三田小山町(現・三田一丁目)で生まれた母親は2歳になる前に引っ越し、小学校教諭になる前の約20年を麻布竹谷町(現・南麻布一丁目)で暮らしました。仙台坂を下って麻布十番によく行っていたということを、懐かしそうに、そしてやや自慢げに話していました。
麻布といえば各国の大使館がひしめく高級住宅街で、埼玉一筋の私からは縁遠い高嶺の花です。以前から「なんで? いつから麻布?」という疑問を持っていたのですが、今回、母方の戸籍を調べてみることにしました。
一方、麻布を詳しく知るために購入した本が『麻布十番 街角物語』です。著者の辻堂真理[マサトシ]先生は、ご自分を「昭和四十年代に幼少期を過ごした十番小僧」と呼んでいます。この本の“第六章 消えた風景の記憶”の中に、“麻布竹谷町の今昔”と題するパートがあるのですが、麻布竹谷町に加え、三田小山町についても紹介されていたのには驚きました。
ブログの題名を「麻布竹谷町と三田小山町」としたのは、『変わらない磁場のようなものを二つの町からは強く感じるのです。』という、辻堂先生のお話が印象に残ったためです。
著者:辻堂真理
発行:2019年8月
出版:言視社
『竹谷町にも小山町にも、私が十番小僧だった昭和四十年代にこれらの町が照射していた「オーラ」のようなものが、いまも残っているからではないか、とも考えるのです。
バブル期を境に麻布十番という街が変容してしまったことはすでに述べましたが、そのなかで竹谷町と小山町の西地区は大規模な再開発計画から逃れた稀有なエリアということができます。もちろん個々の建物は新しくなり、マンションの数が増えたことも確かだけれども、それでも変わらない磁場のようなものを二つの町からは強く感じるのです。』
辻堂先生の『麻布十番 街角物語』に関しては、“麻布の歴史”、“麻布十番”、“麻布竹谷町”、“高見順”、“東町小学校”という5つの題名に分類させて頂きました。その後に、私事になりますが調べて分かったことを追記しました。
麻布の歴史
●江戸市街の整備は天正十八年(1590年)に徳川家康が江戸に入府してから。寛永十二年(1635年)には参勤交代が制度化され、諸藩の屋敷が江戸市中に林立した。この頃から麻布の台地にも武家屋敷が建ちはじめた。
●明暦三年(1657年)一月十八日に、死者数万人におよぶ「明暦の大火」が発生。この大火がきっかけとなり、幕府は江戸市街に密集していた武家地や寺社地を郊外に移す施策を打ち出した。このような経緯により、それまで田畑と原野だった麻布の台地に武家屋敷の建設ラッシュが始まった。麻布十番は江戸城まで5~6km、徒歩で1時間程度であり、徳川に仕える武家たちにとって好適地だった。
●延宝年間(1673~1681年)には、善福寺門前の雑式集落より東のエリアも武家屋敷となり人口は増えていった。
●麻布エリアが正式に江戸市中に組み入れられたのは、正徳三年(1713年)にまず百姓屋敷が、次いで延享二年(1745年)には善福寺門前の町屋がそれぞれ町奉行の支配下となり、江戸八百八町の仲間入りを果たした。
画像出展:「江戸の外国公使館」
幕末の善福寺です。
●文政十年(1827年)の資料を見ると、麻布エリアは59人の旗本とその関係者が居住しており、芝や愛宕に次ぐ武家屋敷町であった。
画像出展:「分間江戸大地図」文政11年(1828年)
この古地図は文政11年ということなので、本書にある、「文政十年」の翌年ということになります。水色が“古川”です。地図を拡大して頂くと、中央やや右、古川が直角に曲がっている箇所の左側に現在の“麻布十番駅”があります。駅の下方には“善福寺”があり“センダイ坂”を挟んで“松平陸奥”の大名屋敷となっています。この松平陸奥と書かれた場所がおおむね麻布竹谷町になります。
●日米修好通商条約が締結された安政五年(1858年)の翌年、日本初のアメリカ公使館が麻布山善福寺に置かれた。そして初代アメリカ公使のタウンゼント・ハリスや通訳のヒュースケンをはじめ、二十人ほどのアメリカ人が滞留することとなった。
画像出展:「江戸の外国公使館」
左がハリス、右がヒュースケンです。
画像出展:「江戸の外国公使館」
左下の番号が“75”なので、この写真は“ガウン姿のハリス”になります。
画像出展:「江戸の外国公使館」
上が”善福寺をアメリカ公使の旅館に指定する書簡”、下は”アメリカ使節の上陸を伝える書簡”です。
画像出展:「御府内場末往還其外沿革図書」
こちらは文久2年(1862年)の古地図です。1858年の“日米修好通商条約”締結の4年後になります。緑色(土手・百姓地)に囲まれた水色は“古川”です。また、オレンジ色は“宮・寺”で中央の大きなエリアが“善福寺”です。白色は“武家地”ですが非常に多いことが分かります。
●明治維新を迎え、武家中心の町であった麻布十番の商店街は一時の賑わいを失った。
その後、栄えるきっかけとなったのは明治六年(1873年)、麻布十番からほど近い芝赤羽の旧久留米藩有馬家の上屋敷跡(現在の国際医療福祉大学三田病院、済生会中央病院、三田国際ビル、都立三田高校、港区立赤羽小学校などを含む二万五千坪に及ぶ広大な場所)に、工部省の赤羽製作所(官営の機械製作工場、後の海軍造兵廠)が開設されたことである。
画像出展:「分間江戸大地図」文政11年(1828年)
こちらは最初の古地図(文政11年)のほぼ中央部分を拡大したものです。現赤羽橋駅の古川に沿って大きなエリアを占めているのが“有馬玄蕃”の上屋敷です。そして、有馬家の上屋敷の左側に隣接するのが三田小山町になります。
画像出展:「江戸の外国公使館」
写真の左側が有馬家の上屋敷の塀とのことです。方角が不明確ですが、上図(文政11年)から考えると、左が有馬家なので右は松平家(松平隠岐)の上屋敷ではないかと思います。
画像出展:「市原正秀[明治東京全図]」
こちらは明治9年(1876年)の地図です。上部に“古川”が書かれています(左から小さく“中ノ橋”、“赤羽橋”とあるのでこれが川だということが分かります)。これを見ると、有馬家の上屋敷の跡地に工部省の赤羽製作所(この地図には“製作寮”となっています)があったことが確認できます。
●その後、明治八年(1875年)には、赤羽製作所の西側に三田製糸所が開業。明治十二年には三田製作所(芝五丁目)、明治二十年に東京製綱株式会社(南麻布三丁目)、明治三十二年に日本電気(芝五丁目)といった大企業が次々に設立された。さらに、日露戦争[1904-1905]後には古川沿いにも工場が林立し、十番街商店街は工場労働者の日用品や食料品の供給基地として、再び活況を呈するようになった。
画像出展:「江戸の外国公使館」
“古川と中ノ橋付近”となっているので、場所は三田ではなく麻布十番寄りです。また、ベアト撮影と書かれており時代は幕末だと思います。
●麻布の台地部では、明治二十年代の後半あたりから武家地の区画整理が急速に進んだ。特に西町(現在の元麻布二丁目)あたりを中心に、政治家や実業家の大きな邸宅が建ち並ぶようになり、明治の後期には皇族や華族、政府の高級官吏などが住む都内屈指の高級住宅街となった。
●古川沿いの低地に開けた繁華な商店街と、台地上から商店街を眺める高級住宅街―麻布十番の特徴的なコントラストは、明治期から大正期を通じて完成され、そのまま昭和という激動の時代へと突き進んだ。
麻布十番
●昭和はじめ頃の麻布十番の名物は「露店」だった。稲垣利吉先生の「十番わがふるさと」には次のように紹介されている。
『「当時の十番は今の一丁目から三丁目にかけて二百余軒の店舗が並び、夜ともなると露店が五十軒位出店した。露店といっても毎晩同じ人が同じ場所に店を出す人が多く、今の追分食堂(麻布十番二-五あたり)前や吉野湯(麻布十番一-十一あたり)の横町などには風呂帰りの人を相手の飲食店の屋台が並んだ」ということです。』
画像出展:「増補 写された港区 三」
昭和8年に撮影された、“十番大通り”です。
また、幼少期から二十年間を麻布竹谷町(現・南麻布一丁目1~4、9~26、27番の一部、三丁目3番)で暮らした高見順先生も、短編小説の「山の手の子」の中で露店について次のようにふれている。
『「夜店も私には楽しいものだった。アセチレンのにおいがなつかしく思い出される。縁日の夜店へは、私は子供の頃、母に連れられてよく行った。(中略)麻布十番通りの夜店―そこへ行くのに母は、おまいりに行きましょうと言うのが常だったが、ほんとは気晴らしに出かけたのにちがいない。安い、小さな鉢植えの植物を買うのが、母の、そして私の楽しみだった」と記しています。』
●麻布十番という名称が正式に地名となったのは昭和三十七年(1962年)のことで、それまでは麻布宮下町、麻布網代町、麻布坂下町、麻布山元町などに細分化されていた。
画像出展:「増補 写された港区 三」
こちらは昭和12年に撮影された、“麻布十番の夜店”です。
麻布竹谷町
●竹谷町は麻布村の一部で、明暦年間(1655~1658年)に仙台藩伊達氏の下屋敷となった。
●麻布十番から仙台坂を上り、麻布山入口信号の先を左折して150メートルほど行くと、左側に港区シルバー人材センターのビル(南麻布1-5-26)がある。この辺りが旧麻布竹谷町になるが、江戸中期までは伊達家下屋敷の敷地内の一部で、享保八年(1723年)以降は禄の低い旗本のお屋敷地だったようである。
●明治五年(1872年)に武家地を合併して麻布竹谷町になった。仙台坂は町の北辺の長い坂である。仙台坂の由来は坂の南に仙台藩の広大な下屋敷があったためである。
●仙台坂は二之橋の交差点を起点に西の方向(西麻布方向)へ、およそ500メートルつづく急勾配の長い坂。坂上の台地(元麻布)と坂下の低地(麻布十番)を結ぶ主要路であり、麻布十番と南麻布を分ける境界線にもなっている。
画像出展:「御府内場末往還其外沿革図書」
こちらは先にご紹介した文久2年(1862年)の古地図の中央付近を拡大したものです。オレンジ色は“宮・寺”、白色は“武家地”、灰色は“町屋”、緑色は“土手・百姓地”、クリーム色は“道”です。ほぼ中央の道が“仙台坂”です。
地下鉄日比谷線 広尾駅で降りて、有栖川公園を越え少し歩いていると”仙台坂”の交差点にきます。右前方が”旧 松平陸奥守下屋敷坂(上図)”です。
また、この仙台坂を下った左側に善福寺があり、その前方左側が”麻布十番”になります。
●昭和二十年(1945年)五月、夷弾の爆撃により一面焼け野原と化し、それまであった家並みは激変したが、町の地勢はそれほど変わらない。
画像出展:「麻布十番 街角物語」
焼け野原の麻布十番。
本書の著者である辻堂先生は、昔の竹谷町を見つけました。
『土地の高低差を手がかりに崖を目指して西の方向へ進んでいくと、いやはやマンションが目の前に立ちはだかって、崖下の風景は見る影もありません。昭和四十年代までは高層建築は珍しく、ほとんどが平屋か二階建ての家屋ばかりだったので、屋根越しに崖肌を見ることができたのに……と、さらに歩を進めてみると、見えました!マンションのほんのわずかな隙間から、五十年前と変わらぬ姿で崖肌がのぞいていたのです。』
画像出展:「麻布十番 街角物語」
かなり高い崖肌です。
この崖上の台地が仙台藩の下屋敷があったところで、後に明治期に総理大臣を二度も務めた松方正義の三男・正作の屋敷となり、この敷地内の一部に先述した仙華園がありました。
画像出展:「東京市麻布区図」
仙台坂沿いの左側の武家地(白色)に“松方邸”が出ています。なお、これは大正13年(1924年)の地図です。
高見順
●高見順先生は明治四十年(1907年)、福井県で生まれた。上京したのは一歳九ヵ月、飯倉三丁目あたりに落ちくつくも、ほどなくして竹谷町五番地に引越し。結婚され大田区大森に新居を移す昭和五年(1930年)までの二十二年間を竹谷町とその周辺で暮らした。
●高見先生は大正二年(1912年)、今の麻布区立本村小学校に入学するが、竹谷町のすぐ隣の東町に開校した「東町小学校」に転向した(著者の辻堂先生も東町小学校出身とのことです)。
なお、辻堂先生が特に高見先生に興味をもったのは、二十代の頃にたまたま読んだ「わが胸の底のここには」の中に、大正から昭和にかけての竹谷町の風景を見つけたからとのことです。
画像出展:「東京市麻布区図」
緑色のサインペンでマークした部分が“竹谷町五番地”です。また、右端に破線で大きく囲った部分は“東町小学校”になります。
●高見先生は母上から人一倍厳格に育てられた。そして先生もそうした母上の訓育に応えるように、勉学に勤しみ、一校(現・都立日比谷高校)、帝大(現・東京大学)というエリートコースを進み、やがて昭和を代表する小説家・詩人となった。
●高見先生は昭和二十年(1945年)の空襲の一ヶ月ほど前に竹谷町を訪れている。
『竹谷町に出た。私の通った東町小学校は昔のままだった。前の赤煉瓦の邸宅も昔のままだ。懐かしい。学校に沿った横道に入った。突き当りの岡本さんは、私のうちでいろいろ世話になったところで、ここまで来たのだから挨拶して行こうと思ったら、―家がつぶれている。強制疎開だ。ごく最近、取りこわしたらしい様子だ。(「高見順日記」昭和二十年四月二十二日)』
東町小学校
●東町小学校は大正二年(1913年)に開校した。関東大震災による倒壊は免れたものの、昭和二十年(1945年)の空襲で全焼した。一旦は廃校になったが、昭和三十年(1955年)に再開した。
●東町小学校が高見文庫を設立したのは、高見先生が病気で亡くなった昭和四十年(1965年)十一月二十二日。「高見順日記」、「昭和文学盛衰記」や、高見家から寄贈された数百冊の著書が展示されている。
●展示されているのは約40冊と、高見先生の小学生時代の写真や新宿伊勢丹で開催された高見順展のパンフレット、「われは草なり」が掲載された国語の教科書なども陳列されている。
画像出展:「麻布十番 街角物語」
私事の件
1.「なんで? いつから麻布?」という疑問
答えは、高祖母の旧姓吉田ミヨ(天保14年[1843年]生まれ)の父である吉田宗衛門(母の高祖父)が、東京府麻布区坂下町(現・麻布十番二丁目・三丁目)に住んでいたというのがルーツでした。
戸籍から調べるのはこれが限界でした。この先はどのような方法があるのだろう思い、図書館から借りてきた本、『自分でつくれる200年家系図』をみると、いくつか手掛かりが出ていましたので一部をご紹介させて頂きます。
さまざまな手法:血縁よりも家としてのルーツ探し
・まずは郷土誌を読む
・総本家や親戚に行く(現地を訪ね、祖先の情報を得る。図書館や教育委員会にも手がかり)
・古文書を調べる(先祖が庶民なら“宗門人別長”を、武家の場合は“分限帳・由緒”も)
・菩提寺を訪ねる(“過去帳”や“墓誌”を見せてもらう。お寺と疎遠な場合は本家を通じて)
・名字を調べる(地名・地形・役職などに由来。ルーツ探しの手がかりになることもある)
・家紋を調べる(二万種もあるといわれる家紋。同族が必ずしも同じ紋ではない)
2.竹谷町五番地と竹谷町弐番地
母親の百歳を記念して”【祝】百歳”というブログをアップしているですが、東京大空襲直後の上野駅と電車の様子を知りたいと思い、探し当てたのが高見順先生の『高見順日記 第三巻』でした。
発行:1964年
出版:勁草書房
たまたま見つけた高見先生の本でしたが、その高見先生が竹谷町に住んでいたことに大変驚きました。
高見先生は明治四十年(1907年)、福井県で生まれ昭和五年(1930年)までの約22年間を“麻布竹谷町五番地”で暮らしました。なお、「高見順」のペンネームで小説を書き始めたのは、東京帝国大学英文学科在学中とのことです。
高見順先生の足跡が詳細に解説されています。
一方、11歳年下になる母も約20年、同じく麻布竹谷町に住んでいたので、もしかしたら小学生時代に高見先生とすれ違っていたかもしれません。
なお、戸籍によると”東京市麻布區竹谷町弐(2)番地”は”東京市港區麻布竹谷町壱(1)番地拾五(15)号”に変わっていました。
新旧2つの戸籍、いずれの戸籍にも当てはまるエリアは右の地図の赤くマークした箇所です。
なお、この地図は昭和8年(1933年)のもので、下記の地図(大正13年)の9年後に作られた新しい地図です。
画像出展:「東京市麻布区図」
大正13年(1924年)の地図です。緑色でマークした部分が“麻布區竹谷町五番地”で、赤色は母親の自宅があったと考えられる箇所です。
画像出展:「マピオン」
現在の同地域の地図です。中央やや上方の”竹の湯”は創業大正二年です。
竹の湯からみる麻布區竹谷町弐番地方面の様子です。
辻堂先生が特に高見先生に興味をもったのは、二十代の頃にたまたま読んだ「わが胸の底のここには」とのお話でしたが、私も気になってこの本を買ってしまいました。
発行:1958年6月
出版:三笠書房
ご参考
麻布竹谷町と三田小山町について、とても変参考になったサイトがありましたのでご紹介させて頂きます。
1.江戸町巡り
”麻布”に関する情報もあります。
ここまであまりご紹介してこなかった“三田小山町”に関して、とても詳しく書かれています。なお、こちらのサイトは『東京都港区麻布周辺の情報、昔話などをお届けします。』とのことです。