第五章 リラクゼーションの意味と実践
リラクゼーションの実践
●受動的瞑想法を深める
・受動的瞑想法の姿勢の基本は左右対称であるが、慣れてきたら少しだけ窮屈な姿勢を取ると効果が高まる。例えば、肘掛けのある椅子を使って、コツがつかめたら次は肘掛けのない椅子で試す。さらに、それにも慣れたら背もたれのない椅子、それも楽にできるようになったら、今度は床(畳)の上に坐ってやってみると良い。
●能動的な方法について
・『さて、これまで説明してきた受動的瞑想法は、リラックスして心を落ち着かせる方法でした。これから説明していく能動的瞑想法やイメージを使う方法は積極的に頭を働かせる方法で、以下八章までで述べるように、その主題や目的によっていくつかの方法があります。また、この本では宗教的な言葉を使えば「黙想」に当たるやり方についても述べていきます。
それらはこれまで説明してきた受動的瞑想法とはまったく違ったものですので、実行するのであれば、それぞれ別個のものとして付加的に行うようにしてください。
何よりもまず、受動的瞑想法をしっかりやりましょう。健康を目的とするなら、受動的瞑想法による心身の安静のほうが、ほかの精神的な鍛練よりもずっと適しているのです。受動的瞑想法がうまくできるようになって、もっと何かやりたいと思ったら、そのときはじめて、能動的な技法を加えていくとよいでしょう。』
第六章 心の力
ポジティブ・シンキング―積極的に生きるために
●信じることには力がある
・英国の研究では、前向きな姿勢で生きようとするガン患者は悲観的な患者より長生きするという結果が出ている。何より、生活の質という点では比べようもないほど充実したものになっている。
・世界で最高の治療も否定的で悲観的な患者には効きそうにないということが分かっている。患者自身の心の持ち方が決定的な役割を担っている。
意思決定
●意思決定の瞑想法
・ものごとを決断することはとても大切な能力である。さまざまな治療の中から自分に合うものを選び、決断するためにもこの能力は欠かせない。
・決断を有効なものとするためには、自分が決めるすべてのことについて確実で、自信を持てなくてはならない。
・確信が持てるようにするための有効な手順
①まずは何を決めるのかはっきりさせる。
②いつまでに最終決定するのか期限を決める。
③資料を集めたら利点や欠点を書き出したりしながら、情報を重みづけして選択していく。
④大きな決定には、そのことに集中するための黙想がお勧めである。また、決断に際しては右脳の直観的な働きも重要である。右脳の働きによって理解が深まり、問題点について何かひらめくことがある。
⑤答えが出たら、自分の直観に自信をもつ。
(『直観は説明のできないものですが、危ぶむことはありません。私が途方にくれるような状況に出くわしたとき、なぜかいつもたまたま手にした本がちゃんとした答えを与えてくれました。よく考えてみると、特定の本に引きこまれる気がして、さらに求めてる答えの書いてあるページが自然にめくられているような感じでした。これをあまりに何度も経験したので、本当に第六感とか直観というものがあると信じるようになり、信じれば信じるほどますます勘がさえてきました。』)
⑥何かを決めたら、今はそれがその状況で自分にとって最良の決定だということを迷わずに納得する。
(『場合によっては、他より「まし」だからというような決め方になることもあるでしょうが、一度決めたら自分の決断を真摯に受けとめ、今のところそれが最高なのだと信じなくてはいけません。そして、その不充分なところを最小限にとどめ、自分の決定が最良の結果を生むように真剣に取り組むことが大切です。』)
●決めたことはやり通す
・重要な決定であるほど、人に言われてではなく、自分で決めてやるほうが実行しやすい。
・とりあえず1カ月間など、期間を決めて試す方法も良い。ただし、この期間中は迷うことなく実行する。そしてそのまま続けるべきか、改善すべきか、あるいは止めるべきかを評価する。精一杯やった場合、納得して他の方法に移ることができる。
・実行と評価のためには、行ったことをノートに記録すると客観的に自分の状況を見られるようになる。特に文章にするには心の中にあることを整理し明確にしなければならないので、評価や意思決定のときに役に立つだけでなく、自分の進歩を確認したり、思うようにいかないときに勇気をくれる強い味方となる。
第七章 ストレスへの対処
ストレスをもたらすもの
●恐怖・不安・心配―ストレスの根源
・ストレスの根源は恐怖や不安や心配といった苦痛を伴った感情にあると考えられる。
・ガン患者に見られる恐怖は、子供のころに愛されなかった恐怖、拒絶されること、心が傷つくことへの恐怖、失敗やその責任ではなく、失敗によって自尊心が傷つけられたり人からの評価を失うことによる恐怖などがある。
第十章 どうしてガンになるのか?
複数の要因による生活習慣病
●最後の一本の藁
・世界的権威、リチャード・ドール教授による調査
画像出展:「私のガンは私が治す」
・『ほとんどの場合、ガンの原因は、些細なことでも幾重にも折り重なって相互作用していることが多く、また、たいてい長期にわたってそれが積み重なってきているのだということです。肉体的な症状をもたらす「最後の一本の藁(「限界ぎりぎりまで重荷を負ったラクダは、一本の藁でも加えるとその重さに耐えきれずに倒れてしまう」)」は、他に比べて顕著な場合もあれば、特に思い当たらない場合もあるかもしれません。
どんな場合でも、あきらめることはありません。原因が分かれば、それに合った行動を起こすことで克服することができるのですから。ガンは変化しています。破壊的な性癖を建設的なものに置き換えていけば、天秤は直ちに健康のほうに傾いていくのです。』
霊的側面
●人生の調和へ
・『最後に、ガンの物理的、心理的な要因を念頭に置き、一歩前進したところからもう一度勇気を出して問いかけてみましょう。「どうして、私なのか?」と。
どうしてガンになる理由がある人とない人がいるのか? 子供のとき、複雑な境遇に置かれたために、ある種の態度や行動が身につき、それゆえ、ガンになりやすくなってしまう人がいるのはどうしてか? 煙草におぼれ、危険な食べ物を口にし、危険な環境に身を置き、ついに病気になってしまう人がいるのはなぜなのか?
このような難しい問いかけに対する答えが得られない間は、不満な気持ちを持ったまま、被害者意識にさいなまれ続けることでしょう。やはり、ただの偶然なのでしょうか? いいえ、それは確かにゆえあってのことなのです。
ここで、どうしても正面からきちんと向き合わなくてはならない基本的な哲学的命題に突き当たります。それが人生の調和ということです。これまでに見てきた物理的な側面と心理的な側面と、それらに関わりつつ存在する霊的な側面との、三者の調和の問題です。
私ははじめてガンの診断を受けたときから、人生のすべての出来事にはそれを貫く霊的な糸が存在していることに気づきました。そして、自分の内にある霊的な姿勢と現実に体が起こす行動とが調和していないままに生きていたのだと感じました。私がすべきだと感じたことと、実際にしていたこととは一致していなかったのです。他の人に対してはうそをついたことも、ましてや不正なことをしたこともなかったのに、自分の内なる希求に対しては誠実ではありませんでした。私はこの不調和がガンになったもう一つの大きな要因だと感じました。
この点に気づけたことは、本当に幸せなことだったと思っています。このことに気づき、これまでの生き方とは別の健康へ向かう道があるということに気づいたおかげで、私には私の本質の霊的、心理的そして肉体的なすべての面における調和を探し求めることへの根本的な励ましと意味づけが与えられたのです。この三つは絡み合い、相互に支え合っているのです。
心理的、肉体的なことについて話すのはわりあい簡単ですが、霊的な側面はそれほど単純なことではありません。それで、霊的な話をするのはしばらくためらっていました。私自身もレッテルを貼られたくありませんでしたし、瞑想法のようなすぐれた、単純明快な技法を色眼鏡で見られる危険を冒したくなかったからです。
しかし、多くの人々が彼ら自身の霊的な努力から勇気と方向性を得ているのを見、また、私自身の得た重要な励ましに気づいて、この深遠な領域の探求に大きな意味があることが分かりました。』
●魂の成長
・『ほとんどのガン患者は、根本的な霊的実在の探求に関心を持っています。私はキリスト教徒として英国国教会の教えで育てられましたが、いつも真実を知りたいという熱い思いを持って成長してきました。生命の神秘の裏側、キリスト教の教理を超えたところに、深く、ゆるぎない真実があると常に感じていました。ガンになってなおさらその関心は深まり、さまざまな本を読んだり霊的指導者に教えを請いました。
人はなぜガンになるような状態に置かれるのでしょうか。人は逆境においてこそ最も学び成長するようですが、ガンの経験が本当に必要なのでしょうか? 本当に単純で基本的な疑問です。理由があるのか、ないのか。愛ある神ならこういうことをお許しになるはずがないのではないでしょうか? 簡単に何かを手に入れる人もいるし、大変な苦労をしている人もいるのはなぜでしょうか?
なぜ私が、という思いも、このような理不尽な現実への問いの一つでした。私が病気を通して得た答えはキリスト教的なものではありません。しかし、枠組みにこだわる必要があるでしょうか? それより深い人生の意義と目的について、私に教えてくれたのです。
ここで、ご参考までに私の得た答えを記しておきたいと思います。
私が病気を通して学び、絶対的に信じるようになったものは、宇宙の根本的な法則です。特に東洋哲学に言うカルマ(業)、つまり因果応報と生まれ変わりという宗教的な法則を信じています。
カルマというのは行いにはすべてそれにふさわしい報いがあるという考え方です。良い行ないには良い報いが、悪い行ない悪い報いが、そしてその報いに向き合って正しいく学ぶ機会が与えられます。私たちは確かに現在進行中の人生における事件などにはその原理の働きを見ることができます。直面しているほとんどの状況は私たちが容易にそれと認めることのできる出来事を原因として、それによって作り出された結果です。
しかし、因果が分かりにくいことも、多々あります。実際、自分の人生で起こったことのすべてに何の不公平さも理不尽さも感じないでいるのは難しく、他の人々に対しては厳しい判断を下しやすいということも確かです。一見して責めを負うべき何の理由もなさそうな人々が、実はどうしようもなく困難な不平等に向き合わされていることもあります。
こうしたことを考えつめた結果、私は、生まれ変わりという概念を受け入れるように、考えの幅を広げるように誘われたのです[訳注 キリスト教には生まれ変わるという考えはないので]。もし私たちが生から生へと、基本的な性質と業を持ち越すのだとしたら、生まれながらに恵まれ、あるいは背負わされているような一見説明のつかない事柄、才能や自分の置かれた環境などといったものも理解できるようになります。
こうした概念は、私に指針を与えてくれました。来世ではもっと霊的に成長していようと考えると、今生のどのような場面においても、正しく良いことをしたいと思うし、また、どんな努力も無駄ではないと確信できます。どんな努力も、前向きに、調和を持って、ひたむきにやっていけば、必ず報われるのです。
病と戦いながら、命と今の人生との霊的なつながりに気づいたことは、私には非常な安らぎでした。現在の苦しい状況と前世の出来事にどういう関係があるのかは分かりませんが、自分の置かれた立場を理解し、病気を治そうとする努力にはそれなりの意味があると思わせてくれました。過去の行ないと現在の状況が関連しており、因果関係が人生を支配していることが分かったので、必要な変更をして正しい生き方を見つければ、健康を取り戻せるにちがいない、ということにも確信が持てました。
そして、死は私に最後の審判として鎌を振りおろすことができませんでした。
もし人生を先へ進められるなら、そして、今の心の持ち方と行ないが将来に役に立つなら、どんな状況でも全力を尽くしていけます。もちろん、全力を尽くしてもできないことはあるでしょう。しかし、限界があるということと、できるのにやらないということとは違います。私は自分で100%やった上で、結果は天に任せるという気持ちでした。まさに「人事を尽くして天命を待つ」というのはこのことだと思います。
私は本当に自分に対して責任があるのは自分なのだと認められるようになりました。病気が学習と努力を通して魂を成長させてくれる機会だと思えたことで、さらに心が満たされました。私たちの魂はガンという強烈なやり方で私たちの態度を試し、必要な教訓を学ぶ機会を私たちに与えるのです。
「ガンは私にたくさんのことを教えてくれました。もしガンにならなければこんなには学べませんでした」と言った人がいるのを思い出してください。
ガンは確かに大変な病気です。しかし、自分にできる以上のことは課せられません。なぜなら、ガンは偶然でも死の宣告でもなく、私たちをもっとよく生きろと告げる魂のメッセージなのですから。』
付記:“ガンの克服”と“怪我の連鎖”
第二章の“治癒という旅、全的な癒し”の中に次のことが書かれていました。
「治癒という旅の羅針盤は、調和を求めることである。自分の行動と心と魂のつり合いがとれて心が安定したとき、癒しは始まる。そして常にこの心の安定を最優先にしていくことが重要である」
これを見たときに思い出したブログがあります。それは2016年9月、ブログを始めたころにアップした“怪我の連鎖を考える”というものです。
私は子供のころからサッカーをやってきましたが、特に高校、大学と数々の怪我を経験してきました。「なんでこんなに怪我をしてしまうのか? 何が悪いのか? どうしたら防げるのか?」という思いから、あらためて真剣に考えたみたというものです。そして、その答えは以下になります。
要点は「自分の体を守るのは自分自身である」、「客観的に自分をみる」、「精神のバランスと肉体のバランスが重要である」の3つになります。
「治癒という旅の羅針盤は、調和を求めることである。自分の行動と心と魂のつり合いがとれて心が安定したとき、癒しは始まる。そして常にこの心の安定を最優先にしていくことが重要である」というゴウラ―先生の教えは、“怪我の連鎖”を止めるものとしても、極めて有効な自分自身との向き合い方ではないかと思いました。