スティーブ・ジョブズⅠ・Ⅱ

凄いカリスマなんだろうと思っていました。そして、凄いカリスマとはどういう事なんだろう、どういう人なんだろうと気になっていました。」
スティーブ・ジョブズが他界した2011年は日本では東日本大震災があった年です。そして国家試験に向けてスタートさせた年でした。スティーブ・ジョブズの伝記が出版されたのは知っており、是非とも読みたいと思っていましたが、その余裕はなく、今回やっとその機会を作ったというところです。
Ⅰが445ページ、Ⅱが430ページ、全41章の力作で、内容は想像を超えていました。今後50年間、ビジネス界においてスティーブ・ジョブズを超えるカリスマ、変革者は現われないだろうと感じました。そして、自分のブログにスティーブ・ジョブズを記録しておきたいと思いました。
ジョブズ曰く「洗練を突きつめると簡潔になる」ということなのですが、ずいぶんと長い長いブログになってしまいました。そのため、目次を付けさせて頂くことにしました。ネットで調べた事などがわずかに含まれていますが、すべて「スティーブ・ジョブズⅠⅡ」(講談社)の本の内容に基づいています。特に『』内の文章は、完全な引用です。

「スティーブ・ジョブズⅠ」
「スティーブ・ジョブズⅠ」
「スティーブ・ジョブズⅡ」
「スティーブ・ジョブズⅡ」

「スティーブ・ジョブズⅠ」の目次
「スティーブ・ジョブズⅠ」の目次
「スティーブ・ジョブズⅡ」の目次
「スティーブ・ジョブズⅡ」の目次

目次

1.ジョブズの功績
2.「最後にもうひとつ……」
3.スティーブン・ポール・ジョブズ
4.アップルコンピュータ
5.新ロゴ
6.現実歪曲フィールド (Reality distortion field / RDF)
7.“1984年”マッキントッシュ
8.1985年9月17日 会長職辞任のレター
9.アートとテクノロジーの交差点 
10.アップルの苦闘とジョブズ復活
11.社内改革
12.ジョブズの集中原理
13.シンク・ディファレント
14.iCEO
15.iCEOからCEO
16.iPhone開発の舞台裏
17.2011年8月24日の取締役会
付記1.「時代は変わる(THE TIMES THEY ARE A-CHANGIN)」ボブ・ディラン 1963年
付記2.著者略歴:ウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)

1.ジョブズの功績
これは最終章である第41章「受け継がれてゆくもの 輝く創造の天空」のはじめに出てきます。ジョブズの功績をその強烈な性格に重ねて解説がされています。
集中力もシンプルさに対する愛も、「禅によるものだ」とジョブズは言っています。そして、それに対して著者は次のようなことを続けていますが、私はジョブズの真骨頂とは、これではないかと思います。

『残念ながら、禅の修行によっても、禅的な穏やかさは心の平穏をジョブズは得られなかったが、これもまた、ジョブズらしさの一面と言える。ジョブズはせっかちでいらついていることが多く、それを隠そうともしない。ふつうの人間は心と口のあいだに調整器があり、凶暴な感情やとげとげしい衝動を適度に和らげて外に出す。ジョブズは違う。いつも、残酷なほど正直なのだ。「オブラートにくるんだりせず、ガラクタはガラクタというのが僕の仕事だ」』

この章で紹介されている業績は以下の11になります。原文のままです。
●アップルⅡ―ウォズニアックの回路基板をベースに、マニア以外にも買えるはじめてのパーソナルコンピュータとした。
●マッキントッシュ―ホームコンピュータ革命を生み出し、グラフィカルユーザインターフェースを普及させた。
●「トイ・ストーリー」をはじめとするピクサーの人気映画―デジタル創作物という魔法を世界に広めた。
●アップルストア―ブランディングにおける店舗の役割を一新した。
●iPod―音楽の消費方法を変えた。
●iTunesストア―音楽業界を生まれ変わらせた。
●iPhone―携帯電話を音楽や写真、動画、電子メール、ウェブが楽しめる機器に変えた。
●アップストア―新しいコンテンツ製作産業を生み出した。
●iPad―タブレットコンピューティングを普及させ、デジタル版の新聞、雑誌、書籍、ビデオのプラットフォームを提供した。
●iCloud―コンピュータをコンテンツ管理の中心的存在から外し、あらゆる機器をシームレスに同期可能とした。
●アップル―クリエイティブな形で想像力がはぐくまれ、応用され、実現される場所であり、世界一の価値を持つ会社となった。ジョブズ自身も最高・最大の作品と考えている。

「Apple I」から「iPad Air」まで--アップルの歴史を写真で振り返る。
アップルの歴史を写真で振り返る

2.「最後にもうひとつ……」
これは、同じく最終章にあり、伝記の最後を飾っています。この中から特に印象に残ったものをご紹介します。

自分は何をしてきたのか、自分は何を後世に残すのか。
最後にもうひとつ……

『いろいろな話をするなかで、自分はなにをしてきたのか、自分はなにを後世に残すのかについても、ジョブズは繰り返し語ってくれた。それを彼自身の言葉で紹介しよう。』

1982年、クパチーノの自宅にて
1982年、クパチーノの自宅にて
2004年、パロアルトの自宅にて
2004年、パロアルトの自宅にて

Ⅱ-p424:『僕は、いつまでも続く会社を作ることに情熱を燃やしてきた。すごい製品を作りたいと社員が猛烈にがんばる会社を。それ以外はすべて副次的だ。もちろん、利益を上げるのもすごいことだよ?利益があればこそ、すごい製品は作っていられるのだから。でも、原動力は製品であって利益じゃない。スカリーはこれをひっくり返して、金儲けを目的にしてしまった。ほとんど違わないというくらいの小さな違いだけど、これがすべてを変えてしまうんだ―誰を雇うのか、誰を昇進させるのか、会議でなにを話し合うのか、などをね。
「顧客が望むモノを提供しろ」という人もいる。僕の考え方は違う。顧客が今後、なにを望むようになるのか、それを顧客本人よりも早くつかむのが僕らの仕事なんだ。ヘンリー・フォードも似たようなことを言ったらしい。「なにが欲しいかと顧客にたずねていたら、“足が速い馬”と言われたはずだ」って。欲しいモノを見せてあげなければ、みんな、それが欲しいなんてわからないんだ。だから僕は市場調査に頼らない。歴史のページにまだ書かれていないことを読み取るのが僕らの仕事なんだ。』

 

Ⅱ-p425:『文系と理系の交差点、人文科学と自然科学の交差点という話をポラロイド社のエドウィン・ランドがしているんだけど、この「交差点」が僕は好きだ。魔法のようなところがあるんだよね。イノーベーションを生み出す人ならたくさんいるし、それが僕の仕事人生を象徴するものでもない。アップルが世間の人たちと心を通わせられるのは、僕らのイノベーションはその底に人文科学が脈打っているからだ。すごいアーティストとすごいエンジニアはよく似ていると僕は思う。どちらも自分を表現したいという強い想いがある。たとえば初代マックを作った連中にも、詩人やミュージシャンとしても活動している人がいた。1970年代、そんな彼らが自分たちの創造性を表現する手段として選んだのが、コンピュータだったんだ。レオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロなどはすごいアーティストであると同時に科学にも優れていた。ミケランジェロは彫刻のやり方だけでなく、石を切り出す方法にもとても詳しかったからね。』

 

Ⅱ-p427:『スタートアップを興してどこに売るか株式を公開し、お金を儲けて次に行く―そんなことをしたいと考えている連中が自らを「アントレプレナー」と呼んでるのは、聞くだけで吐き気がする。連中は、本物の会社を作るために必要なことをしようとしないんだ。それがビジネスの世界で一番大変な仕事なのに。先人が遺してくれたものに本物をなにか追加するにはそうするしか方法はないんだ。1世代あるいは2世代あとであっても、意義のある会社を作るんだ。それこそウォルト・ディズニーがしたことだし、ヒューレットとパッカードがしたこと、インテルの人々がしたことだ。彼らは後世まで続く会社を作った。お金儲けじゃなくてね。
アップルもそうなってほしいと僕は思っている。』

 

Ⅱ-p428:『僕は自分を暴虐だとは思わない。お粗末なものはお粗末だと面と向かって言うだけだ。本当のことを包みかくさないのが僕の仕事だからね。自分でなにを言っているのかいつもわかっているし、結局、僕の言い分が正しかったってなることが多い。そういう文化を創りたいと思ったんだ。
僕らはお互い、残酷なほど正直で、お前は頭のてっぺんから足のつま先までくそったれだと誰でも僕に言えるし、僕も同じことを相手に言える。ギンギンの議論をしたよ。怒鳴り合ってね。あんないい瞬間は僕の人生にもそうそうないほどだ。僕は、「ロン、この店はまるでクソだね」ってみんなの前で言える。全然平気なんだ。「こいつのエンジニアリングは大失敗だったな」って、責任者を前にしても言うこともできる。超正直になれる―これが僕らの部屋に入る入場料なのさ。
もっといいやり方があるかもしれない―みんなネクタイをして上流階級の言葉を使い、遠回しに非難するような感じで話し合う紳士のクラブ、みたいにね。でもそんなやり方、僕の知っているなかにはない。カリファルニア中産階級の出だからね。』

 

Ⅱ-p428:『前に進もうとし続けなければイノベーションは生まれない。ディランはプロステストソングを歌い続けてもよかったし、おそらくはそれで十分に儲かったはずだ。でも、彼はそうしなかった。前に進むしかなくて、1965年にエレキを採用したんだけど、それで多くのファンが離れていった。
1966年のヨーロッパツアーが最高だ。アコースティックギターで何曲か演ってすごい拍手を受けるんだ。で、のちにザ・バンドとなる連中をステージに上げるとエレキで演奏をはじめて、会場からブーイングが出たりする。「ライク・ア・ローリング・ストーン」を歌おうとした瞬間には、会場から「裏切り者!」って声が上がってね。それにディランは「めいっぱいでかい音で演るぞ!」ってがんがんにいくんだ。ビートルズも同じだった。進化し、前に進み続けるんだ。そうでなければ、ディランが言うように、「生きるのに忙しくなければ死ぬのに忙しくなってしまう」からね。』

 

Ⅱ-p429:『なにが僕を駆り立てたのか。クリエイティブな人というのは、先人が遺してくれたものが使えることに感謝を表したいと思っているはずだ。僕が使っている言葉も数学も、僕は発明していない。自分の食べ物はごくわずかしか作っていないし、自分の服なんて作ったことさえない。
僕がいろいろできるのは、同じ人類のメンバーがいろいろしてくれているからであり、すべて、先人の肩に乗せてもらっているからなんだ。そして、僕らの大半は、人類全体になにかをお返ししたい、人類全体の流れになにかを加えたいと思っているんだ。それは、つまり、自分にやれる方法でなにかを表現するってことなんだ―だって、ボブ・ディランの歌やトム・ストッパードの戯曲なんて僕らには書けないからね。僕らは自分が持つ才能を使って心の奥底にある感情を表現しようとするんだ。僕らの先人が遺してくれたあらゆる成果に対する感謝を表現しようとするんだ。そして、その流れになにかを追加しようとするんだ。
そう思って、僕は歩いてきた。』

3.スティーブン・ポール・ジョブズ
スティーブ・ジョブスは養子として大切に育てられました。以下はそれに関するものです。
●実母ジョアンは親切な医師を頼ってサンフランシスコに行き、その医師により出産後の養子縁組をアレンジしてもらった。ジョブスは当初は弁護士の一家に引き取られることになっていたが、先方が女の子を希望していたため成立せず、代わりに、機械に情熱を傾ける高校中退の父・ポールと会計事務の仕事に就くまじめな母・クララの息子、スティーブン・ポール・ジョブズとなることになった。
●ジョブズは養子だった当時について次のように語っています。『養子だと知っていたから独立心が強くなったという面はあるかもしれない。でも、捨てられたと思ったことはないんだ。いつも、自分は特別な存在だと感じていた。両親が大事にしてくれたからだ』
●マウンテンビューの自宅で、父親から機械や車について手ほどきを受ける。「スティーブ、ここがおまえの作業台だよ」と言いながら、父親は、ガレージにあったテーブルの一部に印をつけてくれた。
50年後のいまも、マウンテンビューの実家には父親が作った柵が家を取り囲んでいる。ジョブスは、その柵を著者(ウォルター・アイザックソン)に見せながら、「戸棚や柵を作るときは、見えない裏側までしっかり作らなければならないと教えられた。きちんとする人が大好きな人だった。見えない部品にさえ、ちゃんと気を配っていたんだ」と話しています。

マウンテンビュー
マウンテンビュー

マウンテンビューです。

画像出展:「Aerialarchives.com

4.アップルコンピュータ
『ジョブスをウォズニアック(スティーブ・ウォズニアック:もう一人の創業者、ジョブズより5歳年上、彼の弟がジョブスと同じ水泳チームにいた。そして、エレクトロニクスについてはジョブズなど足元にもおよばないほど詳しかった。当時、HP社のエンジニアでもあった)が空港で出迎え、ロスアルトスまでの車中でいろいろな名前を検討したマトリクスなど、技術系らしい名前も検討した。エグゼクテックなどの造語も飛び出した。パーソナルコンピュータズなど、わかりやすいがつまらない名前も検討した。翌日には書類を用意したいとジョブスが考えていたため、時間はあまりなかった。そして、ジョブスが「アップルコンピュータ」を提案する。「僕は果食主義を実践していたし、リンゴ農園から帰ってきたところだったし。元気がよくて楽しそうな名前だし、怖い感じがしないのもよかった。アップルなら、コンピュータの語感が少し柔らかくなる。電話帳でアタリより前にくるのもよかった」翌日の昼までにもっといい名前を思いつかなければアップルにしようとジョブズが宣言し、結局アップルに落ちつく。』

そして、「素晴らしいデザインとシンプルな機能を高価ではない製品で実現する」これが、アップルがスタートした時のビジョンであり、目標は競争に打ち勝つことでもなければお金を儲けることでもない、可能な限りすごい製品を作ること、限界を超えてすごい製品を作ることでした。

5.新ロゴ
『新しいロゴの制作を任せられたのは、アートディレクターのロブ・ヤノフだ。「かわいいのはやめてくれよ」とジョブズに指示されたヤノフは、リンゴをモチーフとしたロゴ、2種類を提出。ひとつは完全なリンゴ、もうひとつは一口かじった形だった。かじられていないほうはサクランボに見えたりするからと、ジョブズはかじられたほうのリンゴを選んだ。色はアースカラーのグリーンと空のブルーをベースにサイケデリックな色を挟み、ストライプ状にした6色カラーだ(印刷コストがすごくかさむロゴである)。パンフレットの表紙上部に、レオナルド・ダ・ビンチのものとされる格言を置いた。その後、ジョブズのデザイン哲学を支えることなる一文だ-「洗練を突き詰めると簡潔になる」。』

6.現実歪曲フィールド (Reality distortion field / RDF)
第11章は、この「現実歪曲フィールド」が取り上げられています。その書き出しは次のようなものです。

『アンディ・ハーツフェルドはマックチームに参加したとき、「やらなければならない仕事が大量にある」と、もうひとりのソフトウェアデザイナー、バド・トリブルから教えられた。
ジョブズが設定した期限は1982年1月。1年もなかった。「それは無理だ。不可能だ」とハーツフェルドは抗議したが、ジョブズは反対意見に耳を貸さないのだとトリブルは言う。「この状況は“スタート・レック”の言葉が一番よく表現できると思う。スティーブには、現実歪曲フィールド(Reality distortion field / RDF)があるんだ」 「は?」「彼の周囲では現実が柔軟性を持つんだ。誰が相手でも、どんなことでも、彼は納得させてしまう。本人がいなくなるとその効果も消えるけど、でも、そんなわけで現実的なスケジュールなんて夢なのさ」
名付け親のトリブルによると、この言葉は、“スター・トレック”の「タロス星の幻怪人」という回から思いついたという。宇宙人が精神力だけで新しい世界を生み出すお話だ。』

この、「現実歪曲フィールド」はこの本の中で度々出てきます。スティーブ・ジョブズの「特別なもの」をうまく表現できるのだと思います。以下、「現実歪曲フィールド」を列挙します。
●「現実歪曲フィールド」は警告でもあり賛辞でもある。
●「現実歪曲フィールド」は、カリスマ的な物言い、不屈の意志、目的のためならどのような事実でもねじ曲げる熱意が複雑に絡みあったものである。
●「現実歪曲フィールド」から逃れる術はない。自然界にはそういう力も存在するのだと受け入れてしまう。ジョブスは自分自身さえだましてしまうようにみえる。そうして自ら信じ、血肉としているからこそ、他の人たちを自分のビジョンに引きずりこめる。
●「現実歪曲フィールド」の根底にあったのは、世間的なルールに自分は従う必要がないという確固たる信念。そして源は頑固で反抗的な彼の個性だろう。

7.“1984年”マッキントッシュ   
1983年春、ジョブズは製品と同じくらい革命的で驚くようなコマーシャル(CM)を欲しいと考えていました。“1984年”は小説家、ジョージ・ウォーエルの作品であり、パーソナルコンピュータは個人に力を与えるツールではないという見方にをつながるものでした。そして、提案されたCMは、その“1984年”を否定し、体制に立ち向かう戦士のようにマッキントッシュを位置づけました。 
このCMを担当したのはシャイアット・デイ社、アップル担当はその後30年にわたってジョブズと付き合うことになった、リー・クロウ。強行に主張するジョブズは撮影だけで75万ドルという前代未聞の予算を用意しました。しかしながら、完成したCMを見た取締役会はその破壊的インパクトを恐れ、承認せずCEOのジョン・スカリーは広告代理店のシャイアット・デイ社に30秒と60秒のCM枠の売却を指示しました。これにより1本、30秒枠は売却されましたが、60秒枠はシャイアット・デイ社の消極的反抗により残されており、そして、そのCMはついに放送されました。

『第18回スーパーボールはロサンゼルス・レイダースがワシントン・レッドスキンズを圧倒し、第3クウォータの前半にもタッチダウンを奪う。その直後、リプレイ映像が流れるはずの場面で米国中のテレビがブラックアウト。2秒後、おどろおどろしい音楽が流れ、行進する男たちのモノクロ映像が不気味にスクリーンを満たす。全米で9600万人以上が、それまで見たこともないタイプのCMに見入った。その最後は、蒸発するように消えていくビッグ・ブラザーを信じられないという顔で見ている男たちの映像に、静かなアナウンスが重なる-「1月24日、アップルコンピュータがマッキントッシュを発売します。今年、1984年が“1984年”のようにならない理由がおわかりでしょう」。
これはもう事件だった。その晩、全国ネットの3大テレビ局すべてと50の地方局がこの広告をニュースで取り上げた。ユーチューブ登場前の時代、これほどの拡散は信じられないレベルだった。評価も高く、TVガイド誌もアドバタイジングエイジ誌も、過去最高のCMだと絶賛したほどだ。』

1981年のMAC開発チームのスローガン
“海軍に入るより、海賊であれ”

海軍に入るより、海賊であれ(Why join the navy if you can be a pirate?)
1981年にMAC開発チームのスローガンになっていた言葉です。当時はテキサコ・タワーの屋上に掲げられてたそうです。

画像出展:「Blog!NOBON+

8.1985年9月17日 会長職辞任のレター
マッキントッシュ発売から2年目を迎える前に、ジョブズはアップル社から拒否されます。そして、会長職辞任のレターはアップル社が上場したときのCEOだったマイク・マークラ宛てに送られます。

『1985年9月17日 親愛なるマイク 朝刊に、会長の僕の罷免をアップルが検討しているという記事がありました。どこから出た記事なのかわかりませんが、いずれにせよ、これは誤解を招くとともに僕に対して不公平な記事です。
あなたも覚えているはずですが、木曜日の取締役会で、僕は新会社を作ろうとしていることを話し、会長を辞任したいと申し出ました。
あのとき、取締役会は僕の辞任を受け入れず、1週間待ってくれと言ったはずです。その提案に僕が同意したのは、新会社に取締役が好意的だったから、また、アップルが投資することもあるという話だったからです。金曜日、新会社に参加するメンバーをジョン・スカリーに伝えたときも、アップルと新会社が協力できる分野を検討する意思があると言ってくれました。
ところがその後、会社は態度を硬化させ、僕と新会社に敵対するようになりました。ことここにいたれば、僕としても、辞職願を速やかに受理するよう、アップルに要求せざるを得ません。
ご承知のように、先日行われた組織再編の結果、僕は仕事もなく、定例の経営報告さえも読めなくなりました。僕はまだ30歳。まだまだ、なし遂げたいことがあるのです。
ここまでいっしょにやってきたのですから、別れも友好と威厳に満ちたものにしようではありませんか。 敬具 スティーブン・P・ジョブス』

NeXTコンピュータ
NeXTコンピュータ

”新会社”のNeXTコンピュータ

画像出展:「TechCrunch

9.アートとテクノロジーの交差点 
1985年の夏、ジョブズがアップルで地歩を失いつつあった時期のことです。「スター・ウォーズ」の前半三部作を完成させたところだったジョージ・ルーカスは離婚問題から、自身が持つ映画スタジオのコンピュータ部門の売却を模索しており、コンピュータ部門を束ねていたエド・キャットムルに買い手を早く見つけるように指示をしていました。それがジョブズに伝わったのは、ゼロックスPARCから移籍してアップルフェローとなったアラン・ケイのはたらきかけによります。これは、ジョブズが創造性と技術が交わるところに興味を持っていたのを知っていたためです。ジョブズはルーカスのスカイウォーカー・ランチのはずれにある、キャットムルのコンピュータ部門を訪れ、次のようなことを語っています。

『圧倒されたよ。戻ったあと、買おうとスカリーを説得した。でも、アップルの経営陣は興味を示さなくて。僕をたたき出すのに忙しかったしね』

そして、この買収の意義についても語っています。

『「コンピュータグラフィックスに惚れ込んでいたので、どうしても自分で買いたかった。ルーカスフィルムコンピュータ部門の人々と会ったときわかったんだ。アートとテクノロジーを組み合わせるという面で、彼らはずっと先に行ってるって。僕がずっと興味を持っている領域で、ね」
もう数年したらコンピュータは100倍もパワフルになる、そうなればアニメーションやリアルな3Dグラフィックが大きく進む、ジョブズは考えた。
「ルーカスのところの連中が扱っていたのは、すさまじい処理能力を必要とする課題だった。だから、歴史が彼らに味方すると思った。ああいうベクトルは僕の好みだ」
ジョブズが提示した条件は、買い取り額として500万ドル、それに当該部門を独立の法人とする資金、500万ドルだった。ルーカスにとっては不満な条件だったがタイミングはいい。交渉がはじまった。ジョブズは態度が大きく挑発的だと思ったルーカスフィルムの最高財務責任者(CFO)は、序列をはっきりさせようと一計を案じる。まず、ジョブズを含む関係者を集め、その数分後にCFOが登場して、誰が会議の中心なのか示そうとしたのだ。しかし、うまくゆかなかったとキャットムルは証言する。
「おかしな具合になりまして……CFOなしでスティーブが会議をはじめてしまったんです。CFOが来たときには、もう、スティーブが全体を掌握していました。」』

ピクサーはイメージコンピュータとレンダリング(プログラムにより画像や音声を作る)さらに、アニメーション映画やグラフィックスというクールなコンテンツを組み込んだ、3つの要素をもっており、これらは芸術的創造性と技術系ギーク(geek:オタク)を組み合わせるというジョブズの方針と相性が良かったと考えられています。そして、ジョブズはピクサーを次のように評価していました。

『シリコンバレーの連中はクリエイティブなハリウッドの人間を尊敬しないし、ハリウッドの連中は連中で技術系の人間は雇うもので会う必要もないと考える。ピクサーは、両方の文化が尊重される珍しい場所だった』

ジョブズがピクサーにつぎ込んだ資金は、ネクストが赤字の中、アップルで得たお金の半分以上の5000万ドルに近い額とされています。そして、優れた芸術とデジタル技術を組み合わせれば従来のアニメーション映画を一変させられるという直感は、まさに先見の明と言えるものであり、1937年、ウォルト・ディズニーが「白雪姫」を生み出して以来、最大というほどの変化をアニメーション映画にもたらしました。

10.アップルの苦闘とジョブス復活
アップルは1990年代になり、経営環境は厳しさを増していくことになりました。

『アップルの市場シェアは、1980年代末の16パーセントをピークに下がり続け、1996年には4パーセントとなった。スカリーの後任として1993年にアップルのCEOとなったマイケル・スピンドラーは会社をサン、IBM、ヒューレット・パッカード(HP)などに売ろうとしたがいずれも失敗。1996年2月にはギル・アメリオに交代する。ナショナルセミコンダクター社CEOの経験を持つリサーチエンジニアだ。そのアメリオがCEOとなった1年目、アップルは10億ドルの赤字に転落し、1991年に70ドルだった株価は14ドルと低迷した。このころはテクノロジーバブルで、ほかの会社の株価はどんどん上がっていたというのに、だ。』

このように、極めて苦しい状況が続く中、1994年、ついにジョブズが動くことになります。それは、アメリオがアップルの取締役に就任した直後にジョブズがアメリオにかけた1本の電話です。そして、二人はナショナルセミコンダクター社のオフィスで会うことになりました。

『にこやかなあいさつが2~3分もあったあと(ジョブズにしては異常に長い)、ジョブズが本題を切り出した。CEOに返り咲く手助けをしてほしいというのだ。
「アップルの連中をやる気にさせられる人間はひとりしかいない。あの会社を正せるのはひとりしかいないんだ」
マッキントッシュの時代は終わった、だから、同じくらい革新的ななにかを生み出さなければならない-そう、ジョブズは主張した。
「マックがダメなら、何が代わりになるんですか?」アメリオはそうたずねてみたが、かんばしい答えは返ってこなかったという。「あのとき、スティーブは明確なイメージは持っていなかったようです。ただ、パンチを効かせた売り文句がいろいろとあるだけで」
これがジョブズの現実歪曲フィールドなのかと思い、アメリオはその影響を受けない自分が誇らしかった。そして、ジョブズをぞんざいに追い払った。』

この出来事からおよそ2年後、1996年夏には、問題は想像以上に深刻であることが判明します。それは、アップルが開発中の「コープランド(Copland)」という新しいOS(オペレーティングシステム)が、ベーパーウェア (vaporware:概要が発表はされたものの構想段階や開発段階にあり、まだ完成・公開されるかどうかわからないソフトウェアもしくはハードウェアのこと)で、ネットワークやメモリ保護機能の強化というアップルの二―ズを満足するものではありませんでした。こうして、アップルは「コープランド」に替るオペレーティングシステムを提供してもらえるパートナーを探し、選択するという判断に迫られることになりました。
●ビー(Be)
ビーは元アップル社の社員だったジャン=ルイ・ガゼーが起こした会社です。1996年8月のビーとの交渉では、アップルに他の選択肢はないと踏んでいたガゼーが極めて強気な提案をしており、アップルにとって他の選択肢も検討せざるをえない状況となりました。
●サン(Sun Microsystems)
アップルの最高技術責任者であったエレン・ハンコックはユニックスベースのサンのソラリス(Solaris)を推しましたが、ユーザーインタフェースに課題があるとの評価がありました。
●マイクロソフト
アメリオは徐々にウィンドウズNTに傾いていき、遂にはビル・ゲイツから電話がくるようになります。後に断りの電話を入れることになったのですが、その時、ゲイツは冒頭の2~3分、相当憤慨していたようです。
●ネクスト

『「誰か、この件で電話できるくらいスティーブと親しい者はいないか?」アメリオ(CEO)はこうスタッフにたずねた。2年前のミーティングが険悪な雰囲気で終わったため自分からは電話をかけたくなかったのだ。だが、その必要はなかった。ネクスト側から接触の動きがあったからだ-ネクストで製品マーケティングを担当する中間管理職、ギャレット・ライスがジョブズに無断でエレン・ハンコックに電話をかけ、ネクストのソフトウェアを見てみないかと声をかけてきた。ハンコックは部下を派遣する。
1996年11月の感謝祭が来るころ、両社は実務者レベルで話し合うようになっていた。そして、ジョブズからアメリオに直接電話が来る。
「これから日本に行くけど1週間で戻る。戻ったらすぐに会いたいと思う。それまで、なにも決めないでほしい」
過去の経緯があったにもかかわらず、アメリオはこの電話に心を躍らせ、いっしょに仕事ができるかもしれないとうれしくなった。
「あの電話をスティーブから受けたときは、ビンテージのワインの香りをかいだような気がしました」
ジョブズと会うまでビーともほかのどことも、どのような取り決めもしないとアメリオは約束する。
ジョブズにとってビーとの対決はビジネスと私怨、ふたつの意味があった。ネクストは倒れかけており、アップルによる買収は喉から手が出るほど欲しい救命策だった。同時に、ジョブスには、かなり強い恨みを抱く複数の相手がおり、ガゼーはそのトップ近くに位置していた(スカリーよりも上かもしれない)』

『1996年12月2日、スティーブ・ジョブズは、追放から11年ぶりにアップルのクパチーノキャンパスに足を踏み入れ、役員用会議室でアメリオとハンコックを前にネクストの売り込みをおこなった。ホワイトボードにいろいろと書き殴りながら、

「ネクストを契機として、コンピュータシステムに4つの波が生まれた」

と語る。ビーOSは完全でもなければネクストほど優れてもいない。なんの敬意も感じていないふたりを相手にしているというのに、この日のジョブズは魅惑の術を全開にしていた。控えめなふりも最高だった。
「それはありえないと思うかもしれませんが、お望みの形で交渉に応じます。ソフトウェアをライセンスする、会社を売却する、あるいは別の形でも」
じつはすべてを売ってしまいたいとジョブスは考えており、売却をプッシュする。
「詳しく見れば、ソフトウェア以上のものが欲しいと思われるはずです。人材ごと、会社全体を買収したいと思うはずです」』

ネクストとビーの最終決戦は、1996年12月10日、パロアルトのガーデンコートホテルで行われました。先攻はネクスト、ジョブズは催眠術のような営業テクニックを披露しました。アメリオはその時の様子を次のように話しています。

『ネクストオペレーティングについてスティーブが展開したセールストークは目がくらむほどのものでした。マクベスを演じるローレンス・オリビエを描写しているかのように利点や強みを次々とたたえていったんです』

後攻のガぜーは、まるで契約は自分のものに決まっているかのようなふるまいで、新しいプレゼンテーションはなく、ごく短時間に終わりました。結果は明白でした。
ネクスト買収を発表する数日前、アメリオはジョブズに、アップルでオペレーティングシステムの開発を統括してほしいとの要請をしています。しかしジョブズはなかなか返答せず、発表当日になってもジョブズの待遇は決まっていませんでした。その発表当日、アメリオはジョブズをオフィスに呼んだもののジョブズははっきりした態度をとりません。発表を前に必死なアメリオに対し、ジョブズは最後の最後に「会長のアドバイザー」を要求し決着がつきました。
買収は、1996年12月20日の夜に発表され、ジョブズの役割は、本人の希望どおり、非常勤のアドバイザーとされました。ジョブズの復活はアップル社によるネクスト社買収というシナリオによって成されました。
翌日、ピクサーに出社したジョブズは、ジョン・ラセターのオフィスへ向い、アップルで仕事をすることの許しをえるために、次のような言葉を残しています。なお、ラセターはこの申し入れを気持ちよく受け入れています。

『このせいで家族との時間がどれだけ減るだろうか、また、僕のもうひとつの家族、ピクサーとの時間がどれだけ減るだろうかとずっと考えていた。でも、アップルがあったほうが世界は良くなる。そう信じるからやりたいと思うんだ』

ネクストとビーの最終決戦の舞台。
パロアルトのガーデンコートホテル

ネクストとビーの最終決戦の舞台となった、パロアルトのガーデンコートホテル

画像出展:「Booking.com

 

11.社内改革
アメリオが解任となり、暫定CEOとなったフレッド・アンダーソンはジョブズが実権を握ることも理解していたと思います。ジョブズが認めた発表文書には、「90日間、アップルへの関与を増やし、新しいCEOが見つかるまでアップルを支援することに同意した」との内容が記述されていました。

『「みんな、ウチのなにが問題なのか、ちょっと教えてくれないかな」
ところどころからつぶやきがあがるが、ジョブズはそれをさえぎるように宣言する。
「製品だ!」
「じゃあ、製品のなにが問題なんだ?」
また、ところどころから答えようとする声があがる。それにかぶせ、ジョブズが正解を叫ぶ。
「製品がボロボロ! セクシーじゃなくなってしまった!」』

こうして、表向きは非常勤のアドバイザーであったジョブズは以下のような社内改革に着手しました。
製品のデザイン
切り捨てる事業の選定
サプライヤーとの交渉
広告代理店の再評価
ストックオプションの価格改定(株価の大幅下落でオプションは価値がなくなっていた。当時、このやり方は合法だったが、企業としてすべきではないと考えられていた。取締役会は最大2ヶ月の調査を提案したがジョブズは却下し、強引に承認を取り付けた)
続いてターゲットにされたのは、承認されるも敬意を持てない取締役会でした。

『「この形はやめよう。これじゃうまくいかない。会社がぐちゃぐちゃの状態なのに取締役会の乳母役までやっているヒマはないんだ。取締役は全員、辞めてくれ。そっちが辞めないなら僕が辞め、月曜日からは出社しない」

例外として残っていいのはエド・ウーラード(デュポンの元CEO、アップルの取締役会長でジョブズを推していた)だけというのだ。取締役のほとんどはあっけにとられた。ジョブズ自身は、フルタイムで復帰することも「アドバイザー」以上の役割を果たすことも約束しない。それなのに、全員に辞任を迫る力があると感じているわけだ。認めたくないが、実際、その力がジョブズにはあった。ジョブズに怒って出て行かれたらどうにもならないし、そもそもアップル取締役を続けていることに魅力もなくなっていた。
「もううんざりという状況だったし、辞められてほっとした人も多かったはずだ」

とウーラードも証言する。』

この後、ジョブズとウーラードは新しい取締役の選定を一任されます。アップル取締役会の再編はその後何年もかけて、新しい取締役を迎えてゆきます。
『人選のポイントは忠誠心で、極端といえるほどの忠誠心を求めることもあった。ジョブズが招いたのは高い地位にある人ばかりだが、いずれも、ジョブズに畏れや恐れを抱き、また、ジョブスにはいい気分でいてほしいと願っているように見えるメンバーばかりだった』
元証券取引委員長で、アップルコンピュータの熱烈なファンであった、アーサー・レビットはアップル取締役就任を一度は打診されたのですが、取締役会に独立した権限を与えるというコーポレートガバナンスに関するレビットのスピーチをジョブズは読み、就任要請は取り下げるためレビットに電話をいれます。
『アーサー、うちの取締役会は君にとって居心地がよくないだろう。取締役への就任は取り下げるのが一番だと思う。正直なところ、あなたの主張にはアップルの文化にそぐわないところがあるんだ。会社によっては正しい主張だと思うけどね」
レビットはのちにこう書いている。
「あのときは落ち込みました……アップル取締役会はCEOから独立した組織ではない―それは、私の目にはあきらかでした」』

12.ジョブズの集中原理  
なにをしないのか決めるのは、なにをするのか決めるのと同じくらい大事だ。会社についてもそうだし、製品についてもそうだ』

ジョブズは、アップルに復帰すると同時にこの集中原理を適用していきます。製品レビューでは各部門の官僚主義と小売店の思いつきを満足させるため、どの製品もすさまじい種類が作られていました。マッキントッシュだけでも10種類あまりあり、1400から9600の数字で区別されるというわけのわからない状態でした。これを知った1~2週間後、ついにジョブズの堪忍袋の緒が切れます。

『「もういい!」

全社的な製品戦略のセッションだった。

「あまりにバカげている」
マーカーを手にするとホワイトボードのところへゆき、大きく「田」の字を描く。
「我々が必要とするのはこれだけだ」

そう言いながら、升目の上には “消費者” “プロ”、左側には “デスクトップ” “ポータブル” と書き込む。各分野ごとにひとつずつ、合計4種類のすごい製品を作れ、それが君たちの仕事だとジョブズは宣言した。
「皆、シーンとしてしまいました。」

とシラーは言う。ジョブズがこの件を報告した9月の取締役会もウーラード(取締役会長)によると、皆、あぜんとしたという。
「ギルは毎月のように、製品を増やす承認をしてくれと言ってきました。もっとたくさんの製品がいると言い続けたのです。なのにスティーブは減らせというのです。2マス×2マスの表を書いて、そこに集中すべきだと」
取締役からは反対意見が出た。それは大きなリスクだと。
「大丈夫。うまくやってみせる」
この新戦略の採決はおこなわれなかった。指揮官はジョブズであり、そのジョブズが先陣を切って走っていたからだ。
こうして、アップルのエンジニアとマネージャはわずか4分野に集中することになった。プロ用デスクトップはパワーマックG3、プロ用ポータブルはパワーブックG3.消費者用デスクトップはのちのiMac、消費者用ポータブルはのちのiBookだ。
言い換えれば、プリンターやサーバーなど、4分野以外の事業からは撤退である。』

13.シンク・ディファレント
1997年7月、広告史に残るマッキントッシュの「1984年」CMを作ったシャイアット・デイ社のクリエイティブディレクター、リー・クロウにジョブズが電話をしています。

『「やぁ、リーかい? スティーブだ。じつはね、アメリオが辞任したんだ。ちょっと来てもらえないかな?」
そのころジョブズは広告代理店の見直しを進めていたが、ぴんと来るところがなく、クロウとその会社(名前はTBWA/シャイアット/デイに変わっていた)にもコンペに参加してほしいと思ったのだ。
「アップルはまだ元気だ、いまも特別なんだと示さなきゃいけない」
ウチは営業しないとクロウは答える。
「我々のことはよくご存じなはずです」
そこをなんとか頼むとジョブズ。BBDOやアーノルドワールドワイドといった有名どころを含め、数多くの広告代理店が売込みに来ており、それを押しのけて「昔なじみ」に頼むのは難しいというのだ。では、なにかお見せできるものを持ってクパチーノにうかがいましょう、とクロウも承知した。
私にこの話をしてくれたとき、ジョブズは肩を震わせ、涙を浮かべた。』

そして、ジョブズはこの一件のことについて、次のように語っています。

『このときのことを思い出すと、涙が出るんだ。止まらなくまるほどに。リーはアップルを深く愛してくれているとよくわかった。広告界トップの男だ。営業など10年もしていない。その彼が心を込めたプレゼンをしてくれた。僕らと同じくらいアップルを愛しているからだ。彼らが持ってきたのは、「シンク・ディファレント」というすごいアイデアだ。ほかに比べて10倍はすごいものだった。リーの深い愛と「シンク・ディファレント」のすばらしさ―あのときも込み上げるものがあったし、いま、思い出しても涙が出てしまう。
ときどき「純粋なもの」に出会うことがある。精神や愛という純粋さに。そういうとき、僕はいつも泣いてしまうんだ。心に染みてね。あのときもそうだった。あれは忘れることができない。事務所で彼の話を聞いたときも泣いてしまったし、いま、思い出しても泣けてしまうんだ。』

ジョブズはこの広告は世間に対する広告であると同時に、アップル社内に向けた広告でもあったことを明かしています。

『アップルの人間も、アップルとはなにか、自分たちはどういう人間なのかがわからなくなっていた。それを思い出すきっかけには、誰が自分にとってヒーローなのかを考えてみるといい。あのキャンペーンはこうして生まれたんだ』

以下は完成した60秒のフルバージョンです。
『クレージーな人たちがいる。反逆者、厄介者と呼ばれる人たち。四角い穴に丸い杭を打ち込むように、物事をまるで違う目で見る人たち。彼らは規則を嫌う。彼らは現状を肯定しない。彼らの言葉に心を打たれる人がいる。反対する人も、称賛する人もけなす人もいる。しかし、彼らを無視することは誰にもできない。なぜなら、彼らは物事を変えたからだ。彼らは人間を前進させた。彼らはクレージーと言われるが、私たちは天才だと思う。自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが、本当に世界を変えているのだから。』

この中で「彼らは人間を前進させた」など、一部はジョブズ自身が書きました。また、ナレーションはジョブズ自身によるものと、リチャード・ドレイファス(映画俳優)のものと、2つのバージョンが完成していましたが、最後の最後に選択されたのは、ドレイファスのバージョンでした。

 『僕の声を使った場合、それが僕だとわかった時点で僕の広告だと言われかねない。そうじゃなくて、あれはアップルの広告だから』というのが理由でした。

この広告はテレビだけでなく、ポスターでも展開されました。歴史に残る偶像となった人物の白黒ポートレートで、隅に小さくアップルのロゴと「シンク・ディファレント」という文字だけがあしらわれていました。アインシュタインやガンジー、ジョン・レノン、ボブ・ディラン、ピカソ、エジソン、チャップリン、キングなど、一目でわかる人々だけでなく、マーサ・グレアム、アンセル・アダムス、リチャード・ファインマン、マリア・カラス、フランク・ロイド・ライト、ジェームズ・ワトソン、アメリア・イアハートなど、すぐには判らない場人たちも含まれていました。
登場人物の大半はジョブズがヒーローと思う人々で、リスクを取り、失敗にめげず、人と異なる方法に自らのキャリアを賭けたクリエイティブな人たちです。写真マニアのジョブズは、完璧なポートレートを用意しようと獅子奮迅、妥協を許さず交渉を進めていきます。
ブランドを非常に大切にしたジョブズは、この「シンク・ディファレント」のキャンペーン以来、広告代理店やマーケティング、コミュニケーションのトップを集め、メッセージ戦略について自由な討論を3時間も続けるミーティングを毎週水曜日の午後に開いています。この会議には、もちろん、リー・クロウも出席しています。

『スティーブのようなやり方でマーケティングにかかわるCEOはほかにいません。毎週水曜日、新しいコマーシャルやポスター、ビルボード広告まで、一つひとつ、彼が自分でチェックし、承認するのです』

“Think different”
“Think different”

画像出展:「engadget.com」 

14.ICEO
アメリオを追放した10週間前から実質的なリーダーではありましたが、肩書きは単なる「アドバイザー」で、有名無実とはいえ暫定CEOにはフレッド・アンダーソンが就いていました。1997年9月16日、ジョブズはinterimCEO(暫定CEO)に就任すると発表されました(肩書きは、のちに、iCEOと省略される)。このあと数週間、ジョブズと取締役会は本命CEOを探します。コダックのジョージ・M・C・フィッシャー、IBMのサム・パルサミーノ、サン・マイクロシステムズのエド・ザンダーなど、さまざまな名前があげられましたが、ジョブズが取締役にとどまるならCEOにはなりたくないという回答が多く決まることはありませんでした。
12月に入ることには、iCEOという肩書きはinterim(暫定)からindefinite(無期限)へと変化していました。経営はジョブズが続けており、取締役会はCEOの探索をやめていました。
こうして、CEOとなったジョブズは2つの会社を経営することになったのですが、健康問題はこのころのハードワークが原因だろうと考えています。

『あのころはきつかった。本当にきつかった。僕の人生で最悪にきつい時期だった。小さな子どもがいて。ピクサーがあって。朝7時に出勤し、夜は9時に戻る。子どもたちはもう寝ている。口もきけなかった。疲れすぎて、文字どおり口も開けない状態だったんだ。ローリーンと話すこともできない。30分くらいテレビを見てぼーっとするくらいしかできなくて。死ぬかと思ったよ。毎日、黒いポルシェコンバーチブルでピクサーからアップルへと回るんだ。あと、腎臓結石もできちゃってね。病院に駆け込んで鎮痛剤のデメロールをケツに注射してもらったりしたけど、それもしばらくしたらやめてしまった。』

自身の健康を犠牲にしてまで2つのCEOを兼任し、特にアップル再興に心血を注いだ理由は次のようなものでした。

『ジョブズががんばった背景には、息の長い会社を作りたいという情熱があった。ヒューレット・パッカードでアルバイトをした13歳の夏休み、ジョブズは、きちんと経営された会社は個人とは比べものにならないほどイノベーションを生み出せると学んだのだ。「会社自体が最高のイノベーションになることもあるとわかったんだ。つまり、どういうふに会社を組織するのか、だよ。会社をどう作るかはとても興味深い問題だ。アップルに戻るチャンスを手にしたとき、この会社がなければ僕に価値はないとわかった。だから、とどまって再生しようと心に決めたんだ」』

HP9100
HP9100

スティーブ・ジョブズが興味をもったとされる、HP9100。

画像出展:「HP Computer Museum

アップルを救ったのは、ジョブズの「絞り込む力」でした。アップルに復帰した最初の年、ジョブズは3000人以上を解雇し、バランスシートの改善を図りました。ジョブズが暫定CEOとなった9月に終わった1997会計年度、アップルは10億4000万ドルの赤字でした。ジョブズによると、あと90日で倒産という、まさに瀬戸際だったとしています。
1998年のサンフランシスコ・マックワールドでは、印象的な髭にレザーのジャケットで新しい製品戦略を説明してゆきます。そして、のちにお約束となる一言をはじめて使い、プレゼンテーションを締めています。

『「ああそうだ、最後にもうひとつ……」
このときの「もうひとつ」は「シンク・プロフィット(利益を考えよう)だった。この一言に会場は拍手喝采となった。丸2年の赤字から、四半期で4500万ドルという黒字に転換したのだ。1998年会計年度通期では、3億900万ドルの黒字だった。
ジョブズが復活し、アップルも復活したのだ。』

15.ICEOからCEOへ
ジョブズは、アップル取締役会長のエド・ウーラードから、CEOという肩書きの前について暫定の文字をなくすよう、2年以上にわたって求められていました。しかしジョブズは本決まりのCEOになろうとしないばかりか、「年棒1ドル、ストックオプションなし」という条件でまわりを困らせていました。

『「50セントは出社分で、残りの50セントが成果の評価さ」
ジョブズお気に入りのジョークである。株価はジョブズが復帰した1997年7月の14ドル弱からインターネットバブルのピーク、2000年には102ドル以上になった。1997年当時、少なくともある程度の株は受け取ってほしいとウーラードに頼まれたが、ジョブズは
「アップルでいっしょに働く人たちに、金持ちになりたいから戻ったと思われたくないんだ」
と断っている。この株を受け取っていれば、4億ドル程度になったはずだ。しかしそのあいだ、ジョブズが稼いだ額はわずかに2.5ドルである。
復帰した当時、“暫定” にこだわったのは、アップルの将来がはっきりしなかったからだ。しかし2000年が近づいたころには、ジョブスの復帰でアップルが復活したことは誰の目にもあきらかだった。ジョブズは妻のローリーンと散歩しながら、大半の人にとって形式的な問題にすぎないが本人にとってはこだわりの問題についてじっくりと話し合った。暫定をなくせば、アップルはジョブズが思い描くことすべてのベースとなりうる。コンピュータ以外の分野に参入することもできる。ここにきてジョブズもようやく心を固めた。』

16.IPhone開発の舞台裏
2005年、iPodの販売が急増、前年の4倍、2000万台を出荷し、売り上げの45%を占め、さらにマックの販売にも貢献していました。その一方で、ジョブズは心配していました。

『「スティーブは、我々にとって大きな問題になりそうなことを常に気にしています」
と取締役のアート・レヴィンソンも言う。いろいろと考えてジョブズが達した結論は、

「徹底的にやられる可能性がある機器は携帯電話」

だった。デジタルカメラの市場はカメラ付き携帯電話の普及で食い荒らされていた。携帯に音楽プレイヤー機能が搭載されればiPodも同じようになりかねない―そう、取締役会へ説明した。
「携帯は誰もが持っているので、iPodが不要になってしまうかもしれない」』

最初の製品となった「ROKR(ロッカー)」は共同開発であり、モトローラ、アップル、そしてワイヤレス通信のシンギュラーの寄せ集めでした。

「こんな電話が未来なのか?」

とワイアード誌の2005年11月号の表紙で、ROKERは無残に切り捨てられてしまいます。この一件からジョブズは製品レビュー会議でiPodチームに怒りをぶちまけます。

『「自分たちでやろう」
売られている携帯電話はひどいものばかりで、かつてのポータブル音楽プレイヤーと似たような状況にあるとジョブズは考えた。
「携帯電話のあそこがイヤだ、ここがきらいだとそういう話をずいぶんした。とにかく複雑すぎるんだ。電話帳のように、こんなの使い方がわかる人なんているはずがないと思うような機能がたくさんある。わけわかんないよ」
弁護士のジョージ・ライリーによると、法的問題を検討するミーティングに飽きると、ジョブズはライリーの携帯電話を取り上げては、それがいかにボケナスか、問題点を次々にあげていたという。ジョブズらは、
「自分たちが使いたいと思う電話を作ろう」と盛り上がった。
「あれほどやる気が出る目的はちょっとないね」』

じつはそのころアップルでは、もうひとつのプロジェクトであるタブレットコンピュータの開発が秘密裏に行われていました。2005年、ふたつの話が交わり、タブレットのアイデアが電話プロジェクトに伝えられます。つまり、iPadのアイデアが先にあり、それをもとにiPhoneは生まれました。

マルチタッチ
この時、マイクロソフトもタブレットPCの開発を進めており、ジョブズと同じ年で友人でもあった、ビル・ゲイツはジョブズに接触していました。

『マイクロソフトはそのタブレットPCソフトウェアで世界を一変させ、ノートパソコンを一掃する、だから、アップルも彼(スティーブ・ジョブズ夫妻の友人と結婚したマイクロソフトのタブレットPCの開発をしているエンジニアのこと)が作ったソフトウェアのライセンスを受けるべきだと彼(ビル・ゲイツ)がしつこくてね。でもね、やり方からして根本的に間違ってたんだよ。スタイラスペンを使うっていうんだから。スタイラスペンという時点でおしまいだ。あの話をされたのはディナーパーティが10回目くらいのときだったかなぁ、あまりにいらついたんで、戻ったとき、

「こんちくしょう、タブレットとはどういうものか目に物見せてやる」って言ったんだ。
翌日出社すると、ジョブズはチームを集めて宣言する。
「タブレットを作りたい。キーボードもスタイラスペンもなしだ」
入力はスクリーンを直接指でタッチしておこなう。そのためには、複数の入力を同時に処理できるマルチタッチ機能を持つスクリーンが必要だ。
「だから、マルチタッチに対応できるタッチ機能付きディスプレイを作ってくれ」』

およそ6ヵ月後に用意されたプロトタイプは、会議室でジョブズひとりにデモされました。これはジョブズが一瞬で評価してしまうので、ジョブズひとりで他に誰もいなければ、何とか説得することもできるだろうと考えての、いわば保険でした。
しかし、ジョブズはこのアイデア(デモ)が気に入ります。

『「これが未来だな」
このアイデアを使えば携帯電話のインターフェースという問題も解決できるとジョブズは考えた。当時は携帯電話の優先順位が高かったので、電話サイズのスクリーンにマルチタッチインターフェースが搭載できるまでタブレットの開発は凍結とした。
「電話でうまくゆけば、タブレットにも使えるからね」
そう考えたジョブズはファデルとルビンシュタイン、シラーを呼び、デザインスタジオで秘密会議を開いてマルチタスクのデモを見せる。
「うわー!」
ファデルは思わず叫んでいた。全員、これはすごいと思った。問題は、これを携帯電話に搭載できるか否かだ。開発は両にらみで進めることにした。P1というコードネームでiPodのホイールを使った電話を、P2というコードネームでマルチタッチスクリーンを使った電話を開発する。
マルチタッチのトラックパッドは、フィンガーワークス社というデラウェア州にある小さな会社がすでに作っていた。デラウェア大学のジョン・エリアスとウェイン・ウェスターマンが創設した会社で、マルチタッチ機能を持つタブレットを開発し、ピンチやスワイプといった指の動きを有用な機能に変換する方法について特許を取得していた。

2005年のはじめごろ、アップルはこの会社と特許をすべて買い取り、創業者のふたりも雇い入れる。フィンガーワークスは製品の販売をやめ、新しい特許をアップルの名前で取りはじめた。ホイール型のP1とマルチタッチ型のP2、2種類の開発を6ヵ月おこなったあと、ジョブズは側近を集めて選定会議を開いた。

ホイール型の開発を担当したファデルは、いろいろとやってみたが電話がかけられるシンプルな方法が見つけられなかったと報告する。マルチタッチはエンジニアリング的に可能かどうかがはっきりせず、リスクが大きいが、そのほうがおもしろそうだし期待も持てる技術だった。
「やりたいのがこちらだというのは、一致した意見だと思う」
ジョブズはタッチスクリーンを指さす。
「動くようにしようじゃないか」
ハイリスク、ハイリターン。ジョブズが言う「会社を賭ける」ときだった。』

こうして、電話をかけたいときには数字のパッド、文字を入力したいときにはタイプライターのようなキーボード、あるいはまた、別のなにかをしたいときには必要となるボタンが表示される機能が生まれました。
この6ヶ月間、ジョブズは毎日必ずこのディスプレイの改良を手伝いました。ジョブズがチェックするポイントはシンプルにすること。チームメンバーは今までの電話を複雑にしている要素をシンプルにする方法を考え、それを何度も何度も繰り返しました。通話を保留したり電話会議にしたりする大きなバーを追加したり、電子メールを簡単に読めるようにしたり、アイコンを横方向にスクロールしてほかのアプリを表示できるようにしたりしました。こうして進められた改良はユーザーにとって、シンプルで使いやすいものとなっていきました。

ゴリラガラス
ジョブズは「材料」についても人並みはずれた関心と物凄いこだわりを持っていることがわかります。

『アップルに復帰してiMacを作り始めた1997年ごろは、半透明プラスチックや着色プラスチックでなにができるのかをいろいろと試した。次は金属。アイブ(ジョナサン[ジョニー] アイブ:豊かな感受性と情熱でアップルのデザインチームを率いる30歳[1997年当時]の英国人)とふたり、パワーブックG3の丸みを帯びたプラスチックケースをパワーブックG4ではチタンを使ったなめらかなものとした。その上、その2年後にはアルミニウムでデザインをやり直している。まるで、金属の種類を変えたらどうなるのか示したいというかのように。
iMacとiPodナノは陽極酸化処理を施したアルミニウムとした。酸化槽に入れて電気を流し、表面に酸化アルミニウムの保護膜を作る処理だ。必要な数量の処理ができないと言われたジョブズはわざわざ中国に工場を建設する。工場の立ち上げは、アイブが現地に出向いて指揮した。SARSが流行して大変なことになっていた時期のことだ。
「あのときは、3ヶ月間、寮に寝泊りしながら工場を立ち上げました。ルビーたちからは無理だと言われたのですが、スティーブも私も陽極酸化処理アルミニウムが一番だと思っていたので、どうしても実現したかったのです。」
その次はガラスだった。
「金属でいろいろやったあと、次はガラスをマスターしなきゃねとジョニー(アイブ)に言ったんだ」
そして実際に、アップルストアで大きな窓ガラス製の階段などを作る。iPhoneも、もともとはiPodと同じようにプラスチックのスクリーンにする計画だった。それをジョブズが、ガラスのほうがエレガントでしっかりした感じになると変えさせたのだ。傷がつきにくく強いガラスが必要だった。
ふつうに考えれば、探すべきなのは店舗用のガラスが大量に作られているアジアだろう。しかし、ニューヨーク州北部のコーニンググラス社で取締役をしている友人、ジョン・シーリー・ブラウンから、若くて精力的なコーニングのCEO、ウェンデル・ウィークスと話すべきだと提案された。ジョブズはコーニングの代表番号に電話をかけ、自分の名前を言ってウィークスにつないでくれと頼んだが、出たのはアシスタントで、自分がメッセージを伝えるという。
「スティーブ・ジョブズだ。直接話をさせろ」
この要求を拒まれ、ジョブズは、東海岸らしいひどい扱いを受けたとブラウンに愚痴る。この話を耳にしたウィークスがアップルの代表番号に電話をかけ、ジョブズと話がしたいと申し込むと、内容を書いてFAXで送れと言われる。この話を聞いたジョブズはいいやつらしいと感じ、ウィークスをクパチーノに招待した。
まず、iPhone用にどういうガラスが欲しいのかをジョブズが説明した。これに対しウィークスは、1960年代に化学交換法という製法を開発し、「ゴリラガラス」と呼ばれるガラスを作ったこと、信じられないほど強いが市場がなく、作るのをやめたことを話す。
そこまで強いガラスができるのは信じられないと、今度はジョブズがガラスの作り方について説明をはじめる。おもしろいとウィークスは思った。自分のほうがジョブズよりも詳しい分野だったからだ。
「しゃべるのをちょっとやめて、私に解説させてもらえませんか?」
ジョブズはびっくりしたように黙った。ウィークスはホワイトボードのところへ行き、イオン交換プロセスでガラス表面に密度の高い層を作る方法を化学的に説明した。納得したジョブスは、6ヵ月でできるだけたくさんのゴリラガラスを作ってくれと頼む。
「作れないんですよ。いま、そのガラスを作っている工場はないんです。」
「心配はいらない」
がジョブスの答えだった。これにはウィークスも驚いた。ユーモアと自信にあふれているが、ジョブズの現実歪曲フィールドには慣れていなかったからだ。根拠のない自信でエンジニアリング的な課題は解決できないと反論したが、その前提こそ、ジョブズが昔から繰り返し否定してきたものだった。ウィークスをじっと見つめる。
「できる。君ならできる。やる気を出してがんばれ。君ならできる」
この話を語ってくれながら、ウィークスは、信じられないという感じで首を振った。
「6ヵ月もかからずにやり遂げました。それまで作られたことのないガラスを作ったのです」
ケンタッキー州ハリスバーグにあるLCDディスプレイの工場を突貫工事で改造し、ゴリラガラスをフルタイムで生産できるようにしたのだ。
「トップクラスの研究員とエンジニアを投入し、むりやりできるようにしました」
ウィークスのオフィスはゆったりしているが、額に入った記念品はひとつしかない。iPhoneが完成した日、ジョブズからもらったメッセージだ―「君たちががんばってくれなければできなかったよ」。
ウィークスはジョニー・アイブとも仲良くなり、ニューヨーク北部の湖畔に建つ別荘にもときどきアイブを呼ぶようになる。
「同じようなガラスでも、ジョニーは感触で違う種類だとわかるのです。そのようなことができるのは、ウチでも研究部門のトップだけです。スティーブはなにかを見た瞬間に好きかきらいかに分かれますが、ジョニーはじっくりいじり、いろいろと敢闘して、微妙な違いと可能性を見つけるのです」』

 すべてやり直し
「トイ・ストーリー」、アップルストアで起きた、完成直前での大きな変更という大事件は、iPhoneでも起きてしまいました。

『当初は、ガラスのスクリーンがアルミニウムのケースにはめ込まれたデザインとなっていた。とある月曜日の朝、ジョブズがアイブのところに来て言う。
「昨日は眠れなかった。こんなんじゃダメだと気づいたんだ」
初代マッキントッシュ以来という重要な製品なのに、どうにも良くないというのだ。アイブもすぐに問題点を理解し、愕然とした。
「そこに気づく仕事を彼にさせてしまったことをとても恥ずかしく感じました」
iPhoneはディスプレイ中心であるべきなのに、そのときのデザインは、ケースがディスプレイと競うような存在感が大きかったのだ。機器全体が、力一杯、効率的に仕事をこなすぞという感じになっていた。
ジョブズはアイブのチームを前に宣言する。
「みんな、ここ9ヵ月、このデザインで必死にやってきたわけだが、これを変えることにした。これから全員、夜も週末も働かなきゃいけなくなった。希望者には、我々を撃ち殺す銃を配付する」
文句を言う者はいなかった。
「あれは、アップルをとても誇りに思った瞬間だった」
新しいデザインはゴリラガラスのディスプレイが縁ぎりぎりまで広がるように、ステンレススチールの細い枠で支える形となった。スクリーンが中心であり、ほかの部分はすべて道を譲る。新しいルックスは妥協を許さないものでありながらあたたかみが感じられた。いつくしむ対象になりうる。デザインを変更すれば回路基板からアンテナ、プロセッサーの位置まで、内部をすべて作り直す必要があるが、それでもジョブズは変更すると決めた。アップルならではだ、とファデルは感じた。
「ほかの会社ならそのまま製品にしてしまったかもしれません。でも、我々はリセットボタンを押して一からやり直したのです」
このデザインには、ジョブズの完璧主義だけでなく、コントロールの欲求までもが如実に反映されている。しっかりシールされているのだ。バッテリーを交換したくてもケースは開けられない。1984年に発売した初代マッキントッシュと同じように、なかを勝手にいじられたくないとジョブズが思ったのだ。2011年にアップルと関係ない修理ショップがiPhoneのケースを開いていると判明したときには、ネジを、ふつうに売られているドライバーでは回せないペンタローブという特殊ないたずら防止用のものに交換したほどだ。バッテリー交換という機能をなくせばiPhoneをかなり薄くできるというメリットもあった。ジョブズにとって薄いことはいいことなのだとティム・クック(コンパック・コンピュータ調達とサプライチェーンのマネージャを務めていた上品な37歳[1998年当時]、クックは後に、業務のマネージャからアップルの経営を裏で支えるかけがけのないパートナーへと成長する)は証言する。
「薄いほうが美しいとスティーブは信じています。その影響はすべての製品に表れています。もっとも薄いノートブックももっとも薄いスマートフォンもアップル製品ですし、iPadなど、薄く作った上でさらに薄くしたぐらいですから」』

発表(2007年1月10日)
『2007年1月、サンフランシスコのマックワールドでiPhoneを発表した際、ジョブズは、iMacのときと同じように、アンディ・ハーツフェルドにビル・アトキンソン、スティーブ・ウォズニアック、そして1984年のマッキントッシュチームを招待した。ジョブズは製品プレゼンテーションがすばらしいことで有名だが、なかでもこのiPhoneの発表は絶品である。
「ときどき、あらゆるものを変えてしまう革命的な製品が登場する」
そう語りはじめると、過去の例をふたつ、紹介する。まず初代マッキントッシュで、これはコンピュータ業界全体を変えた。もうひとつが初代iPodで、これは音楽業界全体を変えた。そして、発表に向けて慎重に伏線を張ってゆく。
「今日は同じくらい革命的な製品を3つ、紹介する。まず最初は、タッチコントロール機能を持つワイドスクリーンのiPodだ。2番目は、革命的な携帯電話。そして3番目。インターネットコミュニケーション用の画期的な機器だ」
この3つを繰り返して強調したあと、会場に問いかける。
「わからないかい? 3つに分かれているわけじゃないんだ。じつはひとつ。iPhoneっていうんだ」
その5ヵ月後の2007年6月末、iPhoneが発売となった日、ジョブズは妻とふたり、その興奮を味わいにパロアルトのアップルストアへ出かけていった。』

iPhoneアプリ
これは、第37章「iPad ポストPCの時代に向けて」の中の「デジタル世界を根底から変えたアプリ」に書かれているものです。あえて、ここを追記させて頂いたのは、革新的で魅力いっぱいの製品に加え、iPhoneアプリのビジネスモデルがあったことが、もうひとつの成功要因だと考えたからです。そして、ジョブズはこのiPhoneアプリについては、当初、話をするのも嫌がるほど否定していました。これが肯定されたのは、ジョブズの柔軟性でもありますが、取締役のアート・レヴィソンをはじめとする、アップルを愛し、iPhoneを信じ、そして何より正直だった人たちの総意がジョブズを変えさせたのだろうと思ったからです。

『アプリはiPhoneで導入された。2007年の前半にスタートした当時、アップル以外のディベロッパーから買えるアプリはひとつもなかった。だいたい、そういうことを許すつもり自体、ジョブズにはなかった。せっかくのiPhoneをぐちゃぐちゃにしたりウィルスに感染させたり、あるいはその完全性に傷をつけるようなアプリケーションを社外の人間に作らせるなどもってのほかだと考えていた。
他社製のiPhoneアプリを推進したひとりに取締役のアート・レヴィンソンがいる。
「数回は電話して、アプリの可能性を訴えました」
アプリを許可しなければ、いや、推進しなければ、そのうちどこか別のスマートフォンメーカーがやりはじめて強みにしてしまう。マーケティングのチーフ、フィル・シラーも同じ意見だった。
「iPhoneほどパワフルなものを作っておきながらディベロッパーにたくさんのアプリを作らせないなんて、そんなことはありえません。ユーザが大歓迎するのはあきらかでした」
社外からも、ベンチャーキャピタリストのジョージ・ドーアのように、アプリを許せば、アントレプレナーが次々に登場し、新しいサービスを生むようになると勧める声があがる。
このような提案をジョブズは当初、すべて退けた。アプリを開発する社外ディベロッパーをチェックし、秩序を守らせるという複雑な作業ができる余裕は社内にはないと思ったことも却下の理由だった。集中すべきと考えたわけだ。
「そんなわけで、この件については話をするのも嫌がっていました」
とシラーは言う。しかし、iPhoneが発売になると話に耳を傾けるようになる。レヴィンソンによると、取締役会でも自由な討論が繰り返されたそうだ。
「話をするたび、少しずつ、スティーブもその気になってゆきました」
そうこうしているうちに、ジョブズは、両方のいいとこ取りができると気づく。アプリの作成は社外の人間に許すが、アップルが試験し、厳格な基準を満たしていると承認したものだけをiTunesストア経由でのみ販売する形にすればいいのだ。これなら、何千人もの開発者に開発の権利を与えつつ、iPhoneの完全性とシンプルな顧客体験を守れるだけの管理が可能になる。
「これはスイートスポットをヒットする魔法のようなやり方だといえます。エンドツーエンドのコントロールを手放すことなくオープン性のメリットが得られるのですから」
とレヴィンソンは高く評価する。
2008年7月、iPhone用のアップストアがiTunesに開発され、その9ヵ月後には累計ダウンロード回数が10億回を突破する。iPadが発売された2010年4月、iPhone用アプリは18万5000本に達していた。そのほとんどはiPadでも使えたし(スクリーンサイズが大きくなってもメリットはなかったが)、それから5ヵ月のうちに、iPadに合わせて作られたアプリが2万5000本も登録される。2011年6月現在、iPhoneとiPadで合計42万5000本のアプリがあり、累計ダウンロード回数は140億回を超えている。』

17.2011年8月24日の取締役会
『健康状態が夏を通じて少しずつ悪化してゆき、ジョブズは、いつか訪れるとわかっていた現実と向き合わなければならなくなった―CEOとしてアップルに戻る日はもう来ないという現実だ。辞任するときが来たのだ。この件については、妻と話し合い、ビル・キャンベルと話し合い、ジョニー・アイブと話し合い、ジョージ・ライリーと話し合い、何週間も悩み続けた。
「アップルのために、権力の正しい譲り方を示しておきたいと思うんだ」
そう言うと、アップル35年の歴史はいつも波乱の交代劇だったと軽口をたたく。
「いつもドラマチックでね。第三世界の国かなんかかって感じだ。アップルを世界最高の会社にすることも僕の目標だし、そのためには権力を整然と譲ることが必要なんだ」
悩んだ結果、交代に一番適したタイミングと場所は、8月24日の定例取締役会だとジョブズは決心する。交代は辞表を送ったり電話で出席するのではなく、自分自身がその場に出向いておこないたかった。だから、むりやり食べて力をつけようとする。前日、なんとか行けそうだと感じたが車椅子なしではさすがに無理だった。なるべく人に見られないように注意をしながらアップル本社まで車で移動し、車椅子で会議に入る準備が整えられる。
ジョブズが着いたのは、委員会報告などの定例議題がそろそろ終わろうとする11時少し前だった。これからなにがあるのか、ほぼ全員わかっていたが、ティム・クックと最高財務責任者のピーター・オッペンハイマーはそのまま四半期の実績と翌年度の予測へと議題を進めた。その話が終わったところで、ジョブズから、個人的なは話がしたいと提案が出される。自分たち幹部社員は退席したほうがよいのかとクックがたずねる。ジョブズはたっぷり30秒ほども考え、そうしてくれと頼む。6人の社外取締役だけが残った部屋で、ジョブズは、その前何週にもわたって口述筆記で修正をくり返したレターを読みあげた。
「アップルCEOの職務と期待を全うできない日が来た場合、その旨、私から皆さんにお伝えすると前々から申し上げてまいりました。残念ながら、その日が来てしまいました」
レターはわずか8センテンス。シンプルで明快だった。後任はクックを推薦すること、また、取締役会長になる用意があることも書かれていた。
「アップルの前には、いままで以上に明るく革新的な未来があると私は信じています。今後は新しい立場からその成功を見守り、また、貢献したいと考えてもいます」
ジョブズがレターを読み終えたあと、沈黙が続く。最初に口を開いたのはアル・ゴアだった。ジョブズがなし遂げてきたさまざまな成果を挙げていく。ジョブズがアップルを変革していく姿ほどすごいものをビジネスの世界で見たことがないとミッキー・ドレクスラーが続き、さらに、スムーズな移行を実現したジョブスの努力をアート・レヴィンソンがたたえた。キャンベルだけは黙ったままだったが、経営権の移行を正式に決議する彼の目には涙が浮かんでいた。
お昼になると、スコット・フォーストールとフィル・シラーが開発中の製品の実物大模型を持ってきた。ジョブズはさまざまな質問やアイデアを次々とぶつける。特に第4世代の携帯電話ネットワークではどういう機能が実現されるのか、また、未来の電話にはどのような機能が必要になるのかについて熱心に検討した。音声認識アプリのデモでは、フォーストールが怖れていたとおり、途中で電話を取り上げ、アプリを困らせてやろうと勝手なことをはじめる。
「パロアルトの天気は?」
とたずねるが、アプリは正しく答える。これならどうだと、
「君は男かい? 女かい?」
とたずねるが、アプリはロボット的な音声でこう答える。
「性別は設定されておりません」
ぱぁっと雰囲気が明るくなった。
話題がタブレットに移ると、iPadにはかなわないとHP社があきらめた、我々が勝ったと喜びの声があがった。ジョブズはまじめな顔になり、それは悲しむできことなのだと宣言する。
「ヒューレットとパッカードはすごい会社を作り、それを信頼できる人々に任せたと思ったんだ。それがいま、バラバラになろうとしている。これは哀しいことだよ。アップルがそうならないよう、もっとしっかりしたものを残せたのならいいんだけどな」
取締役が集まり、順番にハグして、ジョブズを見送った。
幹部チームにニュースを伝えたあと、ジョブズはジョージ・ライリーに送ってもらった。ふたりが家に着いたとき、パウエルはイブに手伝ってもらって裏庭で蜂蜜の収穫をしていた。ふたりは蜂よけのスクリーンを外すと、リードとエリンがいるキッチンに蜜壺を運ぶ。そして、潔い引退と経営権の委譲を皆で祝う。ジョブスもスプーンいっぱいの蜂蜜を口に入れ、すばらしく甘いねと笑った。
その夜、ジョブズは、健康状態が許すかぎり、今後も会社には積極的にかかわっていきたいと私に想いを訴えた。
「新製品やマーケティングやそのほかの僕が好きなことに打ち込もうと思う」
しかし、自分が作りあげた会社の経営権を手放したことをどう思うのか、正直なところを聞かせてほしいとたずねると声が沈み、過去形でこう語った。
「すごく幸運なキャリアだったし、すごく幸運な人生だったよ。やれることはやり尽くしたんだ」』

ジョブズは癌と診断されたあと、息子のリードが夏休みにスタンフォードの腫瘍学研究室で大腸がんの遺伝子マーカーを見つけようとDNAの配列特定実験や突然変異がどう遺伝するのかを追跡する実験などを熱心におこなう姿をみて次のような話を残しています。

『僕が病気になってある意味良かったと言えることは少ないけど、そのひとつが、リードが優れた医師とじっくりいろいろな研究をするようになったことだ。21世紀のイノベーションは、生物学とテクノロジーの交差点で生まれるんじゃないかと思う。僕が息子くらいのころデジタル時代がはじまったように、いま、新しい時代がはじまろうとしているんだ」』

付記1.「時代は変わる(THE TIMES THEY ARE A-CHANGIN)」ボブ・ディラン 1963年
ここかしこにちらばっているひとよ
あつまって
まわりの水かさが
増しているのをごらん
まもなく骨までずぶぬれになってしまうのが
おわかりだろう
あんたの時間が
貴重だとおもったら
およぎはじめたほうがよい
さもなくば 石のようにしずんでしまう
とにかく時代はかわりつつある

 

ペンでもって予言する
作家や批評家のみなさん
目を大きくあけなさい
チャンスは二度とこないのだから
そしてせっかちにきめつけないことだ
ルーレットはまだまわっているのだし
わかるはずもないだろう
だれのところでとまるのか
いまの敗者は
つぎの勝者だ
とにかく時代はかわりつつある

 

国会議員のみなさん
気をつけて
戸口に立ったり
入口をふさいだりしないでください
傷つくのは
じゃまする側だ
たたかいが そとで
あれくるっているから
まもなくお宅の窓もふるえ
壁もゆさぶられるだろう
とにかく時代はかわりつつある

 

国中の
おとうさん おかあさん
わからないことは
批評しなさんな
むすこや むすめたちは
あんたの手にはおえないんだ
むかしのやりかたは
急速に消えつつある
あたらしいものをじゃましないでほしい
たすけることができなくてもいい
とにかく時代はかわりつつある

 

線はひかれ
コースはきめられ
おそい者が
つぎには早くなる
いまが
過去になるように
秩序は
急速にうすれつつある
いまの第一位は
あとでびりっかすになる
とにかく時代はかわりつつある

 

※歌詞対訳:片桐ユズル

※レコードの吹込みは1963年8月6日から10月31日まで(「時代は変わる」は10月24日録音)、6回のセッションで吹き込まれている。場所はニューヨーク。ディランの歌、ギター、ハーモニカのほか一切伴奏はついていない。中村とうよう

付記2.著者略歴

ウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)
ウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)

ウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)
1952年生まれ。ハーバード大学で歴史と文学の学位を取得後、オックスフォード大学に進んで哲学、政治学、経済学の修士号を取得。英国「サンデータイムズ」紙、米国「TIME」誌編集長を経て、2001年NにCNNのCEOに就任。ジャーナリストであるとともに伝記作家でもある。2003年よりアスペン研究所理事長。著書に「ベンジャミン・フランクリン伝」「アインシュタイン伝」「キッシンジャー伝」などのベストセラーがある。