脳とストレス3

著者:ブルース・マキューアン、エリザベス・ノートン・ラズリー

監修:星恵子

訳:桜内篤子

出版:早川書房

発行:2004年9月

目次については“脳とストレス1”を参照ください。

 

自律神経系の三つの顔

『心臓がアロスタティック負荷のダメージを受けやすいのは、ストレス反応システムの“配線”の中心に位置するからだ。目覚まし時計の音や自分をつけてきた人の影といった刺激に対応するため体が活発に機能しはじめると、ただちに必要なところに血液が流れ、そこでエネルギーが消耗される。休息の状態から急に激しい運動をはじめると、心拍数は1分当たり50回から150回まで上昇する。このような急激な変化は、脳と体が自律神経で直結しているから可能なのである。

自律神経は原始的な脳である脳幹と、体のほかの部分を神経回路によってつないでいる。神経回路は目、唾液腺、喉頭、心臓、肺、胃、腸、腎臓、生殖器など、いろいろな器官にはりめぐらされている。外からの刺激に反応して活性化する自律神経系は、典型的なアロスタシスと言える。すなわち自律神経系は、環境の変化に対処するために行動を起こす準備をするが、危険が去ったときには通常の状態に体を回復させる。

自律神経がこのように補足しあう機能をもつのは、関連しあう三つの働きから成っているからだ。まず、交感神経がいわば電源を入れる。外界からの刺激を受ける諸器官から脳につながる自律神経求心路のネットワークが、体中からメッセージを聞き取るマイクロホンのような役目をはたす。そして最後に副交感神経が、もとの状態に戻す働きをする。

心臓が激しく脈打ったり、冷や汗をかいたり、毛が立つような感覚など、ストレスを感じたときに起こる感覚はほとんど交感神経の働きだ。温度の変化や騒音、痛みなど、周囲からの信号に応答して、交感神経が心臓の動きを速め、血管を収縮させ、瞳孔を拡大させ、消化器系の働きを遅くするのである。これを行なうために脳の運動神経細胞が標的器官に、速くしろとか分泌量を増やせといった指令を伝える。これに使われる神経伝達物質がアドレナリンである(アドレナリンは、おもに副腎でつくられるが、血管内の交感神経や脳などでも生成される)。

胃がきりきりする感覚や急な動悸は、それを不快と認識しないかぎり、危険信号として役に立たない。これらの感覚を危険信号として処理するためには情報を脳に伝える必要がある。それを行なう別の神経系は、心臓や胃などの器官から脳につながり、体の“声”を集めて脳に届ける。このフィードバックのネットワークを自律神経求心路と呼ぶ。私たちの感情(体からストレス信号を感知した結果)を管轄しているのはおもにこのシステムである。ウィリアム・ジェームズによれば、感覚は状況によって、とらえ方が異なる(目の前にいるのが恋人か殺人犯かによって、情熱とも恐怖とも受け取れる)。しかし自律神経求心路を経由して認識された感情は、ストレスならびにストレスが私たちに与える影響を左右するのである。

最後に、副交感神経は、緊急反応を停止し、体を本来の状態に戻す。19世紀にクロード・ベルナールが述べた内部環境を維持する働きをするのだ。この副交感神経の働きにより、自律神経系は典型的なアロスタティック・システムの役割を果たしているのだ。副交感神経は、動悸を鎮め、瞳孔を収縮させ消化を助け、括約筋をリラックスさせることによって、体を元の状態に復帰させる(ただし性的に興奮すると、交感神経と副交感神経の両方が活性化する。昔から性的興奮が人間を大いに動かしてきた原因のひとつはここにあるかもしれない!)。

アロスタティック反応が健全であるためには、副交感神経がうまく機能することが不可欠だ。イリノイ大学シカゴ校のスティーブン・ポージスによれば、ストレスに対する反応は「外部からの要求に内部の要求に服従したことを意味している」と言う。外界からの変化に応えた後、副交感神経は、すぐさま最優先で体内を元の状態に戻す。しかし外界からの刺激にたびたび見舞われたり、それが長く続いたり、または異常な状況が生じるとアロスタティック反応が乱れ、副交感神経は体内の要求に応えることができなくなり、アロスタティック負荷となる。』

心臓にブレーキをかける迷走神経

交感神経と副交感神経が交互に働くことにより、心臓は驚くほど臨機応変に対応する。心臓を落ち着かせるのは副交感神経、とりわけ迷走神経の働きだ。迷走神経はたくさんの神経からなる複雑な神経回路である。そして「迷走神経のブレーキ」とポージスが呼んでいる制御のメカニズムがうまく作動しなくなると問題が生じる。

哺乳類動物は、通常、迷走神経のブレーキがつねに作動している。それによって心臓が過剰に活動するのを防ぎ、ストレスが体を害さないようにするのだ。しかも迷走神経は交感神経の働きを抑えるだけではない。それ自体が微調整を行なって、周りで起きていることに体が手際よく適応できるようにする洗練されたメカニズムなのだ。ブレーキをかけていればだいたいにおいて興奮しすぎるのを防げるが、たとえば何かに注意を向けるなど、ときにはちょっとした切り替えが必要なときがある。とはいえ交感神経を動員するほどではない場合、迷走神経のブレーキを外して、心拍数と呼吸数を少し上げることが可能だ。こうすることで、大がかりな生理的変化を伴う緊急反応で体を消耗させることなく、体の機能をギヤアップすることができる。

迷走神経のメカニズムがうまく機能していないのはアロスタティック負荷の徴候だ。しかも、負荷の度合いは測定できる。ポージスは、健康な心臓は安静時でも、正常な範囲内で不整脈をもつことがあることを示した。つまり、息を吸い込むときには迷走神経の抑制が弱くなって心拍が若干増え、吐き出すときには迷走神経の影響が復活して心拍数が減るのだ。この不規則な動きは心拍変動、または呼吸性洞性不整脈と呼ばれる。迷走神経のブレーキ作用を測るには、心電図によって得られた情報をもとに、心拍間の時間を割り出す。健康な心臓の心拍数が不規則なのは迷走神経のブレーキがうまく機能している証拠だ。ポージスがこの方法を用いて考えだしたのが、迷走神経の緊張度というもので、これは迷走神経のブレーキがどれだけストレスに対処するのを助けているか示している。この指数の低下は(一時的に心拍数が変動しなくなってしまう)、迷走神経のブレーキが外されたことを意味し、その結果、ストレスに対応するために心拍数が上がる。迷走神経の緊張度が慢性的に低いとすれば、ブレーキが外れたままで機能していないということだ。このような状態の人はつねに緊急の態勢にあり、アロスタティック負荷に見舞われているのである。』 

健常者でも、心拍数の変動が少ないと、心疾患で死ぬ確率が高いことが研究によって判明している。精神生物学者リチャード・スローンは、迷走神経による心臓の制御は心疾患から体を守るためのメカニズムであると考えている。《心身医学》誌に発表した論文で、スローンは心拍数があまり変動しない人は冠動脈疾患になりやすく、変動の程度が低ければ低いほど、動脈硬化症が重度であり、心筋梗塞後に死亡する確率が高かったという。

しかし迷走神経のブレーキをうまく使えないことは、心疾患になりやすい心理状態の特徴でもある。敵愾心が心疾患と関係あることは、複数の研究に裏づけられている。抑うつと不安は心疾患の発症を予知させ、また心筋梗塞後の合併症を誘発し、さらには死に至らしめる。敵愾心、抑うつ、不安のいずれにも、副交感神経の機能不全が関与している。

副交感神経による心臓の調節は、心疾患につながる高血圧を防ぐ働きをしているだけではないとポージスは考える。彼によれば迷走神経のブレーキは、哺乳類というそれまでより複雑な動物が現われたときに、爬虫類しかいなかったときより敵対的な世界に対応するために進化したらしい。現代において、迷走神経のブレーキは緊急反応を発動させる刺激から私たちを守るだけでなく、感情的、社会的ストレスからも私たちを守ってくれているのかもしれない。要するに、迷走神経のおかげで、人間はこの世界(ストレスに満ちていようがいまいが)で暮らすのに適した感情的、社会的行動を身につけることができると言える。』

生活習慣と心臓 

食事、運動、お酒、睡眠などの生活習慣をうまくコントロールできるかどうかが、アロスタティック反応が私たちを守るかそれとも逆襲効果をもたらすかを左右しうる。たとえばニコチンには下垂体から副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)を放出する働きがある。そのため、HPA軸が活性化され、それが興奮度の高いストレス反応を引き起こす可能性がある。

アルコール摂取も、心臓血管系を直接危険にさらすわけではないが、ストレス反応を乱すことがある。アルコールがHPA軸を活性化すること、そしてラットの実験ではメスがオスより多くのACTHを分泌することが判明している。また、長期にわたりラットにアルコールを摂取させるとHPA反応が鈍くなりうることもわかった。アルコール依存症患者が酒を断って禁断症状が現れているときの血中のコルチゾールの濃度は、回復したときの二倍近くまで上がる。本人がアルコール依存症でなくとも、家族に病歴があると、実験で刺激を与えたとき過剰なコルチゾール反応が見られる。

睡眠のとりかたによっても、ストレス反応が助けられたり妨げられたりする。睡眠不足は交感神経を興奮させ、迷走神経のブレーキをききにくくするため、血圧の上昇などストレスによる弊害を受けやすく、それが心筋梗塞の引き金となったりする。また睡眠をとれなかった翌日の晩、コルチゾールが高くなる傾向がある。これが進むと腹部の脂肪沈着や疾患につながっていく。

心血管病変を防ぐには、とくに食事と運動という、昔から言われていることに注意を払う必要がある。高脂肪の食事をとっていると体重が増えてコレステロールが高くなるだけでなく、交感神経が興奮しやすくコルチゾールの過剰分泌を招くのである。』

体脂肪とインスリンの関係

重度の肥満は心臓に負担をかける。過剰な体脂肪、とくに腹部の体脂肪はアロスタティック負荷の徴候でもある。霊長類では、心理的なストレスが、脂肪沈着を加速することがある。ヒトの場合、ウエスト/ヒップ比で表される肥満度は、もっともストレスに弱い人々―スウェーデンの研究では社会経済的な底辺にいる男性で、イギリスの公務員の調査では男女にかかわらず下級公務員たち―に多く見られる。また、前にも述べたように、脂肪が腹部に沈着しているということは往々にして血管にもたまっていることを意味する。

アロスタティック負荷に関しては、肥満は悪循環となる。やせていることがいいとされる社会にいると、太っていることで落ち込む結果、さらなるストレスとカロリー摂取、体重増加につながりやすい。とりわけストレスと肥満と食生活と運動不足の複雑な悪循環は、心臓病とは別のストレス性疾患、つまり糖尿病の原因となりうる。糖尿病は動脈硬化のような心血管病変ではなく、体のエネルギーの使い方がおかしくなる代謝疾患だ。糖尿病自体、重い病気になりうるが、それ以外に動脈硬化の危険因子ともなる。とくに高血圧や高グリセリド血症(検査で中性脂肪が高いこと)のような状態が重なると(それはよくあることだ)動脈硬化になる確率はさらに高まる。

血液はブドウ糖の形で体中にエネルギーを運ぶ(血中のブドウ糖を血糖という)。インスリンと呼ばれるホルモンが血中のブドウ糖を、それを必要とする筋肉や器官に取りこませる。糖尿病とは、体が十分なインスリンを作らないか(1型またはインスリン依存性糖尿病)、作られてもそれを適切に使っていない状態(2型またはインスリン非依存性糖尿病)を言う。いずれの場合も、細胞が燃料となるブドウ糖を十分に取りこめない。2型の糖尿病になると、人間でも動物でも、体内でつくられるインスリンに対する抵抗性が高まる。肥満と運動不足は2型糖尿病の危険因子であり、ストレスの役割も注目されつつある(ストレスは、自己免疫疾患と考えられる1型の糖尿病の危険因子にもなりうるが、それについては後で詳しく述べる)。

インスリンは膵臓でつくられる。食事の後など、血糖値が上がると、食べたものをエネルギーに変えられるよう膵臓にインスリンをつくれという指示が行く。しかしインスリンが血糖を調節する唯一のホルモンではない。安定したブドウ糖の供給は筋肉や諸器官の細胞だけでなく脳にとっても不可欠である(筋肉などはブドウ糖が不足したときに脂肪やタンパク質を使えるが脳はそうはいかない)。脳は血液脳関門という強力なバリアーによって守られていて、ブドウ糖しか燃料として入れない。ほかの分子は大きすぎて関門を通れないのだ。したがって、脳にブドウ糖を安定供給するために、やはり膵臓でつくられるグルカゴンなど、いくつかのほかのホルモンが作用する。そしてストレスホルモンのアドレナリンとコルチゾールも血糖の調節に一役買う。

ストレスホルモンはブドウ糖代謝に悪影響を及ぼす。ストレスに対処するために余分な燃料が必要だと体が判断すると、コルチゾールが肝臓内のタンパク質を分解しブドウ糖に変えるように促す。また、アドレナリンも血糖値を上げる働きをする。そのメカニズムは全部わかっていないが、ストレスホルモンが長期にわたり多量に分泌されるとインスリン抵抗性を生み、コレステロールやトリグリセリド(中性脂肪)などが血中に増える。肥満も同じことで、コルチゾールの過剰分泌により肥満を招く。

2型糖尿病もまた、別の悪循環をたどる。インスリンの生成はストレスホルモン、とりわけコルチゾールの生成と関係があり、コルチゾールは細胞のインスリン・レセプターの感度を直接鈍らせる。インスリン・レセプターの反応が鈍ると、血中にブドウ糖が増えはじめ、血糖値が上がる。すると血糖値を下げるために膵臓はさらにインスリンを分泌するのだ。同時にストレスホルモンも増える。こうして肥満と高脂肪の食事はインスリンの抵抗性を高めるのである。』

画像出典:「ストレスに負けない脳」

 

脳とストレス2

著者:ブルース・マキューアン、エリザベス・ノートン・ラズリー

監修:星恵子

訳:桜内篤子

出版:早川書房

発行:2004年9月

目次については“脳とストレス1”を参照ください。

 

ストレスホルモンが多すぎる場合

『このようにアロスタティック負荷は、ストレス自体が長く続くか、ストレスがなくなっても体が順応できないか、ストレス反応を解除するプロセスが機能しないかのいずれかの理由で、体がアドレナリンやコルチゾールに長い間さらされることから起こる。ストレスホルモンは血圧を上げ、免疫を抑えるだけではない。たとえばうつ病ではコルチゾールが慢性的に上昇していることが多いし、うつ病歴のある女性の一部では骨に含まれるミネラルの濃度が低下している。これは骨の形成には多くの時間がかかるため、緊急反応が発動されると後回しにされるからだ。さらにコルチゾールは骨をつくるプロセスを実際に妨害する。激しい運動を行っている女性がコルチゾールに長い間さらされると、アロスタティック負荷につながることがわかっている。本人はストレスと感じていなくとも、激しい運動を続けていると、交感神経とHPA軸の両方が活性化し、結果として体重が減ったり、生理不順や拒食症などになることがある。とくに拒食症は極度の運動と関係が深いとされる。

コルチゾール分泌が慢性的に多いと、インスリンの効果を抑えることもある。疲労感、エネルギーの欠乏、いらだち、意気消沈、敵対的態度などとして現われる慢性ストレスは、インスリンに対する抵抗力の発達に関連があるとされる。このインスリン抵抗性は、2型糖尿病(インスリン非依存性糖尿病)の危険因子である。

ストレス反応が生涯にわたって過剰に働くと、アロスタシスのプロセス全体が衰え、さまざまなシステムが機能しなくなる可能性がある。とくに、ストレスがなくなったときにHPA軸機能を止めるのを助け、記憶と認知の中枢である海馬が危険にさらされる。海馬にはコルチゾールのレセプターがたくさんあり、ストレス反応の際にコルチゾールを使って「チェック・アンド・バランス」を行っている。だが、コルチゾールが過剰に分泌された時まっさきに標的になるもののひとつなのだ。コルチゾール過剰分泌説によれば、海馬にコルチゾールがあふれると海馬が疲労し消耗して、HPA軸が正常に機能しなくなり、認知機能も損なわれる。

海馬はエピソード記憶と陳述記憶に重要な役割を果たすため、毎日の出来事や、買い物リスト、人や場所や物の名前などの情報を思い出すのに欠かせない。海馬はまた、出来事が起きた時と場所、とりわけ、強い感情がからんだ出来事が起きたときの環境の記憶(周辺状況的記憶)にも重要な役割を果たす。ストレスホルモンの過剰分泌のためにその人は誰が自分の味方で誰がそうでないかを思い出せなくなったり、顔と名前が一致しなくなることがある(ちなみにコルチゾールは、恐ろしい出来事やトラウマをもたらした出来事などの長期記憶の形成にかかわる扁桃体にも作用する。扁桃体は、正当な理由がなくても恐れたり心配したりする予期不安という症状とも関係がある。したがって扁桃体にストレスホルモンが増えると、私たちの心配が増し、すでに感じているストレスがさらに強くなる)。そして海馬はストレス反応の停止に関係している。要するに、海馬が損傷を受けると、ストレスがなくなったと認知する能力が衰え、ストレス反応を止められなくなり、その結果ストレスがさらに高まるという結果をもたらすのだ。

ストレスホルモンが少なすぎる場合

『ストレス反応におけるチェック・アンド・バランスの話が出たところで、体を守るはずのアロスタシスがアロスタティック負荷となる最後のシナリオについて説明する。これまで過剰なストレス反応の弊害について述べてきたが、逆にストレス反応が不十分で、ストレスホルモン、とりわけコルチゾールの分泌が不足しても、体は疲労し消耗するのである(下部表参照)なぜか。ストレスホルモンがなければストレスもなくなり、ストレス性疾患にもならないのではないかと思うかもしれないが、人間の生理機能はそう単純ではないのである。コルチゾールはサーモスタットのような働きをし、過剰になればその生産を抑える。そしてHPA軸を活性化するふたつのホルモン、つまり視床下部で出される副腎皮質刺激ホルモン放出因子(CRF)と下垂体から出される副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)の生成を遅くする。またコルチゾールは免疫系にも影響を及ぼし、炎症や組織損傷による腫れを抑える働きもする。

チェック・アンド・バランスにかかわっているストレスホルモンがやるべきことをしないと、免疫細胞が活動しすぎることになる。一部の人ではアロスタティック負荷が、副腎の鈍い反応と、それによるコルチゾール不足という形で現われる。その影響を真っ先に受けるのが免疫で、ほんとうは危害を与えないようなものに対してもコルチゾールが不足しているために、体が過剰に反応してしまう。アレルギーはこの過程から起こる現象のひとつだ。たいていの人の体は、ほこりや猫の毛などを病原菌と同じに扱わないが、アレルギー体質の人ではそのような無害なものに対しても警戒態勢に入り、刺激原を攻撃する。その結果、侵入者を追いだそうとしてたとえばくしゃみが止まらなくなったり、それをつかまえようと粘液が分泌されたり、白血球が殺到するために感染部が腫れ、痛みに襲われたり赤らむなど、全身が不快感に襲われる。これらの症状はみな、コルチゾールが活動していれば軽減されているはずだ。

ぜんそくは、細気管支という小さな管が腫れて空気の通りが悪くなるために起こる。この場合も免疫システムが過敏に働きすぎて、あまり有害でないもの(ほこりや寒さや運動など)から体を守ろうと肺への門を閉ざしてしまうからである。アレルギーもぜんそくも炎症性の疾患で、アロスタティック負荷の典型的な病態を示しているが、これらは、コルチゾールの生産不足によって引き起こされる。しかもこれらの症状は、ストレスに見舞われているとき、往々にして悪化する。そのほかの炎症性疾患といえば、いわゆる自己免疫疾患と呼ばれるもので、免疫系が「自己」と「非自己」を区別するという第一の目的を達成できず、自分の体の組織に戦いをしかけてしまう状況をいう。このような症状もコルチゾールが十分あれば防げる(治療としてコルチゾールを注入することもある)。発疹は免疫細胞が健全な皮膚を攻撃したときに起こる典型的な症状で、小児アトピー性皮膚炎は、ストレスの徴候を示すと同時に、HPA軸が十分に反応していない徴候でもある。そのほか、ストレスによって悪化しやすい自己免疫疾患には、関節に炎症が見られる関節リウマチや、髄鞘と呼ばれる神経細胞の一部を破壊する多発性硬化症(MS)などがある。

HPA軸の反応が弱いと、免疫とは直接関係がなくても現われる病態がある。その一例が線維筋痛症だ。これは慢性の痛みが伴う病気で、たいていの医師は心身症として扱っている(なかには想像上の痛みにすぎないと考える医師もいるが、患者はもちろんそう思っていない)。痛みが炎症反応の一症状であると考えれば、免疫とコルチゾールの関係は明らかになる。痛みは、何か問題があることを私たちに警告し、問題が解決するまで病んだ部分をそっとしておけと忠告する。しかし痛みが慢性的な場合、ほかの炎症性疾患同様、これといった原因がないことが多い。このようなとき、免疫システムは不適応な反応をしているのである。コルチゾールの供給が十分だったらそのような状態になるのを防げたはずだ。

画像出典:「ストレスに負けない脳」

 

こちらは”ヘルスアップ 日経Goody 30⁺”さまの、”しつこい疲れは副腎疲労?とりたい食材、避けたい食材”という記事です。

生活習慣とストレス 

『忘れてはならないのは、アロスタティック負荷がストレスのもとに置かれなくても起こることだ。それは生活習慣と、日頃の生活でストレスにどのように対処しているかが反映される。私たちが何を食べているか、タバコを吸うかどうか、熟睡しているかどうか、運動しているかどうかなどがすべて、コルチゾールやアドレナリンをはじめアロスタシスにかかわるさまざまな物質の生成に影響を与えるのだ。

私たちはストレスの対処の仕方によって、ある程度、アロスタシスがアロスタティック負荷になるかどうかを左右できる。もしその選択をまちがえれば、ストレス性疾患になる確率が高まる。たとえば喫煙(多くの人にとって、それがストレスを防御する方法ではあるが)は血圧を上げ、冠動脈をつまらせ、心筋梗塞や脳卒中のリスクを高める。また脂肪の多いスナックにストレスからのはけ口を求めると、健康を害しかねない。高脂肪の食事は動脈硬化を加速し、コルチゾールの分泌を増やす。そしてコルチゾールが増加すると、体脂肪が蓄積しやすくなり、心血管病変や脳卒中、糖尿病の危険因子となる。

一方、ストレスに見舞われたとき、散歩やスポーツクラブでの運動で発散すれば、ストレスにうち勝つ確率を高めることができる。運動は体脂肪の蓄積を防ぎ、心血管病変を未然に防ぎ、慢性的な痛みやうつ状態を軽減する。また、人と積極的につきあったり、他人の助けを借りることによっても自分を守ることができる。ストレスと上気道感染の関係を研究したシェルドン・コーエンは、社会的なつながりが多い人の方が風邪をひきにくいと報告している。オハイオ・ステート大学のロナルド・グレイザーとジャニス・キーコルト・グレイザーは、孤立が免疫力を弱めることがあることを立証した。

緊急反応はうまく機能しないことも多いことから、脆いしくみだと思うかもしれないが、実際にはかなり柔軟だ。過去10年の研究によって、アロスタシスが逸脱したときに心臓血管系、免疫系、神経系に弊害をもたらすことが明らかになったが、同時に免疫などのシステムがたとえ被害を受けても回復できることもわかってきたのである。

脳とストレス1

前回の”脳と運動”では、運動が脳にとって最も良いものの一つであることが明らかになりました。一方、過度なストレスは運動の対極、最も悪いもの一つだと思います。

今回の『ストレスに負けない脳 心と体を癒すしくみを探る』という本は、脳とストレスの関係を深く知りたいと期待して購入したのですが、多くのことを知ることができました。なお、ブログは8つに分けています。

著者:ブルース・マキューアン、エリザベス・ノートン・ラズリー

監修:星恵子

訳:桜内篤子

出版:早川書房

発行:2004年9月

発行は2004年と決して新しい本ではないため、最新の説からは違和感があるかもしれませんが、”原注(p275~p292)”として参照論文が掲載されており(計210)、これらの論文を背景に書かれた本であることが分かります。

 

こちらは原書です。タイトルは”The End of Stress  As We Know It”でした。発行は日本で出版される約2年前の2002年10月です。

画像出典:「amazon」

Bruce McEwen先生です。

今年(2020年)の1月2日にお亡くなりになっていました。

画像出典:「The Rockefeller University

本書では、「アロスタシス」と「アロスタティック負荷」というものを非常に重要なものとして位置づけています。もちろん、本文の中でも詳しく説明されているのですが、監修を担当された昭和薬科大学の星先生が書かれた”解説”が一般的、客観的な説明として大変分かりやすいものと思います。なお、これは”解説”の一部になります。

解説

マキューアン博士がストレスについて書かなければと思い立ったのは、ひとつには日頃よく見られるいわゆるコモン・ディジーズである心筋梗塞高血圧症糖尿病なども、実は感情や、情緒的・心理的状況が、それらの疾患の発症や進展に密接に関与していることが理論的に説明できると確信しているためで、それを喚起することによって、これらのありふれた疾患の予防につなげたいと考えたからである。もう一つは、将来、”うつ病”になる人の割合がかなり高くなることが予測されており、この点も大いに危惧してのことである。

ストレスについて書かれている本書が、これまでになく新鮮に見えるのは、アロスタシス、アロスタティック負荷という言葉を用いているからであろうか。普通、ストレスを受けると心身ともに消耗し、ときに身体はボロボロになってしまう。本来のストレス反応は病気を引き起こすことが目的ではなく、むしろ身の安全とサバイバルを目的としているはずである。そこでストレスを身体を守るシステムであると理解するために、別の用語を用いた方が賢明と考えたのだろう。そこで、選ばれたのがアロスタシスである。アロスタシスもアロスティック負荷もこれまでなじみのない言葉であるが、アロスタシスとは生物学や医学でよく知られているホメオスタシス(恒常状態)とほぼ同義語である。ギリシャ語でホメオスタシスのホメは同じ、スタシスは一定の状態という意味で、外部環境が変わっても身体内部はほぼ一定に保たれることで、W・B・キャノンの「からだの知恵―この不思議なはたらき」に詳細に書かれている。ホメオスタシスの代表例に体温凋節や酸塩基平衡などがある。体温は35.3度~37.5度、体液のpHは7.36~7.46と、これらの変動幅は許容範囲が狭く、一定の基準を超えると死に至る。一方、心拍数や呼吸数、血糖値は変動幅の許容範囲が広い。食後2時間の血糖値は140mg/dl以下が正常であるが、それが倍以上の300mg/dlになっても400mg/dlになっても死ぬことはない。そこでマキューアン博士は、生体が何らかの刺激を受けた時、それに応じて変化するのであるから、ギリシャ語で変動するという意味の「アロ」が語源となっているアロスタシスの方が適切であると考え、好んで用いた。そして、アロスタシスが一定の限界を超えた時がアロスタティック負荷である。

目次は以下の通りですが、黒太字が取り上げた項目です。

序文/ロバート・サポルスキー

1 ストレスの不思議なしくみ

ストレスとは何か

ストレスとアロスタシス

闘うか逃げるか

自分で引き起こすアロスタティック負荷

ストレスと情動

ストレスの生みの親セリエ

現代人特有のストレス

2 ストレスは脳からはじまる

脳が飢え、脳が恋する

ストレス反応

大切なストレスホルモン

海から生まれたストレス

魚たちのストレス

動物たちのストレス

ヒトのストレス

ストレスと記憶

3 ストレスと感情のつながり

“感情”に対する新しい見方

脳のメッセンジャー

神経細胞の鍵と鍵穴

空腹ストレス

ストレスと遺伝子

ストレスが脳に“戻る”とき

4 アロスタティック負荷はこうして起こる

サッチャー首相の民営化と共産主義の崩壊

ストレスが風邪を長びかせる

ストレスは気分で変わる

マイナス思考の危険性

ストレスホルモンが多すぎる場合

ストレスホルモンが少なすぎる場合

生活習慣とストレス

5 動脈硬化・肥満・糖尿病を防ぐには―ストレスと心臓

自律神経系の三つの顔

心臓にブレーキをかける迷走神経

自律神経のしくみ

呪いによる死

怒りっぽい人は要注意

生活習慣と心臓

体脂肪とインスリンの関係

自ら選ぶ生活習慣

6 免疫は諸刃の剣

ガンになりやすい人

愛する人の死の脅威

ストレスが体を守ることもある

ストレスで動員される白血球

免疫の逆襲

ストレスとぜんそく

免疫の勘ちがい

7 トラウマが脳を攻撃する

記憶を探して

コルチゾールの役割

ストレスと記憶回路

コルチゾールの威力

狙われる海馬

ラットも上下関係に悩む

ストレスの効能

ツバイの実験

保護か危害か

脳がトラウマに屈するとき

遺伝子とストレス

細胞のスイッチ

コルチゾールの微妙な働き

ストレスと加齢

8 ストレスに負けない生活

ウォーキングの効果

運動と脳

ストレス解消は食生活から

快眠の大切さ

睡眠とストレス

酒はストレス解消にならない

友だちの支え

社会的支援とガン

気のもちようでずいぶん違う

コントロールのよい面と悪い面

医学に携わる者としてひとこと

9 ポジティブ・ヘルスとは?

麻薬のような体内物質エンドルフィン

脳がつくりだす薬

エンドルフィンを越えて

アルツハイマー病の原因

運動がストレスに効くわけ

抗うつ剤の効果

海馬とポジティブ・ヘルス

神経細胞新生とうつ病

エストロゲンの働き

私たちを守る脳

10 これからの展望

アロスタシスと予防医学

子どもとストレス

高齢者とストレス

不利なマイノリティ

経済的状況と人生観

ポジティブ・メンタルヘルス

大事な人間のつながり

変えられること変える勇気

これからの神経生物学

ストレスとは何か

本来ならストレス反応は、体の主要システムが協力しあう洗練された防御機構のひとつである。これは緊急反応あるいは「闘争か逃走か」反応とも呼ばれる。ストレス反応のおかげで私たちは緊急事態に対応し、状況の変化に対処することができる。そのために脳、内分泌腺、ホルモン、免疫系、心臓、血液、肺が総動員される。ストレスに対して闘おうが、断固とした態度で臨もうが、安全のために逃走しようが、それとも目の前の作業に集中しようが、ストレス反応は瞬時に必要なエネルギーや酸素、筋力、燃料、痛みに耐える力、頭の回転、感染に対する一時的な防御体制を提供してくれる。ストレスがたまったり続いたりしたときに、体のいろいろな部分に支障を来たすのはそのためだ。

ではなぜストレスで心身がボロボロになるのか。人間の体はなぜ、苦境に立たされたとき、病むようなしくみになっているのか。ストレス反応の機能はもともと病気にさせるためのものではないはずだ。緊急反応は、身の安全とサバイバルというもっとも重要な任務を達成するために進化したしくみなのである。ストレス反応という強力でダイナミックな復元能力のおかげで注意力が鋭敏になり、脅威に備えて体が準備体制をとり、終わるともとの状態に戻る。しかも普通は副作用もない。ただし、脅威があまりにも大きかったり反応が逸脱してしまうと、病気の原因になるのである。

本書の狙いは次のパラドックスに注意を喚起することだ。つまりストレスは厳しい状況のもとで人間の体を守ってくれるが、慢性的に作動すると有害になり、病気を悪化させるということだ。疲れたときに人は、めまぐるしい世界で生きているのだからへとへとになるのも無理はないと思いがちだ。しかし、逆境に立ち向かうときにストレスがかかるのはある程度しかたがないにしても、ストレスでボロボロになる必要はないのだ。本来私たちを守るはずのシステムそのものが脅威となる必然性はないし、そうなることが正常とは言えない。この違いを認識することが非常に大事である。ストレスが健康に与える影響について考えるうえで、新しい言葉が必要だと私が思うようになったのはそのためだ。

ストレスという概念自体、時代遅れになっているので、元の意味に立ち戻って、定義を整理するべきだろう。したがって本書でストレスと言うときは外部で起きることのみを指すことにする。科学の進歩のおかげで、ストレス反応または緊急反応について、以前よりわかってきた。そこで私はその反応に、「アロスタシス」という言葉を使うことにした。そしてストレス反応が私たちの体に逆襲するような状態には「アロスタティック負荷」という言葉を当てる。本書を通じてこのふたつの言葉について説明するが、まずは簡潔に述べておく。』

ストレス反応

『アロシスタシスは脳の深いところで始まる。脳にある視床下部が腎臓の上にある副腎体に警鐘を鳴らすと、副腎体はこれに古典的な緊急反応で応じる。そして主要なストレスホルモンの第一陣、つまりアドレナリンを分泌する。アドレナリンは心拍数を上げ、筋肉や諸器官に余分に血液を送る。気管支が拡張し酸素が大量に吸入され、通常より多くの酸素が脳にも送られ、注意力が高まる。怪我したときに毛が立つような感覚がするのは、出血を抑えるためにアドレナリンの働きで皮膚の血管が縮むからだ。さらに出血への防止策として、凝血を速める線維素原(フィブリノゲン)という物質の分泌がアドレナリンによって促される。最後に、アドレナリンは体に働きかけて、グリコーゲンとして貯蔵されたブドウ糖を放出させ、また蓄積された脂脂を脂肪酸に分解してエネルギー源を確保する。この緊急反応の間、脳はエンドルフィンという鎮痛作用をもつ物質を出し、生体が危機においても機能できるようにする。

緊急事態になるべく速く対応するため、視床下部は副腎に直接通じる神経回路を使って伝達する。アドレナリンが中心的な役割を果たすこの段階が、ストレスに対する最初の反応である。猫を助けるために老女が車を持ちあげることができたのは、このアドレナリンのおかげにちがいない。

次に脳は視床下部‐下垂体‐副腎軸(略してHPA軸)という先鋭部隊を動員する。これが、脳がホルモンをメッセンジャーとする防衛機構の第二陣だHPA軸はアロスタシスならびにアロスタティック負荷のもとになる機能である。これによって神経系、内分泌系、免疫系が動員されるのだが、うまく機能することもあればしないこともある。HPA軸が正常に機能しているとき、私たちの体はエネルギーと集中力を発揮して危機に対処できるが、ストレスがたまるとHPA軸のバランスが崩れて、ぜんそくの発作を起こしたり、風邪をひいてもなかなか直らなかったりするのである。

アロスタティック反応は視床下部が副腎皮質刺激ホルモン放出因子(CRF)という物質を放出することによって作動する。CRFが専用の血管を通ってアーモンド大の下垂体に達すると、下垂体から副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)が分泌される。ACTHが血管を通って副腎を刺激すると、副腎から第二の主要ストレスホルモンであるコルチゾールが血液に放出された体内を循環するのである。

コルチゾールは、コレステロールから作られている(これはコレステロールが重要な役割を果たす例だ)。コルチゾールの最初の任務はアドレナリン放出によって使い果たされたエネルギーを補充することで、食べたものをグリコーゲンや脂肪に変えて貯蔵しやすくする。コルチゾールは私たちを活動的にさせ、おなかをすかせる。しかしコルチゾールが分泌されすぎると、筋肉を刺激してブドウ糖を取り込むインスリンの働きが抑えられてしまう。さらにコルチゾールが過剰になると、脂肪が増え、とりわけ、健康に悪いとされる腹部にたまる。コルチゾールはさらに筋肉のタンパク質を減らして脂肪に変える働きを促し、その結果、骨のミネラルが減る。

コルチゾールは免疫系にとっても諸刃の剣となりうる。多すぎると免疫機能を抑えるため、感染症にかかりやすくなる。しかし短期的には、コルチゾールは感染や怪我に対処するのを助ける。つまり怪我や感染から体を守る白血球を、侵略を受けた場所に送り込むのである。このときコルチゾールは白血球が血管壁や傷口、感染箇所など、防衛しなければならない部分の細胞にくっつきやすいよう、その表面を変える働きをする。

免疫活動がもう十分だと知らせるのもコルチゾールの働きだ。このメッセージはまず脳に送られ、視床下部、下垂体を経由し、ストレス反応を調整する。コルチゾールのチェック・アンド・バランス(抑制と均衡)の機能が、免疫反応が活発になりすぎることによっておこる湿疹やアレルギー、免疫が体の健康な細胞を攻撃する自己免疫疾患を防ぐのである。湿疹にステロイド軟膏を塗ったり、炎症を抑えるためにステロイド剤を飲むのは、体内のコルチゾールが通常行っている働きを補うためだ。』

画像出典:「ストレスに負けない脳」

脳と運動4

著者:ジョン J. レイティー

訳者:野中香方子

出版:NHK出版

初版発行:2009年3月

今回は第九章から第十章です。なお、目次については”脳と運動1”を参照ください。

第九章 加齢 ―賢く老いる

すべてをひとつに

ここまで体と脳の生物学的なつながりについて多くを話してきた。それが最も重要な意味をもつのは、老化について語るときだ。結局、健康な心は健康な体あってこそのものである。

1900年には、アメリカ人の平均寿命は47歳だった。今日それは76歳を上回り、高齢者は、急な病気ではなく慢性疾患によって亡くなる場合が多いようだ。だが、平均寿命を超えて長生きする人にとっては、もうひとつ気の滅入る統計データがある。疾病管理予防センター(CDC)によると、75歳の人は平均して3種類の慢性疾患を抱え、5種類の処方薬を服用しているそうだ。65歳以上のほとんどは高血圧で、3分の2以上が肥満、約20パーセントが糖尿病を患っている(糖尿病の人が心臓病になる確率は、そうでない人の3倍だ)。三大死因である心臓病、がん、脳卒中で亡くなる人は、この年代では61パーセントにのぼる。

喫煙、運動不足、栄養の偏りがこうした病気を招くことをわたしたちはすでに知っている。加えて、ライフスタイルは、加齢にともなって起きる精神面の危機にも大きく影響することが、最近の研究によって明らかになった。体に悪いことは、脳にとっても悪いのだ。だが、国立老化研究所の神経科学者マーク・マットソンは、それをプラスの方向でとらえている。「心血管系の疾患や糖尿病のリスクを減らす要因の多くが、老化にともなう神経変性障害のリスクも減らすというニュースは、喜ぶべきことである。もっとも、わたしたちが真剣にそれを受け止めればの話だが」

たとえば、糖尿病を防ぐよう努力すれば、脳内のインスリンのバランスも整い、ニューロンが強化され、代謝ストレスに対抗できるようになる。また、血圧を下げ心臓を鍛えるためにランニングをすれば、脳の毛細血管が弱くなったり塞がったりするのを防ぐことができ、脳卒中の予防につながる。さらに、骨粗しょう症で骨がすかすかになってしまわないよう、ウェイトトレーニングをしていれば、脳内に成長因子が放出され、ニューロンの樹状突起が伸びる。逆に、認知症予防のためにオメガ3脂肪酸を摂取していると、骨が強くなる。

老齢期に直面する精神の病気と体の病気は、心血管系と代謝系を通じて結びついている。肥満の人が普通の人の2倍、認知症になりやすいのも、心臓病の人がアルツハイマー病(認知症の中でも最も一般的な疾患)になる確率が高いのも、そのような頭と体のつながりが壊れた結果なのだ。統計によると、認知症になる確率は、糖尿病の人は65パーセントアップし、コレステロール値が高いだけで43パーセントも高くなる。運動がこうした病気を予防することは何十年も前から医学的に証明されている。だがCDCによると、現在でも65歳以上の人の3分の1は、自ら運動することはないと答えているそうだ。運動が体だけでなく脳の老化をどれほど防ぐかがわかっていれば、皆もっと真剣に運動について考えるようになるだろう。』

いかに年をとるか

『年をとることは避けられないが、惨めな衰えは避けることができる。100歳になっても健康にほとんど問題ない人もいれば、慢性疾患のために頭も体もすっかりがたがきてしまう人もいるのはどうしてだろう。それを理解するために、細胞レベルで生と死を見てみよう。

年をとると、体中の細胞がストレスへの適応力を失っていく。なぜそうなるのか、科学者にも正確なところはわかっていないが、はっきりしているのは、細胞は古くなるほど、フリーラジカルによる酸化ストレスや、過度のエネルギーの要求、過度の興奮などに立ち向かう力が弱くなるということだ。さらに、有害なゴミを掃除するタンパク質を生成するはずの遺伝子がその仕事をやめてしまうと、神経科学者が「アポトーシス(細胞の自死)」と呼ぶ、細胞の死のスパイラルが始まる。細胞のダメージが重なると免疫系が活性化し、死んだ細胞を掃除するために白血球やその他の因子を送り込み、それらが炎症を生じさせる。炎症が慢性化すれば、さらに多くの有害なタンパク質が生じる。それらはアルツハイマー病に直接関係している。

脳では、ストレスのせいでニューロンが弱くなると、シナプスが餌まれ、最終的にはつながりが切れてしまう。脳の活動が減るに従って、樹状突起は文字通り縮み、しなびていく。その結果、あちこちでシグナルが伝達されなくなるが、最初のうちはそれほど困らない。本来、脳のネットワークは、つながりが断ち切られた部分を避けて、別のルートで情報を伝達できるようにできている。ある程度、余裕の部分が用意されているのだ。なんと言っても、ニューロンは1000億個以上もあり、それぞれが多ければ10万ものニューロンに情報を伝えている。そのネットワークはとても緊密で、先に述べた通り、新しい結合を作っては成長し、配線の変更と適合化を繰り返している。もっとも、それは新たな結合を促す十分な刺激があれば、の話だ。年をとるにつれて回路は途切れていくので、なにをするにも、今までより広いネットワークが必要になる。思うに、知恵とは、そのような効率の低下を脳が巧みに埋めることの反映ではないだろうか。

シナプスの衰えるスピードが、新たな結合の生まれるペースを上回るようになると、頭と体の機能にさまざまな問題が生じてくる。それはアルツハイマー病やパーキンソン病も含まれる。どの病気になるかは、脳のどの部分が衰えるかによって決まる。基本的には、認知力の衰えや、神経変性による病気はすべて、ニューロンが死んでしまったか、機能不全に陥った結果であって、そのせいで情報の伝達が断たれたのだ。老化に関する研究は、マットソンが指摘するように、「ニューロンの情報伝達力を回復させ、生かしつづけること」をおもな目的として進められていて、「成功すれば、ニューロンの衰えを食いとめ、病気を予防できるようになる」

シナプスの活動が減り、樹状突起が萎縮すると、脳に栄養を運んでいる毛細血管も萎縮するため、血液の流れが制限される。逆のことも起きる。脳に血液を十分に送り込まないと、毛細血管が萎縮し、それにつづいて樹状突起も萎縮する。いずれにせよ、それは細胞の死を招く。血液によって運ばれる酸素や燃料、肥料、そして修復に使う分子がなければ細胞は死んでしまうのだ。ニューロンの成長を促す栄養素―脳由来神経栄養因子(BDNF)や血管内皮成長因子(VEGF)など―の量は、年をとるに従って減っていく。そして、神経伝達物質であるドーパミンが作られるスピードも遅くなり、運動機能の意欲の低下を招く。一方、海馬でも使えるニューロンがどんどん少なくなっていく。ラットの研究から、ニューロン新生は加齢とともに劇的に減ることがわかっている。それは、誕生する幹細胞の数が減るからではなく、もともとの神経幹細胞のプールが枯渇し、完全に機能するニューロンが作られなくなるからだ(おそらく、VEGFが少なくなるせいだろう)。ほとんどの神経細胞はいずれにせよ死ぬ運命にあるが、使いものになる幹細胞の数は、げっ歯動物の中年期(人間で言えば65歳以上)には、4パーセントにまで減少する。ニューロン新生の恩恵にあずからない広大な部分[現時点(初版発行2009年)でニューロン新生が確認されているのは海馬と脳室下帯のみ]については言うまでもない。40歳をすぎると、脳は平均して10年に5パーセントずつ減っていく。そして70歳から先は、さまざまな要因がこのプロセスに拍車をかける。

わたしの母のように、年を重ねてもずっと社交的で活動的な人は、脳の劣化のスピードを遅らせることができる。退職後の人の脳血流レベルを調べたところ、運動をつづけている人は退職して4年経ってもほとんど変わらなかったのに対し、運動をあまりしない人は著しく低下していた。脳は活発な成長を止めたとたん、死に向かい始める。運動は老化の進行を阻むことのできる数少ない方法のひとつだ。なぜならストレスに抵抗する力の衰えを遅らせることができるからで、マットソンは「矛盾するようだが、定期的に適度なストレスにさらされることは細胞にとってプラスになる。抵抗力がつき、より強いストレスに対処できるようになるのだ」という。

さらに運動は、先の章で述べたように、脳の回路が結合を増やし、成長するきっかけを与える。血液の量を増やし、燃料を調節し、ニューロンの活動と発生を促すのだ。老いた脳はダメージに対して弱いが、だからこそ、脳を強くするためになにかをすれば、若いときより効果が大きい。だからと言って、若いころから脳を鍛えることに意味がないわけではない。もしあなたの脳が、健康で、強く、しっかり回路のつながったものであれば、年をとってニューロンが壊れ始めても、より回復しやすく、より長くもちこたえられるだろう。運動は解剤であると同時に予防薬でもあるだれでも老化する。なぜかと問われても、どうしようもないが、どのように、いつ老化するのかについては、間違いなく打つ手がある。』

【ご参考】過去ブログ:"慢性炎症について

『慢性炎症は病原体を撃退した後や、傷が治癒した後に炎症という爆撃が完全に停止されず、くすぶり続け、健康な細胞、組織、血管へのダメージが終結せず続いている状態です。』

下記は大阪大学医学系研究科さまの”脂肪慢性炎症の引き金となる分子を同定”という記事の抜粋です。

『肥満では単に体重が増えるだけではなく、脂肪組織において軽度の炎症が慢性的に進行することが知られており、この“慢性炎症”が、糖尿病や高血圧・動脈硬化といった生活習慣病を引き起こす元凶であると考えられています。しかしながら、肥満がどうやって脂肪組織での慢性炎症を誘導するのか、その具体的なメカニズムは謎のままでした。』

認知力の衰え

『最初の兆候はささいなものだ。脳の回路が断たれると、知っているはずの人や場所の名前がなかなか思い出せなくなる。のどもとまで出かかっているのに出てこない、そういう経験はだれでも覚えがある。記憶のサーチエンジンである前頭前野がそれを呼び出さなくなったのだ。海馬がほかのつながりを頼りに記憶を呼び起こそうとするのだが、すんなりとはいかず、以前なら考えなくても言えたのに、なんでこんなに苦労するのかと、あなたはイライラしてくる。年をとれば皆、経験することだが、これもいわゆる軽度認知障害の症状である。その程度は人によって千差万別だ。

軽度認知障害は進行するとは限らないが、放置すると認知症になりかねない。自分を形づくっている人生の軌跡を辿ることができなくなり、自我が餌まれていくという耐えがたい恐怖を味わう。自分がそうした段階にあるとわかると、多くの人は自らの樹状突起の状態を模倣するかのように萎縮し、外に向ってはたらきかけたり新しい関係を結んだりするのをやめてしまう。うまく対処できないのではないか、と恐れるのだ。そして殻に引きこもってしまう。恥をかきたくないし、慣れ親しんだ家から外に出ることに不安も感じる。いずれにせよそうなると、脳に刺激を与えてくれる有意義な関係から隔絶されてしまう。孤立と運動不足は、細胞の死のスパイラルを助長し、脳を萎縮させる

衰えが最も顕著に表れるのは前頭前野と側頭葉だ。前頭葉は、前頭前野の灰白質とその軸索の白質を含む。側頭葉は単語と固有名詞のリストを作り、海馬と連携して長期記憶の形成を助けている。前頭前野が衰えると、高度の認知機能が衰え、日常の基本的な作業も難しくなる。皮肉なことに、靴ひもを結ぶ、ドアの鍵を開ける、食料品店まで車で出かけるといった、ごくあたりまえにやっていることが、実は、作動記憶、作業のスムーズな切り替え、不要な情報の締め出しといった、脳の最も高度な機能に依存しているのだ。よく調教されたサルでも、シャツのボタンをなかなかきちんとはめられないのはそこに理由がある。

側頭葉は脳にとっては辞書のように記憶を蓄えておく場所で、アルツハイマー病によって萎縮する領域のひとつだ。従ってアルツハイマーかどうかは、単語を羅列したリストを見せ、1時間半後にどれだけ思い出せるかを問う簡単なテストによって調べられる。

第一章で述べたように、イリノイ大学で行われた数々の研究は、脳のこれらの領域を対象とするテストの成績と運動量に強いつながりがあることを示している。ある研究では、有酸素運動を長年つづけてきた高齢者ほど、脳がよりよい状態に保たれていることがMRIの画像診断によってわかった。こうした相関自体も興味深いが、研究者たち本当に知りたかったのは、運動によってこれらの領域の構造に変化が起きるかどうかということだ。』

第十章 鍛錬 ―脳を作る

わたしが強調したかったこと―運動は脳の機能を最善にする唯一にして最強の手段だということ―は、何百という研究論文に基づいており、その論文の大半はこの10年以内に発表されたものだ。脳のはたらきについての理解は、その比較的短い期間にすっかりくつがえされた。この10年は、人間の特性に興味をもつ人すべてにとって、心沸きたつような時代だった。わたし自身、本書のための調査を通じて、運動の効果にますます驚かされ、直感的な洞察は科学に裏打ちされた真実へと変わっていった。』

『スモールは、被験者たちに3か月間運動させたのち、脳の写真を撮った。標準手的なMRIを用い、ズームしてシャッターを切るというごくあたりまえの方法で、彼は新たに形成された毛細血管の画像をとらえた。それは発生したニューロンが生き残るのに必要とするものだ。彼が目にしたのは、海馬の記憶領域における毛細血管の量が30パーセント増えるという、まさに驚くべき変化だった。もっとも、この研究が果たした最大の貢献は、脳を切り刻むことなくニューロン新生を見つけ出せるようになったことだろう。この新しい技術により、科学者はさまざまな要素がニューロン新生にどう影響するかを調べられるようになった。運動量もそのひとつだ。』

『脳のためにどのくらい運動すればいいのかと尋ねられたら、わたしは、まずは健康になることを目指し、自分への挑戦をつづけることが大切だと話している。なにをどのくらいすればいいかは人それぞれだが、研究が一貫して示しているのは、体が健康になればなるほど、脳はたくましくなり、認知力の面でも、情緒の面でも、よくはたらくようになるということだ。体を快調にすれば、心もそれに従うのだろう。

だとすれば、運動が脳に及ぼす利益を享受するには、体を鍛え上げて下着のモデルのような体型にならないといけないのだろうか? そんなことは決してない。実際、研究では、ウォーキングしただけでも、説得力のある結果が出ている。それでもわたしが健康な体に着目するのは、標準的な体重を維持し、心血管系を強くすれば、脳は最大の力を発揮できることを知っているからだ。どの程度の運動でもプラスになるが、実際的な観点から言えば、脳のためになにかをするということは、体を心臓病や糖尿病、がん、その他の病気から守ることにもなる。体と脳はつながっている。両方一緒に大切にすればいいのだ。

まとめ

4つに分けたブログですが、最後に簡潔にまとめたいと思います。

最も重要なことは、”運動はほとんどの精神の問題にとって最高の治療法である。一方、孤立と運動不足はアポトーシス(細胞の自死)を助長し脳を萎縮させる”ということだと思います。

そして、主なメカニズムは下記の5つと考えます。

1.運動は筋肉の回復プロセスだけでなく、ニューロンの回復プロセスのスイッチも入れる。

2.運動によって脳に適度なストレスがかかると、遺伝子が活性化してタンパク質(成長因子)が生成され、ニューロンを損傷や変性から守るとともにその構造を強化する。

3.運動は脳のストレス耐性を強めるが、それは多くの成長因子(脳由来神経栄養因子[BDNF]、インスリン様成長因子[IGF-1]、線維芽細胞成長因子[FGF-2]、血管内皮成長因子[VEGF])を増やすからである。

※成長因子とは:特定の細胞の増殖や分化を促進する内因性のタンパク質の総称である。(ウィキペディアより)

4.運動によりインスリン様成長因子[IGF-1]は海馬のなかでLTP(長期増強)を促進して、ニューロンの可塑性を高めニューロン新生を促す。

5.運動はコルチゾールが増えすぎないよう監視し、必要に応じて神経伝達物質セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンを増やすという効果も有する。

脳と運動3

著者:ジョン J. レイティー

訳者:野中香方子

出版:NHK出版

初版発行:2009年3月

今回は第後五章から第七章です。なお、目次については”脳と運動1”を参照ください。

第五章 うつ ―気分をよくする

論理の穴

薬や運動がうつを改善させる仕組みについて本当のところがわかってきたのは、脳の鮮明な写真を写せるようになってからのことだ。1990年代初頭、MRIで調べたところ、ある種のうつ病患者の脳に明るい斑点が見つかった。それは高信号域と呼ばれ、白質の部分に現れる。白質とは、灰白質―ニューロンの本体である細胞体の集まっている部分。灰色っぽい色をしているので灰白質と呼ばれる―から伸びた軸索が集まった部分である。さらによく見てみると、皮質の量が普通と違うことがわかった。灰白質が実際に縮んでいるのだ。灰白質は皴の寄った薄いカバーとなって脳を覆っていて、注意力、感情、記憶、意識といった人間の複雑な機能をすべてつかさどっている。MRIによって見えてきた現実はぞっとするようなものだった。慢性のうつは、脳の思考する部位を構造的に傷つける可能性があるのだ。

同様の研究により、うつ病の患者の脳では扁桃体と海馬に著しい変化があることが明らかになった。いずれもストレス反応の重要な役割を担う部位だ。扁桃体が人間の感情をつかさどる中心だということは以前から知られていたが、記憶中枢である海馬がストレスとうつにもかかわっていることはようやくわかり始めたところだった。1996年、セントルイスにあるワシントン大学のイヴェット・シーラインが、うつ病患者10名の脳と、同じような体格と学齢の健康な人10人の脳をMRIで比べたところ、うつ病患者の海馬は、健康な人のそれより最高で15パーセント小さかった。また、海馬が縮む度合と、うつ病だった期間の長さに関連があることを示す証拠も見つかった。意義ある発見だ。うつ病患者の多くが学習と記憶の衰えを訴えるのも、海馬の萎縮から始まるアルツハイマー病患者の気分が沈みがちになるのも、おそらくそこに理由がある。

ストレスホルモンのコルチゾールが多いと、海馬のニューロンは死んでしまう。実際のところ、ペトリ皿にニューロンを入れ、コルチゾールをたっぷり注ぐと、ニューロン間の結合は途切れ、シナプスの成長は止まり、樹状突起はしなびていく。そうなるとコミュニケーションは遮断される。うつ病の人の海馬では、それが実際に起きているのだ。彼らが否定的な考えから脱け出せない理由のひとつがこれで、海馬は別の結合を作るための枝を伸ばせなくなり、否定的な記憶を何度もたどり始める。

新たに陽電子放射断層撮影装置(PET)や機能的磁気共鳴画像法(fMRI)のおかげで、うつをこれまでとは違う生物学の角度から見られるようになった。誕生した当時、それらの画像は粗く、あいまいだったが―その点は今もあまり進歩していない[初版発行は2009年になります]―、科学者は脳の静止画像だけでなく、活動している様子も見られるようになったのだ。また同じころ、新しいニューロンが海馬とおそらくは前頭前野において、日々作られていることもわかった。どちらもうつになると萎縮する部位だ。この新しいツールと新しい発見から、「神経伝達物質仮説」の見直しが始まった。

とは言え、その古い理論が捨てられたわけではない。さらに拡大されたのだ。今では、うつは、脳の感情回路が物理的に変化した結果だと考えられている。ノルアドレナリン、ドーパミン、セロトニンはシナプスを通って情報を運ぶ大切なメッセンジャー(神経伝達物質)だが、そこがしっかりつながっていなければ、役目を十分に果たせない。そもそも脳の仕事は、つねに回路を接続し直しながら情報を伝達し、それによって人間を環境に適応させ、生き延びさせることである。ところが、うつになると、特定の部位でその適応機能がはたらかなくなる。つまり、細胞レベルで学習が遮断されるのだ。そうなると脳は、自己嫌悪の否定的な堂々巡りに陥り、その穴から脱け出すのに必要な柔軟性も失われる。』

【ご参考】過去ブログ:"うつ病治療(TMS)

NHKスペシャルで放映された「ここまで来た!うつ病治療」の書籍を題材にしたブログです。

 

第六章 注意欠陥障害 ―注意散漫から脱け出す

全コントロール・ユニット、注目!

『情報に注意が向けられればそれでいいわけではなく、その情報が脳内でスムーズに流れることも重要だ。ここで注意システムと体の動き、ひいては運動とが結びついてくる。体の動きをコントロールする脳の部位は、情報の流れも調整しているのだ。

小脳は脳の中でも原始的な部位で、動きのコントロールと精錬だけにかかわっていると長く考えられてきた。空手の蹴りであれ、指の鳴らし方であれ、なにか動きを覚えようとするとき、小脳はフル回転している。小脳は、脳のわずか10パーセントの体積しかないのに、ニューロンの半分を有している。つまり、そこにはぎっしりニューロンが詰まって、常に活動しているのだ。小脳がリズムを調整しているのは、動きだけではない。脳のシステムのいくつかも調整し、そこが新しい情報をスムーズに流し、管理できるようにしている。ADHD患者は、小脳の一部が小さく、正しく機能していない。注意力が途切れがちなのはわけあってのことなのだ。

小脳は、前頭前野と運動皮質―それぞれ思考と動きの中枢―に情報を送っているが、その途中で大脳基底核と呼ばれるニューロンが集まった重要な場所を通る。そこは一種のオートマチック・トランスミッション(自動変速機)で、大脳皮質の要求に応じて、注意力に向ける資源を配分している。そのはたらきは、中脳の黒質から出されるドーパミンの信号によって調節されている。ドーパミンは自動変速機のオイルのようなもので、それが足りないと、注意を簡単にシフトできなかったり、つねに高速ギアに入ったままになったりする。それがADHDの人の状態だ。

科学者が大脳基底核について知っていることの多くは、パーキンソン病の研究からもたらされた。パーキンソン病は大脳基底核のドーパミン不足によって起きる。この病気は、運動機能だけでなく、複雑な認知作業の調整能力にも打撃を与える。初期段階では、そうした不調が成人発症のADHDとして表れる。

この類似は重要で、現在、神経学者は、数々の信頼できる研究に基づいて、パーキンソン病の初期段階にある患者に、病気の進行を食い止めるために毎日の運動を推奨している。ある実験では、ラットの大脳基底核のドーパミン・ニューロンを破壊して、パーキンソン病を発症させ、その半数を「発症」後10日間、毎日2回ランニングマシンで走らせた。驚くべきことに、ランナーたちのドーパミン・レベルは正常な値を保ち、運動機能も衰えなかった。パーキンソン病患者についてのある研究では、激しい運動が運動機能だけでなく気分も向上させ、そのプラス効果は運動をやめたのちも6週間以上、持続した。

とくに興味を惹かれるのは、運動と注意力の強い結びつきだ。この二つは、脳内で同じ回路を共有していて、おそらくそれゆえに、武術のような活動はADHDの子どもに効果があるのだろう。新しい動きを覚えるために、彼らは集中しなければならず、その際、運動システムと注意システムの両方が動員され、鍛えられるのだ。』

第七章 依存症 ―セルフコントロールのしくみを再生する

不当な報い

『国立薬物濫用研究所の現在の定義によると、依存症とは、健康と社会的生活に悪影響をもたらすにもかかわらず、断ち切ることのできない衝動を意味する。多くの人が薬物を濫用しているが、依存症になる人は比較的少ない。なぜだろう。薬物などへの興味が芽生え、手に入れようとするのは報酬中枢を流れるドーパミンのせいだが、どうしてもそれをやめられなくなるのは、脳の構造に変化が生じるからだ。現在、科学者たちは依存症を慢性疾患と考えている。なぜなら依存症は、反射的行動を引き起こす記憶のなかに組み込まれているからだ。依存の対象が薬物でもギャンブルでも食事でも、脳に起きる変化は同じだ。

いったん報酬が脳の注意を引くと、前頭前野はそのシナリオと感覚を詳しく記憶するように海馬に指示する。脂っこいものに目がない人の脳は、ケンタッキーフライドチキンのにおいとカーネル・サンダースのひげ、そして赤と白の縞模様のバケツを結びつける。こうした合図が「突出」し、つながって記憶されていく。ケンタッキーフライドチキンに車で乗りつけるたびに、シナプスは新たな合図を取り込んでさらに結びつきを強めていく。このようにして習慣が作られる。

通常、わたしたちがなにかを学ぶとき、その回路ができあがるとドーパミン・レベルは次第に下がっていく。しかし依存症、とくに薬物依存の場合は、薬物を摂取するたびにドーパミンがシステムにあふれ、記憶を強化し、ほかの刺激をはるか後方へ押しやってしまう。動物実験から、コカインやアンフェタミンのような薬物は側坐核の樹状突起を著しく成長させてシナプスの結びつきを増やすことが確認されている。その変化は薬物をやめたあとも数か月から、ときには数年もそのまま残ることがある。依存症が再発しやすいのはそのためだ。依存症は、脳がなにかをあまりにも強烈に学びすぎた結果だといえる。そうした適応は悪循環を招き、たとえばフライドチキンのにおいを嗅げば必ず大脳基底核が自動的に反応するようになる。いくら分別のある人の前頭前野でも、その反応を止める力はない。 

衝動と戦い、習慣を断つ

ストレスが依存症と結びついているとき、依存物を断つと、体は生命の危険を感じる。たとえば、アルコール依存症の人が急にアルコールをやめるのはドーパミンの栓を閉めるのに等しく、視床下部-下垂体-副腎軸(HPA軸)のバランスが崩れる。依存物を断つことで生じる激しい不快感は数日で消えるが、脳のシステムは、それよりずっと長く不安定な状態に置かれる。そのようなデリケートな状態のときに、さらにストレスがかかると、脳はそれを緊急事態ととらえ、あなたにアルコールを飲ませようとする。禁酒をしていても、仕事で問題が起きたり、恋人と喧嘩したりするとまた飲み初めてしまうのはそのためだ。長く薬物に依存し、ドーパミン・システムが変わってしまっている人にとって、強いストレスに対処する最も効果的で、唯一知っている手段は薬物だ。だが、運動はもうひとつの解決策となる。

愛煙家の場合、激しい運動はたった5分でも効果がある。ニコチンは依存性物質のなかでも変り種で、刺激物でありながら同時にリラックス効果がある。運動すると、タバコを吸いたいという衝動を抑えることができる。それは、ドーパミンがスムーズに増えるのに加えて、タバコをやめようとする人が悩まされがちな不安な緊張、ストレスが抑えられるからだ。運動をすると、タバコへの渇望が50分間抑えられ、つぎに一服するまでの間隔が2倍から3倍に伸びる。さらに、運動には思考を鋭敏にする効果があることが、ここで意味をもってくる。なぜならニコチンを断つと集中力が低下するからだ。その証拠として、ある研究によると、グレート・アメリカン・スモークアウト(全米禁煙の日)には、通常より職場での事故が多いそうだ。わたしが診ているADHD患者の多くは、文書を書くときや難しい課題に向うときには、タバコを吸って集中力を高めている。そして、ニコチンが切れると集中も切れてしまう。』

ある依存症患者の物語

『彼女[ゾーエは重度のADHDで、攻撃的で、何度もひどいうつ病になり、さまざまな薬物依存症に苦しんでいた。驚いたことに、20年にわたってマリファナを常習していて、心を落ち着かせ集中するには、そうするほかはないと思い込んでいた]はときどき、サイクリング、ヨット、乗馬などをやっていたが、わたしは、定期的にできる運動をしてみてはどうかと勧めた。彼女の医学的知識を見込んで、運動すると脳の化学プロセスが変化して、気分や攻撃性や注意力、そして依存症をコントロールする回路を作り直すことができると説明した。ゾーエは、本書でも紹介した研究論文のいくつかに目を通し、毎日運動する気になった。そして、もう一度、マリファナを断った。「ほかに選択肢がなかったから」と彼女は言う。「どうしても、なにか手を打たなければならなかったのよ」

彼女が選んだのは、本格的なエアロバイクで、自転車競技者がバランス感覚を磨きスタミナを養うために使うものだ。高速で回転するドラムをこぎ、足をすべらせると弾き飛ばされかねない代物だ。ゾーエがなぜこれほど大変な運動を選んだのかはわからないが、それはすばらしい成果をもたらした。この自転車をこぐにはバランス感覚と正確さが求められ、それには小脳の運動中枢と大脳基底核から報酬中枢と前頭前野へ至る注意システム全体をはたらかせなければならない。「最初はいやいややっていたわ。こいでもどこへも行けないのだもの」とゾーエは言う。「でも今はとても重宝しているのよ。それに、運動になるだけでなく、集中できるからいいの。振り落とされないようにこぐのはドキドキするわ」

しかし、そんな折、薬物を断つにはそれだけでは足りないとでも言うのだろうか、しらふでいようとがんばっているゾーエを見捨てて、夫が出て行ってしまった。クリスマス直前のことだった。わたしは心配した。ゾーエも不安でいっぱいだった。「オランダの冬はとても寒く、とても暗いのよ」とeメールには書かれていた。「またうつになって、みじめな自分に逆戻りするんじゃないかと怖かったけれど、そうはならなかったわ。薬物を吸っていたときには負け犬のような気分だったけど、運動するようになってからは勝者のような気分になれたからよ

長年薬物に依存していた人の常で、ゾーエは今も不安定な状態にある。だが、間違いなく正しい方向に進んでいる。ゾーエはエアロバイクをこぐ距離を延ばそうとしていて、定期的にその記録を送ってくる。それに最近では縄跳びも始めたそうだ。彼女から届いた楽しそうな手紙の一部を紹介しよう。「たった今、10分間縄跳びをしたところ。心拍数は140。きついけどやらなくちゃね。これはすばらしいわ。だって、10分縄跳びをしたら、30分自転車をこいだときと同じような気分になれるんだもの。たぶん、つづけると思う。だってすぐに報酬が得られるんですもの!! これが、最近わたしがはまっている運動よ」』 

本格的なエアロバイクです。

画像出典:「Tubitak4007

 

脳と運動2

著者:ジョン J. レイティー

訳者:野中香方子

出版:NHK出版

初版発行:2009年3月

今回は第三章と第四章です。なお、目次については”脳と運動1”を参照ください。

第三章 ストレス ―最大の障害

ストレスを定義し直す

『ストレスには気が張っているという程度のものから、人生のごたごたにすっかり打ちのめされているというものまである。ひどくなると、ストレスに圧倒されて心が閉ざされ、普段ならなんでもない問題がとてつもない難問のように思えてくる。その状態が長びくと慢性のストレスになり、精神的な緊張が肉体的な緊張へと変わる。ストレスが体を攻撃し始めると、不安障害やうつ病といった本格的な精神疾患や、高血圧、心臓疾患などが引き起こされ、がんになるおそれもある。慢性のストレスは脳をずたずたにすることさえあるのだ。

これほどまでに曖昧なストレスという概念を、どう理解すればいいのだろう。それには、生物学的な定義を覚えておくといい。突き詰めれば、ストレスは体の均衡を脅かすものだ。体はそれを克服するか、それに適応しなければならない。脳で言えば、ニューロンの活動を引き起こすものはなんでもストレスとなる。ニューロンが発火するにはエネルギーが必要で、燃料を燃やす過程でニューロンは摩耗し、傷ついていく。ストレスという感覚は、基本的には脳細胞が受けているこのストレスが、感情に反響したものなのだ。

椅子から立ち上がることをストレスのもとだとは思はないし、そうしたからといってストレスは感じないだろう[健常者であれば]。けれども、生物学的に言えば、それも間違いなくストレスなのだ。もちろん、失業しそうなときのストレスとは比べものにならないが、実のところ、どちらの出来事も、体と脳の同じ回路を活性化させる。立ち上がるという動作は、その動きを調和させるためにニューロンの活動を促し、失業への恐れもニューロンの多様な活動を引き起こす。感情はすべて、ニューロンが信号を送りあって生まれるからだ。同じように、フランス語を習うことも、知らない人に会うことも、そして、筋肉を動かす動作の一切も、脳に負担を強いる。すべてある種のストレスと言える。脳にしてみればストレスは全て同じで、違うのはその程度だけなのだ

自慢話の類になりますが、『ストレスは体の均衡を脅かすものだ。体はそれを克服するか、それに適応しなければならない』という一文と277ページに出てくる『年をとると、体中の細胞がストレスへの適応力を失っていく』は、私にとってたいへん興味深いものです。

それは、ブログの”がんと自然治癒力13(まとめ)”の中で、自然治癒力を【ストレス適応と栄養代謝】と定義していたからです。本書の内容は、言い換えれば「ヒトはストレスを克服あるいは適応しないと、体の均衡が崩れ健康を害すが、それは体中の細胞レベルに関係している」ということと理解でき、健康にとってストレスに対する克服、適応が極めて重要な要因であると指摘しているからです。

ストレスはあなたを殺すだけではない

『よく知られているように、筋肉を増強するにはいったんそれを壊してから休ませる必要がある。同じことがニューロンについても言える。ニューロンにはもともと修復・回復のメカニズムが備わっていて、それは軽度のストレスで作用する。運動のすごいところは、筋肉の回復プロセスだけでなく、ニューロンの回復プロセスのスイッチも入れるところだつまり、運動すれば、心身ともに強く柔軟になり、難問をうまく処理し、決断力が高まり、うまく周囲に適応できるようになるのだ。

定期的に有酸素運動をすると体のコンディションが安定するので、ストレスを受けても、急激に心拍数が上がったり、ストレスホルモンが過剰に出たりしなくなる。少々のストレスには反応しないようになるのだ。脳では、運動によって適度なストレスがかかると、遺伝子が活性化してタンパク質が生成され、ニューロンを損傷や変性から守るとともに、その構造を強化する。さらに運動はニューロンのストレス耐性の閾値も上げる。

この細胞の「ストレス回復」作用には、酸化、代謝、興奮の三つの側面がある。

ニューロンが作動すると、代謝メカニズムのスイッチが入る。かまどに種火が入るようなものだ。グルコースがニューロンに吸収され、ミトコンドリアがそれをアデノシン三燐酸(ATP/細胞にとって主要な燃料)に変える。その過程では、ほかのエネルギー変換プロセスと同じく、廃棄物(フリーラジカル)が生じる。その廃棄物がもたらすストレスを「酸化ストレス」と呼ぶ。通常、細胞は酵素も生成し、それがフリーラジカルのような廃棄物を掃除する。フリーラジカルは細胞組織を破壊する悪質な電子をもつ分子で、酵素は、その電子の力を消そうと懸命に掃除しつづける。こうした保護的な酵素は、人間が生まれながらもっている酸化防止剤なのだ。

「代謝性ストレス」は、グルコースが細胞に入り込めなかったり、周辺に十分なグルコースがなかったりして、細胞がうまくATPを作り出せないときに起きる。

「興奮毒性ストレス」は、グルタミン酸の活動が活発すぎて、増加した情報の流れを支えるエネルギーをATPがまかないきれないときに起きる。この状態が長引くと、とんでもないことになる。ニューロンが死の行事を始めるのだ。ダメージを修復するための食糧も資源もないまま、ひたすらはたらかされ、樹状突起は縮み、最終的にニューロンは死に至る。これが神経変性で、アルツハイマー病、パーキンソン病などの疾病、さらに老化そのものの底流となるメカニズムだ。こうした疾病を詳しく研究した結果、体に本来備わっている。細胞ストレスへの対応策見つかった。』

『連鎖的に放出される修復分子のなかでもきわめて強力なのは、脳由来神経栄養因子(BDNF)インスリン様成長因子(IGF-1)線維芽細胞成長因子(FGF-2)血管内皮成長因子(VEGF)などの成長因子だ。これらについては第二章で説明した。とくにBDNFは、エネルギー代謝とシナプス可塑性の両方で役割を担っているので、ストレスを研究する者にとって興味深い因子だ。BDNFはグルタミン酸によって間接的に活性化され、細胞のなかで抗酸化剤と保護タンパク質の生成量を増やす。また、先に触れたように、LTP(長期増強)を促進して新しいニューロンを成長させ、脳をストレスに対して強くする。脳のストレス耐性を強める手段として運動が望ましいのは、それがほかのどんな刺激よりはるかに多く成長因子を増やすからだ。FGF-2VEGFは、脳内で生成されるだけでなく、筋肉の収縮によっても生成され、血流によって脳に運ばれ、さらにニューロンを支援する。このプロセスは、体がどのように心に影響を及ぼすかをよく示している。

【ご参考】過去ブログ:"がんと自然治癒力9

ノーベル賞生物学者、ブラックバーン博士の著書にも、運動と回復に関する記述があります。  


【ご参考】過去ブログ:"代謝と恒常性(ホメオスタシス)

こちらの本の中に、”総まとめ代謝マップ”というものが出ているのですが、これを見ると代謝が大変複雑なものであることが分かります。

また、ブログでは白木先生の「生物科学入門 -代謝・遺伝・恒常性-」という本もご紹介しているのですが、白木先生は、“生物とは何か”という問いに対して、代謝、遺伝、恒常性の三つに集約できる。とお話されています。

 

【ご参考】過去ブログ:"活性酸素シグナルと酸化ストレス

明らかに背伸びをした難しいブログですが、後半に「酸化ストレス」に関する記述があります。  

ストレスを燃やし尽くす

『脳の機能は情報をひとつのシナプスから別のシナプスへと伝えることであり、それにはエネルギーが必要とされることはすでにおわかりいただけただろう。そして、運動は代謝に影響するため、シナプスの機能、ひいては思考や感情に影響を与える強力な手段となることもご理解いただけたと思う。運動は全身を流れる血液とグルコースの量を増やす。いずれも細胞にとってなくてはならないものだ。より多くなった血流はより多くの酸素を運び、細胞はその酸素を使ってグルコースをATP(アデノシン三燐酸)に変換し、栄養源にする。運動中、脳のなかで血液の流れが前頭葉から大脳辺縁系へとシフトする。そこにはこれまでに何度も登場した偏桃体と海馬がある。おそらくそこに優先的に血流が送られるせいで、研究によってわかったように、激しい運動をしているあいだは高度な認知機能がはたらきにくいのだろう。

運動後に起きる変化によって脳は最高の働きをするようになる。闘争・逃走反応が起きる閾値が上がるだけでなく、先に述べたニューロンの回復プロセスが促されるからだ。運動によって細胞内のエネルギー生産はより効率的になり、有害な酸化ストレスを増やすことなく、ニューロンが必要とする燃料を供給できるようになる。廃棄物(フリーラジカル)も生じるが、それを処理する酵素も作られる。もちろん、DNAの残骸や細胞の分裂や老化による副産物を片づける清掃サービスもある。この酵素と清掃サービスは、がんと神経変性の発生を防ぐと考えられている。また、運動はストレス反応を誘発するが、それほど極端でなければ、システムがコルチゾールであふれかえることはない。

運動することでエネルギー利用の効率が上がるのは、ひとつにはインスリン受容体の生産が促されるからだ。体内の受容体数が多いと、血糖はよりうまく利用され、細胞は強くなる。受容体がそこにあるということは、その効率のよい新たなシステムが定着したことを意味する。定期的に運動し、インスリン受容体の数を増やしておくと、血糖値が下がったり、血流が不十分だったりしても、細胞は血液から無理矢理にでも十分なグルコースを取り出して活動をつづけることができる。また、運動するとIGF-1は海馬のなかでLTP(長期増強)を促進して、ニューロンの可塑性を高め、ニューロン新生を促している。運動はそういう形でもわたしたちのニューロンの結びつきを強めているまた運動は、FGF-2とVEGFも生成する。この二つは脳のなかに毛細血管を新しく作り、その血管網を拡大する。幹線道路が広くなり、数も増えれば、血液はよりスムーズに流れるようになる。

同時に、有酸素運動はBDNFの分泌量を増やす。これらの因子が協力しあって脳の活動を活発にし、慢性ストレスの有害な影響に負けないようにしている。それらはまた、細胞の修復プロセスを開始するだけでなく、コルチゾールが増えすぎないよう監視し、必要に応じて神経伝達物質セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンを増やす。

力学的なレベルでいえば、運動は筋紡錘(筋肉のなかにある張力センサー)の静止張力を緩めることで脳にフィードバックされるストレスを撃退する。体が緊張していなければ、脳は自分もリラックスしてもいいだろうと判断するわけだ。長期的に規則正しく運動すれば、心血管系の効率がよくなり、血圧が下がる。心臓専門医は近年、心臓の筋肉で生成される心房性ナトリウム利尿ペプチド(ANP)というホルモンが、HPA軸にブレーキをかけ、脳の騒音を鎮めて体のストレス反応を直接抑えることを発見した。ANPの興味深い点は、運動によって心拍数が上昇するにつれ量が増えることで、おそらくANPも運動によって心と体のストレス反応が緩和される一因となっているのだろう。』

【ご参考】過去ブログ:"自律神経失調症

脳とストレスの関係について書かれています。

【ご参考】過去ブログ:"がんと自然治癒力8

長文のブログですが、最後の方に「HPA軸」に関する記述があります。ここではその一部をご紹介させて頂きます。なお、「もう一つの防衛システム」とは免疫系になります。

身体を守るための二つの防衛システム

『多細胞生物では、神経系が、成長・増殖あるいは防衛反応をコントロールしている。環境からのシグナルをモニターし、解釈し、適切な行動で応答するように指揮するのが神経系の役割である。多細胞生物は多くの細胞からなる共同体であり、神経系は、脅威になるような環境からのストレスを認識すると、細胞の共同体に対し、危険が迫っているという警告を発する。

わたしたちの身体には、実際には、二つの異なる防衛システムが備わっている。どちらも生命維持に必要不可欠なものだ。一つは、“外部”からの脅威に対して防衛反応を引き起こすHPA系(Hypothalamus-Pituitary-Adrenal Axis)というもので、視床下部・脳下垂体・副腎という三つの部分が連携して働くシステムである。

脅威となるものがないときはHPA系は活動せず、体内では成長・増殖活動が盛んに行われる。環境内の脅威が知覚されると、視床下部がHPA系を発動させ、脳下垂体にシグナルを送り出す。脳下垂体は「内分泌腺の総元締め」ともいえる部分で、50兆個からなる細胞の共同体の態勢を整えて、差し迫った危機に対応できるようにする。』

第四章 不安 ―パニックを避ける

証拠

『有酸素運動をすれば、不安がたちまち解消されるという事実は、ずいぶん昔から知られている。しかし、研究者がその仕組みを突き止めようとし始めたのはごく最近になってからだ。

運動すると体の筋肉の張力が緩むので、脳に不安をフィードバックする流れが断ち切られる。体の方が落ち着いていれば、脳は心配しにくくなるのだ。また、運動によって起きる一連の化学反応には気持ちを落ち着かせる効果がある。筋肉がはたらき始めると、体は燃料を供給しようと脂肪を分解して脂肪酸を作り、血液中に放出する。この遊離脂肪酸は血液中を移動する際の乗り物にするために、トリプトファン(8種類の必須アミノ酸のひとつ)と結合していた輸送タンパク質(アルブミン)を奪い取る。身軽になったトリプトファンは、浸透圧差に導かれて血液・脳関門をやすやすと通り抜け、脳に入っていく。そしてたちまち、われらが友、セロトニンの構成材料になる。トリプトファンだけでなく、運動によって増えた脳由来神経栄養因子(BDNF)もセロトニンを増やし、わたしたちを落ち着かせ、安心感を高める。

運動はガンマアミノ酪酸(GABA)分泌も引き起こす。GABAは脳の主要な抑制性神経伝達物質で、ほとんどの抗不安剤はそれに照準を合わせている。不安を自ら引き起こそうとする脳の動きを細胞レベルで食い止めるには、GABAの量を正常に保たなければならない。GABAは脳で起きる強迫観念に駆られたフィードバックの連鎖を断ち切ることができるのだ。また、運動することで心臓の鼓動が速くなると、心筋細胞が心房性ナトリウム利尿ペプチドを(ANP)というホルモンを生成し、過度の興奮にブレーキをかける。ANPは体がストレス反応を抑えるために使う道具となる。これについてはあとで詳しく説明しよう。

有酸素運動は不安障害のどんな症状も大幅に和らげることを数多くの研究が示している。さらに、運動は健康な人が普段の生活で感じる不安も和らげられる。2005年、チリの高校生のグループを対象として、9カ月にわたって運動が心と体に与える影響を測定するという興味深い研究がなされた。15歳以上の高校生198名を二つのグループに分け、一方には週三回、90分の激しい運動させ、対象グループは週に一度、通常の体育の授業を90分、受けさせた。本来この研究の目的は、運動と一般的な気分の変化の関連を測ることだったが、心理テストでは不安に関する値がひときわ目を引いた。激しい運動をしたグループの不安度は14%下がったが、対照グループはわずか3%下がっただけだ(3%はプラセボ効果によるものとして統計上無視できる数字だ)。健康レベルは実験グループが8.5%向上したのに、対照グループが1.8%の向上にとどまった。もちろんそれも偶然ではない。明らかに、運動の量と不安の度合には関連があるようだ。』

失われたつながり

『ヒポクラテスの時代には、感情は心臓から生まれるものであり、精神の病の治療は心臓から始めるべきだ、と考えられていた。現代医学は心と体を切り離したが、ヒポクラテスは正しかったことが近年、具体的に明らかにされている。心臓から生まれる分子が人間の感情にどのようにはたらきかけるかを科学者が理解し始めたのは、ここ10年ほどだ[ご参考:本書の初版は2009年]

運動すると心筋から心房性ナトリウム利尿ペプチド(ANP)が分泌され、それは血流に乗って脳まで送られ、血液・脳関門を通り抜ける。脳に入ったANPは海馬の受容体にくっついてHPA軸の活動を調整する(ANPは、脳内でも青斑核や扁桃体のニューロンで生成・分泌される。青斑核も扁桃体もストレスと不安に関して重要な役割を担っている)。動物および人間の実験によってANPには鎮静効果があることがわかっていて、研究者は、運動が不安に作用するのは主にANPのはたらきによるものだと考えている。2001年、不安におけるANPの役割を実証しようとする初期の研究では、不安障害の患者でパニック障害のある人とない人のグループを比較した。彼らは無作為にANPかプラセボのどちらかを注射され、その後、コレシストキニン・テトラペプチド(CCK-4)と呼ばれる消化管ホルモンを注射された。CCK-4は不安とパニックを誘発する。どちらのグループもANPによってパニック発作が大幅に軽減したが、プラセボではそうならなかった。

パニック発作のあいだ、副腎皮質刺激ホルモン放出因子(CRF)が急増する。CRFは自ら不安を誘発するとともに、神経系をコルチゾールであふれさせる。ANPは人間を混乱させようとするCRFの企てを防いでいるらしい。HPA軸にはたらきかけるブレーキのようなものだ。女性を対象にしたいくつかの研究により、妊娠中はANPのレベルが3倍になることがわかった。成長中の胎児の脳を、ストレスと不安の有害から守るために生来備わっている戦略なのだろう。

重症の心疾患の患者を対象とする研究では、ANP値が高い人は不安値が低かった。不安障害の人はいなかったが、医師たちは彼らの不安に関心を寄せていた。というのも、不安の有無が術後の回復に大きく影響するからだ。ANPは、アドレナリンの流れをせき止めて心拍数を下げることで交感神経系の反応を直接鈍らせる。また、すばらしいことに、ANPは不安という感覚も緩和するらしいのだ。パニック障害の発作が頻繁な人は、血液中のANPが不足気味だとわかっている。』

脳と運動1

脳性まひ児への施術を考えるうえで、繰り返し出てきた「脳の可塑性」とは「脳は変わる」ということです。

ブログ"アナット・バニエル・メソッド1"は"限界を超える子どもたち 脳・身体・障害への新たなアプローチ"という本を題材としたものですが、その本の中には、脳神経学者のマイケル・マーゼニック先生が"本書によせて"というタイトルで、脳の可塑性について語った文章があります。 

『アナット・バニエルのアプローチは、特別な支援を必要とする子どもたちとの豊かな実践から生まれました。彼女は子どもたちの脳が変わっていくことができるのを繰り返しみてきました。子どもたちは人生に目覚め、能力を獲得し、力強く生き方を変えていきました。私たちの脳には「可塑性」があります。一生を通じて脳は変化しつづけます。

~ 中略 ~ 私は長年、「再構築する脳」の力を子どもや大人に役立てる方法を解明したいと、科学の分野で取り組んできました。数十年の研究を経て、私たち科学者は神経科学の観点から脳の可塑性を支配する「法則」を明らかにしました。そして、よりよい変化をもたらすためには脳はどのように働かせるのがよいかがわかってきました。

何をしたら脳の可塑性は進むのだろう?

という疑問から本を探していたときに、見つけたのが今回のブログの題材である"脳を鍛えるには運動しかない”という本でした。

著者:ジョン J. レイティー

訳者:野中香方子

出版:NHK出版

初版発行:2009年3月

原書の題名は『SPARK』でした。

ここには、「脳を発火(スパーク)させて生気(スパーク)を取り戻そう」という意味が込められているそうです。

この本の評価の中には「論文の情報がない」というご意見もあり、少し気になったため、ジョン J. レイティー先生についてネット検索してみました。 

John J. Ratey MD, is an associate clinical professor of Psychiatry at Harvard Medical School and an internationally recognized expert in Neuropsychiatry. 

画像をクリックして頂くと、レイティー先生のFacebookに移動します。なお、画像は「APEX BRAIN CENTERS」さまより拝借しました。

 

 

本書の最後に『1998年から毎年[初版発行は2009年]、同業者の選出による全米ベスト・ドクターのひとりに選ばれ続けている。』という記述があったため、調べて見ると日本を含め12カ国で展開されているものでした。ホームページの右上にある小さなフィールドで国名を選ぶことができます。 

本書の中には個別の参照論文に関する表記はないのですが、”第十章 鍛錬 ―脳を作る” の中に次のようなことが書かれていました。

『わたしが強調したかったこと―運動は脳の機能を最善にする唯一にして最強の手段だということ―は、何百という研究論文に基づいており、その論文の大半はこの10年以内に発表されたものだ。 

ブログは最初に目次をご紹介していますが、黒太字になっている項目が取り上げたものです。なお、「第九章 加齢 ―賢く老いる」の中の「いかに年をとるか」以外はいずれも内容の一部です。

また、ブログは4つに分けており、今回の“脳と運動1”の対象は序文と第二章になります。 

目次

序文 結びつける

第一章 革命へようこそ ―運動と脳に関するケーススタディ

 トップクラスの成績

 新しい体育

 たいまつを掲げる

 新しいステレオタイプ「賢い運動選手」

 体にいいことは、脳にもいい

 まったく新しい球技

 先駆者についていこう

 フィットネスを超えて

 教えを広める

第二章 学習 ―脳細胞を育てよう

 メッセンジャー役の物質たち

 学ぶことは成長すること

 最初のひらめき

 環境要因と脳

 可塑性を伸ばす

 体と心の関係

 こんな運動をしよう

第三章 ストレス ―最大の障害

 ストレスを定義し直す

 ストレス免疫をつけよう

 警報システム

 燃料を燃やす

 知恵

 本能と戦う

 ストレスはあなたを殺すだけではない

 もうたくさん!

 ストレスの有害作用

 ストレスを燃やし尽くす

 心を守るものが体も守る

 こんな運動をしよう

第四章 不安 ―パニックを避ける

 エイミーのケース

 防衛

 証拠

 恐れを恐れる

 パニックの苦しみ

 苦しみ抜いて

 失われたつながり

 恐怖に向かって走れ

 恐怖から走って逃れる

 こんな運動をしよう

第五章 うつ ―気分をよくする

 新しいブーム

 収束する生化学回路

 本物のテスト

 最高の処置

 論理の穴

 裏にある結合

 絆を断つ

 トンネルを抜ける 

 こんな運動をしよう

第六章 注意欠陥障害 ―注意散漫から脱け出す

 とてつもない注意散漫

 問題の兆候

 大々的に、しかも曖昧に、やり遂げる

 全コントロール・ユニット、注目!

 初期の手がかり

 エクササイズに集中する

 脳を関与させる

 典型的な事例

 こんな運動をしよう

第七章 依存症 ―セルフコントロールのしくみを再生する

 不当な報い

 ふたたび自立する

 ドーパミンへの渇望

 衝動と戦い、習慣を断つ

 ある依存症患者の物語

 ランナーズハイ

 よいものにこだわる

 空の容器を満たす

 こんな運動をしよう

第八章 ホルモンの変化 ―女性の脳に及ぼす影響

 PMS―自然な変動

 バランスを回復する

 妊娠―動くべきか、動かざるべきか

 赤ちゃんのことをお忘れなく

 産後のうつ―青天のへきれき

 元の自分に戻る

 閉経―大きな変化

 運動補充療法

 こんな運動をしよう

第九章 加齢 ―賢く老いる

 すべてをひとつに

 いかに年をとるか

 認知力の衰え

 感情が乏しくなる

 認知症

 人生のリスト

 母の教え

 食事―軽く、体にいいものを食べよう

 運動―規則正しくつづけよう

 頭の体操―学びつづける

第十章 鍛錬 ―脳を作る

 走るべく生まれついている

 ウォーキング

 ジョギング

 ランニング

 非有酸素運動

 やり通すこと

 大勢でやればなおよい

 柔軟性を保つ

あとがき 炎を大きくする

序文 結びつける

わたしが目指すのは、運動と脳をつなぐ驚きに満ちた科学を分かりやすい言葉で語り、それが人間の生活にどのような形で現れるかを示すことだ。そして、運動が認知能力と心の健康に強い影響力をもっているという認識を確かなものにしたい。運動は、ほとんどの精神の問題にとって最高の治療法なのだ。

『最も見習うべき事例は、診察室の壁を越えたはるか先、シカゴ郊外の学区で見つかった。その学区で展開された画期的な体育プログラムは、今わたしが述べてきた刺激的で新しい研究と深く結びついている。イリノイ州ネーパーヴィルで取り入れられた体育の授業は、19,000人の生徒を、おそらく米国一健康にした。ある高二のクラスでは、太りすぎの生徒は3%しかいない。国の平均は30%だ。さらに唖然とさせられるのは、そのプログラムによって、学区の生徒が国内有数の頭のいい生徒へと変身したことだ。』

本書の序文の中で紹介されている、米国イリノイ州ネーパーヴィルで実施された体育プログラムに関しては、ツインデンタルクリニックさまの「健康ブログ」に、”ネーパーヴィルの奇跡”という題名で、概要が簡潔にまとめられていました。

英文の記事もありました。タイトルは"One Small Change Turned These 19,000 Students Into the Fittest and Smartest in the US"です。なお、こちらは「ORTHODOX UNION」というサイトに掲載されていました。

第二章 学習 ―脳細胞を育てよう

メッセンジャー役の物質たち

『グルタミン酸は脳の馬車馬となってはたらいているが、精神医学がそれよりも重視するのは、脳の信号操作とすべての活動を調整している一群の神経伝達物質だ。すなわち、セロトニンノルアドレナリン、そしてドーパミンである。それらを作り出すニューロンは、脳におよそ1000億個あるニューロンの1パーセンントにすぎないが、影響は甚大だ。ニューロンに命じてもっとグルタミン酸を作らせたり、ニューロンがより効果的に情報伝達できるようにしたり、受容体の感度を変えたりする。また、余計な信号がシナプスに伝わらないようにして脳内の「雑音」を小さくしたり、逆にほかの信号を増幅したりもする。グルタミン酸やGABAのように信号を送ることもできるが、その第一の役割は、情報の流れを調節して、神経化学物質全体の調整をすることだ。

あとの章で詳しく述べるが、セロトニンは脳の機能を正常に保つはたらきをしているので、よく脳の警察官と呼ばれる。セロトニンは、気分、衝動性、怒り、攻撃性に影響する。フルオキセチン(商品名プロザック)のような選択的セロトニン再取り込み阻害薬を使うのは、うつ病や不安障害、強迫神経症の原因となる脳の暴走をそれが抑えるからだ。

ノルアドレナリンは、気分について理解するために研究された最初の神経伝達物質で、注意や知覚、意欲、覚醒に影響する信号をしばしば増強させる。

ドーパミンは学習、報酬(満足)、注意力、運動に関係する神経伝達物質と見られており、脳の部位によって正反対の役割を果たすこともある。塩酸メチルフェニデート(商品名リタリン)は、ドーパミンを増やして気持ちを落ち着け、注意欠陥・多動性障害(ADHD)を緩和する。

精神の状態を改善するために用いる薬のほとんどは、これら三つの神経伝達物質のひとつか、あるいは複数にはたらきかける。だが、ここではっきりさせておきたいのは、そのシステムは非常に複雑なので、どれかを増減すれば決まった結果が出るわけではないということだ。ひとつの神経伝達物質を操作すると、その影響は連鎖的に広がっていき、人によって現れる効果は違ってくる。

耳鳴り

耳鳴り保有者となって約7年です。いつもジージーいっているのですが、寝る前に「今日もけっこう鳴ってんなぁ~」などと思う程度で放置状態が続いています。鍼灸師なので、たまに思いついたように頭や耳周辺に刺鍼してみるのですが、“気”が入っていないためか、「無理じゃない?」などとネガティブに思っているためか、効く気がしません。

耳鳴りの患者さまがいないのもノンビリ構えている理由です。しかしながら、耳鳴りの患者さまが来るかも知れず、私自身のジージー・シャーシャー・キーンも無くなることに越したことはありません。

そこで、「何はともあれ、耳鳴りが何者か知ろう」ということで1冊の本を購入しました。ブログは目次をご紹介した後、耳鳴り患者の私が自分のために重要と感じた項目を7つ取り上げ、要点と思われる箇所を箇条書きにし、さらにその項目ごとに付いている分かりやすい図を貼り付けました。また、いくつか調べたことなども付け足しました。

そして、この本を拝読した結果、考えられる私の耳鳴りの原因は、①ストレス(特に長期にわたる睡眠の質の低下)、②騒音(テレビのボリュームを37にしていることが多い)、③老化 の3つではないかと考えました。

著者:渡辺繁

出版:幻冬舎

初版発行:2017年12月

 

はじめに

第1章 脳腫瘍、高血圧症……耳鳴りを放置すると命にかかわることもある

 日本人の約2割が耳鳴りに悩ませている

 「本当は怖い耳鳴り」と怖くない耳鳴り

 「持病だから」と放置していると危険

 耳鳴りはめまいと一緒に生じることが多い

 市販の薬で症状は根治しない

 舌がもつれたり二重に見えたりしたら注意

 【コラム】耳鳴りの危険度について

第2章 耳鳴りが発症するメカニズム

 聴覚系に障害が起こると症状が起きる

 片側の耳に突然起こる「突発性難聴」

 大音量が原因の「騒音性難聴・音響外傷」

 高齢者の耳鳴りの多くは「難聴」が原因

 女性に多いのは「メニエール病」

 耳垢が外耳道を塞ぐことによって起きる耳鳴り

 痛みがなく放置しがちな「滲出性中耳炎」

 外リンパ液が中耳に漏れ出す「外リンパ瘻」

 脳が「過敏」になることで症状が誘発される

 意外と多い「片頭痛」による聴覚過敏

 死の危険も…「脳梗塞」「脳出血」「脳腫瘍」

 耳鳴りが原因で「うつ病」になることも

 【コラム】耳と脳とのあいまいな境界

第3章 薬物療法、音響療法、心理的アプローチ……原因によって異なる「耳鳴り治療」

 耳鼻科で行われる耳鳴りの検査

 種類や音の大きさだけでは重症度を決められない

 総合病院の医師は耳鳴りに無関心なことが多い

 生活困難度を測るアンケート「THI」が重要

 問診では耳鳴り以外の症状を伝えることが大事

 耳鳴りが原因で「不眠」に悩まされる人が多い

 「消える」耳鳴りと「治る」耳鳴りがある

 消える耳鳴りは「伝音系」の障害によるもの

 「感音系」の障害は耳鳴りそのものを治す必要がある

 耳鳴りのかげには難聴が隠れていることが多い

 心身のつらい症状を軽減する薬物療法

 耳鳴りを気にならなくする音響方法

 カウンセリングと補聴器による「TRT療法」

 心因性の障害を軽減するカウンセリング

 音圧を聴く「中耳加圧療法」で鼓膜マッサージ

 光と電気の「キセノン温熱療法」で血行を促す

【コラム】心の問題とどう向き合うか

第4章 専門医の治療と組み合わせて早期の症状改善を目指す自宅でできる耳鳴り改善のための生活習慣

 1日7000歩のウォーキングで動脈硬化を予防

 こまめに水を飲んで内耳の水はけをよくする

 生活リズムの乱れは耳鳴りの原因になる!

 「週末に寝だめ」はNG。規則正しい睡眠を!

 眠れないときは静かな音楽をかけるとよい

 自分の生き方に向き合ってストレスをコントロール

 リラックス効果の高い入浴法で心身を癒す

 音楽のある生活が耳鳴りを軽減するという事実

 「考え方」を変えるだけでも耳鳴りはよくなる

 食べすぎを避け「腹八分目」の食生活を守る

 カフェインを含む飲み物や香辛料は控えめに

 ビタミンB12の多いレバーや貝類などの食品を摂る

 お酒はほどほどにし、タバコはきっぱりやめる

 難聴が原因の耳鳴りの人は補聴器を使うと快適に

 【コラム】耳鳴りと生活習慣予防

第5章 耳鳴りの原因・治療法を正しく理解し、症状に悩まされない日々を手に入れる

 私たちの「脳」は一部の音だけを選んで聞いている

 耳鳴りは「脳」が信号の変化に戸惑っている状態

 「苦痛を感じる脳」がさまざまな症状を生み出す

 3つのアプローチで「脳の悪循環」を断ち切る

 過敏になった「脳」が慣れてくれれば耳鳴りは治る

 【コラム】もっと補聴器に親しみを

大音量が原因の「騒音性難聴・音響外傷」

●耳鳴りには騒音のある場所で長期間をすごし、徐々に進んでいく両側性の「騒音性難聴」がある。

●爆発のような大音響によって起こる「音響外傷」による耳鳴りは両側性と片側性がある。

画像出展:「耳鳴りの原因と治療法」

 

高齢者の耳鳴りの多くは「難聴」が原因

●50歳代を過ぎて、「キーン」という高音の耳鳴りは老化現象による難聴の可能性がある。

●「老人性難聴」は音を電気信号に変える内耳の機能が、低下してくることが原因である。

「老人性難聴」に伴う耳鳴りの完治は非常に難しい。耳鳴りに慣れることが求められる。

画像出展:「耳鳴りの原因と治療法」

 

耳鼻科で行われる耳鳴りの検査

●ティンパノメトリー(ティンパノグラム)

ティンパノメトリーは、鼓膜がうまく振動しているかどうかを調べる検査。

●オーディオグラム(純音聴力検査)

オーディオグラムは「気導聴力」と「骨導聴力」を測定し、2つの検査結果から難聴の種類を判定する検査。

●固定周波数ピッチマッチ検査

ピッチマッチ検査とは、患者さんが感じている耳鳴りの音の高さを調べる検査。

●連続周波数ピッチマッチ検査

さらに詳しく耳鳴りの高さを調べるのが連続周波数ピッチマッチ検査。

●ラウドネスバランス検査

耳鳴りの音の大きさを調べるのがラウドネスバランス検査。

画像出展:「耳鳴りの原因と治療法」

 

ここで、ためしに“固定周波数ピッチマッチ検査・さいたま市・耳鼻科”で検索してみたところ、「耳鳴り外来」というものがあるのを知りました。 

こちらは、「耳鳴り外来」がある兵庫県西宮市の星野耳鼻咽喉科さまのサイトです。耳鳴りに関する情報が満載です。

そこで、次に“耳鳴り外来”で検索してみました。するとデンマークの補聴器メーカーであるワイデックスさまのサイトに「耳鳴りの専門的外来を実施している医療機関」という病院を紹介されているページがありました。なお、このページは”2018年9月6日現在”となっています。

このページには、ブログ“めまい”にも登場された、さいたま市のとくまる耳鼻咽喉科さまが掲載されていました。念のため、どのような検査を行っているのか調べてみると、“THI(質問票)”で現状を把握し、“標準純音聴力検査”と“ティンパノメトリー”を用いて検査を行っているようです。

なお、上記の星野耳鼻咽喉科さまも、「耳鳴りの専門的外来を実施している医療機関」の中にありました。

「消える」耳鳴りと「治る」耳鳴りがある

●耳鳴りには病気の治療とともに消失するものと、消失はしないけれど気にならなくなるものがある。

音の振動を伝える伝音系の器官(外耳や中耳)に原因がある耳鳴りは消える場合が多い。

音の振動を電気信号に変えて伝える感音系(内耳から脳神経にかけて)に原因がある耳鳴りは消えにくい。

原因不明の耳鳴りや加齢に伴う耳鳴りは、消えるということはあまり期待できない。

なお、「治る耳鳴り」とは、耳鳴りに慣れ気にならなくすることを目指すものです。

画像出展:「耳鳴りの原因と治療法」

 

消える耳鳴りは「伝音系」の障害によるものある

●伝音系の障害には、外耳道をふさぐ耳垢栓塞や鼓膜の動きを悪くする中耳炎、耳管狭窄症などがある。

画像出展:「耳鳴りの原因と治療法」

 

「感音系」の障害は耳鳴りそのものを治す必要がある

●感音系の障害は加齢による機能低下や、騒音ダメージなどなんらかの原因で「有毛細胞」の働きが低下したためと考えられる(有毛細胞:内耳に存在している蝸牛管の壁にあるコルチ器の中の感覚細胞)。

●感音系の耳鳴りは、蝸牛で生じた電気信号を伝える「聴神経」や、信号を受け取る脳の「聴覚中枢」の機能が低下しても起こる。

画像出展:「耳鳴りの原因と治療法」

 

こまめに水を飲んで内耳の水はけをよくする

内耳の水分代謝は脱水状態のときなどに悪くなりがちであり、そのために耳鳴りが起こる場合もある。水分摂取はこまめに飲むことがポイント。

●メニエール病では、北里大学医学部の長沼英明教授が推奨している「水分摂取療法」は大きな効果を上げている。

脳卒中のリハビリテーション

業務委託による訪問の仕事では、脳梗塞や脳血管障害による後遺症のため、日常生活に大きな支障を抱えている患者さまやベッドから起き上がることができない患者さまに、マッサージや関節拘縮予防のための他動運動(施術者が可動域確保のため適切な強度で各関節を動かす)、歩行支援などを行っています。

もっと効果的な施術はないだろうかという思いから、『脳がよみがえる 脳卒中・リハビリ革命』という本を読んだことがありましたが、この本は2011年9月4日放送の“NHKスペシャル”の書籍版になります。

『約280万人にのぼる脳卒中患者、医療の発達で命を落とすケースは減ったものの、マヒの問題は深刻で、介護が必要になる原因の第一位だ。解決にはリハビリが重要だが、発症後6ヶ月を超えたあたりから効果が落ちるとされてきた。しかし最近、脳科学の急速な発達により、傷ついた脳が再生するメカニズムが次第に明らかになり、時間を経過した患者でも、マヒを改善する手法が発見されている。リハビリの効果を上げる誰でも出来る意外な方法や、脳波とマシンを連動させる最新科学まで、脳卒中リハビリの最前線で起きている急激な変化を取材、人間の脳に秘められた驚きのパワーに迫る。』

著者:市川衛

出版:主婦と生活社

発行:2011年9月

 

右下に→の説明書きがありますが、下2つの矢印(「目標」の神経細胞の発火・意図した運動の実現)の色は本来、赤→になっているべきものだと思われます。

以下の4つのイラストは脳卒中になった時に起こるからだの変化です。3つめのスライド(下段左)には脳卒中になると通行止めが外れ、脇道を通れるようにとの解説がついているのですが、そのようなメカニズムが備わっているとは驚きであり、大きな発見でした。

画像出展:「脳がよみがえる 脳卒中・リハビリ革命

 



そして、今回読んでいる『脳の中の身体地図』の中にも脳卒中の麻痺について書かれた箇所がありました。ここに書かれている内容は脳のリハビリテーションへの理解を深めるうえで価値があると思います。 

著者:サンドラ・ブレクスリー、マシュー・ブレクスリー

出版:インターシフト

発行:2009年4月

 

脳卒中による麻痺の回復 

『スコット・フライには人生をかけた使命がある。多発性硬化症を患いながらも女手ひとつで育ててくれた母親が、麻痺が首から下まで進んだために人生の最後の14年を車椅子で過ごす姿を、彼は目の当たりにしてきた。「神経科学者の卵である僕が付いていながら、何ひとつできなかった」とフライは言う。

しかし、今はもう違う。実験心理学者としてのキャリアのギアを入れ直したフライは、2004年、ダートマス大学からオレゴン州立大学に移り、現在はリハビリテーション神経科学センターの設立に全力を注いでいる。要するに、脳の働きに関する最新知識を活かして、脳卒中や脊髄損傷、四肢切断後の人々を起き上がらせ、動かそう、大勢の人々を車椅子の生活から解放しようとしているのだ。彼の目標は、“朝が待ち遠しくなるようなことにする”ことだそうだ。

フライがまず目を向けたのは脳卒中患者である。脳卒中は、動脈内の血栓や動脈瘤破裂が原因で、脳の一部への血液供給が断たれた場合に起こる。問題の動脈が栄養を運んでいた脳領域は、酸素の供給を受けられなくなるため、崩壊ないしは損傷の道をたどる以外にない。標準的な治療法は“経過観察”だ。数日あるいは数週間後に、脳の損傷の程度を調べるわけである。損傷を負った脳の領域によって、麻痺や失明、言葉を話せない、理解できない、道具を使ったり見分けたりできない、身体の周りの空間を認識できないといった障害が現れる。損なわれた、あるいは失われたボディ・マップとかかわりのある特異な欠損症状がいくらでも出てくる可能性があるのだ。

もちろん、もうおわかりのように、大人の脳にも可塑性がある。新規な事物や練習、損傷に応じて、それに適応するように自らを再構築することができるのだ。先ほど紹介したのとは別の、マーゼニック[マイケル・マーゼニック(脳科学者)]の初期の実験のひとつが、そのことを証明している。この実験では、サルの脳にある別の腕のマップを傷つけたが、それに対応する腕は無傷のままにしておいた。すると、サルが腕を使い続けるうちに、マップが元の状態に戻ったのだ。大勢の脳卒中患者が、すべてとは言わないまでも、ある程度は運動機能を取り戻せる理由がここにある。時間が経てば、脳の損傷したマップは再構築される可能性があるということだ。

脳卒中患者は普通、脳固有の可塑性が本来の仕事をするのを容易にし、促進するための理学療法と作業療法に一か月を費やす。これは、何かの動作―たとえば、ドアノブに手を伸ばす、カップを持ち上げる、ボールを握るといった―を幾度も繰り返しているうちに、既に学習していることを補強する新しい神経接続が育ってくるという発想だ。理学療法の目的は、神経可塑性のメカニズムを後押しして、機能マップを回復させることにある。この再マッピングのプロセスを改善するために、ありとあらゆる新技術や手法が開発されている。“悪いほうの腕”を使わざるを得なくするために、“良いほうの腕”をストラップで固定してしまう方法、麻痺した腕や脚の存在を脳に“実感”させるために、腕や脚に電気刺激を与える方法、繰り返し運動を続けてもけっして疲れることのないロボット装置に使い物にならなくなった腕や脚をストラップで固定する方法などなどだ。

しかし、半年が過ぎると、部分的であれ完全であれ、回復しない患者はほぼ例外なく、あきらめて自分の限界を受け入れるほうがよいとアドバイスされる。もう良くなる見込みはないと言われる。それが現実だ。ただし、フライを知らなければの話である。脳卒中後の麻痺を回復に向かわせるか改善するには運動イメージが役立つと、フライは考えている。一次運動マップ―脊髄を下って身体を動かす指令を発するマップ―は、運動イメージを行っている間は一時的にオフラインになることを思い出していただきたい。ところが、高次の運動マップは、その間もフル回転で働き続け、あなたがイメージしている動作をきちんとエミュレート(訳注:ある機能を本来とは異なる手段で再現すること)している。

脳卒中患者のこうした高次運動野のマップが損なわれておらず、健全であるかどうかを確認するための手段として、フライは一連の暗示的な運動イメージ課題を考案した。暗示的というのは、被験者たちはイメージを思い浮かべることを特に要求されているとは思わないままに、課題を行うことになるからだ。まず、三次元方向から表示したハンドルバーのような物体の図を被験者たちに見せる。そして、どの方向からが一番握りやすいと思うか尋ねるわけだ。あなたなら上から握る? それとも下から? 親指はどこにかける? 残りの指の位置は?

予備試験には、腕を動かせなくなって1~5年が経過している患者三人を採用した。そのうちの一人は76歳の男性である。彼には、自宅の大画面テレビでさまざまな物体を眺めて、メンタル・イメージによって物体の握り方を練習するという課題を与えた。彼はこれを1日1時間、週5日、9週間にわたって続けた。

「彼に運動機能が戻らないことはわかっていた」とフライは言う。「でも、脳の編成に何か違いが出てくるとしたら?」

違いはあった。事実、三人の被験者全員が、心の中では正常な手の生体メカニズムに則った腕の運動を正確にシミュレートすることができたのだ。彼らは実際にするのとまったく同じに、ひとつひとつの物体をつかむところをイメージした。しかも、そのイメージの最中に彼らの脳をスキャンしたところ、運動の模倣と計画にかかわる高次領域、つまり人間の“腕を伸ばすための回路(リーチ回路)”が賦活したのだ。

さて、ここで思い出していただきたいのだが、脳卒中後には、一次運動マップそのものが損なわれることもあれば、より大きな回路の一部としての一次運動マップに支障をきたすこともあるということだ。すると、脳は四肢に指令を伝えないし、四肢も脳にフィードバックしようとしない。そこでフライは考えた。運動イメージを利用して、損なわれた一次運動マップに可塑的変化を起こさせ、促進したらどうだろう? イメージは、首尾良い運動シーケンスをコード化する機会を、脳に与えることができないだろうか? 麻痺状態から抜け出した自分をイメージすることはできないか?

答えは“ひょっとすると”である。フライによれば、予備的証拠は有望だが、そうした治療法の可能性を検証するための研究は始まったばかりだ。 

ボディ・マップが混乱する前に

『フライは、腕や脚を一本以上失ってイラクとアフガニスタンから帰還した兵士たちの苦悩もよく理解している。こうした兵士たちの数は2007年初頭で500人を数え、まだ増え続けているのだ。技術者たちがより軽量でより付け心地の良い材料を求めて懸命の努力を続けており、アメリカ国防総省も生体の腕の特性をほぼすべて備えた義肢の研究に資金を提供しているのだが、人口の腕、脚、手は未だにずっしりと重い枷になっている。収縮する胸筋にセンサを取り付けて義腕を操作するというような独創的な工学的解決策もいくつかあるが、その動きはまだぎこちない。

最近の退役軍人は除隊になるとき、三本の腕を支給される。実物そっくりだが機能面ではほとんど何も期待できない装飾用の義腕が一本、マイクロプロセッサで残っている筋肉からの電気信号を拾い上げて増幅し、電動モーターを作動させて腕の運動機能を生み出す筋電義腕が一本、そして、背中に渡したケーブルなどで身体の動きによって操作する、機械的な義腕が一本である。退役軍人は弓矢を使う狩猟など、特殊用途の義腕をオーダーすることもできる。

それにもかかわらず、フライによると、義腕を付けた患者の半数は、一年以内に義腕をクローゼットに放り込んでしまうそうだ。義腕はコントロールするのが難しいし、たいていのことは切断した腕の残った部分と良い側の腕を使うほうが楽に片付けられると、切断患者たちは口を揃える。義腕は15,000ドルもするうえに、保有率があまりにも悪いため、保険会社も義腕のための給付を遅らせている。

もっと良い方法があるはずだ。山積している問題は機械的要因によるものなのに、技術者たちは身体を機械と接続するうえで最も重要な面を見落としている、とフライは言う。脳である。四肢を失った後は、脳の大幅な再編が起こる。患者に義肢を装着させる際は、その事実を中心に考えなければならない。神経可塑性のプロセスがその場しのぎの新しいボディ・マップを手探りしながら試行錯誤するのに任せて、無駄に費やす時間が長くなるほど、マッピングはうまくいかず、義肢との統合が難しくなる。

運動機能不全につながる再マッピングを最小限に抑えるために運動イメージを使えないものか? フライはそう考えている。たった今も、新しい腕の使い方のトレーニングを受けている患者はほとんどいないとフライは訴える。彼らは家に帰って、自分で何とかしなければならない。しかし、運動イメージを利用して高次運動マップを刺激してやれば、義肢への適応に役立つ可能性がある。「運動学習に関する知識を総動員すれば、リハビリにつなげることができる」とフライは言う。「異常をきたした可塑性にボディ・マップを混乱させるすきまを与えないように切断後すぐ、患者に義肢を装着させるというのは、すごい名案じゃないですかね。イメージ回路を使って運動を練習すれば、高次マップを義肢のコントロールに使えるようになるのですから」

フライは今、上肢切断患者30人を対象として、イメージにより運動をシミュレートする能力をどこまで保持できるかという研究をしている。脳卒中患者とは違って、切断患者は運動をイメージするときに本物の腕を見ることができない。そこで、彼らにはミラー・ボックスを自宅に持ち帰らせている。良いほうの手を箱に入れて振りながら、鏡に映っているのは、実際にはもう無い手だと想像してくださいという指導付きだ。彼の研究チームは、そうした鮮明なイメージに反応してどんな変化が起きるか、切断患者たちの運動マップを長期にわたって追い続けるつもりでいる。』

「12年近く経った今(原書の発行は2007年9月)、退役軍人の義肢の問題どうなっているのだろう?」という疑問から、“アメリカ 軍人 義肢”で検索したところ次の記事が現れました。

 CNET Japanさまの2013年10月24日の記事です。

思考で制御できるバイオニック義足--急速に進化する義肢技術

『SF作品に出てくるような話に聞こえるかもしれない。実際の手足のように動いたり、曲がったり、感じたりするだけでなく、人間の思考に直接的に反応し、さらに感覚フィードバック(足下の草の感触や手足が空中に浮かんでいる感覚)を脳に直接返すことさえできる義肢が開発されている。

負傷した退役軍人の生活向上に取り組んでいる米軍が、資金面で積極的に支援しているため、そうした義肢はもはや現実離れした夢物語ではなくなった。映画「ブレードランナー」並みの補綴術というのは今でも遠い未来の空想だが、シカゴリハビリテーション研究所(Rehabilitation Institute of Chicago:RIC)と米国防高等研究計画局(DARPA)、そして成長分野である次世代義肢を開発する企業セクターの先駆的な研究により、見事な性能を備えた思考制御型バイオニック義肢が現代の現実となっている。

RICは9月、同研究所のバイオニック研究によって初の思考制御型ロボット義足を生み出したことを発表した。RICの研究はこれまでも、その価値にふさわしい報道をされており、何度も記事の見出しを飾っている(1つの人工装具で103段の階段を上ったという事例もある)。しかし、Levi Hargrove博士が率いるチームは、決定的な研究成果をThe New England Journal of Medicineに発表するのを待っていた。8年以上前に開発が始まったそのバイオニックハードウェアは、標的化筋肉再神経分布(Targeted Muscle Reinervation:TMR)手術という画期的なアプローチと統合された。TMR手術は、神経を健康な筋肉へ再分布することによって、脳がバイオニック義肢のさまざまな部分を動かせるようにするものだ。

以下は、標的化筋肉再神経分布(Targeted Muscle Reinervation:TMR)で検索して出てきたものです。

標的化筋肉再神経分布により高機能人工腕をリアルタイムに制御可能 2009年2月24日

思考で動かす新型義手、米科学会議で実演 2011年2月21日

ここで頭に浮かんだのが、以前、テレビで見たことがあった ”HAL” です。

調べてみると、このHALを開発したのは筑波大学の山海嘉之先生であることが分かりました。また、『サイバニクスが拓く未来』という著書が出ており、幸いにも市内の図書館に所蔵されていたため、借りてみることにしました。

著者:山海嘉之

出版:筑波大学出版会

発行:2018年3月

下左の写真はHALを使っての治療の様子です。また、下右のイラストはHALの原理です。HALの最も凄いところは、HALを使うと脳・神経が回復しているという画期的なリハビリテーション効果です。

 


この本は「PART1 講和 未来開拓への挑戦」と「PART2 質疑応答 中高生と大いに語る」に分かれています。PART1は更に5つ分かれていますが、4つめに「神経難病分野での医療用HAL」があり、4つの事例が紹介されています(“ポリオ”、”脳卒中”、”脳性小児麻痺”、”脊髄性筋萎縮症”)。ここでは脳卒中の事例と、機能改善と脳機能との関係について書かれた箇所をお伝えします。

『脳卒中を2回も発症されて、お医者さんのカルテでは、もう歩行は厳しいと言われていた患者さんです。HALを使っていくうちに、HALをはずしても1ヶ月後には歩きはじめ、さらに続けてHALを使っていくと、2ヶ月後にはHALなしで廊下をジョギングできるようになりました。その後退院して、今ではジャンプもしています。すごいですね。大切なことは、HALをはずしても動くことです。機能が改善して、これで退院できるようになります。このとき脳がどのように動いていたかということが重要で、病気が発症した早い段階できちんとHALを使うと、脳が最初の状態から変わっていくこともわかりました。とにかく、驚くことが多く、感動の日々です。』

こうして機能が改善していくことと、脳機能はどう関係しているでしょうか。実は、こうして脚を動かして徐々に歩けるようになってくると、脳の状態も変わってくることがわかりました。fMRI(機能的磁気共鳴画像装置)という高価な装置で脳活動を調べていくと、身体が動かない状態では、脳は動かない身体を動かそうと頑張りすぎて、次第に脳はいろいろなところが活発化していきます。これは「過活動」といって、本来活動すべき箇所とは異なるところも活動しはじめてしまうという状態です。あまり良いことではありません。つまり、頑張りすぎは良くないということですね。身体を思うように動かせなかったこのような状態にある患者さんでも、HALを使うと、脳の中の適切なところが興奮した時だけ、HALは脳から筋肉への指令信号をキャッチするので、意思に従って動きはじめ、脳神経系のつながり(シナプス結合)を強化・調整するための機能改善・機能再生ループが、人とHALの間で構成されます。こうして、どんどん脳や神経系の機能改善が進み、本来の適切な部分の脳活動と連動して脳神経系と身体系の機能が改善いていくのです。これらの事例は、脳の中で何が起きているかを示す貴重なデータとなっているのです。実に興味深いですね。別の言い方をすれば、HALは、コネクトーム(脳の機能マップ)の再構築を促進する革新技術だとも言えるでしょう。

今、進行性の神経筋難病という現代医学では治療方法が見つかっていない病気に対して、治験を行っていますが、この治験の結果、薬でも病気の進行を抑制することができなかった難病に、医療用HALが保険治療として適用できると期待しています[参考:2016年9月から保険適用による治療が始まっている]。この治療が終われば、さらにほかの分野にも適用が広がるだろうと思っています。喜んでくれる人が待っていてくれる限り、私たちの挑戦は続くのです。

HALによる治験が行われているのも確認できました。 

脳卒中(脳出血・脳梗塞)に対する治験

公開日:2018年4月13日

対象となる疾患:脳卒中(脳出血・脳梗塞)

注)治験は2019年10月くらいまで募集予定とのことです。(2019年5月20日 筑波大学附属病院に確認)

大和ハウス工業さまに「HALを見学できるところはありますか?」と問い合わせたところ、茨城県つくば市にある『サイバーダイン スタジオ』という素晴らしい施設を教えて頂きました。 

ミラー・ボックスによる運動機能の改善

 『ウィリアム・アンド・メアリー大学の認知科学者、ジェニファー・スティーヴンスによると、脳卒中後は、まるで自分の腕のマップを一部しか利用できなくなったように、運動の協調性を失ってしまう人が多い。ミラー・ボックスや運動イメージを使って運動をシミュレートすることにより、運動を取り戻すうえで必要なものの例を脳に示してやる。手を物理的に延長できなければ、脳は運動を練習するチャンスをけっしてものにできない。イメージによるシミュレーションは、この問題を解決するための手段なのだ。

あなたが脳卒中を患ったとしよう。良いほうの腕を箱に差し入れ、麻痺した腕は鏡の裏に隠す。切断した腕の場合同様、良いほうの腕が鏡に映って、腕が二本あるように見える。良いほうの腕をバタバタと動かしてみると、すごいことが起こる。麻痺した腕が突然動き出したように見えるのだ。無傷で損傷も麻痺もないように見える。身体の曼荼羅を下って、休眠中の腕と手のマップに固有感覚を引き起こすほど説得力のある視覚フィードバックが生じているのだ。

パイロット実験で、スティーヴンスは慢性脳卒中患者五人を研究室に呼んでコンピュータの前に座らせ、目の前の机に、手のひらを下にして両手を載せさせた。そして、ひねる運動をしている手首の運動を見せてから、自分の悪いほうの手首で同じ運動をしたらどのような感じがするかイメージし、見てはイメージしを繰り返した。ミラー・ボックスを使った手首の運動の練習も、一時間のセッションとして週三回、四週間行わせた。良いほうの腕を箱に入れて、手首滑らかに動かすことで脳をだまし、悪いほうの腕でも同じことができると信じ込ませたわけである。それと並行して、同じレベルの麻痺がある別の五人の患者には、従来の作業療法に取り組ませた。

どちらの被験者群にも、軽い物を棚に載せられるようになるほどの、同じ程度の改善がみられた。しかし、スティーヴンスに言わせれば、これは実に驚くべきことだ。こう考えてみるとよい。イメージ法を行ったグループは、障害のある腕を実際には少しも動かそうとしなかったのに、改善したのだ。標準作業療法では、麻痺した手でカップをつかんでは離すという練習を何時間もぶっ続けで行う。イメージ法の被験者群も同じことをしたわけだが、筋肉は一切動かさなかった。損傷したニューロンがちょうど再接続する場所を探しているところなので、イメージと鏡でそれを可能にしてやるのだとスティーヴンスは言う。

彼女はこの種の治療法を、自宅療法にうってつけと言う。退院直後の脳卒中患者の中から選んだ人々にミラー・ボックスを提供しているのはそのためだ。既に自宅療法プログラムを終了した患者四人を見る限りでは、自己流のイメージ・プロトコル(手順)でも運動能力は改善するらしい。だとしたら、試さない手はないのでは? 駄目でもともと、どちらに転んでも損はない。

ほかに、バーチャル・リアリティを活用している科学者たちもいる。これは、コンピュータでシミュレーションした環境と情報のやりとりを行うことにより、脳卒中患者の脳が再マッピングできるようにする技術である。患者はバーチャルな世界に浸ったまま、運動機能の回復の呼び水となるような形で正常な運動をイメージする。麻痺した腕や脚に取り付けた装置を介してフィードバックが行われれば、脳がその運動を再学習できることもあるという。』

最新情報はないだろうかと思いネット検索してみると、『運動機能回復を目的とした脳卒中リハビリテーションの脳科学を根拠とする理論とその実際』という論文を見つけました。

運動機能回復を目的とした脳卒中リハビリテーションの脳科学を根拠とする理論とその実際(PDF11枚)

 しかし、これも2010年なので新しいものではありませんでした。そこで、発行元の“相澤病院”と著者の“井上勲”というキーワードから検索をかけたところ、下記の“福岡青州会病院”というサイトが出てきました。調べてみると2010年当時相澤病院のリハビリテーションン科医長だった井上先生はこちらの病院に勤務されていることが分かりました。また、脳卒中などのリハビリテーションに非常に積極的な病院であることも分かりました。 

福岡青洲会病院では、地域の皆様に継続的に科学的根拠に基づいた質の高い リハビリテーションの提供を可能とするため、「先進リハビリテーション実践センター“HOPE”」を設立いたしました。先進リハビリテーション実践センターでは、下記に示すチーム毎に組織横断的に多職種でのチームを組織し、研究も含め患者さんに質の高いリハビリテーションの提供を目指します。

画像出展:「福岡青洲会病院

ミラーセラピーに関しては、大阪府和泉市にある生長会 府中病院さまのサイトに詳しい紹介が出ていました。

画像出展:「生長会 府中病院

まとめ

1.人には「脳卒中になると通行止めが外れ、脇道を通れるように」という仕組みが備わっている。

2.大人の脳にも可塑性があり、損傷に応じてそれに適応するように再構築することが可能である。

3.理学療法の目的は神経可塑性のメカニズムを後押しして、機能マップを回復させることにある。

4.脳卒中後の麻痺を改善するには運動イメージが役立つ。

5.運動イメージを利用して高次運動マップを刺激してやれば、義肢への適応に役立つ。

めまい

4月末、業務委託の方の仕事でめまいの患者さまに施術を行いました。発症後3日目、まだ回転性めまいが止まらないということでした。耳鼻咽喉科、総合病院の内科を受診され、めまい止めと吐き気止めの薬を処方されたものの、めまいは改善されず、明確な病名も明らかになっていない状況でした。

気になる所見は2つです。1つは両眼の焦点が合わないということが3回程あったこと。もう1つは、めまい後に左肩と右肩甲骨付近に鈍痛が発生した。ということでした。

私の勉強不足によるのですが、「もしや耳ではなく、目が原因ということはないだろうか?」という疑問から、時々お世話になっているAskDoctoresという有償サイトに質問をしてみました。その結果、目が原因でめまいを起こすことはないということを確認できました。また、ご回答頂いた先生の中に(内科医)、「めまい外来を検討されると良いと思います」というご指摘がありました。

そこで、早速、さいたま市で検索してみると、岩槻区に目白大学耳科学研究所クリニックがあることを知りました。

『当院ではめまい診療のエキスパートが、チームを組んで診療にあたっております。最新のバランス機能検査機器や高度な診断技術により、めまいやふらつきの原因を的確に調べ、長引くめまいやふらつきの根本的な治療や緩和、予防に取り組んでいます。』

こちらのサイトでは、問診票がダウンロードできるのですが、その質問の中には、「焦点が合わない」、「首や肩の痛みがあった」という質問もありました。この問診票を見て、こちらのクリニックの存在を患者さまに情報提供できていればという思いが残りました。

なお、肝心の治療は30分ということもあり、後頚部と腰部(特に仙骨部)、そして耳周辺の“翳風”というツボに約20分間の置鍼をしましたが、残念ながら、その場で回転性めまいを止めることはできませんでした。その後、この患者さまから連絡が入ることはなかったため、改善されたのかどうかは分かっていません。

そして、今回の知識不足、情報不足を反省し、見つけたのが『めまいは自分で治せる』という本でした。この本は4章に分かれています。ブログで取り上げたのは「第1章 なぜ、めまいがリハビリで治せるのか?」と「第3章 病気別リハビリ&めまいを克服した体験手記」です。ポイントと思った箇所を要約し箇条書きにしています。

めまいで辛い思いをされている方には、「第2章 めまいのリハビリ実践編」と「第4章 めまいを起こさない生活術」、さらに第4章の後ろにある「めまい なんでもQ&A」に関心があるものと思いますが、ブログでは触れておりません。

著者:新井基洋

出版:マキノ出版

初版発行:2012年4月

目次は次の通りです。

はじめに

第1章 なぜ、めまいがリハビリで治せるのか?

「グルグル回る」「フワフワする」「体が揺れる」「立っていられない」

めまいが起こったときの対処法

めまいを治す医師の見きわめ方

めまいの検査は何をする?

めまいはなぜ起こるのか?

小脳はバランスをつかさどる「パイロット」

苦手なリハビリこそ積極的に行う

一時的にめまいが悪化しても大丈夫

第2章 めまいのリハビリ実践編

リハビリで8000人のめまいが改善した

効果的なリハビリのコツ

リハビリを行う際の注意点

【めまいに効く8つのリハビリ】

①「速い横」

②「ゆっくり横」

③「振り返る」

④「上下」

⑤「足踏み」

⑥「片足立ち」

⑦「ハーフターン」

⑧「寝返り」

症状別リハビリ索引

第3章 病気別リハビリ&めまいを克服した体験手記

めまいの原因がわかるフローチャート

良性発作性頭位めまい症

前庭神経炎

メニエール病

めまいを伴う突発性難聴

片頭痛性めまい

持続性平衡障害・加齢性平衡障害

ハント症候群

慢性中耳炎が原因のめまい

椎骨・脳底動脈循環不全症

脳梗塞・脳出血の治療後に残るめまい

心因性めまい・めまいをともなう「うつ」状態

第4章 めまいを起こさない生活

めまいを起こしにくい体をつくる

①睡眠

②アルコール

③タバコ

④コーヒー

⑤食事

⑥自動車の運転

⑦外出

⑧入浴

⑨家事

⑩運動

⑪女性ホルモンの変化

コラム① めまいと骨密度の関係

「前兆」を知ってめまいを未然に防ぐ

①カゼなどの体調不良

②低気圧の接近

③過労・多忙

④精神的なダメージ

⑤その他の前兆

コラム② 「地震酔い」は気のせい?

めまい なんでもQ&A

おわりに

参考文献

新井先生が勤務されている病院のめまい平衡神経科のページをご紹介します。

わたくしの所属する横浜市立みなと赤十字病院めまい平衡神経科には、北海道から沖縄まで、全国津々浦々のめまい患者さんが治療を受けにこられます。しかしさまざまな事情から、当院を受診されることが困難な患者さんも沢山いらっしゃいます。実際、わたくしの下にも、拙著をお読みになったり、当院のめまい体操を紹介するテレビ番組をご覧になったりして、日本中から連日多くのお問い合わせをいただきます。出来ることならば、すべてのみなさんに通院・入院加療を経験していただきたいのですが、それはなかなか難しいことです。そこで、通院・入院したいけれど出来ない患者さんたちのために、いくつかの拙著(めまいは寝てては治らない:中外医学社他)を書くことで、当院で行っているめまい体操を多くの患者さんに知っていただきたいのです。

はじめに

薬物治療

●脳や内耳の血流を増やしてめまいを改善する薬。

●吐き気や嘔吐を抑える薬。

●内耳のむくみを軽減する薬。

第1章 なぜ、めまいがリハビリで治せるのか?

「グルグル回る」「フワフワする」「体が揺れる」「立っていられない」

●横浜市立みなと赤十字病院の救急外来の統計によると、交通事故やヤケドなどの外傷を除く15,563例のうち、約6%がめまいによるもので、2年間で884名だった。

●めまいの起こり方は、「回転性めまい」「浮動性めまい」「動揺性めまい」「立ちくらみ」の4つに分けられる。

●回転性めまい

・三半規管の障害で起こるのがほとんど。

・症状は数分間から数時間

●浮動性めまい

・体がフワフワするなど。

・症状は回転性ほど激しくないが症状が長引く傾向がある。

・回転性めまいの慢性期、加齢、耳石の障害などが原因。

●動揺性めまい

・頭や体がグラグラ揺れている感じでまっすぐに歩けない。

・原因不明とされることが多いが、加齢、三半規管の機能低下、小脳の障害でみられる。

●立ちくらみ

・耳や脳の障害、低血圧、睡眠不足、疲労などが原因。

めまいが起こったときの対処法

●座れる場所、横になれる場所を移動し、ゆっくり深呼吸をして呼吸を整える(過呼吸[過換気症候群]にならないように注意する)。

●嘔吐の可能性を考え横向きが良い。

●原因が内耳の障害の場合は悪いほうの耳を上にする。

●同行者がいれば、「乗り物酔いの薬」を買ってきてもらい、それを飲んで様子をみる。

●嘔吐がひどくて薬が飲めないときは我慢せずに救急車を呼ぶ。

めまいを治す医師の見きわめ方

●めまいは疲労の蓄積、睡眠不足、カゼなどで体調をくずした時にも現れる。

●症状が長引いたり、悪化したり、くり返し起こる場合は専門医に相談する。

●基本は耳鼻咽喉科だが、最近は「めまい外来」「神経耳科」などもあり、より的確な治療が受けられる。

●めまい専門医の研究会である「日本めまい平衡学会」では、学会が認定した専門会員と、めまい相談医をホームページに掲載している。 

【めまい相談医一覧】を調べたところ、さいたま市で相談医が在籍している病院は、岩槻区の「目白大学耳科学研究所クリニック」、西区の「おくクリニック」、南区の「たかまつ耳鼻咽喉科」の3つでした。

 

めまいの検査は何をする?

●必ず行う目の検査。眼球が無意識で動く「眼振」があればめまいを起こしていることがわかる。

●耳が原因の「末梢性めまい」か、脳による「中枢性めまい」かは、眼球の動きで診断する。

●末梢性めまいでは水平方向の眼振か、回旋が混合した眼振が見られる。

●中枢性めまいの垂直方向の眼振は脳の異常によるもので、CTなどの検査を行う必要がある。

●眼振の検査では「フレンツェル眼鏡」という特殊な眼鏡を使うのが一般的であるが、より精度の高い「赤外線CCDカメラ」を使った検査も徐々に普及してきている。 

フレンツェル眼鏡

画像出展:「病院検査の基礎知識

 

赤外線CCDカメラ

こちらの病院はさいたま市南区にあります。

画像出展:「とくまる耳鼻咽喉科

 

めまいはなぜ起こるのか?

●体のバランス(平衡機能)は、視覚(目)、深部感覚刺激(足の裏)、前庭器(耳)という3カ所から集まる「バランスに関する情報」を小脳が集約し、それを全身の中枢である大脳が統括することによって保たれている。

視覚は周囲の景色や動きを見ることで、体の位置や動きなどを感じ取り、深部感覚刺激は足の皮膚からの情報が脊髄を経て脳へ伝わり、同じく体の位置や動きなどを感じ取っている。これに加えて、なくてはならないのが前庭器の働きである。耳の奥の内耳にある前庭器では平衡機能を維持するために、最も重要な情報を感知している。 

画像出展:「めまいは自分で治せる」

 

●内耳は聴覚をつかさどる「蝸牛」、平衡機能をつかさどる「三半規管」、「耳石器」の3つの器官から成り立っている。そして、三半規管と耳石器を合わせた部分が「前庭器」である。三半規管の中は内リンパ液(非常に粘性が高い特殊な細胞外液)で満たされており、頭が動くとリンパ液も動く。そのリンパ液の流れや速度、方向などを感覚細胞は認識し情報が電気刺激として前庭神経を伝わって脳へと送られていく。三半規管が頭や体の「動き・回転加速度」を感知するのに対し、耳石器は「傾き具合、直線加速度」を感知する。耳石器は2つあり、1つは水平方向、もう1つは上下(垂直)方向の動きや傾きを認識する。 

画像出展:「めまいは自分で治せる」

 

●耳石器はわらび餅のような粘着性のある耳石膜に、小さな粒状の耳石が多数ついた状態になっている。頭を傾けると、耳石膜の上に耳石が働く。その刺激を耳石膜の下の感覚細胞が情報として脳に伝える。 

画像出展:「めまいは自分で治せる」

 

なにかの原因でどちらかの耳に障害が起こると、平衡機能が低下しバランスがくずれる。特に三半規管の機能に左右差が起こったときに、めまいが発現する。この左右差は薬や注射では根本的に治すことはできない。めまいにともなう諸症状の改善には薬物療法は必要だが、この左右差を改善しないとめまいは残る。この左右差を改善する方法は、リハビリにより小脳の働きを高めることである。 

小脳はバランスをつかさどる「パイロット」

●めまいが徐々に軽減されていくのは体にもともと備わっている「中枢代償」という小脳の働きによる。これは小脳が左右差を軽減し、平衡機能を補おうとする作用である。

●体のバランスは耳だけでなく、目(視覚)や足の裏(深部感覚刺激)からの情報によっても大きな影響を受ける。これは耳の障害があっても情報取集部位の目と足の裏を鍛えることで、耳の障害をカバーすることができるということを意味する。

苦手なリハビリこそ積極的に行う

●フィギュアスケートの素晴らしい回転の演技は、練習によって獲得したもので、回転後の眼振を抑制できているからである。これは「RD(response decline)現象」といい、医学的には小脳が目の動きを止める指令を出し、眼振を抑制しているためと考えられている。これも「小脳の中枢代償」である。

「めまいのリハビリ」とは、目と足の裏、そして耳(前庭器)を鍛えることで、「小脳の中枢代償作用」を最大限に生かし、めまいの改善と再発予防を目指すものであり、弱っている平衡機能を鍛えて高めるものである。

リハビリは必ず医師の診断と治療を受け、急性期のめまいが治まってから開始する。

第3章はフローチャートに続き、めまいの原因となる各病気の説明が続きます。「体験談」自体は省略していますが、体験談の後に出てくる「新井先生のコメント」については一部ご紹介しています。

第3章 病気別リハビリ&めまいを克服した体験手記

めまいの原因がわかるフローチャート


1.良性発作性頭位めまい症

●めまいは「自発性」と「誘発性」に分けられる。前者のめまいは、椅子に座っているときや寝ているときなど、自分が動いていないときに生じるタイプである。後者は、寝返りを打ったり、急に起き上がったりしたときなど「ある動きに誘発されて」現れる。この自発性か誘発性かはめまいの原因となっている病気を確定するのに重要であり、受診時に医師に伝えるべきものである。

●誘発性のめまいの代表格が「良性発作性頭位めまい症」である。頭や体の位置を変えたり、ある特定の体勢を取ったときに激しいめまいが起こったり、めまいの程度が悪化したりする。めまいの発作は数十秒~数分で治まるのが普通。吐き気や嘔吐をともなうこともある。

●めまい発作とともに耳鳴りや難聴が現れたり、以前からあった耳鳴りや難聴が増悪したりすることはない。

良性発作性頭位めまい症は、耳の奥にある耳石器にくっついている耳石がはがれて、三半規管の中に入り込むことで起こる。三半規管のリンパ液の中を本来なら存在しないはがれ落ちた耳石が移動することで、脳に異常な情報を伝えてしまうことでめまいが起きる。

耳石がはがれる原因は、寝たきり、頭部打撲、交通事故、慢性中耳炎などの耳の病気、加齢などがかかわっているとされている。

●頭を動かすリハビリは、耳石が三半規管から出て、耳石器に戻って耳石膜に再びくっつくことを目的としている。一時的にめまいやふらつきが増悪するケースも多く見られ、1回のリハビリで元に戻すことは難しいが、軽いぶり返し程度であれば続ける。山を乗り越えることでめまいから解放される。

●【体験談1】に対する「新井先生のコメント」:『めまい発作が起こったときは、血圧が上がります。血糖値も上がります。体に異常が起こると、脳へ酸素や栄養を運ぶための血流を保とうとして、血圧や血糖値が上がるようになっているのです。つまり、菅原さんの場合も、急に血圧が上がったためめまいを起こしたのではなく、めまいが起こったことで血圧が上がったのです。原因と結果が正反対なので、降圧剤を飲んでもめまいは改善しません。』

●【体験談2】に対する「新井先生のコメント」:『本田さんの場合、耳石がはがれやすく、重い発作をくり返していました。通常、耳石がはがれるのは左右どちらかの場合が多いのですが、くり返すめまい発作の経過途中で、本田さんは両耳で耳石がはがれていることがわかりました。このように両耳の障害が原因でめまいをくり返す重篤な症状のかたは非常にまれで、良性発作性頭位めまい症の患者さんのうち、0.1%以下です。』

2.前庭神経炎

前庭神経炎は、内耳から脳に情報を伝える前庭神経になんらかの原因で障害が起こり、突然、激しいめまいが現れる病気であり、激しい回転性のめまいが1週間くらい続く。この間、立ったり歩いたりすることはできず、「目を開けることもできない」という人もいる。吐き気や嘔吐も伴うため脳の病気と考え、救急搬送されるケースも多い。

耳鳴りや難聴は発現せず、これがメニエール病との違いである。

●約1週間の激しいめまいの後、体を動かすとめまいやふらつきを感じる後遺症が残り、放置するとそれが数か月から数年間も続くケースも多い。

炎症を示す「炎」という文字がついているが、前庭神経が炎症を起こしているわけではなく、「炎症のように激しい症状」ということで、この病名がつけられている。

●聴力検査、眼振検査などを行い、他の病気の疑いが消えたら、耳に水を注入して三半規管の機能を診る「カロリック検査」を行う。

カロリック検査

カロリックテスト(温度刺激検査)という検査で、耳に刺激をあたえてめまいを起こし、どちら側の耳に異常があるかを調べます。』

画像出展:「めまいナビ」

 

めまい・ふらつき・吐き気・頭痛・耳鳴り等の症状の情報サイト』

●【体験談】に対する「新井先生のコメント」:『前庭神経炎の症状は非常に強く、「大地震のようなめまい」と表現されるほどです。黒田さんが若いころくり返していた軽いめまいと、今回のめまいは、明らかに違います。前庭神経炎の場合は、立ったり歩いたりはもちろん、目を開けることもできなくなります。めまいを起こす病気の中でもきわめて症状が重いので、診察室に入ってきた患者さんは最初、私の顔を見て話すこともできません。』 

画像出展:「めまいは自分で治せる」

 

3.メニエール病

●メニエール病は決して多い病気ではない。

内耳に内リンパ液(非常に粘性の高い特殊な細胞外液)が異常に増え、「水ぶくれ(水腫)」の状態になって内耳の感覚器官に障害を起こす。これにより平衡機能と感覚に異常をきたす。

特徴は耳鳴り、難聴、回転性の激しいめまい。生命に関わるようなことはないが内臓や血管を調整する自律神経の機能が乱れるので、吐き気、嘔吐、顔面蒼白、冷や汗、頭重感など多くの症状が現れる。

●めまいの発作は数十分から数時間で治まるが、めまいと難聴の発作を何度もくり返すのが特徴である。発作をくり返すことで、聴力も平衡機能も低下しめまいやふらつきを起こしやすくなる。

初回の発作から再発までの期間も数時間から数日後、数カ月後から数年後と、人によって大きく異なる。

●原因は不明。過剰なストレス、季節の変わり目や天候、気圧の変化にともなって発症することがある。また、寒冷前線が通過するときに、症状が悪化するというケースも多い。

飲水が治療法の1つになっているのは、水をたくさん飲むと脳が「外から水がたくさん入ってきたから、ため込まなくても大丈夫」と判断し、抗利尿ホルモンの分泌が抑制され内耳の水腫が軽減されるためである。

●【体験談】に対する「新井先生のコメント」:『メニエール病の一般的な治療法としては、利尿薬の服用と、水を多めに飲むこと、そして生活習慣の改善です。働きすぎや睡眠不足、心身への過重なストレスが、メニエール病を誘発すると考えられるからです。そのため、投薬によって一時的に症状が改善しても、再発することがあります。

メニエール病のかたは、自分の生活を振り返って、働き方や生き方、考え方を少し緩やかにするといいでしょう。具体的には、仕事量や就労時間をへらし、睡眠時間や休日、休憩時間をしっかり取る、といったことです。働きざかりのかたには難しいかもしれませんが、自分の体を守るためです。ぜひ心がけてください。』

4.めまいを伴う突発性難聴

●突発性難聴はある日突然、片側の耳が聞こえにくくなる病気である。

●多くの場合、難聴だけでなく耳鳴りや耳が詰まった感じをともない、回転性のめまいが生じる。メニエール病の初期と症状が似ているが、突発性難聴は普通1回しか起こらない。ただし、めまいやふらつきの後遺症が残るケースは多く見られる。

2/3の人に難聴が残るとされており、「耳の聞こえが突然悪くなった」というときは、できるだけ早く耳鼻咽喉科を受診すべきである。特に発病後3~4週放置すると聴力は戻らないまま固定されてしまう。

原因は不明だが、ウィルス感染や内耳に血液を送る動脈の血流障害が考えられている。 

画像出展:「めまいは自分で治せる」

 

5.片頭痛性めまい

●一般に片頭痛は、ストレスや性ホルモンの変動、セロトニンの欠乏、遺伝などが原因で起こることが多い病気である。

片頭痛にめまいが伴うことは多くはない。また、片頭痛とめまいの関係は研究中の段階であるが、因果関係がある場合と、ない場合があるとされている。

●片頭痛性めまいは薬で改善するのは約6割、約4割は「片頭痛は改善したが、めまいは消えない」という状態が続く。このため薬だけでなく、めまいのリハビリにより平衡機能を鍛えることが重要になる。 

6.持続性平衡障害・加齢性平衡障害

この症状は診断が難しく、「年のせい」「気のせい」と言われてしまうことが多い。患者数は相当数にのぼり、原因がわからず家で寝たきりになっている人も少なくない。寝たきりになると、平衡機能を担う「耳」「目」「足の裏」が使われないため、どんどん弱っていく。これがめまいは寝ていても治らない理由である。

●【体験談】に対する「新井先生のコメント」:『五十嵐さんの場合、おそらく最初は、三半規管の障害によるめまいだったのだと考えられます。症状が長引き、安静にする時間も長くなったため平衡機能が衰えて、私が診察したときには、「持続性平衡障害」になっていました。

目と耳と足の裏からの有効な刺激で、小脳を鍛えるのが、めまいのリハビリです。弱っている部分を鍛えるのですから、最初はやはりつらいと思います。しかし、五十嵐さんの例を見えてもわかるように、めまいのリハビリは、短期間で効果を実感できる場合が少なくありません。ただし、入院中に平衡機能が回復してめまいが消えても、退院後にリハビリをやめてしまっては元の木阿弥です。五十嵐さんの場合、娘さんがいっしょにリハビリをやってくれているそうです。このように家族が協力することで、めまいの再発を防ぐことができます。』

7.ハント症候群

●正式には「ラムゼイ・ハント症候群」という。子どものころに水ぼうそう(水痘)にかかり、顔面神経に潜伏していた水痘ウィルスが再活性化し、顔面神経とその横に並ぶ内耳神経(聴覚と平衡の神経)にダメージを与えることで、めまい、耳鳴なり、難聴、顔面神経麻痺などが現れる病気である。

8.慢性中耳炎が原因のめまい

●慢性中耳炎に伴うめまいは、軽いものから激しい回転性めまいをくり返すものまで様々である。ただし、めまいによって耳鳴りや難聴が増悪することは多くない。めまいの原因は内耳の前庭器の働きに左右差が生じることで起こるのでリハビリは有効だが、まずは慢性中耳炎の治療を優先し原因を解決してからリハビリを行うようにする。

9.椎骨・脳底動脈循環不全

●首の後面を走る「椎骨動脈」とそれにつながる「脳底動脈」は小脳に血液を送っている。椎骨・脳底動脈循環不全とはこれらの動脈の血流が一時的に悪くなる病気で、めまいを起こすことがある。血流障害が起こる原因としては、動脈硬化や頸椎の変形などが挙げられる。

めまいとともに、手足のしびれ、嘔吐や吐き気、ときには物が二重に見えたり霧がかかったように見えたりする視覚障害をともなうことがある。めまいと同時にこうした症状が起こった場合、神経内科か脳神経外科、耳鼻咽喉科を受診するようにする。 

10.脳梗塞・脳出血の治療後に残るめまい

●小脳は体のバランスを取る中枢のため、小脳で梗塞や出血が起こると急激なめまいや平衡機能の失調が生じる。また、脳出血や脳梗塞の治療後にめまいの後遺症で悩んでいる患者さまは多い。めまいのリハビリは有効だが、必ず主治医に確認しなければならない。

11.心因性めまい・めまいをともなう「うつ」状態

●精神的なことがきっかけで、めまいが起こることがまれにあるが、その多くはストレスが内耳の血流を障害してめまいを引き起こしている可能性がある。また、不安やうつ状態から家に引きこもり、運動量が減ることで平衡機能が低下して、ふらつきが起こることも考えられる。このように内耳の障害や平衡機能の低下が見られず、精神的なことだけが原因でめまいを発症する、真の心因性めまいは極めて少ない。(新井先生は『2人しか診ていません』と本に書いています)

以上が第3章で紹介されていた全ての病気ですが、ここにないもので気になるものがあります。それは「頸性めまい」です。“日経メディカルOnline”には『繰り返す難治性めまいでは「首」を疑え』という記事が掲載されています。

こちらの記事の閲覧には会員登録(無料)が必要となるため、冒頭に書かれている内容と表のみをご紹介します。

『頸部脊柱管狭窄症や頸椎ヘルニアなどの頸部疾患を持つ患者が長時間同じ姿勢を保持することで発症する「頸性めまい」をご存じだろうか。日常診療で遭遇するなかなか改善しないめまいの中に、「頸性めまい」が潜んでいる可能性がある。診断できれば頸部に負担を掛けない生活を心掛けたり、筋弛緩薬を投与したりすることで、めまい症状を改善できる。

「何度も再発する難治性めまいでは、首の疾患を疑った方がよい。頸部疾患を背景に発症する頸性めまいの可能性が高いからだ」――。こう指摘するのはたかはし脳外科皮フ科医院(新潟県新発田市)の高橋祥氏だ。頸性めまいとは、頸部以外にめまいの原因となる脳疾患や全身性疾患が認められない患者において、肩や頸部に負荷が掛かることで起こるめまいのことを指す。 

画像出展:「日経メディカルOnline

 

新井先生が紹介されているめまいを伴う病気の6番目に「持続性平衡障害・加齢性平衡障害」があり、この病気の症状は診断が難しく、「年のせい」「気のせい」と言われてしまうことが多いとされています。また、9番目の「椎骨・脳底動脈循環不全」ではその原因として頸椎の変形が含まれています。これらの病気の中には頸の筋肉の問題が関係しているものもあるのではないかと思います。

新井先生は耳鼻咽喉科の先生なので筋肉との関係性に触れることはないのですが、鍼灸師としてめまいの施術を考える場合は、頸筋の状態に注目し痛みや硬結がある場合は、積極的に施術に入れるべきと思います。

首の筋肉

後頚部の筋肉は層になっており、多くの筋膜も存在しています。また、側頚部にある大きな胸鎖乳突筋の下には頚動脈と内頚静脈が走行しています。

画像出展:「トリガーポイントマニュアル」

 

ご参考

●”頚性めまいの重要性” 高橋 渉 日農医師65巻1号 2016.5 PDF10枚

●”頸性めまい” 田浦晶子、Cervical vertigo Equilibrium Res Vol.77(2) 2018 PDF資料11枚

●ブログ“頚筋症候群(頚筋性うつ)

めまいの鍼治療

ポイントは以下の3つと考えます。

1.自律神経を調える。

2.耳周辺の血流を改善する。

3.深部感覚刺激(足底)が脳に届くように滞りがないようにする。

1.自律神経を調える

●後頚部の硬い部位に置鍼:百労、天元など

●仙骨部の硬い部位に置鍼:上髎、次髎、腰兪など

●後頭部―骨盤部の広い範囲を対象に置鍼:脊中、L2-L5など脊柱両側の硬い部位

※詳細はブログ“中高年女性の腰痛3”をご覧ください。

2.耳周辺の血流を改善する

ツボとり(取穴)の基本は触診で硬い部位などを見つけることですが、ここでは目安とする経穴を選択したいと思います。以下の2枚はいずれも『経絡マップ』から持ってきたものです。上は“経穴と動脈”、下は“経穴と静脈”です。これらの動静脈耳の位置の両面から検討すると、“翳風”、“聴会”または“聴宮”、“完骨”が刺鍼したい候補にあげられます。 

動脈

椎骨動脈:翳風(手少陽三焦経)

総頚動脈:聴会(手少陽三焦経)・聴宮(手太陽小腸経)、完骨(足少陽胆経)

補足:経脈で考えると“少陽経”でまとめることができます。また、骨盤部、腰背部とのつながりを考えると、これらの部位は足太陽膀胱経に属する経穴なので、耳の経穴を同じ“太陽経”の聴宮に取るという選択肢もあると思います。

 画像出展:「経絡マップ」

 

静脈

椎骨静脈/内頚静脈:翳風(手少陽三焦経)

外頚静脈:聴会(手少陽三焦経)・聴宮(手太陽小腸経)

 画像出展:「経絡マップ」

 

3.深部感覚刺激(足底)が脳に届くように滞りがないようにする

滞りが気になる箇所は、骨盤部と膝関節部です。骨盤部にある梨状筋という筋肉には“梨状筋症候群”という病名がついた疾患があります。また、15%は坐骨神経が梨状筋の下ではなく貫通しているという報告もあります(『トリガーポイントマニュアル 第7章 大殿筋』より) 

『股関節の動きのなかで特に複雑で、かつ微力なものに回旋(内外旋)運動があります。股関節を内旋すると痛む場合は外旋筋群が硬くなっており、その下にある坐骨神経が圧迫されている可能性があります。このような疾患を梨状筋症候群といいます。』

画像出展:「ZAMST

 

このイラストと文章は「Therapist Circle」さまより拝借しました。

『背側の筋肉が主要姿勢筋と呼ばれる理由は、正常立位での重心線が身体のやや前方を通っているため、背側にある筋肉は全て持続的な筋緊張を保たなければならないからです。対して腹側にある筋肉は、持続的な緊張を必要とせず動揺する身体を調節する際に、断続的に収縮すれば立位を保つことができます。』

 

膝関節は立位では体重を支えると同時に頻繁に活動している部位です。背部の抗重力筋は特に主要姿勢筋とされ、姿勢保持の働きを担っています。

中央紫色の脛骨神経は近位では坐骨神経となり、遠位では足裏の内側足底神経と外側足底神経という運動を司る筋枝に加え、足底の触覚や痛覚などを司る皮枝にまで及びます。一方、脛骨神経の走行は下腿(ふくらはぎ)ではヒラメ筋の更に下、後脛骨筋に挟まれた深層に位置し、膝関節の背面でも腓腹筋と膝窩筋に挟まれています。これらの膝関節周辺の筋群は疲労し硬くなりやすく、血管や神経を圧迫する原因になる可能性があります。従いまして、これらの膝関節の筋肉も考慮すべき刺鍼ポイントと考えます。

 

 

以上のことから、骨盤部の梨状筋と膝関節部のヒラメ筋、後脛骨筋、腓腹筋、膝窩筋は押さえておきたい筋肉だと思います。

数学と量子力学/物理学

またまた身の丈を超える本に手を出してしまいました。原因は今回勉強した量子論です。その昔、“産業の米”と言われた半導体は、量子論というミクロの世界を正確に描くことができる理論によって生み出されました。科学に明るくない私が言うのは適切ではありませんが、量子論は人類の進歩にとって最大の発見といっても良いのではないかと思います。

そして、量子論は“数学理論”だということです。“シュレーディンガーの方程式”はその中でも最も注目されるものだと思います。

なお、量子論とは“考え方”や“思想”であり、量子力学とは“量子論に基づいて物理現象を記述するための数学的手段”と言われています。あまり良い例えではありませんが、「量子論が“拳銃(器)”、量子力学が“実弾(中味)”」というイメージです。

理系の受験科目の一つとしてしか見てこなかった私ですが、「数学恐るべし!」、「数学とはいったいどんな学問何だろう?」という思いが大きくなりました。また、それを知ることができる良い本はないだろうかと探しました。こうして、今回の本を見つけました。 

著者:ティモシー・ガウアーズ

出版:岩波書店

発行:2004年6月

目次

はじめに

1.モデル

2.数と抽象

3.証明

4.極限と無限

5.次元

6.幾何学

7.概算と近似

8.数学に関するよくある質問

裏表紙にはこの本の概要が書かれています。

『数学を組み立てる考え方とはどのようなものなのでしょうか。いったい数学者はどんなことを考えているのでしょうか。よく「数学は抽象的な学問だ」と言われますが、それは決して、数学が謎めいた秘義であるという意味ではありません。抽象とは、自由に考えるための道具立てなのです。考え方のコツをつかめば、「無限」や「26次元」などといった用語は不可解なものではなくなります。数学界でもっとも栄誉あるフィールズ賞を受賞した著者が、数学を支える重要な考え方を紹介します。数学をむずかしいと思う「壁」がきっと取り除かれることでしょう。』

“数学”を取り上げたのは“量子論=数学理論”だからです。そして、量子力学を牽引する極めて重要なシュレーディンガー方程式ですが、その一部の波動関数ψ[プサイ]の正体は未だに明らかになっていません。つまり、数学的には問題ないが物理学的には問題を残す。ということのように思います。

その波動関数について、マックス・ボルンが1926年に提唱したのが“波動関数の確率解釈”です。

 

画像出展:「ウィキペディア

この“波動関数の確率解釈”の“”は明確に二分されました。

”の立場をとった中には、シュレーディンガーをはじめ、ブロイプランクなどの量子力学の発展に大きな貢献をした物理学者も含まれていました。また、“光量子仮説による光の粒子と波動の二重性”を唱えたアインシュタインも反対の立場を取りました。その背景にあるものは、自然現象を表す物理学は決定論でなければならないという、ニュートン以来の物理学の大前提でした。

この、“波動関数の確率解釈”の“是非”の概要に迫ることは、数学と物理学(量子力学)の関係を知るうえで大切であると考えますので、ブログ“量子論1”でご紹介したものを再登場させ、それに追加するかたちで進めていきたいと思います。

著者:佐藤勝彦

出版:PHP文庫

発行:2000年4月

 

この本の「3章 見ようとすると見えない波 ◆ミクロの世界の物理法則が明らかになる」の部分をご紹介します。

『さて、3章でもさまざまな話をしてきました。最後は例によってこの章のポイントをおさらいしておきましょう。

①原子中の電子の軌道半径がとびとびの値に限られるというボーアの量子条件の根拠を示すために、ド・ブロイは電子を波であると考えて、その波長を求めた。

②シュレーディンガーは電子の波を表すシュレーディンガー方程式を導き、電子の「とびとび」のエネルギー状態などの説明に成功した。

③しかしシュレーディンガー方程式が示す波動関数ψ(プサイ)、すなわち電子の波(これは複素数の波である)の正体はわからなかった。

ボルンは波動関数ψそのものが何を表すのかを考えずに、代わりにψの絶対値の二乗が、電子をその場所に発見する確率に比例することを見いだした(「波動関数の確率解釈」)。

⑤ボーアたちは、観測される前の電子はさまざまな位置にいる状態が「重ね合わせ」になっているが、私たちが電子を観測したとたんに「波の収縮」が起きて電子は一ヶ所で発見されると考えた(「コペンハーゲン解釈」)。 

こうして1920年代に、原子中の電子が示す不思議な現象をきちんと説明できる理論を、私たちはついに手にすることになりました。そしてその結果わかったのは「電子などミクロの世界は、私たちが知っていた物理法則とはまったく違うルールに支配されていたのだ」ということです。

その新たなルールの第一は、シュレーディンガー方程式に代表される波動力学(量子力学)です。ミクロの世界の物質は、それを「波である」と考えることでふるまい(動きやエネルギー)などを求めることができるのです。

そしてもう一つのルールが「確率」です。私たちが電子を発見する場所は、サイコロを振って決められるかのように、確率的に決定されるというのです。』 

シュレーディンガー方程式は量子力学の基本となる方程式であり、図に示すような形をしています。一方、古典物理学の中には、音波や電磁波などの波が周囲に伝わっていくようすを表す波動方程式というものがあります。シュレーディンガー方程式はそれに似ていますが、さらに複雑なものになっています。

画像出展:「量子論を楽しむ本」

 

こちらは、波動力学の基礎方程式を発見したときのシュレーディンガーのノートです。

画像出展:「波動力学形成史」

 

こちらは1926年6月21日~26日に行われたチューリッヒでの会議後に若いヒュッケルを中心につくられたという詩です。

計算どっさり、エルヴィンさんが

波動関数とやらでなさるけど、

さて、わからんことが一つある

波動関数とは何なのか?

画像出展:「波動力学形成史」

 

今回はこの“◆ミクロの世界の物理法則が明らかになる”の次に書かれていた“◆確率解釈に反対したアインシュタインたち”もご紹介します。 

ここで問題になるのが、二番目のルールである「確率」、すなわち波動関数の確率解釈です。プランクやアインシュタイン、そしてド・ブロイやシュレーディンガーなどのそうそうたるメンバーが、この確率解釈に異議を唱えました。

波動力学を創始した当人であるシュレーディンガーはもちろんのこと、プランクやアインシュタインが「第一のルール」を認めていたことは、118ページでも触れたとおりです。118ページとは『この方程式を解けば、物質がどんな「形」の波を持ち、その波が時間の経過とともにどのように伝わっていくのかが計算できます。シュレーディンガーはこの方程式を用いて、水素原子中の電子のエネルギーがボーアの量子条件のとおりに「とびとび」になっていることを示しました。シュレーディンガーの論文は、プランクやアインシュタインからただちに絶賛されました。このシュレーディンガーの理論は波動力学と呼ばれ、ミクロの世界の運動法則を記述する量子力学の基本の理論になったのです』

しかし二番目のルールである確率解釈には激しく抵抗しました。なぜなら確率などという原理を物理学の中に持ち込むと、物理学はもはや「決定論」ではなくなってしまうと考えられるからです。

「物理学を決定論と考える」とは、簡単に言うと、過去のある時点の条件がすべてわかれば、その未来はただ一つに決定できると考えることです。たとえば、手に持ったボールから手を離したとき、ボールがどんな運動をするのかは、ボールと地面の距離や地球の重力の強さなどを知ることで正確に予測できます。同じように地球が明日、太陽の周囲を回る公転軌道の中でどこにいるのかも、太陽の重力や太陽と地球の距離を知ることで間違いなく計算できるのです。

ただしボールを地面に落とすとき、突然風が吹くかもしれません。一時間後に小惑星が地球に衝突して、地球の位置を変えてしまうかもしれません。しかし、そうした要因をもしすべて知ることができたならば、未来はただ一つに決められるというのが、決定論的な考え方です。そして自然現象を表す物理学は決定論でなければならないというのが、ニュートン以来の物理学の大前提だったのです。 

B点という位置における波の振幅が、A点における波の振幅の二倍になっているとします。この時、実際にこの電子を観察すれば、電子がB点において発見される確率は、A点において発見される確率の四倍(二の二乗=四なので)になるのです。

またD点における波の振幅は、A点と同じ大きさなので(「高さ」と「深さ」の区別は不要で、大きさつまり絶対値だけでだけを見ます)、発見確率も同じなります。これに対して、C点における波の振幅はゼロになっています。この場合、電子がC点という場所で発見される確率はゼロになるのです。

このように私たちが「ある場所」に電子を発見するかどうかは、その場所における波の振幅つまり波動関数ψの値によって左右されることになります。ψの絶対値が大きい場合ほど、そこに電子を見つける可能性が高いのです。

画像出展:「量子論を楽しむ本」 

写真は後列右から6人目がシュレーディンガー。中央の列右端がボーア、その左隣がボルンブロイ。前列右から5人目がアインシュタイン

第五回ソルヴェイ会議

・期間:1927年10月24日~10月29日

・場所:ベルギー ブリュッセル

・講演

 ・W.L.ブラッグ:X線の反射強度

 ・A.H.コンプトン:輻射の電磁理論と実験の不一致

 ・L.ドゥ・ブロイ:量子の新力学

 ・M.ボルン,W.ハイゼンベルク:量子の力学

 ・E.シュレーディンガー:波動の力学

 ・N.ボーア:量子仮説と原子論の新しい発展

『この回のソルヴェイ会議は主題に“電子と光子”を掲げていたが、議論はおのずと量子力学の解釈にむかい、それをめぐって沸騰した。量子力学のあたえる自然の記述は完全であるかとアインシュタインが問い、ボーアに迫った。彼等の晩年まで続く論争は実にこの会議にはじまったのである。

画像は「シュレーディンガー その生涯と思想」より、文章は「波動力学形成史」より。

こちらは、ボーアとシュレーディンガーの討論(p206)”、シュレーディンガーの”波動関数の確率解釈”に対する考え(p203)”、そして”量子力学の成立(p207)に関して書かれたページです。大変興味深いので抜粋してそのまま貼り付けました。

著者:K.プルチブラム

出版:みずず書房

発行:1982年3月

副題として”シュレーディンガーの書簡と小伝”と書かれています。



非常に長い前置きになってしまいましたが、上記の内容を頭の片隅に置きながら、今回の『一冊でわかる 数学』の中から、理解ができて、数学と量子力学/物理学のつながりに関係すると思われる部分をご紹介します。目次でいうと一つは「1.モデル」から、もう一つは「7.概算と近似」からになります。

著者:ティモシー・ガウアーズ

訳者:青木 薫

数学的モデルとは?

『物理学の問題に対して得られた答えをよく調べてみると、科学的な考察からもたらされる部分と、数学によってもたらされる部分とにはっきり区別できることが多い(いつも必ず区別できるわけではないが)。また、科学者が理論を組み立てるときには、観測や実験の結果から作っていく部分と、理論のシンプルさや、現象をどれだけ説明できるかといった一般的考察から作っていく部分とがある。数学者や、科学者のなかでも数学をやっている人たちは、そうして作られた理論をもとに、純然たる論理だけによって何が引き出せるかを調べていく。型どおりの計算からは、その理論がもともと説明すると期待されていた現象が導かれることもあるが、ときにはまったく思いもよらなかった現象が予測されることもある。そんな意外な予測がのちに実験によって裏づけられれば、理論を支持する立派な証拠となる。

しかしながら、「科学理論による予測を実験によって裏づける」という作業は一筋縄ではいかない。なぜなら、前節で述べたように、状況を簡単にしてくれる仮定を置く必要があるからだ。それを説明するために、もうひとつ別の例を挙げよう。ニュートンの運動法則および重量法則によれば、2つの物体を同じ高さから同時に落とせば、それらは同時に着地する(ここでは地面は平坦だと仮定した)。ガリレオが最初に指摘したこの現象は、いささか直感に反している。いや、直感どころではない。ゴルフボールとピンポン玉で実験してみればわかるように、実際、ゴルフボールのほうが先に地面に着くからだ。では、いかなる意味でガリレオは正しかったと言えるのだろうか?

この簡単な実験がガリレオ説への反証とみなされないのは、いうまでもなく、空気抵抗が存在するからである。経験が教えているように、空気抵抗が小さければガリレオの理論はよく成り立つ。だが、「ニュートン力学の予想がはずれたときはいつも空気抵抗のせいにするのはご都合主義だ」と思われる読者もいるかもしれない。しかしそんな読者も、真空中では、羽毛はたしかに石と同じように落下するのである。

とはいえ、科学における観測は、どうやっても完全には直接的にも決定的にもならないから、科学と数学との関係を説明するには、もう少しうまい方法を考えなければならない。実をいえば数学者は、科学理論をそのまま現実世界にあてはめるのではなく、「モデル」にあてはめるのである。ここではモデルというのは、研究対象である現実世界の一部を単純化した、いわば架空の世界であり、その世界では厳密な計算ができるようなものと考えてよい。石を投げる場合であれば、現実世界とモデルとの関係は図1と図2との関係のようなものである。

与えられた物理的状況をモデル化する方法はたくさんあるので、あるモデルが現実世界を理解するのに役立つかどうかを判断するためには、経験に照らし、理論的考察をさらに深めなければならない。モデルを選ぶときにまず目安にすべきは、そのモデルの性質が、観察されている現実世界の性質に対応するかどうかだ。しかしながら、モデルがシンプルであることや、数学的にエレガントであることなど、現実世界との対応以外の要素のほうが重要になることも少なくない。実際、現実世界にはまったく似ていないのに非常に役立つモデルもあるのだ。』 

画像出展:「1冊でわかる 数学」 

概算と近似

『たいがいの人は、数学は白黒はっきりした厳密な学問だと思っている。高校までの数学を習うと、簡潔に述べられた問題の答えはやはり簡潔に示され、しかも多くの場合は短い式で表されるのだろうと思うようになる。ところが、大学まで数学の勉強を続けた人たち、とくに数学を研究しはじめた人たちは、これほど現実からかけ離れた話もないことをすぐに悟ることになる。多くの問題において、解が厳密な式で表されるのは、思いもよらない奇跡的な出来事なのである。たいていは厳密な答えではなく、おおざっぱな概算で妥協しなければならない。概算というものに慣れるまでは、こういう妥協はみっともなくて口惜しいことに思われる。だが、概算の面白みを知っておいて損はない。なぜならそれを知らないでいることは、いくつもの大定理や、未解決問題の大半に出会い損なうことだからである。』 

分かったこと(イメージ)

物理学と数学の関係は性格の異なる兄弟のように感じました。現実主義者(物理学)の兄と曲がったことの大嫌い(数学)な弟というイメージです。

二人は血がつながっており、お互い助け合って生きています。二人の関係を意識すると、兄、弟、それぞれの個性も理解しやすくなります。

しかしながら、今回は現実主義の兄も先祖代々受け継がれてきた家訓(ニュートン力学に代表される“決定論”)をないがしろにすることはできないという強い思いを抱いています。一方、兄を支援する立場の弟は、曲がったことは一切受けつけないという頑固さを封印し、結果に対する柔軟性(概算・近似)に目を向け、考えの幅を広げることも必要だと感じています。

量子論の育ての親とされるニールス・ボーアと古典派との分かれ道となった“波動関数の確率解釈”を提唱したマックス・ボルン等の推進派。彼らは”歩”を進めるために家訓を越え、柔軟性を積極的に取り入れることによって、常識がまったく通用しない原子よりも小さなミクロの世界に足を踏み入れました。

マックス・ボルンは“波動関数の確率解釈”の発表から28年後の1954年にノーベル物理学賞を受賞されました。そして、なくてはならないコンピュータをはじめ様々な分野で量子力学は大きな成果に貢献しています。

量子論のニールス・ボーア、“波動方程式”のエルヴィン・シュレーディンガー、そして“波動関数の確率解釈”という家訓を乗り越えたマックス・ボルン、この三人は特に大きな存在だったと思います。

注)ボーアは1922年、シュレーディンガーは1933年にそれぞれノーベル物理学賞を受賞されました。 

付記1(「8.数学に関するよくある質問」より)

本書の最後となる「8.数学に関するよくある質問」にはユニークな8つの質問が掲載されています。ここでは先頭の「数学者は30歳を過ぎると才能が枯渇してしまうというのは本当ですか?」をご紹介させて頂きます。

1 数学者は30歳を過ぎると才能が枯渇してしまうというのは本当ですか?

2 女性の数学者が少ないのはなぜですか?

3 数学と音楽は相性がいいのでしょうか?

4 積極的に数学は嫌いだと言う人がこれほど多いのはなぜでしょうか?

5 数学者は研究にコンピュータを使いますか?

6 数学を研究できるということが不思議です。

7 有名な問題がアマチュアによって解かれた例はありますか?

8 なぜ数学者は、定理や証明を「美しい」などと言うのですか?

1 数学者は30歳を過ぎると才能が枯渇してしまうというのは本当ですか?

『これは広く信じられている神話だが、この神話が人の心に訴えるのは、数学的能力というものが誤解されているせいである。世間の人たちは、数学者は天才なのだと思いたがる。そして天才とは、一握りの人だけが生まれながらにもつ完全に神秘的な資質であって、一般人がそれを獲得する見込みはないと考えたがるのだ。

数学者の年齢と研究の生産性との関係には大きな個人差があり、20代で最良の仕事をする数学者がいるのも事実である。しかし圧倒的多数の数学者は、知識や経験は年齢とともに増え続けると感じているし、たとえ「生の脳力」は低下するとしても(「生の脳力」などというものがあればだが)、長期的には、知識や経験の増大は脳の衰えを補ってあまりあるというのが実感だろう。画期的な仕事が40歳を過ぎた数学者によって成し遂げられることが多くないのは確かだが、しかしそれはむしろ社会的な要因のせいではないだろうか。40歳までには、画期的な仕事ができるほどの人はすでに若い頃の仕事で名を成しているから、地位や名声をまだ確立していない若い数学者ほどのハングリー精神はなくなっているのかもしれない。しかしこれには多くの反例があり、なかには退職後もずっと情熱を失わない数学者もいる。

世間に広まっている数学者のステレオタイプは、あまりうれしいものではない―「頭は非常に良いだろうが、変人で身なりにかまわず、中性的かつ自閉症的」といったところか、このステレオタイプにあてはまらないからといって、数学は得意教科にはなりえないと考えるぐらい馬鹿げたことはない。実際、他の条件がすべて同じなら、あてはまらない人のほうが有利だろう。数学を学ぶ学生のうち、研究者にまでなる人はごくわずかである。たいていは途中で興味を失ったり、博士課程への受け入れ枠に入れなかったり、博士号は取得したものの大学に職を得られなかったりして研究をやめてしまう。こうして何段階もの選抜をくぐり抜けた人たちの集団では、初期の学生時代にくらべて、変人の比率は少なくなっているというのが私の印象である。―そして、そう感じているのは私だけではない。

好ましからぬ数学者像には、本来ならば数学を楽しみ、数学が得意になっていたかもしれない人たちをこの教科から遠ざけるという悪影響があるのかもしれない。だが、「天才」という言葉の及ぼす害悪は、いっそう見えにくく、しかも深刻だ。天才をおおざっぱに定義すれば、「ふつうの人にはできないこと、あるいは何年も修行しなければできないことを、若くしてやすやすとやってのける人」となるだろう。天才たちの偉業には何か魔法めいたところがあって、天才の脳は単にわれわれのそれよりも効率よく機能するだけでなく、何かまったく異質な働き方をするかに思われるものがある。ケンブリッジ大学には1年か2年に1人ほど、教員を含めてたいていの人が何時間もかかって解くことになりそうな問題を、ものの数分で解いてしまう学生が入学してくる。そういう人物を前にすれば、一歩下がって驚嘆するしかない。

ところが、そんな並はずれた人たちが数学研究者として大成するとは限らないのである。自分以前のプロの数学者たちが取り組んでは失敗してきた問題を解こうとすれば、さまざまな資質が必要になる。先に定義した天才の資質などは、そのためには必要でもなければ十分でもない。極端な例を挙げると、アンドリュー・ワイルズはちょうど40歳のときにフェルマーの最終定理(「x,y,z,nを正の整数とし、nが2よりも大きいとき、xのn乗+yのn乗はzのn乗と等しくはなりえない」)を証明し、世界一有名な数学の未解決問題を解決したが、ワイルズの頭の良さに疑問の余地はないにせよ、彼は私の言う意味での天才ではない。

しかしあれほどの偉業を成し遂げた人物であるからには、常人を超えた神秘的な力をもっているに違いないと思う人もいるかもしれない。なるほどワイルズの仕事は驚異的だが、それは説明不可能な種類の驚異ではない。彼を成功させたものが本当のところ何であるかを私は知らないけれども、少なくともワイルズは、大いなる勇気と、確固たる意志と、強靭な忍耐力と、他の研究者が成し遂げた難解な研究に関する広範な知識と、しかるべき時期にしかるべき領域を研究していた幸運と、ずば抜けた戦略能力を必要としたことだろう。

結局のところ、最後に挙げた「ずば抜けた戦略能力」という資質こそは、猛烈なスピードで暗算ができることなどよりはるかに重要である。数学に対するもっとも深い貢献は、しばしばウサギよりはカメによって成し遂げられているのだ。数学者は成長するにつれて多くの専門知識を身につけていくが、それらは同僚の仕事から得られることもあれば、長い時間をかけて数学を考え抜いた結果として得られることもある。そうして身につけた知識を使って有名な難問を解決できるかどうかを決めているのは、主として注意深い計画性である。豊かな実りをもたらしてくれそうな問題に狙いを定め、見込みのなさそうな戦略を捨てるべき時に知り(これは難しい判断である)、詳細を詰めていく前に(そこまで到達するのは稀である)、大まかなアウトラインを描き出せなくてはならない。それができるためには、ある程度の成熟が必要だ。これは決して天才であることと相容れない資質ではないけれど、必ずしも天才に付随する能力でもないのである。』

付記2『思考の凄い力』:ブルース・リプトンより)

今回、いままで全く縁のなかった量子論、量子力学を学ぼうとしたきっかけは、ブログ“がんと自然治癒力8”で読んだ『思考の凄い力』に因るものです。最後にもう一度その内容を確認して終わらせたいと思います。 

著者:ブルース・リプトン

第四章 量子物理学が生物学・医学を変える日は近い

ニュートン力学では超常現象を解明できない

『搭乗を待っていて、ハッと気がついた。これから5時間もシートに縛りつけられるというのに、何も読み物がない。

搭乗ゲートは閉まろうとしていたが、列から離れてコンコースを降り、本屋へと向かった。選択肢は山のようにあるのに飛行機のドアが閉まって取り残される危険性もあり、パニックになりそうだった。どうしていいかわからなくなったとき、一冊の本が目にとまった。『量子の世界』。著者は物理学者ハインズ・R・パージェル。ざっと見たところ、量子物理学の初心者向け解説書らしい。大学のとき以来、量子物理学恐怖症は根強かったので、すぐに棚に戻してもっと軽い読み物を探す。

頭の中でストップウォッチの秒針がレッドゾーンに突入した。ベストセラーだと自ら喧伝している本をつかんで、レジに走る。会計を待ちながらふと見ると、カウンターの後ろの棚に例のパージェルの本が一冊ある。会計はもうほとんど終わっていたし、時間切れになる寸前だったが、ついに量子物理学嫌いを返上して、『量子の世界』も追加で買うことにした。

本屋への行き来にダッシュしたのでアドレナリン全開だったが、飛行機に乗り込んでなんとか自分を落ち着かせ、クロスワードパズルを解いてから、いよいよパージェルの本にとりかかった。

ハッと気がついたときには没頭していた。何度も前にかえっては同じ部分を読み直さなくてはならなかったが、それでも夢中になった。フライトのあいだ読み続け、マイアミで3時間待ちのときもずっと読み続け、さらに楽園の島へ向かう5時間の道中ずっと本を置くことができなかった。パージェルには完全にやられてしまった!

シカゴで飛行機に乗るまで、量子物理学が生物学に関係があるなどとは思ってもみなかった。ところが飛行機が楽園に着いたときは脳が揺さぶりをくらっていた。量子物理学は生物学に“関係おおあり”なのだ!

量子物理学の法則を無視する生物学者は明らかに科学的な過ちを犯している。なんといっても物理学はすべての科学の基礎なのだから。ところが、わたしも含めて生物学者たちはほぼ全員、時代遅れの、だがより整然としたニュートン物理学に頼っている。世界はニュートンの説いたように動いているという考えに固執し、目に見えない量子の世界、アインシュタイン的世界を無視している。

アインシュタインによれば、物質はエネルギーから成っていて、絶対的物質なるものは存在しない。原子レベルでは、物質は確実に存在するわけではない。存在する可能性があるとしか言えないのだ。わたしがそれまで生物学や物理学について確信していた事柄が、木っ端みじんではないか!(訳註:アインシュタインは初期量子論の誕生には貢献しているが、量子物理学を打ちたてたのはボーアやシュレディンガー、ハイゼンベルクら、アインシュタインとはほぼ同時代の物理学者たちである。現代物理学はアインシュタインの相対性理論とボーアらの量子論を二本の柱としている)

ニュートン物理学は論理を追求する科学者にとってはエレガントで安心を与えてくれるものであったとしても、宇宙についてはもちろん、人体の真実をすべて解き明かしてくれるものではない。いまから思えば、わたしも他の生物学者たちもそれは承知していたはずだ。

医学は日々進歩していくが、生きている身体は頑固なまでに定量化を拒んでいる。ホルモンやサイトカイン、成長因子や腫瘍抑制因子など、シグナルとなる化学物質の働くメカニズムが次から次へと発見されている。

だがそういったメカニズムでは超常現象は説明できない。自然治癒、心霊現象、驚くほどの筋力や耐久性、灼熱の石炭の上を火傷一つ負わずに素足で渡る能力、“気”を移動させて痛みを消し去る鍼灸師の力など、そのほかさまざまな超常現象が、ニュートン的世界観に立脚した生物学では説明不能だ。

医学部にいたときには、もちろん、これらの現象については全然考えてもみなかった。わたしも他の教官たちも学生たちに鍼灸療法やカイロプラクティック、マッサージ療法、祈祷などで病気が治るという主張は無視するように教え込んでいた。いや、それ以上だ。医者を名乗るペテン師の口上だといって弾劾さえしたのだ。それほど古典的なニュートン物理学を信じ込み、他の考え方はできなくなっていた。

いま挙げた療法はいずれも、エネルギー場が人間の身体の生理機能や健康に影響を及ぼしているという信念に基づくものだ。

生物と量子力学3(意識)

「“信じる者は救われる”とは誰が言った言葉なんだろう?」と思いました。

調べてみると、それは新約聖書の中のマルコ福音書16:16(Mark 16:16)というところから来ているようです。

画像出展:「DailyVerses.net

何が言いたかったかというと、患者さまが「鍼は効く[ポジティ]」(「鍼は怖い[ネガティブ]」ではなく)と思うとき、そして施術者が患者さまの病態を理解し適切な“証(施術方針)”を立て、「鍼は効く[ポジティブ]」と思うとき、鍼の効果は得られやすいように感じます。

一方、ブログ「量子論2」の“5.量子の奇怪さ”の中には、次のような指摘がされています。

『量子論を考え出した人たちは、ニュートン的世界観と対照的なもう一つの面に気づいた。それは観測者が創り出すリアリティというものだ。量子論によれば、観測者が何を測定しようとしているかということがその測定自身に影響を及ぼすことになる。量子の世界で現実に起こっていることは、その世界を我々がどのように観測しようとしているかに依存しているのだ』

“何を測定しよう”という行為は“観測者”という主体が持つ“意識”から生まれるものだと思います。つまり、意識は量子の世界とつながり、影響を与えるものだということです。 今回の本の中にも「心」をテーマにした章がありました。詳細は以下の通りです。

第8章 心

●意識はどれほど奇妙なのか?

●思考のメカニズム

●心はどうやって物体を動かすのか

●キュビットを使った計算

●微小管を使った計算?

●量子イオンチャンネル?

内容はいずれもその難しさに圧倒されるものですが、“心はどうやって物体を動かすのか”と最後の“量子イオンチャンネル?”の一部ご紹介させて頂きます。

心はどうやって物体を動かすのか

『おそらくほとんどの人は、心や魂や意識は物理的な身体とは別物だとする「二元論」の考え方を、何らかの形で受け入れていると思う。しかし20世紀の科学界では二元論は支持を失い、いまではほとんどの神経生物学者は、心と体は同じ一つのものだとする「一元論」の考え方のほうを好んでいる。たとえば神経科学者のマルセル・キンズブルンは、「意識があるというのは、神経回路がある特定の相互機能状態にあるようなものだ」と主張している。しかし先ほど話したように、コンピュータの論理ゲートは神経細胞にかなり似ている。だとしたら、およそ10億のインターネットホストから構成されているワールドワイドウエブ(1000億個の神経細胞からなる脳に比べたらまだ小さいが)のような、高度に連結したコンピュータは、なぜ意識の兆しさえも示さないのだろうか? なぜ、シリコンでできたコンピュータはゾンビ[意識を持っていないという意味です]で、肉でできたコンピュータは意識を持っているのだろうか? 単に、ワールドワイドウェブが我々の脳の複雑さや「相互連結性」にまだ到達していないというだけの問題だろうか? それとも、意識はまったく違うたぐいの計算活動なのだろうか?

もちろん、このテーマについて書かれた数々の書物のなかでは、意識に対するさまざまな「説明」が展開されている。しかしここでは、本書のテーマにもっとも関係のある、きわめて異論が多いが魅力的なある主張に焦点を絞ることにする。それは、意識は量子力学的現象であるとする説だ。なかでももっとも有名なのは、オックスフォード大学の数学者ロジャー・ペンローズが1989年の著書「皇帝の新しい心」のなかで説いた、人間の心は量子コンピュータだという主張である。 ~』

量子イオンチャンネル?

『~ 脳の電磁場によって神経発火が同期するという現象は、神経活動の特徴のなかでも意識と関係があることが知られているごく少数の例の一つである。そのため、意識の謎について考える上でもきわめて重要だ。たとえば、視界のなかに置かれている自分の眼鏡などの物体を探していて、散らかったほかの物体に混じってそれを見つけたときに誰もが経験する現象について考えてみよう。散らかった場所を見ているとき、探している物体をコードしている視覚情報は目を通じて脳へ伝えられているが、なぜかその探している物体を見ることはない。それを「意識」してはいないのだ。しかししばらくすると、その物体が見えるようになる。はじめ気づかなかったときと、同じ視野のなかにその物体があることに気づいたときとで、脳のなかでは何が変化しているのだろうか? 驚くことに、神経発火そのものは変化しないらしく、眼鏡が見えていようがいまいが同じ神経細胞が発火する。しかし眼鏡を見つけていないときには、神経細胞の発火は同期しておらず、見つけると同期する。電磁場は、脳の互いに離れた場所にあるコヒーレントなイオンチャネルをすべて一つに結びつけることで、無意識から意識的思考への移り変わりに何らかの役割を果たしているかもしれない。

強調しておくべきだが、意識を説明するために脳の電磁場や量子コヒーレントなイオンチャネルといった概念を持ち出してきたところで、けっしてテレパシーのようないわゆる「超常現象」の存在が裏付けられることにはならない。電磁場もイオンチャネルも、一つの脳のなかでおこなわれる神経プロセスにしか影響を与えることはできず、異なる脳のあいだで意思疎通することはできないのだ! さらに、ゲーデルの定理[不完全性定理:数学基礎論における重要な定理]に基づくペンローズの主張について考察したときに指摘したように、酵素活性や光合成など本書で取り上げたほかの生物現象と違い、そもそも意識を説明するのに実際に量子力学が必要であるという証拠はまったくない。しかし、生命に欠かせないあれほど多くの現象に関係していることが分かっている量子力学の奇妙な性質が、生命のもっとも謎めいた産物である意識にはまったく関係していないなどということが、はたして考えられるだろうか? その判断は読者にお任せしよう。量子コヒーレントなイオンチャネルと電磁場に基づいて意識を説明するという説を含め、ここまで示してきた事柄はもちろん推測にすぎないが、少なくとも脳のなかで量子の世界と古典的な世界をつなぐものとしては理にかなっている。』

以上のことから、この本の著者は意識と量子の世界の関わりについて、ロジャー・ペンローズの著書「皇帝の新しい心」の内容に対して懐疑的ではあるものの、その可能性は否定していないということが分かります。こうなると、何はともあれ「皇帝の新しい心」という本を知る必要があります。

幸い、お世話になっている図書館にそれは所蔵されていました。 

題名:「皇帝の新しい心 コンピュータ・心・物理法則」

原書:「The Emperor's New Mind: Concerning Computers, Minds, and The Laws of Physics」1989年

著者:ロジャー・ペンローズ

出版:みすず書房

発行:1994年12月

ここでは訳者である林 一先生(昭和薬科大学名誉教授)による「訳者あとがき」の一部と、この本の目次をご紹介したいと思います。

『~ 心はなぜ存在するか、心は脳という生物的機関に固有のものなのか。意識現象が科学で理解できるのか。思考は機械的に可能か。われわれはなぜここにいて、宇宙について、心について考えているのか。

相対性理論の新しい時空像、量子論が切り開いたパラドクシカルな状況、人工知能(AI)の発展、ゲーデルの定理、チューリング機械の理論がさらけだしたアルゴリズム的思考の限界。脳科学が提示している知覚の奇妙さ。こうした現代科学の成果は、上の問題を新たな形で定式化しては、それをめぐる謎をさらに深めたと言える。

この謎に対する出来合いの答はもちろんない。本書は、現代科学のあらゆる分野の関連のあるかぎり遠慮なく取り上げて、この本題に迫る。答えはないとはいえ、ペンローズが多大の労力を費やしたのは、彼の大胆な仮説、見通しを筋道を立てて率直に読者に説明するためである。そのためには相対性理論、量子論の根本的問題についても論じなければならない。議論は明快で数式はかみ砕かれており、読み飛ばしても差し支えないという断りがあるとはいえ、かの【ホーキング、宇宙を語る】の各編集者がホーキングに与えた、どんな数式も読者を半減させるという名警告を、彼はあえて無視した。

数理物理学、相対性理論、宇宙論の分野で赫々(カクカク)たる業績をあげた、当代きっての数学者・物理学者であるペンローズがなぜ、大勢の物理学者が敬して遠ざけてきたこの問題にここまで真剣に取り組むようになったのか、その心中を推測することは私にはできない。きっかけについては彼自身の言葉を上で紹介したが[上で紹介とは「副題に“コンピュータ・心・物理法則”とあり、コンピュータが心をもちうるかという問題を、それを肯定的に答える一部の論者に刺激されて、心とは何かについて深く考え始めたのが、本書執筆の動機であった、と著者自身が述べている、ひょっとするとごく単純で、エヴェレストがそこにあるのと同じように、問題がそこにあったからなのであろうか。いずれにしても、これは功なり名を遂げた高名な科学者にしばしば見られる、高尚な哲学的問題への寄り道、老後の手すさびではない。彼は数年来、さまざまな形でこの問題に対する関心の深さを披露してきたのだが、ついに本格的な書物の形にまとめて、世に問うに至った。

心とは何か、意識の本体は何か、それを解明するには、量子論を根本から改革しなければならない。ビッグバンの解明には、量子重力論の建設が必要であることは広く認められているが、ペンローズはさらに進んで、正しい量子重力論が、心の謎、時間の流れという意識の謎を科学的に解く鍵を与えると予測している。意識的思考は非アルゴリズム的で、謎めいた無意識の方こそアルゴリズム的だという指摘、重力による時空の湾曲が意識の成立に関わる、という見通しは、彼以外のすべての科学者にとっても、現代科学に多少なりと親しんでいる一般読者にとっても、破天荒なアイデアであろう。

この問題に対する彼の大胆極まりない答えを一般読者に向けて解くためには、背景となる科学のさまざまな分野(上ではその一端に触れただけだが)について予備知識を与えるべく、著者は筆を惜しまず数百ページを費やして解説した後、本題に迫る。その範囲の広大さは、目次を一目見ただけで分かるだろうから、ここでは羅列しないが、その解説も決して型通りのものではなく、この著者ならではの独創的なものであるが、それはこのような分野に接したことのある読者なら一読して自ら納得されるだろう。うまく訳文に表すことができたかどうか心細いが、控えめだが企まざるユーモアも微笑ましい。

彼自身が明言しているように、当然ながら、彼の答えも暫定的なものである。かつて彼の名声を不動にした、いわゆるペンローズの定理―すべての既知の物理法則が成立しない特異点ブラックホールが生じるのは特殊な条件のもとに限られるという、長年の物理学者の希望的観測を打ち砕いた定理―の発見が、後にスティーヴン・ホーキングの協力を得て、ペンローズ‐ホーキングの定理に拡大されて、宇宙論の展開に大きな転機をもたらしたことが思い合わされるが、心という小宇宙と大宇宙に科学的理解の橋を架けようという、それ以上にスケールの大きな大胆不敵なアイデアが、どのような運命をたどることになるのか、そして、現代科学、なかんずく人工知能論が心に着せている新しい衣を、ペンローズが、皇帝の権威を恐れない寓話の中の子供のように見透かしたことになるのか、私には予測はつかない。 ~』

目次

序文

プロローグ

1 コンピュータは心をもちうるか?

 はじめに

 テューリング・テスト

 人工知能

 「快楽」と「苦痛」に対するAIアプローチ

 強いAIとサールの中国語の部屋

 ハードウェアとソフトウェア

2 アルゴリズムとテューリング機械

 アルゴリズム概念の背景

 チューリングの発想

 数値データの2進符号化

 チャーチ‐チューリング・テーゼ

 自然数以外の数

 万能チューリング機械

 ヒルベルトの問題の解決不能性

 アルゴリズムをどう出し抜くか

 チャーチのラムダ算法

3 数学と実在

 トルブレッド=ナムの国

 実数

 実数はどれだけあるか?

 実数の「実在性」

 複素数

 マンデルブロー集合の作図

 数学的概念のプラトン的実在性

4 真理、証明と洞察

 数学に関するヒルベルトのプログラム

 形式的数学的システム

 ゲーデルの定理

 数学的洞察

 プラトン主義か直感主義か?

 テューリングの結果から導かれるゲーデル型の定理

 帰納的に可算な集合

 マンデルブロー集合は帰納的か?

 非帰納的な数学のいくつかの例

 マンデルブロー集合は非帰納的数学らしいか?

 複雑性理論

 複雑性と物理的な事物の計算可能性

5 古典的世界

 物理理論の身分

 ユークリッド幾何学

 ガリレオとニュートンの動力学

 ニュートン力学の機械論的世界

 ビリヤード・ボール世界における生命は計算可能か?

 ハミルトン力学

 位相空間

 マクスウェルの電磁理論

 計算可能性と波動方程式

 ローレンツの運動方程式:暴走粒子

 アインシュタインとポアンカレの特殊相対性理論

 アインシュタインの一般相対性理論

 古典物理学における計算可能性:われわれはどこに立っているのか?

 相対論的因果性と決定論

 質量、物質と相対性

6 量子マジックと量子ミステリー

 哲学者は量子論を必要とするか?

 古典理論の問題点

 量子論の始まり

 2重スリット実験

 確率振幅

 粒子の量子状態

 不確定性原理

 発展手順UとR

 1つの粒子が同時に2つの場所にある?

 ヒルベルト空間

 測定

 スピンと状態のリーマン球面

 量子状態の客観性と測定可能性

 量子状態のコピー

 光子のスピン

 大きなスピンをもつ対象

 多粒子系

 アインシュタイン、ポドルスキ―、ローゼンの「パラドクス」

 光子を用いる実験:相対性理論の難点?

 シュレーディンガー方程式:ディラック方程式

 量子場の理論

 シュレーディンガーの猫

 現行の量子論に対するさまざまな態度 

 われわれはどこに取り残されたのか?

7 宇宙論と時間の矢

 時間の流れ

 容赦ないエントロピーの増大

 第2法則の働き

 宇宙における低エントロピーの起源

 宇宙論とビッグバン

 原初の火の玉

 ビッグバンは第2法則を説明するか?

 ブラックホール

 時空特異点の構造

 ビッグバンはいかに特殊であったか?

8 量子重力を求めて

 なぜ量子重力か?

 ワイル曲率仮説の背後に何があるか?

 状態ベクトルの収縮における時間非対称性

 ホーキングの箱:ワイル曲率仮説との関連?

 状態ベクトルはいつ収縮するか?

9 実際の脳とモデル脳

 脳は現実にはどういうものか?

 意識の座はどこか?

 分割脳実験

 盲視

 視覚皮質における情報処理

 神経信号はどのように働くのか?

 コンピュータ・モデル

 脳の可塑性

 並列コンピュータと意識の「唯一性」

 脳の活動に量子力学の出番はあるか?

 量子コンピュータ

 量子論を越えて?

10 心の物理学はどこにあるのか?

 心は何のために?

 意識の現実に何をなすのか?

 アルゴリズムの自然淘汰?

 数学的洞察の非アルゴリズム的性格

 インスピレーション、洞察と独創性

 思考の非言語性

 動物意識?

 プラトン的世界との接触

 物理的実在に対する1つの見方

 決定論と強い決定論

 人間原理

 タイル並べと準結晶

 脳の可塑性とのありうべき関連

 意識の遅れ

 意識的知覚における時間の奇妙な役割

 結論:子供の見方

エピローグ

まとめ

”まとめ”というには頼りない内容ですが書いてみました。

繰り返しになりますが、本書の著者が考えている「量子力学と意識」の関係性は次の通りです。

酵素活性や光合成など本書で取り上げたほかの生物現象と違い、そもそも意識を説明するのに実際に量子力学が必要であるという証拠はまったくない。しかし、生命に欠かせないあれほど多くの現象に関係していることが分かっている量子力学の奇妙な性質が、生命のもっとも謎めいた産物である意識にはまったく関係していないなどということが、はたして考えられるだろうか?

これを見たときに気になったのは、ブログ ”がんと自然治癒力9” でご紹介したテロメアです。

このテロメアは2017年5月、NHKの”クローズアップ現代”でも紹介されています。

『老化を防ぎ、若さを保ちたい。そんな願いをかなえると注目されている研究がある。ノーベル賞生物学者・ブラックバーン博士らによる「テロメア」研究だ。染色体の端にあり細胞分裂のたびに短くなるため、年とともに縮むと考えられていたテロメア。ところがテロメアを伸ばして細胞から若返る方法があり、がんを防げる可能性もあるというのだ。』

『ブラックバーン博士たちが発見した酵素「テロメラーゼ」です。テロメラーゼは、テロメアが短くなるのを遅らせたり、さらに伸ばしたりする働きもあります。これによって、細胞を若返らせる可能性が出てきたんです。この発見で、ブラックバーン博士たちはノーベル賞を受賞。そして今、どうすればテロメラーゼを増やし、テロメアを伸ばすことができるのか、研究が進んでいます。』

この時、勉強した本は『テロメア・エフェクト』ですが、そこでは”靴紐とキャップ”を例に”染色体とテロメア”を紹介していました。


そして、ストレスに対する”脅威反”と”チャレンジ反応”という二つの反応によって、テロメアが受ける影響は異なるということも説明されていました。これは意識とテロメアの関係を示すものだと思います。


テロメアにはNHKの”クローズアップ現代”のところでご紹介したように、”テロメラーゼ”という酵素の関与が明らかになっています。酵素のメカニズムに量子力学が関わっているということが証明されれば、テロメアに影響を与える意識と下図の三層目に存在する量子力学が結ばれると考えても良いのではないでしょうか。

画像出展:「量子力学で生命の謎を解く」

生物と量子力学2(酵素)

酵素に注目した理由は、代謝にとって酵素が極めて大切なものだからです。

 “がんと自然治癒力”というブログの中で、自然治癒力とは何かについて整理整頓し、「自然治癒力とはストレス適応と栄養代謝である(詳細は“がんと自然治癒力13” の中段にある ”4.自然治癒力について” をご覧ください)という自分なりの考えをまとめました。

酵素は本書のなかでも、【生命のエンジン】であり、【我々を生かしつづけている「代謝」というプロセスを加速している】とされており、非常に重要なものと位置づけられています。

「第3章 生命のエンジン」はまさに酵素について書かれた章になります。ブログは目次に順じたつくりにはなっていませんが、 “●量子トンネル効果” については全文をご紹介しています。

第3章 生命のエンジン

●酵素-生きているものと死んでいるものを分け隔てるもの

●我々にはなぜ酵素が必要で、おたまじゃくしはどうやって尾をなくすのか

●地形を変える

●激しい運動や振動

●遷移状態理論ですべて説明できるのか?

電子をあちこちに動かす

量子トンネル効果

●生物における電子の量子トンネル効果

●陽子をあちこちに動かす

●速度同位体効果

●これで量子生物学は確立するのか?

また、下記の『 』で括った2つの文章は、前者が第3章の冒頭部分から、後者が“●電子をあちこちに動かす”から、それぞれ一部を抜き出したものです。そして、前者は“コラーゲナーゼ”、後者は“呼吸酵素”という2つの酵素を通じて、酵素の重要性や働きについて説明しています。さらに、呼吸酵素の「桁違いの凄さ」を生みだす “量子トンネル効果” とその前提となる “量子コヒーレンス” という量子現象について触れています。

酵素は生命のエンジンだその中でも我々におそらくもっとも馴染み深いものとしては、しみを取り除く「酵素入り」洗剤に加えられているプロテアーゼ[タンパク質分解酵素(タンパク質を構成するペプチド結合を加水分解する酵素]や、ジャムに加えて安定化させるペクチン[ペクチナーゼ(ペクチン分解酵素)]、あるいは牛乳を凝固させてチーズを作るために加えられるレンネット[凝乳酵素]など、日々ありふれた使われ方をしているものがある。また知っている人もいるかもしれないが、我々の胃や腸の中ではさまざまな酵素が食物を消化する役割を担っている。しかしそれらは、自然界のナノマシンの働きのなかでもかなり些細な例だ。原始のスープ[生命の起源に関わる言葉で、非生物的な有機物の濃縮されたスープのこと]のなかで姿を現した最初の微生物から、ジュラ紀の森を闊歩していた恐竜、そして現在生きているすべての生物に至るまで、あらゆる生命は酵素に頼っている。あなたの身体のなかにある一個一個の細胞は、何百や何千というこのような分子マシンで満たされており、それらが生体分子の組み立てと再利用のプロセス、我々が生命と呼ぶプロセスを、絶えず手助けしているのだ。

ここで鍵となるのが、酵素の働きを指す「手助け」という言葉だ。酵素の仕事は、本来ならあまりにも遅いさまざまな生化学反応を加速させる(「触媒する」)ことである。つまり、洗剤に添加されているプロテアーゼは、しみに含まれるたんぱく質の分解を加速させ、ペクチン[ペクチン分解酵素]は果実に含まれる多糖の分解を加速させ、レンネットは牛乳の凝固を加速させる。同じように、我々の細胞のなかにある酵素は、細胞内の何兆個という生体分子を絶えず何兆個という別の生体分子へ変換することで我々を生かしつづけている、「代謝」というプロセスを加速している。

メアリー・シュワイツァーが恐竜の骨に作用させたコラーゲナーゼも、そうした生物マシンの一つにすぎず、動物の体内ではつねにコラーゲン線維の分解を担っている。酵素によって分解がどれだけ加速されるかをおおまかに見積もるには、酵素がなかった場合にコラーゲン線維の分解にかかる時間(明らかに6800万年より長い)と適切な酵素があった場合の時間(約30分)とを比べればいい。そこには一兆倍もの開きがあるのだ。

標本番号:MOR-1125

2005年3月、ノースカロライナ州立大学のハイビー・シュワイツァーはサイエンス誌上でBレックスの大腿骨から軟組織の回収に成功したと発表した。論文では血管様の組織と弾力のある骨基質様の組織が報告された。もしこれがオリジナルの組織であればDNA抽出などの可能性が広がるが、一方でこれが本当にティラノサウルス由来の組織であるか疑問視する意見も多く寄せられた。

2016年、シュワイツァーらは鳥類との比較検討を行い、産卵期のメスの骨髄組織とBレックスの組織が非常によく似ていることを発見し、Bレックスの軟組織はオリジナルのもので間違いないと結論づけた。

画像出展:「ウィキペディア

この章では、コラーゲナーゼのような酵素がどのようにして化学反応を桁外れに加速させるのかを探っていく。近年、少なくともいくつかの酵素の作用に量子力学が重要な役割を果たしているという、驚きの発見があった。酵素は命の中核をなしているので、これを量子生物学をめぐる旅路の最初の寄港地としよう。

※「代謝」とは:生命維持活動に必須なエネルギーの獲得や、成長に必要な有機材料を合成するために生体内で起るすべての生化学反応の総称。(コトバンクの“ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”より) 

こちらの密集した手書きの図は、2017年10月にアップした”代謝と恒常性”でご紹介した、「総まとめ代謝マップ」と題されたもので、『「代謝」がわかれば身体がわかる』からもってきました。

呼吸とは息をすることだと考えたくなる。必要な酸素を肺に取り込んで、いらない二酸化炭素を吐き出すという作用だ。しかし実は息というのは、すべての細胞のなかで進行しているはるかに複雑で秩序正しい分子プロセスの、最初の段階(酸素の供給)と最後の段階(二酸化炭素の排出)を組み合わせたものにすぎない。そのプロセスは、「ミトコンドリア」と呼ばれる複雑な細胞小器官のなかで行われている。ミトコンドリアは、我々の大きい動物細胞のなかに閉じ込められた細菌の細胞のように見え、膜や独自のDNAなど内部構造まで持っている。実はミトコンドリアは、数億年前、動物や植物の細胞の祖先のなかに共生した細菌から進化して、その後、独自に生きる能力を失ったものにほぼ間違いない。ミトコンドリアが呼吸のようなきわめて精巧なプロセスを進めることができる理由は、かつて細菌として独自に生きていたことで説明できるだろう。化学的な複雑さでいえば、呼吸はおそらく、次の章で取り上げる光合成に次ぐ第二位だ。

呼吸において量子力学が果たしている役割を突き止めるには、呼吸のしくみを単純化してとらえる必要がある。それでも呼吸には、驚異の生物ナノマシンがおこなう一連の見事なプロセスが関わっている。はじめに炭素でできた燃料、この場合には食物から得た養分を燃焼させる。たとえば炭水化物は消火器の中で分解されてグルコースなどの糖になり、それが血流に乗って、エネルギーを必要としている細胞へ運ばれる。この糖を燃やすのに必要な酸素は、肺から血液によって同じ細胞へ届けられる。そして石炭を燃やしたときと同じように、分子内の炭素原子の最外殻にある電子が、NADHと呼ばれる分子へ移動する。しかしその電子は、すぐに酸素原子との結合に使われるのではなく、まるでリレー競争でバトンがランナーからランナーへ渡されていくように、細胞のなかにある「呼吸鎖」上を酵素から酵素へと手渡しされていく電子は移動の各段階ごとにより低いエネルギー状態へ落ち、酵素はそのエネルギー差を使って陽子をミトコンドリアから外へ汲み出す。次に、そうして生じたミトコンドリア内外での陽子の濃度差を使って、ATPアーゼと呼ばれる別の酵素が駆動し、ATPという生体分子を合成する。ATPはあらゆる細胞にとってきわめて重要な分子で、いわばエネルギーの電池のように細胞のなかを簡単に運ぶことができ、身体を動かしたり作ったりするなど、大量のエネルギーを必要とする活動にパワーを供給する。

電子のエネルギーを使って陽子を汲み出す酵素の働きは、余剰なエネルギーを蓄えるために水を高いところへ汲み上げる揚水ポンプに似ている。蓄えられたそのエネルギーを解放させるには、水を低いところへ流してタービンに回し、発電させればいい。それと同じように、呼吸酵素のポンプは、ミトコンドリアから外へ陽子を汲み出す。その陽子がなかへ戻ってくるときに、タービンに相当する酵素であるATPアーゼがパワーを得る。そのタービンの回転がさらに別の一糸乱れる分子運動を引き起こすことで、酵素のなかにある分子に高エネルギーのリン酸基を結合させ、ATPを作り出すのだ。

エネルギーを捕まえるこのプロセスをさらにリレー競争にたとえるなら、バトンの代わりに水(電子のエネルギー)の入った瓶を使い、それぞれのランナー(酵素)が少しずつ水を飲んでから瓶を次のランナーに手渡していって、最後に残った水を酸素と書いているバケツへ移す。このように電子のエネルギーを少しずつ捕まえることによって、酸素へ直接移すよりも全体のプロセスの効率がはるかに良くなり、廃熱として失われる分もきわめて少なくなるのだ。

この図は本書のものではないため、上記の説明とはつながっていません。

ここでは紫線電子の流れを見ていただくために添付しました。

画像出展:「人体の正常構造と機能」

このように、呼吸の鍵となる作用は息をすることとはほとんど関係なく、細胞のなかにある呼吸酵素が秩序正しく電子を受け渡していくことで成り立っている。酵素から酵素への電子移動は原子何個分にも相当する数十オングストロームの距離で起こり、従来の電子のジャンプではとうてい起こりえないと考えられていた距離に相当する。呼吸酵素はどのようにして、そのような長距離で電子をこれほど素早く効率的に移動させることができるのか、それこそが呼吸の謎である。』 

ここで問題の「数十オングストローム(Å)の距離」がどれ程のものか考えたいと思います。

こちらの絵は、“水素原子”を「ピンポン球」の大きさに拡大すると、“ピンポン球”は「地球」の大きさになってしまう。という例です。なお、水素原子の正確な直径は、1.06(オングストローム)になります。

画像出展:「原子ってどんなもの?(1)

原子の直径として明記されている10-10mという数は1Å[オングストロームと同じです。また、中央にあるオレンジ色原子核の大きさは中性子と陽子の数で決まります。その原子核の周りに電子が存在しているというのが原子の全体像です。

画像出展:「第1回:原子のつくり その1

数十オングストローム(Å)の距離とは

■1Åは10−10m

■1Åは 0.1ナノメートル(nm)

■1Åは100ピコメートル(pm)

この表は「ウィキペディア」に出ている表を参考に作成しました。

 

この表は「電子の大きさはどれだけか?」に出ている表を参考に作成しました。

 

水素原子の半径は0.53Å(53pm)。原子核の大きさは陽子・中性子の数によって変わりますが、陽子・中性子それぞれの半径はともに約1.2fm(0.0012pm・0.000012Å)。従って、陽子・中性子を1とすると、水素原子は陽子・中性子の約44,000倍であり、原子核の外側に位置する電子は原子核から約44,000倍離れていることになります。

原子核を半径10cmのボールとすると、電子があるのは約4.4km地点ということになります。新宿駅と池袋駅の直線距離は約4.6kmだそうなので、新宿駅にハンドボール、池袋駅にハンドボールより明らかに小さいもの、例えばパチンコ玉があるというイメージでしょうか。ちなみに重さの比較ということでいえば、電子を1とすると、陽子・中性子は電子の約1,800倍です。仮にパチンコ玉(電子)がプラスチックでできていて1gしかないとすれば、陽子・中性子の重さはそれぞれ約1.8㎏ということになります。

従来の電子のジャンプではとうてい起こりえないとする距離は数十Åとされているので、仮に水素原子(半径)の100倍、53Åの距離ということになると440km離れた所になりますので、パチンコ玉(電子)は池袋から京都あたりまで飛んで行ったということになりますニュートン力学の世界で考えれば、確かにジャンプ(jump)というよりは小旅行(trip)という感じです。

そして、この小旅行ともいうべき長距離を瞬時に移動するための手段は、奇怪な量子現象の一つである“量子トンネル効果”であるとされています。

このイメージ図は前回のブログ “生物と量子力学1” でご紹介したものです。一層目の「ニュートン力学」、二層目の「熱力学」について説明していますので、これらについて確認されたい場合はこちらを参照ください。

画像出展:「量子力学で生命の謎を解く」

 

 

 

量子論の二つの重要事項

まず量子論を理解するためには二つの重要事項があるとされています。いずれもニュートン力学では考えられない奇怪な量子の振る舞いです。

その一つは「波と粒子の二面性」をもっているということです。

画像出展:「13歳からの量子論のきほん」

 

 

 

そして、もう一つが「状態の共存(重ね合わせ)」と言われるものです。

画像出展:「13歳からの量子論のきほん」

 

 

 

「光合成は量子コンピューティング」:複数箇所に同時存在”という記事の中に「状態の共存(重ね合わせ)」を分かりやすい例を使って説明されている個所がありましたので、そちらをご紹介します。

『家へ自動車で帰るにあたって3つのルートがあるというものだ。どのルートが速いか遅いかはわからない。しかし量子的なメカニズムでは、これらの3つのルートを同時に取ることができる。到着するまで、自分がどこにいるかを特定しないので、常に最も速いルートを選ぶことになる。

量子トンネル効果について

『電磁波は、障害物を透過する性質があります。たとえば可視光線は、ガラスにぶつかると、一部は透過します。また、携帯などの電波が室内に届くのは、電波が壁などを幾分透過するというのが理由の一つです。

電子も波の性質をもつので、同じようなことがおこります。電子も本来なら通り抜けることができないはずの“壁”を、すり抜けることができるのです。これを、「トンネル効果」とよんでいます。』

 画像出展:「13歳からの量子論のきほん」

3.は「こえられないはずの山を“すり抜ける”電子」と書かれています。また、図中にその仕組みの説明書きがありますが、ネット上に同様な絵を使って簡潔に説明されているサイトがありましたので、そちらもご紹介します。

 画像出展:「13歳からの量子論のきほん」

『エネルギーと時間の不確定性関係によると、電子はごく短時間であれば、図のような山をこえるだけのエネルギーを得て、山の反対側に行くことが可能です。これを外部からみると電子がいつのまにか山をすり抜けるように見え、トンネル効果と呼ばれています。私たちが日常使っている電子機器の半導体回路を流れる電流は、トンネル効果を無視することができません。応用例には、走査型トンネル顕微鏡、フラッシュメモリ、エサキダイオードなど多数あります。』   画像出展:「大阪大学工学部自然科学学科

少し話が混沌としてきましたので整理したいと思います。お伝えしたいポイントは以下の4つです。

酵素は生命のエンジンであり、「代謝」というプロセスを加速している。

コラーゲナーゼは6800万年守られた恐竜の軟組織をたった30分で分解してしまった。

呼吸酵素は考えられない長距離移動を、量子現象の“量子トンネル効果”によって実現させた。

●”量子トンネル効果”は”量子コヒーレンス”な環境が必須となる。

量子現象の“トンネル効果”を得るためにはもう一つ、極めて大きな課題があります。それは“量子コヒーレンス”という難題です。コヒーレンスとは「同調」という意味ですが、一方、この「同調」が崩れてしまった状態のことを“デコヒーレンス”と呼んでいます。

このコヒーレンス・デコヒーレンスをとばして話を進めることはできせんので、前後してしまいましたが本書に書かれているの“●量子トンネル効果”をご紹介します。問題の“量子コヒーレンス”に関わる部分は後半に出てきます。

“●量子トンネル効果

『第1章で説明したように、量子トンネル効果とは、音が壁を通り抜けるのと同じように、乗り越えられそうにない障壁を粒子が簡単にすり抜けてしまうという奇妙な量子プロセスである。1926年にドイツ人物理学者のフリードリヒ・フントがはじめて発見し、そのすぐあとにジョージ・ガモフ、ロナルド・ガー二―、エドワード・コンドンが、量子力学の新たな数学に基づいてこの概念を使うことで、放射性崩壊の現象を見事に説明した。量子トンネル効果は原子核物理学の中心テーマとなったが、のちに材料科学や化学といったもっと幅広い分野に通用する現象と認められるようになった。前に話したように、地球上の生命にとって量子トンネル効果は欠かせない。太陽の内部で水素がヘリウムへ変換する第一段階として、正の電荷を持った二個の水素原子核が融合し、それによって太陽は膨大なエネルギーを放出するのだ。

量子トンネル効果については理解するには、粒子が障壁の一方の側から反対側へ、常識では不可能なはずの方法ですり抜けるための手段と考えるといい。ここでいう「障壁」とは、十分なエネルギーがないと物理的に通過できない空間領域のことで、SFに登場するフォースフィールド[目に見えないバリア]だとでも考えておけばいい。その領域は、二つの電気伝導体を隔て薄い絶縁体でもいいし、または、呼吸鎖に含まれる二個の酵素のあいだの隙間のように単なる空っぽの空間でもいい。また前に話したように、化学反応を遅くするエネルギーの山でもいい。

例として、低い山へ向かってボールを蹴り上げたとしよう。ボールが頂上にたどり着いて反対側へ転がり落ちるには、十分な強さで蹴らなければならない。斜面を登るにつれて徐々に減速し、十分なエネルギーがなければ(十分に強く蹴らなければ)、途中で止まって再びこちらへ転がり落ちてくる。

古典的なニュートン力学によれば、ボールがこの障壁を通過するには、エネルギーの山を乗り越えるのに十分なエネルギーを持っていなければならない。しかし、もしこのボールがたとえば電子で、山が反発力によるエネルギー障壁だったとしたら、電子は波動として、もっと効率の良い別の方法で障壁をすり抜ける確率が少しだけある。これが量子トンネル効果だ。

量子力学の重要な特徴として、軽い粒子ほど容易にトンネルできる。このプロセスが素粒子の世界の至るところで起きるものだとしたら、トンネル効果がもっともよく見られるのは当然きわめて軽い素粒子である電子だということになる。

金属に電場をかけると電子が飛び出してくる、電解放出と呼ばれる現象は、1920年代後半にトンネル効果として説明された。ウランなど一部の原子核がときどき粒子を吐き出す、放射性崩壊の現象がどのようにして起きるのかも、量子トンネル効果で説明された。これが、原子核物理学の問題に量子力学を応用した初の例となった。化学では、電子や陽子(水素原子核)、さらにはもっと重い原子の量子トンネル効果についても詳しく解明されている。

量子トンネル効果はその重要な特徴として、ほかの多くの量子現象と同じく、物質粒子が広がった波動のような性質を持っているために起きる。しかし、膨大な数の粒子からなる物体がトンネルするには、すべての構成粒子の波動的性質が山や谷を一致させて歩調を合わせ、コヒーレントと呼ばれる状態、すなわち「同調」した状態を保っていなければならない。 

「同調(コヒーレント)」という言葉から頭に浮かんだのが、「日体大の集団行動」です。

 画像出展:「grapeさま:“【圧巻】日体大の美しすぎる集団行動!なんでぶつからないの!?”

逆に、多数の量子波がすべてあっという間に歩調を乱して、全体のコヒーレントな振る舞いが消し去られ、物体が量子トンネル効果を起こす能力を失ってしまうプロセスを、デコヒーレンスという。粒子が量子トンネル効果を起こすには、障壁をすり抜けるためには波動の状態を保っていなければならない。そのために、フットボールのような大きい物体は量子トンネル効果を起こさない。何兆個という原子からできており、調和したコヒーレントな波動として振る舞うことができないからだ。 

 画像出展:「13歳からの量子論のきほん」

量子の基準から見れば細胞も大きい物体なので、一見したところでは、原子や分子がほぼでたらめに動き回っている温かく湿った細胞のなかに量子トンネル効果が見つかるとは思えない。しかし先ほど説明したように、酵素の内部は違っており、粒子は無秩序に騒いではおらず、一糸乱れぬダンスを踊っている。そこで、このダンスが生命にどのような違いをもたらすのか、それを探っていくことにしよう。』

上記文章の最後に書かれた「酵素の内部は違っており、粒子は無秩序に騒いではおらず、一糸乱れぬダンスを踊っている。」について、どこで説明されているのか確認しました。正直、あまり自信がないのですが、次の文章(“●遷移状態理論ですべて説明できるのか?”より)のことだと思います。

『もう一つの謎が、酵素自体の構造がさまざまな形で変化すると酵素の活性がどのように影響を受けるかだ。たとえば、コラーゲナーゼはあらゆる酵素と同じく、活性部位のなかにある顎や歯と、それを支えるたんぱく質の台座からできている。顎や歯を作っているアミノ酸が置き換わると酵素の能力は大きな影響を受けると予想され、実際にそのとおりになる。しかし驚くことに、活性部位から遠く離れた位置のアミノ酸が置き換わっても酵素の能力は劇的な影響を受けることが分かっている。何の影響もないはずの形で酵素の構造が変わっても、なぜそのような劇的な違いが生じるのかは、標準的な遷移状態理論の枠組みではいまだに謎のままである。しかし実は、量子力学を考え合わせると理屈が通るようになるのだ。この発見については、本書の最後の章で再び取り上げよう。』

この最後の章とは「第10章 量子生物学―嵐の緑の生命」になりますが、この中で“一糸乱れるダンスを踊っている”について述べられています。それは最初に出てくる“●素晴らしいグッド・ヴァイブレーション(バップ、バップ)”に書かれています。

『この分野におけるきわめて刺激的な新しい成果のなかには、光合成のさらなる研究によって得られたものもある。第4章[量子のうなり]で話したように、微生物や植物の葉には、クロロフィル色素分子の森に覆われた葉緑体がぎっしり詰まっている。光合成の第一段階では、光子が一個の色素分子に捕らえられ、それが振動励起子[レイキシ:結晶内を自由に移動する中性の粒子]に変換されてクロロフィルの森の中を素早く移動し、反応中心にたどり着く。また、そのエネルギー輸送プロセスには、量子のうなり[量子コヒーレント状態の実験で600フェムト秒にわたって信号が上下に振動するということ]という、コヒーレント状態が存在する証拠が見つかっており、このプロセスの効率がほぼ100パーセントであるのは、励起子が量子ウォークによって反応中心にたどり着くからだという証拠が得られている。しかし、分子ノイズに満ちた細胞という環境のなかを移動する励起子が、どのようにしてコヒーレントな波動的振る舞いを維持しているかは、最近まで謎だった。いまや明らかとなったその答えによれば、生命系はどうやら分子振動を抑えようとしているのではなく、逆にそのビートに合わせてダンスをしているらしいのだ。 

ノイズ(分子振動)を利用して量子コヒーレンスを維持する

第10章の“●古典的な嵐の縁に立つ生命”の中に、量子コヒーレンスを維持する方法が説明されています。

『シュレーディンガーが数十年前に示した生命の本質に関する疑問の答えは出てくるのだろうか? すでに説明したようにシュレーディンガーは、きわめて秩序立った生命体の身体全体から、熱力学の嵐の海を経て量子の基岩へ至るまで、すべてを貫く秩序に支配された系が生命であると見抜いた(図10-1 

先に「ニュートン力学」「熱力学」についてご紹介したものです。

画像出展:「量子力学で生命の謎を解く」

 

 

 

そして重要な点として、1930年代にパスクアル・ヨルダンが予測したとおり、量子レベルの出来事がマクロな世界に影響をおよぼすことができるよう、この生命のダイナミクスは微妙なバランスを取っている。このようにマクロな世界が量子の世界に大きく影響を受けるという性質は、生命特有のものである。そのおかげで生命はトンネル効果やコヒーレンスやもつれ[重ね合わせ]といった量子レベルの現象を利用することで、独特の存在となっているのだ。

しかし重要な条件として、このように量子の世界を利用するには、デコヒーレンスを食い止められなければならない。そうでないとその系は量子的性格を失い、「無秩序から秩序へ」の法則に従う完全に古典的な、または熱力学的な振る舞いをするようになってしまう。科学者はこれまで、量子反応を邪魔をする「ノイズ」を遮断することで、デコヒーレンスを回避してきた。しかしこの章で分かったように、どうやら生命はそれとはまったく違う戦略を取っているらしい。コヒーレント状態をノイズに邪魔されるのではなく、逆にノイズを利用して量子の世界とのつながりを維持しているのだ。

生命は量子の世界と古典的な世界との縁を航海している。細胞は細長いキールを量子の層までまっすぐに突き刺した船のようなもので、そのためにトンネル効果や量子もつれなどの現象を利用することで生きつづけることができる。量子の世界とのこの結びつきを積極的に維持するには、量子コヒーレンスを壊すのではなく維持しなければならない。

 画像出展:「量子力学で生命の謎を解く」

 

 

 

付記ほぼ妄想

ボート競技の“エイト”も「同調(コヒーレンス)」が印象的なスポーツです。写真では背を向け先頭にいる選手が舵手です。

三層目の量子力学の層にも、隠された「舵手」のような全体の動きを調整するメカニズムがあり、それが量子スピンや分子振動といったダイナミックなエネルギーをうまく利用してバランスを取り、コヒーレンスを維持しているかもしれません。アメリカ人が難なく英語(母国語)を操るように、量子の世界では当たり前のことなのかもしれません。

 画像出展:「TOKYO2020

 

 

 

現在の量子コンピュータはコヒーレンスを維持するために、プロセッサをマイナス273℃で冷やしているそうです。このような自由を奪う方法ではなく、上記のような「舵手」が現れれば量子コンピュータはもっともっと魅力的で現実的なものになると思います。

 世界が注目する商用量子コンピュータメーカー「D-Wave」とは?

『D-Wave Systemsが公開している情報によれば、量子コンピュータ「D-Wave」シリーズの見た目は、大きな黒く四角い箱型だ。もちろんただの「黒い箱」ではない。日常的にわれわれが使っているコンピュータとは違い、筐体の内部は「大きな冷蔵庫」のようになっている。量子コンピューティングのカギとなる量子状態をプロセッサに作り出すため、極低温に冷やす仕組みを備えている。プロセッサは約マイナス273℃にも冷えており、絶対零度をわずか0.015℃だけ上回る温度で駆動するという。』 画像出展:「MUFG Innovation Hub

生物と量子力学1(光化学コンパス)

量子力学はマクロの世界の力学でもありますが、その真骨頂は、原子よりも小さい電子などのミクロの世界を正しくはかる唯一の理論であるということです。半導体などの様々なテクノロジーは量子力学の上に立脚しています。さらに生物においてもミクロの世界の遺伝子などは量子の世界に踏み入れなければなりません。

しかしながら、「では、目に見える生き物にとっての量子力学とは何なのか、どこに活かされているのか?」という疑問は残ったままでした。

今回の『量子力学で生命の謎を解くはそのようなモヤモヤから見つけた本です。これも私にとっては難攻不落の果てしなく難解な内容なのですが、興味、関心がまさったというところです。とは言うものの、難しさは想像以上でブログに残したい気持ちは強くあるものの、何を書けばいいのか、何が書けるのか、早々に行き詰ってしまいました。

そして迷った末に、後先を考えず興味のある3つを取り上げることにしました。

1.光化学コンパス生き物の中の量子力学

2.酵素「生命の中核」とされている酵素

3.意識意識と量子力学

なお、順番は逆になりますが、最後に目次をご紹介しています。

 

著者:ジム・アル=カリーリ、ジョンジョー・マクファデン

出版:SBクリエイティブ

初版発行:2015年9月

 

こちらは原書です。

題名は、”Life on the Edge:The Coming of Age of Quantum Biology” でした。

続いて、二人の著者をご紹介します。

1.ジム・アル=カリーリ

英国サリー大学の理論物理学教授。原子核物理学と並行して量子生物学の研究をおこなっている。王立協会のマイケル・ファデラー賞や大英帝国勲章などを受賞。

こちらはログミーBizに掲載されている”宇宙の中で最も小さな構造を研究をする「量子生物学」”と題するもので、ジム・アル=カリーリ先生が量子生物学の紹介をされています。以下は、その冒頭部分の一部です。

 

『皆さんに新たな科学の分野をご紹介しましょう。まだ推論の段階ですが、非常に興味深く、急成長中の分野です。量子生物学の問いかけは非常に単純です。量子力学という、現代の物理学と科学の多くを支えている原子と分子の世界についての、奇妙でかつ素晴らしい強力な理論は、生細胞の内側でも役割を果たしているのでしょうか? 言い換えると、生物の中には、量子力学の助けを借りないと説明し得ないようなプロセスや構造や現象が存在するのでしょうか?』

2.ジョンジョー・マクファデン

英国サリー大学の分子生物学教授。遺伝病や感染症の研究を経て、現在は病原微生物の遺伝の研究とともに、量子生物学やシステム生物学の研究をおこなっている。

クリック頂くとジョンジョー・マクファデン先生のホームページ”Johnjoe Mcfadden”に移動します。英語ですがサリー大学での33分の講義もあります。私には二重苦のため無意味なのですが、少しのぞいて見たところスライドを使ってご説明されていました。

本書、『量子力学で生命の謎を解の「第1章 はしがき」の中に量子力学の特徴を説明している個所がありますので、まずはそれらをご紹介したいと思います。

見えない不気味な現実

『現代の科学者に、科学全体のなかでもっとも成功し、もっとも幅広い影響をもたらし、もっとも重要な理論は何だと思うかを世論調査したとすると、その答えは、回答者が物理科学の研究をしているか生命科学の研究をしているかによって違ってくるだろう。ほとんどの生物学者は、自然選択に基づくダーウィンの進化論を、これまでに考え出されたなかでもっとも深遠な理論とみなす。しかし物理学者は、量子力学が第一位に来るはずだと主張するだろう。物理学と化学の大部分の基礎であり、宇宙全体の世界のしくみに関する現代の知識の大部分は崩れてしまうのだ。

「量子力学」という言葉はほぼ誰でも聞いたことがあるだろうが、この学問分野は不可解で難しく、ごく一握りの人間しか理解できないというイメージが大衆文化に植え付けられている。だが実は、20世紀前半以降、量子力学は我々の生活の一部をなしている。この学問は1920年代半ばに、きわめて小さい世界(いわゆるミクロの世界)、つまり、身の回りのあらゆるものを形作っている原子の振る舞いや、その原子を形作っているさらに微小な粒子の性質を説明するための数学理論として編み出された。量子力学はたとえば電子がどのような法則に従うかや、原子のなかで電子がどのように分布するかを記述することで、化学、物質科学、さらにはエレクトロニクス全体の基礎をなしている。確かに奇妙ではあるが、その数学的な法則は過去半世紀に実現したほとんどの技術的進歩の根幹をなしている。物質のなかを電子がどのように移動するかを量子力学で説明できなかったら、現代のエレクトロニクスの基礎をなす半導体の振る舞いは理解できなかっただろうし、半導体を理解できなければ、シリコンのトランジスタも、のちのマイクロチップや現代のコンピュータも開発できなかっただろう。例を挙げればきりがない。量子力学によって知識が発展しなかったら、レーザーは存在しなかっただろうし、ゆえにCDもDVDもブルーレイプレイヤーもなかっただろう。量子力学がなかったら、スマートフォンもGPSもMRIもなかっただろう。概算によれば、先進国の国内総生産の三分の一以上は、量子世界の力学の知識がなければ存在しなかったはずの応用技術に依存しているのだ。

それでもまだ始まりにすぎない。ほぼ間違いなく我々の生きているうちに到来する、量子が開く未来では、レーザー駆動の核融合によってほぼ無尽蔵に電力が得られ、人工分子マシンによって工学や生化学や医学の分野でさまざまなことが可能になり、量子コンピュータによって人工知能が実現、テレポーテーションというSFのような技術が情報伝達に日常的に使われるかもしれない。20世紀の量子革命は、21世紀になってさらに勢いを増し、我々の生活を想像もできないような形に変えるだろう。

しかし、量子力学とはいったい何だろうか? この疑問は本書を通じて探っていくことになる。手始めにここでは、我々の生活の礎となっている見えない不気味な現実の実例をいくつか紹介しよう。』

量子力学がありふれたものだとしたら、なぜ量子生物学に注目すべきなのか?

『~ 物理実験室の外ではいったい何が、同じように量子的振る舞いを壊しているのだろうか?

その答えは、大きい(マクロな)物体のなかで粒子がどのように並び、どのように動いているかに関係している。原子や分子は、生きていない固体のなかではランダムに散らばって不規則に振動していることが多い。液体や気体のなかではさらに、熱のためにたえずランダムな要因によって、粒子の不安定な量子的性質はあっという間に消えてしまう。物体を構成するすべての量子的粒子の作用が組み合わさって、それぞれ互いが互いを「量子測定」する。それによって、我々の身の周りの世界は正常に見えているのだ。量子の不気味さを観察するには、普段と違う場所(太陽の内部)に行くか、ミクロの世界を深くまでのぞき込むように仕向けるしかない(MRI装置に入ってあなたの体内にある水素原子核のスピンを整列させるように。しかし磁石のスイッチが切られると、原子核のスピンの向きは再びランダムになり、量子の干渉は打ち消し合って消えてしまう)。このような分子のランダムな振る舞いのおかげで、我々はほとんどの場合、量子力学を知らなくてもやっていける。周りに見える生きていない物体のなかでは、ランダムな方向を向いてつねに動き回っている分子によって、量子の不気味さはすべて消し去られてしまっているのだ。』

なお、「量子の不気味さ」については、「量子的奇怪さ」というブログ“量子論2”の中でご紹介した個所が近い内容になっています。ご参考にして頂ければと思います。

また、今回の「疑問」(生き物にとっての量子力学とは?)と重なるような内容も本書にはありますので、こちらもご紹介します。

量子力学がありふれたものだとしたら、なぜ量子生物学に注目すべきなのか?

『~ 生物学は詰まるところ応用化学の一つで、化学は応用物理学の一つだ。だから、我々もほかの生き物も含めすべての物体は、おおおとまでさかのぼれば単なる物理なのではないか? 多くの科学者は、深いレベルでは生物にも量子力学が関係しているはずだという考え方を受け入れながらも、その役割はわざわざ取り立てるほどのものではないと言い張っている。どういうことかというと、原子の振る舞いは量子力学の法則に支配されていて、生物には突き詰めれば原子の相互作用が関係しているのだから、量子の世界の法則が生物の体内の微小スケールでも作用しているのは確かに間違いないが、それはその微小スケールだけでの話であって、生命にとって重要な大きなスケールのプロセスにはほとんど、あるいはまったく影響をおよぼさないということだ。

もちろんそうした意見も、少なくともある程度は正しい。DNAや酵素などの生体分子は陽子や電子といった素粒子からできていて、素粒子の相互作用は量子力学に支配されていることになる。車やトースターの働きが突き詰めると量子力学に支配されているのと同じように、あなたが歩き、話し、食べ、寝て、さらに考えるしくみも、究極としては電子や陽子などの素粒子を支配する量子力学的な力によって決まっているのだ。しかしあなたがそれを知る必要はほとんどない。自動車整備工が大学で量子力学の講義に出る必要はないし、ほとんどの生物学科のカリキュラムでも、量子トンネル効果や量子のもつれや量子の重ね合わせにはまったく触れられない。根本的なレベルで見れば、この世界は馴染みのものとまったく異なる法則に従って動いているのだが、そのことを知らなくても、ほとんどの人は問題なく暮らしていける。微小レベルで起きる不気味な量子現象は、我々が日々目にしたり使ったりしている車やトースターのような大きい物体には、ふつうは何の作用ももたらさないのだ。

なぜだろうか? フットボールが壁をすり抜けることもなければ、人間どうしが不気味な結びつきを持つこともないし(いんちきなテレパシーは別だが)、残念なことにあなたが同時にオフィスと自宅の両方にいることもできない。それでも、フットボールや人体のなかに存在する素粒子はこうした芸当をすべてできる。我々が見ている世界と、物理学者が知っている、その水面下に存在している世界とのあいだには、なぜこのような境界線、いわば断層が走っているのだろうか?

上記の「物理学者が知っている、その水面下に存在している世界に関しては、おそらくこのことだろうという”イメージ図(図10-1)”が10章にありましたので、本書の文章と合わせてそちらもご紹介します。

『~ ほとんどの生物は比較的大きい物体である。その全体の動きは、列車やフットボールや砲弾と同じくニュートンの法則にかなりよく従っている。大砲から撃ち出された人間は砲弾とほぼ同じ軌道を描く。もっと深いレベルに目を向けると、組織や細胞の生理も熱力学の法則でよく説明することが。肺の膨張と収縮は、風船の膨張と収縮とさほど違わない。そのため一見したところ、コマドリや魚や恐竜、リンゴの木やチョウや我々の身体のなかでも、ほかの古典的な物体の内部と同じく、量子的な振る舞いは消し去られていると考えたくなるし、ほとんどの科学者もそう決めつけていたはずだ。しかしここまで見てきたように、生命に関しては必ずしもそうではない。その根をたどっていくと、ニュートン的な表層から荒れ狂う熱力学の層を貫いて量子の基岩にまで達しており、それによって生命は、コヒーレンスや重ね合わせ、トンネル効果やもつれ状態を利用することができる。 ~』

一番上の層とされる“ニュートン力学”とは、アイザック・ニュートンが、運動の法則を基礎として構築した力学の体系です。その運動法則は以下の3つになります。

ニュートンの運動法則

第一法則(慣性の法則)

 外的な力が加わらない限り、物体は静止或いは等速直線運動を続ける。

第二法則(運動法則)

 物体の加速度は、加えた力に比例し、その質量に反比例する。

第三法則(作用・反作用の法則) 

 物体が互いに力を及ぼし合うときには、同一直線上で互いに逆向き・同一の大きさの力が働く。

2番目の層に明記されている“熱力学”ですが、全く分からなかったのでしらべてみました。

以下は“コトバンク”にある“ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典”の「熱力学」と「統計熱力学」に関する解説です。※クリック頂くと”コトバンク”に移動します。

熱力学

熱と仕事は交換しうるという原理の上に立って、化学変化に伴うエネルギー変化の様子を調べ、反応の進む方向や平衡条件などについて論じる学問。その基本原理は経験則に基づいた熱力学第一法則、熱力学第二法則、熱力学第三法則から成り立っている。熱力学にはまた分子論的立場から論じる別の取扱い法がある (統計熱力学 )

統計力学

統計物理学ともいう。物質を構成する多数の粒子の運動に力学法則および電磁法則と確率論とを適用し、物質の巨視的な性質を統計平均的な法則によって論じる物理学の分野。これにより巨視的世界と微視的世界とが結ばれる。気体の巨視的性質を気体分子の運動によって説明した分子運動論に始り、J.C.マクスウェル、L.ボルツマンが分子の速度分布、エネルギー分布を導入、J.ギブズが統計集団の考えを導入して熱平衡状態の統計力学を完成し、熱力学の微視的な基礎づけを与えた。これは統計熱力学とも呼ばれ,比熱,熱放射,相転移,誘電率,磁性など静的な性質を扱うものである

最後の3層目は”量子力学”です。”イメージ図(図10-1)”内の説明書きの最後に書かれた、生物は現実の量子の基岩にまで根を張っているこれが知りたかったことです。本書にはその事例がいくつも出ていますが、第1章の書き出しは次の文章で始まります。

『年明け、ヨーロッパに冬の寒波が訪れ、夕暮れの空気は身を刺すような冷たさだ。若いコマドリの心の奥深くに潜んでいた、それまではぼんやりとした目的意識と決意が、徐々に強まってくる。

この鳥はこの数週間、普段の量よりはるかに大量の昆虫やクモや毛虫や果実をむさぼり食い、いまでは体重は、去年の八月に我が子が巣立ちしたときの二倍近くになっている。その体重の追加分のほとんどは脂肪の蓄えで、まもなく出発する困難な旅路の燃料として必要になる。』

画像出典:Hetena Blog“身近な存在としての量子力学(1)

この天城高原さまの“量子力学とHaskell”という23編のブログは「とにかく凄い‼」のひとこと、必見です‼

 

 そして、本書を締めくくる最後の「エピローグ 量子生命」の中でヨーロッパコマドリが再登場します。ここには量子力学との関わりも具体的に書かれています。

ただし、その後の文章で補足されているように、「すべての性質が量子力学的であるとは断言することはできない」と書き添えられています。

 『第1章で出会ったヨーロッパコマドリは、地中海の日の光のもとで無事冬を越し、チェニジア・カルタゴのまばらな森や古代の遺跡のあいだを飛び回りながら、ハエや甲虫、毛虫や種子で身体を太らせている。それらはすべて、我々が植物や微生物と呼ぶ、量子のパワーを得た光合成マシンによって空気と光から紡ぎ出された生物有機体でできている。しかしいまや真昼の空高くに太陽が昇り、その強烈な熱によって、森を走る浅い小川は干上がっている。森は乾燥し、ヨーロッパコマドリにとっては過酷な場所になろうとしている。旅立つ頃合いだ。

夕方、我らが小鳥は飛び上がってスギの高い枝に止まる。何か月も前と同様に入念に羽づくろいをしながら、同じく長旅への欲求にかき立てられたほかのコマドリたちの鳴き声に耳を傾ける。太陽の最後の光が地平線に沈むと、コマドリはくちばしを北に向け、翼を広げて夕暮れの空へ飛び立つ。

コマドリは北アフリカの海岸目指して飛び、そのまま大西洋を渡る。六か月前とほぼ同じルートだが、今度は逆方向へ、再び量子のもつれ状態の針を備えたコンパスに導かれて進む。一回一回の羽ばたきは筋肉線維の収縮によって駆動され、そのエネルギーは呼吸酵素の中で電子と陽子が量子トンネル効果を起こすことで供給される。何時間もかかってコマドリはスペインの海岸へたどり着き、アンダルシアの森に覆われた谷に舞い降りて、ヤナギやカエデ、ニレやハンノキ、果樹や、キョウチクトウの花を咲かせる低木といった、豊かな植物に囲まれて身を休める。いずれの木も、量子のパワーを得た光合成の産物だ。すると、匂い分子が漂ってきてコマドリの鼻孔に入り、嗅覚受容体に捕えられる。量子トンネル効果によって神経信号が発せられ、それが量子コヒーレント状態にあるイオンチャネルを介して脳に伝えられる。コマドリは近くに柑橘系の花が咲いていることを知り、そこに集まって花粉を媒介するハチなどの昆虫を食べて、旅の次なる段階の糧を得る。

何日も飛んだ末にコマドリはついに、何か月も前に旅立ったスカンジナビアのトウヒの森へ戻ってくる。最初にやるべきはつがいの相手を探すこと。オスのコマドリは数日前に到着している。ほとんどのオスは巣作りに適した場所を見つけ、さえずりでメスにアピールしている。我らがコマドリはとくに美しい歌声のオスに惹かれ、求愛の儀式の一環として、オスが集めた幼虫を味わう。つかの間の交尾によってオスの精子とメスの卵細胞が合体し、オスメスそれぞれの形、構造、生化学、生理、解剖学的特徴、さらにはさえずりをコードした量子ベースの遺伝情報が、新たな世代のコマドリにほぼ完璧にコピーされる。量子トンネル効果によって生じたいくつかのエラーは、この種の将来の進化のための原材料となる。』

 『もちろんここまでの章で強調してきたように、いま挙げたすべての性質が量子力学的であるとはいまだ断言することはできない。しかし、コマドリやカクレクマノミ、南極の氷の下で生き延びる細菌、ジュラ紀の森を闊歩してきた恐竜、オオカバマダラやショウジョウバエ、あるいは植物や微生物の持つ独特の素晴らしい性質のほとんどは、間違いなく、彼らが我々と同じく量子の世界に根を張っているという事実によって授けられている。いまだ分かっていないことはあまりにも多いが、いかなる新たな研究分野でも、分かっていない事柄にこそ美しさがある。アイザック・ニュートンもこう言っている。

世間が私をどう見ているかは分からないが、私自身は、少年のように海岸で遊び、ふつうよりすべすべした小石やきれいな貝殻を時折見つけては喜んでいるにすぎないように思える。その一方で、目の前には完全に未知なる真理の大海原が広がっている。』

ヨーロッパコマドリの光化学コンパスのメカニズムに関しては、第6章の、“●鳥のコンパス”、“●量子スピンと不気味な作用”、“●ラジカルな方向感覚”の3つに書かれています。内容は極めて専門的であり、26ページに亘っています。しかしながら、次のような記述が加えられています。

『~ しかし最近、この結果の意義に対しては疑問が投げかけられている。オルデンブルク大学のヘンリク・モウリストンの研究グループは、さまざまな電子機器から発生する人工的な電磁波のノイズが、大学のキャンパスにある遮断していない木造の鳥小屋の壁からなかに入り、鳥の磁器コンパスを乱していることを発見した。しかし、都市の電磁波ノイズを約99パーセント遮断する、アルミニウムで覆った小屋に鳥を入れると、方向感覚が回復した。この結果から考えると、狭い範囲の振動数の電磁波だけが鳥のコンパスを乱すのではないらしい。

このように、鳥のコンパスにはまだいくつも謎が残されている。たとえば、コマドリのコンパスはなぜ振動磁場にあれほど敏感なのか? あるいは、遊離基[フリーラジカル:ペアになっていない電子を抱え、非常に反応しやすくなっている原子や分子]はどのようにして長時間にわたってもつれ状態を維持し、生物学的な違いを生じさせるのか? ~』

このように確定には至っていない状況から第6章には触れず、その代わり、日経サイエンスのバックナンバーと、ネット上にあった資料(2016年「化学と教育 64巻7号“渡り鳥の光学コンパスと分光測定”」)、同じくネット上にあったニューズウィーク日本版の記事(2018年4月5日:“渡り鳥をナビゲートする「体内コンパス」の正体が明らかに”)をご紹介したいと思います。

2011年10月号 日経サイエンス 特集“シュレーディンガーの鳥 生命の中の量子世界”


シュレーディンガーの鳥

『ヨーロッパコマドリは小さくて賢い鳥だ。毎年、冬になる前にスカンジナビアからアフリカの赤道付近にやってきて、春になって北の気候が良くなると再び帰っていく。コマドリはこの1万3000㎞におよぶ往復旅行を、ごく自然に易々とやってのける。

渡り鳥など一部の動物は体内に方位磁石を持っているのではとの疑問は、かねてあった。1970年代、ドイツのフランクフルト大学の研究者、ウィルシュコ夫妻(Wolfgang and Roswitha Wiltschko)はアフリカに渡ったコマドリを捕らえ、人工的な磁場の中に置く実験を行った。奇妙なことに、コマドリは磁場の方向が逆転しても気づかなかった。つまりコマドリにどちらが来たか南かを聞いてもわからないのだ。だが一方でコマドリは磁場の俯角、すなわち磁力線が地表となす角度には反応した。彼らが方向を知るのに使っていたのは、俯角の情報だけだった。面白いことにコマドリに目隠しをすると、磁場にまったく反応を示さなくなった。つまり、コマドリは何らかの方法で、目を使って磁場を検知しているらしい。

2000年、当時南フロリダ大学にいた物理学者のリッツ(Thorsten Ritz)は、渡り鳥に夢中だった。彼の同僚は、量子もつれ[遠く離れた粒子があたかも1つの物体のように連動する]がカギではないかと指摘した。彼らは、イリノイ大学のシュルテン(Klaus Schulten)が以前に実施した研究に基づいて、鳥の目にはある種の分子があり、その中に2つの電子があって、トータルのスピンがゼロになるような量子もつれになっているという仮説を考えた。古典力学では、そのような状況はまったく起こり得ない。

この分子が可視光線を吸収すると、2つの電子はエネルギーを得て量子もつれが崩れ、地磁気を含む外部の影響を感じるようになる。磁場の向きに俯角があると2つの電子に異なる影響を与え、その違いのために分子の化学反応が起きる。目の中で起きるこうした化学反応により神経に伝わる信号が変化し、それによって、最終的には鳥の脳内に磁場の形が描かれる。

リッツが提示したメカニズムには状況証拠しかないが、英オックスフォード大学のロジャース(Christopher T. Rogers)と前田公憲は、リッツが提唱したものとよく似た分子の挙動を、生きた動物の体内とは逆に実験室で実現し、このような分子が、量子もつれになった電子のために実際に磁場に感受性を持つことを示した。私たちの計算によれば、鳥の目の中の量子効果は約100マイクロ秒にわたって持続する。

この時間は、この種の話をする時には十分に長いと言える。人間が作った電子スピンの系では50マイクロ秒が最高記録だ。自然界の系がどうやってこのような長時間、量子効果を維持しているのかはまだわからないが、その機構が解明できれば、量子コンピュータがデコヒーレンス[量子系の干渉が環境との相互作用によって失われる現象]によって壊れるのを防ぐ方法の開発につながるだろう。

量子もつれが働いていると思われる生物の中の系がもうひとつある。植物が太陽光を化学エネルギーに変えるプロセス、光合成だ。植物に光が当たると、細胞内の電子が高いエネルギーを得る。そうやって生じた電子のエネルギーは、すべて同じ場所、このエネルギーによって一連の化学反応を起こし、植物にエネルギーを供給する「反応中心」に到達する必要がある。古典力学ではなぜほぼ100%の高い確率で反応中心に到達するのか説明できない ~』

タイトルをクリック頂くと、2枚もののPDF資料がダウンロードされます。図の1~4は資料の2ページ目にあります。

 

渡り鳥の光学コンパスと分光測定

『渡り鳥は非常に長い距離を、想像を超えた正確さで迷わずに移動する。そのためにどのような情報を用いているのかということは、次第に理解されつつある。太陽、星などの天文情報、に加えて、磁気が非常に重要な情報を与えているとされている。動物の磁気感受は渡り鳥だけではない、近年の研究では蝶やショウジョウバエなどの昆虫や、イモリ、モグラ、そしてネズミも磁場の情報をその行動に役立てているようである。  

しかし、このように多様な動物が磁場を感じることは徐々に知られつつあるが、そのメカニズムはさほど明らかでない。1つの仮説は動物の体内にあるマグネタイトと呼ばれる非常に小さな磁石が、方位磁針と同じように働いているというものである。動物の体内では、多くのマグネタイトが見つかっているが、そのマグネタイトがどのように磁場の向きなどの情報を脳に伝達しているのか? ということはほとんど明らかにはなっていない。

一方で電子を用いたよりミクロな磁気センサーを渡り鳥などがもっているという説がある。多数の実験による状況証拠(図1など)として、磁気感受には光が必要とされ、光化学反応コンパスと呼ばれている。このモデルとしてリッツらは、興味深い仮説を提案した(図A)。鳥の網膜においてラジカル対を作り出す光受容タンパク質分子が規則正しく並び、光を吸収して電子移動反応を起こし、2つのラジカル、すなわちラジカル対を生成する。ラジカル対と地磁気の向きとによって、化学反応性が異なり、それが視覚に影響を与えるなら、網膜上の位置により結果として地磁気の影響を鳥が視覚のパターンとして‘視る’ことになる。  

現在、動物の磁気を感じる最大候補分子としてクリプトクロムタンパク質が挙げられている。クリプトクロムはその機能が謎に満ちた動植物両方がもつ青色受容タンパク質で、近年では生物の概日リズムとの関連が指摘されている。クリプトクロムにおいて、そのフラビン補酵素(FAD)が青色光を吸収し、連続的に存在する3つのトリプトファン残基を通じて電子移動反応を起こし、距離の離れた2つのラジカル分子(ラジカル対)を生成する(図B)。  

ラジカルは孤立した電子を持っている。孤立した電子はそのスピンと呼ばれる自転により、まるで非常にミクロな磁石としてふるまう(図C)。この2つのスピンの相対配向への磁場の影響がその後の反応性を決定づける(図2~ 4)。このメカニズムには通常ミクロな物理現象を説明する「量子力学」が深くかかわっており、生物と量子力学とを結びつける存在として、大きな注目を集めつつある。 

最後に目次をご紹介させて頂きます。

第1章 はしがき

●見えない不気味な現実

●量子生物学

●量子力学がありふれたものだとしたら、なぜ量子生物学に注目すべきなのか?

第2章 生命とは何か?

●「生命力」

●機械の勝利

●分子のビリヤード台

●無秩序な生命?

●生命の奥底をのぞき込む

●遺伝子

●生命の奇妙な笑い

●量子革命

●シュレーディンガーの波動関数

●初期の量子生物学者たち

●微小世界での秩序

●疎外

第3章 生命のエンジン

●酵素-生きているものと死んでいるものを分け隔てるもの

●我々にはなぜ酵素が必要で、おたまじゃくしはどうやって尾をなくすのか

●地形を変える

●激しい運動や振動

●遷移状態理論ですべて説明できるのか?

●電子をあちこちに動かす

●量子トンネル効果

●生物における電子の量子トンネル効果

●陽子をあちこちに動かす

●速度同位体効果

●これで量子生物学は確立するのか?

第4章 量子のうなり

●量子力学の中心的な謎

●量子測定

●光合成中心への航海

●量子のうなり

第5章 ニモの家を探せ

●匂い物質の物理的正体

●匂いの鍵を開ける

●量子の鼻で嗅ぎ分ける

●鼻の戦い

●匂いを嗅ぐ物理学者

第6章 チョウ、ショウジョウバエ、量子のコマドリ

●鳥のコンパス

●量子スピンと不気味な作用

●ラジカルな方向感覚

第7章 量子の遺伝子

●忠実性

●非忠実性

●キリン、マメ、ショウジョウバエ

●陽子によるコード

●量子ジャンプする遺伝子?

第8章 心

●意識はどれほど奇妙なのか?

●思考のメカニズム

●心はどうやって物体を動かすのか

●キュビットを使った計算

●微小管を使った計算?

●量子イオンチャンネル?

第9章 生命の起源

●ねばねばの問題

●ねばねばから細胞へ

●RNAワールド

●量子力学が手助けしてくれるのか?

●最初の自己複製体はどんなものだったのか?

第10章 量子生物学-嵐の縁の生命

●素晴らしいグッド・ヴァイブレーション(バップ、バップ)

●生命の原動力に関する考察

●古典的な嵐の縁に立つ生命

●量子生物学を利用して新たな生命技術を作り出すことはできるか?

●ボトムアップで生命を作り出す

●量子的原子細胞を作り出す

エピローグ (Life on the Edge) 

注)目次に書かれた題名は“量子革命”でしたが、実際に本を開いてみるとエピローグの題名は“量子生命”になっていました。どちらが正しいのか分からないので( )内はLife on the Edgeという原書の題名を書いておきました。

量子論2

今回のブログで意識した点は、量子論の基本、奇怪さ、応用・貢献の4つです。引用させて頂いた本は次に2冊になります。

 

著者:H.R. パージェル

出版:地人選書

発行:1983年11月

ブログ内の青色『』は「量子の世界」からの引用になります。

 

著者:佐藤勝彦

出版:PHP文庫

発行:2000年4月

ブログ内の赤色『』は「量子論を楽しむ本」からの引用になります。

1.量子

量子は物理量の最小単位とされています。また、物理量は素粒子に由来するとされ、実数で表される連続量とするニュートン力学などの古典論とは区別されます。

 

こちらの絵と文章は文部科学省のサイトにあったものです。

『量子とは、粒子と波の性質をあわせ持った、とても小さな物質やエネルギーの単位のことです。物質を形作っている原子そのものや、原子を形作っているさらに小さな電子・中性子・陽子といったものが代表選手です。光を粒子としてみたときの光子やニュートリノやクォーク、ミュオンなどといった素粒子も量子に含まれます。

量子の世界は、原子や分子といったナノサイズ(1メートルの10億分の1)あるいはそれよりも小さな世界です。このような極めて小さな世界では、私たちの身の回りにある物理法則(ニュートン力学や電磁気学)は通用せず、「量子力学」というとても不思議な法則に従っています。

 

2.量子論

デジタル大辞泉による“量子論”の解説は次の通りです。

『量子力学、およびそれにより体系化される理論の総称。プランクの量子仮説から量子力学の確立までを古典量子論または前期量子論という。物理学のほか化学・工学・生物学でも展開。古典論に対していう。』なお、「プランクの量子仮説」が物理学会に提出されたのは、1900年12月14日です。

“量子論”に関しては、「量子論を楽しむ」の”はじめに”の冒頭部分をご紹介させて頂きます。

この本を手に取られた方のほとんどは、携帯電話やパソコンをお持ちに違いない。最近のエレクトロニクスの進歩はあまりにも速く、次から次へと性能が上がり、値段も安くなっている。その進歩は、そこに使われている半導体素子の進歩に大きくよっているが、半導体チップの中を支配している物理法則が「量子論」である。実際、半導体は量子論の結晶だとしばしば言われる。

地球が太陽の周囲を回る公転運動や、ロケット・飛行機・自動車などのマクロの物体の運動は、ニュートンが作った古典力学で計算し、結果の予言ができる。しかし分子や原子、素粒子のような小さな世界では、ニュートンの古典力学は使えないのである。これに対して量子論は、素粒子などのミクロの世界に適用される物理学の理論である。したがって、半導体の中で役立っているだけでなく、遺伝子やDNAの構造を決めているのも量子論だし、原子炉の中でエネルギーを発生させている核分裂反応や、太陽の中でエネルギーを生み出している核融合反応も量子論に従って起こっているのである。

3.量子力学

デジタル大辞泉による“量子力学”の解説は次の通りです。

『素粒子・原子・分子などの微視的な世界の物理現象を扱う理論体系。物質のもつ波動性と粒子性、観測による測定値の不確定性などを基本とする。アインシュタインの光量子論、ボーアの原子構造論などを経て、ハイゼンベルクの行列力学とシュレーディンガーの波動力学とが統一されて、1925年ごろ確立。』

4.量子論の第一歩(プランクの量子仮説)

“2.量子論”の中にある“プランクの量子仮説”は、「量子の世界」の方に詳しい説明が載っていました。

量子論発見の物語は、マックス・プランクによる黒体放射の法則の発見(1900年の記念すべき第一歩)で始まる。前期量子論の特色を一口でいうと、プランクの量子の考え(自然には不連続な要素があるというもの)を古典的なニュートン物理学の中にうまくはめ込ませようとする物理学者の側の試みを表していると言ってよい。黒体放射に関する論文で、マックス・プランクは、hと呼ばれる新しい定数を物理学に導入した。これは原始的過程に現われる不連続性の大きさの尺度である。プランクがこの仕事をやり遂げた1900年当時は、原子はその全エネルギーとしてどんな値でもとりうる(つまりエネルギーは連続変数だ)というのが物理学者たちの考えであった。これに対して、プランクの量子仮説はエネルギーのやりとりが量子化[古典力学で連続量と考えられていた物理量が、量子力学の量子条件に合わせて離散的な値として観測されること]されているというものであった。エネルギー量子という考えの導入は古典物理学には全く根拠を持っていないが、新しい理論が古典的概念との根元的な決裂を要求するものかどうかはまだ明らかではなかった。理論物理学者たちは、最初、プランクの量子仮説を古典物理学と調和させようと努力したのであった。

“プランクの量子仮説”が提案された時期の前後には、次のような大きな発見がありました。

1897年ジョセフ・ジョン・トムソンが電子を発見。1906年にノーベル物理学賞を受賞。

1911年アーネスト・ラザフォードは原子核を発見。1908年にノーベル化学賞を受賞。

5.量子論の奇怪さ

前回の“量子論1”ではノーベル物理学賞を受賞した、リチャード・フィリップス・ファインマンの『量子力学が本当に理解できている人はまずいないだろう~』で始まる文章をご紹介しましたが、「量子の世界」では“量子的奇怪さ”についての説明が出ていました。難解さが伝わる内容だと思います。

「量子的奇怪さ」とはいったい何なのか。それを見るため、新しい量子論の物理学を、それが取って代わった古いニュートン物理学と対比させてみよう。ニュートンの法則は、石の落下や惑星の運行とか、川や潮の流れなど、見慣れた物体やありふれた出来事からなる、目に見える世界の秩序をつかさどるものだ。このニュートン的世界像を第一義的に特色づけているのは、決定論的性格と客観性である。つまり、時計仕掛けとしての宇宙は時間の始まりから終わりに至るまで決定しているし、石や惑星などは我々が直接にそれらを観測しなくても客観的に実在しているのだ―背を向けていたってちゃんと存在している。

量子論になると、世界を(決定論や客観性のような)常識に基づいて解釈することはもはや許されなくなる。もちろん量子世界も理性によって理解しうるのだけれども、ニュートン的世界のように描写してみせることはできないのだ、これは原子やそれよりも小さい量子の世界の極微性だけが原因ではなくて、通常の物体の世界からそのまま借用した表現の手段が量子的対象には通用しないということによっている。たとえば、石などはそれが静止していて、しかもある定まった場所に置かれているという様子を我々は容易に心に描くことができる。だが電子のような量子的粒子に対して、それが空間のある一点に静止しているなどと言っても意味をなさないのだ。さらに、電子は、ニュートンの法則ではありえないような場所にも物質化して現われることができる。かくして、量子的粒子を通常の対象と同じように考えることは実験事実と相いれないということが物理学者と数学者によって示されたのである。

量子論は客観性という通常の考え方を否定するだけにとどまらず、決定論時世界観をも破壊してしまった。量子論によれば、電子の原子内での飛び移りなどの現象はランダムに起こるのである。電子がいつ飛び移るかなど、我々に教えてくれるような物理法則は何もないのである。せいぜい我々にできることは、その現象の起こる確率を与えることである。巨大な時計仕掛けの最も小さい歯車である原子は、決定論的な法則には従わないのだ。

量子論を考え出した人たちは、ニュートン的世界観と対照的なもう一つの面に気づいた。それは観測者が創り出すリアリティというものだ。量子論によれば、観測者が何を測定しようとしているかということがその測定自身に影響を及ぼすことになる。量子の世界で現実に起こっていることは、その世界を我々がどのように観測しようとしているかに依存しているのだ、我々が観測しようとするまいと、それとは無関係に存在する世界では決してないのである。つまり量子の世界の様子は我々が何を見ようとするかによって部分的に決まるのであって、観測者がリアリティを創り出すことに部分的に参加していると言ってもよい。

客観的実在という概念がないこと、決定論が破れること、および観測者がリアリティを創り出すこと、など、量子世界の持つこれらの性質が、この世界を我々の感覚で知覚する通常の世界から区別しているゆえんであるが、私はこれらの性質のことを「量子的奇怪さ」と呼ぶことにしたい。アインシュタインはこの量子的奇怪さ、わけても、観測者が創り出すリアリティという概念には抵抗を示した。測定の結果に直接的に観測者が絡まるという事実、これは、自然が人間の選択などにはお構いなしに存在すると考えたアインシュタインの決定論的世界観とは真っ向から対立するものだったからである。

我々の心の奥底には、何か素直に量子的リアリティを理解しようとはしないものがあるようだ。もちろん理屈では、数学的に無矛盾だし実験ともすばらしい一致を示すのだから、それを受けいれるのはなんらやぶさかではないのである。だがどうも心の安らぎを得ないのだ。物理学者やそのほかの人たちが量子的リアリティというものを把握しようと苦労している様子は、ちょうどまだ自分の知らない概念にぶつかったときに子供が示す反応ぶりを私に思い起こさせるのである。心理学者、ジャン・ピアジェは子供についてこの現象を研究した。ある年齢の子供に、千差万別の形をした透明な容器に同じ高さまで液体を入れたものをたくさん見せたとする。すると子供は、どの容器にも液体が同じ量だけ入っていると考えるものである。その子供にはまだ、液体の量は高さだけできまるものではなく、体積できまるものだということがつかめていないのだ。その問題の正しい見方を子供に説明すれば、たいていの場合子供は理解する。だがすぐにまた元の考え方へ立ち戻ってしまうものだ。ある特定の年齢―およそ六歳か七歳あたり―を過ぎてはじめて、子供は液量と体積の関係を理解することができるのである。量子的リアリティが理解できるようになるのもこれと似たようなものだ。諸君が自分でそれが理解できたと思い、自分の頭に量子的リアリティのなんらかの描像が浮かぶようになったにもかかわらず、間もなくまた元の古典的な考え方に戻ってしまうことがよくあるものだ。これはちょうどピアジェの実験の子供の場合と同じなのだ。

6.量子論の応用と貢献

量子論による最大の功績は半導体の発見ではないかと思います。今では死語だと思いますが半導体のことを、”産業の米”と呼んでいた時代がありました。もちろん、量子論の貢献は半導体だけではありません。また、これらを知ることはとても大切だと思います。この点に関しては「量子の世界第五章 ”不確定性と相補性”の中に描かれていました。

1920年代の終わり頃まで、新しい量子論の解釈の問題は手をつけられないままの状態であった。若い世代の物理学者たちは量子論とともに育ったが、彼らは解釈の問題には、量子論の応用に対するほどの興味を示さなかったのである。新理論は、それ以前にはなかったほど、理論物理学における数学の果たす役割の重要性を強調するものであった。したがって、抽象数学の面で専門的に大変優れた能力の持主や、それを物理の問題に適用する才能の持主たちが前面に登場してくることになった。

新しい量子論は、自然現象の解明にとって人類がこれまでに手にした数学的手段のうちで最も強力な武器となり、科学の歴史上、比類のない偉大な業績と数えられるに至った。この理論は世界中の工業諸国の何千という若い科学者の知的エネルギーを解放した。これまで出されたどんなアイデアもこれほどまでに大きい衝撃を技術面に与えたことはなかったし、今後とも、このアイデアが実際面で持つ意味は、我々の文明の社会的、かつ政治的運命を形作っていくことになろう。我々人類は今や、宇宙の法典―宇宙の不易の法則―の新しい側面、すなわち我々の発展がプログラムされている面と接触した。トランジスターマイクロチップレーザー低温技術などの実際面への応用は技術文明の最先端を走る全産業を生み出すこととなった。今世紀の歴史が書かれるとき、政治的な事件は人間の生命や財産に計り知れない損失を与えたにもかかわらず、影響の最も大きかった事柄としては取り扱われていないのを我々は見ることになるかもしれない。代わりに登場するおもな出来事は、人類がはじめて目に見えない量子の世界と接触を持ったことと、その結果としての生物学上、および計算機の上の革命になるのではないだろうか。

新しい量子論の出現によって、化学元素の周期率表の根拠化学結合の本性、および分子化学が理解できることとなった。またこの新しい理論的発展は、実験面での研究と相まって現代の量子化学を誕生させた。だから、ディラックは、量子力学に関する1929年の論文に次のように書くことができたのだ。

「物理学の大部分と、化学の全域に対する数学的理論にとって必要な基礎的物理法則は、かくして完全に我らの知るところとなり……」

第一世代の分子生物学者たちは、生体の遺伝的安定性は物質的、分子的基盤を持っているに相違ないと説いた、あのエルヴィン・シュレーディンガーの本、『生命とは何か』を読んで大いに触発されたものだ。これらの研究者たちの多くは熟達した物理学者であったが、彼らは遺伝学に新しい風を吹き込み、当時のほとんどの生物学者にとってはなじみのなかった分子物理学の実験方法を取り入れたのである。生命の問題に対してとられたこの新しい研究方法の最大の成果が、生命体の自己複製の物理的基盤である、DNAとRNAの分子構造の発見であった。この発見は、またそれ自体が別の革命の原動力となったのだが、いずれにせよ、分子物理学の研究室でこの発見が行なわれたのは決して偶然ではなかったのだ。

固体の量子論の開発も行われた。電気伝導の理論固体のバンド理論磁性体の理論などはすべて新しく生まれた量子力学の当然の成果なのだ。1950年代になると、超電導の理論(極低温において電流が抵抗なしに流れる現象)および超流動の理論(流体が抵抗なしに流れる現象)において一大躍進が見られることになる。このほか液体が気体や固体に変わるような、物質の相転移の理論も発展した。

新しい量子論はまた原子核の研究に対する理論的な道具ともなり、原子核物理学が誕生する契機になった。放射性崩壊の際の莫大なエネルギーの解放の根拠が理解された―放射性崩壊は量子力学的事象を含んでいて、古典物理学的な現象ではないのだ。物理学者は、はじめて星のエネルギー源について知り、天体物理学がモダンな科学として登場することとなった。

だが、一般社会では、教育のある人でさえ量子論のこの発展についていこうとしなかったのは驚くべきことだった。実際、量子論はその前の相対論ほどは一般の興味を引かなかったのである。これにはいくつかの理由が考えられる。第一に、1930年代の初頭は、経済的不況が進行しつつあったこと、第二に、知識層のほとんどは政治上のイデオロギーの問題にすっかり気を奪われてしまっていたこと、第三に、そしてこれが最も重要な理由だと私は考えるが、量子論の数学的構造の抽象性が人間の直接経験に結びつかなかったことである。

量子論は測定機器を通して見いだされた物質的リアリティの理論である。つまり観測者としての人間と、原子との間に、装置が存在している。ハイゼンベルクの言葉を借りれば、「科学における進歩は、自然界の現象を仲介を挟むことなくそのままじかに我々の思考方法で理解できるようにする可能性を犠牲にすることでもたらされた」のだ。彼はさらに、「科学は、我々の感覚でじかに認知できる現象をありのままにとらえる可能性をますます葬り去る一方で、現象の数学的な、形式的な芯の部分をあばくことだけをやっている」とも言っている。

7.量子論から生まれた半導体

これは「量子論を楽しむ」の中の“半導体部品を生み出した量子論”に書かかれている内容です。

物性物理学における量子論の最大の成果の一つは、個体の電気的な性質の違いを理論的に説明したことです。

個体は、金属のように電気を良く通す導体、木やガラスなどのように電気を流さない不導体(絶縁体)、そしてその中間物質である半導体の三種類に分類されます。電流とは電子の流れのことですから、それぞれの固体の中で電子がどんな状態にあるのかによって、電気的な性質の違いが表れることが想像できます。

固体の中の電子の状態を「量子数」の概念やパウリの原理に照らして考えると、結晶構造になっている原子の中では、電子のエネルギーはいくつかの「エネルギー帯」と呼ばれる範囲の値だけを取ることがわかりました。そしてエネルギー帯同士のすきま(「ギャップ」と呼びます)が小さい結晶原子ほど、電子はエネルギー的に高い状態に移りやすく、その結果原子核から離れて自由に動き回る電子になる、すなわち電気が流れることがわかってきたのです。

また、シリコンやゲルマニウムなどの半導体に少量の不純物を混ぜることで、電気的な性質を自由自在に変えられることも明らかになりました。これを応用した半導体部品すなわちダイオードやトランジスタ、そしてIC(集積回路)やLSI(大規模集積回路)などはマイクロエレクトロニクスの主役となり、私たちの日々の生活を激変させたのです。現在の私たちの暮らしを支えているのは、半導体部品を生み出した量子論であると言えます。

今回、量子論の本を読み始めてしばらくの間、私は半導体と量子論との関係について、相変わらずイメージすることができませんでした。しかしながら、4冊の本を読み終える頃になって、やっと、見えた気がします。それは、とても単純な話でした。つまり、半導体は原子より小さい電子などの世界の話であり、そのミクロの世界のルールを知り、会話するためには古典論は役に立たず、量子論でなければ話が始まらない」。ということでした。 

付記

5.量子論の奇怪さ”の中に次のような一文がありました。

量子論を考え出した人たちは、ニュートン的世界観と対照的なもう一つの面に気づいた。それは観測者が創り出すリアリティというものだ。量子論によれば、観測者が何を測定しようとしているかということがその測定自身に影響を及ぼすことになる。

この後半部分のフレーズを”それは施術者が創り出すリアリティ(”証”[治療指針])というものだ。鍼灸の世界では、鍼灸師がどんな施術をしようと考えているかがその施術自身に影響を及ぼすことになる”と置き換えられるのではないか??? それはエネルギーが持つ不思議な ”顔” なのではないかと。。。

 

画像出典:「ScienceTime

量子論1

なぜ、量子論という超難解なものに興味を持ったのかというと、それはブログ“がんと自然治癒力8”で勉強させていただいた、ブルース・リプトン先生の「思考のすごい力」という本に因ります。

 

著者:ブルース・リプトン

出版:PHP研究所

発行:2009年1月

この本の第四章は次の通りです。

第四章 量子物理学が生物学・医学を変える日は近い

 量子物理学と縁なく過ごしてきたわたし

 ニュートン力学では超常現象を解明できない

 物質はエネルギーでできている

 人間の生体内システムは重複的

 製薬会社の駒となっている医師たち

 電磁エネルギーが生体調整に深い影響を与える

 代替医療の研究が進まないわけ

 エネルギー波を治療に活用する

大袈裟ですが、私の背中を押したのは以下の4つです。また、キーワードは“エネルギー”であり、そして“量子論と東洋医学の類似性??”という期待のような思いを含んだ好奇心です。

『原子が宇宙で最も小さい粒子であるという概念は捨て去られた。一つの原子はさらに小さな粒子から構成されていることがわかった。これだけでも驚天動地の大発見だが、さらに、原子がX線や放射線など、さまざまな「奇妙なエネルギー」を放出していることが明らかになり、大騒ぎになった。』

『ニュートン的で物質偏重主義である旧来の概念から抜け出せない研究者たちは、健康や病気にエネルギーの振動が果たす役割をまったく無視している。』

『何千年も前、西洋の科学者が量子物理学の法則を発見するより遥か以前に、アジア人は健康と幸福に寄与する第一の要因として、エネルギーを尊んできた。』

『東洋医学では、身体はエネルギーの経路(経絡)が複雑に列をなしたものと定義される。中国の鍼灸療法で用いられる人体の経絡図には、電気配線図にも似たエネルギーのネットワークが描かれている。中国医学の医師は、鍼などを用いて患者のエネルギー回路をテストするわけだが、これはまさに電気技師がプリント基板を「トラブルシュート」して電気的な「病変」を発見しようとするのと同じやり方だ。』

読んだ本は、「思考のすごい力」の中で紹介されていた2冊を含め、全部で4冊です。

 

著者:H.R. パージェル

出版:地人選書

発行:1983年11月

※ブログ内の青色『』は「量子の世界」からの引用になります。

原書のタイトルが気になり、調べてみたところ“THE COSMIC CODE”でした。

著書:「分子生物学入門

著者:セント=ジェルジ・アルベルト

出版:廣川書店

発行:1964年9月

ジェルジ・アルベルト先生は、ビタミンCの発見などにより、1937年度ノーベル生理学医学賞を受賞されました。

写真は本書の中に掲載されているものです。また、この「分子生物学入門」の内容は極めて高度であり、タッチできるものではありませんでしたが、唯一、お伝えできる、お伝えしたいことは以下の文章の中の太字部分です。

 『私の研究歴は組織学にはじまりましたが細胞形態学が与え得る生命についての知識に満足できず私は生理学に転じました。そこで生理学があまりにも複雑であることを見い出し私は薬理学の分野に転向いたしました。それは薬理学の対象の一つである薬物の性質が比較的に単純なものであると思われたからであります。しかしながら薬理学が決して単純なものでないことを知った私は次に細菌学の世界に踏み込んだのであります。ここでなおも細菌の複雑さを知らされた私は次第に分子レベルの問題に興味をひかれ化学や物理化学の研究をするようになったのであります。この経験を生かして私は筋肉の研究をはじめることを企てました。その後20年間にわたる研究の結果、筋肉の問題を理解するためには量子力学の法則に支配されている電子のレベルまで掘り下げる必要があるという結論に到達しました。

 

著者:佐藤勝彦

出版:PHP文庫

発行:2000年4月

※ブログ内の赤色『』は「量子論を楽しむ本」からの引用になります。

 

監修:和田純夫

出版:ニュートンプレス

発行:2018年7月

※ブログ内の緑色『』は「13歳からの量子論のきほん」からの引用になります。

※上部に”常識が通じない! ミクロの世界の物理法則”とあります。

 

 

今回の“量子論1”は、自分自身の関心事に対して、できる限り分かりやすくまとめることを目標としました。一方、次回の“量子論2”では、H.R. パージェルの著書「量子の世界」を中心に全体像をつかむという点に重きを置きました。

相対性理論といえばアインシュタインですが、量子論といえば誰なのか? その答えは、ニールス・ボーアとその仲間達ということになります。

画像出典:「量子論を楽しむ本」


左の絵の中に、“シュレーディンガーの猫”と書かれたイラストが出ています。簡単にご説明すると、量子力学の基本となる方程式(“シュレーディンガー方程式”)を編み出したシュレーディンガーが、ボーア達が確立した“コペンハーゲン解釈”という考えに反旗を翻し、提示した宿題であり、“シュレーディンガーの猫”と命名されました。右の絵はその内容です。なお、この宿題は現在もクリアできず、“コペンハーゲン解釈”が完全なものに至っていない大きな理由の一つとなっています。

 

ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア(1885年10月7日 - 1962年11月18日)

ボーアは1922年にノーベル物理学賞を受賞されています。

画像出典:「ウキペディア

1.量子論と東洋医学

ボーアは量子論が明らかにした物質観・自然観の特徴を“相補性”という概念で説明していますが、ボーアはこの“相補性”を表すシンボルとして古代中国の「陰陽思想」を象徴する“太極図”を好んで用いたとのことです。このことは、「量子論を楽しむ本」の中に書かれていました。 

 

画像出典:「量子論を楽しむ本」

ボーアは相補性を表すシンボルとして古代中国の「陰陽思想」を象徴する太極図を好んで用いました。陰と陽という対立する「気」が絡み合い、相互作用をおこなうことで、すべての自然現象や人間活動が決まるとする陰陽思想は、まさに量子論の描く世界像と同じと言えます。ボーアは自分の紋章の一部に太極図を描いたほどでした。

量子論はこのように、中国思想などの東洋思想と相通じる部分を持つために、その観点から関心を持つ人も多くいます。東洋思想の柱に「一元論」があり、これは近代科学の根底にある「二元論」と対立する概念です。物と心、自然と人間などを分けて取り扱うのが二元論であり、これらを不可分なものとみなすのが一元論です。客観的事実を否定した量子論は、自然と観測者を分けて考える二元論的な世界観を退け、観測対象である自然と観測する私たちとを一つのセットとして考える、一元的な自然観を示すのです。

東洋医学そのものではありませんが、ボーアがその大元になっている陰陽思想への関心が高かったという事実の発見は、驚きでもあり、うれしい気持ちになります。

 

写真はQingYang gong templeという寺院にある彫刻です。中央が太極図、まわりは十二支です。

画像出典:「ウキペディア

2.量子論とは

1)アイザック・ニュートンと決定論

 

この画像は“山賀 進のWeb siteさまの“ニュートン略伝”から拝借しました。

量子論と対極にあるのは、アイザック・ニュートンの理論です。また、そのニュートン力学の考えをさらに発展させたのが、ピエール・ラプラスの「未来はきまっている」という考えです。まずは、量子論と比較する目的で「古典論」とされている、ニュートン力学と決定論について触れたいと思います。

 

 

画像出典:「13歳からの量子論のきほん」

量子論が誕生する以前、あらゆる物体の運動は、「ニュートン力学」で説明できると考えられていました。ニュートン力学はイギリスの天才科学者アイザック・ニュートンが打ち立てた理論で、物体が力を受けてどのように運動するかを説明する理論といえます。

ボールの遠投を考えましょう。空気抵抗などは無視できるとします。ボールを投げた瞬間の速さと向き、高さが厳密にわかれば、地面に落ちる位置はニュートン力学によって厳密に計算できます。つまり「ボールの落下地点は、投げる瞬間に決まっている」といえるわけです。

サイコロの出る目が予測できないのは、サイコロを投げた瞬間の状態を厳密に知ることが困難だからです。投げた速さ、角度、高さなど、すべての条件が厳密にわかれば、出る目は計算できます。つまり、「サイコロの出る目も、投げる瞬間に決まっている」といえるでしょう。

フランスの科学者ピエール・ラプラスは、ニュートン力学の考えをさらに発展させて、次のように考えました。

「仮に、宇宙のすべての物質の現在の状態を厳密に知っている生物がいたら、その生物は宇宙の未来のすべてを完全に予言することができるだろう。つまり、未来は決まっていることになる」。この仮想的な生き物は、「ラプラスの魔物」と呼ばれています。

ラプラスのような考え方は、量子論が登場するまでは、物理学者の間で一般的だったようです。未来を予言することができないのは、人間の能力に限界があるためであって、実際には未来は決まっている。そう考えるわけです。

しかし量子論の登場によって、この考え方は正しくないことがわかりました。量子論によると、仮にラプラスの魔物が宇宙のすべての情報を知ることができたとしても、未来がどうなるかを予言することは原理的に不可能だからです。

たとえば電子は、運動方向を正確に決めると位置が不確かになり、位置を正確に決めると運動方向が不確かになります。電子の位置と運動方向を、同時に正確に決めることは不可能なのです。

このようにミクロの世界では、電子一つをとってみても、未来の予言は不可能です。つまり、未来はきまっていないようなのです!

2)量子論が生まれた理由

 

野球のボール vs 原子」の大きさの違いは、「地球 vs ビー玉」の大きさの違いと同じくらいだそうです。

画像出典:「13歳からの量子論のきほん」

あらゆる物質は、「原子」からできていることがわかっています。19世紀末ごろになって、原子がかかわる現象を詳しく調べてみると、ミクロな世界は私たちが日常生活で目にする世界とはまったくちがうことがわかってきました。ミクロな物質は、私たちの常識では説明できない、摩訶不思議なふるまいをするのです。そこで、新しい理論が必要になりました。それが「量子論」です。量子論とは「非常に小さなミクロな世界で、物質を構成する粒子や光などがどのようにふるまうかを解き明かす理論」といえます。

3)量子論と日常生活の関係


こちらの絵も「13歳からの量子論のきほん」からのものです。量子論はミクロの世界で顕著ですが、実はミクロの世界だけの話ではありません。

量子論は、原子や電子といったとても小さいものがどのようにふるまうかを説明する、物理学の大理論です。現代の物理学は、一部の例外をのぞいて、すべて量子論という土台の上に築かれているといっても過言ではありません。量子論以前の物理学は、「古典論」とよばれます。原子より小さいようなミクロな世界は、古典論では説明がつかず、量子論という新しい理論が生まれたのです。

では量子論は、私たちが日常目にする世界(マクロな世界)とは、無関係なのでしょうか。実は量子論は、ミクロな世界であろうと、マクロは世界であろうと、自然界のすべてのサイズで適用できます。ただ、マクロな世界では、量子論の効果がほとんど見られなくなります。量子論が「ミクロな世界の物理法則」といわれるのは、量子論の効果が目立ってあらわれるのが、ミクロな世界だからなのです。

ただし、ミクロな世界もマクロな世界も、量子論だけですべてがこと足りるというわけではありません。たとえば、マクロな世界の物体の運動に量子論を適用すると、計算量が膨大になってしまいます。そこで実用上は、計算が楽な古典論が使われます。マクロな世界では、量子論による計算結果と古典論による計算結果が、ほとんど同じになるのです。

なおマクロな世界にも、量子論を使わないと説明できない現象はあります。「金属(導体)」「絶縁体」「半導体」の性質のちがいや、「超流動」や「超電導」といった現象です。

量子論であつかうミクロな世界の現象は、日常ではほとんど見ることができないので、量子論に慣れるのはむずかしいといえます。「人間が知覚できる世界は非常に特殊で限られている」という事実を、忘れないようにする必要があるでしょう。

この「ミクロとマクロ」、「古典論と量子論」の関係性をつかむことは重要と考えますので、専門的ですが、以下に「量子の世界」の“第五章 不確定性と相補性”から一部を引用させて頂きます。

なお、ポイントは「例えば細菌サイズであっても、不確定さは10億分の1しかないため、ニュートン力学でも問題ない誤差であるが、原子サイズになると不確定さは100分の1と高くなるため、いよいよニュートン力学では難しくなってくる」というような内容です。

いろいろな対象に対して、ハイゼンベルクの関係式がどの程度の意味をもつかのだいたいの感じをつかむためには、その対象のサイズと代表的な運動量を掛け合わせたものを、ブランク定数h―量子効果が重要となる目安―と比較してみるとよい。飛んでいるテニスボールについて言えば、量子論による不確定さはおよそ1000万×10億×10億×10億分の1(10のマイナス34乗)に過ぎないことがわかる。したがって、テニスボールは十分な高精度で古典物理学の決定論的法則に従っていると言ってよい。細菌でさえ、その効果はおよそ10億分の1(10のマイナス9乗)の程度で、量子世界を全く経験することはないのだ。だが結晶中の原子になると我々は量子世界の入口まで迫っていくことになり、不確定さが100分の1(10のマイナス2乗)になる。ついに原子の中を動き回る電子に至っては量子的不確定性が完全に支配的となり、我々は不確定性原理と量子力学を支配者とする正真正銘の量子世界に足を踏み入れることになるのだ。

実は、今回「ハイゼンベルクの関係式」を調べていて、大きな修正が起きていたことを知り大変驚きました。それは以下の記事です。なお、この修正は上記の内容(物質の大きさと法則の関係性)に大きな影響を与えるものではないと思われます。

【クローズアップ科学】ノーベル賞「重力波」に陰の立役者 名大・小澤正直特任教授、物理学の定説覆す理論で貢献 2017.10.8 10:00

“~ 量子力学を象徴するとされてきたハイゼンベルクの不確定性原理を表す不等式の破れ(欠陥)を正した「小澤の不等式」でも世界的に知られている。ハイゼンベルクの不等式は「物体の位置を正確に測ろうとすると、測定によって起こる運動量の乱れが大きくなる」ことを表す。測定誤差がゼロだと、運動量が無限大になるので、そのような測定はできないと考えられてきた。これに対して、小澤氏が2003年に発表した不等式は、誤差ゼロの測定が可能であることを示す。量子の世界の「不確かさ」には測定に伴う誤差や運動量の乱れと、測定とは関係なく量子が本来的に持っている位置や運動量の「揺らぎ」がある。小澤氏は、2つの「不確かさ」がきちんと区別されないまま80年にわたり定着していたハイゼンベルクの不等式の間違いを正し、完全な式を提示した。 ~”

4)量子論の二つの重要事項

●「波と粒子の二面性」:“電子や光は、波と粒子の性質をあわせもつ”

●「状態の共存(重ね合わせ)」:“一つの電子は、箱の左右に同時に存在できる”

これについてはここでは触れません。その代わり、勇気づけてくれる一文をご紹介します。それは「量子の世界」の“第九章 波を作る”の冒頭(添書き)に書かれているものです。

量子力学が本当に理解できている人はまずいないだろう、と言って私は間違っていないと思う。諸君はもしできるなら、「だが、どうしてそんなことがありうるのだろうか」と自分自身に問い続けるのはやめた方がよい。なぜならますます深みにはまって、袋小路をさまようのが落ちで、そこから出口を見つけて出てきた人はまだいないのだから。どうして量子力学ではそうなるのかは、誰もわかってはいないのだ。

なお、この文章は、リチャード・フィリップス・ファインマンの言葉です。ファインマンは、経路積分という新しい量子化の手法を考案し、この成果により1965年にノーベル物理学賞を受賞された物理学者です。

5)“コペンハーゲン解釈”とは

現在、解決できない宿題(既出の“シュレーディンガーの猫”の件など)はあるものの、量子論の代表的な解釈は“コペンハーゲン解釈”と呼ばれているものです。以下はネット上にあった「知恵蔵」による解説です。

『コペンハーゲン解釈は、N.ボーアやW.ハイゼンベルクらの立場に沿うもので、正統派解釈とされる。この見方では、量子世界の物理状態は重ね合わさり、波を形づくっているが、観測された瞬間に波はしぼみ、1つの状態に落ち着く(波束の収縮)。どの状態が観測されるかは、波の振幅をもとに確率論的に予想できる。収縮の原因として、測定する側(環境)が測定される側に乱れを起こすことなどが考えられている。』

一方、「量子論を楽しむ本」の中の説明は以下の通りです。

波の収縮」と「確率解釈」を二本の柱として、私たちに見られる前の電子と見られた後の電子のようすを理解しようとするこの解釈方法を、コペンハーゲン解釈と呼びます。

また、「13歳からの量子論のきほん」の説明は次のようなものです。


観測すると、電子の波が瞬時にちぢむ!? “とがった波”が、粒子のようにみえる

一つの電子は「波と粒子の二面性」をもちます。この矛盾したような事実は、どう解釈したらよいのでしょうか。コペンハーゲンを中心に活躍したデンマークの物理学者のニールス・ボーア(1885~1962)らは、「コペンハーゲン解釈」とよばれる解釈を提案しました。

コペンハーゲン解釈によると、電子は観測していないときは、波の性質を保ちながら空間に広がっています。しかし、光を当てるなどして電子を観測すると、波が瞬時にちぢみ、1か所に集中した“とがった波”になります(波の収縮)。このような波が、粒子のように見えるというのです。

電子は、観測すると、観測前に波として広がっていた範囲内のどこかに出現します。しかしどこに出現するかは、確率的にしかわかりません。このような解釈をすれば、電子などの「波と粒子の二面性」を矛盾なく説明できると、ボーアらは考えたのです。 


電子は、“分身”しながら広範囲に存在している 電子の波を、発見確率をあらわす波と考える

電子の波とは、いったいどんな意味をもつものなのでしょうか?

先にご紹介したように、観測前の電子は、波のように空間に広がっています。これをあえて粒子的な描像で考えると、「一つの電子が、漫画などにえがかれる分身の術をしている忍者のごとく、あちこちに同時に存在している」といったイメージになります。

電子が発見される確率は、電子の波の“山の頂上”または“谷の底”で最大になり、電子の波が軸と交わっているところでゼロになっています。このように電子の波を、電子の発見確率をあらわす波と考えるのが、量子論の標準的な解釈となっている「コペンハーゲン解釈」です。

電子の波を数学的にあらわしたものは、「波動関数」とよばれています。電子の波動関数が原子の中などで、どのような形をとるかを導くための量子論の基礎方程式を、「シュレーディンガー方程式」といいます。

3.おさらい

この“おさらい”は、「量子論を楽しむ本」の中にある“ミクロの世界の物理法則が明らかになる”の内容です。量子論を理解する上で、量子論を古典派と推進派の両面から理解することが重要ではないかと考えました。

ミクロの世界の物理法則が明らかになる

さて、3章(見ようとすると見えない波)でもさまざまな話をしてきました。最後は例によってこの章のポイントをおさらいしておきましょう。

原子中の電子の軌道半径がとびとびの値に限られるというボーアの量子条件の根拠を示すために、ド・ブロイは電子を波であると考えて、その波長を求めた。

シュレーディンガーは電子の波を表すシュレーディンガー方程式を導き、電子の「とびとび」のエネルギー状態などの説明に成功した。

しかしシュレーディンガー方程式が示す波動関数ψ(プサイ)、すなわち電子の波(これは複素数の波である)の正体はわからなかった。

④ボルンは波動関数ψそのものが何を表すのかを考えずに、代わりにψの絶対値の二乗が、電子をその場所に発見する確率に比例することを見いだした(「波動関数の確率解釈」)。

ボーアたちは、観測される前の電子はさまざまな位置にいる状態が「重ね合わせ」になっているが、私たちが電子を観測したとたんに「波の収縮」が起きて電子は一ヶ所で発見されると考えた(「コペンハーゲン解釈」)。

こうして1920年代に、原子中の電子が示す不思議な現象をきちんと説明できる理論を、私たちはついに手にすることになりました。そしてその結果わかったのは「電子などミクロの世界は、私たちが知っていた物理法則とはまったく違うルールに支配されていたのだ」ということです。

その新たなルールの第一は、シュレーディンガー方程式に代表される波動力学(量子力学)です。ミクロの世界の物質は、それを「波である」と考えることでふるまい(動きやエネルギー)などを求めることができるのです。

そしてもう一つのルールが「確率」です。私たちが電子を発見する場所は、サイコロを振って決められるかのように、確率的に決定されるというのです。

このおさらい①~⑤を眺めると、古典派と推進派の違いは、波動関数の正体にこだわり歩を止めたアインシュタインやシュレーディンガーなどの古典派(決定論[ニュートン以来の物理学の大前提]を尊重)と、波動関数の正体を明らかにすることを先送りし、波動関数の存在を前提として量子論の開拓を積極的に進めていったボーアたちの推進派、という構図が思い浮かびます。

付記

「量子論を楽しむ本」の第3章“見ようとすると見えない波”と聞いて思い出したのは、壺と顔の絵です。調べてみるとそれは『ルビンの壺』と呼ばれていました。「壺に集中すると顔に気づかず、顔に集中すると壺に気づかない」というものです。もちろん、これは量子論の“波の収縮”とは全く無関係ですが、ちょっと面白いのでアップしました。 

不安障害2

今回は、前回の”不安障害1”の続きになります。

 

著者:水島広子

出版:技術評論社

初版発行:2010年10月

第8章 身近な人との不安とのつきあい方

不安障害の人に接する基本姿勢

 解決できる不安と感じるしかない不安を区別する

●『一般に、不安の強い人をめぐって混乱している状況を見ると、周りの人が本人の不安を解決しようとしてしまっている、ということが多いものです。「心配しない方がいいよ」というものも含めて、さまざまなアドバイスを与えているのです。

実は、アドバイスには大きな問題があります。アドバイスというのは、現状はよくないから変えるべきだ、というメッセージをもともと含んでいるものです。

●『感じるしかない不安を前に混乱している人は、自分の不安にも不安を感じているものです。自分が不安であることも不安だという状態の人に向かってアドバイスをしてしまうと、自分が不安であることへの不安がますます強くなってしまいます。「やっぱりこのままではいけないんだ」と思ってしまうのです。』(”感じるしかない不安”については、”不安障害1”の中の第1章にある”解決すべき不安と感じるしかない不安”を参照ください)

●『そもそも「感じるしかない不安」を感じているわけですから、「心配しない方がいいよ」と言われても、どだい無理な話なのです。』

 気持ちをよく聴き肯定する

●『「こんなときには不安になるよね」と、不安を肯定してあげるのが最も適切な対処です。聴いてあげることは重要です。感じるしかない不安は、原則として、安全な環境で表現するとだんだん落ち着いてくるものだからです。安全でない環境というのは、自分の不安が不適切だと思われるような環境のことです。すぐにアドバイスされてしまうような環境は、「あなたの不安は不適切だからすぐに変えなさい」と言われているのと同じことになってしまいます。

「治療者」ではなく「支え役」を引き受ける

 治療は専門家に任せる

●『治療者は、専門知識に基づいて事態を改善していく役割、そして、身近な人はそれを支える役割を果していただきたいのです。

●『本人が焦ったり、その中で挫折する自分を責めたりしてしまうようだったら、「ゆっくりやろうね」「まだまだ無理しなくて大丈夫」と安心させてあげるのです。

●『引きこもっているケースなどでは、本人にハッパをかけないと本当に一生引きこもったままになるのではないかと思われることもありますが、ハッパをかけても解決にはなりません。ハッパのかけ方によっては、やはり心の傷や対人不信につながります。もちろん、治療的な刺激を与えることはプラスになりますが、その方針を考えるのも、専門性のある治療者の仕事です。』

 受診の勧め方

●『受診を勧める際には、いくつか注意したい点があります。不安障害の方は、不安の基本レベルが高くなっていますので、普通だったら不安に思わないようなことにでも不安を感じやすい状態になっています。「これは不安障害だから病院に行った方がいいよ」とだけ言ってしまうと、「不安障害」「病院」という言葉に反応し、「私はそんなにおかしいの?」「これからどうなってしまうの?」「病院だなんて、そんな怖いところ…」と、どんどん不安が燃え上がることにもなってしまいます。』

●『情報を提供する自分が落ち着いているかどうかに注目するとよいでしょう。自分の不安を投げかけるような形で情報提供してしまうと、本人はさらに不安になってしまいます。

●『本人がどう思っているのかという気持ちを必ず聞きます。何であれ変化は不安を喚起するものですが、安心できる環境で気持ちを話せれば不安は軽くなるからです。』

 

画像出展:「正しく知る不安障害」

身近な人がパニック発作を起こしたら

 まず自分が落ち着くこと

●『一緒にいる人がパニック発作を起こしたら、まず自分が落ち着きましょう。自分がパニックになってしまうと事態がややこしくなります。「どんな不安発作も、30分程度でおさまるのだ」という原点に戻りましょう。そして、それを少しでも早くスムーズにするためには、安心と呼吸だということを思い出してください。』

●『一緒にゆっくり呼吸してあげるのもよいでしょう。「ゆっくり吸って―」「吐いて―」と、呼吸のペースをとってあげるのです。』

●『パニック発作は、時間がたてば必ずおさまります。むしろ、一緒にいる人が不安になってそれを本人にも伝染させてしまうと、それが次の刺激になって不安がもっとひどくなる、ということにもなります。』

 

画像出展:「正しく知る不安障害」

「怒り」という名の不安に対処する

 怒っている人は困っている人

●『何かで困って、「どうしよう」と不安になると、相手に怒りをぶつけてしまうのです。これは、「八つ当たり」と呼ばれるものと同じ現象です。自分の不安を不安として引き受けることは、案外勇気とエネルギーを要するものです。自分の不安を引き受けて向き合うよりも、それを相手への怒りとしてぶつけてしまった方が楽だと感じる人は多いのです。』

 反撃しないで安心させてあげる

●『相手の攻撃を攻撃として受け止めずに、本来の不安として受け止めてあげることです。これは、相手のためというよりも、自分のためだと思ってください。表面的には口汚く攻撃している人でも、本当のところはただ不安なだけなのだ、という目で見てみると、見え方が明らかに変わると思います。』

不安の土俵に乗らない

 不安障害の不安はそのままの次元では解決しない 

● 『不安障害の人に対応する上で重要なのは、相手の不安の土俵にのらないということです。不安障害の人の不安を、そのままの次元で解決できることはまずないと思ってください。』

第9章 怖れを手放す

不安を単なる感情に戻す

 感情としての不安と、心の姿勢としての怖れ

●『不安障害が治るということは、不安を、単なる感情という本来の立場に戻してあげることです。』

●『不安障害の最中には、不安は自分の人生を支配する巨大な存在になっています。自分の全存在が、不安によって振り回されているのです。この、「化け猫」ならぬ、「不安のお化け」が不安障害です。不安は、なぜ「不安のお化け」になってしまったのでしょうか。細かく見れば、それは、本書で述べてきたような悪循環によってどんどん大きくなった、と言えるわけですが、さらに大きな目で見ると、不安は「怖れ」を吸収すると「お化けになるのだと言えます。』

●『痛みは、それが単なる感覚である限りは、ただの痛みです。でも、「痛みとは怖ろしいものだ」と、「怖れ」が加わると、「痛みのお化け」になって、生活を支配することにもなってしまいます。例えば、いつもいつも痛みのことばかり気にするようになってしまう、という状況を考えていただくとよいと思います。不安についても全く同じことで、単なる感情である限りは、ただの不安なのですが、不安を怖れてしまうと、「不安のお化け」になるのです。

 不安をコントロールしようとしない

●『不安を怖れないということは、本書で述べてきたように、不安に関してコントロール感覚を持つということです。重要なのは、「不安をコントロールする」ではないということです。不安は、状況の意味づけを教えてくれる感情ですから、必要なときには出てきます。そうやって不安が出てくることも含めて、受け入れることができれば、コントロール感覚を持つことができますし、不安に対する怖れを手放すことができた、と言えるでしょう。』

●『不安をコントロールしようとしてしまうことの何が問題なのかというと、そもそも不安は状況に応じて出てくる感情なので本当にコントロールすることができないということもありますが、さらに重要なのは、不安をコントロールしようとする姿勢が、怖れの姿勢だからです。

現在に生きる

 安心は現在にしかない

●『不安が強いとき、私たちは現在のありのままを経験していません。現実に「不安」というモヤがかかったようになっていて、実際に見ているのは、モヤを通した現実どころか、場合によってはモヤしか見ていないということもあるのです。モヤの中にこそ不安障害を維持する悪循環があります。』

●『認知療法は、モヤをよく観察して、所詮はモヤに過ぎないということを知るための治療法です。また、対人療法は、モヤの向こうにある現実とやりとりをして、モヤを晴らしていく治療法です。』

●『安心は現在にのみあります。未来には常に未知の要素がありますので、そこには100パーセントの安心はありません。でも、今現在に集中することができると、そこには不安の入り込む余地がなくなるのです。』

自分の歩みにコントロール感覚を持つ

 「前向き」よりも「後ろ向き」がよい

●『「前よりも後ろを向く」というやり方がお勧めです。どういうことかと言うと、「まだできていないこと」ではなく、「ここまでにできるようになったこと」を見るということです。

具体的には、未来のことはできるだけ考えないようにし、目の前のことだけをやる。そして、未来のことが不安になってきたら、病気に取り組む前の自分や、一年前の自分などと比較して、「こんなによくなったんだ」ということを感じてみるのです。前頁で「現在に生きる」ことをお勧めしたのに、過去を振り返るというのは矛盾していると思われるでしょうか。これは、過去を振り返っているようでいて、実は現在の自分の力に気づくやり方です。』

 人と比較したくなったときは

●『人と自分を比較するときには、私たちは、人の「よさそうな部分」や自分の「だめな部分に目が行ってしまうものです。特に、不安が強いときには、自分の不安を刺激するような形で見てしまいます。そんなときにも、比較対象を「他人」にするのではなく、「過去の自分」にしましょう。一番状態が悪かった頃の自分と比べてみるのです。すると、自分が、決められた道の上を着々と歩んできたことがわかると思います。これからもこの道を進んでいけばよいだけであって、「他人」に目がくらんでこの道から落ちてしまうことが最も問題なのだということに気づいていくでしょう。』

不安障害1

高齢の患者さまの中には、「ちょっと心配しすぎではないかな」と思うことがたまにあります。もちろん、高齢ゆえに多くの不安材料が存在していることは十分に想像できます。

誰もが抱くような強い不安感と病的な不安障害との差はどんなものなのか、これを知ることは必要だろうと思い、いくつかあった候補の中から、今回の本を選択しました。

ブログは大項目(章)、中項目の目次のご紹介に引き続き、各章にある小項目の中で特にお伝えしたい小項目を選び、その一部を記述していますが、不安障害1(「はじめに」から「第4章」まで)と不安障害2(「第8章」「第9章」)に分けています(「第5章 不安と認知」「第6章 不安と行動」「第7章 不安とトラウマ」には触れていません)。なお、後者の不安障害2は次週になります。 

 

著者:水島広子

出版:技術評論社

初版発行:2010年10月

目次

はじめに

第1章 不安とは何か

不安は何のためにあるのか

解決すべき不安と感じるしかない不安

パーソナリティと不安

不安のさまざまな表現型

第2章 不安障害とは何か

不安障害という病気

なぜ不安障害になるのか

不安障害を維持する悪循環

不安障害を病気として扱うことの意義

不安障害の治療

第3章 不安と身体

不安のときに身体に起こること

パニック障害

呼吸に注意して身体感覚をコントロールする

身体からのメッセージを受け止める

不安に強い身体作り

第4章 不安と対人関係

対人関係に対する不安

社交不安障害

社交不安障害を維持する悪循環

不安をコントロールするコミュニケーション

相手の事情を考える

第5章 不安と認知

不安の時に頭の中で起こっていること

認知療法

バイロン・ケイティの「ワーク」

第6章 不安と行動

不安と回避の悪循環

強迫性障害

行動療法

第7章 不安とトラウマ

PTSDは不安障害

トラウマによる離断をつなぐ

人との関係の中でトラウマを位置づける

第8章 身近な人との不安とのつきあい方  ※次週

不安障害の人に接する基本姿勢

「治療者」ではなく「支え役」を引き受ける

身近な人がパニック発作を起こしたら

「怒り」という名の不安に対処する

不安の土俵に乗らない

第9章 怖れを手放す  ※次週

不安を単なる感情に戻す

現在に生きる

自分の歩みにコントロール感覚を持つ

不安障害から学ぶ

あとがき

はじめに 不安障害へのコントロール感覚を見につけよう

 不安障害の中にある二種類の不安

●『不安障害のときには不安がとても高まっているのですが、不安障害の方たちの苦しみは、病気本来の症状としての不安だけにあるわけではありません。むしろ、「自分に何が起こっているのかわからない」「自分がこのままどうなってしまうのかわからない」といった、「不安障害という未知なもの」に対する不安に苦しめられている要素も大きいのです。その二種類の不安は区別されることなく混ざり合って互いに増幅し合い、「とにかく不安」という苦しい状態が作り出されてしまいます。』

 人間の健康に必要な「コントロール感覚」

●『自分が事態をコントロールできている、という感覚は安心と自信をもたらすものです。日々の生活の中であまり意識することはないかもしれませんが、「いつも通りに暮らしていればだいたい大丈夫」「まあ、何とかなるだろう」というような感覚は、コントロール感覚を反映したもので、健康に暮らしていくためには必要なものです。』

 「不安障害への不安」は解消できる

●『病気についてよく学び、そこで起こっていることの意味を知ることは、大きなコントロール感覚につながります。苦しい症状は続くとしても、それがしょせんは症状にすぎないということを知るだけでも、実はかなりのコントロール感覚がもたらされます。』

 不安との主従関係を逆転させる

●『不安に対してコントロール感覚を身につけていくためには、不安という感情の機能をよく知ることが大切です。』

●『不安を感じたとしても、その不安に支配されなくなるのであれば、そして、その不安をプラスに生かしていくことができれば、世界の見え方が今とは全く変わることでしょう。』

第1章 不安とは何か

不安は何のためにあるのか

 感情には役割がある

●『感情は、「この状況が自分の心にとってどういう意味を持つか」を教えてくれるものなのです。』

 悲しみや怒りの役割

●『身体の怪我と同じように、心の傷も、安静にして大事にする時間が必要です。実際に、この時期に悲しまなかった人は後でうつ病になったりするのです。』

●『心の病になる人の多くは、怒りとのつきあい方が苦手です。怒りは「よくない感情」だと思ってしまうので、感じることも、表現することも、抑制してしまうのです。すると自分にとって不利な状況が改善されず、ストレスがたまっていき、何らかの病気になることもあります。』

 感情とのつきあい方の目標

●『状況の意味を教えてくれ、結果として適切な対処を可能にしてくれる感情は、私たちに自然に備わった自己防衛能力であると言えます。』

●『「悲しみや怒りを感じない人になろう」という目標を立ててしまうと、「熱いものに触っても感じない人になろう」と言っているのと同じくらいおかしなことになってしまうのです。』

●『感情をよく見つめて、状況の意味を学び、その中で自分がすべきことを考えられるようになる、ということが目標になります。

 不安の役割

●『「不安」は「安全が確保されていない」ということを知らせてくれる感情です。この先の安全が確保されていないので、不安を感じるのです。未知のものに不安を感じるのはそれが理由です。ですから、不安は安全確保のために重要な役割を果たします。』

 

『例えば、真っ暗闇で山道を歩いていたら、すさまじい不安を感じるでしょう。それこそ一寸先がどうなっているかわからないからです。』

画像出展:「正しく知る不安障害」

解決すべき不安と感じるしかない不安

 解決すべき不安

●『人との関係の中で、「あの人は私の言ったことを誤解したのではないか?」と思うととても不安になります。「自分の言ったことをきちんと理解して受け入れてくれた」という安全が確保されていないからです。このようなときには、相手に確認してみることで安全を確保することができます。』

 感じるしかない不安

●『新しい土地に引っ越すようなときには、どれほど準備しても不安をゼロにすることはできないでしょう。それは、新しい土地はやはり未知のものだからです。準備でカバーできる領域は限られていて、あとは、そのときになってみないとわからないことが残ります。そのような不安は、感じるしかない不安だということになります。』

 当たり前の不安

●『感じるしかない不安に対して、悪循環から抜け出すにはどうしたらよいかというと、不安であるということを「当然のこと」として受け入れるのが一番です。』

●『「新しい土地に引っ越すのだから、不安なのは当たり前」と思えれば、それ以上の意味はなくなります。』

●『「気にしないようにする」という対処法も軽い不安には有効ですが、不安がある程度以上の強い場合には逆効果になります。なぜかと言うと、「気にしないようにしよう」と思っても結局不安が出てきてしまい、状況をコントロールできない自分がますます不安になってしまうからです。』

 不安はストレスだと認める

●『不安に駆られているとき、私たちは「何とかしなければ」と焦ってしまうので、普段以上に動き回ってしまうのです。身体が動けずに固まっている場合でも、頭の中は大忙しです。ただでさえストレスの高まる時期なのに、さらに自分で負荷をかけてしまうので、結果として心身が受け取るストレスの量は相当なものになります。』

 自分の不安を周りの人と共有する

●『「当たり前の不安」を乗り越えていくためには、周りの人たちに、自分が今どういう不安を抱えていて、何に気をつけて生きているのか、その上でどういう協力をしてほしいのかを伝えて、理解したり共感したりしてもらうことが必要です。これは、事態をスムーズにするだけでなく、対人関係の質も向上させることになるでしょう。感情を打ち明け合ったときに人は最もつながりを感じるからです。また、自分が間違いなく相手の役に立てているという感覚は、人間にとって深い満足感につながるものです。』

不安を感じたときに、安全確保のためにできることがあれば、できるだけやってみる。それでも残る不安は、「当たり前の不安」として認める。そして、自分にとってストレスのかかる時期だということを認識して、普段よりも無理せず余裕をもって暮らすように心がける。さらに、それを周りの人に伝えて、理解を深めてもらい、協力してもらう。こんなふうにできれば、不安が立派に役割を果たしたと言えるでしょう。』

パーソナリティと不安

 人間の性格(パーソナリティ)の構造

●『不安はもともとのレベルにかなり個人差があります。』

 

『現在、精神医学の研究でよく用いられるものにクロニンジャーという米国人精神医学者が提唱した「七因子モデル」があります。』

『七因子モデルは、遺伝的な影響が強い四因子と、環境的な影響が強い三因子に分けて分類しているところに特徴があります。』

『基本的な「性格」は変えられないけれども適応力は上げられる、といったところでしょうか。』

画像出展:「正しく知る不安障害」

 不安を感じやすいパーソナリティ

●『不安と直接関係のあるパーソナリティ特性は、遺伝的な影響が強い因子の一つである「損害回避」と呼ばれているものです。文字通り、困ったことにならないように物事を避ける傾向のことで、一般的な概念としては、「心配性」「慎重」などが近いと思います。不安障害の人は、この「損害回避」が高いことが知られています。』

 「損害回避」を生かせる人と振り回される人

●『後天的な影響が強いパーソナリティ特性です。三つのパーソナリティー特性の中でも、特に「自己志向」が、さまざまな不安障害と関係することがわかっています。』

●『「自己志向」が高い人を、普通の言葉で言うと、「自分をしっかり持っている人」「安定した自信がある人」という感じになるでしょうか。』

●『「損害回避」が高く、「自己志向」が低い人は、不安に振り回されるようになってしまいます。自らの「損害回避」が知らせてくれる不安に対して、「こんなに不安でどうしよう」とパニックになってしまうのです。すると、本来は自らの特徴にすぎない「損害回避」に人生を振り回されるようになってしまいます。やりたいか、やりたくないか、ではなく、不安を基準に物事を決めるようになってしまい、自分の人生がかなり制限されて感じます。』

 不安に振り回されると「自己志向」が下る

●『不安に振り回された結果として、事態をコントロールできない自分にますます安心できなくなる。つまり、ますます「自己志向」が下る、という方向性です。』

 「自己志向」は高めることができる

●『自分が不安にうまく対処できるという自信をもつことは、「自己志向」を高めることにほかならないからです。』

 パーソナリティ特性から見る不安とのつきあい方

『以上のことをまとめると、生まれつき「損害回避」が高い人は、不安が強い人だといえますし、不安になりやすい人だと言えます。しかし、だから不安障害になるというわけではなく、後天的な要素、特に「自己志向」が低いと、不安に振り回されて不安障害になる、ということだと思います。』

不安のさまざまな表現型

 不安は不安として表現されるだけではない

●『不安は不安として対処するのが最もうまくいきます。』

 他人に過干渉になる

●『過干渉は、不安を反映したものであることが多いのです。』

 イライラする

●『イライラしている人も、それが不安の表現型であることが多いものです。』

●『自分自身の不安に築いていないことが多く、「自分をイライラさせる相手が悪い」と思っていることが多いのです。』

 攻撃的になる・暴力をふるう

●『ドメスティック・バイオレンス(DV:家庭内暴力)も、要は自らの不安に向き合えていないということがほとんどです。』

 

 原因不明の身体症状が出る

●『不安を不安として感じたり、表現できないと、めまい、頭痛、胸の苦しさ、しびれなど、身体症状に表れることがあります。』

 

画像出展:「正しく知る不安障害」

 

画像出展:「正しく知る不安障害」

 

画像出展:「正しく知る不安障害」

第2章 不安障害とは何か

不安障害という病気

 不安障害とは

●『不安を主症状とした病気のグループを「不安障害」と呼んでいます。』

 パニック障害

●『動悸、発汗、震え、息苦しさ、窒息感、胸部不快感、めまいなどを伴うパニック発作(強い不安発作)が予期しないときに繰り返し起こり、また発作が起こったらどうしようという恐怖のために行動パターンが変わってしまう病気です。』

 社交不安障害(社会不安障害、社会恐怖)

●『人との関りにおいて、自分が人からどう思われるかということについての不安が強すぎる病気です。』

 強迫性障害

●『「~したらどうしよう」「~するのではないか」という考え(強迫観念)が頭に浮かび、その不安に苦しめられるというのが強迫性障害の本質です。』

 全般性不安障害

●『多くのことについての、過剰でコントロールできない不安や心配が、起こる日の方が起こらない日よりも多いという状態が六カ月以上続いているという病気です。』

 健康な不安と病的な不安の違い

●『手を洗わないとばい菌に汚染されるというのは、間違っていません。そして、実際に、健康な人たちも同じ目的で洗っています。強迫性障害の人とどこが違うのかというと、「そこまでは気にしない」というところです。つまり、不安障害の人が抱く不安は、「わかるけれども、そこまで気にしていたら生活が成り立たないでしょう」という性質のものなのです。』

●『不安障害の不安は、病気の症状ですので、コントロールできないところも特徴の一つです。』

なぜ不安障害になるか

 きっかけが明らかでない不安障害

●『不安障害の中でも、社交不安障害や強迫性障害は、いつ始まったかが特定できない場合も多く、「気づいたらなっていた」という人も少なくありません。』

 きっかけが明らかな不安障害

●『パニック障害、PTSD(心的外傷後ストレス障害)は、いつ始まったかを特定することができるのが一般的です。』

 子どもを不安障害にしないために

●『不安障害の人の家族に不安障害が起こりやすいということは、すべてが遺伝のためとは言えません。不安の強い人は、不安の強い子育てをするでしょうから、そこからも影響を受けることになります。』

●『子ども自身の不安にもよく耳を傾け、批判するのではなく一緒に対処してあげるようにすれば、「自己志向」はやはり高まるでしょう。その際、「代わってあげる」という過保護な対処ではなく、子どもが自分自身の力で安心して取り組めるようにしてあげることが必要です。

不安障害を維持する悪循環

 不安と思考の悪循環 

 

画像出展:「正しく知る不安障害」

 不安と回避の悪循環

●『不安障害の人は、自分の不安を刺激するような状況を避けるようになります。この「回避」は、不安障害の重要な症状の一つです。回避によって、日常生活がままならなくなったり、自分にとって明らかに有利なことや必要なことすら避けるようになったりしてしまうからです。

回避は、短期的にはよい選択に見えるかもしれませんが、長い目で見ると逆効果です。回避してホッとすると、「次の避けなければ」という思いが強まるからです。これは、実際に怖い思いするのと同じような効果を生み、「この状況は怖ろしいのだ」という信念を心身に植え付けます。

また、そのような状況を回避し続けている限り、「慣れる」こともあり得ません。実際に何が起こるのか、という現実観察もできないのです。

そして、人間は、何かを回避し続けている自分によい気持ちを持つことはありません。特に、周りからは理解してもらえないテーマの回避は、隠したくなります。隠すこともストレスですし、そんな自分はだめだという気持ちが強まります。自分はだめだという気持ちは、不安に対して前向きに取り組むことを難しくします。ですから、不安と回避も、終わりのない悪循環に陥ってしまうのです。』

 不安障害の治療

 対人関係療法

●「対人関係療法では、身近な人間関係と症状との関連に注目して治療を進める。発症のきっかけになった対人関係上の出来事や変化は何か、発症してから、症状によって身近な人間関係がどのような影響を受けているか、また、身近な人間関係によって症状がどのように影響を受けているか、ということに注目していきます。強迫性障害以外の不安障害に対して、効果が示されてきています。

第3章 不安と身体

不安のときに身体に起こること

 「修理」が必要なのはセンサー

●『「闘争か逃避か」反応が起こらない身体になったらよいのに、と思われるかもしれません。しかし、問題は「闘争か逃避か」反応にあるのではありません。その状況を「脅威」ととらえてしまうところに問題の本質があるのです。

「闘争か逃避か」反応は、火災報知器のサイレンのようなものです。ここで修理が必要なのは、センサーです。魚を焼いただけなのに火事だとみなしてサイレンが鳴ってしまっているのです。魚を焼いた程度ではセンサーが働かないように、修理すればよいのです。サイレンそのもの(「闘争か逃避か)反応」を鳴らなくしてしまうと、本当の火災のときに困ってしまいます。』

 パニック障害

 「苦しさ」と「意味づけ」の混同

●『どんな人にもパニック発作は起こり得ますし、特に初回のパニック発作はどんな人にとっても本当に怖ろしく感じられるものです。それまでに全く経験のない、異常な体験だからです。しかし、パニック発作で死ぬこともなければ、気が狂ってしまうわけでもない、ということは事実として残ります。この事実を前に、「パニック発作は苦しいけれど、命に関わるわけではないから」と考えることができれば、パニック障害にはなりません。パニック発作の苦しさと、その意味づけが、うまく区別されているのです。

パニック障害の人も、それまでのパニック発作で「最悪の事態」にならなかったことは認めています。しかし、次の発作が起こると、「今度こそは最悪の事態になるのではないか」と考えてしまうのです。この思考は強い不安を生みますから、もちろんパニックもひどくなります。そして、「こんなにひどい状態なのだから、やはり今度こそは最悪の事態になるのだ」とさらに思うという悪循環に陥ってしまうのです。

ここでは、パニック発作そのものの苦しさと、その意味づけが混同されていると言えます。そして、パニック障害の悪循環から脱するためには、この二つを区別していくことが重要です。これは、パニック発作に対してコントロール感覚を持つということに他なりません。パニック発作そのものはコントロールできなくても、それがなぜ起こるのか、どう対処することが最も適切なのか、ということを知れば、コントロール感覚を持つことができ、パニック障害を治すこともできます。』  

呼吸に注意して身体感覚をコントロールする

 呼吸は自律神経に影響を与える

●『呼吸というは面白いもので、自律神経にコントロールされる部分と、自律神経をコントロールする部分があります。』

●『自分の意思で細く長く呼吸すると、副交感神経優位の状態、つまり、リラックス状態を作り出すことができます。』

 過呼吸のときに起こること

●『精神的な要因による過呼吸で死ぬことや後遺症を残すことは決してなく、どんなに強い発作でも、時間とともに必ず軽快していきます。身体はまたきちんとバランスをとって、通常の状態に戻るようにできているからです。』

●『パニック発作のときには、「息苦しい」と感じる人が多く、呼吸が足りないと感じられるものですが、実際には呼吸しすぎの状態になっていることがほとんどです。そもそも、「闘争か逃避か」反応のときに呼吸数が増えるのは、すぐに走って逃げられるように酸素吸入量を増やすためですが、私たちは不安反応が起こったときに必ずしも走って逃げるわけではないので、そんなに酸素は必要ないのです。すると、酸素が余った状態が作られてしまい、それが過呼吸の症状につながっていきます。』

●『パニック発作は、過呼吸によって誘発することができるということが知られています。治療の場以外では試さないでいただきたいのですが、過呼吸を続けると、パニック発作が起こるのです。「脅威」を認識すると「闘争か逃避か」反応で過呼吸になるというのも一つの事実ですが、同時に、過呼吸によって不安反応が誘発されているという側面もあるのです。』

 呼吸をコントロールする

『一分間に十二回以上呼吸をしていたらおそらく過呼吸です。』という記述が本書にはあります。

そこで、自分自身の呼吸回数を数えてみたところ、16回だったので「え、過呼吸ってこと?」と疑問に思い、ネット検索から日本呼吸器学会のサイトを見つけ確認しました。すると、そこには約12回~20回が一般的、25回以上を“頻呼吸”と言い、“過呼吸”とは呼吸の深さが増加することと書かれていました。

また、同サイトには病名としての“過換気症候群”の説明の中に「肺や心臓の検査を行っても異常が認められず、何も認めないにもかかわらず発作的に息苦しくなって呼吸が速くなるような状態をきたすことがあります。このことを過換気と呼びます。」とありました。つまり、正常とは言えない呼吸には“頻呼吸”“過呼吸”というものがあり、我々が日常的に耳にする”過呼吸”の現在の正式名は”過換気”であり、病名としては”過換気症候群”であるということが分かりました。 

『換気とは、呼吸運動によって空気を肺胞へと運ぶ働きのことです。呼吸は、無意識な状況で規則正しく1分間に約12から20回行われています。呼吸が速いとは、1分間に25回以上行われる状況で、「頻呼吸」と言います。「過呼吸」とは、呼吸回数に変化はないが、呼吸の深さが増加することを言います(通常、呼吸回数も多くなると考えられています)。』

 筋肉の緊張をコントロールする

●『呼吸のコントロールと共に、筋肉の緊張をコントロールする筋リラクセーション法を覚えると、さらに効果が増します。リラクセーション法にもいろいろありますが、力を抜こうとしてもかえって緊張してしまう人の場合には、まず筋肉に力を入れてから抜く、という方法をとるとリラックスしやすいです。なお、息を吐くときに筋肉はゆるみます。筋肉を弛緩させるときには、息を同時に吐くと、リラックス効果が高まります。』

身体からのメッセージを受け止める

 症状よりも先にストレスに気をつけるように

●『パニック発作は心身のストレスのもとに現れるということをお話ししましたが、睡眠不足や過労、かぜ、二日酔いなどはパニック発作を起こしやすい状況を作ります。このようなときには、「パニック発作が起こってしまった」というところに注目するよりも、「パニック発作が起こりやすいコンディションにあったのだ」というところに注目した方がはるかに有益です。』

不安に強い身体作り

 定期的に運動する

●『「闘争か逃避か」反応に襲われて苦しくなってしまったときには、とりあえず身体を動かすことによって抜け出すこともできます。』

 食べ物に気をつける

●『低血糖もパニックの引き金になります。ダイエット中の低血糖からパニック発作を起こす人もいますので、パニック発作を起こしている人は基本的にダイエットは避けるべきです。健康上の理由で体重を減らす必要がある場合は、医師の指導のもとで行ったほうがよいでしょう。』 

 

画像出展:「正しく知る不安障害」

 

画像出展:「正しく知る不安障害」

第4章 不安と対人関係

対人関係に対する不安

 対人関係に対するコントロール感覚

●『自分が周りの人とうまくいっているという感覚と、自分が周りの人に受け入れられているという感覚が持てると、心の健康度は大幅に高まります。そのときに感じる「自分に何があっても、人の関係の中で何とかなるだろう」という感覚が対人関係に対するコントロール感覚ということになります。』

 対人関係療法

●『対人関係療法は、身近な対人関係と症状との関連に注目していく治療法です。そこで目指していくことは、対人関係に対するコントロール感覚を高めて、症状を改善していくことです。』

 「役割期待のずれ」というものの見方

●『あらゆる対人ストレスを、「役割期待のずれ」と見ることができます。「ずれ」は、自分が相手に期待したことをやってもらえないときだけでなく、相手が自分に期待していることが、自分がやりたくないことだったりできないことだったりする場合にも生じます。

対人ストレスを「役割期待のずれ」として見ると、解決も可能になりますし、何よりもコントロール感覚を持つことができます。

 コミュニケーションに注目する

●『役割期待は、それを伝え合うコミュニケーションが貧弱だとずれてしまいます。

不安が強い人は特に要注意なのですが、不安のあまり、曖昧なコミュニケーションをしてしまうと、それだけずれる可能性が高くなります。自分の気持ちと、相手にやってもらいたいことを、直接、純粋に伝えるコミュニケーションが最も効果的です。』

 「役割の変化」という視点

●『不安障害の発症のきっかけには「それまでのやり方から切り離されて、自分のやり方を見失う」というテーマが共通していますが、これは、対人関係療法で「役割の変化」として治療の焦点とされるものです。変化に伴う感情や、身近な対人関係の変化に注目して治療を進めていきます。』

社交不安障害

 社会不安障害という病気

●『社交不安障害の本質は、人からネガティブな評価を受けることへの不安だと言えます。』

●『社交不安障害のもう一つの特徴は、そんな自分をネガティブな目で見ているというところにあります(子どもの場合を除く)。自分は「気にしすぎ」だと思っているのです。そう思っているからこそ、ますます自分がだめに思えて、人の評価が気になる、ということになります。』

社交不安障害を維持する悪循環

 身体反応による悪循環

●『社交不安障害では、不安に直面する状況で、不安反応が起こります。「闘争か逃避か」反応が起こるのです。すると、胸がドキドキしたり、声がうわずったり、手が震えたりします。これらは、もともと「恥ずかしい思いをするのではないだろうか」という不安を抱えている人にとっては、不安を強めることにほかなりません。声がうわずったり、手が震えたりすることは「恥ずかしい」ことだからです。これが、社交不安障害を維持する一つの悪循環になります。』

 「自分」に注目することによる悪循環

●『人前で話すときには多くの人が緊張しますが、場数を踏んでいくとだんだん慣れてきます。毎回不安を維持するというのは、案外エネルギーを使うものなので、人間は基本的には慣れる体質になっています。 ~中略~ 社会不安障害の人の場合は、そうはいきません。常に、人前で話すときの「自分」に目が向いていますので、観察するのは常に「自分」です。もちろん相手の反応もよく見ていますが、常に、「自分の話し方をどう思っているか」というポイントに絞られてしまうので、相手の事情などは視野の外になってしまいます。』

 センサーを修理して悪循環から脱する

●『社会不安のセンサーを修理するためには、現実の人と触れ合う必要があります。社会不安障害は、人とのやりとりにおける不安障害のように見えますが、実際にはそこに現実の「やりとり」はほとんどありません。社会不安障害の人は「他人」を気にしていますが、そこで見ているのは「自分の話し方をどう思っているか」という部分だけであり、いろいろな事情を抱え、いろいろな気持ちを持って生きている相手そのものではありません。

実際に相手とやりとりをして、受け入れられる体験をしたり、相手にもいろいろな事情があることを知ったりすることによって、だんだんと「脅威」のセンサーが修正されてきます。

 自分の「対人関係の常識」を見直してみる

●『社会不安障害になると、自分自身をさらけ出すことができなくなるため、ますます「本当の人間関係」を学ぶ機会が減ってしまいます。治療の中で、実際に人とのやりとりをしていくと、外面の評価以外の人間関係の要素を体験していくことができます。社会不安障害の治療とは、自分の「他人関係の常識」を見直していくプロセスだ、と位置づけておくと、新たなチャレンジをしやすくなります。』

不安をコントロールするコミュニケーション

  自分のコミュニケーションのクセを知る

●『自分のクセを知るために、「コミュニケーション分析」という技法を使ってみましょう。不安やストレスにつながったやりとりを振り返って、それぞれが何と言ったのかを、シナリオのように再現してみるのです。そのセリフを言ったとき、自分はどんなふうに思っていたか、何を伝えたかったのかも書いてみます。そして、その言い方で相手にそれが伝わっただろうか、と考えてみます。そして、今度は相手の立場に立って、他の解釈がないかを考えてみます。

不安が強い人の場合、コミュニケーションの量も少ないと思いますが、それでも書いてみるといろいろなことがわかります。』

 「ずれ」を作らないコミュニケーション

●『不安が強い人は特に、直接的な表現をするのが怖いと思いますので、安全なコミュニケーションのコツを紹介しましょう。それは、「私」を主語にして、気持ちを中心に話す、ということです。「私は、不安であることをわかってもらえないと思うと、ますます不安になるの」と言えば、相手を怒らせる心配はまずないでしょう。これはすべてが、自分側の話であることが明確になっているからです。

ところが、同じことでも、「あなたは本当に人の不安に鈍感なのね」と言ってしまうと、相手は怒りだすかもしれません。少なくとも、役割期待の調整のために前向きに協力してくれることにはならないでしょう。』

相手の事情を考える

●『不安が強いときには、私たちは一般に、自分のことしか目に入らなくなります。そして、何でも自分に関連づけるようになります。例えば社会不安障害のときには、「相手がネガティブな反応をした」イコール「私がだめな人間だからだ」ということになります。このような認識はもちろん、大変なストレスと対人不安を作り出します。 ~中略~ 不安障害になると、自分以外の人は完璧であるかのような気になることもありますが、実際には完璧な人などいないという当たり前のことを思い出す必要があります。』

ステロイドコントロール

ステロイドコントロール」は代々木時代(日本伝統医学研修センター)に恩師の相澤先生から教えて頂きました。「ステロイドもどんどん進化しており、ステロイドコントロールを理解した医師が処方するのであれば、たいへん優れた薬である」という主旨だったように記憶しています。

今回、その「ステロイドコントロール」がどんなものかを知るため、図書館から1冊の本を借りてきました。本当は川合眞一先生が2017年に出版された『ステロイド療法の極意』が読みたかったのですが、残念ながら埼玉県内には所蔵している図書館がなかったため、少し古い『ステロイドのエビデンス』を借りて勉強することにしました。なお、[ ]は私による追記になります。

 

著者:川合眞一

発行:羊土社

初版発行:2015年12月

ブログは“序”と“目次(大項目のみ)”に続いて、第1章、第5章、第10章から以下の題目の内容をご紹介しています。また、簡単ですが最後に“感想”を加えさせて頂きました。

●ステロイド漸減法や維持療法にエビデンスはあるか?

●ネフローゼ症候群に対するステロイド療法のエビデンスは?

●アトピー性皮膚炎に対するタクロリムス軟膏とステロイド外用剤の比較は?

●アトピー性皮膚炎に対するステロイド外用剤のランクと使用期間に関するエビデンスは?

ステロイドは多くの診療科で使われるきわめて有用な薬であり、Henchが1948年に関節リウマチの治療に使って以来70年になろうとしている。翌年には全身性エリテマトーデスに使われ、さらに他領域も含む多くの疾患に使われるようになった。この間に十分な臨床的エビデンスが形成されてきた疾患もあるが、その高い有効性故に経験的に使用されてきた領域も少なくない。そのため、どこまでがエビデンスに基づいた使用であり、どの疾患のどんな症状に対する治療が経験的な使用であるかなどの臨床的な情報は、必ずしも十分に臨床医の知るところとなっていない。

そこで、こうした情報をクリニカルクエスチョンの形で項目を挙げ、それに応える形の本書を企画した。読者の皆様には、ステロイドで何らかの疑問が生じたときに調べる手段として、また、全体を読んでいただき、ステロイドのことを学んでいただくためにも利用していただきたいと願っている。

なお、本書のタイトルおよび本文には、グルココルチコイドの略称としてステロイドを使わせていただいた。国際的には学術論文で使われるのはグルココルチコイドが最も一般的で、コルチコステロイド(副腎皮質ステロイド)が次に続く、一方、ステロイドを使っている論文や教科書は世界では少ないが、わが国では治療薬を示す用語として最も一般的に使われていることから、本書ではステロイドとさせていただいた。』

第1章 リウマチ膠原病疾患

第2章 呼吸器疾患

第3章 循環器疾患

第4章 消化器疾患

第5章 腎疾患

第6章 神経疾患

第7章 血液疾患

第8章 内分泌疾患・代謝疾患

第9章 整形外科疾患

第10章 皮膚疾患

第11章 周産期医療

第12章 小児科

第13章 眼科疾患

第14章 耳鼻咽喉科疾患

第15章 集中治療

第16章 周術期

第17章 副作用・相互作用

第1章 リウマチ膠原病疾患

ステロイド漸減法や維持療法にエビデンスはあるか?

クリニカルクエスチョン

ステロイド療法は、一般に一定の用量で初期治療をした後、漸減するとされている。しかし、その漸減法は医療機関によってさまざまである。このステロイド漸減法や、さらにはその後の維持量投与についてのエビデンスはあるのだろうか。

エビデンスの実際

1)初期治療の期間と漸減法

ステロイドの初期治療の後で、ステロイドの漸減や維持量投与が必要な理由としては2つ考えられる。まず、ステロイドは本来内因性のホルモンであるため、外分泌能は低下する。そのため、急に中止すると副腎不全を合併する可能性がある。他の理由としては、漸減することや維持量投与により疾患活動性の再燃を防ぐことが期待されるためである。

専門家意見の集約ではあるが、ステロイド漸減法を調査した報告がある。重症臓器障害を有する全身性エリテマトーデス(systemic lupus erythematosus:SLE)患者の初期用量(体重70㎏の女性と仮定)は、集約された意見の中央値でプレドニゾロン換算で60㎎/日を2週間継続し、中等症SLE患者では同じく35㎎/日を1週間継続するという結果であった。この結果をわが国のSLE患者(体重50㎏と仮定)に外挿すると、重症例でおおむね45㎎/日を2週間、中等症例でおおむね25㎎/日を1週間投与が平均的ということになる。ただ、ステロイド初期用量については医師の間でも大きな違いがあることから、わが国の実態がどうであるかについては不明である。さらには、理想的なステロイドの初期用量が何㎎であるべきかについても明確な根拠はない。

初期治療後のステロイド漸減法は、1~2週ごとに10%程度漸減するのが従来は一般的であったが、この漸減法も経験に基づいて決められたものである。表1の重症例では、1週ごとに中央値で5~10㎎、中等症患者では5㎎の減量が始まり、その後の漸減速度もおおむね1週ごとに約10~20%であった。この調査の前提はステロイドの単独治療ではないわけだが、近年の、より早めの減量という臨床実態を示している。

 

画像出展:「ステロイドのエビデンス」

2)維持量

Harrison内科学書には、PSL[プレドニゾロン]5~10㎎/日の連日投与または10~20㎎の隔日投与を通常行う維持投与として紹介されている。これに対し表1では重症例でも11週以降、中等症例は6週以降にステロイドを中止するとした医師が少なくない。ただし、この調査でも維持量を継続しているとした医師もおり、維持量の是非については専門医間でも一定していないことがわかる。

わが国で本間らが行った1,407例のSLE[全身性エリテマトーデス]の調査では、PSL5㎎/日未満あるいは中止した例の生命予後は、5~10㎎/日で維持していた例よりも有意に悪かった。また、Walshらは、抗好中球細胞質抗体(anti-neutrophil cytoplasmic antibody:ANCA)関連血管炎における再燃にかかわる因子を検討したところ、ステロイド中止例の再燃率が43%であったのに対し、維持投与例では14%と有意に再燃率が低かった。

これらの成績を合わせると、膠原病での実際的な対応としては、ステロイド漸減後も低用量を続けた方が長期管理にはよいことが示唆される。ただし、ステロイドの長期投与はほぼ全例に何らかの副作用を惹起することを考慮すると、患者の病態が数年安定していた場合などは、ストロイドの中止を検討すべきであろう。

エビデンスの使い方

以上述べてきたように、ステロイドの漸減法や維持量投与には明確なエビデンスがない。最近のより低用量の初期用量と早めの漸減を考慮すると、初期投与は2週間とし、その後はおおむね1週ごとに約10%の減量というのが現実的であろう。また、今後も検討が必要ではあるが、維持量投与は再燃率を若干下げる可能性がある。ただし、副作用を減らすという観点もあり、維持量投与を行う場合にもプレドニゾロン換算で5~10㎎/日、できれば5㎎/日以下をめざすことが望まれる。

Point

●ステロイドの漸減法には明確なエビデンスはないが、最近では初期治療2週間の後、おおむね1週間ごとに10%ほど減量することを勧めたい。

●維持量投与による再燃抑制効果については、観察研究によればプレドニゾロン換算で5~10㎎/日の投与は若干有用である可能性がある。

●維持量投与を行う場合でも、副作用予防の観点からは、疾患が安定していればプレドニゾロン換算で5㎎/日以下または中止をめざすのがよい。

第5章 腎疾患

ネフローゼ症候群に対するステロイド療法のエビデンスは?

クリニカルクエスチョン

ネフローゼ症候群は蛋白尿3.5g/日以上、血清アルブミン3.0g/dl以下で定義される症候群であるが、疾患は幅広く、おのおの治療法が異なるため、ここではネフローゼ症候群の代表疾患である微小変化型ネフローゼ症候群(minimal change nephrotic syndrome:MCNS)、巣状分節性糸球体硬化症(focal segmental glomerulosclerosis:FSGS)、膜性腎症(membranous nephropathy:MN)について下記クリニカルクエスチョン(CQ)として述べることとする。

●CQ1:微小変化型ネフローゼ症候群に対するステロイド療法は尿蛋白減少・腎機能低下抑制に推奨されるか。

●CQ2:巣状分節性糸球体硬化症に対するステロイド療法は尿蛋白減少・腎機能低下抑制に推奨されるか。

●CQ3:膜性腎症に対するステロイド単独療法は尿蛋白減少・腎機能低下抑制に推奨されるか。

一次性とは原因は不明で、腎臓に限局した障害です。”原発性”、”特発性”ともよばれます。一方、二次性は腎臓以外の原因により、腎障害を発症させるもので、”続発性”ともよばれます。

こちらのサイトにネフローゼ症候群の簡潔で分かりやすい説明が出ていました。

エビデンスの実際

ここでは、平成22年度の進行性腎障害に関する調査研究班による「ネフローゼ症候群診療指針」、2012年の糸球体腎炎のためのKDIGO(Kidney Disease Improving Global Outcomes:[国際腎臓病予後改善委員会])診療ガイドライン、「エビデンスに基づくネフローゼ症候群診療指針2014」に従って述べる。

「エビデンスに基づくネフローゼ症候群ガイドライン2014」では推奨グレードを、A(強い科学的根拠あり、行うよう強く勧められる)、B(科学的根拠があり、行うよう勧められる)、C1[科学的根拠はない(あるいは弱い)が、行うように勧められる]、C2[科学的根拠がなく(あるいは弱く)、行わないよう勧められる]、D(無効性あるいは害を示す科学的根拠があり、行わないよう勧められる)の5段階に分けて記載されている。

また、KDIGOのガイドラインでは、推奨レベルを1(推奨する)、2(望ましい)、推奨グレードなしの3つのグレードに分け、エビデンスの質をA(高い)、B(中等度)、C(低い)、D(最も低い)の4段階に分け記載されている。

1)微小変化型ネフローゼ症候群

●推奨グレードB:MCNSに対する経口ステロイドは、初回治療において尿蛋白減少に有効であり推奨する。

●推奨グレードC1:MCNSに対する経口ステロイド単独使用は、急性腎障害の悪化傾向に有効であり考慮される。

MCNSは、一次性ネフローゼ症候群の約40%を占め、ステロイドに対する反応性は良好であり、90%以上の症例で、不完全寛解Ⅰ型に至るが、約30~70%程度に再発がみられ、頻回再発やステロイド依存性を示す症例が存在することが知られている。

ステロイド治療に対するRCT[Randomized Controlled Trial:無作為化臨床試験]のうち、成人例の報告では、腎機能に差はみられなかったが、尿蛋白は有意に減らしてとしている。

2)巣状分節性糸球体硬化症

●推奨グレードC1:FSGSに対するステロイド療法は、初回治療において尿蛋白減少・腎機能低下抑制に有効であり推奨する。

FSGSは、ネフローゼ症候群の約8%を占め、腎生存率(透析非導入率)は、20年で33.5%と長期予後は膜性腎症よりも不良である。ネフローゼ症候群から脱しきれない症例の予後がきわめて不良であるのに対して、不完全寛解Ⅰ型以上まで改善した症例の予後は比較的良好であることから、尿蛋白1g/日未満をめざして積極的な治療を行う必要がある。

初期治療による尿蛋白減少および腎機能低下抑制のRCTはないが、観察研究が数多くある。それらの報告のうち、特に成人の場合では、初回治療において副腎皮質ステロイド療法による完全寛解20~50%台に達し、不完全寛解も合わせると50~60%台となる。

Troyanovは、ステロイドの治療効果を完全寛解(complete response:CR)、部分寛解(partial remission:PR)、治療抵抗性(non-responder:NR)に分けた腎予後の結果、CR>PR>NRの順に有意に腎生存率が長期であったことを報告している(図1)。腎機能予後の改善には、尿蛋白を減少させることが非常に重要である。

 

画像出展:「ステロイドのエビデンス」

※以下は本文には含まれていませんが、「寛解」に関する定義を把握する必要があると思いますので、掲載させて頂きます。“難治性ネフローゼ症候群( 成人例)の診療指針”より)

ネフローゼ症候群の治療効果判定基準(厚生省特定疾患ネフローゼ症候群調査研究班 による)

完全寛解:蛋白尿消失、血清蛋白の改善、および他の諸症状の消失が見られるもの

不完全寛解Ⅰ型:血清蛋白の正常化と臨床症状の消失が認められるが、尿蛋白が存続するもの

不完全寛解Ⅱ型:臨床症状は好転するが,不完全寛解Ⅰ型に該当しないもの

無効:治療に全く反応しないもの

効果判定は、尿蛋白、血清蛋白、および他の諸症状が最も改善した治療開始後の時点で実施するが、治療開始4 ~8 週以内に行われるのが通例である。 不完全寛解Ⅰ型とⅡ型の境界は、ネフローゼ症候群調査研究班の診断基準では明確に示されていないが、1日の尿蛋白が1g以下になった場合を不完全寛解Ⅰ型とするのが一般的である。

3)膜性腎症

●推奨グレードC1:MNに対する経口ステロイド単独治療は、支持療法と比較して腎機能低下抑制に有効である可能性があり推奨する。

MNには、自然寛解が得られる症例もあり、比較的腎予後が良好な疾患と思われがちである。しかし20年長期腎生存率は、約60%と決して良好とは言えない。蛋白尿の経過と腎予後との間に密接な関係があり、不完全寛解Ⅱ型およびネフローゼ症候群は、完全寛解と不完全寛解Ⅰ型と比較して、有意に予後不良である。よって、尿蛋白1g/日以上の蛋白尿が遷延し、腎不全に至るリスクが高い症例では、積極的な治療を行うべきと思われる。

MNに対して、ステロイド単独治療の有効性を無作為化前向き比較研究(RCT)で評価した論文は少ないが、Cattran、Cameronらの論文がある。Cattranらは6カ月間プレドニゾロン45㎎/㎡を隔日投与したステロイド単独治療群と無治療群によるRCTを実施している。その結果、両群を比較して、8年間の経過観察では蛋白尿の寛解率と腎機能低下速度には有意差はみられなかったとしている。Cameronらは、約50名ずつの症例をプレドニゾロン隔日6カ月間投与群と無治療群によるRCTを実施し、3年間の経過観察をしているが、やはり蛋白尿の寛解率と腎機能低下速度に関して、両群間に有意差はなかったと報告している。

Shiikiらの厚生労働省研究班によるわが国の膜性腎症1,066例の後ろ向き調査では、ステロイド単独治療群(357例)、ステロイド+シクロホスファミド併用群(257例)、支持療法群(161例)の3群間で寛解率、腎予後を比較検討している。最終観察時では3群間における完全寛解、不完全寛解、無効例の比率には有意差は認められなかった。しかし、末期腎不全に至る腎予後を比較すると、ステロイド単独治療群とステロイド+シクロホスファミド併用群は支持療法群より末期腎不全に至る症例が有意に少なかった。ただし、ステロイド単独治療群とステロイド+シクロホスファミド併用群の両者における腎予後の差は認められなかった。

エビデンスの使い方

1)微小変化型ネフローゼ症候群

通常プレドニゾロン(PSL)0.8~1㎎/㎏/日相当(最大60㎎/日)で開始され、成人の場合小児より反応性は緩徐であるものの、早ければ2~4週間程度で尿蛋白減少の効果が現れ、また腎機能低下抑制に有効であるとしている。その後は2~4週ごとに5~10㎎/日ずつ漸減し5~10㎎/日に達したら最少量で1~2年程度継続中止する。

再発例では、初回治療と同量・同投与期間の治療、あるいは初回治療より減量したプレドニゾロン20~30㎎/日を投与する。頻回再発例、ステロイド依存例、ステロイド抵抗性ではプレドニゾロンに加えて、免疫抑制薬を追加投与する。図2にMCNSの治療アルゴリズムを示す。

 

画像出展:「ステロイドのエビデンス」

※補足

シクロスポリン、ミゾリビン、シクロホスファミドは、いずれも、免疫抑制薬です。

 

2)巣状分節性糸球体硬化症

通常初期治療としてプレドニゾロン1㎎/㎏/日相当(最大60㎎/日)または隔日2㎎/日相当(最大120㎎/日)を少なくとも4週間投与することを推奨している。

再発例ではプレドニゾロン治療とシクロスポリンの併用を選択する。また頻回再発例、ステロイド依存例、ステロイド抵抗例ではシクロスポリン2.0~3.0㎎/㎏/日を副作用がない限り6カ月間使用し、少なくとも1年は使用、あるいはミゾリン150㎎/日を副作用がない限り2年間使用する。またはシクロホスファミド50~100㎎/日を副作用がない限り3カ月間使用可能とする。図3にFSGS治療アルゴリズムを示す。

 

画像出展:「ステロイドのエビデンス」

 

 

3)膜性腎症

ネフローゼ症候群診療指針では、「わが国では、ステロイド単独による寛解例が少なくないので、ステロイドを第一選択薬として考えるべきである。」とされているが、欧米ではステロイド単独治療の有効性は臨床試験において十分なエビデンスが得られておらず、KDIGO糸球体ガイドラインでは、二次性膜性腎症を除外したうえで、ネフローゼ症候群患者のみに初期治療(ステロイドを中心とした治療)を行うことを推奨している。

糸球体腎炎のためのKDIGO診療ガイドラインでは初期治療としてさらに以下のような状態では、ステロイド治療を考慮することを推奨している。

①少なくとも6カ月間の観察期間中に、降圧療法や抗蛋白尿治療(ステロイド以外の)を行っても、4g/日を超える尿蛋白が持続し、初期の蛋白尿の50%を超える蛋白尿が残る場合(1B)

②ネフローゼ症候群に関連する重篤な症状、機能障害を伴う症状、生命予後に関係する症状がある場合(1C)

③6~12カ月間に血清クレアチニン値(SCr)が診断時に比較して30%以上増加するが、eGFR25~30ml/分/1.73㎡以下にはならず、かつ、この変化が合併症では説明できない場合(2C)

初期治療としてステロイドと経口アルキル化薬[制癌剤]を各月ごとに交互に6カ月間くり返す治療を推奨している(1B)

ネフローゼ症候群診療指針では、「MNでのステロイドの初期投与は他のネフローゼ症候群と比較してやや少なく、ブレドニゾロン換算で0.6~0.8㎎/㎏/日の服用が妥当で、年齢や合併症を考慮して増減が必要である。」とされている。図4にMNの治療アルゴリズムを示す。

 

画像出展:「ステロイドのエビデンス」

 

 

KDIGO糸球体腎炎ガイドラインでは、「アルキル化薬と副腎皮質ステロイドによる治療に抵抗性の患者には、カルシニューリンインヒビター[免疫抑制薬]による治療を行うことが望ましい(2C)。」また、「再発例では、初期治療と同じ治療を再度行うことが望ましい(2D)。」とされている。

4)高齢者のネフローゼ症候群

高齢者ネフローゼ症候群に対して、副作用の発現に十分に注意して使用することを推奨する(ただし、高齢者ネフローゼ症候群に関しては、免疫抑制薬の有効性と安全性のバランスは十分に明らかでない)(推奨グレードC1)

POINT

●MCNS[微小変化型ネフローゼ症候群]に対して、ステロイド療法は寛解導入に有効性が高く、90%以上の反応率を示す。通常プレドニゾロン0.8~1㎎/㎏/日相当で開始し、その後は2~4週ごとに5~10㎎/日ずつ漸減し5~10㎎/日に達したら最少量で1~2年程度継続中止する。

●MCNS再発例では、初回治療と同量・同投与期間の治療、あるいは初回治療より減量したプレドニゾロン20~30㎎/日を投与する。MCNS頻回再発例、ステロイド依存例、ステロイド抵抗性でステロイドに加えて、免疫抑制薬を併用する。

●FSGS[巣状分節性糸球体硬化症]に対して、プレドニゾロン1㎎/㎏/日相当を少なくとも4週間の投与が推奨されているが、RCTによるエビデンスはない。

●ステロイド抵抗性のFSGSに対しては、免疫抑制薬を早期に併用し、すみやかなステロイドの減量を図るべきである。

●MN[膜性腎症]に対して、ステロイド療法は初期治療において有効であるが、ステロイド単独治療は無治療群と比較して尿蛋白減少効果に関して有意差を認めていない、自然寛解もありうるため、数カ月から半年間ステロイドなしで経過をみて、ネフローゼが続いている場合にステロイドを考慮するのが妥当と思われる。

●ステロイド抵抗性のMNには、免疫抑制薬の使用を検討する。

●高齢者に対しては、副作用の発現に十分に注意して使用する。

第10章 皮膚疾患

アトピー性皮膚炎に対するタクロリムス軟膏とステロイド外用剤の比較は?

クリニカルクエスチョン

アトピー性皮膚炎の治療において、皮膚炎を十分に制御できる抗炎症外用剤として有効性と安全性が十分に検討されているものには、ステロイド外用剤とタクロリムス軟膏がある。タクロリムス軟膏は、16歳以上の成人アトピー性皮膚炎患者には0.1%の製剤が使用されている。成人アトピー性皮膚炎の皮疹に対する効果は、どのランクのステロイド外用剤と匹敵するのだろうか。

エビデンスの実際

中等症から重症の成人(18歳以上)アトピー性皮膚炎患者972名を対象に、体幹・四肢に0.1%ヒドロコルチゾン酪酸エステル(ミディアム、Ⅳ群)を塗布する群と0.1%タクロリムス軟膏を塗布する群で、3カ月目の皮疹スコアを開始時のものと比較して少なくとも60%減少するか、をプライマリーエンドポイントとして比較した二重盲検無作為化試験では、0.1%タクロリムス軟膏群は0.1%ヒドロコルチゾン酪酸エステル群よりも高い効果を示した(72.6% vs 52.3%、P<0.001)。また、中等症以上の成人(16歳以上)アトピー性皮膚炎患者162名を対象にして国内で行われた二重盲検無作為化比較試験でも、0.1%タクロリムス軟膏は0.12%ベタメタゾン吉草酸エステル軟膏(ストロング、Ⅲ群)と同等の効果を示した。概括安全度評価で「安全」の評価は両群で同等だったが、塗布部位の刺激感の発現率は0.1%タクロリムス軟膏の方が有意に高かった。この刺激感は大部分の症例で皮疹の改善とともに発現しなくなった。

エビデンスの使い方

日本皮膚科学会アトピー性皮膚炎診療ガイドラインでは、中等度までの紅斑、鱗屑、少数の丘疹、掻破痕などを主体とする成人アトピー性皮膚炎患者の中等症の皮疹には、ステロイド外用剤ならばストロングクラスまたはミディアムクラスを第一選択とすると記載されている。タクロリムス軟膏は、成人アトピー性皮膚炎の皮疹に対して、ストロングクラスと同程度の臨床効果を有することから、中等症の皮疹にはストロングまたはミディアムクラスのステロイド外用剤あるいはタクロリムス軟膏を用いるのが妥当となる。一方で、タクロリムス軟膏の外用初期には、一過性の灼熱感やほてり感などの刺激症状がしばしば出現し、皮疹が改善するとともに刺激症状は消失していくことが多い。しかもステロイド外用剤を長期に使用した際にみられる皮膚萎縮の副作用がタクロリムス軟膏にはみられない。これらを勘案して、実際の臨床ではまずステロイド外用剤で皮疹をある程度軽快させた後に、タクロリムス軟膏に切り替えて長期の寛解を維持する方策がとられることが多い。より重症の皮疹に対しては、まずベリーストロングクラス(Ⅱ群)のステロイド外用剤で皮疹を改善させたのちにタクロリムス軟膏に移行することが推奨されている。

POINT

●タクロリムス軟膏は、成人アトピー性皮膚炎の皮疹に対して、ストロングクラスと同程度の臨床効果を有する。

●ステロイド外用剤を長期に使用した際にみられる皮膚萎縮の副作用がタクロリムス軟膏にはみられない。

●実臨床ではまずステロイド外用剤である程度軽快させた後に、タクロリムス軟膏に切り替えて長期の寛解を維持する方策がとられることが多い。

こちらをクリック頂くと、『医師の視点で考えるアトピー性皮膚炎』というサイトにある“タクロリムス軟膏”に関する詳しい説明が確認できます。

アトピー性皮膚炎に対するステロイド外用剤のランクと使用期間に関するエビデンスは?

クリニカルクエスチョン

ステロイド外用剤は、アトピー性皮膚炎に対する薬物療法の主体である。ステロイド外用剤は、現在国内では5つのランクに分かれており(表1)、効果の高さと局所性の副作用の起こりやすさは一般的には並行する。アトピー性皮膚炎の皮疹に対するステロイドの効果とランク、局所性の副作用とステロイド外用剤のランクや使用期間に関するエビデンスはあるのだろうか?

 

画像出展:「ステロイドのエビデンス」

 

 

エビデンスの実際

1)アトピー性皮膚炎の皮疹に対する効果

ステロイド外用剤とプラセボ[偽薬]を比較した無作為化比較試験は20編を超え、ほとんどの試験でステロイド外用剤はプラセボよりも有効であることが示されている。一方で、0.2%吉草酸ヒドロコルチゾン〔米国の分類では0.1%ヒドロコルチゾン酪酸エステル(表1を参照:ミディアム、Ⅳ群)と同じランク〕などランクの低い一部のステロイド外用剤では、効果に統計学的な有意差が示されなかった。

2)ステロイド外用剤の局所性副作用

小児アトピー性皮膚炎患者に0.1%吉草酸ベタメタゾン軟膏(日本で販売されている0.12%ベタメタゾン吉草酸エステルはストロング、Ⅲ群)を1日2回、週3回18週間外用しても皮膚の菲薄化はみられなかった。健康ボランティアの前腕に0.05%クロベタゾールプロピオン酸エステルクリーム(ストロンゲスト、Ⅰ群)や0.1%ベタメタゾン吉草酸エステルクリームを1日2回、連日6週間外用したところ、皮膚の菲薄化がみられた。

エビデンスの使い方

ステロイド外用剤の選択に際しては、皮疹の経過に関する見通し、皮疹の重症度、皮疹の部位、患者の年齢などを勘案する必要があり、実際の診療ではアトピー性皮膚炎診療ガイドラインなどを参考にしてランクを決める。ほとんどのステロイド外用剤がアトピー性皮膚炎の皮疹に対して有効性を示した一方で、ランクの低い一部のステロイド外用剤では効果においてプラセボと有意な差がなかった。また、ある程度の強さをもつステロイド外用剤を連日長期間外用すると、皮膚萎縮などの局所性の副作用がみられる可能性がある。したがって、アトピー性皮膚炎の治療に際しては、皮疹の重症度や部位に応じて十分な効果が期待でき、かつ必要以上に強くない、適切な強さのステロイド外用剤を選択することの重要性がうかがわれる。

そして、適切なランクのステロイド外用剤を用いて皮疹を軽快させた後は、保湿剤を継続しつつ、ステロイド外用剤の外用回数を減らす、ランクを下げる、タクロリムス軟膏に切り替えるなど、外用部位に副作用が出現する可能性を減じながら寛解を維持する方策をとる。

一方、皮疹が軽快した後もステロイド外用剤やタクロリムス軟膏などの抗炎症外用剤を週2回程度継続するプロアクティブ療法の有効性が欧米を中心に報告されており、国内でも注目されている。

POINT

●ほとんどのステロイド外用剤がアトピー性皮膚炎の皮疹に対して有効性を示した一方で、ランクの低い一部のステロイド外用剤では効果にプラセボと有意な差がなかった。

●ある程度の強さをもつステロイド外用剤を連日長期間外用すると、皮膚萎縮などの局所性の副作用がみられる可能性がある。

●適切なランクのステロイド外用剤を用いて皮疹を軽快させた後は、ステロイド外用剤の外用回数を減らす、ランクを下げる、タクロリムス軟膏に切り替えるなど、外用部位に副作用が出現する可能性を減じながら寛解を維持する方策をとるのが肝要である。

感想

ステロイドコントロールとは、「患者さまの病状を正しく理解し、その上でステロイド外用剤の選択を行ない(強さ、部位などから)、また外用の期間、漸減、維持量(0gを含む)を病状の変化と副作用の両面を考慮しながら、必要な微調整を加え患者さまの最適な投薬法を見つける作業」ということではないかと思います。

また、腎臓病のネフローゼ症候群であれば免疫抑制薬があり、アトピー性皮膚炎であればタクロリムス軟膏という薬があるということも知りました。

鍼灸師として、これらの投薬に深入りすべきでないことは当然ですが、患者さまの直面している実態を理解するうえで、薬を知ることは大切な知識の一つであると思います。

追記

ステロイドとアトピー性皮膚炎について調べていて、興味深いサイトを見つけました。患者さまの症状によって対処は変わるものと思いますが、ステロイドコントロールの一例ということでご紹介させて頂きます。

こちらは環境再生保存機構さまのサイトに掲載されていた、”医療トピックス:アトピー性皮膚炎治療とセルフケアの最新動向”の中にあった図(アトピー性皮膚炎診療ガイドライン2015の図を改変)です。