同じ時代を生きた人の中で、「凄いなぁ」と思うのは、ひとりはスティーブ・ジョブズです。そして、もうひとりはウォルト・ディズニーです。
ミッキーマウスを世に送り出し、ディズニーランドという夢のような世界を作り上げてしまった人ですが、何故、そのような世界を思いついたのか。それを本当に実現させ、今も世界中の人々から特別な場所として賞賛されているのは何故か、それらを知りたいと思い、『ウォルト・ディズニー』という伝記を拝読させて頂きました。
ウォルト・ディズニーは1966年12月15日、65歳で亡くなりましたが、65歳は今の私自身の年齢なので、「同じなんだ!」と少しびっくりしました。さらに、どうでもいい話ですが、“幹雄”という名前のおかげで、幼稚園時代は「ミッキー」とか「マウス君」とか、とても光栄なニックネームをつけてもらっていました。
番組の内容は全く記憶にないのですが、最初か最後に登場するとてもダンディーな外国人こそが、ウォルト・ディズニーでした。多分、私が5歳か6歳ぐらいだったと思いますが、実は、当時はよく分からず、「誰だろう??」と思っていました。これは、ミッキーマウスとウォルト・ディズニーの印象がかけ離れていたからだろうと思います。とにかく、優しく、落ち着いた本物の紳士という感じで、少年時代の心に強く残っています。
調べてみると、“60年代 懐かしの宝箱”さんのサイトにこのテレビ番組の詳しい紹介がされていました。
画像出展:「60年代 ディズニーの思い出」
これを拝見すると、ウォルト・ディズニーが登場するのは、冒頭だったことが分かりました。また、調べたところ杖をもって宙を舞っていたのは、ピーターパンに出てくるティンカー・ベルだったことも分かりました。
画像をクリック頂くと、最初にこの画像の動画が出てきます。
著者:ボブ・トマス
訳:玉置悦子/能登路雅子
発行:初版1983年1月
出版:講談社
画像出展:「The Art of Walt Disney」
フランス軍の仕事をしてたころ、昔の級友たちに送った手紙。
目次はウォルト・ディズニーの足跡がわかり、また代表的な作品も紹介されているため、すべて書き出しました。なお、作品についてはネット上にあったものはリンクさせていますので、全てではありませんが、動画を確認することができます。
また、著者はボブ・トマスという伝記作家です。この著者が記した「あとがき」をご紹介しているのは、このトマスによるウォルト・ディズニーの伝記の確かさを、ご判断頂けるのではないかと思ったためです。
『僕は、ただの金儲けをするなんて退屈な話だと、ずっと思ってきた。僕は常に何かしていたい。何か作っていたい。そして、どんどん先に進みたいんだ。……』
これは“ハリウッド生活三十年”という本文中の一文ですが、ウォルト・ディズニーという人を知るうえで、最も端的な文章ではないかと思います。
ブログは自分自身の疑問の答えを見つけるつもりで目を通しました。そして重要と思うモノを抜き出しタイトルを付けましたが、抜き出したエピソードは必ずしも時系列になっておりません。
1.魅力的な作品を生みだすために
2.作品の制作に大切なこと
3.ミッキーマウスとウォルト・ディズニー
4.ディズニーランド誕生
5.ディズニーランドとは
6.未来都市(EPCOT)
7.全世界が泣いた日
8.生涯のパートナー、ロイ・ディズニー
目次
プロローグ
第一部 中西部時代(1901-1923年)
1 ディズニー家の祖先/イライアスとフローラの結婚/ウォルトの誕生/シカゴからマーセリーンへ
2 マーセリーン―静かな農場の四季/兄たちの家出/不運の開拓者、父イライアス/カンザスシチーへ
3 新聞配達/ベントン小学校の変わり種/少年ウォルトの世界/漫画家になりたい/サンタフェ鉄道の売り子
4 シカゴ、マッキンリー高校/校内誌の漫画描き/さまざまなアルバイト/赤十字志願兵/フランス
5 十七歳の夢と現実/運命の出会い―アブ・アイワークス/原始的な動く漫画/ニューヨークに学べ/ラフォグラム社の設立と倒産/カリフォルニア行きの片道切符
画像出展:「ListeList」
アブ・アイワークスはウォルト・ディズニーとともにディズニーの礎を築いてきたアニメーターです。
第二部 漫画づくり(1923-1934年)
6 ハリウッド!/《アリスコメディー》シリーズ/リリーバウンズと結婚/配給者チャールズ・ミンツとのかけひき
7 熱気あふれるハイピリオン新スタジオ/《ウサギのオズワルド》/漫画の生命はキャラクターと筋書きだ/版権もアニメーターも奪われて―傷心のニューヨーク
8 ミッキーマウス誕生/トーキー出現―初の音入り漫画映画『蒸気船ウィリー』/アブ・アイワークスとの摩擦/《シリーシンフォニー》シリーズ/ついに神経衰弱
9 ミッキーの商品旋風/ウォルトの分身ミッキー/アーティスト、ニューヨークより流入/チャップリンもディズニーファンだった/初のカラー漫画映画『花と木』/アーティストの養成
第三部 アニメーションの新世界(1934-1945年)
10 ディズニー美術教室の拡大/優秀なアニメーターの条件とは/観客との接点をつかめ/漫画映画の制約過程/アニメーターたちとの奇妙な関係
11 初の長編漫画映画『白雪姫』/ヨーロッパ旅行/マルティプレーン・カメラ/音楽の新しい使い方を/“ディズニーの道楽”/プレミア・ショーの喝采
12 長編を制作の中心に/母の死/『ピノキオ』/ストコフスキーとの出会い―『ファンタジア』/スタジオに飼われた二匹の子鹿―『バンビ』の制作/バーバンクの新スタジオ
13 第二次世界大戦勃発/『ダンボ』が証明したもの/千人の従業員と450万ドルの借金/ディズニー株の一般公開/高まる労働組合運動/スタジオ、ストに突入/南米の旅/父の死
14 軍に接収されたスタジオ/戦争用宣伝映画づくり/愛国の士ドナルドダック/ナチ首脳を怒らせた『総統の顔』/『空軍力の勝利』
15 スタッフ泣かせの専制君主/アブ・アイワークスの復帰/ひっそりとした私生活/妻リリーの役目/二人の娘
第四部 広がる地平(1945-1961年)
16 戦後のスタジオ危機/『メイク・マイン・ミュージック』/ジッパディードゥーダ―『南部の唄』/初の自然記録映画『あざらしの島』/『シンデレラ』/劇映画第一作『宝島』
17 鉄道狂ウォルト/模型機関車が自宅の庭を走る/ミッキーマウス・パーク構想
18 難産の『不思議の国のアリス』/『ピーターパン』/はじめてのテレビ番組/“踊る人形”/占い師の不吉な予言/五十代の横顔―ウォルトのおしゃれ、好物、思想
19 アニメーションの原則をどこまでも貫く/僕は花粉を集める働きバチだ/『わんわん物語』/『海底二万哩』/『砂漠は生きている』/配給会社ブエナ・ビスタの設立
20 ウォルトの動物園めぐり/ディズニーランド建設計画/パークは生き物だ/テレビ番組制作でパークの資金を/渋面の理事たち/ディズニーランドの概念
21 ディズニーランドをどこに作るか/僕は大衆を信じる/シリーズ番組《ディズニーランド》/空前の大ヒット『デイビー・クロケット』/花嫁の父
22 急ピッチのディズニーランド建設工事/間に合うか、資金と期日/妥協を許さないウォルト/「マーク・トウェイン号」上の結婚記念パーティー/“黒い日曜日”―大混乱の開園日
第四部 広がる地平(1945-1961年)
16 戦後のスタジオ危機/『メイク・マイン・ミュージック』/ジッパディードゥーダ―『南部の唄』/初の自然記録映画『あざらしの島』/『シンデレラ』/劇映画第一作『宝島』
17 鉄道狂ウォルト/模型機関車が自宅の庭を走る/ミッキーマウス・パーク構想
18 難産の『不思議の国のアリス』/『ピーターパン』/はじめてのテレビ番組/“踊る人形”/占い師の不吉な予言/五十代の横顔―ウォルトのおしゃれ、好物、思想
19 アニメーションの原則をどこまでも貫く/僕は花粉を集める働きバチだ/『わんわん物語』/『海底二万哩』/『砂漠は生きている』/配給会社ブエナ・ビスタの設立
20 ウォルトの動物園めぐり/ディズニーランド建設計画/パークは生き物だ/テレビ番組制作でパークの資金を/渋面の理事たち/ディズニーランドの概念
21 ディズニーランドをどこに作るか/僕は大衆を信じる/シリーズ番組《ディズニーランド》/空前の大ヒット『デイビー・クロケット』/花嫁の父
22 急ピッチのディズニーランド建設工事/間に合うか、資金と期日/妥協を許さないウォルト/「マーク・トウェイン号」上の結婚記念パーティー/“黒い日曜日”―大混乱の開園日
画像出展:「WALT DISNEY FAMILY MUSEUM」
ディズニーランドオープンの前日に開かれた、マーク・トウェイン号上で行われたパーティーは、ウォルトと妻のリリアン結婚30周年のパーティーでした。妻の支えなしではディズニーランドを完成させることはできませんでした。
Mapをクリックして頂くと“WALT DISNEY FAMILY MUSEUM”に移動します。
以前は現役の陸軍基地であり、1846 年から 1994 年まで太平洋岸の最強の海岸防衛地であったプレシディオは、現在は国立公園として機能し、ウォルト ディズニー ファミリー ミュージアムの本拠地となっています。
※104 Montgomery Street in the Presidio San Francisco, CA
画像出展:「WIRED」
さまざまな問題のなかでも極めつけは、当日のアナハイムの気温が37℃を超える酷暑に見舞われたことでした。スタッフたちはこの日を「ブラックサンデー」(黒い日曜日)と名付けました。
23 テレビ番組《ミッキーマウス・クラブ》/ハリウッド生活三十年/僕らの作品には心がある/実現しなかったフルシチョフの来園/ディズニー帝国を築いた陰の力―兄ロイ・ディズニー
画像出展:「THE RIVER」
1955年には、アメリカのテレビ史上もっとも成功した子供番組のひとつ『ミッキーマウス・クラブ』がスタート。平日の夕方、学校から帰った子供たちがテレビの前に集まって、番組のテーマソング「ミッキーマウス・マーチ」を一緒に歌うのがお約束だったといいます。日本でも1959年から放送が開始されました。
24 新番組《ウォルト・ディズニーのすばらしい色彩の世界》/パークのお客さんは、みんなゲストだ/時代を超えるディズニー映画/『黄色い老犬』/『ボクはむく犬』/『眠れる森の美女』/『ポリアンナ』/借入金ついにゼロ
第五部 そして、夢―(1961‐1966年)
25 六十歳の誕生日/気むずかしくなったウォルト/娘婿ロン・ミラーの入社/オーディオアニマトロニクスの開発/ニューヨーク世界博覧会
26 『メリー・ポピンズ』とトラバース夫人/ジュリー・アンドリュースとの出演交渉/ウォルトのクリスマスプレゼント/ディズニーランド開園十周年
27 カリフォルニア芸術大学の構想/もう一つのディズニーランドをフロリダの原野に/実験未来都市の夢
28 衰える健康/『ジャングル・ブック』/スキー場開発計画/全世界が泣いた日/弟の夢を受け継いだロイ/ウォルト・ディズニー・ワールド
あとがき(ボブ・トマス)
『この伝記の大部分は、ウォルト・ディズニーの親族や同僚を直接インタビューして集めた資料にもとづいている。取材に応じてくださった多くの方がたに心からお礼を申し上げたい。
また、デービッド・スミス氏が館長を務めておられるウォルト・ディズニー・プロダクションの資料館からも貴重な資料をいろいろ提供していただいた。ウォルト・ディズニーと兄のロイは二人とも、自分たちの足跡を一つの歴史として見る感覚が発達していたのであろう。公私にわたる綿密な記録が保存されており、これは伝記作家にとっては非常にありがたかった。筆者は可能なかぎりウォルト自身の言葉を引用するよう心がけたつもりである。したがって、ウォルトがニューヨークからロイに宛てて書いた手紙、ストーリー会議の発言記録、毎年ウォルトが妹に書き送っていた手紙などは、たいへん価値の高い資料となった。さらに、娘のダイアン・ディズニー・ミラーがピート・マーティン氏と共著の形で父のことを書いた本をまとめるにあたり、1956年、自分の過去を何回かのインタビューの中で語ったが、そのときの長い録音テープが残っていた。また、ロイ・ディズニーが亡くなる直前に行った三回にわたるインタビューの録音もあり、これらを聞くことができた。
筆者はニュース記者として、二十五年間に何十回もウォルト・ディズニーを直接インタビューした経験があり、また、彼の生涯とスタジオのことをそれぞれ書いた二冊の著書を執筆したときには、それについてウォルトに相談したこともある。筆者はこうした資料を駆使しつつ、ほかの新聞雑誌に掲載されたおびただしい数のウォルトのインタビュー記事も参考にした。さらに、ディズニー家の家族を写した八ミリ映画や《アリスコメディー》、《オズワルド》にまでさかのぼるディズニー映画も見せて頂いた。』
1.魅力的な作品を生みだすために
『ユナイテッド・アーティスツ社との話し合いがまとまるや、ウォルトは、アニメーションに新しい要素を付け加えようと決心した。カラーである―。
ウォルトは長年、自分で漫画をカラーで製作したいと思い続けていた。硝酸塩などを炉用して画面に色彩を与える実験を技術員にやらせたのも、その努力の一環であった。だが、結局、夜間のシーンは青フィルム、水中シーンは緑のフィルム、火などの撮影には赤フィルムを使うという、ごく原始的な方法以外、なんら実用的な成果が得られないままであった。ところが1930年代のはじめ、テクニカラー社が三本の原色ネガを合わせて一本のプリントに仕上げる技術を開発した。1932年までには、一般劇場映画の撮影にはまだ不十分ながら、漫画映画には応用できるところまできたのである。テクニカラー社からテスト用のフィルムを見せられたウォルトは、これでいけると自信をもった。しかし、ロイは反対した。
「おまえ、気でも違ったのかい。ユナイテッド・アーティスツ社と話がうまくまとまったばかりだっていうのに、カラーなんかに金をつぎ込むなんて。これ以上、余分な金なんか前貸ししてくれないぞ」
ロイのもう一つの心配は、絵の具がセルロイド板の上にうまく乗ってくれるか、剥げてくれるか、剥げて落ちてくるのではないか、ということだった。だが、ウォルトは、
「その時はその時で、ちゃんと、とれない絵の具を作るまでだよ」といとも簡単に言い返した。
ウォルトは、カラーが《シリー・シンフォニー》に確固とした地位を与えるための手段に使えると考えた。このシリーズははじめから、《ミッキーマウス》漫画の爆発的な人気のかげに隠れて、肩身の狭い継子扱いを受けていたからである。しかしユナイテッド・アーティスツ社は、《シリー・シンフォニー》を扱うことには消極的だった。彼らは、ミッキーの人気を拝借して、「ミッキーマウスがお贈りする、ウォルト・ディズニーのシリーシンフォニー」という興行広告を出すことにウォルトが同意してはじめて、配給を引き受けた。ウォルトはさらに、ロイの反対をうまく利用してテクニカラー社に譲渡を迫り、ディズニーがこの三色転染法を向こう二年間、独占使用することを約束させた。ロイは、しぶしぶ契約書にサインしたのだった。
《シリー・シンフォニー》シリーズの一つ「花と木」は、それまでに半分ほど完成していた。この作品は、メンデルスゾーンやシューベルトの曲に合わせて、アニメーションの草や木がつづる田園詩である。ウォルトは、モノクロでできあがっていた背景画をすべて没にし、アクションもすべてカラーにするようスタッフに命じた。そして、絵の具を塗ったセルの撮影をするための特別な撮影台も新たに設置した。
一方、ロイが懸念していたことが現実となった。乾いた絵の具がセルロイド板から剝がれたり、熱いライトの下で色が褪せたりするのである。ウォルトはスタジオの技術員と一緒になって日夜研究を重ね、この問題にあたった。そして、色も褪せず、付着力のある絵の具をとうとう作りだしたのである。
最初のシーンがいくつか完成したところで、ウォルトはそれを業界のある友人に見せた。非常に感心したこの友人は、グローマンズ・チャイニーズ劇場の経営者、シド・グローマンにもぜひ見るようにすすめた。映写時間はまだ一分そこらの長さであったにもかかわらず、フィルムを見たグローマンは早速、この「花と木」を次の上映予定に入れたいと申し出た。ノーマ・シーラーとクラーク・ゲーブル主演、「奇妙な幕合狂言」との同時上映であった。
ウォルトは、予定より早く仕上げるためアニメーターに時間外勤務を命じ、テクニカラー社にも現像を急がせた。こうして1932年7月、ロサンゼルスのチャイニーズ劇場における「花と木」の公開にこぎつけたのである。観客の熱狂的な反応は、まさにウォルトの望み通りのものであった。《シリー・シンフォニー》はこれで、ディズニー作品中軽視される部類から脱することができ、人気沸騰の《ミッキーマウス》に匹敵する数の予約が殺到した。ウォルトは、今後の《シリー・シンフォニー》シリーズはすべてカラーで製作する、と発表した。』
『アニメーション映画の製作所としてすでに四半世紀の経験を積んできたウォルト・ディズニーは、1950年代のはじめごろにはさまざまな種類を手がけて、その多才ぶりを発揮した。彼はアニメーションで使った同じ原則をそのまま貫き、ストーリーを十分練ること、おもしろい登場人物を創りあげること、そして何よりも“読ませる”ものを作ること、つまり、あいまいな箇所を残さないとことなどの点を強調した。また制作の手法においてさえアニメーションの手順を踏襲し、俳優を使う劇映画の場合もストーリーボードからはじめて、各シーンやカメラの角度までいちいちスケッチの形で表しておいてから撮影に入った。こうしておけば、テンポの速いアクションシーンと状況設定のゆるやかな説明部分とを交互に配置させながら観客の興味をそらさずにストーリーを展開させていく、という制作のペースがウォルト自身、容易に把握できたのである。
ウォルトの仕事のやり方は、短編映画しか制作していなかったころからほとんど変わっていなかった。映画制作における自分の役割を説明するのに、彼はこんな話をしたことがある。
「僕の役目? そう、いつか小さな男の子にきかれて困ったことがあったよ。「おじさん、ミッキーマウスを描くの?」 っていうから、もう僕は直接描かないよ、って答えたんだ。「じゃ、おもしろいお話を考えたりするの、あれ、おじさんがやるの?」「いいや、違うよ―」そしたらその子は僕を見て言うんだ。「ディズニーのおじさん、おじさんはいったい、何をするの?」「そうだなあ、僕はちっちゃな働きバチみたいだ、ときどき思うんだけどね。スタジオのあっちに行ったりこっちに行ったりしながら、花粉を集めてくる。まあ、みんなに刺激を与えるっていうのかなあ。そういうのがおじさんの役割みたいだな」」
ウォルトの仕事ぶりには無駄というものがいっさいなかった。会議を始める前にとりとめのない会話をしてから本題に入るということはめったになく、大股で部屋に入ってくるやいなや、すぐにディスカッションを始めた。会議が終わると、入ってきたときと同様にさっさと部屋を出ていき、「じゃ、失敬するよ」という言葉すら残さなかった。』
『「創造力というものに値札はつけられないよ」こう主張するウォルトを、銀行家の中には道楽者と見る者もいたが、これは昔からのウォルトの理論であった。きっちりした予算の枠内でアニメーションを制作するのを彼が拒んだのは、できるかぎり良いものを作りかったからで、より良いものにしようとすれば金もよけいにかかるのは当然だった。配給会社からの収入だけでは製作費をまかないきれないとロイが指摘しても、ウォルトは、「いいアニメーションさえできたら、収益だってあがるし、つぎのときに金の苦労をしないですむじゃないか」と答えるだけであった。
「白雪姫」、「ファンタジア」、「バンビ」などに取り組んでいたときも、彼は長編アニメーション映画という新しい素材や技術を開発しながら制作を進めていたため、予算というものを設定することができなかった。ディズニーランドの場合もそうであった。計画立案のスタッフや技術陣にかかる経費の枠もいっさい決めなかった。彼らは未知の領域に手さぐりで踏み込んでいるのであって、ウォルトには、できあがったときにはじめていくらかかったのかがわかるだけであった。』