脳とストレス3

著者:ブルース・マキューアン、エリザベス・ノートン・ラズリー

監修:星恵子

訳:桜内篤子

出版:早川書房

発行:2004年9月

目次については“脳とストレス1”を参照ください。

 

自律神経系の三つの顔

『心臓がアロスタティック負荷のダメージを受けやすいのは、ストレス反応システムの“配線”の中心に位置するからだ。目覚まし時計の音や自分をつけてきた人の影といった刺激に対応するため体が活発に機能しはじめると、ただちに必要なところに血液が流れ、そこでエネルギーが消耗される。休息の状態から急に激しい運動をはじめると、心拍数は1分当たり50回から150回まで上昇する。このような急激な変化は、脳と体が自律神経で直結しているから可能なのである。

自律神経は原始的な脳である脳幹と、体のほかの部分を神経回路によってつないでいる。神経回路は目、唾液腺、喉頭、心臓、肺、胃、腸、腎臓、生殖器など、いろいろな器官にはりめぐらされている。外からの刺激に反応して活性化する自律神経系は、典型的なアロスタシスと言える。すなわち自律神経系は、環境の変化に対処するために行動を起こす準備をするが、危険が去ったときには通常の状態に体を回復させる。

自律神経がこのように補足しあう機能をもつのは、関連しあう三つの働きから成っているからだ。まず、交感神経がいわば電源を入れる。外界からの刺激を受ける諸器官から脳につながる自律神経求心路のネットワークが、体中からメッセージを聞き取るマイクロホンのような役目をはたす。そして最後に副交感神経が、もとの状態に戻す働きをする。

心臓が激しく脈打ったり、冷や汗をかいたり、毛が立つような感覚など、ストレスを感じたときに起こる感覚はほとんど交感神経の働きだ。温度の変化や騒音、痛みなど、周囲からの信号に応答して、交感神経が心臓の動きを速め、血管を収縮させ、瞳孔を拡大させ、消化器系の働きを遅くするのである。これを行なうために脳の運動神経細胞が標的器官に、速くしろとか分泌量を増やせといった指令を伝える。これに使われる神経伝達物質がアドレナリンである(アドレナリンは、おもに副腎でつくられるが、血管内の交感神経や脳などでも生成される)。

胃がきりきりする感覚や急な動悸は、それを不快と認識しないかぎり、危険信号として役に立たない。これらの感覚を危険信号として処理するためには情報を脳に伝える必要がある。それを行なう別の神経系は、心臓や胃などの器官から脳につながり、体の“声”を集めて脳に届ける。このフィードバックのネットワークを自律神経求心路と呼ぶ。私たちの感情(体からストレス信号を感知した結果)を管轄しているのはおもにこのシステムである。ウィリアム・ジェームズによれば、感覚は状況によって、とらえ方が異なる(目の前にいるのが恋人か殺人犯かによって、情熱とも恐怖とも受け取れる)。しかし自律神経求心路を経由して認識された感情は、ストレスならびにストレスが私たちに与える影響を左右するのである。

最後に、副交感神経は、緊急反応を停止し、体を本来の状態に戻す。19世紀にクロード・ベルナールが述べた内部環境を維持する働きをするのだ。この副交感神経の働きにより、自律神経系は典型的なアロスタティック・システムの役割を果たしているのだ。副交感神経は、動悸を鎮め、瞳孔を収縮させ消化を助け、括約筋をリラックスさせることによって、体を元の状態に復帰させる(ただし性的に興奮すると、交感神経と副交感神経の両方が活性化する。昔から性的興奮が人間を大いに動かしてきた原因のひとつはここにあるかもしれない!)。

アロスタティック反応が健全であるためには、副交感神経がうまく機能することが不可欠だ。イリノイ大学シカゴ校のスティーブン・ポージスによれば、ストレスに対する反応は「外部からの要求に内部の要求に服従したことを意味している」と言う。外界からの変化に応えた後、副交感神経は、すぐさま最優先で体内を元の状態に戻す。しかし外界からの刺激にたびたび見舞われたり、それが長く続いたり、または異常な状況が生じるとアロスタティック反応が乱れ、副交感神経は体内の要求に応えることができなくなり、アロスタティック負荷となる。』

心臓にブレーキをかける迷走神経

交感神経と副交感神経が交互に働くことにより、心臓は驚くほど臨機応変に対応する。心臓を落ち着かせるのは副交感神経、とりわけ迷走神経の働きだ。迷走神経はたくさんの神経からなる複雑な神経回路である。そして「迷走神経のブレーキ」とポージスが呼んでいる制御のメカニズムがうまく作動しなくなると問題が生じる。

哺乳類動物は、通常、迷走神経のブレーキがつねに作動している。それによって心臓が過剰に活動するのを防ぎ、ストレスが体を害さないようにするのだ。しかも迷走神経は交感神経の働きを抑えるだけではない。それ自体が微調整を行なって、周りで起きていることに体が手際よく適応できるようにする洗練されたメカニズムなのだ。ブレーキをかけていればだいたいにおいて興奮しすぎるのを防げるが、たとえば何かに注意を向けるなど、ときにはちょっとした切り替えが必要なときがある。とはいえ交感神経を動員するほどではない場合、迷走神経のブレーキを外して、心拍数と呼吸数を少し上げることが可能だ。こうすることで、大がかりな生理的変化を伴う緊急反応で体を消耗させることなく、体の機能をギヤアップすることができる。

迷走神経のメカニズムがうまく機能していないのはアロスタティック負荷の徴候だ。しかも、負荷の度合いは測定できる。ポージスは、健康な心臓は安静時でも、正常な範囲内で不整脈をもつことがあることを示した。つまり、息を吸い込むときには迷走神経の抑制が弱くなって心拍が若干増え、吐き出すときには迷走神経の影響が復活して心拍数が減るのだ。この不規則な動きは心拍変動、または呼吸性洞性不整脈と呼ばれる。迷走神経のブレーキ作用を測るには、心電図によって得られた情報をもとに、心拍間の時間を割り出す。健康な心臓の心拍数が不規則なのは迷走神経のブレーキがうまく機能している証拠だ。ポージスがこの方法を用いて考えだしたのが、迷走神経の緊張度というもので、これは迷走神経のブレーキがどれだけストレスに対処するのを助けているか示している。この指数の低下は(一時的に心拍数が変動しなくなってしまう)、迷走神経のブレーキが外されたことを意味し、その結果、ストレスに対応するために心拍数が上がる。迷走神経の緊張度が慢性的に低いとすれば、ブレーキが外れたままで機能していないということだ。このような状態の人はつねに緊急の態勢にあり、アロスタティック負荷に見舞われているのである。』 

健常者でも、心拍数の変動が少ないと、心疾患で死ぬ確率が高いことが研究によって判明している。精神生物学者リチャード・スローンは、迷走神経による心臓の制御は心疾患から体を守るためのメカニズムであると考えている。《心身医学》誌に発表した論文で、スローンは心拍数があまり変動しない人は冠動脈疾患になりやすく、変動の程度が低ければ低いほど、動脈硬化症が重度であり、心筋梗塞後に死亡する確率が高かったという。

しかし迷走神経のブレーキをうまく使えないことは、心疾患になりやすい心理状態の特徴でもある。敵愾心が心疾患と関係あることは、複数の研究に裏づけられている。抑うつと不安は心疾患の発症を予知させ、また心筋梗塞後の合併症を誘発し、さらには死に至らしめる。敵愾心、抑うつ、不安のいずれにも、副交感神経の機能不全が関与している。

副交感神経による心臓の調節は、心疾患につながる高血圧を防ぐ働きをしているだけではないとポージスは考える。彼によれば迷走神経のブレーキは、哺乳類というそれまでより複雑な動物が現われたときに、爬虫類しかいなかったときより敵対的な世界に対応するために進化したらしい。現代において、迷走神経のブレーキは緊急反応を発動させる刺激から私たちを守るだけでなく、感情的、社会的ストレスからも私たちを守ってくれているのかもしれない。要するに、迷走神経のおかげで、人間はこの世界(ストレスに満ちていようがいまいが)で暮らすのに適した感情的、社会的行動を身につけることができると言える。』

生活習慣と心臓 

食事、運動、お酒、睡眠などの生活習慣をうまくコントロールできるかどうかが、アロスタティック反応が私たちを守るかそれとも逆襲効果をもたらすかを左右しうる。たとえばニコチンには下垂体から副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)を放出する働きがある。そのため、HPA軸が活性化され、それが興奮度の高いストレス反応を引き起こす可能性がある。

アルコール摂取も、心臓血管系を直接危険にさらすわけではないが、ストレス反応を乱すことがある。アルコールがHPA軸を活性化すること、そしてラットの実験ではメスがオスより多くのACTHを分泌することが判明している。また、長期にわたりラットにアルコールを摂取させるとHPA反応が鈍くなりうることもわかった。アルコール依存症患者が酒を断って禁断症状が現れているときの血中のコルチゾールの濃度は、回復したときの二倍近くまで上がる。本人がアルコール依存症でなくとも、家族に病歴があると、実験で刺激を与えたとき過剰なコルチゾール反応が見られる。

睡眠のとりかたによっても、ストレス反応が助けられたり妨げられたりする。睡眠不足は交感神経を興奮させ、迷走神経のブレーキをききにくくするため、血圧の上昇などストレスによる弊害を受けやすく、それが心筋梗塞の引き金となったりする。また睡眠をとれなかった翌日の晩、コルチゾールが高くなる傾向がある。これが進むと腹部の脂肪沈着や疾患につながっていく。

心血管病変を防ぐには、とくに食事と運動という、昔から言われていることに注意を払う必要がある。高脂肪の食事をとっていると体重が増えてコレステロールが高くなるだけでなく、交感神経が興奮しやすくコルチゾールの過剰分泌を招くのである。』

体脂肪とインスリンの関係

重度の肥満は心臓に負担をかける。過剰な体脂肪、とくに腹部の体脂肪はアロスタティック負荷の徴候でもある。霊長類では、心理的なストレスが、脂肪沈着を加速することがある。ヒトの場合、ウエスト/ヒップ比で表される肥満度は、もっともストレスに弱い人々―スウェーデンの研究では社会経済的な底辺にいる男性で、イギリスの公務員の調査では男女にかかわらず下級公務員たち―に多く見られる。また、前にも述べたように、脂肪が腹部に沈着しているということは往々にして血管にもたまっていることを意味する。

アロスタティック負荷に関しては、肥満は悪循環となる。やせていることがいいとされる社会にいると、太っていることで落ち込む結果、さらなるストレスとカロリー摂取、体重増加につながりやすい。とりわけストレスと肥満と食生活と運動不足の複雑な悪循環は、心臓病とは別のストレス性疾患、つまり糖尿病の原因となりうる。糖尿病は動脈硬化のような心血管病変ではなく、体のエネルギーの使い方がおかしくなる代謝疾患だ。糖尿病自体、重い病気になりうるが、それ以外に動脈硬化の危険因子ともなる。とくに高血圧や高グリセリド血症(検査で中性脂肪が高いこと)のような状態が重なると(それはよくあることだ)動脈硬化になる確率はさらに高まる。

血液はブドウ糖の形で体中にエネルギーを運ぶ(血中のブドウ糖を血糖という)。インスリンと呼ばれるホルモンが血中のブドウ糖を、それを必要とする筋肉や器官に取りこませる。糖尿病とは、体が十分なインスリンを作らないか(1型またはインスリン依存性糖尿病)、作られてもそれを適切に使っていない状態(2型またはインスリン非依存性糖尿病)を言う。いずれの場合も、細胞が燃料となるブドウ糖を十分に取りこめない。2型の糖尿病になると、人間でも動物でも、体内でつくられるインスリンに対する抵抗性が高まる。肥満と運動不足は2型糖尿病の危険因子であり、ストレスの役割も注目されつつある(ストレスは、自己免疫疾患と考えられる1型の糖尿病の危険因子にもなりうるが、それについては後で詳しく述べる)。

インスリンは膵臓でつくられる。食事の後など、血糖値が上がると、食べたものをエネルギーに変えられるよう膵臓にインスリンをつくれという指示が行く。しかしインスリンが血糖を調節する唯一のホルモンではない。安定したブドウ糖の供給は筋肉や諸器官の細胞だけでなく脳にとっても不可欠である(筋肉などはブドウ糖が不足したときに脂肪やタンパク質を使えるが脳はそうはいかない)。脳は血液脳関門という強力なバリアーによって守られていて、ブドウ糖しか燃料として入れない。ほかの分子は大きすぎて関門を通れないのだ。したがって、脳にブドウ糖を安定供給するために、やはり膵臓でつくられるグルカゴンなど、いくつかのほかのホルモンが作用する。そしてストレスホルモンのアドレナリンとコルチゾールも血糖の調節に一役買う。

ストレスホルモンはブドウ糖代謝に悪影響を及ぼす。ストレスに対処するために余分な燃料が必要だと体が判断すると、コルチゾールが肝臓内のタンパク質を分解しブドウ糖に変えるように促す。また、アドレナリンも血糖値を上げる働きをする。そのメカニズムは全部わかっていないが、ストレスホルモンが長期にわたり多量に分泌されるとインスリン抵抗性を生み、コレステロールやトリグリセリド(中性脂肪)などが血中に増える。肥満も同じことで、コルチゾールの過剰分泌により肥満を招く。

2型糖尿病もまた、別の悪循環をたどる。インスリンの生成はストレスホルモン、とりわけコルチゾールの生成と関係があり、コルチゾールは細胞のインスリン・レセプターの感度を直接鈍らせる。インスリン・レセプターの反応が鈍ると、血中にブドウ糖が増えはじめ、血糖値が上がる。すると血糖値を下げるために膵臓はさらにインスリンを分泌するのだ。同時にストレスホルモンも増える。こうして肥満と高脂肪の食事はインスリンの抵抗性を高めるのである。』

画像出典:「ストレスに負けない脳」

 

脳とストレス2

著者:ブルース・マキューアン、エリザベス・ノートン・ラズリー

監修:星恵子

訳:桜内篤子

出版:早川書房

発行:2004年9月

目次については“脳とストレス1”を参照ください。

 

ストレスホルモンが多すぎる場合

『このようにアロスタティック負荷は、ストレス自体が長く続くか、ストレスがなくなっても体が順応できないか、ストレス反応を解除するプロセスが機能しないかのいずれかの理由で、体がアドレナリンやコルチゾールに長い間さらされることから起こる。ストレスホルモンは血圧を上げ、免疫を抑えるだけではない。たとえばうつ病ではコルチゾールが慢性的に上昇していることが多いし、うつ病歴のある女性の一部では骨に含まれるミネラルの濃度が低下している。これは骨の形成には多くの時間がかかるため、緊急反応が発動されると後回しにされるからだ。さらにコルチゾールは骨をつくるプロセスを実際に妨害する。激しい運動を行っている女性がコルチゾールに長い間さらされると、アロスタティック負荷につながることがわかっている。本人はストレスと感じていなくとも、激しい運動を続けていると、交感神経とHPA軸の両方が活性化し、結果として体重が減ったり、生理不順や拒食症などになることがある。とくに拒食症は極度の運動と関係が深いとされる。

コルチゾール分泌が慢性的に多いと、インスリンの効果を抑えることもある。疲労感、エネルギーの欠乏、いらだち、意気消沈、敵対的態度などとして現われる慢性ストレスは、インスリンに対する抵抗力の発達に関連があるとされる。このインスリン抵抗性は、2型糖尿病(インスリン非依存性糖尿病)の危険因子である。

ストレス反応が生涯にわたって過剰に働くと、アロスタシスのプロセス全体が衰え、さまざまなシステムが機能しなくなる可能性がある。とくに、ストレスがなくなったときにHPA軸機能を止めるのを助け、記憶と認知の中枢である海馬が危険にさらされる。海馬にはコルチゾールのレセプターがたくさんあり、ストレス反応の際にコルチゾールを使って「チェック・アンド・バランス」を行っている。だが、コルチゾールが過剰に分泌された時まっさきに標的になるもののひとつなのだ。コルチゾール過剰分泌説によれば、海馬にコルチゾールがあふれると海馬が疲労し消耗して、HPA軸が正常に機能しなくなり、認知機能も損なわれる。

海馬はエピソード記憶と陳述記憶に重要な役割を果たすため、毎日の出来事や、買い物リスト、人や場所や物の名前などの情報を思い出すのに欠かせない。海馬はまた、出来事が起きた時と場所、とりわけ、強い感情がからんだ出来事が起きたときの環境の記憶(周辺状況的記憶)にも重要な役割を果たす。ストレスホルモンの過剰分泌のためにその人は誰が自分の味方で誰がそうでないかを思い出せなくなったり、顔と名前が一致しなくなることがある(ちなみにコルチゾールは、恐ろしい出来事やトラウマをもたらした出来事などの長期記憶の形成にかかわる扁桃体にも作用する。扁桃体は、正当な理由がなくても恐れたり心配したりする予期不安という症状とも関係がある。したがって扁桃体にストレスホルモンが増えると、私たちの心配が増し、すでに感じているストレスがさらに強くなる)。そして海馬はストレス反応の停止に関係している。要するに、海馬が損傷を受けると、ストレスがなくなったと認知する能力が衰え、ストレス反応を止められなくなり、その結果ストレスがさらに高まるという結果をもたらすのだ。

ストレスホルモンが少なすぎる場合

『ストレス反応におけるチェック・アンド・バランスの話が出たところで、体を守るはずのアロスタシスがアロスタティック負荷となる最後のシナリオについて説明する。これまで過剰なストレス反応の弊害について述べてきたが、逆にストレス反応が不十分で、ストレスホルモン、とりわけコルチゾールの分泌が不足しても、体は疲労し消耗するのである(下部表参照)なぜか。ストレスホルモンがなければストレスもなくなり、ストレス性疾患にもならないのではないかと思うかもしれないが、人間の生理機能はそう単純ではないのである。コルチゾールはサーモスタットのような働きをし、過剰になればその生産を抑える。そしてHPA軸を活性化するふたつのホルモン、つまり視床下部で出される副腎皮質刺激ホルモン放出因子(CRF)と下垂体から出される副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)の生成を遅くする。またコルチゾールは免疫系にも影響を及ぼし、炎症や組織損傷による腫れを抑える働きもする。

チェック・アンド・バランスにかかわっているストレスホルモンがやるべきことをしないと、免疫細胞が活動しすぎることになる。一部の人ではアロスタティック負荷が、副腎の鈍い反応と、それによるコルチゾール不足という形で現われる。その影響を真っ先に受けるのが免疫で、ほんとうは危害を与えないようなものに対してもコルチゾールが不足しているために、体が過剰に反応してしまう。アレルギーはこの過程から起こる現象のひとつだ。たいていの人の体は、ほこりや猫の毛などを病原菌と同じに扱わないが、アレルギー体質の人ではそのような無害なものに対しても警戒態勢に入り、刺激原を攻撃する。その結果、侵入者を追いだそうとしてたとえばくしゃみが止まらなくなったり、それをつかまえようと粘液が分泌されたり、白血球が殺到するために感染部が腫れ、痛みに襲われたり赤らむなど、全身が不快感に襲われる。これらの症状はみな、コルチゾールが活動していれば軽減されているはずだ。

ぜんそくは、細気管支という小さな管が腫れて空気の通りが悪くなるために起こる。この場合も免疫システムが過敏に働きすぎて、あまり有害でないもの(ほこりや寒さや運動など)から体を守ろうと肺への門を閉ざしてしまうからである。アレルギーもぜんそくも炎症性の疾患で、アロスタティック負荷の典型的な病態を示しているが、これらは、コルチゾールの生産不足によって引き起こされる。しかもこれらの症状は、ストレスに見舞われているとき、往々にして悪化する。そのほかの炎症性疾患といえば、いわゆる自己免疫疾患と呼ばれるもので、免疫系が「自己」と「非自己」を区別するという第一の目的を達成できず、自分の体の組織に戦いをしかけてしまう状況をいう。このような症状もコルチゾールが十分あれば防げる(治療としてコルチゾールを注入することもある)。発疹は免疫細胞が健全な皮膚を攻撃したときに起こる典型的な症状で、小児アトピー性皮膚炎は、ストレスの徴候を示すと同時に、HPA軸が十分に反応していない徴候でもある。そのほか、ストレスによって悪化しやすい自己免疫疾患には、関節に炎症が見られる関節リウマチや、髄鞘と呼ばれる神経細胞の一部を破壊する多発性硬化症(MS)などがある。

HPA軸の反応が弱いと、免疫とは直接関係がなくても現われる病態がある。その一例が線維筋痛症だ。これは慢性の痛みが伴う病気で、たいていの医師は心身症として扱っている(なかには想像上の痛みにすぎないと考える医師もいるが、患者はもちろんそう思っていない)。痛みが炎症反応の一症状であると考えれば、免疫とコルチゾールの関係は明らかになる。痛みは、何か問題があることを私たちに警告し、問題が解決するまで病んだ部分をそっとしておけと忠告する。しかし痛みが慢性的な場合、ほかの炎症性疾患同様、これといった原因がないことが多い。このようなとき、免疫システムは不適応な反応をしているのである。コルチゾールの供給が十分だったらそのような状態になるのを防げたはずだ。

画像出典:「ストレスに負けない脳」

 

こちらは”ヘルスアップ 日経Goody 30⁺”さまの、”しつこい疲れは副腎疲労?とりたい食材、避けたい食材”という記事です。

生活習慣とストレス 

『忘れてはならないのは、アロスタティック負荷がストレスのもとに置かれなくても起こることだ。それは生活習慣と、日頃の生活でストレスにどのように対処しているかが反映される。私たちが何を食べているか、タバコを吸うかどうか、熟睡しているかどうか、運動しているかどうかなどがすべて、コルチゾールやアドレナリンをはじめアロスタシスにかかわるさまざまな物質の生成に影響を与えるのだ。

私たちはストレスの対処の仕方によって、ある程度、アロスタシスがアロスタティック負荷になるかどうかを左右できる。もしその選択をまちがえれば、ストレス性疾患になる確率が高まる。たとえば喫煙(多くの人にとって、それがストレスを防御する方法ではあるが)は血圧を上げ、冠動脈をつまらせ、心筋梗塞や脳卒中のリスクを高める。また脂肪の多いスナックにストレスからのはけ口を求めると、健康を害しかねない。高脂肪の食事は動脈硬化を加速し、コルチゾールの分泌を増やす。そしてコルチゾールが増加すると、体脂肪が蓄積しやすくなり、心血管病変や脳卒中、糖尿病の危険因子となる。

一方、ストレスに見舞われたとき、散歩やスポーツクラブでの運動で発散すれば、ストレスにうち勝つ確率を高めることができる。運動は体脂肪の蓄積を防ぎ、心血管病変を未然に防ぎ、慢性的な痛みやうつ状態を軽減する。また、人と積極的につきあったり、他人の助けを借りることによっても自分を守ることができる。ストレスと上気道感染の関係を研究したシェルドン・コーエンは、社会的なつながりが多い人の方が風邪をひきにくいと報告している。オハイオ・ステート大学のロナルド・グレイザーとジャニス・キーコルト・グレイザーは、孤立が免疫力を弱めることがあることを立証した。

緊急反応はうまく機能しないことも多いことから、脆いしくみだと思うかもしれないが、実際にはかなり柔軟だ。過去10年の研究によって、アロスタシスが逸脱したときに心臓血管系、免疫系、神経系に弊害をもたらすことが明らかになったが、同時に免疫などのシステムがたとえ被害を受けても回復できることもわかってきたのである。

脳とストレス1

前回の”脳と運動”では、運動が脳にとって最も良いものの一つであることが明らかになりました。一方、過度なストレスは運動の対極、最も悪いもの一つだと思います。

今回の『ストレスに負けない脳 心と体を癒すしくみを探る』という本は、脳とストレスの関係を深く知りたいと期待して購入したのですが、多くのことを知ることができました。なお、ブログは8つに分けています。

著者:ブルース・マキューアン、エリザベス・ノートン・ラズリー

監修:星恵子

訳:桜内篤子

出版:早川書房

発行:2004年9月

発行は2004年と決して新しい本ではないため、最新の説からは違和感があるかもしれませんが、”原注(p275~p292)”として参照論文が掲載されており(計210)、これらの論文を背景に書かれた本であることが分かります。

 

こちらは原書です。タイトルは”The End of Stress  As We Know It”でした。発行は日本で出版される約2年前の2002年10月です。

画像出典:「amazon」

Bruce McEwen先生です。

今年(2020年)の1月2日にお亡くなりになっていました。

画像出典:「The Rockefeller University

本書では、「アロスタシス」と「アロスタティック負荷」というものを非常に重要なものとして位置づけています。もちろん、本文の中でも詳しく説明されているのですが、監修を担当された昭和薬科大学の星先生が書かれた”解説”が一般的、客観的な説明として大変分かりやすいものと思います。なお、これは”解説”の一部になります。

解説

マキューアン博士がストレスについて書かなければと思い立ったのは、ひとつには日頃よく見られるいわゆるコモン・ディジーズである心筋梗塞高血圧症糖尿病なども、実は感情や、情緒的・心理的状況が、それらの疾患の発症や進展に密接に関与していることが理論的に説明できると確信しているためで、それを喚起することによって、これらのありふれた疾患の予防につなげたいと考えたからである。もう一つは、将来、”うつ病”になる人の割合がかなり高くなることが予測されており、この点も大いに危惧してのことである。

ストレスについて書かれている本書が、これまでになく新鮮に見えるのは、アロスタシス、アロスタティック負荷という言葉を用いているからであろうか。普通、ストレスを受けると心身ともに消耗し、ときに身体はボロボロになってしまう。本来のストレス反応は病気を引き起こすことが目的ではなく、むしろ身の安全とサバイバルを目的としているはずである。そこでストレスを身体を守るシステムであると理解するために、別の用語を用いた方が賢明と考えたのだろう。そこで、選ばれたのがアロスタシスである。アロスタシスもアロスティック負荷もこれまでなじみのない言葉であるが、アロスタシスとは生物学や医学でよく知られているホメオスタシス(恒常状態)とほぼ同義語である。ギリシャ語でホメオスタシスのホメは同じ、スタシスは一定の状態という意味で、外部環境が変わっても身体内部はほぼ一定に保たれることで、W・B・キャノンの「からだの知恵―この不思議なはたらき」に詳細に書かれている。ホメオスタシスの代表例に体温凋節や酸塩基平衡などがある。体温は35.3度~37.5度、体液のpHは7.36~7.46と、これらの変動幅は許容範囲が狭く、一定の基準を超えると死に至る。一方、心拍数や呼吸数、血糖値は変動幅の許容範囲が広い。食後2時間の血糖値は140mg/dl以下が正常であるが、それが倍以上の300mg/dlになっても400mg/dlになっても死ぬことはない。そこでマキューアン博士は、生体が何らかの刺激を受けた時、それに応じて変化するのであるから、ギリシャ語で変動するという意味の「アロ」が語源となっているアロスタシスの方が適切であると考え、好んで用いた。そして、アロスタシスが一定の限界を超えた時がアロスタティック負荷である。

目次は以下の通りですが、黒太字が取り上げた項目です。

序文/ロバート・サポルスキー

1 ストレスの不思議なしくみ

ストレスとは何か

ストレスとアロスタシス

闘うか逃げるか

自分で引き起こすアロスタティック負荷

ストレスと情動

ストレスの生みの親セリエ

現代人特有のストレス

2 ストレスは脳からはじまる

脳が飢え、脳が恋する

ストレス反応

大切なストレスホルモン

海から生まれたストレス

魚たちのストレス

動物たちのストレス

ヒトのストレス

ストレスと記憶

3 ストレスと感情のつながり

“感情”に対する新しい見方

脳のメッセンジャー

神経細胞の鍵と鍵穴

空腹ストレス

ストレスと遺伝子

ストレスが脳に“戻る”とき

4 アロスタティック負荷はこうして起こる

サッチャー首相の民営化と共産主義の崩壊

ストレスが風邪を長びかせる

ストレスは気分で変わる

マイナス思考の危険性

ストレスホルモンが多すぎる場合

ストレスホルモンが少なすぎる場合

生活習慣とストレス

5 動脈硬化・肥満・糖尿病を防ぐには―ストレスと心臓

自律神経系の三つの顔

心臓にブレーキをかける迷走神経

自律神経のしくみ

呪いによる死

怒りっぽい人は要注意

生活習慣と心臓

体脂肪とインスリンの関係

自ら選ぶ生活習慣

6 免疫は諸刃の剣

ガンになりやすい人

愛する人の死の脅威

ストレスが体を守ることもある

ストレスで動員される白血球

免疫の逆襲

ストレスとぜんそく

免疫の勘ちがい

7 トラウマが脳を攻撃する

記憶を探して

コルチゾールの役割

ストレスと記憶回路

コルチゾールの威力

狙われる海馬

ラットも上下関係に悩む

ストレスの効能

ツバイの実験

保護か危害か

脳がトラウマに屈するとき

遺伝子とストレス

細胞のスイッチ

コルチゾールの微妙な働き

ストレスと加齢

8 ストレスに負けない生活

ウォーキングの効果

運動と脳

ストレス解消は食生活から

快眠の大切さ

睡眠とストレス

酒はストレス解消にならない

友だちの支え

社会的支援とガン

気のもちようでずいぶん違う

コントロールのよい面と悪い面

医学に携わる者としてひとこと

9 ポジティブ・ヘルスとは?

麻薬のような体内物質エンドルフィン

脳がつくりだす薬

エンドルフィンを越えて

アルツハイマー病の原因

運動がストレスに効くわけ

抗うつ剤の効果

海馬とポジティブ・ヘルス

神経細胞新生とうつ病

エストロゲンの働き

私たちを守る脳

10 これからの展望

アロスタシスと予防医学

子どもとストレス

高齢者とストレス

不利なマイノリティ

経済的状況と人生観

ポジティブ・メンタルヘルス

大事な人間のつながり

変えられること変える勇気

これからの神経生物学

ストレスとは何か

本来ならストレス反応は、体の主要システムが協力しあう洗練された防御機構のひとつである。これは緊急反応あるいは「闘争か逃走か」反応とも呼ばれる。ストレス反応のおかげで私たちは緊急事態に対応し、状況の変化に対処することができる。そのために脳、内分泌腺、ホルモン、免疫系、心臓、血液、肺が総動員される。ストレスに対して闘おうが、断固とした態度で臨もうが、安全のために逃走しようが、それとも目の前の作業に集中しようが、ストレス反応は瞬時に必要なエネルギーや酸素、筋力、燃料、痛みに耐える力、頭の回転、感染に対する一時的な防御体制を提供してくれる。ストレスがたまったり続いたりしたときに、体のいろいろな部分に支障を来たすのはそのためだ。

ではなぜストレスで心身がボロボロになるのか。人間の体はなぜ、苦境に立たされたとき、病むようなしくみになっているのか。ストレス反応の機能はもともと病気にさせるためのものではないはずだ。緊急反応は、身の安全とサバイバルというもっとも重要な任務を達成するために進化したしくみなのである。ストレス反応という強力でダイナミックな復元能力のおかげで注意力が鋭敏になり、脅威に備えて体が準備体制をとり、終わるともとの状態に戻る。しかも普通は副作用もない。ただし、脅威があまりにも大きかったり反応が逸脱してしまうと、病気の原因になるのである。

本書の狙いは次のパラドックスに注意を喚起することだ。つまりストレスは厳しい状況のもとで人間の体を守ってくれるが、慢性的に作動すると有害になり、病気を悪化させるということだ。疲れたときに人は、めまぐるしい世界で生きているのだからへとへとになるのも無理はないと思いがちだ。しかし、逆境に立ち向かうときにストレスがかかるのはある程度しかたがないにしても、ストレスでボロボロになる必要はないのだ。本来私たちを守るはずのシステムそのものが脅威となる必然性はないし、そうなることが正常とは言えない。この違いを認識することが非常に大事である。ストレスが健康に与える影響について考えるうえで、新しい言葉が必要だと私が思うようになったのはそのためだ。

ストレスという概念自体、時代遅れになっているので、元の意味に立ち戻って、定義を整理するべきだろう。したがって本書でストレスと言うときは外部で起きることのみを指すことにする。科学の進歩のおかげで、ストレス反応または緊急反応について、以前よりわかってきた。そこで私はその反応に、「アロスタシス」という言葉を使うことにした。そしてストレス反応が私たちの体に逆襲するような状態には「アロスタティック負荷」という言葉を当てる。本書を通じてこのふたつの言葉について説明するが、まずは簡潔に述べておく。』

ストレス反応

『アロシスタシスは脳の深いところで始まる。脳にある視床下部が腎臓の上にある副腎体に警鐘を鳴らすと、副腎体はこれに古典的な緊急反応で応じる。そして主要なストレスホルモンの第一陣、つまりアドレナリンを分泌する。アドレナリンは心拍数を上げ、筋肉や諸器官に余分に血液を送る。気管支が拡張し酸素が大量に吸入され、通常より多くの酸素が脳にも送られ、注意力が高まる。怪我したときに毛が立つような感覚がするのは、出血を抑えるためにアドレナリンの働きで皮膚の血管が縮むからだ。さらに出血への防止策として、凝血を速める線維素原(フィブリノゲン)という物質の分泌がアドレナリンによって促される。最後に、アドレナリンは体に働きかけて、グリコーゲンとして貯蔵されたブドウ糖を放出させ、また蓄積された脂脂を脂肪酸に分解してエネルギー源を確保する。この緊急反応の間、脳はエンドルフィンという鎮痛作用をもつ物質を出し、生体が危機においても機能できるようにする。

緊急事態になるべく速く対応するため、視床下部は副腎に直接通じる神経回路を使って伝達する。アドレナリンが中心的な役割を果たすこの段階が、ストレスに対する最初の反応である。猫を助けるために老女が車を持ちあげることができたのは、このアドレナリンのおかげにちがいない。

次に脳は視床下部‐下垂体‐副腎軸(略してHPA軸)という先鋭部隊を動員する。これが、脳がホルモンをメッセンジャーとする防衛機構の第二陣だHPA軸はアロスタシスならびにアロスタティック負荷のもとになる機能である。これによって神経系、内分泌系、免疫系が動員されるのだが、うまく機能することもあればしないこともある。HPA軸が正常に機能しているとき、私たちの体はエネルギーと集中力を発揮して危機に対処できるが、ストレスがたまるとHPA軸のバランスが崩れて、ぜんそくの発作を起こしたり、風邪をひいてもなかなか直らなかったりするのである。

アロスタティック反応は視床下部が副腎皮質刺激ホルモン放出因子(CRF)という物質を放出することによって作動する。CRFが専用の血管を通ってアーモンド大の下垂体に達すると、下垂体から副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)が分泌される。ACTHが血管を通って副腎を刺激すると、副腎から第二の主要ストレスホルモンであるコルチゾールが血液に放出された体内を循環するのである。

コルチゾールは、コレステロールから作られている(これはコレステロールが重要な役割を果たす例だ)。コルチゾールの最初の任務はアドレナリン放出によって使い果たされたエネルギーを補充することで、食べたものをグリコーゲンや脂肪に変えて貯蔵しやすくする。コルチゾールは私たちを活動的にさせ、おなかをすかせる。しかしコルチゾールが分泌されすぎると、筋肉を刺激してブドウ糖を取り込むインスリンの働きが抑えられてしまう。さらにコルチゾールが過剰になると、脂肪が増え、とりわけ、健康に悪いとされる腹部にたまる。コルチゾールはさらに筋肉のタンパク質を減らして脂肪に変える働きを促し、その結果、骨のミネラルが減る。

コルチゾールは免疫系にとっても諸刃の剣となりうる。多すぎると免疫機能を抑えるため、感染症にかかりやすくなる。しかし短期的には、コルチゾールは感染や怪我に対処するのを助ける。つまり怪我や感染から体を守る白血球を、侵略を受けた場所に送り込むのである。このときコルチゾールは白血球が血管壁や傷口、感染箇所など、防衛しなければならない部分の細胞にくっつきやすいよう、その表面を変える働きをする。

免疫活動がもう十分だと知らせるのもコルチゾールの働きだ。このメッセージはまず脳に送られ、視床下部、下垂体を経由し、ストレス反応を調整する。コルチゾールのチェック・アンド・バランス(抑制と均衡)の機能が、免疫反応が活発になりすぎることによっておこる湿疹やアレルギー、免疫が体の健康な細胞を攻撃する自己免疫疾患を防ぐのである。湿疹にステロイド軟膏を塗ったり、炎症を抑えるためにステロイド剤を飲むのは、体内のコルチゾールが通常行っている働きを補うためだ。』

画像出典:「ストレスに負けない脳」

脳と運動4

著者:ジョン J. レイティー

訳者:野中香方子

出版:NHK出版

初版発行:2009年3月

今回は第九章から第十章です。なお、目次については”脳と運動1”を参照ください。

第九章 加齢 ―賢く老いる

すべてをひとつに

ここまで体と脳の生物学的なつながりについて多くを話してきた。それが最も重要な意味をもつのは、老化について語るときだ。結局、健康な心は健康な体あってこそのものである。

1900年には、アメリカ人の平均寿命は47歳だった。今日それは76歳を上回り、高齢者は、急な病気ではなく慢性疾患によって亡くなる場合が多いようだ。だが、平均寿命を超えて長生きする人にとっては、もうひとつ気の滅入る統計データがある。疾病管理予防センター(CDC)によると、75歳の人は平均して3種類の慢性疾患を抱え、5種類の処方薬を服用しているそうだ。65歳以上のほとんどは高血圧で、3分の2以上が肥満、約20パーセントが糖尿病を患っている(糖尿病の人が心臓病になる確率は、そうでない人の3倍だ)。三大死因である心臓病、がん、脳卒中で亡くなる人は、この年代では61パーセントにのぼる。

喫煙、運動不足、栄養の偏りがこうした病気を招くことをわたしたちはすでに知っている。加えて、ライフスタイルは、加齢にともなって起きる精神面の危機にも大きく影響することが、最近の研究によって明らかになった。体に悪いことは、脳にとっても悪いのだ。だが、国立老化研究所の神経科学者マーク・マットソンは、それをプラスの方向でとらえている。「心血管系の疾患や糖尿病のリスクを減らす要因の多くが、老化にともなう神経変性障害のリスクも減らすというニュースは、喜ぶべきことである。もっとも、わたしたちが真剣にそれを受け止めればの話だが」

たとえば、糖尿病を防ぐよう努力すれば、脳内のインスリンのバランスも整い、ニューロンが強化され、代謝ストレスに対抗できるようになる。また、血圧を下げ心臓を鍛えるためにランニングをすれば、脳の毛細血管が弱くなったり塞がったりするのを防ぐことができ、脳卒中の予防につながる。さらに、骨粗しょう症で骨がすかすかになってしまわないよう、ウェイトトレーニングをしていれば、脳内に成長因子が放出され、ニューロンの樹状突起が伸びる。逆に、認知症予防のためにオメガ3脂肪酸を摂取していると、骨が強くなる。

老齢期に直面する精神の病気と体の病気は、心血管系と代謝系を通じて結びついている。肥満の人が普通の人の2倍、認知症になりやすいのも、心臓病の人がアルツハイマー病(認知症の中でも最も一般的な疾患)になる確率が高いのも、そのような頭と体のつながりが壊れた結果なのだ。統計によると、認知症になる確率は、糖尿病の人は65パーセントアップし、コレステロール値が高いだけで43パーセントも高くなる。運動がこうした病気を予防することは何十年も前から医学的に証明されている。だがCDCによると、現在でも65歳以上の人の3分の1は、自ら運動することはないと答えているそうだ。運動が体だけでなく脳の老化をどれほど防ぐかがわかっていれば、皆もっと真剣に運動について考えるようになるだろう。』

いかに年をとるか

『年をとることは避けられないが、惨めな衰えは避けることができる。100歳になっても健康にほとんど問題ない人もいれば、慢性疾患のために頭も体もすっかりがたがきてしまう人もいるのはどうしてだろう。それを理解するために、細胞レベルで生と死を見てみよう。

年をとると、体中の細胞がストレスへの適応力を失っていく。なぜそうなるのか、科学者にも正確なところはわかっていないが、はっきりしているのは、細胞は古くなるほど、フリーラジカルによる酸化ストレスや、過度のエネルギーの要求、過度の興奮などに立ち向かう力が弱くなるということだ。さらに、有害なゴミを掃除するタンパク質を生成するはずの遺伝子がその仕事をやめてしまうと、神経科学者が「アポトーシス(細胞の自死)」と呼ぶ、細胞の死のスパイラルが始まる。細胞のダメージが重なると免疫系が活性化し、死んだ細胞を掃除するために白血球やその他の因子を送り込み、それらが炎症を生じさせる。炎症が慢性化すれば、さらに多くの有害なタンパク質が生じる。それらはアルツハイマー病に直接関係している。

脳では、ストレスのせいでニューロンが弱くなると、シナプスが餌まれ、最終的にはつながりが切れてしまう。脳の活動が減るに従って、樹状突起は文字通り縮み、しなびていく。その結果、あちこちでシグナルが伝達されなくなるが、最初のうちはそれほど困らない。本来、脳のネットワークは、つながりが断ち切られた部分を避けて、別のルートで情報を伝達できるようにできている。ある程度、余裕の部分が用意されているのだ。なんと言っても、ニューロンは1000億個以上もあり、それぞれが多ければ10万ものニューロンに情報を伝えている。そのネットワークはとても緊密で、先に述べた通り、新しい結合を作っては成長し、配線の変更と適合化を繰り返している。もっとも、それは新たな結合を促す十分な刺激があれば、の話だ。年をとるにつれて回路は途切れていくので、なにをするにも、今までより広いネットワークが必要になる。思うに、知恵とは、そのような効率の低下を脳が巧みに埋めることの反映ではないだろうか。

シナプスの衰えるスピードが、新たな結合の生まれるペースを上回るようになると、頭と体の機能にさまざまな問題が生じてくる。それはアルツハイマー病やパーキンソン病も含まれる。どの病気になるかは、脳のどの部分が衰えるかによって決まる。基本的には、認知力の衰えや、神経変性による病気はすべて、ニューロンが死んでしまったか、機能不全に陥った結果であって、そのせいで情報の伝達が断たれたのだ。老化に関する研究は、マットソンが指摘するように、「ニューロンの情報伝達力を回復させ、生かしつづけること」をおもな目的として進められていて、「成功すれば、ニューロンの衰えを食いとめ、病気を予防できるようになる」

シナプスの活動が減り、樹状突起が萎縮すると、脳に栄養を運んでいる毛細血管も萎縮するため、血液の流れが制限される。逆のことも起きる。脳に血液を十分に送り込まないと、毛細血管が萎縮し、それにつづいて樹状突起も萎縮する。いずれにせよ、それは細胞の死を招く。血液によって運ばれる酸素や燃料、肥料、そして修復に使う分子がなければ細胞は死んでしまうのだ。ニューロンの成長を促す栄養素―脳由来神経栄養因子(BDNF)や血管内皮成長因子(VEGF)など―の量は、年をとるに従って減っていく。そして、神経伝達物質であるドーパミンが作られるスピードも遅くなり、運動機能の意欲の低下を招く。一方、海馬でも使えるニューロンがどんどん少なくなっていく。ラットの研究から、ニューロン新生は加齢とともに劇的に減ることがわかっている。それは、誕生する幹細胞の数が減るからではなく、もともとの神経幹細胞のプールが枯渇し、完全に機能するニューロンが作られなくなるからだ(おそらく、VEGFが少なくなるせいだろう)。ほとんどの神経細胞はいずれにせよ死ぬ運命にあるが、使いものになる幹細胞の数は、げっ歯動物の中年期(人間で言えば65歳以上)には、4パーセントにまで減少する。ニューロン新生の恩恵にあずからない広大な部分[現時点(初版発行2009年)でニューロン新生が確認されているのは海馬と脳室下帯のみ]については言うまでもない。40歳をすぎると、脳は平均して10年に5パーセントずつ減っていく。そして70歳から先は、さまざまな要因がこのプロセスに拍車をかける。

わたしの母のように、年を重ねてもずっと社交的で活動的な人は、脳の劣化のスピードを遅らせることができる。退職後の人の脳血流レベルを調べたところ、運動をつづけている人は退職して4年経ってもほとんど変わらなかったのに対し、運動をあまりしない人は著しく低下していた。脳は活発な成長を止めたとたん、死に向かい始める。運動は老化の進行を阻むことのできる数少ない方法のひとつだ。なぜならストレスに抵抗する力の衰えを遅らせることができるからで、マットソンは「矛盾するようだが、定期的に適度なストレスにさらされることは細胞にとってプラスになる。抵抗力がつき、より強いストレスに対処できるようになるのだ」という。

さらに運動は、先の章で述べたように、脳の回路が結合を増やし、成長するきっかけを与える。血液の量を増やし、燃料を調節し、ニューロンの活動と発生を促すのだ。老いた脳はダメージに対して弱いが、だからこそ、脳を強くするためになにかをすれば、若いときより効果が大きい。だからと言って、若いころから脳を鍛えることに意味がないわけではない。もしあなたの脳が、健康で、強く、しっかり回路のつながったものであれば、年をとってニューロンが壊れ始めても、より回復しやすく、より長くもちこたえられるだろう。運動は解剤であると同時に予防薬でもあるだれでも老化する。なぜかと問われても、どうしようもないが、どのように、いつ老化するのかについては、間違いなく打つ手がある。』

【ご参考】過去ブログ:"慢性炎症について

『慢性炎症は病原体を撃退した後や、傷が治癒した後に炎症という爆撃が完全に停止されず、くすぶり続け、健康な細胞、組織、血管へのダメージが終結せず続いている状態です。』

下記は大阪大学医学系研究科さまの”脂肪慢性炎症の引き金となる分子を同定”という記事の抜粋です。

『肥満では単に体重が増えるだけではなく、脂肪組織において軽度の炎症が慢性的に進行することが知られており、この“慢性炎症”が、糖尿病や高血圧・動脈硬化といった生活習慣病を引き起こす元凶であると考えられています。しかしながら、肥満がどうやって脂肪組織での慢性炎症を誘導するのか、その具体的なメカニズムは謎のままでした。』

認知力の衰え

『最初の兆候はささいなものだ。脳の回路が断たれると、知っているはずの人や場所の名前がなかなか思い出せなくなる。のどもとまで出かかっているのに出てこない、そういう経験はだれでも覚えがある。記憶のサーチエンジンである前頭前野がそれを呼び出さなくなったのだ。海馬がほかのつながりを頼りに記憶を呼び起こそうとするのだが、すんなりとはいかず、以前なら考えなくても言えたのに、なんでこんなに苦労するのかと、あなたはイライラしてくる。年をとれば皆、経験することだが、これもいわゆる軽度認知障害の症状である。その程度は人によって千差万別だ。

軽度認知障害は進行するとは限らないが、放置すると認知症になりかねない。自分を形づくっている人生の軌跡を辿ることができなくなり、自我が餌まれていくという耐えがたい恐怖を味わう。自分がそうした段階にあるとわかると、多くの人は自らの樹状突起の状態を模倣するかのように萎縮し、外に向ってはたらきかけたり新しい関係を結んだりするのをやめてしまう。うまく対処できないのではないか、と恐れるのだ。そして殻に引きこもってしまう。恥をかきたくないし、慣れ親しんだ家から外に出ることに不安も感じる。いずれにせよそうなると、脳に刺激を与えてくれる有意義な関係から隔絶されてしまう。孤立と運動不足は、細胞の死のスパイラルを助長し、脳を萎縮させる

衰えが最も顕著に表れるのは前頭前野と側頭葉だ。前頭葉は、前頭前野の灰白質とその軸索の白質を含む。側頭葉は単語と固有名詞のリストを作り、海馬と連携して長期記憶の形成を助けている。前頭前野が衰えると、高度の認知機能が衰え、日常の基本的な作業も難しくなる。皮肉なことに、靴ひもを結ぶ、ドアの鍵を開ける、食料品店まで車で出かけるといった、ごくあたりまえにやっていることが、実は、作動記憶、作業のスムーズな切り替え、不要な情報の締め出しといった、脳の最も高度な機能に依存しているのだ。よく調教されたサルでも、シャツのボタンをなかなかきちんとはめられないのはそこに理由がある。

側頭葉は脳にとっては辞書のように記憶を蓄えておく場所で、アルツハイマー病によって萎縮する領域のひとつだ。従ってアルツハイマーかどうかは、単語を羅列したリストを見せ、1時間半後にどれだけ思い出せるかを問う簡単なテストによって調べられる。

第一章で述べたように、イリノイ大学で行われた数々の研究は、脳のこれらの領域を対象とするテストの成績と運動量に強いつながりがあることを示している。ある研究では、有酸素運動を長年つづけてきた高齢者ほど、脳がよりよい状態に保たれていることがMRIの画像診断によってわかった。こうした相関自体も興味深いが、研究者たち本当に知りたかったのは、運動によってこれらの領域の構造に変化が起きるかどうかということだ。』

第十章 鍛錬 ―脳を作る

わたしが強調したかったこと―運動は脳の機能を最善にする唯一にして最強の手段だということ―は、何百という研究論文に基づいており、その論文の大半はこの10年以内に発表されたものだ。脳のはたらきについての理解は、その比較的短い期間にすっかりくつがえされた。この10年は、人間の特性に興味をもつ人すべてにとって、心沸きたつような時代だった。わたし自身、本書のための調査を通じて、運動の効果にますます驚かされ、直感的な洞察は科学に裏打ちされた真実へと変わっていった。』

『スモールは、被験者たちに3か月間運動させたのち、脳の写真を撮った。標準手的なMRIを用い、ズームしてシャッターを切るというごくあたりまえの方法で、彼は新たに形成された毛細血管の画像をとらえた。それは発生したニューロンが生き残るのに必要とするものだ。彼が目にしたのは、海馬の記憶領域における毛細血管の量が30パーセント増えるという、まさに驚くべき変化だった。もっとも、この研究が果たした最大の貢献は、脳を切り刻むことなくニューロン新生を見つけ出せるようになったことだろう。この新しい技術により、科学者はさまざまな要素がニューロン新生にどう影響するかを調べられるようになった。運動量もそのひとつだ。』

『脳のためにどのくらい運動すればいいのかと尋ねられたら、わたしは、まずは健康になることを目指し、自分への挑戦をつづけることが大切だと話している。なにをどのくらいすればいいかは人それぞれだが、研究が一貫して示しているのは、体が健康になればなるほど、脳はたくましくなり、認知力の面でも、情緒の面でも、よくはたらくようになるということだ。体を快調にすれば、心もそれに従うのだろう。

だとすれば、運動が脳に及ぼす利益を享受するには、体を鍛え上げて下着のモデルのような体型にならないといけないのだろうか? そんなことは決してない。実際、研究では、ウォーキングしただけでも、説得力のある結果が出ている。それでもわたしが健康な体に着目するのは、標準的な体重を維持し、心血管系を強くすれば、脳は最大の力を発揮できることを知っているからだ。どの程度の運動でもプラスになるが、実際的な観点から言えば、脳のためになにかをするということは、体を心臓病や糖尿病、がん、その他の病気から守ることにもなる。体と脳はつながっている。両方一緒に大切にすればいいのだ。

まとめ

4つに分けたブログですが、最後に簡潔にまとめたいと思います。

最も重要なことは、”運動はほとんどの精神の問題にとって最高の治療法である。一方、孤立と運動不足はアポトーシス(細胞の自死)を助長し脳を萎縮させる”ということだと思います。

そして、主なメカニズムは下記の5つと考えます。

1.運動は筋肉の回復プロセスだけでなく、ニューロンの回復プロセスのスイッチも入れる。

2.運動によって脳に適度なストレスがかかると、遺伝子が活性化してタンパク質(成長因子)が生成され、ニューロンを損傷や変性から守るとともにその構造を強化する。

3.運動は脳のストレス耐性を強めるが、それは多くの成長因子(脳由来神経栄養因子[BDNF]、インスリン様成長因子[IGF-1]、線維芽細胞成長因子[FGF-2]、血管内皮成長因子[VEGF])を増やすからである。

※成長因子とは:特定の細胞の増殖や分化を促進する内因性のタンパク質の総称である。(ウィキペディアより)

4.運動によりインスリン様成長因子[IGF-1]は海馬のなかでLTP(長期増強)を促進して、ニューロンの可塑性を高めニューロン新生を促す。

5.運動はコルチゾールが増えすぎないよう監視し、必要に応じて神経伝達物質セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンを増やすという効果も有する。

脳と運動3

著者:ジョン J. レイティー

訳者:野中香方子

出版:NHK出版

初版発行:2009年3月

今回は第後五章から第七章です。なお、目次については”脳と運動1”を参照ください。

第五章 うつ ―気分をよくする

論理の穴

薬や運動がうつを改善させる仕組みについて本当のところがわかってきたのは、脳の鮮明な写真を写せるようになってからのことだ。1990年代初頭、MRIで調べたところ、ある種のうつ病患者の脳に明るい斑点が見つかった。それは高信号域と呼ばれ、白質の部分に現れる。白質とは、灰白質―ニューロンの本体である細胞体の集まっている部分。灰色っぽい色をしているので灰白質と呼ばれる―から伸びた軸索が集まった部分である。さらによく見てみると、皮質の量が普通と違うことがわかった。灰白質が実際に縮んでいるのだ。灰白質は皴の寄った薄いカバーとなって脳を覆っていて、注意力、感情、記憶、意識といった人間の複雑な機能をすべてつかさどっている。MRIによって見えてきた現実はぞっとするようなものだった。慢性のうつは、脳の思考する部位を構造的に傷つける可能性があるのだ。

同様の研究により、うつ病の患者の脳では扁桃体と海馬に著しい変化があることが明らかになった。いずれもストレス反応の重要な役割を担う部位だ。扁桃体が人間の感情をつかさどる中心だということは以前から知られていたが、記憶中枢である海馬がストレスとうつにもかかわっていることはようやくわかり始めたところだった。1996年、セントルイスにあるワシントン大学のイヴェット・シーラインが、うつ病患者10名の脳と、同じような体格と学齢の健康な人10人の脳をMRIで比べたところ、うつ病患者の海馬は、健康な人のそれより最高で15パーセント小さかった。また、海馬が縮む度合と、うつ病だった期間の長さに関連があることを示す証拠も見つかった。意義ある発見だ。うつ病患者の多くが学習と記憶の衰えを訴えるのも、海馬の萎縮から始まるアルツハイマー病患者の気分が沈みがちになるのも、おそらくそこに理由がある。

ストレスホルモンのコルチゾールが多いと、海馬のニューロンは死んでしまう。実際のところ、ペトリ皿にニューロンを入れ、コルチゾールをたっぷり注ぐと、ニューロン間の結合は途切れ、シナプスの成長は止まり、樹状突起はしなびていく。そうなるとコミュニケーションは遮断される。うつ病の人の海馬では、それが実際に起きているのだ。彼らが否定的な考えから脱け出せない理由のひとつがこれで、海馬は別の結合を作るための枝を伸ばせなくなり、否定的な記憶を何度もたどり始める。

新たに陽電子放射断層撮影装置(PET)や機能的磁気共鳴画像法(fMRI)のおかげで、うつをこれまでとは違う生物学の角度から見られるようになった。誕生した当時、それらの画像は粗く、あいまいだったが―その点は今もあまり進歩していない[初版発行は2009年になります]―、科学者は脳の静止画像だけでなく、活動している様子も見られるようになったのだ。また同じころ、新しいニューロンが海馬とおそらくは前頭前野において、日々作られていることもわかった。どちらもうつになると萎縮する部位だ。この新しいツールと新しい発見から、「神経伝達物質仮説」の見直しが始まった。

とは言え、その古い理論が捨てられたわけではない。さらに拡大されたのだ。今では、うつは、脳の感情回路が物理的に変化した結果だと考えられている。ノルアドレナリン、ドーパミン、セロトニンはシナプスを通って情報を運ぶ大切なメッセンジャー(神経伝達物質)だが、そこがしっかりつながっていなければ、役目を十分に果たせない。そもそも脳の仕事は、つねに回路を接続し直しながら情報を伝達し、それによって人間を環境に適応させ、生き延びさせることである。ところが、うつになると、特定の部位でその適応機能がはたらかなくなる。つまり、細胞レベルで学習が遮断されるのだ。そうなると脳は、自己嫌悪の否定的な堂々巡りに陥り、その穴から脱け出すのに必要な柔軟性も失われる。』

【ご参考】過去ブログ:"うつ病治療(TMS)

NHKスペシャルで放映された「ここまで来た!うつ病治療」の書籍を題材にしたブログです。

 

第六章 注意欠陥障害 ―注意散漫から脱け出す

全コントロール・ユニット、注目!

『情報に注意が向けられればそれでいいわけではなく、その情報が脳内でスムーズに流れることも重要だ。ここで注意システムと体の動き、ひいては運動とが結びついてくる。体の動きをコントロールする脳の部位は、情報の流れも調整しているのだ。

小脳は脳の中でも原始的な部位で、動きのコントロールと精錬だけにかかわっていると長く考えられてきた。空手の蹴りであれ、指の鳴らし方であれ、なにか動きを覚えようとするとき、小脳はフル回転している。小脳は、脳のわずか10パーセントの体積しかないのに、ニューロンの半分を有している。つまり、そこにはぎっしりニューロンが詰まって、常に活動しているのだ。小脳がリズムを調整しているのは、動きだけではない。脳のシステムのいくつかも調整し、そこが新しい情報をスムーズに流し、管理できるようにしている。ADHD患者は、小脳の一部が小さく、正しく機能していない。注意力が途切れがちなのはわけあってのことなのだ。

小脳は、前頭前野と運動皮質―それぞれ思考と動きの中枢―に情報を送っているが、その途中で大脳基底核と呼ばれるニューロンが集まった重要な場所を通る。そこは一種のオートマチック・トランスミッション(自動変速機)で、大脳皮質の要求に応じて、注意力に向ける資源を配分している。そのはたらきは、中脳の黒質から出されるドーパミンの信号によって調節されている。ドーパミンは自動変速機のオイルのようなもので、それが足りないと、注意を簡単にシフトできなかったり、つねに高速ギアに入ったままになったりする。それがADHDの人の状態だ。

科学者が大脳基底核について知っていることの多くは、パーキンソン病の研究からもたらされた。パーキンソン病は大脳基底核のドーパミン不足によって起きる。この病気は、運動機能だけでなく、複雑な認知作業の調整能力にも打撃を与える。初期段階では、そうした不調が成人発症のADHDとして表れる。

この類似は重要で、現在、神経学者は、数々の信頼できる研究に基づいて、パーキンソン病の初期段階にある患者に、病気の進行を食い止めるために毎日の運動を推奨している。ある実験では、ラットの大脳基底核のドーパミン・ニューロンを破壊して、パーキンソン病を発症させ、その半数を「発症」後10日間、毎日2回ランニングマシンで走らせた。驚くべきことに、ランナーたちのドーパミン・レベルは正常な値を保ち、運動機能も衰えなかった。パーキンソン病患者についてのある研究では、激しい運動が運動機能だけでなく気分も向上させ、そのプラス効果は運動をやめたのちも6週間以上、持続した。

とくに興味を惹かれるのは、運動と注意力の強い結びつきだ。この二つは、脳内で同じ回路を共有していて、おそらくそれゆえに、武術のような活動はADHDの子どもに効果があるのだろう。新しい動きを覚えるために、彼らは集中しなければならず、その際、運動システムと注意システムの両方が動員され、鍛えられるのだ。』

第七章 依存症 ―セルフコントロールのしくみを再生する

不当な報い

『国立薬物濫用研究所の現在の定義によると、依存症とは、健康と社会的生活に悪影響をもたらすにもかかわらず、断ち切ることのできない衝動を意味する。多くの人が薬物を濫用しているが、依存症になる人は比較的少ない。なぜだろう。薬物などへの興味が芽生え、手に入れようとするのは報酬中枢を流れるドーパミンのせいだが、どうしてもそれをやめられなくなるのは、脳の構造に変化が生じるからだ。現在、科学者たちは依存症を慢性疾患と考えている。なぜなら依存症は、反射的行動を引き起こす記憶のなかに組み込まれているからだ。依存の対象が薬物でもギャンブルでも食事でも、脳に起きる変化は同じだ。

いったん報酬が脳の注意を引くと、前頭前野はそのシナリオと感覚を詳しく記憶するように海馬に指示する。脂っこいものに目がない人の脳は、ケンタッキーフライドチキンのにおいとカーネル・サンダースのひげ、そして赤と白の縞模様のバケツを結びつける。こうした合図が「突出」し、つながって記憶されていく。ケンタッキーフライドチキンに車で乗りつけるたびに、シナプスは新たな合図を取り込んでさらに結びつきを強めていく。このようにして習慣が作られる。

通常、わたしたちがなにかを学ぶとき、その回路ができあがるとドーパミン・レベルは次第に下がっていく。しかし依存症、とくに薬物依存の場合は、薬物を摂取するたびにドーパミンがシステムにあふれ、記憶を強化し、ほかの刺激をはるか後方へ押しやってしまう。動物実験から、コカインやアンフェタミンのような薬物は側坐核の樹状突起を著しく成長させてシナプスの結びつきを増やすことが確認されている。その変化は薬物をやめたあとも数か月から、ときには数年もそのまま残ることがある。依存症が再発しやすいのはそのためだ。依存症は、脳がなにかをあまりにも強烈に学びすぎた結果だといえる。そうした適応は悪循環を招き、たとえばフライドチキンのにおいを嗅げば必ず大脳基底核が自動的に反応するようになる。いくら分別のある人の前頭前野でも、その反応を止める力はない。 

衝動と戦い、習慣を断つ

ストレスが依存症と結びついているとき、依存物を断つと、体は生命の危険を感じる。たとえば、アルコール依存症の人が急にアルコールをやめるのはドーパミンの栓を閉めるのに等しく、視床下部-下垂体-副腎軸(HPA軸)のバランスが崩れる。依存物を断つことで生じる激しい不快感は数日で消えるが、脳のシステムは、それよりずっと長く不安定な状態に置かれる。そのようなデリケートな状態のときに、さらにストレスがかかると、脳はそれを緊急事態ととらえ、あなたにアルコールを飲ませようとする。禁酒をしていても、仕事で問題が起きたり、恋人と喧嘩したりするとまた飲み初めてしまうのはそのためだ。長く薬物に依存し、ドーパミン・システムが変わってしまっている人にとって、強いストレスに対処する最も効果的で、唯一知っている手段は薬物だ。だが、運動はもうひとつの解決策となる。

愛煙家の場合、激しい運動はたった5分でも効果がある。ニコチンは依存性物質のなかでも変り種で、刺激物でありながら同時にリラックス効果がある。運動すると、タバコを吸いたいという衝動を抑えることができる。それは、ドーパミンがスムーズに増えるのに加えて、タバコをやめようとする人が悩まされがちな不安な緊張、ストレスが抑えられるからだ。運動をすると、タバコへの渇望が50分間抑えられ、つぎに一服するまでの間隔が2倍から3倍に伸びる。さらに、運動には思考を鋭敏にする効果があることが、ここで意味をもってくる。なぜならニコチンを断つと集中力が低下するからだ。その証拠として、ある研究によると、グレート・アメリカン・スモークアウト(全米禁煙の日)には、通常より職場での事故が多いそうだ。わたしが診ているADHD患者の多くは、文書を書くときや難しい課題に向うときには、タバコを吸って集中力を高めている。そして、ニコチンが切れると集中も切れてしまう。』

ある依存症患者の物語

『彼女[ゾーエは重度のADHDで、攻撃的で、何度もひどいうつ病になり、さまざまな薬物依存症に苦しんでいた。驚いたことに、20年にわたってマリファナを常習していて、心を落ち着かせ集中するには、そうするほかはないと思い込んでいた]はときどき、サイクリング、ヨット、乗馬などをやっていたが、わたしは、定期的にできる運動をしてみてはどうかと勧めた。彼女の医学的知識を見込んで、運動すると脳の化学プロセスが変化して、気分や攻撃性や注意力、そして依存症をコントロールする回路を作り直すことができると説明した。ゾーエは、本書でも紹介した研究論文のいくつかに目を通し、毎日運動する気になった。そして、もう一度、マリファナを断った。「ほかに選択肢がなかったから」と彼女は言う。「どうしても、なにか手を打たなければならなかったのよ」

彼女が選んだのは、本格的なエアロバイクで、自転車競技者がバランス感覚を磨きスタミナを養うために使うものだ。高速で回転するドラムをこぎ、足をすべらせると弾き飛ばされかねない代物だ。ゾーエがなぜこれほど大変な運動を選んだのかはわからないが、それはすばらしい成果をもたらした。この自転車をこぐにはバランス感覚と正確さが求められ、それには小脳の運動中枢と大脳基底核から報酬中枢と前頭前野へ至る注意システム全体をはたらかせなければならない。「最初はいやいややっていたわ。こいでもどこへも行けないのだもの」とゾーエは言う。「でも今はとても重宝しているのよ。それに、運動になるだけでなく、集中できるからいいの。振り落とされないようにこぐのはドキドキするわ」

しかし、そんな折、薬物を断つにはそれだけでは足りないとでも言うのだろうか、しらふでいようとがんばっているゾーエを見捨てて、夫が出て行ってしまった。クリスマス直前のことだった。わたしは心配した。ゾーエも不安でいっぱいだった。「オランダの冬はとても寒く、とても暗いのよ」とeメールには書かれていた。「またうつになって、みじめな自分に逆戻りするんじゃないかと怖かったけれど、そうはならなかったわ。薬物を吸っていたときには負け犬のような気分だったけど、運動するようになってからは勝者のような気分になれたからよ

長年薬物に依存していた人の常で、ゾーエは今も不安定な状態にある。だが、間違いなく正しい方向に進んでいる。ゾーエはエアロバイクをこぐ距離を延ばそうとしていて、定期的にその記録を送ってくる。それに最近では縄跳びも始めたそうだ。彼女から届いた楽しそうな手紙の一部を紹介しよう。「たった今、10分間縄跳びをしたところ。心拍数は140。きついけどやらなくちゃね。これはすばらしいわ。だって、10分縄跳びをしたら、30分自転車をこいだときと同じような気分になれるんだもの。たぶん、つづけると思う。だってすぐに報酬が得られるんですもの!! これが、最近わたしがはまっている運動よ」』 

本格的なエアロバイクです。

画像出典:「Tubitak4007

 

脳と運動2

著者:ジョン J. レイティー

訳者:野中香方子

出版:NHK出版

初版発行:2009年3月

今回は第三章と第四章です。なお、目次については”脳と運動1”を参照ください。

第三章 ストレス ―最大の障害

ストレスを定義し直す

『ストレスには気が張っているという程度のものから、人生のごたごたにすっかり打ちのめされているというものまである。ひどくなると、ストレスに圧倒されて心が閉ざされ、普段ならなんでもない問題がとてつもない難問のように思えてくる。その状態が長びくと慢性のストレスになり、精神的な緊張が肉体的な緊張へと変わる。ストレスが体を攻撃し始めると、不安障害やうつ病といった本格的な精神疾患や、高血圧、心臓疾患などが引き起こされ、がんになるおそれもある。慢性のストレスは脳をずたずたにすることさえあるのだ。

これほどまでに曖昧なストレスという概念を、どう理解すればいいのだろう。それには、生物学的な定義を覚えておくといい。突き詰めれば、ストレスは体の均衡を脅かすものだ。体はそれを克服するか、それに適応しなければならない。脳で言えば、ニューロンの活動を引き起こすものはなんでもストレスとなる。ニューロンが発火するにはエネルギーが必要で、燃料を燃やす過程でニューロンは摩耗し、傷ついていく。ストレスという感覚は、基本的には脳細胞が受けているこのストレスが、感情に反響したものなのだ。

椅子から立ち上がることをストレスのもとだとは思はないし、そうしたからといってストレスは感じないだろう[健常者であれば]。けれども、生物学的に言えば、それも間違いなくストレスなのだ。もちろん、失業しそうなときのストレスとは比べものにならないが、実のところ、どちらの出来事も、体と脳の同じ回路を活性化させる。立ち上がるという動作は、その動きを調和させるためにニューロンの活動を促し、失業への恐れもニューロンの多様な活動を引き起こす。感情はすべて、ニューロンが信号を送りあって生まれるからだ。同じように、フランス語を習うことも、知らない人に会うことも、そして、筋肉を動かす動作の一切も、脳に負担を強いる。すべてある種のストレスと言える。脳にしてみればストレスは全て同じで、違うのはその程度だけなのだ

自慢話の類になりますが、『ストレスは体の均衡を脅かすものだ。体はそれを克服するか、それに適応しなければならない』という一文と277ページに出てくる『年をとると、体中の細胞がストレスへの適応力を失っていく』は、私にとってたいへん興味深いものです。

それは、ブログの”がんと自然治癒力13(まとめ)”の中で、自然治癒力を【ストレス適応と栄養代謝】と定義していたからです。本書の内容は、言い換えれば「ヒトはストレスを克服あるいは適応しないと、体の均衡が崩れ健康を害すが、それは体中の細胞レベルに関係している」ということと理解でき、健康にとってストレスに対する克服、適応が極めて重要な要因であると指摘しているからです。

ストレスはあなたを殺すだけではない

『よく知られているように、筋肉を増強するにはいったんそれを壊してから休ませる必要がある。同じことがニューロンについても言える。ニューロンにはもともと修復・回復のメカニズムが備わっていて、それは軽度のストレスで作用する。運動のすごいところは、筋肉の回復プロセスだけでなく、ニューロンの回復プロセスのスイッチも入れるところだつまり、運動すれば、心身ともに強く柔軟になり、難問をうまく処理し、決断力が高まり、うまく周囲に適応できるようになるのだ。

定期的に有酸素運動をすると体のコンディションが安定するので、ストレスを受けても、急激に心拍数が上がったり、ストレスホルモンが過剰に出たりしなくなる。少々のストレスには反応しないようになるのだ。脳では、運動によって適度なストレスがかかると、遺伝子が活性化してタンパク質が生成され、ニューロンを損傷や変性から守るとともに、その構造を強化する。さらに運動はニューロンのストレス耐性の閾値も上げる。

この細胞の「ストレス回復」作用には、酸化、代謝、興奮の三つの側面がある。

ニューロンが作動すると、代謝メカニズムのスイッチが入る。かまどに種火が入るようなものだ。グルコースがニューロンに吸収され、ミトコンドリアがそれをアデノシン三燐酸(ATP/細胞にとって主要な燃料)に変える。その過程では、ほかのエネルギー変換プロセスと同じく、廃棄物(フリーラジカル)が生じる。その廃棄物がもたらすストレスを「酸化ストレス」と呼ぶ。通常、細胞は酵素も生成し、それがフリーラジカルのような廃棄物を掃除する。フリーラジカルは細胞組織を破壊する悪質な電子をもつ分子で、酵素は、その電子の力を消そうと懸命に掃除しつづける。こうした保護的な酵素は、人間が生まれながらもっている酸化防止剤なのだ。

「代謝性ストレス」は、グルコースが細胞に入り込めなかったり、周辺に十分なグルコースがなかったりして、細胞がうまくATPを作り出せないときに起きる。

「興奮毒性ストレス」は、グルタミン酸の活動が活発すぎて、増加した情報の流れを支えるエネルギーをATPがまかないきれないときに起きる。この状態が長引くと、とんでもないことになる。ニューロンが死の行事を始めるのだ。ダメージを修復するための食糧も資源もないまま、ひたすらはたらかされ、樹状突起は縮み、最終的にニューロンは死に至る。これが神経変性で、アルツハイマー病、パーキンソン病などの疾病、さらに老化そのものの底流となるメカニズムだ。こうした疾病を詳しく研究した結果、体に本来備わっている。細胞ストレスへの対応策見つかった。』

『連鎖的に放出される修復分子のなかでもきわめて強力なのは、脳由来神経栄養因子(BDNF)インスリン様成長因子(IGF-1)線維芽細胞成長因子(FGF-2)血管内皮成長因子(VEGF)などの成長因子だ。これらについては第二章で説明した。とくにBDNFは、エネルギー代謝とシナプス可塑性の両方で役割を担っているので、ストレスを研究する者にとって興味深い因子だ。BDNFはグルタミン酸によって間接的に活性化され、細胞のなかで抗酸化剤と保護タンパク質の生成量を増やす。また、先に触れたように、LTP(長期増強)を促進して新しいニューロンを成長させ、脳をストレスに対して強くする。脳のストレス耐性を強める手段として運動が望ましいのは、それがほかのどんな刺激よりはるかに多く成長因子を増やすからだ。FGF-2VEGFは、脳内で生成されるだけでなく、筋肉の収縮によっても生成され、血流によって脳に運ばれ、さらにニューロンを支援する。このプロセスは、体がどのように心に影響を及ぼすかをよく示している。

【ご参考】過去ブログ:"がんと自然治癒力9

ノーベル賞生物学者、ブラックバーン博士の著書にも、運動と回復に関する記述があります。  


【ご参考】過去ブログ:"代謝と恒常性(ホメオスタシス)

こちらの本の中に、”総まとめ代謝マップ”というものが出ているのですが、これを見ると代謝が大変複雑なものであることが分かります。

また、ブログでは白木先生の「生物科学入門 -代謝・遺伝・恒常性-」という本もご紹介しているのですが、白木先生は、“生物とは何か”という問いに対して、代謝、遺伝、恒常性の三つに集約できる。とお話されています。

 

【ご参考】過去ブログ:"活性酸素シグナルと酸化ストレス

明らかに背伸びをした難しいブログですが、後半に「酸化ストレス」に関する記述があります。  

ストレスを燃やし尽くす

『脳の機能は情報をひとつのシナプスから別のシナプスへと伝えることであり、それにはエネルギーが必要とされることはすでにおわかりいただけただろう。そして、運動は代謝に影響するため、シナプスの機能、ひいては思考や感情に影響を与える強力な手段となることもご理解いただけたと思う。運動は全身を流れる血液とグルコースの量を増やす。いずれも細胞にとってなくてはならないものだ。より多くなった血流はより多くの酸素を運び、細胞はその酸素を使ってグルコースをATP(アデノシン三燐酸)に変換し、栄養源にする。運動中、脳のなかで血液の流れが前頭葉から大脳辺縁系へとシフトする。そこにはこれまでに何度も登場した偏桃体と海馬がある。おそらくそこに優先的に血流が送られるせいで、研究によってわかったように、激しい運動をしているあいだは高度な認知機能がはたらきにくいのだろう。

運動後に起きる変化によって脳は最高の働きをするようになる。闘争・逃走反応が起きる閾値が上がるだけでなく、先に述べたニューロンの回復プロセスが促されるからだ。運動によって細胞内のエネルギー生産はより効率的になり、有害な酸化ストレスを増やすことなく、ニューロンが必要とする燃料を供給できるようになる。廃棄物(フリーラジカル)も生じるが、それを処理する酵素も作られる。もちろん、DNAの残骸や細胞の分裂や老化による副産物を片づける清掃サービスもある。この酵素と清掃サービスは、がんと神経変性の発生を防ぐと考えられている。また、運動はストレス反応を誘発するが、それほど極端でなければ、システムがコルチゾールであふれかえることはない。

運動することでエネルギー利用の効率が上がるのは、ひとつにはインスリン受容体の生産が促されるからだ。体内の受容体数が多いと、血糖はよりうまく利用され、細胞は強くなる。受容体がそこにあるということは、その効率のよい新たなシステムが定着したことを意味する。定期的に運動し、インスリン受容体の数を増やしておくと、血糖値が下がったり、血流が不十分だったりしても、細胞は血液から無理矢理にでも十分なグルコースを取り出して活動をつづけることができる。また、運動するとIGF-1は海馬のなかでLTP(長期増強)を促進して、ニューロンの可塑性を高め、ニューロン新生を促している。運動はそういう形でもわたしたちのニューロンの結びつきを強めているまた運動は、FGF-2とVEGFも生成する。この二つは脳のなかに毛細血管を新しく作り、その血管網を拡大する。幹線道路が広くなり、数も増えれば、血液はよりスムーズに流れるようになる。

同時に、有酸素運動はBDNFの分泌量を増やす。これらの因子が協力しあって脳の活動を活発にし、慢性ストレスの有害な影響に負けないようにしている。それらはまた、細胞の修復プロセスを開始するだけでなく、コルチゾールが増えすぎないよう監視し、必要に応じて神経伝達物質セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンを増やす。

力学的なレベルでいえば、運動は筋紡錘(筋肉のなかにある張力センサー)の静止張力を緩めることで脳にフィードバックされるストレスを撃退する。体が緊張していなければ、脳は自分もリラックスしてもいいだろうと判断するわけだ。長期的に規則正しく運動すれば、心血管系の効率がよくなり、血圧が下がる。心臓専門医は近年、心臓の筋肉で生成される心房性ナトリウム利尿ペプチド(ANP)というホルモンが、HPA軸にブレーキをかけ、脳の騒音を鎮めて体のストレス反応を直接抑えることを発見した。ANPの興味深い点は、運動によって心拍数が上昇するにつれ量が増えることで、おそらくANPも運動によって心と体のストレス反応が緩和される一因となっているのだろう。』

【ご参考】過去ブログ:"自律神経失調症

脳とストレスの関係について書かれています。

【ご参考】過去ブログ:"がんと自然治癒力8

長文のブログですが、最後の方に「HPA軸」に関する記述があります。ここではその一部をご紹介させて頂きます。なお、「もう一つの防衛システム」とは免疫系になります。

身体を守るための二つの防衛システム

『多細胞生物では、神経系が、成長・増殖あるいは防衛反応をコントロールしている。環境からのシグナルをモニターし、解釈し、適切な行動で応答するように指揮するのが神経系の役割である。多細胞生物は多くの細胞からなる共同体であり、神経系は、脅威になるような環境からのストレスを認識すると、細胞の共同体に対し、危険が迫っているという警告を発する。

わたしたちの身体には、実際には、二つの異なる防衛システムが備わっている。どちらも生命維持に必要不可欠なものだ。一つは、“外部”からの脅威に対して防衛反応を引き起こすHPA系(Hypothalamus-Pituitary-Adrenal Axis)というもので、視床下部・脳下垂体・副腎という三つの部分が連携して働くシステムである。

脅威となるものがないときはHPA系は活動せず、体内では成長・増殖活動が盛んに行われる。環境内の脅威が知覚されると、視床下部がHPA系を発動させ、脳下垂体にシグナルを送り出す。脳下垂体は「内分泌腺の総元締め」ともいえる部分で、50兆個からなる細胞の共同体の態勢を整えて、差し迫った危機に対応できるようにする。』

第四章 不安 ―パニックを避ける

証拠

『有酸素運動をすれば、不安がたちまち解消されるという事実は、ずいぶん昔から知られている。しかし、研究者がその仕組みを突き止めようとし始めたのはごく最近になってからだ。

運動すると体の筋肉の張力が緩むので、脳に不安をフィードバックする流れが断ち切られる。体の方が落ち着いていれば、脳は心配しにくくなるのだ。また、運動によって起きる一連の化学反応には気持ちを落ち着かせる効果がある。筋肉がはたらき始めると、体は燃料を供給しようと脂肪を分解して脂肪酸を作り、血液中に放出する。この遊離脂肪酸は血液中を移動する際の乗り物にするために、トリプトファン(8種類の必須アミノ酸のひとつ)と結合していた輸送タンパク質(アルブミン)を奪い取る。身軽になったトリプトファンは、浸透圧差に導かれて血液・脳関門をやすやすと通り抜け、脳に入っていく。そしてたちまち、われらが友、セロトニンの構成材料になる。トリプトファンだけでなく、運動によって増えた脳由来神経栄養因子(BDNF)もセロトニンを増やし、わたしたちを落ち着かせ、安心感を高める。

運動はガンマアミノ酪酸(GABA)分泌も引き起こす。GABAは脳の主要な抑制性神経伝達物質で、ほとんどの抗不安剤はそれに照準を合わせている。不安を自ら引き起こそうとする脳の動きを細胞レベルで食い止めるには、GABAの量を正常に保たなければならない。GABAは脳で起きる強迫観念に駆られたフィードバックの連鎖を断ち切ることができるのだ。また、運動することで心臓の鼓動が速くなると、心筋細胞が心房性ナトリウム利尿ペプチドを(ANP)というホルモンを生成し、過度の興奮にブレーキをかける。ANPは体がストレス反応を抑えるために使う道具となる。これについてはあとで詳しく説明しよう。

有酸素運動は不安障害のどんな症状も大幅に和らげることを数多くの研究が示している。さらに、運動は健康な人が普段の生活で感じる不安も和らげられる。2005年、チリの高校生のグループを対象として、9カ月にわたって運動が心と体に与える影響を測定するという興味深い研究がなされた。15歳以上の高校生198名を二つのグループに分け、一方には週三回、90分の激しい運動させ、対象グループは週に一度、通常の体育の授業を90分、受けさせた。本来この研究の目的は、運動と一般的な気分の変化の関連を測ることだったが、心理テストでは不安に関する値がひときわ目を引いた。激しい運動をしたグループの不安度は14%下がったが、対照グループはわずか3%下がっただけだ(3%はプラセボ効果によるものとして統計上無視できる数字だ)。健康レベルは実験グループが8.5%向上したのに、対照グループが1.8%の向上にとどまった。もちろんそれも偶然ではない。明らかに、運動の量と不安の度合には関連があるようだ。』

失われたつながり

『ヒポクラテスの時代には、感情は心臓から生まれるものであり、精神の病の治療は心臓から始めるべきだ、と考えられていた。現代医学は心と体を切り離したが、ヒポクラテスは正しかったことが近年、具体的に明らかにされている。心臓から生まれる分子が人間の感情にどのようにはたらきかけるかを科学者が理解し始めたのは、ここ10年ほどだ[ご参考:本書の初版は2009年]

運動すると心筋から心房性ナトリウム利尿ペプチド(ANP)が分泌され、それは血流に乗って脳まで送られ、血液・脳関門を通り抜ける。脳に入ったANPは海馬の受容体にくっついてHPA軸の活動を調整する(ANPは、脳内でも青斑核や扁桃体のニューロンで生成・分泌される。青斑核も扁桃体もストレスと不安に関して重要な役割を担っている)。動物および人間の実験によってANPには鎮静効果があることがわかっていて、研究者は、運動が不安に作用するのは主にANPのはたらきによるものだと考えている。2001年、不安におけるANPの役割を実証しようとする初期の研究では、不安障害の患者でパニック障害のある人とない人のグループを比較した。彼らは無作為にANPかプラセボのどちらかを注射され、その後、コレシストキニン・テトラペプチド(CCK-4)と呼ばれる消化管ホルモンを注射された。CCK-4は不安とパニックを誘発する。どちらのグループもANPによってパニック発作が大幅に軽減したが、プラセボではそうならなかった。

パニック発作のあいだ、副腎皮質刺激ホルモン放出因子(CRF)が急増する。CRFは自ら不安を誘発するとともに、神経系をコルチゾールであふれさせる。ANPは人間を混乱させようとするCRFの企てを防いでいるらしい。HPA軸にはたらきかけるブレーキのようなものだ。女性を対象にしたいくつかの研究により、妊娠中はANPのレベルが3倍になることがわかった。成長中の胎児の脳を、ストレスと不安の有害から守るために生来備わっている戦略なのだろう。

重症の心疾患の患者を対象とする研究では、ANP値が高い人は不安値が低かった。不安障害の人はいなかったが、医師たちは彼らの不安に関心を寄せていた。というのも、不安の有無が術後の回復に大きく影響するからだ。ANPは、アドレナリンの流れをせき止めて心拍数を下げることで交感神経系の反応を直接鈍らせる。また、すばらしいことに、ANPは不安という感覚も緩和するらしいのだ。パニック障害の発作が頻繁な人は、血液中のANPが不足気味だとわかっている。』

脳と運動1

脳性まひ児への施術を考えるうえで、繰り返し出てきた「脳の可塑性」とは「脳は変わる」ということです。

ブログ"アナット・バニエル・メソッド1"は"限界を超える子どもたち 脳・身体・障害への新たなアプローチ"という本を題材としたものですが、その本の中には、脳神経学者のマイケル・マーゼニック先生が"本書によせて"というタイトルで、脳の可塑性について語った文章があります。 

『アナット・バニエルのアプローチは、特別な支援を必要とする子どもたちとの豊かな実践から生まれました。彼女は子どもたちの脳が変わっていくことができるのを繰り返しみてきました。子どもたちは人生に目覚め、能力を獲得し、力強く生き方を変えていきました。私たちの脳には「可塑性」があります。一生を通じて脳は変化しつづけます。

~ 中略 ~ 私は長年、「再構築する脳」の力を子どもや大人に役立てる方法を解明したいと、科学の分野で取り組んできました。数十年の研究を経て、私たち科学者は神経科学の観点から脳の可塑性を支配する「法則」を明らかにしました。そして、よりよい変化をもたらすためには脳はどのように働かせるのがよいかがわかってきました。

何をしたら脳の可塑性は進むのだろう?

という疑問から本を探していたときに、見つけたのが今回のブログの題材である"脳を鍛えるには運動しかない”という本でした。

著者:ジョン J. レイティー

訳者:野中香方子

出版:NHK出版

初版発行:2009年3月

原書の題名は『SPARK』でした。

ここには、「脳を発火(スパーク)させて生気(スパーク)を取り戻そう」という意味が込められているそうです。

この本の評価の中には「論文の情報がない」というご意見もあり、少し気になったため、ジョン J. レイティー先生についてネット検索してみました。 

John J. Ratey MD, is an associate clinical professor of Psychiatry at Harvard Medical School and an internationally recognized expert in Neuropsychiatry. 

画像をクリックして頂くと、レイティー先生のFacebookに移動します。なお、画像は「APEX BRAIN CENTERS」さまより拝借しました。

 

 

本書の最後に『1998年から毎年[初版発行は2009年]、同業者の選出による全米ベスト・ドクターのひとりに選ばれ続けている。』という記述があったため、調べて見ると日本を含め12カ国で展開されているものでした。ホームページの右上にある小さなフィールドで国名を選ぶことができます。 

本書の中には個別の参照論文に関する表記はないのですが、”第十章 鍛錬 ―脳を作る” の中に次のようなことが書かれていました。

『わたしが強調したかったこと―運動は脳の機能を最善にする唯一にして最強の手段だということ―は、何百という研究論文に基づいており、その論文の大半はこの10年以内に発表されたものだ。 

ブログは最初に目次をご紹介していますが、黒太字になっている項目が取り上げたものです。なお、「第九章 加齢 ―賢く老いる」の中の「いかに年をとるか」以外はいずれも内容の一部です。

また、ブログは4つに分けており、今回の“脳と運動1”の対象は序文と第二章になります。 

目次

序文 結びつける

第一章 革命へようこそ ―運動と脳に関するケーススタディ

 トップクラスの成績

 新しい体育

 たいまつを掲げる

 新しいステレオタイプ「賢い運動選手」

 体にいいことは、脳にもいい

 まったく新しい球技

 先駆者についていこう

 フィットネスを超えて

 教えを広める

第二章 学習 ―脳細胞を育てよう

 メッセンジャー役の物質たち

 学ぶことは成長すること

 最初のひらめき

 環境要因と脳

 可塑性を伸ばす

 体と心の関係

 こんな運動をしよう

第三章 ストレス ―最大の障害

 ストレスを定義し直す

 ストレス免疫をつけよう

 警報システム

 燃料を燃やす

 知恵

 本能と戦う

 ストレスはあなたを殺すだけではない

 もうたくさん!

 ストレスの有害作用

 ストレスを燃やし尽くす

 心を守るものが体も守る

 こんな運動をしよう

第四章 不安 ―パニックを避ける

 エイミーのケース

 防衛

 証拠

 恐れを恐れる

 パニックの苦しみ

 苦しみ抜いて

 失われたつながり

 恐怖に向かって走れ

 恐怖から走って逃れる

 こんな運動をしよう

第五章 うつ ―気分をよくする

 新しいブーム

 収束する生化学回路

 本物のテスト

 最高の処置

 論理の穴

 裏にある結合

 絆を断つ

 トンネルを抜ける 

 こんな運動をしよう

第六章 注意欠陥障害 ―注意散漫から脱け出す

 とてつもない注意散漫

 問題の兆候

 大々的に、しかも曖昧に、やり遂げる

 全コントロール・ユニット、注目!

 初期の手がかり

 エクササイズに集中する

 脳を関与させる

 典型的な事例

 こんな運動をしよう

第七章 依存症 ―セルフコントロールのしくみを再生する

 不当な報い

 ふたたび自立する

 ドーパミンへの渇望

 衝動と戦い、習慣を断つ

 ある依存症患者の物語

 ランナーズハイ

 よいものにこだわる

 空の容器を満たす

 こんな運動をしよう

第八章 ホルモンの変化 ―女性の脳に及ぼす影響

 PMS―自然な変動

 バランスを回復する

 妊娠―動くべきか、動かざるべきか

 赤ちゃんのことをお忘れなく

 産後のうつ―青天のへきれき

 元の自分に戻る

 閉経―大きな変化

 運動補充療法

 こんな運動をしよう

第九章 加齢 ―賢く老いる

 すべてをひとつに

 いかに年をとるか

 認知力の衰え

 感情が乏しくなる

 認知症

 人生のリスト

 母の教え

 食事―軽く、体にいいものを食べよう

 運動―規則正しくつづけよう

 頭の体操―学びつづける

第十章 鍛錬 ―脳を作る

 走るべく生まれついている

 ウォーキング

 ジョギング

 ランニング

 非有酸素運動

 やり通すこと

 大勢でやればなおよい

 柔軟性を保つ

あとがき 炎を大きくする

序文 結びつける

わたしが目指すのは、運動と脳をつなぐ驚きに満ちた科学を分かりやすい言葉で語り、それが人間の生活にどのような形で現れるかを示すことだ。そして、運動が認知能力と心の健康に強い影響力をもっているという認識を確かなものにしたい。運動は、ほとんどの精神の問題にとって最高の治療法なのだ。

『最も見習うべき事例は、診察室の壁を越えたはるか先、シカゴ郊外の学区で見つかった。その学区で展開された画期的な体育プログラムは、今わたしが述べてきた刺激的で新しい研究と深く結びついている。イリノイ州ネーパーヴィルで取り入れられた体育の授業は、19,000人の生徒を、おそらく米国一健康にした。ある高二のクラスでは、太りすぎの生徒は3%しかいない。国の平均は30%だ。さらに唖然とさせられるのは、そのプログラムによって、学区の生徒が国内有数の頭のいい生徒へと変身したことだ。』

本書の序文の中で紹介されている、米国イリノイ州ネーパーヴィルで実施された体育プログラムに関しては、ツインデンタルクリニックさまの「健康ブログ」に、”ネーパーヴィルの奇跡”という題名で、概要が簡潔にまとめられていました。

英文の記事もありました。タイトルは"One Small Change Turned These 19,000 Students Into the Fittest and Smartest in the US"です。なお、こちらは「ORTHODOX UNION」というサイトに掲載されていました。

第二章 学習 ―脳細胞を育てよう

メッセンジャー役の物質たち

『グルタミン酸は脳の馬車馬となってはたらいているが、精神医学がそれよりも重視するのは、脳の信号操作とすべての活動を調整している一群の神経伝達物質だ。すなわち、セロトニンノルアドレナリン、そしてドーパミンである。それらを作り出すニューロンは、脳におよそ1000億個あるニューロンの1パーセンントにすぎないが、影響は甚大だ。ニューロンに命じてもっとグルタミン酸を作らせたり、ニューロンがより効果的に情報伝達できるようにしたり、受容体の感度を変えたりする。また、余計な信号がシナプスに伝わらないようにして脳内の「雑音」を小さくしたり、逆にほかの信号を増幅したりもする。グルタミン酸やGABAのように信号を送ることもできるが、その第一の役割は、情報の流れを調節して、神経化学物質全体の調整をすることだ。

あとの章で詳しく述べるが、セロトニンは脳の機能を正常に保つはたらきをしているので、よく脳の警察官と呼ばれる。セロトニンは、気分、衝動性、怒り、攻撃性に影響する。フルオキセチン(商品名プロザック)のような選択的セロトニン再取り込み阻害薬を使うのは、うつ病や不安障害、強迫神経症の原因となる脳の暴走をそれが抑えるからだ。

ノルアドレナリンは、気分について理解するために研究された最初の神経伝達物質で、注意や知覚、意欲、覚醒に影響する信号をしばしば増強させる。

ドーパミンは学習、報酬(満足)、注意力、運動に関係する神経伝達物質と見られており、脳の部位によって正反対の役割を果たすこともある。塩酸メチルフェニデート(商品名リタリン)は、ドーパミンを増やして気持ちを落ち着け、注意欠陥・多動性障害(ADHD)を緩和する。

精神の状態を改善するために用いる薬のほとんどは、これら三つの神経伝達物質のひとつか、あるいは複数にはたらきかける。だが、ここではっきりさせておきたいのは、そのシステムは非常に複雑なので、どれかを増減すれば決まった結果が出るわけではないということだ。ひとつの神経伝達物質を操作すると、その影響は連鎖的に広がっていき、人によって現れる効果は違ってくる。

頭鍼・頭皮鍼の効果を考える

前々回のブログは脳性まひ児のリハビリテーションを手技の視点でまとめたものでしたが、現在、この手技に加え鍼(シール型の円皮鍼を含む)による施術も行っています。また、この中には頭部に刺す頭皮鍼も含まれています。

3歳、4歳といった幼児は頭部に刺鍼する際、じっとしていないという難しさがあります。また、拒否されないために通常では用いない細い鍼(02番[0.12mm]、もしくは03番[0.10mm])を使っているため、刺鍼はさらに難しくなっています。その結果、狙ったポイントから微妙にずれてしまうことがほとんどで、その場合の鍼の効果はどうなのだろうという思いをもっていました。これが、今回このテーマを取り上げた理由です。

なお、拒否が強まると、“泣く”という事態になるのが普通ですが、『脳性麻痺と機能訓練』の著者である松尾先生は“愛護的訓練の重要性”の中で以下のようなお話をされています。私も、”泣く=拒否⇒心・脳‐筋肉への効果はあまり期待できないだろう”という認識です。 

『機能訓練は徹底して愛護的に進められるべきである。これは泣くことによって起こる動きは、早い動きの緊張状態であり、訓練の効果を否定するものだからである。随意的かつ抗重力的な動きとは、泣くといった不快な状態では引き起こすことはできない、柔らかいゆっくりした動き(単関節)であり、快適な状態で初めて活性化できるものである。』

 

頭鍼・頭皮鍼について2017年3月に“YNSA(山元式新頭鍼療法)”というタイトルのブログをアップしていますが、独学のYNSAを施術に使っていたのはその時の患者さまだけです。

また、頭部への刺鍼は、代々木の研修時代に全身調整穴の一つとして教わった懸顱(ケンロ)または懸釐(ケンリ)という経穴(ツボ)を使っています。さらに頭頂付近にある百会(ヒャクエ)や、懸顱(ケンロ)の背側にある卒谷(ソッコク)などもたまに使うことはありますが、頭皮鍼として頭部に集中して刺鍼するような施術は行っておりません。

これも、頭鍼・頭皮鍼の効果を考えてみたいと思った理由です。 

図の中央、上から懸顱(ケンロ)と懸釐(ケンリ)の経穴(ツボ)が並んでいます。なお、この図は経穴と動脈の位置関係を表したもので、懸顱と懸釐はいずれも浅側頭動脈の近位にあります。また、図は添付していませんが、顔面神経が近くを走行しており、三叉神経第三枝(下顎神経)の分布域の中にあります。

画像出典:「経穴マップ」

こちらは“YNSA(山元式新頭鍼療法)”でもご紹介した淺野先生の著書です。こちらに頭鍼の効果に関する記述がありますので、まずはそれをご紹介させて頂きます。

『頭鍼によって大脳皮質の血流が活発化する作用原理だが、鍼には留鍼しておくと、毛細血管を広げる作用があることは確認されている。頭皮には、びっしりと毛細血管が張り巡らされて頭髪を栄養している。だから頭鍼や項鍼して頭皮の血流を活発にすると、まばらだった頭髪が生えてくる。頭蓋骨には細かな穴がたくさんあって、頭皮と頭蓋骨内部を連絡している。頭皮の毛細血管が拡張すれば、当然にして繋がっている頭蓋内側の血管も拡張し、血流が活発化するはずだ。血管ならば1カ所が拡張すれば、それと繋がる部分も拡張する。だから「頭皮へ刺鍼すると、頭皮の血管が拡張するために、その頭蓋骨内部の血流も活発化する」と考えたほうが合理的だ。』

このように、ここで指摘されていることは血液に関するものでした。血流の改善は自律神経の改善とともに科学的に明らかにされた鍼の大きな効果です。 

こちらは、東京都鍼灸師会のホームページからダウンロードできる『科学も認める はりのチカラ』という冊子です。この中に血流や自律神経に関する効果についての解説があります。

 

一方、『経穴マップ』という本には「中国の古典説」というものが紹介されています。左下の“頭鍼療法の理論(説)”がその内容です。鍼灸や漢方の専門家でないと理解不能な内容と思いますが、ひとことで言えば、”血気は脳に集まる。故に重要である”ということだと思います。また、右下の“頭鍼療法”には概要や歴史が簡潔に紹介されています。  


なお、今回は「中国の古典説」ではなく、現代医学の視点から「血流の改善」という効果に着目して考察を進めます。

最初に頭の外側にある血管、外頚動脈について調べてみました。

執筆:佐々木真理、升森義昭

監修:窪田 惺

出版:メディカ出版

初版発行:2008年10月

画像出典:「脳の神経・血管解剖」

外頚動脈は総頚動脈から内頚動脈とともに分岐し、顎・顔面領域、頭皮、硬膜などを広く栄養します。

顎動脈

・中硬膜動脈:棘孔を通って頭蓋内に入り、硬膜を広く養う。

・下歯槽動脈

・深側頭動脈

・蝶口蓋動脈

・下行口蓋動脈

・眼窩下動脈

・etc

上甲状腺動脈:甲状腺を養う。

舌動脈:舌を養う。

顔面動脈:顔面を養う。

上行咽頭動脈:咽頭を養うほかに、下位脳神経や頚静脈孔・大孔周囲の硬膜を栄養する神経硬膜動脈幹を分岐する。

後頭動脈:後頭部の頭皮を養うほかに、硬膜枝(小脳鎌動脈)分岐する。

後耳介動脈

浅側頭動脈:頭皮を広く栄養する。

側副血行路外頚動脈の枝の多くは相互に吻合しています。また、内頚動脈や椎骨動脈とも多数の吻合を持っています。これらは内頚動脈や椎骨動脈の閉塞などの際に側副血行路として重要な役割を果たします。

これを見ると、頭蓋骨の外側を流れる血液は頭皮だけでなく、様々な組織を養っていることが理解できます。さらに、内頚動脈や椎骨動脈とも多数の吻合をもっているということですので、脳の内部にも波及しているということになります。淺野先生は著書(“頭皮鍼治療のすべて”)の中で『血管ならば1カ所が拡張すれば、それと繋がる部分も拡張する。』とお話されていますので、その意味でも脳全体の血流に関わっていると考えられます。

続いては、明治国際医療大学さまのホームページからです。内容は一部抜粋です。詳しくはホームページでご確認ください。なお、MRI(磁気共鳴コンピュータ断層撮影装置)では血流動態が把握できます。

『脳神経外科学ユニット樋口敏宏教授は本学附属病院で外来診療も行う脳神経外科医。現代医学のドクターが鍼灸治療の科学的解明という研究をリードするのも明治国際医療大学ならでは。』 

【研究報告】“鍼灸が「なぜ効くのか」をMRIによって明らかに

ここでは、次のようなことが書かれています。

研究のベースとなるデータ収の方法は、鍼を身体いずれかの経穴に打ち、その時の脳をMRIで“輪切り状態”で撮影していくというもの。その反応は脳幹に近い二次感覚野(センサリーフィールド)に多くあらわれており、これによって「経穴への刺激とは、実は脳への刺激である」という、鍼治療の基礎領域が科学的に立されつつあります。また、経穴によっては痛みのコントロールに関連するといわれている視床下部が反応していることも明らかになりました。 

『経穴を鍼刺激した脳(ヒト)の活動/MRIを使った脳機能磁気共鳴画像では、鍼灸が中枢神経に与える効果を安全に測定することができます。』

ご参考fMRIとは東北福祉大学さまのサイトより

『普通のMRIは病院で使われているように、脳の構造を非侵襲的に測る最も優れた方法として知られています。fMRIはMRIのもたらす構造情報の上に、脳の機能活動がどの部位で起きたかを画像化するものです(左図)。在来、脳の神経活動で起きる電気磁気現象をMRIで直接検出するのが大変難しく、脳機能をMRIで測ることは不可能とされてきました。ところが、MRIの信号には小さいながら、脳の生理現象の変化と共に変わる成分があり、それが脳機能活動と関連した信号変化として捉えられることが示されました(小川 他、1990、1992年)。これがfMRIの始まりでBOLD法と名づけられています』

ここで注目すべき点は、脳の血流動態の変化は頭部に限らず、体表への刺鍼でも脳に影響を及ぼすことができるという点です。

下記は明治国際医療大学さまとは無関係の資料ですが、題名は“経穴部位の刺激と脳の反応部位のまとめ”と書かれています。なお、下部に経穴(ツボ)が明記されていますが、これらの中には頭部の経穴は一つも入っていません。 

下肢の経穴:KI3、KI7、LR2、LR3、SP6、SP9、GB37、ST36、ST40、ST44、BL62

上肢の経穴:LI2、LI4、PC6、PC7

画像出典:「鍼灸臨床最新科学」

うつ病に関しても、脳の血流が関係しています。

以下は過去ブログ“うつ病治療(TMS)”からの抜粋です。

『うつ病の人では、この前頭前野のDLPFCの活動が落ちていることがわかっています。もし、うつ病特有の意欲や注意力の低下の向上、認知機能の障害を改善したかったら、DLPFCの活動を増大させればよいのです。脳の血流を調べて、その血流量が増大していれば、そうした意欲や認知などの症状が改善していると考えられます。  


画像出展:NHKスペシャル「ここまで来た!うつ病治療」

※画像はブログ“思考の部屋”さまから拝借しました。

著者:永野剛造

出版:三和書籍

初版発行:2014年6月

中国の事例になりますが、“48例の後遺症への効果の検討”についての紹介がされています。また、この症例報告はネット上にもありました。下記をクリックするとサイトに移動します。

朱氏頭皮鍼の脳血管障害による片麻痺に対する効果

ここでお伝えしたかったのは、以下の内容です。

『朱氏頭皮針療法実施における中国と日本の違いですが、中国では早期より積極的に頭皮針治療を行うため、その効果もよく出ています。日本では、朱氏頭皮針での治療をするにしても、病院を退院した慢性期の患者さんばかりです。

それも週1回か2回の通院治療が限度となっています。このような状況のもと、日本において頭皮針治療がいかに効くかということを実証するのは簡単ではありません。朱明清医師の実績にいかに近づけるのかが今後の大きな課題です。

朱氏頭皮針は、「導引、吐納」を行うことを重視していますが、「導引」とは運動、あんま、体育を総称するもので、「吐納」は呼吸で濁気を吐き出し、清気を吸うことです。

朱氏頭皮針は鍼を刺して運動療法を併用することで、理学療法も同時に行うところに特徴があります。したがってより治療効果を上げるには理学療法士との協力体制をつくることが重要です。

中医師(中国の伝統医学である中医学を実践する医師)が一般的な医療行為の中で鍼治療を行う中国と異なり、一部の例外を除き(日本でも鍼治療を行う医師の方がいます)、鍼灸師が鍼治療を行う日本では、開始時期や頻度の問題は極めて難しいと思います。一方、鍼治療と理学療法を総合的に取り組んでいくということは、この問題に比べれば可能性は大きいと思います。

ブログの冒頭に「(刺鍼点が)微妙にずれる」ことに対する懸念をお伝えしているのですが、著者の永野先生が行っている治療(頭のツボ)を拝見すると、頭部中央前方に“基本となるツボ”があります。これは偶然にも私が行っている「百会⇒前頭葉」の刺鍼エリアに近いものでした。

また、血流の改善という視点に立てば、刺鍼ポイントが狙ったところからずれても、効果は期待できるだろうということが分かりました。


なお、永野先生の永野医院は渋谷区幡ヶ谷にあります。

『「頭皮針」聞きなれない言葉なので簡単に説明しましょう。

一般に体にうつ針を「体針」と言います。一方、局所を使って治療する方法を「微針法」と言い、例えば、耳を使う「耳針法」は有名です。このほかにも、頭、足の裏、手のひら、目の近辺などの局所は全身を反映するといわれます。この頭のツボ刺激する方法を「頭皮針」と言います。ですから、「頭皮針」とは局所を刺激して病気を治す「微針法」の一つといえます。

我々が取り入れている「頭皮針」は閻(エン)先生が開発した脱毛症の針と、朱先生が開発した「中枢神経障害」に対する針で、治療の方法は全く異なりますがどちらも体針を併用いたします。 この二つの「頭皮針治療」は非常に効果が高く、何回かテレビにも取り上げられました。

立つ・歩くことを考えたリハビリテーション

順番が逆になってしまいましたが、脳性まひ児のリハビリテーションに関して、もう一つブログをアップしたいと思います。今回の本は患者さまのご家族の方から教えて頂いたもので、大変簡潔で分かりやすく、実際に試してみたいと思う内容なのでご紹介させて頂きます。

編著:坂根清三郎、湯澤廣美、山本智子

出版:へるす出版

発行:2017年11月

章は6つで、以下の通りです。

第Ⅰ章 子どもの正常発達と運動障害児の特徴

第Ⅱ章 ストレッチの重要性 効果的な運動機能訓練を行うために

第Ⅲ章 子どもの発達に沿った運動機能訓練

第Ⅳ章 LS‐CC松葉杖訓練法の実際

第Ⅴ章 ケース報告

第Ⅵ章 学校や家庭での取り組み

ブログでご紹介しているのは第Ⅲ章です。そのⅢ章は4つに分かれており、この中のⅡ期とⅢ期を取り上げています。

第Ⅲ章 子どもの発達に沿った運動機能訓練

Ⅰ期:仰臥位→腹臥位→首の座り(頚定)→寝返り→持ち込み坐位

Ⅱ期:持ち込み坐位→自力坐位→四つ這い移動(尻這い・いざり這いを含む)

Ⅲ期:つかまり立ち→伝い歩き→独歩

Ⅳ期:応用歩行

Ⅱ期:持ち込み坐位→自力坐位→四つ這い移動(尻這い・いざり這いを含む)

1.持ち込み坐位

ねらい

体幹を起こすことに慣れる

バランス感覚の向上

坐位姿勢での頭部保持

●坐位の練習は、脊柱に多くの加重がかかり、体幹を起こすことを経験する最初の姿勢である。

●四つ這いなどの運動能力ともかかわってくるので、非常に大切である。

 ひとり座り:乳児の坐位。

 あぐら坐位:成長とともに下肢がながくなるとひとり座りからあぐら坐位になる。

 正座:足先が内を向き、殿部が足の上に乗っている状態(筆者が奨励している)。

 割座:正座と異なり、殿部が足の間に落ちている状態(筆者が奨励している)。

 横座り:長期的には側彎になる傾向が強い(筆者は奨励していない)。

 とんび座り:股関節が内転・内旋となるので股関節の可動域に制限がある場合は避けるべき。

画像出典:「脳性まひ児のリハビリテーション」

画像出典:「脳性まひ児のリハビリテーション」

●健常児の自力坐位は、まず「腹臥位から殿部を持ち上げ→次に腕立て伏せで体幹を持ち上げ→ひとり座り」となる。そして、この次の段階として、上肢を使った四つ這いを獲得する。

●腕立て位で獲得した上肢伸展支持を利用して、あぐら坐位・割座・正座に慣れさせる。

●坐位姿勢では頭部を挙上させることが大切である。テレビや絵本・DVDなどを用いると良い。

●手で床を支えて坐位が可能であれば、片手に玩具を持たせたりして、片手でも支えられるようにする。

●両手を床から離しても坐位バランスが保てるようになるまで継続する。

2.肘這い

●肘這いは運動機能を促進する。

●「持ち込み坐位→自力坐位」の中間にある運動機能である。

3.自力坐位

●健常児では生後8~10カ月頃に見られる。

●手順は「腹臥位になり→尻を持ち上げるようにしながら→上肢で身体を支え→正座や割座になる。

画像出典:「脳性まひ児のリハビリテーション」

自力坐位になれない多くの子どもは、殿部を持ち上げられない。これは、股関節の屈曲がうまくできないからである。

子ども自身の力で股関節屈曲の動きを生み出すことは、他動的な股関節屈曲運動だけでは難しい。

●“松葉杖訓練”を早期に行うと、下肢を随意的に動かすことを通して、股関節の屈曲を習得することができる。

●股関節の屈曲ができるようになれば、腹臥位で下腹部をくすぐると股関節が屈曲し、殿部が上がってくるので、腸骨前面を介助することにより正座や割座の姿勢がとれ、さらに上肢を伸ばすと上半身が持ち上がって、正座や割座の姿勢になることができる。

画像出典:「脳性まひ児のリハビリテーション」

4.四つ這い

●四つ這い位でバランスを崩さず、手足を交互に動かすことができれば、四つ這いはできる。

●自立坐位が可能であれば、体幹のバランス維持も可能なので、四つ這いでのバランス維持も難しくない。

●手足を交互に動かすという課題は、やはり“松葉杖訓練”で効果的に学ぶことができる。

Ⅲ期:つかまり立ち→伝い歩き→独歩

●独歩を目標にした場合、つかまり立ち・伝い歩きは、習得させたい目標である。

●既に、つかまり立ち、伝い歩きを習得していれば、独歩を目標にすることができる。

1.つかまり立ち

●健常児では立ち上がる時に、足関節が大きく背屈している点は重要である。患児では足関節が底屈(尖足)し、十分な背屈が難しく、立位・歩行を困難にしている。

徒手による床からの立ち上がりの訓練

画像出典:「脳性まひ児のリハビリテーション」

①子どもの背面から介助して、膝を支えてしゃがみ位をとらせる。そのとき、介助者に寄りかかる姿勢になり、体重を預けようとするのを、子どもの下肢に体重がのるように誘導して支える。その際、股関節が内転しやすいので、内転しないように注意する。

②座り込んでいる子どもの両膝を軽く握るように持ち、重心を前方に移すようにして殿部を持ち上げさせる。

③膝が伸びるように誘導しながら、股関節も同時に伸ばすように促す。

④膝と股関節が伸びきると、立位の姿勢になる。このとき、重心が後方に移らないように注意して、下肢に重心を十分のせるようにさせる。

●つかまり立ちを指導する際、上肢を引き上げたり、体幹を持ち上げたりしないようにしなければならない。立ち上がりを習得するには積極的支援ではなく、誘導を心がける。

2.伝い歩き

●伝い歩きの上達は、「つかまり立ちで左右の足に体重移動ができるようになる→次いでカニのように横移動ができるようになる→やがて片手で物につかまりながら前方移動ができるようになる」というものである。

上下肢の運動機能がわるい子どもにとって、伝い歩きを行うことは大変難しいことであるが、これができなければ、次の段階へ進むことはできない。

大腿上部を介助しての重心移動

画像出典:「脳性まひ児のリハビリテーション」

①子どもの後方から大腿上部を介助して、子どもの足を少し広げて立たせる。このとき重心は、下肢にしっかりとのっているか、少し前方である。重心が後方にならないように注意する。

②上記①の姿勢を維持しながら、片足に重心移動を行う。介助者が介助者の片足を子どもの足部に当て、横にスライドするようにしながら、持ち上げるかのように他方の足に重心を移す。これを左右ともに行う。

③上記②ができるようになれば、子どもの足部に当てていた介助者の足で、子どもの足を床から上げて、しっかりと他方の足に重心をかけさせる。これを左右ともに行う。

以上の訓練みより、左右への重心移動は行えるが、前方への移動は歩行器を使わなければできない。歩行器の指導では、特に、重心が後方にいかないように指導することが重要である。そのため、ハンドル型で後方から押すタイプの歩行器を推奨する。前輪の車輪は自由に動き、後輪の向きが自在に動くものを選ぶ。

画像出典:「脳性まひ児のリハビリテーション」

子どもの手の位置は、左右の乳頭を結ぶ線よりやや低い高さである。つまり「頼れそうで頼れない状態」に訓練効果を期待しており、PCWの一般的な使用と比較すると、その使用方法は特徴的である。

大人がついやってしまうことで、特に注意したいのが、少し伝い歩きができるようになった子どもを片手介助で歩かせることである。これをすると、子どもは介助されている手に依存した方が楽なので、下肢でバランスをとる努力をしたがらなくなる。ちょっとしたことのように思えるが、子どもが試行錯誤しながら目標に取り組む段階に入れば、逃げ場をつくらないことが大切である。

3.独歩

独歩の訓練に入る時期の見極めは大変難しい(杖歩行や歩行器を行っているうちに、独歩が可能な状態に達していることも珍しくない)。

●松葉杖での歩行が四点支持二点歩行になった時点や、歩行器歩行で安定した歩行ができるようになった時点などが目安になる。

●指導上、特に注意する点はバランスが後方へいかないようにすることである。

①下記の写真のように立たせる。

画像出典:「脳性まひ児のリハビリテーション」

②立っている子どもの両肩前面に介助者の母指を除く四指を当て、母指は肩に当て、子どもの動きを誘導する。このときの介助者の四指+母指(補助指)は、重心が不安定になり倒れそうになった場合に、立て直しの基準(目安)となる。

③子どもの重心が前方へ移動するときに下肢が出る。このことを繰り返すのが、下肢の交互運動である。このとき大切なのがスピードのコントロールであり、うまくいかないと前方に倒れてしまう。介助者がスピードを調整しながら訓練を重ねていくことになるが、ここでは倒れることも経験させる。そして倒れたときは、必ず手で支えること(パラシュート反応)を習得させる。

以上のように、独歩の訓練を進め、肩を介助する独歩が安定してきたら、初めは2mくらいを目標に、介助者の誘導を減らした独歩をさせる(基本的に肩を介助する)。目標位置で保護者が見守ったり、子どもの好きな物を置いておいたりすると子どもは努力することができる。しかし、定めた距離は守り、子どもが上手に独歩しているからもう少し距離を延ばせそうだと思っても、目標位置を変えてはならない。目標位置を遠のくことは、独歩にチャレンジしている子どもに不安感を与え、独歩が嫌いになる原因になる場合があるからである。

LS-CC松葉杖訓練法について

LS-CCのLSとはLong Leg Standing Stabilizerの略で、LS-CC法では「安定板付き長下肢装具」のことです。

画像出典:「脳性まひ児のリハビリテーション」

また、CCはCrawling Carのことで、「四つ這い補助車」のことです。

画像出典:「脳性まひ児のリハビリテーション」

松葉杖も上部の横木が真っすぐではなく、三日月状に加工された特別仕様となっています。

画像出典:「脳性まひ児のリハビリテーション」

LS-CC法の開発のきっかけとなった松葉杖訓練

なお、ご紹介は全文ではありません。

『LS-CC法は、運動障害児に対する有効な訓練法の一つである。年齢的には、2歳前後から適応される。これは、次のような例を経験したことから実践を重ね、完成させた方法である。

筆者(坂根)が勤務していた当時、東京都北療育園(以下、北療:現在の東京都立北療医療センター)の入園部門は、3歳児から単独で入園を受け入れており、機能的には、四つ這いやつかまり立ちなどが可能な子どもたちもいた。その子どもたちに対する訓練内容として、ごく一般的には、関節可動域訓練、介助での立位、しゃがみ立ち上がり訓練、片膝立ち、平行棒あるいは歩行器を利用した歩行訓練、肩や腰部を介助した歩行訓練を行っていた。このような訓練を受けて、2~3年経って退園するのであるが、機能的にみて目覚ましい進歩がみられないのがふつうであった。訓練技術の無力さを歯がゆく思ったものである。

そんなあるとき、四つ這い・伝い歩きが可能な4歳のA君が、訓練室に置いてあった松葉杖を持ちだして遊んでいたので、通常の使い方を教えてみたところ、あまりいやがらなかったので、その後も1日40分~1時間以上、週3~4日以上を目安に継続して練習させた。その結果、3~4週間後には、介助なしに、そばで見守るだけで、訓練室内を4~5m歩けるようになった。3カ月後には、訓練室で、一人で松葉杖歩行ができるようになり、半年後には、居室から訓練室までの約30mを同様に松葉杖で歩けるようになった。そして、約1年後には独歩を開始した。また、結果的に、特に訓練内容として取り上げなかった膝歩きが上手になっていたのである。

この例をきっかけとして、A君よりも機能的にやや劣る子どもや知的能力の低い子どもなど数人に試してみると、どの子どもも2年前後で施設内を松葉杖であるくことが可能になった。このような動作の向上により、坐位の姿勢がよくなり、椅子坐位が安定した。訓練目標として取り上げていなかったことが上達し、松葉杖訓練を行ったことで運動機能の著しい伸びがみられたことは注目に値した。常に少ない訓練時間に不満を抱いていた筆者らにとって、この事実は貴重な経験であった。

その後、A君と同じ痙直型以外に、アテトーゼ型・失調型・混合型の子どもたちにも松葉杖訓練を実施した。下肢関節に強度の拘縮のある子どもや重い知的障害のある子どもを除いて、A君と同様な結果を得た。この実践をとおして、筆者らは「新しい訓練観」をもつに至った。

それは、A君たちよりも機能的に重度な子ども(寝返りや腹這い移動は可能であるが、自力坐位は不可)の自力坐位や四つ這い獲得のために、松葉杖訓練が役に立ちはしないかという考えである。つまり松葉杖訓練によって、体幹や下肢筋力の増強、上肢と下肢の交互性の上達が促され、その結果、自力坐位や四つ這いに結びつくのではないかと考えたのである。実際に試してみると、両脇を介助して立たせたときに立位がとれる場合は、松葉杖訓練が可能であることがわかった。松葉杖訓練は最初、腋下に頼るようにして下肢の支持性が出るまではつらそうにする子どももいる。しかし、継続して行い、介助者の適切な指導があれば、すぐに慣れる。そして、1~2年後、自力坐位・四つ這いが可能になっていた例が多かった。また、自立坐位はできないまでも持ち込み坐位が安定していた。』

肢体不自由と共に”というサイト(Facebook)もあります。

画像をクリックして頂くとFacebookに移ります。

『LS-CC松葉杖訓練法を知っていただきたく、ホームページを開いています。』とのことです。

脳性まひ児のリハビリテーション

昨年8月より始めた脳性まひ児の施術の勉強は、『脳性まひ児の発達支援』、『小児の理学療法』、『脳性麻痺と機能訓練』、『脳性まひの治療のアイデア』、『基礎から学ぶ動作訓練』、『臨床動作法の理論と治療』の6冊の本と『ふぇにっくす』という臨床動作法の冊子がテキストでした。

添付資料は整理整頓したものですが、自分用としてはそれなりに整理できたように思っています。大事なことは一人ひとりに適した施術を考え、実践しより良いものに改善していくことですが、全体観と方向性をイメージし、施術のための引き出しを数多く持つことは、「施術の迷子」にならないためには必要なことだと思います。

心・脳と筋肉を両輪とし、言葉と動作コミュニケーションを密にして、患児と施術者が協同でその歯車を回していくこと、右に行ったり、左に行ったり蛇行しながら進むであろう歩みを、随時修正しながら目標に向かって進めていくこと、これが施術者に課せられた課題であると思います。

良い立位と歩行を獲得させるために、頚部と体幹の動的安定性の活性化、足関節の背屈とつま先の動き、下肢の選択的な運動がとても重要である。ということ。そして、頚部と体幹の動的安定性の欠如は、特に筋の未発達が原因である。」ということが最も印象に残ったことであり、緊張の高い筋肉を弛めることと、緊張の低い筋肉を促通し、筋肉を育てることが施術の中心になるだろうと考えます。

下記は表に記載されている「施術の基本」と「参考となる資料」、そしてABMの「9つの大事なこと」に関する過去ブログをご紹介するものです。 

□ストレッチ訓練[脳性麻痺と機能訓練4

□自立坐位獲得機能訓練[脳性麻痺と機能訓練6

□四つ這い機能訓練[脳性麻痺と機能訓練7

□立位・歩行機能訓練[脳性麻痺と機能訓練8

□骨盤の運動性を高めるために内転筋群を弛める[脳性まひの治療のアイデア2:C-4~C-7]

□足部の活性化[脳性まひの治療のアイデア3:C-74~C-75]         

□骨盤の回旋[脳性まひの治療のアイデア3:C-78~C-79]

□両下肢の分離運動[脳性まひの治療のアイデア4:C-118]

□大殿筋と大腿四頭筋[脳性まひの治療のアイデア4:C-120(ブリッジ)]

□股関節の運動性[脳性まひの治療のアイデア4:C-115~C-117]

□関節圧縮[脳性まひ児の発達支援2:図8-3]

□前庭刺激[脳性まひ児の発達支援2:図8-5]

□頚坐獲得[脳性まひ児の発達支援2:図10-2~図10-4]

□触覚と振動覚[脳性まひ児の発達支援2

□足裏で踏み締める[臨床動作法6:図2]

□片足で踏み締める[臨床動作法6:図2~図3]

□踏み締める訓練[臨床動作法7:ふぇにっくす40号]

□絵でわかる動作法[臨床動作法7:付記]

■ABM(アナット・バニエル・メソッド)「9つの大事なこと」 

 ・概要[アナット・バニエル・メソッド1

 ・症例[アナット・バニエル・メソッド2

 ・一覧表[臨床動作法1](こちらのブログに異常に細かい3枚物の資料を添付しています)

臨床動作法7

今回は日本リハビリティション心理学会さまが発行されている『ふぇにっくす』が題材となります。なお、投稿者のご所属はそれぞれの『ふぇにっくす』発行時のものです。

左をクリック頂くと”書籍案内”のページに移動します。

『ふぇにっくす』は昭和41年(1966年)に「心理リハビリティション・キャンプ」を初めて実施して以来、参加者間の親睦と交流を兼ねて自由な意見交換の場を持つために昭和46年(1971年)に創刊された冊子で、在庫が残っていれば購入することも可能です。今回は入手した数冊の『ふぇにっくす』の中から、特に印象に残った内容をご紹介します。

ふぇにっくす40号 

立位訓練  日本学術振興会特別研究員 古賀 精治

※書式は要点と思う箇所を箇条書きにしたものとなっており、内容は一部となっています。

1.トレーニーが一人でどこで踏みしめて立っているかをよく感じてみましょう

◆訓練を始めるにあたって把握すること

・トレーニーはどうやって立っているのか。

・どこにどういうふうに力を入れて、どういう姿勢で立っているのか。

・どの方向にどの程度重心を移せるのか。

・どういう時にバランスを取れなくなって、どういうふうに倒れるのか。

・立つことにどれくらいこわさや不安を感じているのか、等々。

・時に外から眺めるだけでなく、トレーニーのからだに触れて確かめる。

・重要なことはトレーニーが自分一人でどこまでできるかを明らかにすること。

◆トレーニーが一人でどこまでできるかを見極め、さらにほんの少しだけ難しい課題をみつけ、その課題をトレーニーが自分で解決するのに必要な手助けをするのがトレーナーの役割と言える。

◆立つということは、重力に対応しながら、自分のからだの部位を時々刻々と複雑に操作しなければならない大変な体験である。

◆トレーナーはトレーニーの身体各部位に注意しなければならないが、部分に目を奪われすぎると、姿勢の全体像が見えなくなってしまう。

◆細かく気を配りながらも、大局的に姿勢全体を捕らえて、トレーニーの立ち方を模倣し、どういう力の入れ方をしているのかを、トレーナーが自分のからだで感じられるようになることが、立位訓練では特に大切である。

◆トレーナーがどういう姿勢で立っているのかは、足の裏のどこで踏みしめているかに表れる。

◆タテ系の立位訓練とは、トレーニーが今までの力の入れ方のパターンを捨て、新しい力の入れ方を習得し足裏のいろいろな箇所で大地を踏みしめて、楽に安定して立てるようになるための訓練だと考えられる。

2.上手に立てないトレーニーとは?

◆図2-aと図2-bは、膝の内側にギュッと入れ、股関節を動かせず腰を引いて肩や首の後ろに過度に力を入れて立っているトレーニーである。腰を動かすことができず、バランスが崩れると膝をさらに内側に締め、首をすくめて、肩や胸まわりに凄い力を入れて、バランスを保とうとするが倒れてしまう。図2-aのトレーニー関しては、多くは足首が内反または外反している。 

画像出典:「ふぇにっくす40号」


◆図2-aと図2-bのトレーニーはタテに力を入れて立っているのではなく、脚を内側にギュッと閉じ込む力でやっと立っている感じであり、ちょっとでもバランスを崩すと倒れてしまう。また、これらのトレーニーは、多かれ少なかれ脚に左右差がみられる。

◆図2-aのトレーニーは足の指先に力を入れて立っている(図1の①)。一方、図2-bのトレーニーは踵で立っている場合が多い(図1の③)。

画像出典:「ふぇにっくす40号」

3.まず、足の裏(図1)の②で踏みしめるようになること

◆②で立つためには、身を堅くして脚を内側に閉じ込む力で立つ立ち方を変えなければならない。つまり、上体を腰の上にまっすぐに据え、膝を開き、太ももの前部とふくらはぎに力が入るようにすることである。

◆具体的な訓練

“自力で脚の力を一旦抜いて膝を開き、かつお尻を落とさずに立っている訓練”

・トレーニーは両足をまっすぐ平行に揃え、上体をまっすぐ腰の上に据え、足の裏の②で踏みしめやすいように、やや前傾気味に立つことが基本である。図3-aのように横から手助けするか、図3-bのように前から手助けするのが良い。

画像出典:「ふぇにっくす40号」

画像出典:「ふぇにっくす40号」

・トレーニーの膝頭の間に手または脚を差し入れる。トレーニーの方はそのトレーナーの手や脚に膝が当たらないように、内側にギュッと入れていた力を一旦抜いて膝を開き、お尻を下げないようにする。つまり、今までとは違う力の入れ方に取り組むということであり、求められるのはトレーニーの勇気である。脚を開ければ力が抜けてお尻が落ちそうになり、また、太ももやふくらはぎが大変疲れることになる。

“立位での腰と股関節の操作:股関節と膝とを連携させながらの脚の曲げ伸ばし”

・立位で腰や股関節を曲げたり伸ばしたりすることはとても難しい課題であり、通常は坐位や膝立ちの訓練が必要になる。なお、今回は「膝立ちでなら腰や股関節を操作できるが、立位ではできないトレーニー」の場合を想定したもの。

ふぇにっくす42号

子どもの状態と訓練 -側弯・緊張  九州大学教育学 堀江 幸治

緊張・かたさ

『肩や腕、指先などに不当な緊張があるのは、本来力が入らなくてはいけないところ(大抵の場合、腰です)に入っていないか、入り方が間違って身についているからだと思います。おそらく肩を弛めることを課題にしているということは、からだが全体的に丸まった感じのお子さんなのではないでしょうか?もしそうならば、もう一度からだをタテの力を入れさせる課題の方がいいと思います。坐位、膝立ち訓練で、腰にタテの力が入ってくると、とくに肩の弛めの訓練をしないのに弛んできます。肩が弛むと、腕や手指の緊張もとれてきます。肩の力が入っているまま腕や手指の緊張をとろうとしても(そのときは一旦とれたとしても)、また入ってきます。

ただ、肩の力が抜けさえすれば即、指先が使えるわけではないでしょうから、指先の使い方の練習、例えば手をパッと広げたり、ギュッと握ったり、といった課題は必要かもしれません。』 

ふぇにっくす74号

心理リハビリティションとしての見立て  静岡大学教育学領域 香野 毅

“見立てる”は“診断”、“アセスメント”といった用語を含む自由な定義とするとされています。

動作状況を見立てる

姿勢

『姿勢は静止体ではなく微調整を絶えず行う連続的な活動である。調整は、重力に対しての自体の調整(バランスや踏みしめ)と見ることやモノを操作するための外的世界との関係づけ(構えや操作)の調整として行われる。立位姿勢で自分のからだに注意を向けると前後左右に揺れていること、それに対応して足裏や膝などが動いていること、さらには肩や腰も使っていることに気付ける。また手を前に出したり、顔を横に向けたりすると多くの身体部位がその調整に動員されていることに気付くことができる。

動作法では姿勢を動きとして捉える。姿勢を作るとは、その姿勢(例えば腰と背中を立てる)になるための様々な身体部位の動きをまとめあげることと言いかえることができる。この立場から姿勢の歪みや保持の困難を見立てるならば、それはその姿勢になるための動きを思うとおりに作り出せないことを意味している。あるいは瞬間的にはその動きを出せても、持続的に力を入れ続けて保持したり、重心の動きに対応して必要な動きを出したり出さなかったりすることが難しいということになる。まずはここが見立てのポイントになると考える。姿勢を外形的な形ではなく、必要な動きの集合体としてみることで、どこの動きが苦手なのかということを中心に見立てていくことになる。

また、動き出せないことの原因としては、その部位の不当緊張が強くて(いわゆるかたくて)動かそうにも動かせないことと、そもそも動かし方が分からないということがある。前者のように緊張が強い場合には、必要な部位に対してリラクセイション課題を行うこととなる。ただ留意しておかなければならないことは、仮にリラクセイションした状態になれたからといって、イコール動かせることではないことである。そこに動き方、適切な力の入れ方の学習を促す課題が必要なことはいうまでもない。緊張の強さや部位、動きの学習状況などが見立てのポイントとなる。』

訓練(変容)可能性

『これはスーパーバイザーレベルの見立てといえるかもしれない。ある課題をトレーニーに実施した際に、その課題がもたらす成果や体験について推測的に見立てる必要がある。「できないからやる」「必要だから課題とする」ではなく「できそうだからやる」「必要な体験ができそうだから課題とする」と考えなくてはならない。 ~以下省略』

肢体不自由児・者への動作発達の見立て  広島大学大学院教育学研究科 船橋 篤彦

肢体不自由児者の動作発達の見立て

・姿勢や動作をダイナミックなものとして捉えること

肢体不自由者の座位、膝立ち、立位の姿勢を観察すると、人間の姿勢や動作の本質的な部位に気づかされます。それは、一生懸命に手を動かそうとしている時に顔や首に力を入れていることや、膝を伸ばそうとしている時に肩やお腹に力を入れている様子から感じることです。私たちは時として、動作が生じる<部位>に目を奪われて「動いたor動いていない」という判断をしてしまうことがあります。しかし、動きは全身の協調で成り立っているという前提で動作を観察してみると、目標となる動作の妨げとなっている要因が離れた身体部位に存在することがよく分かります。時計の針が小さな部品の連動によって生じているように姿勢や動作のダイナミズムを読み解くことも見立ての重要なポイントであると思います。さらに言えば、座位、膝立ち、立位の姿勢において、バランスが取れた状態とは「動きを抑制することで安定している静的状態」ではなく、正確には「小刻みに動くことで安定している動的状態」であると言えます。肢体不自由者の姿勢バランスを観察する際、<動きすぎて>バランスがとれない方もいれば、<動き方が分からなくて>バランスがとれない方もいます。本人の「困り方の違い」という点を考慮して、姿勢保持の訓練を進めていくもポイントになるかもしれない。』

付記:『障害者のための 絵でわかる動作法 はじめの一歩より

下記の一覧表は動作法の全体像をイメージしたいと思い作ったものです。

第1章 動作法概論

第2章 状態像をつかむ

第3章 訓練の進め方

 第1節 はじめの一歩

 第2節 核となる訓練

 第3節 発展訓練

臨床動作法6

今回は【肢体不自由動作法】の中から、歩行動作治療訓練法 をご紹介します。

なお、『臨床動作法の理論と治療』の目次は”臨床動作法2”をご覧ください。

編集:成瀬悟策

出版:至文堂

発行:1992年10月

 

肢体不自由動作法

歩行動作治療訓練法

はじめに

訓練者(以下、トレーナーという)が、訓練を受ける側(以下、トレーニーという)のからだの持ち主であり、からだの働きをコントロールしている「主体」(動作法ではこれを「自己」と呼ぶ)に、からだを通していかに働きかけるか、これが肢体不自由動作法におけるトレーナーに課せられている主要な課題である。

成瀬は「タテ系動作訓練法」という名称を用いてこの動作訓練法をより一層体系化されたものとした。そこで、ひとが生きていく上でからだを「タテ」にすることが重要であるという基本的な原理が述べられた上で、訓練課題は坐位、膝立ち、片膝立ち、立位、歩行の五つとされた。また、1989年春前後から、踏み締め」ということが強調されている。「踏み締め」とは、そのことばが使われ出した当初、「大地を踏み締めることが大事」という説明とともに使われたこともあって、立位訓練において、からだをまっすぐタテにして、脚および足で自分の体重を支えながら、大地を足でしっかりと踏み締めることであると筆者は理解した。しかし、ひとがタテになることによって変化する心理的メカニズムとして、成瀬は、二次元平面から三次元空間へ、そして四次元世界への対応ということを述べている。具体的には、前者では、平面生活から立体空間での生活へ、重力に初めて対面する、

物理的・力学的法則性を持つ外界環境に直面する、自分のからだの重みを認知し重心を操作するなどであり、後者では、外界の立体空間に対応する、自体軸(自己軸)を明確にし空間座標の原点(自己存在の原点)とする、自分自身の世界(自己世界)を形成する、世界内における現実存在の体験をするなどが述べられている。結局、ただ単にからだをタテにして重力に対応して大地の上に自分のからだを適切に位置づけるということだけではなく、むしろ、大地に接した足・脚・躯幹に踏ん張りの力を入れ、大地に対してからだを据える「踏み締め」の訓練が、これらの心理的メカニズムを変えていくキーポイントになると成瀬は考えたのである。

実際に、筆者も、からだをタテにすること、踏み締めるということに重点を置いた訓練をすることによって、かなりの効果がみられることが実感できた。しかも、この「踏み締め」の訓練は、立位や歩行の訓練ばかりでなく、坐位、膝立ちの訓練でも非常に重要な役割を果たすことが体験的につかめてきた。自閉的傾向をともなった肢体不自由児に対して膝立ちの膝立ちの訓練をしたときに、きちんと腰に力が入るようになってしばらく踏ん張っている間、目をカッと見開いていたり、焦点の合った目で周囲を見回したりということは、まさしく成瀬のいう四次元世界への対応を示していると思われる。本稿では、「踏み締め」ということに重点を置きながら、歩行動作治療訓練法について述べることにする。

足の置きかた

一般的な「気をつけ」の姿勢の場合には、両踵をつけて左右の爪先の部分を開いて立つが、この足の使いかたは立位の訓練には適切ではない。なぜかといえば、これでは足、脚、上体が安定し過ぎてしまい、自分で自分の体をコントロールしながら立っているという感じがつかみにくいのである。立位の訓練のためには、両足は図1のように少し間隔をあけて平行に床につける。

画像出典:「臨床動作法の理論と治療」

 

実際にこうして立ってみると、足首、膝、腰、肩などで微妙に調節しながら立位姿勢を保っていることが非常によく感じられる。したがって、立つために自分自身がどのような変化をしなければならないかがよくわかりやすい状況をつくってやるということがこのような足の位置をとらせることであり、そのうえで訓練を行うことになる。 

足で大地を踏み締めて立つ

歩行動作治療訓練を行う場合、まず、ひとりで立っていられることが条件となる。このとき、ただ単にひとりで立っていられるだけでは不充分である。踵がしっかりと床についているか、足首、膝、股関節に、ひとりで立っていることを維持するのに必要な微妙なコントロールをするだけの動きがあるかどうか、脚の上にまっすぐ腰と上体がのっているかどうかが非常に重要である。ここで「動き」というのは、本当は正確なことばではなく、自分で「動かす」ことができるという意味である。この訓練法では、「動くか動かないか」ということではなく、自分で「動かせるか動かせないか」が重要な問題なのである。歩行動作のためのこの前提条件が整わない場合には、これらの訓練から始めることになる。立位姿勢をとったときに、膝が突っ張り、脚が自由に使えないということはよく観察されることである。一見、これは膝だけの問題としてとらえられがちであるが、実際には、足首、膝、股関節の使いかたに問題があるのである。立位姿勢の状態で、上体をまっすぐに立てたまま、膝をゆっくりと屈げたり伸ばしたりすることができるように訓練することにより、同時に足首、股関節の使いかたも覚え、足首、膝、股関節に余裕をもって立てるようになる。この訓練の具体的な方法は、徳永が詳しく述べている。

さて、上体がまっすぐ脚の上にのり、足首、膝、股関節がある程度動かせて、余裕をもって立位姿勢が保持できるようになったところで、または、これらの訓練をしながら、いよいよ「踏み締め」の立っているときに、トレーニーがおもに足の裏のどの位置で床を踏んでいるのかをトレーナーとしては理解しなければならない。極端な例をあげれば、足の指に力が入って屈がり、指先が白くなっているようなら、おもに指先のほうで床を踏んでいる証拠である。このときには、上体がやや前傾気味になっていることが多い。足の指が床にしっかりとついていなければ、おもに踵のほうで床を踏んでいることになる。この場合には、上体がやや後傾気味になっていることが多い。足の裏のどの位置で床を踏んでいるかということは、なにも爪先と踵の問題だけではない。おもに足裏の内側で踏んでいるのか、または外側で踏んでいるのかも大いに問題である。床についている状態の足を踵のほうから、または爪先のほうから見てみると、これもよくわかる。内旋している脚では、内側で踏んでいることが多く、この場合には土踏まずの形成も充分でないこともある。以上は目で見たうえでの観察のポイントであるが、実際の訓練では、見た目にばかり頼っていてはならない。トレーニーの腰に軽く手を当てたときに、トレーナーの手に伝わってくる感じでそれがわかるようになっていることが大切である。足の踏みかたは、肢体不自由の場合ほど顕著ではないが、健常者にもそれぞれの特徴がある。筆者と一緒に訓練に携わっている学生たちの多くが、左右の足の踏みかたが異なっており、よく見ると、左右の足の形は対称ではない。しかし、踏みかたを変えるように訓練していると、みるみるうちに足の形が変わっていくことがわかる。

さて、立位姿勢における踏み締めの訓練であるが、理想的には、必要に応じて足裏のさまざまな部分できちんと大地が踏み締めるようになればよい。しかし、一番大事な訓練課題は、図2に示す斜線の部分できちんと大地を踏み締めることである。

画像出典:「臨床動作法の理論と治療」

 

この部分で最初から踏み締めることは難しいので、訓練の手順としては、まず、足裏で床を踏んでいるということをトレーニーに実感させることから始める。つまり、足裏で床をじっくりと味わうことから始めるのである。立位姿勢をとらせ、少しだけ前傾をさせて、おもに爪先で踏んでいることを体験させる。また、少しだけ後傾させて、おもに踵で踏んでいることを体験させる。このようにして、さまざまな方向にからだを少しだけ傾けてやり、足裏のいろいろな部分で床を踏む感じをつかませる。この過程で、前述の斜線の部分で踏むことももちろん加えておく。そして、この部分に脚、上体の全体重をかけて床を踏み締めることが、立位姿勢の中で一番安定していることを実感させるのである。その後、これまでトレーナーの他動的な援助で行ってきた、この斜線部分で踏み締めることを、トレーニー自身の努力でできるようにする足首、膝、股関節がある程度自分で動かせるようになっていないと、なかなかこの斜線部分で踏み締めることができず、腰で反動をつけたりすることがみられる。そうすると、かえって適切な位置での踏み締めが困難になってしまうので、このような場合には、もう一度、足首、膝、股関節が動かせるかどうかのチェックが必要となるであろう。立位での踏み締めについては、古賀が詳細に述べている。

歩行が可能な肢体不自由児でも、立位での踏み締め訓練は、長く続けると見ていてつらそうである。普段の生活での使いかたとは異なる足裏の使いかたを覚える過程で、足裏は真っ赤になっており、きいてみると、非常に痛いという。トレーナーはこの辺りについても注意を払っておく必要がある。 

片足で踏み締める

両足できちんと踏み締められるようになったら、今度は、片足で床をきちんと踏み締める訓練を行う。図3にしめすように、トレーナーはトレーニーの腰を軽く補助し、ゆっくりと重心を片方の脚に移動させていく。このときは、まだ両足ともに床につけたままである。重心を移したほうの脚にむやみに不必要な力が入らないように、特に、膝が反張にならないように気をつける。また、重心を移したほうの側に上体が傾かないように気を配る。上体は垂直のまま、もしくは、反対側に若干傾く程度が望ましい。横から見たときに、上体が反ったり屈がったり、また、尻が突き出したりしないようにする。この訓練の場合も、足裏のどの位置で床を踏み締めるかが問題である。両足で踏み締める場合とは少し異なり、重心を移したほうの足は、図2で示した斜線の部分の中央よりも外の部分で踏み締められるようになることが、この状態で一番安定できるようである。

画像出典:「臨床動作法の理論と治療」

 

この踏み締めができるようになったら、今度は図4に示すように、反対側の足を床から完全に離して少しだけあげ、すぐに元の位置に降ろすという訓練を行う。

画像出典:「臨床動作法の理論と治療」

 

このとき、足をあげ過ぎると全体のバランスが崩れやすいので、くれぐれも少しだけあげてすぐに降ろすということを徹底させる。また、足を後方にあげてくるトレーニーもいるが、そのときには膝を前に出しながら足をあげることをさせる。踏み締めているほうの足の側に上体が傾かないようにすることは、両足を床につけたまま片脚に重心を移したときと同様である。足がどうしてもあげられないトレーニーもいるが、足があげられないのではなく、片方の足でしっかりと踏み締めることができないことにより、他方の足をあげようにもあげられないということのほうが多いようである。しっかりと足で床を踏み締めて体重をのせているほうの脚を「のり脚」と呼んでいる。

踏み出し

片脚に重心を移し、足でしっかりと床を踏み締めて、反対側の足をあげることができるようになったら、今度は、あげた足をそのまま元の位置に戻すのではなく、前方に踏み出す訓練を行う。この前方に踏み出す脚を「出し脚」と呼んでいる。足をまっすぐ前に出すこと、また、大きく踏み出さないで、小さく踏み出すことを心がける。大きく踏み出すと全身のバランスを崩しやすく、また、重心を片方の脚から他方の脚に移しにくくなるからである。このとき、出し脚の側の腰が前方に極端に出ていたり、肩を引っ張りあげるようにして脚を出したりしないように気をつけてやることが必要である。出し脚が前方で床につくときには、爪先からではなく、踵から着地するようにする。

交互踏み出しを行うためには、出し脚が床についた時点で、今度はのり脚から出し脚に重心を移してこなければならない。のり脚が支えていた上体を出し脚の上にのせることが必要になってくる。このとき注意しないようにことは、出し脚の上に上体がきちんとのってくる前に、出し脚の膝を伸ばしてしまうことが往々にしてみられることである。そうなると、結果として出し脚のほうの側の腰が引けてしまうことになる。したがって、出し脚の側の腰を回すことなく、まっすぐに前方に出して出し脚の上にのせていく努力をさせなければならない。同時に、出し脚の側に上体が傾かないようにする

出し脚の上に重心が移り、しっかりと床を踏み締めたら、後方にあったのり脚は踵をあげながら爪先で床を蹴り、まっすぐ前方に出されなければならない。このとき、のり脚は出し脚となる。こうして交互踏み出しの訓練を行うが、あくまでも小幅踏み出しを励行させることが重要である。

歩行

交互踏み出しで歩数が増えてくると、それが連続的な行われたとき、歩行につながる。最初はまっすぐに、あくまでも小幅で行う。交互に連続的に踏み出しているときには、トレーニーのからだのあちこちの部分に不必要な緊張が生じてくることが多い。脚を踏み出すたびに生じるこれらの緊張をトレーニーは自分で常に弛めておく努力をしなければならない。

また、我々は日常生活の中で、常にまっすぐに歩いているわけではない。したがって、方向を転換しながら歩行をする訓練も必要となる。右回り、左回り、S次歩行などがスムーズに行えるようにすることも歩行訓練の課題となる。

歩行に至るここまでの訓練を、成瀬は歩行動作訓練票としてまとめた。それを110頁にしめしたが、この票はそれぞれの課題の評価ができると同時に、訓練の方法、順番もわかるようになっている。実際の訓練のさいに利用されたい。

画像出典:「臨床動作法の理論と治療」

 

臨床動作法5

今回は【肢体不自由動作法】の中から、タテ系動作治療訓練法 をご紹介します。

なお、『臨床動作法の理論と治療』の目次は”臨床動作法2”をご覧ください。

編集:成瀬悟策

出版:至文堂

発行:1992年10月

 

肢体不自由動作法

タテ系動作治療訓練法

はじめに

不精者のたとえとして「横の物を縦にもしない」という言い方がある。ちょっと変な言い回しかもしれないが、そのたとえから言えば、動作法は不精者ではないということになるだろう。なぜなら、この数年、動作法はそれこそ「横の物(からだ)を縦にする」ことをしっかりと行なってきたからである。

そうした取り組みの中から生まれてきたものがタテ系動作治療訓練法(以下、タテ系訓練と記す)である。このタテ系訓練によって、動作法はその技法の面において大きく発展し、現在では、従来の弛緩中心の技法に代わって、タテ系訓練が動作法における最も基本的な訓練法として位置づけられるようになっている。 

タテ系訓練の考え方

(1)タテになることの意味

寝たきりの重度の子どもでも、坐位(あぐら坐)が独りでとれるようになると、まるで人が変わったかのように、表情や仕草が生き生きとしてくることがよくみられる。それまでぼんやりした目つきだったのが、目をしっかりと開けて周囲を見回し、自ら積極的に周りの人や物に働きかけるようになる。

坐るというのは、重力に対応して自分のからだをタテ方向に立てるということである。我々健常者と呼ばれている人間は、そうしたことを容易にやってのけているために、それがどんな意味をもっているのかなぞを考えることはほとんどない。

しかし、重度の子どもでみられる前述のような変化は、我々人間にとって、からだをタテにすることがいかに重大なことであるかを示している。つまり、それまでの寝たきりの二次元的な平面の世界では、受け身的な存在にしかすぎなかったのが、からだをタテにすることができるようになって、初めて能動的に環境に働きかける存在としての自分というものが生まれてくるらしいのである。そして、タテになることによって、左右や上下、遠近といった三次元的な空間の世界が展開し、さらにタテの姿勢を保持し続けるということから、時間という四次元的な世界をも取り込むことになり、自分を中心とした生活体験の世界がそれまでとは比べものにならないほど拡大していくことになる。

こうしたことから、重力に対応してからだを位置づけること―すなわち、からだをタテにする、ということは、人間の存在の基盤であるといっても過言ではないといえるだろう。

(2)弛緩中心の訓練の問題

タテ系訓練以前の技法は、子どもを寝かせた姿勢で身体各部位の弛緩を行うことが中心だった。それは、脳性まひ児の動作不自由をもたらす最大の原因が、彼らにみられる誤った過度の緊張であり、そのため、まずそのような不当緊張を適切に処理するための弛緩訓練が重要だと考えられていたからである。

不当緊張のある部位を弛緩できるようになると、それだけで立てなかったのが立てるようになることもみられ、こうしたやり方もそれなりの効果があったことは確かである。しかし、このような方法を長く続けているうちに、その問題点もいくつかみられるようになってきた。

その一つは、重度の子が多く訓練に参加するようになったことと関連して、弛緩訓練によって弛めることができるようになっても、それだけで終わってしまって、その後の新しい動きの獲得につながらないことが多くなったことである。つまり、弛めただけでは不十分で、どうしても動きそのものを教えることが必要なケースが増え、弛めるだけでなく、正しい力の入れ方を教えるということが訓練の重要な課題となってきたのである。

その他にも、弛緩中心の訓練では、どうしても動きそのものを教えることが必要なケースが増え、弛めるだけでなく、正しい力の入れ方を教えるということが訓練の重要な課題となってきたのである。

その他にも、弛緩中心の訓練では、どうしても訓練が局部的・部分的なものになりがちなため、一つ一つの部位の弛緩はある程度進んでも、それが動き全体の改善までつながらず、そのうちに弛んだところもまた元に戻ってしまうことがみられたり、とにかくまず弛めてなくてはならないということで、ともすれば訓練者が一方的に弛めてやるということになってしまうということもあった。

(3)タテ系訓練の展開

そうした弛緩中心の技法の問題を乗り越え、子どもに正しい力の入れ方を確実に覚えさせ、動き全体の改善をもたらす方法として開発されたのがタテ系訓練である。

先に述べたように、寝たきりの子どもでも、坐位の姿勢で頚や背、腰にうまく力を入れて、上体をタテにすることができるようになると、安定して坐っていることができるようになるだけでなく、行動全体が積極的・能動的なものとなってくる。そして、坐位だけでなく、膝立ちや立位といった姿勢がしっかりととれるようになると、子どもはいっそうからだの動きもよくなり、こころの活動も活発になってくることも分かってきた。

また、例えば、坐位がとれるようになると、それだけで肩や股の緊張が弛むというように、局部的な弛緩訓練を長くやっていてもなかなか弛まなかった頑固な慢性緊張が、からだをタテにすることができるようになると、直接にはその部位の弛緩訓練を行わなくても、弛めることができるようになってくることも明らかになってきた。

さらに、すでに立って歩いているような子どもでも、歩行が不安定であるとか、姿勢に歪みがあるとかいう場合に、それを改善するためには、坐位や膝立ちや立位の訓練を行うことが有用であることも確かめられた。

このようにして、重力に対応して自分のからだをタテにすることが、人間にとって非常に重大な意味をもっていることが明らかになると同時に、そのための働きかけは、弛緩を主とした従来のやり方とは比較にならないほど極めて有効な訓練法であることが確認されてきたことから、そうした訓練法をタテ系訓練と呼び、動作訓練の最も基本的な訓練法として位置づけられるようになったのである。

タテ系訓練の方法

(1)訓練課題

タテ系訓練では、以下の四つが訓練課題となる。

1.坐位

2.膝立ち(片膝立ち)

3.立位

4.歩行

各課題の対象となるのは、それぞれの課題の姿勢がとれない子どもはもちろんであるが、そればかりではなく、何とかその姿勢はとれても、どうも不安定であるとか、側彎や猫背、腰引けなどで姿勢に歪みがみられるような子どもも含まれる。例えば、立って歩くことができているような子どもでも、坐位をとらせると腰が引けて安定して坐ることができないようであれば、坐位訓練の対象となる。

(2)訓練手順の原理

どの課題においても訓練の進め方は共通しており、次のような原理に従って訓練が行われる。

1.形づくり

まず、それぞれの姿勢を子どもにとらせ、タテの姿勢の体験をさせる。その場合大切なのは、子どもがからだを屈げたり反らしたりするような力を入れることなく、トレーナーにからだを任せられるようになること(これを「おまかせ脱力」という)である。

2.主動化

形づくりでタテの姿勢がとれたといっても、それはトレーナーによってとらされたものであり、子ども自らがその姿勢をとったとは言い難い。そこで、次にトレーナーの援助を少しずつはずしていき、子どもが自分でその姿勢を保持する―つまり、タテに力を入れてくるようにさせる。受け身的なタテの姿勢から、主動的・能動的な本来の意味でのタテの姿勢への変換が図られるということから、この働きかけに対して「魂を入れる」という言い方がよくなされる。

3.分節づくり

自分でタテの姿勢が何とかとれるようになっても、それはまだ極めて自由度の小さい、非常に不安定なものでしかない。そのため、その姿勢の自由度を増し、安定性を高めるために、タテに力を入れたからだのある部分(ポイントとなるところがいくつかあり、「節」と呼ばれる)だけを弛めて動かせるようにすることが必要となってくる。つまり、一本の棒にすぎなかったものをいくつかの「節」ごとに分けて使えるようにするわけである。

4.バランスとり

最後に前後左右に重心を移動させ、そこでしっかりと踏みしめることを覚えさせながら、からだを動かしても倒れないようなバランスのとり方を教える。

(3)訓練の実際

それでは各訓練課題について、実際の訓練のやり方の大節を紹介しよう。ただし、歩行訓練については、別項に説明があるので、ここでは省略する。

1.坐位

坐位には、正坐やあぐら坐、横坐りなど色々なものがあるが、タテ系訓練ではあぐら坐を基本として訓練を行う。それは色々な坐り方の中でも、あぐら坐が最もタテの感じがつかみやすい姿勢だからである。

まず、子どもにあぐら坐をとらせ、トレーナーは子どもの後ろに坐り、両脚を子どもの大腿部に載せ、子どもの上体を前傾させ、そこから子どもの肩または頚を持って上体をゆっくりと起こしてやる(図1)。

画像出典:「臨床動作法の理論と治療」

 

 

そして、子どもの頚のすわりの様子、背や腰の反り・屈がりのぐあい、側彎の有無、股関節のかたさ、などをチェックし、それに応じて、必要な箇所の弛緩を行う。例えば、背中や腰に屈の緊張が強くみられる子どもに対しては、図2のように、子どもの背中・腰にトレーナーの脛を当て、子どもの上体を起こして反らせるようにして弛めるようにする。こうした手続きを通して、トレーナーの補助があれば、大腿部ができるだけ床につき、上体が頭から尻まで一直線になるような状態ができるようにしておく。

画像出典:「臨床動作法の理論と治療」

 

次に、図3のように、トレーナーは脚などを使って子どもの腰や背を軽く押し、どこに力を入れたらいいのかの手がかりを与え、様子をみながら、その補助を少しだけはずすようにして、子どもがそれらの部位に反りや屈ではないタテ方向の力を入れてくるように促してやる。

画像出典:「臨床動作法の理論と治療」

 

そうすると、腰や背に当てた脚を離そうとしたときに、子どもがそれらの部位に力を入れてくることがみられる。初めは瞬間的でごく弱い力の入れ方にしかすぎないが、繰り返し行っていくうちに、しっかりした確実なものとなっている。そして、それに合わせて、子どもの肩や大腿部に与えていた補助をはずしていき、図4のように、そうした補助なしでも、子どもが上体をタテにすることができるようにする。

画像出典:「臨床動作法の理論と治療」

 

それができるようになったら、タテになった上体の腰だけを弛めて祈るようにさせ、腰が余裕をもって使えるように、分節づくりの訓練を行う。そのとき、腰から上は反ったり屈がったりせずに、タテにまっすぐになっていることが肝要である。その後、前後左右に上体をわずかに倒し、バランスを崩しても、尻から大腿部で床をしっかり踏みつけて、上体をタテに保持できるようにする。

2.膝立ち

膝立ちがうまくできない子どもに膝立ちの姿勢をとらせようとすると、股がかたく屈になり、尻が後ろに引けてしまうことが多い。そのため、まず、図5のようにして、股を十分に伸ばす訓練を行う。

画像出典:「臨床動作法の理論と治療」

 

そのとき、トレーナーが強引に股を伸ばしてやるのではなく、子どもが自分で力を抜いて股を伸ばしてくるのを待つこと、また、腰が反ってしまわないようにすること、に注意しなくてはならない。

股が伸びてきたら、トレーナーは図6のような補助の仕方によって、子どもの膝から上がまっすぐになるようにする。

画像出典:「臨床動作法の理論と治療」

 

その際、子どもの両膝頭が離れないように、また、左右の足先が開かないようにしておく、そして、子どもの尻をブロックしているトレーナーの膝をほんの少しだけはずし、同時に子どものあごを少し引くようにしてやると、子どもが自分で腰に力を入れてくることがみられることがある。坐位のときと同様に、これも初め瞬間的なごく微妙な動きにしかすぎないが、何度も経験させていくうちに腰にしっかりと力が入るようになり、それに合わせて、トレーナーは補助を頚から肩、肩から腰へと徐々に下げ、最終的には上体の補助を全て離し、子どもが膝と腰で上体をしっかりと支えることができるようにする。

次に、図7のように、上体はまっすぐにしたまま、股だけを折り、股に余裕をもたせるようにする。

画像出典:「臨床動作法の理論と治療」

 

最初はごくわずかだけ祈るようにし、次第に折る角度を深めてそこで止まり、また浅くして、前後の動きを引き出すようにしながら、腰と脚でしっかり踏んばれるようにしていく。そして、上体をまっすぐにしたまま、重心を前後左右に移動させ、そこで床を膝で踏みしめさせ、重心移動とバランスとりの訓練を行う。

3.立位

まず、図8のような補助で子どもに立位の姿勢をとらせる。

画像出典:「臨床動作法の理論と治療」

 

そのとき、両脚は平行にそろえ、足幅は足と足の間がすこしあるくらいに狭くする。踵が床につき、膝が屈がらないように、腰から頭までがまっすぐになるよう、ブロックする。

トレーナーの補助によって立位の姿勢が一応とれるようになれば、子どもに膝を伸ばし、踵を踏みしめ、腰に力を入れて上体をまっすぐにするように促しながら、腰や膝のブロック補助をほんの少しだけはずしてやる。初めはすぐに膝が屈がり、腰が引けて、倒れそうになるが、そのときには直ちに元のようにしっかりとブロックして、決して倒さないようにする。腰に子どもが力を入れてきて上体が安定してきたら、腰の補助をはずし(図9)、膝にも力を入れて足から頭までがタテになるような力の入れ方ができてきたら、膝の補助もはずしてやる。

画像出典:「臨床動作法の理論と治療」

 

こうして、立位でタテ方向へ力を入れることができるようになれば、その次に、図10のように、上体をまっすぐにしたままで膝を弛めて屈げさせ、カクンと力が抜けてしまう直前で止め、そこから膝をゆっくり伸ばさせ、膝でしっかり踏んばることができるようにする。

画像出典:「臨床動作法の理論と治療」

 

その際、腰が引けたり反ったりしないこと、足の裏全体が床についていること、さらに図11の斜線の部分で床を踏みしめるようにすること、に注意する。

その後、上体が前後左右に傾かないようにしながら、重心を移動させ、図11の斜線部以外のどこででもしっかりと踏みしめができるようにして、立位のバランスがうまくとれるようにする。

画像出典:「臨床動作法の理論と治療」

 

(4)トレーナーの心構え

最後に、タテ系訓練を実施していく上で、トレーナーの心構えとして大事だと筆者が思うことをいくつか挙げてみよう。

1.子どもの主体性の尊重

このことはタテ系訓練になる以前から動作法の基本として常に言われてきた。しかし、従来の弛緩中心の訓練では、不当緊張のある部位をとにかくまず弛めなくてはいけないということで、ともすればトレーナーが一方的に弛めてやるというふうになりがちであった。それに対して、タテ系訓練では子どもの適切な入力ということが重視され、トレーナーがやってやるのではなくて子どもが自分でやるようになることの重要性がはっきりしたかたちで示されている。つまり、タテ系訓練になって、子どもの主体性・自発性の尊重ということがより一層クローズアップされてきたといえよう。

2.部分より全体

タテ系訓練でよく使われる言葉として「①-③の原理」というものがある。これは坐位で首がすわるためには、頚(①)だけを起こすのではなく、同時に胸(③)にも適切な力を入れてくることが必要だということである。さらに、頚と胸だけでなく、頚と背や頚と腰などにもうまく力が入れられるようになると、一層しっかり首がすわってくる。このように、首がすわるということはその部位だけの問題ではなく、胸や背、腰などの部位との関連の中で全体的に捉えていかなくてはいけない。このことは、子どもの抱える問題を局部的に処理するというより、タテという大きな枠組みの中で有機的に関連付けて対処していくことの必要性を示している。「①-③の原理」とはそのことを最も簡潔に表してる言葉だといえよう。タテ系訓練では、そうした部分的なものにとらわれずに全体のダイナミックスの中で問題を捉えていく見方がトレーナーに求められている。

3.形よりやりとり

坐位や膝立ちの訓練はそうした姿勢(形)をトレーナーがただ一方的にとらせるだけの訓練ではない。そこで大切なのは、そのような姿勢の中でトレーナーの働きかけに子どもが応え、それに対してまたトレーナーが応えていく、というやりとりを通して、子どもが適切なタテの力を獲得していくという過程である。しかしながら、とにかくタテにすればいいのだというように、ともすればからだをタテにするという形にのみ目が奪われて、やりとりということが二の次になってしまいかねない。タテ系訓練では、形にとらわれがちになる分、より一層子どもとのやりとりということをトレーナーは心に留めておくことが必要である。

4.✕より〇

弛緩中心の訓練では、不当緊張を弛めることから訓練が始まった。これは子どもの欠点を探し出して、それを矯正していく―つまり、子どもにとって✕になっているものをできるだけ取り除いていくという発想だったといえる。一方、タテ系訓練では、子ども自らの適切な入力ということが重視されている。こうしたやり方は、欠点の矯正というよりは長所を伸ばすということで、いわば子どもにとって〇になるものを少しでも引き出していくという発想だとみなすことができる。従来の方法からタテ系訓練への展開には、このできるだけ✕よりも〇を見いだしていこうという発想の転換があったともいえよう。「これができない」「まだあれもできない」と✕ばかりに目を向けるのではなく、「さっきより動きが出てきたな」というように、少しでも〇になるところを探し出していくことがトレーナーにとって大切になってきている。

そして、とりわけ、〇を探せと言われてもなかなか難しいことの多い、いわゆる重度の子どもについても、どうしたら○を見つけ出していけるかということを具体的に示したという点において、タテ系訓練は画期的な訓練であるといえるだろう。

付記タテ系動作訓練票

下記の票はこちらの本の中に掲載されていました。

画像出典:「動作訓練の理論」

画像出典:「動作訓練の理論」

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