サッカーマガジン創刊号

私がサッカーを始めた当時、サッカーに関する情報源はテレビの「三菱・ダイヤモンドサッカー」(現テレビ東京)と月刊誌の「サッカーマガジン」(ベースボール・マガジン社)でした。

初めて買ったサッカーマガジンは小学6年生、1970年夏です。ワールドカップ・メキシコ大会の大会中か大会直後だったと思います。怪しい記憶が正しければ、表紙はサッカーの神様ペレでした。

数カ月前のことですが、【日本の古本屋】さまから時々送られてくるニュースレターのなかに“スポーツ特集”があり、ちょっとのぞいてみると、「サッカーマガジン創刊号」が目に入りました。値段が数千円と安くなかったため一度は「そうか~」という感じでしたが、私自身のサッカーにとっても原点といえるものであり、また「どんな事が書かれているのだろう?」という興味も強く、案の定、購入することになりました。

なお、ブログは自慢話風になっていると思いますがご容赦ください。 

これは三菱重工対日立本社の試合です。今でいうと浦和レッズ対柏レイソルというところです。なお、ジャンプしている選手の後ろの白いユニフォームは当時最も人気のあった杉山選手です。

発行は昭和41年6月1日になっていました。1964年の東京オリンピックの2年後になります。

 

裏表紙はサッカーシューズの“タイガー”です。調べてみると、当時のオニツカタイガーが現在のアシックスになったのは1977年(昭和52年)でした。

 

 

続いて“日本リーグ全選手写真名鑑”です。

ビッグネームの選手時代の写真はとても新鮮です。全てご紹介します(「さん」付けで失礼します)。

 

 

トップは強豪、東洋工業でした。一般的には小城得達さんが有名ですが、個人的には早稲田OBで、東伏見だったと思いますが、一度練習に来ていただいた松本育夫さんが目立っています。

2番目の八幡製鉄現新日鐵住金)は、宮本輝紀さんがスター選手でした。

 

 

3番目は注目の古河電工です。何といっても、ここには私が大学2年生から3年間、早稲田の監督を努められていた宮本征勝さんがいます。

 

 

古河電工で最も有名選手だったのは八重樫茂生さんだと思いますが、日本サッカーの土台を築いた長沼健さんと大改革によりプロサッカーを立ち上げた川渕三郎さん、さらに日本サッカー界を支えた平木隆三さんという大御所が名を連ねています。現在の日本サッカー協会の会長である田嶋幸三さんも古河電工OBですので、古河電工が日本サッカーを牽引してきたと言っても過言ではありません。

また、浦和西高OBの小林茂紀さんという方が古河電工にいたのを知りました。大発見です。

4番目は日立本社です。ここには2010年に日本サッカー殿堂入りされた鈴木良三さんがいます。出身大学は立教ですが、高校は浦和西高です。

 

 

 

5番目は三菱重工業です。三菱といえば、快速ウイングの杉山隆一さん。そして、名GKの横山謙三さんも大変有名でした。ちなみに出身高校は埼玉県立川口高校です。

 

 

 

 

落合弘さんはこの創刊号のときは“山田”という旧姓になっていました。また、「次期スター候補生 山田 弘」という特集が組まれていました。紹介文は次の通りです。

『一に杉山(三菱重工)、二に釜本(早大)、三、四がなくて、五に小城(東洋工業)。サッカー界の人気バロメーターはこんなところだ。だがファンの急増とともに“新しいスター誕生”の期待も大きくなっている。杉山、釜本に迫るスターはだれか。ずばり、日本リーグのニュー・フェース、三菱重工の山田弘選手とうらなってみようではないか。』なお、落合さんの出身高校は浦和市立高校(現さいたま市立浦和高校)です。

6番目は豊田自動織機です。

7番目は名門ヤンマーディーゼルでした。早稲田OBで2015年に日本サッカー殿堂入りした鬼武健二さんもいますが、注目は日産、横浜F・マリノス、日本代表などで指揮を執った加茂周さんです。思い起こすと、「そういえば、ヤンマーでやっていたと聞いたことがあったような」という感じです。

 

最後は名古屋相互銀行こと“名相銀”です。調べてみると平成元年に名古屋銀行に改称されていました。

 

名相銀をよく覚えているのには理由があります。1960年代に浦和には浦和クラブという社会人の強豪サッカーチームがあり、日本リーグへの入れ替え戦に臨んでいました。その相手が名相銀でした。

すっかり忘れていましたが、浦和クラブは浦和サッカーの象徴だったと言えるかも知れません。そこで懐かしき“浦和クラブ”を調べることにしました。(クリックするとウィキペディアにリンクします)

●浦和クラブは呼称、正式名称は浦和サッカークラブ

●創設は1950年(第二次世界大戦の5年後)。母体は「麗和クラブ(県立浦和高校OB)」と「埼玉蹴球団(埼玉師範学校OB)」。

●1962年に浦和クラブに「桜蹴クラブ(市立浦和高校OB)」と「西高OBクラブ(浦和西高OB)」が加わり、チームが再編された。

●JSL入れ替え戦は4回

1.1965年:出場を辞退

2.1966年:対ヤンマーディーゼル(1分1敗)

3.1968年:対日立製作所(2敗)

4.1969年:名古屋相互銀行(2敗)

“名相銀”を記憶していたのは、66、68年は私自身がサッカーをしていなかったからという理由でした。


文章には『カクテル光線に照らし出された緑の芝生が美しい初ナイターだった。~』となっています。写真を見るとスタンドの屋根に配置された照明が明るく輝いています。当時はこれらの照明だけだったようです。 

こちらが目次です。

 

サッカーのおもしろさ 味わい方 楽しみ方”という記事に貼ってあった写真です。“三国対抗戦の妙技に酔うファン”と書かれています。そういえば、確か小学6年生だったと思いますが、11歳年上の兄の愛車で国立競技場に試合を見に行ったことを思い出しました。相手はオーストラリアだったと思います。

「本当にオーストラリアだったのかなぁ?」と思い調べたところ、それは1971年3月7日に行われた三国対抗・朝日国際サッカー大会でのセントジョージ・ブダペスト(オーストラリア)との一戦で、結果は0対0の引き分けでした。そういえば、喜んだり悔しがったりせず、よく晴れたポカポカ陽気のマッタリ感の記憶があるのは、きっと無得点の引き分けだったからなんだと思いました。

 

 

驚きました。価格が¥184.8万円になっていました。

画像出展:「中古車検索EX

まてよ?もしや!?」と思い、無造作に箱に入れられている昔の物を調べてみると、予想は当たっていました。自分の部屋に貼っていたのは“3国対抗サッカー 全日本Aチーム 1971.3.14”のサイン色紙でした。日焼けが物凄く画鋲の穴も生々しいためお宝度は高くありません。「誰からもらったのだろう?」と考えてみると、おそらく、駒場サッカー少年団の監督で、浦和クラブのエースストライカー、アディタスの黒い”モデル2000”がえらくカッコいい大森先生からだろうと思います。というかそれ以外考えられません。

 

 

 

躍り出た大学の新人群像

『大学サッカー界は、ナンバー・ワン明大の杉山その他、多数の名選手を日本リーグに送り、大打撃を受けた。その痛手は余りに大きすぎるが、一方、有名無名の新人が入ってきた。これら新人群像にスポットを当ててみよう』

このような書き出しで、関東大学サッカー一部校(早大、明大、教大[東京教育大学・現:筑波大学]、中大、立大、日大、法大[入れ替え戦で日体大に勝利]のそれぞれの現状や選手補強の状況が紹介されています。その中で浦和西高の大先輩で、元日本代表、時々西高にも顔を出されていた川上さんの大学時代の写真を見つけました。これも今回の大発見です。

 

 

“国内最高の技術 ミツナガのサッカー靴”という広告のページを挟んで出てきたのが、この“連続写真による サッカーの基礎技術 連載技術指導”です。初回となる今回は“キッキング(その1)”となっています。インサイド・キックに始まり、バックヒール・キックまでの16ページと充実した内容ですが、一番の驚きは、模範のキックを行っている選手が釜本さんというところです。

 

 

 

こちらの写真は先にご紹介した“躍り出た大学の新人群像”に掲載されていたものです。

釜本選手といえばその強烈なシュートが代名詞でしたが、実は自慢話があります。おそらく大学2年生の時だったように思いますが、夜の暑さが半端ない夏の関西遠征があり、そこで日本リーグの強豪ヤンマーディーゼルとの練習試合がセットされました。

選手としては晩年ではありましたが、存在が偉大すぎて早稲田の先輩とも思えない釜本さんがピッチにいました。これだけで私などは大興奮なのですが、最も印象に残ったのはシュートのインパクトの音です。明らかに普通の音ではなく、その「ボン」という爆発するような音だけが頭にこびりつきました。その凄さを体感することができたことは最高の思い出です。

下の写真はその強烈なインステップ・キックです。 

高校サッカー部めぐり”は“輝ける新星 習志野高校”と題され紹介されていました。習志野高校といえば、野球部が平成最後の甲子園大会で準優勝したというニュースは先月のことでした。

習志野高校を率いていた西堂監督は、浦和西高の仲西監督と親交が深く、そのため習志野高校とは西高グラウンドで試合することが度々ありました。私にとっては習志野高校は懐かしい高校の一つです。

この“高校サッカー部めぐり”に続くのが、“高校サッカーの歩み 伸びゆく新興勢力”という記事です。

読んでみると、忘れてはいけない日本サッカーにとって最高の恩人である、デッドマール・クラマー氏の話が出ていました。そこでその後半の一部を抜粋してお伝えしたいと思います。

奥がクラーマ氏、手前は長沼監督 1963年10月12日 日本対ベトナム戦

画像出展:「ウィキペディア

◇「なんと早く、なんと忠実な……」

『~ クラーマー氏は京都の講習会で「日本人には速くプレーできる素質がある。だがまずコントロールして、そして速いプレーにもっていくべきだ。ドイツでもどこでも、ジュニアーで日本ほど速い国はない」

との言葉を残した。

彼はけっしてあわてず焦らず、まず正確なフォームから教えた。それができてからスピードを高めた。その手腕、その辛抱強さに、わたしは何度か教えられたのである。

彼の来日日程の後半は、オリンピック・チームの強化に専念し、長沼、岡野両コーチとともに活躍した。

講習会はとだえたが、彼のまいた種は、いま全国で芽をのばしつつある。 ~』

“高校サッカーの歩み 伸びゆく新興勢力”の記事は、◇全国の高校サッカー勢力 に移ります。

ここでは当時の“関東”がどんな状況だったかお伝えします。

『二十九回宇都宮が垢ぬけした足技とスピードで優勝、一躍有名となった。東北ほどがんじょうなプレーではないが、鋭い出足のチームが多い。宇都宮工、宇都宮学園がとってかわり、ことしは群馬県から新島学園が出たが、大半が卒業するので復活はしばらくかかりそう。

茨城は水戸商、日立一、日立工と好チームは多いが、千葉に習志野が出て、やはり中学選手を鍛え出してから、東関東は勢力がかわりつつある。

埼玉は群雄割拠、かつての浦和が伝統を守ろうとしているが、浦和市立、浦和西に移り、川口工の進出も目立ってきた。

神奈川は湘南がなんとか希望をつないでいるが、進学の関係で無理ができず、鎌倉学園、栄光学園などとせり合いの状態。頭のよいサッカーをする県だ。

山梨は韮崎、甲府商、甲府工、日川、石和、機山工と、小粒を鍛えぬくチームぞろいで、いつもダーク・ホース。

東京は100チームもいるが、帝京、城北、教大付、早大学院の争いがつづいている。』 

この特集の最後に23年度から40年度までの全国大会(現全国選手権大会)と国体の優勝校が出ています。両校優勝を含めると、浦和の高校が全国大会18回中7回、国体は6回、優勝しています

50年前、唯一のプロスポーツである野球のON(王・長嶋)が脚光を浴びていた時代でも、浦和は圧倒的にサッカーでした。野球部への入部も少しだけ考えていた私ですが、親しい友人たちの中には野球部に入ろうとするものは誰一人いませんでした。

なお、浦和南高校(現さいたま市立南高校)の創立は昭和39年です。また、特にサッカーが盛んだったエリアは意外に狭く、京浜東北線の浦和―北浦和―与野間、線路西側は常盤中学、線路東側は産業道路を挟むように点在していた、原山中学、本太中学、木崎中学、大原中学、浦和市ではこの5校を中心に凌ぎあっていました。

サッカーではありませんが、昭和39年の東京オリンピックを記念して陸上競技の技術書が出版されていました。

下段のランニングフォームの写真はマラソンで銅メダルに輝いた円谷幸吉選手です。国立競技場に入ってからの光景は鮮明に覚えています。

ためしにネット検索してみると、amazonで¥7,200で販売されていました。県立久喜図書館に所蔵されているようなので取り寄せようと思います。

 

  

『東京五輪、マラソンのゴールに向けて力走する円谷幸吉。右は猛烈な追い上げを見せるヒートリー(英国)=1964年10月21日、国立競技場で』 画像出展:「東京新聞

 

「円谷、がんばれ~!!」

 

  

“早慶サッカー・ナイター”という記事が出ていたのでちょっとびっくりしました。よく見ると下に、「御観戦中の皇太子殿下、美智子妃殿下」となっています。

皇族の方をお招きして早慶戦を行っていたということは全く知りませんでした。そこで私が25人目の選手として登録メンバーにすべり込んだ記念の31回大会のパンフレットを取り出し、この17回大会について何か明記されているか確認してみました。年次優勝校という一覧があり第1回大会から30回大会までの結果が掲載されていましたが、特にそれらしい記載はありませんでした。

この古いパンフレットを開くと当然ながら懐かしい写真が出ています。

  

  

かなり長い間、この質素なつくりのパンフレットが使われていました。今のものは次元がちがう、おそろしく出来栄えの良い別物になっています。  

中央でシュートしているのは、現Jリーグ副理事長の原博美さんですが、その右横でシュートを許してしまった慶応の選手は浦和西高で同期のT君です。ちなみに西高時代はフォワードでした。

  

そして、当時読んだかどうか怪しい、少なくとも風化して何も記憶に残っていない、堀江先生、宮本監督、そして大学紹介のページを熟読しました。せっかくの機会なので頑張って書き写しました。 

『サッカーで大切なのは、闘志と技術と戦術だ。早慶戦は、22人の選手が闘志いっぱいのプレーを展開するゲームだという点では、まちがいなく期待できる。

次は、技術だ。両校の選手の技術水準は大したことはない。秋までには、一生けん命練習して、もっとうまくなってもらいたい。だが、見方を変えれば、相当うまいともいえる。われわれが現役だった時代よりは、トラッピングなどはたしかにうまい。

問題は、技術が戦術とうまく結びついていないことにある。一例をあげよう。敵のハーフが右からドリブルで攻め上がってきた。反対側をフォワードが突っ込んでくる。その進路に合わせようとしたハーフのクロス・パスが失敗して、フォワードの背後に落ちた。

このフォワードをマークしていた味方の右側のバックがその球を取る。そのとき、十中八九はみごとに足もとにピタリと止め、それから顔をあげて、味方を探すのである。当然、フォワードにフォローして上がってきている敵のハーフがタックルに来る。それをたくみにフェイントで抜いて、もう一度、顔を上げて、味方を探す。右のウイングが「引いた!引いた!」と声をかける。ウイングの方向へ2、3歩ドリブルしてから、その足もとへグラウンダーで正確なパスを出す。こんなバカていねいな「予告つき」のパスでは、ウイングをマークしている敵のプレーヤーは、そのパスをつぶさないではいられないだろう。

以上、技術的には満点でも、戦術的には零点の一例である。いまの日本サッカーには、一般的にこういう場面が多すぎる。

敵ハーフのパス・ミスをカットする味方バックの、戦術的に正しいプレイはなにか。できたら、ダイレクト・キックで、反対側のハーフ・ウェイ・ラインの方向に、ロッビングの大きなパスを送るのが、一番効果的だ。フォロー・アップしている敵ハーフの頭上を越え、ハーフ・ウェイ・ラインのこちら側まで下がってきている味方右ウイング(下がることを忘れて敵陣に残っているようではダメ)に渡す。ウイングはタッチ・ラインぞいにフル・スピードで攻め上がる。

ダイレクト・パスが無理なら、フォロー・アップしてくる敵ハーフの進行方向を避け、右外側へ大きくトラップして突進する。いったん下がった味方ウイングは(いつまでも「引いた!」といっていてはダメ)前向きに走りだすその進路へ(足もとでなく)パス、これでも逆襲になる。

こういう、戦術的にスキのないプレーを展開してほしい。』  

『国内の数あるサッカーの定期戦の中で、観客を数万人も動員出来る定期戦と云えば、早慶ナイター戦以外にない。それだけでも早慶戦は他大学の学生から羨望視されているのではない。

早慶戦に、出たい一心で早稲田、慶応の両校を受験する学生も数多いと思うし、また、現役部員の中でも、年に一度しかない早慶戦だけには、何がなんでも“出場したい”、“するんだと”一時的でも頑張る者は多い。

早慶戦の看板と独特ともいえる雰囲気だけに、興奮し、技術も、戦術も忘れた、身体と身体のぶつかり合い、ただ、ガムシャラに動き廻るサッカーであるなら、90分間の試合は長すぎると思う。

サッカー本来の面白味は、技術、戦術、体力、ファイティング・スピリット、フェアープレーと云った要素と、22人の選手が一つのボールを操り生み出す、リズムとハーモニー、そして手に汗を握るゴールの攻防が見応えのある試合と云えるのではないだろうか。

我々両校の学生は、学生サッカー界のトップ・エベントとしてのプライドを持つと同時に素晴らしい試合を進めるために、我々、指導者も学生も、常に努力と精進を忘れず、怠らずに、一丸となって鍛錬していかなければならないと思う。

いつの日か、国立競技場の大観衆が、ゲームに酔い90分間がアッと云う間に終って行く様なサッカー試合を、夢見ている。』

早稲田大学ア式蹴球部―情熱100%

『えんじ色のジャージに身を包み、たまに若い女性を見つければいっせいに充血した視線を向け、アルコールが脳漿に充満すると必ず都の西北の大合唱を開始する、そんな男たちがくらしているのが東伏見という街である。東伏見は早大の運動部員の為の街といって差しつかえない。駅から真っすぐに歩いて1分もすればグラウンドが視野にとびこんでくる。その他にはなにもない。早稲田は常に大学スポーツ界の頂点にいなければならないので当然のことながら日々の練習はきつい。若いエネルギーをすべて東伏見の土と砂に吸収されてしまうので、エネルギーを補充しなければならない。その為に駅前にわずかばかりのそば屋や喫茶店、飲み屋等があるだけである。そういったオアシスで部員たちは、人生の荒波をこえてきたその重みを顔にきざんだしたたかな女性たち、喫茶店のママやそば屋のおばさんたちと家族のように談笑することで、明日への無限のエネルギーをたくわえていくのである。

早稲田大学ア式蹴球部の全てはこの東伏見から生まれるのである。

宮本監督はじめ74名の部員はあふれんばかりの情熱と火花を散らす闘志としなやかな頭脳の全てを発揮して、毎日確実なものをグラウンドから吸収していくのである。

今年の主将、原は全日本にも選ばれる実力はもちろんのこと、その人柄で74名という大世帯をまとめあげている。彼のシーズン初めの抱負の言葉は、「じゅあ、みんながんばっぺ」である。この言葉で部員がまとまっているのであるから栃木弁の神通力はおそろしいものである。

副将の中山も原と共にチームの牽引車となってがんばっている。

毎日の練習メニューはグラマネの永井と稲桝が監督と相談して決めている。74名という大人数でいかに最大の効果をあげるかということで彼らは日夜頭を悩ましているのである。

今年は21名というかなり多数の新人を加えることになったが、彼ら一年生たちは、部の土台を支える重要な役目を果たしている。雨の日の練習後などは一日中グラウンドと格闘している。その努力のおかげで全員が練習に集中できるのである。もちろん一日でも早くレギュラーポジションを獲得しようと燃えているのはいうまでもない。その熱意は上級生をケズッてでも試合にでようという程のもので(もっとも他の意図もあるのかもしれないが)上級生の心胆を寒からしめている。

2年生、3年生はそのすべての神経を練習に集中し、部の中核としてはりきっている。学生選抜の吉田、池田などは重要な戦力となっている。この二人はプレーばかりでなく、普段でもかなりな心臓をしている。池田はカナダに留学の経験があり、やたらと横文字を使いたがるが、それがどうもあやしい。彼によると、カナダでは彼のポジションはLight Wingというのだそうだ。

その他、寮会計の木村、食費会計の五領は練習後もその責任を果たすべく、お金と数字と部員の顔をにらみつけている。忘れてはならないのは浅川さんと平野さんの二人の女子マネである。彼女たちは花嫁修行そっちのけで早稲田の為に重要な役割を果している。この早慶戦も彼女たちなくしては開催できなかったであろう。彼女たちを泣かせないためにも我々早稲田大学ア式蹴球部は勝たなければならないのである。

堀江部長、宮本監督以下、部員全員がひとつになって、それぞれの個性を生かしながら努力することで早稲田のサッカーは成り立っているのである。』

(ところで、先輩のYさんが凛々しくプレーされている冒頭の写真は、東伏見ではなく検見川です)

この文章は4年生のG先輩によるものだろうと思います。G先輩はサッカー部には珍しい数少ない政経学部の学生でした。そしてオフには、普通の学生ではなかなか行けない”ツバキハウス”というプロ仕様のディスコに時々(?)行かれていたようです。

画像出展:「DISCO CATのブログ

こちらは庶民派の”カンタベリーハウス”

画像出展:「Disco Time machine


憧れの国立競技場。グラウンドに角帽をかぶっている後方の小さな面々は多分1年生。

左の方にパンフレットとおぼしきものを掲げている気の利く奴がいますが、よく見たら私でした。虫眼鏡でみたところ第32回となっており、この写真が4年生、最後の早慶戦のものということが確認できました。

 

JR千駄ヶ谷駅前。なぜか女子マネでもない若き女性が中央に笑顔で写っているのですが、これは多分、フットワーク抜群のK君の成果だったと思います。写真を撮って頂いたのはこの女性のお母さんです。間違いないと思います。

 

 

「38年経ったぞ!」と言いたい。

 

 

巻末付録として“わかりやすいサッカー用語集”というページが8ページにわたって掲載されていますが、その前の最後の記事が“ワールドカップ予想”です。これは同年1966年の7月11日から30日まで、ロンドンなど七都市で行われる、第8回大会を予想したものです。



サッカーのオールドファンには有名な話ですが、この大会で北朝鮮チームはベスト8に入るという快挙を成し遂げました。調べてみると、予選リーグではイタリアを1対0で撃破。準決勝進出をかけたポルトガルとの一戦でも、最後はモザンビークの黒豹と恐れられたエウゼビオに4点を叩き込まれ敗戦したものの、世界を驚かせる記録と記憶を残しました。 

画像出展:「SOCCER!

 

 

こちらの画像は「OKANITOの横浜便り:“奇跡の出会い”」から拝借しました。素敵なサイトです。

ベンフィカリスボンの選手として来日し、神戸での試合のハーフタイムに撮られたようです。32歳だったサントスFCのペレ、ワールドユースの若きマラドーナ、トヨタカップで来日した数々の有名選手と比べても当時28歳だったエウゼビオのプレーは圧巻でした。

日本流サッカー

昨夜は同点を狙った積極的な戦いをして欲しかったという思いから、喜び半分という気分でした。しかし、一夜明け16強のトーナメント表に日本があるのを見ると、予選突破の喜びがジワジワと迫ってきます。

そして、あの采配も物凄い決断だと気がつきます。同点を狙う積極策は点が取れれば英雄です。たとえ点が取れなかったとしても、その批判は限定的だと思います。一方、今回の策はセネガルが残り時間で同点弾を決めていれば、恐ろしいまでの批判に晒させることになったはずです。現実問題、成功しましたが厳しい批判も出ています。それでもこの作戦を選択したのは約10分間という残された時間において、日本が得点する確率と失点のリスク、そしてセネガルがコロンビアから得点する可能性を、純粋に分析、比較検討し最も予選突破の確率が高いもの、しかしながら、うまくいって当り前、できることなら選択したくないものを批判覚悟の上、勇気と信念をもって選択したという決断でした。そして、予選突破の目標はクリアされ、不調だった川島選手が復活し、多くの選手がピッチに立ち、主力選手の温存もでき、選手とスタッフが1枚岩になったという成果は、次のチャレンジにとって良い準備につながったことは間違いありません。

いよいよ次はベルギーとの大一番。ポーランド戦のモヤモヤを引きずらず、エネルギーに変えることができれば、日本の底力が爆発しW杯8強という快挙も夢物語ではないと思います。(今回のブログは「西野ジャパン」の続編です)

『スタジアムは町の風光明媚の地、ロシア最大級の川であるドン川沿いに位置する。スタジアムの北スタンドは一部オープン式で、そこから観客は川と町の美しい景色を鑑賞できる。』

画像出展:「ロフスト・アリーナ

今回のワールドカップの成果は、停滞気味の日本サッカーが直面していた危機感と、前回のブラジル大会の悔しさが強烈な原動力になっていると思います。そして、予選3試合を観て感じるのは日本サッカーが新たな段階に足を踏み入れようとしているという感触です。その感触とは日本流サッカー、日本型サッカーの胎動です。

そのサッカーの特長を「サッカー・インテリジェンス」と呼びたいと思います。その中核にくるのは日本人のDNAと思える【勤勉さ】、【和を尊ぶ心】、【素直な心】の3つです。その周辺にはメンタリティとして[リスペクトと勇気]、[闘志と冷静さ]、[分析力と修正力]、[責任感と助け合い]、そして[勝利のための自己主張]の5つを配置したいと思います。そして、最後の実行力として[圧倒的走力と俊敏性]、[強靭な体幹]、[正確に止める技術」、[正確に蹴る技術]を置きたいと思います。

 

自己主張はチームにとって難しい部分ではありますが、建設的な自己主張は絶対に必要です。自己主張が乏しいチームは強くなるチャンスを放棄しているようなものだと思います。

大西イズム

「縦の明治」、「横の早稲田」はラグビーの戦法を端的に語る言葉です。この早稲田の戦法は大西鐵之祐先生が編み出されました。当時、大学生だった私は大西先生の「コーチング論」の授業の中で、指導者が絶対に持っていなければならないものとして、「どのように勝利するかを選手に明確に伝え、選手がその方法を100%信じ、100%の能力を試合の中で発揮することだ。」と教わりました。今の時代で考えれば、その勝利する方法は一方通行ではなく、指導者と選手によってより良いものに築き上げるというものなのかも知れません。

そして、この指導者像に加え、大西イズムともいうべきスポーツと平和の関係性を考えることは、日本サッカーにとっても貴重な提言ではないかと思います。

出版:二玄社

この本の「あとがき」は次のような内容です。

『大学体育に関与してから三十七年、大学スポーツに関係して五十二年。私はその人生の大部分を早稲田の杜で生かされてきた。そしてスポーツとラグビーの研究に専念させてもらったのである。有難いことであった。ラグビーについては十数冊の著書によって自分の研究を発表して、いささかわが国のラグビー界に寄与したと考えているが、スポーツについては未だ著書を出していない。ここ数年来今回絶大な協力を頂いた伴一憲、大竹正次、栄隆男の三先生から、何回となく研究をまとめて出すよう要請されたが、不勉強で実現出来なかった。昨年心臓の大病で入院、九死に一生を得て現在自宅療養中である。三先生から今度大学を去る機会に発表しないともう機会がないと言われ、それではと決心した時は療養中で書くことが出来ない。仕方なく話を録音して原稿におこす方法となったため、こうした変わった編集の本となってしまったのである。

さてこの本はいままで個々に研究されて来たスポーツに対する研究が、将来どうしたらスポーツを通じての教育によって平和な社会の建設に貢献し得るかということを中心として書かれている。

今年は敗戦から四十一年、戦死した戦友の霊に感謝の念を捧げると共に、戦争に参加したものとして、現在の平和が永久に続くよう懸命の努力を払わなければならないと決意している。それではスポーツ指導者としてこの平和の維持に貢献するためにはどうした方策があるだろうか。

歴史上最も永い平和の期間を持っているのは封建社会である。何故だろう。それは文武の教育が徹底していたからだと思われる。宗教による平和の教育と武術を通じての闘争の倫理の教育がうまく調和して平和の維持が出来たのではないか。従って武の教育は闘争の倫理を体得させるのが目的であって、その流れをくむスポーツを通じての教育も、ゲームによる闘争の倫理を教えるのが目的であって、体力や健康の養成はその付随物に過ぎない。スポーツにおけるゲームを通じての、勝敗における闘争の倫理の教育こそ、今後の青少年の教育に最も必要なものであり、そうした闘争の倫理を体得した青少年が団結して社会の基礎集団としてのスポーツ集団を結成して社会的勢力をつくり、もし戦力を準備し或いは戦争に導かんとする政治家その他に対して断乎として闘いこれ等を落して行く覚悟をつくらなければならない。こうしたスポーツを通じての国際交流と闘争の倫理の教育を行うことこそ、平和を維持するスポーツ指導者の方策ではないか。こうした趣旨によって本書はまとめられている。 ~以下省略  1986年9月』

ブログでは「勝つチームを作るために」の中からご紹介させて頂きます。

勝つチームを作るために

理論指導における指導理念について

『ティーチング(理論指導)とコーチング(技術指導)の併用が重要なことを強調してきたが、理論指導の場合もその大部分は戦法、技術、練習等についての指導計画の解説に向けられて、肝腎の指導理念については簡単に終わってしまうことが多い。しかし教えられるメンバーが指導理念に全面的に共鳴し、信頼したものでない限り、戦法や技術論は枝葉末節になってしまう。そこで理論指導を利用して行った指導理念について説明しておこう。』

大西先生はチームワークについて次のようにお話されています

『相当練習したのに試合に勝てない現実にぶつかる。勝負を行うプレイヤーは皆個性を持った人間であるということである。これらのプレイヤーの人間関係が一つに統合されていないと絶対に勝てないということを悟る。チームワークとはチーム全員が或る目標に向って必ずやりとげるという共通の精神をもつことであり、唯観念的に持つというだけでなく、その意味を認識し理解し、しかも心から共鳴して信奉し、自分から積極的に協同行動を行うまでに昂揚されたものを持つ時チームワークは完成する。又チームは各プレイヤーに共通の精神を持って協働行動をとることを自然のうちに強要する。人間の精神というものは、各人がこうした共通の精神と目標を持った協働行動に自ら参加し活動するときに成長するものなのである。』

 

理論の注入と知性的行動

『最近のスポーツは国際的に、目的を達成するためにはどんな方法と手段を選ぶべきかという研究が始まってきた。ラグビーにおける各種プレイはトライをとるための技術であり、チーム戦術もまたトライをとるための技術である。そしてこれらの技術はその根底に裏づけとなる理論をもっている。理論的に研究された技術がこの理論指導で教えられ、練習によって実験され、反省し吟味し再組織されて、熟練的技術として戦法的に練習され、反省、吟味、再組織をくりかえしながら進歩して行く。こうしたスポーツへの理論の注入こそ、現代スポーツの特徴であり、現代ラグビーもこうした過程をたどって、勝利を目的として真剣に練習されているのである。

こうした戦法、技術、練習への科学的理論の注入は、とかく若いプレイヤーの陥りやすい衝動的なプレイを知性的プレイへと導く第一歩であり、スポーツこそ知性的行動だということを認識させ青少年達を向上と進歩へと導いて行く。人間が衝動的行動から知性的行動へ進んで行く最も確実な方法は、ある目的を設定しその目的を達成するために、各種の情報を収集して理論を構成し、それを実験して反省し吟味し再組織した理論を繰りかえして実験してゆく過程である。ここにラグビーを行う教育的な価値の一つを見出すのである。ラグビーをやる楽しさの一つは、ただラグビーが面白いからだけでなく、自分が考えた理論的技術が練習によって熟練的技術に向上し、それがゲームにおいて有効に実証されるという研究努力の累積による完成の楽しみなのである。』

大西先生が語っていた「不良少年たちであっても、スポーツに真剣に取り組み、勝利の喜びを知り、さらに周りからの評価を受けることで、本来の少年の姿を取り戻すものだ。」という内容は、強く印象に残った先生のお話の一つでした。

 

画像出展:「GAHAGフリー素材集

追記

夢は一歩届きませんでした。残念な思いを引きずっていた時に嬉しいGood Newsが明るい気持ちにさせてくれました。

タイで行方不明になっていた、サッカー少年12人とコーチ1人の生存が9日ぶりに確認されたとのことです。

画像出展:「AFPBB News

付記

以前からキーホルダーくらいあった方がよいな。という思いもあり、Fanaticsというネットショップで見つけたロシアワールドカップグッズ2点をほぼ衝動買いしてしまいました。


西野ジャパン

ついに、尊敬する大先輩の西野さんが監督の頂点である日本代表監督に就きました。大変嬉しい出来事で、一時は少々しぼんでいた日本代表に対する期待も一気に復活しました。西野監督率いる日本代表が予選を突破し、決勝トーナメントでのベスト8を懸けた戦いを観るというのが私の願いです。
「勝てば官軍負ければ賊軍」は監督の宿命ですが、今回はとびきりのプレッシャーが掛かる崖っぷち就任であり、まさに「火中の栗を拾う」という言葉通りの正念場だと思います。
そこで、高まる期待を抑え、まずは頭を冷やして今回の監督交代について考えてみたいと思います。
ハリルホジッチ監督が選手に要求していたのは、「1対1の強さ」、「縦への素早い攻撃」、そして「競争」だったと思います。しかしながら、欧州遠征での未勝利はチーム内の競争を優先し続けた結果、チーム戦術の熟成がほとんど進んでいないという現実を露呈してしまったと思います。また、監督の戦う方針、戦術に対する疑問が選手の中にくすぶっており、監督を信じてチームがひとつにまとまることができないという問題に直面していたと思われます。劇的な解任の理由はこの二つではないかと思います。
「1対1の強さ」、「縦への素早い攻撃」の二つは極めて重要です。しかしながら、特に前者は日本代表の課題、ウィークポイントであって日本の強みではありません。戦いの鉄則は「敵を知り己を知る」に始まりますが、まもるべき鉄則は「自分の土俵で戦う」ということです。
それでも、日本選手が鋭いよみと強靭なメンタル、強い体幹を身につければ、体格の欧州選手、運動能力のアフリカ選手、試合巧者の南米選手とも互角に戦えると思います。しかし、「優る」ことは困難です。
「縦への素早い攻撃」はパスの出し手、受け手、第三の動きが必要です。つまり、この攻撃はチーム内の意識の統一、流れるようなコンビネーションなくして破壊力は生み出せません。もし、選手が監督の戦術に疑心暗鬼なものを抱えたまま戦っているとすれば、この戦術がうまく機能するとは思えません。

そして迎えた大事なガーナ戦
結果は非常に厳しいものになりました。ガーナ戦に勝ってサポーターの熱い声援を受け、戦いの地に旅立つというシナリオは崩れました。
1点目の失点は、相手選手が腰をぶつけてきた反動で前に倒れたようにも見えましたが、反則と判定され相手にFKが与えられました。集中力に欠けていたからなのか、壁の作りが雑で選手間を抜けてきたボールはキーパーの手をかすめてゴールネットを揺らしました。2点目はディフェンダーとキーパーの連係ミスから、勢い余ってガーナの選手を押し倒すことになってしまい、PKを決められ追加点を許すことになりました。
このセットプレーからの2失点は、ディフェンダーおよびキーパーとの連係の精度を高めることで回避できる失点だと思いますが、攻撃面、守備面いずれもセットプレーは重要です。
一方、流れの中で何度かあったピンチの多くは、中盤での簡単なパスミスからのものでした。こちらも非常に重要ですが、私が思うにはポジティブかつ慌てないメンタルと選手の距離間、コンビネーションが安定すればチームとして、またプレーヤーとして自信と余裕が生まれ、それがミスを減らしてくれると思います。
今回の試合で試されたフォーメーションは、1トップ・2シャドウの「3・6・1」と2トップの「3・5・2」、そして従来型の「4・4・2」の三つでした。私はこの中では最初の3・6・1が1番良いと思います。それは前線の3人(1トップ・2シャドウ)、両サイドの3人(1シャドウ・1ボランチ・1サイド)、中央の4人(2シャドウ・2ボランチ)の選手のコンビネーションを高めることにより、数的有利な局面をつくり出しやすいと思うためです。そして、90年代オフト監督が選手に植えつけていた「アイコンタクト」を共通意識のワードとして復活させてみてはどうでしょうか。
3バックはトルシエ監督時代の「フラット3」が印象的でしたが、勝利に2得点が必要と考えれば、ラインを積極的に押し上げ、選手同士の距離間を維持する「フラット3」はリスクもありますが、優れた戦術であると思います。この点も「3・6・1」を推す理由です。

残り3週間、オーストリアでの事前合宿に期待します!!

 

日付が2006年1月17日となっていますので、ガンバ大阪を率いて4年目となった2005年のJ1初制覇をお祝いして、浦和西高OBが企画した会で間違いないと思います。

1995.5.26 アトランタオリンピック アジア地区 一次予選 タイラウンド 

日本 5-0 タイ

 

今井さんを隊長とする西高OB有志4名+奥さま(1名)の5名が、西野U23代表監督を応援すべくタイにとびました。

 

1996.3.24 アトランタオリンピック アジア地区 最終予選。マレーシアのシャー・アラム・スタジアムにて、28年ぶりのオリンピック出場権をかけた、サウジアラビアとの大一番が行われました。

スタジアム内で撮った写真もあったはずなのですが。。。


1970年代のサッカーマガジンを検索していて、偶然、お宝写真を見つけました。エンジのユニフォームは早稲田大学ですが、中央が西野さん、そして、その後ろがマレーシア応援隊の隊長だった今井さんです。西高OBとしては貴重な一品なので貼り付けました。なお、画像はSonetさまからです。 -2019年4月2日-

 

早稲田大学3年生だった西野さんの雄姿です。(1975年秋)

強烈な個性の先輩だらけだった4年生が引っ張ったこのシーズンは完全優勝でした。

番外編(せっかくの好機なので、掲載させて頂きます)

 

西野さんが表紙となった古いサッカーマガジンを今も大事に保管しているのは、実は、この号に私自身の唯一のお宝写真が載っているためです。

僭越ながら、そいつはこいつです。

アメリカW杯最終予選。我々が泊まったドーハのホテルには各国の選手も宿泊していました。何と、このホテルで西野さんにバッタリお会いしました。

※国旗は手前から、サウジアラビア、韓国、北朝鮮、日本、イラン、そして忘れることのできない、イラクです。

朝、ホテル内のレストランから、いきなり出てきたのは、イングランドの英雄、ボビーチャールトン氏。びっくりして反射的におじぎをしてしまったところ、“モーニング”と挨拶して頂きました。

画像出展:「そろそろ記憶が怪しいもので


 

試合観戦は初戦のサウジアラビア戦と2戦目のイラン戦。

こちらはサウジ戦の選手入場です。スコアは0対0の勝点1でした。

付記:西野監督の慰労会

先月29日、さいたま新都心にて、浦和西高サッカー部OBによる、前日本代表監督である西野さんの慰労会が執り行われました。

その慰労会の前には、少し小さい会場で現役部員、男女あわせて約180名を集めての講演も行ったとのことでした。

サインは2次会突入後早々にGetしました。

幹鍼灸院、番のお宝です!

 

早大サッカーと駒場サッカー場

駒場サッカー場は自転車5分の距離にあります。
その駒場サッカー場で、早稲田大学サッカー部(ア式蹴球部・ア式蹴球女子部)の試合が5月に行われました。男子は関東大学サッカーリーグの試合で、早稲田の試合が駒場で行われるのは、おそらく今年はこの1試合だけと思われます。また、女子部の試合は関東女子サッカーリーグの試合で、浦和レッズレディースユースチームのホームゲームということです。

 

関東大学サッカーリーグ1部

早稲田大学 1 対 0 明治大学

男子は昨年の劇的な逆転優勝で念願の1部昇格を1年で果たし、1部に上がってきた最初の年ということになります。2戦目の筑波大学、3戦目の流通経済大学という強豪チームに競り勝ち、この日は同じく3連勝と勢いにのる強敵明治大学との4連勝を掛けた大事な一戦になりました。
積極的に仕掛ける明治に対し、しっかり守って素早く攻めるという早稲田の試合運びは対照的です。早稲田にとっては先制点を献上すると厳しい試合になることが予想されました。少しラインが下がりすぎる懸念はありましたが、集散と球際の厳しさが浸透し、攻撃のスイッチが入った時のチームの意識統一が徹底されていました。試合は前半のキーパとの1対1の決定機を確実にゴールに結びつけ、そして、その1点を最後まで守り抜き、早稲田が4連勝を勝ち取りました。
その後、駒沢大学に敗北を喫したものの、5月25日時点での4勝1分1敗、勝点13は勝点差1で続く、順天、駒沢、明治の3チームを押え、頭ひとつリードしての首位となっています。

追記:2018年11月12日

早稲田大学が第92回の関東大学サッカーリーグを制覇しました。選手、スタッフの頑張りを誇りに思うとともに、東伏見という特別な地に思いを馳せます。

 

画像出展:「早稲田スポーツ新聞会

 

関東女子サッカーリーグ

早稲田大学 2 対 0 浦和レッズレディースユース

前半の給水タイムです。

女子部は昨年インカレ3連覇を達成し、関東女子サッカーリーグも現在9連覇中という素晴らしい成績を上げています。

一方、浦和レッズの下部組織である浦和レッズレディースユースチームは高校生年代のチームになっており、その意味では強敵ではあるものの、お姉さんとなる早稲田は負けるわけにはいきません。
体格ではむしろ浦和レッズレディースユースの方が、少し優っているように見えましたが、足腰や体幹の強さは早稲田の方が鍛えられているように思いました。また、試合運びにも優れ、2度の決定的チャンスを逃した時は、「う~ん」と思いましたが、その数分後に左コーナーキックからのチャンスを押し込み、何んとか先取点につなげることができました。この前半の1点は試合を有利に進めることとなり、結果的に2対0で勝利することができました。
ただし、ロスタイムを入れた残り10分弱の気の緩みは、暑さによるものもあったと思いますが、今後の反省点だと思います。

5月25日時点の成績は5戦全勝で首位を快走しており、10連覇に向けて順調な滑りだしとなりました。

駒場サッカー場は1967年9月、埼玉国体のサッカー会場として、当時沼地だった土地を埋め立てて建設されました。私自身、その大規模な工事の風景の記憶がわずかにあります。当時のサッカー場の観客席は大部分が芝生席で収容人数は8,000人だったようです。

画像出展:「浦和市体育協会 創立30周年記念誌」


そして、このサッカー場は1993年のJリーグ発足時に、浦和レッズのホームグランドとして採用されました。
サッカーが盛んな浦和ですが、サッカー少年団が出てきたのは1960年代後半、少し遅れて発足した駒場サッカー少年団は、1970年のスタートでした。小学6年生の私はプロ野球の選手に憧れていたのですが、駒場サッカー少年団に入団したことで、サッカーがかけがえのないものになりました。

初代駒場サッカー少年団

K君と共にガキ大将だった、I君が行方不明です。


駒場サッカー少年団の多くの仲間は、当時にあっても珍しかった、木造校舎の原山中学校に進学しました。あまりに懐かしいので「浦和市立原山中学校’(昭和51年3月卒)原山小学校、仲本小学校(昭和48年3月卒)同窓会ホームページ」さまより拝借しました。

駒場サッカー場というより駒場運動公園といった方が正しいと思いますが、多分、小学3、4年生の頃です。自動車が来ない広いアスファルトということで、ローラースケートをするために一時は毎日のように来ていました。「なんで、ローラースケートだったんだ?」と不思議に思い、ネット検索してみたところ、あの「ローラゲーム」の影響だったことに気がつきました。
テレビ放送は1968年4月から、チャンネルは現テレビ東京、映像はロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードというチームだったようです。
そういえば、その後出てきた、東京ボンバーズはテレビでよく観ていました。

この写真は、「GARADANIKKI」さまより拝借しました。

この写真は、「Girls Channel」さまより拝借しました。


このベンチは公園奥にある相撲の土俵と共に、開設当時からのものだと思います。


駒場サッカー場に隣接して、日通浦和の野球場と体育館が古くからあります。この写真は昨年元旦に取ったものです。今は、改修工事が行われており、この景色は完全に過去のものとなりました。
わざわざ元旦の朝に、見慣れた風景の写真を撮りに行ったのは、これは「虫の知らせ」に類するものだったのかもしれません。

大健闘の2017シーズン

女子サッカーのインカレ(全国大学選手権大会)の決勝戦は同じ関東代表の神奈川大学でした。試合内容はほぼ互角、わずかに試合巧者である早稲田が集中した守備で相手の得点を許さず、1対0のスコアで勝利し大会3連覇という偉業を達成しました。
この試合は2017年シーズンの最終戦であり、最高の結果で締めくくることができました。早稲田女子部は関東大学リーグは2位という残念な結果でしたが、今季はもう一つ大きな仕事がありました。
それは、皇后杯3回戦でなでしこリーグ強豪のINAC神戸レオネッサにPK戦で競り勝ち、ベスト8に進出したというビッグニュースです。これも記録に残る今季の素晴らしい成果でした。

 

画像出展:「早稲田スポーツ新聞会

クリックして頂くと、監督、選手のコメントが見られます。

早稲田大学男子部は昨年末の悪夢を払拭してくれました。しかも、「勝てば天国、負ければ地獄」と評された最終の国士館大学との接戦をものにしての逆転優勝と1部リーグ復活という劇的なものでした。実際、3位中央大学も最終戦を勝利していたので、早稲田は負けていれば優勝はもちろん、1部昇格も逃していました。
大学リーグは前後期計22試合で行われます。2位の昇格圏を死守してきた早稲田は17節と19節の引き分けで、20節の直接対決を前に、猛追してきた中央大学に2位の座を譲る事態となってしまいました。そして迎えた
11月5日の中央大学との直接対決は、勝たなければならないという厳しいプレッシャーを背負いながらも、3対0の完勝で最大の山を乗り越えることができました。

私は台風が近づいていた10月21日に、東伏見グランドで行われた第18節、東海大学との一戦を観戦しました。伝統の重さなのか、選手には硬さが見られましたが、手を抜かない集中した試合をしていました。

後半、先制しながらも5分後に追いつかれたのは、勝利の厳しさを痛感するものでしたが、終盤に得点力のある選手、ヘディングの強い選手を立て続けに投入した監督の勝利への執念が、劇的なロスタイムの決勝ゴールを引き寄せました。ラストプレーから生まれた、ゴールに叩き込むような豪快なヘディングシュートは、雨も寒さも吹き飛ばしてくれました。

浦和西高等学校(男子)
歴史に残る1年でした。夏は30年ぶりのインターハイ出場と初戦突破の全国1勝。冬は34年ぶりの全国高校選手権県予選決勝進出。

関東大会を征し、S1(1部)リーグ優勝の昌平高の壁を壊すことはできませんでしたが、1-4の完敗だった夏とは異なり、今回は後半先制されるも、右サイドの切り崩しから、綺麗な同点ゴールを決めたことで、試合は接戦となりました。その後、早々に突き放される2点目を失い、勝利を逃すことになりましたが、チームの成長を実感できる拮抗した好ゲームでした。選手ひとりひとりが工夫、努力し、自信をもってチームとしての力に結集できたということだと思います。

一方、リーグ戦は1部昇格をかけ、2年生主体の新チームで戦いましたが、結果を出すことはできませんでした。高校生には大きな伸びしろがあります。1年かけ大きく変貌することができます。期待したいと思います。


浦和西高等学校(女子)
女子も健闘しました。サッカー経験者が集まる私立の強豪校との実力差は小さいものではありません。その状況で全国選手権の県予選を5位となったことは十分に評価できると思います。
埼玉県ではベスト4に残れなかったチームは順位決定戦にまわります。決定戦にまわった西高は、敗戦後、しっかりとチームを立て直し2連勝して5位を死守しました。ここで2つ勝ってシーズンを終えることができたのが何よりも良かったと思います。

付記1:東伏見の思い出
サッカー部だった私は、早稲田といえば馬場ではなく、東伏見であった。時に練習着のまま踏切をわたって銭湯にいった。ホッピーがある小さな飲み屋があった。私より明らかに大柄な本場のチアリーダが大挙してやってきて度肝を抜かれたが、あれは何だったのだろうか。その東伏見の景色は40年前のものである。
今にして思うと、グリーンハウスがとても懐かしい。それは練習しているグランドと相対するように建っており、独特の風貌から歴史と威厳を感じるからなのか。監督で早稲田の政経学部の教授でもあった、故堀江忠雄先生の「常識にとらわれず独創的であれ」という言葉が印象に残っているが、
そのミーティングはグリーンハウスで行われていた。そのグリーンハウスが歩んできた歴史には、どうやら坪内逍遥が関係しているらしいということは知っていた。しかしながら、それ以上のことは知らず、また、調べる気もなかった。

『グリーンハウスは1882年10月に東京専門学校が開校された時、学苑最初の木造洋館の校舎として建設されたものである。1902年に東京専門学校は早稲田大学と改称され、さらに1907年の早稲田大学第二期拡張事業の後文学部専用の校舎となり、多くの学生がここで学んだ。大教室の「文科第七番教室」では坪内逍遥が早稲田名物のシェークスピアを講じ、さらに島村抱月、高山樗牛(ちょぎゅう)といった名だたる講師がここで講義を行った。文学部専用校舎となる以前であるが、小泉八雲が最後の講義を行ったのもここであった。しかし1931年文学部に新校舎が建設される事となり、文学部旧校舎は東伏見運動場へ移築され、運動各部の合宿所として使用する事が維持員会で決定された。こうして多くの文学部学生が学んだ旧校舎は、体育各部の合宿所として多くの早稲田アスリートを育てる場となったのである。移築の際、外側の柱や横板、窓枠をエメラルドグリーンに塗装した事からグリーンハウスの愛称が定着した。以降グリーンハウスは多くの早稲田アスリートが練習に疲れた体を休め、友人と寝食を共にする卒業後も忘れ難い思い出の場所となったのである。しかしアジア・太平洋戦争中はグリーンハウスにも戦争の影が忍び寄った。ラグビー蹴球部の部員たちは1943年の学徒動員により学苑とグラウンドに別れを告げ戦場に赴いた。部員たちは戦時中グリーンハウスに備品を整理・保管していたが、OBに託してユニフォームを埋め、戦地へ向かった。無事に帰り、掘り起こしたユニフォームで練習を再開した部員たちもいたが、二度と帰らぬ部員たちもいた。グリーンハウスは戦争の悲劇を伝える場でもあったのである(早稲田ラグビー60年史編集委員会編『早稲田ラグビー六十年史』 1979年参照)。戦後も体育各部の宿舎として使用されたが、老朽化のため惜しくも1988年解体された。しかし1992年追分セミナーハウス(現軽井沢セミナーハウス)に新築復元され、今日大学関係者の宿舎・ゼミ室として利用されている。』

※上記の絵は、「悠々庵気まぐれ日記」から拝借しました。

※上記の文章は、「早稲田ウィークリー」から拝借しました。

堀江忠雄先生

前列左から3人目が堀江先生

画像出展:「JFA.jp

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いつか、必ず、読まねば!!」


宮本征勝監督

中列左から2人目が宮本監督

画像出展:「JFA.jp

【2005年第1回日本サッカー殿堂入り】

 

早稲田では2年生から、3年間お世話になった。2年の菅平合宿後、もう一人のM君と共に部屋に呼ばれ、「古河電工(現ジェフ千葉)の合宿に出てみないか」と声をかけて頂きながらも、断ってしまったという最高に失礼な記憶が鮮明に残っている。宮本監督との出会いは、私が小学6年生の時、場所は駒場サッカー場。古河電工の選手として駒場に来ていたのは間違いないだろう。ちゃっかりサッカーボールにサインまでもらっていた。今回、宮本監督の写真を探していて、生前に出版されていた「サッカーに魅せられた男 宮本征勝」という本があるのを知った。「まずは、買わねば!!」

これは、おそらく大学2年の時の菅平合宿です。起床後、宿舎からダボスまでランニング、そして頂上までのタイムトライアル、更に比較的なだらかな地形を利用しての坂道ダッシュと、朝からガンガン鍛えられました。

中央に堀江先生(白)、後列向かって左端(赤)に宮本監督が映っている貴重な写真です。

付記2:検見川の思い出

どこから拝借したのか思い出せないのですが、大変、貴重な写真だったので保存していました。確か、サッカー誌の「イレブン」か「サッカーマガジン」に掲載された記事が大元です。

一番後列の向かって右端が宮本征勝監督です。私は2年生で、多分、前から2列目にいそうです。

 

なお、記事の内容は以下の通りです。

『検見川で長期合宿にはいっている早大、この日(2月29日)は前日の雪でグランドがぬかるんでいるため、もっぱら筋力トレーニングに精を出していた。この筋力トレーニングは、「大学選手はまずパワーでJSL選手に負けている」との宮本コーチの持論から、いまや「早大名物」になった感もある。一段と逞しくなった選手たちは、総勢51名。王座奪回のため名門チームは、全員一丸となって、「ただいま特訓中」。

日本サッカー、ロシアへ

唯一悔やまれることは、チケットが当たらず自宅でのテレビ観戦に甘んじたことです。嫌な予感の方はしっかり当たりました。
家でゆっくり観るのも悪くないと納得し、早々と夕食を済ませ、後片付けもサッサと済ませ、お風呂もクリアし、国歌斉唱の時には準備完了。なお、ビールは集中力を低下させるため却下しました。
理想のシナリオは、『前半35分に先制、前半は1対0のまま後半へ、そして後半15分に追加点。残り30分を1失点以内に抑えて勝利!』というものを期待していたのですが、うれしくも、ほぼその通りとなりました。ただし、スタメンには疑問があり、不安を感じてのキックオフでした。
期待していた戦い方は、アウェーのUAE戦で見せた徹底した攻撃的チームディフェンスと、イラク戦の反省点でもあった相手を圧倒するサイド攻撃でした。
浅野選手も乾選手も相手の脅威になる武器を持った危険なサイドアタッカーであり、オーストラリアにとっても想定外の名前に混乱する可能性もあります。コンディションも良いようなので素晴らしい選択なのですが、それでも、スタメンよりも試合の流れを変える交代メンバーの方が良いのではないかと思っていました。あるいは、この試合のスタメンは5日後のサウジアラビア戦も考慮したうえでのメンバー選考だったのかもしれないと思いました。
しかし、幸いにも不安は現実のものとはならず、最高の結果を手に入れることができました。そして、新しい選手、若い選手の台頭により、チームの可能性が広がったことは来年のロシアに向けて大きな収穫にもなりました。
今回、試合全体を振りかえって2つの事に気付きました。一つは、海外での実績は選手にメンタルの強さと誇りをもたらせており、共通した成功要因に日本人の勤勉さと創意工夫の力があるように感じたことです。そして、もう一つは、ホームのアドバンテージについてです。これが意味していることは、応援してもらえるという受動的なものではなく、サポーターに勝利をプレゼントして共に喜びを分かちたいという、使命感に近い強い意志力をチームとして結集、発揮させる力をもっているということでした。
それにしても嬉しい日になりました。来年のロシアが楽しみです! 
ちなみに日程は2018年6月14日~7月15日のようです。 

 

こちらのスタジアムは開幕戦と決勝戦が行われる、モスクワにあるルジニキ・スタジアムです。

 

画像出展:「MKRU」

浦和西高、高校総体初戦突破!

会場はひとめぼれスタジアム宮城でした。
日韓ワールドカップ決勝トーナメント初戦のトルコ戦は、2002年6月18日観衆45,666人を集めてこのスタジアム(当時は「宮城スタジアム」)で行なわれました。雨が印象的だったこの試合は、内容もどんよりとした覇気の感じられないスッキリしない試合でした。

 

画像出展:「毎日新聞」

大事な初戦は2017年7月29日(土)、雨でした。

 

オーバー50のベテランOBの10名は、仙台駅でレンターカー2台に便乗してスタジアムに無事到着。

 

来た来た!」という感じです。

雨となった浦和西高と東北学院高校との一戦は、それぞれ30年ぶりと17年ぶり、そして両校とも第2代表という実力伯仲のお互いにとってやりやすい対戦相手だったと思います。
立ち上がりから東北学院高校が優勢に試合を進め、特に前半の比較的早い時間帯に、ゴール前で西高GKと1対1になってのシュートがバーを越えていったことが、勝敗を分けた1番のプレーだったと思います。
攻められながらも、あたふたした様子は特に見られず、西高らしい守りのリズムはできていたように思います。また、時折見せるパスワークによる攻撃も、普段の西高らしいプレーが出せていたと思います。その意味では、前半を0対0で折り返せば十分に勝機を望める展開でした。そして、実際に0対0で後半を迎えることになりました。
西高の先制点は、プロでもはじき出すことはできないだろうという、ゴール左隅に流し込んだ鮮やかなヘディングシュートでした。2点目は焦りと疲れがみえはじめた時間帯であり、この得点で勝利を確信しましたが、気迫のこもった東北学院のヘディングシュートが数分後に決まり、一気に試合の行方は怪しくなってしまいました。しかしながら、守り切る意識の高さを最後までみせた西高が、何とか東北学院の猛攻を凌ぎきり、待望の全国大会1勝を手にすることができました。
明日は、全国大会常連の強豪、京都橘戦。自分を信じ、仲間を信じ、炎のような闘志と氷のような冷静さをもって試合に臨んでほしいと思います。One for all, All for one!


「残念ながら帰らねば。」 仙台駅の七夕は美しく、壮観でした。

浦和西高30年ぶりのインターハイ出場決定

1987年はハンディタイプの携帯電話やアサヒスーパードライが発売された年だった。そして、インターハイの開催地は北海道、冷夏がきつかったという。

 

今では考えられない、ハンディタイプとされた携帯電話。

画像出展:@DIME

現在の埼玉県の高校サッカーは関東大会を制した昌平、正月の全国高校選手権でベスト8に進んだ正智深谷、Jリーガを輩出している西武台、そして古豪となった武南、この4強と西高との差は小さくない。10回試合して3勝するのは難しいだろう。
しかし、公式戦のトーナメントは別物である。それは、敗北の瞬間に目標を失うというプレッシャーを背負って戦っているためである。すなわち、相手に先制点を許す展開は、それが後半であるなら、
なおさら、時間の経過とともに焦りが出始め、その混乱が自らの攻撃のリズムを崩してしまう。ここにトーナメントの怖さ、落とし穴が存在する。
24日の試合展開は西高にとってベストであった。西高が格上のチームに勝つ流れで試合は進んでいった。前半はスタートから西武台が攻め込む時間がながく、決定的とまではいかないが、シュートが正確であれば2点は失っていたと思う。
失点シーンを免れた西高のディフェンスは落ち着いて守備に集中できるようになり、相手の攻撃のリズムにも慣れてきた。我々が戦っていた約40年前の西高も、相手に攻撃させるのが西高ペースと開き直り、「点さえ取られなければいいんでしょ。そしたら、1点取れれば勝てるよ。」という、学生らしくない合理的な試合をしていた。その雰囲気が今日の西高には少しあった。

関東大会予選準決勝の昌平戦は、前半は0対0で持ちこたえたが、後半1分もたたずに失点してしまい、勝利のシナリオが崩壊してしまった。
今日は何としても、5分、10分は耐えなければならないと願っていたわけだが、選手も昌平戦の経験を活かしていた。慌てることが少なく、また、チームの意識が統一され、カバーリングなどチーム全体のディフェンスの連携もできていたと思う。
そして、意外にもこの時点帯に西高がPKを決めてリードする展開になった。西高は押されながらも時折、圧力をかけ果敢に攻めに出ていった。実は西武台とは今年の新人戦の準々決勝で戦っており、負けはしたがスコアは0対1であり、選手も「戦える」という気持ちで臨めていたと思う(少し前の西高は西武台とは0対5位のスコアで負けていた)。その気持ちが本気の反撃になっていた。
後半の最大のピンチはヘディングシュートだったが、ボールは右ポストのやや内側に当たり、運よくキーパーの手に収まった。その際、負傷したキーパーの治療のために5分近く中断したのだが、その予期せぬ休息タイムによって、西武台の選手の集中力がわずかに下がり、疲労が現れたような印象をもった。
そうして、ついに6分のロスタイムに投入、嫌な感じのセットプレーもしっかりディフェンスし、勝利は西高のものとなった。
明日の決勝は昌平である。結果、内容とも関東大会予選準決勝の時より良くなっていなければならない。インターハイに向けての初仕事という高いモチベーションを持って戦ってほしい。

(写真は試合前の挨拶とKickoffのホイッスル&西高ベンチ。後の建物は埼玉スタジアム2002)


オーストラリア戦に勝つ!

負傷者の多かったチーム状況は試合中にも発生した。そして、37度を超える暑さ、1200mの高地、深い芝生というアウェーの地イランは、相手のイラクにとっても同じ条件とはいえ、ストレスが重なる厳しい試合だった。

残り2試合となった現在、勝点で1の差をつけ、得失点では2位サウジアラビアとは2点差、3位オーストラリアとは3点差。決して悪くはない。引き分けが許されないホームでの次戦は、闘う気持ちを奮い立たせ、チームの結束を究極まで高めてくれる。勝利はワールドカップ出場決定であり、終了のホイッスルは歓喜の爆発、最高の瞬間を共有できる。
8月31日の決戦に向けて、今回のイラク戦で得たものは何か、また、検討すべきは何かを考えてみた。
得たものは昌子、遠藤、井手口の新戦力は十分に戦えたという点である。一方、検討すべきは、サイドからの切り崩しの圧力が弱かったことである。また、負傷による予期せぬ交代も、不運ではなく、選手のコンディショニングという視点で振り返ってほしい。

決戦まで75日、ベストメンバーはその時にならないと分からないが、アタックル(能動的で攻撃の始まりとなるチームディフェンス)とサイドアタックを重視した試合を観たい。そして、第一の目標をクリアして欲しい。  「さて、私にはチケットが当たるだろうか!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

PAS Stadium

画像出展:static.panoramio.com

UAEとの勝点差は4へ

昔、ラグビーで「アタックル」という表現を使っていた監督がいました。これは攻撃の「アタック」と守備の「タックル」の造語で、攻撃的な守備、攻撃のための守備という意味だったと思います。

23日の日本vsUAE戦での日本のディフェンスは、まさに「アタックル」という感じでした。素早い攻守の切り替え、プレスのかかった相手選手への早い寄せ、チーム意識も統一され、各選手が手を抜くことなく全力で火消しに動いていたと思います。これが最大の勝因だと思います。

一方、「運」も日本を後押ししてくれました。特に1点をリードしてスタートした後半、左サイドからの速く正確なセンターリングを、相手FWがインステップのボレーでゴールに叩き入れようとして、空振りとなったシーンです。もし、右足インサイドを使って、ゴール右隅(GKの動きの逆をつく)に体ごと流し込むようなプレーを選択されていたら同点になっていたと思います。この後、まもなく大活躍だった今野選手の追加点が入りました。素晴らしいディフェンスだったとはいえ、1得点のままでは、後半最後まで0点で抑えられたかどうかは疑わしく、相手の空振りと今野選手の追加点が勝負を決めることになりました。

そして、「運」を呼び込んだのは、今野選手同様、久々の代表でのプレーとなった川島選手が前半、相手と1対1になった大ピンチを積極果敢なセービングで阻止したプレーと、最初のシュートチャンスを確実にものにした久保選手の冷静なプレーだったと思います。酒井宏樹選手のパスも絶妙でした。また、目立ったプレーはなかったものの、必死なディフェンスでチームに貢献していた香川選手も良かったと思います。

次のタイ戦は前回大勝、相手は最下位、そしてホーム埼玉スタジアムということで、もっとも油断しやすい状況であり、ある意味最も難しい試合だと思います。しかし、必ず勝点3を積み上げ、夏の中東アウェー戦に向かっていってほしいと願っています。

Hazza bin zayed stadium

画像出展:Construction Week Online.Com

早稲田ア式女子インカレ2連覇!

ア式女子とは「ア式蹴球部女子部」のことで、早稲田大学の女子サッカー部のことです。創部は1991年、関東大学リーグ6回、インカレ4回の優勝実績をもつ強豪チームですが、今年のリーグ戦では優勝をかけた日体大との試合で0対3と敗れ、2位という結果に終わっていました。

15日の試合も日体大の25m弾が右すみに決まり、先制を許す厳しい試合となりましたが、セットプレーからのピンポイントなフリーキックが狙いすましたヘッディングシュートに結びつき、前半のうちに同点に追いついたことが非常に大きかったと思います。後半はそれぞれの特徴が出た一進一退の試合展開となり、膠着状態が続いた終盤戦もロスタイムに投入、延長線だなと思った残り1分をきったときに、前半の日体大のロングシュートに優るとも劣らない素晴らしいシュートが左すみに決まり、劇的な逆転で早稲田大学がインカレ2連覇を手中にしました。結果はもちろん、試合内容も素晴らしい、本当にうれしい1日となりました。

ロスタイム決勝ゴール後の早稲田イレブン。

 

画像提供:「早稲田スポーツ新聞会」

昨年後半を振り返ると、日本代表に関しては大一番となったサウジアラビア戦に競り勝ち、2位というワールドカップ出場を十分に狙える好位置につけましたが、それ以外の応援しているチームは、厳しい結果の連続となっていました。

浦和レッズは勝点で大きく引き離した鹿島アントラーズに、逆転負けで年間チャンピオンを逃しました。

早稲田大学ア式蹴球部男子部は、昨年優勝した関東大学リーグで、衝撃の2部降格という最悪の結果に終わりました。

また、埼玉県立浦和西高校は、長い低迷時期から監督、スタッフ、受け継がれた選手たちの頑張りで、初めてのS1(埼玉県高校サッカー1部リーグ)に昇格し、強豪の武南高校から勝点3を奪い、常に先行されてきた市立浦和高校より上位の成績を残すなど健闘は光りましたが、勝点1差で8位となり2部降格という悔しい結果になりました。

まさに悪夢のガッカリ3連発によりノックダウン状態だったので、ア式女子のインカレ2連覇は2017年スタートの素晴らしい吉報となりました。


ところで、浦和西校には女子サッカー部もあります。平成25年、26年には高校総合体育大会の埼玉県大会で2連覇した実績をもち、粘り強く全員で戦う好チームで常に県内ベスト4を狙っています。
これら、早稲田の男子・女子、浦西の男子・女子の全4チームは特に応援しているので、新しい1年、早稲田流に言うならば、「炎のような闘志と氷のような冷静さ」をもって、目標を達成されることを心から期待しているという次第です。

 

S1リーグ残り2試合となった浦和南高校との一戦、南高は高校選手権埼玉県大会決勝に進んだ3年生主体の強豪チーム。一方、西高は主将と2年生による新チーム。勝つのは難しい試合だったが、貴重な勝点1を上乗せし、残留の期待が高まったのだが。。。

試合終了後の挨拶(昌平高校にて)

追記

大変うれしい情報が入ってきたので、追記させて頂きます。

2016年度U-16埼玉県リーグ1部(1年生を中心としたチーム)で、6位となり残留が決まりました。

最終順位は以下の通りです。

1位:浦和レッズユース(勝ち点28)
2位:大宮アルディージャユース(勝ち点24)
3位:武南高(勝ち点19)
4位:浦和南高(勝ち点19)
5位:西武台高(勝ち点16)
6位:浦和西高(勝ち点14)
7位:正智深谷高(勝ち点12)
8位:浦和東高(勝ち点8)
9位:狭山ケ丘高(勝ち点8)
10位:ふじみ野高(勝ち点5)
11位:武蔵越生高(勝ち点5)

サウジアラビアに勝利し、2位浮上!

テレビ観戦となった大事なサウジアラビアとの一戦は、選手個々の集中力が非常に高く、積極的で隙のない戦い方ができた素晴らしい試合でした。
チームに流動性をもたらす優れたパサーの清武選手、手を抜かない戦う姿勢でチームを盛り上げる原口選手、そしてドイツで活躍中の新戦力、大迫選手は確かなボールキープ力を活かしたポストプレーでもチームを助けていました。そして、イラク戦でヒローとなった山口選手の中盤での積極果敢なディフェンスも、これらの選手に負けない貢献だったと思います。

また、2点目の原口選手の得点をアシストしたシーンは、守備に重点を置いていた長友選手が、勝負とみて、本田選手との抜群のコンビネーションで作った最高のワンプレーだったと思います。

今回の最大の収穫は勝点3ですが、ベテランを脅かす新しい力の台頭はもう一つの大きな収穫です。来年3月のUAE戦に向け、欧州組がそれぞれのチームでレギュラーポジションを奪取し、召集された全ての選手が良いコンディションで、ポジション争いが激化すれば、それが勝利に結びつく原動力になると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【GATAフリー絵画・版画素材集】よりお借りしました。

浦和レッズ、13年ぶりJリーグカップ優勝!

試合後、多くの選手が話していたように、日本に来て好チームを育成しながら、優勝に無縁だったペトロビッチ監督を優勝監督にできて本当に良かったと思います。
後半31分途中出場の李選手が、最初のプレーで同点ゴールをものにしたのは間違いなくMVPですが、PK合戦でガンバの新人プレーヤー呉屋選手のPKを、キックの瞬間まで動かず、冷静に右足で防いだプレーもひかりました。

埼スタで決勝戦を落とすのは最悪の気分なので、浦和レッズの選手、スタッフの皆さんに感謝です。

聖地、駒場サッカー場の初代の姿です。正面に長イス型の座席が数段。それ以外は芝生席でした。グランドができる前はは沼地のような土地だったように記憶しています。1965、6年の話です。

なお、2つの写真は埼玉県サッカー協会所有のものです。

駒場サッカー場は1967年の第22回埼玉国体のために作られました。この写真は浦和南vs韮崎の決勝戦です。私が見た試合も雨で多くの観客がいたので、この試合だったのではないか思います。記録によると、2対0で浦和南校が全国制覇を成し遂げていました。

メルボルンで勝点1、次は正念場のサウジ戦

選手は意図と意志をもって確実にファイトした。アウェイのオーストラリアに勝点1は今のチーム状態を考えれば悪くない。個人的には後半10分、香川→清武、小林→斉藤の2枚替えで、両サイドからの積極果敢なアタックによる2点目を見たかった。それにしても、オーストラリアの快速サイドアタッカー、マシュー・レッキ―は何故スタメンでなかったのか? 助かった。

次は絶対勝利のサウジ戦。まずはチケットの神様、よろしくお願いします。

ドックランズ・スタジアム (Docklands Stadium)

イラクに勝点3!次はオーストラリア戦

19:00、埼玉スタジアムに到着。

試合直前のアップです。

興奮状態で取った写真です。

開始早々のコーナーキック、観てる我々もまだ集中が甘い。イラクのヘディングシュートはポストに弾かれゴールキックになったが、失点してても不思議ではない場面だった。今のJapanはセットプレーからの失点が多い。もっと深く研究し、もっと激しく練習すべきだ。
日本の1点目は清武選手のランニングが素晴らしかった。特に本田選手の外側を回りパスを受けたことが最高のプレーである。
そして、ゴール前にいたのが100%のファイティングスピリットで幸運をよんでいる原口選手だった。踵で流し込んだシュートがゴールキーパーの股間を通り抜けたのは、やはり彼のファイティングスピリットからくる気迫によるものだろう。
後半のイラクの同点ゴールは、残念ながらセットプレーからだった。残り7試合、セットプレーからの失点0をチーム目標に掲げよう!
今日もイージーミスは少なくなかったが、勝利への強い気持ちは前回のUAE戦より優っていた。だから勝てると思った。しかし、残り10分の本田選手のヘディングシュートが、立ち上がりのイラクのヘディングシュートと同じようにポストに嫌われた瞬間は、今日は引き分け、勝点1で終わるかもしれないと感じた。

終盤、つまらないイラクの時間稼ぎによるロスタイムは6分あった。日本が空中戦を仕掛け始めると
周りの観客は総立ちで、私の角度からは右側のコーナーフラッグ付近は全く見えなくなった。

決勝ゴールを生んだフリーキックが清武選手だったというのは自宅でのスポーツニュースを見て知った。フワッとはね返ってきたボールを山口選手がうまくボレーでとらえ、弾道の低いシュート
が放たれた瞬間は目でとらえることはできた。しかし、残念ながらゴールネットを揺らす最高の瞬間、感動、映像に接することはできなかった。
次は来週11日の強豪オーストラリア戦、相手をのみこむ程の強いファイティングスピリットとチームの団結があれば勝てると思う。日本がんばれ!

スタディオ・サン・パオロでの偶然

1990年7月3日、サッカーワールドカップイタリア大会の準決勝、イタリア対アルゼンチンの試合がナポリのサンパウロスタジアムで行われた。


急遽決まった大学時代の友人とのイタリアワールドカップ観戦は、行き帰りのローマ泊以外は宿泊できる保証もないままの決行であった。

ちなみに、ローマに着いて早々、つたない英語で電話をかけまくり、当時の日本円で1泊約1,300円の民泊らしき宿をナポリで確保することができたのだが、実際に行ってみると、ひとりはイタリ人のお爺さんとの相部屋ということだった。

無頓着タイプの私が立候補し、明るいお爺さんのさっぱりわからないイタリア語攻撃にあいながら、笑顔で対応したのは正解だった。


サンパウロスタジアムまでは、電車を使ったが、乗り遅れそうなアブナイ状態だったため、大通りをかなりの勢いで走っていたら「カメルーン!、カメルーン!」という、どうやら声援らしき声が巻き起こっていた。

「何?さすがに、カメルーンには見えないだろう」と思ったが、

開幕戦でロジェ・ミラ率いるカメルーンがアルゼンチンを撃破、イングランドとの準々決勝でも延長にもつれこむ好ゲームでカメルーンの大健闘は光っていた。

必死の形相でナポリの町中をダッシュしていた日本人は、まるで「不屈のライオン(カメルーンチームの愛称)」に見えたのか、いずれにしても陽気なイタリア人の餌食になっていた。


サンパウロスタジアムは、収容人数約83,000人の大きなスタジアムで、当時セリアA(イタリアサッカーリーグ)のナポリのホームスタジアムであった。

本日の敵国はアルゼンチンではあったが、斜め前に座っていたイタリア人サポータ達からは「マラドーナ、マラドーナの大合唱が試合前には起きていた。「やっぱりマラドーナは特別な英雄なんだ。」と感心した。

横に座っていたアンナさんというイタリア美女からはアイスキャンディーを頂くこととなり、イタリアが勝利したら声をかけてみるのはいかがなものかと、脳ミソを発火させる場面もあった。


ところで、スタジアムに着いた時は、まだまだ人は少なかった。まずはトイレで用をたすかと思い、入ったトイレは大きかったという印象である。

既に日本人らしき人が正しい姿勢をとっていた。「おっ、日本人?」と思った次の瞬間、なんと、その人は近くの高校の1年先輩の人だった。


実はその人は現FIFA理事兼日本サッカー協会会長の田嶋幸三さんであった。

田嶋さんは1975年の三重国体で埼玉県選抜のキャプテンであり、国体少年サッカー開催地の上野市の宿では私は「部屋っこ」であった。

消燈後、1分前後でただちに爆睡に入る田嶋さんをもの凄い人だなとリスペクトしていた。


初イタリア、初ワールドカップ、イタリアチームの準決勝敗退、ローマでの出来事、ナポリでの出来事、色々な思い出を作ることができたが、サンパウロスタジアムのトイレ事件は、「驚き」という意味でNo1のニュースであった。


 

敗戦翌日のナポリの街。


18歳、マラドーナの世界デビュー

記憶ではその日の試合は夜だった。雨は降っていなかった。接戦ではなく少々退屈だった。

調べた結果、大宮サッカー場東側ゴール裏から観戦したその日の試合は、1979年8月26日(日)19:00キックオフのアルゼンチンvsインドネシア戦だったことがはっきりした。

第2回FIFAワールドユースサッカー大会は東京を中心に大宮、横浜、神戸で8月25日から2週間の日程で行われた。決勝は9月7日、国立霞ヶ関陸上競技場でアルゼンチンとソビエト連邦(現ロシア)の戦いとなり、3対1でアルゼンチンが勝利し優勝カップを手にした。

一方的な試合となった大宮でのインドネシア戦は、まだBigスターとはいえない小柄なマラドーナのテクニックと、1993年のJリーグ発足時に横浜マリノスに入団したラモンディアスの爆発的スピードが印象に残っている。調べたところ、マラドーナが2点、ディアスが3点を取っていた。

ブログに載せたかった理由は、何といっても、18歳の初々しく、好青年、イケメンといってもよい程のかっこいい、マラドーナの若き勇姿である。このお宝級の写真は、[輝く埼玉サッカー七十五年の歩み]で見つけたものだが、「そういえば、俺は大宮でマラドーナの試合を生で見たよな。」との記憶が復活し、まじめにその時の試合を調べたというわけである。

1986年ワールドカップメキシコ大会の優勝を導き、SSCナポリの英雄となり、そして数々のスキャンダルで世間を騒がせ、2010年の南アフリカ大会では、監督でありながらド派手なアクションで選手以上に目立ったマラドーナの世界デビューが日本だったというのは、驚きであり、そして何だか誇らしい気持ちにさせてくれる。