下田歌子10

順心女子学園六十年のあゆみ
順心女子学園六十年のあゆみ

編集:順心女子学園六十周年史編集委員

発行:昭和1984年10月

出版:学書房出版

共愛の世界

・震災後、世の痛切な要求によって、普通の高等女学校も設立された。順心高等女学校がそれである。しかし校長始め理事たちのこの計画は単に世の要求と云う単純なものではない。ここに大きな共愛の世界を創造してみたいというのが理想の根底にあった。

・順心女学校は主として家庭の都合で、高等女学校に通学し得ないもの、又は本人の希望でこの学校を選ぶ人の為の学校である。この二つの学校には富についての差があるが、同じ校舎、同じ職員、行事や式も一所に行われた。家庭の恩恵により高等女学校に学ぶことのできる幸福を深く内省する生徒たちと、境遇上富裕でないが将来の幸福をめざして真剣に努力する女学校の生徒たちとが同じ学び舎で、たとえ内容は違っても共に教育されるということはすばらしいことであった。このように両校の娘達の心の中には富に対する偏見はみられなくなった。感謝と思いやりの心を育てたいというのが私達の姉妹校を併立させた願いであった。

・社会においては富の調和も大切であるに違いないが、更に人心の調和即ち共愛の世界が尊いことと思われる。

森本副校長と姫小松

・『順心高等女学校は創立以来、祖先を崇び、虚飾を避け、質素勤労を旨とし、実践躬行を第一義とし、貞淑にしてしかも毅然たる節操を身につけた女生徒の育成をめざして教育が行われてきた。しかも旧態に捉われることなく、進んでやまない時代に常に適応できる能力の伸長に意が払われてきた。従って明るく真摯な雰囲気が校内にみなぎっていた。この順心教育の根元はもちろん下田校長の優れた教育観と卓越した教育方針にあることは論をまたない。

・下田校長は実践女学校との兼務だったため、森本常吉氏が副校長に就任された。下田校長の訃報に殉ぜられるかのように十余年をもって退職されたが、この期間がおそらく順心高等女学校の黄金時代だったと考えられる。森本副校長は後世に文献を残すため、創意と努力により順心高等女学校学友会誌の“姫小松”を創刊された。この会誌により、当時の学校生活を偲ぶことができる。なお、姫小松の名は下田校長作旧校歌からとられたものである。

順心高等女学校の廃止

・『順心高等女学校は、昭和二十四年三月三十一日をもって、順心の歴史と伝統を、順心中学校、順心高等学校に引き継ぎ、その使命をおえて廃校となった。順心高等女学校は、大正十三年三月、関東大震災直後に創立されてから、四分の一世紀の間、波欄曲節に富む歴史を綴ってきた。その歴史の後半は長い戦争の重圧下におかれていた。にもかかわらず学園は、土曜会、大泉農園の教育にみる如く、女子教育本来の姿を失うことなく、明るく、着実な学園生活が続けられた。その結果として三千百八十三名にのぼる有為の才媛を世に送り出してきた。

順心高等女学校が掲げた高い教育理想と、真摯な教育実践の姿は、今日の順心女子学園に生かされつつある。』

学友会から生徒会へ

・『「今回当校に於いて学友会雑誌姫小松を発刊することになりました。之は当校の発展上誠に適当なることと深く欣ぶ所であります。之までたびたび催された学芸会、運動会、其他いろいろの企てなど、甚だ有益にして且つ趣味深く感じたものの全然跡方もなくなってしまったのは如何にも惜しいことであるが、其れをこうして形の上に留めて置いたならば、現在において有益であるのみでなく、今より後長い間の思い出ともなるでありましょう。……(後略)」

下田校長のことばの通り、この学友会誌「姫小松」は本校の歩むを知るための最も重要な資料的役割を果たしてくれているばかりでなく、これを通して生徒全員を会員として組織されていた学友会が、今日特別教育活動の一環として、人間形成の上から特に重視されてきている生徒会活動の先駆的な姿を示してくれていることを知ることができる。これが今から半世紀も前であることを思う時、当時の先生方の先見に大いに感動をおぼえる。』

“けやき”

・『校庭の真中に立っている一本のけやき、仲間もなく、ひとりぼっちだが孤独を嘆かず、おまえは強く生きる道を知っている。ふとく真直ぐな幹、伸び伸びと広げている枝。季節の訪れをよく知っていて、芽を出すべきときには出し、若葉で色どるときは、美しくいろどり、夏は茂だけ茂って大きな影を落し、秋は近づく冬を知ってたたずまいを整える。おまえはひとりいてさびしがらず、ふとく強く生きる自信と信念をもっているようだ。天と地のめぐみを活用し、光と水をうまく摂取して誤まらず、屹然としてそびえ、空間を画し、生きることのよろこびと誇りを歌いあげている。

ひとはおまえのこの雄々しさと美しさを見あげ、その自然の心の素直な深さと微妙な動きにうたれる。ひとの生きる道の真理をおしゃべり抜きの誠実さだけで教えているようだ。』

欅

画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」

初代・二代の校長に仕えて

・下田校長の校長とする学校にふさわしく、敬神崇祖を根幹とする極めて質素なもの。

・行動訓話に際して、天照大神を遥拝した。

毎月三日に全校生徒職員が往復徒歩で明治神宮に参拝した。

六十年のむかし 第三回卒業生

・『当時の順心は「赤十字病院下」という市電の停留所のそばにあり、附近はどこかの田舎の村のようなところでした。停留所で下車するのは麻布の中学生か、順心の女学生かだけでした。校門を入ると小さな庭があり、その突き当りに二階家の小じんまりした校舎があって二階が講堂、下が料理室、ミシン室があり、道路に沿うて普通の教室が三つあったのです。教室から廊下越しに庭をみると一面の草原で片隅に小使いさんの家庭菜園があり鶏が数羽、いつも楽しそうに遊んでいるのがみえました。この校庭には夏ともなるとトンボや蝶がたくさんとんで来て、私たちを楽しませてくれました。きれいな小川の流れもあったように思います。とてものどかな学校のたたずまいでした。

下田校長先生は時折おみえになり、一同に訓話があり、女としての処世術や時局のお話など数々ありました。円い柔和なお顔は忘れません。また、校長先生が榊の飾った祭壇でのりと[祝詞]をあげられるのを乙女心に不思議なものをみるような好奇心で拝見していたことを憶えています。』

・『学期末には学芸会があり、自分たちでお汗粉を作って何杯もたべたものです。若い時の味というものは忘れ難いものです。この時は誰もがかくし芸をやることになっていて、これには悩まされました。飯田さんという深川から通学している下町娘が義太夫をやったのは驚かされた。威儀を正し、肘を張り、声高らかに“ウー”と語り出した。校服のひざの上の手はきちんとしていて、出し物は何であったか覚えていませんが、感心する人やら、笑いころげる人やら、それはもう大変なさわぎでした。木の葉が動いてもおかしい娘時代全く貴重な体験でした。当時の娘さんで、特殊な方でない限り、こんな芸を持ち合わせている人はなかっただけに、私たちは飯田さんに芸のきびしさを教えられました。其の後飯田さんは人気者になりました。』

・当時の通学は市電だった。電車道は枕木だけで停留所のところに板が敷いてあった。裸の線路に夏草が茂っていたのも目にやきついている。

恩師下田歌子先生を偲んで 第一回卒業生

・『震災前はこの校地に順心女学校という、当時の主な政界財界の夫人の方の集まりの慈善事業として設けられていた三年制の女学校がありました。ところが震災で東京中の学校が大半焼失してしまったので、その窮状に対処すべく取敢えず新しく普通の高等女学校を立てなくてはという事になって急遽創立されたのがこの順心女学園の前身順心高等女学校だったのですから、校舎もそれまであった順心女学校の校舎の一部を使って一応授業がはじめられたような状態でした。ですからはじめのうちは順心女学校と順心高等女学校が同居していたわけでした。幸にも火災に遭わなかったその校舎は、規模は小さいながら、窓枠などは、分厚な額縁のように厚くできていて、木造ながらどっしりと重厚で、外国のクラシックな建物を見るような感じのところがありました。

・当初は、生徒は一年生のみで三組、講堂などもなくて二階にある大きな畳敷きの礼法堂がその代わりに使われた。そこに毎月一度位、校長先生がお見えになって講義があった。

校長先生は平常は実践女学校の方においでになったが、ちょいちょいお見えになっていろいろとお話をしてくださるのを、コチコチに緊張してうかがったものだった。

・『校長先生をはじめ、品格高いお年寄りの夫人方が腐心していられるお気持ちが痛いほど感じられまして、あんなきびしい時代であったにも拘わらず、精神的には全く恵まれた環境で育てて頂いたありがたさが、五十余年経った今、現在のすさんだ世情を思うとき殊更しみじみと感じさせられ、なつかしくもありがたく、感慨一入でございます。』

・『本校は前述のような生い立ちの学校ですから、その母体である理事会評議員会は朝野の名士の夫人方百余名の方々で組織され、下田歌子先生を校長に仰ぎ、顧問には元総理大臣清浦圭吾伯、文部大臣水野錬太郎氏など名を連ねられ、公立私立を問わず他校には類例をみない特殊な存在でありました。ですから第一回卒業式の際は、卒業生約百五十名、在校生四百五十名ばかりの小さな学校で、会場も震災後に建築された簡素なものでしたが、元総理大臣清浦奎吾伯ご夫妻、水野文相、板垣退助氏夫人はじめ輝かしい方々のご臨席はあり、殊に元総理大臣から親しくご祝辞を頂くなど望外の光栄に浴しました。よく伝統ある本校といわれますが、本校の伝統はこういう所に端を発しております。』

・(この卒業生は卒後、実践の国文科に進学)下田先生は国文学者としても名高く、源氏物語の講義は有名だった。実践倫理の時間には、日常の出来事や時事問題を、ある時は国際人として世界の日本人の立場から、ある時は生物界の一員である人間としての立場から、当時としては全くスケールの大きなお話をうかがうことができた。また、父君ゆずりの儒学の造詣は一段と深く、孔子・孟子の道を「論語」「孟子」を講ぜられるのではなく、ご自分の信条として、根本的な心の持ち方として事に触れ折に触れて説かれていた。「各人がまずおのれを修めること。そして身近なものからだんだんと遠くに及ぼして行く。家から社会から天下国家までそれが拡がって行ったとき、どんなに美しく楽しい住みよい世の中が出現するだろう。」というような、すべての根本は各人の心の修養にある。

・下田先生は長く明治天皇の宮中に女官として奉仕し、和漢の学もさる事ながら、特に歌人としてのすばらしい資質は皇后陛下から「歌子」の名を頂戴して以降本名「せき」を改めて「歌子」と名のった。

・王朝時代に宮仕えして文学の道に不滅の名著を残した紫式部や清少納言とよく似た環境にいた。そして、皇女方のご教育のため、また一般子女の教育の為に英国をはじめとして広く欧米各国に二年間、滞在し視察研究を続けられた。帰国後は内親王方のご教育だけでなく、広く女子教育の為に全力を傾注された。

・『「資源の少ない日本は、貧乏な日本、だのにこの頃は物を粗末に扱う傾向が出て来ているのは憂慮に堪えない。」といつもおっしゃっていられましたが、物を大切にせよ、というお話の中で、次のような例をひかれたのがたいへん感銘が深くて、何かにつけて今でもはっきりと思い出されることです。世間では宮中のご生活はさぞぜい沢なものであろうと拝察しているのであろうが、皇族方は物に対して非常につつましいお気持ちをもっていられて、物を大切になさることは想像できない程である。明治天皇の常にお使いになっていらっしゃるお部屋の毛皮の敷物が一部痛んだので、お取換え下さるようにと再三お願いしてもどうしてもお許しがない。使用に堪えない程になるまではどうしてもお取換えにならなかった。又先生がお仕え申し上げていた内親王様がお使いになっていられる鉛筆が短くなってもお換えにならなかった。そしてこういう意味のことをおっしゃった。この鉛筆は今自分が捨ててしまったら永久に鉛筆としての役には立てない。廃物になって捨てられてしまう。大切につかえるだけつかってやらなければ鉛筆が可哀想だ、と。このお年若な内親王様のお言葉には恐懼の外はない。お金がかかるから節約するというのではない。物そのものを大切になさるご精神である。』

建学の理想

・校訓は「健康」「知性」「奉仕」の三つに象徴されている。

・「常識の養成」は下田先生の人格、教養、経験から生まれた人間観や教育観が極めて分かりやすく述べられている。この本の出版後数年して順心女学校が創設された。従ってこの本により、本学園建学の理想を伺い知ることができる。

「健康」

順心女学校の教育課程の中には体育の時間が当初から特設されていたことは、当時の各種学校的私立学校では画期的なことであって、積極的な女子の体力づくりに対する取り組み方がうかがえる。なお先生は運動競技も奨励され薙刀など武道のほかにバレーボール、バスケットボール等をとり入れられていた。特に先生は完全なルールの尊守によってのみ成り立つスポーツを若人の人間形成に必須なものと書いている。また、健康教育の消極面である保健衛生にはあらゆる機会をとらえて理論的・実践的な指導を行っておられた。

「知性」

・『婦人の賢愚が国家社会の盛衰に重大な関係があり、女性の教養の低さや、知識のないことや、何ひとつ頼るべき技能をもたないことが、罪をさえ生むと考えられた婦人慈善会の夫人たちが、そのために創立されたのが順心女学校であるから本学園健校の理想の中心は女性の知性を高める点にあったことは明らかである。下田先生の樹てられた教育目標の主眼もここにあり、「学園深く常識にとみ、知識が広く、必要な技能に熟達した女性を育てる。」と書いておられる。』

・先生は徹底した実学主義の立場を堅持され、実地に役立つ知識や技能の習得を第一義と考えていた。

・生きて働く知識を身につけさせ、あらゆる世の中のできごとに対し、常に適確な判断によって処理できる能力を得させることが大切であると説いた。

・先生は平安時代の婦人よりもなぜ明治、大正の婦人たちが常識に欠けているかを封建制の遺産として事例をあげて歴史的に解明された上で、真の常識の必要性を女性の生き方の問題として述べている。

手芸や裁縫はもちろん、音楽でもよし、書道でもよし、絵画でもよし、語学でもよし、生涯にわたって生きる支えになる何かを身につける為の指導が行われた。

・『「現実の地に足を立て、理想の天に頭をつけよ。」と生徒に説いておられる。理想を抱かぬ人に進歩はない。現実の生活をしっかりとみつめつつ、これに満足することなく、理想に向かって着実な一歩を進めること。これのできる人を知性的女性とよんでおられた。

「奉仕」

・下田校長は「国民的徳性の涵養」を教育目標の重点にかかげた。

・克己犠牲の精神にとみ、どのような困難にも堪え忍び、他のために尽くすことに喜びを感ずる謙虚な品性の高い女子の育成を期した。

・操行点は学業全体の成績にも匹敵する重さをもって評価された。

・操行は他との関り合いの中におけるその人間の品格である。“自らのため”ではなく“誰かのために何かをした”というのが善行である。

麻布今昔

・認可申請書に書かれた学校附近の状況:『西は川を隔てて福田会に接し、東は電車通りを隔てて閑静なる民家に面し、南は育児会拝借地、北は増上寺拝借地にして何れも官有に属する空地なり。且つその近傍には道徳上、衛生上に害を及ぼすべきもの毫もこれなし。』

・有栖川公園は旧藩時代森岡藩主南部美濃守の下屋敷だった。その後、大正二年有栖川宮の祭祀を継がれた高松宮家用地となり、昭和九年一月十五日、有栖川宮威仁親王の御命日を記念して東京市に下賜された。市は自然林泉公園としての遊園設計を樹て、昭和九年十一月に開園され今日に至っている。

・麻布の地名がはじめて文献に現れたのは平安末期の作といわれている「江戸志」であり、これに「ここは多摩川へもほど遠からざれば、古はこの地に麻を多く植え、布をも織り出せるゆえの名ならん。」とある。

・鎌倉時代に入ってからは善福寺の建立にみられるように新仏教の影響が強くこの地にも及んでいた。南北朝の頃の麻布は足利尊氏の所有であったため北朝の正朔を受けていた。

・家光が参勤交代を確立してから諸大名がそれぞれこの美しい麻布の自然にひかれて下屋敷をつくるようになったらしい。将軍直参旗本の修練のための鷹場もこの地にもうけられた。死者十万六千余といわれた明暦の大火の時、江戸市民の避難場所となったのも麻布であり、これらの記録により江戸初期の麻布のもつ特殊な地域的性格をうかがうことができる。

・『順心の校地として定められた現在地「広尾」はもと「つくしが原」とも「広野」とも呼ばれ、野趣に富んだ春の摘草、秋の虫聞などで庶民にも愛好された麻布のなかでも特に武蔵野の趣の豊かに残る地域であった。江戸末期には今の有栖川公園附近に百姓町屋ができ、他は武家屋敷と畑地と林野が点在する有様であったという。維新後、徐々に市街地的発展が広尾にも進み、小規模住宅が密集する地域ができたり、都市には必要であるが地域環境的には望ましくない施設ができたりもした。しかし学園の前面一帯は、江戸時代の諸侯の屋敷の名残りが、北条坂、南部坂、木下坂となって今に残り、これらの坂の名に往時を偲ぶことができる。そしてこの地帯は、長く官有地であったことも幸して、開発の波に洗われることも少なく、緑豊かな麻布の高級住宅地のまま残っている。学園の背面もまた、樹木の多い自然の中に日赤病院の白堊の近代建築を望む、いかにも都会的なしかも静寂な風情をもつ地域である。開校当時の立地条件の本質的なよさを残して近代化の進められているまことに恵まれた場所というべきである。』

感想

全てのブログをふり返り、下田歌子先生の生き様と信念を考えると、まず頭に浮かぶのは圧倒的な”行動力”です。まさに実行の人です。また、生涯にわたって“讀書”を愛しました。同じく、生涯にわたって”敬神”を貫いた信念には一切の揺らぎはありません。

食にも住にも、そして己の欲にも無頓着な先生の教育方針は、“着實質實”であり、先生の生き様を映しています。さらに、留学経験を活かした“国際感覚”と時代を先取りする“洞察力”も他を圧倒しています。

ひ弱な女子には“體育”がことさら重要であると痛感し、武道だけでなく、球技などの必要性も強く訴え、そして運動会を世に広めました。これは思わぬ大発見でした。