ボーアとアインシュタイン1 

第五回ソルヴェイ会議は、「電子と光子」をテーマとして、1927年の10月24日から29日にかけて、ベルギーの首都ブリュッセルで開催された。その会議に参加した人たちの集合写真には、物理学の歴史上、もっとも劇的だった時代が濃縮されている。招待された29人の物理学者のうち、最終的には17人がノーベル賞を受賞することになるこの会議は、歴史上、もっとも輝かしい知性の邂逅のひとつだった。そして、また、物理学の黄金時代―ガリレオとニュートンによってその幕を切って落とされた十七世紀の科学革命以来、科学的な創造力がもっともめざましく発揮された時代―の終焉を告げる出来事だった。』

画像出展:「aucfan

著者:マンジット・クマール

発行:2013年3月

出版:新潮社

以下は、本書の巻末に掲載されている年表をベースに、8人の物理学者とその他に分けて作ったものです。その8人は左から、マックス・プランク、エルヴィン・シュレーディンガー、アルベルト・アインシュタイン、ニールス・ボーア、マックス・ボルン、ルイ・ド・ブロイ、ヴォルフガング・パウリ、ヴェルナー・ハイゼンベルクになります。拡大して頂ければ文字の確認はできると思います。

右端の「その他」の1972年、1982年、1997年、2007年の欄に、ジョン・クラウザー博士アラン・アスペ博士アントン・ツァイリンガー博士の名前が出ています青字)、まさにこの業績によって、2022年のノーベル物理学賞を受賞されました。

2022年のノーベル物理学賞に「量子もつれ」の研究者3人

画像出展:「讀賣新聞オンライン

ご参考:Youtube“【量子力学】この宇宙の真実知りたくない人は見ないでください...『シンクロニシティ 科学と非科学の間に』by ポール・ハルパーン(開始~8分30秒の中で「量子もつれ」を解説されています。なお動画は19分です)

量子物理学の学術的な知識がゼロに等しい私がまとめた今回のブログは怪しげです。また、身の程知らずのコメントに「いいんだろうか?」という不安な気持ちもあります。しかしながら、私にとっては大きな前進となりました。今まで、興味だけで数冊の量子論、量子力学の本に挑戦してきて分かったことは、量子は存在すること、量子は古典物理学(ニュートン力学とマクスウェル電磁気学)の常識を超えた未知の領域にある不思議なものだということです。

天才物理学者が一堂に会した第五回ソルヴェイ会議の中でも、アルベルト・アインシュタインの圧倒的存在感は、この世に並ぶ者がない孤高の天才を証明しているように思います。また、科学者の論争を超えた視点に立ち、あらたな一歩を世界に示したニールス・ボーアの「コペンハーゲン解釈」も、量子力学の発展には欠くことのできないものだったと思います。

プランク、ボルン、パウリ、ハイゼンベルク、シュレーディンガー、ウーレンベック等の傑出した才能と強烈な個性の妥協なきぶつかり合いが量子論を磨き上げ、古典物理学とは異なる量子物理学を確立できたのだと思います。

そして、その中心にいたのは、使命感に燃え生涯をかけたニールス・ボーアと、一般相対性理論を発見し統一場理論という理想を追求し続けたアルベルト・アインシュタインだったと思います。

量子論や量子力学が難解なのは間違いないのですが、以下のサイトの最後に書かれている通り、これらは、既に生活の中に深く入り込んでいます。その代表的なものが半導体です。

画像出展:「量子力学と私たちの暮らし(無印良品)」

リニア新幹線に使われる「超伝導モーター」や「量子コンピュータ」など、今後も「量子力学」にもとづく先端技術は次々と生まれ、暮らしの中に入ってくることでしょう。不思議は不思議のまま置いとくとして、「量子力学」が今後の私たちの暮らしを大きく変えていくことだけは間違いなさそうです。

1970年代後半、半導体は「産業の米」と呼ばれていました。そして、2030年日本の半導体市場は100兆円規模まで拡大すると言われています。量子力学の発見なくして現代の進歩はあらず、人類最大の発見と言っても過言ではないと思います。

ブログは20世紀初頭の量子革命の論争を、主にボーアとアインシュタインを中心にまとめました。見出しに続き、気づいたことや感じたことを最初に書いています。

目次

プロローグ 偉大なる頭脳の邂逅

第一部 量子

第一章 不本意な革命―プランク

第二章 特許の奴隷―アインシュタイン

第三章 ぼくのちょっとした理論―ボーア

第四章 原子の量子論

第五章 アインシュタイン、ボーアと出会う

第六章 二重の貴公子―ド・ブロイ

第二部 若者たちの物理学

第七章 スピンの博士たち

第八章 量子の手品師―ハイゼンベルク

第九章 人生後半のエロスの噴出―シュレーディンガー

第十章 不確定性と相補性―コペンハーゲンの仲間たち

第三部 実在をめぐる巨人たちの激突

第十一章 ソルヴェイ 1927年

第十二章 アインシュタイン、相対性理論を忘れる

第十三章 EPR論文の衝撃

第四部 神はサイコロを振るか?

第十四章 誰がために鐘は鳴る―ベルの定理

第十五章 量子というデーモン

以下はブログの目次です。なお、ブログは6つに分けています。

1.量子の発見

2.「奇跡と年」と光量子説

3.論争を分けたアインシュタインの価値観

4.アインシュタインの数学

5.“量子テレポーテーション”

6.ボーアの人柄と信念

7.原子の量子論

8.相対性理論>量子論

9.一般相対性理論

10.1916年、光量子の確立

11.因果律の否定

12.アインシュタインとボーアの出会い 

13.量子との格闘

14.ボーア祭りとアインシュタインの命の危機

15.スピンという量子的な概念

16.古典物理学と量子物理学との架け橋

17.量子論から量子力学へ

18.量子の手品師

19.古典物理学からの解放

20.観測可能な量だけを使って作った理論

21.(A×B)-(B×A)≠ゼロ

22.量子物理学の新時代の幕開けを告げる論文

23.行列演算と量子力学

24.論理的に矛盾のない量子力学を定式化した「三者論文」

25.守備範囲の広い理論家

26.シュレーディンガーが「作った」波動方程式

27.ハイゼンベルクの難解な行列力学とシュレーディンガーの直感的な波動力学

28.数学的には等価だが物理的世界が異なる波動力学と行列力学

29.波動力学の限界

30.古典的確率とは異なる量子的確率を使って波と粒子を統合する方法

31.アインシュタインとハイゼンベルク

32.アインシュタインにとっての行列力学

33.ボーアとハイゼンベルク(量子の世界のあいまいさの核心、波と粒子の二重性の問題)

34.ハイゼンベルクの不確定性原理

35.不確定性原理を表す式、ΔpΔp≧h/2πとΔEΔt≧h/2π

36.波と粒子の二重性を受け入れるための相補性

37.1927年9月、イタリアのコモで開催された国際物理学会

38.1927年10月24日~10月29日第五回ソルヴェイ会議

39.ボーア(コペンハーゲンメンバー)とアインシュタインの議論

40.「コペンハーゲン解釈」という命名は1955年(28年後)

41.アインシュタインの統一場理論とEPR論文

42.理論と哲学的立場

43.統一場理論

1.量子の発見

量子の発見者はマックス・プランクです。それは1900年、量子は粒子と波の性質をあわせ持った、とても小さな物質でエネルギーの単位といわれています。

 『1900年にプランクは、光をはじめあらゆる電磁放射のエネルギーは、ある大きさの塊でしか、物質に吸収されたり物質から放出されたりできないと考えざるをえなくなった。「量子」とは、そんなエネルギーの塊に対し、プランクが与えた名前だった。「エネルギー量子」という考え方は、確立されて久しいエネルギー観―すなわち、エネルギーはあたかも蛇口から流れ落ちる水のように、なめらかに途切れなく放出されたり、吸収されたりするという考え―と、きっぱり手を切る過激な提案だった。ニュートン物理学に支配された巨視的な日常の世界では、水がポタリポタリと雫になって蛇口から滴ることはあっても、エネルギーがさまざまなサイズの滴として交換されることはなかった。だが、原子やそれ以下の階層は、量子の支配する領域なのだ。

やがて、原子の内部に存在する電子についても、そのエネルギーは「量子化」されていることが明らかになった―原子内の電子は、とびとびの値のエネルギー量しかもつことができないのである。同様のことは、エネルギー以外の物理量についても言えた。微視的な領域は、ぶつぶつに切り離された離散的な世界であって、単に日常世界をスケールダウンしただけではないことが明らかになったのだ。日常の生活では、点Aから点Cに移動するためには、どこか中間の点Bを通過しなければならない。ところが微視的な世界では、原子内の電子はエネルギー量子を放出したり吸収したりすることで、いかなる中間点も通過することなく、ある場所で消え、次の瞬間には別の場所にひょっこり現れることができるのだ。そんな現象は、連続的な古典物理学で扱える範囲を超えていた。それはあたかも、ロンドンで謎のように消えた物体が、次の瞬間にはパリ、あるいはニューヨークやモスクワに現れるようなものだった。』

2.「奇跡と年」と光量子説

アインシュタインが成し遂げた1905年は「奇跡の年」と言われています。それは学術誌に寄稿した四篇の論文です。

1)光量子説

2)原子の大きさを求める新しい方法を提案するもの

3)ブラウン運動―液体中に浮かんだ微粒子がランダムに動きつづける運動―を説明するもの

4)相対性理論の構想を示したもの

アインシュタイン自身が「真に革命的」だと言ったのは、相対性理論ではなく、光と放射に関するプランクの量子概念を拡張した仕事のほうだった。アインシュタインにとって相対性理論は、すでにニュートンやその他の人びとによって確立された考えを、「修正した」だけにすぎなかったのに対し、光の量子という新しい概念は、完全に彼の独創であり、従来の物理学との断絶の大きさという点では、もっとも過激だと考えていたのだ。アマチュアの物理学者とはいっても、そんな説を唱えるのは冒瀆的なことだった。

それまで半世紀以上にわたり、誰もが光は波だと思っていた。ところがアインシュタインは、「光の生成と変換に関する、ひとつの発見法的観点について」と題したその論文で、光は波ではなく、粒子状の量子でできているという説を打ち出したのだ。』

●光は波であるというのが当時の常識でした。アインシュタインの「光量子仮説」はマックス・プランクが提唱した「エネルギー量子仮説」を拡張し、光はプランク定数と振動数を掛け合わせたエネルギーを持つ粒子(光量子)の集合体であるとするものでした。この革新的な仮説を信じる物理学者はほとんどおらず、アインシュタインの考えは孤立していましたが、18年後の1923年、アーサー・コンプトンによる「コンプトン効果」により「光量子仮説」は完全に立証されました。なお、この事実はニールス・ボーアにとっても衝撃的なものでした。

ご参考:“光量子仮説とは”(【物理解体新書】より)

ご参考量子仮説と光量子仮説の違い(ミクロの世界でエネルギーが不連続であることを解明したのが量子仮説。光は波と粒子の二重性があることを示したのが光量子仮説です)

ご参考:“光電効果と光量子仮説

3.論争を分けたアインシュタインの才能と価値観

スイス特許局の3年間では「多面的に考える」訓練になったという話をされています。アマチュア物理学者時代を経て、世界最高の物理学者の一人となったアインシュタインの無二の才能は、「気味悪いほどの洞察力」と「本質を見抜く嗅覚」であり、最後まで譲ることがなかったのは、物理学の「実在性」だったようです。

『「彼(アインシュタイン)は、良く知られたなにげない事柄の陰に隠れて、みんなに見逃されていた意味を見抜くという、天賦の才に恵まれていた」と述べたのは、アインシュタインの友人で、やはり理論物理学者のマックス・ボルンである。ボルンはさらにこう続けた。「彼をわれわれと隔てていたのは、数学の技量ではなく、自然の仕組みを深く見通す、気味が悪いほどの洞察力だった」。アインシュタインは、数学では直観があまり働かず、真に重要なことを、「本質的でないことから」選り分けることができないと考えていた。しかし物理学になると、彼の嗅覚は誰にも負けなかった。物理学に関するかぎり、すでに学生時代には、「基礎につながる問題だけを嗅ぎつけ、その他の問題―こまごましたことで頭を埋め尽くし、重要なことを見えなくさせるたぐいの問題―から選り分けることができるようになった」と、アインシュタインは述べている。』

4.アインシュタインの数学

1896年10月、アインシュタインは理数科教員養成課程に入学しました。同期は11人、うち数学と物理学の教員になろうとする学生はアインシュタインを含め5人でした。その中で唯一の女性であった、ミレヴァ・マリチは後にアインシュタインの妻となりました。また、半世紀に渡った量子力学との格闘では、アインシュタインの数学がひとつのターニングポンとになったように思います。

 『ミュンヘン時代には、彼の聖典となった小さな幾何学の本をむさぼるように読んだアインシュタインだったが、数学そのものにはすでに興味を失っていた。「ポリ」で数学を教えていたヘルマン・ミンコフスキーは当時を振り返って、アインシュタインは「怠け者」だったと言った。アインシュタインは後年、そうなったのは数学が嫌いだったからではなく、「物理学の基本原理についての深い知識に近づくことは、数学的方法と密接に結びついている」ということが、当時はわからなかったためだと語った。その結びつきを、彼はその後の研究生活で苦労して知ることになる。彼は、「もっとしっかり数学を勉強しなかった」ことを悔やんだ。』

ご参考数学と物理の絡み合い PDF43枚

5.“量子テレポーテーション”

「1913年7月に発表された第一部の論文([原子と分子の構成について]という同一タイトルの三部作)は、量子を原子の内部にじかに持ち込んだ、真に革命的な仕事だった」との高い評価を受けています。ボーアが気づいた奇妙な性質は“量子テレポーテーション”と呼ばれています。これは、量子状態を転送する技術であり、古典的な情報伝達手段と量子もつれの効果を複合的に利用して行われます。

 『ボーアは、電子の量子飛躍には、非常に奇妙な性質があることに気がついた。飛躍しているときの電子の所在については、何も言えないということだ。軌道間の飛躍―エネルギー準位間の遷移―は、瞬間的に起こらなければならない。さもないと、軌道から軌道へと移動するあいだに、電子はエネルギーを放出してしまうからだ。ボーアの原子の内部では、電子は軌道と軌道のあいだの空間には存在することができない。電子はまるで魔法のように、ある軌道上から消えた瞬間、別の軌道に姿を表すのだ。

“量子テレポーテーション”の実験は84年後の1997年、フランチェスコ・デマルティ―率いるローマ大学の研究チームが成功させました。

ご参考Youtube“【簡単解説】数式なしで理解したい!「量子テレポーテーション」や「量子もつれ」の原理や仕組み、方法を初心者にも分かるように解説! (9分33秒~13分33秒に量子テレポーテーションについて解説されています。難解な内容を分かりやすく解説されていると思います)

6.ボーアの人柄と信念

ボーアの論文([原子と分子の構成について]という同一タイトルの三部作)制作に関して、指導教授のような存在であったアーネスト・ラザフォードに相談する場面があるのですが、ボーアの人柄や研究に対する信念(執念)が出ている興味深いものでした。

 『もうひとつ、小さな問題ではあったが、ボーアが深く悩んだ指摘があった。ラザフォードはその論文を、「切り詰めなければ」ならないと言ったのだ。「論文が長いと、じっくり読んでいる余裕がない読者の腰が引けてしまう」というのだ。なんなら英語を直すのを手伝おう、と述べた後、ラザフォードは追伸として、次のように書いた。「不必要と思う部分は、わたしの判断で削除してもかまいませんね? 返事待ちます」

それを読んでボーアは恐れおののいた。単語ひとつ選ぶのにも苦しみ抜き、果てしなく推敲を重ねる彼にとって、たとえそれがラザフォードであろうとも、自分以外の人間が論文に手を加えるなどとは、考えることさえできなかったのだ。二週間後、ボーアは変更と追加を書き込み、さらに長くなった改訂版の原稿を送った。ラザフォードはボーアの改訂を、「良くできているし、妥当な改訂のように思われます」と言ってくれたが、このときもやはり論文を短くするように強く求めた。その二度目の返事を受け取る前に、ボーアはラザフォードに、今度の休暇にマンチェスターに伺いますと告げた。

ボーアが玄関の扉をノックしたとき、ラザフォードは友人のアーサー・イヴをもてなしているところだった。イヴの回想によれば、ラザフォードはすぐに、その「ひょろりとした男の子」を連れて書斎に行き、その場に残ったラザフォード夫人が、今のはデンマーク人で、夫は「あの若者の仕事を、とても高く買っているのです」と言ったという。それから数日のあいだ、夕方何時間も議論に議論を重ね、ボーアは一字一句省くことなどできないと懸命に訴えた。ボーアが後年語ったところでは、ラザフォードはその間、「ほとんど天使のような忍耐力を示した」という。

やがてラザフォードは疲労困憊し、ついに折れた。のちにラザフォードは、この一件を友人や仲間の物理学者たちに話して聞かせるようになった。「彼が論文の一字一句を大切にしていることが良くわかったよ。すべての文、すべての言い回し、すべての引用を、断じて捨てるつもりがないんだ。あの覚悟にはほとほと感心させられたね。どれもこれも、明確な理由があって書いているのだ。わたしははじめ、省略できる文はたくさんあると思っていた。しかし彼の説明を聞いているうちに、全体がきわめて緊密に織りあげられているので、変更できる箇所はひとつもないのだということがわかったよ」。皮肉にも、ボーアはずっと後になって、「議論の提示のしかたが明確でない」というラザフォードの意見は正しかったと述べた。』 

7.原子の量子論

ボーアの論文は画期的でしたが、特に当時の常識に照らし合わせると難しい要素を数多く含んでいました。

 ボーアは、古典物理学と量子力学を混ぜこぜにして、自分の原子モデルを急ごしらえに組み立てた。その過程で、広く認められていた物理学の常識を破るようなことを提唱した。まず、原子内電子は、定常状態という、特定の軌道しか占めることができないということ。つぎに、定常状態にある電子は、エネルギーを放射できないということ。そして、原子は多数ある飛び飛びのエネルギー状態のうち、どれかひとつの状態を占めるということだ。それらの状態のうち、エネルギーがもっとも低い状態を、「基底状態」という。そして電子は、「どういうわけか」、エネルギーの高い定常状態から低い定常状態へと飛び降りることができ、そのエネルギー差をエネルギー量子として吐き出す、というのだった。しかし彼の原子モデルは、水素原子のいくつかの性質―水素原子の半径など―を正しく予測することができたし、線スペクトルが生じる理由を物理的に説明することもできた。のちのラザフォードは、原子の量子論は、「物質に対する頭脳の勝利であり」、ボーアがその謎を解明するまでは、ラザフォード自身、線スペクトルの謎が解けるまでには、「何百年もかかるだろう」と思っていたと述べた。

ボーアの仕事がどれほど大きな事件だったかを知るためには、原子の量子論が引き起こした反応を見ればよい。1913年9月12日、英国科学振興協会(BAAS)の第八十三回年会が、バーミンガムで開かれた。それは原子の量子論が公の場で論じられる最初の機会となった。聴衆の中にはボーア自身もいたが、彼の仕事への反応は冷ややかで微妙だった。J・J・トムソン[1897年、電子を発見した]、ラザフォード、レイリー、ジーンズという錚々たる顔ぶれがそろい、外国からの著名な参加者には、ローレンスやキュリーもいた。ボーアの原子モデルについて強く意見を求められたレイリーは、「70歳を過ぎた者は、新しい理論について性急にものを言うべきではないでしょう」と社交辞令を使った。しかしそんなレイリーも、親しい人たちに対しては、「自然はそんなふうには振る舞わない」し、「そんなことが現実に起こっているとは考えにくい」と語った。トムソンは、ボーアがやったように原子を量子化する必要なないと言い、ジェームズ・ジーンズは、失礼ながら賛成しかねる、という言い方をした。ジーンズは、聴衆でいっぱいの会場で行った講演のなかで、ボーアのモデルが正当化されるためには、「非常に重みのある成功」を収める必要があるだろうと述べた。

ヨーロッパ大陸では、原子の量子論は激しい反発を買った。ある白熱した議論のさなか、マックス・フォン・ラウエは、「まったくのナンセンスだ! マクスウェルの方程式はいかなる状況下でも成り立つ。円軌道を描く電子は、放射を出さなければなりません」と述べた。ゲッティンゲンにいたボーアの弟ハーラルは、当地では彼の仕事に大いに関心が寄せられているが、彼の仮設はあまりに「大胆」かつ「荒唐無稽」だと思われているようだ、と教えてくれた。

ボーアの理論は、初期にひとつの成功を収め、アインシュタインを含めて何人かの支持を得ることができた。』 

8.相対性理論>量子論

アインシュタインにとって、数学は物理学ほど興味を持てる学問ではなかったようです。目にはみえないミクロの世界の量子は数学に頼ることが多く、「ゴリゴリの光量子信者ではありません」という自身の発言になったのだと思います。そして、アインシュタインは相対性理論を拡張するという仕事の方を優先しました。

 アインシュタインは、量子にも、光の二重性にも、容易にはなじめないと思うようになった。彼はヘンドリク・ローレンツへの手紙にこう書いた。「はじめにお断りしておきたいのですが、わたしはあなたが思っていらっしゃるような、ゴリゴリの光量子信者ではありません」。自分がそう誤解されてしまうのは、「論文にあいまいな書き方をしてしまったためです」と彼は言った。まもなくアインシュタインは、「量子は本当に存在するのか」を問題にすることさえやめてしまった。1911年11月に、「放射理論と量子」というテーマで開かれた第一回ソルヴェイ会議から戻ったアインシュタインは、もうたくさんだとばかり、量子の狂気を頭の片隅に追いやった。それから四年間、ボーアが原子の量子論をひっさげて舞台中央に登場しつつあるちょうどそのころ、アインシュタインは重力を取り込むために相対性理論を拡張するという仕事に専念するという仕事に専念すべく、量子のことは事実上棚上げにする。