源氏物語と紫式部1

無縁だった「源氏物語」との接点は英語の勉強です。29年間の会社勤めでは遣り残し感はなかったのですが、英語に関しては「できてないなぁ~」という感じでした。そのためいずれは再チャレと考えていたのですが、そろそろ動き出すことにしました。

11月に始めたヨガは、浦和パルコが入居するビルの10階にある、”浦和コミュニティセンター”で開催されているのですが、色々なサークルや講座、イベントなどが行われ、またそれらを紹介するためのチラシやパンフレットがたくさん置かれています。そして、いずれもその気になりやすい庶民的金額となっています。それらの中で今回ひっかかったのが、【源氏物語を英語で読む会】という会です。

最初は“お試し参加”ということでしたが、なかなか面白そうでした。「英語の勉強もできるし、日本人だったら源氏物語がどんなものかぐらいは知っておいた方がよかろう」という思いがあり、少し迷いましたが正会員になりました。

とはいうものの、“テキ”は日本語でも難しいとされる源氏物語です。どんな雰囲気のものか、ある程度は知っておきたいと思い、見つけた参考書が山本淳子先生の『平安人の心で「源氏物語」を読む』という本でした。山本先生がご指摘されている通り、現代と平安時代の差を知ることが必要だと考えたためです。

それにしても“光源氏”と私、比較するのも失礼千万、無礼千万ではありますが、あまりの真逆の人物像に思わず驚きの苦笑いが出てしまいました。

平安の人の心で「源氏物語」を読む
平安の人の心で「源氏物語」を読む

著者:山本淳子

初版発行:2014年6月

出版:朝日新聞出版

『「源氏物語」をひもといた平安人[へいあんびと]たちは、誰もが平安時代の社会の意識と記憶でもって、この物語を読んだはずです。千年の時が経った今、平安人ではない現代人の私たちがそれをそのまま共有することは残念ながらできません。が、少しでも平安社会の意識と記憶を知り、その空気に身を浸しながら読めば、物語をもっとリアルに感じることができ、物語が示している意味をもっと深く読み取ることもできるのではないでしょうか。本書はその助けとなるために、平安人の世界を様々な角度からとらえ、そこに読者をいざなうことを目指して作りました。

 

本書の最後に多くの参考文献が紹介されているのですが、さらにその後ろに、8ページにわたって“主要人物関係図”が付いています。これを見ても登場人物の多さにあらためて驚きます。

せめて光源氏と直接関わった人達については頭に入れておきたいと思い、ごく一部ですが表を作ることにしました。

また、参考文献の後に紹介されているものの中から、“寝殿造”の絵図をご紹介させて頂きます。

寝殿造
寝殿造

画像出展:『平安人の心で「源氏物語」を読む』

『中央部が母屋で、周囲を廂[ひさし]、その外側を濡れ縁の簀子[すのこ]と高欄[こうらん]が取り囲む。寝殿の東・西・北面に対[たい]の屋[や]があり、寝殿とは渡殿[わたどの]でつながれている。外からの出入り口は妻戸[つまど]で、それ以外は格子[こうし](蔀戸[しとみど])はめられている。』

目次黒字がブログで取り上げたものです。特に“平安人[へいあんびと]の時代”と作者の“紫式部”に注目しました。また、長くなったのでブログを2つに分けました。

目次

第一章 光源氏の前半生

(一)一帖「桐壺」 後宮における天皇、きさきたちの愛し方

(二)二帖「帚木」 十七歳の光源治、人妻を盗む

(三)三帖「空蝉」 秘密が筒抜けの豪邸…寝殿造

(四)四帖「夕顔」 平安京ミステリーゾーン

(五)五帖「若紫」 そもそも、源氏とは何者か?

(六)六帖「末摘花」 恋の“燃え度”を確かめ合う、後朝の文

(七)七帖「紅葉賀」 暗躍する女房たち

(八)八帖「花宴」 顔を見ない恋

(九)九帖「葵」 復讐に燃える、父と娘の怨霊タッグ

(十)十帖「賢木」 祖先はセレブだった紫式部

(十一)十一帖「花散里」 巻名は誰がつけた?

(十二)十二帖「須磨」 流された人々の憂愁

(十三)十三帖「明石」 紫式部はニックネーム?

(十四)十四帖「澪標」 哀切の斎宮、典雅の斎院

(十五)十五帖「蓬生」 待ち続ける女

(十六)十六帖「関屋」 『源氏物語』は石山寺で書かれたのか?

(十七)十七帖「絵合」 平安のサブカル、「ものがたり」

(十八)十八帖「松風」 平安貴族の遠足スポット、嵯峨野・嵐山

(十九)十九帖「薄雲」 ドラマチック物語、出生の秘密

(二十)二十帖「朝顔」 三途の川で「初回の男」を待つ

(二十一)二十一帖「少女」 平安社会は非・学歴社会

(二十二)二十二帖「玉鬘」 現世の「神頼み」は、観音様に

(二十三)二十三帖「初音」 新春寿ぐ“尻叩き”

(二十四)二十四帖「胡蝶」 歌のあんちょこ

(二十五)二十五帖「蛍」 平安の色男、華麗なる遍歴

(二十六)二十六帖「常夏」 ご落胤、それぞれの行方

(二十七)二十七帖「篝火」 内裏女房の出生物語

(二十八)二十八帖「野分」 千年前の、自然災害を見る目

(二十九)二十九帖「行幸」 ヒゲ面はもてなかった

(三十)三十帖「藤袴」 近親の恋、タブーの悲喜劇

(三十三)三十三帖「藤裏葉」 どきっと艶めく平安歌謡、「催馬楽」

第二章 光源氏の晩年

(三十四)三十四帖「若菜上」前半 紫の上は正妻だったのか

(三十五)三十四帖「若菜上」後半 千年前のペット愛好家たち

(三十六)三十五帖「若菜下」前半 物を欲しがる現金な神様~住吉大社

(三十七)三十五帖「若菜下」後半 糖尿病だった藤原道長~平安の医者と病

(三十八)三十六帖「柏木」 病を招く、平安ストレス社会

(三十九)三十七帖「横笛」 楽器に吹き込まれた魂

(四十)三十八帖「鈴虫」 出家を選んだ女たち

(四十一)三十九帖「夕霧」前半 きさきたちのその後

(四十二)三十九帖「夕霧」後半 結婚できない内親王

(四十三)四十帖「御法」 死者の魂を呼び戻す呪術~平安の葬儀

(四十四)四十一帖「幻」 『源氏物語』を書き継いだ人たち

第三章 光源氏の没後

(四十五)四十二帖「匂兵部卿」 血と汗と涙の『源氏物語』 

(四十六)四十三帖「紅梅」 左近の“梅”と右近の橘

(四十七)四十四帖「竹河」 性悪女房の問わず語り

第四章 宇治十帖

(四十八)四十五帖「橋姫」 乳を奪われた子、乳母子の人生

(四十九)四十六帖「椎本」 親王という生き方

(五十)四十七帖「総角」前半 乳母不在で生きる姫君

(五十一)四十七帖「総角」後半 薫は草食系男子か?

(五十二)四十八帖「早蕨」 平安の不動産、売買と相続

(五十三)四十九帖「宿木」前半 「火のこと制せよ」

(五十四)四十九帖「宿木」後半 平安式、天下取りの方法

(五十五)五十帖「東屋」 一族を背負う妊娠と出産

(五十六)五十一帖「浮舟」前半 受領の妻、娘という疵

(五十七)五十一帖「浮舟」後半 穢れも方便

(五十八)五十二帖「蜻蛉」 女主人と女房の境目

(五十九)五十三帖「手習」 尼僧の還俗

(六十)五十四帖「夢浮橋」 紫式部の気づき

第五章 番外編 深く味はふ『源氏物語』 

 番外編一 平安人の占いスタイル

 番外編二 平安貴族の勤怠管理システム

 番外編三 「雲隠」はどこへいった?

 番外編四 時代小説、『源氏物語』

 番外編五 中宮定子をヒロインモデルにした意味

参考文献

『源氏物語』主要人物関係図

 一帖「桐壺」~八帖「花宴」

 九帖「葵」~十三帖「明石」

 十四帖「澪標」~十六帖「関屋」

 十七帖「絵合」~二十一帖「少女」

 二十二帖「玉鬘」~三十帖「藤袴」

 三十一帖「真木柱」~四十一帖「幻」

 四十二帖「匂兵部卿」~四十四帖「竹河」

 四十五帖「橋姫」~五十四帖「夢浮橋」

平安の暮らし解説絵図

 平安京

 大内裏

 後宮

 寝殿造

 男性の平常着・直衣姿

 女性の正装・裳唐衣姿(十二単)と平常着・袿姿

あとがき

第一 光源氏の前半生

(五)五帖「若紫」 そもそも、源氏とは何者か?

・光源氏の源氏は、頼朝の「源」と同じであり、「源氏」とは源の性を持つ一族を意味する。そして「源」の祖先は天皇である。

・平安時代期の嵯峨天皇(789-842)は強大な力をもっており、男子だけでも22人の皇子がいた。その皇子たちにより子孫は鼠算式に増えていく。そして、逼迫する皇室費用を抑制するための措置として考えられたのが、皇子を三種類に分けることであった。一つは天皇を継ぐ東宮[とうぐう](皇太子)。もう一つは控えの皇太子要員といえる親王。そして最後が源氏であった。そしてこれらの分類は母の家柄で決まった。

・「源」の姓を賜った者たちは、天皇の血をひきながら皇族とは切り離されて臣下に降り、他の氏族の者と同様に自ら生計を立てた。誇り高い姓ではあるが、皇位継承の道を閉ざされた氏族ともいえる。

・光源氏は架空の物語であるが、始祖の桐壺帝は世の信望厚い聖帝とされ、光源氏は天皇から一代、つまり「一世源氏」である。史実をみると権威ある嵯峨天皇や村上天皇の一世源氏は、何人もの大臣を輩出している。

・源頼朝の始祖である清和天皇は影が薄く、しかも頼朝は十代であり、光源氏との違いは明らかである。それでも「源」の血の威光は絶大だった。

・『一世源氏とは、父帝の至高の血という優越性と、帝位には不相応な母の血という劣等性とを、共に受け継ぐ者だった。自らの血を自負すればいいのか、卑下すればいいのか。その葛藤は想像に余りある。光源氏は、桐壺帝の十人の皇子でただ一人臣籍に降ろされた。「源氏物語」というタイトルは、主人公が身分社会の敗者であることを示していたのだ。

(十)十帖「賢木」 祖先はセレブだった紫式部

・紫式部の父の藤原為時は彼女が二十歳の頃、越前守の国守となった[その前の10年間は決まったポストがなく、失業中]。これは貴族の「受領」に属する。受領は赴任先では権力の頂点であるが、朝廷の地位を示す位階は四位から六位である。「ここからが貴族」というラインが五位なので上流貴族とは言えない。

このように受領は特有の自由な気風や上昇志向を持ち、成り金的な一方、多少の哀愁も漂う。なお、平安の才女たちは清少納言、和泉式部など、多くがこの階級に属していた。

紫式部の父は目立たない受領だったが、直系の曽祖父である藤原兼輔は中納言であった。また、父の母の父の曽祖父にあたる藤原定方は右大臣であった。家や血統が今よりも格段に重視された時代、式部は過去の栄光と今の落魄を痛感していたのではないか。

そして、この二人の曽祖父は源氏物語にも影響を与えていると思われる。源氏物語の桐壺帝の時代は、式部から数十年前に実在した醍醐天皇(885-930)の時代に設定されていると言われているが、この醍醐天皇の時代は二人の曽祖父、兼輔と定方が活躍していた時代である。

さらに醍醐天皇は定方の姉の胤子が宇多天皇(867-931)との間に産んだ子なので、定方にとって甥になる。また、兼輔は娘の桑子を醍醐天皇に入内させている。曽祖父たちにとって聖帝とあがめられた醍醐天皇は身内の天皇といえるものだった。

・『少し前まで華やかだったのに、今は没落して受領階級となった家の娘。「源氏物語」を読むとき、作者のこの「負け組」感覚を忘れてはならない。それは東宮はおろか親王にさえなれなかった皇子である光源氏のリベンジにつながり、政争に負けた桐壺・明石一族のお家復活劇につながるのだ。

ほかにも、物語中には数々の没落者がひしめく。父に先立たれた末摘花、六条御息所、空蝉、そして宇治の女君たち。中でも空蝉は、実家の昔への矜持と今属する受領階級への引き目とを二つながら心に抱く点、紫式部自身の分身ともいえる。彼らへの、紫式部の悲しくも温かいまなざしに注目したい。

(十三)十三帖「明石」 紫式部はニックネーム?

紫式部は本名でも女房名でもない。だいたい「紫」とは何なのか? 本名は公文書に記すときなどごく限られた場合にしか使われない。女性が家で家族や召使から呼ばれる場合は「君」や「上」などと呼ばれるし、女房[朝廷などに仕えた女官]になれば女房名で呼ばれるのが普通である。「清少納言」も女房名である。女房名には大方の決まりがあり、父や兄など身内の男性の官職名を使う。例えば父が伊勢守だったなら、その国名を取って「伊勢」という具合である。

紫式部は、中宮彰子のもとに仕え始めた時、「式部」と呼んでほしいと申し出たらしい。これは父の藤原為時がかつて式部省に勤めていたからである。しかし、そこで困ったことが起きた。それは彰子の周りの女房には、既に二人の「式部」がいたからである。このようなケースは珍しくなく、姓から一文字とってつけることになる。清少納言は官職名の「少納言」に「清原」の一文字をつけたものである。紫式部の場合は「藤原」から一文字を取って「藤式部[とうしきぶ]」となったが、これがもともとの女房名である。

紫式部日記には次のような一節がある。「あなかしこ。このわたりにわかむらさきやさぶらふ(失礼。この辺りに若紫さんはお控えかな)」。これは文化の世界の重鎮である藤原公任[きんとう]の言葉である。これは源氏物語が既に高い評価をされていたということに他ならない。藤原公任が「藤式部」を「若紫」と呼んだのは、その場限りの座興だったかもしれない。だがやがて、彼女は「紫」と呼ばれるようになっていく。公任による戯れをきっかけにしてか、あるいはまた、源氏物語における「桐壺更衣」から「藤壺中宮」そして「紫の上」につながる重要な設定「紫のゆかり」にちなんで、読者が作者に与えた愛すべきニックネームか。この「紫」と、もともとの女房名「藤式部」を合体させたのが。「紫式部」である。