柳谷素霊2(「五十からの青春」)

前回の「柳谷素霊1」では、醫道の日本 昭和33年3月号から、柳谷素霊先生の「脈診と臨床」の全文をご紹介させて頂きましたが、今回は「五十からの青春 -ストレスとハリ・灸医学」(初版発行:昭和32年10月30日)という貴重な本がブログの題材です。この本はamazonでは¥48,800だったため断念寸前だったのですが、度々利用させて頂いている古本サイトの「日本の古本屋」で、¥12,960で販売されていたのを見つけ、思いきって購入しました。私が鍼灸専門学校に入学したのは52歳の時なのですが、先生が逝かれたのも満52歳だったという偶然に因縁めいたものを感じ、つい前のめりになってしまいました。
本は全242ページ、柳谷先生の「五十からの青春」は204ページまで、207ページからは医学博士である田多井先生の「ストレス学説」になっています。

 

著者:柳谷素霊、

田多井吉之介

出版:新樹社

 


左:柳谷素霊

右:ハンス セリエ

画像出展:「五十からの青春」

左:ハンス セリエ

右:田多井吉之介


最初に、本の文末にある両先生の「著者紹介」をご紹介します。
柳谷素霊
明治39年北海道に生れ、日本大学宗教科卒業。東洋鍼灸専門学校校長。東京都鍼灸審議委員、東京鍼灸師顧問、日本鍼灸師相談役。昭和30年パリ鍼学会顧問になり、昭和30年12月ドイツのドイツ鍼学会で「ドイツ鍼医師試験」に合格、A.F.AKUPUNKTURの称号をうく。昭和30年フランスとドイツに招かれてハリ・灸医学の講演と実技公開の旅をせり。著書に『鍼灸医学全書(四巻)』、『鍼灸治療医典』(半田屋)、『鍼灸摘要』、『図説鍼灸実技』、『柳谷一本鍼伝書』(医道の日本社)。同書のドイツ語あり。

田多井吉之介

大正3年東京に生れ、東京大学医学部卒業後生理衛生学を専攻。昭和26-7年ハーバード公衆衛生学校に留学す。現在国立公衆衛生院生理衛生学部長。医学博士。公衆衛生修士。主要著書に『ストレス』(創元社)、『汎適応症候群』(協同医書)、『好酸球の動力学』(医学書院)、『ウロペプシンの動態』、『衛星と公衆衛生』(南江堂)等あり。訳書に『適応症候群』、『セリエ新内分泌学』(医歯薬出版)、『ノルアドレナリン』、『ストレスと病気』(協同医書)等がある。

柳谷素霊先生といえば「古典へ還れ!」という言葉が印象的です。私自身がそうであったように、鍼灸師の先生の多くは、柳谷先生を古典原理主義者のように思われてはいるかもしれません。この本を拝読すると、柳谷先生が西洋医学に精通され、同時に、非常に重視していることが分かります。また、貝原益軒先生の“養生訓”が、度々出てくるのも興味深いところです。柳谷先生を理解するうえでは、“養生訓”を知ることも重要であろうと思います。

こちらの学園の「貝原益軒アーカイブ」は、驚くほど充実した内容になっています。

『養生の術は先(ず)心気を養ふべし。心を和にし、気を平らかにし、いかりと慾とをおさへ、うれひ、思ひ、をすくなくし、心をくるしめず、気をそこなはず、是心気を養ふ要道なり。』
これは「養生訓 中村学園大学校訂テキスト」の巻第一 総論上からの抜粋です。

ブログは目次に続き、次の項目についてご紹介していますが全文ではなく一部や要点になります。
・「まことの人生はこれから」の中から、Ⅰの「頭脳の青春は五十から」
・「ハリ・灸の日本の歴史」
・「老人医学」の中から、Ⅷの「腎臓の調整」
・「ハリ・灸愛好者への回答」
以上の4つが柳谷先生のパートです。
・「ストレス学説」の中から、Ⅰの「ストレスの起源」、Ⅴの「東洋医学と西洋医学」、Ⅳの「セリエ博士の横顔」

こちらは、田多井先生のパートです。

目次

まことの人生はこれから 
 Ⅰ頭脳の青春は五十から
 Ⅱ暦の年齢と生理年齢
 Ⅲ五十の知恵を三十の肉体で
 Ⅳ女体のみじみずしさ
 Ⅴ未病を治す
ハリ・灸の日本の歴史
フランスとドイツのハリ医学
中年生理への闘い
 Ⅰ微笑の一日主義
 Ⅱ五十肩と四十腰
 Ⅲ甘美な睡眠
 Ⅳ頭痛とめまい
 Ⅴ足から若がえる
 Ⅵ忘老は栄養のバランスに
 Ⅶセックスの回春
美容医学
 Ⅰしわとしみ
 Ⅱ肥りすぎ
 Ⅲやせすぎ
 Ⅳ益軒先生の美容体操
ハリ・灸で治りやすい難病
 Ⅰ高血圧
 Ⅱ糖尿病
 Ⅲてんかん
 Ⅳ歯槽膿漏
 Ⅴアレルギー
 Ⅵぜんそく
 Ⅶ肩凝りと腰痛
 Ⅷ肝臓病
 Ⅸ神経痛とリューマチ
 Ⅹノイローゼ
老人医学
 Ⅰ百才への夢
 Ⅱ布施博士の長生術
 Ⅲ老化生理防止のハリ・灸
 Ⅳ不眠症
 Ⅴ白米偏食は短命 
 Ⅵ心臓を守る
 Ⅶ白髪への予防
 Ⅷ腎臓の調整
 Ⅸ益軒先生養生訓への反省
 Ⅹ良医を選べ
ハリ・灸愛好者への回答

ストレス学説 
 Ⅰストレスの起源
 Ⅱストレス学説
 Ⅲストレスと精神身体医学
 Ⅳストレスの適応病
 Ⅴ東洋医学と西洋医学
 Ⅳセリエ博士の横顔

「まことの人生はこれから」
頭脳の青春は五十から
貝原益軒先生は、八十三才のときの「養生訓」に、「人生五十に至らざれば、血気いまだ定まらず、知恵いまだひらけず、古今に疎くして、世変になれず、言あやまり多く、行悔(オコナイクイ)多し。人生の理も楽も未だ知らず。」まことの人生は五十からひらけるのだと訓しています。
さきごろ、なくなられた小林一三氏も「四十、五十は鼻たれ小僧。働きざかりは七十から」と大いに気焔をあげていました。~中略~
人間として、いちおうの、知能の円熟と豊富な体験からくる自信のある人生は、ようやく中年の、五十才からだと、ノーベル賞のカレル先生も、二百年前のわが益軒先生も同じようにのべられています。
人間は、五十になってはじめて、頭脳の働きが円満になり、知恵が冴え、世情のわきまえ方をさとり、処世の妙腕がふるえるような、社会の有能な人物になれるのである、というのです。
世の中をみまわすと、会社の重役、学校の校長、役所の局長、その下の部長クラスにしろ、だいたい、社会の責任の重い重要ポストは、ちょうど、五十才前後が占めているようです。
人生の五十は、仕事ざかり、男ざかり、女ざかりでしょうか。すくなくとも、頭脳からみた人生は、五十とは、花ならばまさに満開の、溢れる才知と豊かな経験をささえにした、トップコンディションといってよろしく、最高頂期なのです。
いわば、酸いも甘いもかみしめた、こういう老舗の知恵は、たしかに、五十という年輪のたまものです。いよいよ貴重な五十才。
さて、東西の学者が、生命の科学をいろいろ研究したところでは、「人間の寿命は百才まで生きれる」の説が信じられています。ビュッフォン(1707-1788)やフルラン(1794-1867)の説です。
益軒先生も人生百才説でした。人間は百才まで生きられるのです。
それを、不用心で病気をしたり、怠けて老化を早めては、つい、もっと早く、生命を失ってしまう人が多いのです。
百才の寿命があるというのならば、五十は人生の半ば、やっと青年期から壮年に入ったコース。いや、五十才の青年なのです。
人間の脳の重さも、四十をこしてから、やっと、いちばん重くなるそうです。つまり、頭脳の青春、知能の円熟をものがたっています。

昭和32年の平均寿命は、男性63.24、女性67.60でした。100歳という年齢は非現実的なものでした。

成人を超えても伸び続ける脳力がある。人の感情を読み取る能力のピークは50代であることが判明(米研究)

表にある「結晶性知能」とは、学校で受けた教育や仕事、社会生活の中で得た経験に基づく知能のことだそうです。「感情推測能力」と共に、社会や組織の中で特に重要な能力だと思います。

「ハリ・灸の日本の歴史」
日本へ、ハリ・灸医学が輸入されたのは、欽明天皇のころ、朝鮮の高麗から、呉知聡という人がはじめて日本へきてひろめ、ハリ・灸の穴が書いてある「明堂図」、「儒釈方書」百六十四巻を伝えたことからはじまります。奈良朝前期ごろの、仏教文化が日本へ渡来したおりのことでしょう。
それから奈良七代、京都の平安朝期、鎌倉期、戦国時代と、ようやく一般に親しまれ、漢方医の重要な治療方法としてのハリ・灸医学は、ひろく日本人の生命をあずかってきました。
そのころは、鍼師(施術士)、鍼博士(大先生とか教授の)、鍼生(学生、見習い)の制度でよばれました。
中国から日本へ伝わったのは、「捻鍼(ヒネリバリ)」の技法です。
その後、「打鍼(ウチバリ)」という技法を日本で発明したのは奥田夢分斎で、「鉄道秘訣集」の本も書きました。彼はもと奥州二本松の禅僧でしたが、京都の多賀検校に多賀流の鍼を習い、晩年に京都御所の枯れかかった牡丹の花を、鍼術で生かしたというので、時の花園天皇からお賞めの言葉をいただき、姓を賜って、以降は、奥田を改め、御薗意斎となりました。
この流れをくむものを「打鍼(ウチバリ)流」といい、万病の基は腹の調整にあるといって、主としておなかのツボに打鍼(ウチバリ)して、栄えていました。
その後徳川記に入ると、有名な杉山検校が出て、いわば、中興の祖とあおがれました。杉山和一は、伊勢の津の人、慶長十五年生まれで、父は藤堂家の臣。盲目なので、はじめ山瀬琢一の弟子となりハリを学びました。
管鍼(クダ゙バリ)」という技法は、杉山検校が江の島弁財天に参籠して満願の日、「竹の管と松葉」を授けられて発案したものと、今日でも浪花節や浄るりに語り伝えていますが、実は、その前の元禄ごろの本にも既に「管鍼」の文字が出ているのです。
のち京都にうつって、杉山検校は名医として繁昌しましたが、ついで江戸に出て、時の将軍綱吉の難病を治したのが、いっそう名声を高め、関東総禄として八百石を賜わり、「なんでもほうびをとらせる」のお声に「一つ目だけでもほしい」と、本所一つ目の地(旧国技館のうらで、いまでも杉山検校の社がある)を賜わったと伝えられています。ここに「鍼治講習所」を開いて、全国四十五ヵ所に分校をおき、ここに、盲人だけの鍼学教育をはじめました。
今日の日本のハリ技法は、みなといっていいほどこの杉山検校のひろめた「管鍼(クダバリ)」の方法で、中国から渡った「捻鍼(ヒネリバリ)」や、夢分斎の発明した「打鍼(ウチバリ)」の技法を知り、伝える人は、ほんの数えるほどしかないのです。
杉山検校は、大正十三年五月、今日の盲人教育の基礎をつくった功によって、正五位の贈位をうけたほど、後世の盲人の恩人となりました。しかし、徳川期にも、もちろん盲人以外のハリ・灸の名医はたくさん出て、吉田流の出雲の吉田とか、垣本鍼源、菅沼周桂と後世までも名を残す人もいました。
また、杉山流には三島安一、和田春徹、石坂志米一等の高弟が、つぎつぎと現われて、高度の技術の発達をとげ、ますます杉山真伝流の発展をはかったので、徳川の中世紀は、日本のハリ・灸医学の技術面で、いちばん絢爛たる花の開いた時代といえましょう。
明治の初年、盲人の官職廃止、漢方医制度の廃止となって、ハリ・灸医師も禁じられましたが、明治十八年に、それでは盲人の生活が困るだろうと、簡単な免許規則ができて、はじめて漢方医と離れて開業することになり、その後何回も改正になり、試験制度になって、戦後、今日の「鍼灸師身分法」となったわけです。
そこで明治のはじめに、国立の盲学校に「鍼按科」ができ盲人の教育をはじめましたが、これは昔の杉山流の直系をくむもので、昭和時代までも奥村三策がこれをつぎ、これが現代の「国立教育大学雑司ヶ谷分校」で、やはり杉山流の直系の吉田弘道が「築地盲人技術学校」に拠り、盲人教育をひらいたのが今日の東京都立文京盲学校であり、そのあとを私がひきうけました。
こうして、鍼灸学校は盲人中心に栄えたようにみえますが、もちろん晴眼者の人の学校も、べつに開かれていました。終戦前は十校位でしたが、終戦後は全国に三十校位あります。これらは厚生省の認定になっております。私の学校「東洋鍼灸専門学校」もその一つです。
つまり、盲人と晴眼の普通人とは、べつべつに鍼灸教育をうけてはいますが、いま全国には、西洋医が八万五千に、ハリ・灸師は五万人います。
そこで、ハリ・灸医学の東西交流の歴史をみますと、一八二六年三月十五日の、シーボルトの「江戸参府日記」に、幕府のハリ医石坂宗哲に、日本のハリ・灸技術習う、とかいてあり、のち、シーボルトによって石坂の著「鍼灸知要」のオランダ訳が出ています。(試しにネット検索したところ、「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」さまに原書がありました)
つまり、明治以前のハリ・灸は、徳川中世以後は、ほとんど漢方医が、外科的治療の一つとしてハリ・灸に腕をふるっていたので、杉山検校のように直接に将軍家のお抱えもあれば、諸大名に召しかかえられたものもあり、開業医もありで、徳川中期の最盛期は、ハリの技法も「九十余種」といわれ、あらゆる病気を、多くのハリをつかって、それぞれの特長の技法で治療していたと伝えられます。 

こちらが、【創立60周年】を迎えた、現在の東洋鍼灸専門学校です。

「老人医学」
腎臓の調整
腎臓の病気は地味なので、あまり、気にとめない人も多いのですが、漢方では、先天の元気の発するところとみて、腎臓を非常に重くみていて、この腎臓を調整することによって、大半の慢性病は解決がつくとまでいわれています。
ですから、どんな病気にでも、必らず、腎臓の働きが十分であるようにと、そこのツボを刺戟してゆく治療法をいたします。
たとえば、腎臓機能の不調に気づかずにいると、肝臓に変化のあらわれてくるものがあります。そして肝臓に病変がくると、こんどは、神経系の病気が出てまいります。
昔の人のいう「疳」がたかぶるというのは、この疳は肝を意味して、ヒステリー症も肝臓の病気からおこり、また、てんかんも、著しい肝臓肥大が特徴とされているように、この腎臓と肝臓との間の密接なつながりを無視しては、治病の実績はあがりません。この、肝臓と腎臓が、たいていの慢性病の根源であるという漢方の考え方から、「肝腎かなめ」という言葉が、ちゃんと残っているわけです。
腎臓の役目は、現代医学的にみても、身体のなかの不用な老廃物を体外に排泄する働きをします。(血液のなかの有害なものを水分といっしょに尿として出す)
それが、なにかの故障で、働きが鈍るとなると、たちまち、身体のなかに、有毒物質がたまるので、あちこちへ、悪い影響がひろがることは、こわいわけです。
そこで、なんとしても、腎臓は、いささかの狂いもなく、十二分の能率をあげてもらわないと、完全な健康体をたもってゆくのがむつかしくなるから、そういう腎臓の重大性は、どんな病気を克服してゆくためにも、第一コースになるといえましょう。
腎臓病には、急性と慢性の腎炎、ネフローゼ、妊娠腎、血管性腎疾患、腎臓結核、腎臓結石、尿毒症、などがあります。
腎臓病の見分け方は、むくみが問題です。医者がみると一目で、みわけられますが、案外普通の人では、このごろ肥り気味なのだとよろこんでいたら、実は、腎臓炎だとわかって、あわてて絶対安静を命ぜられて、職場を休むという例も少なくないのです。
このむくみも、心臓のためからくるものと、腎臓のでは、すこし違います。
心臓のときは、早朝時に軽いむくみが、足の方から、はじまってきて、呼吸困難があり、肝臓が腫れます。腎臓病のときは、早朝時に強く、むくみは顔面からあらわれ、呼吸困難がなく、特に眼蓋のむくみが目立ちます。そして尿が少なくなり、肝臓の腫大はありません。
これは初期の症状で、慢性になって、萎縮腎にすすむと、反対に、むくみは少なくなって、尿も多くなり、血圧も上り、尿の中には蛋白が出てしまうので、腎臓の検査は、つねに、尿の検査と並行して、その一進一退をみてゆくようにします。

※腎臓に関する最新情報として、過去ブログの「腎臓が寿命を決めるとは」をご紹介させて頂きます。

「ハリ・灸愛好者への回答」
:肝臓がすぐ悪くなるのが持病で、疲れると、肝臓部や胃のあたりがはってくる、食欲不振で、あわてて近くの開業医にかけつけて、なにか注射をたのみ、胃の薬を貰って静養していた中年の女。ふと、この三月からハリ治療に親しみました。けれども、街には、ハリ医はたくさんあって、素人の眼には、その優劣がわかりにくいのですが。ハリ技術の巧拙の見分け方は?
:いちばんに
一、ハリを刺すとき痛まぬこと。
二、自覚症状や他覚症状に(血沈、検尿、脉搏、発熱などの)、だんだん健康の方向に向かっているような快感があって、そういう病状の軽減がある筈です(治療後に)。
三、だいいち、気分の爽快さがはっきりある。
四、食欲、排便、利尿、睡眠が、健康状態に近づいてゆく筈です。

 

:ハリ治療をうけたあと、必ず、フラフラと目まいがするという人もありますが。
:それははっきり、症状を訴えないといけません。だまっていては、ハリの先生もわかりません。普通こういうのは、ハリの刺戟量の過多か、病気へのツボのとりまちがえですから。

 

:ハリと灸では、その科学的作用にちがいがあるものでしょうか。
:あります。ハリと灸の効果の差を比較してみましょう。
ハリの効果は、
一、機械的刺戟の応用にある。
二、「瀉(マイナス)」の働きが、灸よりも強大です(だから病気の種類症状により、灸よりもハリの効果がよいことがある)
三、ツボは、正統的には、「補」と「瀉」を区別してつかうのは、ハリも灸も同じです。それで手技にも「補」の手法、「瀉」の手法があります。
四、科学的効果の理論は、
神経理論
皮膚の神経を刺戟して、脳脊髄神経と自律神経に影響を与え、身体の構成組織機関を調整するのです。
液性理論
血液、抗体、ホルモンを増加せしめます。その他酵素(グルタミン酸、アスパラギン酸)をつくり、PH(水素イオン濃度を調整する)または血沈、尿中のウロトロビンに影響を与えます。
灸の効果は、
一、温熱と光の刺戟の応用にある。
二、灸は、補(プラス)の働きがハリよりも強いのです。
三、ツボにも、瀉穴と補穴の区別があります。
灸の補瀉の別を簡単にいえば、「補」とは、モグサを小さく、やわらかくひねり、数を少くして、もえた灰の上からつづけてすえる方法です。「瀉」とは、大きなモグサを、固くひねり、いちいち、もえた灰をとってすえます。たとえば、弘法さまのウミを出す灸は、あれな「大瀉」の方法で、「虚証の病人」には、よろしくないとされています。
四、灸の科学的理論は、
神経理論
温熱または光の刺戟が、身体の神経系統に好影響を与えます。
液性理論
皮膚を火傷することによってできた、火傷毒素(変性蛋白体、異種蛋白体)の刺戟作用により、直接に組織機関を刺戟し、調整作用をおこします。また、硬化血管を軟化し、血液抗体を増加させます。

 

:どういうものか、インテリ階級には、ハリ・灸治療は、あまり歓迎されていないようですが。
:そうとは限りませんが。徳川時代のように、そしていまのフランスやドイツのように、医者がみなハリ・灸治療をやっているのなら、社会大衆からも自然に尊敬と信頼があったわけですが。やはり、ハリ・灸医学は、明治以後、忘れられたうらみはあるので、いわゆる、「くわずぎらい」も多いのです。

 

:たいていの人は、野蛮な医療法のように誤解してしまいがちですが。
:そういう誤解は、一度、体験なされば、消えてしまいましょう。今日のフランスやドイツで、これだけ盛んにもてはやされているのは、べつに迷信やオマジナイではないので、ちゃんと、科学的理論があればこそなのですから。しかし反省してみると、一部の業者にも責はあります。いまは、高等学校を卒業してからでないと入学できないハリ・灸医学校ですが、昔は、安易に免状が手に入ったのでしょう、知識の浅い教養の低い業者が、社会からきらわれるのは当然で、女も男も、せめて大学くらいは卒業してから、ハリ・灸医学の勉強をして、社会へ出るようにすると、ずいぶん、今後のハリ・灸界は変わってもゆくだろうと夢見ているわけですが。

 

:西洋医学で治らない病人を、ハリ・灸医学で治してゆくことは結構ですが、私のように半年間、一週一回いわば、病気の予防の目的みたいに、ハリ・灸にお世話になってきましたが、たしかに素晴らしい健康法だと、このごろ信じられます。身体のなかの、あちこちのしこりがとれ、とても身体がやわらかくなります。
:そういうファンは大歓迎です。いろんな医者にみはなされた、むつかしい病人を治すだけが使命でもないのです。もっとひろくインテリ階級層にも、「人間ドック」とは、「ハリ・灸健康法」にあることがわかって頂けると、よいのですが。

 

:その「人間ドック」的意味が、やっと半年のおなじみで、理解されました。脉診をうけたあとで、私はその一週間の身体の症状をこまかく訴えます。せっかく便通をよくつけて頂いたのに、ちょっと忙しすぎて過労から、また胃のあたりがふくれてきたことなど。すると、そこを中心に治療してくださる。次には、足が少し変ですが、というと、ちょっと血の道が出ていますね、とまた別なツボ中心にしていただく。そういう、病気になる前の病原らしいものを、一歩早く、つかまえて消して頂いているようなので、おかげで、快食、快眠、快便を、一服の薬も一本の注射もなしに、感謝しています。
:そう、理想的なファンがいられるとはおどろきました。積極的の健康増進に「人間ドック」へのハリ・灸は新しい方向ですね。

「ストレス学説」
ストレスの起源
セリエ博士によれば、ストレスの概念は、すでに遠くギリシャ医学にみられるといいます。
ヒポクラテスや、そのほかの当時の医師たちは、パソス(pathos)およびポノス(ponos)という言葉をつかいましたが、パソスは、現在の医者がつかっている病理学(patnology)という語の起源になりました。
これにたいして、ポノスという言葉は、労苦、あるいは仕事といった意味をもっていました。
即ち、ヒポクラテスは、正常の方向にむかって自分の身体を保っていこうとする、体内の努力の存在を認めて、これをポノスと呼んだのです。
いいかえると、医学の父祖といわれるヒポクラテスは、すでに、2400年前に、身体の内に具わった自然の治癒力を認め、これにポノスという名を与えていたのです。セリエ博士は、これが、ストレスという言葉の起源になると考えています。
しかし、ヒポクラテス時代のポノスの言葉は、決して科学的ではなかったのです。科学であるためには、それが分析にたえ、また、測定が可能である必要がありますが、昔はこれが不可能でした。
こんなわけで、ストレスの研究を科学にまで高めたセリエ博士に、偉大な功績があるのです。

東洋医学と西洋医学
西洋医学の上でも、安静療法、ショック療法、発熱療法、異種あるいは同種の蛋白質療法、さらに転地療法といった、各種の非特異的療法が行われてきました。もっとも、これらの療法の適応は、主に、慢性退行性疾患(老人病)とか、一般的な虚弱体質にあったことはもちろんです。
いっぽう、東洋では、古くから、ハリ・灸療法という、非特異的な治療法が医術の座を占め、今日でもなお、大衆の支持を得ているばかりか、西欧への進出もしています。そしてハリ・灸を求めにくる患者の多くが、いわゆる慢性疾患であることも、決して見逃せない事実です。
現在のハリ・灸療法は、かなり科学的になっています。信頼できる施設ではカルテも正確にとっており、他の手段では、なかなか、はかばかしく治らなかった症状が、ハリ・灸療法によって明らかに良くなった例も、かなり多く見出だされます。
このように、非特異的療法は、洋の東西を問わず、古くからの経験と伝統をうけついで、いまだに大衆から支持されていることは、この療法に、なんらかの価値がある証左にほかならないと考えられるのです。

セリエ博士の横顔
さきごろ来朝され、日本の各地の講演やなにかと、大きな感銘を与えて、あわただしく帰国された、カナダのモントリオール大学のセリエ博士のストレス学説を、いま、日本ではストレスブームなどといって騒いでいますが、実は、これは二十年も前からいわれて来た学説なのです。
しかたがって、珍奇な説でもアプレ型でもなく、少なくとも実験医学的には、もう成人に達していることを忘れてはなりません。
モントリオール大学は、1945年、大戦直後にできた新しい大学で、すべてフランス語で抗議されている、カナダ唯一の綜合大学で、セリエ博士は、実験医学研究所長です。
セリエ博士は、1907年ウィーンの外科医を父として生まれ、幼児から神童であったようです。三代もつづいた医家です。父親は、ハンガリー生れで、Selyeというのは、もとは、ハンガリーの小村の呼び名だといいます。
私の「タタイ」という名も、ハンガリーの村にあるそうで、私がはじめて、モントリオールにお訪ねしたときは、はじめ、ハンガリーからきたかと疑われたそうで、大笑いいたしました。

帰国直前の宴会に、一言と求められたとき、
貴国において、生活の内に潜む古心の美を見る。どうかそれを失わずに育ててほしい。西洋には愛の哲学があえるが、東洋にはこれにまさる、感謝の哲学がある。二者を併せて人間は成長すべきである。」そういって、日本のいけばなは生活の美化、茶は心の転換法と、つかむところはちゃんとつかんでしまった。それもたった十日間に。