ウォルト・ディズニー3

著者:ボブ・トマス

訳:玉置悦子/能登路雅子

発行:初版1983年1月

出版:講談社

目次は”ウォルト・ディズニー1”を参照ください。

5.ディズニーランドとは

『ディズニーランドは、いまやウォルトにとって是が非でも達成しなければならない使命感となっていた。それは、音や色を伴うアニメーション映画、長編漫画、そのほか彼がいままで新しく開発してきた数々の事業よりも、さらに大きな目標であった。

このパークは、僕にとってとても重要な意味をもっている。これは永遠に完成することのないもの、常に発展させ、プラス・アルファを加えつづけていけるもの、要するに生き物なんだ。生きて呼吸しているもんだから、常に変化が必要だ。映画なら、仕上げてテクニカラー社に渡せばそれで終わり。「白雪姫」は僕にとってすでに過去のものだ。ちょうど2、3週間前にも一本、映画の撮影を終えたんだが、あれはもうあれでおしまいなんだ。僕はいまさら、何も変更できない。気に入らない箇所があっても、もう、うすることもできない。だから僕は、生きているもの、つまり成長する何かが欲しいと思ったこのパークがまさにそれなんだ。何か足していけるだけじゃなく、木でさえもだんだん大きくなる。年ごとにパークはより美しくなっていく。それに、大衆が何を求めているのかについての僕の理解が深まるにつれて、パークももっとすばらしいものになる。こういうことは映画じゃできない。作ったらそれでおしまい。お客さんが気に入ってくれるかどうかもまだわからない状態なのに、もう手を入れることが許されないんだから 』

6.未来都市(EPCOT) 

EPCOTはアトラクションですが、ウォルト・ディズニーが描いたEPCOTは違っていました。まさに実験的な(Experimental)原型(Prototype)としての都市(Community)の(of)未来(Tomorrow)像でした。

『WEDの技術力が円熟味を増すにしたがい、第二のディズニーランドを作ることに否定的だったウォルトの気持ちもしだいに変わっていった。テーマパークの焼き直し以上のことをやってみる絶好の時期が来ていると感じた彼は、もう一つのディズニーランドを建てて、それを、より大きな目標を達成するための刺激剤にしようと決心したのである。すなわち、新しいタイプの都市を計画、建設し、清潔で美しく活気に満ちたコミュニティーでの人間生活を実現してみよう、という構想であった。

『報道陣から、このフロリダ・プロジェクトで雇用される従業員のためのモデル都市について、質問が出された。ウォルトは、ここではじめて未来都市の構想を公にすることになった。

「そうですね、モデル都市というか、まあ、未来の都市という名で呼んでもいいのですが、これに乗りだしたいと思ったのは、私は建築家がよく建てたがる超高層ビルみたいなものは好きではないからです。誰もがいまでも、人間らしく住みたいと願っているでしょう。そのためにやれそうなことはたくさんあります。私は別に車に反対ってわけではないのですが、都市の中に自動車が入りすぎていると思うんです。だから、車はあっても、人間が本来の歩行者に戻れるような設計をすればいい。私は、ぜひ、そういうプロジェクトに取り組んでみたい。それから、学校や公共施設、町の娯楽と生活のあり方なんかにしてもですね、未来の学校を建ててみたいと思っています。……これは、現代という教育の時代の実験的事業になるかもしれませんよ―アメリカからさらに世界に広がっていく規模のね。今日、もっともむずかしい問題は教育だ、と私は考えていますから

ウォルトはフロリダ・プロジェクトの企画委員会をWEDに設置し、自らそのメンバーの一人となった。同じく委員となったのは、ウォルトのアイディアを具体的な形にする貴重なこつを知っていたジョー・ポッターとマービン・デービスである。そして、この三人だけがプロジェクトの計画がしまってある部屋の鍵を持つことになった。

企画の過程を通じて、ウォルトはプロジェクトの全体的な構想と未来都市の設計に心血を注ぎ、テーマパークのほうには、あまり注意を向けなかった。

『ウォルトは未来都市の建設にとりつかれた。彼は科学が生んだ最新の成果を可能なかぎり全部取り入れたいと考え、ジョー・ポッターに指示した。

「各企業が未来について、どんなことを考えているのか知りたいんだ。科学研究所とかシンクタンクではいま、何をやっているのかを調べてくれ。彼らのノウハウを僕らの企画に生かすんだ」

そこで、500社にのぼる企業にアンケート用紙が送られ、ポッター以下、何名かのスタッフが数か月をかけて100あまりの工場や研究所、財団などを訪問した。ウォルトはまた、都市計画について手当たりしだい読みあさった。

エコノミックス・リサーチ・アソシエイツ社に依頼した14件の調査のうち、一件はさまざまなモデル都市に関するものであった。それには、計画的に作られた都市というものは紀元前1900年ごろからすでに存在しており、ピラミッドを建設する労働者のためにエジプトに作られたのが始まりであると書かれてあった。また、アメリカで1960年代半ばまでにできた125の新しい都市のうち、その計画が成功したのはほんのわずかであり、たいていの場合、古くからの都市が犯した過ちの繰り返しか、あるいはそれをさらに悪化させたものに終わってしまった。と報告されていた。ウォルトは、戦争直後のイギリスで実施された“ニュータウン”のプログラムに感心したが、できあがった実際の都市は、単調でぱっとしないものになってしまったようであった。だが、ウォルトは落胆しなかった。質の高い環境を計画的に作ることにより、現代社会の中でも人間らしい生活をすることは可能であると、持ち前の楽天主義で信じていたのである。

また、いくつかの大企業がモデル都市を作ろうと試みて失敗した例にも、ウォルトは意気をくじかれることはなかった。なかには、十か所のモデル都市の建設を目指して、企画調査に一億ドルを投じた企業もあったが、その計画は水の泡となってしまっていた。時代遅れの建築基準、保護主義的な労働組合、建材業者の高い請負料、それに近視眼的な政治家など、もろもろの障害に阻まれて、斬新な変革を実現することができなかったのである。

政治家というものに対し、これまでずっと不信感を抱いてきたウォルトは、政府の干渉なしにモデル都市を開発するという、いままでに例のない自由が欲しかった。ドン・テータムが、ウォルトの望んでいるのは“実験的な専制君主制”であると言ったところ、ウォルトは片方の眉をつり上げて、いたずらっぽくきき返した。

「できると思うかね」

「無理ですよ」

テータムはあっさり答えた。

ウォルト・ディズニーの未来都市には名前が必要だった。ある日、WEDのスタッフと昼食をとっていた彼は、しばらく思いにふけっていたが、突然口を開いた。

僕らが狙っているのは、実験的な(Experimental)原型(Prototype)としての都市(Community)の(of)未来(Tomorrow)像だよな。これの頭文字をとったらどうなる?E-P-C-O-T。そうだ、この名前でいこう、EPCOTだ」。』

7.全世界が泣いた日

大人の目に浮かんだ涙もけっして小粒ではなかった。:メキシコシティー

ディズニーの真の価値を物語るものは、彼が獲得した数々のアカデミー賞よりむしろ、老いも若きもがこぞって発したあの歓声の声である:デュセルドルフ

『ウィルとの死は、ディズニーの組織に属する者全員にとって大きな打撃であった。スタジオ、WED、ディズニーランド、フロリダの建設現場、各国に散らばるブエナ・ビスタ社の事務所―。その中にはウォルトと三十年も一緒に仕事をしてきた者もいれば、新来のスタッフもいた。が、ウォルトの頭脳を会社の指針として頼ってきたことでは、誰しも同じであった。そしていま、彼が定めた目標めざして手綱をとる任務は兄、ロイ・ディズニーの双肩にかかることになったのである。

ウォルトの葬儀は彼の遺言に従って、ごく内輪にひっそりと行われた。彼が亡くなった日の翌日、遺体は荼毘に付され、グレンデールのフォレストローン・メモリアルパークでの簡単な埋葬式に立ち会ったのは、わずかに身内の者だけであった。家族は弔問者による献花を断り、代わりに香典はカリフォルニア芸術大学への献金に差し向けてくれるよう依頼した。』  

「CalArts は、私が緑豊かな牧草地に移るときに残したい一番の目的です。将来の才能を伸ばす場所を提供する手助けができれば、何かを達成できたと思います。」—ウォルト・ディズニー

 

8.生涯のパートナー、ロイ・ディズニー

『1950年代も終わりに近づくころには、ディズニーの企業は大躍進を遂げていた。ウォルトが管轄する領域はディズニーランド、テレビのレギュラー番組、劇映画、長編、短編のアニメーション映画、《自然と冒険》シリーズの記録映画とそれから派生した《民族と自然》シリーズのフィルム、楽譜出版、レコード、書籍、雑誌、ディズニーのキャラクター商品、などに広がっていた。会社の繁栄について、ウォルトはある記者にこう話している。

「僕とロイにはお守りの天使がついているに違いないって思うんですけどね。ディーン・マーティンとジュリー・ルイスみたいにけんか別れするなんて考えたこともなかった。もっとも、この天使さまがロイについているのか僕についているのか、二人ともそこのところがわからないんだけどね」

兄弟の仲が決裂するような可能性こそなかったものの、会社の事業がだんだん複雑化するにつれ、二人の関係には緊張がみられるようになった。ときにはそれが爆発することもあったが、火つけ役はたいてい、年も若く短気で芸術家肌のウォルトであり、仲直りの行動を最初に起こすのも、移り気な彼のほうであった。

ある激しい衝突のあと、ウォルトが誕生日のプレゼントを持ってロイの部屋を訪ねたことがあった。それは、インディアンが和平のしるしとして吸う平和のキセルであった。ロイはこの贈り物に大笑いし、不愉快な気分も一瞬にして吹き飛んでしまった。ウォルトはそのあとですぐ、ロイ宛に手紙を書いた。また、兄さんといっしょに平和のキセルをふかすのは、いい気持ちだったよ。のぼっていく煙がとてもきれいだった。

思うに、僕と兄さんは、何年もかかって何かをやり遂げてきたんだ―昔、千ドルすら貸してもらえないことがあったのに、なんでもいまじゃ、二千四百ドルも借金しているそうじゃないか。

いや、まじめな話、誕生日おめでとう。ずっと長生きしてほしい。僕は兄さんが好きだよ。

ディズニー帝国の建設に対するロイの貢献を、ウォルトが過少評価することはけっしてなかった。それどころか彼は、ロイの財務処理の能力とこの家族企業への献身に対し、機会をみつけては賛辞を送った。ロイが背負った重要な機能を果たすための能力ややる気は、ウォルト自身にはまったくなかったのである。』 

『1965年11月15日、オーランドのチェリープラザホテルで記者会見が開かれた。席上、バーンズ知事は、いかにも政治家らしい仰々しい表現で、ウォルト・ディズニーを、「フロリダ州にエンターテイメントの新世界と楽しさ、さらにまた経済的発展をもたらそうとする、1960年代の代表的人物」であると紹介した。そしてロイ・ディズニーに対しては、「ウォルト・ディズニー・プロダクションの天才的な財務管理者」と褒めたたえた。

「この事業は、いままで私たちが取り組んだ中で最大のものであります」

記者を前にしたウォルトは、こう口火を切った。

記者のみなさんのためにちょっとご説明しますと、私と兄はこれまで四十二年間、一緒に仕事をしてまいりました。私は小さいころ、何か突拍子もないことを思いつくと、よくこの兄貴のところに話にいったもんです。すると兄が私の考えを聞いてまともな方向づけをしてくれるか、あるいは兄にどうしても賛成してもらえないときは、そのまま私が一人で自分のアイアイディアを何年も暖めたあと、結局彼をなんとか味方にひっぱり込むかのどちらかでした。ま、そういうふうにして私たちは摩擦を起こしながらもやってきたんですが、そのおかげで我々の組織に必要だったちょうどいいバランスもとれたのだろうと思います。……しかしながら、このフロリダのプロジェクトについては兄を説得する必要はあまりなく、彼は最初から賛成してくれました。もっとも、そのことがはたして良かったのか悪かったのかは、これからわかることになるのでしょうが―」。』

画像出展:「ウォルト・ディズニー」

1932年、ミッキーマウスを生みだしたことにたいしてアカデミー特別賞が贈られました。

向かって右側がロイ・ディズニーです。

 

感想

ウォルト・ディズニーが願ったのは人々の笑顔だったと思います。漫画でも、映画でも、ディズニーランドでも笑顔があふれています。子供だけでなく大人もいっしょです。特に家族を大切にしたいという想いがあったように思います。

それは伝記の中にも出ています。

僕は、そのお客さんたちに笑顔を浮かべながらパークの門を出ていってもらいたいんだ。それだけは頭に入れておいてくれたまえ。設計者の君にこの僕が望むことは、たったそれだけなんだから

ウォルトはディズニーランドを生き物だと言っています。それは漫画も映画も作品が完成してしまうと、まさにThe End。そこに手を加えることはできません。

僕は、生きているもの、つまり成長する何かが欲しいと思った。このパークがまさにそれなんだ。何か足していけるだけじゃなく、木でさえもだんだん大きくなる。年ごとにパークはより美しくなっていく。それに、大衆が何を求めているのかについての僕の理解が深まるにつれて、パークももっとすばらしいものになる。

この、「パークは生き物」という考えは、ディズニーランドが今も多くの人を魅了している理由の一つだと思います。そして、もう一つはディズニーランド内で働く人達の“喜び”ではないかと思います。そこには確固たるディズニー愛があるように思います。ウォルトもパークの運営に直面した際、次のような言葉を残しています。

「まず言っとくが、これは遊園地じゃない。それに、僕らだってほかの人間と同じようにディズニーランドをうまく運営できる。要するに、やる気があって、エネルギッシュで、愛想がよくて、向上心のある従業員さえいればいい。もちろん失敗もするだろうけど、その失敗から学んでいけばいいんだ」。

ウォルトはディズニー家をとても大事にしました。兄のロイなくして今のディズニーは考えられません。妻のリリーも客観的な視点でウォルトを支えました。1938年には健康を害した母、フローラと父、イライアスのために温暖な南カリフォルニアに家を建てました。これはロイとウォルトからのプレゼントでしたが、すぐ近くにはロイと妻エドナ、そして孫のエドワードが住む家がありました。

この家族を大切にする気持ちが、家族全員を幸せにする空間、パークの生みの親だったのかもしれません。ウォルトが設立したラフォグラム・フィルム社の1922年を最初の年とするならば、2023年、1世紀を超えた現在も、ディズニーはアニメの世界でシネマの世界で、そして世界各国に展開されているディズニーランドによって家族はもちろん、多くの人々を幸せな気持ちにさせています。ウォルト・ディズニーは自分の夢と向き合い、その実現のために生き抜いた人だったと思いました。

画像出展:「The Art of Walt Disney」

最初の会社、ラフォグラム社でアニメ作成中のウォルト、1922年。

「創造力というものに値札はつけられないよ」

ウォルト・ディズニーが夢を実現できたのは、ここにあるような気がします。