱え、迎え撃つ銃器も持たない特攻機が、かいくぐってアメリカ艦船に近づかなければならなかった。特攻隊の成果がどんどん落ちていったのはこのような戦場の変化だった。

・佐々木伍長の5回目の壮行会に酒さかなの用意はなかった。猿渡参謀長は現れず、代わりに若い参謀が来て、一房のバナナを差し出した。

・『午後3時、佐々木は万朶隊として再び飛び立った。直掩は隼二機だった。

天気図は、ルソン島からレイテ島にかけて快晴を示していた。

高度4000メートルを飛びながら、佐々木はバナナを食べた。爆弾を命中させることに不安はなかった。ただ、アメリカ軍の戦闘機が現れた時、逃げ切れるか不安だった。

出発して3時間、燃えるような夕焼け空は、下の方から暗く陰り始めていた。前方に、夕日を受けて、金属のように光るレイテ湾の海面が見えてきた。高度を5000メートルに上げると、右斜め下の海上に100を越える無数の艦船が確認できた。

その時、佐々木は、小さな点が近づいて来るのに気付いた。アメリカ戦闘機の編隊だった。

前を飛ぶ直掩隊の隊長はまだ発見していないようだった。佐々木はすぐに直掩二機との編隊飛行を離脱し、低空に降りた。逃げきるために、身軽になろうとして800キロ爆弾を海上に投下した。

カロ―カンに引き返そうと思ったが、猿渡参謀長の怖い顔が浮かんだ。佐々木はレイテ島の上空をまっすぐ西に飛んで、ネグロス島に向かい、バコロド飛行隊に着陸した。

※補足:特攻機の九九双軽は攻撃のための機関銃が外されていたので戦えません。また、太平洋戦争時代の米国軍の空母は30機~100機の飛行機が搭載可能でした。つまり、2機の隼は、15機(戦闘機は半分)以上の敵機と交戦しなければならなかったという状況だったと思われます。

・『何度目かの帰還の時か、司令官が軍刀の柄を両手で摑み、ギラつく目で佐々木をにらめつけた。

「きさま、それほど命が惜しいのか、腰抜けめ!」

佐々木伍長は落ち着いた声で答えた。

おことばを返すようですが、死ぬばかりが能ではなく、より多く敵に損害を与えるのが任務と思います

司令官は激怒した。

「馬鹿もん! それはいいわけにすぎん。死んでこいといったら死んでくるんだ!」

「はい、では佐々木伍長、死んで参ります!」

こう叫んで佐々木はその場を辞した。本(「特攻隊振武寮 証言・帰還兵は地獄を見た[講談社]」)では怒鳴ったのは、冨永司令官と書かれているが、猿渡参謀長の間違いだろう』