大健闘の2017シーズン

女子サッカーのインカレ(全国大学選手権大会)の決勝戦は同じ関東代表の神奈川大学でした。試合内容はほぼ互角、わずかに試合巧者である早稲田が集中した守備で相手の得点を許さず、1対0のスコアで勝利し大会3連覇という偉業を達成しました。
この試合は2017年シーズンの最終戦であり、最高の結果で締めくくることができました。早稲田女子部は関東大学リーグは2位という残念な結果でしたが、今季はもう一つ大きな仕事がありました。
それは、皇后杯3回戦でなでしこリーグ強豪のINAC神戸レオネッサにPK戦で競り勝ち、ベスト8に進出したというビッグニュースです。これも記録に残る今季の素晴らしい成果でした。

 

画像出展:「早稲田スポーツ新聞会

クリックして頂くと、監督、選手のコメントが見られます。

早稲田大学男子部は昨年末の悪夢を払拭してくれました。しかも、「勝てば天国、負ければ地獄」と評された最終の国士館大学との接戦をものにしての逆転優勝と1部リーグ復活という劇的なものでした。実際、3位中央大学も最終戦を勝利していたので、早稲田は負けていれば優勝はもちろん、1部昇格も逃していました。
大学リーグは前後期計22試合で行われます。2位の昇格圏を死守してきた早稲田は17節と19節の引き分けで、20節の直接対決を前に、猛追してきた中央大学に2位の座を譲る事態となってしまいました。そして迎えた
11月5日の中央大学との直接対決は、勝たなければならないという厳しいプレッシャーを背負いながらも、3対0の完勝で最大の山を乗り越えることができました。

私は台風が近づいていた10月21日に、東伏見グランドで行われた第18節、東海大学との一戦を観戦しました。伝統の重さなのか、選手には硬さが見られましたが、手を抜かない集中した試合をしていました。

後半、先制しながらも5分後に追いつかれたのは、勝利の厳しさを痛感するものでしたが、終盤に得点力のある選手、ヘディングの強い選手を立て続けに投入した監督の勝利への執念が、劇的なロスタイムの決勝ゴールを引き寄せました。ラストプレーから生まれた、ゴールに叩き込むような豪快なヘディングシュートは、雨も寒さも吹き飛ばしてくれました。

浦和西高等学校(男子)
歴史に残る1年でした。夏は30年ぶりのインターハイ出場と初戦突破の全国1勝。冬は34年ぶりの全国高校選手権県予選決勝進出。

関東大会を征し、S1(1部)リーグ優勝の昌平高の壁を壊すことはできませんでしたが、1-4の完敗だった夏とは異なり、今回は後半先制されるも、右サイドの切り崩しから、綺麗な同点ゴールを決めたことで、試合は接戦となりました。その後、早々に突き放される2点目を失い、勝利を逃すことになりましたが、チームの成長を実感できる拮抗した好ゲームでした。選手ひとりひとりが工夫、努力し、自信をもってチームとしての力に結集できたということだと思います。

一方、リーグ戦は1部昇格をかけ、2年生主体の新チームで戦いましたが、結果を出すことはできませんでした。高校生には大きな伸びしろがあります。1年かけ大きく変貌することができます。期待したいと思います。


浦和西高等学校(女子)
女子も健闘しました。サッカー経験者が集まる私立の強豪校との実力差は小さいものではありません。その状況で全国選手権の県予選を5位となったことは十分に評価できると思います。
埼玉県ではベスト4に残れなかったチームは順位決定戦にまわります。決定戦にまわった西高は、敗戦後、しっかりとチームを立て直し2連勝して5位を死守しました。ここで2つ勝ってシーズンを終えることができたのが何よりも良かったと思います。

付記:東伏見の思い出
サッカー部だった私は、早稲田といえば馬場ではなく、東伏見であった。時に練習着のまま踏切をわたって銭湯にいった。ホッピーがある小さな飲み屋があった。私より明らかに大柄な本場のチアリーダが大挙してやってきて度肝を抜かれたが、あれは何だったのだろうか。その東伏見の景色は40年前のものである。
今にして思うと、グリーンハウスがとても懐かしい。それは練習しているグランドと相対するように建っており、独特の風貌から歴史と威厳を感じるからなのか。監督で早稲田の政経学部の教授でもあった、故堀江忠雄先生の「常識にとらわれず独創的であれ」という言葉が印象に残っているが、
そのミーティングはグリーンハウスで行われていた。そのグリーンハウスが歩んできた歴史には、どうやら坪内逍遥が関係しているらしいということは知っていた。しかしながら、それ以上のことは知らず、また、調べる気もなかった。

『グリーンハウスは1882年10月に東京専門学校が開校された時、学苑最初の木造洋館の校舎として建設されたものである。1902年に東京専門学校は早稲田大学と改称され、さらに1907年の早稲田大学第二期拡張事業の後文学部専用の校舎となり、多くの学生がここで学んだ。大教室の「文科第七番教室」では坪内逍遥が早稲田名物のシェークスピアを講じ、さらに島村抱月、高山樗牛(ちょぎゅう)といった名だたる講師がここで講義を行った。文学部専用校舎となる以前であるが、小泉八雲が最後の講義を行ったのもここであった。しかし1931年文学部に新校舎が建設される事となり、文学部旧校舎は東伏見運動場へ移築され、運動各部の合宿所として使用する事が維持員会で決定された。こうして多くの文学部学生が学んだ旧校舎は、体育各部の合宿所として多くの早稲田アスリートを育てる場となったのである。移築の際、外側の柱や横板、窓枠をエメラルドグリーンに塗装した事からグリーンハウスの愛称が定着した。以降グリーンハウスは多くの早稲田アスリートが練習に疲れた体を休め、友人と寝食を共にする卒業後も忘れ難い思い出の場所となったのである。しかしアジア・太平洋戦争中はグリーンハウスにも戦争の影が忍び寄った。ラグビー蹴球部の部員たちは1943年の学徒動員により学苑とグラウンドに別れを告げ戦場に赴いた。部員たちは戦時中グリーンハウスに備品を整理・保管していたが、OBに託してユニフォームを埋め、戦地へ向かった。無事に帰り、掘り起こしたユニフォームで練習を再開した部員たちもいたが、二度と帰らぬ部員たちもいた。グリーンハウスは戦争の悲劇を伝える場でもあったのである(早稲田ラグビー60年史編集委員会編『早稲田ラグビー六十年史』 1979年参照)。戦後も体育各部の宿舎として使用されたが、老朽化のため惜しくも1988年解体された。しかし1992年追分セミナーハウス(現軽井沢セミナーハウス)に新築復元され、今日大学関係者の宿舎・ゼミ室として利用されている。』

※上記の絵は、「悠々庵気まぐれ日記」から拝借しました。

※上記の文章は、「早稲田ウィークリー」から拝借しました。

堀江忠雄先生

前列左から3人目が堀江先生

画像出展:「JFA.jp

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いつか、必ず、読まねば!!」


宮本征勝監督

中列左から2人目が宮本監督

画像出展:「JFA.jp

【2005年第1回日本サッカー殿堂入り】

 

早稲田では2年生から、3年間お世話になった。2年の菅平合宿後、もう一人のM君と共に部屋に呼ばれ、「古河電工(現ジェフ千葉)の合宿に出てみないか」と声をかけて頂きながらも、断ってしまったという最高に失礼な記憶が鮮明に残っている。宮本監督との出会いは、私が小学6年生の時、場所は駒場サッカー場。古河電工の選手として駒場に来ていたのは間違いないだろう。ちゃっかりサッカーボールにサインまでもらっていた。今回、宮本監督の写真を探していて、生前に出版されていた「サッカーに魅せられた男 宮本征勝」という本があるのを知った。「まずは、買わねば!!」

日本サッカー、ロシアへ

唯一悔やまれることは、チケットが当たらず自宅でのテレビ観戦に甘んじたことです。嫌な予感の方はしっかり当たりました。
家でゆっくり観るのも悪くないと納得し、早々と夕食を済ませ、後片付けもサッサと済ませ、お風呂もクリアし、国歌斉唱の時には準備完了。なお、ビールは集中力を低下させるため却下しました。
理想のシナリオは、『前半35分に先制、前半は1対0のまま後半へ、そして後半15分に追加点。残り30分を1失点以内に抑えて勝利!』というものを期待していたのですが、うれしくも、ほぼその通りとなりました。ただし、スタメンには疑問があり、不安を感じてのキックオフでした。
期待していた戦い方は、アウェーのUAE戦で見せた徹底した攻撃的チームディフェンスと、イラク戦の反省点でもあった相手を圧倒するサイド攻撃でした。
浅野選手も乾選手も相手の脅威になる武器を持った危険なサイドアタッカーであり、オーストラリアにとっても想定外の名前に混乱する可能性もあります。コンディションも良いようなので素晴らしい選択なのですが、それでも、スタメンよりも試合の流れを変える交代メンバーの方が良いのではないかと思っていました。あるいは、この試合のスタメンは5日後のサウジアラビア戦も考慮したうえでのメンバー選考だったのかもしれないと思いました。
しかし、幸いにも不安は現実のものとはならず、最高の結果を手に入れることができました。そして、新しい選手、若い選手の台頭により、チームの可能性が広がったことは来年のロシアに向けて大きな収穫にもなりました。
今回、試合全体を振りかえって2つの事に気付きました。一つは、海外での実績は選手にメンタルの強さと誇りをもたらせており、共通した成功要因に日本人の勤勉さと創意工夫の力があるように感じたことです。そして、もう一つは、ホームのアドバンテージについてです。これが意味していることは、応援してもらえるという受動的なものではなく、サポーターに勝利をプレゼントして共に喜びを分かちたいという、使命感に近い強い意志力をチームとして結集、発揮させる力をもっているということでした。
それにしても嬉しい日になりました。来年のロシアが楽しみです! 
ちなみに日程は2018年6月14日~7月15日のようです。 

 

こちらのスタジアムは開幕戦と決勝戦が行われる、モスクワにあるルジニキ・スタジアムです。

 

画像出展:「MKRU」

浦和西高、高校総体初戦突破!

会場はひとめぼれスタジアム宮城でした。
日韓ワールドカップ決勝トーナメント初戦のトルコ戦は、2002年6月18日観衆45,666人を集めてこのスタジアム(当時は「宮城スタジアム」)で行なわれました。雨が印象的だったこの試合は、内容もどんよりとした覇気の感じられないスッキリしない試合でした。

 

画像出展:「毎日新聞」

大事な初戦は2017年7月29日(土)、雨でした。

 

オーバー50のベテランOBの10名は、仙台駅でレンターカー2台に便乗してスタジアムに無事到着。

 

来た来た!」という感じです。

雨となった浦和西高と東北学院高校との一戦は、それぞれ30年ぶりと17年ぶり、そして両校とも第2代表という実力伯仲のお互いにとってやりやすい対戦相手だったと思います。
立ち上がりから東北学院高校が優勢に試合を進め、特に前半の比較的早い時間帯に、ゴール前で西高GKと1対1になってのシュートがバーを越えていったことが、勝敗を分けた1番のプレーだったと思います。
攻められながらも、あたふたした様子は特に見られず、西高らしい守りのリズムはできていたように思います。また、時折見せるパスワークによる攻撃も、普段の西高らしいプレーが出せていたと思います。その意味では、前半を0対0で折り返せば十分に勝機を望める展開でした。そして、実際に0対0で後半を迎えることになりました。
西高の先制点は、プロでもはじき出すことはできないだろうという、ゴール左隅に流し込んだ鮮やかなヘディングシュートでした。2点目は焦りと疲れがみえはじめた時間帯であり、この得点で勝利を確信しましたが、気迫のこもった東北学院のヘディングシュートが数分後に決まり、一気に試合の行方は怪しくなってしまいました。しかしながら、守り切る意識の高さを最後までみせた西高が、何とか東北学院の猛攻を凌ぎきり、待望の全国大会1勝を手にすることができました。
明日は、全国大会常連の強豪、京都橘戦。自分を信じ、仲間を信じ、炎のような闘志と氷のような冷静さをもって試合に臨んでほしいと思います。One for all, All for one!


「残念ながら帰らねば。」 仙台駅の七夕は美しく、壮観でした。

浦和西高30年ぶりのインターハイ出場決定

1987年はハンディタイプの携帯電話やアサヒスーパードライが発売された年だった。そして、インターハイの開催地は北海道、冷夏がきつかったという。

 

今では考えられない、ハンディタイプとされた携帯電話。

画像出展:@DIME

現在の埼玉県の高校サッカーは関東大会を制した昌平、正月の全国高校選手権でベスト8に進んだ正智深谷、Jリーガを輩出している西武台、そして古豪となった武南、この4強と西高との差は小さくない。10回試合して3勝するのは難しいだろう。
しかし、公式戦のトーナメントは別物である。それは、敗北の瞬間に目標を失うというプレッシャーを背負って戦っているためである。すなわち、相手に先制点を許す展開は、それが後半であるなら、
なおさら、時間の経過とともに焦りが出始め、その混乱が自らの攻撃のリズムを崩してしまう。ここにトーナメントの怖さ、落とし穴が存在する。
24日の試合展開は西高にとってベストであった。西高が格上のチームに勝つ流れで試合は進んでいった。前半はスタートから西武台が攻め込む時間がながく、決定的とまではいかないが、シュートが正確であれば2点は失っていたと思う。
失点シーンを免れた西高のディフェンスは落ち着いて守備に集中できるようになり、相手の攻撃のリズムにも慣れてきた。我々が戦っていた約40年前の西高も、相手に攻撃させるのが西高ペースと開き直り、「点さえ取られなければいいんでしょ。そしたら、1点取れれば勝てるよ。」という、学生らしくない合理的な試合をしていた。その雰囲気が今日の西高には少しあった。

関東大会予選準決勝の昌平戦は、前半は0対0で持ちこたえたが、後半1分もたたずに失点してしまい、勝利のシナリオが崩壊してしまった。
今日は何としても、5分、10分は耐えなければならないと願っていたわけだが、選手も昌平戦の経験を活かしていた。慌てることが少なく、また、チームの意識が統一され、カバーリングなどチーム全体のディフェンスの連携もできていたと思う。
そして、意外にもこの時点帯に西高がPKを決めてリードする展開になった。西高は押されながらも時折、圧力をかけ果敢に攻めに出ていった。実は西武台とは今年の新人戦の準々決勝で戦っており、負けはしたがスコアは0対1であり、選手も「戦える」という気持ちで臨めていたと思う(少し前の西高は西武台とは0対5位のスコアで負けていた)。その気持ちが本気の反撃になっていた。
後半の最大のピンチはヘディングシュートだったが、ボールは右ポストのやや内側に当たり、運よくキーパーの手に収まった。その際、負傷したキーパーの治療のために5分近く中断したのだが、その予期せぬ休息タイムによって、西武台の選手の集中力がわずかに下がり、疲労が現れたような印象をもった。
そうして、ついに6分のロスタイムに投入、嫌な感じのセットプレーもしっかりディフェンスし、勝利は西高のものとなった。
明日の決勝は昌平である。結果、内容とも関東大会予選準決勝の時より良くなっていなければならない。インターハイに向けての初仕事という高いモチベーションを持って戦ってほしい。

(写真は試合前の挨拶とKickoffのホイッスル&西高ベンチ。後の建物は埼玉スタジアム2002)


オーストラリア戦に勝つ!

負傷者の多かったチーム状況は試合中にも発生した。そして、37度を超える暑さ、1200mの高地、深い芝生というアウェーの地イランは、相手のイラクにとっても同じ条件とはいえ、ストレスが重なる厳しい試合だった。

残り2試合となった現在、勝点で1の差をつけ、得失点では2位サウジアラビアとは2点差、3位オーストラリアとは3点差。決して悪くはない。引き分けが許されないホームでの次戦は、闘う気持ちを奮い立たせ、チームの結束を究極まで高めてくれる。勝利はワールドカップ出場決定であり、終了のホイッスルは歓喜の爆発、最高の瞬間を共有できる。
8月31日の決戦に向けて、今回のイラク戦で得たものは何か、また、検討すべきは何かを考えてみた。
得たものは昌子、遠藤、井手口の新戦力は十分に戦えたという点である。一方、検討すべきは、サイドからの切り崩しの圧力が弱かったことである。また、負傷による予期せぬ交代も、不運ではなく、選手のコンディショニングという視点で振り返ってほしい。

決戦まで75日、ベストメンバーはその時にならないと分からないが、アタックル(能動的で攻撃の始まりとなるチームディフェンス)とサイドアタックを重視した試合を観たい。そして、第一の目標をクリアして欲しい。  「さて、私にはチケットが当たるだろうか!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

PAS Stadium

画像出展:static.panoramio.com

UAEとの勝点差は4へ

昔、ラグビーで「アタックル」という表現を使っていた監督がいました。これは攻撃の「アタック」と守備の「タックル」の造語で、攻撃的な守備、攻撃のための守備という意味だったと思います。

23日の日本vsUAE戦での日本のディフェンスは、まさに「アタックル」という感じでした。素早い攻守の切り替え、プレスのかかった相手選手への早い寄せ、チーム意識も統一され、各選手が手を抜くことなく全力で火消しに動いていたと思います。これが最大の勝因だと思います。

一方、「運」も日本を後押ししてくれました。特に1点をリードしてスタートした後半、左サイドからの速く正確なセンターリングを、相手FWがインステップのボレーでゴールに叩き入れようとして、空振りとなったシーンです。もし、右足インサイドを使って、ゴール右隅(GKの動きの逆をつく)に体ごと流し込むようなプレーを選択されていたら同点になっていたと思います。この後、まもなく大活躍だった今野選手の追加点が入りました。素晴らしいディフェンスだったとはいえ、1得点のままでは、後半最後まで0点で抑えられたかどうかは疑わしく、相手の空振りと今野選手の追加点が勝負を決めることになりました。

そして、「運」を呼び込んだのは、今野選手同様、久々の代表でのプレーとなった川島選手が前半、相手と1対1になった大ピンチを積極果敢なセービングで阻止したプレーと、最初のシュートチャンスを確実にものにした久保選手の冷静なプレーだったと思います。酒井宏樹選手のパスも絶妙でした。また、目立ったプレーはなかったものの、必死なディフェンスでチームに貢献していた香川選手も良かったと思います。

次のタイ戦は前回大勝、相手は最下位、そしてホーム埼玉スタジアムということで、もっとも油断しやすい状況であり、ある意味最も難しい試合だと思います。しかし、必ず勝点3を積み上げ、夏の中東アウェー戦に向かっていってほしいと願っています。

Hazza bin zayed stadium

画像出展:Construction Week Online.Com

早稲田ア式女子インカレ2連覇!

ア式女子とは「ア式蹴球部女子部」のことで、早稲田大学の女子サッカー部のことです。創部は1991年、関東大学リーグ6回、インカレ4回の優勝実績をもつ強豪チームですが、今年のリーグ戦では優勝をかけた日体大との試合で0対3と敗れ、2位という結果に終わっていました。

15日の試合も日体大の25m弾が右すみに決まり、先制を許す厳しい試合となりましたが、セットプレーからのピンポイントなフリーキックが狙いすましたヘッディングシュートに結びつき、前半のうちに同点に追いついたことが非常に大きかったと思います。後半はそれぞれの特徴が出た一進一退の試合展開となり、膠着状態が続いた終盤戦もロスタイムに投入、延長線だなと思った残り1分をきったときに、前半の日体大のロングシュートに優るとも劣らない素晴らしいシュートが左すみに決まり、劇的な逆転で早稲田大学がインカレ2連覇を手中にしました。結果はもちろん、試合内容も素晴らしい、本当にうれしい1日となりました。

ロスタイム決勝ゴール後の早稲田イレブン。

 

画像提供:「早稲田スポーツ新聞会」

昨年後半を振り返ると、日本代表に関しては大一番となったサウジアラビア戦に競り勝ち、2位というワールドカップ出場を十分に狙える好位置につけましたが、それ以外の応援しているチームは、厳しい結果の連続となっていました。

浦和レッズは勝点で大きく引き離した鹿島アントラーズに、逆転負けで年間チャンピオンを逃しました。

早稲田大学ア式蹴球部男子部は、昨年優勝した関東大学リーグで、衝撃の2部降格という最悪の結果に終わりました。

また、埼玉県立浦和西高校は、長い低迷時期から監督、スタッフ、受け継がれた選手たちの頑張りで、初めてのS1(埼玉県高校サッカー1部リーグ)に昇格し、強豪の武南高校から勝点3を奪い、常に先行されてきた市立浦和高校より上位の成績を残すなど健闘は光りましたが、勝点1差で8位となり2部降格という悔しい結果になりました。

まさに悪夢のガッカリ3連発によりノックダウン状態だったので、ア式女子のインカレ2連覇は2017年スタートの素晴らしい吉報となりました。


ところで、浦和西校には女子サッカー部もあります。平成25年、26年には高校総合体育大会の埼玉県大会で2連覇した実績をもち、粘り強く全員で戦う好チームで常に県内ベスト4を狙っています。
これら、早稲田の男子・女子、浦西の男子・女子の全4チームは特に応援しているので、新しい1年、早稲田流に言うならば、「炎のような闘志と氷のような冷静さ」をもって、目標を達成されることを心から期待しているという次第です。

 

S1リーグ残り2試合となった浦和南高校との一戦、南高は高校選手権埼玉県大会決勝に進んだ3年生主体の強豪チーム。一方、西高は主将と2年生による新チーム。勝つのは難しい試合だったが、貴重な勝点1を上乗せし、残留の期待が高まったのだが。。。

試合終了後の挨拶(昌平高校にて)

追記

大変うれしい情報が入ってきたので、追記させて頂きます。

2016年度U-16埼玉県リーグ1部(1年生を中心としたチーム)で、6位となり残留が決まりました。

最終順位は以下の通りです。

1位:浦和レッズユース(勝ち点28)
2位:大宮アルディージャユース(勝ち点24)
3位:武南高(勝ち点19)
4位:浦和南高(勝ち点19)
5位:西武台高(勝ち点16)
6位:浦和西高(勝ち点14)
7位:正智深谷高(勝ち点12)
8位:浦和東高(勝ち点8)
9位:狭山ケ丘高(勝ち点8)
10位:ふじみ野高(勝ち点5)
11位:武蔵越生高(勝ち点5)

サウジアラビアに勝利し、2位浮上!

テレビ観戦となった大事なサウジアラビアとの一戦は、選手個々の集中力が非常に高く、積極的で隙のない戦い方ができた素晴らしい試合でした。
チームに流動性をもたらす優れたパサーの清武選手、手を抜かない戦う姿勢でチームを盛り上げる原口選手、そしてドイツで活躍中の新戦力、大迫選手は確かなボールキープ力を活かしたポストプレーでもチームを助けていました。そして、イラク戦でヒローとなった山口選手の中盤での積極果敢なディフェンスも、これらの選手に負けない貢献だったと思います。

また、2点目の原口選手の得点をアシストしたシーンは、守備に重点を置いていた長友選手が、勝負とみて、本田選手との抜群のコンビネーションで作った最高のワンプレーだったと思います。

今回の最大の収穫は勝点3ですが、ベテランを脅かす新しい力の台頭はもう一つの大きな収穫です。来年3月のUAE戦に向け、欧州組がそれぞれのチームでレギュラーポジションを奪取し、召集された全ての選手が良いコンディションで、ポジション争いが激化すれば、それが勝利に結びつく原動力になると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【GATAフリー絵画・版画素材集】よりお借りしました。

浦和レッズ、13年ぶりJリーグカップ優勝!

試合後、多くの選手が話していたように、日本に来て好チームを育成しながら、優勝に無縁だったペトロビッチ監督を優勝監督にできて本当に良かったと思います。
後半31分途中出場の李選手が、最初のプレーで同点ゴールをものにしたのは間違いなくMVPですが、PK合戦でガンバの新人プレーヤー呉屋選手のPKを、キックの瞬間まで動かず、冷静に右足で防いだプレーもひかりました。

埼スタで決勝戦を落とすのは最悪の気分なので、浦和レッズの選手、スタッフの皆さんに感謝です。

聖地、駒場サッカー場の初代の姿です。正面に長イス型の座席が数段。それ以外は芝生席でした。グランドができる前はは沼地のような土地だったように記憶しています。1965、6年の話です。

なお、2つの写真は埼玉県サッカー協会所有のものです。

駒場サッカー場は1967年の第22回埼玉国体のために作られました。この写真は浦和南vs韮崎の決勝戦です。私が見た試合も雨で多くの観客がいたので、この試合だったのではないか思います。記録によると、2対0で浦和南校が全国制覇を成し遂げていました。

メルボルンで勝点1、次は正念場のサウジ戦

選手は意図と意志をもって確実にファイトした。アウェイのオーストラリアに勝点1は今のチーム状態を考えれば悪くない。個人的には後半10分、香川→清武、小林→斉藤の2枚替えで、両サイドからの積極果敢なアタックによる2点目を見たかった。それにしても、オーストラリアの快速サイドアタッカー、マシュー・レッキ―は何故スタメンでなかったのか? 助かった。

次は絶対勝利のサウジ戦。まずはチケットの神様、よろしくお願いします。

ドックランズ・スタジアム (Docklands Stadium)

イラクに勝点3!次はオーストラリア戦

19:00、埼玉スタジアムに到着。

試合直前のアップです。

興奮状態で取った写真です。

開始早々のコーナーキック、観てる我々もまだ集中が甘い。イラクのヘディングシュートはポストに弾かれゴールキックになったが、失点してても不思議ではない場面だった。今のJapanはセットプレーからの失点が多い。もっと深く研究し、もっと激しく練習すべきだ。
日本の1点目は清武選手のランニングが素晴らしかった。特に本田選手の外側を回りパスを受けたことが最高のプレーである。
そして、ゴール前にいたのが100%のファイティングスピリットで幸運をよんでいる原口選手だった。踵で流し込んだシュートがゴールキーパーの股間を通り抜けたのは、やはり彼のファイティングスピリットからくる気迫によるものだろう。
後半のイラクの同点ゴールは、残念ながらセットプレーからだった。残り7試合、セットプレーからの失点0をチーム目標に掲げよう!
今日もイージーミスは少なくなかったが、勝利への強い気持ちは前回のUAE戦より優っていた。だから勝てると思った。しかし、残り10分の本田選手のヘディングシュートが、立ち上がりのイラクのヘディングシュートと同じようにポストに嫌われた瞬間は、今日は引き分け、勝点1で終わるかもしれないと感じた。

終盤、つまらないイラクの時間稼ぎによるロスタイムは6分あった。日本が空中戦を仕掛け始めると
周りの観客は総立ちで、私の角度からは右側のコーナーフラッグ付近は全く見えなくなった。

決勝ゴールを生んだフリーキックが清武選手だったというのは自宅でのスポーツニュースを見て知った。フワッとはね返ってきたボールを山口選手がうまくボレーでとらえ、弾道の低いシュート
が放たれた瞬間は目でとらえることはできた。しかし、残念ながらゴールネットを揺らす最高の瞬間、感動、映像に接することはできなかった。
次は来週11日の強豪オーストラリア戦、相手をのみこむ程の強いファイティングスピリットとチームの団結があれば勝てると思う。日本がんばれ!

スタディオ・サン・パオロでの偶然

1990年7月3日、サッカーワールドカップイタリア大会の準決勝、イタリア対アルゼンチンの試合がナポリのサンパウロスタジアムで行われた。


急遽決まった大学時代の友人とのイタリアワールドカップ観戦は、行き帰りのローマ泊以外は宿泊できる保証もないままの決行であった。

ちなみに、ローマに着いて早々、つたない英語で電話をかけまくり、当時の日本円で1泊約1,300円の民泊らしき宿をナポリで確保することができたのだが、実際に行ってみると、ひとりはイタリ人のお爺さんとの相部屋ということだった。

無頓着タイプの私が立候補し、明るいお爺さんのさっぱりわからないイタリア語攻撃にあいながら、笑顔で対応したのは正解だった。


サンパウロスタジアムまでは、電車を使ったが、乗り遅れそうなアブナイ状態だったため、大通りをかなりの勢いで走っていたら「カメルーン!、カメルーン!」という、どうやら声援らしき声が巻き起こっていた。

「何?さすがに、カメルーンには見えないだろう」と思ったが、

開幕戦でロジェ・ミラ率いるカメルーンがアルゼンチンを撃破、イングランドとの準々決勝でも延長にもつれこむ好ゲームでカメルーンの大健闘は光っていた。

必死の形相でナポリの町中をダッシュしていた日本人は、まるで「不屈のライオン(カメルーンチームの愛称)」に見えたのか、いずれにしても陽気なイタリア人の餌食になっていた。


サンパウロスタジアムは、収容人数約83,000人の大きなスタジアムで、当時セリアA(イタリアサッカーリーグ)のナポリのホームスタジアムであった。

本日の敵国はアルゼンチンではあったが、斜め前に座っていたイタリア人サポータ達からは「マラドーナ、マラドーナの大合唱が試合前には起きていた。「やっぱりマラドーナは特別な英雄なんだ。」と感心した。

横に座っていたアンナさんというイタリア美女からはアイスキャンディーを頂くこととなり、イタリアが勝利したら声をかけてみるのはいかがなものかと、脳ミソを発火させる場面もあった。


ところで、スタジアムに着いた時は、まだまだ人は少なかった。まずはトイレで用をたすかと思い、入ったトイレは大きかったという印象である。

既に日本人らしき人が正しい姿勢をとっていた。「おっ、日本人?」と思った次の瞬間、なんと、その人は近くの高校の1年先輩の人だった。


実はその人は現FIFA理事兼日本サッカー協会会長の田嶋幸三さんであった。

田嶋さんは1975年の三重国体で埼玉県選抜のキャプテンであり、国体少年サッカー開催地の上野市の宿では私は「部屋っこ」であった。

消燈後、1分前後でただちに爆睡に入る田嶋さんをもの凄い人だなとリスペクトしていた。


初イタリア、初ワールドカップ、イタリアチームの準決勝敗退、ローマでの出来事、ナポリでの出来事、色々な思い出を作ることができたが、サンパウロスタジアムのトイレ事件は、「驚き」という意味でNo1のニュースであった。


18歳、マラドーナの世界デビュー

記憶ではその日の試合は夜だった。雨は降っていなかった。接戦ではなく少々退屈だった。


調べた結果、大宮サッカー場東側ゴール裏から観戦したその日の試合は、1979年8月26日(日)19:00キックオフのアルゼンチンvsインドネシア戦だったことがはっきりした。

 

第2回FIFAワールドユースサッカー大会は東京を中心に大宮、横浜、神戸で8月25日から2週間の日程で行われた。決勝は9月7日、国立霞ヶ関陸上競技場でアルゼンチンとソビエト連邦(現ロシア)の戦いとなり、3対1でアルゼンチンが勝利し優勝カップを手にした。

 

一方的な試合となった大宮でのインドネシア戦は、まだBigスターとはいえない小柄なマラドーナのテクニックと、1993年のJリーグ発足時に横浜マリノスに入団したラモンディアスの爆発的スピードが印象に残っている。調べたところ、マラドーナが2点、ディアスが3点を取っていた。

 

ブログに載せたかった理由は、何といっても、18歳の初々しく、好青年、イケメンといってもよい程のかっこいい、マラドーナの若き勇姿である。このお宝級の写真は、[輝く埼玉サッカー七十五年の歩み]で見つけたものだが、「そういえば、俺は大宮でマラドーナの試合を生で見たよな。」との記憶が復活し、まじめにその時の試合を調べたというわけである。

 

1986年ワールドカップメキシコ大会の優勝を導き、SSCナポリの英雄となり、そして数々のスキャンダルで世間を騒がせ、2010年の南アフリカ大会では、監督でありながらド派手なアクションで選手以上に目立ったマラドーナの世界デビューが日本だったというのは、驚きであり、そして何だか誇らしい気持ちにさせてくれる。