スペイン風邪と新型コロナ1

まさか生きているうちにパンデミックに遭遇するとは思ってもみませんでした。

前回のパンデミックは約100前の“スペイン風邪(インフルエンザ)”でした。「どんな状況だったんだろう?」という思いからネット検索し、スペイン風邪が日本に広がり始めたのは大正七(1918)年10月であることを知ったのですが、これには少し驚きました。というのは、102歳になっている母親の誕生月が1918年10月だったためです。当時は赤ん坊、今は認知症の高齢者のため、2度に渡ってその脅威に怯える必要はなかったのですが、歴史的には2度のパンデミック経験者ということになります。あらためて、長生きの凄さを実感します。

そんな背景もあり、スペイン風邪の実態を知りたいと思い、見つけたのが今回の本です。 

著者:速水 融

発行:2006年2月

出版:藤原書店

目次の黒字箇所を取り上げていますが、長くなったので前半、後半の2つに分けました。

新型コロナについては後半の最後に、日本を含めた12カ国の日々のデータ(10万人当たりの、“新規感染者数”・“累積死亡者数”・“累積検査数”など)の中から、第2波(フィリピンは第1波の第2の山というべきかもしれません)が大きかった日本、フィリピン、オーストラリアの3カ国について比較しています。

以下は本の表紙の裏側に書かれていたものです。簡潔でとても分かりやすいので最初にお伝えします。

『昨今、「新型インフルエンザ」の脅威が取り沙汰されている。現在、そのウィルスは幸いまだトリからヒトへの感染でとどまっている。しかし、いつそれがヒトからヒトへの感染に変わり、ジェット機時代のおかげで、瞬く間に世界中に広がるか分からない。1918年の人々にとっては、スペイン・インフルエンザがまさに「新型インフルエンザ」だった。世界で第一次大戦の4倍(4000万人)、国内では内地に限っても、関東大震災の5倍近く(45万人)の人命を奪った。これは20世紀最悪の人的被害であり、記録のある限り人類の歴史始まって以来最大でもある。しかし、この史上最悪のインフルエンザは、人々の記録から忘れ去られ、これを論じた著作は日本で一冊も書かれてこなかった。

筆者の願いは、とにかく「スペイン・インフルエンザ」に晒された人々の悲鳴を聞き、状況を知ってほしいという一言に尽きる。当時の人々は、そのような事態に直面して、どう対応したのか、政府は何らかの手を打ったのか、そして、なぜ忘れ去られたのか。将来「天災」のようにやって来るであろう新型インフルエンザに対する備えは、過去の歴史を知ることから始めなければならない。

目次

序章 “忘れられた”史上最悪のインフルエンザ

第1章 スペイン・インフルエンザとウィルス

◆なぜ「スペイン・インフルエンザ」か?

◆インフルエンザ・ウィルスの構造と特徴

◆新型インフルエンザ発生のメカニズム

◆ウィルス発見をめぐるドラマ

◆ワクチンも「タミフル」も万能ではない

第2章 インフルエンザ発生―1918年(大正7)年春~夏

◆三月 アメリカ

-⁻記録に残る最初の患者

-第一次世界大戦の戦況とインフルエンザの発生

-無視された「春の先触れ」

◆四月-七月 日本

-台湾巡業中の力士の罹患

-ウィルスはどこから来たか?

-軍隊での罹患者の増大

◆五月-六月 スペイン

-800万人が罹患

-「スペイン・インフルエンザ」という名称の誕生

◆七月-八月 西部戦線

-西部戦線の異状

-『京城日日新聞』のスク-プ

-両軍の動きを鈍らせたインフルエンザ

-軍隊から市民への感染拡大

◆「先触れ」は何だったのか?

-アメリカ西部の兵営を起点に拡散

-予防接種的な役割を演じる

-三週間で世界中に

第3章 変異した新型ウィルスの襲来-1918(大正7)年8月末以降

◆アメリカ

-港町で変異したウィルス

-欧州派兵とウィルス

-ディベンズ基地で猛威をふるったウィルス

-米軍戦没者の8割はインフルエンザによる病死か?

-当時の状況を描写した詩文

-文字に記されたインフルエンザと体制への憎悪

-アメリカ国内での感染の拡がり

-流行は1918年に限らない

-少なめに算出された死亡者数

-パニックに陥ったアメリカ社会

-戦勝気分に酔うその足元で

-貧富の違いによる被害の違い

◆イギリス

-最大の被害をもたらした第二波は6週間でイングランド全土に

-突出した壮年層の死亡者数

-三つの流行拡大のパタ-ン

◆フランス

-アメリカ軍、フランス軍、イギリス軍の順に感染拡大

-「アポリネ-ル症候群」

◆補遺

第4章 前流行-大正七(1918)年秋~大正八(1919)年春

◆本格的流行始まる

-前流行と後流行

-従来の記録よりも多い実際の死亡者数

-スペイン・インフルエンザ・ウィルスはいつ日本に襲来したのか?

-軍隊、学校が流行の起点に

-三週間のうちに全国に拡大

◆九州地方

-初期の報道-「ブタ・コレラ」、海外の状況

-罹患者の急増

-都市から周辺部への拡大

◆中国-四国地方

-10月末以降、死亡記事が急増

-「予防心得」、氷の欠乏、医療体制の不備、新兵の罹患

-比較的軽かった中国地方での被害?

◆近畿地方

-被害の大きかった京都、大阪、神戸

-地域によって異なる流行の再発

◆中部地方

-大都市より中小都市、郡部で蔓延

-11月に入り、死者増加

-後になるほど悪性を発揮

-被害が大きかったのは製糸業地帯

-「鶏の流行感冒」

-人口1000名中、970名罹患、70名死亡の村も

-生命保険加入推進のチャンス

◆関東地方

-新聞は意図的に報じなかった

-初発以来数十万人が罹患

-インフルエンザと鶏卵の不足

-記録に残された五味淵医師の奮闘

-前年秋を乗り切った人々が罹患

-東京府・東京市の対応

-報道にみる被害の実態

◆北海道・奥羽地方

-他地方より遅れた初発、その後の状況の悪化

-鉄道が伝染経路に

-郡部で長引く流行

-被害が比較的軽かったと言われる北海道

-一村全滅の例も

◆小括

第5章 後流行―大正八(1919)年春~大正九(1920)年春

◆後流行は別種のインフルエンザか?

-前流行と後流行の症状の違い

-前流行と後流行の間の状況

◆九州地方

-後流行の初発

-「予防の手なし」

◆中国・四国地方

-罹患者の二割が死亡

-地獄絵を見るような10日間

-軍隊内での流行

◆近畿地方

-最大の死亡者を出した地域

-年が改まり、死者がさらに増大

◆中部地方

-抗体をもたない初年兵に多い罹患

-二月に死者増大のピーク

-郡部で猛威をふるう

◆関東地方

-初めは軍隊から

-地獄の三週間

-一割強の死者

-鉱山町での大きな被害

◆北海道・奥羽地方

-軍隊が流行の発生源

-秋田県で最小、福島県で最大の被害

-交通の要衝地での感染拡大

-北海道での惨状

◆小括

 

第6章 統計の語るインフルエンザの猖獗

◆国内の罹患者数と死亡者数

-低く見積もられた『流行性感冒』における患者数と死亡者数 

-超過死亡(excess death)による試算

◆全国の状況

-死亡者数の合計

-月別の死亡者数

-死亡率の男女差

-年齢別死亡率

◆地方ごとの状況

-地方ごとの月別インフルエンザ死亡率

-都市のインフルエンザ死亡率

-府県別インフルエンザ死亡者数

-府県別インフルエンザ死亡率

第7章 インフルエンザと軍隊

◆「矢矧(ヤハギ)」事件

-最高級の資料

-上陸許可後に直ちに罹患

-緩慢な病勢進行と急速な感染拡大

-すでに罹患していた「明石」の乗組員

-マニラ到着直後の安堵

-死者続出の惨状

-階級による差

-症状に関する克明な記録

-同じように襲われた他の軍艦・商船

-「矢矧」の帰還

-ピーク後も未感染者に活動場所を見出すウィルス

◆海外におけるインフルエンザと軍隊

-地中海派遣艦隊を襲ったインフルエンザ

-シベリア出兵とインフルエンザ

◆国内におけるインフルエンザと軍隊

-陸軍病院の状況

-各師団の死亡者数

-海軍病院の状況

-新聞報道

◆小括

第8章 国内における流行の諸相

◆神奈川県

-豊富な資料

-流行の時期

-流行の初発

-死者の増大

-いったん終息、その後再発

-後流行の猛威

-与謝野晶子が感じた「死の恐怖」

-二つの貴重な統計

-僻地で高い罹患率

-都市部と農村部の違い

-郡部で罹患者死亡率の高かった後流行

-前流行と後流行の相関関係

-1920年1月における死者の激増

◆三井物産

-『社報』も語る死者の増大

-社員家族を襲った悲劇

◆三菱各社

-流行期に上昇している社員の死亡者数

-鉱山など生産現場に多い犠牲者

◆東京市電気局

-罹患者の多かった「春の先触れ」

◆大角力協会

-「角力風邪」

-「先触れ」で免疫を得た力士

◆慶応義塾大学

-民間における青年・壮年層の被害の実態

◆帝国学士院

-罹患と外出忌避による欠席者の増加

◆文芸界

-犠牲者

-文学作品

◆日記にみる流行

-原敬日記

-秋田雨雀日記

-善治日誌

第9章 外地における流行

◆樺太

-漁期に流行

-最も高い対人口死亡率

-先住民にも多くの死者

◆朝鮮

-内地と同時に流行

-死亡率の高い後流行

-行政は何をしたのか?

-免疫現象の確認

-統計資料の問題

-朝鮮での前流行の犠牲者は約13万人

-朝鮮での死者の累計は約23万人

-三・一運動とスペイン・インフルエンザ

◆関東州

-本地人により大きな被害

-関東州でも死亡率の高かった後流行

◆台湾

-台湾中に拡がり先住民も罹患

-台湾でも軍隊を起点に流行

-本地人と内地人(日本人)の間の被害の差

-死者は多いが、短期間で過ぎ去った流行

-先住民の被害

◆小括

終章 総括・対策・教訓

◆総括

-内地45.3万人、外地28.7万人、合計74万人の死者

-日本内地の総人口は減少せず/流行終息後の第一次「ベビーブーム」

-なぜ忘却されたか?

◆対策

-人々はインフルエンザにどう対したか?

-謎だった病原体

◆教訓

あとがき

資料1 五味淵伊次郎の見聞記

資料2 軍艦「矢矧」の日記

新聞一覧

図表一覧

第2章 インフルエンザ発生―1918年(大正七)年春~夏

四月-七月 日本

-台湾巡業中の力士の罹患

・『大正七年(1918)年の四月には、日本統治下の台湾で折から巡業中の大相撲(当時は「角力」と表記)力士が病気に罹り、三人が命を落とし、ほかの数名が入院するという事件が発生した。』 

画像出展:「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ」

“不思議な熱病現はる”

『悪寒から始まり、発熱、四肢の倦怠感、腰痛、38度から40度に達する高熱、約5日間で快方に向かう、としている。』

 

4章 前流行-大正七(1918)年秋~大正八(1919)年春

画像出展:「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ」

“太平洋を超て早くも日本へ”

『爆裂弾より恐ろしい西班牙(スパニッシュ)流行感冒 激烈なる流行速度』

 

本格的流行始まる

-前流行と後流行

・スペイン インフルエンザは、大正七(1918)年10月にはじまる流行を「前流行」、翌大正八(1919)年12月から始まる流行を「後流行」と呼ばれた。

-スペイン・インフルエンザ・ウィルスはいつ日本に襲来したのか?

・日本へウィルスが襲来したのは、大正七年9月末から10月初頭の頃であったと考えられている。

-三週間のうちに全国に拡大

・『10月20日を過ぎると、この病気が「流行性感冒」であることが一般に知られるようになり、各新聞とも「流行性感冒猖獗(ショウケツ)」あるいは「死亡者続出」という見出しのもと、軍隊だけでなく、学校の休校、官庁や鉄道・通信機関従事者の欠勤状況についての記事が多くなってくる。全国紙、または準全国紙では、国外や国内の他の地方の状況についての記事が多かった。以下では、全国を六つの地方に分け、仮定した伝染経路にしたがって、西日本から始めるが、その前に、「流行性感冒」に掲載されている各府県の感冒初発の時期を図4-1の地図に示そう。最も早いのは福島・茨城・山梨・奈良の四県であるが、これはむしろ例外で、大部分の府県では9月下旬から10月中旬であった。ほぼ三週間のうちに、スペイン・インフルエンザは全国に拡がった、と言えるだろう』

画像出展:「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ」

 

 

関東地方

-新聞は意図的に報じなかった

・東京については、10月24日の各紙で流行性感冒来襲を告げている。

10月25日以降、記事は事の重大性に気付いたごとく、深刻になってくる。

画像出展:「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ」

 

 

画像出展:「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ」

これ以降、「スペイン(西班牙)風邪」という呼称が一般化する。

 

 

・『10月中の市内の記事は、感冒流行、休校、遠足中止、職場の欠勤者についての報告、交通機関・通信等への影響等に関するものが多く、死亡についての記事は稀であった。しかし11月に入ると、死亡者の続出してきたことが「火葬場の満員 半数は流行性感冒」という見出しの記事(「都新聞」11月5日付け)から窺うことができる。曰く「……砂村、町屋、桐ケ谷、落合の四火葬場に毎日の如く運ばる運ばる病死者の数は殆ど枚挙に遑(イトマ)あらず、……火葬場は今や満員を告げ居りて三日以前に申込むにあらざれば応じきれぬ程の有様を呈し而も其病死者の半数以上は悪性感冒より肺炎、脳膜炎等を併発した結果なりと云う」。この段階では、各紙とも本文には東京市住民の死亡そのものについては何も伝えていないのに、火葬場が多忙なのは、スペイン・インフルエンザ・ウィルスが深く、静かに、東京市の住民に食い込んでいた結果であろう。』

・『この頃[1918年10月]を過ぎると、さすがに抑えきれなくなったのか、にわかに市内の死亡者に関する記事が目立つようになった。11月1日から4日までの4日間の死亡者は、本所区143名、浅草区137名、深川区97名、下谷区91名、牛込区46名とある(「都新聞」11月8日付)が、このうちどれだけが流行性感冒によるのかは判明しない。しかし、翌日の同紙の紙面では、11月になってからの5日間のうちにインフルエンザがらみの病因による死亡が全外の26パーセントに跳ね上がったことを「恐るべき実例」として衛生部長に語らせている。』

第5章 後流行―大正八(1919)年春~大正九(1920)年春 

画像出展:「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ」

“遊びにもマスクの世の中

 

 

関東地方

-地獄の三週間

大正九(1920)年になると、スペイン・インフルエンザは牙をむいて東京市民に襲いかかってきた。各紙とも一斉にその状況を伝えている。三河島火葬場に運ばれた遺体は、元旦・59、二日・149、三日・196、四日・157、五日・164に達し、処理能力の1日155体を越えたため、焼残しの出る日も生じた(「都新聞」1月8日付)。そのすべてがインフルエンザによる死亡ではなかったとしても、この明らかに異常な状況は、インフルエンザがいかに猛威を振るったかを示している。「時事新報」は、流行前の大正六(1917)年1月8日の東京市の死亡者が156名であったのを、「本年1月7日の235名と比較」している(1月10日付)  

大正九(1920)年1月11日の「東京朝日新聞」に掲載された死亡広告も被害の大きさを物語っている。 

画像出展:「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ」

 

 

 

正月明けで集中したとはいえ、これだけ黒枠広告が載るのは、やはりこの期間の流行性感冒による死亡者が多かったことの証明である。なかには、枢密顧問官芳川顕正伯爵、三村君平氏、秋山孝之輔夫人ら著名人の名も見られる。

しかし、本格的な殺戮は、1月中旬にやってきた。1月11日の「東京朝日新聞」第五面は、ほとんどが流行性感冒関連の記事で蔽われている。見出しのいくつかを取り出すと、「この恐ろしき死亡率を見よ 流感の恐怖時代襲来す 咳一つ出ても外出するな」、「市内一日の死亡者(流行性感冒による)百名に激増 一日以来の感冒患者総数実に九万人」、「元旦からの死亡者同区で二百五十名」、「流感悪化して工場続々閉鎖す」、「日に新患者六十名 第一師団の大恐慌」といった記事で、いよいよ地獄の三週間が始まった。』