日本伝統医学(鍼灸の場合)

日本伝統医学を考える
 その答えを端的に伝えている文書があります。それは東洋はり医学会の初代会長で、強烈なリーダーシップを持った福島弘道氏が、「岡部素道追悼集」に投稿された「九段下の治療室に岡部先生を訪ねて」というものです。そこには次のようなことが書かれています(冒頭から中程まで引用)。
 『私は昭和八年八月、当時の東京第一陸軍病院において失明を宣告され、自暴自棄に陥っていた。その頃、故郷の母からの「何が何でも帰っておくれ、お前がいなければ生きていられない・・・・・」との強い要望に、満州事変出征以来二年ぶりに懐かしい故郷の土を踏んだのである。
 私を迎えて開かれた近親者の集まりでは、「何、盲学校・・・・・、ありゃ按摩の学校じゃないか、親戚に按摩がいては面汚しだ。第一、娘の縁談の妨げになる」と強く反対された。私は自分の力で生きるために按摩がなんで悪いのかと、反対を振り切って松本盲学校に入学した。しかし、五年間の按摩の学習を続ける間にも、「按摩は親戚の面汚し」という言葉が常に胸につかえ、まだ目の見えた頃に見た、洗いざらしの浴衣を着て長い杖をつきながら、反り身になって笛を吹き歩く流しの按摩の姿が瞼に甦り、どうしても按摩の勉強を真剣にやる気にはなれなかった。
 そこで何とかして鍼灸専門で生活すべく、「検校はり医」を願って、当時鍼灸のメッカと言われた関西方面にそのつてを求めたが、希望むなしく昭和十四年の秋上京した。
 その頃、妻が巷で買い求めた「東邦医学」誌に、岡部素道先生の「脉診による鍼灸治療」として、ご自分の肋膜炎や結核の闘病記、その他理路整然とした補瀉論や脉診論が連載されているのを、貪り読んだものである。つまり、盲学校の鍼按教育は病名に対する穴の羅列で、そこには何らの理論的根拠や合理性は全くないのである。

 私は失明前、社会運動に身を投じたが、マルクス、エンゲルスによって打ち出された唯物史観による弁証法の理路整然たる体系に魅せられ、これに生命を賭けようと覚悟を決めたものである。
 しかし失明した今日、ライフワークとしての鍼灸術が、単なる病名と穴の羅列では取り組む意欲が湧かず、関西から広島まで慣れる杖を引きながら、鍼灸のサイエンスをたずね歩いた次第である。
 それが今、岡部先生によって「東邦医学」誌に書かれているのである。「よし、男一匹、生命を賭ける鍼灸はこれだ。経絡治療こそ、福島の生きる道である」と堅く心に誓ったのである。しかし、雑誌の上の大家ということもあるからと思い、目白の椎名町に竹山先生を訪ね、そのご紹介で九段下の岡部先生の治療室を見学させてもらうことになった。… 以下省略』

 

 当時にあって、既に理論的根拠と合理性を追求した経絡治療は、鍼灸としての日本伝統医学の中心であったと思います。

 

 

日本伝統医学再興を仕掛けた三人の偉人
 日本経絡学会理事で東洋鍼灸専門学校講師でもあった上地栄氏の著書に「昭和鍼灸の歳月」があります。副題は「経絡治療への道」と書かれ、その内容はまさに経絡治療が生まれ、確立されていく様子を描いた本です。今回、この本より日本伝統医学再興、経絡治療立ち上げの原動力となった三人の偉人を紹介したいと考えました。なお、紹介は生まれた順番になっています。


1.駒井一雄:1898年(明治31年)-1982年(昭和57年)
 戦前に鍼灸を研究した数少ない医学博士の中に駒井一雄氏がおられます。昭和9年には神経生理学の石川日出鶴丸博士を顧問にして、「日本経穴治方学会」を創立されました。同会には医学者を含め関西を中心とした多くの鍼灸家が参加しています。東京からも柳谷素霊氏、城一格氏、代田文誌氏などが参加されています。
 帝国議会で審議されていた国民健康保険法(昭和13年4月1日公布、同年7月1日施行)の中に鍼灸、按摩、マッサージ術が加えられたことは、明治以降陽の目を見ることがなかった鍼灸家にとって画期的なことでありました。そしてそれは、もっぱら駒井氏の個人的努力によるものであり、鍼灸の地位向上への駒井氏の熱意の現れでありました。

 そして、 この国民健康保険法を生かし実施させるには業界の組織結成が急務であるため、駒井氏はその母体となる「国保加入期成同盟」を結成し、自ら会長になり各県に支部の結成を呼びかけ、その説明や講習会のために各地に出かける日々がつづきました。
 このような多忙の時間に雑誌編集のベテランである竹山晋一郎氏が加入することは願ってもないことでありました。しかも「東邦医学」をより多く普及し、一人でも多くの鍼灸術の向上に役立てようとする駒井氏の願望は、学術の中心である東京に何とかして拠点を作りたいということでありました。もともと東邦医学会は大坂、京都を中心に発祥したものであり、会員、読者も関西が中心で、東京には数えるほどしかいなかったためです(一応新小岩の柳谷素霊氏宅が支社ということになっていた)。

 国民健康法施行から5年後の昭和18年には、日本鍼灸医術研究所が創立されました(所長は駒井一雄氏)。この研究所は後世方医学の全面的研究と共に、鍼灸古典を再検討し、鍼灸医術本来の姿を探究再現して実際臨床に役立たしめ、併せて近代医学との連関に於いて合理化を計り、来たるべき時代に適応すべき医術として、最も古きものを最も新しく生かさんとするものでありました。しかも単なる文献的研究を避け、あくまでも実際臨床に役立つものとするところに主眼があったのです。

 その開所式並びに記念講演会は、昭和19年2月11日、東京医師会館で厚生省衛生局長、医務課技師らの列席のもとに約200名が参加して行われ、城一格氏が祝辞を述べられました。以下はその抜粋になります。
 「…本研究所は一日にして成るものに非ず、所長駒井博士の多年に亘る献身的活動と、副所長竹山先生並びに柳谷、岡部、井上諸先生の熱烈なる協力努力の結果、鍼灸の正道たる経絡治療の本体究明に成功、同時にその指導方法を成熟するに及び、はじめて研究所開設を発表せられるに至りしものにて、まさに本研究所こそ、将来鍼灸医術の指導機関として最も堅実有力なる中心的存在となること必至にて…」

 

 私自身、駒井一雄氏をほとんど存じ上げてなかったのですが、「昭和鍼灸の歳月」により、その大きな存在を知ることができました。

 

2.竹山晋一郎:1900年(明治33年)-1969年(昭和44年)
 昭和13年7月25日発行の東邦医学の八月号の「編集後記」に駒井一雄氏は次のように書いています。「久しく沈滞していた吾が東邦医学はここに東京に進出して活躍すべき日が来た。従来純学術誌として立って来た東邦医学を更に新聞紙法によって一段と 内容を拡充していくことになった。今回東京に於いて支社を廃して支局を設け、支局長に竹山氏を任命することになった。本誌改善の日が近く到来しつつある。ご期待ありたい。」

 竹山氏とは、竹山晋一朗氏ですが、こうして竹山氏は駒井氏の名声と実績、それに経済力に支えられて「東邦医学」をフル活用して鍼灸改革運動に邁進していったのでした。
 また、竹山氏の活動は文筆だけではありませんでした。竹山氏は行動の人であり、組織者でありました。組織がなければ事態は動かない、というのが竹山氏の持論であり、組織は人を集めることから始まるものであり、東邦医学社東京支局長になると、文筆行動と併行してすぐ組織作りに取りかかったのでした。 
 弥生会は昭和14年3月3日にちなんでのものであります。当初の会員は柳谷素霊氏、岡部素道氏、井上恵理氏など、これは実践鍼灸医学研究会の主要メンバーでした。弥生会は竹山氏が有望で行動力に富む若手を抜き出したもので、鍼灸を日常生活の手段とだけ考えていて勉強しない人を加えることはありませんでした。そして弥生会は毎月定例研究会を開き、学術の向上を目指しましたが、その成果は「東邦医学」誌上にその都度発表していきました。そして、東邦医学は関西人中心から関東まで大きく広がることとなったのです。
 今ようやく鍼灸術はかくあるべし、とする理論=治療体系が「経絡的治療」と呼ばれてでき上がりつつある時、それを早く一般鍼灸家に普及させなければなりませんでした。これを普及させることがこの時の再教育運動だったのでした。この運動を遂行するための組織の中で最も重要な役割を担ったのは東日本部会の研究部でした。

 竹山氏はそれを五組に分けました。その一つは基礎学部門として、これは別格で柳谷氏が担当することとし、他の四つはそれぞれ主任を第一部岡部氏、第二部井上氏、第三部西沢氏、第四部小椋氏とし、各部には委員を五人から八人おき、毎週定期的に各主任宅に集まり研究し、それを1年間つづけ、部ごとで責任ある発表をすることにしたのでした。これが竹山氏のねらい通り、後に経絡治療誕生の大きな役割を果たすことになりました。その第一回の集まりは昭和16年5月11日に行われ、前年の夏期講習会で弥生会のメンバーで烽火をあげた柳谷素霊氏による「古典に還れ」の命題が、その一年後に「経絡的治療」として打ち出されようとしていたのでした。

 

 竹山氏の行動力、組織作りは傑出しており、辣腕プロデューサーのごとき活躍でした。経絡治療の全国規模への急速な展開は竹山氏の力なくしては考えられなかったと思います。

 

3.柳谷素霊:1906年(明治39年)-1959年(昭和34年) 
 柳谷素霊氏は昭和5年、猪俣敬造氏が創立した両国の東京鍼灸医学校に、開校と同時に教頭として迎えられていました。その柳谷氏が近くの亀戸で開業していた谷田部康之氏(全盲だが学者肌)から相談を受けて発会させたのが実践鍼灸医学研究会でした。はじめに谷田部宅で月1回研究会を開いていましたが、後に本郷区春木二丁目(現文京区本郷三丁目)にある半田屋で開くようになりました。参加者は20~30人でした。昭和14年2月の時には竹山晋一朗氏も取材かたがたの参加と思われますが、それが後の弥生会につながったと考えられています。
 柳谷氏が「古典に還れ」といったのは、単に「古きが故に貴し」という意味で古典万能の認識から唱えたものではありませんでした。古典を再検討して、しかも臨床の追試によって正しいものを生かして行く必要がある。との前提に立つものでありました。その故に原典批判から始めなければならないと主張していたのです。

 このことを論じた最初と思われるのは、昭和9年9月に発表した「経穴研究の一方法としての原典批判を提唱す」という論文でしたが、これは、駒井一雄氏が昭和9年に創立した「日本経穴治方学会」の機関誌である「実験鍼灸医学誌」の創刊号に掲載されました。
 昭和13年10月、鍼灸雑誌「蓬松」を改称して「医道の日本」誌が柳谷素霊によって創刊されました。これは戦時中一時中断しましたが、戦後復刊されて戸部宗七郎氏の発行で現在に至っています。なお、柳谷氏は後に医道の日本社の全部の権利を戸部氏に譲られました。
 「昭和鍼灸の歳月」の著者である上地栄氏は次のように語られています。

『柳谷は昭和十年代半ば、当時30歳代の柳谷にはまだまだ古典をとりまとめて新体系をつくる心境に達しておらず、皮肉なことに50歳になったときには死が待ち受けていた。古典的治療の体系を経絡治療として定着させてよいかどうか、岡部や井上が確信をもって竹山の青写真に沿って運動をすすめるのを、柳谷はやや斜に構えて見ていたのではないだろうか。柳谷の心情を考えると、逆に竹山の運動論と組織力がいかに大きな要因をなしていたかが推察される。』
 柳谷氏は、『吾々は少なくとも、ここに新たな完成された鍼灸術を作らなければならない。今は過渡期である。最早目標は出来ているが、之を如何にして科学的、医学的な鍼灸術にしていくかが、これからの鍼灸家の双肩にかかっている課題である。』
として、効くという事実に立脚した新たな鍼灸術を作り上げる必要性を説かれていました。

そして常に、『古典に還れ、そして原典を批判し、そこから再出発すべきである、古典は古人の遺言である。この遺言を実際に再現しなければならない。』と力説されていました。

 そして、古典を注視する一方で、正しい意味での科学化も主張されていました。それは次のような考え方でした。

鍼灸師は技術者であって科学者ではない。鍼灸術を科学化するためには、科学者の力を借りなければならない。科学者の力を借りるためには、鍼灸術の本質を明らかにせねばならない。しかし長い年月の歴史の批判を通って生き抜いてきた古典的鍼灸術を中心にして行くのが当面の正道であり、そしてなお、家伝であろうが秘伝であろうが、たとえ巷のじいさんばあさんの灸点であろうが、効くという事実があればそれも取り入れる必要があり、さらに、鍼灸学的行き方同時に現代科学的行き方も包含する風にやって行くのがよい。』といった立場をとられました。
 上地氏は、この考え方こそが、「吾々はここに新たな完成された鍼灸術を作らなければならない。最早目標はできている」というその柳谷の目標ではなかっただろうか。そして、当然後の経絡治療そのものではなかったことは確かである。と指摘されています。

 さらに、『柳谷は実に博覧強記であった。それは52歳という短い生涯にその年の数を越す著作があることを知るだけで十分であろう。柳谷は偉大な学者であった。ことに数知れない難解な古典を精読し解釈し、そして批判するとなれば気が遠くなるほどのことである。そしてそれに匹敵するほどに西洋医学に精通していたことを思えばまさに超人であり、英雄であったという外はない。』ということも述べられています。

 

 竹山晋一朗氏により、経絡治療は加速度的に広がっていきましたが、もし、竹山氏がいなかったらどんなものが誕生していたのか、著書の上地氏が述べられているように、非常に興味深いものであったと思います。  


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