小野田寛郎

昭和49年、1974年3月にテレビは1人の兵士を映し出していました。直立不動で目力などという生易しいものではない、その凄まじい眼光に完全に圧倒されました。
それが、ルバング島から帰還された最後の軍人 小野田寛郎少尉でした。

しかしながら、部活に没頭していた学生時代に小野田さんの本を手にすることはありませんでした。
そうして、40年後の1月、小野田さんの訃報が世間に流れたとき、「小野田さんの本を読まねば」という使命感のような思いが40年前の驚きと共に去来し、時を経ず1冊の本を購入しました。
小野田さんに対する評価は、必ずしも良いものだけではなく、ルバング島での行動を否定的にみる人もいます。私自身も一方的に敬服するというものではなかったのですが、少なくとも、その強靭な信念を連想させる眼光の鋭さは真実であり、否定することは不可能でした。その「不撓不屈」の精神にあやかりたいという子供のような気持ちもあり、手に入れた本は、40年前の強烈な写真が写っている「たった一人の30年戦争(東京出版新聞局)」という本で、直筆のサインが入った貴重なものでした。

小野田さんが昭和59年、1984年に設立された「小野田自然塾」は現在も継続されており、累計20,000人以上が日常では体験できないような事をこの塾で学ばれています。
これは本当に素晴らしい功績だと思います。(人数は「小野田自然塾」に確認させて頂きました)

最後に、この本を締めくくる「こぼれ酒」という一文をご紹介させて頂きます。私はこの本を読み終えたときに、小野田さんは真実の軍人であり、そして想像していた通りの素晴らしい人であるということを実感しました。


『大正11年3月19日生まれの私はいま、73歳の人生を懸命に生きている。21年前、祖国に生還し、すぐブラジルへ移住して牧場開拓、やっと牧場経営が起動に乗ったのを機に、10年ほど前から子供たちのキャンプ「小野田自然塾」に残りの人生に賭けている。私は少し遅れたが、幸運にも帰還した。しかし“終戦”はなかった。
私はときどき、自分がいま生きていることが不思議に思えることがある。まず、あの戦争で生き残ったのが不思議である。次に、二人の戦友が死に、たった一人の戦争を続けていた昭和47年11月、ルバング島に最後の捜索にきていた政府調査団団長の柏井秋久氏(当時厚生省引揚援護局審査課長)はフィリピン空軍ランクード中将に、急きょ、マニラ司令部への出頭を命じられたという。
「速やかに小野田捜索に決着をつけられよ。比空軍兵士300名を貴下の指揮下に入れる。直ちに威力捜索を実施せよ」
威力捜索とは、集中砲火で敵をおびき出す強行作戦だ。柏井団長は「彼我に死傷者を出す危険性が高い」と合意文書へのサインを拒否し、決断はマルコス大統領にゆだねられた。大統領は柏井団長に「団長のお考え通りやりなさい。比側は可能な限り援助する」と告げた。
“投降”時にも危機があった。私に対する住民の報復を恐れ、西ミンドロ州知事が村々を説いて回った。案の定、険悪な雰囲気だった。そのとき、若い小学校女性教師が立ち上がり、涙ながらにこう訴えたという。「私の父はオノダに殺されました。でも、オノダの中では、まだ戦争は続いていたのです。」
私は無事に山を下り、いまこうして祖国で生きている。
戦後五十年のことし、阪神大震災に続き、日本中を震撼させた地下鉄サリン事件、子供たちのイジメ自殺まで、「生と死」を考えさせられる事件が頻発している。
私は戦場での三十年、「生きる」意味を真剣に考えた。戦前、人々は「命を惜しむな」と教えられ、死を覚悟して生きた。戦後、日本人は「命を惜しまなければいけない」時代になった。何かを“命がけ”でやることを否定してしまった。覚悟しないで生きられる時代は、いい時代である。だが、死を意識しないことで、日本人は「生きる」ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。
酒飲みの話によると、一番うまい酒はコップから受け皿にあふれた“こぼれ酒”だそうだ。いまの私の人生は、こぼれ酒のようなものである。しかし、下戸の私にはこぼれ酒のうまさはわからないし、余禄の人生を楽しむ余裕もない。
拾った命に感謝し、二人の戦友を“戦後”になって戦死させたという負い目を背負って、私は残りの人生を生きていく。平成七年、戦後五十年の夏 小野田寛郎』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年1月27日 朝日新聞夕刊