黄金の華の秘密

ブログで取り上げた 『ユングと共時性』に、次のようなことが書かれていました。

ユングと共時性
ユングと共時性

リヒャルト・ヴィルヘルムが翻訳した中国の錬金術の本が「黄金の華の秘密」である。ユングがこの本に払った苦心は、主要な心理学的概念を発展させるための重要な源となっている。特に、ユングが「共時性」を初めて公に使ったのが、1930年のリヒャルト・ヴィルヘルムの葬儀での賛辞の中であったことはとても意義深い。

 

ユングにとって、リヒアルト・ヴィルヘルムによって翻訳されたこの『黄金の華の秘密』はとても重要な出会いでした。

今まで何度も、「まぁ、何とかなるだろう」と思って身分不相応の本を何冊も買ってきたのですが、今回の本もほとんど歯が立ちませんでした。

ただ、立ち向かった足跡だけでも残したいものだと思い、印象に残った部分とC・G・ユングにとって、人生最大級の出会いとなった、リヒアルト・ヴィルヘルムについて書き残すことにしました。

黄金の華の秘密
黄金の華の秘密

訳者:湯浅泰雄、定方昭夫

出版:人文書院

発行:初版 1980年3月31日

   新装版 初版第一刷 2018年4月20日

   新装版 初版第ニ刷 2021年10月20日

 

 

目次

第二版のための序文……C・G・ユング

第五版のための序文……ザロメ・ヴィルヘルム

リヒアルト・ヴィルヘルムを記念して……C・G・ユング

ヨーロッパの読者のための註解……C・G・ユング

 序論

 基礎概念

 対象からの意識の離脱

 完成

 結論

ヨーロッパのマンダラの例……C・G・ユング

太乙金華宗旨の由来と内容……リヒアルト・ヴィルヘルム

 一 本書の由来

 ニ 本書の心理学的・宇宙論的前提

太乙金華宗旨

 第一章 天心

 第二章 元神・識神

 第三章 回光守中

 第四章 回光調息

 第五章 回光差謬

 第六章 回光微験

 第七章 回光活法

 第八章 逍遥訣

 第九章 百日立基

 第十章 性光識光

 第十一章 ○離交媾

 第十二章 周天

 第十三章 勧世歌

慧命経

 一 漏尽

 ニ 六候

 三 任脈と督脈

 四 道胎

 五 出胎

 六 化身

 七 面壁

 八 虚空粉粋

訳者解説

 1 ユングとヴィルヘルムの出会い

 2 太乙金華宗旨と呂祖師

 3 思想的内容と心理学的視点

 4 本書の内容と邦訳について

第二版のための序文  C・G・ユング

●リヒアルト・ヴィルヘルムは1928年、C・G・ユングに『黄金の華の秘密』のテキストを送った。C・G・ユングは1913年から集合的無意識の諸過程について研究を進めていたが、15年間の努力の成果は比較可能な手掛かりが掴めず、不安定な状態にあった。その状態から抜け出せたのは『黄金の華の秘密』の中にグノーシス主義者たちの中に求めても得られなかった部分を含んでいたからである。そして、本書はC・G・ユングの研究に正しい方向づけを与えた。

第五版のための序文  ザロメ・ヴィルヘルム

●1926年、リヒアルト・ヴィルヘルムは次のような短い序文を書いている。

『「慧命経―意識と生命の書―は、1794年に柳華陽が著した書物である。この本は「黄金の華の秘密」と合本にして千部刊行された。

この著作は仏教的瞑想法と道教的瞑想法をまじえたものである。この書の基本的見解によれば、生命が生まれるとき、心は、意識と無意識という二つの領域に分かれる。意識とは人間において個人化され、分離された要素であり、無意識とは、彼を宇宙に結びつける要素である。この書の基本原理は、瞑想を通じて二つの要素を結びつけるところにある。無意識は、意識がその中に沈潜してゆくことによって、その内容をゆたかにされねばならない。瞑想によって無意識の活動は活潑となり、意識領域まで昇る。こうして豊かな内容をもつに至った意識とともに、心は、再生するという形をとって、超個人的な魂の領域へと入ってゆく。この魂の再生は、やがて意識作用の内面的分化発展へとみちびき、自由自在な思考の状態にまで至る。しかし、さらに瞑想が深まってその終極に至ると、必然的に、すべての差別が消滅した究極的無差別の中にある大いなる一つの生命に解消していくのである」。』

ヨーロッパの読者のための註解

序論

現代心理学が理解を可能にする

●『人間の身体があらゆる人種的相違をこえて共通の解剖学的構造を示すのと同じように、魂(プシケ)というものも、あらゆる文化と意識形態の相違の彼方に共通の低層を有しているものであって、私はそれを集合的無意識と名づけたのである。この無意識の魂は、意識化され得る内容から成り立っているものではなく、ある種の同一の反応へと向う潜在的な素質から成り立っているのである。集合的無意識という事実は、あらゆる人種の相違を超えて脳の構造が同一であるということの心的な表現なのである。そこから、さまざまな神話のモティーフや象徴の間に見出される類似性あるいは同一性、さらには人間の相互理解の可能性一般が同一性を示すという事実も、説明がつくようになるのである。心の発展のさまざまな方向は、一つの共通な根底から出発しているものであって、その根は、あらゆる過去の発達段階にまで達している。そこには動物との心的類似さえ存在しているのである。

純粋に心理学的にみれば、ここでは、表象(想像)し行動する本能における共通性が問題なのである。あらゆる意識的表象と行動とは、この無意識的範例の上に発達してきたものであって、いつもそれと関連しあっている。特に、意識がまだあまり高い明晰さにまで達していない場合、言いかえれば、意識がそのすべての作用において意識された意志よりもむしろ衝動に、まだ理性的な判断よりも感情によって動かされている場合がそうである。この状態は、原始的な心の健康を保証しているものであるが、しかしそれは、より高い道徳的行為を必要とするような状況が現われてくると、たちまち適応性を欠いたものになる。本能というものは、全体としていつも同じ自然状態のうちに埋めこまれている個体にとってしか、十分役に立つものではない。したがって、意識的選択よりも無意識的なものに依存する個人は、断乎たる心的保守主義に向う傾向がある。原始人の考え方が何千年にもわたって変化せず、あらゆる見なれないものや異常なものに対して恐れを感じる理由もそこにあるのである。場合によっては、彼らは不適応状態にみちびかれたり、それによって重大な精神的危機、つまり一種のノイローゼにおちいったりするかもしれない。異質なものをドウかすることによってのみ生じてくる、より高度の、またより広い意識は、自律的態度へと向い、古き神々に対する反抗へみちびく傾向もある。古き神々とは、それまで意識を本能への依存状態に止めた強力な無意識的範例に他ならないのである。』

基礎概念

道の諸現象

アニムスとアニマ

私事ですが、約30年前にC・G・ユングの夫人であるE・ユング(エンマ・ユング)の著書である『内なる異性 -アニムスとアニマ-』という本を読んだことがありました。

一方、同書に書かれた「アニムスとアニマ」は冒頭、“魂”と“魄”について書かれており、これは「どういうことなんだろー」と大変興味を持ちました。

内なる異性
内なる異性

この本の裏表紙には次のような紹介がされていました。(一部)

著者(C・G・ユング夫人)は、夢や神話、民話、文学作品等にあらわれたアニムスとアニマの典型的な形姿を研究することから、男性の本質、女性の本質を浮彫りにする。そしてこれら内なる異性を認識・承認し、人格全体の中へ組み入れることこそ、自己実現にとって不可欠の、また現代人にとって緊急の課題であることを指摘する。』 

●『この書によれば、無意識の諸形態には、神々ばかりでなく、アニムスとアニマも見出される。ヴィルヘルムは「魂」Hunという言葉をアニムスと訳している。実際、私が用いているアニムスという概念は「魂」にぴったり適合している。その字形は「雲」をあらわす字〔云〕と「悪魔」をあらわす字〔鬼〕から構成されている。つまり魂は、雲のようなデモン、高いところで息吹する雲というような意味であり、「陽」の原理に属しているから男性的なものである。死後、「魂」は天に昇って「神」つまり「みずから拡大して示現する」霊、または神となる。これに対して「魄」は「白さ」をあらわす字〔白〕と「悪魔」をあらわす字〔鬼〕で示されている。「魄」はアニマである。それは「白い幽霊」であり、地上的な身体にともなう霊であって、「陰」の原理に属している。したがってそれは女性的である。死後、「魄」は下方へ沈み、「鬼」すなわち「(大地へと)帰る者」、いわゆる亡霊あるいは幽霊になる。このようにアニマとアニムスが死後分離してばらばらになってしまうということは、中国人の意識にとって、両者がさまざまの作用をもつものとして、互いにはっきり区別できる心的要因であったことを示している。』

●『ヴィルヘルムがこの書物のことを知らせてくれる何年も前から、私は、「アニマ」という概念に含まれた形而上的仮定は別にして、この概念を、中国語の定義と全く類似した形で使っていた。心理学者にとって、アニマは何も超越的なものでなく、全く経験可能な実体である。というのは、中国語の定義もはっきり示しているように、情動的状態は直接的な経験なのであるから。しかしこの場合、なぜ人は、アニマ〔という人格化された像〕について語って、気分については語らないのだろうか。その理由は次のような点にある。情動作用は、範囲を限定できる意識内容、つまり人格の一部である。それらは人格の一部であるので、当然、人格的特徴をもっている。したがってそれは容易に人格化され得るのである。先にあげた例が示しているように、それは今日もなお進行している過程なのである。情動をかき立てられた個人は、中立的になることができず、ふだんの性格とは全くちがった、一定のはっきりした性質を示すようになる。その意味で、〔情動作用を〕人格化することは、無意味なつくりごとではないのである。この場合、慎重にしらべてみると、男性では、情動的性質が女性的特徴を示すことが明らかになる。「魄」についての中国人の教えは、私のアニマについての理解と同様に、こういう心理学的事実に属している。深い内省や恍惚の体験は、〔男性の〕無意識領域に女性的な形姿が実在していることを明らかにする。したがって「心」には、〔昔から〕アニマ、プシケ、ゼーレといった女性名詞が用いられているのである。アニマは、男性が女性に関してもつあらゆる経験からつくり出されたイメージ、ないし元型、あるいは沈殿物である。と定義することもできるだろう。したがってアニマ像は、きまって〔現実の〕女性に投影される。

●『一般的にいえば、私はアニマを無意識の人格化と定義した。したがってアニマは、無意識〔領域〕への橋渡し、つまり無意識に対する関係の機能としてとらえられる。こう考えた場合、われわれの書物の考え方は興味がある。この書は、意識(すなわち個人的意識)はアニマ〔魄〕から出てくるものと考えている。西洋的精神は意識の立場からしか考えないので、アニマを定義する場合には、私がこれまでやってきたような〔アニマをかくれた無意識の作用と解する〕やり方で、解釈しなくてはならない。ところが東洋は逆に、まず無意識の立場に立って考えるので、意識とはアニマのはたらき〔の産物〕であると見なしているのである! たしかに〔東洋が考えているように〕、意識は元来無意識から生じるものである。われわれ〔西洋人〕は無意識についてはほとんど考えようとしないので、「心(プシケ)」を一般に「意識」と定義したり、そこまでゆかなくても、無意識は意識の派生物か、それに従属する作用であるといつも考えようとする(たとえばフロイトの抑圧説)。しかし上にのべてきた理由からいっても、無意識の現実的作用を取り去ることはできないし、また無意識から現われてくる形姿は、そこに作用している〔心のエネルギーの〕量と考えるべきである。』

訳者解説 湯浅泰雄

ユングとヴィルヘルムの出会い

●『ヴィルヘルムは、1873年〔明治六年〕5月10日に南ドイツのシュツットガルトに生まれた。ユングより二歳の年長である。リヒアルトは1891年から95年までテュービンゲン大学で神学を学び、97年にプロテスタント教会の副牧師になった。1899年、ザロメ・ブルームハルトと婚約し、翌年結婚した。

1898年、ドイツは、清国から山東省膠州湾の租借権を得た。この帝政ドイツの中国進出政策が、はからずもヴィルヘルムを中国に結びつける機縁となる。翌1899年、26歳の青年ヴィルヘルムは、膠州湾に臨む青島の町に設立された教会の主任司祭として赴任する。以後、前後二十五年にわたる彼の中国生活が始まるのである。この時代は世界列強の東アジア進出の時期に当たっており、ヴィルヘルムが中国で暮らしていた間に、日清戦争、義和団事件(拳匪の乱)、日露戦争、辛亥革命、そして第一次世界大戦が起こっている。しかしヴィルヘルムの若い魂をひきつけたのは、動乱と革命にゆれ動くアジアではなく、古い東洋の精神世界であった。彼は、1909年に設立された徳華専門学校の教団に立って中国人子弟の教育に当たるかたわら、熱心に論語、老子その他の古典の翻訳に没頭した。ユングの思い出によると、あるときヴィルヘルムはユングに向かって、「自分は中国に居る間、ただ一人の中国人も洗礼しなかったが、そのことを大いに満足に思っているのです」と語ったという。彼が通常の宣教師タイプとちがって、深く中国文化に魅了されていたことがわかる。ヴィルヘルムは、近代中国の知識人が西洋文明の影響を受けて今や捨て去ろうとしていた儒教と道教の世界に沈潜して行ったのである。1911年、辛亥革命によって清朝は滅亡し、孫文が臨時大統領となったが、翌年、中華民国の発足とともに袁世凱が初代大統領となり、軍閥内戦の時代に突入する。このころヴィルヘルムは、1913年に、青島の儒教教会を設立している。しかし、1914年、第一次世界大戦の勃発とともに膠州湾は日本軍に占領された。大戦終了後の1920年、彼は二十二年にわたる中国での生活を終わって敗戦の故国に帰る。この年、ヘルツマン・カイゼルリング伯はダルムシュタットに、「叡智の学校」を設立した。ユングと出会ったのは、この会合の席である。1922年には、ユングに招かれてチューリヒの心理学クラブで易について講義している。

同じ1922年、ヴィルヘルムは北京のドイツ公使館の学術顧問に任命され、再び中国に赴く。二度目の中国滞在は足かけ三年、1924年までである。この間、1923年には、北京大学の教授に迎えられている。このころ彼は、労乃宣(ラウ・ナイ・シュアン)という道士の弟子になって、易を学ぶ。くわしい注釈つきの「易経」1 Ging、2 Bamde、1924 の名訳は、この老師の協力を得て出版されたものである。「最後のページの翻訳がすんで、印刷屋の最初の校正刷が来たとき、老師労乃宣は死んだ。それはあたかも、彼が自分の仕事を仕上げ、古い死滅しつつあった中国の最後のメッセージをヨーロッパに伝え終わったかのようであった。ヴィルヘルムは、この比類なき腎人の大きな夢をかなえたのであった。」1924年、任を終えて帰国したヴィルヘルムは、フランクフルト大学に設立された中国学講座の担当者となり、中国研究所を設立、その所長に就任した。機関誌は「中国学芸雑誌」Chinesishe Blatter fur Wissenschaft und Kunst(のちにSinicaと改名)という。しかし、彼の故国での活動の時間は短く、六年後の1930年3月1日、テュービンゲンで死去する。五十七歳であった。彼の業績は古典の翻訳が多いので、日本の中国学界ではあまり知られていないようであるが、彼はドイツの中国学の開創者ともいうべき人物であろう。

ユングはヴィルヘルムとはじめて会ったとき、つよい印象を受けたようである。「私が会ったとき、ヴィルヘルムは書き方やしゃべり方と同様に、外面的な態度も完全に中国人のように見えた。東洋的なものの見方と古代中国文化が、頭の先から足の先までしみこんでいた」と、ユングは当時の思い出を語っている易経の独訳が出たとき、ユングは早速それを入手し、ヴィルヘルムの解釈に満足を覚える。「われわれは、中国の哲学と宗教についてたくさん話しあった。中国人の心性についての豊富な知識の中から彼が私に語ったことは、ヨーロッパ人の無意識が私に提起していた最も困難な問題のいくつかを解明してくれた。他方、無意識に関する私の研究の結果について、私が言わねばならなかった事柄は、彼には何の驚きも引き起こさなかった。というのは、彼が中国の哲学的伝統の占有物と考えていた事柄を、それらの中に認めたからである。」こうしてユングは、かつてグノーシス主義の研究に求めて得られなかった自己の学問的足場が、東洋思想の伝統の中に古くから伝えられていたことを感じるに至るのである。

1928年、ユングは、イメージが浮かんでくるのに任せて一つのマンダラを描いていた。できあがった形を眺めながら彼は、どうしてこのマンダラはこうも中国風なのだろう、と自問した。表面的にはそうもみえなかったが、そのように感じられてしかたがなかった。それから間もなく、ヴィルヘルムからユングの許へ「黄金の華の秘密」の独訳原稿が送られてきた。それには、ユングに対して心理学者として註解を書いてほしいという手紙がそえられていた。原稿をよんだユングは、深いおどろきにうたれる。マンダラのイメージについて彼が模索しつつあった考え方に対して、そこに思いがけない確証が与えられていたからである。「これは私の孤独を破った最初の出来事だった」と彼はのべている。「『黄金の華の秘密』という本を読んだ後に、やっと錬金術の性質の上に光がさし始めた。……私は錬金術の原典をもっとくわしく知りたいという望みにかき立てられた。私はミュンヘンの本屋に、錬金術の本を手に入れることができるものは、皆知らせるように言った。」ユングはこの深いおどろきを記念して、自分の描いた中国風のマンダラの下に「1928年、この黄金色の固く守られた城の絵を描いていたとき、フランクフルトのリヒアルト・ヴィルヘルムが、黄色い城、不死の身体の根源についての、一千年前の中国の本を送ってきてくれた」と書き記した。本書はこうして、翌1929年に出版されたのであった。

以上のように、この書は、ユングが彼自身の理論的また思想的立場を確立する機縁を与えた書物である。この書によって彼はまた、ヨーロッパの精神史に対する彼の基本的見解を確立するに至る。古代ローマのグノーシス主義と近代ヨーロッパを結ぶ失われた環が中世錬金術の中にあることに、彼は気づいたのである。西洋精神史に関する彼の最初の著作「心理学と錬金術(1944年)は、これが機縁になって生まれたものである。この書の中で、彼はこう回顧している。「私はマンダラ象徴の生成過程とその像について、二十年来、私自身の経験から得たたくさんの材料に即して観察をつづけてきた。(はじめの)十四年間、私は、自分の観察について先入見を下さないために、それについて執筆も講演もしなかった。しかし、1929年にリヒアルト・ヴィルヘルムが、「黄金の華」のテキストを私にみせてくれたとき、私は研究結果の一部を公表する決心をしたのだった。」このように、本書はユングの思想形成にとって重要な意義をもつ書物であり、したがってまた、深層心理学の観点から東洋思想について考える場合、よい手がかりを与える書物でもある。』

※シュツットガルト

リヒアルト・ヴィルヘルムが生まれた南ドイツのシュツットガルトは、私にとって思い出の地です。

また、シュツットガルトといえば、ドイツブンデスリーガの1部に所属する名門チームがあります。浦和レッズに在籍していたギド・ブッフバルトや日本人選手では、岡崎慎司、長谷部誠、今は遠藤航がキャプテンとして活躍しています。 

サッカーワールドカップ カタール大会 ドイツ戦
サッカーワールドカップ カタール大会 ドイツ戦

画像出展:「au Webポータル

11月23日のサッカーワールドカップ カタール大会の初戦、強豪ドイツを2-1で撃破し、歴史的な逆転勝利となりましたが、遠藤 航 選手のチームへの貢献は素晴らしいものでした。

確認したところ、遠藤選手が浦和レッズに在籍していたのは2016-2018年でした。

そのシュツットガルトは、私の初めての海外出張先でした。

最初の営業はCADという設計支援ソフト(ME10)を販売する部門だったのですが、そのソフトの開発・製造拠点がシュツットガルトのボブリンゲンという町にありました。なお、ME10という2次元CADは、調べてみたところ、CoCreate社を経て2007年にPTCに買収されCreoという製品群の一部になっていました。

出張は新製品の研修がメインだったのですが、ご褒美旅行も兼ねていました。これは日本だけでなく、世界的に業績が好調だったためです。そして、その研修会はモナコで行われました。モナコといえば、高級リゾート地であり、F1のモナコグランプリは特に有名です。我々が宿泊したホテルはローズ・モンテカルロ(現在はフェアモント・モンテカルロです。ローズ・ヘアピンとして有名ですが、このホテルに泊まれたのは灌漑深いものがありました。

ローズ・ヘアピンとホテル
ローズ・ヘアピンとホテル
旧ローズモンテカルロ
旧ローズモンテカルロ

中央にとても邪魔なヒトが立っていますね。どいてほしい。

旧ローズモンテカルロの室内
旧ローズモンテカルロの室内

まさか、ローズモンテカルロに泊まれるとは思ってもみませんでした。窓の外は青く静かな地中海の海が広がっていました。

そして、開発・製造拠点のシュツットガルトはモナコの後に訪問しました。シュツットガルトにはメルセデスベンツ・ミュージアムがあります。小さな町のボブリンゲンは明るく綺麗な素敵な町で、とても穏やかな気持ちになりました。

メルセデスーベンツ・ミュージアム
メルセデスーベンツ・ミュージアム

シュツットガルトといえば、メルセデスーベンツです。

Mercedes-Benz Museum Stuttgart

ボブリンゲンの休日
ボブリンゲンの休日

ボブリンゲンの休日です。何かのフェスティバルが開催されていたようでした。