日本サッカー界で今最も注目されている選手は、レアル・マドリードと5年契約を結んだ18歳の久保建英選手です。18歳で抜擢された初めての日本代表の試合で、のびのびと自分の力を発揮するそのプレーは別格でした。最近のプレシーズンマッチでも十分に存在感を示しています。
その久保選手が持っていたのが『スタジアムの神と悪魔』という“ラテンアメリカで生まれた極上のサッカー・エッセイ”という本でした。これを知ったのは、多分スポーツニュースだったと思います。
「これは読みたい!」と思い、すかさず検索しましたが、中古本も見つかりませんでした。
「では、図書館には?」と埼玉県内で横断検索したところ、12の図書館に所蔵されていることがわかり、地元のさいたま市の図書館から借りることにしました。
(念のため8月2日に再度検索してみたところ、amazonに19,800円~39,000円で3冊出品されていました)
著者:エドゥアルド・ガレアーノ
発行:みすず書房
発行:1998年4月
タイトルは全部で150あります。どれにしようかと迷いましたが、『1970年のワールドカップ』を取り上げることにしました。これは、この1970年のメキシコ大会は私が野球からサッカーに乗り換えるきっかけとなったものであり、また、ワールドカップの初代トロフィー、“ジュール・リメ杯”の最後の大会ということが心に引っかかったからです。ちなみにアジア代表は今では考えにくいイスラエルでした。
“1970年のワールドカップ”
『プラハでマリオネット映画の巨匠イジ・トルンカが死に、一世紀になんなんとする生涯を最後まで現役で生き抜いたバートランド・ラッセルがロンドンで歿した。マナグアでは、ソモサ独裁政権の大部隊を相手にたったひとり闘い続けた詩人ルガマが弱冠20歳にして斃れた。世界は時代の音楽を失った――成功を大量に食らいすぎてビートルズは解散し、ドラッグを食らいすぎてギタリストのジミ・ヘンドリクスと歌手のジャニス・ジョプリンがわれわれを置いて行ってしまった。
サイクロンがパキスタンを薙ぎ倒し、地震がペルー・アンデスの15の町を地図から消し去った。ワシントンではもう誰もヴェトナム戦争のことなど信用していなかったが、戦争は続き、ペンタゴンによれば死者は総数百万人に上っていた。その間にも米軍の偉いさんたちは前線へ逃亡し、つまりカンボジアに侵攻し始めていた。過去三度の敗退にもめげず、アジェンデはチリ大統領の座を目指して選挙運動に乗り出し、すべての子供たちにミルクを与え、銅山を国有化すると公約した。マイアミの消息筋は、フィデル・カストロは明日にも打倒される、もはやそれは時間の問題だと報じていた。ローマではヴァチカンの歴史始まって以来最初のストライキが起こり、父なる主の下僕たちが仕事を放棄し腕組みを決め込んだ。そのころメキシコで16ヵ国の選手が脚を動かし、第9回サッカー・ワールドカップが開幕した。
画像出展:「サッカーマガジン 1971年12月増刊号 ワールドカップのプレーと戦術」
ヨーロッパから9ヵ国、アメリカから5ヵ国、それにイスラエルとモロッコというのが参加国の顔ぶれ。開幕試合で、審判は初めてイエローカードを掲げた。警告のイエローカードに退場のレッドカード。ただしメキシコ大会の新顔はそれだけではない。一試合につき選手を2名まで入れ替えることが規則で認められた。それ以前はゴールキーパーに限り、しかも負傷の場合に交代できる定めとなっていた。ということは、相手チームのメンバーを足蹴にして戦力を殺いでしまうことがそう難しくはなかったのである。
70年大会を彩る図。腕を包帯で吊ったまま最後の1分まで戦うベッケンバウアーの勇姿。片目を手術したばかりなのに全試合にしっかり耐え抜いたトスタンの熱意。最後のワールドカップ出場となったペレの舞い。「二人いっしょに跳ぶだろ」、ペレのマークをしていたイタリアのディフェンダー、ブルグニッチは語る。「ところが俺が着地してペレを見ると、彼はまだずっと高いところに留まっているんだからね」
この写真がブルグニッチが語ったペレのヘディングシュートです。
画像出展:「サッカーマガジン 1971年12月増刊号 ワールドカップのプレーと戦術」
かつて王座をきわめたことのある4チーム、ブラジル、イタリア、西ドイツ、ウルグアイが準決勝で激突した。ドイツが3位、ウルグアイが4位になった。決勝戦、ブラジルは4対1でイタリアをうちのめした。英国の新聞は「かくも美しいサッカーは禁じられるべきだ」と評した。とどめのゴールの様子はありありと思い出される。ボールはブラジル・チーム全体へめぐり、11人が11人ともボールに触れたのち、最後にペレがボールに目を落とすこともなくこれをお盆に乗せ、つむじ風のように走りこんできたカルロス・アルベルトに差し出し、ゴールを任せた。
右からつむじ風のように現れたカルロス・アルベルトの突き刺さるような4点目です。
画像出展:「サッカーマガジン 1971年12月増刊号 ワールドカップのプレーと戦術」
ドイツの「魚雷」ミュラーが10得点をあげて得点王になった。これにブラジルのジャイルジニュが7点で続いた。
3度目の優勝を果たした無敵の王者ブラジルは、ジュール・リメ杯を所有してよいことになった。だが、1983年の暮れ、このカップが盗まれ売り払われたときには、およそ2キロの金塊になり果てていた。ガラスケースの中には、代わりのレプリカが飾られている。』
画像出展:「サッカーマガジン 1971年12月増刊号 ワールドカップのプレーと戦術」
画像出展:「サッカーマガジン 1971年12月増刊号 ワールドカップのプレーと戦術」
写真中央、主将のカルロス・アルベルトがジュール・リメ杯を掲げています。
画像出展:「サッカーマガジン 1971年12月増刊号 ワールドカップのプレーと戦術」
こちらがジュール・リメ杯です。
画像は「BETTING TOP10」さまより拝借しました。
サンパウロのベカンブー・スタジアムのロッカー
画像出展:「イレブン 1972年7月号増刊 ペレとサントスF.C.」
今回、本棚から引っ張り出してきたサッカーマガジンはこちらです。
サントスF.C.として来日したペレの特集も出てきました。
歴代のワールドカップボールが紹介されたページです。偶然見つけました。なお、“The New York Times”をクリック頂き、表示されるページ上段のThis is an archived pageのとなり、Original screenshotをクリック頂くと表示されます。