柳谷素霊2(「五十からの青春」)

前回の「柳谷素霊1」では、醫道の日本 昭和33年3月号から、柳谷素霊先生の「脈診と臨床」の全文をご紹介させて頂きましたが、今回は「五十からの青春 -ストレスとハリ・灸医学」(初版発行:昭和32年10月30日)という貴重な本がブログの題材です。この本はamazonでは¥48,800だったため断念寸前だったのですが、度々利用させて頂いている古本サイトの「日本の古本屋」で、¥12,960で販売されていたのを見つけ、思いきって購入しました。私が鍼灸専門学校に入学したのは52歳の時なのですが、先生が逝かれたのも満52歳だったという偶然に因縁めいたものを感じ、つい前のめりになってしまいました。
本は全242ページ、柳谷先生の「五十からの青春」は204ページまで、207ページからは医学博士である田多井先生の「ストレス学説」になっています。

 

著者:柳谷素霊、

田多井吉之介

出版:新樹社

 


左:柳谷素霊

右:ハンス セリエ

画像出展:「五十からの青春」

左:ハンス セリエ

右:田多井吉之介


最初に、本の文末にある両先生の「著者紹介」をご紹介します。
柳谷素霊
明治39年北海道に生れ、日本大学宗教科卒業。東洋鍼灸専門学校校長。東京都鍼灸審議委員、東京鍼灸師顧問、日本鍼灸師相談役。昭和30年パリ鍼学会顧問になり、昭和30年12月ドイツのドイツ鍼学会で「ドイツ鍼医師試験」に合格、A.F.AKUPUNKTURの称号をうく。昭和30年フランスとドイツに招かれてハリ・灸医学の講演と実技公開の旅をせり。著書に『鍼灸医学全書(四巻)』、『鍼灸治療医典』(半田屋)、『鍼灸摘要』、『図説鍼灸実技』、『柳谷一本鍼伝書』(医道の日本社)。同書のドイツ語あり。

田多井吉之介

大正3年東京に生れ、東京大学医学部卒業後生理衛生学を専攻。昭和26-7年ハーバード公衆衛生学校に留学す。現在国立公衆衛生院生理衛生学部長。医学博士。公衆衛生修士。主要著書に『ストレス』(創元社)、『汎適応症候群』(協同医書)、『好酸球の動力学』(医学書院)、『ウロペプシンの動態』、『衛星と公衆衛生』(南江堂)等あり。訳書に『適応症候群』、『セリエ新内分泌学』(医歯薬出版)、『ノルアドレナリン』、『ストレスと病気』(協同医書)等がある。

柳谷素霊先生といえば「古典へ還れ!」という言葉が印象的です。私自身がそうであったように、鍼灸師の先生の多くは、柳谷先生を古典原理主義者のように思われてはいるかもしれません。この本を拝読すると、柳谷先生が西洋医学に精通され、同時に、非常に重視していることが分かります。また、貝原益軒先生の“養生訓”が、度々出てくるのも興味深いところです。柳谷先生を理解するうえでは、“養生訓”を知ることも重要であろうと思います。

こちらの学園の「貝原益軒アーカイブ」は、驚くほど充実した内容になっています。

『養生の術は先(ず)心気を養ふべし。心を和にし、気を平らかにし、いかりと慾とをおさへ、うれひ、思ひ、をすくなくし、心をくるしめず、気をそこなはず、是心気を養ふ要道なり。』
これは「養生訓 中村学園大学校訂テキスト」の巻第一 総論上からの抜粋です。

ブログは目次に続き、次の項目についてご紹介していますが全文ではなく一部や要点になります。
・「まことの人生はこれから」の中から、Ⅰの「頭脳の青春は五十から」
・「ハリ・灸の日本の歴史」
・「老人医学」の中から、Ⅷの「腎臓の調整」
・「ハリ・灸愛好者への回答」
以上の4つが柳谷先生のパートです。
・「ストレス学説」の中から、Ⅰの「ストレスの起源」、Ⅴの「東洋医学と西洋医学」、Ⅳの「セリエ博士の横顔」

こちらは、田多井先生のパートです。

目次

まことの人生はこれから 
 Ⅰ頭脳の青春は五十から
 Ⅱ暦の年齢と生理年齢
 Ⅲ五十の知恵を三十の肉体で
 Ⅳ女体のみじみずしさ
 Ⅴ未病を治す
ハリ・灸の日本の歴史
フランスとドイツのハリ医学
中年生理への闘い
 Ⅰ微笑の一日主義
 Ⅱ五十肩と四十腰
 Ⅲ甘美な睡眠
 Ⅳ頭痛とめまい
 Ⅴ足から若がえる
 Ⅵ忘老は栄養のバランスに
 Ⅶセックスの回春
美容医学
 Ⅰしわとしみ
 Ⅱ肥りすぎ
 Ⅲやせすぎ
 Ⅳ益軒先生の美容体操
ハリ・灸で治りやすい難病
 Ⅰ高血圧
 Ⅱ糖尿病
 Ⅲてんかん
 Ⅳ歯槽膿漏
 Ⅴアレルギー
 Ⅵぜんそく
 Ⅶ肩凝りと腰痛
 Ⅷ肝臓病
 Ⅸ神経痛とリューマチ
 Ⅹノイローゼ
老人医学
 Ⅰ百才への夢
 Ⅱ布施博士の長生術
 Ⅲ老化生理防止のハリ・灸
 Ⅳ不眠症
 Ⅴ白米偏食は短命 
 Ⅵ心臓を守る
 Ⅶ白髪への予防
 Ⅷ腎臓の調整
 Ⅸ益軒先生養生訓への反省
 Ⅹ良医を選べ
ハリ・灸愛好者への回答

ストレス学説 
 Ⅰストレスの起源
 Ⅱストレス学説
 Ⅲストレスと精神身体医学
 Ⅳストレスの適応病
 Ⅴ東洋医学と西洋医学
 Ⅳセリエ博士の横顔

「まことの人生はこれから」
頭脳の青春は五十から
貝原益軒先生は、八十三才のときの「養生訓」に、「人生五十に至らざれば、血気いまだ定まらず、知恵いまだひらけず、古今に疎くして、世変になれず、言あやまり多く、行悔(オコナイクイ)多し。人生の理も楽も未だ知らず。」まことの人生は五十からひらけるのだと訓しています。
さきごろ、なくなられた小林一三氏も「四十、五十は鼻たれ小僧。働きざかりは七十から」と大いに気焔をあげていました。~中略~
人間として、いちおうの、知能の円熟と豊富な体験からくる自信のある人生は、ようやく中年の、五十才からだと、ノーベル賞のカレル先生も、二百年前のわが益軒先生も同じようにのべられています。
人間は、五十になってはじめて、頭脳の働きが円満になり、知恵が冴え、世情のわきまえ方をさとり、処世の妙腕がふるえるような、社会の有能な人物になれるのである、というのです。
世の中をみまわすと、会社の重役、学校の校長、役所の局長、その下の部長クラスにしろ、だいたい、社会の責任の重い重要ポストは、ちょうど、五十才前後が占めているようです。
人生の五十は、仕事ざかり、男ざかり、女ざかりでしょうか。すくなくとも、頭脳からみた人生は、五十とは、花ならばまさに満開の、溢れる才知と豊かな経験をささえにした、トップコンディションといってよろしく、最高頂期なのです。
いわば、酸いも甘いもかみしめた、こういう老舗の知恵は、たしかに、五十という年輪のたまものです。いよいよ貴重な五十才。
さて、東西の学者が、生命の科学をいろいろ研究したところでは、「人間の寿命は百才まで生きれる」の説が信じられています。ビュッフォン(1707-1788)やフルラン(1794-1867)の説です。
益軒先生も人生百才説でした。人間は百才まで生きられるのです。
それを、不用心で病気をしたり、怠けて老化を早めては、つい、もっと早く、生命を失ってしまう人が多いのです。
百才の寿命があるというのならば、五十は人生の半ば、やっと青年期から壮年に入ったコース。いや、五十才の青年なのです。
人間の脳の重さも、四十をこしてから、やっと、いちばん重くなるそうです。つまり、頭脳の青春、知能の円熟をものがたっています。

昭和32年の平均寿命は、男性63.24、女性67.60でした。100歳という年齢は非現実的なものでした。

成人を超えても伸び続ける脳力がある。人の感情を読み取る能力のピークは50代であることが判明(米研究)

表にある「結晶性知能」とは、学校で受けた教育や仕事、社会生活の中で得た経験に基づく知能のことだそうです。「感情推測能力」と共に、社会や組織の中で特に重要な能力だと思います。

「ハリ・灸の日本の歴史」
日本へ、ハリ・灸医学が輸入されたのは、欽明天皇のころ、朝鮮の高麗から、呉知聡という人がはじめて日本へきてひろめ、ハリ・灸の穴が書いてある「明堂図」、「儒釈方書」百六十四巻を伝えたことからはじまります。奈良朝前期ごろの、仏教文化が日本へ渡来したおりのことでしょう。
それから奈良七代、京都の平安朝期、鎌倉期、戦国時代と、ようやく一般に親しまれ、漢方医の重要な治療方法としてのハリ・灸医学は、ひろく日本人の生命をあずかってきました。
そのころは、鍼師(施術士)、鍼博士(大先生とか教授の)、鍼生(学生、見習い)の制度でよばれました。
中国から日本へ伝わったのは、「捻鍼(ヒネリバリ)」の技法です。
その後、「打鍼(ウチバリ)」という技法を日本で発明したのは奥田夢分斎で、「鉄道秘訣集」の本も書きました。彼はもと奥州二本松の禅僧でしたが、京都の多賀検校に多賀流の鍼を習い、晩年に京都御所の枯れかかった牡丹の花を、鍼術で生かしたというので、時の花園天皇からお賞めの言葉をいただき、姓を賜って、以降は、奥田を改め、御薗意斎となりました。
この流れをくむものを「打鍼(ウチバリ)流」といい、万病の基は腹の調整にあるといって、主としておなかのツボに打鍼(ウチバリ)して、栄えていました。
その後徳川記に入ると、有名な杉山検校が出て、いわば、中興の祖とあおがれました。杉山和一は、伊勢の津の人、慶長十五年生まれで、父は藤堂家の臣。盲目なので、はじめ山瀬琢一の弟子となりハリを学びました。
管鍼(クダ゙バリ)」という技法は、杉山検校が江の島弁財天に参籠して満願の日、「竹の管と松葉」を授けられて発案したものと、今日でも浪花節や浄るりに語り伝えていますが、実は、その前の元禄ごろの本にも既に「管鍼」の文字が出ているのです。
のち京都にうつって、杉山検校は名医として繁昌しましたが、ついで江戸に出て、時の将軍綱吉の難病を治したのが、いっそう名声を高め、関東総禄として八百石を賜わり、「なんでもほうびをとらせる」のお声に「一つ目だけでもほしい」と、本所一つ目の地(旧国技館のうらで、いまでも杉山検校の社がある)を賜わったと伝えられています。ここに「鍼治講習所」を開いて、全国四十五ヵ所に分校をおき、ここに、盲人だけの鍼学教育をはじめました。
今日の日本のハリ技法は、みなといっていいほどこの杉山検校のひろめた「管鍼(クダバリ)」の方法で、中国から渡った「捻鍼(ヒネリバリ)」や、夢分斎の発明した「打鍼(ウチバリ)」の技法を知り、伝える人は、ほんの数えるほどしかないのです。
杉山検校は、大正十三年五月、今日の盲人教育の基礎をつくった功によって、正五位の贈位をうけたほど、後世の盲人の恩人となりました。しかし、徳川期にも、もちろん盲人以外のハリ・灸の名医はたくさん出て、吉田流の出雲の吉田とか、垣本鍼源、菅沼周桂と後世までも名を残す人もいました。
また、杉山流には三島安一、和田春徹、石坂志米一等の高弟が、つぎつぎと現われて、高度の技術の発達をとげ、ますます杉山真伝流の発展をはかったので、徳川の中世紀は、日本のハリ・灸医学の技術面で、いちばん絢爛たる花の開いた時代といえましょう。
明治の初年、盲人の官職廃止、漢方医制度の廃止となって、ハリ・灸医師も禁じられましたが、明治十八年に、それでは盲人の生活が困るだろうと、簡単な免許規則ができて、はじめて漢方医と離れて開業することになり、その後何回も改正になり、試験制度になって、戦後、今日の「鍼灸師身分法」となったわけです。
そこで明治のはじめに、国立の盲学校に「鍼按科」ができ盲人の教育をはじめましたが、これは昔の杉山流の直系をくむもので、昭和時代までも奥村三策がこれをつぎ、これが現代の「国立教育大学雑司ヶ谷分校」で、やはり杉山流の直系の吉田弘道が「築地盲人技術学校」に拠り、盲人教育をひらいたのが今日の東京都立文京盲学校であり、そのあとを私がひきうけました。
こうして、鍼灸学校は盲人中心に栄えたようにみえますが、もちろん晴眼者の人の学校も、べつに開かれていました。終戦前は十校位でしたが、終戦後は全国に三十校位あります。これらは厚生省の認定になっております。私の学校「東洋鍼灸専門学校」もその一つです。
つまり、盲人と晴眼の普通人とは、べつべつに鍼灸教育をうけてはいますが、いま全国には、西洋医が八万五千に、ハリ・灸師は五万人います。
そこで、ハリ・灸医学の東西交流の歴史をみますと、一八二六年三月十五日の、シーボルトの「江戸参府日記」に、幕府のハリ医石坂宗哲に、日本のハリ・灸技術習う、とかいてあり、のち、シーボルトによって石坂の著「鍼灸知要」のオランダ訳が出ています。(試しにネット検索したところ、「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」さまに原書がありました)
つまり、明治以前のハリ・灸は、徳川中世以後は、ほとんど漢方医が、外科的治療の一つとしてハリ・灸に腕をふるっていたので、杉山検校のように直接に将軍家のお抱えもあれば、諸大名に召しかかえられたものもあり、開業医もありで、徳川中期の最盛期は、ハリの技法も「九十余種」といわれ、あらゆる病気を、多くのハリをつかって、それぞれの特長の技法で治療していたと伝えられます。 

こちらが、【創立60周年】を迎えた、現在の東洋鍼灸専門学校です。

「老人医学」
腎臓の調整
腎臓の病気は地味なので、あまり、気にとめない人も多いのですが、漢方では、先天の元気の発するところとみて、腎臓を非常に重くみていて、この腎臓を調整することによって、大半の慢性病は解決がつくとまでいわれています。
ですから、どんな病気にでも、必らず、腎臓の働きが十分であるようにと、そこのツボを刺戟してゆく治療法をいたします。
たとえば、腎臓機能の不調に気づかずにいると、肝臓に変化のあらわれてくるものがあります。そして肝臓に病変がくると、こんどは、神経系の病気が出てまいります。
昔の人のいう「疳」がたかぶるというのは、この疳は肝を意味して、ヒステリー症も肝臓の病気からおこり、また、てんかんも、著しい肝臓肥大が特徴とされているように、この腎臓と肝臓との間の密接なつながりを無視しては、治病の実績はあがりません。この、肝臓と腎臓が、たいていの慢性病の根源であるという漢方の考え方から、「肝腎かなめ」という言葉が、ちゃんと残っているわけです。
腎臓の役目は、現代医学的にみても、身体のなかの不用な老廃物を体外に排泄する働きをします。(血液のなかの有害なものを水分といっしょに尿として出す)
それが、なにかの故障で、働きが鈍るとなると、たちまち、身体のなかに、有毒物質がたまるので、あちこちへ、悪い影響がひろがることは、こわいわけです。
そこで、なんとしても、腎臓は、いささかの狂いもなく、十二分の能率をあげてもらわないと、完全な健康体をたもってゆくのがむつかしくなるから、そういう腎臓の重大性は、どんな病気を克服してゆくためにも、第一コースになるといえましょう。
腎臓病には、急性と慢性の腎炎、ネフローゼ、妊娠腎、血管性腎疾患、腎臓結核、腎臓結石、尿毒症、などがあります。
腎臓病の見分け方は、むくみが問題です。医者がみると一目で、みわけられますが、案外普通の人では、このごろ肥り気味なのだとよろこんでいたら、実は、腎臓炎だとわかって、あわてて絶対安静を命ぜられて、職場を休むという例も少なくないのです。
このむくみも、心臓のためからくるものと、腎臓のでは、すこし違います。
心臓のときは、早朝時に軽いむくみが、足の方から、はじまってきて、呼吸困難があり、肝臓が腫れます。腎臓病のときは、早朝時に強く、むくみは顔面からあらわれ、呼吸困難がなく、特に眼蓋のむくみが目立ちます。そして尿が少なくなり、肝臓の腫大はありません。
これは初期の症状で、慢性になって、萎縮腎にすすむと、反対に、むくみは少なくなって、尿も多くなり、血圧も上り、尿の中には蛋白が出てしまうので、腎臓の検査は、つねに、尿の検査と並行して、その一進一退をみてゆくようにします。

※腎臓に関する最新情報として、過去ブログの「腎臓が寿命を決めるとは」をご紹介させて頂きます。

「ハリ・灸愛好者への回答」
:肝臓がすぐ悪くなるのが持病で、疲れると、肝臓部や胃のあたりがはってくる、食欲不振で、あわてて近くの開業医にかけつけて、なにか注射をたのみ、胃の薬を貰って静養していた中年の女。ふと、この三月からハリ治療に親しみました。けれども、街には、ハリ医はたくさんあって、素人の眼には、その優劣がわかりにくいのですが。ハリ技術の巧拙の見分け方は?
:いちばんに
一、ハリを刺すとき痛まぬこと。
二、自覚症状や他覚症状に(血沈、検尿、脉搏、発熱などの)、だんだん健康の方向に向かっているような快感があって、そういう病状の軽減がある筈です(治療後に)。
三、だいいち、気分の爽快さがはっきりある。
四、食欲、排便、利尿、睡眠が、健康状態に近づいてゆく筈です。

 

:ハリ治療をうけたあと、必ず、フラフラと目まいがするという人もありますが。
:それははっきり、症状を訴えないといけません。だまっていては、ハリの先生もわかりません。普通こういうのは、ハリの刺戟量の過多か、病気へのツボのとりまちがえですから。

 

:ハリと灸では、その科学的作用にちがいがあるものでしょうか。
:あります。ハリと灸の効果の差を比較してみましょう。
ハリの効果は、
一、機械的刺戟の応用にある。
二、「瀉(マイナス)」の働きが、灸よりも強大です(だから病気の種類症状により、灸よりもハリの効果がよいことがある)
三、ツボは、正統的には、「補」と「瀉」を区別してつかうのは、ハリも灸も同じです。それで手技にも「補」の手法、「瀉」の手法があります。
四、科学的効果の理論は、
神経理論
皮膚の神経を刺戟して、脳脊髄神経と自律神経に影響を与え、身体の構成組織機関を調整するのです。
液性理論
血液、抗体、ホルモンを増加せしめます。その他酵素(グルタミン酸、アスパラギン酸)をつくり、PH(水素イオン濃度を調整する)または血沈、尿中のウロトロビンに影響を与えます。
灸の効果は、
一、温熱と光の刺戟の応用にある。
二、灸は、補(プラス)の働きがハリよりも強いのです。
三、ツボにも、瀉穴と補穴の区別があります。
灸の補瀉の別を簡単にいえば、「補」とは、モグサを小さく、やわらかくひねり、数を少くして、もえた灰の上からつづけてすえる方法です。「瀉」とは、大きなモグサを、固くひねり、いちいち、もえた灰をとってすえます。たとえば、弘法さまのウミを出す灸は、あれな「大瀉」の方法で、「虚証の病人」には、よろしくないとされています。
四、灸の科学的理論は、
神経理論
温熱または光の刺戟が、身体の神経系統に好影響を与えます。
液性理論
皮膚を火傷することによってできた、火傷毒素(変性蛋白体、異種蛋白体)の刺戟作用により、直接に組織機関を刺戟し、調整作用をおこします。また、硬化血管を軟化し、血液抗体を増加させます。

 

:どういうものか、インテリ階級には、ハリ・灸治療は、あまり歓迎されていないようですが。
:そうとは限りませんが。徳川時代のように、そしていまのフランスやドイツのように、医者がみなハリ・灸治療をやっているのなら、社会大衆からも自然に尊敬と信頼があったわけですが。やはり、ハリ・灸医学は、明治以後、忘れられたうらみはあるので、いわゆる、「くわずぎらい」も多いのです。

 

:たいていの人は、野蛮な医療法のように誤解してしまいがちですが。
:そういう誤解は、一度、体験なされば、消えてしまいましょう。今日のフランスやドイツで、これだけ盛んにもてはやされているのは、べつに迷信やオマジナイではないので、ちゃんと、科学的理論があればこそなのですから。しかし反省してみると、一部の業者にも責はあります。いまは、高等学校を卒業してからでないと入学できないハリ・灸医学校ですが、昔は、安易に免状が手に入ったのでしょう、知識の浅い教養の低い業者が、社会からきらわれるのは当然で、女も男も、せめて大学くらいは卒業してから、ハリ・灸医学の勉強をして、社会へ出るようにすると、ずいぶん、今後のハリ・灸界は変わってもゆくだろうと夢見ているわけですが。

 

:西洋医学で治らない病人を、ハリ・灸医学で治してゆくことは結構ですが、私のように半年間、一週一回いわば、病気の予防の目的みたいに、ハリ・灸にお世話になってきましたが、たしかに素晴らしい健康法だと、このごろ信じられます。身体のなかの、あちこちのしこりがとれ、とても身体がやわらかくなります。
:そういうファンは大歓迎です。いろんな医者にみはなされた、むつかしい病人を治すだけが使命でもないのです。もっとひろくインテリ階級層にも、「人間ドック」とは、「ハリ・灸健康法」にあることがわかって頂けると、よいのですが。

 

:その「人間ドック」的意味が、やっと半年のおなじみで、理解されました。脉診をうけたあとで、私はその一週間の身体の症状をこまかく訴えます。せっかく便通をよくつけて頂いたのに、ちょっと忙しすぎて過労から、また胃のあたりがふくれてきたことなど。すると、そこを中心に治療してくださる。次には、足が少し変ですが、というと、ちょっと血の道が出ていますね、とまた別なツボ中心にしていただく。そういう、病気になる前の病原らしいものを、一歩早く、つかまえて消して頂いているようなので、おかげで、快食、快眠、快便を、一服の薬も一本の注射もなしに、感謝しています。
:そう、理想的なファンがいられるとはおどろきました。積極的の健康増進に「人間ドック」へのハリ・灸は新しい方向ですね。

「ストレス学説」
ストレスの起源
セリエ博士によれば、ストレスの概念は、すでに遠くギリシャ医学にみられるといいます。
ヒポクラテスや、そのほかの当時の医師たちは、パソス(pathos)およびポノス(ponos)という言葉をつかいましたが、パソスは、現在の医者がつかっている病理学(patnology)という語の起源になりました。
これにたいして、ポノスという言葉は、労苦、あるいは仕事といった意味をもっていました。
即ち、ヒポクラテスは、正常の方向にむかって自分の身体を保っていこうとする、体内の努力の存在を認めて、これをポノスと呼んだのです。
いいかえると、医学の父祖といわれるヒポクラテスは、すでに、2400年前に、身体の内に具わった自然の治癒力を認め、これにポノスという名を与えていたのです。セリエ博士は、これが、ストレスという言葉の起源になると考えています。
しかし、ヒポクラテス時代のポノスの言葉は、決して科学的ではなかったのです。科学であるためには、それが分析にたえ、また、測定が可能である必要がありますが、昔はこれが不可能でした。
こんなわけで、ストレスの研究を科学にまで高めたセリエ博士に、偉大な功績があるのです。

東洋医学と西洋医学
西洋医学の上でも、安静療法、ショック療法、発熱療法、異種あるいは同種の蛋白質療法、さらに転地療法といった、各種の非特異的療法が行われてきました。もっとも、これらの療法の適応は、主に、慢性退行性疾患(老人病)とか、一般的な虚弱体質にあったことはもちろんです。
いっぽう、東洋では、古くから、ハリ・灸療法という、非特異的な治療法が医術の座を占め、今日でもなお、大衆の支持を得ているばかりか、西欧への進出もしています。そしてハリ・灸を求めにくる患者の多くが、いわゆる慢性疾患であることも、決して見逃せない事実です。
現在のハリ・灸療法は、かなり科学的になっています。信頼できる施設ではカルテも正確にとっており、他の手段では、なかなか、はかばかしく治らなかった症状が、ハリ・灸療法によって明らかに良くなった例も、かなり多く見出だされます。
このように、非特異的療法は、洋の東西を問わず、古くからの経験と伝統をうけついで、いまだに大衆から支持されていることは、この療法に、なんらかの価値がある証左にほかならないと考えられるのです。

セリエ博士の横顔
さきごろ来朝され、日本の各地の講演やなにかと、大きな感銘を与えて、あわただしく帰国された、カナダのモントリオール大学のセリエ博士のストレス学説を、いま、日本ではストレスブームなどといって騒いでいますが、実は、これは二十年も前からいわれて来た学説なのです。
しかたがって、珍奇な説でもアプレ型でもなく、少なくとも実験医学的には、もう成人に達していることを忘れてはなりません。
モントリオール大学は、1945年、大戦直後にできた新しい大学で、すべてフランス語で抗議されている、カナダ唯一の綜合大学で、セリエ博士は、実験医学研究所長です。
セリエ博士は、1907年ウィーンの外科医を父として生まれ、幼児から神童であったようです。三代もつづいた医家です。父親は、ハンガリー生れで、Selyeというのは、もとは、ハンガリーの小村の呼び名だといいます。
私の「タタイ」という名も、ハンガリーの村にあるそうで、私がはじめて、モントリオールにお訪ねしたときは、はじめ、ハンガリーからきたかと疑われたそうで、大笑いいたしました。

帰国直前の宴会に、一言と求められたとき、
貴国において、生活の内に潜む古心の美を見る。どうかそれを失わずに育ててほしい。西洋には愛の哲学があえるが、東洋にはこれにまさる、感謝の哲学がある。二者を併せて人間は成長すべきである。」そういって、日本のいけばなは生活の美化、茶は心の転換法と、つかむところはちゃんとつかんでしまった。それもたった十日間に。

柳谷素霊1(「脈診と臨床」)

『柳谷は常に、古典に還れ、そして原典を批判し、そこから再出発すべきである、古典は古人の遺言である、この遺言を実際に再現しなければならない、と説いた。しかしこちこちの古典狂ではなかった。鍼灸を科学化することに決して否定したのではなかった。むしろ正しい意味での科学化を主張したのであった。その態度は次のようなものであった。すなわち「鍼灸師は技術者であって科学者ではない。鍼灸術を科学化するためには、科学者の力を借りなければならない。科学者の力を借りるためには、鍼灸術の本質を明らかにせねばならない」と。しかし長い年月の歴史の批判を通って生き抜いてきた古典的鍼灸術を中心にして行くのが当面の正道であり、そしてなお、家伝であろうが秘伝であろうが、たとえ巷のじいさんばあさんの灸点であろうが、効くという事実があればそれも取り入れる必要があり、さらに、「鍼灸学的行き方同時に現代科学的行き方も包含する風にやって行くのがよい」といった立場をとったのであった。』
これは、1985年に出版された「昭和鍼灸の歳月―経絡治療への道―」の中の一文です。

画像出展:「岡部素道先生追悼」


私は日本伝統医学研修センターの相澤良先生から学びました。その相澤先生は岡部素道先生の最後の内弟子として修業をされ、素道先生のご子息で医師でもあった素明先生からも学ばれました。そして、その岡部素道先生が鍼灸の道に入ったきっかけは柳谷素霊先生との出会いでした。その出会いは次のようなものです。
『東京より避暑に来ていた人物に、東京に結核治療の名人が居ると教えられ、治療を受けに上京した。その名人と教えらえた人物こそ柳谷素霊である。そこで岡部は柳谷の治療を受け、帰り際に、「自分の結核を治すだけではなく、他人の結核を治療するようなことをやってみてはどうか」と勧められる。帰郷後、岡部は不動産を処分して資金を作り、再度上京し、柳谷に弟子入りする。昭和6年12月のことであった。』(「岡部素道の鍼灸治療」より抜粋)
この来歴から、私の施術のルーツは、僭越ながら柳谷素霊先生にあると考えました。そして、柳谷素霊先生のことを勉強したいという思いから、1冊の雑誌と1冊の本を手に入れました。今回のブログは、この「1冊の雑誌」が題材です。
その雑誌とは、「醫道の日本 昭和33年3月号」です。柳谷先生は昭和34年2月(満52歳)で死去されておりますので、その前年、最晩年ということになります。
当初は抜粋や要点の洗い出しを考えていましたが、それでは、正確にお伝えすることができないと考え、全文引用とさせて頂きました。なお、この「脈診と臨床」は昭和32年9月15日(日)東京都千代田区にある日本教育会館で開催された「脉診講習会」の模様を速記録に残したものです。

画像出展:「ウィキペディア


「脈診と臨床」
脈診と臨床という題でございますが、もうここにいらっしゃる方は、大体顔見知りの方もあちこちあるようでございますし、また二、三十年も前から脈診の研究及びその実験ということをやられておる方が相当あるんでして今さらここで脈診というのはどういうものだというようなことを、改めてこまかくいうことはないように思いますが、岡部君、竹山君(中段付近を参照ください)のあとを受けまして、私個人の平素やっております脈診並びに臨床についてお話させていただきます。―脈診と臨床という意味は、脈診から導かれた臨床という意味でございますから、そのつもりでお聞き願いたいと思います。

なぜわれわれが脈診を鍼灸の治療のパイロットにするかと申しますと、これは鍼灸を運用するいわゆる鍼灸の臨床のために脈診が必要であるという点に到達したからでございます。御案内の通り鍼灸を運用するその基盤といいますかイデオロギーは―イデオロギーというと大げさでございますが、立場はさまざまあります。どんなものがあるかと申しますと近代の鍼灸の理論では神経性理論と液性理論、これが教科書にも書いてあり、全国の学校においても教えておるところであります、神経性理論に基くところの鍼灸の臨床、あるいは液性理論に基くところの鍼灸の臨床が、実際臨床の場においてわれわれをして、また病人をして満足せしめているかどうか、こういうようなことを一応反省してみたいんであります。神経生理論、液性理論に導かれたところの鍼灸の運用は、いわば科学的な方法といいましょう。一応の解剖学的知識があり、病巣と皮膚受容器の連関が判っておればたやすいのです。血液、いわゆる液性理論などという点に至っては、刺戟点をどこに求めてもいい訳けになります。どこへやっても液性理論の需要に応ずることができます。たとえば原志免太郎博士の腰部八点穴、及び、足の三里穴、これだけで万病にいいんだと、こういうようなことで済むんであります。神経性理論という建前からいきますと、解剖学的な神経の起始、経過、分布領域、脳脊髄神経と交感神経との解剖学的関係における分布状態、そういうことを知ってさえおれば一応の治療はできます。けれどもそれによってわれわれが臨床の場において、その理論通り行って所期の治療成績をあげる結果となっておるかどうかということになると、皆さんもすでに御体験済みのごとく多分に問題があります、というのはその理論通りいかない。いわゆる2+2+3=7というようなトータルが出てこない。こともあるということであります。しからば鍼灸の運用に最も進んだといわれるところのこれらの神経理論並に液性理論の如き近代理論に基く以外に、鍼灸を臨床的に運用するところの方法がないかというと決してそうではないんであります。結論的にいって失礼なのですがいうなれば、鍼灸の運用というものはいわゆるわれわれの古聖人が残したところの原理原則にのっとった案内によってのみ行われるものであるというふうに私は考えざるを得ないんであります。

過去三十年、いや生まれたときからですから五十年、そういう環境とそういう思念とをいだいて参りましたが、その間非常な攻撃といいますか反撃といいますか、ひどい罵詈雑言という言葉があてはまる声や筆を聞いたり見たりして参りました。
しかし私は頑迷固陋[ガンメイコロウ:考え方に柔軟さがなく、適切な判断ができないこと]といわれるかも知れませんがただいま申し上げた通り、鍼灸の臨床を導くものは、古聖人が残したところの診察と治療の方法以外にないと、こう考えておるんであります。たとえばただいまちょっとお話があったようでありますが、痛いところ、あるいはかゆいところ、いわゆる病的違和感覚のあった場合その場所に鍼をする、あるいは灸をすえる。こういう、やりかたは、考へんでもよく、苦労もいらず、勉強も不必要で一番やりいい、治療方法なのです。痛ければそこへ鍼を刺せばいい。ただしその鍼の刺しようが、どういうふうに刺すかということはこれはもう一つ問題でございますが、鍼を刺せばいいことは一番簡単であるということになる。或いはそこに灸を据えればよいまことに簡単です。こういうやりかたは古人はちゃんとやっています。これはもっとも鍼を臨床に使ったころの初歩的な、あるいは古い時代のやり方なんです。皆さんも御案内の通り鍼灸はその九鍼の形の示すごとく発生起源を異にしているとわたくしは考へます。九鍼も初めから考案されたものではありません。毎度同じことを申上げて申訳ありませんが自然発生的成立過程をとっているとわたくしは考へるのです。どういうことであるかといいますと意識以前の行為が意識の対象になり当時の思想とむすびついて九という数になったものと考へるのです。いわばわれわれ人間の意識以前の行動が源泉なんです。これは脈診とも関係があります。わたくしのいう意識以前という言葉の概念内容をちょっと申し上げて御諒解に資します、意識以前ということはわれわれ生命に直接するところの行動ということです。いわゆる生命は不断の流動をつづけています、心臓の如く瞬時も休みません。このような時、空にまたがる生命的な現れの行動、実践ということです。われわれが頭が痛いというときには頭に手がいきます。お腹が痛いときにはお腹に手がいきます。あるいはころぶとすぐそこをなでます。これは教へられたり、考へたりしてではありません。意識しなくてもやります。目がさめているときばかりでなく、眠っておるときでも同じような行動をします。ねむっているときノミが刺すといたします。あるいはアリが刺すといたしますとそこに手がいきます。眠っている御本人は知りません。これは意識以前と申せましょう。今日の学問ではこれを反射といっております。この意識以前の行動即ち、反射的行動が初めて鍼を考え出し、灸を考え出しその実践を反省して、つまり意識して、知識としました。これは同様に按摩もその時代にできたというふうに私は理解すべきであろうと考えております。われわれが脈診というものに対しての考え方も、同じものと考へております。われわれの生命体が、今申し上げた意識以前的な行動として表象された場合、そういう現象に対してわれわれはいかにこれを読みとるであろうかというものの一つにこの脈診があるというふうに私は考えられるのであります。われわれの生野的状態におけるところの生命体の表象というものは、いわゆる表わす現象というものはさまざまといいますか、一石万波を呼ぶていの現象を示しております。

臨床人は昔から患者の、病人の全部を把握しなければならないということを申しておりました。もしも患者の頭のてっぺんから足の指先の爪に至るまでの現象を読み落とすようなことがあったのでは、これは臨床人の資格はないということさえ申しております。そこでわれわれは患者の、いわゆる病人の表わすところの千差万態な現象を、いかにしてこれを把握するかと、いいますと、東洋のやりかたでは望聞問切の形において把握すべしと教わっております。もう一つ、生命体がその内部機構の状態が表に現われる、だれの目にも現象として現われる前に、つまり、われわれの意識以前に、さまざまな調整機構の働きが行われておる過程があり、それが、生理的現象と異った現象として生体に実践されているということもわれわれは教わっております。今日の学問では、たとえば痙攣、麻痺というものを一緒にするとちょっとわかりにくくなりますから、痙攣を例にとりますが、痙攣という現象に対して、古い鍼灸の教科書では運動神経あるいは筋肉自体の異常興奮によるところの収縮痙攣あるいは強直痙攣、こういうようなものであるというふうに規制されておりました。ことに鍼灸の教科書などには、これは私の書いたものも世間様同様に書いておきましたとうりであります。従ってそういう異常興奮の状態にあるところのものに対しては抑制刺激を与える。いわゆる強刺激を与える。これが一般教科書に書いてあるところの痙攣に対する治療の指示であります。そして今の科学から見た場合には、これは前時代の理論であります。なぜかと申しますと、今の科学では痙攣という現象は筋肉のトーヌスが押さえられていて、押えるところのインパルスがはずされたために起るところの現象であるというふうに考えられてきております。筋肉の収縮を押えておるところの遠心的のインパルスがある。これは錐体外路系のものですが、そのインパルスが減退するために筋肉の収縮は抑へられるものがないために興奮して収縮状態をつよめるということなのです。こうなれば、鍼灸を行う場合に、前者の古い学説でありますならば先ほど申し上げましたように強刺激を与えるなぞということはとんでもないことであって、むしろ弱刺激を与えなければならないという結論になります。私がパリのアンバリードの廃兵病院においての経験談があります、―これはすでに発表しましたのでお聞きになった方もあると思いますが、それは切断されたその脚や足趾、その手や手指が痛むという訴へを病院のドクターにするのです。これはこの間ある雑誌の記者が来たときいいましたら、どうもとっくり納得してくれないのです。というのは切断されて無いものが痛いということはどうも考えられないらしいのです。二、三べん同じことをいってもわからぬ人があるんです。というのは、ない手が、ない指が、ない足が痛むはずがないというのです、これが常識なんですネ。現実には切断されて無いのです。ないところの足の趾先きが、あるいは手が手の指が痛むことを訴える。わかりやすくいいますと、たとえば上膞の中途から切断した。これに義肢をはめる大腿の中央部から切断された。これに義足をつけますネ。早い話がその義足の親指の一番目とか、四番目とかが痛くて夜も寝られぬということを病人は医者に訴えるのです。ちょっと考えられないことでしょう。義足、義肢が痛むなんてばかなことがあるか、考へてもみたまえ、神経も何も通っていないものが痛むなんてことは、ありようないではないか、とまアこれが常識なんですネ。ところが現実にその病人は痛くて眠られない、何んとか治してくれと訴へるのです。そういう病人を実は見させられ治療しろと言われたのであります。そのときによくその切断されたところの腿を、足の切断面を見たんでありますが、見ますとその腿の切断面が、これは人間の方ですよ、義足の方じゃない、義足が痙攣したら大へんなことになる。見せものになる。(笑声)切断されたその切断面がふるえている、患者は非常に足の趾が痛いということを訴えているのです。切断面ばかりではありません、股もごくかすかに痙攣している。いわゆる顫の状態を呈しているのです。うっかりすれば、見落とすほど、ほんのかすかに、うごいている。そうしてその患者の訴へはむろんそこが痛いことはいうまでもないが、痛いところはそればかりじゃない。それから腰部、腹部までも痛いと訴へるのです。『痛い痛い、これを何とかしてくれ、国家の為にこうなったわしを国家の要員である医者たる吾等はどうにも出来ないのか』と、こういうわけなんです。この廃兵さんは相当の位の軍人さんであったと見え、まアいばっているのです、この病廃兵さんの治療を私にしろというのです、そこで、普通ならばふるえている、切った切断面、が痛いといっているんだから、そこへ鍼を刺せばよかりそうなものですネ、または手っとりばやくいえば、腎兪、志室、大腸兪、八髎、膀胱兪、環跳穴、あたりへ鍼を刺せばいいわけですネ、そこへ神経がいっているんだからね、ところがその穴の辺を見ましたがとても痛くて、さわるどころでないほど痛いというのです。皮膚にさわっても痛い震動のほどにうごいている。そこでこれは東洋の正統的なやりかたいわゆる脈を見てですね。証をたてて、順序をふんだ方法で、穴を選んでやらねばならんと考えたのです。くっついておる方の足つまり、健脚ですね。左側の足が切断されて無いのだったら右の方の丘墟、外丘の辺をさわってみました、ところが、ここが大変過敏になっているのです、そこで、ここにごく浅く鍼を刺してとどめておいたのです。大体そこへこう刺しまして、鍼を刺したのは浅いんですよ。二、三ミリくらいのものですかね。そうしてじいっと病人が痛いと訴へるふらふらとふるえるやつを脈をとりながらながめていました。ところがだんだんだんだん見た目にもふるえが少なくなり、とどまってきたように考えられる。脈も調って来たように考へられるのです。

それから先ほど腰部にまでさわると痛いといったところに、おそるおそる手でさわってみるとあまり痛いといわない。そのうちに痙攣がほとんど止み、ふるいが動かなくなるほどになったように感じた。で、痛みが軽減してきたでしょうと問いましたら、『痛みがほとんどやんだ。』というのです。こういうことがあったんであります。これは脈診によるところの繆刺の運用であります。私が考えたんじゃないんで、実は古先人の残してくれた治療の方法であります。このようなことは皆さんが病人を扱う場合にも間間あると思うんです。一本の鍼を刺して、その刺激が現代の生理学の教へるところでは閾上刺激でなければ効果はないことになっている。ところがその刺激がわれわれ生体を作っている、細胞、組織によって、たとえば筋肉組織、臓器、臓器も腸、胃、胆嚢膀胱、子宮、そういう臓器臓器によって闥閾刺激、いわゆる閾上刺激と閾下刺激との差があるということが知られているのです。換言すると被刺戟物の興奮性が違うということです。生理的状態においてもこれが真理であります。病体になった場合にはそれ以上の偏差がある筈です。してみればですネ、われわれが鍼灸による刺激を与えることによって病人にいかなる現象が起こってくるか、これは今日の言葉で申しますと生態反応でしょうネ、いかなる生態反応、患者が意識するとせざるにかかわらず、生体に表れてくるかということを、一つも見逃さないように把握すべきであると思うんであります。皆さんもこういうことはしばしば体験なさっていると思いますが、たとえば慢性胃カタルで胃がしょっちゅうつまったように重い。いわゆる胃部膨満胃部圧重の感がある。肩がこる。そうしてその重いような胃がゲップが出ると気持がよくなる。これは按摩さんにもんでもらう。もんでもらうとゲップが出る。しきりにエエイ、エエイとやる人がある。そうすると胃のところが軽くなる。気持ちがよい、気分がよくなる。肩のこっているのもからだもくつろいでくる。こういう経験は按摩をやる人にもやられる人にもよくあると思うんです。鍼でもそういうことはあるのです。鍼を打つ、ゲップが出る。これはゲップということでわかるからいいんです。ところがわからぬ生体反応もあるのです。そのゲップをするというのはどういうことかというと、胃が運動するということなのです。胃が肩をもむことによって肩に刺激を与えられたことによって、胃の蠕動作用が旺盛になったということなのです。今鍼をすると、その鍼をすることによってゲップがでるということはです、鍼によって胃の蠕動作用が盛んになったということなのです。ところがこれも長いこと按摩をやり、実際の患者に相対している方は御案内と思うのでありますが、人によっては棘上筋をもむことによってゲップが出る人がある。夾板筋[板状筋]をもむことによってゲップが出る人がある。闊背筋[広背筋]をもむことによってゲップが出る人がある。肩甲挙動筋をもむことによってゲップが出る人がある。もう少し違った例を出すと、頭のてっぺんをもむとゲップが出る人がある。足の関節部の外側を揉んでもゲップが出る人がある。胸の外側をもむとゲップが出る人がある。手をもむとゲップが出る人がある。この現象は何を示すか。われわれの対象、いわゆる四肢躯幹の表面にある表在受容器並びに筋肉の中、軟部組織中のいわゆる深部受容器といわれる、受信装置であるところのレセプターが受けたインパルスを、内部機構の調整機構によって取捨され、その結果伝達されて胃に到達せしめる。そうして胃の状況を変化させるというふうに結果的には考えるより考えようがないんであります。しかも頭のてっぺんと胃と、胸と胃というような回路をもっている。皮膚のてっぺん、頭のてっぺんと胃というもの、並びにそこの神経の中枢というものをおいた回路をもっているということになるのです。今日の学問においてはこのことが既に知られているんであります。その内容がどうなっているかは不明といたしましてもそうして人人によって違うということは、実のところわれわれはやってみなければわからない。
例へば天髎に鍼をして胃の蠕動、いわゆるゲップの出る人がある。解谿に鍼をしてゲップが出る人がある。丘墟に鍼をしてゲップが出る人がある。胃兪に鍼をしてゲップが出る人がある。中府に鍼をしてゲップが出る人がある。あるいは肩甲間部に鍼をしてゲップが出る人があるというように、人々によってまちまちであります。私は胆経の丘墟をいじると、ゲップが出る。或る漢方の有名な先生は肺経の中府をいじるとゲップが出る。まだまだ沢山例がありますがね。そういうふうに人々によって違うのです。これはレセプターと中枢と胃との回路が各々あるということです。それで慢性胃カタルにおいて胃が重い。胃カタルというのは蠕動が悪いから消化が悪くなるわけでしょう。それを消化をつければいいわけです。蠕動をつければいい。そうすると鍼をする場合そういう胃に対してどこにやればいいのか、胃の兪だから胃兪にやろうか、胃にあたるから中脘にやろうか、胃と関係のある神経の伝導からいくと脊髄の両側コースをねらえばいいだろうか。ヘッド氏帯の六なり八、九あたりをねらえばいいだろうか。ヘッド氏帯理論からいえば深く刺す必要はないでしょう。深部知覚を利用しようとすれば、大かた小野寺氏臀点あたりを使えばいいでしょう。それでいかないことがある。うまくゲップが出てこない人がある。それなのにとんでもなく離れている丘墟で出る、丘墟で出るからいつも丘墟でゲップが出るかというとどっこいそうはいかぬ場合がある。いかないのが当り前なんですとわたくしは考へています、西洋の医学即ち、医科学は一般性をとります、一般性つまり普遍妥当性を求める訳けです。普遍妥当性のないことは科学でないといえます。それに比すれば東洋の学問の基礎は伸縮する原理にあるようです。伸縮する原理というと変な言ひ方ですが、個々に最適ということであります。
甲は甲、乙は乙、丙は丙として全体的に把握し、全体に扱うということであります。甲と丙との共通点を目標としてわれわれが手当をしようというのではないのであります。これが真の医学であり、証の医学であり、いわゆる隋証療法指示の医学サイエンス・オブ・インデケイションの医学であります。
こういうような点からいきまして脈診というものをかえりみますると、以上申し上げたことからもこういう結論がいえると思います。即ち脈とは生態反応の一部分である。又は病態生理学的一反応であるといいきれるでせう。病気になりますと、病気であるというしるしである症候が出てきます、そのしるしの一つが脈証です。病名を問はず、同じ脈証を示すということは、その脈を示す内部機構になっているのだと見做されるからであります。けれども、それは健康体は比較できるはずです、だから健康な脈を会得しておく必要があります。従って原南陽先生[江戸時代中期-後期の医師。京都にでて山脇東門,賀川玄迪にまなぶ。のち常陸水戸藩医。わが国最初の軍陣医学書「砦艸」をあらわした]が彼の著書に書いてありますように、まず自分の脈をとって三年、それからあとでなければ人の脈をとるべきでないと書いてあります。もう一つ、これは名前は忘れましたが、脈は手にふれたそのとき、思慮を用いる前に触知したことで決定する。あれこれと思いまどうならばそれはそういう脈になっちゃうというております、このことはいま申しましたわれわれの判断以前、意識以前の行動ですね。生物の実践や行動は直観といわれるようにきわめて直観的に、客観的なものをつかむということなんです。主観が正しい客観を把握するということは、主観と客観が合一になって可能なのです。このことは皮膚の内で行はれているわれわれ生物の調整機転ホメオステシス Homeostasis に見ます、本能といわれるものが現代医学では「連鎖反射」とも見られるとの説がありますが、これは意識以前のはたらきです、本能的な客観の把握は練熟した反射作用です。東洋ではこれを「直観」というのです。東洋の学問はこのような基礎のうえに立っております。
脈診という行為は、このような立場から要請されています、中茎陽谷が「切脈一葦」に「専ら心を指下に留め、言うこと勿れ、観ること勿れ、聴くこと勿れ、嗅ぐこと勿れ、思うこと勿れ、是れ脈をするの要訣なり」というています、これは意識以前の体験をまず確かなものとしろということなんです。百錬自得ですネ、そこで脈のとり方は、直観的に行うことが東洋的になるんです、初めは感得したものを第一にしろ。それをもってきめる。あとは実習か実験があるそうですが、それはこうやっているとわからなくなってしまう。これは浮か沈かわかるだろうといっても、やっているうちにどれが浮だか、どれが沈だかごちゃごちゃになっちゃう。そのうちに二十四脈も区別があるでしょう。これがごちゃごちゃになってしまう。まずそっとこう見て、そうしてそのときに了徳した脈をもって虚実を決める。これは見方ですね。そこでわれわれが臨床上において今申した通り―さっき誰か御質問があったようですが、標示法でやるか本治法でやるか、どっちをとるべきかといいますと、これは内経をごらんになれば分かるとうり標示法を先にする場合、本治法を先にする場合があります。が病気、病巣、症状の部に近きところからやるか、病状の部より離れたところからやるかということを私は学生などには病巣の部より離れたところからやる。それから病巣あるいは病気と感ぜられておるところへやれと、こうまあ教えております。そしてこのような遠達刺戟を経絡に基づいてやるのでいわゆる経絡治療といわれておるところの療法をとっておるというわけです。
そして、臨床上我々は日常経験する対象は病態の状態にある病人であるということです。健康人には有るべきものが、無くなったり、無い筈のものが、有るようになるということです。こういうことは結果論的ではありますが、現象的にはこういえるのであります。脈もこのようなものであります。これを前提として考へてゆきたいと存じます。
脈は、生体反応の現われであり、しかもこれが意識前の生命以診体の表現であるというふうなことが一応納得がいただけるならば、その脈を見て―まあ一応脈を見ると何かを諒得します、その脈を知っておって今度は鍼を刺してみる、ここで、刺鍼の前後にどういう相違があるかということをわれわれは克明に検査しながら行う必要があると思うんであります。そうでないと鍼のおもしろみというものもわからぬし、それから病気、病態がどういうふうに進行していくかということもわからない。今私が扱っている患者で、医者の診断では心臓といわれ、症候は背がむくむ、足がむくむ、そして脈を見ますと不整脈です。数が多い、欠滞のような脈を示すこともあります。非常にとりにくい脈証でございましたが、脈証によって水虚証と診見まして、まあこれは水の陰虚証ですから腎の虚証ということになります、こうなれば、もうこのツボは要穴の模式できまってくるんでありますから、あとは鍼を刺してその脈状に変化が出るか出ないかを見るだけのことなんで、鍼をどこえ刺すかということは、もう皆さん御案内の通り陰谷、復溜、陰谷は膝です。復溜も足ですが、そこへ鍼を刺してとどめておく、つまり補するという意味から、そして又、脈を見る。その脈が数の上から百グライあったのが九十になれば、これは病的脈状から健康的脈状の方向に向かって回復しつつあるということがいえる。

もう一つは脈のリズムの問題、調律の問題、これがどうなってくるかこないか、乱調子であればこれはいけないわけです。からだがいけないから乱調子の脈が出てきた。それをからだの状態をよくするような意図のもとに鍼を刺したところが、脈そのものの乱調子が漸次正しい律動をおびてきた。調健が回復してきたということは、からだそのものの機構が、内部機構がよくなってきたということでしょう。このようにして鍼を刺してみては脈を診、鍼を刺しては脈を診るというふうに何べんもやっていくうちにだんだんとなるほどこれはおもしろいなということがわかってくるんであります。鍼を刺すことによって脈に変化がくるということは、結局鍼がごく僅かな刺激とわれわれが考えているにもかかわらず鍼の刺激に対して生体として反応を及ぼしておるということでしょうね。そればかりじゃないんです。われわれ臨床上において患者に鍼をする。そうすると、先生、ちょっと小便にいっています。御不浄を借ります。そういう患者がある。小便にいくということはこれはいいことなんです。小便というものはためておくべきものじゃないんです。あれは出た方がいいんです。小便が出たくなった、といえば、いっていらっしゃい。これもいいことなんです。鍼を刺すとゲップが出る人がいたと同じように膀胱が運動しているわけなんです。直腸が運動をするわけなんです。そのように他の臓器が運動をしているはずなんであります。これも見た方もあると思いますが、フランスのニボイ博士の Essai sur L’ Acupuncture Chinoise Pratique 『支那の鍼の方法』という書物に三部九候の脈を区別し、あるツボに三部九候の脈図をとり、さらにそれに鍼をしてその脈の動揺、いわゆる脉搏の曲線図の変化の研究を報告しています。これはフランスではぼつぼつやっております。そういった刺鍼と穴と脈の関係が書物に出ているのであります。このような研究の方法による鍼の研究はフランスばかりでなく、ドイツでもやっています、今にすばらしい研究が出るでせう、それから三部九候の六部定位の脈の配当ですが、これも我々が日常取っているのと同じように使っています。こっちが左です。これが右の寸間尺で、これが陽でこれが陰です。これはここの脈でありますが、こういうふうに分けて、一部の陽、一部の陰ということを分けて、そうして研究しております。それからもう一つ、脈のとり方もやはり三本指をおいてとっております。フランスのドイツも脈のとり方は全く東洋と同じ。同じはずなんです。同じことをやっているんだからね。同じことをやっていますから寸間尺を定めてとっておるというわけですで、このことは世界に散在する鍼に関心をもっている世界中のドクターは、大部分はことにオーソドックス的に即ち正統的にやっておる、鍼灸というものは全部東洋医学的にやっておるということはいえる。それでないものは異端者であるということになる。

クラクシーにやるのが、正しい鍼灸のいき方である。鍼灸は東洋からでたんですから東洋風にやるのが正しい。従って鍼医は全部東洋風にやるべきなんだという、それはまことに当り前の話なんです。だからわれわれの方が今の西洋の鍼灸の先生方よりは、歴史もあり、研究も多いし、洗練されているので、ちょっと知識も技術も広いわけだと考えていいと思うのです。
そこで最後に申し上げたいことは、今申したように私の脈診というものは、当初に申し上げましたように臨床のための脈診である。換言すると鍼灸の臨床は脈診にパイロットにて、導かれて行き治療の順序をたててゆくべきである。その脈の取りようはさっき岡部君から午前中にお話があったろうと思うが、第一に祖脈を手にすることであります。これはだれでもわかります。遅数の脈ですが、これは数が多いか少ないか、時計を見て一分間かんじょうすれば誰にでもわかる。浮沈の脈ですが、これは浮いているか、つまり、表面にあるか、沈んでいるか、つまり、皮膚から深い部分で触れるかでわかる。脈を軽くさわったとき、重くさわったときによって浮沈はわかるはずだ。これが祖脈ですが、これに虚実の脈の診方、つまり脈搏が力強く感じるか、弱く感ずるかで、虚とか実とかというのです。これは触るか、数えるか、比較すればいいいのでその気になって、脈を診ればだれにでもわかるはずなんです。これから先がめんどうなんです、というのは、古来の脈に関する古典にはさまざまなことが書いてありますからね、昔の本には、まあ異説も出ておりますから、ここまでの脈の診方は現代医学と実は全く同じなのです、これに意味つけすることが、異なっている、がすべてこれらは経験の所産です、そこでわれわれが基いておるところの脈診の方法というものについて、御諒解を得ておきますが、診脉の方法については、明治以降大正、昭和まで生きぬいた実地臨床家の脉の診り方、その経験を基礎としてきたということです、この間、少くとも三十年、五十年とこの脉のことで心をくだき、みずから体験してきた人たちの方法に基いているということなんです、それらをモデルとしてその説をとっているんであります。最近さまざまな脉のとり方を主張する説もあります。ありますがわれわれのとっておるところの立場というものは、こういう体験に基いたいにしえの脉の教えであるということを、この際、この機会に申し上げておきます。鍼灸界の一部分の方々は、このような脉の診り方は独断である。三部九候[三部とは人体の上(顔面)・中(手)・下(足)のことで、それぞれに天・地・人の三部位があり、合計九部位の脈動をしらべることによって病気の所在と状態を知ろうというもの]そのものを分けるなぞは迷信だ。それは非科学的だという人のあることも承知しております。これは、経験医学であるたてまい上あたりまえなことでありまして、科学的解説が出来ないというまでなんだと考へますが私は非科学だとはいいたくないのであります。前科学であるといいたいのであります。評者は更にこういいます。五臓六腑を橈骨動脉部の一部分に配当するなどということはとんでもない非科学だ、迷信だこういわれますが、これも私はちょっと待て、これは前科学にしておいてもらいたい。科学がどういうふうになってゆくかまだわからないんですから、これから先があるんです。先がといったところが何年先になったらわかるか、それは分かりません、そう云う人間がいつ死ぬかもわからないのですから、何年先になるといったって、わかるまで、わからないと云うより仕方がありません、わかるように努力を積まねばならぬのです、これが科学的態度であり、科学を向上させる態度だと考へます。私は以上のように考えているのであります。前科学的であるが故に、やがて解明され得るだろうと、こういうふうに思っております。

でありますから昔の書物、古典又はわれわれの書いた、脉診書を読んでもらいたいというと戸部君が喜ぶでしょう、本が売れますからネ。(笑声)竹山君が東邦医学をやってから二十五年、三十年近くになるでしょうが、それに多くの人々が書いています、それをどうかまず病人の上で、患者の上で読んでもらいたい。あれを読んだだけじゃだめなんです。三部九候と聞いただけでも非科学なんだ。原理を現象におきかえてそのものを読んでもらいたい。現象として、書物を読んでもらいたい。これは故沢田健先生も常日頃、お弟子たちにいった言葉であると聞いております。病人にあらわるる現象を読んでもらいたい。現象の類別がいわゆる五行の横の系別化、あるいはそのプロセスと私は考へている、縦の系別、あの陰陽五行のいわゆる五行の色体表なぞというものも、いいかげんなものだといえばそれまでなんです。が、実はそうではない。生きた人間、生きた生物の現象においてわれわれが見た場合には、個々の類型を見ることができるし、個々にその臓器と臓器との相互関係に前後関係がある。プロセスがある。段階があるということをわれわれは見ることができるんであります。だから望聞問切というものは便宜上四つに分けてありますが、これは実は一つのものなんです。脉診においてさまざまな脉を区別するが、これは煎じつめれば祖脉に帰るでしょう。祖脉、虚実の脉に帰るでしょう。その個別がいわゆる二十四脉あるいは二十六脉、三十八脉というふうに古書に書いてあるさまざまな脉が出ているわけなんであります。これは著者経験の所産なんです。何にしてもわれわれが実際の病人を見る場合には、その病人が示すところの生態反応がいかなるものであるかをすみずみまでとらえるということの努力を忘れてはならないと思います。もし、その努力を欠いて患者に対する鍼医があったとするならば、これは鍼立てであって私はほんとうの意味の鍼医ではないと思うんです。われわれの病人を見る態度というものは、そのような態度でなければならないと思うんであります。そのような態度で脉を見る。また、鍼を刺すことによって次に起るところの病人にあらわるる現象をつかんでみようと努力するとき、その病人が、新しい知識と新しい体験をわれわれに教えてくれるものと私は考えて、日日の臨床に携っておるようなわけであります。
話が非常に抽象的というか、漠然としてとらえどころがないと思いますが、後ほどまた何か質問のときに補足させて頂きたいと思いますので、一応ここで脉診と臨床ということについての私の話を終わりにしたいと思います。御清聴感謝いたします。(拍手)

付記

東洋医学概論の教科書では、祖脈に関して次のような説明がされています。

『最も基本的な脈状であり、その定義も極めて単純である。臨床でも最低限区別できなくてはいけない脈状であり、特に六祖脈( 浮・沈・遅・数・虚・実脈 )は八綱弁証の六綱(表・裏・寒・熱・虚・実)と対応しており臨床意義は非常に大きい。脈象は病の本質を示していることが多く、祖脈の習得は病態の把握や誤診・誤治の予防に意義深い。』

スティーブ・ジョブズⅠ・Ⅱ

凄いカリスマなんだろうと思っていました。そして、凄いカリスマとはどういう事なんだろう、どういう人なんだろうと気になっていました。」
スティーブ・ジョブズが他界した2011年は日本では東日本大震災があった年です。おそれながら、私は退職後、国家試験に向けてスタートした年でした。スティーブ・ジョブズの伝記が出版されたのは知っており、是非とも読みたいと思っていましたが、その余裕はなく、今回やっとその機会を作ったというわけです。
Ⅰが445ページ、Ⅱが430ページ、全41章の力作で、内容は想像を超えていました。今後50年間、ビジネス界においてスティーブ・ジョブズを超えるカリスマ、変革者は現われないだろうと感じました。そして、自分のブログにスティーブ・ジョブズを記録しておきたいと思いました。
ジョブズ曰く「洗練を突きつめると簡潔になる」ということなのですが、ずいぶんと長い長いブログになってしまいました。そのため、目次を付けさせて頂くことにしました。ネットで調べた事などがわずかに含まれていますが、すべて「スティーブ・ジョブズⅠⅡ」(講談社)の本の内容に基づいています。特に『』内の文章は、完全な引用です。



目次

1.ジョブズの功績
2.「最後にもうひとつ……」
3.スティーブン・ポール・ジョブズ
4.アップルコンピュータ
5.新ロゴ
6.現実歪曲フィールド (Reality distortion field / RDF)
7.“1984年”マッキントッシュ
8.1985年9月17日 会長職辞任のレター
9.アートとテクノロジーの交差点 
10.アップルの苦闘とジョブズ復活
11.社内改革
12.ジョブズの集中原理
13.シンク・ディファレント
14.iCEO
15.iCEOからCEO
16.iPhone開発の舞台裏
17.2011年8月24日の取締役会
付記1.「時代は変わる(THE TIMES THEY ARE A-CHANGIN)」ボブ・ディラン 1963年
付記2.著者略歴:ウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)

1.ジョブズの功績
これは最終章である第41章「受け継がれてゆくもの 輝く創造の天空」のはじめに出てきます。ジョブズの功績をその強烈な性格に重ねて解説がされています。
集中力もシンプルさに対する愛も、「禅によるものだ」とジョブズは言っています。そして、それに対して著者は次のようなことを続けていますが、私はジョブズの真骨頂とは、これではないかと思います。


『残念ながら、禅の修行によっても、禅的な穏やかさは心の平穏をジョブズは得られなかったが、これもまた、ジョブズらしさの一面と言える。ジョブズはせっかちでいらついていることが多く、それを隠そうともしない。ふつうの人間は心と口のあいだに調整器があり、凶暴な感情やとげとげしい衝動を適度に和らげて外に出す。ジョブズは違う。いつも、残酷なほど正直なのだ。「オブラートにくるんだりせず、ガラクタはガラクタというのが僕の仕事だ」』


この章で紹介されている業績は以下の11になります。原文のままです。
●アップルⅡ―ウォズニアックの回路基板をベースに、マニア以外にも買えるはじめてのパーソナルコンピュータとした。
●マッキントッシュ―ホームコンピュータ革命を生み出し、グラフィカルユーザインターフェースを普及させた。
●「トイ・ストーリー」をはじめとするピクサーの人気映画―デジタル創作物という魔法を世界に広めた。
●アップルストア―ブランディングにおける店舗の役割を一新した。
●iPod―音楽の消費方法を変えた。
●iTunesストア―音楽業界を生まれ変わらせた。
●iPhone―携帯電話を音楽や写真、動画、電子メール、ウェブが楽しめる機器に変えた。
●アップストア―新しいコンテンツ製作産業を生み出した。
●iPad―タブレットコンピューティングを普及させ、デジタル版の新聞、雑誌、書籍、ビデオのプラットフォームを提供した。
●iCloud―コンピュータをコンテンツ管理の中心的存在から外し、あらゆる機器をシームレスに同期可能とした。
●アップル―クリエイティブな形で想像力がはぐくまれ、応用され、実現される場所であり、世界一の価値を持つ会社となった。ジョブズ自身も最高・最大の作品と考えている。

2.「最後にもうひとつ……」
これは、同じく最終章にあり、伝記の最後を飾っています。この中から特に印象に残ったものをご紹介します。

 

 

『いろいろな話をするなかで、自分はなにをしてきたのか、自分はなにを後世に残すのかについても、ジョブズは繰り返し語ってくれた。それを彼自身の言葉で紹介しよう。』


Ⅱ-p424:『僕は、いつまでも続く会社を作ることに情熱を燃やしてきた。すごい製品を作りたいと社員が猛烈にがんばる会社を。それ以外はすべて副次的だ。もちろん、利益を上げるのもすごいことだよ?利益があればこそ、すごい製品は作っていられるのだから。でも、原動力は製品であって利益じゃない。スカリーはこれをひっくり返して、金儲けを目的にしてしまった。ほとんど違わないというくらいの小さな違いだけど、これがすべてを変えてしまうんだ―誰を雇うのか、誰を昇進させるのか、会議でなにを話し合うのか、などをね。
「顧客が望むモノを提供しろ」という人もいる。僕の考え方は違う。顧客が今後、なにを望むようになるのか、それを顧客本人よりも早くつかむのが僕らの仕事なんだ。ヘンリー・フォードも似たようなことを言ったらしい。「なにが欲しいかと顧客にたずねていたら、“足が速い馬”と言われたはずだ」って。欲しいモノを見せてあげなければ、みんな、それが欲しいなんてわからないんだ。だから僕は市場調査に頼らない。歴史のページにまだ書かれていないことを読み取るのが僕らの仕事なんだ。』

 

Ⅱ-p425:『文系と理系の交差点、人文科学と自然科学の交差点という話をポラロイド社のエドウィン・ランドがしているんだけど、この「交差点」が僕は好きだ。魔法のようなところがあるんだよね。イノーベーションを生み出す人ならたくさんいるし、それが僕の仕事人生を象徴するものでもない。アップルが世間の人たちと心を通わせられるのは、僕らのイノベーションはその底に人文科学が脈打っているからだ。すごいアーティストとすごいエンジニアはよく似ていると僕は思う。どちらも自分を表現したいという強い想いがある。たとえば初代マックを作った連中にも、詩人やミュージシャンとしても活動している人がいた。1970年代、そんな彼らが自分たちの創造性を表現する手段として選んだのが、コンピュータだったんだ。レオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロなどはすごいアーティストであると同時に科学にも優れていた。ミケランジェロは彫刻のやり方だけでなく、石を切り出す方法にもとても詳しかったからね。』

 

Ⅱ-p427:『スタートアップを興してどこに売るか株式を公開し、お金を儲けて次に行く―そんなことをしたいと考えている連中が自らを「アントレプレナー」と呼んでるのは、聞くだけで吐き気がする。連中は、本物の会社を作るために必要なことをしようとしないんだ。それがビジネスの世界で一番大変な仕事なのに。先人が遺してくれたものに本物をなにか追加するにはそうするしか方法はないんだ。1世代あるいは2世代あとであっても、意義のある会社を作るんだ。それこそウォルト・ディズニーがしたことだし、ヒューレットとパッカードがしたこと、インテルの人々がしたことだ。彼らは後世まで続く会社を作った。お金儲けじゃなくてね。
アップルもそうなってほしいと僕は思っている。』

 

Ⅱ-p428:『僕は自分を暴虐だとは思わない。お粗末なものはお粗末だと面と向かって言うだけだ。本当のことを包みかくさないのが僕の仕事だからね。自分でなにを言っているのかいつもわかっているし、結局、僕の言い分が正しかったってなることが多い。そういう文化を創りたいと思ったんだ。
僕らはお互い、残酷なほど正直で、お前は頭のてっぺんから足のつま先までくそったれだと誰でも僕に言えるし、僕も同じことを相手に言える。ギンギンの議論をしたよ。怒鳴り合ってね。あんないい瞬間は僕の人生にもそうそうないほどだ。僕は、「ロン、この店はまるでクソだね」ってみんなの前で言える。全然平気なんだ。「こいつのエンジニアリングは大失敗だったな」って、責任者を前にしても言うこともできる。超正直になれる―これが僕らの部屋に入る入場料なのさ。
もっといいやり方があるかもしれない―みんなネクタイをして上流階級の言葉を使い、遠回しに非難するような感じで話し合う紳士のクラブ、みたいにね。でもそんなやり方、僕の知っているなかにはない。カリファルニア中産階級の出だからね。』

 

Ⅱ-p428:『前に進もうとし続けなければイノベーションは生まれない。ディランはプロステストソングを歌い続けてもよかったし、おそらくはそれで十分に儲かったはずだ。でも、彼はそうしなかった。前に進むしかなくて、1965年にエレキを採用したんだけど、それで多くのファンが離れていった。
1966年のヨーロッパツアーが最高だ。アコースティックギターで何曲か演ってすごい拍手を受けるんだ。で、のちにザ・バンドとなる連中をステージに上げるとエレキで演奏をはじめて、会場からブーイングが出たりする。「ライク・ア・ローリング・ストーン」を歌おうとした瞬間には、会場から「裏切り者!」って声が上がってね。それにディランは「めいっぱいでかい音で演るぞ!」ってがんがんにいくんだ。ビートルズも同じだった。進化し、前に進み続けるんだ。そうでなければ、ディランが言うように、「生きるのに忙しくなければ死ぬのに忙しくなってしまう」からね。』

 

Ⅱ-p429:『なにが僕を駆り立てたのか。クリエイティブな人というのは、先人が遺してくれたものが使えることに感謝を表したいと思っているはずだ。僕が使っている言葉も数学も、僕は発明していない。自分の食べ物はごくわずかしか作っていないし、自分の服なんて作ったことさえない。
僕がいろいろできるのは、同じ人類のメンバーがいろいろしてくれているからであり、すべて、先人の肩に乗せてもらっているからなんだ。そして、僕らの大半は、人類全体になにかをお返ししたい、人類全体の流れになにかを加えたいと思っているんだ。それは、つまり、自分にやれる方法でなにかを表現するってことなんだ―だって、ボブ・ディランの歌やトム・ストッパードの戯曲なんて僕らには書けないからね。僕らは自分が持つ才能を使って心の奥底にある感情を表現しようとするんだ。僕らの先人が遺してくれたあらゆる成果に対する感謝を表現しようとするんだ。そして、その流れになにかを追加しようとするんだ。
そう思って、僕は歩いてきた。』

3.スティーブン・ポール・ジョブズ
スティーブ・ジョブスは養子として大切に育てられました。以下はそれに関するものです。
●実母ジョアンは親切な医師を頼ってサンフランシスコに行き、その医師により出産後の養子縁組をアレンジしてもらった。ジョブスは当初は弁護士の一家に引き取られることになっていたが、先方が女の子を希望していたため成立せず、代わりに、機械に情熱を傾ける高校中退の父・ポールと会計事務の仕事に就くまじめな母・クララの息子、スティーブン・ポール・ジョブズとなることになった。
●ジョブズは養子だった当時について次のように語っています。『養子だと知っていたから独立心が強くなったという面はあるかもしれない。でも、捨てられたと思ったことはないんだ。いつも、自分は特別な存在だと感じていた。両親が大事にしてくれたからだ』
●マウンテンビューの自宅で、父親から機械や車について手ほどきを受ける。「スティーブ、ここがおまえの作業台だよ」と言いながら、父親は、ガレージにあったテーブルの一部に印をつけてくれた。
50年後のいまも、マウンテンビューの実家には父親が作った柵が家を取り囲んでいる。ジョブスは、その柵を著者(ウォルター・アイザックソン)に見せながら、「戸棚や柵を作るときは、見えない裏側までしっかり作らなければならないと教えられた。きちんとする人が大好きな人だった。見えない部品にさえ、ちゃんと気を配っていたんだ」と話しています。

 

マウンテンビューです。

画像出展:「Aerialarchives.com

4.アップルコンピュータ
『ジョブスをウォズニアック(スティーブ・ウォズニアック:もう一人の創業者、ジョブズより5歳年上、彼の弟がジョブスと同じ水泳チームにいた。そして、エレクトロニクスについてはジョブズなど足元にもおよばないほど詳しかった。当時、HP社のエンジニアでもあった)が空港で出迎え、ロスアルトスまでの車中でいろいろな名前を検討したマトリクスなど、技術系らしい名前も検討した。エグゼクテックなどの造語も飛び出した。パーソナルコンピュータズなど、わかりやすいがつまらない名前も検討した。翌日には書類を用意したいとジョブスが考えていたため、時間はあまりなかった。そして、ジョブスが「アップルコンピュータ」を提案する。「僕は果食主義を実践していたし、リンゴ農園から帰ってきたところだったし。元気がよくて楽しそうな名前だし、怖い感じがしないのもよかった。アップルなら、コンピュータの語感が少し柔らかくなる。電話帳でアタリより前にくるのもよかった」翌日の昼までにもっといい名前を思いつかなければアップルにしようとジョブズが宣言し、結局アップルに落ちつく。』


そして、「素晴らしいデザインとシンプルな機能を高価ではない製品で実現する」これが、アップルがスタートした時のビジョンであり、目標は競争に打ち勝つことでもなければお金を儲けることでもない、可能な限りすごい製品を作ること、限界を超えてすごい製品を作ることでした。

5.新ロゴ
『新しいロゴの制作を任せられたのは、アートディレクターのロブ・ヤノフだ。「かわいいのはやめてくれよ」とジョブズに指示されたヤノフは、リンゴをモチーフとしたロゴ、2種類を提出。ひとつは完全なリンゴ、もうひとつは一口かじった形だった。かじられていないほうはサクランボに見えたりするからと、ジョブズはかじられたほうのリンゴを選んだ。色はアースカラーのグリーンと空のブルーをベースにサイケデリックな色を挟み、ストライプ状にした6色カラーだ(印刷コストがすごくかさむロゴである)。パンフレットの表紙上部に、レオナルド・ダ・ビンチのものとされる格言を置いた。その後、ジョブズのデザイン哲学を支えることなる一文だ-「洗練を突き詰めると簡潔になる」。』

6.現実歪曲フィールド (Reality distortion field / RDF)
第11章は、この「現実歪曲フィールド」が取り上げられています。その書き出しは次のようなものです。


『アンディ・ハーツフェルドはマックチームに参加したとき、「やらなければならない仕事が大量にある」と、もうひとりのソフトウェアデザイナー、バド・トリブルから教えられた。
ジョブズが設定した期限は1982年1月。1年もなかった。「それは無理だ。不可能だ」とハーツフェルドは抗議したが、ジョブズは反対意見に耳を貸さないのだとトリブルは言う。「この状況は“スタート・レック”の言葉が一番よく表現できると思う。スティーブには、現実歪曲フィールド(Reality distortion field / RDF)があるんだ」 「は?」「彼の周囲では現実が柔軟性を持つんだ。誰が相手でも、どんなことでも、彼は納得させてしまう。本人がいなくなるとその効果も消えるけど、でも、そんなわけで現実的なスケジュールなんて夢なのさ」
名付け親のトリブルによると、この言葉は、“スター・トレック”の「タロス星の幻怪人」という回から思いついたという。宇宙人が精神力だけで新しい世界を生み出すお話だ。』


この、「現実歪曲フィールド」はこの本の中で度々出てきます。スティーブ・ジョブズの「特別なもの」をうまく表現できるのだと思います。以下、「現実歪曲フィールド」を列挙します。
●「現実歪曲フィールド」は警告でもあり賛辞でもある。
●「現実歪曲フィールド」は、カリスマ的な物言い、不屈の意志、目的のためならどのような事実でもねじ曲げる熱意が複雑に絡みあったものである。
●「現実歪曲フィールド」から逃れる術はない。自然界にはそういう力も存在するのだと受け入れてしまう。ジョブスは自分自身さえだましてしまうようにみえる。そうして自ら信じ、血肉としているからこそ、他の人たちを自分のビジョンに引きずりこめる。
●「現実歪曲フィールド」の根底にあったのは、世間的なルールに自分は従う必要がないという確固たる信念。そして源は頑固で反抗的な彼の個性だろう。

7.“1984年”マッキントッシュ   
1983年春、ジョブズは製品と同じくらい革命的で驚くようなコマーシャル(CM)を欲しいと考えていました。“1984年”は小説家、ジョージ・ウォーエルの作品であり、パーソナルコンピュータは個人に力を与えるツールではないという見方にをつながるものでした。そして、提案されたCMは、その“1984年”を否定し、体制に立ち向かう戦士のようにマッキントッシュを位置づけました。 
このCMを担当したのはシャイアット・デイ社、アップル担当はその後30年にわたってジョブズと付き合うことになった、リー・クロウ。強行に主張するジョブズは撮影だけで75万ドルという前代未聞の予算を用意しました。しかしながら、完成したCMを見た取締役会はその破壊的インパクトを恐れ、承認せずCEOのジョン・スカリーは広告代理店のシャイアット・デイ社に30秒と60秒のCM枠の売却を指示しました。これにより1本、30秒枠は売却されましたが、60秒枠はシャイアット・デイ社の消極的反抗により残されており、そして、そのCMはついに放送されました。


『第18回スーパーボールはロサンゼルス・レイダースがワシントン・レッドスキンズを圧倒し、第3クウォータの前半にもタッチダウンを奪う。その直後、リプレイ映像が流れるはずの場面で米国中のテレビがブラックアウト。2秒後、おどろおどろしい音楽が流れ、行進する男たちのモノクロ映像が不気味にスクリーンを満たす。全米で9600万人以上が、それまで見たこともないタイプのCMに見入った。その最後は、蒸発するように消えていくビッグ・ブラザーを信じられないという顔で見ている男たちの映像に、静かなアナウンスが重なる-「1月24日、アップルコンピュータがマッキントッシュを発売します。今年、1984年が“1984年”のようにならない理由がおわかりでしょう」。
これはもう事件だった。その晩、全国ネットの3大テレビ局すべてと50の地方局がこの広告をニュースで取り上げた。ユーチューブ登場前の時代、これほどの拡散は信じられないレベルだった。評価も高く、TVガイド誌もアドバタイジングエイジ誌も、過去最高のCMだと絶賛したほどだ。』

海軍に入るより、海賊であれ(Why join the navy if you can be a pirate?)
1981年にMAC開発チームのスローガンになっていた言葉です。当時はテキサコ・タワーの屋上に掲げられてたそうです。

画像出展:「Blog!NOBON+

8.1985年9月17日 会長職辞任のレター
マッキントッシュ発売から2年目を迎える前に、ジョブズはアップル社から拒否されます。そして、会長職辞任のレターはアップル社が上場したときのCEOだったマイク・マークラ宛てに送られます。


『1985年9月17日 親愛なるマイク 朝刊に、会長の僕の罷免をアップルが検討しているという記事がありました。どこから出た記事なのかわかりませんが、いずれにせよ、これは誤解を招くとともに僕に対して不公平な記事です。
あなたも覚えているはずですが、木曜日の取締役会で、僕は新会社を作ろうとしていることを話し、会長を辞任したいと申し出ました。
あのとき、取締役会は僕の辞任を受け入れず、1週間待ってくれと言ったはずです。その提案に僕が同意したのは、新会社に取締役が好意的だったから、また、アップルが投資することもあるという話だったからです。金曜日、新会社に参加するメンバーをジョン・スカリーに伝えたときも、アップルと新会社が協力できる分野を検討する意思があると言ってくれました。
ところがその後、会社は態度を硬化させ、僕と新会社に敵対するようになりました。ことここにいたれば、僕としても、辞職願を速やかに受理するよう、アップルに要求せざるを得ません。
ご承知のように、先日行われた組織再編の結果、僕は仕事もなく、定例の経営報告さえも読めなくなりました。僕はまだ30歳。まだまだ、なし遂げたいことがあるのです。
ここまでいっしょにやってきたのですから、別れも友好と威厳に満ちたものにしようではありませんか。 敬具 スティーブン・P・ジョブス』

”新会社”のNeXTコンピュータ

画像出展:「TechCrunch

9.アートとテクノロジーの交差点 
1985年の夏、ジョブズがアップルで地歩を失いつつあった時期のことです。「スター・ウォーズ」の前半三部作を完成させたところだったジョージ・ルーカスは離婚問題から、自身が持つ映画スタジオのコンピュータ部門の売却を模索しており、コンピュータ部門を束ねていたエド・キャットムルに買い手を早く見つけるように指示をしていました。それがジョブズに伝わったのは、ゼロックスPARCから移籍してアップルフェローとなったアラン・ケイのはたらきかけによります。これは、ジョブズが創造性と技術が交わるところに興味を持っていたのを知っていたためです。ジョブズはルーカスのスカイウォーカー・ランチのはずれにある、キャットムルのコンピュータ部門を訪れ、次のようなことを語っています。


『圧倒されたよ。戻ったあと、買おうとスカリーを説得した。でも、アップルの経営陣は興味を示さなくて。僕をたたき出すのに忙しかったしね』


そして、この買収の意義についても語っています。


『「コンピュータグラフィックスに惚れ込んでいたので、どうしても自分で買いたかった。ルーカスフィルムコンピュータ部門の人々と会ったときわかったんだ。アートとテクノロジーを組み合わせるという面で、彼らはずっと先に行ってるって。僕がずっと興味を持っている領域で、ね」
もう数年したらコンピュータは100倍もパワフルになる、そうなればアニメーションやリアルな3Dグラフィックが大きく進む、ジョブズは考えた。
「ルーカスのところの連中が扱っていたのは、すさまじい処理能力を必要とする課題だった。だから、歴史が彼らに味方すると思った。ああいうベクトルは僕の好みだ」
ジョブズが提示した条件は、買い取り額として500万ドル、それに当該部門を独立の法人とする資金、500万ドルだった。ルーカスにとっては不満な条件だったがタイミングはいい。交渉がはじまった。ジョブズは態度が大きく挑発的だと思ったルーカスフィルムの最高財務責任者(CFO)は、序列をはっきりさせようと一計を案じる。まず、ジョブズを含む関係者を集め、その数分後にCFOが登場して、誰が会議の中心なのか示そうとしたのだ。しかし、うまくゆかなかったとキャットムルは証言する。
「おかしな具合になりまして……CFOなしでスティーブが会議をはじめてしまったんです。CFOが来たときには、もう、スティーブが全体を掌握していました。」』


ピクサーはイメージコンピュータとレンダリング(プログラムにより画像や音声を作る)さらに、アニメーション映画やグラフィックスというクールなコンテンツを組み込んだ、3つの要素をもっており、これらは芸術的創造性と技術系ギーク(geek:オタク)を組み合わせるというジョブズの方針と相性が良かったと考えられています。そして、ジョブズはピクサーを次のように評価していました。


『シリコンバレーの連中はクリエイティブなハリウッドの人間を尊敬しないし、ハリウッドの連中は連中で技術系の人間は雇うもので会う必要もないと考える。ピクサーは、両方の文化が尊重される珍しい場所だった』


ジョブズがピクサーにつぎ込んだ資金は、ネクストが赤字の中、アップルで得たお金の半分以上の5000万ドルに近い額とされています。そして、優れた芸術とデジタル技術を組み合わせれば従来のアニメーション映画を一変させられるという直感は、まさに先見の明と言えるものであり、1937年、ウォルト・ディズニーが「白雪姫」を生み出して以来、最大というほどの変化をアニメーション映画にもたらしました。

10.アップルの苦闘とジョブス復活
アップルは1990年代になり、経営環境は厳しさを増していくことになりました。


『アップルの市場シェアは、1980年代末の16パーセントをピークに下がり続け、1996年には4パーセントとなった。スカリーの後任として1993年にアップルのCEOとなったマイケル・スピンドラーは会社をサン、IBM、ヒューレット・パッカード(HP)などに売ろうとしたがいずれも失敗。1996年2月にはギル・アメリオに交代する。ナショナルセミコンダクター社CEOの経験を持つリサーチエンジニアだ。そのアメリオがCEOとなった1年目、アップルは10億ドルの赤字に転落し、1991年に70ドルだった株価は14ドルと低迷した。このころはテクノロジーバブルで、ほかの会社の株価はどんどん上がっていたというのに、だ。』


このように、極めて苦しい状況が続く中、1994年、ついにジョブズが動くことになります。それは、アメリオがアップルの取締役に就任した直後にジョブズがアメリオにかけた1本の電話です。そして、二人はナショナルセミコンダクター社のオフィスで会うことになりました。


『にこやかなあいさつが2~3分もあったあと(ジョブズにしては異常に長い)、ジョブズが本題を切り出した。CEOに返り咲く手助けをしてほしいというのだ。
「アップルの連中をやる気にさせられる人間はひとりしかいない。あの会社を正せるのはひとりしかいないんだ」
マッキントッシュの時代は終わった、だから、同じくらい革新的ななにかを生み出さなければならない-そう、ジョブズは主張した。
「マックがダメなら、何が代わりになるんですか?」アメリオはそうたずねてみたが、かんばしい答えは返ってこなかったという。「あのとき、スティーブは明確なイメージは持っていなかったようです。ただ、パンチを効かせた売り文句がいろいろとあるだけで」
これがジョブズの現実歪曲フィールドなのかと思い、アメリオはその影響を受けない自分が誇らしかった。そして、ジョブズをぞんざいに追い払った。』


この出来事からおよそ2年後、1996年夏には、問題は想像以上に深刻であることが判明します。それは、アップルが開発中の「コープランド(Copland)」という新しいOS(オペレーティングシステム)が、ベーパーウェア (vaporware:概要が発表はされたものの構想段階や開発段階にあり、まだ完成・公開されるかどうかわからないソフトウェアもしくはハードウェアのこと)で、ネットワークやメモリ保護機能の強化というアップルの二―ズを満足するものではありませんでした。こうして、アップルは「コープランド」に替るオペレーティングシステムを提供してもらえるパートナーを探し、選択するという判断に迫られることになりました。
●ビー(Be)
ビーは元アップル社の社員だったジャン=ルイ・ガゼーが起こした会社です。1996年8月のビーとの交渉では、アップルに他の選択肢はないと踏んでいたガゼーが極めて強気な提案をしており、アップルにとって他の選択肢も検討せざるをえない状況となりました。
●サン(Sun Microsystems)
アップルの最高技術責任者であったエレン・ハンコックはユニックスベースのサンのソラリス(Solaris)を推しましたが、ユーザーインタフェースに課題があるとの評価がありました。
●マイクロソフト
アメリオは徐々にウィンドウズNTに傾いていき、遂にはビル・ゲイツから電話がくるようになります。後に断りの電話を入れることになったのですが、その時、ゲイツは冒頭の2~3分、相当憤慨していたようです。
●ネクスト

『「誰か、この件で電話できるくらいスティーブと親しい者はいないか?」アメリオ(CEO)はこうスタッフにたずねた。2年前のミーティングが険悪な雰囲気で終わったため自分からは電話をかけたくなかったのだ。だが、その必要はなかった。ネクスト側から接触の動きがあったからだ-ネクストで製品マーケティングを担当する中間管理職、ギャレット・ライスがジョブズに無断でエレン・ハンコックに電話をかけ、ネクストのソフトウェアを見てみないかと声をかけてきた。ハンコックは部下を派遣する。
1996年11月の感謝祭が来るころ、両社は実務者レベルで話し合うようになっていた。そして、ジョブズからアメリオに直接電話が来る。
「これから日本に行くけど1週間で戻る。戻ったらすぐに会いたいと思う。それまで、なにも決めないでほしい」
過去の経緯があったにもかかわらず、アメリオはこの電話に心を躍らせ、いっしょに仕事ができるかもしれないとうれしくなった。
「あの電話をスティーブから受けたときは、ビンテージのワインの香りをかいだような気がしました」
ジョブズと会うまでビーともほかのどことも、どのような取り決めもしないとアメリオは約束する。
ジョブズにとってビーとの対決はビジネスと私怨、ふたつの意味があった。ネクストは倒れかけており、アップルによる買収は喉から手が出るほど欲しい救命策だった。同時に、ジョブスには、かなり強い恨みを抱く複数の相手がおり、ガゼーはそのトップ近くに位置していた(スカリーよりも上かもしれない)』


『1996年12月2日、スティーブ・ジョブズは、追放から11年ぶりにアップルのクパチーノキャンパスに足を踏み入れ、役員用会議室でアメリオとハンコックを前にネクストの売り込みをおこなった。ホワイトボードにいろいろと書き殴りながら、

「ネクストを契機として、コンピュータシステムに4つの波が生まれた」

と語る。ビーOSは完全でもなければネクストほど優れてもいない。なんの敬意も感じていないふたりを相手にしているというのに、この日のジョブズは魅惑の術を全開にしていた。控えめなふりも最高だった。
「それはありえないと思うかもしれませんが、お望みの形で交渉に応じます。ソフトウェアをライセンスする、会社を売却する、あるいは別の形でも」
じつはすべてを売ってしまいたいとジョブスは考えており、売却をプッシュする。
「詳しく見れば、ソフトウェア以上のものが欲しいと思われるはずです。人材ごと、会社全体を買収したいと思うはずです」』


ネクストとビーの最終決戦は、1996年12月10日、パロアルトのガーデンコートホテルで行われました。先攻はネクスト、ジョブズは催眠術のような営業テクニックを披露しました。アメリオはその時の様子を次のように話しています。


『ネクストオペレーティングについてスティーブが展開したセールストークは目がくらむほどのものでした。マクベスを演じるローレンス・オリビエを描写しているかのように利点や強みを次々とたたえていったんです』


後攻のガぜーは、まるで契約は自分のものに決まっているかのようなふるまいで、新しいプレゼンテーションはなく、ごく短時間に終わりました。結果は明白でした。
ネクスト買収を発表する数日前、アメリオはジョブズに、アップルでオペレーティングシステムの開発を統括してほしいとの要請をしています。しかしジョブズはなかなか返答せず、発表当日になってもジョブズの待遇は決まっていませんでした。その発表当日、アメリオはジョブズをオフィスに呼んだもののジョブズははっきりした態度をとりません。発表を前に必死なアメリオに対し、ジョブズは最後の最後に「会長のアドバイザー」を要求し決着がつきました。
買収は、1996年12月20日の夜に発表され、ジョブズの役割は、本人の希望どおり、非常勤のアドバイザーとされました。ジョブズの復活はアップル社によるネクスト社買収というシナリオによって成されました。
翌日、ピクサーに出社したジョブズは、ジョン・ラセターのオフィスへ向い、アップルで仕事をすることの許しをえるために、次のような言葉を残しています。なお、ラセターはこの申し入れを気持ちよく受け入れています。


『このせいで家族との時間がどれだけ減るだろうか、また、僕のもうひとつの家族、ピクサーとの時間がどれだけ減るだろうかとずっと考えていた。でも、アップルがあったほうが世界は良くなる。そう信じるからやりたいと思うんだ』

ネクストとビーの最終決戦の舞台となった、パロアルトのガーデンコートホテル

画像出展:「Booking.com

 

11.社内改革
アメリオが解任となり、暫定CEOとなったフレッド・アンダーソンはジョブズが実権を握ることも理解していたと思います。ジョブズが認めた発表文書には、「90日間、アップルへの関与を増やし、新しいCEOが見つかるまでアップルを支援することに同意した」との内容が記述されていました。


『「みんな、ウチのなにが問題なのか、ちょっと教えてくれないかな」
ところどころからつぶやきがあがるが、ジョブズはそれをさえぎるように宣言する。
「製品だ!」
「じゃあ、製品のなにが問題なんだ?」
また、ところどころから答えようとする声があがる。それにかぶせ、ジョブズが正解を叫ぶ。
「製品がボロボロ! セクシーじゃなくなってしまった!」』


こうして、表向きは非常勤のアドバイザーであったジョブズは以下のような社内改革に着手しました。
製品のデザイン
切り捨てる事業の選定
サプライヤーとの交渉
広告代理店の再評価
ストックオプションの価格改定(株価の大幅下落でオプションは価値がなくなっていた。当時、このやり方は合法だったが、企業としてすべきではないと考えられていた。取締役会は最大2ヶ月の調査を提案したがジョブズは却下し、強引に承認を取り付けた)
続いてターゲットにされたのは、承認されるも敬意を持てない取締役会でした。


『「この形はやめよう。これじゃうまくいかない。会社がぐちゃぐちゃの状態なのに取締役会の乳母役までやっているヒマはないんだ。取締役は全員、辞めてくれ。そっちが辞めないなら僕が辞め、月曜日からは出社しない」

例外として残っていいのはエド・ウーラード(デュポンの元CEO、アップルの取締役会長でジョブズを推していた)だけというのだ。取締役のほとんどはあっけにとられた。ジョブズ自身は、フルタイムで復帰することも「アドバイザー」以上の役割を果たすことも約束しない。それなのに、全員に辞任を迫る力があると感じているわけだ。認めたくないが、実際、その力がジョブズにはあった。ジョブズに怒って出て行かれたらどうにもならないし、そもそもアップル取締役を続けていることに魅力もなくなっていた。
「もううんざりという状況だったし、辞められてほっとした人も多かったはずだ」

とウーラードも証言する。』


この後、ジョブズとウーラードは新しい取締役の選定を一任されます。アップル取締役会の再編はその後何年もかけて、新しい取締役を迎えてゆきます。
『人選のポイントは忠誠心で、極端といえるほどの忠誠心を求めることもあった。ジョブズが招いたのは高い地位にある人ばかりだが、いずれも、ジョブズに畏れや恐れを抱き、また、ジョブスにはいい気分でいてほしいと願っているように見えるメンバーばかりだった』
元証券取引委員長で、アップルコンピュータの熱烈なファンであった、アーサー・レビットはアップル取締役就任を一度は打診されたのですが、取締役会に独立した権限を与えるというコーポレートガバナンスに関するレビットのスピーチをジョブズは読み、就任要請は取り下げるためレビットに電話をいれます。
『アーサー、うちの取締役会は君にとって居心地がよくないだろう。取締役への就任は取り下げるのが一番だと思う。正直なところ、あなたの主張にはアップルの文化にそぐわないところがあるんだ。会社によっては正しい主張だと思うけどね」
レビットはのちにこう書いている。
「あのときは落ち込みました……アップル取締役会はCEOから独立した組織ではない―それは、私の目にはあきらかでした」』

12.ジョブズの集中原理  
『なにをしないのか決めるのは、なにをするのか決めるのと同じくらい大事だ。会社についてもそうだし、製品についてもそうだ』


ジョブズは、アップルに復帰すると同時にこの集中原理を適用していきます。製品レビューでは各部門の官僚主義と小売店の思いつきを満足させるため、どの製品もすさまじい種類が作られていました。マッキントッシュだけでも10種類あまりあり、1400から9600の数字で区別されるというわけのわからない状態でした。これを知った1~2週間後、ついにジョブズの堪忍袋の緒が切れます。


『「もういい!」

全社的な製品戦略のセッションだった。

「あまりにバカげている」
マーカーを手にするとホワイトボードのところへゆき、大きく「田」の字を描く。
「我々が必要とするのはこれだけだ」

そう言いながら、升目の上には “消費者” “プロ”、左側には “デスクトップ” “ポータブル” と書き込む。各分野ごとにひとつずつ、合計4種類のすごい製品を作れ、それが君たちの仕事だとジョブズは宣言した。
「皆、シーンとしてしまいました。」

とシラーは言う。ジョブズがこの件を報告した9月の取締役会もウーラード(取締役会長)によると、皆、あぜんとしたという。
「ギルは毎月のように、製品を増やす承認をしてくれと言ってきました。もっとたくさんの製品がいると言い続けたのです。なのにスティーブは減らせというのです。2マス×2マスの表を書いて、そこに集中すべきだと」
取締役からは反対意見が出た。それは大きなリスクだと。
「大丈夫。うまくやってみせる」
この新戦略の採決はおこなわれなかった。指揮官はジョブズであり、そのジョブズが先陣を切って走っていたからだ。
こうして、アップルのエンジニアとマネージャはわずか4分野に集中することになった。プロ用デスクトップはパワーマックG3、プロ用ポータブルはパワーブックG3.消費者用デスクトップはのちのiMac、消費者用ポータブルはのちのiBookだ。
言い換えれば、プリンターやサーバーなど、4分野以外の事業からは撤退である。』

13.シンク・ディファレント
1997年7月、広告史に残るマッキントッシュの「1984年」CMを作ったシャイアット・デイ社のクリエイティブディレクター、リー・クロウにジョブズが電話をしています。


『「やぁ、リーかい? スティーブだ。じつはね、アメリオが辞任したんだ。ちょっと来てもらえないかな?」
そのころジョブズは広告代理店の見直しを進めていたが、ぴんと来るところがなく、クロウとその会社(名前はTBWA/シャイアット/デイに変わっていた)にもコンペに参加してほしいと思ったのだ。
「アップルはまだ元気だ、いまも特別なんだと示さなきゃいけない」
ウチは営業しないとクロウは答える。
「我々のことはよくご存じなはずです」
そこをなんとか頼むとジョブズ。BBDOやアーノルドワールドワイドといった有名どころを含め、数多くの広告代理店が売込みに来ており、それを押しのけて「昔なじみ」に頼むのは難しいというのだ。では、なにかお見せできるものを持ってクパチーノにうかがいましょう、とクロウも承知した。
私にこの話をしてくれたとき、ジョブズは肩を震わせ、涙を浮かべた。』


そして、ジョブズはこの一件のことについて、次のように語っています。


『このときのことを思い出すと、涙が出るんだ。止まらなくまるほどに。リーはアップルを深く愛してくれているとよくわかった。広告界トップの男だ。営業など10年もしていない。その彼が心を込めたプレゼンをしてくれた。僕らと同じくらいアップルを愛しているからだ。彼らが持ってきたのは、「シンク・ディファレント」というすごいアイデアだ。ほかに比べて10倍はすごいものだった。リーの深い愛と「シンク・ディファレント」のすばらしさ―あのときも込み上げるものがあったし、いま、思い出しても涙が出てしまう。
ときどき「純粋なもの」に出会うことがある。精神や愛という純粋さに。そういうとき、僕はいつも泣いてしまうんだ。心に染みてね。あのときもそうだった。あれは忘れることができない。事務所で彼の話を聞いたときも泣いてしまったし、いま、思い出しても泣けてしまうんだ。』


ジョブズはこの広告は世間に対する広告であると同時に、アップル社内に向けた広告でもあったことを明かしています。


『アップルの人間も、アップルとはなにか、自分たちはどういう人間なのかがわからなくなっていた。それを思い出すきっかけには、誰が自分にとってヒーローなのかを考えてみるといい。あのキャンペーンはこうして生まれたんだ』


以下は完成した60秒のフルバージョンです。
『クレージーな人たちがいる。反逆者、厄介者と呼ばれる人たち。四角い穴に丸い杭を打ち込むように、物事をまるで違う目で見る人たち。彼らは規則を嫌う。彼らは現状を肯定しない。彼らの言葉に心を打たれる人がいる。反対する人も、称賛する人もけなす人もいる。しかし、彼らを無視することは誰にもできない。なぜなら、彼らは物事を変えたからだ。彼らは人間を前進させた。彼らはクレージーと言われるが、私たちは天才だと思う。自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが、本当に世界を変えているのだから。』


この中で「彼らは人間を前進させた」など、一部はジョブズ自身が書きました。また、ナレーションはジョブズ自身によるものと、リチャード・ドレイファス(映画俳優)のものと、2つのバージョンが完成していましたが、最後の最後に選択されたのは、ドレイファスのバージョンでした。

 

『僕の声を使った場合、それが僕だとわかった時点で僕の広告だと言われかねない。そうじゃなくて、あれはアップルの広告だから』というのが理由でした。


この広告はテレビだけでなく、ポスターでも展開されました。歴史に残る偶像となった人物の白黒ポートレートで、隅に小さくアップルのロゴと「シンク・ディファレント」という文字だけがあしらわれていました。アインシュタインやガンジー、ジョン・レノン、ボブ・ディラン、ピカソ、エジソン、チャップリン、キングなど、一目でわかる人々だけでなく、マーサ・グレアム、アンセル・アダムス、リチャード・ファインマン、マリア・カラス、フランク・ロイド・ライト、ジェームズ・ワトソン、アメリア・イアハートなど、すぐには判らない場人たちも含まれていました。
登場人物の大半はジョブズがヒーローと思う人々で、リスクを取り、失敗にめげず、人と異なる方法に自らのキャリアを賭けたクリエイティブな人たちです。写真マニアのジョブズは、完璧なポートレートを用意しようと獅子奮迅、妥協を許さず交渉を進めていきます。
ブランドを非常に大切にしたジョブズは、この「シンク・ディファレント」のキャンペーン以来、広告代理店やマーケティング、コミュニケーションのトップを集め、メッセージ戦略について自由な討論を3時間も続けるミーティングを毎週水曜日の午後に開いています。この会議には、もちろん、リー・クロウも出席しています。


『スティーブのようなやり方でマーケティングにかかわるCEOはほかにいません。毎週水曜日、新しいコマーシャルやポスター、ビルボード広告まで、一つひとつ、彼が自分でチェックし、承認するのです』

 

画像出展:「engadget.com」 

14.ICEO
アメリオを追放した10週間前から実質的なリーダーではありましたが、肩書きは単なる「アドバイザー」で、有名無実とはいえ暫定CEOにはフレッド・アンダーソンが就いていました。1997年9月16日、ジョブズはinterimCEO(暫定CEO)に就任すると発表されました(肩書きは、のちに、iCEOと省略される)。このあと数週間、ジョブズと取締役会は本命CEOを探します。コダックのジョージ・M・C・フィッシャー、IBMのサム・パルサミーノ、サン・マイクロシステムズのエド・ザンダーなど、さまざまな名前があげられましたが、ジョブズが取締役にとどまるならCEOにはなりたくないという回答が多く決まることはありませんでした。
12月に入ることには、iCEOという肩書きはinterim(暫定)からindefinite(無期限)へと変化していました。経営はジョブズが続けており、取締役会はCEOの探索をやめていました。
こうして、CEOとなったジョブズは2つの会社を経営することになったのですが、健康問題はこのころのハードワークが原因だろうと考えています。


『あのころはきつかった。本当にきつかった。僕の人生で最悪にきつい時期だった。小さな子どもがいて。ピクサーがあって。朝7時に出勤し、夜は9時に戻る。子どもたちはもう寝ている。口もきけなかった。疲れすぎて、文字どおり口も開けない状態だったんだ。ローリーンと話すこともできない。30分くらいテレビを見てぼーっとするくらいしかできなくて。死ぬかと思ったよ。毎日、黒いポルシェコンバーチブルでピクサーからアップルへと回るんだ。あと、腎臓結石もできちゃってね。病院に駆け込んで鎮痛剤のデメロールをケツに注射してもらったりしたけど、それもしばらくしたらやめてしまった。』


自身の健康を犠牲にしてまで2つのCEOを兼任し、特にアップル再興に心血を注いだ理由は次のようなものでした。


『ジョブズががんばった背景には、息の長い会社を作りたいという情熱があった。ヒューレット・パッカードでアルバイトをした13歳の夏休み、ジョブズは、きちんと経営された会社は個人とは比べものにならないほどイノベーションを生み出せると学んだのだ。「会社自体が最高のイノベーションになることもあるとわかったんだ。つまり、どういうふに会社を組織するのか、だよ。会社をどう作るかはとても興味深い問題だ。アップルに戻るチャンスを手にしたとき、この会社がなければ僕に価値はないとわかった。だから、とどまって再生しようと心に決めたんだ」』

 

スティーブ・ジョブズが興味をもったとされる、HP9100。

画像出展:「HP Computer Museum

アップルを救ったのは、ジョブズの「絞り込む力」でした。アップルに復帰した最初の年、ジョブズは3000人以上を解雇し、バランスシートの改善を図りました。ジョブズが暫定CEOとなった9月に終わった1997会計年度、アップルは10億4000万ドルの赤字でした。ジョブズによると、あと90日で倒産という、まさに瀬戸際だったとしています。
1998年のサンフランシスコ・マックワールドでは、印象的な髭にレザーのジャケットで新しい製品戦略を説明してゆきます。そして、のちにお約束となる一言をはじめて使い、プレゼンテーションを締めています。


『「ああそうだ、最後にもうひとつ……」
このときの「もうひとつ」は「シンク・プロフィット(利益を考えよう)だった。この一言に会場は拍手喝采となった。丸2年の赤字から、四半期で4500万ドルという黒字に転換したのだ。1998年会計年度通期では、3億900万ドルの黒字だった。
ジョブズが復活し、アップルも復活したのだ。』

15.ICEOからCEOへ
ジョブズは、アップル取締役会長のエド・ウーラードから、CEOという肩書きの前について暫定の文字をなくすよう、2年以上にわたって求められていました。しかしジョブズは本決まりのCEOになろうとしないばかりか、「年棒1ドル、ストックオプションなし」という条件でまわりを困らせていました。


『「50セントは出社分で、残りの50セントが成果の評価さ」
ジョブズお気に入りのジョークである。株価はジョブズが復帰した1997年7月の14ドル弱からインターネットバブルのピーク、2000年には102ドル以上になった。1997年当時、少なくともある程度の株は受け取ってほしいとウーラードに頼まれたが、ジョブズは
「アップルでいっしょに働く人たちに、金持ちになりたいから戻ったと思われたくないんだ」
と断っている。この株を受け取っていれば、4億ドル程度になったはずだ。しかしそのあいだ、ジョブズが稼いだ額はわずかに2.5ドルである。
復帰した当時、“暫定” にこだわったのは、アップルの将来がはっきりしなかったからだ。しかし2000年が近づいたころには、ジョブスの復帰でアップルが復活したことは誰の目にもあきらかだった。ジョブズは妻のローリーンと散歩しながら、大半の人にとって形式的な問題にすぎないが本人にとってはこだわりの問題についてじっくりと話し合った。暫定をなくせば、アップルはジョブズが思い描くことすべてのベースとなりうる。コンピュータ以外の分野に参入することもできる。ここにきてジョブズもようやく心を固めた。』

16.IPhone開発の舞台裏
2005年、iPodの販売が急増、前年の4倍、2000万台を出荷し、売り上げの45%を占め、さらにマックの販売にも貢献していました。その一方で、ジョブズは心配していました。


『「スティーブは、我々にとって大きな問題になりそうなことを常に気にしています」
と取締役のアート・レヴィンソンも言う。いろいろと考えてジョブズが達した結論は、

「徹底的にやられる可能性がある機器は携帯電話」

だった。デジタルカメラの市場はカメラ付き携帯電話の普及で食い荒らされていた。携帯に音楽プレイヤー機能が搭載されればiPodも同じようになりかねない―そう、取締役会へ説明した。
「携帯は誰もが持っているので、iPodが不要になってしまうかもしれない」』


最初の製品となった「ROKR(ロッカー)」は共同開発であり、モトローラ、アップル、そしてワイヤレス通信のシンギュラーの寄せ集めでした。

「こんな電話が未来なのか?」

とワイアード誌の2005年11月号の表紙で、ROKERは無残に切り捨てられてしまいます。この一件からジョブズは製品レビュー会議でiPodチームに怒りをぶちまけます。


『「自分たちでやろう」
売られている携帯電話はひどいものばかりで、かつてのポータブル音楽プレイヤーと似たような状況にあるとジョブズは考えた。
「携帯電話のあそこがイヤだ、ここがきらいだとそういう話をずいぶんした。とにかく複雑すぎるんだ。電話帳のように、こんなの使い方がわかる人なんているはずがないと思うような機能がたくさんある。わけわかんないよ」
弁護士のジョージ・ライリーによると、法的問題を検討するミーティングに飽きると、ジョブズはライリーの携帯電話を取り上げては、それがいかにボケナスか、問題点を次々にあげていたという。ジョブズらは、
「自分たちが使いたいと思う電話を作ろう」と盛り上がった。
「あれほどやる気が出る目的はちょっとないね」』


じつはそのころアップルでは、もうひとつのプロジェクトであるタブレットコンピュータの開発が秘密裏に行われていました。2005年、ふたつの話が交わり、タブレットのアイデアが電話プロジェクトに伝えられます。つまり、iPadのアイデアが先にあり、それをもとにiPhoneは生まれました。


マルチタッチ
この時、マイクロソフトもタブレットPCの開発を進めており、ジョブズと同じ年で友人でもあった、ビル・ゲイツはジョブズに接触していました。


『マイクロソフトはそのタブレットPCソフトウェアで世界を一変させ、ノートパソコンを一掃する、だから、アップルも彼(スティーブ・ジョブズ夫妻の友人と結婚したマイクロソフトのタブレットPCの開発をしているエンジニアのこと)が作ったソフトウェアのライセンスを受けるべきだと彼(ビル・ゲイツ)がしつこくてね。でもね、やり方からして根本的に間違ってたんだよ。スタイラスペンを使うっていうんだから。スタイラスペンという時点でおしまいだ。あの話をされたのはディナーパーティが10回目くらいのときだったかなぁ、あまりにいらついたんで、戻ったとき、

「こんちくしょう、タブレットとはどういうものか目に物見せてやる」って言ったんだ。
翌日出社すると、ジョブズはチームを集めて宣言する。
「タブレットを作りたい。キーボードもスタイラスペンもなしだ」
入力はスクリーンを直接指でタッチしておこなう。そのためには、複数の入力を同時に処理できるマルチタッチ機能を持つスクリーンが必要だ。
「だから、マルチタッチに対応できるタッチ機能付きディスプレイを作ってくれ」』


およそ6ヵ月後に用意されたプロトタイプは、会議室でジョブズひとりにデモされました。これはジョブズが一瞬で評価してしまうので、ジョブズひとりで他に誰もいなければ、何とか説得することもできるだろうと考えての、いわば保険でした。
しかし、ジョブズはこのアイデア(デモ)が気に入ります。


『「これが未来だな」
このアイデアを使えば携帯電話のインターフェースという問題も解決できるとジョブズは考えた。当時は携帯電話の優先順位が高かったので、電話サイズのスクリーンにマルチタッチインターフェースが搭載できるまでタブレットの開発は凍結とした。
「電話でうまくゆけば、タブレットにも使えるからね」
そう考えたジョブズはファデルとルビンシュタイン、シラーを呼び、デザインスタジオで秘密会議を開いてマルチタスクのデモを見せる。
「うわー!」
ファデルは思わず叫んでいた。全員、これはすごいと思った。問題は、これを携帯電話に搭載できるか否かだ。開発は両にらみで進めることにした。P1というコードネームでiPodのホイールを使った電話を、P2というコードネームでマルチタッチスクリーンを使った電話を開発する。
マルチタッチのトラックパッドは、フィンガーワークス社というデラウェア州にある小さな会社がすでに作っていた。デラウェア大学のジョン・エリアスとウェイン・ウェスターマンが創設した会社で、マルチタッチ機能を持つタブレットを開発し、ピンチやスワイプといった指の動きを有用な機能に変換する方法について特許を取得していた。

2005年のはじめごろ、アップルはこの会社と特許をすべて買い取り、創業者のふたりも雇い入れる。フィンガーワークスは製品の販売をやめ、新しい特許をアップルの名前で取りはじめた。ホイール型のP1とマルチタッチ型のP2、2種類の開発を6ヵ月おこなったあと、ジョブズは側近を集めて選定会議を開いた。

ホイール型の開発を担当したファデルは、いろいろとやってみたが電話がかけられるシンプルな方法が見つけられなかったと報告する。マルチタッチはエンジニアリング的に可能かどうかがはっきりせず、リスクが大きいが、そのほうがおもしろそうだし期待も持てる技術だった。
「やりたいのがこちらだというのは、一致した意見だと思う」
ジョブズはタッチスクリーンを指さす。
「動くようにしようじゃないか」
ハイリスク、ハイリターン。ジョブズが言う「会社を賭ける」ときだった。』


こうして、電話をかけたいときには数字のパッド、文字を入力したいときにはタイプライターのようなキーボード、あるいはまた、別のなにかをしたいときには必要となるボタンが表示される機能が生まれました。
この6ヶ月間、ジョブズは毎日必ずこのディスプレイの改良を手伝いました。ジョブズがチェックするポイントはシンプルにすること。チームメンバーは今までの電話を複雑にしている要素をシンプルにする方法を考え、それを何度も何度も繰り返しました。通話を保留したり電話会議にしたりする大きなバーを追加したり、電子メールを簡単に読めるようにしたり、アイコンを横方向にスクロールしてほかのアプリを表示できるようにしたりしました。こうして進められた改良はユーザーにとって、シンプルで使いやすいものとなっていきました。


ゴリラガラス
ジョブズは「材料」についても人並みはずれた関心と物凄いこだわりを持っていることがわかります。


『アップルに復帰してiMacを作り始めた1997年ごろは、半透明プラスチックや着色プラスチックでなにができるのかをいろいろと試した。次は金属。アイブ(ジョナサン[ジョニー] アイブ:豊かな感受性と情熱でアップルのデザインチームを率いる30歳[1997年当時]の英国人)とふたり、パワーブックG3の丸みを帯びたプラスチックケースをパワーブックG4ではチタンを使ったなめらかなものとした。その上、その2年後にはアルミニウムでデザインをやり直している。まるで、金属の種類を変えたらどうなるのか示したいというかのように。
iMacとiPodナノは陽極酸化処理を施したアルミニウムとした。酸化槽に入れて電気を流し、表面に酸化アルミニウムの保護膜を作る処理だ。必要な数量の処理ができないと言われたジョブズはわざわざ中国に工場を建設する。工場の立ち上げは、アイブが現地に出向いて指揮した。SARSが流行して大変なことになっていた時期のことだ。
「あのときは、3ヶ月間、寮に寝泊りしながら工場を立ち上げました。ルビーたちからは無理だと言われたのですが、スティーブも私も陽極酸化処理アルミニウムが一番だと思っていたので、どうしても実現したかったのです。」
その次はガラスだった。
「金属でいろいろやったあと、次はガラスをマスターしなきゃねとジョニー(アイブ)に言ったんだ」
そして実際に、アップルストアで大きな窓ガラス製の階段などを作る。iPhoneも、もともとはiPodと同じようにプラスチックのスクリーンにする計画だった。それをジョブズが、ガラスのほうがエレガントでしっかりした感じになると変えさせたのだ。傷がつきにくく強いガラスが必要だった。
ふつうに考えれば、探すべきなのは店舗用のガラスが大量に作られているアジアだろう。しかし、ニューヨーク州北部のコーニンググラス社で取締役をしている友人、ジョン・シーリー・ブラウンから、若くて精力的なコーニングのCEO、ウェンデル・ウィークスと話すべきだと提案された。ジョブズはコーニングの代表番号に電話をかけ、自分の名前を言ってウィークスにつないでくれと頼んだが、出たのはアシスタントで、自分がメッセージを伝えるという。
「スティーブ・ジョブズだ。直接話をさせろ」
この要求を拒まれ、ジョブズは、東海岸らしいひどい扱いを受けたとブラウンに愚痴る。この話を耳にしたウィークスがアップルの代表番号に電話をかけ、ジョブズと話がしたいと申し込むと、内容を書いてFAXで送れと言われる。この話を聞いたジョブズはいいやつらしいと感じ、ウィークスをクパチーノに招待した。
まず、iPhone用にどういうガラスが欲しいのかをジョブズが説明した。これに対しウィークスは、1960年代に化学交換法という製法を開発し、「ゴリラガラス」と呼ばれるガラスを作ったこと、信じられないほど強いが市場がなく、作るのをやめたことを話す。
そこまで強いガラスができるのは信じられないと、今度はジョブズがガラスの作り方について説明をはじめる。おもしろいとウィークスは思った。自分のほうがジョブズよりも詳しい分野だったからだ。
「しゃべるのをちょっとやめて、私に解説させてもらえませんか?」
ジョブズはびっくりしたように黙った。ウィークスはホワイトボードのところへ行き、イオン交換プロセスでガラス表面に密度の高い層を作る方法を化学的に説明した。納得したジョブスは、6ヵ月でできるだけたくさんのゴリラガラスを作ってくれと頼む。
「作れないんですよ。いま、そのガラスを作っている工場はないんです。」
「心配はいらない」
がジョブスの答えだった。これにはウィークスも驚いた。ユーモアと自信にあふれているが、ジョブズの現実歪曲フィールドには慣れていなかったからだ。根拠のない自信でエンジニアリング的な課題は解決できないと反論したが、その前提こそ、ジョブズが昔から繰り返し否定してきたものだった。ウィークスをじっと見つめる。
「できる。君ならできる。やる気を出してがんばれ。君ならできる」
この話を語ってくれながら、ウィークスは、信じられないという感じで首を振った。
「6ヵ月もかからずにやり遂げました。それまで作られたことのないガラスを作ったのです」
ケンタッキー州ハリスバーグにあるLCDディスプレイの工場を突貫工事で改造し、ゴリラガラスをフルタイムで生産できるようにしたのだ。
「トップクラスの研究員とエンジニアを投入し、むりやりできるようにしました」
ウィークスのオフィスはゆったりしているが、額に入った記念品はひとつしかない。iPhoneが完成した日、ジョブズからもらったメッセージだ―「君たちががんばってくれなければできなかったよ」。
ウィークスはジョニー・アイブとも仲良くなり、ニューヨーク北部の湖畔に建つ別荘にもときどきアイブを呼ぶようになる。
「同じようなガラスでも、ジョニーは感触で違う種類だとわかるのです。そのようなことができるのは、ウチでも研究部門のトップだけです。スティーブはなにかを見た瞬間に好きかきらいかに分かれますが、ジョニーはじっくりいじり、いろいろと敢闘して、微妙な違いと可能性を見つけるのです」』

 

すべてやり直し
「トイ・ストーリー」、アップルストアで起きた、完成直前での大きな変更という大事件は、iPhoneでも起きてしまいました。


『当初は、ガラスのスクリーンがアルミニウムのケースにはめ込まれたデザインとなっていた。とある月曜日の朝、ジョブズがアイブのところに来て言う。
「昨日は眠れなかった。こんなんじゃダメだと気づいたんだ」
初代マッキントッシュ以来という重要な製品なのに、どうにも良くないというのだ。アイブもすぐに問題点を理解し、愕然とした。
「そこに気づく仕事を彼にさせてしまったことをとても恥ずかしく感じました」
iPhoneはディスプレイ中心であるべきなのに、そのときのデザインは、ケースがディスプレイと競うような存在感が大きかったのだ。機器全体が、力一杯、効率的に仕事をこなすぞという感じになっていた。
ジョブズはアイブのチームを前に宣言する。
「みんな、ここ9ヵ月、このデザインで必死にやってきたわけだが、これを変えることにした。これから全員、夜も週末も働かなきゃいけなくなった。希望者には、我々を撃ち殺す銃を配付する」
文句を言う者はいなかった。
「あれは、アップルをとても誇りに思った瞬間だった」
新しいデザインはゴリラガラスのディスプレイが縁ぎりぎりまで広がるように、ステンレススチールの細い枠で支える形となった。スクリーンが中心であり、ほかの部分はすべて道を譲る。新しいルックスは妥協を許さないものでありながらあたたかみが感じられた。いつくしむ対象になりうる。デザインを変更すれば回路基板からアンテナ、プロセッサーの位置まで、内部をすべて作り直す必要があるが、それでもジョブズは変更すると決めた。アップルならではだ、とファデルは感じた。
「ほかの会社ならそのまま製品にしてしまったかもしれません。でも、我々はリセットボタンを押して一からやり直したのです」
このデザインには、ジョブズの完璧主義だけでなく、コントロールの欲求までもが如実に反映されている。しっかりシールされているのだ。バッテリーを交換したくてもケースは開けられない。1984年に発売した初代マッキントッシュと同じように、なかを勝手にいじられたくないとジョブズが思ったのだ。2011年にアップルと関係ない修理ショップがiPhoneのケースを開いていると判明したときには、ネジを、ふつうに売られているドライバーでは回せないペンタローブという特殊ないたずら防止用のものに交換したほどだ。バッテリー交換という機能をなくせばiPhoneをかなり薄くできるというメリットもあった。ジョブズにとって薄いことはいいことなのだとティム・クック(コンパック・コンピュータ調達とサプライチェーンのマネージャを務めていた上品な37歳[1998年当時]、クックは後に、業務のマネージャからアップルの経営を裏で支えるかけがけのないパートナーへと成長する)は証言する。
「薄いほうが美しいとスティーブは信じています。その影響はすべての製品に表れています。もっとも薄いノートブックももっとも薄いスマートフォンもアップル製品ですし、iPadなど、薄く作った上でさらに薄くしたぐらいですから」』

 

発表(2007年1月10日)
『2007年1月、サンフランシスコのマックワールドでiPhoneを発表した際、ジョブズは、iMacのときと同じように、アンディ・ハーツフェルドにビル・アトキンソン、スティーブ・ウォズニアック、そして1984年のマッキントッシュチームを招待した。ジョブズは製品プレゼンテーションがすばらしいことで有名だが、なかでもこのiPhoneの発表は絶品である。
「ときどき、あらゆるものを変えてしまう革命的な製品が登場する」
そう語りはじめると、過去の例をふたつ、紹介する。まず初代マッキントッシュで、これはコンピュータ業界全体を変えた。もうひとつが初代iPodで、これは音楽業界全体を変えた。そして、発表に向けて慎重に伏線を張ってゆく。
「今日は同じくらい革命的な製品を3つ、紹介する。まず最初は、タッチコントロール機能を持つワイドスクリーンのiPodだ。2番目は、革命的な携帯電話。そして3番目。インターネットコミュニケーション用の画期的な機器だ」
この3つを繰り返して強調したあと、会場に問いかける。
「わからないかい? 3つに分かれているわけじゃないんだ。じつはひとつ。iPhoneっていうんだ」
その5ヵ月後の2007年6月末、iPhoneが発売となった日、ジョブズは妻とふたり、その興奮を味わいにパロアルトのアップルストアへ出かけていった。』


iPhoneアプリ
これは、第37章「iPad ポストPCの時代に向けて」の中の「デジタル世界を根底から変えたアプリ」に書かれているものです。あえて、ここを追記させて頂いたのは、革新的で魅力いっぱいの製品に加え、iPhoneアプリのビジネスモデルがあったことが、もうひとつの成功要因だと考えたからです。そして、ジョブズはこのiPhoneアプリについては、当初、話をするのも嫌がるほど否定していました。これが肯定されたのは、ジョブズの柔軟性でもありますが、取締役のアート・レヴィソンをはじめとする、アップルを愛し、iPhoneを信じ、そして何より正直だった人たちの総意がジョブズを変えさせたのだろうと思ったからです。


『アプリはiPhoneで導入された。2007年の前半にスタートした当時、アップル以外のディベロッパーから買えるアプリはひとつもなかった。だいたい、そういうことを許すつもり自体、ジョブズにはなかった。せっかくのiPhoneをぐちゃぐちゃにしたりウィルスに感染させたり、あるいはその完全性に傷をつけるようなアプリケーションを社外の人間に作らせるなどもってのほかだと考えていた。
他社製のiPhoneアプリを推進したひとりに取締役のアート・レヴィンソンがいる。
「数回は電話して、アプリの可能性を訴えました」
アプリを許可しなければ、いや、推進しなければ、そのうちどこか別のスマートフォンメーカーがやりはじめて強みにしてしまう。マーケティングのチーフ、フィル・シラーも同じ意見だった。
「iPhoneほどパワフルなものを作っておきながらディベロッパーにたくさんのアプリを作らせないなんて、そんなことはありえません。ユーザが大歓迎するのはあきらかでした」
社外からも、ベンチャーキャピタリストのジョージ・ドーアのように、アプリを許せば、アントレプレナーが次々に登場し、新しいサービスを生むようになると勧める声があがる。
このような提案をジョブズは当初、すべて退けた。アプリを開発する社外ディベロッパーをチェックし、秩序を守らせるという複雑な作業ができる余裕は社内にはないと思ったことも却下の理由だった。集中すべきと考えたわけだ。
「そんなわけで、この件については話をするのも嫌がっていました」
とシラーは言う。しかし、iPhoneが発売になると話に耳を傾けるようになる。レヴィンソンによると、取締役会でも自由な討論が繰り返されたそうだ。
「話をするたび、少しずつ、スティーブもその気になってゆきました」
そうこうしているうちに、ジョブズは、両方のいいとこ取りができると気づく。アプリの作成は社外の人間に許すが、アップルが試験し、厳格な基準を満たしていると承認したものだけをiTunesストア経由でのみ販売する形にすればいいのだ。これなら、何千人もの開発者に開発の権利を与えつつ、iPhoneの完全性とシンプルな顧客体験を守れるだけの管理が可能になる。
「これはスイートスポットをヒットする魔法のようなやり方だといえます。エンドツーエンドのコントロールを手放すことなくオープン性のメリットが得られるのですから」
とレヴィンソンは高く評価する。
2008年7月、iPhone用のアップストアがiTunesに開発され、その9ヵ月後には累計ダウンロード回数が10億回を突破する。iPadが発売された2010年4月、iPhone用アプリは18万5000本に達していた。そのほとんどはiPadでも使えたし(スクリーンサイズが大きくなってもメリットはなかったが)、それから5ヵ月のうちに、iPadに合わせて作られたアプリが2万5000本も登録される。2011年6月現在、iPhoneとiPadで合計42万5000本のアプリがあり、累計ダウンロード回数は140億回を超えている。』

17.2011年8月24日の取締役会
『健康状態が夏を通じて少しずつ悪化してゆき、ジョブズは、いつか訪れるとわかっていた現実と向き合わなければならなくなった―CEOとしてアップルに戻る日はもう来ないという現実だ。辞任するときが来たのだ。この件については、妻と話し合い、ビル・キャンベルと話し合い、ジョニー・アイブと話し合い、ジョージ・ライリーと話し合い、何週間も悩み続けた。
「アップルのために、権力の正しい譲り方を示しておきたいと思うんだ」
そう言うと、アップル35年の歴史はいつも波乱の交代劇だったと軽口をたたく。
「いつもドラマチックでね。第三世界の国かなんかかって感じだ。アップルを世界最高の会社にすることも僕の目標だし、そのためには権力を整然と譲ることが必要なんだ」
悩んだ結果、交代に一番適したタイミングと場所は、8月24日の定例取締役会だとジョブズは決心する。交代は辞表を送ったり電話で出席するのではなく、自分自身がその場に出向いておこないたかった。だから、むりやり食べて力をつけようとする。前日、なんとか行けそうだと感じたが車椅子なしではさすがに無理だった。なるべく人に見られないように注意をしながらアップル本社まで車で移動し、車椅子で会議に入る準備が整えられる。
ジョブズが着いたのは、委員会報告などの定例議題がそろそろ終わろうとする11時少し前だった。これからなにがあるのか、ほぼ全員わかっていたが、ティム・クックと最高財務責任者のピーター・オッペンハイマーはそのまま四半期の実績と翌年度の予測へと議題を進めた。その話が終わったところで、ジョブズから、個人的なは話がしたいと提案が出される。自分たち幹部社員は退席したほうがよいのかとクックがたずねる。ジョブズはたっぷり30秒ほども考え、そうしてくれと頼む。6人の社外取締役だけが残った部屋で、ジョブズは、その前何週にもわたって口述筆記で修正をくり返したレターを読みあげた。
「アップルCEOの職務と期待を全うできない日が来た場合、その旨、私から皆さんにお伝えすると前々から申し上げてまいりました。残念ながら、その日が来てしまいました」
レターはわずか8センテンス。シンプルで明快だった。後任はクックを推薦すること、また、取締役会長になる用意があることも書かれていた。
「アップルの前には、いままで以上に明るく革新的な未来があると私は信じています。今後は新しい立場からその成功を見守り、また、貢献したいと考えてもいます」
ジョブズがレターを読み終えたあと、沈黙が続く。最初に口を開いたのはアル・ゴアだった。ジョブズがなし遂げてきたさまざまな成果を挙げていく。ジョブズがアップルを変革していく姿ほどすごいものをビジネスの世界で見たことがないとミッキー・ドレクスラーが続き、さらに、スムーズな移行を実現したジョブスの努力をアート・レヴィンソンがたたえた。キャンベルだけは黙ったままだったが、経営権の移行を正式に決議する彼の目には涙が浮かんでいた。
お昼になると、スコット・フォーストールとフィル・シラーが開発中の製品の実物大模型を持ってきた。ジョブズはさまざまな質問やアイデアを次々とぶつける。特に第4世代の携帯電話ネットワークではどういう機能が実現されるのか、また、未来の電話にはどのような機能が必要になるのかについて熱心に検討した。音声認識アプリのデモでは、フォーストールが怖れていたとおり、途中で電話を取り上げ、アプリを困らせてやろうと勝手なことをはじめる。
「パロアルトの天気は?」
とたずねるが、アプリは正しく答える。これならどうだと、
「君は男かい? 女かい?」
とたずねるが、アプリはロボット的な音声でこう答える。
「性別は設定されておりません」
ぱぁっと雰囲気が明るくなった。
話題がタブレットに移ると、iPadにはかなわないとHP社があきらめた、我々が勝ったと喜びの声があがった。ジョブズはまじめな顔になり、それは悲しむできことなのだと宣言する。
「ヒューレットとパッカードはすごい会社を作り、それを信頼できる人々に任せたと思ったんだ。それがいま、バラバラになろうとしている。これは哀しいことだよ。アップルがそうならないよう、もっとしっかりしたものを残せたのならいいんだけどな」
取締役が集まり、順番にハグして、ジョブズを見送った。
幹部チームにニュースを伝えたあと、ジョブズはジョージ・ライリーに送ってもらった。ふたりが家に着いたとき、パウエルはイブに手伝ってもらって裏庭で蜂蜜の収穫をしていた。ふたりは蜂よけのスクリーンを外すと、リードとエリンがいるキッチンに蜜壺を運ぶ。そして、潔い引退と経営権の委譲を皆で祝う。ジョブスもスプーンいっぱいの蜂蜜を口に入れ、すばらしく甘いねと笑った。
その夜、ジョブズは、健康状態が許すかぎり、今後も会社には積極的にかかわっていきたいと私に想いを訴えた。
「新製品やマーケティングやそのほかの僕が好きなことに打ち込もうと思う」
しかし、自分が作りあげた会社の経営権を手放したことをどう思うのか、正直なところを聞かせてほしいとたずねると声が沈み、過去形でこう語った。
「すごく幸運なキャリアだったし、すごく幸運な人生だったよ。やれることはやり尽くしたんだ」』

 

ジョブズは癌と診断されたあと、息子のリードが夏休みにスタンフォードの腫瘍学研究室で大腸がんの遺伝子マーカーを見つけようとDNAの配列特定実験や突然変異がどう遺伝するのかを追跡する実験などを熱心におこなう姿をみて次のような話を残しています。


『僕が病気になってある意味良かったと言えることは少ないけど、そのひとつが、リードが優れた医師とじっくりいろいろな研究をするようになったことだ。21世紀のイノベーションは、生物学とテクノロジーの交差点で生まれるんじゃないかと思う。僕が息子くらいのころデジタル時代がはじまったように、いま、新しい時代がはじまろうとしているんだ」』

付記1.「時代は変わる(THE TIMES THEY ARE A-CHANGIN)」ボブ・ディラン 1963年
ここかしこにちらばっているひとよ
あつまって
まわりの水かさが
増しているのをごらん
まもなく骨までずぶぬれになってしまうのが
おわかりだろう
あんたの時間が
貴重だとおもったら
およぎはじめたほうがよい
さもなくば 石のようにしずんでしまう
とにかく時代はかわりつつある

 

ペンでもって予言する
作家や批評家のみなさん
目を大きくあけなさい
チャンスは二度とこないのだから
そしてせっかちにきめつけないことだ
ルーレットはまだまわっているのだし
わかるはずもないだろう
だれのところでとまるのか
いまの敗者は
つぎの勝者だ
とにかく時代はかわりつつある

 

国会議員のみなさん
気をつけて
戸口に立ったり
入口をふさいだりしないでください
傷つくのは
じゃまする側だ
たたかいが そとで
あれくるっているから
まもなくお宅の窓もふるえ
壁もゆさぶられるだろう
とにかく時代はかわりつつある

 

国中の
おとうさん おかあさん
わからないことは
批評しなさんな
むすこや むすめたちは
あんたの手にはおえないんだ
むかしのやりかたは
急速に消えつつある
あたらしいものをじゃましないでほしい
たすけることができなくてもいい
とにかく時代はかわりつつある

 

線はひかれ
コースはきめられ
おそい者が
つぎには早くなる
いまが
過去になるように
秩序は
急速にうすれつつある
いまの第一位は
あとでびりっかすになる
とにかく時代はかわりつつある

 

※歌詞対訳:片桐ユズル

※レコードの吹込みは1963年8月6日から10月31日まで(「時代は変わる」は10月24日録音)、6回のセッションで吹き込まれている。場所はニューヨーク。ディランの歌、ギター、ハーモニカのほか一切伴奏はついていない。中村とうよう

付記2.著者略歴

ウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)
1952年生まれ。ハーバード大学で歴史と文学の学位を取得後、オックスフォード大学に進んで哲学、政治学、経済学の修士号を取得。英国「サンデータイムズ」紙、米国「TIME」誌編集長を経て、2001年NにCNNのCEOに就任。ジャーナリストであるとともに伝記作家でもある。2003年よりアスペン研究所理事長。著書に「ベンジャミン・フランクリン伝」「アインシュタイン伝」「キッシンジャー伝」などのベストセラーがある。

小野田寛郎

昭和49年、1974年3月にテレビは1人の兵士を映し出していました。直立不動で目力などという生易しいものではない、その凄まじい眼光に完全に圧倒されました。
それが、ルバング島から帰還された最後の軍人 小野田寛郎少尉でした。

しかしながら、部活に没頭していた学生時代に小野田さんの本を手にすることはありませんでした。
そうして、40年後の1月、小野田さんの訃報が世間に流れたとき、「小野田さんの本を読まねば」という使命感のような思いが40年前の驚きと共に去来し、時を経ず1冊の本を購入しました。
小野田さんに対する評価は、必ずしも良いものだけではなく、ルバング島での行動を否定的にみる人もいます。私自身も一方的に敬服するというものではなかったのですが、少なくとも、その強靭な信念を連想させる眼光の鋭さは真実であり、否定することは不可能でした。その「不撓不屈」の精神にあやかりたいという子供のような気持ちもあり、手に入れた本は、40年前の強烈な写真が写っている「たった一人の30年戦争(東京出版新聞局)」という本で、直筆のサインが入った貴重なものでした。

小野田さんが昭和59年、1984年に設立された「小野田自然塾」は現在も継続されており、累計20,000人以上が日常では体験できないような事をこの塾で学ばれています。
これは本当に素晴らしい功績だと思います。(人数は「小野田自然塾」に確認させて頂きました)

最後に、この本を締めくくる「こぼれ酒」という一文をご紹介させて頂きます。私はこの本を読み終えたときに、小野田さんは真実の軍人であり、そして想像していた通りの素晴らしい人であるということを実感しました。


『大正11年3月19日生まれの私はいま、73歳の人生を懸命に生きている。21年前、祖国に生還し、すぐブラジルへ移住して牧場開拓、やっと牧場経営が起動に乗ったのを機に、10年ほど前から子供たちのキャンプ「小野田自然塾」に残りの人生に賭けている。私は少し遅れたが、幸運にも帰還した。しかし“終戦”はなかった。
私はときどき、自分がいま生きていることが不思議に思えることがある。まず、あの戦争で生き残ったのが不思議である。次に、二人の戦友が死に、たった一人の戦争を続けていた昭和47年11月、ルバング島に最後の捜索にきていた政府調査団団長の柏井秋久氏(当時厚生省引揚援護局審査課長)はフィリピン空軍ランクード中将に、急きょ、マニラ司令部への出頭を命じられたという。
「速やかに小野田捜索に決着をつけられよ。比空軍兵士300名を貴下の指揮下に入れる。直ちに威力捜索を実施せよ」
威力捜索とは、集中砲火で敵をおびき出す強行作戦だ。柏井団長は「彼我に死傷者を出す危険性が高い」と合意文書へのサインを拒否し、決断はマルコス大統領にゆだねられた。大統領は柏井団長に「団長のお考え通りやりなさい。比側は可能な限り援助する」と告げた。
“投降”時にも危機があった。私に対する住民の報復を恐れ、西ミンドロ州知事が村々を説いて回った。案の定、険悪な雰囲気だった。そのとき、若い小学校女性教師が立ち上がり、涙ながらにこう訴えたという。「私の父はオノダに殺されました。でも、オノダの中では、まだ戦争は続いていたのです。」
私は無事に山を下り、いまこうして祖国で生きている。
戦後五十年のことし、阪神大震災に続き、日本中を震撼させた地下鉄サリン事件、子供たちのイジメ自殺まで、「生と死」を考えさせられる事件が頻発している。
私は戦場での三十年、「生きる」意味を真剣に考えた。戦前、人々は「命を惜しむな」と教えられ、死を覚悟して生きた。戦後、日本人は「命を惜しまなければいけない」時代になった。何かを“命がけ”でやることを否定してしまった。覚悟しないで生きられる時代は、いい時代である。だが、死を意識しないことで、日本人は「生きる」ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。
酒飲みの話によると、一番うまい酒はコップから受け皿にあふれた“こぼれ酒”だそうだ。いまの私の人生は、こぼれ酒のようなものである。しかし、下戸の私にはこぼれ酒のうまさはわからないし、余禄の人生を楽しむ余裕もない。
拾った命に感謝し、二人の戦友を“戦後”になって戦死させたという負い目を背負って、私は残りの人生を生きていく。平成七年、戦後五十年の夏 小野田寛郎』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年1月27日 朝日新聞夕刊