ボーアとアインシュタイン6

著者:マンジット・クマール

発行:2013年3月

出版:新潮社

目次は“ボーアとアインシュタイン1”を参照ください。

41.アインシュタインの統一場理論とEPR論文

“相補性”は「デジタル大辞泉」によると『電子の位置と速さ、光の粒子性と波動性のように、不確定性原理から二つの量が同時に測定できない関係にある現象を互いに相補的であるといい、このような性質をいう』とされています。そこには人知の理解を超えたものを受け入れる柔軟性のある価値観という感じを受けます。一方、“統一場理論”の前提は実在性に立脚し必ず統合できるという信念、もしくは統合を諦めることは許されないという強迫観念も多少あったのかもしれません。そして、これが両者を分ける根本的な違いであるような気がします。

また、EPR論についても同じような印象を受けます。ひとつは「理論から導かれる結論と人間の経験」ですが、「人間の経験」という表現は枠を意識させます。さらに、実在という泥沼を回避するために、「実在を一般的に定義する必要はない」としたEPR論の主張には違和感を覚えます。

アインシュタインの「量子論のコペンハーゲン解釈と客観的実在とは両立不可能だ」という考えについては、ボーアも同意しており、その上で「量子の世界というものはない。あるのは抽象的な量子力学の記述だけである」という見解を示しました。

『19世紀にマクスウェルは、電気、磁気、光を統一して、包括的なひとつの理論構造にまとめあげた。アインシュタインはそれと同様、電磁気理論と一般相対性理論とを統一したいと考えていたのだ。彼にとって、それらふたつの理論を統一することは次に踏み出すべきステップであり、避けて通ることのできない道筋であると同時に、論理的必然でさえあった。そんな理論を作るという彼の試みはいずれも屑籠箱行になるのだが、彼がその道に最初の一歩を踏み出したのは、1925年のことだった。その後量子力学が発見されてからは、統一場理論ができれば、量子力学はその副産物として得られるだろうと考えるようになっていた。

『若い世代とのあいだに相互不信はあったものの、アインシュタインといっしょに仕事がしたいと熱望する若手はつねにいた。そんな若手のひとりがネイサン・ローゼンである。ニューヨーク生まれのローゼンは、1934年、25歳のときに、アインシュタインの助手としてマサチューセッツ工科大学(MIT)から高等研究所にやってきた。そのローゼンよりも数カ月ほど早く、ボリス・ポドルスキーが初めてアインシュタインに会ったのは、1931年、カリフォルニア工科大学(カルテック)でのことだった。そのときふたりは共著論文をひとつ書き上げた。アインシュタインはもうひとつの論文のアイデアをもっていた。その論文が、コペンハーゲン解釈に新しい側面から一撃を加え、アインシュタイン=ボーア論争の歴史に新時代を画することになるのである。

1927年と1930年の、二度のソルヴェイ会議でアインシュタインが採った路線は、不確定性原理を突き崩すことにより、量子力学には矛盾があり、それゆえ不完全であることを示すというものだった。ボーアはハイゼンベルクとパウリの協力を得てアインシュタインの思考実験という要塞を解体し、コペンハーゲン解釈を防衛することに成功した。

その後アインシュタインは、量子力学には論理的な矛盾はないものの、ボーアが言うような完全な理論ではないと考えるようになった。量子力学は完全ではなく、物理的実在を十分に捉えていないということを示すためには、これまでとは違う戦略が必要なのはわかっていた。その目的のためにアインシュタインが開発したのが、彼の考案したなかで、もっとも長く攻略に耐えることになる思考実験だった。

1935年が明けるとすぐに、アインシュタインは、ポドルスキーとローゼンを研究室に呼び、三人で数週間にわたって議論を重ね、その新しい戦略を入念に練り上げた。ポドルスキーがその議論の成果を論文として書き上げる作業を担当し、ローゼンはそのために必要な計算のほとんどを担当した。のちにローゼンが語ったところによれば、アインシュタインの担当は、「一般的な考え方、およびその意味」を明らかにすることだった。わずか四ページのその論文―アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼン論文、略してEPR論文―は、三月末には完成し、専門誌に送付された。「物理的実在に関する量子力学の記述は完全だと考えることができるか?(Can Quantum Mechanical Description of Physical Reality Be Considered Complete?)」と題された三人の共著論文は、[Physical Realityの前にあるべき]“the”を落としたまま、5月15日に、アメリカの物理学専門誌「フィジカル・レビュー」に掲載された。タイトルに掲げた問いに対するERPの回答は、敢然たる「ノー!」だった。ERP論文は、著者のひとりにアインシュタインが含まれていたため、専門誌に掲載される前に、誰も望まないかたちで世間の注目を浴びることになった。

1935年5月4日土曜日の「ニューヨーク・タイムズ」の第十一面に、「アインシュタイン、量子論を攻撃する」という派手な見出しの記事が掲載された。「アインシュタイン教授は、科学の重要理論である量子力学を攻撃する予定だ。その理論にとって彼は祖父のような存在である。彼は、量子力学は“正しい”が、“完全”ではないと結論した」。それから三日後、「ニューヨーク・タイムズ」は、明らかに不機嫌なアインシュタインの談話を掲載した。新聞を相手取ることに不慣れではないはずのアインシュタインだったが、言わずもがなのことを言ったのだ。「科学的な問題については、それにふさわしい場でしか論じないというのが、一貫したわたしのやり方である。わたしは、こうした問題についての発表を、論文掲載に先立って一般紙で行うことに反対する」

アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンは発表された論文の中で、まずはじめに、実在そのものと、物理学者が理解するところの実在とを区別した。「物理理論について本格的な考察を行うときにはつねに、理論とはいっさい関係ない客観的実在と、理論のなかで用いられる物理的な概念とは、別のものだということを考慮に入れなければならない。物理的概念は、客観的実在をさせるために作られたものであり、われわれはそれらの概念を使って、自らのために客観的実在をえがき出だすのである。」それに続けてEPRは、物理理論が成功していると言えるためには、次のふたつの問いに対する答えが、無条件に「イエス」でなければならないと主張した。そのふたつとは、「その理論は正しいのか?」と「その理論によって与えられる記述は完全か?」である。

「理論が正しいかどうかは、理論から導かれる結論と人間の経験とが、どの程度合うかによって判断される」とEPRは述べた。物理学で言う「経験」は、実験や測定を意味するから、三人がここで述べたことは、物理学者なら誰でも受け入れるだろう。今日にいたるまで、実験室で行われた実験と、量子力学の理論的な予測とのあいだに矛盾と言えるようなものはない。したがって、量子力学は正しい理論だと言えそうだ。しかしアインシュタインにとって、実験と合う正しい理論だというだけでは不十分だった―理論はそれに加えて、完全でなければならなかったのである。

「完全」という言葉が何を意味しているにせよ、EPRは、物理理論の完全性に対して、ひとつの必要条件を与えた。「物理的な実在の要素はすべて、その物理理論のなかに対応物をもたなければならない」。理論が完全であるための判定基準をこのように定める以上、EPRがこの先に議論を進めるためには、「実在の要素」とは何かを定義しなければならない。

アインシュタインは哲学の泥沼にはまりたくはなかった。あまりにも多くの人たちが、「実在」を定義しようとして、その泥沼に飲み込まれていった。実在が何で構成されているのかを明らかにしようとして、無事にその沼から出てきた者はかつてひとりもいなかったのだ。そこでEPRは、その泥沼を回避するために、自分たちの目的にとって、「実在を一般的に定義する必要はない」と述べた。そのうえで、「実在の要素」を定義するために、「十分」にして「妥当」な判定基準、と三人が考えるものを使うことにした。その判定基準とは、「系をいかなる仕方でもかき乱すことなく、ある物理量の値を、確実に(すなわち確率1で)予測することができるなら、その物理量に対応する、物理的実在の要素が存在する」というものだった。

アインシュタインは、量子力学が捉えていない客観的な「実在の要素」が存在することを示すことにより、量子力学は自然についての完全な基礎理論だというボーアの主張を突き崩したいと考えたのだ。アインシュタインは、ボーアや彼の意見を支持する者たちとの論争の焦点を、量子力学には内部矛盾があるかどうかという問題から、実在はいかなる性質をもつのか、そして理論は役割とは何かという問題へとシフトさせたのである。』

EPR論文には、量子論のコペンハーゲン解釈と客観的実在とは両立不可能だというアインシュタインの考えが表明されていた。それについてはアインシュタインのいう通りであり、ボーアもそれはわかっていた。じっさいボーアは、「量子の世界というものはない。あるのは抽象的な量子力学の記述だけである」と述べているのである。コペンハーゲン解釈によれば、粒子には、独立した実在性はない。観測されていないときには、粒子は物理的な性質をもたないのだ。アメリカの物理学者ジョン・アーチボルト・ホイーラーは、のちにこの考え方を次のように言い表した。「基礎的な現象は、観測されるまでは実在しない」。EPR論文が世に出る一年ほど前にはパスクアル・ヨルダンが、観測者とは無関係な実在を認めないコペンハーゲン解釈の観点を論理的にとことん突き詰めて次の結論に達した。「われわれ自身が、測定結果を生み出すのである」

ポール・ディラックは、「アインシュタインがこれではダメだと証明したのだから、一からやり直しだ」と言った。彼ははじめ、アインシュタインは量子力学に致命的な打撃を与えたと考えたのだ。しかしすぐに、ディラックもその他多くの物理学者たちと同じく、今回もまたボーア=アインシュタイン論争の戦場から、勝者として帰還したのはボーアだと考えるようになった。量子力学が非常に役に立つ理論であることはとっくの昔に証明されていたし、EPRに対するボーアの回答をじっくり吟味してみようという者はほとんどいなかった―なにしろボーア自身の基準に照らしてさえ、その回答はあいまいで難解だったのだから。』

42.理論と哲学的立場

アインシュタインの抵抗は、個人的というより物理学界への警鐘だったように思います。「実験の証拠に基づかず、科学理論を基礎として哲学的世界観を作ること」の危機感から、その危険性を強く訴え続けたということではないでしょうか。アインシュタインの執拗ともいえる論争によって、量子力学は可能な限りの精査を通して今に至っているように思います。ボーアも親愛なる友であるアインシュタインからの警告の意図を理解していたからこそ、アインシュタインからの問題定義を真摯に受け止め、生涯にわたって取り組み続けたのではないかと思います。

『ふたりのあいだで語られなかったことは、すでにお互いが知っていることだった。量子力学の解釈に関するふたりの論争は、突き詰めれば、実在をどう位置づけるかに関する哲学的な信念にかかわっていた。世界は実在するのだろうか? ボーアは、量子力学は自然に関する完全な基礎理論だと信じ、その上に立って哲学的な世界観を作り上げた。その世界観にもとづき、ボーアはこう断言した。「量子の世界というものはない。あるのは抽象的な量子力学の記述だけである。物理学の仕事を、自然を見出すことだと考えるのは間違いである。物理学は、自然について何が言えるかに関するものである」。アインシュタインはそれとは別のアプローチを選んだ。彼は、観測者とは独立した、因果律に従う世界がたしかに実在するという揺るがぬ信念の上に立って量子力学を評価した。その結果として、彼はコペンハーゲン解釈を受け入れることができなかった。「われわれが科学と呼ぶものの唯一の目的は、存在するものの性質を明らかにすることである。ボーアにはまず理論があり、次に哲学的な立場があった。その哲学的立場とは、理論が実在について何を語っているかを理解するために作り上げた解釈だった。アインシュタインは、何であれ科学理論を基礎として哲学的世界観を作ることの危険性を知っていた。新しい実験的証拠の光に照らして、理論に不十分な点があることが判明すれば、その理論に支えられていた哲学的な立場は崩れるからだ。「いかなる知覚的行為とも無関係な実在を仮定することは、物理学の基礎です」とアインシュタインは述べた。「しかしその仮定が正しいかどうかを、わたしたちは知らないのです」

アインシュタインは、哲学的には実在論者であり、そのような立場を根拠づけることは不可能であることを知っていた。それは実在に関するひとつの「信念」であって、証明できるようなものではないからだ。しかし、たとえそうだとしても、アインシュタインにとって、「人が理解したいと願うのは、そこに存在する現実の世界」なのだった。彼はモーリス・ソロヴィンへの手紙に次のように書いた。「人間理性にとって手が届くかぎりの実在の本性が合理的なものだという確信について何か語るとすれば、“宗教的”確信というより良い表現が見つかりません。この感覚がなくなるところでは、科学はつねに退屈な経験主義に陥ってしまう恐れがあります」

ハイゼンベルクは、アインシュタインとシュレーディンガーは「古典物理学の実在概念、より一般的な哲学的な言葉を使うなら唯物論[精神の実在を否定して、物質の根源性、独自性のみを主張する哲学の理論]の実在論に戻りたい」のだろうと考えていた。ハイゼンベルクにとって、「石や木が存在するのと同じ意味において、最小の構成要素が客観的に存在するような実世界が、われわれがそれらを観察するかどうかによらずに存在している」という信念をもつことは、「十九世紀の自然科学に広く行き渡っていた、素朴な実在論の観点」に後戻りすることだった。アインシュタインとシュレーディンガーは「物理学を変えることなく哲学を変えたい」のだというハイゼンベルクの判断は、半ば正しく、半ば間違っていた。アインシュタインは物理学そのものを変えることにも懸命だった―彼は、多くの人たちが考えていたような、保守的な過去の遺物ではなかったのである。古典物理学の概念は、何か新しいもので置き換えなければならないとアインシュタインは確信していた。それに対してボーアは、巨視的な世界は古典物理学の概念で記述されるのだから、巨視的な世界については、古典物理学を超える理論は探そうとすることさえ時間の無駄だと論じていた。じっさい、彼が相補性の枠組みを作り上げたのは、古典的な概念を救おうとしてのことだった。ボーアにとって、測定装置とは独立した基礎的な物理的実在などというものは存在しなかった。ハイゼンベルクが指摘したように、「われわれは量子論のパラドックス、すなわち、古典的な諸概念を使うしかないというパラドックスを避けることはできない」とボーアは考えていたのである。アインシュタインが「心休まる哲学」と呼んだのは、古典的諸概念を残さなければならないという、ボーア=ハイゼンベルクの魅力的な呼び声のことだったのだ。』

アインシュタイン=ボーア論争は、アインシュタインの死をもって終わったわけではなかった。ボーアは、論敵がまだ生きているかのように、その後も量子論争をつづけたのだ。「わたしにはアインシュタインが微笑んでいるのが見える。得意気でありながら、思いやりと優しさを浮かべたあの顔で」。ボーアが物理の基本的な問題について考えるときには、アインシュタインならどう言っただろうかということが、まず頭に浮かぶことが多かった。1962年11月17日の土曜日、ボーアは、自分が量子物理学の発展に果たした役割に関する、五回にわたるインタビューの最後のひとつを受けた。翌日曜日、昼食をとった後、ボーアはいつものように昼寝をするために寝室に向かった。夫の声を聞いた妻のマルグレーデが寝室に急ぐと、そこには意識を失ったボーアがいた。七十七歳のボーアは、致命的な心臓発作を起こしたのだ。前の晩、かつての講義をもう一度反芻しながら、彼が最後に書斎の黒板に描いたのは、アインシュタインの光の箱だった。

画像出展:「量子革命」

1954年アインシュタインが亡くなる前年の写真です。(プリンストンの自宅にて)

左は1930年、右は1962年11月亡くなる前夜にボーアが書斎の黒板に描いた“光の箱”です。


アインシュタインは、こう語ったことがある。「わたしは一般相対性理論について考えた時間より、百倍も多くの時間をかけて量子の問題について考えた」。ボーアは、量子力学は、原子の世界について何を教えているのかを理解しようとするなかで、客観的な実在があるという考えを捨てた。アインシュタインにとってボーアのその判断は、量子力学はたかだか真実の一部しか含んでいないことを示す明らかな兆候だった。ボーアは、実験や観察でわかることの背後に、量子の世界が実在するわけではないと主張して譲らなかった。アインシュタインは、「それを認めることに論理的な矛盾はないが、その考えはわたしの科学的直観と真っ向から対立するので、わたしとしてはより完全な理論を探さずにはいられないのである」と述べた。彼は、「単に出来事が起こる確率ではなく、出来事そのものを描き出すような実在のモデルを作ることは可能だ」と信じることをやめなかった。しかし結局、アインシュタインはボーアのコペンハーゲン解釈を論駁することができなかった。プリンストン時代のアインシュタインを知るアブラハム・パイスは、次のように述べた。「相対性理論について語るときの彼は冷静だったが、量子論については熱くなって語った」。そしてパイスはこう言い添えた。 「量子は彼のデーモンだった」。』

43.統一場理論

アインシュタインが目指したのは電磁気学、一般相対性理論、そして量子力学を統合する重力理論でした。

アインシュタインは、人生最後の二十五年間をかけて追及したにもかかわらず、いまだ捉えることのできない統一場理論―それは一般相対性理論と電磁気学の結婚だった―が、自分が追い求める完全な理論になると信じていた。その統一場理論は、量子力学を含むような完全な理論になるはずだった。パウリはそんなアインシュタインの統一の夢に対し、「神が引き離したものを、何人たりともふたたび結びつけてはなりません」という辛辣な判定を下した。当時はほとんどすべての物理学者が、アインシュタインは現実が見えていないと言ってあざ笑った。しかし、[重力・電磁力に加えて]放射性崩壊を引き起こす弱い核力と、原子核をまとめている強い核力が発見されて、物理学者が相手にしなければならない力が四つに増えると、まさにアインシュタインが求めていたような理論の探求が、物理学の聖杯になったのである。』

『ボーアとの論争で決定打を出すことはできなかったものの、アインシュタインの挑戦は後々まで余韻を残し、さまざまな思索の引き金となった。彼の戦いはボーム、ベル、エヴェレットらを力づけ、ボーアのコペンハーゲン解釈が圧倒的影響力を誇って、ほとんどの者がそれを疑うことさえしなかった時期にも検討を促した。実在の本性をめぐるアインシュタイン=ボーア論争は、ベルの定理へとつながるインスピレーションの源だった。そしてベルの不等式を検証しようという試みから、量子暗号、量子情報理論、量子コンピューティングといった新しい研究分野が直接間接に生まれてきたのである。こうした新しい分野のなかでもとくに注目すべき、エンタングルメント[量子もつれ]を利用した量子テレポーテーションだ。SFの世界の話しのように聞こえるかもしれないが、1997年には、ひとつならずふたつのチームが、その粒子の量子状態が別の場所にあるもうひとつの粒子に完全に転写されたので、事実上、最初の粒子を移動させたことになるのだ。

アインシュタインは、コペンハーゲン解釈を批判し、彼に取り憑いた量子のデーモンを滅ぼそうとしたせいで人生の最後の三十年は不遇だったが、彼の主張の一部は正しかったことが示された。アインシュタイン=ボーア論争は、量子力学の数学に含まれる式や数値とはほとんど関係がなかった。量子力学は何を意味しているのか? 実在の本性について量子力学は何を語るのか? こうした問いにどう答えるかが、ふたりを分けたのである。アインシュタインは、具体的な解釈を示したことは一度もなかった。なぜなら彼は、物理理論を睨んで自分の哲学を作るということをしなかったからだ。その代わりに彼は、実在は観測者とは独立しているという信念にもとづいて量子力学を調べ抜き、この理論には満足できないと考えるようになったのだ。

1900年12月には、たいていのことは古典物理学で説明がつき、ほとんどすべてのことが古典物理学の支配する領域に収まっていた。そのときマックス・プランクが量子に出くわし、物理学者たちは今なお、量子の取り扱いに苦労している。アインシュタインは、「わたしは量子に強い関心を持ち」、半世紀ものあいだ「考え続けた」が、いまだ理解したというには程遠いありさまだと述べた。最後までその努力を続けたアインシュタインが慰めを見出したのは、ドイツの劇作家にして哲学者でもあるゴットホルト・レッシングの次の言葉だった。「真実を手に入れたいという願望は、真実を手に入れたという確信よりも尊い」。

感想

1900年、マックス・プランクが「黒体の放射法則の導出法」の中で“量子”と命名し、1905年にはアルベルト・アインシュタインが光量子の存在と光電効果に関する論文を発表しました。しかしながら、量子論の扉を開いたのはニールス・ボーアが1913年7月に発表した論文、「原子と分子の構成について」だったと思います。

量子論から量子力学への道程も困難極まりないものでしたが、ボーアは若い天才物理学者のハイゼンベルクにすべてを託し、そのハイゼンベルクは友人で同じく若き天才物理学者のパウリの協力により、ついに行列力学にもとづく量子力学を確立しました。しかし、この行列力学は難解な数学的なアプローチであったため、多くの物理学者にとって理解困難なものでした。

それに対抗するように登場したのが、直観的で物理学者にとって分かりやすい波動力学でした。そして、波動力学を発見したシュレーディンガーを後押ししたのがアインシュタインでした。アインシュタインは「コペンハーゲン解釈」に対して、ゾンマーフェルトへの手紙の中で、次のように話しています。「量子力学は統計的法則を記述するという意味では正しい理論かもしれませんが、基本的な個々のプロセスを記述する理論として適切ではありません」。

これは、アインシュタインが考える物理学のあるべき姿に照らし合わせると、受け入れることができない“解釈”でした。また、ボーアの【相補性】に対してアインシュタインは【統一場理論】を考えていました。これがシュレーディンガーとともに「コペンハーゲン解釈」を受け入れることなく、論争になった核心の一つだったと思います。しかしながら、このアインシュタインやシュレーディンガーとの論争、特に第五回ソルヴェイ会議の公私にわたる、あたかもチェスのような闘い、さらに四半世紀に渡って繰り広げられた論争は、確実に量子力学を磨き上げました。

アインシュタインの死後十年を経た1965年、ノーベル賞受賞者のリチャード・ファインマンは次のような言葉を残しました。「量子力学を理解している者は、ひとりもいないと言ってよいと思う」また、「こんなことがあっていいのか?と考え続けるのはやめなさい―やめられるのならば。その問いへの答えは、誰も知らないのだから」。

不可知とは「人間のあらゆる認識手段を使用しても知り得ないこと」とされています。不可知論は古代ギリシアや古代インドから存在し、近代においては哲学者カントが「純粋理性批判」において、「物自体は認識できずかつ知り得るものではなく、人は主観形式である時間・空間のうちに与えられた現象だけを認識できる能力のみがある」という考えを提示しました。これも一種の不可知論とされています。

本書の中には次のような記述がありました。

『ハイゼンベルクが発見した不確定性は、現実の世界に本来的に備わっている性質なのだ。原子レベルの世界で観測可能な量について、プランク定数の大きさにより規定され、不確定性関係により課される正確さの限界は、装置をどれだけ改良しても決して消滅することはない、とハイゼンベルクは述べた。この驚くべき発見の名前としては、「不確定性」や「不決定性」よりも、「不可知性」(unknowable)というほうがふさわしかったかもしれない。

不可知性はボーアとアインシュタインを分けた価値観の相違であり、分岐点ではなかったのかと思います。

ご参考Youtube“量子力学と仏教は同じだった!?物理学者たちが東洋思想に魅了される理由【宇宙の真理】(8分54秒)以下がこの動画の内容です。

00:06 物理学者たちの仏教への反応

01:07 量子力学の世界観①(ウィグナーの友人 ; 思考実験)

03:27 西洋哲学者たちの量子力学への反応

04:08 仏教の世界観①(縁起)

05:11 量子力学の世界観②(不確定性原理)

05:58 仏教の世界観②(不可知性)

06:26 不可知性の世界

06:40 コペンハーゲン解釈の世界

06:56 量子力学の父

07:49 東洋思想と量子力学の関係性の論文

※07:58のところで、ボーアは以下のように述べたということが紹介されています。

・・・この考えは、

陰陽の名で知られるシンボルである太極図で表現された古代東洋と密接に調和しています。この考えによれば、自然界のすべての変化は、二つの主要な原因または原理によって調和され、それぞれが他を補完しているのです。』

『ボーアはデンマークの国民的英雄になり、1947年、デンマーク最高の勲章、大象位勲章を受けた。この勲章をもらうとき、家の紋章を選ぶ規定があった。ボーアはそのとき、彼の思想を表す非常に特徴のある紋章を選んだ。紋章の上には「CONTRARIA SUNT COMPLEMENTA」=対立するものは相補的である。という意味の言葉がかかれていた。ボーアの選んだ紋章は中国の「易」の思想を表すという太極図である。 

の二色の円が太極図です。 

画像出展:「アインシュタイン ロマン3」

おそらく、向かって左から3人目がボーア博士だろうと思います。また、次のような話をされたとのことです。

『富士山を箱根や伊豆、その他さまざまな場所から見ることができました。富士山は光線や天候によって姿を色々変えます。あるときは山頂が山に隠れ、あるときは雪を頂く山頂が雲の上に浮かんでいました。その時々の印象は非常に異なります。しかし、富士山の本当の優美な姿はその時々の印象がすべて私の中で合わさってできるのです。それは相補性と同じことなのです。』

ルビンの壺

画像出展:「Binary Diary

もし、人間社会において“壺”という物が存在していないとすれば、この図を見て気づくことは向かい合った二人の横顔だけです。

「不可知」は人間のあらゆる認識手段を使用しても知り得ないことです。やはり、我々が生活している物質世界において、不可知という考えも必要ではないかと思います。