下田歌子2

下田先生は明治時代を代表する女子教育の第一人者であり、津田塾大学を創設された津田梅子先生の師匠のような時もありました。

そのような偉大な先生ですが、今回は歴史に残るような業績に注目するのではなく、どんな人柄だったのか、何を大切にしていた人だったのか、それらを知ることで下田先生の生き様や信念の源を知りたいと考えました。そして、そのような視点で傳記を拝読することにしました。

なお、あえて時代感を出したいと思い、可能な限り本書に出てくる漢字や言い回しを使っていますが、読み取れなかったり漢字が見つからなかったりした場合、やむを得ず〇と記しています。ご容赦ください。

下田歌子先生傳
下田歌子先生傳

編輯発行:故下田校長先生傳記編纂所(代表:藤村善吉)

出版:1943年10月8日(非売品)

晩年の下田歌子先生
晩年の下田歌子先生

画像出展:「下田歌子先生傳」

目次

序文

第一章 家系

 第一節 誕生

 第二節 系譜

 第三節 祖父東条琴臺

 第四節 祖母貞子

 第五節 父鍒藏

第二章 神童

 第一節 櫻田の一句

 第二節 五歳の歌

 第三節 志士の家

 第四節 才藻卓然

 第五節 菊花の賦

 第六節 鍊武

第三章 出關

 第一節 夜明け前

 第二節 東路の旅

 第三節 繪姿

 第四節 無言の訓戒

第四章 宮中奉仕

 第一節 雲の上に

 第二節 天寵

 第三節 婦德

 第四節 供奉の光榮

 第五節 楓の君

 第六節 聖德餘韻

 第七節 感泣記

第五章 桃夭女塾前後

 第一節 短き團欒

 第二節 結婚

 第三節 沈潜

 第四節 その第一歩

 第五節 おもかげ

 第六節 時代の迹

第六章 華族女學校四谷時代

 第一節 惠みの秋

 第二節 巨人の片影

 第三節 榮光

 第四節 熱意と努力

 第五節 四十四日の旅

 第六節 榮光の累到

第七章 渡歐

 第一節 遙けし波路

 第二節 忘れ得ぬ人

 第三節 雁信

 第四節 勝報頻々

 第五節 謁見

 第六節 いへづと

第八章 所謂永田町時代

 第一節 前官復職

 第二節 湯氣の玉

 第三節 寒松垂柳

 第四節 彌榮

 第五節 賦才

第九章 常宮周兩殿下の御教育

 第一節 御生誕

 第二節 献言

 第三節 初進講

 第四節 光榮の家

 第五節 陪遊記

第十章 實踐學園の發足

 第一節 新しき出發

 第二節 基礎

 第三節 時流超越

 第四節 庭の靑桐

 第五節 記念日

 第六節 遊説

第十一章 志那留學生の教育

 第一節 播かれし種子

 第二節 異邦の撫子

 第三節 人生浮沈

 第四節 炯眼

 第五節 母女重會

 第六節 風雲の一女性

第十二章 途上十年

 第一節 斷行

 第二節 思ひ出の官舎

 第三節 楠の葉蔭

 第四節 描かれし素像

 第五節 軍國婦人昂揚譜

第十三章 著作等身

 第一節 國文學の明珠

 第二節 文質彬々

 第三節 倦まざる垂訓

 第四節 日本の女性

 第五節 結婚要訣

 第六節 源氏物語講義

 第七節 不世出の通釋

第十四章 愛國婦人會々長時代

 第一節 奇蹟的誕生

 第二節 烈女發心

 第三節 直行無碍

 第四節 名門の偉材

 第五節 前進

 第六節 北馬南船

 第七節 輝く成果

 第八節 災禍即應

第十五章 實踐學園の興隆

 第一節 常磐の松陰

 第二節 師弟愛

 第三節 光榮の一途へ

 第四節 結實期

 第五節 生ける信仰

第十六章 哀哭記

 第一節 診療年誌

 第二節 仆れなむ敎壇に

 第三節 歸幽

 第四節 出棺式

 第五節 告別祭

 第六節 埋葬

第十七章 香雪餘薰

 第一節 時代の人

 第二節 知行合一

 第三節 二碑の建つ日

 第四節 歌日記二つ

 第五節 御仁慈

 第六節 遺芳萬古

下田歌子先生年譜

第二章 神童

第二節 五歳の歌

『なにしろ學事の盛んな藩中だったから、お正月の遊びといふと、まづ非常に流行したのがかるたである。先生の親戚朋友の間では、みなお手製のかるたを三四通りは持ってゐた。順々に古歌や古詩を選して、上の句下の句を記して置いて取るのである。如何にも初春らしい上品な遊びであると共に、これによって知らず知らずのうちに、古來有名な詩歌を覚え込んで、各自の情操を豊かにする手段ともなった。殊に先生の周圍數軒には「有志がるた」と名づけ、維新前に國事の爲に奔走した。志士たちの詩歌ばかりを集めた特別な一組があった。

勿論さうした特殊なかるただから、ごく内輪同志の間でだけ、内燈で讀んで内證で取る性質の内證で取る性質のものであった。このかるたの中には、すでに始まった幕政の壓迫で、空しく仆れた志士の作も多かったし、畏れながら、孝明天皇の御製「うたでやむものならなくにから衣いつまであだに日をかさぬらん」などという有難いお作に當ったりすると、みんなが申し合わせたやうに御拝をして、襟を正して取ったものである。中にはこの「有志がるた」を取ってゐるうちに、次第に憾極まってきて「いますぐ大御代に成し奉ります」といって、そのまま泣き出す淸年もあった。これを取り始めると、定家卿の小倉百人一首など、古臭くて憾銘が薄くて、誰も手にする者がなかった位である。

かうした樂しい、さうして意義ぶかい年中行事を、三歳、四歳と重ねてゆくうちに、いつか下田歌子先生の幼さい詩心をゆり動かしたものであらうか、五歳のときの元旦に、突然祖母の貞子刀自のお部屋のお部屋へ駈け込んで、「ああ、歌が出來ました」と先生が叫ばれた。祖母君も驚いて、どういふ歌が出來たかと笑ひながら聞かれると、勿論文字の書けない幼女のことだから、先生は口からすらすらと「元旦はどちら向いてもお芽出たい、赤いべべ着て晝(昼)も乳呑む」といはれたので、それが傳へ傳はって周圍一黨の快』

下田先生5、6歳の筆跡
下田先生5、6歳の筆跡

画像出展:「下田歌子先生傳」

第五節 菊花の賦

ともかくわが下田歌子先生は、八幡大菩薩の申し子といはれる程の、申分のない神童ではあったけれど、祖母君や母上にとっては、少しも眼の放せない娘御であったらしい。文久二年、壬戌の歳は先生九歳の年であったが、やはりかういふ挿話が残ってゐる。

前記の通り手當り次第に博讀した先生は、その頃同時に二冊の俗書を讀んだ。一冊は例の楠正成公の孫、駒姫の傳説を主題とした今でいふ大衆小説であって、駒姫が怨敵の足利氏を滅ぼそさうとして、戰勝の祈願をかけ、忍術を使って敵を攻めにゆくところがある。物語の立役者がお姫様だけに、これが先生に大いに氣に入った。

もとより荒唐無稽なつくり話には違ひないが、子供ごころにはまだ明確に、空想と現實との境界線がわからない。なんでも無闇に強い女性になって、早くお父上の冤を雪がうと考えてゐるのだから、空想も現實もあったものではない。

楠駒姫が、のちに隱遁の術を學び、水垢離をとり出した。が、それも四五日して母君に見つけられて、例の通りの告白後、大目玉の果ての厚い訓戒を頂戴した。

もう一つは、これも今でいふ大衆ものの一つの仇討譚で、主人公の若者が不倶戴天の父の仇を討つ爲に、武藝を勵む話の途中に、盥に水を汲み、その水面を右手でぱっと打つ。

その水が、初めはびしょびしょ飛んであたりを水だらけにするが、次第に技が冴えてくるにつれて、手でさっと水を切っても、盥の水は少しも飛び散らない、すっと二つに割れて上まで上ってくる。さうなればもうしめたもので、仇の首を打落すことなんか造作もない。

さうして若者は諸國を遍歴して、首尾よく仇にめぐり合ひ、一刀のもとに相手を斬仆して終ふ、といふやうなことが書いてある。

これはいい事を知ったと思って、先生みづから毎朝湯殿へ行って、盥に水を汲んで、まづ手始めに十遍ぐらゐぴしゃんぴしゃんやって見るが、忽ち湯殿の中は水だらけになって終ふ。物音をききつけて婆やがやってきて、驚いて留めるのだが、先生は到底開業多々で、思ひつめた事をおいそれと中止するやうなお嬢様ではない。

そこで婆やが、呆れて母君にと言上する。結局は訴へが祖母君、父上にまで達して、大笑はれに笑はれて、そんな夢みたやうな事が、どうして八つや九つの女の子に出來るものかと意見されて、この武勇談もまたその儘に立ち消えとなった。

安政四年、下田歌子先生が四歳にして、幽閉[藩内の勢力争い]の憂目を見た父君は、足かけ六年の日子が過ぎたが、いまだその禁が解けさうもなかった。さういふうちにも九月九日、重陽の節供が到來した。親ごころといふものは、有難いものである。昔通りの武家の慣ひとして、三度三度のお食事を漬物一點ばりで通すやうな、質素極まる苦しい生活の中からも、この日から小袖(綿入衣)を着る舊習通り、父鍒藏氏が特に下田先生の爲に、「九歳のお祝」として木綿紋附ながら紅掛花色に、菊と紅葉の裾模様をあしらった新らしい衣類を作って下すった。』