下田歌子8

著者:下田歌子

発行:1910年7月

出版:實業の日本社

目次は”下田歌子6”を参照ください。

第六章 婦人と敎育

三、女子の高等敎育

『然し、近來女子の高等專門敎育を受けるものが漸々多くなりまして、從って、高等敎育を女子が受ける可否も論ぜられる樣になりました。可とするもの々議論は、前に申しました通り、男子と女子と同等の力もあり、躰格も養へば同等になるのであるから、女子も當然高等敎育を受くべきものであると云ふので御座います。此の論については、一寸申して置きました通り、果して、女子の腦力、智力、躰力などが、全然男子と同樣であるか何うかが、先決問題であります。第二に、よし同等のものだとしても、女子は高等敎育を受ける必要があるか何うかと云ふ問題が來るので御座います。

先づ腦力について考へますに、自分は專門の學者でありませぬから、生理學者の言によるの外はありませぬが、生理學者の言によれば、男子と女子とは腦の組織、重量などに於いて著しく異なり、又部分的の發達に於いても異ると云って居ります。(或一部の議論は、それは養ひ樣が、男子と女子と異なって居たからで女子も男子の如く養へば同じ樣になると云ふ説もありますけれ共、其れはまづさうした後結果を見なければ、遺憾ながら、どうも左樣だと斷定することは出來ぬ。)此れに依って觀ても、男子と女子と腦力の向ふ所に差があると云ふ事は判りませう。或學者の如きは、女子高等敎育は、絶對に不可能だと云って居りますが、それも餘りに偏した議論ではありますまいか。現に歐米各國はもとより、日本の古代にも隨分立派な學者として立って居る婦人が澤山あるので御座いますから、人により塲合によって、絶對に不可能とは申されますまい。智力の上に顯れた所を見ても、殘念ながら女子は何うも男子に劣って居る樣で御座います。一體女子は感情に鋭いもので、冷靜な推理の學などには餘程不得手と云はなければなりませぬ。女子の感情に鋭いと云ふ事は、社會や國家の方面に取って、極めて有益な事もあるので御座いますが、少なくとも理性の學問と云ふ方面から見ては、これが為に男子より劣って居ると云はなければなりませぬ。ですから、女子が各種の高等な學問に立ち入って、果して能く男子と同等に推し進む事が出來るか何うかは疑はしい事でありませう。或ひは又「それは初めから女子を敎育しないからである。女子を劣等者として敎育しないから男子に劣って居るのである。敎育したら決して劣るものでなない」と、云れる方もありませう。或ひはさうであるかも知れませぬが、昔から女子には學問(高等なる意味に於いて)は不必要だと云ふ樣な氣風が世界各國の社會に行はれて、今もまづ其方の論が勝を占めて居るのは、即ち自然の合理で、未だ容易に動かし難いことだらうと思はれます。

第三の體格に於いて、男子と女子と同樣の強壯の程度であると云ふ事は、容易に信ぜられませぬ。一般に女子は男子に比して、極めて薄弱であるとしてあります。躰力に於いても、氣力に於いても、皆劣って有ると見られて居ります。特に婦人には婦人特有の組織があって、その為に身體にも精神にも非常なる影響を受けるのは已むを得ませぬ。現に婦人の大部分がヒステリー患者であると云はれるのを見ても解りませう。斯う云ふ異った體格を以って、男子と同樣に高等學術に從事して、それで果して男子と同樣の結果を擧げると云ふ事は、出來るか何うか、大なる問題であらうと存じます。勿論、男子にも女子にも、或少數の例外のあることは云ふ迄もありませぬ。

それに女子の高等學術研究は、まだ他の方面より調べて見なければなりませぬ。即ち、女子自身の幸福に取っては何うであるか。又國家が果してその樣な婦人を多數に要求するか何うかと云ふ點で御座います。一般の女子は、人の家庭に入らなければならぬものであります。即ち結婚と云ふ事は、女子の必要條件と云ってよろしい。前にも一寸申した樣に、男子は結婚によっては別に、自分の目的を妨げられる事はありませぬが、女子に至っては、結婚は我身に對して一大變化を與ふるものであります。結婚が必要條件であるとすれば、結婚前の女子の修養は、大部分この結婚を目的として行はれなければなりませぬ。結婚後は既に人の家庭に在って、大責任を帯びて居るのでありますから、容易に專門敎育に首を入れる事は出來ますまい。さうして、結婚には自から時期があります。ですから、若し婦人が高等敎育を受け樣とするには、勢ひ婚期を延ばすか、又は獨身生活の覺悟でなければなりますまい。此れは女子に取って重大の事で御座いますから、極めて綿密に考へなければならぬ事で御座います。

第二に今の世の中は、女子の高等敎育を歡迎するか何うかと云ふ事で御座います。國家社會の程度が今よりもずっと進んだ後ならば知らず。目今の有樣では、家庭の主婦として最高等なる專門敎育を受けた婦人を迎へる必要がないのみならず、今の社會は却ってこれを嫌って居る樣で御座います。女子の高等敎育を受けた人々が、婚期の遅いのは、女の方では行くべき所を選んで理想が高きに過ぎ、貰ふ方では、あまり歡迎しないと云ふ點にあるのだろうと存じます。して見ると、何れの方面から見ても、女子の高等敎育はさまで必要のものでないと云はなければなりませぬ。併し社會は極めて複雑で、生活の狀態も日に月に困難になって參りますから、婦人は必ずしも結婚して良妻賢母となり得ると云ふ限りでもなくなりませう。歐洲各國の女子高等敎育の盛なのは、大部分此の理由によるのではないかと存じます。(又一方には、女權擴張の為に、男子と同等なる、躰力智力の養成を必要とする理由もありませうが)日本でも、此れから後、この形勢は免れますまい、又何う云ふ事で獨立の必要があるかも知れませぬ。或ひは又一身を學問界に投じようと云ふ婦人も御座いませう。是等の婦人の為に、一二の高等敎育機關のある事は、むしろよい事でありませうが、大體から云っては、女子に高等敎育の必要は、今の所では、さまで痛切だとは思はれないので御座いますから、多數の女學校はまづ高等女學校程度位のが適當であらうと存じます。

尚女子敎育に對する卑見は、他日又別に起稿の積りでありますから、此處には、唯眞の愚案の一端を述べた迄で御座います。』

感想

国家社会が成熟し、社会が複雑化していくという前提に立ち、女子の高等教育の必要性が高まってゆくことは時代の必然であり、既に欧州各国の動向はそれを暗示している。という下田先生の見識は、明治時代にあっては、極めて貴重なものであったと思われます。