癌と臨死体験4

著者:アニータ・ムアジャーニ

訳者:奥野節子

初版発行:2013年6月

出版:ナチュラルスピリット

目次は、”癌と臨死体験1”を参照ください。

第14章 シンクロニシティに導かれて

●『私の人生の軌跡を振り返った時、これまでのあらゆる出来事が、つまり、私がポジティブと考えて出来事も、ネガティブと思っている出来事も、最終的には私に恩恵を与えており、今日へと導いてくれたことがはっきりわかります。

同じく明らかなのは、宇宙は、私が受け取る準備ができたものだけを与えてくれたことがはっきりわかります。同じく明らかなのは、宇宙は、私が受け取る準備ができたものだけを与えてくれる、それも私の準備ができた時にそうしてくれるということです。世間の注目を浴びる恐怖感がそのプロセスを遅らせましたが、いったん不安が取り除かれるとすぐに、ヘイ・ハウスのメールを通して、直ちに宇宙からしるしを受け取りました。いつでも、自分が人生に望むものだけが、やってくるのです。』

パート3 臨死体験が教えてくれたこと

第15章 私が癌にかかった理由、そしてなぜ癒されたか

●『臨死体験について話す時に一番よく尋ねられる質問は、「あなたが癌になった原因は何ですか?」というものです。多くの人が、その人が、その答えに興味を持つのは当然のことでしょう。

けれど、まず最初に、この話題が持ち合わせている危険性についてひとこと言及しておきたいと思います。危険性の一つは、私の発言によって、病気の治らない人は、病気が完治した人より“劣る”という印象の一つは、私の発言によって、病気の治らない人は、病気が完治した人より“劣る”という印象を受けるかもしれないことです。これは真実ではありません。

私の言い方があまり単純化しているように聞こえたとしたら、苛立ちを感じるでしょう。あなた自身や知り合いの人が苦しんでいる場合にはなおさらです。これが、言葉で表現する時の問題の一つです。言葉は良い影響を与えるどころか、有害になることがあります。私は、まだ癌が治っていない人もすばらしい存在なのだと強調したいと思います。彼らが病気である理由は、おそらく人生における個人的な目的と関係しています。私が病気になったのも、自分がここにいるのも一部であり、たとえ生きることを選択したとしても、死ぬことを選択したとしても、私のすばらしさは変わらないのだと、今ではわかっています。

病気の治癒について、私が話している内容を同意しない人がいるのはわかっていますが、それで結構です。私はただ、私の話が他人の役に立つことを願って、自分が体験したと感じることを表現しているだけなのです。』

●『「なぜ私が癌にかかったと思うか」という質問への答えを一つの言葉にまとめれば、“恐れ”ということになるでしょう。では、私は何を恐れていたのでしょうか? 何もかもすべてです。

たとえば、失敗すること、嫌われること、人をがっかりさせること、十分じゃないことなどを恐れていました。もちろん、病気も恐れていました。特に癌とその治療法に恐怖感を抱いていました。私は生きることを恐れ、死ぬこともひどく怖がっていたのです。』

●『私は常に他人を喜ばせたいと思い、また、その理由が何であれ、非難されるのを恐れていました。人から悪く思われないように懸命に努力しているうちに、やがて自分自身を見失ってしまいました。本当の自分や自分の望むこととのつながりを完全に断ってしまったのです。私がすることはすべて、自分以外のみんなの賛同を勝ち取るためでした。

私が癌になる前、誰かに「人生で望むものは何か?」と尋ねられたら、まったく見当がつかなかったでしょう。私は、文化的な期待にがんじがらめになり、他人に望まれる人間になろうと努力し、もはや自分にとって何が重要なのかわからなくなっていました。』

●『外見上、私は癌と闘っているように見えたに違いありません。でも、内心では癌は死の宣告だと信じていました。治るためなら何でもするという素振りをしながら、心の奥では自分は治らないと思っていたのです。そして、死ぬことが怖くてたまりませんでした。

研究者たちが、「癌の治療法を見つける努力をしている」と常に言っているのはつまり、解決法がまだ見つかっていないということだと思っていました。このことは、少なくとも西洋医学では公然の事実でした。それにもかかわらず、自分には西洋医学による治療法しか選択肢がないと言われたのは、骨の髄まで恐怖感を抱かせるに十分でした。“癌”という言葉を聞いただけで恐れの気持ちがわき上がってきました。現代医学では治せないと知ったことが、自分は死ぬんだという確信の裏づけとなったのです。

それでも私は、可能なことはすべてしようと努力しましたが、病気は容赦なくどんどん進行していきました。西洋医学では初めから自分の運命が決まっているような気がしたので、周囲の人の反対を退けてでも、私は代替療法を選択しました。結局、仕事を辞めてから4年間、ありとあらゆる治療法に取り組みました。』  

●『身体の機能が止まった時、私がいた向こう側の世界は、恐れでゆがんでいない私自身のすばらしさを見せてくれました。私は、自分が利用できる偉大なパワーに気づくようになったのです。

私が身体にしがみつくのをやめた時、向こう側の世界に行くために何も必要はないのだと感じました。祈りも、詠唱も、マントラも、許しも、何もいらなかったのです。その移行は、まったく何もしないことに等しいものでした。特に誰に対してというわけではありませんが、「私には与えられるものがもうありません。もうお手上げです。どうぞ連れて行ってください。もうどうにでもしてください。あなたのお好きなように」と言った気がしました。

向こう側の世界で私は明晰でした。そして、自分が抱いていた恐れのために死んでいくのだと、直感的に理解しました。私は、いつも心配ばかりして、本当の自分を表現できずに生きてきました。癌は決して罰のようなものではなく、自分自身のエネルギーが癌として現れたのだとわかったのです。

そうなったのは、私の恐れのせいで、本来の姿であるすばらしい存在としての自分を表現できなかったからでした。

そのような拡大した意識の状態で、私は、いかに自分自身につらくあたり、批判ばかりしていたかを理解しました。そこでは、私を罰する人は誰もいませんでした。私が許さなかったのは他人ではなく、自分だったのだと、やっとわかりました。私を非難したのも、私が見捨てたのも、私が十分愛さなかったのも私自身だったのです。ほかの誰でもありませんでした。

私はその時、宇宙の美しい子どもとして自分のことを見ていました。私は存在するだけで、無条件の愛を受ける価値があったのです。そのために何もする必要はないとわかりました。祈ることも、お願いすることも、何一ついらないのです。これまで、自分自身を愛したことも、尊重したことも、自分の魂の美しさを目にしたこともなかったと悟りました。絶対的なすばらしさが私のためにいつも存在していたのに、まるで、物質的な生活がそれを奪って、少しずつ破壊してしまったような感じがしました。

このことを理解した時、もう自分には恐れるものがないとわかったのです。私は、誰もが手に入れられるパワーについて知り、この世に戻るという大きな選択をしました。その覚醒した状態での選択は、私がこの世に戻るための非常に強い原動力でした。

再び自分の身体で目覚めた時、この世に戻ってくるという私の決断に、身体のすべての細胞が応じるだろうと知っていました。ですから、自分の病気は必ず良くなるとわかっていたのです。

●『気づきとは、判断せずに、何が存在していて、何が可能かを理解することを意味します。気づきを得れば、防御する必要がなくなります。それは成長とともに拡大していき、すべてを取り囲み、ワンネスの状況に近づけてくれます。そこは奇跡が起こる場所なのです。それに比べて、信念は、自分が確かだと思っているものだけを受け入れ、他のものはすべて閉め出してしまいます。

ですから、私の癌の治癒は、信念によるものではありません。臨死体験は純粋な気づきの状態で、その時、これまで持っていた教えや信条は完全に消えていました。この状態が、私の身体の“修復”を許したのです。言い換えれば、私の癒しに必要なのは、信念を捨てることでした。

●『臨死体験をしてから、特定の思想を強く信じすぎていると、かえって自分に悪影響を及ぼすと学びました。一つの信念にもとづいて行動すれば、自分が知っている領域内だけに閉じこもり結局、自分の体験を制限することになるのです。

自分が思いつくものだけに縛られていれば、自分の可能性は狭められてしまうでしょう。けれど、自分の理解が十分ではないことを受け入れ、不確実な状態を心地よく思えるようになれば、無限の可能性の領域が目の前に広がるのです。

臨死体験後にわかったことですが、自分を自由にし、信念や不信から離れて、心をあらゆる可能性に開いた時、私は一番強い状態にあります。さらに、そのような状態で、最も深い明晰さやシンクロニシティを体験するようです。確実性を必要とすることが、大きな気づきの体験を邪魔するのだと感じています。それと対照的に、すべてを手放し、信念や結果への執着から解放されれば、精神の浄化作用と癒しがもたらされるでしょう。真のヒーリングが起こるには、癒されたいという強い欲求を手放し、人生という乗り物を信頼して楽しまなければなりません。

第16章 私たちは神と一体である

●『私たちは、“時間が過ぎる”と思っていますが、臨死体験をしている時には、時間はただ存在していて、自分が時間の中を移動しているように感じられました。時間のあらゆる点が同時に存在するだけでなく、向こう側の世界では、私たちは、速く進んだり、遅く進んだりすることができ、さらに、後ろにも、横にも動けるのです。

しかし、物質的次元では、感覚器官のせいで制限が与えられます。私たちの目は、この瞬間に見えたものだけに気づき、耳も同様です。思考は一つの瞬間にしか存在できないので、瞬間と瞬間をつなぎ合わせて、直線的な一連の出来事を形成します。

でも、身体から自由になると、私たちは、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚を通してではなく、自分の気づきだけで、すべての時間や空間を動けるのです。私たちは、純粋な意識そのものになります。

臨死体験の中で、私はこのことを体験しました。兄が私に会うため飛行機に乗っていることにも、医師が病室からずっと離れた廊下で話しているのにも気づいていました。自分の将来についてもたくさんのことを理解しました。もしこの世に戻らなかったらどうなるか、もし戻ったらどうなるか、すべて明らかでした。時間も、空間も、物質も、私たちが通常考えているようには存在しないのだとわかったのです。臨死体験の中で、過去でも未来でも、意識を集中すればどこでも行ける感じがしました。』

●『私は、“ハイヤーセルフ” “魂” “スピリット”のかわりに、“無限の自己”という言葉をよく使っています。もう少しはっきりさせるために言えば、それは、私が臨死体験中に、自分が身体だけの存在ではないと気づき、あらゆる存在と一つであると感じたものを指しています。私は、無限のすばらしい存在として純粋な意識と一つになり、なぜ今この身体と生命を得たのかはっきり理解したように感じました。さらに、分離の幻想は、外部のものと自分を同一化しすぎることから生じるとわかったのです。』

●『無限の自己とは、私たちの本能や直感が存在する場所です。家を買おうとしている時、理性は実際の土地を選んだり、予算を決めるなどして、選択肢を狭めようとします。けれど、最終的な決断は、直感によってなされることもあるでしょう。ただそこが良い感じがしたというだけで、それを説明する論理的根拠は何もないというようにです。それが無限の自己です。

生活があまりに複雑になり、自分が宇宙エネルギーにつながっていて、これらの自然な能力を持っているということを忘れてしまうことがあります。自分の内なる声を聞くのをやめて、上司や教師や友人など外側の力に自らの力をゆだねてしまうのです。感情は魂への入り口なので、自分の感情をブロックすれば、自分のすばらしさに気づけなくなるでしょう。それなのに、私たちは複雑な存在ゆえ、自分の感情をコントロールしようとしています。』

●『私は、家族や知人などすべての人が自分の人生で果たしてくれている役割、そして、私が彼らの人生で果たしている役割を理解しています。もし私が自分に正直でなかったら、周囲の人たちも本当の自分ではいられません。私が無二の自分でいることで、他人も無限の自己のレベルで私と関わり合えるのです。

私がこの気づきを持っているかぎり、宇宙エネルギーと一つであると感じることができ、それは私の人生で、奇跡のようなシンクロニシティを見せてくれるでしょう。私は、へとへとになるのではなくエネルギッシュになり、“行動すること”で落ち込むのではなく、“存在すること”によって明るくなり、宇宙エネルギーに対抗するのではなく、それと協力しながら生きるようになりました。この生き方を続けるうちに、私の生活は禅のような性質を帯びてきて、いつも導かれているように感じています。それは必ずしも簡単ではありませんでしたが、確実に人生をずっと楽しいものにしてくれていました。まだ、進歩の途中ですが、私がすべきことは、愛であること、そして本当の自分でいることだけです。その結果、私の周囲の世界はあるべき場所に落ち着き、同じことが全世界的にも起こるでしょう。』

第17章 ありのままの自分を生きる

●『私は、自分と他人のためにできる最善のことは、意識的に自分をうきうきした気分にさせて、幸せを感じることだと固く信じていますが、“プラス思考”という考えにはあまり賛成ではないと言えば、驚くかもしれません。すべての生命はつながっているので、自分が上機嫌でいれば、全体にも大きな影響があるのは確かです。

でも、もしネガティブな考えが忍び込んできたら、それを批判せずに受け入れて、ただ通り過ぎるのを待っていたほうがいいように思うのです。感情は、抑圧したり追い出そうとしたりすればするほど、押し返してくるでしょう。そうではなく、何の判断もせずに、ただ自分の中を流れるのを許していれば、思考や感情は通り過ぎていくのです。その結果、正しい道が自然に目の前に開かれ、真の自分でいられるようになるでしょう。

「ネガティブな考えが、人生にネガティブなものを引き寄せる」という大雑把な説は、必ずしも真実ではありません。この説のせいで、すでに苦しみを経験している人たちが一層ひどい思いをしているのです。さらに、自分の考え次第で、もっとネガティブな状況を引き寄せるかもしれないという恐怖感も生み出します。この考え方やみくもに主張すれば、つらい時期を過ごしている人たちに、彼ら自らがその出来事を引き寄せたと思わせてしまうでしょう。それはまったくの偽りです。もし不愉快な状況を生み出したのが自分のネガティブな思考だと信じれば、私たちはびくびくするようになるに違いありません。けれど、そのような状況は、実際は、思考よりもむしろ感情と関係しているのです。特に、自分自身についてどう感じているかが大切です。

また、ポジティブなものを引きつけるには、単に陽気でいればいいというのは本当ではありません。これは強調してもしきれないことですが、自分自身についてどう感じているかが、人生の状況を決める上で一番大切なことなのです。つまり、自分自身に正直でいることが、ポジティブでいるよりもずっと重要です。

私は動揺することが起きた場合、自分がネガティブな気持ちになるのを許しています。なぜなら、本当の感情を封じ込めるよりも、体験するほうがはるかに良いからです。それは、自分が感じていることと闘うのではなく、受け入れるということです。判断せずに、許すという行為は、まさに自分への愛の行為です。自分に優しくするという行為は、楽天的なふりをしているよりも、喜びに満ちた人生を創造する上で、ずっと役に立つでしょう。』

●『実際に最悪の一日だったかどうかは重要ではありません。その時、自分がどう感じていたかがもっと大切なのです。困難に直面している時も、信頼を失わず、不安や悲しみや恐れという感情が通り過ぎ去るまで、抑圧せずに、そのままでいるということです。それは、本当の自分に忠実でいるよう許すことにほかなりません。そうすれば、その感情は消えていき、だんだん現れなくなるでしょう。』

●『ありのまま受け入れるプロセスは、まず信頼することから始まります。次に、いつも本当の自分に忠実でいることです。このようにして私は、真に自分のものを引き寄せていますが、それは、私が受け入れられるレベルに合わせて実現します。

自分が心配なこと、自分に必要あるいは足りないと思うものにフォーカスすることもできますが、その場合には、私の人生は望んでいる方へは向かっていかずに、今の状態にとどまったままでしょう。なぜなら、信頼し、新しい体験を受け入れて、自分の気づきを拡大するではなく、恐れや動揺や実現していないことばかりに集中しているからです。ですから、望みが現実のものとして現れるかどうかは、どれくらい早く私が不安を手放して、ただ信頼し、くつろげるようになれるかによるのです。

一つの考えや結果執着するほど、あるいは新しい冒険を恐れるほど、進歩は遅れてしまうでしょう。それは、そのプロセスに心を開かず、宇宙エネルギーが自然に自分の中を流れるのを許していない状態だからです。

そうは言っても、ただ座って、すべての選択や可能性についてあれこれ考えているわけではありません。私は、今の瞬間に意識を向けて生きています。外面的にではなく、内面的にという意味です。外側には、追い求め、引き寄せるべきものは何も存在しません。宇宙は自分の中に存在し、私が内側で体験していることが、全体に影響するのです。

感想

この凄い本を読んで大切にしようと思ったことは、特に心が乱れたときは、自分の内側に意識を向け、自分自身の本当の気持ちに気づくこと。その気持がどのようなものか客観的に考えること。その上で、可能な限り、その気持ちに沿ってありのままの自分でいようとすることです。

妄想

私は以前から、【気】や【意識】や【こころ】などは、未知のエネルギーが身体の中にあり、ミクロの世界を支配している量子力学が持っているエネルギーと何か関係しているのではないだろうかと考えていました。今回の本の中にも、それを連想する箇所がいくつかありました。妄想の世界になりますがご紹介させて頂きます。

この本の「5.量子の奇怪さ」には、次のような指摘がされています。

『量子論を考え出した人たちは、ニュートン的世界観と対照的なもう一つの面に気づいた。それは観測者が創り出すリアリティというものだ。量子論によれば、観測者が何を測定しようとしているかということがその測定自身に影響を及ぼすことになる。量子の世界で現実に起こっていることは、その世界を我々がどのように観測しようとしているかに依存しているのだ

これは、アニータさんの『第一に、私が意識を向けたものは何でも、自分の目の前に現れるような気がしました。

さらに『臨死体験のおかげで私は、外側で起こっていることが内側に影響するのではなく、内側にあるものが外側に反映するのだと考えるようになりました。』を連想させます。 

ミクロな世界では一つの物が同時に複数の状態をとることができる」と書かれています。

アニータさんの本には、『時間はまるで存在していないかのようで、それについて考慮する必要さえなかったのです。

また、『誰もがこの偉大な宇宙の中心にして、それぞれの立場で表現しているのだとわかりました。』とあります。

 

 

こえられないはずの山を”すり抜ける”電子」と書かれています。※ご参考:電子は量子の代表格

アニータさんの本には、『時間も、空間も、物質も、私たちが通常考えているようには存在しないのだとわかったのです。臨死体験の中で、過去でも未来でも、意識を集中すればどこでも行ける感じがしました。』とあります。

 

 

『量子力学で生命の謎を解く』より
『量子力学で生命の謎を解く』より

生命は量子の世界と古典的な世界との縁を航海している”として、それをつなぐキールを維持することにより個体としての生命が続くという考えが本に書かれています。

アニータさんの本には、『「アニータ、おまえが来れるのはここまでだ。これ以上進んだら、もう戻れないんだよ」。物理的な境界線はありませんでしたが、自分の前に、エネルギーレベルの違いによって区分けされた、見えない境界線があるのがわかりました。』 とあります。

ニュートン力学に存在する物理的エネルギーを囲った一つの器が人間で、量子力学に存在するエネルギーの集合体の中に“無限の自己”があり、人間の心と交信しているのか?

そして、器としての人間の死により、交信は断たれ本来の“無限の自己”に戻るということなのか?

煩悩とは、生きること(人間としての器を守り、紡いでいくこと)と表裏一体のように思いました。

ご参考(10月10日):“量子力学と仏教は同じだった!? 物理学者たちが東洋思想に魅了される理由

今、『量子革命』という本に挑戦しているのですが、その関係で“宇宙の真理”という凄いサイトを発見しました。このサイトの中のコンテンツの一つが、この“量子力学と仏教は同じだった!?物理学者たちが東洋思想に魅了される理由【宇宙の真理】”です。

この動画を拝見し、「私の[妄想]もまんざらではなさそうだ」と後押しされたような気持ちになりました。

余談:エドガー・ケイシー

エドガー・ケイシーという名前は患者さまから教えて頂きました。

早速、ネットで調べてみると、東京の本郷三丁目にある「ゆめのきクリニック」さまでは、エドガー・ケイシー療法に取り組まれており、紹介や説明が出ていました。

そこで、著者がエドガー・ケイシーになっている“奇跡の生涯”いう本を拝読させて頂きました。

ここには聖書との深いつながりについても書かれており、10歳ころに感銘をうけ、繰り返し繰り返し計15回も読んだそうです。このことはエドガー・ケイシーを知るうえでとても重要ではないかと思います。

エドガー・ケイシーについては、NPO法人 日本エドガー・ケイシーセンター(ECCJ)に詳細な情報が掲載されています。

この中で、特に興味をもったのは「エドガー・ケイシー珠玉の言葉」です。このメーリングリストに登録すると、「エドガー・ケイシーが残した珠玉のリーディングの中から、みなさまにリーディングを1つメールで毎朝お届けします。」となっています。

ちなみに以下のような感じです。英語の勉強にもなると思います。

『あの時こうしていれば、などと過去を振り返ってはなりません。むしろ、あなたが今いるところで立ち上がり、上を見上げなさい。』

『But look not back upon what might have been. Rather, as given, lift up, look up - now - where ye are.』

『あなたの苦難、トラブル、さらには失望すらも、主の道をよりよく知るための踏み石として数えなさい。』

『Count thy hardships, thy troubles, even thy disappointments, rather as stepping-stones to know His way better.』