ウォルト・ディズニー3

著者:ボブ・トマス

訳:玉置悦子/能登路雅子

発行:初版1983年1月

出版:講談社

目次は”ウォルト・ディズニー1”を参照ください。

5.ディズニーランドとは

『ディズニーランドは、いまやウォルトにとって是が非でも達成しなければならない使命感となっていた。それは、音や色を伴うアニメーション映画、長編漫画、そのほか彼がいままで新しく開発してきた数々の事業よりも、さらに大きな目標であった。

このパークは、僕にとってとても重要な意味をもっている。これは永遠に完成することのないもの、常に発展させ、プラス・アルファを加えつづけていけるもの、要するに生き物なんだ。生きて呼吸しているもんだから、常に変化が必要だ。映画なら、仕上げてテクニカラー社に渡せばそれで終わり。「白雪姫」は僕にとってすでに過去のものだ。ちょうど2、3週間前にも一本、映画の撮影を終えたんだが、あれはもうあれでおしまいなんだ。僕はいまさら、何も変更できない。気に入らない箇所があっても、もう、うすることもできない。だから僕は、生きているもの、つまり成長する何かが欲しいと思ったこのパークがまさにそれなんだ。何か足していけるだけじゃなく、木でさえもだんだん大きくなる。年ごとにパークはより美しくなっていく。それに、大衆が何を求めているのかについての僕の理解が深まるにつれて、パークももっとすばらしいものになる。こういうことは映画じゃできない。作ったらそれでおしまい。お客さんが気に入ってくれるかどうかもまだわからない状態なのに、もう手を入れることが許されないんだから 』

6.未来都市(EPCOT) 

EPCOTはアトラクションですが、ウォルト・ディズニーが描いたEPCOTは違っていました。まさに実験的な(Experimental)原型(Prototype)としての都市(Community)の(of)未来(Tomorrow)像でした。

『WEDの技術力が円熟味を増すにしたがい、第二のディズニーランドを作ることに否定的だったウォルトの気持ちもしだいに変わっていった。テーマパークの焼き直し以上のことをやってみる絶好の時期が来ていると感じた彼は、もう一つのディズニーランドを建てて、それを、より大きな目標を達成するための刺激剤にしようと決心したのである。すなわち、新しいタイプの都市を計画、建設し、清潔で美しく活気に満ちたコミュニティーでの人間生活を実現してみよう、という構想であった。

『報道陣から、このフロリダ・プロジェクトで雇用される従業員のためのモデル都市について、質問が出された。ウォルトは、ここではじめて未来都市の構想を公にすることになった。

「そうですね、モデル都市というか、まあ、未来の都市という名で呼んでもいいのですが、これに乗りだしたいと思ったのは、私は建築家がよく建てたがる超高層ビルみたいなものは好きではないからです。誰もがいまでも、人間らしく住みたいと願っているでしょう。そのためにやれそうなことはたくさんあります。私は別に車に反対ってわけではないのですが、都市の中に自動車が入りすぎていると思うんです。だから、車はあっても、人間が本来の歩行者に戻れるような設計をすればいい。私は、ぜひ、そういうプロジェクトに取り組んでみたい。それから、学校や公共施設、町の娯楽と生活のあり方なんかにしてもですね、未来の学校を建ててみたいと思っています。……これは、現代という教育の時代の実験的事業になるかもしれませんよ―アメリカからさらに世界に広がっていく規模のね。今日、もっともむずかしい問題は教育だ、と私は考えていますから

ウォルトはフロリダ・プロジェクトの企画委員会をWEDに設置し、自らそのメンバーの一人となった。同じく委員となったのは、ウォルトのアイディアを具体的な形にする貴重なこつを知っていたジョー・ポッターとマービン・デービスである。そして、この三人だけがプロジェクトの計画がしまってある部屋の鍵を持つことになった。

企画の過程を通じて、ウォルトはプロジェクトの全体的な構想と未来都市の設計に心血を注ぎ、テーマパークのほうには、あまり注意を向けなかった。

『ウォルトは未来都市の建設にとりつかれた。彼は科学が生んだ最新の成果を可能なかぎり全部取り入れたいと考え、ジョー・ポッターに指示した。

「各企業が未来について、どんなことを考えているのか知りたいんだ。科学研究所とかシンクタンクではいま、何をやっているのかを調べてくれ。彼らのノウハウを僕らの企画に生かすんだ」

そこで、500社にのぼる企業にアンケート用紙が送られ、ポッター以下、何名かのスタッフが数か月をかけて100あまりの工場や研究所、財団などを訪問した。ウォルトはまた、都市計画について手当たりしだい読みあさった。

エコノミックス・リサーチ・アソシエイツ社に依頼した14件の調査のうち、一件はさまざまなモデル都市に関するものであった。それには、計画的に作られた都市というものは紀元前1900年ごろからすでに存在しており、ピラミッドを建設する労働者のためにエジプトに作られたのが始まりであると書かれてあった。また、アメリカで1960年代半ばまでにできた125の新しい都市のうち、その計画が成功したのはほんのわずかであり、たいていの場合、古くからの都市が犯した過ちの繰り返しか、あるいはそれをさらに悪化させたものに終わってしまった。と報告されていた。ウォルトは、戦争直後のイギリスで実施された“ニュータウン”のプログラムに感心したが、できあがった実際の都市は、単調でぱっとしないものになってしまったようであった。だが、ウォルトは落胆しなかった。質の高い環境を計画的に作ることにより、現代社会の中でも人間らしい生活をすることは可能であると、持ち前の楽天主義で信じていたのである。

また、いくつかの大企業がモデル都市を作ろうと試みて失敗した例にも、ウォルトは意気をくじかれることはなかった。なかには、十か所のモデル都市の建設を目指して、企画調査に一億ドルを投じた企業もあったが、その計画は水の泡となってしまっていた。時代遅れの建築基準、保護主義的な労働組合、建材業者の高い請負料、それに近視眼的な政治家など、もろもろの障害に阻まれて、斬新な変革を実現することができなかったのである。

政治家というものに対し、これまでずっと不信感を抱いてきたウォルトは、政府の干渉なしにモデル都市を開発するという、いままでに例のない自由が欲しかった。ドン・テータムが、ウォルトの望んでいるのは“実験的な専制君主制”であると言ったところ、ウォルトは片方の眉をつり上げて、いたずらっぽくきき返した。

「できると思うかね」

「無理ですよ」

テータムはあっさり答えた。

ウォルト・ディズニーの未来都市には名前が必要だった。ある日、WEDのスタッフと昼食をとっていた彼は、しばらく思いにふけっていたが、突然口を開いた。

僕らが狙っているのは、実験的な(Experimental)原型(Prototype)としての都市(Community)の(of)未来(Tomorrow)像だよな。これの頭文字をとったらどうなる?E-P-C-O-T。そうだ、この名前でいこう、EPCOTだ」。』

7.全世界が泣いた日

大人の目に浮かんだ涙もけっして小粒ではなかった。:メキシコシティー

ディズニーの真の価値を物語るものは、彼が獲得した数々のアカデミー賞よりむしろ、老いも若きもがこぞって発したあの歓声の声である:デュセルドルフ

『ウィルとの死は、ディズニーの組織に属する者全員にとって大きな打撃であった。スタジオ、WED、ディズニーランド、フロリダの建設現場、各国に散らばるブエナ・ビスタ社の事務所―。その中にはウォルトと三十年も一緒に仕事をしてきた者もいれば、新来のスタッフもいた。が、ウォルトの頭脳を会社の指針として頼ってきたことでは、誰しも同じであった。そしていま、彼が定めた目標めざして手綱をとる任務は兄、ロイ・ディズニーの双肩にかかることになったのである。

ウォルトの葬儀は彼の遺言に従って、ごく内輪にひっそりと行われた。彼が亡くなった日の翌日、遺体は荼毘に付され、グレンデールのフォレストローン・メモリアルパークでの簡単な埋葬式に立ち会ったのは、わずかに身内の者だけであった。家族は弔問者による献花を断り、代わりに香典はカリフォルニア芸術大学への献金に差し向けてくれるよう依頼した。』  

「CalArts は、私が緑豊かな牧草地に移るときに残したい一番の目的です。将来の才能を伸ばす場所を提供する手助けができれば、何かを達成できたと思います。」—ウォルト・ディズニー

 

8.生涯のパートナー、ロイ・ディズニー

『1950年代も終わりに近づくころには、ディズニーの企業は大躍進を遂げていた。ウォルトが管轄する領域はディズニーランド、テレビのレギュラー番組、劇映画、長編、短編のアニメーション映画、《自然と冒険》シリーズの記録映画とそれから派生した《民族と自然》シリーズのフィルム、楽譜出版、レコード、書籍、雑誌、ディズニーのキャラクター商品、などに広がっていた。会社の繁栄について、ウォルトはある記者にこう話している。

「僕とロイにはお守りの天使がついているに違いないって思うんですけどね。ディーン・マーティンとジュリー・ルイスみたいにけんか別れするなんて考えたこともなかった。もっとも、この天使さまがロイについているのか僕についているのか、二人ともそこのところがわからないんだけどね」

兄弟の仲が決裂するような可能性こそなかったものの、会社の事業がだんだん複雑化するにつれ、二人の関係には緊張がみられるようになった。ときにはそれが爆発することもあったが、火つけ役はたいてい、年も若く短気で芸術家肌のウォルトであり、仲直りの行動を最初に起こすのも、移り気な彼のほうであった。

ある激しい衝突のあと、ウォルトが誕生日のプレゼントを持ってロイの部屋を訪ねたことがあった。それは、インディアンが和平のしるしとして吸う平和のキセルであった。ロイはこの贈り物に大笑いし、不愉快な気分も一瞬にして吹き飛んでしまった。ウォルトはそのあとですぐ、ロイ宛に手紙を書いた。また、兄さんといっしょに平和のキセルをふかすのは、いい気持ちだったよ。のぼっていく煙がとてもきれいだった。

思うに、僕と兄さんは、何年もかかって何かをやり遂げてきたんだ―昔、千ドルすら貸してもらえないことがあったのに、なんでもいまじゃ、二千四百ドルも借金しているそうじゃないか。

いや、まじめな話、誕生日おめでとう。ずっと長生きしてほしい。僕は兄さんが好きだよ。

ディズニー帝国の建設に対するロイの貢献を、ウォルトが過少評価することはけっしてなかった。それどころか彼は、ロイの財務処理の能力とこの家族企業への献身に対し、機会をみつけては賛辞を送った。ロイが背負った重要な機能を果たすための能力ややる気は、ウォルト自身にはまったくなかったのである。』 

『1965年11月15日、オーランドのチェリープラザホテルで記者会見が開かれた。席上、バーンズ知事は、いかにも政治家らしい仰々しい表現で、ウォルト・ディズニーを、「フロリダ州にエンターテイメントの新世界と楽しさ、さらにまた経済的発展をもたらそうとする、1960年代の代表的人物」であると紹介した。そしてロイ・ディズニーに対しては、「ウォルト・ディズニー・プロダクションの天才的な財務管理者」と褒めたたえた。

「この事業は、いままで私たちが取り組んだ中で最大のものであります」

記者を前にしたウォルトは、こう口火を切った。

記者のみなさんのためにちょっとご説明しますと、私と兄はこれまで四十二年間、一緒に仕事をしてまいりました。私は小さいころ、何か突拍子もないことを思いつくと、よくこの兄貴のところに話にいったもんです。すると兄が私の考えを聞いてまともな方向づけをしてくれるか、あるいは兄にどうしても賛成してもらえないときは、そのまま私が一人で自分のアイアイディアを何年も暖めたあと、結局彼をなんとか味方にひっぱり込むかのどちらかでした。ま、そういうふうにして私たちは摩擦を起こしながらもやってきたんですが、そのおかげで我々の組織に必要だったちょうどいいバランスもとれたのだろうと思います。……しかしながら、このフロリダのプロジェクトについては兄を説得する必要はあまりなく、彼は最初から賛成してくれました。もっとも、そのことがはたして良かったのか悪かったのかは、これからわかることになるのでしょうが―」。』

画像出展:「ウォルト・ディズニー」

1932年、ミッキーマウスを生みだしたことにたいしてアカデミー特別賞が贈られました。

向かって右側がロイ・ディズニーです。

 

感想

ウォルト・ディズニーが願ったのは人々の笑顔だったと思います。漫画でも、映画でも、ディズニーランドでも笑顔があふれています。子供だけでなく大人もいっしょです。特に家族を大切にしたいという想いがあったように思います。

それは伝記の中にも出ています。

僕は、そのお客さんたちに笑顔を浮かべながらパークの門を出ていってもらいたいんだ。それだけは頭に入れておいてくれたまえ。設計者の君にこの僕が望むことは、たったそれだけなんだから

ウォルトはディズニーランドを生き物だと言っています。それは漫画も映画も作品が完成してしまうと、まさにThe End。そこに手を加えることはできません。

僕は、生きているもの、つまり成長する何かが欲しいと思った。このパークがまさにそれなんだ。何か足していけるだけじゃなく、木でさえもだんだん大きくなる。年ごとにパークはより美しくなっていく。それに、大衆が何を求めているのかについての僕の理解が深まるにつれて、パークももっとすばらしいものになる。

この、「パークは生き物」という考えは、ディズニーランドが今も多くの人を魅了している理由の一つだと思います。そして、もう一つはディズニーランド内で働く人達の“喜び”ではないかと思います。そこには確固たるディズニー愛があるように思います。ウォルトもパークの運営に直面した際、次のような言葉を残しています。

「まず言っとくが、これは遊園地じゃない。それに、僕らだってほかの人間と同じようにディズニーランドをうまく運営できる。要するに、やる気があって、エネルギッシュで、愛想がよくて、向上心のある従業員さえいればいい。もちろん失敗もするだろうけど、その失敗から学んでいけばいいんだ」。

ウォルトはディズニー家をとても大事にしました。兄のロイなくして今のディズニーは考えられません。妻のリリーも客観的な視点でウォルトを支えました。1938年には健康を害した母、フローラと父、イライアスのために温暖な南カリフォルニアに家を建てました。これはロイとウォルトからのプレゼントでしたが、すぐ近くにはロイと妻エドナ、そして孫のエドワードが住む家がありました。

この家族を大切にする気持ちが、家族全員を幸せにする空間、パークの生みの親だったのかもしれません。ウォルトが設立したラフォグラム・フィルム社の1922年を最初の年とするならば、2023年、1世紀を超えた現在も、ディズニーはアニメの世界でシネマの世界で、そして世界各国に展開されているディズニーランドによって家族はもちろん、多くの人々を幸せな気持ちにさせています。ウォルト・ディズニーは自分の夢と向き合い、その実現のために生き抜いた人だったと思いました。

画像出展:「The Art of Walt Disney」

最初の会社、ラフォグラム社でアニメ作成中のウォルト、1922年。

「創造力というものに値札はつけられないよ」

ウォルト・ディズニーが夢を実現できたのは、ここにあるような気がします。

ウォルト・ディズニー2

著者:ボブ・トマス

訳:玉置悦子/能登路雅子

発行:初版1983年1月

出版:講談社

目次は”ウォルト・ディズニー1”を参照ください。

2.作品の制作に大切なこと

『ウォルトはこの年、1934年、ディズニー美術教室の授業を昼間部にも拡大することにした。そして講師のグラハムをスタジオの正社員とし、週の三日は昼間部の指導、二日は夜間クラスで教鞭を取らせた。グラハムは、ウォルトとともに、“スウェットボックス(汗かき部屋)”に何時間も籠って、新人アニメーターのペンシル・スケッチを写した写真を検討したり、また週に二度、アーティストをグリフィスパークの動物園に連れていき、動物を写生させたりした。一方、夜間クラスは週五日開かれるようになり、アニメーションの技法、キャラクターの描き方、レイアウト、背景画法などのクラスに150名のスタッフが参加した。

1935年のはじめ、ウォルトの将来計画がだんだんと固まりつつあったときである。ウォルトは、アーティストを300名ぐらい集めてほしい、とグラハムに指示した。そこで、カリフォルニアからニューヨークに及ぶ地域の各新聞に求人広告が掲載され、応募者を次々と面接しては彼らが持参した作品に目を通した。

同年、ウォルトがグラハムに宛てて書いた洞察力あふれる長いメモには、それまで16年の経験から引きだされた彼のアニメーションに対する信条が、これまでになく明確に表れている。このメモの中で、ウォルトが優秀なアニメーターの資質としてあげた条件は、次のようなものであった。

一 デッサンがうまいこと

二 劇画化の方法、ものの動き、ものの特徴などをつかんでいること。

三 演技に対する目と知識をもっていること。

四 いいギャグを考えだすと同時に、それをうまく表現できる能力があること。

五 ストーリーの構成と観客の価値観について熟知していること。

六 自分の仕事に関する一連の機械的な部分や、細かい決まりきった作業をも、すべてよく理解していること。

そうすれば、こうしたささいな点で立ち往生することなく、アニメーター本来の能力を発揮できる。

さらに、アニメーション制作の技術にも科学的なアプローチが可能であると確信していたウォルトは、自分の見解をこう結論づけている。

まず第一に、漫画を描くということは、実際のものの動きや対象をあるがままに忠実に描きだすことではなくて、生き物の姿や動きを滑稽に誇張して描くということだ。……

コメディーがおもしろいものになるには、観客との接点がなければならない。接点という意味は、見ている者の潜在意識の中でなじみ深いものを連想させる何かがあるということだ。スクリーンの上に映し出された状況と同じような感じを観客自身が、いつか、どこかで抱いたとか、そういう場面に出会った、見た、あるいは、夢で見たことがある、といった具合に。……観客との接点と僕が呼んでいるものは、こういうことなのだ。アクションやストーリーがこの接点を失ってしまうと、観客の目から見てつまらない、ばかげた作品になってしまうわけだ。

だから本当の意味での劇画とは、現実のもの、可能なもの、ありそうなものに対する空想的な誇張ということになる。……今、僕が述べてきたことの背後にあるこの考え方を授業のあらゆる段階で、つまり、写実的なスケッチから、作品の企画・制作にいたるまで、生かしていければいいと思う。……』 

『ウォルトは一方、「アニメーションの芸術」という本の出版を進めていた。彼としては、この本の中でアニメーションの歴史を紹介し、とくにディズニー・スタジオがその歴史にどう貢献したかを強調するつもりでいた。さらに、ウォルト自身の目的を達成するためになくてはならなかった才能あるアーティストたちに、敬意を表したいという気持ちもはたらいていた。スタジオで行われたこの本の企画会議で、ウォルトは映画制作に関する自分の理論を詳しく述べている。

この本が机上の芸術論にならないようにね。僕らがやってきたのは、もっと俗っぽい商売なんだから。象牙の塔には縁がないんだ。……

僕らの仕事は技術的なことで成り立っているんじゃない。アイディアってやつは、鉛筆書きのスケッチからだって生みだせる。いま、僕らが持っているいろんな道具がなくたってね。……

僕らの作品がよそのものとどこが違うのか。僕らは、自分たちのやっていることを秘密にしたことなんかない。僕らが他人と違うところは、考え方、判断力、長年の経験だよ。作品に心があるんだ。よその連中は大衆をほんとうに理解していない。僕たちは何をするにしても、心理的なアプローチを工夫してきた。大衆の心の扉をとんとんとたたく、そのタイミングを僕らは心得ている。ほかの連中は知性に訴えようとするが、僕たちは感性に訴えることができる。知性に訴えようとしたら、ほんのひと握りの人たちにしかアピールしないよ。……

漫画という素材は、はじめは目新しさだけで売っていた。ほんとうにヒットしたのは、僕たちが単なるトリック以上のことをやりだしてからだった。つまり、登場人物の性格づくりを絶えずしていくということだけど、ただ笑わせる、ということ以上のものじゃなきゃならない。映画館の通路で客が笑いころげていても、それでいい映画を作ったことにゃならんよ。その中にペーソスがなくちゃあ。……

“ウォルト・ディズニー”っていう名前をどうしてこんなに強調してきたのか。理由はたった一つだ。その名前が作品全体にある個性を与える、っていうのかな。単に「ナニナニ映画会社制作」っていう意味じゃなくて、名前自体が一つの人格みたいなものをもっているんだ。いや、実際は、“ウォルト・ディズニー”っていうのは、たくさんの人間を集めた組織なんだ。一人一人が協力してアイディアを分け合う。それは、一つのりっぱな業績なんだよ。…… 』

3.ミッキーマウスとウォルト・ディズニー

『いわゆるインテリ評論家たちは、ミッキーの人気を大衆心理学に照らして説明しようと試みた。ウォルトはこれがおかしくてしかたなかったが、そういった理論にはたいして興味を示さず、自分なりの解釈をほどこしていた。

「ミッキーというのは人畜無害のいいやつでね。窮地に陥るのも自分のせいじゃない。でも、いつもなんとかしてはい上がってきては、照れ笑いをしているかわいいやつなんだ」

ウォルトは、ミッキーの性格の多くの部分がチャーリー・チャップリンからヒントを得たものであるということを認めていた。

「チャップリンの、あの、ちょっともの寂しそうな雰囲気をもった小ネズミにしようと思ってね―。小さいながらも自分のベストを尽くしてがんばっているっていう姿だな」

だが実際にできあがったミッキーは、チャップリンよりウォルト・ディズニーの要素のほうを多分にもっていた。それがもっともはっきり表れているのは、ミッキーの声である。ウォルトの神経質そうであわてたような裏声は、いかにもミッキーにぴったりである。そしてミッキーのせりふは、よく、恥ずかしそうな「ヘッヘッヘ」という声で始まっていた。そういう不自然で変わった声をもっともらしく出すという芸当は、並たいていのことではなかったが、ウォルトはなんとかこなした。「ウッ、これは大変だ」と、よく一瞬どぎまぎするミッキーのためらいがちな性格はウォルト以外、誰も的確に表現できなかった。

似ているのは声だけではない。ウォルトもミッキーも冒険心や正義感にあふれているが、知的教養とはあまり縁がなかった。そして二人とも、成功したいという少年のような野望を抱き、ホレイショ―・アルジャー[Wikipedia]の立志伝に出てくるような裸一貫からたたきあげた人間像に臆面もなく憧れていた。それに、たった一人の女性に生涯忠実であるという、昔ながらの道徳にしがみついている点でも似ていたのである。

ウォルトとミッキーの、こうした隠れた共通点に気づいたディズニーのアニメーターたちは、ミッキーを描くときにはウォルトの性格を念頭に置いてみた。すくなくとも潜在意識の中では、そうしていたはずだった。どういう格好の漫画を描いて欲しいかを説明するウォルトは、例のすぐれた役者ぶりを発揮し、せりふの一行一行を演技してみせた。特に、彼の演ずるミッキーマウスは非常に正確で感じがよく出ているため、アニメーターたちは、ウォルトの表情や動作をそのままとらえることができたら、といつも願っていたほどだった。事実、あるせりふをしゃべるミッキーの顔がどうしてもうまく描けなくて困り果てていたアニメーターが、せりふを吹き込み中のウォルトの顔をカメラに撮らせてもらい、やっと納得のいくミッキーに仕上げることができた、というエピソードもある。

またウォルト・ディズニーは、ミッキーの品性を懸命に守ろうとした。そしてストーリー会議では、よく、「ミッキーはそういうことはやらないよ」と、口をはさんだ。

それは、ギャクマンがつい調子に乗りすぎ、抱腹絶倒のコメディーにしようとするときで、ウォルトは、ミッキーの自然な性格から脱線しそうだということを的確に察した。だからこそ、ミッキーマウスは世界じゅうの人々から愛されるようになったのであり、その点では、ほかのどんなキャラクターもミッキーにはかなわなかった。ミッキーはこのうえなく愛すべき主人公として、常に自分自身であり続けたのだった。 

そもそも、「ファンタジア」の企画が生まれたのは、ウォルト・ディズニーがミッキーマウスのゆく末を心配したことに端を発していた。ウォルトはこのネズミに対して一種独特の愛着をもっていた。ミッキーは彼にとって、単に漫画のドル箱スターでもなければ幸運のお守りでもなかった。ウォルトは、自分がミッキーの声でもあり分身でもあると感じていたから、ミッキーマウスの活躍する舞台が狭まっていくのは見るに堪えなかったのである。

大きさの違ういくつもの円を寄せ集めて描かれたミッキーマウスは、登場したてのころ、なんでもやってのけた。が、その動作は、アニメーターが“ゴムホース方式”と呼んだ動き方、つまり骨も関節もないホースのような、実際の人間や動物の動きとは似ても似つかない動き方であった。しかし漫画がだんだん洗練されたものになるにつれ、ミッキーも変わっていった。登場人物の体を自由につぶしたり伸ばしたりしてアクションを誇張する“スクォッシュ・アンド・ストレッチ方式”をミッキーのアニメーションにはじめて使ったフレッド・ムーアのおかげで、ミッキーマウスはもっと人間っぽく魅力的になったのである。

ミッキーが従来より柔らかな顔かたちになったといっても、問題はまだ残っていた。かわいらしくはなったが、昔の漫画に見られた素朴なバイタリティーが失われてしまったのである。また、彼は元来、恥ずかしがりやで目だたないキャラクターであるため、滑稽な事件を引き起こしてまわる積極的な役は不向きであった。その手の役は、ドナルドダック、ブルート、グーフィといったミッキーのわき役として登場する、もっと露骨な性格のキャラクターにまわされていた。そして、こうしたわき役たちは例外なく、それぞれ自分のシリーズものでスターとして独立していった。

1938年、ウォルト・ディズニーは「魔法使いの弟子」 をアニメーションにし、ミッキーマウスを主人公とすることに決めた。「魔法使いの弟子」は古いおとぎ話で、ゲーテが誌にも詠み、フランスの作曲家ポール・デュカスによって交響詩にもなっていた物語である。ミッキーは魔法使いの修業中、魔術を悪用したためさんざんな目に遭う役で、デュカスの曲に合わせながらパントマイムだけで構成するという趣向であった。ウォルトは、せりふがまったく入らないということを喜んだ。というのはミッキーがいく通りもの役をこなしきれないのは彼の声、つまり、ウォルトのためらいがちでかん高い裏声が原因ではなかろうかと思っていたからである。

☆声優

・初代:ウォルト・ディズニー(1928年-1947年)

・2代目:ジム・マクドナルド(1947年-1977年)

・3代目:ウェイン・オルウィン(1977年-2009年)

・4代目:ブレット・イワン(2009年-現在)

4.ディズニーランド誕生

『それまで25年間、毎年12月になるとウォルト・ディズニーはオレゴン州のポートランドに住む妹のルースに近況報告を書く送り、家庭内やスタジオでのできごとなどを知らせていた。彼は、1947年12月8日付けの手紙にこう書いている。

僕は、自分の誕生祝いとクリスマスのプレゼントを兼ねて、いままでずっと欲しいと思っていた電気機関車のおもちゃを買った。君は女だから、僕が小さい時からどんなにこれが欲しかったか、おそらく理解できないだろうけど、やっとそれを手にした今、嬉しくてしかたがない。僕のオフィスの隣の、廊下側の部屋に置いて、暇さえあればそれで遊んでいる。この貨物列車は汽笛も鳴るし煙突からほんとうの煙も出てくる。線路のほうには切り換え線も信号機も駅もみんなついていて、とにかくすごいんだ」

ウォルト・ディズニーは汽車というものに神秘とさえいえるほどの不思議な魅力を感じていたが、そもそものはじまりはミズーリ州の農村で過ごした少年時代、機関士だった伯父の運転する汽車に向かって手を振った思い出にさかのぼる。大人になってからは、ロスフェリスの自宅から数キロしか離れていないサザン・パシフィック鉄道のグレンデール駅に行って、線路の震動を感じたり、サンフランシスコ行きの客車が通り過ぎていくのを眺めるのが好きだった。』

『彼は自分の汽車を作る計画を立てはじめた。まず、スタジオの機械製図工であるエド・サージャントに、旧セントラル・パシフィック173型の機関車を八分の一に縮小した模型を設計させた。そして部品の原型はスタジオの小道具製作部で作らせ、鋳鉄と組み立ては、やはりスタジオの作業場で機械工ロジャー・ブロギーが監督した。ウォルト自身、板金の工作を習いながらヘッドランプと煙突をこしらえたし、また、フライス盤を操作して部品を作ったり、細かい部品のはんだ付けもした。さらに、木製の有蓋貨車や家畜列車の製作も始めた。

ウォルトはその鉄道をキャロルウッド・パシフィック鉄道と名づけると、例によって綿密な計画を進めていった。汽車の一両一両は個々にデザインをし、とくに車掌車は凝りに凝ったしろものだった。中に入れる簡易ベッド、衣服用ロッカー、洗面台、だるまストーブなどの縮尺もきっちり決め、おまけに1880年代の新聞までミニサイズで作って新聞立てに置いた。ウォルトは、スタジオ内のステージに100m足らずのテスト用線路を敷き、従業員に乗車をすすめたりしたが、その試運転がうまくいくと、今度は屋外に線路を敷いてみるという念の入れようであった。

彼は結局、自宅の敷地のうち、峡谷に面している側に沿って約800mの鉄道を敷くことにした。そしてその場所を慎重に調査し、近所迷惑にならないよう、周りに木を植えたり線路の高さを低くおさえる配慮をした。さらに汽車の乗客に目ざわりとなるようなものをなくすために、電線などもわざわざ金を払って見えない場所に配線しなおしてもらった

画像出展:「ウォルト・ディズニー」

Pure Smileというサイトに「ドキュメンタリーが伝えた空前絶後のクリエイター、ウォルト・ディズニー」という記事があり、その中央にはキャロルウッド・パシフィック鉄道のカラー写真があります。

また、他にも大変興味深い写真などウォルト・ディズニーの情報が満載でお勧めです!

ウォルト・ディズニーが情熱を傾けるものは、それがたとえ趣味だとしても、かならずそこにははっきりとした目的があった。このキャロルウッド・パシフィック鉄道も、ディズニー・プロダクションズの新しい種類の事業としてだんだんとウォルトの胸の中でふくらんでいた、ある計画の一部であった。

彼が後に語ったことであるが、この新しい事業のきっかけというのは、もともと、娘のダイアンとシャロンを日曜学校の帰りによく遊園地に連れていったことから生まれたものである。娘たちが乗り物に乗っているあいだ、ウォルトは、ほかの親たちが退屈そうに待っている姿や、回転木馬の剝げかかったペンキ、掃除のゆき届かない汚らしい園内、それにむっつりして無愛想な係員などをじっくり観察したものだった。

また、もう一つの別の動機もあった。ウォード・キンボールと話しているときに、ウォルトはこう言った。

なあ、君、観光客がハリウッドに来て何も見るものがないっていうのは、まったく情けないことだよ。みんな、華やかな雰囲気や映画スターが見られるんだと思ってやってきても、がっかりして帰っちまう。このスタジオを見学に来る人間だって、いったい何を見られるかっていうんだい。せいぜい男どもが机に向かって絵を描いているところぐらいだろ。ハリウッドに来て、何か本当に見る者があったらいいと思わないか?

それ以来ウォルトは、遊園地を作る計画のことをたびたび口にするようになった。リバーサイド通りの向かい側にスタジオが所有していた11エーカーの三角形の土地をそれに充てるつもりで、彼は実際に構想を練りはじめた。そして名前は“ミッキーマウス・パーク”にしようと考えた。1948年8月31日付けのメモには、彼がそれまでに思いついた事柄の骨子が書き記されている。

メインビレッジは、鉄道の駅があって、緑の公園というか、憩いの場所を囲むようにできている。園内にはベンチやバンド用ステージ、水飲み場などがあり、また大小の草木を植える。ゆっくり腰をかけて休んだり、遊んでいる小さな子どもたちを母親やおばあさんが眺めたりできる。くつろいだ感じの涼しくて魅力的な場所にする。

緑の公園の周りに街を作り、その一方の端に鉄道の駅を置く。反対側に町役場。これは、外見は役場でも実際は我々の管理事務所に使用し、遊園地全体の本部とする。

町役場の隣には消防署と警察。消防署には形はすこし小さいが実際に使える消防器具を備え付け、警察署も実際に使えるようにする。客が、規則違反や遺失物、迷子などをここに知らせにくる。中に小さい牢屋を作って、子どもたちが覗いて見られるようにしてもよかろう。ディズニーのキャラクターを牢屋に入れるのも一案。

メモにはつづいてそのほかの建物やさまざまな店、乗り物についてのウォルトのイメージが書きとめられていた。

ウォルトがミッキーマウス・パークのことを口にするたびに、兄のロイはバンク・オブ・アメリカからの膨大な借金のこと、それに、戦後のディズニー映画の興行収入が依然として低迷していることを指摘した。ロイは、遊園地の建設事業が経営上まったくの愚行であることを弟に十分納得させたものと信じていたので、商売上の知り合いからの問い合わせに対しても、こう書いた。

「ウォルトは遊園地の建設計画についていろいろ口では申しておりますが、実のところ、どれだけ本気なのかは私にもわかりかねます。私が思うに、本人は自分で実際に遊園地を経営するというより、むしろ遊園地にこういうものがあったらいい、という種々のアイディアに関心をもっているようです。それに税金の関係もありますので、このようなことを実現するだけの資金を本人は持ちあわせておりません」。』

遊園地建設の構想は、ウォルト・ディズニーの心の中でだんだんとふくらんでいった。ヨーロッパやアメリカ国内を旅行するたびに、彼はいろいろな屋外娯楽施設、特に動物園をよく訪れたので、ふたたびヨーロッパに出かける前、妻のリリーから、「ねえ、あなた、また動物園に行くんでしたら、私はもう一緒に行きませんからね」と、言われてしまった。

ウォルトは、郡や州が主催する農畜産物の見本市や、サーカス、カーニバル、国立公園なども見てまわり、どんな出し物が、なぜ人気を呼ぶのか、客は楽しんでいるか、それともせっかくやってきても損をしたと思っているか、などをつぶさに観察した。

彼がもっともがっかりしたのはニューヨークのコーニーアイランドに行ったときで、その施設の荒廃ぶりと安っぽさ、そして乗り物の係員のとげとげしい態度に、ウォルトは一時遊園地を作る自分の計画を投げてしまいたい気持ちに駆られたほどである。しかしコペンハーゲンのチボリ・ガーデンを見たときは、やる気がふたたびよみがえった。ゆきとどいた清掃、あ鮮やかな色彩、納得できる料金、陽気な音楽、おいしい飲食物、暖かな感じで礼儀正しい従業員―こうしたすべての要素が溶けあって一つの楽しい世界を作りだしていた。「これだ! 本当の遊園地は、こうでなくちゃだめだ―」ウォルトは夢中になって、リリーに言った。』 

画像出展:「NAVIA|北欧Webメディア

『デンマークのコペンハーゲンには、現在もオープンしている世界で最も古い遊園地の1つである「チボリ公園」があります。

アンデルセンなど、多くの有名人も過去に訪れ、多くの人を楽しませてきたデンマークでも老舗中の老舗とされています。チボリ公園は1843年に創業し、以来、世界中から多くの観光客を魅了してきました。

ロイは相変わらず遊園地建設に反対だったので、計画の立案も資金繰りも兄に頼ることはできなかった。自分の生命保険を担保にして借金をしはじめたウォルトを見てリリーは狼狽したが、パークが完成する前に、その借金は十万ドルに達したのだった。

計画立案のスタッフを揃えにかかったウォルトがまず選びだしたのは、イラストレーターのハーパー・ゴフである。ゴフは早速パークの予備的なスケッチを描くよう指示を受けた。パークの名前は、すでにウォルトが決めていた。“ディズニーランド”である。

構想が進んでいくにつれ、ディズニーランド建設を推進する組織の必要性を感じたウォルトは、1952年の12月、ウォルト・ディズニー株式会社を発足させて自分が社長になり、ビル・コトレルを副社長に据えた。しかしその後、ウォルト・ディズニーの名前をほかで使うことにディズニー・プロダクションズの株主が反対するかもしれないとロイが危惧を抱いたことから、ウォルト・イライアス・ディズニー(Walt Elias Disney)の名前の頭文字を取ってWED[ウェド]エンタープライズと改名された。こうしてWEDはスタジオ以外のウォルトの活動を支える個人的な企業組織として誕生した。

ディック・アーバインはWEDの新入社員であった。彼は映画「空軍力の勝利」の美術監督を務めた人物だったが、戦時中ディズニー・プロダクションズが低迷していた時期に20世紀フォックス社に移っていた。が、テレビ番組を作りはじめたウォルトにデザイン担当として担当として呼び戻され、さらにその後、ディズニーランド担当となったのである。アーバインに与えられた最初の仕事は、ディズニーランドの予備調査を委託された設計事務所とのパイプ役であった。しかし建築家たちの意見とウォルトの構想とのあいだにくい違いが生じ、契約は破棄される結果に終わってしまった。ウォルトの親しい友人で自らも建築家であるウェルトン・ベケットは、

「ウォルト、君意外に誰もディズニーランドの設計ができる人間はいないよ。自分でやるんだな」と、忠告した。

1953年の夏の終わりまでには借りた金も底をつき、ウォルトは別の資金ルートを探さねばならなかった。ある夜、ベッドで眠れぬまま横になっている彼の頭に、ふとある考えが閃いた。<テレビだ! テレビ番組でパークの資金を作るんだ!>

翌朝、そのことで弟から相談を受けたロイは、ウォルトがディズニーランドに関してはじめて理屈に合う提案をしてきたと感じた。しかし、これは会社の重要問題なので、理事会の承認が必要であった。

理事会ではたいていの場合ウォルトの意見が通ったが、テレビ番組と遊園地経営という二つの新分野に進出することに関しては、保守的な理事の反対に出会った。ウォルトは立ち上がって言った。

「テレビが、ディズニー映画を大衆に宣伝する重要な媒体であることは、あの二本のクリスマス番組ですでに証明済みです。レギュラー番組を制作しようと思えば、内容ももっといろいろ工夫しなきゃならないし、金もたんといる。ディズニー映画を劇場に見にくる観客の数がずっと多くなるという効果は別として、儲けはわずかしか、いや1ドルだってないでしょう。しかし、それほどまでに頭脳とエネルギーを注ぎ込んでテレビ番組を作るとしたら、私はそこから何か新しい収穫が得られるようなものを作りたい。私は、会社を足踏み状態にしておきたくないのです。考えてみてください。我々が今まで繁栄してきたのは、リスクを承知で常に新しいものを試みてきたからです

遊園地の経営などは本来、ディズニーの仕事ではないと不満を述べる理事に対し、ウォルトはこう答えた。

「ええ、しかし、わが社は今まで、娯楽を作りだすという商売をやってきたのです。遊園地こそ、娯楽そのものではないでしょうか。正直言って、いま、私の頭の中にあるディズニーランドのイメージをみなさんに思い浮かべていただくのは、むずかしいでしょう。でも、これだけは言える。世界じゅうどこを探してもこんなパークは絶対にない。私はいろいろ見て回ったから知っています。ユニークであるからこそ、すばらしいものになる可能性がある。娯楽というものの新しい形なんです。ぜったいに成功する、と私は思う。いや、そう信じています

語り終えたウォルトの目には、涙さえ浮かんでいた。理事たちは彼の論理に納得した。』

『ハーブ・ライマンは、月曜の朝までに図を完成させた。そして何枚かのコピーを作ると、ディック・アーバインとマービン・デービスが色鉛筆で手早く彩色した。いっしょのホルダーの中に納められたのは、ビル・ウォルシュが書いたパークの説明文で、この文中にはじめてディズニーランドの概念がはっきり定義づけられた。

ディズニーランドの構想はごく単純なものであり、それは、人々に幸福と知識を与える場所である。

親子が一緒に楽しめるところ。教師と生徒が、ものごとを理解したり学びとるための、より良い方法を見つけるところ。年配の人たちは過ぎ去った日々の郷愁にふけり、若者は未来への挑戦に思いを馳せる。ここには、自然と人間が織りなす数々の不思議が私たちの眼前に広がる。

ディズニーランドは、アメリカという国を生んだ理想と夢と、そして厳しい現実をその原点とし、同時にまたそれらのために捧げられる。こうした夢と現実をディズニーランドはユニークな方法で再現し、それを勇気と感動の泉として世界の人々に贈るものである。

ディズニーランドには、博覧会、展示会、遊園地、コミュニティーセンター、現代博物館、美と魔法のショーなどの要素が集大成されている。

このパークは、人間の業績や歓び、希望に満ちている。こうした人類の不思議をどうしたら私たちの生活の一部とすることができるか、ディズニーランドはそれを私たちに教えてくれるだろう。

説明文は続いて、パーク内に作られる「自然と冒険の国」、「未来の世界」、「こびとの国」、「おとぎの国」、「開拓の国」、「休日の国」の各領域を詳細に紹介していた。

それは実に大胆きわまる、ぜいたくな計画であった。しかし説明書には、あっさりとこんな予告が書かれていた。「1955年のある日、ウォルト・ディズニーが世界じゅうのみなさま、そしてあらゆる年齢の子どもたちに、まったく新しいタイプの娯楽をお贈りいたします―』

画像出展:「The Art of Walt Disney」

ハーブ・ライマンが描いたディズニーランドの鳥瞰想像図。

ディズニーランド建設とテレビ番組の計画は1954年4月2日に発表された。ウォルトが、番組は同年10月に始まり、パークは翌年の7月にオープンするとはっきり宣言したのは、自分がどれだけ本気であるかを示すためであった。彼は早速ディズニーのベテランスタッフを集め、「冒険の国」、「おとぎの国」、「開拓の国」といったパークの“国”別に構成されるテレビ番組の制作に当たらせた。一方、パーク建設の担当班は小さな平屋の建物からアニメーションビルの一階に移動し、計画はいよいよ実行段階に入った。』

『ディズニーランドの設計にスタジオの美術監督を使うことには、難点が一つあった。彼らは、通常2、3日使えばあとは取りこわすという映画のセットを設計することにはたけていたが、長い年月で激しい風雨、数百万の見物客に耐え得る建物をこしらえる知識に欠けていたからだ。それでウォルトは、土木、電気、空気調節の分野の専門技師を1名と、構造技師のいる建築事務所に特別の応援を頼んだ。

また、工事にあたって現場の親方が必要であった。そこでディズニーランドの総合本部長ウッドがウォルトに紹介したのは、元海軍大将で技師としてコンサルタントの仕事をしていたジョー・ファウラーであった。パークの感じをつかむために一度来てほしいというウォルトの依頼を受けたファウラーは、ほんの1、2日の予定で北カリフォルニアの自宅からスタッフにやってきたが、到着するなり自分の部屋と車をあてがわれ面食らった。下請け業者たちとの話し合いを済ませて彼が帰宅したのは、それから3週間もあとのことだった。ファウラーはこうしてディズニーランドの工事監督としておさまることになり、結局その後10年間、パークで働いたのである。』

ウォルトはエンジニアから知識を貪欲なまでに吸収し、まもなく機械の図面も本職と同じくらい読めるまでになった。エンジニアたちはときどき、映画撮影では容易に出せる効果も遊園地で出そうとするのは現実的でない、とウォルトに言うことがあった。しかし、彼らはやがてこの種の発言をウォルトに対してしないようになった。ウォルトの提案が実現不可能だと言いだしたある技師に向かって、彼はこう言い返したものだ。

「やってもみないうちにあきらめるほど、君はばかじゃないだろう。僕たちの目標は高いんだ。だからこそ、いろんなことをやり遂げられるんだ。さあ、戻ってもう一回やってみてくれたまえよ」

ウォルトのそばで仕事をしていたスタッフは、「これはできない」という言葉をぜったい使わないことを学んだ。「そうだなウォルト、これはちょっとむずかしいかもしれない。というのは―」という言い方が正解なのであった。しかし、エンジニアがありとあらゆる可能性を試しても解決策がどうしてもない場合には、ウォルトもそれが無理であることを認めた。』

『スプリンクラーや消火栓の水の圧力をかけるために給水塔がぜったい必要である。というのがエンジニアたちの共通見解であった。が、それを自分に面と向かって主張したエンジニアを、ウォルトはもうすこしで部屋から力ずくで追い出すところであった。パーク内に目ざわりな給水塔がそびえている光景など、ウォルトには断固として許せなかったのである。彼がどうしても別の解決策を見つけるよう言い張って譲らなかったので、エンジニアたちはパークへの水の取り口を数か所に分けて設け、水圧を高く一定に保つ工夫をした。当然ながら、コストはそれだけよけいにかかった。パーク周辺の電線を見えないところに移動させる工事にしても同じだった。ウォルトは、自分が作りだそうとする幻想の世界を少しでも乱すものには我慢できなかったのである。』

『ウォルトは設計担当者に対し、自分が建築上の大傑作を要求しているのではないことを繰り返し強調した。ある設計者に彼はこう語っている。

「君にようく考えてほしいことはね、いいかい、君が設計したものは、お客さんが中を歩いたり、乗ったり、利用したりするんだよ。僕は、そのお客さんたちに笑顔を浮かべながらパークの門を出ていってもらいたいんだ。それだけは頭に入れておいてくれたまえ。設計者の君にこの僕が望むことは、たったそれだけなんだから。』

『ディズニーの幹部たちは、毎日のパーク運営をいかに進めていくかで頭がいっぱいであった。ある幹部が、パークの経営を任せる企業の候補を二つにしぼったことをウォルトに報告すると、ウォルトは尋ねた。

「そんな会社が、どうして必要なんだい?」

「パークの運営ですよ。我々は遊園地の経営なんて経験がないですからねえ」

「まず言っとくが、これは遊園地じゃない。それに、僕らだってほかの人間と同じようにディズニーランドをうまく運営できる。要するに、やる気があって、エネルギッシュで、愛想がよくて、向上心のある従業員さえいればいい。もちろん失敗もするだろうけど、その失敗から学んでいけばいいんだ」

ウォルト・ディズニー1

同じ時代を生きた人の中で、「凄いなぁ」と思うのは、ひとりはスティーブ・ジョブズです。そして、もうひとりはウォルト・ディズニーです。

ミッキーマウスを世に送り出し、ディズニーランドという夢のような世界を作り上げてしまった人ですが、何故、そのような世界を思いついたのか。それを本当に実現させ、今も世界中の人々から特別な場所として賞賛されているのは何故か、それらを知りたいと思い、『ウォルト・ディズニー』という伝記を拝読させて頂きました。

ウォルト・ディズニーは1966年12月15日、65歳で亡くなりましたが、65歳は今の私自身の年齢なので、「同じなんだ!」と少しびっくりしました。さらに、どうでもいい話ですが、“幹雄”という名前のおかげで、幼稚園時代は「ミッキー」とか「マウス君」とか、とても光栄なニックネームをつけてもらっていました。

番組の内容は全く記憶にないのですが、最初か最後に登場するとてもダンディーな外国人こそが、ウォルト・ディズニーでした。多分、私が5歳か6歳ぐらいだったと思いますが、実は、当時はよく分からず、「誰だろう??」と思っていました。これは、ミッキーマウスとウォルト・ディズニーの印象がかけ離れていたからだろうと思います。とにかく、優しく、落ち着いた本物の紳士という感じで、少年時代の心に強く残っています。

調べてみると、“60年代 懐かしの宝箱”さんのサイトにこのテレビ番組の詳しい紹介がされていました。

画像出展:「60年代 ディズニーの思い出

これを拝見すると、ウォルト・ディズニーが登場するのは、冒頭だったことが分かりました。また、調べたところ杖をもって宙を舞っていたのは、ピーターパンに出てくるティンカー・ベルだったことも分かりました。

画像をクリック頂くと、最初にこの画像の動画が出てきます。

著者:ボブ・トマス

訳:玉置悦子/能登路雅子

発行:初版1983年1月

出版:講談社

画像出展:「The Art of Walt Disney」

フランス軍の仕事をしてたころ、昔の級友たちに送った手紙。

目次はウォルト・ディズニーの足跡がわかり、また代表的な作品も紹介されているため、すべて書き出しました。なお、作品についてはネット上にあったものはリンクさせていますので、全てではありませんが、動画を確認することができます。

また、著者はボブ・トマスという伝記作家です。この著者が記した「あとがき」をご紹介しているのは、このトマスによるウォルト・ディズニーの伝記の確かさを、ご判断頂けるのではないかと思ったためです。

僕は、ただの金儲けをするなんて退屈な話だと、ずっと思ってきた。僕は常に何かしていたい。何か作っていたい。そして、どんどん先に進みたいんだ。……

これは“ハリウッド生活三十年”という本文中の一文ですが、ウォルト・ディズニーという人を知るうえで、最も端的な文章ではないかと思います。

ブログは自分自身の疑問の答えを見つけるつもりで目を通しました。そして重要と思うモノを抜き出しタイトルを付けましたが、抜き出したエピソードは必ずしも時系列になっておりません。

1.魅力的な作品を生みだすために

2.作品の制作に大切なこと

3.ミッキーマウスとウォルト・ディズニー

4.ディズニーランド誕生

5.ディズニーランドとは

6.未来都市(EPCOT)

7.全世界が泣いた日

8.生涯のパートナー、ロイ・ディズニー

目次

プロローグ

第一部 中西部時代(1901-1923年)

1 ディズニー家の祖先/イライアスとフローラの結婚/ウォルトの誕生/シカゴからマーセリーンへ

2 マーセリーン―静かな農場の四季/兄たちの家出/不運の開拓者、父イライアス/カンザスシチーへ

3 新聞配達/ベントン小学校の変わり種/少年ウォルトの世界/漫画家になりたい/サンタフェ鉄道の売り子

4 シカゴ、マッキンリー高校/校内誌の漫画描き/さまざまなアルバイト/赤十字志願兵/フランス

5 十七歳の夢と現実/運命の出会い―アブ・アイワークス/原始的な動く漫画/ニューヨークに学べ/ラフォグラム社の設立と倒産/カリフォルニア行きの片道切符

画像出展:「ListeList

アブ・アイワークスはウォルト・ディズニーとともにディズニーの礎を築いてきたアニメーターです。

第二部 漫画づくり(1923-1934年)

6 ハリウッド!/《アリスコメディー》シリーズ/リリーバウンズと結婚/配給者チャールズ・ミンツとのかけひき

7 熱気あふれるハイピリオン新スタジオ/《ウサギのオズワルド》/漫画の生命はキャラクターと筋書きだ/版権もアニメーターも奪われて―傷心のニューヨーク

8 ミッキーマウス誕生/トーキー出現―初の音入り漫画映画『蒸気船ウィリー』/アブ・アイワークスとの摩擦/《シリーシンフォニー》シリーズ/ついに神経衰弱

9 ミッキーの商品旋風/ウォルトの分身ミッキー/アーティスト、ニューヨークより流入/チャップリンもディズニーファンだった/初のカラー漫画映画『花と木』/アーティストの養成 

第三部 アニメーションの新世界(1934-1945年)

10 ディズニー美術教室の拡大/優秀なアニメーターの条件とは/観客との接点をつかめ/漫画映画の制約過程/アニメーターたちとの奇妙な関係

11 初の長編漫画映画『白雪姫』/ヨーロッパ旅行/マルティプレーン・カメラ/音楽の新しい使い方を/“ディズニーの道楽”/プレミア・ショーの喝采

12 長編を制作の中心に/母の死/『ピノキオ』/ストコフスキーとの出会い―『ファンタジア』/スタジオに飼われた二匹の子鹿―『バンビ』の制作/バーバンクの新スタジオ

13 第二次世界大戦勃発/『ダンボ』が証明したもの/千人の従業員と450万ドルの借金/ディズニー株の一般公開/高まる労働組合運動/スタジオ、ストに突入/南米の旅/父の死

14 軍に接収されたスタジオ/戦争用宣伝映画づくり/愛国の士ドナルドダック/ナチ首脳を怒らせた『総統の顔』/『空軍力の勝利

15 スタッフ泣かせの専制君主/アブ・アイワークスの復帰/ひっそりとした私生活/妻リリーの役目/二人の娘

第四部 広がる地平(1945-1961年)

16 戦後のスタジオ危機/『メイク・マイン・ミュージック』/ジッパディードゥーダ―『南部の唄』/初の自然記録映画『あざらしの島』/『シンデレラ』/劇映画第一作『宝島

17 鉄道狂ウォルト/模型機関車が自宅の庭を走る/ミッキーマウス・パーク構想

18 難産の『不思議の国のアリス』/『ピーターパン』/はじめてのテレビ番組/“踊る人形”/占い師の不吉な予言/五十代の横顔―ウォルトのおしゃれ、好物、思想

19 アニメーションの原則をどこまでも貫く/僕は花粉を集める働きバチだ/『わんわん物語』/『海底二万哩』/『砂漠は生きている』/配給会社ブエナ・ビスタの設立

20 ウォルトの動物園めぐり/ディズニーランド建設計画/パークは生き物だ/テレビ番組制作でパークの資金を/渋面の理事たち/ディズニーランドの概念

21 ディズニーランドをどこに作るか/僕は大衆を信じる/シリーズ番組《ディズニーランド》/空前の大ヒット『デイビー・クロケット』/花嫁の父

22 急ピッチのディズニーランド建設工事/間に合うか、資金と期日/妥協を許さないウォルト/「マーク・トウェイン号」上の結婚記念パーティー/“黒い日曜日”―大混乱の開園日 

第四部 広がる地平(1945-1961年)

16 戦後のスタジオ危機/『メイク・マイン・ミュージック』/ジッパディードゥーダ―『南部の唄』/初の自然記録映画『あざらしの島』/『シンデレラ』/劇映画第一作『宝島

17 鉄道狂ウォルト/模型機関車が自宅の庭を走る/ミッキーマウス・パーク構想

18 難産の『不思議の国のアリス』/『ピーターパン』/はじめてのテレビ番組/“踊る人形”/占い師の不吉な予言/五十代の横顔―ウォルトのおしゃれ、好物、思想

19 アニメーションの原則をどこまでも貫く/僕は花粉を集める働きバチだ/『わんわん物語』/『海底二万哩』/『砂漠は生きている』/配給会社ブエナ・ビスタの設立

20 ウォルトの動物園めぐり/ディズニーランド建設計画/パークは生き物だ/テレビ番組制作でパークの資金を/渋面の理事たち/ディズニーランドの概念

21 ディズニーランドをどこに作るか/僕は大衆を信じる/シリーズ番組《ディズニーランド》/空前の大ヒット『デイビー・クロケット』/花嫁の父

22 急ピッチのディズニーランド建設工事/間に合うか、資金と期日/妥協を許さないウォルト/「マーク・トウェイン号」上の結婚記念パーティー“黒い日曜日”―大混乱の開園日 

画像出展:WALT DISNEY FAMILY MUSEUM

ディズニーランドオープンの前日に開かれた、マーク・トウェイン号上で行われたパーティーは、ウォルトと妻のリリアン結婚30周年のパーティーでした。妻の支えなしではディズニーランドを完成させることはできませんでした。

Mapをクリックして頂くと“WALT DISNEY FAMILY MUSEUM”に移動します。

以前は現役の陸軍基地であり、1846 年から 1994 年まで太平洋岸の最強の海岸防衛地であったプレシディオは、現在は国立公園として機能し、ウォルト ディズニー ファミリー ミュージアムの本拠地となっています。

104 Montgomery Street in the Presidio San Francisco, CA 

 

画像出展:「WIRED

さまざまな問題のなかでも極めつけは、当日のアナハイムの気温が37℃を超える酷暑に見舞われたことでした。スタッフたちはこの日を「ブラックサンデー」(黒い日曜日)と名付けました。

23 テレビ番組《ミッキーマウス・クラブ》/ハリウッド生活三十年/僕らの作品には心がある/実現しなかったフルシチョフの来園/ディズニー帝国を築いた陰の力―兄ロイ・ディズニー 

画像出展:「THE RIVER

1955年には、アメリカのテレビ史上もっとも成功した子供番組のひとつ『ミッキーマウス・クラブ』がスタート。平日の夕方、学校から帰った子供たちがテレビの前に集まって、番組のテーマソング「ミッキーマウス・マーチ」を一緒に歌うのがお約束だったといいます。日本でも1959年から放送が開始されました。

24 新番組《ウォルト・ディズニーのすばらしい色彩の世界》/パークのお客さんは、みんなゲストだ/時代を超えるディズニー映画/『黄色い老犬』/『ボクはむく犬』/『眠れる森の美女』/『ポリアンナ』/借入金ついにゼロ

第五部 そして、夢―(1961‐1966年)

25 六十歳の誕生日/気むずかしくなったウォルト/娘婿ロン・ミラーの入社/オーディオアニマトロニクスの開発/ニューヨーク世界博覧会

26 『メリー・ポピンズ』とトラバース夫人/ジュリー・アンドリュースとの出演交渉/ウォルトのクリスマスプレゼント/ディズニーランド開園十周年

27 カリフォルニア芸術大学の構想/もう一つのディズニーランドをフロリダの原野に/実験未来都市の夢

28 衰える健康/『ジャングル・ブック』/スキー場開発計画/全世界が泣いた日/弟の夢を受け継いだロイ/ウォルト・ディズニー・ワールド

あとがき(ボブ・トマス)

この伝記の大部分は、ウォルト・ディズニーの親族や同僚を直接インタビューして集めた資料にもとづいている。取材に応じてくださった多くの方がたに心からお礼を申し上げたい。

また、デービッド・スミス氏が館長を務めておられるウォルト・ディズニー・プロダクションの資料館からも貴重な資料をいろいろ提供していただいた。ウォルト・ディズニーと兄のロイは二人とも、自分たちの足跡を一つの歴史として見る感覚が発達していたのであろう。公私にわたる綿密な記録が保存されており、これは伝記作家にとっては非常にありがたかった。筆者は可能なかぎりウォルト自身の言葉を引用するよう心がけたつもりである。したがって、ウォルトがニューヨークからロイに宛てて書いた手紙、ストーリー会議の発言記録、毎年ウォルトが妹に書き送っていた手紙などは、たいへん価値の高い資料となった。さらに、娘のダイアン・ディズニー・ミラーがピート・マーティン氏と共著の形で父のことを書いた本をまとめるにあたり、1956年、自分の過去を何回かのインタビューの中で語ったが、そのときの長い録音テープが残っていた。また、ロイ・ディズニーが亡くなる直前に行った三回にわたるインタビューの録音もあり、これらを聞くことができた。

筆者はニュース記者として、二十五年間に何十回もウォルト・ディズニーを直接インタビューした経験があり、また、彼の生涯とスタジオのことをそれぞれ書いた二冊の著書を執筆したときには、それについてウォルトに相談したこともある。筆者はこうした資料を駆使しつつ、ほかの新聞雑誌に掲載されたおびただしい数のウォルトのインタビュー記事も参考にしたさらに、ディズニー家の家族を写した八ミリ映画や《アリスコメディー》、《オズワルド》にまでさかのぼるディズニー映画も見せて頂いた。

1.魅力的な作品を生みだすために

『ユナイテッド・アーティスツ社との話し合いがまとまるや、ウォルトは、アニメーションに新しい要素を付け加えようと決心した。カラーである―。

ウォルトは長年、自分で漫画をカラーで製作したいと思い続けていた。硝酸塩などを炉用して画面に色彩を与える実験を技術員にやらせたのも、その努力の一環であった。だが、結局、夜間のシーンは青フィルム、水中シーンは緑のフィルム、火などの撮影には赤フィルムを使うという、ごく原始的な方法以外、なんら実用的な成果が得られないままであった。ところが1930年代のはじめ、テクニカラー社が三本の原色ネガを合わせて一本のプリントに仕上げる技術を開発した。1932年までには、一般劇場映画の撮影にはまだ不十分ながら、漫画映画には応用できるところまできたのである。テクニカラー社からテスト用のフィルムを見せられたウォルトは、これでいけると自信をもった。しかし、ロイは反対した。

「おまえ、気でも違ったのかい。ユナイテッド・アーティスツ社と話がうまくまとまったばかりだっていうのに、カラーなんかに金をつぎ込むなんて。これ以上、余分な金なんか前貸ししてくれないぞ」

ロイのもう一つの心配は、絵の具がセルロイド板の上にうまく乗ってくれるか、剥げてくれるか、剥げて落ちてくるのではないか、ということだった。だが、ウォルトは、

「その時はその時で、ちゃんと、とれない絵の具を作るまでだよ」といとも簡単に言い返した。

ウォルトは、カラーが《シリー・シンフォニー》に確固とした地位を与えるための手段に使えると考えた。このシリーズははじめから、《ミッキーマウス》漫画の爆発的な人気のかげに隠れて、肩身の狭い継子扱いを受けていたからである。しかしユナイテッド・アーティスツ社は、《シリー・シンフォニー》を扱うことには消極的だった。彼らは、ミッキーの人気を拝借して、「ミッキーマウスがお贈りする、ウォルト・ディズニーのシリーシンフォニー」という興行広告を出すことにウォルトが同意してはじめて、配給を引き受けた。ウォルトはさらに、ロイの反対をうまく利用してテクニカラー社に譲渡を迫り、ディズニーがこの三色転染法を向こう二年間、独占使用することを約束させた。ロイは、しぶしぶ契約書にサインしたのだった。

《シリー・シンフォニー》シリーズの一つ「花と木」は、それまでに半分ほど完成していた。この作品は、メンデルスゾーンやシューベルトの曲に合わせて、アニメーションの草や木がつづる田園詩である。ウォルトは、モノクロでできあがっていた背景画をすべて没にし、アクションもすべてカラーにするようスタッフに命じたそして、絵の具を塗ったセルの撮影をするための特別な撮影台も新たに設置した。

一方、ロイが懸念していたことが現実となった。乾いた絵の具がセルロイド板から剝がれたり、熱いライトの下で色が褪せたりするのである。ウォルトはスタジオの技術員と一緒になって日夜研究を重ね、この問題にあたった。そして、色も褪せず、付着力のある絵の具をとうとう作りだしたのである。

最初のシーンがいくつか完成したところで、ウォルトはそれを業界のある友人に見せた。非常に感心したこの友人は、グローマンズ・チャイニーズ劇場の経営者、シド・グローマンにもぜひ見るようにすすめた。映写時間はまだ一分そこらの長さであったにもかかわらず、フィルムを見たグローマンは早速、この「花と木」を次の上映予定に入れたいと申し出た。ノーマ・シーラーとクラーク・ゲーブル主演、「奇妙な幕合狂言」との同時上映であった。

ウォルトは、予定より早く仕上げるためアニメーターに時間外勤務を命じ、テクニカラー社にも現像を急がせた。こうして1932年7月、ロサンゼルスのチャイニーズ劇場における「花と木」の公開にこぎつけたのである。観客の熱狂的な反応は、まさにウォルトの望み通りのものであった。《シリー・シンフォニー》はこれで、ディズニー作品中軽視される部類から脱することができ、人気沸騰の《ミッキーマウス》に匹敵する数の予約が殺到した。ウォルトは、今後の《シリー・シンフォニー》シリーズはすべてカラーで製作する、と発表した。』 

 『アニメーション映画の製作所としてすでに四半世紀の経験を積んできたウォルト・ディズニーは、1950年代のはじめごろにはさまざまな種類を手がけて、その多才ぶりを発揮した。彼はアニメーションで使った同じ原則をそのまま貫き、ストーリーを十分練ること、おもしろい登場人物を創りあげること、そして何よりも“読ませる”ものを作ること、つまり、あいまいな箇所を残さないとことなどの点を強調した。また制作の手法においてさえアニメーションの手順を踏襲し、俳優を使う劇映画の場合もストーリーボードからはじめて、各シーンやカメラの角度までいちいちスケッチの形で表しておいてから撮影に入った。こうしておけば、テンポの速いアクションシーンと状況設定のゆるやかな説明部分とを交互に配置させながら観客の興味をそらさずにストーリーを展開させていく、という制作のペースがウォルト自身、容易に把握できたのである。

ウォルトの仕事のやり方は、短編映画しか制作していなかったころからほとんど変わっていなかった。映画制作における自分の役割を説明するのに、彼はこんな話をしたことがある。

僕の役目? そう、いつか小さな男の子にきかれて困ったことがあったよ。「おじさん、ミッキーマウスを描くの?」 っていうから、もう僕は直接描かないよ、って答えたんだ。「じゃ、おもしろいお話を考えたりするの、あれ、おじさんがやるの?」「いいや、違うよ―」そしたらその子は僕を見て言うんだ。「ディズニーのおじさん、おじさんはいったい、何をするの?」「そうだなあ、僕はちっちゃな働きバチみたいだ、ときどき思うんだけどね。スタジオのあっちに行ったりこっちに行ったりしながら、花粉を集めてくる。まあ、みんなに刺激を与えるっていうのかなあ。そういうのがおじさんの役割みたいだな」 

ウォルトの仕事ぶりには無駄というものがいっさいなかった。会議を始める前にとりとめのない会話をしてから本題に入るということはめったになく、大股で部屋に入ってくるやいなや、すぐにディスカッションを始めた。会議が終わると、入ってきたときと同様にさっさと部屋を出ていき、「じゃ、失敬するよ」という言葉すら残さなかった。』

創造力というものに値札はつけられないよこう主張するウォルトを、銀行家の中には道楽者と見る者もいたが、これは昔からのウォルトの理論であった。きっちりした予算の枠内でアニメーションを制作するのを彼が拒んだのは、できるかぎり良いものを作りかったからで、より良いものにしようとすれば金もよけいにかかるのは当然だった。配給会社からの収入だけでは製作費をまかないきれないとロイが指摘しても、ウォルトは、「いいアニメーションさえできたら、収益だってあがるし、つぎのときに金の苦労をしないですむじゃないか」と答えるだけであった。

「白雪姫」、「ファンタジア」、「バンビ」などに取り組んでいたときも、彼は長編アニメーション映画という新しい素材や技術を開発しながら制作を進めていたため、予算というものを設定することができなかった。ディズニーランドの場合もそうであった。計画立案のスタッフや技術陣にかかる経費の枠もいっさい決めなかった。彼らは未知の領域に手さぐりで踏み込んでいるのであって、ウォルトには、できあがったときにはじめていくらかかったのかがわかるだけであった。

下田歌子10

順心女子学園六十年のあゆみ
順心女子学園六十年のあゆみ

編集:順心女子学園六十周年史編集委員

発行:昭和1984年10月

出版:学書房出版

共愛の世界

・震災後、世の痛切な要求によって、普通の高等女学校も設立された。順心高等女学校がそれである。しかし校長始め理事たちのこの計画は単に世の要求と云う単純なものではない。ここに大きな共愛の世界を創造してみたいというのが理想の根底にあった。

・順心女学校は主として家庭の都合で、高等女学校に通学し得ないもの、又は本人の希望でこの学校を選ぶ人の為の学校である。この二つの学校には富についての差があるが、同じ校舎、同じ職員、行事や式も一所に行われた。家庭の恩恵により高等女学校に学ぶことのできる幸福を深く内省する生徒たちと、境遇上富裕でないが将来の幸福をめざして真剣に努力する女学校の生徒たちとが同じ学び舎で、たとえ内容は違っても共に教育されるということはすばらしいことであった。このように両校の娘達の心の中には富に対する偏見はみられなくなった。感謝と思いやりの心を育てたいというのが私達の姉妹校を併立させた願いであった。

・社会においては富の調和も大切であるに違いないが、更に人心の調和即ち共愛の世界が尊いことと思われる。

森本副校長と姫小松

・『順心高等女学校は創立以来、祖先を崇び、虚飾を避け、質素勤労を旨とし、実践躬行を第一義とし、貞淑にしてしかも毅然たる節操を身につけた女生徒の育成をめざして教育が行われてきた。しかも旧態に捉われることなく、進んでやまない時代に常に適応できる能力の伸長に意が払われてきた。従って明るく真摯な雰囲気が校内にみなぎっていた。この順心教育の根元はもちろん下田校長の優れた教育観と卓越した教育方針にあることは論をまたない。

・下田校長は実践女学校との兼務だったため、森本常吉氏が副校長に就任された。下田校長の訃報に殉ぜられるかのように十余年をもって退職されたが、この期間がおそらく順心高等女学校の黄金時代だったと考えられる。森本副校長は後世に文献を残すため、創意と努力により順心高等女学校学友会誌の“姫小松”を創刊された。この会誌により、当時の学校生活を偲ぶことができる。なお、姫小松の名は下田校長作旧校歌からとられたものである。

順心高等女学校の廃止

・『順心高等女学校は、昭和二十四年三月三十一日をもって、順心の歴史と伝統を、順心中学校、順心高等学校に引き継ぎ、その使命をおえて廃校となった。順心高等女学校は、大正十三年三月、関東大震災直後に創立されてから、四分の一世紀の間、波欄曲節に富む歴史を綴ってきた。その歴史の後半は長い戦争の重圧下におかれていた。にもかかわらず学園は、土曜会、大泉農園の教育にみる如く、女子教育本来の姿を失うことなく、明るく、着実な学園生活が続けられた。その結果として三千百八十三名にのぼる有為の才媛を世に送り出してきた。

順心高等女学校が掲げた高い教育理想と、真摯な教育実践の姿は、今日の順心女子学園に生かされつつある。』

学友会から生徒会へ

・『「今回当校に於いて学友会雑誌姫小松を発刊することになりました。之は当校の発展上誠に適当なることと深く欣ぶ所であります。之までたびたび催された学芸会、運動会、其他いろいろの企てなど、甚だ有益にして且つ趣味深く感じたものの全然跡方もなくなってしまったのは如何にも惜しいことであるが、其れをこうして形の上に留めて置いたならば、現在において有益であるのみでなく、今より後長い間の思い出ともなるでありましょう。……(後略)」

下田校長のことばの通り、この学友会誌「姫小松」は本校の歩むを知るための最も重要な資料的役割を果たしてくれているばかりでなく、これを通して生徒全員を会員として組織されていた学友会が、今日特別教育活動の一環として、人間形成の上から特に重視されてきている生徒会活動の先駆的な姿を示してくれていることを知ることができる。これが今から半世紀も前であることを思う時、当時の先生方の先見に大いに感動をおぼえる。』

“けやき”

・『校庭の真中に立っている一本のけやき、仲間もなく、ひとりぼっちだが孤独を嘆かず、おまえは強く生きる道を知っている。ふとく真直ぐな幹、伸び伸びと広げている枝。季節の訪れをよく知っていて、芽を出すべきときには出し、若葉で色どるときは、美しくいろどり、夏は茂だけ茂って大きな影を落し、秋は近づく冬を知ってたたずまいを整える。おまえはひとりいてさびしがらず、ふとく強く生きる自信と信念をもっているようだ。天と地のめぐみを活用し、光と水をうまく摂取して誤まらず、屹然としてそびえ、空間を画し、生きることのよろこびと誇りを歌いあげている。

ひとはおまえのこの雄々しさと美しさを見あげ、その自然の心の素直な深さと微妙な動きにうたれる。ひとの生きる道の真理をおしゃべり抜きの誠実さだけで教えているようだ。』

欅

画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」

初代・二代の校長に仕えて

・下田校長の校長とする学校にふさわしく、敬神崇祖を根幹とする極めて質素なもの。

・行動訓話に際して、天照大神を遥拝した。

毎月三日に全校生徒職員が往復徒歩で明治神宮に参拝した。

六十年のむかし 第三回卒業生

・『当時の順心は「赤十字病院下」という市電の停留所のそばにあり、附近はどこかの田舎の村のようなところでした。停留所で下車するのは麻布の中学生か、順心の女学生かだけでした。校門を入ると小さな庭があり、その突き当りに二階家の小じんまりした校舎があって二階が講堂、下が料理室、ミシン室があり、道路に沿うて普通の教室が三つあったのです。教室から廊下越しに庭をみると一面の草原で片隅に小使いさんの家庭菜園があり鶏が数羽、いつも楽しそうに遊んでいるのがみえました。この校庭には夏ともなるとトンボや蝶がたくさんとんで来て、私たちを楽しませてくれました。きれいな小川の流れもあったように思います。とてものどかな学校のたたずまいでした。

下田校長先生は時折おみえになり、一同に訓話があり、女としての処世術や時局のお話など数々ありました。円い柔和なお顔は忘れません。また、校長先生が榊の飾った祭壇でのりと[祝詞]をあげられるのを乙女心に不思議なものをみるような好奇心で拝見していたことを憶えています。』

・『学期末には学芸会があり、自分たちでお汗粉を作って何杯もたべたものです。若い時の味というものは忘れ難いものです。この時は誰もがかくし芸をやることになっていて、これには悩まされました。飯田さんという深川から通学している下町娘が義太夫をやったのは驚かされた。威儀を正し、肘を張り、声高らかに“ウー”と語り出した。校服のひざの上の手はきちんとしていて、出し物は何であったか覚えていませんが、感心する人やら、笑いころげる人やら、それはもう大変なさわぎでした。木の葉が動いてもおかしい娘時代全く貴重な体験でした。当時の娘さんで、特殊な方でない限り、こんな芸を持ち合わせている人はなかっただけに、私たちは飯田さんに芸のきびしさを教えられました。其の後飯田さんは人気者になりました。』

・当時の通学は市電だった。電車道は枕木だけで停留所のところに板が敷いてあった。裸の線路に夏草が茂っていたのも目にやきついている。

恩師下田歌子先生を偲んで 第一回卒業生

・『震災前はこの校地に順心女学校という、当時の主な政界財界の夫人の方の集まりの慈善事業として設けられていた三年制の女学校がありました。ところが震災で東京中の学校が大半焼失してしまったので、その窮状に対処すべく取敢えず新しく普通の高等女学校を立てなくてはという事になって急遽創立されたのがこの順心女学園の前身順心高等女学校だったのですから、校舎もそれまであった順心女学校の校舎の一部を使って一応授業がはじめられたような状態でした。ですからはじめのうちは順心女学校と順心高等女学校が同居していたわけでした。幸にも火災に遭わなかったその校舎は、規模は小さいながら、窓枠などは、分厚な額縁のように厚くできていて、木造ながらどっしりと重厚で、外国のクラシックな建物を見るような感じのところがありました。

・当初は、生徒は一年生のみで三組、講堂などもなくて二階にある大きな畳敷きの礼法堂がその代わりに使われた。そこに毎月一度位、校長先生がお見えになって講義があった。

校長先生は平常は実践女学校の方においでになったが、ちょいちょいお見えになっていろいろとお話をしてくださるのを、コチコチに緊張してうかがったものだった。

・『校長先生をはじめ、品格高いお年寄りの夫人方が腐心していられるお気持ちが痛いほど感じられまして、あんなきびしい時代であったにも拘わらず、精神的には全く恵まれた環境で育てて頂いたありがたさが、五十余年経った今、現在のすさんだ世情を思うとき殊更しみじみと感じさせられ、なつかしくもありがたく、感慨一入でございます。』

・『本校は前述のような生い立ちの学校ですから、その母体である理事会評議員会は朝野の名士の夫人方百余名の方々で組織され、下田歌子先生を校長に仰ぎ、顧問には元総理大臣清浦圭吾伯、文部大臣水野錬太郎氏など名を連ねられ、公立私立を問わず他校には類例をみない特殊な存在でありました。ですから第一回卒業式の際は、卒業生約百五十名、在校生四百五十名ばかりの小さな学校で、会場も震災後に建築された簡素なものでしたが、元総理大臣清浦奎吾伯ご夫妻、水野文相、板垣退助氏夫人はじめ輝かしい方々のご臨席はあり、殊に元総理大臣から親しくご祝辞を頂くなど望外の光栄に浴しました。よく伝統ある本校といわれますが、本校の伝統はこういう所に端を発しております。』

・(この卒業生は卒後、実践の国文科に進学)下田先生は国文学者としても名高く、源氏物語の講義は有名だった。実践倫理の時間には、日常の出来事や時事問題を、ある時は国際人として世界の日本人の立場から、ある時は生物界の一員である人間としての立場から、当時としては全くスケールの大きなお話をうかがうことができた。また、父君ゆずりの儒学の造詣は一段と深く、孔子・孟子の道を「論語」「孟子」を講ぜられるのではなく、ご自分の信条として、根本的な心の持ち方として事に触れ折に触れて説かれていた。「各人がまずおのれを修めること。そして身近なものからだんだんと遠くに及ぼして行く。家から社会から天下国家までそれが拡がって行ったとき、どんなに美しく楽しい住みよい世の中が出現するだろう。」というような、すべての根本は各人の心の修養にある。

・下田先生は長く明治天皇の宮中に女官として奉仕し、和漢の学もさる事ながら、特に歌人としてのすばらしい資質は皇后陛下から「歌子」の名を頂戴して以降本名「せき」を改めて「歌子」と名のった。

・王朝時代に宮仕えして文学の道に不滅の名著を残した紫式部や清少納言とよく似た環境にいた。そして、皇女方のご教育のため、また一般子女の教育の為に英国をはじめとして広く欧米各国に二年間、滞在し視察研究を続けられた。帰国後は内親王方のご教育だけでなく、広く女子教育の為に全力を傾注された。

・『「資源の少ない日本は、貧乏な日本、だのにこの頃は物を粗末に扱う傾向が出て来ているのは憂慮に堪えない。」といつもおっしゃっていられましたが、物を大切にせよ、というお話の中で、次のような例をひかれたのがたいへん感銘が深くて、何かにつけて今でもはっきりと思い出されることです。世間では宮中のご生活はさぞぜい沢なものであろうと拝察しているのであろうが、皇族方は物に対して非常につつましいお気持ちをもっていられて、物を大切になさることは想像できない程である。明治天皇の常にお使いになっていらっしゃるお部屋の毛皮の敷物が一部痛んだので、お取換え下さるようにと再三お願いしてもどうしてもお許しがない。使用に堪えない程になるまではどうしてもお取換えにならなかった。又先生がお仕え申し上げていた内親王様がお使いになっていられる鉛筆が短くなってもお換えにならなかった。そしてこういう意味のことをおっしゃった。この鉛筆は今自分が捨ててしまったら永久に鉛筆としての役には立てない。廃物になって捨てられてしまう。大切につかえるだけつかってやらなければ鉛筆が可哀想だ、と。このお年若な内親王様のお言葉には恐懼の外はない。お金がかかるから節約するというのではない。物そのものを大切になさるご精神である。』

建学の理想

・校訓は「健康」「知性」「奉仕」の三つに象徴されている。

・「常識の養成」は下田先生の人格、教養、経験から生まれた人間観や教育観が極めて分かりやすく述べられている。この本の出版後数年して順心女学校が創設された。従ってこの本により、本学園建学の理想を伺い知ることができる。

「健康」

順心女学校の教育課程の中には体育の時間が当初から特設されていたことは、当時の各種学校的私立学校では画期的なことであって、積極的な女子の体力づくりに対する取り組み方がうかがえる。なお先生は運動競技も奨励され薙刀など武道のほかにバレーボール、バスケットボール等をとり入れられていた。特に先生は完全なルールの尊守によってのみ成り立つスポーツを若人の人間形成に必須なものと書いている。また、健康教育の消極面である保健衛生にはあらゆる機会をとらえて理論的・実践的な指導を行っておられた。

「知性」

・『婦人の賢愚が国家社会の盛衰に重大な関係があり、女性の教養の低さや、知識のないことや、何ひとつ頼るべき技能をもたないことが、罪をさえ生むと考えられた婦人慈善会の夫人たちが、そのために創立されたのが順心女学校であるから本学園健校の理想の中心は女性の知性を高める点にあったことは明らかである。下田先生の樹てられた教育目標の主眼もここにあり、「学園深く常識にとみ、知識が広く、必要な技能に熟達した女性を育てる。」と書いておられる。』

・先生は徹底した実学主義の立場を堅持され、実地に役立つ知識や技能の習得を第一義と考えていた。

・生きて働く知識を身につけさせ、あらゆる世の中のできごとに対し、常に適確な判断によって処理できる能力を得させることが大切であると説いた。

・先生は平安時代の婦人よりもなぜ明治、大正の婦人たちが常識に欠けているかを封建制の遺産として事例をあげて歴史的に解明された上で、真の常識の必要性を女性の生き方の問題として述べている。

手芸や裁縫はもちろん、音楽でもよし、書道でもよし、絵画でもよし、語学でもよし、生涯にわたって生きる支えになる何かを身につける為の指導が行われた。

・『「現実の地に足を立て、理想の天に頭をつけよ。」と生徒に説いておられる。理想を抱かぬ人に進歩はない。現実の生活をしっかりとみつめつつ、これに満足することなく、理想に向かって着実な一歩を進めること。これのできる人を知性的女性とよんでおられた。

「奉仕」

・下田校長は「国民的徳性の涵養」を教育目標の重点にかかげた。

・克己犠牲の精神にとみ、どのような困難にも堪え忍び、他のために尽くすことに喜びを感ずる謙虚な品性の高い女子の育成を期した。

・操行点は学業全体の成績にも匹敵する重さをもって評価された。

・操行は他との関り合いの中におけるその人間の品格である。“自らのため”ではなく“誰かのために何かをした”というのが善行である。

麻布今昔

・認可申請書に書かれた学校附近の状況:『西は川を隔てて福田会に接し、東は電車通りを隔てて閑静なる民家に面し、南は育児会拝借地、北は増上寺拝借地にして何れも官有に属する空地なり。且つその近傍には道徳上、衛生上に害を及ぼすべきもの毫もこれなし。』

・有栖川公園は旧藩時代森岡藩主南部美濃守の下屋敷だった。その後、大正二年有栖川宮の祭祀を継がれた高松宮家用地となり、昭和九年一月十五日、有栖川宮威仁親王の御命日を記念して東京市に下賜された。市は自然林泉公園としての遊園設計を樹て、昭和九年十一月に開園され今日に至っている。

・麻布の地名がはじめて文献に現れたのは平安末期の作といわれている「江戸志」であり、これに「ここは多摩川へもほど遠からざれば、古はこの地に麻を多く植え、布をも織り出せるゆえの名ならん。」とある。

・鎌倉時代に入ってからは善福寺の建立にみられるように新仏教の影響が強くこの地にも及んでいた。南北朝の頃の麻布は足利尊氏の所有であったため北朝の正朔を受けていた。

・家光が参勤交代を確立してから諸大名がそれぞれこの美しい麻布の自然にひかれて下屋敷をつくるようになったらしい。将軍直参旗本の修練のための鷹場もこの地にもうけられた。死者十万六千余といわれた明暦の大火の時、江戸市民の避難場所となったのも麻布であり、これらの記録により江戸初期の麻布のもつ特殊な地域的性格をうかがうことができる。

・『順心の校地として定められた現在地「広尾」はもと「つくしが原」とも「広野」とも呼ばれ、野趣に富んだ春の摘草、秋の虫聞などで庶民にも愛好された麻布のなかでも特に武蔵野の趣の豊かに残る地域であった。江戸末期には今の有栖川公園附近に百姓町屋ができ、他は武家屋敷と畑地と林野が点在する有様であったという。維新後、徐々に市街地的発展が広尾にも進み、小規模住宅が密集する地域ができたり、都市には必要であるが地域環境的には望ましくない施設ができたりもした。しかし学園の前面一帯は、江戸時代の諸侯の屋敷の名残りが、北条坂、南部坂、木下坂となって今に残り、これらの坂の名に往時を偲ぶことができる。そしてこの地帯は、長く官有地であったことも幸して、開発の波に洗われることも少なく、緑豊かな麻布の高級住宅地のまま残っている。学園の背面もまた、樹木の多い自然の中に日赤病院の白堊の近代建築を望む、いかにも都会的なしかも静寂な風情をもつ地域である。開校当時の立地条件の本質的なよさを残して近代化の進められているまことに恵まれた場所というべきである。』

感想

全てのブログをふり返り、下田歌子先生の生き様と信念を考えると、まず頭に浮かぶのは圧倒的な”行動力”です。まさに実行の人です。また、生涯にわたって“讀書”を愛しました。同じく、生涯にわたって”敬神”を貫いた信念には一切の揺らぎはありません。

食にも住にも、そして己の欲にも無頓着な先生の教育方針は、“着實質實”であり、先生の生き様を映しています。さらに、留学経験を活かした“国際感覚”と時代を先取りする“洞察力”も他を圧倒しています。

ひ弱な女子には“體育”がことさら重要であると痛感し、武道だけでなく、球技などの必要性も強く訴え、そして運動会を世に広めました。これは思わぬ大発見でした。

下田歌子9

下田先生の著書を探していたときに、「まさか、順心高等女学校に関係する本など売られていないだろうな?」と思いつつ検索したところ出てきたのが今回の『順心女子学園六十年のあゆみ』でした。「こんなものまで、あるんだ」と思いながら、色々な発見がありそうだと思い、ちょっと迷いましたが購入することにしました。

『下田歌子先生傳』は実践女学校出版部の本であり、他の学校に関わることはほとんど書かれていなかったため、この購入は大正解でした。

順心女子学園六十年のあゆみ
順心女子学園六十年のあゆみ

編集:順心女子学園六十周年史編集委員

発行:昭和1984年10月

出版:学書房出版

順心女学校の創立

・『大正七年二月、校舎の移築が完了し、三月には学校設立の認可が東京府知事よりおりた。下田歌子先生を校長に推薦する手続きも終った。校名、学則、教育方針などはすべて下田校長に委嘱された。これらの開校準備の整うのをまって、直ちに本科第一学年五十名の生徒募集に着手した。先ず入学者の資格を「学業に志あるも恵まれない環境の故に希望の達成がはばまれている女子」とした。そして入学の許可を受けた者はすべて無月謝とし、学用品給与等の特典も附されることとした。当時このような学校の創立は稀有のことであったので各新聞もこぞって特種記事としてこれを報道し、宣伝に一役を買い、ために遠隔の地から応募するものも多くまたたくうちに定員に達した。』

大正七年、創立時の校舎
大正七年、創立時の校舎

画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」

設立の認可

・場所:東京市麻布区広尾町官有地七十九番地二号内

・開校予定:大正七年四月二十日

校名の由来

順心の校名は下田校長の命名による。

・婦徳の涵養を女子教育の中心命題とされる先生の教育理想を端的に表明されたものである。

・校名の由来については、昭和三年三月に創刊された順心高等女学校交友誌 姫小松の巻頭に、森本常吉教頭先生が詳しく解説されている。それによると、出典は中国周代の詩経、「女曰鶏鳴之章」にある。

・『順はイツクシムであり、順むとは志同じく道協ひて親愛することをいうと説いておられる。「順」は人間本然の性をもとずくものであり、女子のみに求められる徳ではない。人間は男女それぞれがもって生まれた特性を生かしながら、互いに順み、補い合い、協力し合うところに其の幸福はあるもの。下田先生は女子教育の殿堂である我が校の校名を「順心」とおきめになったのは、男女の平等をその本質においてとらえた上で、婦徳の象徴としてもっともふさわしいものと考えられたからであろう。時代の激動の中にあっても「順心」は燦たる光輝をはなつ、すばらしい校名である。』

校歌・校章(順心高等女学校)

校歌:下田先生自詠の和歌、“神ながら変わらぬ道に新しきかげおもそえよ大和姫小松”に曲付けされたものだった。

訓歌:“曇りなきいろに匂いて仇し世のちりをなすえそ大和撫子”。生徒たちは校歌とともにこの訓歌を、日夕これを朗詠した。

校章:現在の校章は、この二つの歌の心をからつくられた。清楚でやさしいなでしこの花と、風雪にたえ岩頭に逞しく常緑を誇る強さをもつ姫松によって象徴されている。

下田校長略伝

・安政元年(1854年)八月八日生まれ

・明治十七年五月、夫である猛雄氏が三十七才の若さで永眠。家庭生活は五年に満たなかった。

・四十九才のときから支那語(中国語)の勉強を始めた。

・六十六才の時、順心を含めて五つの学校の校長の職に就いていた。

大正七年~昭和十一年の18年間を務めた。

・昭和十一年十月八日午後十一時、逝去さる。

・『先生は明治大正昭和三代を通じ、日本の女子教育の第一人者として不滅の業績を残され、民間女性として達し得るべき最高の御恩寵を皇室より戴かれた。教育界にある人だけでなく、先生の訃報に接した多くの人々は国家の一大損失と哀惜の情を寄せられた。万余の教え児達の哀哭のうちに、その代表が筆を執り護国寺に先生をお送りし、ここで先生は永遠の眠りにつかれた。

わが順心学園は、生みの親でもあり、育ての親でもあられた先生を失った。同年十月二十八日下田先生の追悼式が講堂で行われた。田所校長をはじめ職員生徒は励論、名士貴顕、卒業生など多数が参列し、しめやかにしかも盛大な式が挙げられ、一同先生の御遺徳を偲びつつ、御冥福を祈った。』

昭和八年、講堂落成
昭和八年、講堂落成

画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」

旧礼拝堂
旧礼拝堂

画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」

授業風景
授業風景

画像出展:「順心高等女学校第二回卒業記念」

順心創設のころ

・『大正七年、先生六十六才のとき、財団法人大日本婦人慈善会経営の順心女学校の創立に参加され、その校長になられた。勿論先生を敬慕していた板垣退助婦人ら朝野の名士夫人たちの懇望によってではあるが、本校設立の趣旨に賛同され、実践の姉妹校としてその教育を引き受けられたものと思われる。一般的には老境に入られる年にして先生は、順心を含めて五つの学校の校長として、その経営と教育に東奔西走されていた。教えて倦むことなき先生の女子教育に注がれた情熱は、けだし驚嘆に値するものがある。先生の教育的見識は学校という場で着々と実現されていたばかりでなく、王朝時代の紫清をこえる人として洛陽の紙価を高からしめた等身の著述により、広く日本女性の教養を高めることに貢献されていた。

大正九年社団法人愛国婦人会会長に推された。大正十二年の関東大震災に際しては愛国婦人として救血活動に精根を傾けられた。従って大正十三年の順心高等学校の創設を殊のほか喜ばれ、校長就任を快諾されたという。また、大正十四年には滋賀県下の淡海実務学校の校長も兼ねられることになった。昭和二年に愛国婦人会長を辞され、学校教育のみに専念されることになった。先生は大正七年から昭和十一年まで、十八年もの長い間、順心女学校、順心高等学校の校長として、本校教育の基盤を培われ、その発展に尽された。本校は先生の他の兼務校とちがい実践学園とは距離的にも近く、先生の声咳に接する機会を生徒たちは多くもつことができた。特に先生晩年の昇華し尽した高い教育理念のエキスをいただきながら育てられた順心は極めて恵まれた学校というべきである。

下田校長と順心

・『下田校長の六十余年に及ぶ育英のお仕事の前半は、その対象が主として、桃夭学園、華族女学校、学習院に学ぶ皇族、華族といったいわゆる上流家庭の子女たちであった。しかしその間にあっても先生は、日本の将来のためには一般勤労階級の子女の教育がより重要であることを考えておられた。明治三十一年には、内親王教育係という宮廷生活のかたわら、帝国婦人協会を設立され、付属の実践女学校並びに女子工芸学校をつくられた。そしてこれが先生の一般女子教育の出発点となった。翌三十三年には同協会新潟支部付属新潟女子工芸学校の設立をみている。先生は畏敬する祖父東条琴台翁の遺訓を堅く守られ、子女教育の根幹はあくまでも婦徳の涵養と、生活に直結する知識技能を身につけさせることにあるとの立場を堅持されていた。明治四十一年五月学習院女教授兼学部部長という栄職を最後に公的生活を離れられ、私学の女子教育に専念されることになった。そして先生の教育信条はそれからの後半世に遺憾なく、見事に実現されていった。

大正六年大日本婦人慈善会の板垣絹子会長ら朝野の名士夫人たちは順心女学校を創設して、恵まれない家庭にありながら、しかも向学心に燃える子女の教育を考え、現今の奨学資金制度の先駆けともいうべき給費制の実施を決意された。これと勤労子女の教育に情熱をおもちの下田校長のお考えが完全に一致して、先生は夫人たちの要請に応えられて、無償でその教育計画のいっさいを引き受けられた。すなわち順心女学校は夫人たちの憂国の熱意と、下田校長の教育的信念の結合によって生まれた勤労子女の教育殿堂であった。そして下田校長六十五才の春、大正七年五月三十日順心女学校はその授業を開始した。』 

・『先生の育英の業は昼夜にわたるものであり、勤労子女の教育にそそがれる熱意はまさに超人的なものであった。その中にあって共愛会の手になるわが順心女学校には毎週必ず出校され、生徒たちに訓辞されていたというが、先生は順心女学校を勤労子女教育のモデル校として、とりわけ愛されていたように思われる。この故に関東大震災後、東京の教育荒廃を黙示できずに共愛会がやむにやまれず順心高等学校の設立にふみきった時も、これを誰よりも喜ばれ、校長就任を快諾されている。先生にとって順心女学校と順心高等学校は、同じ教育理想によって育つ姉妹校であった。』

下田校長の国際的視野に立つ教育と順心

・宮中奉仕のかたわら和漢の学に励まれていたが、フランス人から日本文学の指導と交換にフランス語の指導を受けておられた。

・明治二十八年五月の渡欧では、大英帝国のヴィクトリア女皇に、日本女性として初めて拝謁を許された。その時の先生の緑袿緋袴の宮廷の正装は人々を魅了した。先生は何時でも何処でも日本女性としての矜持を失われることはなかった。

・人一倍皇室尊崇の念の厚かったが、「お国のために」という名による煽動におどる浅薄な主体性なき教育者を誰よりも嫌っていた。

下田校長の師道と順心

・『先生は人を教育するということは、その人間の魂の成長に関与することであり、教育者はその一挙一動をおろそかにすべきでないと説かれている。先生の教えを受けた万余の教え児たちの心の中には壇上の先生のお姿が教師の理想像として刻まれていたことは事実である。幾人かの教え児の方からこんなことをきかされた。「先生は鐘の鳴る前に教室に行かれ、鐘の音とともに入口のドアーをお開けになって壇に進まれた。そして号令なしに会釈をかわされて静かに話をおはじめになるのが常だった」と。』

順心高等女学校の創立

・『(関東大震災により)校舎が焼失し復旧の見込なく廃校するものが続出し、学ぶに所なき女子生徒たちを出してしまった。こうした教育の危機に臨んで共愛会の夫人たちはこの焦眉の急を救うべく、万難を排する決意で立ちあがられた。幸にも順心女学校の所在する広尾一帯は大きな災害をうけることもなく、校舎も無事であり、その収容能力にも余地を残していた。共愛会ではとりあえず順心女学校の校舎の一部を利用して普通制高等女学校を創設することにし、大正十三年四月開校を目途に準備が進められた。想えばわが学園のある麻布広尾一帯は、広尾ヶ原とよばれて江戸の郊外であり、春の摘草、秋の紅葉や虫の名所としてきこえ、杖をひく文人墨客の絶えない閑雅な地であった。明治以降都市化が進み、人口も増加し、住宅も密集するようになってきたが、なお緑豊かな静寂な環境は保ち続けられてきた。こうした場所にある順心女学校は、学校として必要な立地条件の多くを満たして存在する恵まれた学校であった。焦土と化した東京で学び舎を求める女生徒のために、環境に恵まれしかも交通至便な都心の一角に、新しい高等女学校を創設するということは、時宜を得た企画であったにちがいない。しかし共愛会の手による順心高女の誕生には並々ならぬ苦労があった。夫人たちも普通教育に手を染めるのははじめてであり迷いのあったことも想像に難くない。下田校長が校長兼務を快諾されたことは夫人たちの大きな力となったことであろう。下田校長の教育的識見にもとづく指導と助言により、いっさいの準備は完了し、大正十三年三月五日順心高等女学校の開校認可があり、三月十八日に下田校長の校長就任が正式に決定した。かくて緑にうえていた女生徒たちが心をはずませながら順心高等女学校の校門をくぐることとなった。』

順心高等女学校・順心女学校
順心高等女学校・順心女学校

画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」

下田歌子8

著者:下田歌子

発行:1910年7月

出版:實業の日本社

目次は”下田歌子6”を参照ください。

第六章 婦人と敎育

三、女子の高等敎育

『然し、近來女子の高等專門敎育を受けるものが漸々多くなりまして、從って、高等敎育を女子が受ける可否も論ぜられる樣になりました。可とするもの々議論は、前に申しました通り、男子と女子と同等の力もあり、躰格も養へば同等になるのであるから、女子も當然高等敎育を受くべきものであると云ふので御座います。此の論については、一寸申して置きました通り、果して、女子の腦力、智力、躰力などが、全然男子と同樣であるか何うかが、先決問題であります。第二に、よし同等のものだとしても、女子は高等敎育を受ける必要があるか何うかと云ふ問題が來るので御座います。

先づ腦力について考へますに、自分は專門の學者でありませぬから、生理學者の言によるの外はありませぬが、生理學者の言によれば、男子と女子とは腦の組織、重量などに於いて著しく異なり、又部分的の發達に於いても異ると云って居ります。(或一部の議論は、それは養ひ樣が、男子と女子と異なって居たからで女子も男子の如く養へば同じ樣になると云ふ説もありますけれ共、其れはまづさうした後結果を見なければ、遺憾ながら、どうも左樣だと斷定することは出來ぬ。)此れに依って觀ても、男子と女子と腦力の向ふ所に差があると云ふ事は判りませう。或學者の如きは、女子高等敎育は、絶對に不可能だと云って居りますが、それも餘りに偏した議論ではありますまいか。現に歐米各國はもとより、日本の古代にも隨分立派な學者として立って居る婦人が澤山あるので御座いますから、人により塲合によって、絶對に不可能とは申されますまい。智力の上に顯れた所を見ても、殘念ながら女子は何うも男子に劣って居る樣で御座います。一體女子は感情に鋭いもので、冷靜な推理の學などには餘程不得手と云はなければなりませぬ。女子の感情に鋭いと云ふ事は、社會や國家の方面に取って、極めて有益な事もあるので御座いますが、少なくとも理性の學問と云ふ方面から見ては、これが為に男子より劣って居ると云はなければなりませぬ。ですから、女子が各種の高等な學問に立ち入って、果して能く男子と同等に推し進む事が出來るか何うかは疑はしい事でありませう。或ひは又「それは初めから女子を敎育しないからである。女子を劣等者として敎育しないから男子に劣って居るのである。敎育したら決して劣るものでなない」と、云れる方もありませう。或ひはさうであるかも知れませぬが、昔から女子には學問(高等なる意味に於いて)は不必要だと云ふ樣な氣風が世界各國の社會に行はれて、今もまづ其方の論が勝を占めて居るのは、即ち自然の合理で、未だ容易に動かし難いことだらうと思はれます。

第三の體格に於いて、男子と女子と同樣の強壯の程度であると云ふ事は、容易に信ぜられませぬ。一般に女子は男子に比して、極めて薄弱であるとしてあります。躰力に於いても、氣力に於いても、皆劣って有ると見られて居ります。特に婦人には婦人特有の組織があって、その為に身體にも精神にも非常なる影響を受けるのは已むを得ませぬ。現に婦人の大部分がヒステリー患者であると云はれるのを見ても解りませう。斯う云ふ異った體格を以って、男子と同樣に高等學術に從事して、それで果して男子と同樣の結果を擧げると云ふ事は、出來るか何うか、大なる問題であらうと存じます。勿論、男子にも女子にも、或少數の例外のあることは云ふ迄もありませぬ。

それに女子の高等學術研究は、まだ他の方面より調べて見なければなりませぬ。即ち、女子自身の幸福に取っては何うであるか。又國家が果してその樣な婦人を多數に要求するか何うかと云ふ點で御座います。一般の女子は、人の家庭に入らなければならぬものであります。即ち結婚と云ふ事は、女子の必要條件と云ってよろしい。前にも一寸申した樣に、男子は結婚によっては別に、自分の目的を妨げられる事はありませぬが、女子に至っては、結婚は我身に對して一大變化を與ふるものであります。結婚が必要條件であるとすれば、結婚前の女子の修養は、大部分この結婚を目的として行はれなければなりませぬ。結婚後は既に人の家庭に在って、大責任を帯びて居るのでありますから、容易に專門敎育に首を入れる事は出來ますまい。さうして、結婚には自から時期があります。ですから、若し婦人が高等敎育を受け樣とするには、勢ひ婚期を延ばすか、又は獨身生活の覺悟でなければなりますまい。此れは女子に取って重大の事で御座いますから、極めて綿密に考へなければならぬ事で御座います。

第二に今の世の中は、女子の高等敎育を歡迎するか何うかと云ふ事で御座います。國家社會の程度が今よりもずっと進んだ後ならば知らず。目今の有樣では、家庭の主婦として最高等なる專門敎育を受けた婦人を迎へる必要がないのみならず、今の社會は却ってこれを嫌って居る樣で御座います。女子の高等敎育を受けた人々が、婚期の遅いのは、女の方では行くべき所を選んで理想が高きに過ぎ、貰ふ方では、あまり歡迎しないと云ふ點にあるのだろうと存じます。して見ると、何れの方面から見ても、女子の高等敎育はさまで必要のものでないと云はなければなりませぬ。併し社會は極めて複雑で、生活の狀態も日に月に困難になって參りますから、婦人は必ずしも結婚して良妻賢母となり得ると云ふ限りでもなくなりませう。歐洲各國の女子高等敎育の盛なのは、大部分此の理由によるのではないかと存じます。(又一方には、女權擴張の為に、男子と同等なる、躰力智力の養成を必要とする理由もありませうが)日本でも、此れから後、この形勢は免れますまい、又何う云ふ事で獨立の必要があるかも知れませぬ。或ひは又一身を學問界に投じようと云ふ婦人も御座いませう。是等の婦人の為に、一二の高等敎育機關のある事は、むしろよい事でありませうが、大體から云っては、女子に高等敎育の必要は、今の所では、さまで痛切だとは思はれないので御座いますから、多數の女學校はまづ高等女學校程度位のが適當であらうと存じます。

尚女子敎育に對する卑見は、他日又別に起稿の積りでありますから、此處には、唯眞の愚案の一端を述べた迄で御座います。』

感想

国家社会が成熟し、社会が複雑化していくという前提に立ち、女子の高等教育の必要性が高まってゆくことは時代の必然であり、既に欧州各国の動向はそれを暗示している。という下田先生の見識は、明治時代にあっては、極めて貴重なものであったと思われます。

下田歌子7

著者:下田歌子

発行:1910年7月

出版:實業の日本社

目次は”下田歌子6”を参照ください。

二、進んで取る勇、退いて守るも勇

勇氣は精神の骨であります。骨は固く、骨は容易に折れてはならぬ。骨のある人は確固して居ります。勇氣のある人も亦、充分確固した所があるので御座います。

勇氣は、決して男子の專有物ではありませぬ。成程千軍萬馬の中に飛び込んで、矢玉を冒して血戰する婦人は一寸珍らしい、けれどもそれ許りが勇氣ではありませぬ。昔風の消極的な考へ方にすれば、婦人は勇氣のないもの、又勇氣の要らぬものと考へられますかも知れませぬが、それは考へ方が違って居るので御座います。婦人であっても亦勇氣なるものは、必要であるので御座います。

では勇氣、即ち確固した意志とは如何なものであらうか。更に進んで研究して見ませう。自分の見る所では、之に二方面ありませうと存じます。

 一、道に當っては進んで取る。

 一、不道に對しては退いて守る。

之の二つを一つに纏めると、やはり道に從って、動く所の強固なる意志と云ふ事になるのであります。其行ひが道にさへ叶って居るならば、進んで取るも勇氣があって、退いて守るも亦勇氣であります。要は道に對する強き決心であります。

この強き決心が、行為に現れた所を御覧なさい、如何許り美しく、亦如何許り華々しく、又如何許り勇ましいでありませうか。

我自ら道を守って病しい所がなくば、百萬の敵に對しても、莞爾と笑って居る事が出來ます。如何に勇ましいではありませぬか。千百の誘惑が、右から左から、前から後から、續々として押し寄せて來ても、我れに堅く信ずる所さへあれば、此等の誘惑を冷然として打ちながめて居る事が出來ます。成し遂ぐべき事、又成し遂げ得る事と信じたならば、百千の障害を推し除けて、百度二百度の失敗にも恐れず、何處までも之を成し遂ぐるのも大なる勇氣があるからであります。為してはならぬもの、不義不正の事と見定めたならば、如何なる忠告を與へられ、如何なる迫害に遇ふても、平然として斷じて不義不正に手を染めぬと云ふのも、大なる勇氣があるからでありませう。

但し男子には、堅きを碎き鋭きを破り、進んで取るの勇氣を要する塲合が多いので御座います。が、兎にも角にも、何の方面に於いても、人の行為の根柢には、常に偉大なる勇氣がなければなりませぬ。例へば蒸汽力が非常に大なる活用をして、世の中に非常なる利益を與へるのは、其の根本に熱と云ふ原動力がある為である。そのやうに人にも勇氣といふ原動力が無ければ、とても思ひ切った善事は出來ないのであります。

勇氣のある處にこそ、大發明の人を出し、萬難を排し、千辛を甞めた處に、大成功者は作り出されます。道に從って悠々然として身を省みぬ、殉國殉義の人ともなります。生命を賭しても、淸き心を守る所の貞操、淑徳の人ともなります。あらゆる善と美と、之を為すのも勇氣に依り、あらゆる惡と醜と之を避けるのも勇氣に依るのであります。

されば勇氣と云ふものは、大事件があって初めて起るものではありませぬ。大事件のある時には、勿論勇氣が必要でありますが、敢えて大事件でなくとも、日々の行為の上に於いても勇氣の必要は極めて大なるもので御座います。例之ば學生が勉強をして、讀本なり、算術なり稽古をして居る。すると眠くなる、眠くなった時に、眠いと云って寢るのは、正しい所の意志の決定に從った譯ではありますまい。正しい意志は、眠ってはいけない、眠る樣では、決して立派にはなれない、其の眠い所を忍耐して勉強しろと云ふのでありませう。それが出來ないで眠ってしまふ人は、それはたしかに自制克己と云ふ念に乏しいので、即ち勇氣に乏しいからだと申さなければなりませぬ。

當今男女學生堕落の聲は、實に忌はしい事でございますが、非常に喧ましくあります。自分は、親愛なる學生の方々が、世間で囂々云って居る程、甚だしく堕落したらうとは存じませぬが、其一部には、遺憾ながら、少しもその形跡が無いと斷言することができませぬ。さて其幾百人のうちの一人でも、不幸にして堕落したと致しましても、そのはじめ遠い國々から、親に分れ、兄弟親戚に別れして、遥々と東京に出て參りました時の心は、何うで御座いましたらう。必ずや其時の其の人の胸の中は、前途の希望と、大決心の勇氣とが充滿して居ったので御座いませう。年は若い盛りであるし、空想は頭の中に縱横に駈け巡る時代でありますから、其人の前途は實に洋々海の如きものがあったに違ひないのでございます。それが何うでせう。東京へ出ると直ちに堕落して、學問も目的も、何も彼も滅茶々々にして仕舞ふと云ふに至っては談るに詞が無い。初め大なる勇氣を持って出て來たが、今では其勇氣は何處へ行ったのか分からなくなったではありませぬか。

これに依って之をいへば、其初め國を出る時の勇氣は、決して眞の勇氣ではありませぬ。眞の勇氣を持って居ったならば、如何樣な誘惑に遭った所で、決して其の誘惑に陷るものではありませぬ。それは都の中は種々なる誘惑の機關が備はって居りまして、手を變へ品を變へて誘惑するので御座いますから、まだほんたうに思想の堅まって居らない若い人々に取っては、知らず知らずの間に其誘惑に陷るのも亦已むを得ない樣にも思はれますが、かと云って、東京へ出て來た男女の學生が、澤山どし々々堕落してゆくかと云ふに決してさうでない。堕落生が假に如何に多いとて、堕落しないで成功するものの方が遥かに澤山あるので御座いますから、矢張堕落するものは、眞に勇氣のないものと申さなければなりますまい。誘惑の惡魔も眞の勇者には寄り附く事が出來ぬのであります。

自分は妙齡の女子達に特に申したいのは、如何なる誘惑が來ても、不正不義と見たならば、死を誓ってこれに抵抗するだけの、大なる勇氣を持って貰ひたいと思ふので御座います。この勇氣を持たない人は、幸いにして、誘惑の魔に觸れる事がなければ兎も角、一度之に觸れたならば忽ちに堕落するので御座います。それでは同うして立派な婦人と云ふ事が出來ませう。昔から今まで、貞女節婦として稱へられて居る人々の行為は、實に斯の樣な塲合に、自若として道を違へず、死生を賭して道の為に爭う所の大なる勇氣に富める人で御座いました。』

三、眞の勇氣と偽の勇氣

『勇氣は誰人にも必要で、又何時如何なる塲合にも必要である事は前申した通りで、又勇氣の二方面、即ち進んで取ると云ふ方面と、退いて守ると云ふ方面とも前述の通りで御座います。進んで取る方面は、事業の方から見れば進取即ち積極的であります。自分の志した事は萬難を排して、之を成し遂げるので御座います。世の中に立ちて、事業をなさんとする人で、進取の勇氣がなくては、到底充分なる成功をなし得るものでは御座いませぬ。退いて守ると云ふのは忍耐であります。守ると云ふと少し云ひ方が惡いので御座いますが、畢竟事業をなし、正義を行ふ上に、思はぬ所の妨害が出來たり、困難が起こったりするのは云ふまでもない事であります。それを克く忍び克く耐へてこそ、初めて成功するので御座います。

この進取の氣象と忍耐の力とは、人生の如何なる方面に行っても極めて必要であります。人間の一生、一時間の中と雖も、これが無くてはならぬ必要のものであります。敢へて例を引くまでもありますまい。家庭の中に在って一家族が暮す時でも、商賣をして他人と取引する中でも、机に對って書を讀む間でも、如何なる時でも、如何なる塲合でも必要でなくてはならぬものであらうと存じます。これ程大切なる勇氣も、克く克く注意しなければ、誠に飛んだ考へ違ひをするものがあります。世に暴虎馮河の勇と云ふ事があります。勇氣と云ふ事は、何でも危險な事も構はないで進み、生命も何も打ち棄てて、火の中水の中へでも飛び込みさへすれば、それでよい樣に考へて居る人があります。成程、或る塲合には、さういふことの必要がないでもありませぬが、それは極めて稀な塲合であります。向ふ見ずに、無茶苦茶に、棄てばちになってやる事、それが勇氣とは決して云ふ事は出來ませぬ。それは昔の人の所謂匹夫の勇と云ふもので、眞の勇氣では御座いませぬ。

さらば眞の勇氣と、匹夫の勇との差は、何處にあるかと云ふ事を考へねばなりませぬ。眞の勇氣とは何んなもので御座いますかと云ふに、進むも引くも道の為にし、義の為にするもので御座います。で、何れが道か、何れが道でないか、其處に充分なる判斷がついて居らなければなりませぬ。

又其行為を決斷するまでには、神聖な純粋な感情に依って動かされなければなりませぬ。例へて申しませうならば、此處に一人の人があります。其人が刀を持って人と爭ひに行くといたします。其の爭ひに行くと云ふ行ひは、それで眞の勇氣であるか、ないかと云ふ事を調べて見ると、爭ひに行くにも種々あります。軍人となって國家の為に正邪の爭ひに行くのもあり。又詰らぬ恨みの為に我身を忘れて無謀な爭ひに行くのもあります。君國の為めに爭ひに行く人は、何故に自分は君國の為めに爭ひをしなければならぬか。自分は君國から何ういふ御恩を受けて居るか、といふ樣な事を充分に知って居って、其上に身を棄てても君や國に盡さうと云ふ一種の尊い感情に動かされます。其の智識も、其の感情も、極めて純粋なものであって、それによって意志は十分に決斷して、勇氣となるので御座いますから、其の勇氣は眞の大勇でありませう。然し右の如きは、男子に於いての塲合です。が、女子にも亦、男恥かしき眞勇を振って正義の為になった人が少なくありませぬ。一寸その一二の例を申せば、かやうな類であります。德川將軍治世の末に在った飯田のお藤は、妙齡の身を以て、藩主の側室若山といふ毒婦を斬って、主家を累卵の危きに救ひ、同じ德川氏時代に於ける、丸龜侯の家中の、孝女お里は、親の仇なる惡漢の武術者を打って、先考の怨恨の靈を地下に慰めました。その他、下婢おさつの仇打、赤穗義士の銘々の、母や妻等殿忠の大義の為に、その身を犧犠にして、眞勇を發揮した婦人も少なくありませぬが、又或ひは親、夫の虐待に耐へ、或ひは家の貧困を忍び、夫の難病に侍して、毫も倦める色無く、悲しめる氣色無く、他の惡を化して善と為し、傾けるを助けて全きを得せしめ、歴代の史傳記綠中に在る所のあまたの賢婦人達の如き、全く進んで取るの勇氣も、退いて守るの勇氣も、全身に滿ち溢れたやうな意志の堅固な婦人方で御座います。

所が、詰らぬ恨の為に身を棄てると云ふと、實に詰らぬ事であります。又詰まらぬ感情に動かされて居るので御座いますから、一時取り逆上せた時こそ身を忘れてかかっても、暫時經って、頭が冷えて來ると、詰らぬ事をしたと後悔するのであります。こんな勇氣は、眞の勇氣では無くて、一時の狂的動作であると申しても宜いのでございます。

そこで眞の勇氣のある人は、安心をして居って、世の中の事に迷ふ事はありませぬ。勇氣のある人は既に何の道が正しくて、那の道は正しく無いと云ふ判斷がついて居ります。又詰らぬ感情に動かされるといふ事はありませぬ。その判斷がついて居らなくて、邪でも非でも無暗にやり通すと云ふのならば、それは眞の勇氣ではありませぬ。既に道の正不正が明らかになって居る人でありますから、自分の行ふて行く行為の上に疑ひを抱くことがありませぬ。例へば春の朝に花鳥に送られ、美はしい太陽に迎へられて、樂しき野邊を行く樣に、心は何時も春風の吹いて居るやうで御座いませう。

眞の勇氣のある人は、決して濫りに他人と爭ひませぬ。既に我が行く道を知って居って、之れを樂しく進む人でありますから、他人に對して恨み忿るなど云ふ事はありませぬ。他人の過ち之を宥じ、我が過は何處までも改め、心の中は淸風名月の樣でありますから、人がよし之を怒らせようとしても、動きもいたしませぬ。其故、大勇は怯に似たりとまで云はれて居ります。

眞の勇氣のある人は、貪り望むと云ふ事はありませぬ。道とみれば進むと同時に、道ならずと見れば如何に勸められても決して入り立ちませぬ。他人が百萬の富を以て誘ふても、斷じて不正の事はしないと云ふ事は、大勇のある人でなければ、決して出來ない事であります。

又、眞の勇氣のある人は、失望しないのであります。心に守る所があって、其の為には百難千難を事ともしないのであるから如何に苦しい位置に立っても失望する道理はありませぬ。普通の人ならば、悲しみ歎きの眼を以て、中天を被ふ黑雲を見て泣いて居る時でも勇氣のある人は、喜び溢る々心の眼で其黑雲の上に照る太陽を見透して、それを樂しみ、それを喜んで居るので御座いますから、心は自から和いで居るのは、勿論その筈で御座います。

勇氣は決して男子に限ったものでは御座いませぬ。又一大事が起った時に初めて必要なものではありませぬ。凡ての人が、凡ての時に於いて持たなければならぬ德で御座います。家庭の風波も、一家の不經濟も、事業の失敗も、生活の困難も、又凡ての誘惑も、何も、彼も、眞の勇氣がない所から起って來るものと云はなければなりませぬ。

で一朝の怒りに嚇となって、疎暴な行為をして、後では夢の覺めたやうに悄然として、後悔したり、狼狽したり、又は心の裡では恐れて居る癖に、弱みを他に示すまいとして、大さうな事を云ったり、荒々しい擧動を示したりするのは、これは眞の勇氣とは似て非なるもの、虛偽の勇氣とでも申しませうか。婦人としてはこれらの事は最も愼むべきであります。即ちこれは、「内剛にして外柔」の反對に、外剛にして内柔とでもいふべきで、殊に爪彈きをせらる々次第であますから、能く他の失態に鑑みて、自ら省みなければなりませぬ。』

下田歌子6

下田歌子先生の『婦人常識の養成』は代表的な著書の一冊と言われています。

拝読させて頂く前は、「あまり関係ないかなぁ」と思っていたのですが、決して“婦人”だけではなく、素晴らしく勉強できるものでした。

ブログは、”第三章 婦人と勇氣”と”第六章 婦人と敎育(三、女子の高等敎育)”の2つだけになります。

また、今回も『下田歌子先生傳』と同じく、時代感を出したいと思い、可能な限り本書に出てくる漢字や言い回しを使っていますが、今回の『婦人常識の養成』は読み仮名がふられていたので助かりました。ただ、漢字が見つからなかった場合は〇となっています。ご容赦ください。

著者:下田歌子

発行:1910年7月

出版:實業の日本社

緒言

『この書は、題名の示す通り、年少婦人の常識を養成する一端にもと思って書き集めたもので御座いまして、決して高尚深遠な學理を説くのが目的ではありませぬ。

書中に説く處は極めて平凡で、通俗で、判り切った事を長々と書いたと思召す方も或は有るだらうと思ひます。それに本書は年少の婦人に讀ますると云ふ考へで、説明の方法も出來るだけ平易に、又出來るだけ丁寧にと考へました處から、或は同じ事をくどくどと云って居ると云ふ嘲りもあらうかとも思はれます。併しそれは、著者の目的か那邊にあるかを御考へ下されたならばおわかりになると思ふので御座います。

本書の中にも幾度も幾度もと申して置きました通り。最も完全な國民といふのは、最も完全な常識と道德とを持った國民を云ふのだらうと思ひます。我日本國民は、種々の事情からして、非常に常識に缺けて居ると云はれて居ります。特に婦人においては、殆と常識の存在を疑はれて居ると云ふ始末で、誠に悲むべく又一日も忽かせにすべからざる大事件であると云はなければなりませぬ。

此の書を世の中に呈出する事に依て、著者は婦人の常識を立派に養成出來やうなどなどの自負心は決して持って居りませぬ。誰目下の缺點を補ふために、汗牛充棟も○ならぬ有樣で出版せらるる良書の末班に加へられて、○かにても斯道に裨盆する處ありと認められたならば、著者の心は足るので御座います。』

明治四十年六月 赤阪靑山の居にて 著者識

目次

第一章 現代婦人の覺悟

一、上古婦人の地位は如何であった乎

二、中古婦人の地位は如何であった乎

三、近古婦人の地位は如何であった乎

四、現代婦人の地位は如何であった乎

五、時代の要求する婦人

六、現代婦人の覺悟

第二章 婦人と慈惠

一、婦人の特長は何ぞ

二、父の嚴命より母の慈訓

三、戰塲に於ける婦人の慈惠

四、盛り塲に於ける止女

五、男子の勇氣と女子の慈心

六、社會の事業と婦人の慈惠

第三章 婦人と勇氣

一、勇氣は品性の骨格

二、進んで取る勇、退いて守るも勇

三、眞の勇氣と偽の勇氣

第四章 婦人と信念

一、安心なる生涯を求めよ

二、正しい判斷から得た所の確信

三、婦人は信念の力が強い

四、夢から夢に入りて醒めざる婦人

第五章 婦人と宗敎

一、老子の口吻を眞似るではないが

二、日本の神樣と西洋の神樣と

三、宗敎は決して無用の者では無い

四、宗敎の婦人に及ぼした影響

第六章 婦人と敎育

一、女子敎育の目的は那邊にあるか

二、完全なる國民としての婦人 ―賢母良妻主義―人格修養主義

三、女子の高等敎育

第七章 婦人と常識

一、昔は常識とは言はなかったが

二、女學校出身者は何故に常識に乏しいか

三、如何にしたら常識が得られようか

第八章 婦人と學問

一、女の生學問といふこと

二、男と女とは學問の價値が違ふ

三、眞の學者としての婦人

四、婦人と文學

第九章 婦人と職業

一、已むを得ずして執る職業

二、日本にはこの兩方面を調和した職業がある

三、婦人は或意味に於いて一大職業を育つ

第十章 婦人と手藝

一、手藝は婦人に天與のものである

二、婦人の嗜なみとしての手藝專門家としての手藝

三、編物押繪に一機軸を出した兩女敎師

第十一章 婦人と禮法

一、禮は文明の尺度

二、自由な國の不自由と不自由な國の自由

三、虡禮虡飾と禮法の精神

第十二章 婦人と音樂

一、人類は音樂的動物である

二、婦人と音樂との關係

三、日本樂と西洋樂と

第十三章 婦人と遊藝

一、誤解されたる遊藝

二、遊藝が品性に及ぼす影響

三、遊藝の選擇

第十四章 婦人と裝飾

一、婦人は社會の花

二、美に捕はれたる婦人

三、外貌の美と精神の美

第十四章 婦人と裝飾

一、婦人は社會の花

二、美に捕はれたる婦人

三、外貌の美と精神の美

第十五章 婦人と交際

一、人は交際的動物である

二、婦人が社交熱の消長及び得失

三、所謂靑年男女の交際

第十六章 趣味と實益

一、雅やびかなふるまひ

二、趣味と實益

第十七章 婦人と衛生思想

一、婦人は家内の衛生係である

二、病に罹らせないのが第一の目的罹ってからの看

三、衛生上より見たる衣食住

第十八章 婦人と經濟思想

一、世帯持のよい婦人

二、時間の經濟と勞力の經濟

三、經濟の點から見た衣食住

第十九章 理想と現實

一、宇宙問題と人生問題

二、現實の地に足を立てて理想の天に頭をつけよ

三、藝術の宮

第二十章 希望及び快樂

一、過去の悲しみに耽る人

二、希望と快樂とは人格によって上下するもの

三、快樂そのものを希望する人

第二十一章 婦人の結婚問題

一、結婚目的のいろいろ

二、結婚の制度

三、良人の選擇

第二十二章 婦人の長所と短所

一、體格の上から見た長所短所

二、精神上から見た長所短所

三、婦人の長所短所とから見たる事業

第二十三章 主婦としての婦人

一、これこそ眞の分業である

二、家庭の圓滿は主婦の德

三、妻としての修養

四、婦人と服從の德

第二十四章 母としての婦人

一、母親たる責任は何時から負ふ乎

二、我が乳で我が兒を育てぬ母親

三、白金も黄金も玉も何かせん

四、母の感化と子の感化

五、母親の資格は如何すれば有てる乎

第二十五章 娘としての婦人

一、女兒は何故男兒よりも一層親に孝行せねばならぬ乎

二、娘時代は修養の時代である

三、理論よりも寧ろ實地が大切である

四、女學校卒業生の下婢となった實驗談

第二十六章 國家と婦人

一、國家と國民、皇室と臣民

二、婦人も國法を知らねばならぬ

三、國家の事變と婦人

第二十七章 婦人の十德

一、正實

二、仁慈

三、恭謙

四、貞淑

五、快濶

六、勤儉

七、堅忍

八、沈着

九、高潔

十、優雅

第三章 婦人と勇氣

一、勇氣は品性の骨格

『東洋では、昔から、智仁勇の三德と稱して居りました。その勇と云ふ德は、譬へば人間の體で申して見れば、骨格の樣なもので御座いませう。人間には御承知の通り、體格上から許りて申しましても、種々の要素が必要で御座います。まづ、皮膚だの筋肉だのが無くてならぬので、其れから、神經だの、血管だの、肺臟、心臟などその他内部の諸々の機關を安全に保ちて行くもの、又は、筋肉や、皮膚や、毛髪や、血管や、神經などをして、充分に活動せしむる為には、骨格と云ふものは、まづ、確乎として居らねばならぬ事は、今更彼是と説明するまでもない事で御座いまして、骨格は、實に人間の有って居る諸機關を、最も良い樣に組み立て、又最も良く活動できる樣に統一し、而も又最も安全である樣に保護して居るものであると云ふ事には、異論の無いことであらうと存じます。

今度は、人間の精神の方の活動について申して見ませう。人間の精神的の活動を仔細に歡察して見ると、先づ三つの方面に分ける事が出來ます。即ち

 一、智の方面による働き

 一、情の方面による働き

 一、意の方面による働き

で御座います。

是等の三方面について詳しく説明するのは、心理學の方の部分で御座いまするから、此處に於いては、なるべく避けようと存じます。唯心理學者の説明によりますれば、是等の三方面の働きが如何なる人の心にもあると云ふので御座いますから、若し或る人の精神の活動を見て、此中の一つが欠けて居る樣では其人は充分完全な人間と云ふ事は出來ないので御座います。敎育と云ふものは、この三方面の精神の活動を、充分完全に發達させる樣にするのだらうと存じます。

さてこの心の活動を極く手短かに説明して見ると、智の作用とは、人間が物を知る事で御座います。人間は他の動物と違ひまして、物事の善惡を判斷する力があります。物の美醜を見分ける力があります。物の適不適を分ける力があります、まだ其の上に、犬とは何んなものか、馬とは何んなものかと云ふ樣に、其物の性質を考へ出す力があります。此樣な、判斷とか、比較とか、概括とか、想像とか、記憶とか云ふ樣な心の活動は、之れ實に心の智的作用によるので御座います。學者は之を理性の作用と云って居ります。

第二の情の作用と云ふ事に就いて、尚自分の精神を自分で考へて見る必要があります。外でもありませぬ。理性の活動を以て、人は善惡、美醜を分ける、甘いか甘くないか。滋養であるかないか、善い行であるか。惡い事であるかなどなど一々判斷がつくのは、それは理性の作用である事は、今申した通りでありますが、心の活動は、それ切りで止まるかと申しますと、決して左樣では御座いませぬ。之の行為の判斷がつくと共に、必ず其所に一種の感じを起しませう。善い行為をした時や、甘いものを食べた時の感じと、惡い行為をした時や、詰らぬ損をした時の感じとは、同じ心の活動でありながら、全く別な樣でありませう。初めの感じを喜びと名ければ、後の感じを悲しみと名づけます。其他に、怒り、樂み、苦み、など、感じの種類が澤山あります。これらの感じを學問上感情と云ふので御座います。

それから意の方面とは、決斷であります。この事を為よう、あの事はすまいと決斷するのは、之を意志の力と云ふので御座います。斯う云ふ事をしたいと云ふ氣が起る。それは惡い事だ。してはならぬと理性で知って、それを斷然せぬと決斷するのは、即ち強い所の意志の力で御座います。人間のどんな行為でも、其初めは必ず心の三方面が活いて、それが行為に表れる樣になるのでありますが、毎日々々行為に表はれるとか。それでなくとも、能く馴れた後には、この樣に規則正しく心に相談して起こるものではなくなるので、之を習慣と云ふので御座います。

斯の樣な心の活動が頓て、其人の行為となって、表面に現れるものでありますが、其行為の上から見ると、其の三方面何れも大切である中にも、特に意志と云ふ方面が最も大切であらうと存じます。意志が確固として居らないと云ふと、智識や、感情が如何に勝れて居ても無益であります。固より、單に意志許りて、智情は何うでもよいとは申しませぬ。智情も固より大切であるが、意志は、殊更に大切であると云ふので御座います。智情の立派で、意志の確固とした人は今日所謂、完全な人格の人と云ふのであります。世間で精神の確固した人と云ふのも、この意味で云ふのでありませう。自分は、この意味に於いて、智情に護られた意志の最も確かに表に現れるものを、勇氣と云ふので御座います。單に自分の見る所許りでは御座いませぬ。前にも一寸申した樣に、古人が智仁勇と、並べ稱せられた中の勇と云ふ德は、此意味に於ける意志と解釋する事が適當であらうと存じます。

して見れば、勇氣は丁度精神の上の骨格で御座いませう。智で知っても、情で感じても、さて之を斷行すると云ふ決心がなければ、何にもなりませぬ。意志は強ければ強い程よい事は、丁度骨は太く逞しければ逞しい程立派な人間であると同樣であるではありますまいか。

前章に女子の滋心と男子の勇氣とを比較して述べました程であるに、爰にまた婦人に於ける勇氣を喋々するのは、或ひは、矛盾の嫌ひがあるかも知れませぬが、それは勇氣をば俗世間で云ふ所の勇氣、即ち、腕力がかった強さを意味するとか、武藝が達者であるとか云ふ方面のことの聯想から起る誤りで御座いまして、今自分が申しました通り、最も強固なる意志であるとすれば、婦人と雖も必要な事は申すまでもありませぬ。唯男子には殊にこの勇氣が生命であると申した譯でありますそれで、若し斯の樣な勇氣が婦人に必要はないと云ふのならば、それは丁度婦人は軟らかなるものであるから、骨は要らぬと云ふのと同樣と云はなければなりませぬ。』

下田歌子5

下田歌子先生傳
下田歌子先生傳

編輯発行:故下田校長先生傳記編纂所(代表:藤村善吉)

出版:1943年10月8日(非売品)

目次は”下田歌子2”を参照ください。

第六節 埋葬

『かくして擧式もすすみては、今はただ講堂そのほかの式場を祓ひ浄め、せまりくる暮色のうちに、更に悼はしき茶毘の儀の終るを待つのみである。ときに十三日午後六時三十分、親族、三校職員總代、生徒總代、同窓會總代等、十六臺の自動車を從へて、嗚呼、故先生の御遺骸も今は變りはてたる一〇の白骨と化し、喪主平尾壽子女史の手に抱かれつつ歸還したのであった。

七時半、うちひしがれたるが如きいひ難き悲嘆のうちに、そを、講堂に設けし新たなる祭壇へと奉安しまつる。しかるのち、皆々、また靈前に侍して、在りし日の思ひ出など、涙のうちに物語る。これぞ實に一同が、故先生の御前にて過すべき最後の一夜であった。

翌昭和十一年十月十四日は、前日來の霏雨もうち忘れし如き快晴の小春日和であった。いよいよ先生の遺骨を、音羽なる護國寺の奥津城どころに、埋葬しまゐらすべき當日である。午後一時三十分、遺骨は講堂の祭壇より正面玄關に出でたたれ、思ひ出も深き先生御生前の常用車にと移りたまふ。これより早く校門の内外には、三校の生徒卒業生等、去る十二日、靈柩を迎へ奉りし時の如く整列せる中を、新たなる戯欷嗚咽をかき分くるもののやうに、喪主、親戚、學校職員、生徒代表等七臺の自動車に分乘、〇從しまつりて出で立たる。これこそ眞に、とどめまゐらする由なき永遠の御出門であった。

御出門
御出門

画像出展:「下田歌子先生傳」

葬列は、まづ靑山なる明治神宮表參道より新宿に出で、高田の馬場、江戸川を經て音羽通りを眞直に護國寺に到着、同窓會代表二十餘名のほか、卒業生有志、常磐會々員等約百名に近く、既に此處まで先着して御待ち申上ぐ。殊に毘きは北白川宮、竹田宮兩大妃殿下には、この度もまた特に、御用掛を御差遺遊ばされし御事であった。かくて午後二時三十分、御遺骨は一先づ本堂に安置せられ、その右に兩御用掛着席、左に本校側各代表、正面に喪主、親戚その他の參列者並びて、護國寺貫主以下數名の僧により、嚴そかなる讀經は始められた。香煙ゆらぐところ「蓮月院殿松操香雪大姉」の御法號は、悲しくもまた床しく輝きて、日頃の面影もいやましに偲ばれるのであった。約四十分にして讀經も終り、御使を初め奉り喪主以下一同の燒香ありて、直ちに埋葬の運びとなる。

御墓所は、當寺墓域の西南の一廓、西向の地位にある。すでに掘られたるほぼ四尺四方と見ゆる墳穴が、早くも人々の涙を誘ひてやまず。いよいよ、特に調へたる尺二寸ほどの唐金の壺に納められたる御遺骨は、更に、四尺の地下ふかく埋められし石槨の中に、音もなく卸されて石蓋かたく閉された。次いで、まづ喪主の手による一握の土塊がその上を蔽ひ、續いて勿體なくも兩御用掛、更に順を追うて參列者一同、いづれも千萬無量の深き思ひもてそを繰返し、終りて次に墓標をばうち立て、眞新しき盛り土は築かれて行った。』

『因みに言ふ、ここ音羽護國寺は、眞言宗新義派の大本山、夙に東都第一の巨刹といはれる大寺であって、その創建は天和元年、開山は亮賢(快意)和尚、これが願主は德川五代將軍綱吉。國寶の本堂及びこれも國寶の江戸時代初期書院造りの代表的建造物たる月光殿と、鎌倉時代の尊勝曼荼羅、並びに藤原時代の金銅五鈷鈴などの寶物をもって鳴るほか、故先生を埋葬せる同じ境内の墓域には、明治の功臣たる三條實美、山田顯義、山縣有朋、大隈重信諸公の墓がある。思ひてここに至れば、早稲田大學の産みの親たる故大隈侯と、實踐學園の創立者たる故下田歌子先生が、同じ境内の同じ墓域を永遠の休息所と選んだのも、また奇しき因縁とはいへないであらうか。

かくしてここに、當面の葬典はすべて滯りなく終了した。なほ翌十月十五日には、午前中専門學校の全生徒、午後は第二高等女學校の全生徒が、更にまた十六日には午前中、高等女學校全生徒が、いづれも各職員に引率されて初の墓參を行った。その後も、五十日祭當日たる十一月二十六日までは、毎日、三校の生徒代表が職員附添のもとに校長邸の靈前に禮拝し、また旬日祭及び護國寺に於いて行はれし各忌日の法要には、それぞれの代表者を參列せしめたほか、特に墓參のため、三校一ヶ月交替にて毎日代表者を送りなどして、ただひたすらに、故校長先生在天の英靈を慰めまゐらすことに努めて行った。』

護国寺の墓域と墓碑銘
護国寺の墓域と墓碑銘

画像出展:「下田歌子先生傳」

第十七章 香雪餘薰

第一節 時代の人

『いまここに、思ひを新たにして、下田先生の燦然たる生涯を回顧し、また、更に、群がる當代の俊傑中から、さまざまの點に於いて比較、相似を發見し得る人物を、二者、拉し來って少しく追懷の筆を進めて見よう。まづその第一の人が、ゆくりなくも下田先生と同じ墓域(音羽護國寺の境内)に眠る大隈重信侯である。侯は天保八年、丁酉の歳十月の出生であるから、先生よりも十八歳の年長で、大正十一年七月、八十五歳をもって易簀した。すなはち下田先生よりも、二歳の長壽を保たれた人であるが、御兩所とも老年まで、〇〇として意氣壯者を凌ぎ、共に九十歳、或いは百歳以上の高壽を保つかに見えてゐた。

面してこの兩偉人が、同じように博識であり宏辯であり、晩年は專ら一つ育英の事に盡した。他者に對して門戸を閉ざさず、何人を相手としても諄々と道を説き、しかも任俠であって世話好きで、常に明るい、華やかな日常生活に終始した。言葉をくだいていはうならば、じめじめした事が大嫌ひであって、とかく、陽氣なこと、賑やかなことがお好きであった。さうして最後まで、新時代の思潮に敏感であり、加ふるに生來の勉強好き、學問好きで、勉倦むことを知らなかった。

下田先生が帝都の西南、澁谷の常磐松に、巍然たる女學の一大聖殿を築き、一萬數千の卒業生、四千の在校生を得て、それ等敎へ子の崇敬の的となれば、大隈侯はまた都の西北、早稲田の森に、一萬の學徒を擁して風雲の去來を窺ひ、その學園の頭目と仰がれる一方、たまたま出でては首相の印綬をも佩び、大正初期の國政を補佐し奉ったこともある。ただ、侯が殆どその生涯を政治家として終始されたに對し、下田先生が、多大の政治家的手腕を備へながらも、後年全くその〇芒を包み、謹〇重厚、あく迄も敎育家としての晩節を完うされた點を異れりとすべきである。』※もう一人は渋沢栄一氏

第二節 知行合一

『かくの如き天の成せる毅然たる禀質は、次第に先生の人格玉成させ、また少女時代、靑年時代の病弱よりして見事に蟬脱し、四十歳前後よりあの健康體となられ、遂には、いかに奮闘されても平然として、なほ疲勞を知らざる人となった。ここに一つ、面白いのはその奮闘時代の先生の健啖ぶりで、それは三度の食事にも側近の者が、しばしば膽を潰すほどであったといふ。食事の嗜好は一體に頗る無頓着の方で、その點臺所を承る侍女たちは大いに助かった。先生は日頃、食膳に供へられた物を凡て悦んで食べられたし、總じて甘い物がお好きであって、麥茶に玉垂(菓子の一種)さへ用意すれば、決して苦情をいはれたことがなかった。ただ生來、枝豆といふ變った好物が別にある。

この朝夕の食事に關して、先生に、傳ふべき一條の美談がある。先生は、久しい以前よりして食事の終る度毎に、最後の一口を必ずお茶漬になさる習慣があった。そしてその濡れた最後の一粒を、茶碗の緣へ箸で上げて、それから一つ御辭儀をして召上がるのが常である。これが如何に多忙な際でも、また病床にあられた折りでも、殊に晩年、病んで右手の故障を告げられる頃に至っても、日々、忘れられたことがない。そこでさる日、側近の者が、それとなく右の理由をうかがってみた。先生の答へが、かうである。

「子供の頃、祖母が自分に、粒々皆之幸苦の句を話され、食事をする毎に、無事に御飯の頂けることを、口の中でよいから有難うございましたといはねばいけないと敎へられた。それが習慣になって、今も缺かすことが出来ない」云々。先生の祖母貞子刀自は、思へば明治十七年、甲申の歳六月、同じく八十九歳の長壽をもって逝かれた方であるが、先生は、その敬愛する亡き祖母君の訓戒を、みづから齡八旬を越して、なほ一日として忘れることがなかったのである。

また先生が、別にこの食事について、いかに無頓着で、無造作であられたかを語る實話として、ここにかういう微笑ましい話柄もある。曾て二十餘年前、先生の一行三名が、特に招かれて九州地方一圓に講演行脚をされたとき、熊本に在住する一敎へ子が、その新婚のつつましい小家庭に、師の君と久にして相逢ふ懐かしさに、推して先生の御立寄りを乞うたことがある。行く先々の一流旅館で、懸の高官や新聞記者連に取り巻かれるのが常であった先生が、その日にその小家庭に於いて、ただ梅干に柔らかい御飯を頂いて、ああ、極樂のやうだと滿足して居られる心易さには、當年の敎へ子がただ有難さ勿體なさに、ひたすら感涙にむせぶばかりであったといふ。

かくの如く、簡素を尊び煩雜を嫌ひ、みづから斷じて門戸、邊幅を飾らざるは、蓋し全く先生の天性に依るものであったらしい。大正十二年、〇亥の歳は先生すでに七十歳で、既記の如く從三位勳四等、愛國婦人會一百數十萬會員の代表者として、大震災の挺身的活動より、いよいよ名聲海内に高き身であられながら、その住み古された靑山六丁目の邸宅たるや、一體どの程度の門戸を張って居られたあらうか。實に、先生はその食に於いて、以上のやうに簡であったやうに、その住に於いても驚くべき素を示されつつ、なほ平然として、一言半句の不足も口にされない人であった。

當時の宅はすでに年古り、周圍には貧弱なる杉の矮木が並んでゐて、その杉木立との間を劃すべき板塀すらもなく、為に、近所の犬どもが欣んで、先生邸へと出入りして居った。家は無論平家建て、五六間の粗末ものであって、明らさまにいへば、當時やうやく五六十圓程度の借家であった。玄關の次が客間であるが、これがたまたま雨にでも遭ふと、屋根が腐朽してゐて盛んに洩れるのである。先生宅を訪れた人々に、降雨の日、その客間に、雨洩りを受けるための盥やバケツの類が、幾つともなく並んでゐる珍光景を目撃して、吃驚一番するのが常であった。

翌大正十三年、甲子の歳に至って、やうやう先生は周圍の懇望を容れ、その隣地を借用して、勿論大きからぬ家を新築された。かくして先生は、七十一歳にして、初めて自己の所有になる家に住む身となられたのである。寡慾は實に、下田先生の天稟であった。かかる先生ゆゑに、昭和九年、甲戌の歳七月、しばしばその右上肢腫張が激しき疼痛を伴ふに及んで、意を決し、然るべき方面の手續を履まれて、正規の遺言書を作製された。先生は先生一代をもって、斷乎、下田家を絶家されることを遺言したのである。地上の財貨の如き、先生にとっては正に浮雲のそれに等しかったのであらう。

傳してここに至って、是非とも再びまた筆を洗って特筆せねばならないのが、先生八十餘年の長き生涯を回顧して、つねにわれわれの胸を打たずにはをかぬ二つの大思念、大精神の具現である。まづその第一を、先生の平常不斷、寸刻と雖も變ずるところのなかった「敬神」の大精神とする。若くして、幾多苦難の關頭にも立たれた先生は、或るときは佛門に、また進んではそのうちの禪門に、心していはゆる安心立命の絶對境を把握されんものと、一方ならぬ内省熾烈の精神苦を經驗されたものであった。

もとより、先生の敎養の一部をなす國學のうちに、直接の系統こそ引いては居らなかったにせよ、かの選ばれて平田篤胤翁の養子となり、明治の初年、特に參與に任ぜられ、宮中にあって侍講をも拝命、その十二年、己卯の歳六月、八十二歳をもって歿した平田鐵胤翁一派の思想が、多少の影響を及ぼさなかった筈はない。およそ、我が下田先生ほど、敬神崇佛の實を、身をもって示現せられた人は蓋し少なかったであらう。實踐學園の校長室には、つねに大神宮が奉祀されてあって、先生は登校、退校ともに、未だ曾て恭しくこれに合掌禮拝されざることがなかった。

人はしばしば、先生のこの深き恭敬謹行に、胸打たれ鞭打たれたものである。朝はまづ、必ず淸水をもって手を淨められ、伊勢大神宮、宮城、明治神宮を遙拝され、續いて兩親の御靈に御挨拶される。歸宅された際も、また同樣である。いかなる旅行途次とても、敬虔なるこれ等の拝禮を缺かされたことはない。みづから「虎の子」と仰せあって、天しろし召す大神宮の貴き護符を、紙入のまま押し戴いて御拝になる。從って、神社にまれ佛閣にまれ、宮城、御殿の御前を通行される際には、たとへ自動車を走らせて居られる時であっても、必ず膝を正して敬虔なる御拝をされるのであった。』

第六節 遺芳萬古

もとより先生は寡孤獨の人、一度嫁して幾ばくもなくその良人を失ひ、寡を守って生涯を君國に捧げられた。先生逝いて、その剰すところの財たるや、現金としては、第一銀行靑山支店の特別當座預金が僅々貮百數十圓に過ぎなかったといふし、また先生ほどの盛名を擁してゐて、その日夕を送り暮らす居宅たるや、實に大正十三年、甲子の歳、七十一歳にして、しかも周圍の〇〇もだしがたく、初めて「自分の家」に住まはれる身になられた次第であったといふ。ましてや先生はその遺言に於いて、斷乎、下田家を自分一代限り、絶家とすることをもってされた。人ここに至れば、まさしくもはや常人ではない。人間以上の存在であり、神である。

先生の歩まれた道は、夙くより學問敎育であって、殊に我が國の一般婦人の指導者たるの途を選ばれたのであるから、もとより非常の國難に直面して、戰陣の間に死生を堵するが如き、男子の行動とはその成り立ちを異にする。が、しかし先生の精神に於いては、その氣魄に於いては、確かに男子のそれをすら凌いでゐた。先生は常に、その高著「日本の女性」の中に擧げられたる、日本古今の賢女烈婦を典型とし、現代日本の子女をしてそれ等の敎君を、時代に應じて活現せしめんと意圖された。かくの如きは、ただ讀書講説をのみ事とする現下の女子敎育界に於いて、確かに、他の何人によっても企及され得ない、眞の人格敎育の大精神であったのである。』

下田歌子4

下田歌子先生傳
下田歌子先生傳

編輯発行:故下田校長先生傳記編纂所(代表:藤村善吉)

出版:1943年10月8日(非売品)

目次は”下田歌子2”を参照ください。

第八章 所謂永田町時代

第三節 寒松垂柳

あまねく歐米の女子敎育狀況を、活眼をもって視察してきた先生は、わが國上流子女の敎育に、いかに「體育」が必要であるかを痛感して、歸來直ちに全學校職員に計り、體操科の大演習ともいふべき「運動會」の開催に努力した。本來華族の子女に、わけても「體育」の缺くべからざる所以は、かねてより知られて居たので、華族女學校でも明治二十年九月以降、努めて普通體操を課してきたが、先生はそれ以上更にこの運動會を、春秋二回にわたって興行し、もって全生徒の體育熱に拍車を加へられたのであった。

運動会に於ける薙刀
運動会に於ける薙刀

画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」

第十一章 志那留學生の教育

第四節 炯眼

『この人物[邊見勇彦:「若い頃まことに、手に負へない亂暴者だった私が、六十餘歳の今日、なほアジア民族の大同團結の為に心を致し、微力を盡してゐることは、全く曾って下田歌子先生に御面接の機會を得、先生に依って、自分の進むべき道を敎示されたからこそである。その當時を思ひ、先生が夙くより、支那問題に深き關心を持たれ、支那の過去、現在及び未來に對する、周到なる見解と抱負とに想到すれば、私などはただ驚嘆これ久しうするほかはない」]のこの追懐談は、次第にこの邊から面白さを増してゆく。「女それ何するものぞ」と、若い豪傑が心に澁りながらも、實姉と義姉とにすすめられてやむを得ず、麹町永田町の華族女學校官舎に下田先生を訪ねると、先生は例の「被布のやうな物」を召して居られて、お會ひになるといきなり漢文口調で「成る程、お見受けするところ、邊見郎太大人のわすれがたみだけあって、容貌、骨格ともに、偉丈夫の相をして居られる。私はこれでも敎育家であるから、何もかも知ってゐる」と、まづ靑年の度膽を抜いて終はれた。

現在の日本の敎育といふものは、人間を、みな一つの鑄型に嵌めようとする。だからあなたのやうな豪傑が、日本の學校では落第したり、暴れたりして、所を得ずに居る。これは取りも直さず、日本の敎育制度の誤りである。一つ日本を諦めて、支那へ行く氣はないか。今は誰も支那を問題にしてゐないが、自分の考へを正直にいへば、日本の興亡といふものは、結局は對支問題を如何に處理してゆくかに在ると思ふ。日本と支那の有樣をこの儘にして置くと、恐るべき結果に陷る。まづ具體的な第一着手としては、彼我新提携の前提として、お互いの人情、風俗、制度、文物をはっきりと認識しなければならぬ。その第一歩としては、まづ彼我の言葉が通じなければならぬ。支那の留學生はだいぶ來てゐるが、支那にゆく日本人の留学生は實に少い。日本の為に、率先して支那に渡って見る氣はないか」と、先生は重ねて喝破されるのであった。

下田先生の一面たる、警抜なる感化力、指導力に眼のあたり接して、根本から更生の途を見出したこの野心勃々たる一靑年は、間もなく上海に渡って、その最も繁華な四萬路に、堂々たる三階建の家を借りて、まづ作新社と稱する出版商社を與し、第一に「支那の靑年層に新知識を普及」せしむる目的をもって、雜誌「大陸」を月刊し、更に日本の政治、經濟書を支那文に翻譯して、盛んにこれを頒布した。』

第十二章 途上十年

第二節 思ひ出の官舎

『事實に於いて、謂ふところの「永田町時代」後半の下田先生は、華族女學校の學監兼敎授として、その聲望は実に一世を壓してゐた。或る意味より考へて、その時代の「反射鏡」ともいひ得る當時の新聞、雜誌の類をいちいち調べてみれば、明治三十七、八年、すなはち日露戰争前後に於ける下田先生の言動もしくは進退が、いかにしばしば、それ等の紙上を賑はしてゐたかに一驚する。試みに、どのやうな按排に先生への風當が強かったか、ここに、眼についたままの實例二三を拾って見よう。』

『その三、これは明治四十一年三月十二日附きの「東京日日」新聞に、「日本一の月給取は下田女史、それでゐて借金澤山」と題し、どこで調べたものか學校、出張敎授、著述の印税、執筆料などを仔細に調べ、先生の年收を七千五百圓と見、第二位にその半分にも足りぬ、年收三千圓前後の音樂家、幸田延子女史を置いた興味本位の記事が出た。先生が、その永田町時代、少なからぬ收入があったにかかはらず、實踐學園の經営、雜誌「日本婦人」の發刊、各種公共團體への喜捨金などで、相當の借財に悩んだことは事實であるが、かく如く喬木なればこそ、正當に働いて報酬を得ても、また、涙を呑んで他から資金の融通を仰いだことに對しても、それが世間の注目に惹いて、忽ち新聞の紙面を飾るに役立つのだから、まことに是非もなき次第であった。

下田先生がつねづねいって居られた言葉に、「自分は生まれつき、政治が嫌ひな方ではない。だから今でも、間違って敎育方面に走って來たやうに、自分を考へることも度々ある。しかし自分の性格は、おそらく政治家には向かないであらう。政治の道に志すのに、自分は第一の資格を缺いてゐる。それは自分が情に脆いといふことだ。困るから助けてくれといって泣きつかれると、自分は自分の立場も體面も忘れて同情してしまふ。かう人情脆くては、所詮政治家は駄目である」といふのがある。』

第四節 描かれし素像

[古い女の完成を (下田歌子女史訪問記) 磯村春子]

『下田先生の人格と、その説く所に就いては、己に世に定評があるから、今更こと新しく「今の女」として紹介するには當るまいが、女史の卓越した見識と、確固たる意見より發せらるる所説は、今の女、後の女の範としてとるべきものが多いと信じ、敢へてここに紹介する事にした。その日、先生は白襟に黑羽二重、三つ紋の被布を着て、こころよく記者を迎へ、相變らず何の隔てなく所信の程を語られる。

私は日課と致しまして、朝早く起きてすぐ冷水摩擦をやり、今日迄病氣のほかは一日もこれを缺かしません。それから天氣がよい朝などは、運動の為に少し散歩をするか、畑を掘り、土を反して草花や野菜の培養を致します。一週に二度は、宮樣の御殿へ伺侯しますので、その日は特に早く起きて、まづ身を浄めます。

伺侯の時間は午前八時から、晝頃までになってゐますので、御殿を下りまして宅に歸り、それから晝の食事を濟して、下澁谷の實踐女學校へ參、歸宅するのは大抵日暮れ頃ですし、歸宅しても學校の職員や、他の訪問客のお約束がありますから、自分だけの時間といふものは殆ど御座いません。

特に私の嗜好と申して、別段これぞと云ふものもありませんが、まづ幼少の頃から、これだけは長い、長い間の習慣となってゐる讀書でせう。近頃は殊に時世の變遷を知る為に、つとめて澤山の新刊書を讀むことにしてゐます。本は、幾ら澤山、また短い時間に早く讀んでも、いまだ曾って頭が疲れたなどといふことはありません。習慣の力といふものは、自分ながら大きなものだと存じます。

私の敎育方針は、やはり現在の國情もよく參酌しては觀ますけれど、古い明治の眞精神を繼續して、しっかりと大地を踏みしめた、着實質實な方針で進んでゆきたいと思ひます。私は今日の女性めいめいが、何でもいいから自分で働くこと、働かねばならぬと信ずること、さういふ頭の生徒を作ってゆくことを、まづ第一の急務だと思ひます。

さうでなくて、徒らに西洋の派手な風俗や思想にかぶれ、輕佻浮華に流れて、自ら働くことを嫌ひ、懐手をしながら樂な生活をしようと心がける現代の女性の将來は、いったいどうなってゆくでせう。借りものの西洋思想ほど、この世に危險なものはないではありませんか。西洋人は、いささかあちらを歩いて存じて居りますが、科學者でも醫者でも、或ひは法律家でもまた統計學といふ方面でも、ちゃんと男子に劣らぬ位にまで進歩、發達してゐる婦人が多いのです。

けれども日本はどうでせう。當然女子の事業たるべき方面にまで、なほ男子の手を借りなくては事が運ばないのに、ただ新しく、ただ奇を狙って進んで行って、いったいどう締めくくりがつくでせうか。何も好んで男子の職業の範圍にまで突貫して行かなくても、女子が女子らしい本當の仕事、たとえば裁縫、刺繍、料理などの方面で、まづ斷然男子に厄介にならなくても濟むやうに、女子の實力を養ってから上のことにしてはどうでせうか。

私は、だから目下の急務として、所謂「新しい女」を完全なものに作りあげるのが、本當の敎育だと信じます。過渡時代の現象として、一面やむ得ないことかも知れませんが、私は新しい女とか、新眞婦人とか自ら名乘る人々が、もう少し堅實な思想を持って、自重して、もっと足許をよく御覧になって、日本の本當の婦人らしい言動を執られんことを、此際こころから希望してやみません。』

[第一流の價値充分 (現代名士の演説ぶり) 小野田翠雨]

『下田女史の演説は確かに巧い。第一流の價値は充分ある。辯舌が如何にも流暢で、抑揚があり、波瀾もあり、興趣もあって、態度、身振も堂に入ってゐる。ただし、所説があまり佳境に進むと、餘に熱心が過ぐる結果か、身振が餘に激しくなって、心ある冷静な第三者には、いささか空々しさを感じさせるやうな懸念がないでもない。

女史の演壇に立った風采は、それはそれは見事なものである。頭髪はいはゆる下田式の束髪で、一體にそれ上の方へあげて結び、廂も髷も大きく出してゐるのだから、頗る聴衆の眼を惹きやすい。しかも服装はと云へば、これも大抵の場合下田式の被布に、黑または紫紺鹽瀨の袴をつけ、澁く、質素に見えながら、その實なかなか地味でない。どことなく濃艶で、ぱっと派手やかな所があり、遠目でみると〇〇〇〇、たしかに十二三歳は若く見える。

女史の演説にも、一つの大きな癖がある。それはしばしば右の手で、例の下田式の束髪を氣にして、無心な調子で撫でつけることだが、これがまた何とも云へぬ愛嬌とも受け取れる。それから言葉としての特色は、「そしてですねぇ」と、この「ねえ」を長く引っぱる癖である。更に演説中、よく出る言葉に、「私の如き學問のない」とか「私如きが敎育家の末席に列しまして」とか、自分を極端に卑下してかかる點で、これは確に聴衆に大きな感動と好意を抱かしめる、何でもない事のやうで、なかなか賢明な方法である。

實踐女學校内に、女子特設の「源氏物語」の講座があるといふが、これは内容も徹底し、造詣もふかく、態度、辯舌も爽かで、大した評判の名講義だと聞くが、女史の國文學は當代でも一流だから、定めし大評判通りの名講演であるに相違ない。女史自身が多分に涙もろい女性らしいから、女學校の卒業式の告別演説などでは、よく聲涙ともにくだる名演説をして、滿堂ただ噓〇流〇のるつぼと化し去るのが常であるといふ。女史は演壇で、女史自身がまづ興奮し、感激するのだから、聴衆が自然と興奮し、感激するのも元より無理はない。』

第十四章 愛國婦人會々長時代

第七節 輝く成果

『續いては先生、年來の宿題の一つたる愛國夜間女學校の開校がある。これは越えて大正十三年、甲子の歳三月二十三日をもって、芽出度く開校の運びとなり、勿論先生はその校長に就任されたのであるが、それは夜間と雖も立派に、修行年限三ヶ年、高等女學校の程度に準ずる本科と、別に裁縫、家事に重きを置く一ヶ年修了の簡易科を附設した。

曾て帝國婦人協會創設のり以來、資なくしてなほ向學の精神に燃ゆる、健氣なる後進女性のために、夜間の女學校を開設することは、實に先生の永き宿望の一つであった。それが、いま端なくも内外の要望に從って、頗る自然に、開設實施の期を見るに至ったのは、實にその前年の九月、突如として襲ひかかった前古未曾有の大震災の故である。

第十六章 哀哭記

第五節 告別祭

昭和十一年十月十三日、つひに一世の偉人を送って、その遺骸に永遠の別れを告ぐべき儀式の日とはなった。夜來の雨、一同の悲しみを知りて竟に降りやまず、午前九時、昨夜より徹宵準備せし講堂に、まづ靈柩を貴賓室より移しまつる。棺側奉仕の敎職員の手もて、やがて靈柩は講堂正面、壇上の靈與に奉安せられ、その前には、黑リボンにて飾れる在りし日の溫容、慈顔、微笑さへ含ませらるる先生の大寫眞を掲げ、恰もそれが護るが如く、勳四等實冠章と、勳三等瑞實章とが、不滅の功績を語りつつ、燦として輝きを放ってゐた。

仰げば壇上左右には、畏きあたりより賜はりし祭資料の御目綠をはじめ奉り、皇太后宮、三笠宮、閑院宮、東伏見宮、伏見宮、山階宮、賀陽宮、久邇宮、梨本宮、東久邇宮、北白川宮、竹田宮、昌德宮、李鍵公妃並びに宮家より御降嫁の立花美年子、佐野禮子、東園佐和子各令夫人より供進せられたる御玉串料、御榊、御菓子、御鏡餅等の供物、まことに所狭きまでに山積せられ、更に壇下左右の兩側には、朝野各方面より供へられし眞榊、花輪、生花などの類數知れず、しかもそれはいづれもその極く一小部分であって、大方は搬入の餘地もなく、やむなく一、二階の廊下、記念館、新築中の校舎等にまで、充ち溢れてゐた。

ここにもまた先生生前の功績と德行との偉大さが偲ばれ、新たなる哀惜の涙を誘ふものがあったが、何分にも會場の收容力には限りがあり、參列生徒にも、また涙を呑んでその數に制限を加へねばならなかった。すなわち三校生徒代表、櫻同窓會員代表を約百五十名、幼稚園代表二名、それに、故先生が曾て校長たりし關係よりして、順心高等女學校より九十名、愛國夜間女學校、明德高等女學校、淡海高等女學校よりの代表若干を加へしのみ、他は各自敎室に於いて遙拝、黙禱せしむることとしたのであったが、すでにこれのみにて、さしも實踐學園の誇る大講堂も、今は全く立錐の餘地すら見ざる有樣であった。

かくて午前十一同着席、齋主、祭官四名、伶人五名まづ着床、いとも嚴かに告別の祭典は開始さる。齋主は前掲の如く出雲大社副管長、千家尊弘氏である。一同起立修祓を受け、伶人の奏する〇〇たる樂の音のうちに、齋主以下祭官列拝、奉幣ののち海山種々の○物献じ、つづいて一同起立のうちに、左の如き齋主の告別祭詞奏上さる。一句また一句、朗々と誦される祭詞の中からも、故先生八十三歳の輝ける生涯の德功が、いよいよ高く偲ばれて、今更ながら痛惜の情をそそるもの大であった。』

告別式
告別式

画像出展:「下田歌子先生傳」

告別式
告別式

画像出展:「下田歌子先生傳」

下田歌子3

下田歌子先生傳
下田歌子先生傳

編輯発行:故下田校長先生傳記編纂所(代表:藤村善吉)

出版:1943年10月8日(非売品)

目次は”下田歌子2”を参照ください。

前回同様、当時の雰囲気をお伝えするため、できる限り本書で使われている漢字を用いています。

第六節 鍊武

【下田歌子先生談】『私は十二三歳からは可なり大きくもなり、從って丈夫にもなりましたが、七八歳までは小さくて、からだも弱く痩せてゐたのです。たしか九ツの時であったと覚えてゐますが、武藝を習わせて下さいと、度々願ひますけれども、からだが弱く、あまり小さいから駄目だと云って許してくれませんでしたが、あまりに熱心に申しますので、母から薙刀習ふことになりました。所が果してあまり小さくて薙刀が持てませぬ。特別に小さい薙刀を造っ貰ひましたが、それでもまだ持てませぬ。

之を見ました父は、それほどに習ひたいのなら、元來私は學問ばかりして、武藝の方は駄目だが、お前に型を教へる位のことは出來るだろうから運動旁々、小太刀を敎へてやらうと申し、それからは父から小太刀の型を敎はりました。そこで多少ながら武藝の手ほどきも出來ましたので、今度は遠緣に當る親戚に、六十歳以上になって隱居をし、發句などを作って樂んでゐる老人がゐましたので、或時この老人に柔道の型を敎へて下さいと申しました。

「成程女でも、柔道の型を知ってゐるのは宜いことですから、御兩親の御許しがあれば敎へて上げてもよい」と、申しました。兩親も存外たやすく許してくれましたので、逆手本手段取りとだんだん進んで、一年半位は續けました。元より武藝を習ったといふほどの立派なことではありませぬが、おさなき日のこのすさびは、先ず武藝の心得がある位の役は致しまして、物に動じない沈着だけは體得したやうに思ひます。

薙刀
薙刀

画像出展:「順心高等女学校 第二回卒業記念」

第四章 宮中奉仕

第一節 雲の上に

明治五年、壬申の歳十月十九日といふ日は、下田歌子先生の一生にとって、實に重大な記念すべき日であった。先生後半の事業の一切が、悉くこの宮中奉仕の日を發足點として築かれたものである。宮内省十五等出仕といふのが、この日先生に授けられた最初の辞令であるが、一家の人々は皆双眼に涙を湛へて、この無上の光榮を喜び合った。

無理もない。平尾家の人々といへば祖父の琴臺翁も父の鍒藏も十八年、十年、只管幕府が倒れて天皇親政の聖代が實現せらるることを唯一の希望として、流〇、幽閉の難苦多き歳月を閲して來た。しかも今や妙齡十九歳、花の如く、玉の如く美しく且つ賢く育った孫娘が、初めて畏き邊りより召され、往時は會て夢にだも思はなかった堂上○紳の貴嬪令嬢と伍して、九重雲深きところに奉仕する身とはなった。嗚呼この光榮、この歡喜、私共は實にこれを表現すべき言葉を知らないのである。』

第三節 婦德

『もう一つ、これは先生の宮中生活と、直接関係はないが、祖母貞子刀自の先見の明を語る、愉快な思ひ出話が、下田先生御自身の口を通して語られてゐる。

曰く「私は子供の時分から、自分で考へてもたしかに男まさりの性格であったらしい。妙齡といふ年頃になっても、とかく綺麗な、ぴかぴか光る着物を着るのが大嫌ひであった。それは活潑に身を動かすことが出來ない上に、汚すと叱られるのがうるさいからである。

そこで或る時祖母が、私に向かってかういひ出した。[人間の福分といふものは、天の定命と同じであって、若い時に濫りに勿體ない消費などをすると、必ずその人間の福分が若いうちに通り越して終ふ。そこへゆくとお前は、少し人間が變ってゐる。つまりお前がいま、綺麗なものを着たくないといふのは、どうも意地や外聞から出た言葉ではないらしい。しかしお前は、着るべき時に着ないのだから、それだけ福分があとに残ってゐることになる。今に見なさい、着物の方から反對に、どうか是非是非これを着て下さいと、頭を下げて賴んできて、どうにも良い着物を着ずには居られなくなる時がくる]云々。

果たして祖母のいふことに間違ひはなかった。私はのち宮中へ御奉仕する身となって、幸ひにも 昭憲皇太后樣から澤山の御下賜品を頂戴して、殆ど着つくすことの出來ない程の衣類を、所持する仕合せにめぐり合った。なにも身分不相應の綺麗なものを着たからといって、その女性の美しさが輝き出す筈のものではない。素質的に美しく生まれついた者ほど、質素ななりをする。それがまた一段と、その女性に奥床しさを添へる。つまり誇りもせず、見得も張らずに、ひとり香り高く咲いてゐる深山の山百合、日本の女性には、なんとしてもこの深山の山百合の心意氣が欲しいと思う」。』

第五章 桃夭女塾前後

第二節 結婚

下田猛雄氏は伊豫の丸龜、京極氏五萬石の藩士であって、また無双の靑年劍客として鳴ってゐた。その刀技の流派を民谷流といふ。島村勇雄門下の高弟であって、やや少軀ながら大膽、慧敏、常に二尺八寸あまりの無外の大刀を横たへてゐたところから、當時の劍士たちはみな「無外の猛雄」と呼んで、その勁烈な刀法に怖れをなしてゐた。麻布の長坂に道場を開いて、一時は數十名の門弟を養ってゐたが、當時の靑年劍客で、名聲高い人々がみな選んだやうに、市内各方面の警察署に出張して、いまの警官、當時の卒諸氏に、得意の劍法を敎へてゐた。

なにもかも、實力がどんどん物をいった時代である。現在ではさういふわけにも行くまいが、明治十年前後の〇卒諸氏中には、なかなかの傑物がゐた。後年内務大臣までつとめた、子爵大浦兼武氏などもその出身である。ただ下田氏は性來の豪放、落な武士氣質から、あくまでも名刺に淡であって、政治方面に少しも興味を抱かなかったから、極く少數の人々を除いて、殆どこの仁の秀でた劍法、男らしい人となりを知る者がない。』 

『下田猛雄氏と、先生の父上平尾鍒藏氏とは、決して維新以後上京してからの、淺い知友關係ではなかった。が、平尾のお父様が下谷の警察署で、多くの警吏諸氏に「論語」を講じてゐた時、また、下田氏も同じ警察署で、同じ警吏諸氏に「劍技」を敎へることになった偶然の〇〇が、この兩人の交情を再び急速度に暖める結果となり、それが直接の縁故となって、やがて良媒を得て、先生が下田猛雄夫人となるに至ったのは事實である。

こうして勿論、先生は下田氏から求婚され、武士仲間であるところの父君の意が、まづ第一番に動いて終はれたらしく、退官されると間もなく一家庭の主婦となった。才藻比類のない先生としては、定めしこの結婚といふ方面の事に關しても、他に何等かの希望も意向もあったであらうけど、あくまでも日本の婦道の中に育ち、家と父とに重點を置いて生き拔かうとする、日本の女性であった先生は、昨日までの華やかな境遇を一切投げ捨てるつもりで、ここに一靑年劍客の夫人となられたものであったらう。

第三節 沈潜

『どの方面から考へても、この下田歌子先生の結婚は、正直にいへば無理な結婚であった。曾ってさる評家が思ひ切った語彙を驅した如く、全くの「悲劇の結婚」といへたかも知れない。かりそめにも先生が、この時以後まる四ヶ年半、誠心誠意をもって侍づかれた夫君に對して、福を失した言葉を呈上することは避けねばならないが、「無理な結婚」と思はれる第一の理由が、すでに下田猛雄氏はこの時より二年前の秋頃よりして、激しい胃病を患ふ常住病臥の人だった點である。

第五節 おもかげ

[その頃の下田先生 本野久子]

『横濱の小學校を卒へて、東京に歸ってた私は、父の意見により、まづ下田先生の塾に、お世話になりました。明治十二、三年の頃で、當時はまだ私共に通學できる女學校といふやうなものはなく、父もこの問題でずゐ分頭を惱ましたやうですが、廣い東京に、ともかく下田歌子先生のと、跡見花蹊先生のお宅しか、女塾といふものが無かったのでございます。

私が始めて下田先生にお眼にかかりましたのは、恰度一番町のお宅時代で、正式に「桃夭女塾」が創立される前でした。ですからなるほど、いつも私などが、下田先生の一番最初のお弟子だといはれるのも、全く無理はありません。その頃はまだ女塾と名乘らなかっただけに、お嬢さんがたは割合少く、いつもお見えになる御弟子といへば、伊藤公爵夫人、山縣公爵夫人、田中(光顯)子爵夫人、そのほか大臣方の奥樣たちでした。

まづ眼目のお講義は源氏物語で、次が和歌のお直し。少さいお嬢さんがたには徒然草、古今集のお講義、その他をりをり四書、五經のお話などがあって、また別に他から先生がいらしって、お琴のお稽古などもございました。間もなく「桃夭女塾」となってからは、これがだいぶ組織的になって、學課も國文、漢學、修身、お習字といふ風に規定されましたけれど、理科などはなく、下田先生を中心とした、それはそれは和やかな氣持のいい集團でございました。

先生がああいふお方でしたから、塾生の誰もが最も力を入れたのは、その當時からすでに天下一品の面影があった源氏物語のお講義と、和歌のお題を頂いて作ることの二つでしたらう。和歌の宿題がよく出來ますと、先生のあの無類の達筆で、そのうちの秀歌を短冊に書いて下さいます。

私共はそれをお手本に、お習字をするのですから、まるで自分の歌を先生のお手本通りに、一つ一つ完全なものにしてゆくやうな氣持で、これが非常な励みになりました。

また、先生のお父様が、漢詩の作り方を敎へて下すったやうにも記憶して居ります。そして塾生のお世話は、一切先生のお母樣がして下さいました。房子樣とおっしゃるこの御母堂は、明るい、ご親切な方で、まことによく私共の面倒を見て下さいました。かうして先生の許に、最初のお嬢さんの愛弟子として、後藤梢さん(象次郎伯令嬢)黑川千春さん(黑川中将令嬢)荒波岩子さん、辻村靖子さん達が數へられて行ったのでございます。(談話筆記)』

第六節 時代の迹

さて、「桃夭女塾」も誕生して三年目、明治十七年、申申の春が明けた。この年は下田歌子先生個人にとって、甚だ悼むべき二つの不幸を見た年であった。

すなはちその五月二十三日に、享年三十七歳をもって夫君猛雄氏が亡くなられたのについで、その六月十七日に、八十九歳の高齡をもって、祖母君の死は、先生にとって限りなく悲しかった。またまる四年間、心からの介抱のしるしもなく、つひに夫君と仰ぐその人の永別したのも傷ましかった。

が、本傳の編纂者は、すでにこのお方に對しては、傳ふべきを傳へ、記すできを記し終ったと信ずるから、ここに下田先生が、漸くその生涯を貫く大事業に着手された、最も重要なる一時期と思はれる「桃夭女塾前後」の章を終るに際して、同じ明治十七年の二月、たまたま伊藤博文公(當時伯爵)の紹介で、この桃夭女塾に身を寄せ、熟生には本場のちゃきちゃきの英語を敎へ、また下田先生からは直接國文學の手ほどきを受けた一女敎師について語り、併せて、明治草創時代の日本女子敎育界の一風潮に關する、興味多き一瞥を與へたいと思ふ。すなわち、津田梅子女史である。』

第六章 華族女學校四谷時代

第四節 熱意と努力

『燃えるやうな熱意と努力とをもって、下田歌子先生の新しい事業への精進が始まった。蛟龍が、今やまさに時を得、待ちに待った天來の雲雨に際會したのである。或る人が、事業に沒頭し、專念するときの先生を稱して、まるで「馬車馬のやうな勤勉家である」といったが、形容の卑近さは取らないけれども、稱者の氣持はよく汲める。まさしくその通りで、一旦これと定めて仕事をやり始めたが最後、先生は側見をしない。左顧もしないし、右もしない。ただ眼中、めざす仕事の一本道をそのまま直視して爆進する。「人觸るれば人を斬り、馬觸るれば馬を斬る」といった氣骨が、女性にして、女性の事業に爆進する先生に在る。

華族女學校本館
華族女學校本館

画像出展:「下田歌子先生傳」

下田歌子2

下田先生は明治時代を代表する女子教育の第一人者であり、津田塾大学を創設された津田梅子先生の師匠のような時もありました。

そのような偉大な先生ですが、今回は歴史に残るような業績に注目するのではなく、どんな人柄だったのか、何を大切にしていた人だったのか、それらを知ることで下田先生の生き様や信念の源を知りたいと考えました。そして、そのような視点で傳記を拝読することにしました。

なお、あえて時代感を出したいと思い、可能な限り本書に出てくる漢字や言い回しを使っていますが、読み取れなかったり漢字が見つからなかったりした場合、やむを得ず〇と記しています。ご容赦ください。

下田歌子先生傳
下田歌子先生傳

編輯発行:故下田校長先生傳記編纂所(代表:藤村善吉)

出版:1943年10月8日(非売品)

晩年の下田歌子先生
晩年の下田歌子先生

画像出展:「下田歌子先生傳」

目次

序文

第一章 家系

 第一節 誕生

 第二節 系譜

 第三節 祖父東条琴臺

 第四節 祖母貞子

 第五節 父鍒藏

第二章 神童

 第一節 櫻田の一句

 第二節 五歳の歌

 第三節 志士の家

 第四節 才藻卓然

 第五節 菊花の賦

 第六節 鍊武

第三章 出關

 第一節 夜明け前

 第二節 東路の旅

 第三節 繪姿

 第四節 無言の訓戒

第四章 宮中奉仕

 第一節 雲の上に

 第二節 天寵

 第三節 婦德

 第四節 供奉の光榮

 第五節 楓の君

 第六節 聖德餘韻

 第七節 感泣記

第五章 桃夭女塾前後

 第一節 短き團欒

 第二節 結婚

 第三節 沈潜

 第四節 その第一歩

 第五節 おもかげ

 第六節 時代の迹

第六章 華族女學校四谷時代

 第一節 惠みの秋

 第二節 巨人の片影

 第三節 榮光

 第四節 熱意と努力

 第五節 四十四日の旅

 第六節 榮光の累到

第七章 渡歐

 第一節 遙けし波路

 第二節 忘れ得ぬ人

 第三節 雁信

 第四節 勝報頻々

 第五節 謁見

 第六節 いへづと

第八章 所謂永田町時代

 第一節 前官復職

 第二節 湯氣の玉

 第三節 寒松垂柳

 第四節 彌榮

 第五節 賦才

第九章 常宮周兩殿下の御教育

 第一節 御生誕

 第二節 献言

 第三節 初進講

 第四節 光榮の家

 第五節 陪遊記

第十章 實踐學園の發足

 第一節 新しき出發

 第二節 基礎

 第三節 時流超越

 第四節 庭の靑桐

 第五節 記念日

 第六節 遊説

第十一章 志那留學生の教育

 第一節 播かれし種子

 第二節 異邦の撫子

 第三節 人生浮沈

 第四節 炯眼

 第五節 母女重會

 第六節 風雲の一女性

第十二章 途上十年

 第一節 斷行

 第二節 思ひ出の官舎

 第三節 楠の葉蔭

 第四節 描かれし素像

 第五節 軍國婦人昂揚譜

第十三章 著作等身

 第一節 國文學の明珠

 第二節 文質彬々

 第三節 倦まざる垂訓

 第四節 日本の女性

 第五節 結婚要訣

 第六節 源氏物語講義

 第七節 不世出の通釋

第十四章 愛國婦人會々長時代

 第一節 奇蹟的誕生

 第二節 烈女發心

 第三節 直行無碍

 第四節 名門の偉材

 第五節 前進

 第六節 北馬南船

 第七節 輝く成果

 第八節 災禍即應

第十五章 實踐學園の興隆

 第一節 常磐の松陰

 第二節 師弟愛

 第三節 光榮の一途へ

 第四節 結實期

 第五節 生ける信仰

第十六章 哀哭記

 第一節 診療年誌

 第二節 仆れなむ敎壇に

 第三節 歸幽

 第四節 出棺式

 第五節 告別祭

 第六節 埋葬

第十七章 香雪餘薰

 第一節 時代の人

 第二節 知行合一

 第三節 二碑の建つ日

 第四節 歌日記二つ

 第五節 御仁慈

 第六節 遺芳萬古

下田歌子先生年譜

第二章 神童

第二節 五歳の歌

『なにしろ學事の盛んな藩中だったから、お正月の遊びといふと、まづ非常に流行したのがかるたである。先生の親戚朋友の間では、みなお手製のかるたを三四通りは持ってゐた。順々に古歌や古詩を選して、上の句下の句を記して置いて取るのである。如何にも初春らしい上品な遊びであると共に、これによって知らず知らずのうちに、古來有名な詩歌を覚え込んで、各自の情操を豊かにする手段ともなった。殊に先生の周圍數軒には「有志がるた」と名づけ、維新前に國事の爲に奔走した。志士たちの詩歌ばかりを集めた特別な一組があった。

勿論さうした特殊なかるただから、ごく内輪同志の間でだけ、内燈で讀んで内證で取る性質の内證で取る性質のものであった。このかるたの中には、すでに始まった幕政の壓迫で、空しく仆れた志士の作も多かったし、畏れながら、孝明天皇の御製「うたでやむものならなくにから衣いつまであだに日をかさぬらん」などという有難いお作に當ったりすると、みんなが申し合わせたやうに御拝をして、襟を正して取ったものである。中にはこの「有志がるた」を取ってゐるうちに、次第に憾極まってきて「いますぐ大御代に成し奉ります」といって、そのまま泣き出す淸年もあった。これを取り始めると、定家卿の小倉百人一首など、古臭くて憾銘が薄くて、誰も手にする者がなかった位である。

かうした樂しい、さうして意義ぶかい年中行事を、三歳、四歳と重ねてゆくうちに、いつか下田歌子先生の幼さい詩心をゆり動かしたものであらうか、五歳のときの元旦に、突然祖母の貞子刀自のお部屋のお部屋へ駈け込んで、「ああ、歌が出來ました」と先生が叫ばれた。祖母君も驚いて、どういふ歌が出來たかと笑ひながら聞かれると、勿論文字の書けない幼女のことだから、先生は口からすらすらと「元旦はどちら向いてもお芽出たい、赤いべべ着て晝(昼)も乳呑む」といはれたので、それが傳へ傳はって周圍一黨の快』

下田先生5、6歳の筆跡
下田先生5、6歳の筆跡

画像出展:「下田歌子先生傳」

第五節 菊花の賦

ともかくわが下田歌子先生は、八幡大菩薩の申し子といはれる程の、申分のない神童ではあったけれど、祖母君や母上にとっては、少しも眼の放せない娘御であったらしい。文久二年、壬戌の歳は先生九歳の年であったが、やはりかういふ挿話が残ってゐる。

前記の通り手當り次第に博讀した先生は、その頃同時に二冊の俗書を讀んだ。一冊は例の楠正成公の孫、駒姫の傳説を主題とした今でいふ大衆小説であって、駒姫が怨敵の足利氏を滅ぼそさうとして、戰勝の祈願をかけ、忍術を使って敵を攻めにゆくところがある。物語の立役者がお姫様だけに、これが先生に大いに氣に入った。

もとより荒唐無稽なつくり話には違ひないが、子供ごころにはまだ明確に、空想と現實との境界線がわからない。なんでも無闇に強い女性になって、早くお父上の冤を雪がうと考えてゐるのだから、空想も現實もあったものではない。

楠駒姫が、のちに隱遁の術を學び、水垢離をとり出した。が、それも四五日して母君に見つけられて、例の通りの告白後、大目玉の果ての厚い訓戒を頂戴した。

もう一つは、これも今でいふ大衆ものの一つの仇討譚で、主人公の若者が不倶戴天の父の仇を討つ爲に、武藝を勵む話の途中に、盥に水を汲み、その水面を右手でぱっと打つ。

その水が、初めはびしょびしょ飛んであたりを水だらけにするが、次第に技が冴えてくるにつれて、手でさっと水を切っても、盥の水は少しも飛び散らない、すっと二つに割れて上まで上ってくる。さうなればもうしめたもので、仇の首を打落すことなんか造作もない。

さうして若者は諸國を遍歴して、首尾よく仇にめぐり合ひ、一刀のもとに相手を斬仆して終ふ、といふやうなことが書いてある。

これはいい事を知ったと思って、先生みづから毎朝湯殿へ行って、盥に水を汲んで、まづ手始めに十遍ぐらゐぴしゃんぴしゃんやって見るが、忽ち湯殿の中は水だらけになって終ふ。物音をききつけて婆やがやってきて、驚いて留めるのだが、先生は到底開業多々で、思ひつめた事をおいそれと中止するやうなお嬢様ではない。

そこで婆やが、呆れて母君にと言上する。結局は訴へが祖母君、父上にまで達して、大笑はれに笑はれて、そんな夢みたやうな事が、どうして八つや九つの女の子に出來るものかと意見されて、この武勇談もまたその儘に立ち消えとなった。

安政四年、下田歌子先生が四歳にして、幽閉[藩内の勢力争い]の憂目を見た父君は、足かけ六年の日子が過ぎたが、いまだその禁が解けさうもなかった。さういふうちにも九月九日、重陽の節供が到來した。親ごころといふものは、有難いものである。昔通りの武家の慣ひとして、三度三度のお食事を漬物一點ばりで通すやうな、質素極まる苦しい生活の中からも、この日から小袖(綿入衣)を着る舊習通り、父鍒藏氏が特に下田先生の爲に、「九歳のお祝」として木綿紋附ながら紅掛花色に、菊と紅葉の裾模様をあしらった新らしい衣類を作って下すった。』

下田歌子1

下田歌子先生のことを書いたブログは全部で10個です。内容は何となく下田歌子研究のような雰囲気になっています。何はともあれ、己のマニアック度には感心します。

何故、下田先生に興味をもったのか、その理由は2つです。

昨年10月、102歳で他界した母は、昭和6年から10年までの5年間、順心高等女学校(現広尾学園)に通っていました。この5年間、校長先生は下田歌子先生でした。

母はその後、小学校教師になりましたが、その母から教育方針のような話をされた記憶は一度もありません。もっとも、「サッカーはほどほどにして、勉強しなさい」ということは、毎日のように言われていました。これは憧れの早稲田大学に入ってほしかったからだろうと思います。

本当に何もなかった可能性は多分に考えられるタイプのヒトなのですが、もしかしたら、無意志の中に下田先生の教えが潜んでいたのではないか?とも思いました。もし、そうだとすれば、下田先生の教えとはいかなるものなのか、知りたいと思いました。

とりあえず、下田歌子先生のことを調べてみると、なんと、命日が母親と同じ10月8日であることを知りました。

「えっ」、ちょっと不意打ちをくらったような感じです。ちなみに命日が同じ日になる確率は約0.27%です。単なる偶然とは思いつつ、何か意味があるのではないか、などという妄想が後押しとなり、「やっぱり、調べてみよう」ということになりました。

下田先生は多くの著書をお持ちですが、数多くの短歌も残されています。

なんとなく、ネットで検索したみたところ、早々に見つけたのが以下の作品でした。

下田先生、紀行文『香雪叢書 第一巻』に掲載。
下田先生、紀行文『香雪叢書 第一巻』に掲載。

詞書:「まひこが浜に遊びける時、鉄道線路にあたれるところどころ、大木のきり倒されたるをみて、こころにおもふことありて」

短歌:「みちのため倒るとならば媛こまつ もとより千代もねがはざるらむ」

:道(鉄道)のために倒れる(切り倒される)とわかっていたならば、この松も小さい媛小松のときから、千代に生きることを願わなかったでしょう。

すごく雰囲気があるなぁと思い、15万円近くしたのですがあまり悩むことなく買ってしまいました。

購入後、いくつか分からないことがあり、とりあえず、下田先生の出身地の恵那市に問い合わせたところ、ご担当の方がとても親切で、わざわざ、実践女子学園下田歌子記念女性総合研究所に問い合わせまでして頂いた結果、この作品は「香雪叢書 第一巻」に収納されているものであることが分かりました。

となると、今度はその本「香雪叢書 第一巻」が欲しくなり、幸い“日本の古本屋”に販売されていたことから、ほぼ必然的に買ってしまいました。

香雪叢書 第一巻
香雪叢書 第一巻

香雪叢書(紀行随筆よもぎむぐら)

編集者:栗原元吉

出版:1932年11月

発行:實踐女學校出版部(非売品)

 

購入した短歌は、香雪叢書の”四十四日の記”の中にありました。

下田歌子先生傳』によると、

明治21年(35歳)

五月、病後療養傍々、關西地方各地女學校視察旅行に上り、六月、二十年振りにて鄕里岩村を訪ふ。母刀自これ同伴さる。

と書かれており、”四十四日の記”は、この関西地方への旅行のことを指していました。

なお、ブログは当時の雰囲気を大切にしたいという思いから、できる限り古い漢字や言葉使いのままにしています。

大垣

・次の朝、小崎知事訪らひ来まして、昨日は大臣を一日待ち暮したるに存せず、今日二番の汽車にて、再び大垣迄ゆかんとす、いざ諸共にといはるるに、さらばと急ぎ装ぎきたちて、加納の停車場に至り着く。

・『此のあたり、櫻の古木、楓の若木など多し。樓に登れば、惠那山遥かに見ゆ。霞まぬ日は、名古屋の天主も見ゆとぞ。高き山の麓に噴火山めきて見ゆるは、小牧山なりと聞くに、徳川家康が、織田の遺孤を助けて、秀吉の膽をしも挫きけん昔思ひ出づるに、さまざまな思ふ事少なからず。暮れぬ程にとて瀧のほとりに行く。こは元正天皇の御宇、美濃の孝子が親の為に掬びつる泉、美酒になりたりと傳ふるは、誰も誰も知る事にて、今は養老酒というふ物さへ醸してひさぎ、此の國の名産の一つとはなりけり。

母君、今より卅餘年のむかし、汝を乳母に抱かせて、来りつる所ぞなど宣ふ。夢にだに覚えぬ事なれど、目の前にありし事の様に覚えて、あはれ淺からず。今も猶健やかにて、みともして来つる、いと嬉しきものから、父君は、齡も古希を越え給へば、長き旅路思ひたち給はんやうも無くて、一人残しとどめ參らせたれば、これのみと飽かず口惜しくぞ思ゆる。』

惠那山
惠那山

画像出展:「岐阜の旅ガイド

 

岩村城下町
岩村城下町

画像出展:「岐阜の旅ガイド

 

銀閣寺

『次の日は朝まだきより、例の友にしるべ請ひて、田中村なるふる人尋ねんとて行く。こは昔我が宮仕へに出で立ちける頃親しかりしなり。齡も傾きて幽かなるさまにてと聞く、いみじうあはれにて、ふりはへ訪らひつ。と許り語らひて畦道を廻り出つつ行く程、左の方の田の中に古松二本立つる所を玉垣したるは、二条天皇の御陵なりといへば、遥かに拝みいて、東山の銀閣寺にいたる。こは足利義政が驕奢に耽りたる頃、作りたる所なりと聞けど、最と狭くおろそかなるに、當時の人の住居思ひやらる。思へば、かかる開明の御代に生れて、草枕結ぶとわびけん旅寝に、綾の衣を被き、椎の葉に盛るといひけん客舎に珍味を食ふ。まことにかしこく添けなき事なりかし。さはいへど、庭園は數百年の星屑を經つれば、物さびて見所多し。ただ向月堂[今は向月台]銀砂淵[今は銀沙灘]などいふもの、白き砂を丸く高く、或は長く斜めになど盛りなしたる、風致なくて、今少し爲んやうもあらましとぞ覺えし。月松山の麓にてとひけん峯は、やがて軒端に聳えて、緑の色深う見えたる、げに影の匂はん程をかしかるべし。これにむかへる四疊半の茶屋は、數寄屋の始めなりとぞ。』

銀閣寺
銀閣寺

画像出展:「LIVE JAPAN

50年ほど前、私は中学校の修学旅行で希望をとった時、金閣寺ではなく銀閣寺を選んでいました。それは何故なのか、そもそも、そんなことを何故思い出し、何故気にするのか、この心の棘のような引っかかりは一体何なんだろうとずっと不思議に思っていたのですが、ひょっとすると、今回のこれが何か関係していたのでしょうか??

”完全無欠ではない霊支持者”になって以来、ちょっと怪しげです。 

神戸 

『すべてここは本邦五港の一つなる神戸の港なれば、軍艦、商船輻輳して、朝には英米の賓を送り、夕には露佛の客を迎へ、貿易の道もいちはやく開けて、其の居留地には何の商店、某の會社と云ふ札掲げたるも多く見えて、大路往きかふ人の歩みも、京都のゆるらかなりしに似ず、いそがの程に、さまざまの古跡もありしかど、歸さにもとて行き過ぐ。ここには井上伯も夫人と諸共に在せりと聞きしかば、先、其の旅館を訪ひたるに、伯は今がた外に出でられつ。夫人は昨夜いたくなやみ疲れて、今しもまどろまれたる所なりと云ふ。驚かし參らせんは心なきわざなれば、遙々来るぬ旅に、あはで歸らん事の最と本意なけれど、ゆめな告げそ、とおもと人制して、もと来し道へ戻る。なほ行かまほしき所々多かれど、

 「またや見ん高砂の浦明石潟月なき頃は行くかひもなし

今宵は暗夜にて、雨さへ降り出でぬべければなり。此のあたりの松原、砂の白き事、物にも似ず。ありつる眞砂路を淸らなりと思ひしはものにあらざりけり。これをこそ銀砂とは云ふべきなれ。松は枝古り幹太きが、鹽風のあたる所なれば、上ざまには延びえで、平めに、這ひたるやうにて、あるは龜の甲並べたる、あるは鶴の翼張りたるやうなる、龍の走り、蛇のわだかまれるに似かよひたるなど、庭つくりが小さき鉢物の木ども心の限り造りたりとも、いかでかくはと覚えていといとをかし。家なる父君は山邊は好み給はで、海づらを甚じう好み給ふ本性に在せば、今迄見つる山川の景色の愛たかりし程も、見せ奉らんの心動きはしつれど、ここにてぞ諸共に率て奉らぬ憾み、遣らん方なく覚えし。九州に通はすべき鐵道線路を敷くとて、所々松の樹を伐り倒したり。千歳を經て後にしも、斧にかかりけんよと思ふに、最と可惜しくおはれなり、

山陽鉄道の神戸-下関間特急列車 明治38年頃
山陽鉄道の神戸-下関間特急列車 明治38年頃

画像出展:「川上幸義の山陽鉄道の歴史

 

されど、

 「道のためたふるとならば媛小松もとより千代も願はざるらん

『香雪叢書 第一巻』に掲載。
『香雪叢書 第一巻』に掲載。

詞書:「まひこが浜に遊びける時、鉄道線路にあたれるところどころ、大木のきり倒されたるをみて、こころにおもふことありて」

短歌:「みちのため倒るとならば媛こまつ もとより千代もねがはざるらむ」

 

と打ち誦しつつ、敦盛が首塚と云ふに詣でて、また少し行けば、一の谷、鴨越の峯も近く見ゆ。砂の流れたるやうな所、または松のむらだてるなど、げに鹿のみぞ越ゆるといひし昔思ひ出でらる。』

高砂市の浦明石潟

この短歌は兵庫県高砂市の浦明石潟付近の松原(松が生い茂る林)が、九州に延びる山陽鐡道の建設によって、はかなくも伐採されてしまう松の命を惜しんで詠んだものだった、ということが分かりました。

これらのことが分かり、本当に素晴らしい作品を手に入れることができたと実感しました。

高砂公園
高砂公園

画像出展:「日本1000公園

兵庫県の高砂市は、兵庫県最大の河川である加古川が瀬戸内海に注ぐ河口付近にあり、古くから舟運の要衝として発展してきた町です。

明治以降は遠浅の海岸を埋め立てて工場の進出が盛んになり、工業都市としての色が濃くなります。

そんな高砂市の中心部にある高砂公園。これがまさしく、工場跡地につくられた公園です。

下田先生35歳、明治21年5月23日から44日間。帰りは7月、初夏でした。

旅人は母上と従者数名そして下田歌子先生で、20年ぶりの郷里岩村にも訪れており、とても感慨深い旅であったろうと思います。

柳谷素霊2(「五十からの青春」)

前回の「柳谷素霊1」では、醫道の日本 昭和33年3月号から、柳谷素霊先生の「脈診と臨床」の全文をご紹介させて頂きましたが、今回は「五十からの青春 -ストレスとハリ・灸医学」(初版発行:昭和32年10月30日)という貴重な本がブログの題材です。この本はamazonでは¥48,800だったため断念寸前だったのですが、度々利用させて頂いている古本サイトの「日本の古本屋」で、¥12,960で販売されていたのを見つけ、思いきって購入しました。私が鍼灸専門学校に入学したのは52歳の時なのですが、先生が逝かれたのも満52歳だったという偶然に因縁めいたものを感じ、つい前のめりになってしまいました。
本は全242ページ、柳谷先生の「五十からの青春」は204ページまで、207ページからは医学博士である田多井先生の「ストレス学説」になっています。

著者:柳谷素霊、田多井吉之介
「五十からの青春」

著者:柳谷素霊、

田多井吉之介

出版:新樹社

 

ハリ灸のつぼ
ハリ灸のつぼ

左:柳谷素霊、右:ハンス・セリエ
左:柳谷素霊、右:ハンス・セリエ

画像出展:「五十からの青春」

「五十からの青春」より
左:ハンス・セリエ、右:田多井吉之介

最初に、本の文末にある両先生の「著者紹介」をご紹介します。
柳谷素霊
明治39年北海道に生れ、日本大学宗教科卒業。東洋鍼灸専門学校校長。東京都鍼灸審議委員、東京鍼灸師顧問、日本鍼灸師相談役。昭和30年パリ鍼学会顧問になり、昭和30年12月ドイツのドイツ鍼学会で「ドイツ鍼医師試験」に合格、A.F.AKUPUNKTURの称号をうく。昭和30年フランスとドイツに招かれてハリ・灸医学の講演と実技公開の旅をせり。著書に『鍼灸医学全書(四巻)』、『鍼灸治療医典』(半田屋)、『鍼灸摘要』、『図説鍼灸実技』、『柳谷一本鍼伝書』(医道の日本社)。同書のドイツ語あり。

田多井吉之介

大正3年東京に生れ、東京大学医学部卒業後生理衛生学を専攻。昭和26-7年ハーバード公衆衛生学校に留学す。現在国立公衆衛生院生理衛生学部長。医学博士。公衆衛生修士。主要著書に『ストレス』(創元社)、『汎適応症候群』(協同医書)、『好酸球の動力学』(医学書院)、『ウロペプシンの動態』、『衛星と公衆衛生』(南江堂)等あり。訳書に『適応症候群』、『セリエ新内分泌学』(医歯薬出版)、『ノルアドレナリン』、『ストレスと病気』(協同医書)等がある。

柳谷素霊先生といえば「古典へ還れ!」という言葉が印象的です。私自身がそうであったように、鍼灸師の先生の多くは、柳谷先生を古典原理主義者のように思われてはいるかもしれません。この本を拝読すると、柳谷先生が西洋医学に精通され、同時に、非常に重視していることが分かります。また、貝原益軒先生の“養生訓”が、度々出てくるのも興味深いところです。柳谷先生を理解するうえでは、“養生訓”を知ることも重要であろうと思います。

こちらの学園の「貝原益軒アーカイブ」は、驚くほど充実した内容になっています。

『養生の術は先(ず)心気を養ふべし。心を和にし、気を平らかにし、いかりと慾とをおさへ、うれひ、思ひ、をすくなくし、心をくるしめず、気をそこなはず、是心気を養ふ要道なり。』
これは「養生訓 中村学園大学校訂テキスト」の巻第一 総論上からの抜粋です。

ブログは目次に続き、次の項目についてご紹介していますが全文ではなく一部や要点になります。
・「まことの人生はこれから」の中から、Ⅰの「頭脳の青春は五十から」
・「ハリ・灸の日本の歴史」
・「老人医学」の中から、Ⅷの「腎臓の調整」
・「ハリ・灸愛好者への回答」
以上の4つが柳谷先生のパートです。
・「ストレス学説」の中から、Ⅰの「ストレスの起源」、Ⅴの「東洋医学と西洋医学」、Ⅳの「セリエ博士の横顔」

こちらは、田多井先生のパートです。

目次

まことの人生はこれから 
 Ⅰ頭脳の青春は五十から
 Ⅱ暦の年齢と生理年齢
 Ⅲ五十の知恵を三十の肉体で
 Ⅳ女体のみじみずしさ
 Ⅴ未病を治す
ハリ・灸の日本の歴史
フランスとドイツのハリ医学
中年生理への闘い
 Ⅰ微笑の一日主義
 Ⅱ五十肩と四十腰
 Ⅲ甘美な睡眠
 Ⅳ頭痛とめまい
 Ⅴ足から若がえる
 Ⅵ忘老は栄養のバランスに
 Ⅶセックスの回春
美容医学
 Ⅰしわとしみ
 Ⅱ肥りすぎ
 Ⅲやせすぎ
 Ⅳ益軒先生の美容体操
ハリ・灸で治りやすい難病
 Ⅰ高血圧
 Ⅱ糖尿病
 Ⅲてんかん
 Ⅳ歯槽膿漏
 Ⅴアレルギー
 Ⅵぜんそく
 Ⅶ肩凝りと腰痛
 Ⅷ肝臓病
 Ⅸ神経痛とリューマチ
 Ⅹノイローゼ
老人医学
 Ⅰ百才への夢
 Ⅱ布施博士の長生術
 Ⅲ老化生理防止のハリ・灸
 Ⅳ不眠症
 Ⅴ白米偏食は短命 
 Ⅵ心臓を守る
 Ⅶ白髪への予防
 Ⅷ腎臓の調整
 Ⅸ益軒先生養生訓への反省
 Ⅹ良医を選べ
ハリ・灸愛好者への回答

ストレス学説 
 Ⅰストレスの起源
 Ⅱストレス学説
 Ⅲストレスと精神身体医学
 Ⅳストレスの適応病
 Ⅴ東洋医学と西洋医学
 Ⅳセリエ博士の横顔

「まことの人生はこれから」
頭脳の青春は五十から
貝原益軒先生は、八十三才のときの「養生訓」に、「人生五十に至らざれば、血気いまだ定まらず、知恵いまだひらけず、古今に疎くして、世変になれず、言あやまり多く、行悔(オコナイクイ)多し。人生の理も楽も未だ知らず。」まことの人生は五十からひらけるのだと訓しています。
さきごろ、なくなられた小林一三氏も「四十、五十は鼻たれ小僧。働きざかりは七十から」と大いに気焔をあげていました。~中略~
人間として、いちおうの、知能の円熟と豊富な体験からくる自信のある人生は、ようやく中年の、五十才からだと、ノーベル賞のカレル先生も、二百年前のわが益軒先生も同じようにのべられています。
人間は、五十になってはじめて、頭脳の働きが円満になり、知恵が冴え、世情のわきまえ方をさとり、処世の妙腕がふるえるような、社会の有能な人物になれるのである、というのです。
世の中をみまわすと、会社の重役、学校の校長、役所の局長、その下の部長クラスにしろ、だいたい、社会の責任の重い重要ポストは、ちょうど、五十才前後が占めているようです。
人生の五十は、仕事ざかり、男ざかり、女ざかりでしょうか。すくなくとも、頭脳からみた人生は、五十とは、花ならばまさに満開の、溢れる才知と豊かな経験をささえにした、トップコンディションといってよろしく、最高頂期なのです。
いわば、酸いも甘いもかみしめた、こういう老舗の知恵は、たしかに、五十という年輪のたまものです。いよいよ貴重な五十才。
さて、東西の学者が、生命の科学をいろいろ研究したところでは、「人間の寿命は百才まで生きれる」の説が信じられています。ビュッフォン(1707-1788)やフルラン(1794-1867)の説です。
益軒先生も人生百才説でした。人間は百才まで生きられるのです。
それを、不用心で病気をしたり、怠けて老化を早めては、つい、もっと早く、生命を失ってしまう人が多いのです。
百才の寿命があるというのならば、五十は人生の半ば、やっと青年期から壮年に入ったコース。いや、五十才の青年なのです。
人間の脳の重さも、四十をこしてから、やっと、いちばん重くなるそうです。つまり、頭脳の青春、知能の円熟をものがたっています。

昭和32年の平均寿命は、男性63.24、女性67.60でした。100歳という年齢は非現実的なものでした。

各能力のピーク時の年齢
各能力のピーク時の年齢

成人を超えても伸び続ける脳力がある。人の感情を読み取る能力のピークは50代であることが判明(米研究)

表にある「結晶性知能」とは、学校で受けた教育や仕事、社会生活の中で得た経験に基づく知能のことだそうです。「感情推測能力」と共に、社会や組織の中で特に重要な能力だと思います。

「ハリ・灸の日本の歴史」
日本へ、ハリ・灸医学が輸入されたのは、欽明天皇のころ、朝鮮の高麗から、呉知聡という人がはじめて日本へきてひろめ、ハリ・灸の穴が書いてある「明堂図」、「儒釈方書」百六十四巻を伝えたことからはじまります。奈良朝前期ごろの、仏教文化が日本へ渡来したおりのことでしょう。
それから奈良七代、京都の平安朝期、鎌倉期、戦国時代と、ようやく一般に親しまれ、漢方医の重要な治療方法としてのハリ・灸医学は、ひろく日本人の生命をあずかってきました。
そのころは、鍼師(施術士)、鍼博士(大先生とか教授の)、鍼生(学生、見習い)の制度でよばれました。
中国から日本へ伝わったのは、「捻鍼(ヒネリバリ)」の技法です。
その後、「打鍼(ウチバリ)」という技法を日本で発明したのは奥田夢分斎で、「鉄道秘訣集」の本も書きました。彼はもと奥州二本松の禅僧でしたが、京都の多賀検校に多賀流の鍼を習い、晩年に京都御所の枯れかかった牡丹の花を、鍼術で生かしたというので、時の花園天皇からお賞めの言葉をいただき、姓を賜って、以降は、奥田を改め、御薗意斎となりました。
この流れをくむものを「打鍼(ウチバリ)流」といい、万病の基は腹の調整にあるといって、主としておなかのツボに打鍼(ウチバリ)して、栄えていました。
その後徳川記に入ると、有名な杉山検校が出て、いわば、中興の祖とあおがれました。杉山和一は、伊勢の津の人、慶長十五年生まれで、父は藤堂家の臣。盲目なので、はじめ山瀬琢一の弟子となりハリを学びました。
管鍼(クダ゙バリ)」という技法は、杉山検校が江の島弁財天に参籠して満願の日、「竹の管と松葉」を授けられて発案したものと、今日でも浪花節や浄るりに語り伝えていますが、実は、その前の元禄ごろの本にも既に「管鍼」の文字が出ているのです。
のち京都にうつって、杉山検校は名医として繁昌しましたが、ついで江戸に出て、時の将軍綱吉の難病を治したのが、いっそう名声を高め、関東総禄として八百石を賜わり、「なんでもほうびをとらせる」のお声に「一つ目だけでもほしい」と、本所一つ目の地(旧国技館のうらで、いまでも杉山検校の社がある)を賜わったと伝えられています。ここに「鍼治講習所」を開いて、全国四十五ヵ所に分校をおき、ここに、盲人だけの鍼学教育をはじめました。
今日の日本のハリ技法は、みなといっていいほどこの杉山検校のひろめた「管鍼(クダバリ)」の方法で、中国から渡った「捻鍼(ヒネリバリ)」や、夢分斎の発明した「打鍼(ウチバリ)」の技法を知り、伝える人は、ほんの数えるほどしかないのです。
杉山検校は、大正十三年五月、今日の盲人教育の基礎をつくった功によって、正五位の贈位をうけたほど、後世の盲人の恩人となりました。しかし、徳川期にも、もちろん盲人以外のハリ・灸の名医はたくさん出て、吉田流の出雲の吉田とか、垣本鍼源、菅沼周桂と後世までも名を残す人もいました。
また、杉山流には三島安一、和田春徹、石坂志米一等の高弟が、つぎつぎと現われて、高度の技術の発達をとげ、ますます杉山真伝流の発展をはかったので、徳川の中世紀は、日本のハリ・灸医学の技術面で、いちばん絢爛たる花の開いた時代といえましょう。
明治の初年、盲人の官職廃止、漢方医制度の廃止となって、ハリ・灸医師も禁じられましたが、明治十八年に、それでは盲人の生活が困るだろうと、簡単な免許規則ができて、はじめて漢方医と離れて開業することになり、その後何回も改正になり、試験制度になって、戦後、今日の「鍼灸師身分法」となったわけです。
そこで明治のはじめに、国立の盲学校に「鍼按科」ができ盲人の教育をはじめましたが、これは昔の杉山流の直系をくむもので、昭和時代までも奥村三策がこれをつぎ、これが現代の「国立教育大学雑司ヶ谷分校」で、やはり杉山流の直系の吉田弘道が「築地盲人技術学校」に拠り、盲人教育をひらいたのが今日の東京都立文京盲学校であり、そのあとを私がひきうけました。
こうして、鍼灸学校は盲人中心に栄えたようにみえますが、もちろん晴眼者の人の学校も、べつに開かれていました。終戦前は十校位でしたが、終戦後は全国に三十校位あります。これらは厚生省の認定になっております。私の学校「東洋鍼灸専門学校」もその一つです。
つまり、盲人と晴眼の普通人とは、べつべつに鍼灸教育をうけてはいますが、いま全国には、西洋医が八万五千に、ハリ・灸師は五万人います。
そこで、ハリ・灸医学の東西交流の歴史をみますと、一八二六年三月十五日の、シーボルトの「江戸参府日記」に、幕府のハリ医石坂宗哲に、日本のハリ・灸技術習う、とかいてあり、のち、シーボルトによって石坂の著「鍼灸知要」のオランダ訳が出ています。(試しにネット検索したところ、「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」さまに原書がありました)
つまり、明治以前のハリ・灸は、徳川中世以後は、ほとんど漢方医が、外科的治療の一つとしてハリ・灸に腕をふるっていたので、杉山検校のように直接に将軍家のお抱えもあれば、諸大名に召しかかえられたものもあり、開業医もありで、徳川中期の最盛期は、ハリの技法も「九十余種」といわれ、あらゆる病気を、多くのハリをつかって、それぞれの特長の技法で治療していたと伝えられます。 

こちらが、【創立60周年】を迎えた、現在の東洋鍼灸専門学校です。

「老人医学」
腎臓の調整
腎臓の病気は地味なので、あまり、気にとめない人も多いのですが、漢方では、先天の元気の発するところとみて、腎臓を非常に重くみていて、この腎臓を調整することによって、大半の慢性病は解決がつくとまでいわれています。
ですから、どんな病気にでも、必らず、腎臓の働きが十分であるようにと、そこのツボを刺戟してゆく治療法をいたします。
たとえば、腎臓機能の不調に気づかずにいると、肝臓に変化のあらわれてくるものがあります。そして肝臓に病変がくると、こんどは、神経系の病気が出てまいります。
昔の人のいう「疳」がたかぶるというのは、この疳は肝を意味して、ヒステリー症も肝臓の病気からおこり、また、てんかんも、著しい肝臓肥大が特徴とされているように、この腎臓と肝臓との間の密接なつながりを無視しては、治病の実績はあがりません。この、肝臓と腎臓が、たいていの慢性病の根源であるという漢方の考え方から、「肝腎かなめ」という言葉が、ちゃんと残っているわけです。
腎臓の役目は、現代医学的にみても、身体のなかの不用な老廃物を体外に排泄する働きをします。(血液のなかの有害なものを水分といっしょに尿として出す)
それが、なにかの故障で、働きが鈍るとなると、たちまち、身体のなかに、有毒物質がたまるので、あちこちへ、悪い影響がひろがることは、こわいわけです。
そこで、なんとしても、腎臓は、いささかの狂いもなく、十二分の能率をあげてもらわないと、完全な健康体をたもってゆくのがむつかしくなるから、そういう腎臓の重大性は、どんな病気を克服してゆくためにも、第一コースになるといえましょう。
腎臓病には、急性と慢性の腎炎、ネフローゼ、妊娠腎、血管性腎疾患、腎臓結核、腎臓結石、尿毒症、などがあります。
腎臓病の見分け方は、むくみが問題です。医者がみると一目で、みわけられますが、案外普通の人では、このごろ肥り気味なのだとよろこんでいたら、実は、腎臓炎だとわかって、あわてて絶対安静を命ぜられて、職場を休むという例も少なくないのです。
このむくみも、心臓のためからくるものと、腎臓のでは、すこし違います。
心臓のときは、早朝時に軽いむくみが、足の方から、はじまってきて、呼吸困難があり、肝臓が腫れます。腎臓病のときは、早朝時に強く、むくみは顔面からあらわれ、呼吸困難がなく、特に眼蓋のむくみが目立ちます。そして尿が少なくなり、肝臓の腫大はありません。
これは初期の症状で、慢性になって、萎縮腎にすすむと、反対に、むくみは少なくなって、尿も多くなり、血圧も上り、尿の中には蛋白が出てしまうので、腎臓の検査は、つねに、尿の検査と並行して、その一進一退をみてゆくようにします。

※腎臓に関する最新情報として、過去ブログの「腎臓が寿命を決めるとは」をご紹介させて頂きます。

「ハリ・灸愛好者への回答」
:肝臓がすぐ悪くなるのが持病で、疲れると、肝臓部や胃のあたりがはってくる、食欲不振で、あわてて近くの開業医にかけつけて、なにか注射をたのみ、胃の薬を貰って静養していた中年の女。ふと、この三月からハリ治療に親しみました。けれども、街には、ハリ医はたくさんあって、素人の眼には、その優劣がわかりにくいのですが。ハリ技術の巧拙の見分け方は?
:いちばんに
一、ハリを刺すとき痛まぬこと。
二、自覚症状や他覚症状に(血沈、検尿、脉搏、発熱などの)、だんだん健康の方向に向かっているような快感があって、そういう病状の軽減がある筈です(治療後に)。
三、だいいち、気分の爽快さがはっきりある。
四、食欲、排便、利尿、睡眠が、健康状態に近づいてゆく筈です。

 

:ハリ治療をうけたあと、必ず、フラフラと目まいがするという人もありますが。
:それははっきり、症状を訴えないといけません。だまっていては、ハリの先生もわかりません。普通こういうのは、ハリの刺戟量の過多か、病気へのツボのとりまちがえですから。

 

:ハリと灸では、その科学的作用にちがいがあるものでしょうか。
:あります。ハリと灸の効果の差を比較してみましょう。
ハリの効果は、
一、機械的刺戟の応用にある。
二、「瀉(マイナス)」の働きが、灸よりも強大です(だから病気の種類症状により、灸よりもハリの効果がよいことがある)
三、ツボは、正統的には、「補」と「瀉」を区別してつかうのは、ハリも灸も同じです。それで手技にも「補」の手法、「瀉」の手法があります。
四、科学的効果の理論は、
神経理論
皮膚の神経を刺戟して、脳脊髄神経と自律神経に影響を与え、身体の構成組織機関を調整するのです。
液性理論
血液、抗体、ホルモンを増加せしめます。その他酵素(グルタミン酸、アスパラギン酸)をつくり、PH(水素イオン濃度を調整する)または血沈、尿中のウロトロビンに影響を与えます。
灸の効果は、
一、温熱と光の刺戟の応用にある。
二、灸は、補(プラス)の働きがハリよりも強いのです。
三、ツボにも、瀉穴と補穴の区別があります。
灸の補瀉の別を簡単にいえば、「補」とは、モグサを小さく、やわらかくひねり、数を少くして、もえた灰の上からつづけてすえる方法です。「瀉」とは、大きなモグサを、固くひねり、いちいち、もえた灰をとってすえます。たとえば、弘法さまのウミを出す灸は、あれな「大瀉」の方法で、「虚証の病人」には、よろしくないとされています。
四、灸の科学的理論は、
神経理論
温熱または光の刺戟が、身体の神経系統に好影響を与えます。
液性理論
皮膚を火傷することによってできた、火傷毒素(変性蛋白体、異種蛋白体)の刺戟作用により、直接に組織機関を刺戟し、調整作用をおこします。また、硬化血管を軟化し、血液抗体を増加させます。

 

:どういうものか、インテリ階級には、ハリ・灸治療は、あまり歓迎されていないようですが。
:そうとは限りませんが。徳川時代のように、そしていまのフランスやドイツのように、医者がみなハリ・灸治療をやっているのなら、社会大衆からも自然に尊敬と信頼があったわけですが。やはり、ハリ・灸医学は、明治以後、忘れられたうらみはあるので、いわゆる、「くわずぎらい」も多いのです。

 

:たいていの人は、野蛮な医療法のように誤解してしまいがちですが。
:そういう誤解は、一度、体験なされば、消えてしまいましょう。今日のフランスやドイツで、これだけ盛んにもてはやされているのは、べつに迷信やオマジナイではないので、ちゃんと、科学的理論があればこそなのですから。しかし反省してみると、一部の業者にも責はあります。いまは、高等学校を卒業してからでないと入学できないハリ・灸医学校ですが、昔は、安易に免状が手に入ったのでしょう、知識の浅い教養の低い業者が、社会からきらわれるのは当然で、女も男も、せめて大学くらいは卒業してから、ハリ・灸医学の勉強をして、社会へ出るようにすると、ずいぶん、今後のハリ・灸界は変わってもゆくだろうと夢見ているわけですが。

 

:西洋医学で治らない病人を、ハリ・灸医学で治してゆくことは結構ですが、私のように半年間、一週一回いわば、病気の予防の目的みたいに、ハリ・灸にお世話になってきましたが、たしかに素晴らしい健康法だと、このごろ信じられます。身体のなかの、あちこちのしこりがとれ、とても身体がやわらかくなります。
:そういうファンは大歓迎です。いろんな医者にみはなされた、むつかしい病人を治すだけが使命でもないのです。もっとひろくインテリ階級層にも、「人間ドック」とは、「ハリ・灸健康法」にあることがわかって頂けると、よいのですが。

 

:その「人間ドック」的意味が、やっと半年のおなじみで、理解されました。脉診をうけたあとで、私はその一週間の身体の症状をこまかく訴えます。せっかく便通をよくつけて頂いたのに、ちょっと忙しすぎて過労から、また胃のあたりがふくれてきたことなど。すると、そこを中心に治療してくださる。次には、足が少し変ですが、というと、ちょっと血の道が出ていますね、とまた別なツボ中心にしていただく。そういう、病気になる前の病原らしいものを、一歩早く、つかまえて消して頂いているようなので、おかげで、快食、快眠、快便を、一服の薬も一本の注射もなしに、感謝しています。
:そう、理想的なファンがいられるとはおどろきました。積極的の健康増進に「人間ドック」へのハリ・灸は新しい方向ですね。

「ストレス学説」
ストレスの起源
セリエ博士によれば、ストレスの概念は、すでに遠くギリシャ医学にみられるといいます。
ヒポクラテスや、そのほかの当時の医師たちは、パソス(pathos)およびポノス(ponos)という言葉をつかいましたが、パソスは、現在の医者がつかっている病理学(patnology)という語の起源になりました。
これにたいして、ポノスという言葉は、労苦、あるいは仕事といった意味をもっていました。
即ち、ヒポクラテスは、正常の方向にむかって自分の身体を保っていこうとする、体内の努力の存在を認めて、これをポノスと呼んだのです。
いいかえると、医学の父祖といわれるヒポクラテスは、すでに、2400年前に、身体の内に具わった自然の治癒力を認め、これにポノスという名を与えていたのです。セリエ博士は、これが、ストレスという言葉の起源になると考えています。
しかし、ヒポクラテス時代のポノスの言葉は、決して科学的ではなかったのです。科学であるためには、それが分析にたえ、また、測定が可能である必要がありますが、昔はこれが不可能でした。
こんなわけで、ストレスの研究を科学にまで高めたセリエ博士に、偉大な功績があるのです。

東洋医学と西洋医学
西洋医学の上でも、安静療法、ショック療法、発熱療法、異種あるいは同種の蛋白質療法、さらに転地療法といった、各種の非特異的療法が行われてきました。もっとも、これらの療法の適応は、主に、慢性退行性疾患(老人病)とか、一般的な虚弱体質にあったことはもちろんです。
いっぽう、東洋では、古くから、ハリ・灸療法という、非特異的な治療法が医術の座を占め、今日でもなお、大衆の支持を得ているばかりか、西欧への進出もしています。そしてハリ・灸を求めにくる患者の多くが、いわゆる慢性疾患であることも、決して見逃せない事実です。
現在のハリ・灸療法は、かなり科学的になっています。信頼できる施設ではカルテも正確にとっており、他の手段では、なかなか、はかばかしく治らなかった症状が、ハリ・灸療法によって明らかに良くなった例も、かなり多く見出だされます。
このように、非特異的療法は、洋の東西を問わず、古くからの経験と伝統をうけついで、いまだに大衆から支持されていることは、この療法に、なんらかの価値がある証左にほかならないと考えられるのです。

セリエ博士の横顔
さきごろ来朝され、日本の各地の講演やなにかと、大きな感銘を与えて、あわただしく帰国された、カナダのモントリオール大学のセリエ博士のストレス学説を、いま、日本ではストレスブームなどといって騒いでいますが、実は、これは二十年も前からいわれて来た学説なのです。
しかたがって、珍奇な説でもアプレ型でもなく、少なくとも実験医学的には、もう成人に達していることを忘れてはなりません。
モントリオール大学は、1945年、大戦直後にできた新しい大学で、すべてフランス語で抗議されている、カナダ唯一の綜合大学で、セリエ博士は、実験医学研究所長です。
セリエ博士は、1907年ウィーンの外科医を父として生まれ、幼児から神童であったようです。三代もつづいた医家です。父親は、ハンガリー生れで、Selyeというのは、もとは、ハンガリーの小村の呼び名だといいます。
私の「タタイ」という名も、ハンガリーの村にあるそうで、私がはじめて、モントリオールにお訪ねしたときは、はじめ、ハンガリーからきたかと疑われたそうで、大笑いいたしました。

帰国直前の宴会に、一言と求められたとき、
貴国において、生活の内に潜む古心の美を見る。どうかそれを失わずに育ててほしい。西洋には愛の哲学があえるが、東洋にはこれにまさる、感謝の哲学がある。二者を併せて人間は成長すべきである。」そういって、日本のいけばなは生活の美化、茶は心の転換法と、つかむところはちゃんとつかんでしまった。それもたった十日間に。

柳谷素霊1(「脈診と臨床」)

『柳谷は常に、古典に還れ、そして原典を批判し、そこから再出発すべきである、古典は古人の遺言である、この遺言を実際に再現しなければならない、と説いた。しかしこちこちの古典狂ではなかった。鍼灸を科学化することに決して否定したのではなかった。むしろ正しい意味での科学化を主張したのであった。その態度は次のようなものであった。すなわち「鍼灸師は技術者であって科学者ではない。鍼灸術を科学化するためには、科学者の力を借りなければならない。科学者の力を借りるためには、鍼灸術の本質を明らかにせねばならない」と。しかし長い年月の歴史の批判を通って生き抜いてきた古典的鍼灸術を中心にして行くのが当面の正道であり、そしてなお、家伝であろうが秘伝であろうが、たとえ巷のじいさんばあさんの灸点であろうが、効くという事実があればそれも取り入れる必要があり、さらに、「鍼灸学的行き方同時に現代科学的行き方も包含する風にやって行くのがよい」といった立場をとったのであった。』
これは、1985年に出版された「昭和鍼灸の歳月―経絡治療への道―」の中の一文です。

著者:上地 栄
「昭和鍼灸の歳月」
昭和8年8月27日
柳谷素霊先生と岡部素道先生

画像出展:「岡部素道先生追悼」


私は日本伝統医学研修センターの相澤良先生から学びました。その相澤先生は岡部素道先生の最後の内弟子として修業をされ、素道先生のご子息で医師でもあった素明先生からも学ばれました。そして、その岡部素道先生が鍼灸の道に入ったきっかけは柳谷素霊先生との出会いでした。その出会いは次のようなものです。
『東京より避暑に来ていた人物に、東京に結核治療の名人が居ると教えられ、治療を受けに上京した。その名人と教えらえた人物こそ柳谷素霊である。そこで岡部は柳谷の治療を受け、帰り際に、「自分の結核を治すだけではなく、他人の結核を治療するようなことをやってみてはどうか」と勧められる。帰郷後、岡部は不動産を処分して資金を作り、再度上京し、柳谷に弟子入りする。昭和6年12月のことであった。』(「岡部素道の鍼灸治療」より抜粋)
この来歴から、私の施術のルーツは、僭越ながら柳谷素霊先生にあると考えました。そして、柳谷素霊先生のことを勉強したいという思いから、1冊の雑誌と1冊の本を手に入れました。今回のブログは、この「1冊の雑誌」が題材です。
その雑誌とは、「醫道の日本 昭和33年3月号」です。柳谷先生は昭和34年2月(満52歳)で死去されておりますので、その前年、最晩年ということになります。
当初は抜粋や要点の洗い出しを考えていましたが、それでは、正確にお伝えすることができないと考え、全文引用とさせて頂きました。なお、この「脈診と臨床」は昭和32年9月15日(日)東京都千代田区にある日本教育会館で開催された「脉診講習会」の模様を速記録に残したものです。

醫道の日本 昭和33年3月号
醫道の日本 昭和33年3月号

画像出展:「ウィキペディア


「脈診と臨床」
脈診と臨床という題でございますが、もうここにいらっしゃる方は、大体顔見知りの方もあちこちあるようでございますし、また二、三十年も前から脈診の研究及びその実験ということをやられておる方が相当あるんでして今さらここで脈診というのはどういうものだというようなことを、改めてこまかくいうことはないように思いますが、岡部君、竹山君(中段付近を参照ください)のあとを受けまして、私個人の平素やっております脈診並びに臨床についてお話させていただきます。―脈診と臨床という意味は、脈診から導かれた臨床という意味でございますから、そのつもりでお聞き願いたいと思います。

なぜわれわれが脈診を鍼灸の治療のパイロットにするかと申しますと、これは鍼灸を運用するいわゆる鍼灸の臨床のために脈診が必要であるという点に到達したからでございます。御案内の通り鍼灸を運用するその基盤といいますかイデオロギーは―イデオロギーというと大げさでございますが、立場はさまざまあります。どんなものがあるかと申しますと近代の鍼灸の理論では神経性理論と液性理論、これが教科書にも書いてあり、全国の学校においても教えておるところであります、神経性理論に基くところの鍼灸の臨床、あるいは液性理論に基くところの鍼灸の臨床が、実際臨床の場においてわれわれをして、また病人をして満足せしめているかどうか、こういうようなことを一応反省してみたいんであります。神経生理論、液性理論に導かれたところの鍼灸の運用は、いわば科学的な方法といいましょう。一応の解剖学的知識があり、病巣と皮膚受容器の連関が判っておればたやすいのです。血液、いわゆる液性理論などという点に至っては、刺戟点をどこに求めてもいい訳けになります。どこへやっても液性理論の需要に応ずることができます。たとえば原志免太郎博士の腰部八点穴、及び、足の三里穴、これだけで万病にいいんだと、こういうようなことで済むんであります。神経性理論という建前からいきますと、解剖学的な神経の起始、経過、分布領域、脳脊髄神経と交感神経との解剖学的関係における分布状態、そういうことを知ってさえおれば一応の治療はできます。けれどもそれによってわれわれが臨床の場において、その理論通り行って所期の治療成績をあげる結果となっておるかどうかということになると、皆さんもすでに御体験済みのごとく多分に問題があります、というのはその理論通りいかない。いわゆる2+2+3=7というようなトータルが出てこない。こともあるということであります。しからば鍼灸の運用に最も進んだといわれるところのこれらの神経理論並に液性理論の如き近代理論に基く以外に、鍼灸を臨床的に運用するところの方法がないかというと決してそうではないんであります。結論的にいって失礼なのですがいうなれば、鍼灸の運用というものはいわゆるわれわれの古聖人が残したところの原理原則にのっとった案内によってのみ行われるものであるというふうに私は考えざるを得ないんであります。

過去三十年、いや生まれたときからですから五十年、そういう環境とそういう思念とをいだいて参りましたが、その間非常な攻撃といいますか反撃といいますか、ひどい罵詈雑言という言葉があてはまる声や筆を聞いたり見たりして参りました。
しかし私は頑迷固陋[ガンメイコロウ:考え方に柔軟さがなく、適切な判断ができないこと]といわれるかも知れませんがただいま申し上げた通り、鍼灸の臨床を導くものは、古聖人が残したところの診察と治療の方法以外にないと、こう考えておるんであります。たとえばただいまちょっとお話があったようでありますが、痛いところ、あるいはかゆいところ、いわゆる病的違和感覚のあった場合その場所に鍼をする、あるいは灸をすえる。こういう、やりかたは、考へんでもよく、苦労もいらず、勉強も不必要で一番やりいい、治療方法なのです。痛ければそこへ鍼を刺せばいい。ただしその鍼の刺しようが、どういうふうに刺すかということはこれはもう一つ問題でございますが、鍼を刺せばいいことは一番簡単であるということになる。或いはそこに灸を据えればよいまことに簡単です。こういうやりかたは古人はちゃんとやっています。これはもっとも鍼を臨床に使ったころの初歩的な、あるいは古い時代のやり方なんです。皆さんも御案内の通り鍼灸はその九鍼の形の示すごとく発生起源を異にしているとわたくしは考へます。九鍼も初めから考案されたものではありません。毎度同じことを申上げて申訳ありませんが自然発生的成立過程をとっているとわたくしは考へるのです。どういうことであるかといいますと意識以前の行為が意識の対象になり当時の思想とむすびついて九という数になったものと考へるのです。いわばわれわれ人間の意識以前の行動が源泉なんです。これは脈診とも関係があります。わたくしのいう意識以前という言葉の概念内容をちょっと申し上げて御諒解に資します、意識以前ということはわれわれ生命に直接するところの行動ということです。いわゆる生命は不断の流動をつづけています、心臓の如く瞬時も休みません。このような時、空にまたがる生命的な現れの行動、実践ということです。われわれが頭が痛いというときには頭に手がいきます。お腹が痛いときにはお腹に手がいきます。あるいはころぶとすぐそこをなでます。これは教へられたり、考へたりしてではありません。意識しなくてもやります。目がさめているときばかりでなく、眠っておるときでも同じような行動をします。ねむっているときノミが刺すといたします。あるいはアリが刺すといたしますとそこに手がいきます。眠っている御本人は知りません。これは意識以前と申せましょう。今日の学問ではこれを反射といっております。この意識以前の行動即ち、反射的行動が初めて鍼を考え出し、灸を考え出しその実践を反省して、つまり意識して、知識としました。これは同様に按摩もその時代にできたというふうに私は理解すべきであろうと考えております。われわれが脈診というものに対しての考え方も、同じものと考へております。われわれの生命体が、今申し上げた意識以前的な行動として表象された場合、そういう現象に対してわれわれはいかにこれを読みとるであろうかというものの一つにこの脈診があるというふうに私は考えられるのであります。われわれの生野的状態におけるところの生命体の表象というものは、いわゆる表わす現象というものはさまざまといいますか、一石万波を呼ぶていの現象を示しております。

臨床人は昔から患者の、病人の全部を把握しなければならないということを申しておりました。もしも患者の頭のてっぺんから足の指先の爪に至るまでの現象を読み落とすようなことがあったのでは、これは臨床人の資格はないということさえ申しております。そこでわれわれは患者の、いわゆる病人の表わすところの千差万態な現象を、いかにしてこれを把握するかと、いいますと、東洋のやりかたでは望聞問切の形において把握すべしと教わっております。もう一つ、生命体がその内部機構の状態が表に現われる、だれの目にも現象として現われる前に、つまり、われわれの意識以前に、さまざまな調整機構の働きが行われておる過程があり、それが、生理的現象と異った現象として生体に実践されているということもわれわれは教わっております。今日の学問では、たとえば痙攣、麻痺というものを一緒にするとちょっとわかりにくくなりますから、痙攣を例にとりますが、痙攣という現象に対して、古い鍼灸の教科書では運動神経あるいは筋肉自体の異常興奮によるところの収縮痙攣あるいは強直痙攣、こういうようなものであるというふうに規制されておりました。ことに鍼灸の教科書などには、これは私の書いたものも世間様同様に書いておきましたとうりであります。従ってそういう異常興奮の状態にあるところのものに対しては抑制刺激を与える。いわゆる強刺激を与える。これが一般教科書に書いてあるところの痙攣に対する治療の指示であります。そして今の科学から見た場合には、これは前時代の理論であります。なぜかと申しますと、今の科学では痙攣という現象は筋肉のトーヌスが押さえられていて、押えるところのインパルスがはずされたために起るところの現象であるというふうに考えられてきております。筋肉の収縮を押えておるところの遠心的のインパルスがある。これは錐体外路系のものですが、そのインパルスが減退するために筋肉の収縮は抑へられるものがないために興奮して収縮状態をつよめるということなのです。こうなれば、鍼灸を行う場合に、前者の古い学説でありますならば先ほど申し上げましたように強刺激を与えるなぞということはとんでもないことであって、むしろ弱刺激を与えなければならないという結論になります。私がパリのアンバリードの廃兵病院においての経験談があります、―これはすでに発表しましたのでお聞きになった方もあると思いますが、それは切断されたその脚や足趾、その手や手指が痛むという訴へを病院のドクターにするのです。これはこの間ある雑誌の記者が来たときいいましたら、どうもとっくり納得してくれないのです。というのは切断されて無いものが痛いということはどうも考えられないらしいのです。二、三べん同じことをいってもわからぬ人があるんです。というのは、ない手が、ない指が、ない足が痛むはずがないというのです、これが常識なんですネ。現実には切断されて無いのです。ないところの足の趾先きが、あるいは手が手の指が痛むことを訴える。わかりやすくいいますと、たとえば上膞の中途から切断した。これに義肢をはめる大腿の中央部から切断された。これに義足をつけますネ。早い話がその義足の親指の一番目とか、四番目とかが痛くて夜も寝られぬということを病人は医者に訴えるのです。ちょっと考えられないことでしょう。義足、義肢が痛むなんてばかなことがあるか、考へてもみたまえ、神経も何も通っていないものが痛むなんてことは、ありようないではないか、とまアこれが常識なんですネ。ところが現実にその病人は痛くて眠られない、何んとか治してくれと訴へるのです。そういう病人を実は見させられ治療しろと言われたのであります。そのときによくその切断されたところの腿を、足の切断面を見たんでありますが、見ますとその腿の切断面が、これは人間の方ですよ、義足の方じゃない、義足が痙攣したら大へんなことになる。見せものになる。(笑声)切断されたその切断面がふるえている、患者は非常に足の趾が痛いということを訴えているのです。切断面ばかりではありません、股もごくかすかに痙攣している。いわゆる顫の状態を呈しているのです。うっかりすれば、見落とすほど、ほんのかすかに、うごいている。そうしてその患者の訴へはむろんそこが痛いことはいうまでもないが、痛いところはそればかりじゃない。それから腰部、腹部までも痛いと訴へるのです。『痛い痛い、これを何とかしてくれ、国家の為にこうなったわしを国家の要員である医者たる吾等はどうにも出来ないのか』と、こういうわけなんです。この廃兵さんは相当の位の軍人さんであったと見え、まアいばっているのです、この病廃兵さんの治療を私にしろというのです、そこで、普通ならばふるえている、切った切断面、が痛いといっているんだから、そこへ鍼を刺せばよかりそうなものですネ、または手っとりばやくいえば、腎兪、志室、大腸兪、八髎、膀胱兪、環跳穴、あたりへ鍼を刺せばいいわけですネ、そこへ神経がいっているんだからね、ところがその穴の辺を見ましたがとても痛くて、さわるどころでないほど痛いというのです。皮膚にさわっても痛い震動のほどにうごいている。そこでこれは東洋の正統的なやりかたいわゆる脈を見てですね。証をたてて、順序をふんだ方法で、穴を選んでやらねばならんと考えたのです。くっついておる方の足つまり、健脚ですね。左側の足が切断されて無いのだったら右の方の丘墟、外丘の辺をさわってみました、ところが、ここが大変過敏になっているのです、そこで、ここにごく浅く鍼を刺してとどめておいたのです。大体そこへこう刺しまして、鍼を刺したのは浅いんですよ。二、三ミリくらいのものですかね。そうしてじいっと病人が痛いと訴へるふらふらとふるえるやつを脈をとりながらながめていました。ところがだんだんだんだん見た目にもふるえが少なくなり、とどまってきたように考えられる。脈も調って来たように考へられるのです。

それから先ほど腰部にまでさわると痛いといったところに、おそるおそる手でさわってみるとあまり痛いといわない。そのうちに痙攣がほとんど止み、ふるいが動かなくなるほどになったように感じた。で、痛みが軽減してきたでしょうと問いましたら、『痛みがほとんどやんだ。』というのです。こういうことがあったんであります。これは脈診によるところの繆刺の運用であります。私が考えたんじゃないんで、実は古先人の残してくれた治療の方法であります。このようなことは皆さんが病人を扱う場合にも間間あると思うんです。一本の鍼を刺して、その刺激が現代の生理学の教へるところでは閾上刺激でなければ効果はないことになっている。ところがその刺激がわれわれ生体を作っている、細胞、組織によって、たとえば筋肉組織、臓器、臓器も腸、胃、胆嚢膀胱、子宮、そういう臓器臓器によって闥閾刺激、いわゆる閾上刺激と閾下刺激との差があるということが知られているのです。換言すると被刺戟物の興奮性が違うということです。生理的状態においてもこれが真理であります。病体になった場合にはそれ以上の偏差がある筈です。してみればですネ、われわれが鍼灸による刺激を与えることによって病人にいかなる現象が起こってくるか、これは今日の言葉で申しますと生態反応でしょうネ、いかなる生態反応、患者が意識するとせざるにかかわらず、生体に表れてくるかということを、一つも見逃さないように把握すべきであると思うんであります。皆さんもこういうことはしばしば体験なさっていると思いますが、たとえば慢性胃カタルで胃がしょっちゅうつまったように重い。いわゆる胃部膨満胃部圧重の感がある。肩がこる。そうしてその重いような胃がゲップが出ると気持がよくなる。これは按摩さんにもんでもらう。もんでもらうとゲップが出る。しきりにエエイ、エエイとやる人がある。そうすると胃のところが軽くなる。気持ちがよい、気分がよくなる。肩のこっているのもからだもくつろいでくる。こういう経験は按摩をやる人にもやられる人にもよくあると思うんです。鍼でもそういうことはあるのです。鍼を打つ、ゲップが出る。これはゲップということでわかるからいいんです。ところがわからぬ生体反応もあるのです。そのゲップをするというのはどういうことかというと、胃が運動するということなのです。胃が肩をもむことによって肩に刺激を与えられたことによって、胃の蠕動作用が旺盛になったということなのです。今鍼をすると、その鍼をすることによってゲップがでるということはです、鍼によって胃の蠕動作用が盛んになったということなのです。ところがこれも長いこと按摩をやり、実際の患者に相対している方は御案内と思うのでありますが、人によっては棘上筋をもむことによってゲップが出る人がある。夾板筋[板状筋]をもむことによってゲップが出る人がある。闊背筋[広背筋]をもむことによってゲップが出る人がある。肩甲挙動筋をもむことによってゲップが出る人がある。もう少し違った例を出すと、頭のてっぺんをもむとゲップが出る人がある。足の関節部の外側を揉んでもゲップが出る人がある。胸の外側をもむとゲップが出る人がある。手をもむとゲップが出る人がある。この現象は何を示すか。われわれの対象、いわゆる四肢躯幹の表面にある表在受容器並びに筋肉の中、軟部組織中のいわゆる深部受容器といわれる、受信装置であるところのレセプターが受けたインパルスを、内部機構の調整機構によって取捨され、その結果伝達されて胃に到達せしめる。そうして胃の状況を変化させるというふうに結果的には考えるより考えようがないんであります。しかも頭のてっぺんと胃と、胸と胃というような回路をもっている。皮膚のてっぺん、頭のてっぺんと胃というもの、並びにそこの神経の中枢というものをおいた回路をもっているということになるのです。今日の学問においてはこのことが既に知られているんであります。その内容がどうなっているかは不明といたしましてもそうして人人によって違うということは、実のところわれわれはやってみなければわからない。
例へば天髎に鍼をして胃の蠕動、いわゆるゲップの出る人がある。解谿に鍼をしてゲップが出る人がある。丘墟に鍼をしてゲップが出る人がある。胃兪に鍼をしてゲップが出る人がある。中府に鍼をしてゲップが出る人がある。あるいは肩甲間部に鍼をしてゲップが出る人があるというように、人々によってまちまちであります。私は胆経の丘墟をいじると、ゲップが出る。或る漢方の有名な先生は肺経の中府をいじるとゲップが出る。まだまだ沢山例がありますがね。そういうふうに人々によって違うのです。これはレセプターと中枢と胃との回路が各々あるということです。それで慢性胃カタルにおいて胃が重い。胃カタルというのは蠕動が悪いから消化が悪くなるわけでしょう。それを消化をつければいいわけです。蠕動をつければいい。そうすると鍼をする場合そういう胃に対してどこにやればいいのか、胃の兪だから胃兪にやろうか、胃にあたるから中脘にやろうか、胃と関係のある神経の伝導からいくと脊髄の両側コースをねらえばいいだろうか。ヘッド氏帯の六なり八、九あたりをねらえばいいだろうか。ヘッド氏帯理論からいえば深く刺す必要はないでしょう。深部知覚を利用しようとすれば、大かた小野寺氏臀点あたりを使えばいいでしょう。それでいかないことがある。うまくゲップが出てこない人がある。それなのにとんでもなく離れている丘墟で出る、丘墟で出るからいつも丘墟でゲップが出るかというとどっこいそうはいかぬ場合がある。いかないのが当り前なんですとわたくしは考へています、西洋の医学即ち、医科学は一般性をとります、一般性つまり普遍妥当性を求める訳けです。普遍妥当性のないことは科学でないといえます。それに比すれば東洋の学問の基礎は伸縮する原理にあるようです。伸縮する原理というと変な言ひ方ですが、個々に最適ということであります。
甲は甲、乙は乙、丙は丙として全体的に把握し、全体に扱うということであります。甲と丙との共通点を目標としてわれわれが手当をしようというのではないのであります。これが真の医学であり、証の医学であり、いわゆる隋証療法指示の医学サイエンス・オブ・インデケイションの医学であります。
こういうような点からいきまして脈診というものをかえりみますると、以上申し上げたことからもこういう結論がいえると思います。即ち脈とは生態反応の一部分である。又は病態生理学的一反応であるといいきれるでせう。病気になりますと、病気であるというしるしである症候が出てきます、そのしるしの一つが脈証です。病名を問はず、同じ脈証を示すということは、その脈を示す内部機構になっているのだと見做されるからであります。けれども、それは健康体は比較できるはずです、だから健康な脈を会得しておく必要があります。従って原南陽先生[江戸時代中期-後期の医師。京都にでて山脇東門,賀川玄迪にまなぶ。のち常陸水戸藩医。わが国最初の軍陣医学書「砦艸」をあらわした]が彼の著書に書いてありますように、まず自分の脈をとって三年、それからあとでなければ人の脈をとるべきでないと書いてあります。もう一つ、これは名前は忘れましたが、脈は手にふれたそのとき、思慮を用いる前に触知したことで決定する。あれこれと思いまどうならばそれはそういう脈になっちゃうというております、このことはいま申しましたわれわれの判断以前、意識以前の行動ですね。生物の実践や行動は直観といわれるようにきわめて直観的に、客観的なものをつかむということなんです。主観が正しい客観を把握するということは、主観と客観が合一になって可能なのです。このことは皮膚の内で行はれているわれわれ生物の調整機転ホメオステシス Homeostasis に見ます、本能といわれるものが現代医学では「連鎖反射」とも見られるとの説がありますが、これは意識以前のはたらきです、本能的な客観の把握は練熟した反射作用です。東洋ではこれを「直観」というのです。東洋の学問はこのような基礎のうえに立っております。
脈診という行為は、このような立場から要請されています、中茎陽谷が「切脈一葦」に「専ら心を指下に留め、言うこと勿れ、観ること勿れ、聴くこと勿れ、嗅ぐこと勿れ、思うこと勿れ、是れ脈をするの要訣なり」というています、これは意識以前の体験をまず確かなものとしろということなんです。百錬自得ですネ、そこで脈のとり方は、直観的に行うことが東洋的になるんです、初めは感得したものを第一にしろ。それをもってきめる。あとは実習か実験があるそうですが、それはこうやっているとわからなくなってしまう。これは浮か沈かわかるだろうといっても、やっているうちにどれが浮だか、どれが沈だかごちゃごちゃになっちゃう。そのうちに二十四脈も区別があるでしょう。これがごちゃごちゃになってしまう。まずそっとこう見て、そうしてそのときに了徳した脈をもって虚実を決める。これは見方ですね。そこでわれわれが臨床上において今申した通り―さっき誰か御質問があったようですが、標示法でやるか本治法でやるか、どっちをとるべきかといいますと、これは内経をごらんになれば分かるとうり標示法を先にする場合、本治法を先にする場合があります。が病気、病巣、症状の部に近きところからやるか、病状の部より離れたところからやるかということを私は学生などには病巣の部より離れたところからやる。それから病巣あるいは病気と感ぜられておるところへやれと、こうまあ教えております。そしてこのような遠達刺戟を経絡に基づいてやるのでいわゆる経絡治療といわれておるところの療法をとっておるというわけです。
そして、臨床上我々は日常経験する対象は病態の状態にある病人であるということです。健康人には有るべきものが、無くなったり、無い筈のものが、有るようになるということです。こういうことは結果論的ではありますが、現象的にはこういえるのであります。脈もこのようなものであります。これを前提として考へてゆきたいと存じます。
脈は、生体反応の現われであり、しかもこれが意識前の生命以診体の表現であるというふうなことが一応納得がいただけるならば、その脈を見て―まあ一応脈を見ると何かを諒得します、その脈を知っておって今度は鍼を刺してみる、ここで、刺鍼の前後にどういう相違があるかということをわれわれは克明に検査しながら行う必要があると思うんであります。そうでないと鍼のおもしろみというものもわからぬし、それから病気、病態がどういうふうに進行していくかということもわからない。今私が扱っている患者で、医者の診断では心臓といわれ、症候は背がむくむ、足がむくむ、そして脈を見ますと不整脈です。数が多い、欠滞のような脈を示すこともあります。非常にとりにくい脈証でございましたが、脈証によって水虚証と診見まして、まあこれは水の陰虚証ですから腎の虚証ということになります、こうなれば、もうこのツボは要穴の模式できまってくるんでありますから、あとは鍼を刺してその脈状に変化が出るか出ないかを見るだけのことなんで、鍼をどこえ刺すかということは、もう皆さん御案内の通り陰谷、復溜、陰谷は膝です。復溜も足ですが、そこへ鍼を刺してとどめておく、つまり補するという意味から、そして又、脈を見る。その脈が数の上から百グライあったのが九十になれば、これは病的脈状から健康的脈状の方向に向かって回復しつつあるということがいえる。

もう一つは脈のリズムの問題、調律の問題、これがどうなってくるかこないか、乱調子であればこれはいけないわけです。からだがいけないから乱調子の脈が出てきた。それをからだの状態をよくするような意図のもとに鍼を刺したところが、脈そのものの乱調子が漸次正しい律動をおびてきた。調健が回復してきたということは、からだそのものの機構が、内部機構がよくなってきたということでしょう。このようにして鍼を刺してみては脈を診、鍼を刺しては脈を診るというふうに何べんもやっていくうちにだんだんとなるほどこれはおもしろいなということがわかってくるんであります。鍼を刺すことによって脈に変化がくるということは、結局鍼がごく僅かな刺激とわれわれが考えているにもかかわらず鍼の刺激に対して生体として反応を及ぼしておるということでしょうね。そればかりじゃないんです。われわれ臨床上において患者に鍼をする。そうすると、先生、ちょっと小便にいっています。御不浄を借ります。そういう患者がある。小便にいくということはこれはいいことなんです。小便というものはためておくべきものじゃないんです。あれは出た方がいいんです。小便が出たくなった、といえば、いっていらっしゃい。これもいいことなんです。鍼を刺すとゲップが出る人がいたと同じように膀胱が運動しているわけなんです。直腸が運動をするわけなんです。そのように他の臓器が運動をしているはずなんであります。これも見た方もあると思いますが、フランスのニボイ博士の Essai sur L’ Acupuncture Chinoise Pratique 『支那の鍼の方法』という書物に三部九候の脈を区別し、あるツボに三部九候の脈図をとり、さらにそれに鍼をしてその脈の動揺、いわゆる脉搏の曲線図の変化の研究を報告しています。これはフランスではぼつぼつやっております。そういった刺鍼と穴と脈の関係が書物に出ているのであります。このような研究の方法による鍼の研究はフランスばかりでなく、ドイツでもやっています、今にすばらしい研究が出るでせう、それから三部九候の六部定位の脈の配当ですが、これも我々が日常取っているのと同じように使っています。こっちが左です。これが右の寸間尺で、これが陽でこれが陰です。これはここの脈でありますが、こういうふうに分けて、一部の陽、一部の陰ということを分けて、そうして研究しております。それからもう一つ、脈のとり方もやはり三本指をおいてとっております。フランスのドイツも脈のとり方は全く東洋と同じ。同じはずなんです。同じことをやっているんだからね。同じことをやっていますから寸間尺を定めてとっておるというわけですで、このことは世界に散在する鍼に関心をもっている世界中のドクターは、大部分はことにオーソドックス的に即ち正統的にやっておる、鍼灸というものは全部東洋医学的にやっておるということはいえる。それでないものは異端者であるということになる。

クラクシーにやるのが、正しい鍼灸のいき方である。鍼灸は東洋からでたんですから東洋風にやるのが正しい。従って鍼医は全部東洋風にやるべきなんだという、それはまことに当り前の話なんです。だからわれわれの方が今の西洋の鍼灸の先生方よりは、歴史もあり、研究も多いし、洗練されているので、ちょっと知識も技術も広いわけだと考えていいと思うのです。
そこで最後に申し上げたいことは、今申したように私の脈診というものは、当初に申し上げましたように臨床のための脈診である。換言すると鍼灸の臨床は脈診にパイロットにて、導かれて行き治療の順序をたててゆくべきである。その脈の取りようはさっき岡部君から午前中にお話があったろうと思うが、第一に祖脈を手にすることであります。これはだれでもわかります。遅数の脈ですが、これは数が多いか少ないか、時計を見て一分間かんじょうすれば誰にでもわかる。浮沈の脈ですが、これは浮いているか、つまり、表面にあるか、沈んでいるか、つまり、皮膚から深い部分で触れるかでわかる。脈を軽くさわったとき、重くさわったときによって浮沈はわかるはずだ。これが祖脈ですが、これに虚実の脈の診方、つまり脈搏が力強く感じるか、弱く感ずるかで、虚とか実とかというのです。これは触るか、数えるか、比較すればいいいのでその気になって、脈を診ればだれにでもわかるはずなんです。これから先がめんどうなんです、というのは、古来の脈に関する古典にはさまざまなことが書いてありますからね、昔の本には、まあ異説も出ておりますから、ここまでの脈の診方は現代医学と実は全く同じなのです、これに意味つけすることが、異なっている、がすべてこれらは経験の所産です、そこでわれわれが基いておるところの脈診の方法というものについて、御諒解を得ておきますが、診脉の方法については、明治以降大正、昭和まで生きぬいた実地臨床家の脉の診り方、その経験を基礎としてきたということです、この間、少くとも三十年、五十年とこの脉のことで心をくだき、みずから体験してきた人たちの方法に基いているということなんです、それらをモデルとしてその説をとっているんであります。最近さまざまな脉のとり方を主張する説もあります。ありますがわれわれのとっておるところの立場というものは、こういう体験に基いたいにしえの脉の教えであるということを、この際、この機会に申し上げておきます。鍼灸界の一部分の方々は、このような脉の診り方は独断である。三部九候[三部とは人体の上(顔面)・中(手)・下(足)のことで、それぞれに天・地・人の三部位があり、合計九部位の脈動をしらべることによって病気の所在と状態を知ろうというもの]そのものを分けるなぞは迷信だ。それは非科学的だという人のあることも承知しております。これは、経験医学であるたてまい上あたりまえなことでありまして、科学的解説が出来ないというまでなんだと考へますが私は非科学だとはいいたくないのであります。前科学であるといいたいのであります。評者は更にこういいます。五臓六腑を橈骨動脉部の一部分に配当するなどということはとんでもない非科学だ、迷信だこういわれますが、これも私はちょっと待て、これは前科学にしておいてもらいたい。科学がどういうふうになってゆくかまだわからないんですから、これから先があるんです。先がといったところが何年先になったらわかるか、それは分かりません、そう云う人間がいつ死ぬかもわからないのですから、何年先になるといったって、わかるまで、わからないと云うより仕方がありません、わかるように努力を積まねばならぬのです、これが科学的態度であり、科学を向上させる態度だと考へます。私は以上のように考えているのであります。前科学的であるが故に、やがて解明され得るだろうと、こういうふうに思っております。

でありますから昔の書物、古典又はわれわれの書いた、脉診書を読んでもらいたいというと戸部君が喜ぶでしょう、本が売れますからネ。(笑声)竹山君が東邦医学をやってから二十五年、三十年近くになるでしょうが、それに多くの人々が書いています、それをどうかまず病人の上で、患者の上で読んでもらいたい。あれを読んだだけじゃだめなんです。三部九候と聞いただけでも非科学なんだ。原理を現象におきかえてそのものを読んでもらいたい。現象として、書物を読んでもらいたい。これは故沢田健先生も常日頃、お弟子たちにいった言葉であると聞いております。病人にあらわるる現象を読んでもらいたい。現象の類別がいわゆる五行の横の系別化、あるいはそのプロセスと私は考へている、縦の系別、あの陰陽五行のいわゆる五行の色体表なぞというものも、いいかげんなものだといえばそれまでなんです。が、実はそうではない。生きた人間、生きた生物の現象においてわれわれが見た場合には、個々の類型を見ることができるし、個々にその臓器と臓器との相互関係に前後関係がある。プロセスがある。段階があるということをわれわれは見ることができるんであります。だから望聞問切というものは便宜上四つに分けてありますが、これは実は一つのものなんです。脉診においてさまざまな脉を区別するが、これは煎じつめれば祖脉に帰るでしょう。祖脉、虚実の脉に帰るでしょう。その個別がいわゆる二十四脉あるいは二十六脉、三十八脉というふうに古書に書いてあるさまざまな脉が出ているわけなんであります。これは著者経験の所産なんです。何にしてもわれわれが実際の病人を見る場合には、その病人が示すところの生態反応がいかなるものであるかをすみずみまでとらえるということの努力を忘れてはならないと思います。もし、その努力を欠いて患者に対する鍼医があったとするならば、これは鍼立てであって私はほんとうの意味の鍼医ではないと思うんです。われわれの病人を見る態度というものは、そのような態度でなければならないと思うんであります。そのような態度で脉を見る。また、鍼を刺すことによって次に起るところの病人にあらわるる現象をつかんでみようと努力するとき、その病人が、新しい知識と新しい体験をわれわれに教えてくれるものと私は考えて、日日の臨床に携っておるようなわけであります。
話が非常に抽象的というか、漠然としてとらえどころがないと思いますが、後ほどまた何か質問のときに補足させて頂きたいと思いますので、一応ここで脉診と臨床ということについての私の話を終わりにしたいと思います。御清聴感謝いたします。(拍手)

付記

東洋医学概論の教科書では、祖脈に関して次のような説明がされています。

『最も基本的な脈状であり、その定義も極めて単純である。臨床でも最低限区別できなくてはいけない脈状であり、特に六祖脈( 浮・沈・遅・数・虚・実脈 )は八綱弁証の六綱(表・裏・寒・熱・虚・実)と対応しており臨床意義は非常に大きい。脈象は病の本質を示していることが多く、祖脈の習得は病態の把握や誤診・誤治の予防に意義深い。』

スティーブ・ジョブズⅠ・Ⅱ

凄いカリスマなんだろうと思っていました。そして、凄いカリスマとはどういう事なんだろう、どういう人なんだろうと気になっていました。」
スティーブ・ジョブズが他界した2011年は日本では東日本大震災があった年です。そして国家試験に向けてスタートさせた年でした。スティーブ・ジョブズの伝記が出版されたのは知っており、是非とも読みたいと思っていましたが、その余裕はなく、今回やっとその機会を作ったというところです。
Ⅰが445ページ、Ⅱが430ページ、全41章の力作で、内容は想像を超えていました。今後50年間、ビジネス界においてスティーブ・ジョブズを超えるカリスマ、変革者は現われないだろうと感じました。そして、自分のブログにスティーブ・ジョブズを記録しておきたいと思いました。
ジョブズ曰く「洗練を突きつめると簡潔になる」ということなのですが、ずいぶんと長い長いブログになってしまいました。そのため、目次を付けさせて頂くことにしました。ネットで調べた事などがわずかに含まれていますが、すべて「スティーブ・ジョブズⅠⅡ」(講談社)の本の内容に基づいています。特に『』内の文章は、完全な引用です。

「スティーブ・ジョブズⅠ」
「スティーブ・ジョブズⅠ」
「スティーブ・ジョブズⅡ」
「スティーブ・ジョブズⅡ」

「スティーブ・ジョブズⅠ」の目次
「スティーブ・ジョブズⅠ」の目次
「スティーブ・ジョブズⅡ」の目次
「スティーブ・ジョブズⅡ」の目次

目次

1.ジョブズの功績
2.「最後にもうひとつ……」
3.スティーブン・ポール・ジョブズ
4.アップルコンピュータ
5.新ロゴ
6.現実歪曲フィールド (Reality distortion field / RDF)
7.“1984年”マッキントッシュ
8.1985年9月17日 会長職辞任のレター
9.アートとテクノロジーの交差点 
10.アップルの苦闘とジョブズ復活
11.社内改革
12.ジョブズの集中原理
13.シンク・ディファレント
14.iCEO
15.iCEOからCEO
16.iPhone開発の舞台裏
17.2011年8月24日の取締役会
付記1.「時代は変わる(THE TIMES THEY ARE A-CHANGIN)」ボブ・ディラン 1963年
付記2.著者略歴:ウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)

1.ジョブズの功績
これは最終章である第41章「受け継がれてゆくもの 輝く創造の天空」のはじめに出てきます。ジョブズの功績をその強烈な性格に重ねて解説がされています。
集中力もシンプルさに対する愛も、「禅によるものだ」とジョブズは言っています。そして、それに対して著者は次のようなことを続けていますが、私はジョブズの真骨頂とは、これではないかと思います。

『残念ながら、禅の修行によっても、禅的な穏やかさは心の平穏をジョブズは得られなかったが、これもまた、ジョブズらしさの一面と言える。ジョブズはせっかちでいらついていることが多く、それを隠そうともしない。ふつうの人間は心と口のあいだに調整器があり、凶暴な感情やとげとげしい衝動を適度に和らげて外に出す。ジョブズは違う。いつも、残酷なほど正直なのだ。「オブラートにくるんだりせず、ガラクタはガラクタというのが僕の仕事だ」』

この章で紹介されている業績は以下の11になります。原文のままです。
●アップルⅡ―ウォズニアックの回路基板をベースに、マニア以外にも買えるはじめてのパーソナルコンピュータとした。
●マッキントッシュ―ホームコンピュータ革命を生み出し、グラフィカルユーザインターフェースを普及させた。
●「トイ・ストーリー」をはじめとするピクサーの人気映画―デジタル創作物という魔法を世界に広めた。
●アップルストア―ブランディングにおける店舗の役割を一新した。
●iPod―音楽の消費方法を変えた。
●iTunesストア―音楽業界を生まれ変わらせた。
●iPhone―携帯電話を音楽や写真、動画、電子メール、ウェブが楽しめる機器に変えた。
●アップストア―新しいコンテンツ製作産業を生み出した。
●iPad―タブレットコンピューティングを普及させ、デジタル版の新聞、雑誌、書籍、ビデオのプラットフォームを提供した。
●iCloud―コンピュータをコンテンツ管理の中心的存在から外し、あらゆる機器をシームレスに同期可能とした。
●アップル―クリエイティブな形で想像力がはぐくまれ、応用され、実現される場所であり、世界一の価値を持つ会社となった。ジョブズ自身も最高・最大の作品と考えている。

「Apple I」から「iPad Air」まで--アップルの歴史を写真で振り返る。
アップルの歴史を写真で振り返る

2.「最後にもうひとつ……」
これは、同じく最終章にあり、伝記の最後を飾っています。この中から特に印象に残ったものをご紹介します。

自分は何をしてきたのか、自分は何を後世に残すのか。
最後にもうひとつ……

『いろいろな話をするなかで、自分はなにをしてきたのか、自分はなにを後世に残すのかについても、ジョブズは繰り返し語ってくれた。それを彼自身の言葉で紹介しよう。』

1982年、クパチーノの自宅にて
1982年、クパチーノの自宅にて
2004年、パロアルトの自宅にて
2004年、パロアルトの自宅にて

Ⅱ-p424:『僕は、いつまでも続く会社を作ることに情熱を燃やしてきた。すごい製品を作りたいと社員が猛烈にがんばる会社を。それ以外はすべて副次的だ。もちろん、利益を上げるのもすごいことだよ?利益があればこそ、すごい製品は作っていられるのだから。でも、原動力は製品であって利益じゃない。スカリーはこれをひっくり返して、金儲けを目的にしてしまった。ほとんど違わないというくらいの小さな違いだけど、これがすべてを変えてしまうんだ―誰を雇うのか、誰を昇進させるのか、会議でなにを話し合うのか、などをね。
「顧客が望むモノを提供しろ」という人もいる。僕の考え方は違う。顧客が今後、なにを望むようになるのか、それを顧客本人よりも早くつかむのが僕らの仕事なんだ。ヘンリー・フォードも似たようなことを言ったらしい。「なにが欲しいかと顧客にたずねていたら、“足が速い馬”と言われたはずだ」って。欲しいモノを見せてあげなければ、みんな、それが欲しいなんてわからないんだ。だから僕は市場調査に頼らない。歴史のページにまだ書かれていないことを読み取るのが僕らの仕事なんだ。』

 

Ⅱ-p425:『文系と理系の交差点、人文科学と自然科学の交差点という話をポラロイド社のエドウィン・ランドがしているんだけど、この「交差点」が僕は好きだ。魔法のようなところがあるんだよね。イノーベーションを生み出す人ならたくさんいるし、それが僕の仕事人生を象徴するものでもない。アップルが世間の人たちと心を通わせられるのは、僕らのイノベーションはその底に人文科学が脈打っているからだ。すごいアーティストとすごいエンジニアはよく似ていると僕は思う。どちらも自分を表現したいという強い想いがある。たとえば初代マックを作った連中にも、詩人やミュージシャンとしても活動している人がいた。1970年代、そんな彼らが自分たちの創造性を表現する手段として選んだのが、コンピュータだったんだ。レオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロなどはすごいアーティストであると同時に科学にも優れていた。ミケランジェロは彫刻のやり方だけでなく、石を切り出す方法にもとても詳しかったからね。』

 

Ⅱ-p427:『スタートアップを興してどこに売るか株式を公開し、お金を儲けて次に行く―そんなことをしたいと考えている連中が自らを「アントレプレナー」と呼んでるのは、聞くだけで吐き気がする。連中は、本物の会社を作るために必要なことをしようとしないんだ。それがビジネスの世界で一番大変な仕事なのに。先人が遺してくれたものに本物をなにか追加するにはそうするしか方法はないんだ。1世代あるいは2世代あとであっても、意義のある会社を作るんだ。それこそウォルト・ディズニーがしたことだし、ヒューレットとパッカードがしたこと、インテルの人々がしたことだ。彼らは後世まで続く会社を作った。お金儲けじゃなくてね。
アップルもそうなってほしいと僕は思っている。』

 

Ⅱ-p428:『僕は自分を暴虐だとは思わない。お粗末なものはお粗末だと面と向かって言うだけだ。本当のことを包みかくさないのが僕の仕事だからね。自分でなにを言っているのかいつもわかっているし、結局、僕の言い分が正しかったってなることが多い。そういう文化を創りたいと思ったんだ。
僕らはお互い、残酷なほど正直で、お前は頭のてっぺんから足のつま先までくそったれだと誰でも僕に言えるし、僕も同じことを相手に言える。ギンギンの議論をしたよ。怒鳴り合ってね。あんないい瞬間は僕の人生にもそうそうないほどだ。僕は、「ロン、この店はまるでクソだね」ってみんなの前で言える。全然平気なんだ。「こいつのエンジニアリングは大失敗だったな」って、責任者を前にしても言うこともできる。超正直になれる―これが僕らの部屋に入る入場料なのさ。
もっといいやり方があるかもしれない―みんなネクタイをして上流階級の言葉を使い、遠回しに非難するような感じで話し合う紳士のクラブ、みたいにね。でもそんなやり方、僕の知っているなかにはない。カリファルニア中産階級の出だからね。』

 

Ⅱ-p428:『前に進もうとし続けなければイノベーションは生まれない。ディランはプロステストソングを歌い続けてもよかったし、おそらくはそれで十分に儲かったはずだ。でも、彼はそうしなかった。前に進むしかなくて、1965年にエレキを採用したんだけど、それで多くのファンが離れていった。
1966年のヨーロッパツアーが最高だ。アコースティックギターで何曲か演ってすごい拍手を受けるんだ。で、のちにザ・バンドとなる連中をステージに上げるとエレキで演奏をはじめて、会場からブーイングが出たりする。「ライク・ア・ローリング・ストーン」を歌おうとした瞬間には、会場から「裏切り者!」って声が上がってね。それにディランは「めいっぱいでかい音で演るぞ!」ってがんがんにいくんだ。ビートルズも同じだった。進化し、前に進み続けるんだ。そうでなければ、ディランが言うように、「生きるのに忙しくなければ死ぬのに忙しくなってしまう」からね。』

 

Ⅱ-p429:『なにが僕を駆り立てたのか。クリエイティブな人というのは、先人が遺してくれたものが使えることに感謝を表したいと思っているはずだ。僕が使っている言葉も数学も、僕は発明していない。自分の食べ物はごくわずかしか作っていないし、自分の服なんて作ったことさえない。
僕がいろいろできるのは、同じ人類のメンバーがいろいろしてくれているからであり、すべて、先人の肩に乗せてもらっているからなんだ。そして、僕らの大半は、人類全体になにかをお返ししたい、人類全体の流れになにかを加えたいと思っているんだ。それは、つまり、自分にやれる方法でなにかを表現するってことなんだ―だって、ボブ・ディランの歌やトム・ストッパードの戯曲なんて僕らには書けないからね。僕らは自分が持つ才能を使って心の奥底にある感情を表現しようとするんだ。僕らの先人が遺してくれたあらゆる成果に対する感謝を表現しようとするんだ。そして、その流れになにかを追加しようとするんだ。
そう思って、僕は歩いてきた。』

3.スティーブン・ポール・ジョブズ
スティーブ・ジョブスは養子として大切に育てられました。以下はそれに関するものです。
●実母ジョアンは親切な医師を頼ってサンフランシスコに行き、その医師により出産後の養子縁組をアレンジしてもらった。ジョブスは当初は弁護士の一家に引き取られることになっていたが、先方が女の子を希望していたため成立せず、代わりに、機械に情熱を傾ける高校中退の父・ポールと会計事務の仕事に就くまじめな母・クララの息子、スティーブン・ポール・ジョブズとなることになった。
●ジョブズは養子だった当時について次のように語っています。『養子だと知っていたから独立心が強くなったという面はあるかもしれない。でも、捨てられたと思ったことはないんだ。いつも、自分は特別な存在だと感じていた。両親が大事にしてくれたからだ』
●マウンテンビューの自宅で、父親から機械や車について手ほどきを受ける。「スティーブ、ここがおまえの作業台だよ」と言いながら、父親は、ガレージにあったテーブルの一部に印をつけてくれた。
50年後のいまも、マウンテンビューの実家には父親が作った柵が家を取り囲んでいる。ジョブスは、その柵を著者(ウォルター・アイザックソン)に見せながら、「戸棚や柵を作るときは、見えない裏側までしっかり作らなければならないと教えられた。きちんとする人が大好きな人だった。見えない部品にさえ、ちゃんと気を配っていたんだ」と話しています。

マウンテンビュー
マウンテンビュー

マウンテンビューです。

画像出展:「Aerialarchives.com

4.アップルコンピュータ
『ジョブスをウォズニアック(スティーブ・ウォズニアック:もう一人の創業者、ジョブズより5歳年上、彼の弟がジョブスと同じ水泳チームにいた。そして、エレクトロニクスについてはジョブズなど足元にもおよばないほど詳しかった。当時、HP社のエンジニアでもあった)が空港で出迎え、ロスアルトスまでの車中でいろいろな名前を検討したマトリクスなど、技術系らしい名前も検討した。エグゼクテックなどの造語も飛び出した。パーソナルコンピュータズなど、わかりやすいがつまらない名前も検討した。翌日には書類を用意したいとジョブスが考えていたため、時間はあまりなかった。そして、ジョブスが「アップルコンピュータ」を提案する。「僕は果食主義を実践していたし、リンゴ農園から帰ってきたところだったし。元気がよくて楽しそうな名前だし、怖い感じがしないのもよかった。アップルなら、コンピュータの語感が少し柔らかくなる。電話帳でアタリより前にくるのもよかった」翌日の昼までにもっといい名前を思いつかなければアップルにしようとジョブズが宣言し、結局アップルに落ちつく。』

そして、「素晴らしいデザインとシンプルな機能を高価ではない製品で実現する」これが、アップルがスタートした時のビジョンであり、目標は競争に打ち勝つことでもなければお金を儲けることでもない、可能な限りすごい製品を作ること、限界を超えてすごい製品を作ることでした。

5.新ロゴ
『新しいロゴの制作を任せられたのは、アートディレクターのロブ・ヤノフだ。「かわいいのはやめてくれよ」とジョブズに指示されたヤノフは、リンゴをモチーフとしたロゴ、2種類を提出。ひとつは完全なリンゴ、もうひとつは一口かじった形だった。かじられていないほうはサクランボに見えたりするからと、ジョブズはかじられたほうのリンゴを選んだ。色はアースカラーのグリーンと空のブルーをベースにサイケデリックな色を挟み、ストライプ状にした6色カラーだ(印刷コストがすごくかさむロゴである)。パンフレットの表紙上部に、レオナルド・ダ・ビンチのものとされる格言を置いた。その後、ジョブズのデザイン哲学を支えることなる一文だ-「洗練を突き詰めると簡潔になる」。』

6.現実歪曲フィールド (Reality distortion field / RDF)
第11章は、この「現実歪曲フィールド」が取り上げられています。その書き出しは次のようなものです。

『アンディ・ハーツフェルドはマックチームに参加したとき、「やらなければならない仕事が大量にある」と、もうひとりのソフトウェアデザイナー、バド・トリブルから教えられた。
ジョブズが設定した期限は1982年1月。1年もなかった。「それは無理だ。不可能だ」とハーツフェルドは抗議したが、ジョブズは反対意見に耳を貸さないのだとトリブルは言う。「この状況は“スタート・レック”の言葉が一番よく表現できると思う。スティーブには、現実歪曲フィールド(Reality distortion field / RDF)があるんだ」 「は?」「彼の周囲では現実が柔軟性を持つんだ。誰が相手でも、どんなことでも、彼は納得させてしまう。本人がいなくなるとその効果も消えるけど、でも、そんなわけで現実的なスケジュールなんて夢なのさ」
名付け親のトリブルによると、この言葉は、“スター・トレック”の「タロス星の幻怪人」という回から思いついたという。宇宙人が精神力だけで新しい世界を生み出すお話だ。』

この、「現実歪曲フィールド」はこの本の中で度々出てきます。スティーブ・ジョブズの「特別なもの」をうまく表現できるのだと思います。以下、「現実歪曲フィールド」を列挙します。
●「現実歪曲フィールド」は警告でもあり賛辞でもある。
●「現実歪曲フィールド」は、カリスマ的な物言い、不屈の意志、目的のためならどのような事実でもねじ曲げる熱意が複雑に絡みあったものである。
●「現実歪曲フィールド」から逃れる術はない。自然界にはそういう力も存在するのだと受け入れてしまう。ジョブスは自分自身さえだましてしまうようにみえる。そうして自ら信じ、血肉としているからこそ、他の人たちを自分のビジョンに引きずりこめる。
●「現実歪曲フィールド」の根底にあったのは、世間的なルールに自分は従う必要がないという確固たる信念。そして源は頑固で反抗的な彼の個性だろう。

7.“1984年”マッキントッシュ   
1983年春、ジョブズは製品と同じくらい革命的で驚くようなコマーシャル(CM)を欲しいと考えていました。“1984年”は小説家、ジョージ・ウォーエルの作品であり、パーソナルコンピュータは個人に力を与えるツールではないという見方にをつながるものでした。そして、提案されたCMは、その“1984年”を否定し、体制に立ち向かう戦士のようにマッキントッシュを位置づけました。 
このCMを担当したのはシャイアット・デイ社、アップル担当はその後30年にわたってジョブズと付き合うことになった、リー・クロウ。強行に主張するジョブズは撮影だけで75万ドルという前代未聞の予算を用意しました。しかしながら、完成したCMを見た取締役会はその破壊的インパクトを恐れ、承認せずCEOのジョン・スカリーは広告代理店のシャイアット・デイ社に30秒と60秒のCM枠の売却を指示しました。これにより1本、30秒枠は売却されましたが、60秒枠はシャイアット・デイ社の消極的反抗により残されており、そして、そのCMはついに放送されました。

『第18回スーパーボールはロサンゼルス・レイダースがワシントン・レッドスキンズを圧倒し、第3クウォータの前半にもタッチダウンを奪う。その直後、リプレイ映像が流れるはずの場面で米国中のテレビがブラックアウト。2秒後、おどろおどろしい音楽が流れ、行進する男たちのモノクロ映像が不気味にスクリーンを満たす。全米で9600万人以上が、それまで見たこともないタイプのCMに見入った。その最後は、蒸発するように消えていくビッグ・ブラザーを信じられないという顔で見ている男たちの映像に、静かなアナウンスが重なる-「1月24日、アップルコンピュータがマッキントッシュを発売します。今年、1984年が“1984年”のようにならない理由がおわかりでしょう」。
これはもう事件だった。その晩、全国ネットの3大テレビ局すべてと50の地方局がこの広告をニュースで取り上げた。ユーチューブ登場前の時代、これほどの拡散は信じられないレベルだった。評価も高く、TVガイド誌もアドバタイジングエイジ誌も、過去最高のCMだと絶賛したほどだ。』

1981年のMAC開発チームのスローガン
“海軍に入るより、海賊であれ”

海軍に入るより、海賊であれ(Why join the navy if you can be a pirate?)
1981年にMAC開発チームのスローガンになっていた言葉です。当時はテキサコ・タワーの屋上に掲げられてたそうです。

画像出展:「Blog!NOBON+

8.1985年9月17日 会長職辞任のレター
マッキントッシュ発売から2年目を迎える前に、ジョブズはアップル社から拒否されます。そして、会長職辞任のレターはアップル社が上場したときのCEOだったマイク・マークラ宛てに送られます。

『1985年9月17日 親愛なるマイク 朝刊に、会長の僕の罷免をアップルが検討しているという記事がありました。どこから出た記事なのかわかりませんが、いずれにせよ、これは誤解を招くとともに僕に対して不公平な記事です。
あなたも覚えているはずですが、木曜日の取締役会で、僕は新会社を作ろうとしていることを話し、会長を辞任したいと申し出ました。
あのとき、取締役会は僕の辞任を受け入れず、1週間待ってくれと言ったはずです。その提案に僕が同意したのは、新会社に取締役が好意的だったから、また、アップルが投資することもあるという話だったからです。金曜日、新会社に参加するメンバーをジョン・スカリーに伝えたときも、アップルと新会社が協力できる分野を検討する意思があると言ってくれました。
ところがその後、会社は態度を硬化させ、僕と新会社に敵対するようになりました。ことここにいたれば、僕としても、辞職願を速やかに受理するよう、アップルに要求せざるを得ません。
ご承知のように、先日行われた組織再編の結果、僕は仕事もなく、定例の経営報告さえも読めなくなりました。僕はまだ30歳。まだまだ、なし遂げたいことがあるのです。
ここまでいっしょにやってきたのですから、別れも友好と威厳に満ちたものにしようではありませんか。 敬具 スティーブン・P・ジョブス』

NeXTコンピュータ
NeXTコンピュータ

”新会社”のNeXTコンピュータ

画像出展:「TechCrunch

9.アートとテクノロジーの交差点 
1985年の夏、ジョブズがアップルで地歩を失いつつあった時期のことです。「スター・ウォーズ」の前半三部作を完成させたところだったジョージ・ルーカスは離婚問題から、自身が持つ映画スタジオのコンピュータ部門の売却を模索しており、コンピュータ部門を束ねていたエド・キャットムルに買い手を早く見つけるように指示をしていました。それがジョブズに伝わったのは、ゼロックスPARCから移籍してアップルフェローとなったアラン・ケイのはたらきかけによります。これは、ジョブズが創造性と技術が交わるところに興味を持っていたのを知っていたためです。ジョブズはルーカスのスカイウォーカー・ランチのはずれにある、キャットムルのコンピュータ部門を訪れ、次のようなことを語っています。

『圧倒されたよ。戻ったあと、買おうとスカリーを説得した。でも、アップルの経営陣は興味を示さなくて。僕をたたき出すのに忙しかったしね』

そして、この買収の意義についても語っています。

『「コンピュータグラフィックスに惚れ込んでいたので、どうしても自分で買いたかった。ルーカスフィルムコンピュータ部門の人々と会ったときわかったんだ。アートとテクノロジーを組み合わせるという面で、彼らはずっと先に行ってるって。僕がずっと興味を持っている領域で、ね」
もう数年したらコンピュータは100倍もパワフルになる、そうなればアニメーションやリアルな3Dグラフィックが大きく進む、ジョブズは考えた。
「ルーカスのところの連中が扱っていたのは、すさまじい処理能力を必要とする課題だった。だから、歴史が彼らに味方すると思った。ああいうベクトルは僕の好みだ」
ジョブズが提示した条件は、買い取り額として500万ドル、それに当該部門を独立の法人とする資金、500万ドルだった。ルーカスにとっては不満な条件だったがタイミングはいい。交渉がはじまった。ジョブズは態度が大きく挑発的だと思ったルーカスフィルムの最高財務責任者(CFO)は、序列をはっきりさせようと一計を案じる。まず、ジョブズを含む関係者を集め、その数分後にCFOが登場して、誰が会議の中心なのか示そうとしたのだ。しかし、うまくゆかなかったとキャットムルは証言する。
「おかしな具合になりまして……CFOなしでスティーブが会議をはじめてしまったんです。CFOが来たときには、もう、スティーブが全体を掌握していました。」』

ピクサーはイメージコンピュータとレンダリング(プログラムにより画像や音声を作る)さらに、アニメーション映画やグラフィックスというクールなコンテンツを組み込んだ、3つの要素をもっており、これらは芸術的創造性と技術系ギーク(geek:オタク)を組み合わせるというジョブズの方針と相性が良かったと考えられています。そして、ジョブズはピクサーを次のように評価していました。

『シリコンバレーの連中はクリエイティブなハリウッドの人間を尊敬しないし、ハリウッドの連中は連中で技術系の人間は雇うもので会う必要もないと考える。ピクサーは、両方の文化が尊重される珍しい場所だった』

ジョブズがピクサーにつぎ込んだ資金は、ネクストが赤字の中、アップルで得たお金の半分以上の5000万ドルに近い額とされています。そして、優れた芸術とデジタル技術を組み合わせれば従来のアニメーション映画を一変させられるという直感は、まさに先見の明と言えるものであり、1937年、ウォルト・ディズニーが「白雪姫」を生み出して以来、最大というほどの変化をアニメーション映画にもたらしました。

10.アップルの苦闘とジョブス復活
アップルは1990年代になり、経営環境は厳しさを増していくことになりました。

『アップルの市場シェアは、1980年代末の16パーセントをピークに下がり続け、1996年には4パーセントとなった。スカリーの後任として1993年にアップルのCEOとなったマイケル・スピンドラーは会社をサン、IBM、ヒューレット・パッカード(HP)などに売ろうとしたがいずれも失敗。1996年2月にはギル・アメリオに交代する。ナショナルセミコンダクター社CEOの経験を持つリサーチエンジニアだ。そのアメリオがCEOとなった1年目、アップルは10億ドルの赤字に転落し、1991年に70ドルだった株価は14ドルと低迷した。このころはテクノロジーバブルで、ほかの会社の株価はどんどん上がっていたというのに、だ。』

このように、極めて苦しい状況が続く中、1994年、ついにジョブズが動くことになります。それは、アメリオがアップルの取締役に就任した直後にジョブズがアメリオにかけた1本の電話です。そして、二人はナショナルセミコンダクター社のオフィスで会うことになりました。

『にこやかなあいさつが2~3分もあったあと(ジョブズにしては異常に長い)、ジョブズが本題を切り出した。CEOに返り咲く手助けをしてほしいというのだ。
「アップルの連中をやる気にさせられる人間はひとりしかいない。あの会社を正せるのはひとりしかいないんだ」
マッキントッシュの時代は終わった、だから、同じくらい革新的ななにかを生み出さなければならない-そう、ジョブズは主張した。
「マックがダメなら、何が代わりになるんですか?」アメリオはそうたずねてみたが、かんばしい答えは返ってこなかったという。「あのとき、スティーブは明確なイメージは持っていなかったようです。ただ、パンチを効かせた売り文句がいろいろとあるだけで」
これがジョブズの現実歪曲フィールドなのかと思い、アメリオはその影響を受けない自分が誇らしかった。そして、ジョブズをぞんざいに追い払った。』

この出来事からおよそ2年後、1996年夏には、問題は想像以上に深刻であることが判明します。それは、アップルが開発中の「コープランド(Copland)」という新しいOS(オペレーティングシステム)が、ベーパーウェア (vaporware:概要が発表はされたものの構想段階や開発段階にあり、まだ完成・公開されるかどうかわからないソフトウェアもしくはハードウェアのこと)で、ネットワークやメモリ保護機能の強化というアップルの二―ズを満足するものではありませんでした。こうして、アップルは「コープランド」に替るオペレーティングシステムを提供してもらえるパートナーを探し、選択するという判断に迫られることになりました。
●ビー(Be)
ビーは元アップル社の社員だったジャン=ルイ・ガゼーが起こした会社です。1996年8月のビーとの交渉では、アップルに他の選択肢はないと踏んでいたガゼーが極めて強気な提案をしており、アップルにとって他の選択肢も検討せざるをえない状況となりました。
●サン(Sun Microsystems)
アップルの最高技術責任者であったエレン・ハンコックはユニックスベースのサンのソラリス(Solaris)を推しましたが、ユーザーインタフェースに課題があるとの評価がありました。
●マイクロソフト
アメリオは徐々にウィンドウズNTに傾いていき、遂にはビル・ゲイツから電話がくるようになります。後に断りの電話を入れることになったのですが、その時、ゲイツは冒頭の2~3分、相当憤慨していたようです。
●ネクスト

『「誰か、この件で電話できるくらいスティーブと親しい者はいないか?」アメリオ(CEO)はこうスタッフにたずねた。2年前のミーティングが険悪な雰囲気で終わったため自分からは電話をかけたくなかったのだ。だが、その必要はなかった。ネクスト側から接触の動きがあったからだ-ネクストで製品マーケティングを担当する中間管理職、ギャレット・ライスがジョブズに無断でエレン・ハンコックに電話をかけ、ネクストのソフトウェアを見てみないかと声をかけてきた。ハンコックは部下を派遣する。
1996年11月の感謝祭が来るころ、両社は実務者レベルで話し合うようになっていた。そして、ジョブズからアメリオに直接電話が来る。
「これから日本に行くけど1週間で戻る。戻ったらすぐに会いたいと思う。それまで、なにも決めないでほしい」
過去の経緯があったにもかかわらず、アメリオはこの電話に心を躍らせ、いっしょに仕事ができるかもしれないとうれしくなった。
「あの電話をスティーブから受けたときは、ビンテージのワインの香りをかいだような気がしました」
ジョブズと会うまでビーともほかのどことも、どのような取り決めもしないとアメリオは約束する。
ジョブズにとってビーとの対決はビジネスと私怨、ふたつの意味があった。ネクストは倒れかけており、アップルによる買収は喉から手が出るほど欲しい救命策だった。同時に、ジョブスには、かなり強い恨みを抱く複数の相手がおり、ガゼーはそのトップ近くに位置していた(スカリーよりも上かもしれない)』

『1996年12月2日、スティーブ・ジョブズは、追放から11年ぶりにアップルのクパチーノキャンパスに足を踏み入れ、役員用会議室でアメリオとハンコックを前にネクストの売り込みをおこなった。ホワイトボードにいろいろと書き殴りながら、

「ネクストを契機として、コンピュータシステムに4つの波が生まれた」

と語る。ビーOSは完全でもなければネクストほど優れてもいない。なんの敬意も感じていないふたりを相手にしているというのに、この日のジョブズは魅惑の術を全開にしていた。控えめなふりも最高だった。
「それはありえないと思うかもしれませんが、お望みの形で交渉に応じます。ソフトウェアをライセンスする、会社を売却する、あるいは別の形でも」
じつはすべてを売ってしまいたいとジョブスは考えており、売却をプッシュする。
「詳しく見れば、ソフトウェア以上のものが欲しいと思われるはずです。人材ごと、会社全体を買収したいと思うはずです」』

ネクストとビーの最終決戦は、1996年12月10日、パロアルトのガーデンコートホテルで行われました。先攻はネクスト、ジョブズは催眠術のような営業テクニックを披露しました。アメリオはその時の様子を次のように話しています。

『ネクストオペレーティングについてスティーブが展開したセールストークは目がくらむほどのものでした。マクベスを演じるローレンス・オリビエを描写しているかのように利点や強みを次々とたたえていったんです』

後攻のガぜーは、まるで契約は自分のものに決まっているかのようなふるまいで、新しいプレゼンテーションはなく、ごく短時間に終わりました。結果は明白でした。
ネクスト買収を発表する数日前、アメリオはジョブズに、アップルでオペレーティングシステムの開発を統括してほしいとの要請をしています。しかしジョブズはなかなか返答せず、発表当日になってもジョブズの待遇は決まっていませんでした。その発表当日、アメリオはジョブズをオフィスに呼んだもののジョブズははっきりした態度をとりません。発表を前に必死なアメリオに対し、ジョブズは最後の最後に「会長のアドバイザー」を要求し決着がつきました。
買収は、1996年12月20日の夜に発表され、ジョブズの役割は、本人の希望どおり、非常勤のアドバイザーとされました。ジョブズの復活はアップル社によるネクスト社買収というシナリオによって成されました。
翌日、ピクサーに出社したジョブズは、ジョン・ラセターのオフィスへ向い、アップルで仕事をすることの許しをえるために、次のような言葉を残しています。なお、ラセターはこの申し入れを気持ちよく受け入れています。

『このせいで家族との時間がどれだけ減るだろうか、また、僕のもうひとつの家族、ピクサーとの時間がどれだけ減るだろうかとずっと考えていた。でも、アップルがあったほうが世界は良くなる。そう信じるからやりたいと思うんだ』

ネクストとビーの最終決戦の舞台。
パロアルトのガーデンコートホテル

ネクストとビーの最終決戦の舞台となった、パロアルトのガーデンコートホテル

画像出展:「Booking.com

 

11.社内改革
アメリオが解任となり、暫定CEOとなったフレッド・アンダーソンはジョブズが実権を握ることも理解していたと思います。ジョブズが認めた発表文書には、「90日間、アップルへの関与を増やし、新しいCEOが見つかるまでアップルを支援することに同意した」との内容が記述されていました。

『「みんな、ウチのなにが問題なのか、ちょっと教えてくれないかな」
ところどころからつぶやきがあがるが、ジョブズはそれをさえぎるように宣言する。
「製品だ!」
「じゃあ、製品のなにが問題なんだ?」
また、ところどころから答えようとする声があがる。それにかぶせ、ジョブズが正解を叫ぶ。
「製品がボロボロ! セクシーじゃなくなってしまった!」』

こうして、表向きは非常勤のアドバイザーであったジョブズは以下のような社内改革に着手しました。
製品のデザイン
切り捨てる事業の選定
サプライヤーとの交渉
広告代理店の再評価
ストックオプションの価格改定(株価の大幅下落でオプションは価値がなくなっていた。当時、このやり方は合法だったが、企業としてすべきではないと考えられていた。取締役会は最大2ヶ月の調査を提案したがジョブズは却下し、強引に承認を取り付けた)
続いてターゲットにされたのは、承認されるも敬意を持てない取締役会でした。

『「この形はやめよう。これじゃうまくいかない。会社がぐちゃぐちゃの状態なのに取締役会の乳母役までやっているヒマはないんだ。取締役は全員、辞めてくれ。そっちが辞めないなら僕が辞め、月曜日からは出社しない」

例外として残っていいのはエド・ウーラード(デュポンの元CEO、アップルの取締役会長でジョブズを推していた)だけというのだ。取締役のほとんどはあっけにとられた。ジョブズ自身は、フルタイムで復帰することも「アドバイザー」以上の役割を果たすことも約束しない。それなのに、全員に辞任を迫る力があると感じているわけだ。認めたくないが、実際、その力がジョブズにはあった。ジョブズに怒って出て行かれたらどうにもならないし、そもそもアップル取締役を続けていることに魅力もなくなっていた。
「もううんざりという状況だったし、辞められてほっとした人も多かったはずだ」

とウーラードも証言する。』

この後、ジョブズとウーラードは新しい取締役の選定を一任されます。アップル取締役会の再編はその後何年もかけて、新しい取締役を迎えてゆきます。
『人選のポイントは忠誠心で、極端といえるほどの忠誠心を求めることもあった。ジョブズが招いたのは高い地位にある人ばかりだが、いずれも、ジョブズに畏れや恐れを抱き、また、ジョブスにはいい気分でいてほしいと願っているように見えるメンバーばかりだった』
元証券取引委員長で、アップルコンピュータの熱烈なファンであった、アーサー・レビットはアップル取締役就任を一度は打診されたのですが、取締役会に独立した権限を与えるというコーポレートガバナンスに関するレビットのスピーチをジョブズは読み、就任要請は取り下げるためレビットに電話をいれます。
『アーサー、うちの取締役会は君にとって居心地がよくないだろう。取締役への就任は取り下げるのが一番だと思う。正直なところ、あなたの主張にはアップルの文化にそぐわないところがあるんだ。会社によっては正しい主張だと思うけどね」
レビットはのちにこう書いている。
「あのときは落ち込みました……アップル取締役会はCEOから独立した組織ではない―それは、私の目にはあきらかでした」』

12.ジョブズの集中原理  
なにをしないのか決めるのは、なにをするのか決めるのと同じくらい大事だ。会社についてもそうだし、製品についてもそうだ』

ジョブズは、アップルに復帰すると同時にこの集中原理を適用していきます。製品レビューでは各部門の官僚主義と小売店の思いつきを満足させるため、どの製品もすさまじい種類が作られていました。マッキントッシュだけでも10種類あまりあり、1400から9600の数字で区別されるというわけのわからない状態でした。これを知った1~2週間後、ついにジョブズの堪忍袋の緒が切れます。

『「もういい!」

全社的な製品戦略のセッションだった。

「あまりにバカげている」
マーカーを手にするとホワイトボードのところへゆき、大きく「田」の字を描く。
「我々が必要とするのはこれだけだ」

そう言いながら、升目の上には “消費者” “プロ”、左側には “デスクトップ” “ポータブル” と書き込む。各分野ごとにひとつずつ、合計4種類のすごい製品を作れ、それが君たちの仕事だとジョブズは宣言した。
「皆、シーンとしてしまいました。」

とシラーは言う。ジョブズがこの件を報告した9月の取締役会もウーラード(取締役会長)によると、皆、あぜんとしたという。
「ギルは毎月のように、製品を増やす承認をしてくれと言ってきました。もっとたくさんの製品がいると言い続けたのです。なのにスティーブは減らせというのです。2マス×2マスの表を書いて、そこに集中すべきだと」
取締役からは反対意見が出た。それは大きなリスクだと。
「大丈夫。うまくやってみせる」
この新戦略の採決はおこなわれなかった。指揮官はジョブズであり、そのジョブズが先陣を切って走っていたからだ。
こうして、アップルのエンジニアとマネージャはわずか4分野に集中することになった。プロ用デスクトップはパワーマックG3、プロ用ポータブルはパワーブックG3.消費者用デスクトップはのちのiMac、消費者用ポータブルはのちのiBookだ。
言い換えれば、プリンターやサーバーなど、4分野以外の事業からは撤退である。』

13.シンク・ディファレント
1997年7月、広告史に残るマッキントッシュの「1984年」CMを作ったシャイアット・デイ社のクリエイティブディレクター、リー・クロウにジョブズが電話をしています。

『「やぁ、リーかい? スティーブだ。じつはね、アメリオが辞任したんだ。ちょっと来てもらえないかな?」
そのころジョブズは広告代理店の見直しを進めていたが、ぴんと来るところがなく、クロウとその会社(名前はTBWA/シャイアット/デイに変わっていた)にもコンペに参加してほしいと思ったのだ。
「アップルはまだ元気だ、いまも特別なんだと示さなきゃいけない」
ウチは営業しないとクロウは答える。
「我々のことはよくご存じなはずです」
そこをなんとか頼むとジョブズ。BBDOやアーノルドワールドワイドといった有名どころを含め、数多くの広告代理店が売込みに来ており、それを押しのけて「昔なじみ」に頼むのは難しいというのだ。では、なにかお見せできるものを持ってクパチーノにうかがいましょう、とクロウも承知した。
私にこの話をしてくれたとき、ジョブズは肩を震わせ、涙を浮かべた。』

そして、ジョブズはこの一件のことについて、次のように語っています。

『このときのことを思い出すと、涙が出るんだ。止まらなくまるほどに。リーはアップルを深く愛してくれているとよくわかった。広告界トップの男だ。営業など10年もしていない。その彼が心を込めたプレゼンをしてくれた。僕らと同じくらいアップルを愛しているからだ。彼らが持ってきたのは、「シンク・ディファレント」というすごいアイデアだ。ほかに比べて10倍はすごいものだった。リーの深い愛と「シンク・ディファレント」のすばらしさ―あのときも込み上げるものがあったし、いま、思い出しても涙が出てしまう。
ときどき「純粋なもの」に出会うことがある。精神や愛という純粋さに。そういうとき、僕はいつも泣いてしまうんだ。心に染みてね。あのときもそうだった。あれは忘れることができない。事務所で彼の話を聞いたときも泣いてしまったし、いま、思い出しても泣けてしまうんだ。』

ジョブズはこの広告は世間に対する広告であると同時に、アップル社内に向けた広告でもあったことを明かしています。

『アップルの人間も、アップルとはなにか、自分たちはどういう人間なのかがわからなくなっていた。それを思い出すきっかけには、誰が自分にとってヒーローなのかを考えてみるといい。あのキャンペーンはこうして生まれたんだ』

以下は完成した60秒のフルバージョンです。
『クレージーな人たちがいる。反逆者、厄介者と呼ばれる人たち。四角い穴に丸い杭を打ち込むように、物事をまるで違う目で見る人たち。彼らは規則を嫌う。彼らは現状を肯定しない。彼らの言葉に心を打たれる人がいる。反対する人も、称賛する人もけなす人もいる。しかし、彼らを無視することは誰にもできない。なぜなら、彼らは物事を変えたからだ。彼らは人間を前進させた。彼らはクレージーと言われるが、私たちは天才だと思う。自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが、本当に世界を変えているのだから。』

この中で「彼らは人間を前進させた」など、一部はジョブズ自身が書きました。また、ナレーションはジョブズ自身によるものと、リチャード・ドレイファス(映画俳優)のものと、2つのバージョンが完成していましたが、最後の最後に選択されたのは、ドレイファスのバージョンでした。

 『僕の声を使った場合、それが僕だとわかった時点で僕の広告だと言われかねない。そうじゃなくて、あれはアップルの広告だから』というのが理由でした。

この広告はテレビだけでなく、ポスターでも展開されました。歴史に残る偶像となった人物の白黒ポートレートで、隅に小さくアップルのロゴと「シンク・ディファレント」という文字だけがあしらわれていました。アインシュタインやガンジー、ジョン・レノン、ボブ・ディラン、ピカソ、エジソン、チャップリン、キングなど、一目でわかる人々だけでなく、マーサ・グレアム、アンセル・アダムス、リチャード・ファインマン、マリア・カラス、フランク・ロイド・ライト、ジェームズ・ワトソン、アメリア・イアハートなど、すぐには判らない場人たちも含まれていました。
登場人物の大半はジョブズがヒーローと思う人々で、リスクを取り、失敗にめげず、人と異なる方法に自らのキャリアを賭けたクリエイティブな人たちです。写真マニアのジョブズは、完璧なポートレートを用意しようと獅子奮迅、妥協を許さず交渉を進めていきます。
ブランドを非常に大切にしたジョブズは、この「シンク・ディファレント」のキャンペーン以来、広告代理店やマーケティング、コミュニケーションのトップを集め、メッセージ戦略について自由な討論を3時間も続けるミーティングを毎週水曜日の午後に開いています。この会議には、もちろん、リー・クロウも出席しています。

『スティーブのようなやり方でマーケティングにかかわるCEOはほかにいません。毎週水曜日、新しいコマーシャルやポスター、ビルボード広告まで、一つひとつ、彼が自分でチェックし、承認するのです』

“Think different”
“Think different”

画像出展:「engadget.com」 

14.ICEO
アメリオを追放した10週間前から実質的なリーダーではありましたが、肩書きは単なる「アドバイザー」で、有名無実とはいえ暫定CEOにはフレッド・アンダーソンが就いていました。1997年9月16日、ジョブズはinterimCEO(暫定CEO)に就任すると発表されました(肩書きは、のちに、iCEOと省略される)。このあと数週間、ジョブズと取締役会は本命CEOを探します。コダックのジョージ・M・C・フィッシャー、IBMのサム・パルサミーノ、サン・マイクロシステムズのエド・ザンダーなど、さまざまな名前があげられましたが、ジョブズが取締役にとどまるならCEOにはなりたくないという回答が多く決まることはありませんでした。
12月に入ることには、iCEOという肩書きはinterim(暫定)からindefinite(無期限)へと変化していました。経営はジョブズが続けており、取締役会はCEOの探索をやめていました。
こうして、CEOとなったジョブズは2つの会社を経営することになったのですが、健康問題はこのころのハードワークが原因だろうと考えています。

『あのころはきつかった。本当にきつかった。僕の人生で最悪にきつい時期だった。小さな子どもがいて。ピクサーがあって。朝7時に出勤し、夜は9時に戻る。子どもたちはもう寝ている。口もきけなかった。疲れすぎて、文字どおり口も開けない状態だったんだ。ローリーンと話すこともできない。30分くらいテレビを見てぼーっとするくらいしかできなくて。死ぬかと思ったよ。毎日、黒いポルシェコンバーチブルでピクサーからアップルへと回るんだ。あと、腎臓結石もできちゃってね。病院に駆け込んで鎮痛剤のデメロールをケツに注射してもらったりしたけど、それもしばらくしたらやめてしまった。』

自身の健康を犠牲にしてまで2つのCEOを兼任し、特にアップル再興に心血を注いだ理由は次のようなものでした。

『ジョブズががんばった背景には、息の長い会社を作りたいという情熱があった。ヒューレット・パッカードでアルバイトをした13歳の夏休み、ジョブズは、きちんと経営された会社は個人とは比べものにならないほどイノベーションを生み出せると学んだのだ。「会社自体が最高のイノベーションになることもあるとわかったんだ。つまり、どういうふに会社を組織するのか、だよ。会社をどう作るかはとても興味深い問題だ。アップルに戻るチャンスを手にしたとき、この会社がなければ僕に価値はないとわかった。だから、とどまって再生しようと心に決めたんだ」』

HP9100
HP9100

スティーブ・ジョブズが興味をもったとされる、HP9100。

画像出展:「HP Computer Museum

アップルを救ったのは、ジョブズの「絞り込む力」でした。アップルに復帰した最初の年、ジョブズは3000人以上を解雇し、バランスシートの改善を図りました。ジョブズが暫定CEOとなった9月に終わった1997会計年度、アップルは10億4000万ドルの赤字でした。ジョブズによると、あと90日で倒産という、まさに瀬戸際だったとしています。
1998年のサンフランシスコ・マックワールドでは、印象的な髭にレザーのジャケットで新しい製品戦略を説明してゆきます。そして、のちにお約束となる一言をはじめて使い、プレゼンテーションを締めています。

『「ああそうだ、最後にもうひとつ……」
このときの「もうひとつ」は「シンク・プロフィット(利益を考えよう)だった。この一言に会場は拍手喝采となった。丸2年の赤字から、四半期で4500万ドルという黒字に転換したのだ。1998年会計年度通期では、3億900万ドルの黒字だった。
ジョブズが復活し、アップルも復活したのだ。』

15.ICEOからCEOへ
ジョブズは、アップル取締役会長のエド・ウーラードから、CEOという肩書きの前について暫定の文字をなくすよう、2年以上にわたって求められていました。しかしジョブズは本決まりのCEOになろうとしないばかりか、「年棒1ドル、ストックオプションなし」という条件でまわりを困らせていました。

『「50セントは出社分で、残りの50セントが成果の評価さ」
ジョブズお気に入りのジョークである。株価はジョブズが復帰した1997年7月の14ドル弱からインターネットバブルのピーク、2000年には102ドル以上になった。1997年当時、少なくともある程度の株は受け取ってほしいとウーラードに頼まれたが、ジョブズは
「アップルでいっしょに働く人たちに、金持ちになりたいから戻ったと思われたくないんだ」
と断っている。この株を受け取っていれば、4億ドル程度になったはずだ。しかしそのあいだ、ジョブズが稼いだ額はわずかに2.5ドルである。
復帰した当時、“暫定” にこだわったのは、アップルの将来がはっきりしなかったからだ。しかし2000年が近づいたころには、ジョブスの復帰でアップルが復活したことは誰の目にもあきらかだった。ジョブズは妻のローリーンと散歩しながら、大半の人にとって形式的な問題にすぎないが本人にとってはこだわりの問題についてじっくりと話し合った。暫定をなくせば、アップルはジョブズが思い描くことすべてのベースとなりうる。コンピュータ以外の分野に参入することもできる。ここにきてジョブズもようやく心を固めた。』

16.IPhone開発の舞台裏
2005年、iPodの販売が急増、前年の4倍、2000万台を出荷し、売り上げの45%を占め、さらにマックの販売にも貢献していました。その一方で、ジョブズは心配していました。

『「スティーブは、我々にとって大きな問題になりそうなことを常に気にしています」
と取締役のアート・レヴィンソンも言う。いろいろと考えてジョブズが達した結論は、

「徹底的にやられる可能性がある機器は携帯電話」

だった。デジタルカメラの市場はカメラ付き携帯電話の普及で食い荒らされていた。携帯に音楽プレイヤー機能が搭載されればiPodも同じようになりかねない―そう、取締役会へ説明した。
「携帯は誰もが持っているので、iPodが不要になってしまうかもしれない」』

最初の製品となった「ROKR(ロッカー)」は共同開発であり、モトローラ、アップル、そしてワイヤレス通信のシンギュラーの寄せ集めでした。

「こんな電話が未来なのか?」

とワイアード誌の2005年11月号の表紙で、ROKERは無残に切り捨てられてしまいます。この一件からジョブズは製品レビュー会議でiPodチームに怒りをぶちまけます。

『「自分たちでやろう」
売られている携帯電話はひどいものばかりで、かつてのポータブル音楽プレイヤーと似たような状況にあるとジョブズは考えた。
「携帯電話のあそこがイヤだ、ここがきらいだとそういう話をずいぶんした。とにかく複雑すぎるんだ。電話帳のように、こんなの使い方がわかる人なんているはずがないと思うような機能がたくさんある。わけわかんないよ」
弁護士のジョージ・ライリーによると、法的問題を検討するミーティングに飽きると、ジョブズはライリーの携帯電話を取り上げては、それがいかにボケナスか、問題点を次々にあげていたという。ジョブズらは、
「自分たちが使いたいと思う電話を作ろう」と盛り上がった。
「あれほどやる気が出る目的はちょっとないね」』

じつはそのころアップルでは、もうひとつのプロジェクトであるタブレットコンピュータの開発が秘密裏に行われていました。2005年、ふたつの話が交わり、タブレットのアイデアが電話プロジェクトに伝えられます。つまり、iPadのアイデアが先にあり、それをもとにiPhoneは生まれました。

マルチタッチ
この時、マイクロソフトもタブレットPCの開発を進めており、ジョブズと同じ年で友人でもあった、ビル・ゲイツはジョブズに接触していました。

『マイクロソフトはそのタブレットPCソフトウェアで世界を一変させ、ノートパソコンを一掃する、だから、アップルも彼(スティーブ・ジョブズ夫妻の友人と結婚したマイクロソフトのタブレットPCの開発をしているエンジニアのこと)が作ったソフトウェアのライセンスを受けるべきだと彼(ビル・ゲイツ)がしつこくてね。でもね、やり方からして根本的に間違ってたんだよ。スタイラスペンを使うっていうんだから。スタイラスペンという時点でおしまいだ。あの話をされたのはディナーパーティが10回目くらいのときだったかなぁ、あまりにいらついたんで、戻ったとき、

「こんちくしょう、タブレットとはどういうものか目に物見せてやる」って言ったんだ。
翌日出社すると、ジョブズはチームを集めて宣言する。
「タブレットを作りたい。キーボードもスタイラスペンもなしだ」
入力はスクリーンを直接指でタッチしておこなう。そのためには、複数の入力を同時に処理できるマルチタッチ機能を持つスクリーンが必要だ。
「だから、マルチタッチに対応できるタッチ機能付きディスプレイを作ってくれ」』

およそ6ヵ月後に用意されたプロトタイプは、会議室でジョブズひとりにデモされました。これはジョブズが一瞬で評価してしまうので、ジョブズひとりで他に誰もいなければ、何とか説得することもできるだろうと考えての、いわば保険でした。
しかし、ジョブズはこのアイデア(デモ)が気に入ります。

『「これが未来だな」
このアイデアを使えば携帯電話のインターフェースという問題も解決できるとジョブズは考えた。当時は携帯電話の優先順位が高かったので、電話サイズのスクリーンにマルチタッチインターフェースが搭載できるまでタブレットの開発は凍結とした。
「電話でうまくゆけば、タブレットにも使えるからね」
そう考えたジョブズはファデルとルビンシュタイン、シラーを呼び、デザインスタジオで秘密会議を開いてマルチタスクのデモを見せる。
「うわー!」
ファデルは思わず叫んでいた。全員、これはすごいと思った。問題は、これを携帯電話に搭載できるか否かだ。開発は両にらみで進めることにした。P1というコードネームでiPodのホイールを使った電話を、P2というコードネームでマルチタッチスクリーンを使った電話を開発する。
マルチタッチのトラックパッドは、フィンガーワークス社というデラウェア州にある小さな会社がすでに作っていた。デラウェア大学のジョン・エリアスとウェイン・ウェスターマンが創設した会社で、マルチタッチ機能を持つタブレットを開発し、ピンチやスワイプといった指の動きを有用な機能に変換する方法について特許を取得していた。

2005年のはじめごろ、アップルはこの会社と特許をすべて買い取り、創業者のふたりも雇い入れる。フィンガーワークスは製品の販売をやめ、新しい特許をアップルの名前で取りはじめた。ホイール型のP1とマルチタッチ型のP2、2種類の開発を6ヵ月おこなったあと、ジョブズは側近を集めて選定会議を開いた。

ホイール型の開発を担当したファデルは、いろいろとやってみたが電話がかけられるシンプルな方法が見つけられなかったと報告する。マルチタッチはエンジニアリング的に可能かどうかがはっきりせず、リスクが大きいが、そのほうがおもしろそうだし期待も持てる技術だった。
「やりたいのがこちらだというのは、一致した意見だと思う」
ジョブズはタッチスクリーンを指さす。
「動くようにしようじゃないか」
ハイリスク、ハイリターン。ジョブズが言う「会社を賭ける」ときだった。』

こうして、電話をかけたいときには数字のパッド、文字を入力したいときにはタイプライターのようなキーボード、あるいはまた、別のなにかをしたいときには必要となるボタンが表示される機能が生まれました。
この6ヶ月間、ジョブズは毎日必ずこのディスプレイの改良を手伝いました。ジョブズがチェックするポイントはシンプルにすること。チームメンバーは今までの電話を複雑にしている要素をシンプルにする方法を考え、それを何度も何度も繰り返しました。通話を保留したり電話会議にしたりする大きなバーを追加したり、電子メールを簡単に読めるようにしたり、アイコンを横方向にスクロールしてほかのアプリを表示できるようにしたりしました。こうして進められた改良はユーザーにとって、シンプルで使いやすいものとなっていきました。

ゴリラガラス
ジョブズは「材料」についても人並みはずれた関心と物凄いこだわりを持っていることがわかります。

『アップルに復帰してiMacを作り始めた1997年ごろは、半透明プラスチックや着色プラスチックでなにができるのかをいろいろと試した。次は金属。アイブ(ジョナサン[ジョニー] アイブ:豊かな感受性と情熱でアップルのデザインチームを率いる30歳[1997年当時]の英国人)とふたり、パワーブックG3の丸みを帯びたプラスチックケースをパワーブックG4ではチタンを使ったなめらかなものとした。その上、その2年後にはアルミニウムでデザインをやり直している。まるで、金属の種類を変えたらどうなるのか示したいというかのように。
iMacとiPodナノは陽極酸化処理を施したアルミニウムとした。酸化槽に入れて電気を流し、表面に酸化アルミニウムの保護膜を作る処理だ。必要な数量の処理ができないと言われたジョブズはわざわざ中国に工場を建設する。工場の立ち上げは、アイブが現地に出向いて指揮した。SARSが流行して大変なことになっていた時期のことだ。
「あのときは、3ヶ月間、寮に寝泊りしながら工場を立ち上げました。ルビーたちからは無理だと言われたのですが、スティーブも私も陽極酸化処理アルミニウムが一番だと思っていたので、どうしても実現したかったのです。」
その次はガラスだった。
「金属でいろいろやったあと、次はガラスをマスターしなきゃねとジョニー(アイブ)に言ったんだ」
そして実際に、アップルストアで大きな窓ガラス製の階段などを作る。iPhoneも、もともとはiPodと同じようにプラスチックのスクリーンにする計画だった。それをジョブズが、ガラスのほうがエレガントでしっかりした感じになると変えさせたのだ。傷がつきにくく強いガラスが必要だった。
ふつうに考えれば、探すべきなのは店舗用のガラスが大量に作られているアジアだろう。しかし、ニューヨーク州北部のコーニンググラス社で取締役をしている友人、ジョン・シーリー・ブラウンから、若くて精力的なコーニングのCEO、ウェンデル・ウィークスと話すべきだと提案された。ジョブズはコーニングの代表番号に電話をかけ、自分の名前を言ってウィークスにつないでくれと頼んだが、出たのはアシスタントで、自分がメッセージを伝えるという。
「スティーブ・ジョブズだ。直接話をさせろ」
この要求を拒まれ、ジョブズは、東海岸らしいひどい扱いを受けたとブラウンに愚痴る。この話を耳にしたウィークスがアップルの代表番号に電話をかけ、ジョブズと話がしたいと申し込むと、内容を書いてFAXで送れと言われる。この話を聞いたジョブズはいいやつらしいと感じ、ウィークスをクパチーノに招待した。
まず、iPhone用にどういうガラスが欲しいのかをジョブズが説明した。これに対しウィークスは、1960年代に化学交換法という製法を開発し、「ゴリラガラス」と呼ばれるガラスを作ったこと、信じられないほど強いが市場がなく、作るのをやめたことを話す。
そこまで強いガラスができるのは信じられないと、今度はジョブズがガラスの作り方について説明をはじめる。おもしろいとウィークスは思った。自分のほうがジョブズよりも詳しい分野だったからだ。
「しゃべるのをちょっとやめて、私に解説させてもらえませんか?」
ジョブズはびっくりしたように黙った。ウィークスはホワイトボードのところへ行き、イオン交換プロセスでガラス表面に密度の高い層を作る方法を化学的に説明した。納得したジョブスは、6ヵ月でできるだけたくさんのゴリラガラスを作ってくれと頼む。
「作れないんですよ。いま、そのガラスを作っている工場はないんです。」
「心配はいらない」
がジョブスの答えだった。これにはウィークスも驚いた。ユーモアと自信にあふれているが、ジョブズの現実歪曲フィールドには慣れていなかったからだ。根拠のない自信でエンジニアリング的な課題は解決できないと反論したが、その前提こそ、ジョブズが昔から繰り返し否定してきたものだった。ウィークスをじっと見つめる。
「できる。君ならできる。やる気を出してがんばれ。君ならできる」
この話を語ってくれながら、ウィークスは、信じられないという感じで首を振った。
「6ヵ月もかからずにやり遂げました。それまで作られたことのないガラスを作ったのです」
ケンタッキー州ハリスバーグにあるLCDディスプレイの工場を突貫工事で改造し、ゴリラガラスをフルタイムで生産できるようにしたのだ。
「トップクラスの研究員とエンジニアを投入し、むりやりできるようにしました」
ウィークスのオフィスはゆったりしているが、額に入った記念品はひとつしかない。iPhoneが完成した日、ジョブズからもらったメッセージだ―「君たちががんばってくれなければできなかったよ」。
ウィークスはジョニー・アイブとも仲良くなり、ニューヨーク北部の湖畔に建つ別荘にもときどきアイブを呼ぶようになる。
「同じようなガラスでも、ジョニーは感触で違う種類だとわかるのです。そのようなことができるのは、ウチでも研究部門のトップだけです。スティーブはなにかを見た瞬間に好きかきらいかに分かれますが、ジョニーはじっくりいじり、いろいろと敢闘して、微妙な違いと可能性を見つけるのです」』

 すべてやり直し
「トイ・ストーリー」、アップルストアで起きた、完成直前での大きな変更という大事件は、iPhoneでも起きてしまいました。

『当初は、ガラスのスクリーンがアルミニウムのケースにはめ込まれたデザインとなっていた。とある月曜日の朝、ジョブズがアイブのところに来て言う。
「昨日は眠れなかった。こんなんじゃダメだと気づいたんだ」
初代マッキントッシュ以来という重要な製品なのに、どうにも良くないというのだ。アイブもすぐに問題点を理解し、愕然とした。
「そこに気づく仕事を彼にさせてしまったことをとても恥ずかしく感じました」
iPhoneはディスプレイ中心であるべきなのに、そのときのデザインは、ケースがディスプレイと競うような存在感が大きかったのだ。機器全体が、力一杯、効率的に仕事をこなすぞという感じになっていた。
ジョブズはアイブのチームを前に宣言する。
「みんな、ここ9ヵ月、このデザインで必死にやってきたわけだが、これを変えることにした。これから全員、夜も週末も働かなきゃいけなくなった。希望者には、我々を撃ち殺す銃を配付する」
文句を言う者はいなかった。
「あれは、アップルをとても誇りに思った瞬間だった」
新しいデザインはゴリラガラスのディスプレイが縁ぎりぎりまで広がるように、ステンレススチールの細い枠で支える形となった。スクリーンが中心であり、ほかの部分はすべて道を譲る。新しいルックスは妥協を許さないものでありながらあたたかみが感じられた。いつくしむ対象になりうる。デザインを変更すれば回路基板からアンテナ、プロセッサーの位置まで、内部をすべて作り直す必要があるが、それでもジョブズは変更すると決めた。アップルならではだ、とファデルは感じた。
「ほかの会社ならそのまま製品にしてしまったかもしれません。でも、我々はリセットボタンを押して一からやり直したのです」
このデザインには、ジョブズの完璧主義だけでなく、コントロールの欲求までもが如実に反映されている。しっかりシールされているのだ。バッテリーを交換したくてもケースは開けられない。1984年に発売した初代マッキントッシュと同じように、なかを勝手にいじられたくないとジョブズが思ったのだ。2011年にアップルと関係ない修理ショップがiPhoneのケースを開いていると判明したときには、ネジを、ふつうに売られているドライバーでは回せないペンタローブという特殊ないたずら防止用のものに交換したほどだ。バッテリー交換という機能をなくせばiPhoneをかなり薄くできるというメリットもあった。ジョブズにとって薄いことはいいことなのだとティム・クック(コンパック・コンピュータ調達とサプライチェーンのマネージャを務めていた上品な37歳[1998年当時]、クックは後に、業務のマネージャからアップルの経営を裏で支えるかけがけのないパートナーへと成長する)は証言する。
「薄いほうが美しいとスティーブは信じています。その影響はすべての製品に表れています。もっとも薄いノートブックももっとも薄いスマートフォンもアップル製品ですし、iPadなど、薄く作った上でさらに薄くしたぐらいですから」』

発表(2007年1月10日)
『2007年1月、サンフランシスコのマックワールドでiPhoneを発表した際、ジョブズは、iMacのときと同じように、アンディ・ハーツフェルドにビル・アトキンソン、スティーブ・ウォズニアック、そして1984年のマッキントッシュチームを招待した。ジョブズは製品プレゼンテーションがすばらしいことで有名だが、なかでもこのiPhoneの発表は絶品である。
「ときどき、あらゆるものを変えてしまう革命的な製品が登場する」
そう語りはじめると、過去の例をふたつ、紹介する。まず初代マッキントッシュで、これはコンピュータ業界全体を変えた。もうひとつが初代iPodで、これは音楽業界全体を変えた。そして、発表に向けて慎重に伏線を張ってゆく。
「今日は同じくらい革命的な製品を3つ、紹介する。まず最初は、タッチコントロール機能を持つワイドスクリーンのiPodだ。2番目は、革命的な携帯電話。そして3番目。インターネットコミュニケーション用の画期的な機器だ」
この3つを繰り返して強調したあと、会場に問いかける。
「わからないかい? 3つに分かれているわけじゃないんだ。じつはひとつ。iPhoneっていうんだ」
その5ヵ月後の2007年6月末、iPhoneが発売となった日、ジョブズは妻とふたり、その興奮を味わいにパロアルトのアップルストアへ出かけていった。』

iPhoneアプリ
これは、第37章「iPad ポストPCの時代に向けて」の中の「デジタル世界を根底から変えたアプリ」に書かれているものです。あえて、ここを追記させて頂いたのは、革新的で魅力いっぱいの製品に加え、iPhoneアプリのビジネスモデルがあったことが、もうひとつの成功要因だと考えたからです。そして、ジョブズはこのiPhoneアプリについては、当初、話をするのも嫌がるほど否定していました。これが肯定されたのは、ジョブズの柔軟性でもありますが、取締役のアート・レヴィソンをはじめとする、アップルを愛し、iPhoneを信じ、そして何より正直だった人たちの総意がジョブズを変えさせたのだろうと思ったからです。

『アプリはiPhoneで導入された。2007年の前半にスタートした当時、アップル以外のディベロッパーから買えるアプリはひとつもなかった。だいたい、そういうことを許すつもり自体、ジョブズにはなかった。せっかくのiPhoneをぐちゃぐちゃにしたりウィルスに感染させたり、あるいはその完全性に傷をつけるようなアプリケーションを社外の人間に作らせるなどもってのほかだと考えていた。
他社製のiPhoneアプリを推進したひとりに取締役のアート・レヴィンソンがいる。
「数回は電話して、アプリの可能性を訴えました」
アプリを許可しなければ、いや、推進しなければ、そのうちどこか別のスマートフォンメーカーがやりはじめて強みにしてしまう。マーケティングのチーフ、フィル・シラーも同じ意見だった。
「iPhoneほどパワフルなものを作っておきながらディベロッパーにたくさんのアプリを作らせないなんて、そんなことはありえません。ユーザが大歓迎するのはあきらかでした」
社外からも、ベンチャーキャピタリストのジョージ・ドーアのように、アプリを許せば、アントレプレナーが次々に登場し、新しいサービスを生むようになると勧める声があがる。
このような提案をジョブズは当初、すべて退けた。アプリを開発する社外ディベロッパーをチェックし、秩序を守らせるという複雑な作業ができる余裕は社内にはないと思ったことも却下の理由だった。集中すべきと考えたわけだ。
「そんなわけで、この件については話をするのも嫌がっていました」
とシラーは言う。しかし、iPhoneが発売になると話に耳を傾けるようになる。レヴィンソンによると、取締役会でも自由な討論が繰り返されたそうだ。
「話をするたび、少しずつ、スティーブもその気になってゆきました」
そうこうしているうちに、ジョブズは、両方のいいとこ取りができると気づく。アプリの作成は社外の人間に許すが、アップルが試験し、厳格な基準を満たしていると承認したものだけをiTunesストア経由でのみ販売する形にすればいいのだ。これなら、何千人もの開発者に開発の権利を与えつつ、iPhoneの完全性とシンプルな顧客体験を守れるだけの管理が可能になる。
「これはスイートスポットをヒットする魔法のようなやり方だといえます。エンドツーエンドのコントロールを手放すことなくオープン性のメリットが得られるのですから」
とレヴィンソンは高く評価する。
2008年7月、iPhone用のアップストアがiTunesに開発され、その9ヵ月後には累計ダウンロード回数が10億回を突破する。iPadが発売された2010年4月、iPhone用アプリは18万5000本に達していた。そのほとんどはiPadでも使えたし(スクリーンサイズが大きくなってもメリットはなかったが)、それから5ヵ月のうちに、iPadに合わせて作られたアプリが2万5000本も登録される。2011年6月現在、iPhoneとiPadで合計42万5000本のアプリがあり、累計ダウンロード回数は140億回を超えている。』

17.2011年8月24日の取締役会
『健康状態が夏を通じて少しずつ悪化してゆき、ジョブズは、いつか訪れるとわかっていた現実と向き合わなければならなくなった―CEOとしてアップルに戻る日はもう来ないという現実だ。辞任するときが来たのだ。この件については、妻と話し合い、ビル・キャンベルと話し合い、ジョニー・アイブと話し合い、ジョージ・ライリーと話し合い、何週間も悩み続けた。
「アップルのために、権力の正しい譲り方を示しておきたいと思うんだ」
そう言うと、アップル35年の歴史はいつも波乱の交代劇だったと軽口をたたく。
「いつもドラマチックでね。第三世界の国かなんかかって感じだ。アップルを世界最高の会社にすることも僕の目標だし、そのためには権力を整然と譲ることが必要なんだ」
悩んだ結果、交代に一番適したタイミングと場所は、8月24日の定例取締役会だとジョブズは決心する。交代は辞表を送ったり電話で出席するのではなく、自分自身がその場に出向いておこないたかった。だから、むりやり食べて力をつけようとする。前日、なんとか行けそうだと感じたが車椅子なしではさすがに無理だった。なるべく人に見られないように注意をしながらアップル本社まで車で移動し、車椅子で会議に入る準備が整えられる。
ジョブズが着いたのは、委員会報告などの定例議題がそろそろ終わろうとする11時少し前だった。これからなにがあるのか、ほぼ全員わかっていたが、ティム・クックと最高財務責任者のピーター・オッペンハイマーはそのまま四半期の実績と翌年度の予測へと議題を進めた。その話が終わったところで、ジョブズから、個人的なは話がしたいと提案が出される。自分たち幹部社員は退席したほうがよいのかとクックがたずねる。ジョブズはたっぷり30秒ほども考え、そうしてくれと頼む。6人の社外取締役だけが残った部屋で、ジョブズは、その前何週にもわたって口述筆記で修正をくり返したレターを読みあげた。
「アップルCEOの職務と期待を全うできない日が来た場合、その旨、私から皆さんにお伝えすると前々から申し上げてまいりました。残念ながら、その日が来てしまいました」
レターはわずか8センテンス。シンプルで明快だった。後任はクックを推薦すること、また、取締役会長になる用意があることも書かれていた。
「アップルの前には、いままで以上に明るく革新的な未来があると私は信じています。今後は新しい立場からその成功を見守り、また、貢献したいと考えてもいます」
ジョブズがレターを読み終えたあと、沈黙が続く。最初に口を開いたのはアル・ゴアだった。ジョブズがなし遂げてきたさまざまな成果を挙げていく。ジョブズがアップルを変革していく姿ほどすごいものをビジネスの世界で見たことがないとミッキー・ドレクスラーが続き、さらに、スムーズな移行を実現したジョブスの努力をアート・レヴィンソンがたたえた。キャンベルだけは黙ったままだったが、経営権の移行を正式に決議する彼の目には涙が浮かんでいた。
お昼になると、スコット・フォーストールとフィル・シラーが開発中の製品の実物大模型を持ってきた。ジョブズはさまざまな質問やアイデアを次々とぶつける。特に第4世代の携帯電話ネットワークではどういう機能が実現されるのか、また、未来の電話にはどのような機能が必要になるのかについて熱心に検討した。音声認識アプリのデモでは、フォーストールが怖れていたとおり、途中で電話を取り上げ、アプリを困らせてやろうと勝手なことをはじめる。
「パロアルトの天気は?」
とたずねるが、アプリは正しく答える。これならどうだと、
「君は男かい? 女かい?」
とたずねるが、アプリはロボット的な音声でこう答える。
「性別は設定されておりません」
ぱぁっと雰囲気が明るくなった。
話題がタブレットに移ると、iPadにはかなわないとHP社があきらめた、我々が勝ったと喜びの声があがった。ジョブズはまじめな顔になり、それは悲しむできことなのだと宣言する。
「ヒューレットとパッカードはすごい会社を作り、それを信頼できる人々に任せたと思ったんだ。それがいま、バラバラになろうとしている。これは哀しいことだよ。アップルがそうならないよう、もっとしっかりしたものを残せたのならいいんだけどな」
取締役が集まり、順番にハグして、ジョブズを見送った。
幹部チームにニュースを伝えたあと、ジョブズはジョージ・ライリーに送ってもらった。ふたりが家に着いたとき、パウエルはイブに手伝ってもらって裏庭で蜂蜜の収穫をしていた。ふたりは蜂よけのスクリーンを外すと、リードとエリンがいるキッチンに蜜壺を運ぶ。そして、潔い引退と経営権の委譲を皆で祝う。ジョブスもスプーンいっぱいの蜂蜜を口に入れ、すばらしく甘いねと笑った。
その夜、ジョブズは、健康状態が許すかぎり、今後も会社には積極的にかかわっていきたいと私に想いを訴えた。
「新製品やマーケティングやそのほかの僕が好きなことに打ち込もうと思う」
しかし、自分が作りあげた会社の経営権を手放したことをどう思うのか、正直なところを聞かせてほしいとたずねると声が沈み、過去形でこう語った。
「すごく幸運なキャリアだったし、すごく幸運な人生だったよ。やれることはやり尽くしたんだ」』

ジョブズは癌と診断されたあと、息子のリードが夏休みにスタンフォードの腫瘍学研究室で大腸がんの遺伝子マーカーを見つけようとDNAの配列特定実験や突然変異がどう遺伝するのかを追跡する実験などを熱心におこなう姿をみて次のような話を残しています。

『僕が病気になってある意味良かったと言えることは少ないけど、そのひとつが、リードが優れた医師とじっくりいろいろな研究をするようになったことだ。21世紀のイノベーションは、生物学とテクノロジーの交差点で生まれるんじゃないかと思う。僕が息子くらいのころデジタル時代がはじまったように、いま、新しい時代がはじまろうとしているんだ」』

付記1.「時代は変わる(THE TIMES THEY ARE A-CHANGIN)」ボブ・ディラン 1963年
ここかしこにちらばっているひとよ
あつまって
まわりの水かさが
増しているのをごらん
まもなく骨までずぶぬれになってしまうのが
おわかりだろう
あんたの時間が
貴重だとおもったら
およぎはじめたほうがよい
さもなくば 石のようにしずんでしまう
とにかく時代はかわりつつある

 

ペンでもって予言する
作家や批評家のみなさん
目を大きくあけなさい
チャンスは二度とこないのだから
そしてせっかちにきめつけないことだ
ルーレットはまだまわっているのだし
わかるはずもないだろう
だれのところでとまるのか
いまの敗者は
つぎの勝者だ
とにかく時代はかわりつつある

 

国会議員のみなさん
気をつけて
戸口に立ったり
入口をふさいだりしないでください
傷つくのは
じゃまする側だ
たたかいが そとで
あれくるっているから
まもなくお宅の窓もふるえ
壁もゆさぶられるだろう
とにかく時代はかわりつつある

 

国中の
おとうさん おかあさん
わからないことは
批評しなさんな
むすこや むすめたちは
あんたの手にはおえないんだ
むかしのやりかたは
急速に消えつつある
あたらしいものをじゃましないでほしい
たすけることができなくてもいい
とにかく時代はかわりつつある

 

線はひかれ
コースはきめられ
おそい者が
つぎには早くなる
いまが
過去になるように
秩序は
急速にうすれつつある
いまの第一位は
あとでびりっかすになる
とにかく時代はかわりつつある

 

※歌詞対訳:片桐ユズル

※レコードの吹込みは1963年8月6日から10月31日まで(「時代は変わる」は10月24日録音)、6回のセッションで吹き込まれている。場所はニューヨーク。ディランの歌、ギター、ハーモニカのほか一切伴奏はついていない。中村とうよう

付記2.著者略歴

ウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)
ウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)

ウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)
1952年生まれ。ハーバード大学で歴史と文学の学位を取得後、オックスフォード大学に進んで哲学、政治学、経済学の修士号を取得。英国「サンデータイムズ」紙、米国「TIME」誌編集長を経て、2001年NにCNNのCEOに就任。ジャーナリストであるとともに伝記作家でもある。2003年よりアスペン研究所理事長。著書に「ベンジャミン・フランクリン伝」「アインシュタイン伝」「キッシンジャー伝」などのベストセラーがある。

小野田寛郎

昭和49年3月、テレビは1人の兵士を映し出していました。直立不動で目力などという生易しいものではない、その凄まじい眼光に完全に圧倒されました。
それが、ルバング島から帰還された最後の軍人 小野田寛郎少尉でした。

しかしながら、部活に没頭していた学生時代に小野田さんの本を手にすることはありませんでした。
そうして、40年後の1月、小野田さんの訃報が世間に流れたとき、「小野田さんの本を読まねば」という使命感のような思いが40年前の驚きと共に去来し、時を経ず1冊の本を購入しました。
小野田さんに対する評価は、必ずしも良いものだけではなく、ルバング島での行動を否定的にみる人もいます。私自身も一方的に敬服するというものではなかったのですが、少なくとも、その強靭な信念を連想させる眼光の鋭さは真実であり、否定することはできませんでした。その「不撓不屈」の精神にあやかりたいという少年のような気持ちもあり、手に入れた本は、40年前の強烈な写真が写っている「たった一人の30年戦争(東京出版新聞局)」という本で、直筆のサインが入った貴重なものでした。

ルバング島から帰還された最後の軍人 小野田寛郎少尉。
たった一人の30年戦争

小野田さんが昭和59年、1984年に設立された「小野田自然塾」は現在も継続されており、累計20,000人以上が日常では体験できないような事をこの塾で学ばれています。
これは本当に素晴らしい功績だと思います。(人数は「小野田自然塾」に確認させて頂きました)

”小野田自然塾”は昭和59年、1984年に設立されました。
”小野田自然塾”

最後に、この本を締めくくる「こぼれ酒」という一文をご紹介させて頂きます。私はこの本を読み終えたときに、小野田さんは真実の軍人であり、そして想像していた通りの素晴らしい人であるということを実感しました。

大正11年3月19日生まれの私はいま、73歳の人生を懸命に生きている。21年前、祖国に生還し、すぐブラジルへ移住して牧場開拓、やっと牧場経営が起動に乗ったのを機に、10年ほど前から子供たちのキャンプ「小野田自然塾」に残りの人生に賭けている。私は少し遅れたが、幸運にも帰還した。しかし“終戦”はなかった。
私はときどき、自分がいま生きていることが不思議に思えることがある。まず、あの戦争で生き残ったのが不思議である。次に、二人の戦友が死に、たった一人の戦争を続けていた昭和47年11月、ルバング島に最後の捜索にきていた政府調査団団長の柏井秋久氏(当時厚生省引揚援護局審査課長)はフィリピン空軍ランクード中将に、急きょ、マニラ司令部への出頭を命じられたという。
「速やかに小野田捜索に決着をつけられよ。比空軍兵士300名を貴下の指揮下に入れる。直ちに威力捜索を実施せよ」
威力捜索とは、集中砲火で敵をおびき出す強行作戦だ。柏井団長は「彼我に死傷者を出す危険性が高い」と合意文書へのサインを拒否し、決断はマルコス大統領にゆだねられた。大統領は柏井団長に「団長のお考え通りやりなさい。比側は可能な限り援助する」と告げた。
“投降”時にも危機があった。私に対する住民の報復を恐れ、西ミンドロ州知事が村々を説いて回った。案の定、険悪な雰囲気だった。そのとき、若い小学校女性教師が立ち上がり、涙ながらにこう訴えたという。「私の父はオノダに殺されました。でも、オノダの中では、まだ戦争は続いていたのです。」
私は無事に山を下り、いまこうして祖国で生きている。
戦後五十年のことし、阪神大震災に続き、日本中を震撼させた地下鉄サリン事件、子供たちのイジメ自殺まで、「生と死」を考えさせられる事件が頻発している。
私は戦場での三十年、「生きる」意味を真剣に考えた。戦前、人々は「命を惜しむな」と教えられ、死を覚悟して生きた。戦後、日本人は「命を惜しまなければいけない」時代になった。何かを“命がけ”でやることを否定してしまった。覚悟しないで生きられる時代は、いい時代である。だが、死を意識しないことで、日本人は「生きる」ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。
酒飲みの話によると、一番うまい酒はコップから受け皿にあふれた“こぼれ酒”だそうだ。いまの私の人生は、こぼれ酒のようなものである。しかし、下戸の私にはこぼれ酒のうまさはわからないし、余禄の人生を楽しむ余裕もない。
拾った命に感謝し、二人の戦友を“戦後”になって戦死させたという負い目を背負って、私は残りの人生を生きていく。平成七年、戦後五十年の夏 小野田寛郎

「小野田元少尉の思いを知って」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年1月27日 朝日新聞夕刊

追記2022年2月8日

ONODA 一万夜を越えて
ONODA 一万夜を越えて

昨日、下高井戸の映画館で小野田寛郎さんの『ONODA 一万夜を越えて』を観てきました。映画館で観るのは、たしか『ジュラシックパーク』以来ではないかと思います。知りたかったことは、なぜジャングルで29年間も耐えられたのかという点です。

その答えは、小野田さんの能力の高さと強靭な精神力、陸軍中野学校のブランドと洗脳、そして、喪った二人の戦友だったように思います。

一方、最後に待っていた孤独との闘いの中、その長く暗いトンネルの出口に導いた光は、遭遇した青年旅行者(鈴木紀夫さん)の柔らかな表情から浮かび上がった平和な日本の様子だったのではないかと思います。祖国、そして肉親への想いが一気に去来したということではないでしょうか。

鈴木紀夫さん(左)と小野田寛郎少尉
鈴木紀夫さん(左)と小野田寛郎少尉

こちらの画像はnbenの漫画ブログ”さまから拝借しました。

ウィキペディアによると、鈴木紀夫さんは冒険家であり、1986年11月、ヒマラヤ・ダウラギリIV峰ベースキャンプ附近で遭難されました(1987年10月7日遺体発見、享年37歳)。小野田さんは慰霊のため、そのヒマラヤを訪れています。映画での印象以上に小野田さんの鈴木紀夫さんに対する感謝の気持ちは、深く大きかったのだろうと思いました。