下田歌子1

下田歌子先生のことを書いたブログは全部で10個です。内容は何となく下田歌子研究のような雰囲気になっています。何はともあれ、己のマニアック度には感心します。

何故、下田先生に興味をもったのか、その理由は2つです。

昨年10月、102歳で他界した母は、昭和6年から10年までの5年間、順心高等女学校(現広尾学園)に通っていました。この5年間、校長先生は下田歌子先生でした。

母はその後、小学校教師になりましたが、その母から教育方針のような話をされた記憶は一度もありません。もっとも、「サッカーはほどほどにして、勉強しなさい」ということは、毎日のように言われていました。これは憧れの早稲田大学に入ってほしかったからだろうと思います。

本当に何もなかった可能性は多分に考えられるタイプのヒトなのですが、もしかしたら、無意志の中に下田先生の教えが潜んでいたのではないか?とも思いました。もし、そうだとすれば、下田先生の教えとはいかなるものなのか、知りたいと思いました。

とりあえず、下田歌子先生のことを調べてみると、なんと、命日が母親と同じ10月8日であることを知りました。

「えっ」、ちょっと不意打ちをくらったような感じです。ちなみに命日が同じ日になる確率は約0.27%です。単なる偶然とは思いつつ、何か意味があるのではないか、などという妄想が後押しとなり、「やっぱり、調べてみよう」ということになりました。

下田先生は多くの著書をお持ちですが、数多くの短歌も残されています。

なんとなく、ネットで検索したみたところ、早々に見つけたのが以下の作品でした。

下田先生、紀行文『香雪叢書 第一巻』に掲載。
下田先生、紀行文『香雪叢書 第一巻』に掲載。

詞書:「まひこが浜に遊びける時、鉄道線路にあたれるところどころ、大木のきり倒されたるをみて、こころにおもふことありて」

短歌:「みちのため倒るとならば媛こまつ もとより千代もねがはざるらむ」

:道(鉄道)のために倒れる(切り倒される)とわかっていたならば、この松も小さい媛小松のときから、千代に生きることを願わなかったでしょう。

すごく雰囲気があるなぁと思い、15万円近くしたのですがあまり悩むことなく買ってしまいました。

購入後、いくつか分からないことがあり、とりあえず、下田先生の出身地の恵那市に問い合わせたところ、ご担当の方がとても親切で、わざわざ、実践女子学園下田歌子記念女性総合研究所に問い合わせまでして頂いた結果、この作品は「香雪叢書 第一巻」に収納されているものであることが分かりました。

となると、今度はその本「香雪叢書 第一巻」が欲しくなり、幸い“日本の古本屋”に販売されていたことから、ほぼ必然的に買ってしまいました。

香雪叢書 第一巻
香雪叢書 第一巻

香雪叢書(紀行随筆よもぎむぐら)

編集者:栗原元吉

出版:1932年11月

発行:實踐女學校出版部(非売品)

 

購入した短歌は、香雪叢書の”四十四日の記”の中にありました。

下田歌子先生傳』によると、

明治21年(35歳)

五月、病後療養傍々、關西地方各地女學校視察旅行に上り、六月、二十年振りにて鄕里岩村を訪ふ。母刀自これ同伴さる。

と書かれており、”四十四日の記”は、この関西地方への旅行のことを指していました。

なお、ブログは当時の雰囲気を大切にしたいという思いから、できる限り古い漢字や言葉使いのままにしています。

大垣

・次の朝、小崎知事訪らひ来まして、昨日は大臣を一日待ち暮したるに存せず、今日二番の汽車にて、再び大垣迄ゆかんとす、いざ諸共にといはるるに、さらばと急ぎ装ぎきたちて、加納の停車場に至り着く。

・『此のあたり、櫻の古木、楓の若木など多し。樓に登れば、惠那山遥かに見ゆ。霞まぬ日は、名古屋の天主も見ゆとぞ。高き山の麓に噴火山めきて見ゆるは、小牧山なりと聞くに、徳川家康が、織田の遺孤を助けて、秀吉の膽をしも挫きけん昔思ひ出づるに、さまざまな思ふ事少なからず。暮れぬ程にとて瀧のほとりに行く。こは元正天皇の御宇、美濃の孝子が親の為に掬びつる泉、美酒になりたりと傳ふるは、誰も誰も知る事にて、今は養老酒というふ物さへ醸してひさぎ、此の國の名産の一つとはなりけり。

母君、今より卅餘年のむかし、汝を乳母に抱かせて、来りつる所ぞなど宣ふ。夢にだに覚えぬ事なれど、目の前にありし事の様に覚えて、あはれ淺からず。今も猶健やかにて、みともして来つる、いと嬉しきものから、父君は、齡も古希を越え給へば、長き旅路思ひたち給はんやうも無くて、一人残しとどめ參らせたれば、これのみと飽かず口惜しくぞ思ゆる。』

惠那山
惠那山

画像出展:「岐阜の旅ガイド

 

岩村城下町
岩村城下町

画像出展:「岐阜の旅ガイド

 

銀閣寺

『次の日は朝まだきより、例の友にしるべ請ひて、田中村なるふる人尋ねんとて行く。こは昔我が宮仕へに出で立ちける頃親しかりしなり。齡も傾きて幽かなるさまにてと聞く、いみじうあはれにて、ふりはへ訪らひつ。と許り語らひて畦道を廻り出つつ行く程、左の方の田の中に古松二本立つる所を玉垣したるは、二条天皇の御陵なりといへば、遥かに拝みいて、東山の銀閣寺にいたる。こは足利義政が驕奢に耽りたる頃、作りたる所なりと聞けど、最と狭くおろそかなるに、當時の人の住居思ひやらる。思へば、かかる開明の御代に生れて、草枕結ぶとわびけん旅寝に、綾の衣を被き、椎の葉に盛るといひけん客舎に珍味を食ふ。まことにかしこく添けなき事なりかし。さはいへど、庭園は數百年の星屑を經つれば、物さびて見所多し。ただ向月堂[今は向月台]銀砂淵[今は銀沙灘]などいふもの、白き砂を丸く高く、或は長く斜めになど盛りなしたる、風致なくて、今少し爲んやうもあらましとぞ覺えし。月松山の麓にてとひけん峯は、やがて軒端に聳えて、緑の色深う見えたる、げに影の匂はん程をかしかるべし。これにむかへる四疊半の茶屋は、數寄屋の始めなりとぞ。』

銀閣寺
銀閣寺

画像出展:「LIVE JAPAN

50年ほど前、私は中学校の修学旅行で希望をとった時、金閣寺ではなく銀閣寺を選んでいました。それは何故なのか、そもそも、そんなことを何故思い出し、何故気にするのか、この心の棘のような引っかかりは一体何なんだろうとずっと不思議に思っていたのですが、ひょっとすると、今回のこれが何か関係していたのでしょうか??

”完全無欠ではない霊支持者”になって以来、ちょっと怪しげです。 

神戸 

『すべてここは本邦五港の一つなる神戸の港なれば、軍艦、商船輻輳して、朝には英米の賓を送り、夕には露佛の客を迎へ、貿易の道もいちはやく開けて、其の居留地には何の商店、某の會社と云ふ札掲げたるも多く見えて、大路往きかふ人の歩みも、京都のゆるらかなりしに似ず、いそがの程に、さまざまの古跡もありしかど、歸さにもとて行き過ぐ。ここには井上伯も夫人と諸共に在せりと聞きしかば、先、其の旅館を訪ひたるに、伯は今がた外に出でられつ。夫人は昨夜いたくなやみ疲れて、今しもまどろまれたる所なりと云ふ。驚かし參らせんは心なきわざなれば、遙々来るぬ旅に、あはで歸らん事の最と本意なけれど、ゆめな告げそ、とおもと人制して、もと来し道へ戻る。なほ行かまほしき所々多かれど、

 「またや見ん高砂の浦明石潟月なき頃は行くかひもなし

今宵は暗夜にて、雨さへ降り出でぬべければなり。此のあたりの松原、砂の白き事、物にも似ず。ありつる眞砂路を淸らなりと思ひしはものにあらざりけり。これをこそ銀砂とは云ふべきなれ。松は枝古り幹太きが、鹽風のあたる所なれば、上ざまには延びえで、平めに、這ひたるやうにて、あるは龜の甲並べたる、あるは鶴の翼張りたるやうなる、龍の走り、蛇のわだかまれるに似かよひたるなど、庭つくりが小さき鉢物の木ども心の限り造りたりとも、いかでかくはと覚えていといとをかし。家なる父君は山邊は好み給はで、海づらを甚じう好み給ふ本性に在せば、今迄見つる山川の景色の愛たかりし程も、見せ奉らんの心動きはしつれど、ここにてぞ諸共に率て奉らぬ憾み、遣らん方なく覚えし。九州に通はすべき鐵道線路を敷くとて、所々松の樹を伐り倒したり。千歳を經て後にしも、斧にかかりけんよと思ふに、最と可惜しくおはれなり、

山陽鉄道の神戸-下関間特急列車 明治38年頃
山陽鉄道の神戸-下関間特急列車 明治38年頃

画像出展:「川上幸義の山陽鉄道の歴史

 

されど、

 「道のためたふるとならば媛小松もとより千代も願はざるらん

『香雪叢書 第一巻』に掲載。
『香雪叢書 第一巻』に掲載。

詞書:「まひこが浜に遊びける時、鉄道線路にあたれるところどころ、大木のきり倒されたるをみて、こころにおもふことありて」

短歌:「みちのため倒るとならば媛こまつ もとより千代もねがはざるらむ」

 

と打ち誦しつつ、敦盛が首塚と云ふに詣でて、また少し行けば、一の谷、鴨越の峯も近く見ゆ。砂の流れたるやうな所、または松のむらだてるなど、げに鹿のみぞ越ゆるといひし昔思ひ出でらる。』

高砂市の浦明石潟

この短歌は兵庫県高砂市の浦明石潟付近の松原(松が生い茂る林)が、九州に延びる山陽鐡道の建設によって、はかなくも伐採されてしまう松の命を惜しんで詠んだものだった、ということが分かりました。

これらのことが分かり、本当に素晴らしい作品を手に入れることができたと実感しました。

高砂公園
高砂公園

画像出展:「日本1000公園

兵庫県の高砂市は、兵庫県最大の河川である加古川が瀬戸内海に注ぐ河口付近にあり、古くから舟運の要衝として発展してきた町です。

明治以降は遠浅の海岸を埋め立てて工場の進出が盛んになり、工業都市としての色が濃くなります。

そんな高砂市の中心部にある高砂公園。これがまさしく、工場跡地につくられた公園です。

下田先生35歳、明治21年5月23日から44日間。帰りは7月、初夏でした。

旅人は母上と従者数名そして下田歌子先生で、20年ぶりの郷里岩村にも訪れており、とても感慨深い旅であったろうと思います。