【祝】百歳

先月、母親が100歳の誕生日をむかえました。

敬老会を主催された町内会の方からは「今回はこの町内に二人いました!」とのことで、あらためてすごい長寿国だと実感します。また、政府からは表彰状と銀杯を記念品として頂きました。

珍しいとはいえなくなった100歳ですが、そうはいっても凄いなぁと思います。思うに、母親の昔話を真剣に聞こうとしたこともなかったなぁと思います。そこで、全くのプライベートなことですが、100歳を理由にブログに書いてみることにしました。

これといってお伝えするようなことは何もないブログになると思っていましたが、結果的に二つの歴史的出来事に向き合うことになりました。それは、一つは“関東大震災”、もう一つは“東京大空襲”でした。

母親は大正七年(1918年)十月、六人兄弟の五番目として麻布で生まれました。残念ながら六人のうち四人は若くしてこの世を去りました。そして夫も三年足らずで亡くしました。

血を受け継いだ私同様、母親はかなりのマイペース型のためか結婚は遅く、三十後半、出産は四十でした。昭和33年(1958年)の女性の平均寿命は69.6歳だったので、2017年の平均寿命87.26歳と単純比較をすると、当時の40歳は今のおよそ50歳に相当します。「出産は危ないからやめた方がいい」という声も少なくなったようですが、母親はほとんど気にしていなかったようです。

楽しみは ”テレビ” と ”食べること” です。

今回、インタビューをするかのように根掘り葉掘り、しつこく聞きだそうとしたため、かなり怪しまれました。 

はすぴー倶楽部」さまの懐かしいサイトの中に“昭和33年はこんな年”という記事が出ていました。

1.関東大震災 大正十四年(1923年)九月一日 母親四歳

わずかな記憶のみ。「怖かった。自宅は無事だった」


関東大震災誌・東京編 

第一章 大震火災録 帝都壊滅の一瞬 

『大正十二年(1923年)九月一日午前十一時五十八分、源を伊豆大島付近の海中に発し、突如として起こった関東大震災は、東京湾、相模灘、房総沿岸一帯の地方、東京、神奈川、千葉、埼玉、山梨の一府五県にわたる広大なる区域を一瞬にして揺り潰してしまった。しかも、津波と火災これに伴い、幾百万の建築物を倒し、幾十万の人命をそこない、さらに、幾百億の財宝を焼き、一朝にして通信、交通その他の文化機関を全滅した。まさに世界有史以来、未曾有の大惨害である。今、ここに筆をはげまして記録を後世に残そうとするのであるが、いかに最大級の文字をもってしても、この戦慄すべき惨禍をほうふつせしむることはできない。ただ、正確なる通信と報道とを採録し、それに見聞を加えて誤りなきを期するのみである。この日は、ちょうど二百十日の前日にあたっていた。前日は穏かに日暮れ、夜は空に星さへ見えていたのに、この朝早くやや強い風雨が人人の眠りを醒ましたのであった。しかし、やがて風雨も止み、午前十時頃からは空もからりと晴れ、再び平和な初秋の一日となった。そして、すべての市民は、今しばし労働の手を休めて健やかなる昼食の卓に向おうとした一瞬、突然何とも名状し難い地鳴りが聞えたと思う瞬間、上下動の激震がどしんと全市を揺り動かした。同時に塀崩れ、瓦が飛ぶ響きが、すさまじく轟き渡った。市民のすべてが、異常の大地震だ!と直覚し、色を失って立ち上がると、矢継ぎ早に二度、三度と襲ってきた揺り返しは、今度は横なぐりに人も物も地上に打倒した。と見る間に市内百三十余個所から火を発し、空は瞬く間にもうもうたる黒煙りにおおわれ、人人の悲鳴叫喚が大地を揺すって、五分間前の華の都は、たちまちにして阿鼻焦熱の地獄と化してしまった。さらに却火続くこと二日二夜、帝都東京は全市街の三分の二を烏有に帰し、ただ見る一望千里の焦土と変わり果てた。上野の山に立って、ありし日の都をふかんすれば、満目しょうじょうとして遮るものなく、遥かに房総の半島が秋天の下に横たわっているのである。誰か涙なくして立ち去り得たろう。』

大正12年 関東大震災 概要

防災情報のページ」さまのサイトに掲載されている関東大震災の情報です。

2.東京大空襲 昭和二十年(1945年)三月十日 母親二十六歳

木工職人だった父親(祖父)は職人が住み込みで働くための宿舎を用意するため、麻布から蒲田の西六郷に引っ越し、同じ敷地内に自宅も建てていた。

「空襲で自慢の家が全焼し非情に悲しかった。人生で最も失望し呆然とした」。とのこと。

六郷の土手に避難。命を守るだけで精一杯だった。歩いて上野公園に行った。もの凄い人だった。その後、何とか電車にのって埼玉(北葛飾郡庄和町神間)の父親の友人宅に行った。そこは大きな農家で二階に間借りした」 

 

六郷橋から川崎方第一京浜国道を見る

画像出展:「大森界隈あれこれ65年

 

空襲後の市中心部:六郷橋から川崎駅西口方向を見る

画像出展:「総務省|川崎市における戦災の状況

 

六郷土手(多摩川河口)付近:2010年5月2日撮影

画像出展:「自転車に乗ってドコまでも?

 

以下にご紹介する6点はこの写真集からの出展です。

編集:石川光陽、森田写真事務所

出版:岩波書店

発行:1992年3月10日

 

これは東京大空襲のおよそ1年半前、昭和18年8月16日、東京駅付近での帝都防空訓練の様子です。

左右の写真は上野ではありませんが、同じ台東区の浅草で、3月10日に撮影されたものです。


 

こちらは4月16日、東京大空襲の約1ヵ月後になりますが、蒲田警察署前通りの様子です。

西六郷の最寄り駅は蒲田駅。2枚の写真は昭和20年代の蒲田駅西口銀座です。

画像出展:「おおたWeb写真館


「電車に乗った」との話だったのですが、大空襲直後に本当に鉄道がうごいていたのか、ちょっと信じられない思いがあり、調べてみたところ、高見順先生の日記に大空襲後の上野駅の様子が描かれていることをネットで知り、その本を手に入れました。

三月十三日 曇り。寒し。

『母、三国に行く。切符は十日朝に買ったので(今は軍公務以外の者は買えない。)今日限りしか使えない。罹災民でごった返している汽車に、六十九歳の老母をのせるのは心配だった。母は平気だというが、もし混雑がひどかったら止めてもらうことにしてとにかく東京駅まで行ってみようと、妻と二人で附き添って北鎌倉へ行く。

-中略-

電車のなかから、行きは右側を見て、帰りは左側を見るということにした。そうして、妻と一緒に右側を見ていたが、東京都庁が十日の空襲でやられているのに初めて気付いた。東京駅で乗換え、上野行を買う。東京駅では今日はもう、昨日のような悲惨な罹災民の姿は見えなかった。車中でも、―罹災民らしい人々は乗っているが、そう惨めな姿は少なかった。ちらし髪の女がはだしでいたり、背負った子供の綿入れが焼けて、焼けた綿がはみ出ていたりしているといった、そう生々しい姿ではなかった。だが、―上野で降りて、猪俣君の切符のことでも駅で聞いて見ようと、汽車の乗り口の方へ行って、驚いた。あの広い駅前が罹災民でびっしりと埋められている。昨日よりその数が増えている。東京駅では、何か波が去った気がしていたのだが、ここへきて、横っ面をひっぱたかれた感じだった。

母をのせた大阪行はそう混んではいなかったのだが、避難民は目下の所安全と見られている東北を選んで殺到して、東海道線に乗るのはすくないせいか。この分では、まだ猪俣君は帰れない。駅前の広場に、東北本線、常磐線……と書いた大きな札が立ててあって、そこに罹災民が幾重もの列をなしている。改札口の前では整理、いや収容しきれないのであろう。万をもって数えられる密集だ。ここへ敵機が襲いかかったらどういうことになるだろう。駅や焼け残った壁に激励のビラが貼ってあった。夕闇が人々の頭上におりて来た。私は、ふと支那を思い出した。支那のこういう場合の民衆の騒々しさを ―。こんなに多数でなくても、支那では人が集まるとワイワイと大声でわめき立てて、大変な喧騒さだ。日本人のおとなしさ、けなげさ、我慢強さ、謙虚、沈着……。

大声が聞えてくる。役人の声だ。怒声に近かった。民衆は黙々と、おとなしく忠実に動いていた。焼けた茶碗、ぼろ切れなどを入れたこれまた焼けた洗面器をかかえて。焼けた蒲団を背負い、左右に小さな子供の手を取って……。すでに薄暗くなったなかに、命ぜられるままに、動いていた。力なくうごめいている、そんな風に見えた。

こちらは3月10日の昭和通り-浅草橋-両国警察署の緊迫した記録です。

3月10日 土曜日 晴 強風 風位北

『さきに房総半島沖をはるかに遁走した筈の敵機は、B29の約130機を主力にして、超低空で午前0時25分頃江東地区に襲いかかってきたのだ。探照灯の光芒は銀色の敵機を捕え、その周囲にいくつかの高射砲弾の炸裂するのがよく見える。来たなと思った瞬間、江東地区の夜空が真紅に染って大火災の発生を知らせた。

私は急いで屋上から防空本部室に入ると、正面の大管内図に青赤の豆ランプが本所、深川、江戸川、浅草地区に無数に光っていた。

原警務課長の前に行って、これから現場へ急行する旨を報告すると、課長は私の手をしっかり握って「そうか行くか。今夜の空襲は今までとは違っている。充分気をつけてな、死ぬなよ、元気で帰ってくるんだぞ」。課長は部下思いで常に部下の身を案じておられたが、こんなことを言われるとなにか異常なものを感じた。すぐ裏庭の車輛班にいき、何回も猛火の中を私とくぐり抜けてきた老朽のシボレーにエンジンをかけて出発した。オートバイの伝令も飛び出していった。

昭和通りをフルスピードで飛ばしていると、消防自動車や警視庁警備隊の輸送車が、警察官を乗せサイレンの音をひびかせて追い抜いて行った。

浅草橋の交差点までくると、前方は、淡々とした大火災が渦を巻いて凄絶そのもの、そして両国橋を渡って避難してくる人人人。それを整理、誘導する警察官の疳高い声、泣き叫ぶ婦女子や警防団員らの叫声などが聞えて、その混雑は筆舌につくせない有様だ。自動車はもう1歩も進めない。やむ得ず自動車を交番横に止めて、両国橋をこちらへ避難してくる人をかきわけ、まるで激流をさかのぼるような気持ちで、漸く両国警察署の玄関までたどりついた。

周囲は猛火の壁に囲まれ、熱風に煽られ、眼も開いておられない。空を仰げば醜敵B29は巨大な真白い胴体に、真紅の焰を反射させて、低空で乱舞している。そしてこれでもかといわぬばかりに焼夷弾の束は無数に落下してくるのだ。

署長室に飛び込んでみると、署内は電燈は消えているが周囲の猛火の光で明るい。窓を透してその猛火が渦を巻いて踊っているようにみえた。署長の許へ伝令が情況報告に入ってきた。その巡査の顔は真っ黒にくすぶり、制服もボロボロで眼ばかり光っている。ここへ来るまでの苦労をよく物がっている。署長の前に立って、情況報告をしているその巡査の顔の反面に窓外の猛火が映じて、その場の雰囲気を一層凄絶なものにしていた。

私は署長に挨拶して表に再び出た。猛烈な烈風と火と煙は容赦なく私に襲いかかり、撮影どころか、この身をかばうのに懸命だった。どこをむいても火ばかりだが、それでも少しでも風当たりの弱いところを探し求めて這うようにして進んでいった。 ~以下省略~ 』

以下は光人社より1994年12月に発行された本です。爆弾を落とした側の様子を知りたいと思い購入しました。

実は日本語版があることを知らず、2010年8月17日に“alibris”というネットショップに原書の注文をしていました。ちなみにアメリカの古書取り扱いで有名な海外通販サイトは、Abe Booksだそうです。

戦略 東京大空爆

ルメイは司令官としての孤独の中に漂っていた。この作戦の成功・不成功の責任はすべておのれの肩にかかっていた。この重荷は別にしても、空爆が終わるまで自分はどうしようもないということが、妙に気持ちを落ちつかないものにしていたのであった。司令官は通常、前線と連絡を取りあって作戦変更ができるのだが、ルメイの部隊は無線の沈黙の向こうにおり、一昨日の爆撃指令はもはや変更不可能で、敢行されるのをただ待つしかなかったのである。

一昨日の爆撃指令】とは(P143):この空爆に参加する男たちが爆撃群ごとに時刻をずらして、最終打ち合わせをする広い建物に集結した。指揮官が説明に入るまえに、舞台上に掲げられた地図のカバーがとりはずされた。乗組員たちはすぐに、幾人かが予想していたとおり、目標は東京であることをさとった。そして、まず単独飛行による夜間焼夷弾空爆であることが伝えられ、さらに、爆撃高度は五千から八千フィート(1525~2440メートル)の間であると告げられた瞬間、場内からは一斉にブーイングや口笛が沸きおこった。ほとんどの兵士たちが衝撃をうけ、また信じられないことだと考えた(ジェット気流の存在を知るまでは爆撃投下高度は8235~10065メートルとされていた[P85])。

さらに驚いたのは、鉄砲など戦闘火器すべてをとりはずして、敵地に侵空すると聞いたときだった。乗組員らがまさに脳天をうたれたようなその衝撃から立ち直らぬうちに、将校たちはそれぞれの担当情報をつぎつぎと伝えていった。情報担当将校は予測される敵側の抵抗や目標について、爆撃担当将校は爆弾積載量について、航法士担当将校は航行計画について、航空機関士担当将校は燃費効率について話し、さらに他の将校らによって気象予報や不時着時の対応法が説明された。)

その一方、ルメイは作戦の成功を確信していた。 

―もしこの空爆が敢行されれば、戦争はまもなく終結する。何しろ天皇が予想もできないことをはじめたのだ。天皇がこのような空爆に応報できるとは思えないし、東京が焼滅し地図上から消失するのを止めることはもはやできまい。P159 

 

写真はいずれもB29ですが、左は生産工場です。

 


未読のままの原書ですが、日本語版の上記青字が原書ではどのような文章、言葉だったのか知りたいと思い調べてみました。

・“If this raid(襲撃) works the way I think it will, we can shorten the war. We’ve figured out a punch he’s not expecting this time. I don’t think he’s got the right kind of flak(対空砲火) to combat this kind of raid, and I don’t think that he can keep his cities from being burned down―wiped right off the map.”P173

日本語版の「戦争はまもなく終結する」の元の英文は”we can shorten the war”、「天皇」は”he”となっていました。

当時の外交文書には「大日本帝国」という表現が使われていたようなので、”he”は「天皇」という解釈になるのだろうと思います。なお、原書は本のサイズもひと回り大きく、約300ページ。日本語版は約200ページとなっており、原書の一部を翻訳したものとなっていました。  

余談になりますが、フランスでは国名に関し“la(she)”、“le(he)”を使うそうです。調べてみる“he”に相当するのがアジアでは日本、ベトナム。“she”に相当するのが中国、韓国となっていました。日本語でも「母国」と漢字で書いたりもしますが、「国」に使う代名詞はふつうは “it” です。


 

司令官のルメイ(LeMay)は向かって右から2人目です。

3つの思い出

自分でいうのもおこがましいのですが、私は幼少の頃、ほとんど手の掛からない子供だったと思います。注射も歯医者も恐れず、乗り物の中も紳士でした。母親も同様のことを言っていたので間違いないと思います。

そんな”まるい”子供であった私が、思いっきり駄々をこね、母親を連れだしたのが開園まもない「よみうりランド」でした。これは隣に住んでいた同級生のS君が、このよみうりランドで約20メートルのクジラのはく製を見てきたという話が発端です。私の記憶ではそのクジラは「ヨナス」と命名された、多分、マッコウクジラ(??)だったのではないかと思います。残念ながらその雄姿の写真を発見することはできませんでした。

1963年の新宿駅です。駅の外には出なかったのですが、外の風景はこんな感じだったのだろうと思います。

なお、新宿の小田急線ホームは何かの工事をしていたという記憶があります。

画像出展:「東京WEB写真館 東京いま・むかし

新宿から乗車した電車は確か白っぽかったので、このタイプの車両かも知れません。

写真は世田谷代田-下北沢間、1965年2月 

画像出展:「地方私鉄1960年代の回想

 

読売ランド前駅南口改札口 1961年(昭和36年)

この頃は、「西生田駅」と呼ばれていたようです。今は「生田駅-読売ランド前駅-百合丘駅」の順に駅があります。ここから「よみうりランド」まではバスだったと思います。この写真より時期が少し後ろにずれるのですが、駅は小さくさびれた感じだったのでこの写真の頃と大きくは変わらないように思います。

なお、この日はかろうじて雨には降られませんでしたが雲が厚く、少し肌寒いという印象でした。

画像出展:「大東京ビフォー&ナウ|懐かしい昭和の写真と比較する小田急小田原線各駅の昔と今 

「よみうりランド」は1964年3月19日にOPENしました。 

画像出展:「よみうりランドW'aitブログ

 

画像出展:「レビュー研究室


この水中バレエ劇場はよみうりランドの目玉のアトラクションでした。オープンは1964年(昭和39年)10月5日とのことなので、私たちが行ったのはそれ以降ということになります。多分、その日は1965年春ではないかと思います。

母親に聞いてみると、よみうりランドに行ったことはしっかり覚えていました。強烈に駄々をこねたことも覚えているようでした。いずれにしても大正解でした。

江東区北砂の叔父の家には泊りで行くことは少なくなかったのですが、それ以外、母親と泊りでどこかに出かけたことは一度もありませんでした。「これは、まずいだろ~」という思いから、決行したのが「上高地」への小旅行でした。途中、数日前(?)に発生したがけ崩れのため、予想外の遠回りをすることになったのは誤算でしたが、良い時間を作れたと思います。こっちもよく覚えていて、「連れて行ってありがとう」と言っていました。ということで、これも大正解だったと思います。

写真の日付が1991年10月19日なので、母親の年齢は72歳だったということになります。


今回、インタビューもどきの質疑応答の中で、「できれば、もう一度、疎開していた岩手県平舘に行ってみたかった!」との発言がありました。あまりそのような事を言うタイプではないため、ちょっと意表を突かれました。

車に20分程乗っていると「まだか、まだか」とさかんにブーブー言いだすヒトなので、平舘小旅行はありえません。とはいうものの、百寿のために何か気の利いたことはできないだろうかと思い、ネットでゴチャゴチャやってました。

そして、発見したのが岩手県立図書館にあった三つの文集です。言い忘れましたが、母親は小学校の先生をしていました。

1.たいらだて : 創立百一年記念文集 1976年 

2.小学校創立百周年記念誌 1975年 

3.町立平舘小学校創立120周年記念誌 1995年

このうち、1と2については「貸出〇」となっており、さいたま市の最寄りの図書館に電話で問い合わせたところ、所蔵している岩手県立図書館から借用することはできるとの回答でした。

疎開先の岩手県西根町(現八幡平市)の関係者は、大変優しい人たちばかりだったようです。特に「退職するときに、全校生徒が見送ってくれたのが最高にうれしかった」。と声を大にして言っていました。

教員名簿の中に母親の旧姓を見つけました。何か不思議な感じです。また、疎開時だけの臨時教員でしたが、載せて頂けるのは光栄なことだと思いました。

 



 

こちらは母親が持っていたものです。いかにも古いなかなか素敵な写真です。

 

 

こちらは昭和十年代、戦前の大田区旧北蒲小学校時代の運動会の写真です。これもいい感じです。

 

付記:認知機能

夜のバラエティー番組の中で、 ”近視の人は認知機能が高い” という話がありました。いままで ”認知” といえば ”認知症” というイメージが強く、「そういえば、認知機能って何だっけ? 」とモヤモヤしはじめたので、ちょっと調べてみました。

まず、こちらが番組で話していた件と同じものと思われます。”認知機能が高い人は、眼鏡が必要となる遺伝子を持つことが明らかに

こちらで見つけた記事は”超高齢期の認知機能~百歳までと百歳から”というもので、『認知機能とは、外界から受け取る刺激や情報を認識、理解して、行動を遂行するための脳の働きを指す言葉です。認知機能には、記憶力や注意力、言語能力、判断力、遂行力などが含まれます。』となっていました。

こちらは百寿者の人数のグラフですが、女性の激増ぶりが顕著です。

先月、床屋さんで「浦和市時代に100歳のお祝いに100万円もらってた時がある」。という話を聞きびっくりしましたが、これを見ると昭和の頃は全国でもほとんど3桁の人数なので、「有りだな」と思いました。

なお、平成30年9月1日現在、さいたま市の百歳以上の高齢者は444人、最高齢は女性で109歳となっていました。ちなみに103歳だとTop100に入るようです。